科学技術のアネクドート

溶けなかった岩が山水画の山なみに――sci-tech世界地図(13)

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写真作者:Rex Leow

「まるで山水画のなかに入りこんだみたい……」

中国・広西チワン族自治区にある桂林の景勝地を訪れた人は、口ぐちにそう言います。めったに見られないにょきにょきとした山なみと、そのふもとを流れる川の風景を目のあたりにすると、そう感じるのでしょう。

日本の山々と桂林の山々では、造られかたが異なります。そのため、かたちも異なってきます。

日本の山々の多くは、富士山のように噴火により造られるものか、赤石山脈や六甲山脈のように断層の崖の作用により造られるもの。

いっぽう、桂林の山々は、巨大な岩が水に溶けていくことにより造られます。炭酸石灰という物質からなる石灰岩が、二酸化炭素をふくむ雨水などの水によって、すこしずつすこしずつ溶けていきます。

では、巨大な石灰岩はどう溶けていくか。石灰岩のなかでも、割れめや裂けめといった水の浸みこみを受けやすいところは、とりわけ溶かされていきます。溶かされにくいところはあまり溶かされず、溶かされやすいところは溶かされていく。そうして長い歳月を経て、溶かされてなくなった空間と、溶かされずに残った地形とがつくられます。この残った地形こそが、山水画の風景のような山々です。

石灰岩が水により溶けて造られるこうした地形は「カルスト地形」とよばれます。日本にも山口県の秋吉台のようにカルスト地形の場所はありますが、桂林の山水画のような山々は、カルスト地形のなかでも「タワーカルスト」とよばれる独特のもの。タワーカルストでは、山になるより前の石灰岩に、ほぼ垂直方向に裂け目や割れ目が入っていたため、その裂け目や割れ目からどんどん石灰岩が溶かされていき、しまいには塔のようなかたちの山々だけが残されたのだといいます。

ただし、岩がだんだんと水に溶かされゆくことにより、山水画のような山々の地形ができたのだとすれば、これからもだんだんと、その山々の姿は変わっていくはずです。地学では「地形は輪廻する」という説もあります。これからさき、にょきにょきとした山々の景色がどう変わっていくか。思いめぐらすのもタワーカルストの味わいかたのひとつです。

桂林の地のなかでも、とくに「漓江(りこう)」とよばれる川のまわりにはタワーカルストの山々がいくつもあります。世界地図上のこちらあたりです。ただし、グーグルアースでは「地形」の機能を使っても、そのにょきにょき感をなかなか見てとることができません。残念ながら……。

参考資料
Britannica “Cone and tower karst”
https://www.britannica.com/science/cave/Karst-topography#ref499902
Wikipedia “Tower karst”
https://en.wikipedia.org/wiki/Tower_karst
ブリタニカ国際大百科事典「カルスト地形」
https://kotobank.jp/word/カルスト地形-47674
UNESCO World Heritage Centre “South China Karst”
https://whc.unesco.org/en/list/1248/
ウィキペディア「漓江」
https://ja.wikipedia.org/wiki/漓江
日本大百科全書「断層山地」
https://kotobank.jp/word/断層山地-95218
日本大百科全書「地形輪廻」
https://kotobank.jp/word/地形輪廻-96056

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「パン」のまわりに新たな科の植物あり―sci-tech世界地図(12)

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ナミビアの道路
写真作者:Paul Keller

地球には、人に知られていない昆虫がまだたくさんあるといいます。でも、昆虫だけではありません。地上に生えている植物についても、新たに見つかり、分類されるものがまだあるようです。

アフリカ南西部ナミビアの「パン」とよばれる塩類堆積地周辺3地点に生えている植物について、研究者たちは2020年4月20日(月)、新種であり「科」としても新しいものであることを伝える論文を植物学の雑誌『ファイトタクサ』に発表しました。

発表したのは、南アフリカのプレトリア大学に所属するナミビア在住のウェッセル・スワネポエルさんや、同大学のアブラハム・E・ファン=ウィクさんらの研究チーム。論文の題名は「フライパンから:ナミビアの珍種矮性低木がアブラナ目の新科であると判明」というもの。この植物の学名は、Tiganophyton Karasense (ティガノフィトン・カラセンス)といいます。

論文の要旨に、研究者たちはつぎのようなことを述べています。
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 常緑性の矮性低木 Tiganophyton Karasense は新種である。アブラナ目としての新たな属と科としても提案されている。デオキシリボ核酸解析データの系統発生学的分析では、Tiganophyton  Karasense はバティス科やサルウァドラ科の仲間であり、これら3つはすべて北米固有科 Koeberliniaceae の仲間である。2010年時点では説明されていなかったように、Tiganophyton Karasenseは、南ナミビアの乾燥カラス地域における3地点のみで知られる珍種である。この低木は、カルー超層群のプリンス・アルバート累層の頁岩と泥岩の上の石灰質基層にある季節性パンの周辺に生えている。形態学的特徴診断から、この新科の植物について次のことがいえる。明らかに差異のある長短の芽。二型性でらせん状に配列された葉。グルコシノレートの産生。短芽の苞腋に単体でつける雌雄同体の扁平な花。 融合萼片それに非規則的で鉤爪状でない花弁をともなう4片の萼と花冠と雄しべ。長持ちながら蜜腺のない花盤。子房基部着生様式の深い二葉の子房。水平のまたは裏返った二室の子房を支えるS字形の子房柄。室ごとに2つの胚珠。一種子小堅果とでも仮訳すべき乾いた強固な果実。国際自然保護連合レッドリストの部類と基準にもとづけば、TIganophyton Karasenseには「危急種(VU D1)」としての保全評価が推奨される。
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アブラナ目には、アブラナ科、パパイア科などのさまざまな科の植物があります。地球でいまのところ3地点でしか見つかっていない Tiganophyton  Karasense は、これら「科」のひとつに仲間入りすることになります。

「科」という分類階級は「種」さらに「属」の上位にあたる大きなもの。たとえばアブラナ目の「アブラナ科」は、ダイコン属、ワサビ属、セイヨウワサビ属、ヤマガラシ属、シロイヌナズナ属などを束ねています。Tiganophyton  Karasense は、これ1種でティガノフィトン科の植物ということになります。

そして研究者たちは、Tiganophyton  Karasense が生える場所的要因にもかなり関心をもっているようです。

「カルー超層群」とは、南アフリカの3分の2を覆うほどの広い地層のことで、そのなかのプリンス・アルバート累層とよばれる地層の域内に、この Tiganophyton  Karasense は生えているとのこと。さらに、見つかった3地点とも、アフリカ南部に特徴的な「パン」とよばれる塩類堆積地の周辺であるという共通性があります。

「パン」は、広さにして数メートル四方から16キロ平米にわたる盆地のことで「プラヤ」などともいいます。砂漠にできやすい地形で、塩水湖が乾いて塩類が沈殿したところが多いといいます。論文によると、Tiganophyton  Karasense が見つかった3地点のパンは北から順にグルート・パン、クレインバールグラス・パン、ミドルプラースのパンとよばれます。パンとパンのあいだは40キロメートルほど離れています。


Tiganophyton  Karasense が見つかったパンのひとつ「ミドルプラースのパン」
Google Earth Pro

研究者たちが論文で「形態学的特徴」として示しているこの植物の数々の特徴については、論文の本文内にも載っている写真と絵で見ることができます。一見では、細長いサボテンのようなかたちですが、近づいて撮った写真では、やはりアブラナ目を思わせる細やかな花が咲いているのがわかります。

この新種の情報を日本でいち早く伝えた「悟空のおこぼれを拾うベジータ」さんによると、Tiganophyton は「フライパン」の意味のギリシャ語“Tigani”と、「植物」の意味の“Phyta”を組みあわせたもの。命名した研究者たちは、おそらく「パン」の周辺で見つかった植物であることを意識しているのでしょう。

いまのところ見つかっているのは、このナミビアでの3地点のみ。この植物に関心をもつ研究者でなければ、だれも注目しないような場所といえます。この新しい科の植物の発見は、「地球の広さ」はまだまだ保たれているということも伝えます。

Tiganophyton  Karasense が見つかったナミビアの3つの「パン」は、世界地図上のこちらにあります。
グルート・パン
クレインバールグラス・パン
ミドルプラースのパン

参考資料
Wessel Swanepoel et al. “From the frying pan: an unusual dwarf shrub from Namibia turns out to be a new brassicalean family”
https://www.biotaxa.org/Phytotaxa/article/view/phytotaxa.439.3.1
Andri Corne van Aardt “Vegetation Ecology of the Putative Palaeo-Kimberley and Palaeo-Modder Rivers and Their Catchments, Free State, South Africa”
http://scholar.ufs.ac.za:8080/xmlui/handle/11660/4559
ブリタニカ国際大百科事典「プラヤ」
https://kotobank.jp/word/プラヤ-126415
ウィキペディア「カルー超層群」
https://ja.wikipedia.org/wiki/カルー超層群
ウィキペディア「アブラナ目」
https://ja.wikipedia.org/wiki/アブラナ目
ウィキペディア「アブラナ科」
https://ja.wikipedia.org/wiki/アブラナ科
togetter 2020年4月21日付「ナミビアで新しい植物の『科』を発見!特殊過ぎて既存の分類には収まらない衝撃『まだまだ地球にはオラたちの知んねぇことがいっぺぇあんだな!』」
https://togetter.com/li/1497060

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「スーパー」につぐ「ハイパー」で陽子崩壊の検出めざす―sci-tech世界地図(11)

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岐阜県飛騨市の神岡鉱山があった地下には、物理現象を観測するための「スーパーカミオカンデ」という装置があります。1996年から稼働しているもので、先代で1983年に完成した「カミオカンデ」から役割をひきついでいます。

カミオカンデもスーパーカミオカンデも、観測する対象はおなじ。「チェレンコフ光」とよばれる光を検出することにあります。チェレンコフ光は、電荷をもつ粒子が水などの透明な媒質のなかを、その媒質における光の速さよりも速く走ったときに現れる光のことをいいます。


チェレンコフ光
写真作者:米国原子力規制員会

チェレンコフ光が生じる物理現象はさまざまあります。たとえば、素粒子のひとつで、レプトンとよばれるグループに属する「電子ニュートリノ」は、ごくまれに水の原子核や電子とぶつかることがあり、このとき電子を放ちます。電子は電荷をもっている粒子であり、放たれた電子は水における光の速さよりも速く走るためチェレンコフ光が生じます。おなじように「ミューニュートリノ」とよばれる素粒子も、水の原子核とぶつかるとミュー粒子が放たれ、これによりチェレンコフ光が生じます。

物理学者の小柴昌俊(1926-)は、これらニュートリノ、しかも太陽系外で生じたものを先代カミオカンデで1987年に検出しました。これにより、2002年にノーベル物理学賞が贈られています。

つまり、スーパーカミオカンデの役割のひとつは、「電子ニュートリノを検出する」ことです。けれどもそれだけではありません。

カミオカンデでもスーパーカミオカンデでもまだ検出されていないチェレンコフ光に、「陽子崩壊によるもの」があります。

「陽子」も素粒子のひとつで、クォークというグループに属します。陽子は中性子とともに原子核を構成しており、この原子核のまわりに電子があります。この陽子、中性子、電子で原子となるわけですから、陽子は物質をなりたたせるごくごく基本的な素粒子であるといえます。

この陽子は、長いこと「壊れることはない」と考えられてきました。陽子はとても安定した性質をもっているため、寿命は無限大、つまり壊れないと考えられてきたのです。

しかし、そのいっぽうで、べつの物理学の理論が「陽子は壊れるもの」という考えかたを導きました。素粒子に作用する力のうち「電磁気力」「弱い力」「強い力」を統一的に記述できるはずだとする「大統一理論」です。1974年、米国の物理学者ハワード・ジョージ(1947-)とおなじく米国の物理学者ジョージ・グラショー(1932-)が提唱したものです。

この大統一理論は、まだ未完成ながら、つぎのことは理論的に導かれます。

「大統一理論が事実であれば、陽子はほかのより軽い素粒子へと壊れるはず」

物理学の発見は、「理論を突きつめていくと、こういう現象が起きなければならない」といった具合に導かれることが多くあります。陽子の崩壊もこのひとつといえます。とはいえ、まだ大統一理論が完成しているわけではありませんが。

では、陽子はどのように壊れるのか。考えられている有力なものとして、「陽子が陽電子とパイ0中間子になる」というものがあります。そして、もし、この壊れかたが起きたときは、陽電子からチェレンコフ光が生じ、また、パイ0中間子もすぐふたつの光子という素粒子に壊れ、そのふたつの光子からチェレンコフ光が生じると考えられています。つまり、この陽子崩壊により、三つのチェレンコフ光が観測されることになります。

チェレンコフ光を検出するための装置であるスーパーカミオカンデで、この三つのチェレンコフ光を検出できれば、「陽子が壊れる」ことを観察により証明することができるわけです。それは、大統一理論の完成を後おしする大きな材料にもなります。

しかし、先代のカミオカンデの時代をふくめると1983年から2019年まで、陽子が壊れる現象は一度も検出されていません。はじめ、陽子の寿命は1000穣年、つまり10の31乗年ぐらいだろうと考えられていましたが、「検出されないことがつづく」という研究成果により、陽子の寿命はすくなくとも100溝年、つまり10の34乗年ぐらいはあるだろうということになりました。

30余年以上も、水素の崩壊が検出されなかったということは、これからも「三つのチェレンコフ光」は検出されないのでしょうか。なんともいえません。しかし、光は見えようとしているのかもしれません。

2020年代後半、スーパーカミオカンデの後継装置として「ハイパーカミオカンデ」が稼働することが予定されています。スーパーカミオカンデの10倍の体積があるチェレンコフ光検出装置であり、稼働すると「現在のスーパーカミオカンデの結果をたった2年で追い越す」(ハイパーカミオカンデのサイト)ことになります。「ハイパー」の投入で、いよいよ陽子が壊れるところを観測することができるのではないかと期待がかかっています。

「3世代のカミオカンデ」は、世界地図のこちらにあります。

参考資料
百科事典マイペディア「チェレンコフ効果」
https://kotobank.jp/word/チェレンコフ効果-565168
岩波書店「ニュートリノの夢」
https://www.iwanami.co.jp/book/b223687.html
ハイパーカミオカンデ「実験原理」
http://www.hyper-k.org/cherenkov.html
デジタル大辞泉「大統一理論」
https://kotobank.jp/word/大統一理論-155949
スーパーカミオカンデ「研究目的 陽子崩壊」
http://www-sk.icrr.u-tokyo.ac.jp/doc/sk/sk/pdecay.html
ハイパーカミオカンデ「陽子崩壊探索」
http://www.hyper-k.org/physics/phys-protondecay.html

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「吊り橋効果」の「吊り橋」を渡る―sci-tech世界地図(10)
気軽に読める恋愛心理学の本に、「吊り橋効果」の話がよく出てきます。吊り橋効果とは、「不安や恐怖を強く感じているとき出会った人に対しては恋愛感情をもちやすくなる」と説明される効果のこと。

この効果に「吊り橋」のよび名がつくのは、この効果を検証する実験が吊り橋でおこなわれたからです。その吊り橋は、カナダのブリティッシュコロンビア州ノースバンクーバーにある「カピラノ吊り橋」。イングリッシュ湾に注ぐカピラノ川にかかる吊り橋です。


カピラノ吊り橋
写真作者:Michael Gardiner

1973年、ブリティッシュコロンビア大学の心理学者ドナルド・ダットンとアーサー・アロンは、カピラノ吊り橋に女性インタビュアーを立たせました。女性インタビュアーは、吊り橋を渡ってきた男性たちに、「自分の心理学のクラスで、創造的表現に関する風景の印象の効果を調べているんです」と言って協力を得て、「片手で顔を覆いかくしている若い女性の絵をもとにした簡単な物語をつくってください」という課題が書かれた用紙を見せました。この絵は、「絵画統覚検査」(TAT:Thematic Apperception Test)という心理テストで用いられる絵のひとつです。

吊り橋の上でのこうしたやりとりが終わると、女性インタビュアーは用紙の端をちぎって、名前と電話番号を書き、「もしあなたがさらにお話したければ、連絡してください」と男性に伝えました。

この一連の作業が、このカピラノ吊り橋の上で、18歳から35歳の18人の男性に対して行なわれたのです。

そして、被験者となった男性たち18人のうち9人から、女性インタビュアーに電話がかかってきました。いっぽう、おなじ行為を、川の上流にあるヒマラヤスギでできた頑丈な橋でおこなったところ、対照群の被験者となった男性たち18人のうち、女性インタビュアーに電話をかけてきたのは、2名のみだったということです。

カピラノ吊り橋は、1889年、スコットランド人でバンクーバー公園局長だったジョージ・グラント・マッカイ(1827-1893)の手で建設されました。当初は鉄線でなく麻のローブだったようです。

ダットンとアロンによると、実験時のカピラノ吊り橋は、端から端まで鉄線のつけられた板でできています。幅は5フィート(約1.52メートル)、長さは450フィート(137.16メートル)。さらにこの吊り橋の特徴を、「落下してしまいそうという印象をあたえるほど傾き、揺れうごき、不安定なこと」「この印象を助長するような低さの鉄線の手すり」「岩場や浅い急流に至る230フィート(約70メートル)の高さ」とあります。実際この吊り橋では、1990年代以降、橋から人が落ちる事故がいくつか起きています。

いまや、グーグルのストリートビューで、このカピラノ吊り橋を擬似的に「渡る」ことができまし、橋の途中から眼下の川を覗くこともできます。「この橋で、女性インタビュアーに電話番号のメモを渡されたら」と想像をめぐらすこともできます。

ダットンとアロンの所属していたブリティッシュ・コロンビア大学から、カピラノ吊り橋までは、車などで18キロメートルほど。自分たちの仮説を検証するには、おあつらえ向きの吊り橋だったのでしょう。

「吊り橋効果」の実験がおこなわれた「カピラの吊り橋」は、世界地図上のこちらにあります。

参考資料
Donald G. Dutton & Arthur P. Aron “Some Evidence for Heightened Sexual Attraction under Conditions of High Anxiety”
http://gaius.fpce.uc.pt/niips/novoplano/ps1/documentos/dutton%26aron1974.pdf
日本心理学会「心理学の法則ってどのくらい確かなものですか?」
http://www.psych.or.jp/interest/ff-39.html
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革新的なデジタル技術が創発されつづけ30年―sci-tech世界地図(9)


日本でも、海外でも、大学に学部や研究科とは異なる「研究所」が置かれることがあります。大学の組織としては独立性が高いのが特徴。ある学問分野のなかでもかぎられた領域に特化して研究する場所だったり、あるいは正規の研究科の枠を超えた研究をする場所だったりします。

世界の大学内研究所のなかでも、名うての研究所のひとつとされているのが、米国マサチューセッツ工科大学(MIT: Massachusetts Institute of Technology)の建築・計画学部・研究科内に置かれた「メディアラボ」(Media lab.)とよばれる研究室です。米国東海岸、マサチューセッツ州のケンブリッジのチャールズ川北岸に大学とこの研究室はあります。

1985年、計算機科学者のニコラス・ネグロポンテ(1943-)が、元MIT学長で計算工学者のジェローム・ウィズナー(1915-1994)とともにメディアラボを設立しました。

メディアラボの公式ホームページによると、メディアラボは創設から10年ごとに、その時代における機能を果たしてきました。

創設後の最初の10年は、「デジタル革命」を可能にするとともに、人間の表現を拡げるような技術の先端の場であったとしています。認知と学習から、電子音楽、ホログラフィまで、さまざまな領域で研究がなされました。

つぎの10年は、「コンピュータを箱から出した」時代であるとメディアラボは自己紹介しています。「デジタル分野のビットを、実世界の原子に刻みこむ」ような研究を実現できたといいます。

そして、最近の10年は、「扉の入口」で、ひきつづき伝統的な学問分野をチェックしているとしています。活躍する研究者像として、未来に夢中になったプロダクト・デザイナー、ナノ技術者、データ視覚化の専門家、工業技術研究者、コンピューター・インタフェイスの先駆者などをあげています。

研究所の歩みからもわかるように、メディアラボは、表現やコミュニケーションに利用されるデジタル技術にとりわけ特化した教育や研究がなされています。 そして、こうした分野での教育や研究にとって重要なことに、さまざまな学問分野が融合して、革新的な研究成果や技術が生まれるよう、仕切りのない空間に複数の研究グループが同居するような施設になっています。


メディアラボの内部
写真作者:Becky Stern

MITメディラアラボは、2011年から日本人の実業家の伊藤穰一を第4代所長に迎えました。日本人の研究者も多く活躍してきました。

マサチューセッツ工科大学メディアラボは、世界地図上のこちらにあります

参考資料
MIT Media Lab “Mission and History"
https://www.media.mit.edu/about/mission-history
ウィキペディア「MITメディアラボ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/MITメディアラボ
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“愚行”が20世紀の社会、産業、環境に影響を与えた―sci-tech世界地図(8)
米国ペンシルベニア州タイタスビルという街の南に、小さな油田の跡があります。この油田の跡は、「ドレーク油田」といわれます。この油田こそが、石油産業時代が始まるきっかけをつくった地とされています。

エドウィン・ドレーク

米国に、エドウィン・ドレーク(1819-1880)という一人の男がいました。バーモンド州出身で、職業を転々とした流浪の人物です。1850年代前半までニューヨーク・アンド・ニューヘイブン鉄道という会社の社員としてはたらいていました。ニューヘイブンは、コネチカット州南部にある都市です。「ヘイブン」(Haven)は「港」や「安全地帯」を意味することば。「ニューヘイブン」という地名は、米国の様々な州にあります。

妻を亡くして、家を売り払い、宿で暮らしていたドレークのところに、ニューヘイブン銀行の頭取をしていたジョージ・タウンゼントという人物が「ロック・オイルの開発のため、はたらかないか」と声をかけました。

「ロック・オイル」とは、いまでいう「石油」のこと。当時はまだ「地面から滲みでてくる物質」というほどにしか、その存在は知られていなかったようです。ニューヨークの弁護士だったジョージ・ビセルという人物が、この魅力的な物質に目をつけ、「ロック・オイルで儲けよう」と、タウンゼントを誘い、発掘者を探していたのです。

鉄道会社社員だったドレークは「なんでも屋」として知られていました。そこで、タウンゼントらに“山師”としての才能を買われたというわけです。

1857年12月20日、こうしてドレークとタウンゼントは、小集落だったタイタスビルに足を踏みいれました。

2010年のタイタスビルの街なみ

このとき、ドレークには、ある称号が与えられたといいます。それは「大佐」。自尊心がひときわ強かったとされるドレークに対して、タウンゼントは「大佐」という呼び名を与えることで、働く気を高めさせようとしたのでしょう。

この後の、ドレークの油田発見までの作業は「ドレークの愚行」とよばれています。油田がいっこうに見つからなかったからです。街の住人は彼の山師としての仕事を「ドレークの愚行」(Drake's Folly)と冷やかしました。また、出資者たちからも「オイル・ロックなんて、見つからないではないか」と非難されたといいます。

ドレークとタウンゼントがタイタスビルに足を踏み入れてから1年10か月後の1859年8月。ニューヘイブンに戻っていたタウンゼントは、ドレークに手紙を送りました。「8月末をもって、この作業は終了とする。支払いをすべて済ませて、ニューヘブンへと戻ってくるように」。

住民たちからの非難の声をまるで気にすることなく、ドレークは石油を当てるための作業をもくもくと続けました。当時の郵便事情は、いまに比べてはるかにのどかなもの。タウンゼントからの手紙も、まだドレークのもとには届いていませんでした。ただ、もくもくとロック・オイル探しを続けるのみ。これこそが、“ドレークの愚行”です。

そして、タウンゼントが作業終了を予定していた日の4日前にあたる1859年8月27日、ドレークとともに働いていた採掘工が、深さ21メートルのところで、道具がひっかかったことに気づきました。

翌日、ドレークらがその現場に行くと、集められた木樽のなかには、なみなみと液体が満たされていたといいます。ロック・オイルです。

こうして、現代産業を支えつづけることになる石油は、小さなタイタスビルという街で見つかりました。

ドレークはあくまで雇われの身。オイル・ロックを当てたことによる利益の大半は、ホワイトカラーのビセルやタウンゼントらに渡りました。ドレーク自身は、油田の発見以降も、大した富を得ることもなかったといいます。

しかし、油田の発見者を評価した人は評価しました。ペンシルバニア州は、わずかながらも、ドレークが生涯をどうにか暮らしていけるほどの年金を、ドレークの死まであたえつづけたといいます。ドレークは1880年にこの世を去りました。亡きがらは、タイタスビルに葬られたといいます。

ドレークがあの世からこの世を見ることができているとしたら、もっとも自尊心を守ることができたのは、ドレークが油田を発掘した場所に「ドレーク油田」という地名がついたことかもしれません。

自分自身が掘り当てた石油が、20世紀の社会、産業、環境に、大きな影響をあたえることになるとは、“山師”ドレークも思わなかったでしょう。

ドレーク油田は、米国ペンシルバニア州タイタスビルにあります。地図はこちら。
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完成まで600年以上、対称性への執念ここに―sci-tech世界地図(7)


ドイツの西部、ライン川沿いの都市ケルンには「ケルン大聖堂」というたてものがあります。「ザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂」が正式な名前で、カトリック教会が管理しています。1996年にはユネスコの世界文化遺産にも登録されました。

このケルン大聖堂が完成したのは、129年前のあす1880年8月14日のこと。

「やはり歴史のあるたてものだ」と思う方も多いでしょうが、この大聖堂の着工年を知るとより、その思いが強くなることでしょう。

いまのケルン大聖堂の建設が始まったのは、いまから750年以上前、完成から600年以上も前の1248年にさかのぼります。先代の聖堂が火事でうしなわれたため、新しく建て直したのでした。

13世紀前半といえば、モンゴル帝国がヨーロッパを席巻していた時代でした。いっぽう、日本では北条顕時が生まれた年。こんな都市に、ケルン大聖堂の建設が始まったのです。

ゴシック様式では世界最大の建築物とされるケルン大聖堂。たてものの特徴は、高さ157メートルの大きな尖塔がふたつ並んでいる点です。建設が始まったころから、尖塔をふたつ並べることは折り込みずみでした。

ところが、工事を進めていくうちに宗教改革の時代へと突入。教会は財政難におちいり、片方の尖塔しか建てられない状態が長くつづきました。

もちろん、尖塔がひとつだけの教会は数多くあります。このケルン大聖堂も「空高くそびえる尖塔がひとつ」というたてもので妥協したとしても、世界的な遺産として賞讃されるに値する立派な建築物になっていたことでしょう。

しかし、計画どおり尖塔を二つ並べることをあきらめませんでした。1842年まで尖塔はひとつでしたが、ここから二つ目の尖塔をつくる工事が行われたのです。

ふたつ目の尖塔が建設された背景には、ゴシック・リヴァイヴァルとよばれる、ゴシック様式の建築物への復興運動の高まりがあったとされます。ゴシック建築の代表的存在であるケルン大聖堂を完成させよう、という気運が19世紀に高まったのでしょう。

もうひとつ、ドイツ人の、あることがらに対する執念深さが、ふたつ目の尖塔完成に至らせたともいわれます。

それは、対称性(シンメトリー)に対するドイツ人の美意識です。

中国や日本などの建築物では、二つのものを左右対称的に並べるよりも、右側や左側を意識的に崩して、非対称(アシンメトリー)にすることが美の形式とされてきました。

いっぽう、西欧では、建築物などに対して対称性を保持することに美意識が置かれる傾向が強かったとされます。英国やフランスに見られる王宮庭園の配置などにも、きわめて左右対称的であることがうかがえます。

倫理学者の和辻哲郎は東洋と西洋のこのちがいについて、東洋は季節風が強いため樹木のかたちが非対称になりやすく、西洋は風が穏やかなため樹木のかたちが左右対称になりやすいという風土に根づいたものが関係していると説いています。

ケルン大聖堂においても左右対称の建築設計をしたからには、それを果たすことはドイツ人としての大きな悲願だったのでしょう。

ケルン大聖堂の位置はこちらでご覧になれます。
http://www.google.co.jp/maps?f=q&source=s_q&hl=ja&geocode=&q=ケルン大聖堂&sll=50.932469,6.911774&sspn=0.016877,0.032916&ie=UTF8&z=15&iwloc=A
上の画像元はこちら。
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ダーウィン、ミミズとともに29年―sci-tech世界地図(6)
英国の生物学者チャールズ・ダーウィンの生誕から今年2009年で200年。また『種の起原』の発表から150周年。今年は「ダーウィン年」です。

ダーウィンが1842年から、没年となる1882年まで住み続けたのが、ロンドンの南東にあるブロムレイ・ロンドン自治区の邸宅でした。

ダーウィンの才能で評されるのは、ひらめきなどの瞬発力というより、長年にわたる観察を続ける粘り強さです。その天賦の才能は、齢をとっても衰えることはありませんでした。

1842年に33歳のダーウィンは、ロンドンからこの家に引っ越すと、近くの地面に大量の石灰をまきました。『種の起原』が発表される17年前のことです。

彼には「この石灰の白い一面はいつか地中に埋もれるはずだ」という考えがありました。じつは、ビーグル号での航海時期をはさむ1827年から1837年の10年間でも、耕されたことの無い土地にまかれた石灰の跡がなくなっていることを、その眼で見ていたのです。


ダーウィンの家の近くの小径「サンドウォーク」

新居に移り住んでから29年。『種の起原』もとうの昔に出版し、62歳になったダーウィンは、29年前に石灰をまいたのと同じ地面を掘り返してみました。すると18センチの地中から、29年前の白い石灰が姿を見せたのです。

つまり、人が耕すことのない地面に、29年かけて、石灰の一面から18センチもの厚さの土が覆いかぶさっていたことになります。

この土を盛ったのはどうやらミミズでした。土の中のミミズが地上付近に出てきては糞をします。ミミズの穴のまわりには、噴火口のような円心状の糞の盛り上がりができあがるのでした。ミミズの地道な営みが、一面に土が覆いかぶさることにつながる主要因だと彼は考えました。

ミミズの“偉業”をたしかめるため、ダーウィンは晩年、「ミミズ石」という装置を発明し、庭におきました。0.01ミリの単位である水準の地面一面が埋もれていくのを観察できる精密な道具です。

ミミズ石の設置から19年後、その石は27.77ミリメートル地中に沈んでいったそうです。彼の死後、息子のフランシスが報告しました。

人が耕さずとも、ミミズの排泄行為が、緩やかな時間を掛けて少しずつ大地を肥沃にしていくということを、ダーウィンは29年の歳月をもって観察したのです。

ダーウィンが『ミミズの行為による肥沃土の形成とミミズの習性の観察』という研究成果を本にして出版したのは、彼が亡くなる1年前の1881年のことでした。

ダーウィンが33歳から72歳までを過ごした家は、ダウン・ハウスとよばれています。場所はこちら。
http://maps.google.com/maps?client=safari&rls=ja-jp&q=Luxted%20Road&oe=UTF-8&um=1&ie=UTF-8&sa=N&hl=ja&tab=wl
家の写真はこちら。
http://www.panoramio.com/photo/2320694

参考文献
佐々木正人『アフォーダンス入門』
参考ホームページ
細田直哉「ダーウィンのミミズ研究とアフォーダンス」
| - | 17:19 | comments(0) | -
時代がつくった八角形の島―sci-tech世界地図(5)その2
愛知・老津の海上に昭和10年代、ほぼ八角形の島が作られました。人々はこの島を「大崎島」と名付けました。



このめずらしい島の形は、昭和初期という時代と大きく関係しています。

島がつくられた理由は、軍事施設をここに置くためでした。島と陸地を結ぶ長い橋が架けられているのも地図から見てとれます。

軍用施設と多角形の関係では、五角形が思い浮かびます。どの方角から敵に攻められたときも、すぐに応戦できる多角形は五角形といわれています。実際、江戸幕府が北方警備のために函館に建てた五稜郭も、米国の国防総省ペンタゴンも、五角形をしています。

いっぽう大崎島は八角形。これはこの島に、軍事施設として飛行機の滑走路がつくられたことと関係しています。戦争が始まって2年後の1943年(昭和18年)、ここに海軍航空隊が開かれました。

民間の中型飛行場であれば、地形的な理由なければ滑走路2本を、東西や南北など同じ方角で並べて置くことができます。

いっぽう、この軍用飛行場では滑走路が東西、南北、そして斜めに3本走っています。いついかなる方角へも軍機が飛び立つこと、そして埋め立て土の量が少なくて済むこと、この両方を考えて、島のかたちを八角形になったのでしょう。全方位対応という点では円形も考えられますが、土木技術としては円形よりも八角形のほうが簡単のようです。

さて、戦争で日本が敗れると、当然この島の軍用飛行場としての役割は終わります。その後、この島は、大きな農地となりかわりました。

そして、行動成長期の昭和30年代になると、八角形の大崎島自体が埋め立てられて陸地の一部へとなっていきます。「国土地理院25000:1『老津』」では、ここの土地に八角形の島があったことは感じられません。臨海地域の埋立地によくあるように、この土地も吉野石膏、花王、日本電装、カナサシ、トビー工業といった企業の工場施設が建てられています。



飛行場の痕跡は、いまも探せばどこかで見つかるのでしょうか。(了)
| - | 23:59 | comments(0) | -
時代がつくった八角形の島―sci-tech世界地図(5)その1
海岸沿いにある「有明」や「美浜」といった地名は、たいがい埋め立て地に付けられた“吉祥地名”であることが多いようです。

愛知県豊橋市の「明海町」も埋め立てた土地に付けられた町名です。新豊橋駅から豊橋鉄道渥美線で23分、老津駅の北に明海町はあります。

かつてこの土地は老津村という村の大津島という島でした。1928(昭和3)年発行の「大日本帝国陸地測量部二万五千分一地形図『老津』」を見ると、このあたりの海には細長い島が点々としています。大津島は、島のすべてが半島でできたような、かなりいびつな形の島でした。畑があり、“半島”の間には橋の役割をする細長い道も見られます。



時代の経過とともに、この海にも埋め立ての波が押し寄せます。けれどもこの地域の埋め立ては少し事情が特殊でした。

太平洋戦争が始まる3年前の1938(昭和13)年、大津島の北側の海で、埋め立て工事がはじまりました。ただし、埋め立てといっても、この時点では陸続きの土地にするわけではありません。湾の中に新しく一つの島を作る類の埋め立て工事です。

つぎつぎと海の中に土が送り込まれ、2年後の1940年(昭和15年)には埋め立てによる人工島が完成しました。

この人工島には、ある大きな特徴がありました。それは後年に発行される地形図を見れば一目瞭然。島の北東の部分を覗くと、きれいなほどに8角形の均整がとれているのです。つづく。
| - | 23:59 | comments(0) | -
2008年の企画のおしらせ


おかげさまでこのブログはもうすぐ3年目をむかえます。今年も続いていくであろうこのブログ。きょうは2008年の予定を企画ものを中心におしらせします。

法廷の科学は真実を語るか

昨年末よりはじめて新しい企画ものです。2009年の春から日本ではじまる裁判員制度をまえに「裁判での科学」とはどのようなものかを探っていきます。

まずは、市民が評決をくだす陪審員制度が古くから行なわれている米国で起きたある事件を追いかけます。その後、部隊は日本へ。いま日本の裁判で科学はどのように扱われているのでしょうか。裁判員制度がはじまったとき、私たち市民が法廷で触れる科学とはどのようなものでしょうか。ちかい将来、私たちのくらしに直結してくる可能性のある話です。

法廷の科学は真実を語るか(1)

sci-tech世界地図

昨年からの企画です。科学史の舞台が時間軸とするならば、sci-tech世界地図の舞台は世界地図。科学や技術にまつわるあの事件やあのできごとが起きたところはどんなところか、地図を見ながら“その土地で起きた科学”を紹介します。

科学革命はここから「パドヴァ大学」―sci-tech世界地図(1)
開通4か月で崩壊「タコマ・ナローズ橋」―sci-tech世界地図(2)
医学の発展に貢献する町「フラミンガム」―sci-tech世界地図(3)
世界人口、60億を超える「サラエボ大学病院」―sci-tech世界地図(4)

カレーまみれのアネクドート

これも昨年からの企画。カレーの表情はお店によってさまざま。そんな多種多様なカレーを紹介する、食べ歩き記です。ほぼ科学技術とは関係のない企画ものではこれがいちばん好評いただいている気も…。今後は、カレーの紹介のみにとどまらず、カレーの本やカレーの歴史なども紹介していきたいと思います。

メーヤウ早稲田店「インド風チキンカレー」―カレーまみれのアネクドート(1)
デリー「カシミールカレー」(レトルト)―カレーまみれのアネクドート(2)
国会図書館のカレーライス―カレーまみれのアネクドート(3)
ナイルレストランのムルギーランチ―カレーまみれのアネクドート(4)

発見“21世紀の新大陸”

新企画です。国際ヒトゲノム計画によるヒトゲノムの完全解読が2003年になされてから、生命科学の分野は激動の時代に入りました。なかでも、DNA(デオキシリボ核酸)の複製先とされていたRNA(リボ核酸)には、知られざる未解明領域が存在することがわかってきたのです。

21世紀に入り日本人科学者がなしとげた“RNA大陸の発見”を紹介しながら、ポストゲノムの生命科学のいまを報告していきます。

大学院の研究成果も

かよっている早稲田大学大学院科学技術ジャーナリスト養成プログラムでは、科学技術やその周辺のさまざまなことを研究対象としています。このプログラムで得たことは、ブログの記事でも小出しにしてきましたが、大きな研究の内容もぜひみなさんにお読みいただきたいものがあります。

もちろん、単発記事もひきつづきご愛読いただければと思います。科学の記事といえば、大きな話題は新聞や放送で目にします。いっぽう、このブログは個人が発するものですから、新聞も放送も誰もとりあげないような話題、切り口、視点を多く提供できるようこころがけていきます。
| - | 23:59 | comments(0) | -
世界人口、60億を超える「サラエボ大学病院」―sci-tech世界地図(4)


1999年10月12日午前0時3分、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ市内のサラエボ大学病院で、ひとりの男の赤ちゃんが産声を上げました。世界人口にして“60億人目”となる男の子の誕生です。国連人口基金という、世界の人口問題の啓発や援助をする国連の機関が認定ししました。

博物館の催しものや万国博覧会などでは、「入館者10万人目」などといった切りのいい数字は数えれば出せるもの。けれども世界人口となるとそうもいかなそうです。いま一分の間に世界中で増えている人口は140人。どのようにしてサラエボで生まれた男の子を“60億人目”とつきとめることができたのでしょうか。

じつは、生まれた子どもが厳密に世界人口の何人目であるかを決めることは、技術的に不可能なのです。

とはいえ1999年10月12日という日に世界人口は60億人を超えるだろうということはわかっていました。そこで、“60億人目”の誕生を、ひとつの象徴的なできごとにしたいという国連人口基金の思惑が働きました。

ちょうどこの日、そのときの国連事務総長だったコフィ・アナンが公務でサラエボを訪れる予定になっていました。サラエボは、ボスニア内戦で千人以上の子どもの犠牲者を出していた激戦地。戦禍の街の病院でその日いちばん早く生まれた子どもを“象徴的”に“60億人目”と決めて、世界の人々に人口問題を考えさせるきっかけをつくろうとした、というのがことの真相です。

メビック・ヤスミンコさんとファティマさんの間に生まれた、“60億人目”の赤ちゃんは、アドナン・メビックくん。2006年、7歳になったメビックくんは、日本の毎日新聞の取材に対して、「60億人目は意識してないよ。でもみんなが健康でいるのが一番さ」と応えたそうです。

19世紀のうちから“ヨーロッパの火薬庫”といわれ、20世紀の終わりにも内戦が起きたサラエボ。いまは街に明かりが取り戻され、ようやく五輪が開かれた1984年ごろの状態を取り戻しつつあるようです。

サラエボで60億人を突破してからさらに8年のあいだに、世界の人口は増えつづけ、いまや66億2000万人に達しています。20世紀のなかごろにいったんは解決したと思われた食糧危機が、ふたたび頭をもたげてきているといいます。

70億人目、80億人目の赤ちゃんは、どんな街の病院で生まれたことになっているのでしょう。

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ周辺の地図はこちら。中央の建てものがサラエボ大学病院。


サラエボ大学病院のホームページはこちら。
http://www.kcus.net/

1999年10月12日の国連事務総長コフィ・アナン(当時)の人口60億人を迎えての声明はこちら(英文)。
http://www.unfpa.org/6billion/pages/sg.htm
| - | 23:59 | comments(0) | -
医学の発展に貢献する町「フラミンガム」―sci-tech世界地図(3)


米国マサチューセッツ州ボストンから西に30キロ行ったところに、フラミンガムという人口約3万人の町があります。

1948年9月、この町で医学史に刻み込まれる研究がはじまりました。

当時、米国の“国民病”は心血管疾患、つまり心臓や血管に関する病気でした。すでに高血圧や脂質異常、喫煙などが病気と関係していることがいわれていましたが、たとえば血圧がどれだけ高いと心臓病にどれだけなりやすいのかといった、数値による検証はほとんどされていませんでした。人の体には個性があるもの。ひとりの患者の病気の特徴を調べたからといって、それが多くの人に当てはめられるわけではないのです。 

そこで1948年9月、国立衛生研究所(NIH)の一部門である国立心臓肺血液研究所(NHLBI)が、一つの町をまるごと研究の対象にして、その住民の健康や病気の状態の推移を追っていこうという国家的計画を始めたのです。その舞台となったのがフラミンガム。町にあるユニオン病院にフラミンガム研究所が置かれました。

フラミンガム研究で特徴的なのが「前向き研究」とよばれる研究方法。病気になった人に「いま思えばこれが原因だったのでは」とその原因を後向きに探るのではなく、健康な人がこれからどのような病気になっていくのか、ということを追っていきます。手間とお金はかかりますが、ごくありふれた人がどんな要因でどんな病気になりやすいかが、これで分かるのです。いま医療の世界で、病気の要因という意味で使われている「危険因子」という考え方は、こうしてフラミンガム研究によりつくりだされました。

なぜ、辺鄙な町ともいえるフラミンガムが疫学研究の場として選ばれたのでしょう。それは、地元に根ざした商業や製造業が中心の町であり、住民の入れかわりがあまり激しくなかったこと、国立衛生研究所や心臓肺血液研究所があるメリーランド州ベセスダからほど近いこと、などがあげられます。

市民がフラミンガム研究に積極的に協力をする背景には、米国の医療保険のしくみも関わっているようです。米国の市民は、日本とちがってすべての人が医療保険に入っているわけではありません。疫学研究に協力しているあいだは医療費が免除されるという待遇もあり、保険に入っていない市民の協力をえやすいようです。

研究の始まりから、そろそろ60年が経とうとしています。いまでも、フラミンガム研究は続いており、研究成果は日本を含めた世界中の病気の予防や治療に役立てられています。

フラミンガム周辺の地図はこちら。中央の桃色の地がフラミンガム研究所のあるユニオン病院。


フラミンガム研究の公式ホームページはこちら(英文)。
http://www.framinghamheartstudy.org/
フラミンガムの町の公式ホームページはこちら(英文)。
http://www.framinghamma.org/

参考文献:『世界の心臓を救った町』嶋康晃著 ライフサイエンス社
| - | 22:53 | comments(0) | -
開通4か月で崩壊「タコマ・ナローズ橋」―sci-tech世界地図(2)


歴史には「世界三大事故」とよばれる事故があります。英国製の飛行機「デハビランド・コメット」の金属疲労によるあいついだ墜落事故。米国製「リバティ船」のこれまたあいついだ沈没事故。

そして、もう一つ。三大事故の中でも飛びぬけて有名なのが、米国ワシントン州タコマ市で1940年11月7日に起きた、「タコマ・ナローズ橋」の崩壊事故です。

主役となる橋は、「H」のかたちをした二つの橋桁に掛かった吊り橋です。全長1600メートル、橋桁の間853メートル、道幅11.9メートル。完成は、同1940年の7月。橋りょう建築家のレオン・モイセーエフが設計しました。彼は、ニューヨークのマンハッタン橋の設計を手掛けた建築家の一人としても知られています。

事故が有名になった大きな理由は、橋が崩壊する瞬間を映像におさめていたからです。だれが、どのように、撮影することに成功したのでしょう。

完成直後から、風が吹く日に橋が上下に揺れることが指摘されていました。これを受け、原因を調べ補強の工事をする手はずが整えられていたのです。そうした中で「その日」はやってきます。

当日、タコマ市には風速19メートル毎秒の強風が吹いていました。現場から、ワシントン大学の博士で、風洞実験担当者だったフォーカーソンに「橋が激しく揺れている」との一報が入ったのです。

駆けつけたフォーカーソンは、16ミリフィルムを使って、揺れに揺れる橋を撮影しました。はじめ上下に波うっていた橋はその後、使い込んでくたくたになったベルトのように、横方向の歪みを経験します。

もはやたえきれなくなった橋の道路は、一方の橋桁の近くからもろくも崩れていきました。

現在の吊り橋は結構(トラス)という、対角線状に組まれた骨組みにより、揺れが起きにくいつくりになっています。たとえば、東京・お台場のレインボーブリッジでは、首都高速道路の下、ゆりかもめが走る下段に結構が見られます。

タコマ・ナローズ橋には、この結構がありませんでした。けれども、設計したモイセーエフを過誤で責められるかといったら、そうもいえません。なぜなら当時としては、「設計的にも施工的にも十分な配慮が払われていた」橋だったからです。技術の発展における“通過儀礼”といったら言い過ぎでしょうか。さいわい、この事故による犠牲者は一人もいませんでした。ただ、逃げ遅れた犬一匹のとうとい命が失われたことは記しておくべきでしょう。

タコマ・ナローズ橋の事故があってから、吊り橋の技術は格段に進歩したといいます。事故から10年後の1950年、タコマの海峡には結構の構造が採用された二代目タコマ・ナローズ橋が掛かりました。

米国タコマ・ナロウ橋周辺の地図はこちら。


動画サイトの「ユー・チューブ」には、橋の崩落の瞬間を映した画像がいくつかあります。たとえばこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=P0Fi1VcbpAI
| - | 23:59 | comments(0) | -
科学革命はここから「パドヴァ大学」―sci-tech世界地図(1)


きのう(2007年5月6日)評した本のなかで、著者バーターフィールドがこう書いています。

「もしも科学革命の発祥地を一箇所に限るとしたら、他のどこに比べてもパドヴァ大学が卓越していると言えるだけのすぐれた発展がそこに見られるのである」

パドヴァ大学は、イタリアの北西、パドゥバの街にあります(トップ画像は1654年につくられた木版画)。国の形を長靴にたとえると、ちょうどファスナーを上げきったところ。水の都ヴェニスからは国際高速鉄道ユーロスターで西へおよそ40分。街のなかに、大学の建てものが散らばっています。

いまも続くパトヴァ大学。大学の案内を見ると「創設は1222年とされている」。しかし「この年は、『この地に建立されて、人々に知られるようになった』年であり、実際の創設はさらにさかのぼることもありうる」。

なぜ、パドヴァ大学が「科学革命の発祥の地」といえるのか。それは、近代科学のなりたちに欠かせない多くの人びとがこの大学に籍をおき、活躍してきたからです。また、“革新的な教室”を備え、科学がつぎつぎと明らかにしていったからでもあります。

地球がまわっていることにすると、理論につじつまが合うことを見つけたことから、地動説のきっかけをつくったとされるニコラウス・コペルニクス(1473〜1543)。彼は、司教になるための教育を受けていましたが、教会の許しをこい、パトヴァ大学で医学を学んでいたといいます。

また、地球がまわっていることを証すことになったガリレオ・ガリレイ(1564〜1642)も、ピサを離れたあと、1592年にパトヴァ大学に移り、ここで教授として幾何学や天文学などを教えました。当時パトヴァはベネチア共和国という独立国の中の都市。聖書と矛盾する地動説を広めるには、ローマ法王の影響を受けていないこの地がふさわしかったのです。

最古の解剖学教室があるのもパトヴァ大学。17世紀はじめ前後から、解剖の授業があったとされます。ただそのころ、人の体を解剖することは禁止されていたため、授業はひそかにおこなう必要がありました。そこで、教室に立ち入られてもばれぬよう、解剖台が開いて死体が運河に流れていくしかけがされてありました。

科学史を語るうえでなくてはならない数々の人が籍をおき、近代科学の初期にあたるさまざまな功績も残していったパトヴァ大学。

大学は、「ローマ法王により許しをえた末に創られたのではなく、大学を必要とする社会的また文化的な気運にこたえて創られた」ことを誇りにしているようです。

イタリア・パトヴァのパドヴァ大学周辺の地図はこちら。


パトヴァ大学のホームページには、構内を疑似見学することができるページがあります(英語)。
http://www.unipd.it/en/university/tours.htm

科学を語るうえでは「科学史」という、時間を軸にしたたしかな方法があります。いっぽうで、地理的な広がりを軸にした「科学地理」とか「科学地図」といった方法は、あまり見られません。“sci-tech世界地図”では、科学にまつわる“場所”をこれからも紹介していきます。
| - | 23:59 | comments(0) | -
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