科学技術のアネクドート

環状道路を回って交差点を通過

写真作者:SLTc

車が走る道路の交差点を「環状交差点」にしていこうとする動きがあるようです。

環状交差点とは、十字路、三叉路、五叉路などの道路が交わる部分を、一方通行の小さな環状道路にするもの。この環状交差点に侵入しようとする車は、環状道路の手前で一旦停止し、環状内を走る車を譲りながら、環状内の流れに入っていきます。そして、出たい道路へと出ていきます。十字路を直進したいときは環状道路を180度分、またおなじく左折したいときは90度分、走ることになります。

環状交差点に入っていく車は減速するため、交差点での出あいがしらの衝突事故を防ぐことができます。また、信号がないため、停電したとき混乱しないといった利点もいわれています。

日本では2013年6月に道路交通法が改正され、2014年9月から本格的に導入されはじめました。だいたい全国の都道府県に1個以上はあるようです。群馬県では、(2018年)9月27日(木)、県内初の環状交差点が安中市のJR安中榛名駅前につくられ、路面に「止まれ」でなく「ゆずれ」と書かれたことで話題になりました。

環状交差点をとりいれようとしている自治体のなかには、配送業者から「荷台の水槽に入れている魚がこぼれたりしないかね」といった心配の声もあがっているようですが、まず問題なさそうです。

自動運転車は、環状交差点をなんなく通れるのでしょうか。

ダイムラーは技術に自信をもっているようで、たとえば「S-Class S 500」という型のベンツが、環状交差点の自動走行をおこなうことを紹介しています。

自動運転車に環状交差点を走らせるには、学習させることが求められるようです。たとえば、KDDI総合研究所と北海道大学は、ほかの車と強調するといった動作を分割し、そのひとつひとつごとに深層学習を使って動きを学習させ、それらをつなぎ合わせることで、環状交差点にも対応させるように研究しているといいます。

環状交差点、だんだんと広まっていくでしょうか。

参考資料
読売新聞 2018年9月27日付「初のラウンドアバウト『止まれ』を『ゆずれ』に」
https://www.yomiuri.co.jp/national/20180927-OYT1T50033.html
Daimler “Pioneering achievement: Autonomous long-distance drive in rural and urban traffic - Mercedes-Benz S-Class INTELLIGENT DRIVE drives autonomously in the tracks of Bertha Benz”
https://media.daimler.com/marsMediaSite/en/instance/ko/Pioneering-achievement-Autonomous-long-distance-drive-in-rur.xhtml?oid=9917578
ITmedia 2017年10月3日付「道を“譲り合う”自動運転技術、KDDIと北大が開発」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1710/03/news053.html
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「女性語」日常会話から消えゆく

写真作者:KAZ

絶滅が危惧されるというと、もっぱら生きもののことが想像されがちです。しかし、遺伝が途絶えていくのは生きものだけではありません。人の習慣や文化的行為なども廃っていくものです。それらも「絶滅が危惧される」といわれることはあります。

「女性語」が絶滅の状態に瀕しているといわれます。俗に、女性語とは、女性特有の言いまわしやことばのこと。

たとえば、話の最後につける「のよ」は、女性語のひとつとされます。「私、これからお買いものに行きますのよ」と言うときの「のよ」です。

国語辞典にも、終助詞の「の」に終助詞の「よ」がついた連語だと説明されていて、「強く断定したり言い聞かせたりする気持ちで念を押す意を表す」「 疑問の意を表す語と呼応して,相手をなじる気持ちを添える」などとあります。そして、後者には、「現代語では、主として女性語として用いられる」とあります。

今日日、実際の日常会話のなかで、女性が「行きますのよ」と話す場面に出合う機会は、かなりすくなくなったのではないでしょうか。

ほかにも「まぁ、きれいに咲いたこと」と言うときの「こと」や、「だって、仕方がないんですもの」と言うときの「もの」なども女性語とされます。

実際の日常会話では聞かれなくなったとしても、女性語はいまも漫画、小説、翻訳書などの、文で表される世界では存在しつづけているといいます。

たとえば、『別冊マーガレット』という漫画雑誌のなかで、女性語がどのくらい出てくるかを調べた研究があります。上の「のよ」については、1967年10月号では78回。1976年10月号では46回と減り、2015年10月号では2回だったそうです。

ほかの「もの」「こと」「わよ」「わね」などの女性語も、やはり昔からいまにかけて使われることが減ってきている傾向はあるようです。しかし、わずかながらも使われているので「絶滅した」とまではいえません。

文で表されるものは、それを読む人に文字表現で伝わることが求められます。女性語は、女性が話していることを示すための記号としては便利なものであるのでしょう。

しかし、日常会話で聞かれなくなって久しくなると、現実世界と創作世界での話しかたの乖離も大きくなっていきます。創作でも女性語の登場が減ってきているというのは、創作者にとっても使うことへの違和感が強くなってきていることのあらわれなのでしょう。

人の性の多様性がだんだんと認められ、男性と女性というだけでは区分できないようになっていけば、「女性語」ということばや考えそのものも廃っていくものかもしれません。

参考資料
張夢圓「日本語の女性語について 少女漫画に見る女性語の推移」
ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/bg/file/1602/20170418172505/BGN0051000007.pdf
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新参の愛好者も劣らぬ愛好者

写真作者:midorisyu

人はなんらかの理由でなんらかの活動をはじめます。そして、なんらかの理由で活動を終わらせます。いま続けている活動も、いつかはなんらかの理由で終わらせることになるでしょう。

こうした人に活動に対して、その本人や当事者ではないけれど、部外者としてなんらかのかたちで携わるということが人にはあります。卑近な例では「愛好者として追いかける」ということがあります。たとえば、文壇に新しく登場した作家の作品を好きになり、以降、新作が出るたびに好んで読むといったことがあります。

しかし、いつかはその作家も死んでしまったり、引退してしまったりして、作家としての活動を終えるため、その作家の作家としての活動は、いつからいつまでといった期間が設けられることになります。

ここで、その人物の活動に愛好者として携わる人は、三つの場合分けができます。

「活動の最初から愛好している人」。たとえば、作家の処女作が出たときから、その作家を愛好しているような人です。

「活動の途中から愛好している人」。たとえば、作家の作品が3作目、4作目と出るにつれ、社会的に名声が上がり、「自分もこの人の小説を読んでみるか」と読んでみたところ、とてもおもしろかったため、それ以降、愛好しているというような人です。

「活動が終わってから愛好している人」。たとえば、作家が死去したり、引退作を発表したりしてからも、その人の作品が人気を博しつづけたり、再評価されたりしていて、「自分もこの人の小説を読んでみるか」と読んでみたところ、とてもおもしろかったため、それ以降、愛好しているというような人です。

このなかで、自分をもっとも誇れるのは「最初から愛好している人」となるでしょうか。評判になる前から注目していたとか、長年にわたり愛好していたということが、新参の愛好者の愛好ぶりよりも価値の高いものと考えられがちだからです。

逆に、どちらかというと大したことないとみなされるのは「活動が終わってから愛好している人」となるでしょうか。たとえば、ことし2018年3月に亡くなった作家の作品に、4月に初めて触れ、作品を愛好するようになった人は、生前から、さらにいえば処女作のときから愛好しつづけてきた人たちより、読んだ作品はすくなく、その人物についての知識も浅いこともいなめません。長年の愛好者からすれば、「え、そんなことも知らないの」といった目で見られがちです。実際はそんな目で見られることがなくても、「自分はそんな目で見られるのだろう」という自意識になりがちです。

人は自尊心をもつものですから、「自分のほうが愛好度が強い」と自負できることは誇らしく思うものです。

しかし、愛好者としてどれだけその作家や作品を長く親しんできたか、あるいはどれだけ深く広く知識をもっているかといった尺度だけが、愛好度をはかるものではありません。その瞬間において、どれだけその作家や作品を愛好しているか、といった尺度もあるはずです。

「きょうから作品を読みはじめたけれど、はじめからめちゃくちゃはまった。大好きになった」といった経験をする人もいるはずです。それはそれで誇れるものです。

「長年の愛好者からどう思われようとも、愛好する心はだれにも負けない」と思える人は、その時点で立派な愛好者です。
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後天的に得た体の特徴を、遺伝子を介さずに子へ遺伝
親のからだの特徴などが、遺伝子によって、子どもやそれ以降の世代に伝えられることを「遺伝」といいます。遺伝子は、細胞の核のなかにあるデオキシリボ核酸(DNA:DeoxyriboNucleic Acid)の一定の部分にあるもので、「アデニン」「チミン」「グアニン」「シトシン」という4種類の「塩基」とよばれる化合物からなりたっています。

長いこと「遺伝は遺伝子によってなされる」と研究者も一般の人びとも思ってきたわけです。遺伝子が遺伝をもたらすことは、もはや科学によってうちたてられた真実と考えてよいのでしょう。

しかし、それだけではない、つまり「遺伝は遺伝子だけによってなされるものではない」という話が近年、起きています。動物の親が、遺伝子に刻まれた体の特徴ではなく、後天的に得た体の特徴を、遺伝子で伝えるのとはべつの方法で、子に伝えていることがありうることが明らかになってきたのです。

ストレスを“過度”でなく“適度”に受けると、かえって生きものは長生きする場合があることが知られています。この効果を「ホルミシス効果」とよびます。

実験的にストレスをあたえられて、ホルミシス効果が高まった親世代の「線虫」という生きものが、子世代をつくりました。すると、この子世代から数世代の子孫にわたり、ホルミシス効果が受けつがれたというのです。


実験でよく使われる線虫の一種「カエノラブディティス・エレガンス」。体長は1ミリメートルほど。
写真掲出者:Kbradnam

父親の線虫の精子内には、ヒストン修飾因子とよばれるタンパク質の「WDR-5」が存在します。これは、いわゆる遺伝子ではありません。このWDR-5が、次世代にホルミシス効果を伝えるものであることがわかりました。

ほかにも、マウスの精子に存在する「小分子リボ核酸」とよばれる分子化合物を、マウスの受精卵の核に注射のような方法で入れたところ、受精から時間が経過して細胞分裂が進んだ段階でも、この小分子リボ核酸が安定して存在していることが、実験で確かめられたといいます。親から子に、遺伝子とは異なる分子化合物が受けつがれうることを示す事例といえます。

いまのところ、国語辞典や百科事典などでは、「遺伝」は「遺伝子によって」おこなわれるものと書かれたり、遺伝子の存在を前提として書かれたりしています。そして、遺伝子を介さない遺伝のことを「見かけ上遺伝する」などと表現することもあるようです。

今後、遺伝子を介さない遺伝の事例が増えていけば、「遺伝」の定義や意味を考えなおすことも起きてくるかもしれません。

参考資料
京都大学 2017年1月11日発表「獲得形質は遺伝する? 親世代で受けた環境ストレスが子孫の生存力を高める」
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/research_results/2016/documents/170109_1/01.pdf
科学研究費助成事業データベース「受精時に精子から受精卵に伝達される転写産物の同定と機能解析」
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-20770145/
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読み手は「事」「達」、書き手は「こと」「たち」

2017年度「国語に関する世論調査」の結果より

文化庁が2017年度の「国語に関する世論調査」の結果を(2018年)9月25日(火)に公表しました。この調査は、日本人の国語に関する意識や理解の現状について調査し、国語施策の立案に役立てるためのもので、1995年度から毎年おこなわれています。

新聞などの報道では毎年のように、「本来の意味」と異なる意味で使われていることばで目立ったものをとりあげるかたちで、この世論調査の結果を伝えます。今回は、本来は「少しずつ返していくこと」を意味する「なし崩し」を、「なかったことにすること」の意味だと答えた人が65.6パーセントいたという事例がよくとりあげられているようです。

しかし、「国語に関する世論調査」は、人びとがことばを本来の意味で捉えているかどうかを調べるだけのものではありません。

今回の世論調査で、文化庁は「表記の決まり」という項目を設けています。官公庁などが示す文書や法令の表記のしかたについての項目です。

たとえば、官公庁などの文書や法令では、「まさに」でなく「正に」と書かれます。これについて、「正に」の書きかたのほうがよいと思った人は26.6パーセントだったのに対し、「まさに」のほうがよいと思った人は67.0パーセントだったとのこと。

こうした例から、「公用文の表記の決まりとは異なる書き方を選んでいる割合が比較的高い」としています。

概して、官公庁や法令の文書は「かたい」印象をもたれがちなもの。一般的に、ひらがなより漢字を使って書くと、印象はかたくなるものです。

しかし、なかには、ひらがなが使われている書きかたもあるようです。たとえば、「楽しい事」でなく「楽しいこと」。「私達」でなく「私たち」といった具合に。

特筆すべきは、多くの人びとは、このふたつの「ひらがな遣い」をよいとは思っていないということ。

結果によると、「楽しい事」のほうがよいと思うと答えた人は65.4パーセントでした。いっぽう、「楽しいこと」のほうがよいと思うと答えた人は27.0パーセントにとどまりました。

おなじく、「私達」のほうがよいと思うと答えた人は68.7パーセントにものぼり、「私たち」のほうがよいと思うと答えた人は24.5パーセントにとどまりました。

つまり、すくなくとも官公庁や法令の文書では、「楽しい事」「私達」と書かれてあるほうが「よい」と多くの人びとは答えているそうです。

これまで、「ひらがなで書くほうがやわらかさがあって伝わりやすい」と考えて「楽しいこと」「私たち」と書いてきた「ひらがな推進派」の人たちにとって、この結果はかなり衝撃的ではないでしょうか。

では、インターネット上ではどうかというと、グーグル検索の結果によれば、「楽しいこと」が「楽しい事」の2倍以上、使われているようです。おなじく「私たち」が「私達」の3.5倍以上、使われているようです。

これらをまとめると、「こと」や「たち」については、書き手はひらがなで書こうとし、読み手は漢字で書かれるのを好む、といったことになってしまいます。

これはいったいどういうことでしょうか……。

参考資料
文化庁「平成29年度『国語に関する世論調査』の結果の概要」
http://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/pdf/r1393038_01.pdf
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ふたつの学問、ちがっていて、つながっている

写真作者:Rina / U.S. Department of Agriculture

学問には「にているようでちがっていて、でもつながっている」といったふたつの分野がよくあります。森羅万象のものには、どれもほかのものとの関わりがあるので、当然ではありますが。

「地質学」と「土壌学」というふたつの分野があります。「地」や「土」という文字があるので、どちらも足元から先にある地中のことを研究する分野のようではあります……。

「地質」とは、大陸での厚さが平均35キロメートルほど、海底での厚さが5〜10キロメートルほどあって、地球の表面を覆っている「地殻」とよばれる部分を構成する岩石や地層の、種類、性質、状態をさすもの。

この、大陸の35キロメートル、海底の数キロメートルほどある地殻の部分を対象に研究する分野が、地質学です。地殻の、つくり、できかた、なりたち、それに歴史などを研究します。とくに、地殻をおもに構成する岩石のことを詳しく調べます。

地質学は、地球をつくる地殻という、大きな部分について研究する学問です。どちらかというと、研究者たちは「どうなっているんだろう」という疑問や謎を解決するために研究を進めているようです。

しかし、なかには「人びとや地球環境の役に立たせたい」という願いを実現するため研究する地質学の分野もあります。地殻のなかにある金属、石油、天然ガスなどの、人が使う鉱物のつくりやなりたちなどを調べる鉱床学や、土木、建築、防災などといった土地を使うために地質について調べる土木地質学などです。とはいえ、地質学ですることの多くは疑問を解決する型のものといえます。

いっぽう、「土壌」とは、地殻のもっとも表層を薄く覆っている部分にあるもの。地表からの深さは1〜2メートルほどとされます。では、地表のそのくらいまでの部分をすべて「土壌」というかというとそうでなく、岩石の風化物に動植物の遺体あるいはその分解物が加わったものだけを土壌といいます。たんなる砂やアスファルトは土壌ではありません。

なぜ、地表の部分のなかでも土壌が特別扱いされるのかというと、土壌は植物を育てる能力をもっているからです。植物のなかには、私たちが食べる穀物、野菜、果樹などもふくまれます。

土壌学は、この土壌について研究する学問です。上にあるように「食べものとなる植物をいかに育てるか」という点で、土壌を研究することは大切になります。そのため、地質学より土壌学のほうが、「人びとの役に立たせたい」と考えて研究している人の割合は多いといえます。

ただし、地表を覆う自然の物質である土壌に眼ざしを注ぐ、「どうなっているんだろう」の見かたから土壌学を研究する人もいます。

土壌には、ほかの地殻の部分にはない、食物を育てるという特別な役割があります。地質学と土壌学がそれぞれ存在する理由はこのあたりにありそうです。

いっぽうで、地殻のもっとも表層のところが土壌なのですから、土壌は地殻の一部であるともいえます。「地質学の観点から土壌について調べる」あるいは「土壌学の立場から地殻について調べる」といった研究手法も当然なりたつわけです。

参考資料
百科事典マイペディア「地質学」
https://kotobank.jp/word/地質学-96114
世界大百科事典第2版「地質学」
https://kotobank.jp/word/地質学-96114
デジタル大辞泉「地殻」
https://kotobank.jp/word/地殻-95869
デジタル大辞泉「鉱床学」
https://kotobank.jp/word/鉱床学-495746
土木研究所地質チーム「土木地質学とは?」
https://www.pwri.go.jp/team/tishitsu/dobokutisitu.htm
百科事典マイペディア「土壌学」
https://kotobank.jp/word/土壌学-105172
世界大百科事典第2版「土壌学」
https://kotobank.jp/word/土壌学-105172
デジタル大辞泉「土壌」
https://kotobank.jp/word/土壌-105168
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「さらば硬いイクラ! 通電加熱が水産食品を変える」


ウェブニュース「JBpress」で、きょう(2018年)9月24日(月祝)「さらば硬いイクラ! 通電加熱が水産食品を変える 『鮭の卵』への眼差し(後篇)」という記事が配信されました。

イクラというと、寿司の具材の定番のひとつにもなっていたりして、日本人にゆかりのある食材となっています。しかし、イクラが本格的に日本の食材として広まったのは戦後のこと。

じつはイクラは20世紀初頭、日露戦争後の日本とロシアの関係のなかで、ロシアから日本につくりかたとともにもちこまれたとされています。「イクラ」は「魚の卵」の意味のロシア語です。ひらがなで「いくら」と書くのは、ひらがなで「おれんじ」と書くのとおなじようなこととなります。

そんなイクラに、現代の技術による品質向上がはかられているといいます。イクラに電気を通して加熱することで、食感を高める柔らかさや、日もちのよさを実現する「通電加熱」とよばれる加工技術がイクラに使われつつあるのです。

ふつう食材に熱を入れるというと、煮たり、蒸したり、焼いたりといった火を使うものや、電子レンジを使うといった電磁波を使うものが考えられます。

いっぽう、通電加熱は、正と負の電極のあいだに食材をつなげて、そこに電気を流すことで加熱する方法。電熱コンロのニクロム線のところを食材に置きかえたようなしくみです。これにより、瞬時に、そしてほかの加熱法より均一的に、食材を加熱することができます。

イクラはサケやマスの産卵前の卵を加工したもの。日本では岩手県をはじめとする東北地方や、北海道で、サケやマスの卵を得る漁がさかんです。

2011年3月の東日本大震災で、東北地方の水産業は大きな被害を受け、復興のためには以前よりも価値の高い加工品をつくって、売ることが大切となりました。そうしたねらいから、産官学のプロジェクトが進められ、硬くなるのを抑えるイクラの通電加熱技術が開発され、実用化が始まっています。

「さらば硬いイクラ! 通電加熱が水産食品を変える 『鮭の卵』への眼差し(後篇)」はこちらです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54153
前篇では、日本人とイクラそれに筋子のかかわりあいを追っています。「今や筋子を圧倒、『イクラ』はロシアからやって来た」はこちらです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54090

記事の取材と執筆をしました。
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「旧石器捏造」の功名が、地質学者に


「旧石器捏造事件」とよばれる考古学でのできごとがあります。日本の前期・中期旧石器時代の遺物や遺跡とされたものが、一人の考古学研究者が自分の手で地中に埋めていたことが2000年11月に毎日新聞のスクープで発覚したもの。日本の旧石器時代の研究が大きく揺らぎ、学校の教科書の書きかたも変えざるをえなくなるといった影響の大きな事件でした。

旧石器捏造事件がくりひろげられた現場の「遺跡」は、捏造がわかったため考古学としては価値のないものになってしまいました。しかし、人びとが捏造とつゆしらず、遺跡調査のため土地を深掘りをしたことが、べつの側面では役立てられていたという話があります。

「旧石器捏造事件」の舞台となった場所に、山形県尾花沢市の「袖原3遺跡」があります。毎日新聞がスクープした宮城県築館町の「上高森遺跡」とはべつの遺跡です。

遺跡から遺物を得ようとするには、土地を掘っていかなければなりません。袖原3遺跡でも、遺物発掘のため、土地が掘られていきました。すると、考古学者ではなく、地質学者にとって重要な地層が現れたのだそうです。

尾花沢市には、ローム質とよばれる地質のそうがありますが、およそ1万年前に起きた「肘折」という火山の火山灰の層のすこし下ぐらいまでしか、調べることができずにいました。

そうしたなかで、捏造を犯した考古学研究者の業績のひとつとして、袖原3遺跡が掘られていきました。これにより、従来の層よりさらに下の層まで地層が顔をのぞかせたのです。

これにより、10メートルあまりのローム質の地層が出現し、35層までもが観察できるようになったといいます。熱帯や亜熱帯でつくられる赤色土という土がつくられるのとおなじような環境があったと推定されることなどがわかりました。

地質学者は、さらに詳細に袖原3遺跡の地層を調査したいと考えていました。しかし、2001年に考古学上の捏造判定調査が終わると、この“旧遺跡”はさっさと埋められてしまったということです。

参考資料
山野井徹『日本の土』
https://www.amazon.co.jp/dp/4806714925
ウィキペディア「旧石器捏造事件」
https://ja.wikipedia.org/wiki/旧石器捏造事件
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「ゴロ」は「グラウンダー」からという説も

写真作者:boomer-44

日本では野球が、するスポーツとしても観るスポーツとしても定着しているため、試合で使われることばも当たりまえのように受けとめられています。

しかし、「そもそも考えてみると、これってなんなんだ」と思えるようなことばもあるのではないでしょうか。

「バッター山川、打ちました。これはセカンドゴロ。ツーアウト」

「ゴロ」ということばは、当たりまえのように使われています。野球では、地面をころがったり、はねていったりする打球を「ゴロ」といいます。投手がゴロを処理するときは『ピッチャーゴロ」あるいは「投ゴロ」、遊撃者が一塁手がゴロを処理するときは「ファーストゴロ」あるいは「一ゴロ」などと表されます。

なにかが転がるさまを「ごろごろ」といいます。「ゴロ」もこの擬態語からきているのでしょうか。しかし、「ごろごろ」はどちらかというと、大きくて重いものが転がるときに使うもの。「ドラム缶をごろごろ転がす」のように。

にた擬態語に「ころころ」もあります。こちらはどちらかというと小さくて軽いものがころがるさまを指します。「おむすびがころころ転がる」といったように。

野球の球に「ごろごろ」もあてはまらなくありませんが、どちらかというと「ころころ」がふさわしそうでもあります。「ピッチャーコロ」や「一コロ」と表すほうが、擬態語の感覚から考えればふさわしそうです。しかし「コロ」ではなく「ゴロ」……。

「ゴロ」をめぐる語源には、英語の「グラウンダー」からきているという説があります。“Grounder”。米国人などは、カタカナ読みの発音でなく、音をつなげて発音しますので、“Grounder“が「グラナー」と発音され、これを耳にした日本人が「メリケンさんたちは、ころがる球を『ゴロ』と言っておる」と捉え、「ゴロ」とよぶようになった、ということは考えられることです。

実際、国語辞典の「ゴロ」の項目にも〔grounderからか〕といった注記や、「グラウンダー」という意味も載っています。

参考資料
スーパー大辞林「ゴロ」
ウィキペディア「ゴロ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/ゴロ
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「博士を名のれる瞬間」がいつなのかはむずかしい

写真作者:Jun OHWADA

人は、努力したりしなかったりして、師や士などのつく資格、また修士号や博士号などの学位をとります。こうした地位を得た人に対して、まわりの人びとは「真野弁護士」とか「天馬博士」とか、その地位の呼称をつけてよぶようになります。

では、その地位にいる人は、いつからその地位につくのでしょうか。

たとえば「博士」という学位があります。一般的に、大学院の博士課程を修了し、博士論文の審査と試験に合格したものにあたえられる学位といいます。このことからすると、博士課程を修了するのに必要な課程をすべておさめ、かつ博士論文の審査と試験で合格が決まった瞬間、「自分はいまから博士だ」と名のれるわけでしょうか。

いっぽうで大学院では「学位記授与式」とよばれる式があります。学位記とは、大学が博士など学位を授与したことを証明するために、博士となる本人に授ける書面のことをいいます。その学位記を学長ないし総長が本人に渡す式が学位記授与式です。学位記には「博士の学位を授与する」といった証が書かれていますので、この証を得た瞬間から「自分はいまから博士だ」と名のれるわけでしょうか。もし体調不良で式に欠席したらどうなるのでしょうか。

法律を見てみるとどうでしょう。学校教育制度の基本を定めた法律「学校教育法」の第百四条にはつぎのように書かれています。

「大学は(略)大学院(専門職大学院を除く。)の課程を修了した者に対し修士又は博士の学位を(略)授与するものとする」

この条文からすると、博士になりそうな人が、大学院の博士課程を「修了」すれば、大学から博士の学位が授与されることになります。

では、大学院博士課程の「修了」の要件とはどのようなものでしょう。文部科学省中央教育審議会大学分科会大学院部会の資料によれば、博士課程の修了要件は「5年以上の在学」「30単位以上の修得」「必要な研究指導を受けた上、当該大学院の行う博士論文の審査及び試験の合格」とあります。はじめの「5年以上」とは、修士課程での2年も含めてのものと考えられます。

すると、「5年以上の在学」「30単位以上の修得」「必要な研究指導を受けた上、当該大学院の行う博士論文の審査及び試験の合格」のみっつをすべて満たせば、大学が博士号を授与する条件が揃うことになります。

このみっつのなかで、もっとも遅くなるのは「5年以上の在学」ではないでしょうか。在学とは、学生として学校の籍があることですから、修士課程の入学をたとえば2013年の4月1日にしたとすれば「5年以上の在学」を満たすのは「2018年の4月1日になった瞬間」ということになります。しかし、本当にそうでしょうか……。

実際のところ、どの瞬間から、その人が「自分は博士です」と名のれるか、厳密に定めていなくても、さほど困りごとは起きないのでしょう。とはいえ、困りごとが起きないわけでもありません。

たとえば、雑誌の記事などで人物の紹介をするとき、「博士(理学)。」などと書くことがあります。その記事が世に出た時点で、単位の修得と博士論文の審査・試験の合格を果たしていれば「博士(理学)。」と書いてよいものか。それとも、学位記授与式がまだだったり、5年以上の在学がまだだったりすれば、「博士(理学)。」は書いてならないものか。

こうした問題は生じうるものです。

参考資料
e-GOV「学校教育法」
http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=322AC0000000026&openerCode=1
文部科学省中央教育審議会大学分科会大学院部会 2009年6月23日「修士課程・博士課程の関係について」
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/004/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2010/02/16/1288658_2.pdf
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「書類を用意する人」定まらず

写真作者:Kim Makeever

社会には、不文律や暗黙の了解といったものがあります。不文律や暗黙の了解があれば、当事者たちは「こうしましょうよ」「はいわかりました」あどと口に出して話しあわず、おたがいが事情を納得して行動できるようなります。たとえば、噺家たちの世界には、先輩が後輩たちにごちそうするといった不文律があるといいます。

しかし、社会にはまだ不文律になっておらず、「だれがどう行動をとるべきか」が定まっていないようなものごともあるものです。

「不文律になっていないことは、その場で当事者たちが決めればよいではないか」と考える人もいるでしょう。「ここは私がやっておくよ」「ありがとう」といった具合に。たしかに不文律になっていないものごとの多くは、その場で話しあって決まるものです。

しかし、その場で当事者たちが会うよりまえに、行動しておかなければならいようなものごともあります。

たとえば、「うちあわせで使う書類の参加人数分の写しを、だれが用意すべきか」という問題があります。

本来的には、その書類をつくった人は、ほかの人たちに書類の内容を見てほしいわけだから、書類をつくった人が参加人数分の写しを準備しておくというのは筋です。

しかし、そのうちあわせの主催者がべつにいるという場合もよくあります。うちあわせに使う書類なのであれば、主催者が書類をつくった人に「書類をあらかじめ送ってください。こちらで写しを用意しておきますから」と伝えて、そのとおりにしておくといった考えかたもできます。

書類をつくった人も、うちあわせを主催した人も、どちらも「自分が書類を参加人数分、用意しておかないと」と考えてそうすれば、うちあわせのとき書類は参加人数分の約2倍、用意されてしまいます。全体としては紙と手間のむだです。

書類をつくった人も、うちあわせを主催した人も、どちらも「相手が書類を参加人数分、用意してくれるだろう」と高をくくっていれば、うちあわせのとき書類はまったく足りないことになります。うちあわせ直前や直後のどたばたを招きます。

「うちあわせでの書類を参加人数分つくっておくのは書類をつくった人」といった不文律があれば、「書類が2倍」「書類がまったく足りない」のどちらの不都合もあらかたなくすことができるでしょう。

ほぼ不文律もなく、電子書類も増えてきた今日日の社会では「書類をつくりましたので、あらかじめメールで送っておきます。うちあわせのとき紙の書類が必要な方は、写しを用意しておくので私におっしゃってください」と伝えておくといった策が現実的となりましょうか。
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ソフトウェアでも“部品”を再利用

写真作者:Aeris Secure

すでに使ったものを、ふたたび使うことを「再利用」といいます。多くの人にとって身近な再利用には、ボタンの再利用、靴ひもの再利用、ネジの再利用といったものがあります。すでにあるものをふたたび使うわけですから、新たにつくって使うより再利用するほうが安く、早く、求めをかなえられるはずです。

再利用するものは物品だけではありません。手で触れることのできないようなものに対しても再利用するという考えはあてはまります。たとえば、コンピュータのソフトウェアを構成する要素についても再利用することができます。

コンピュータが機能するうえでは、「オペレーションシステム」(OS:Operation System)という、プログラムの実行を制御するためのしくみがあります。さらに、このオペレーションシステムの下に築かれるものとして、「フレームワーク」とよばれるものがあります。ここでのフレームワークとは、人が書いてつくったプログラムを実行してくれる枠組みといえます。

そして、このフレームワークのさらに下の階層に「コンポーネント」とよばれるものがあります。もともと英語での“Component”には「部品」や「要素」といった意味があります。ここでいうコンポーネントは「なにかの機能を実現するために部品化されたソフトウェア」といったものとなります。

車などの製品では、製品の型さえおなじであれば、部品をほかの機械に再利用することができます。おなじ車種であれば、廃車したボンネットやドアなどを、べつの車に使うことができます。これは、部品というものが、本体やほかの部品と強いつながりをもたず、個別につくられているからこそなせるもの。

おなじように、フレームワークの下層にあるコンポーネントも理論上、再利用することができます。この場合も、車のたとえとおなじように、ソフトウェアが同一のものだったり、または同一のものに準拠したものだったりする必要はありますが。

ただし、あるコンポーネントをほかのフレームワークで再利用するとき、注意が必要といいます。

コンポーネントは、そのソフトウェアで実現したい要求を満たすためのもの。いくら再利用できるからといって、そのコンポーネントが再利用先のソフトウェアで実現したい要求に合っていなければ、コンポーネントを当てはめる作業がむだになってしまいます。カレーづくりに使った缶入りのカレー粉がいくら余っているからといって、麻婆豆腐づくりにも再利用できるかといえば、できないのとおなじようなものです。

人は「自分ではじめからつくりたい」といった性をもちがちなもの。しかし、その考えかたを置いて、コンポーネントを再利用することを考えれば、効率よくソフトウェアを構築することもできるわけです。

参考資料
IT mediaエンタープライズ 2004年3月19日付「コンポーネントの再利用、できていますか?」
http://www.itmedia.co.jp/im/articles/0403/19/news086.html
日経XTECH 2004年1月14日付「萩原正義の『システム・アーキテクチャ論』第1回(2)」
https://tech.nikkeibp.co.jp/it/members/NBY/techsquare/20040107/3/?ST=ep2
田丸喜一郎「ソフトウェア品質監査制度(仮称)とトレーサビリティについて」
http://www.teras.or.jp/terasweb/wp-content/uploads/2011/10/【講演1】ソフトウェア品質監査制度とトレーサビリティについて.pdf
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人の心は境界に行く


自然も人間も「境界」をつくります。土地やものごとの分かれ目ないし区切りとなるものが境界です。

境界の直前までは、そこまでの状態を特徴づけるものごとが、ずっと続いてきたわけです。しかし、境界を超えると、べつのものごとによる特徴ある状態が始まります。

たとえば、海岸線という境界では、水により特徴づけられる海という液体の世界がつづいていたところが、その先からは岩石により特徴づけられる陸という固体の世界がつづいていくことになります。

物理における境界もあります。よく知られているのは、「相」の境界でしょう。おなじ原子からなりたつ物質でも、固体の状態にあったものが温められて融点を超えると液体になります。さらに液体の状態にあったものが温められて沸点を超えると気体になります。これらは「相転移」とよばれます。相転移が起きる融点や沸点が、物理における境界の代表例となります。

時間的な変化における境界でもおなじです。日本における中世と近代の境界では、徳川幕府がおさめていたわりかし平穏な時代がつづいていたところが、その先からは社会、文化、制度を外からとりいれた変化の多い時代がつづいていくことになります。

つまり、境界は、それまで変化のなかった、あるいは変化の乏しかったものごとががらっと変わる、とても動的な「ちがい」が表現されているところといえます。

人の性としては、なにも変わらない状態を観察するよりも、なにかが変わる状況を観察するほうが興味わくのでしょう。さまざまな分野の研究でも、境界を着目したものは尽きません。
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分子どうしの“橋かけ”を触媒が促す

人の暮らす世界では、離ればなれになっているところに橋がかかって、結ばれることがあります。橋がかかることの効果は、かかる前の状況を考えると大きなものがあります。

分子の寸法の世界でも、「橋がかかる」ような現象があり、その効果は大きなもの。

ふたつまたはそれ以上の分子が橋をかけたように結ばれることがあります。これを、その状態のごとく「架橋結合」あるいは「橋かけ結合」といいます。

いくつかの分子による架橋結合を促す触媒として代表的なものが、「トランスグルタミナーゼ」と総称される酵素です。


トランスグルタミナーゼの構造の例
画像作者:Ayacop

トランスグルタミナーゼは、たとえば、アミノ酸のひとつであるグルタミンをもととするグルタミン残基と、おなじくアミノ酸のひとつであるリシンをもととするリシン残基が結合するなかだちをします。

分子どうしに“橋”がかけられるということは、それだけ分子と分子のあいだの物理的な強度が高まるということ。かんたんにいえば、硬くなるわけです。

トランスグルタミナーゼを介した分子どうしの架橋は、血液が固まる反応にかかわったり、皮膚の表面で角質膜がつくられることにかかわったり、さまざまなはたらきをします。

人は、自分たちにとって都合のよい“橋かけ”を促そうと、トランスグルタミナーゼの触媒効果が高まるようにしむけます。逆に都合の悪い“橋かけ”に対しては、トランスグルタミナーゼの触媒効果を抑えるようにしむけます。トランスグルタミナーゼの触媒効果も使いようといったところでしょうか。

参考資料
大辞林第三版「橋架け結合」
https://kotobank.jp/word/橋架け結合-358109
名古屋大学細胞生化学研究室「タンパク質が接着する反応とは?」
http://www.ps.nagoya-u.ac.jp/lab_pages/biochemistry/crosslinking%20reaction.html
伊倉宏司・佐々木隆造「組織型トランスグルタミナーゼの構造と生理機能」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kagakutoseibutsu1962/29/2/29_2_81/_pdf
長谷川豪・斉藤佑尚「トランスグルタミナーゼの多機能性」
http://lifesciencedb.jp/dbsearch/Literature/get_pne_cgpdf.php?year=2004&number=4905&file=ZKtFzCVcAKFa6cMYrKko9Q==

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直感にそぐわず……洗濯表示の印の認知度10パーセント未満


暮らしのなかには、さまざまな「印」があるものです。印の役割のひとつは、ほかの人に必要なことを知らせるというもの。ほかの人だけでなく、自分があとになってから忘れないようにするという役割もありますが。

頻度高く、暮らしのなかでおこなっている家事となれば、その分、それにかかわる印も人びとに定着していると考えられます。しかし、人によっては、それがあることは知っていても、なにを知らせようとしているのかがきちんわからないような印もあるものです。

衣類の洗濯をあまり積極的にしていない人にとっては、洗濯表示の印もそのひとつではないでしょうか。写真のように、衣類から出た布に記されている印です。

洗濯表示の印は大きく「洗濯をする順番」に記されています。

たらいのようなかたちの印は、洗濯機でどう洗えるかを示したもの。また、三角形の印はどのような漂白ができるか。さらに、四角形の印は乾燥のしかたについてのもの。そして、そのつぎのアイロンのかたちの印はアイロン処理のしかたについて。

その先からある円形の印は、専門店が処理するときに参考にする方法。水を使わず、有機溶剤で汚れを落とすドライクリーニングについて、そして、溶剤で衣服をきずつけやすいドライクリーニングを避けて水溶性汚れをとりのぞくウェットクリーニングについて、とつづきます。

ですので、家庭のなかで注意したほうがよいのは、アイロンの印のところまでとなります。

洗濯表示の意味を、見ただけでだいたい理解できるという人は、2017年10月の時点で9.2パーセントほどとのこと。やはり、認知度の低さがあります。2016年12月から日本での洗濯表示が、国際規格(ISO:International Organization for Standardization)とおなじものになってからも、なる前でも、さほど認知度の低さは変わってないようです。

洗濯機を使うのがあたりまえの時代にたらいの印が使われる、漂白のしかたを示すのに漂白と関係なさそうな三角形の印が使われるなど、直感とそぐわない点も、認知度の低さにはかかわっているのではないでしょうか。

参考資料
パナソニック
https://panasonic.jp/wash/special/ehyouji.html
Lidea くらしのアイデア「『変更された洗濯表示』はまるで暗号⁉ 2つのマークの意味がわかれば、洗い方で迷わない!」
https://lidea.today/articles/1004
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概念図、概して複雑な印象をあたえ
公的機関や研究機関などが公表している計画や報告書などには「概念図」などとよばれる図が載っていることがあります。ものごとを説明するとき、ものごとのかかわりあいかたがわかるように描いた図のようなものです。

一般的に、なにかを表現するとき、単純な表現であればあるほど、伝わりやすいとされます。

では、これらの文書に載っている概念図はどうかというと、かなり複雑に感じられるものもあります。

社会には「プロジェクト」と称する事業や研究が多くあるため、ためしに「プロジェクト概念図」と入れてインターネットの画像検索をします。



上位に出てきたのが、このようなものです。ぱっと見たところ、多くの概念図では、文言や矢印などの図を構成する要素が10個以上は使われているようです。「この概念図は単純か、複雑か」と問われれば、つくった人の多くは「単純(につくったつもり)」と言い、見る人の多くは「複雑(すぎて伝わってこない)」と答えるのではないでしょうか。

こうした概念図が、複雑に見えてしまうのはどうしてでしょうか。

ひとつは、こうしたプロジェクトに参加する組織が多かったり、進めかたが複数あったりして、図に盛りこむ要素がそもそも多いということはあるでしょう。

また、図をつくる人にとっては、おいそれと要素を削って単純にすることができない事情もあるかもしれません。単純にするためと、関係性をあらわす矢印を間引いたりしたら「どうしてこの矢印は省かれて、この矢印は残っているのだ」と指摘されるかもしれません。「なるべく情報を省かないほうが無難」という圧がかかり、結果として複雑な印象をあたえる図ができあがってしまうわけです。

なかには、概念図が複雑であればあるほど「優れた図」であると考える人もいるのかもしれません。「このくらい、さまざまな要素を盛りこんでいれば、文書を見てくれる人には立派なプロジェクトであると感じてくれるにちがいない」といった確信をもとに、こうした図をつくる人もなかにはいるのではないでしょうか。
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スマホの“ちら見”で誤解あたえる


とある日本酒の酒蔵に、記者と見習い助手が取材に行きました。社長に、日本酒のつくりかたについて聞くという取材です。

社長は、酒づくりのさまざまな専門用語を出してきます。

「え、酵母かい。うちはキョウカイの1401を使っとるよ」
「昔はヤマハイもやっていたことがあるけれど、いまはね……」
「モロミができるまでは、やっぱりいまもうまくいくかと緊張するね」

記者のほうは、知っている専門用語もあれば、知らない専門用語もありましたが、とりあえず話を聴こうと相づちをうっていました。

いっぽう、見習い助手のほうは、知らない専門用語が多く、出てくるたびに手元にあるスマートフォンのインターネットで、そのことばを調べようとしました。心のなかで「キョウカイって……、ああ、協会酵母っていうのがあるんだな」などとつぶやき、ひとつひとつその場で解決しようとしました。

しばらく取材が続いているうちに、社長が話をふとやめました。

「おい、若ぇの! なにさっきからちらちら画面を見とるんじゃ! こっちは、もう話さなくてもいいんだぞ!」

社長は、酒づくりについて説明しているのに、若いほうの者はスマートフォンのなにかの情報が気になって自分の話を聴かずにいる、と見えたのでしょう。社長は話をする気がなくなり、取材はそこで取りやめとなってしまったとか……。

この見習い助手からしてみれば、自分なりに相手の話にがんばって付いていこうと思ったのでしょう。しかし、なによりまず、話している社長に興味があることを行動で示すべきで、スマートフォンに目をやるのはふさわしい行為ではありませんでした。百歩譲っても「自分はあなたのお話にかかわることをしているのですよ」ということを社長に対して伝えるべきだったのでしょう。

自分のしていることが相手にどう映っているのかを想像するのはむずかしいことです。いえ、そうしたことを想像すらしない場合のほうが多いのでしょう。
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「ガソリンとエンジン」から「電気とモーター」へ、自動車の心臓部も変わりゆく

写真作者:Don O'Brien

自動車が誕生したのは1769年のフランスでとされます。このときの自動車は上記で動くものでしたが、その後、長きにわたり、自動車といえばガソリンを材料にエンジンを動かして走らせるものでありつづけました。

しかし、エンジンを動かして自動車を走らせるといっても、エンジンが動きさえすれば自動車が走るわけではありません。エンジンが生みだした動きをもとにして、最終的には車輪が回らないと、自動車は走らないのです。

そこで、自動車には、エンジンでつくられた回転のエネルギーを効率よく車輪に伝えるしくみが入れられています。その一連のしくみは「パワートレイン」といいます。「力」を意味する“Power”と、「一連」や「列」を意味する“Train”からきているのでしょう。「伝動機構」などともいいます。

一般的にパワートレインにはエンジンがふくまれます。そのほかに、動力の伝達を断続する「クラッチ」、エンジンの回転数を走行に適したものに変える「トランスミッション」、動力を車輪に伝えるための回転軸である「ドライブシャフト」などからなりたちます。まさに、自動車が走るための心臓部となる系が、パワートレインであるといえます。

21世紀に入り、自動車の主流は徐々に、そして確実に、ガソリンを材料にエンジンを動かして走るものから、電気を材料にモーターを動かして走るもの、つまり電気自動車に移りつつあります。

そうなれば、パワートレインの主流についても、ガソリン・エンジンの回転で動くものから、電動モーターの回転で動くものへと、移りゆくことになります。

電気自動車のパワートレインには「インバーター」が含まれます。車が走っているとき、直流の電流を交流に換えてモーターを動かします。また、車が減速するときには、交流の電流を直流に換えてエネルギーをむだなく回収します。

また、モーターの回転数を調整する、ガソリン車でのトランスミッションにあたる役割については、多くの電気自動車では多段変速をしないものが使われています。

ガソリン車から電気自動車へ、自動車の主流が変わるなかで、自動車を走らせるための装置系のしくみやつくりも変わっていくわけです。企業は、それに対応して新たな技術を競って開発し、社会全体としては技術の移りかわりが起きていきます。

参考資料
カーセンサー 自動車なんでも用語集「パワートレイン」
https://www.carsensor.net/contents/terms/category_484/_9630.html
大車林「トランスミッション」
https://www.weblio.jp/content/トランスミッション
日産自動車「e-パワートレイン」
https://www.nissan-global.com/JP/TECHNOLOGY/OVERVIEW/e_powertrain.html
Web Cartop「意外と知らない 電気自動車にトランスミッションがないのはナゼ?」
https://www.webcartop.jp/2016/10/51571
野村ホールディングス 2018年4月25日付「財界観測 自動車パワートレインの電動化」
https://www.nomuraholdings.com/jp/services/zaikai/journal/pdf/w_201804_04.pdf
| - | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0)
観察に観察を重ね「本質」に近づく

写真作者:Andrew Gustar

「ものごとの本質」を見当しなければならないことがあります。とくに、模範をもとに「模倣」をするときには、その模範となるものが、ほかでもなくどうしてそれなのかを見定めることが大切になります。

では、どうしたら倣いたいものごとの「本質」を当てることができるようになるのでしょうか。

その手段のひとつが「観察すること」といえましょう。ものやこと、また現象などを注意深く、全体として把握するおこないを「観察」といいます。注意深く見ていると、その対象物の性質、挙動、傾向、様式などがわかってきます。観察によって得られたそれらの情報は、「ものごとの本質」を当てるために、どれも役立つものとなるでしょう。

ただし、その対象物だけを観察しているかぎりは、まだ、その対象物の「特徴」を言いあてられても、「本質」を言いあてることはできますまい。得られた性質、挙動、傾向、様式が、ほかのものにも当てはまる場合があるからです。たとえば、粉砂糖をずっと観察して「白くて、粒々で、さらさらしている」といったことを得られたとしても、白くて、粒々で、さらさらしているものはほかにもあります。

そこで、観察したものとおなじような特徴をもっているべつのものも観察します。すると「はじめに観察したものはこうだが、つぎに観察したものはこうだ」といったちがいが浮かびあがってきます。たとえば、粉砂糖のほかに、塩も観察してみます。すると、共通する「白くて、粒々で、さらさらしている」といった「特徴」のほか、「粉砂糖にはアリが寄ってくるが、塩にはアリが寄ってこない」といったちがいが見えてきます。

こうした情報から、「粉砂糖には、生きものにとっての栄養がふくまれている」という「本質」が見えてくるわけです。

いまは、探したい情報にたどりつきやすい時代です。「粉砂糖 本質」などと検索すれば、なにかしら出てくるかもしれません。しかし、自分の五感を使って観察して得られた「本質」は、実感をともないます。五感をともなった体験ゆえ、「このものの本質はこういうものだ」と、自分のなかに長くもっておけるようになります。

􏰜􏰝􏰒参考資料
ブリタニカ国際大百科事典「観察」
https://kotobank.jp/word/観察-48788
鈴木宏昭「小学校理科における『観察』指導の特質」
http://www.jsse.jp/~kenkyu/120306.pdf
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
木々の色味は先入観と異なりやすい(3)紅葉編
木々の色味は先入観と異なりやすい(1)森林編
木々の色味は先入観と異なりやすい(2)サクラ編


京都・嵐山の紅葉

秋から冬にかけて、広葉樹が葉を落とす前に、葉が紅くなっていきます。紅葉です。葉と枝をつなぐ部分に離層がつくられ、枝のほうに移動できなくなった糖類がアントシアンという赤い色の物質に変わることで起きると説明されます。

「紅葉」と書いて「もみじ」とも読むため、「紅葉」から「真っ赤に色づいた葉」を思いうかべる人もいることでしょう。そして、葉だけでなく、山全体が赤々と色づくような光景を思う人もいるかもしれません。

しかし、実際の山では、一面がすべて赤や黄などの暖色で染まるということはまずもってありません。

冒頭の写真は、京都の嵯峨界隈から見た嵐山です。真っ赤に染まっているモミジやカエデのような木々があるいっぽうで、なかには色の変わっていない、緑色のままの木々もあります。暖色系のほうが目立つものの、緑色の木々のほうが面積はおなじか広いくらいかもしれません。

この写真も、フォトショップの「モザイク」効果をかけてみると、赤色、橙色、黄色などの暖色系から、ややくすんだ深緑色まで、多様な色模様となりました。


上の嵐山の紅葉の写真に「モザイク」をかけた画像

日本の森林は基本的に、2種類以上の樹木が混ざっている「混交林」です。なかにはスギだけなど1種類のみからなる「純林」とよばれる森林もあるものの、そうした純林のほとんどは紅葉の起きない針葉樹です。

つまり、紅葉の見られる森林では、さまざまな種類の広葉樹や針葉樹が混ざりあっています。樹木の種類がちがうならば、一斉にその山の木々が色づきはじめ、一斉に紅葉が進むということはまずありません。

そのため、紅葉の進む木、それよりも紅葉の遅れる木、さらに紅葉しない木などが入りまじり、写真にあるような小片をはぎあわせたような色模様となるわけです。

さまざまな色のある山の姿を見るのは、単一の色の山の姿を見るよりも、むしろ味わい深さがあるのではないでしょうか。

京都・嵐山の森林は、かつて針葉樹のアカマツ林だったのが、広葉樹のシイ類やカシ類が増え、このような姿になりました。(了)

参考資料
高梨武彦「京都 ・東山およ び嵐山で行った森林に関する意識調査」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssdj/51/3/51_KJ00003300942/_pdf
森林インストラクター・環境カウンセラー 豊島襄の『林住日記』「京都嵐山の植生」
https://forestjo.exblog.jp/14835995/
| - | 21:03 | comments(0) | trackbacks(0)
木々の色味は先入観と異なりやすい(2)サクラ編

木々の色味は先入観と異なりやすい(1)森林編

前もってつくられた固定的な観念を「先入観」といいます。人のもつ先入観は、実際のもののようすとかなり異なっていることがあります。

日本人が好む木々の表情のうち「サクラの色」も、先入観と実際の色がだいぶ異なるものといえるのではないでしょうか。

色の種類のひとつに「桜色」があります。ウィキペディアを見ると、「表示されている色は一例です」としつつ、「シアン0%、マゼンタ5%、イエロー2%、ブラック0%」という色の構成が示されています。これは下の画像のような色です。


「桜色」シアン0%、マゼンタ5%、イエロー2%、ブラック0%

まずこの時点で、「桜色」とよばれる色では、マゼンタが5%、イエローが2%使われているだけで、ほとんど色が使われていないことがわかります。

では、この「桜色」は、実際のサクラの色味を反映しているでしょうか。

日本の代表的なサクラといえばソメイヨシノです。下にある写真のように、ソメイヨシノの並木は、日本人にとって見慣れた風景といえます。


ソメイヨシノの並木

この写真にフォトショップの「モザイク」をかけてみるとどうでしょうか。つぎのようになります。


上のソメイヨシノの並木の写真に「モザイク」をかけた画像

この画像のなかで、わりかし明るめの画素を抜きとって、フォトショップの「スポイト」というツールで、色を抽出してみます。

すると、「シアン19%、マゼンタ20%、イエロー16%、ブラック0%」となっていました。


シアン19%、マゼンタ20%、イエロー16%、ブラック0%

影になっている部分もあるからでしょう、実際のソメイヨシノの写真から抽出した色は、シアンの要素も入っており、冒頭の「桜色」にくらべると、だいぶくすんでいるといえます。

「桜色」と実際のソメイヨシノの写真から抜きとった色にも若干のちがいがあることがわかります。それよりも、大きなところでいえるのは「サクラの色」というのは、基本は無色であり、そこにわずかながらマゼンタなどの色の要素が加わっているくらいのものであるということです。

なお、ソメイヨシノは人が挿し木によって広めたもの、つまりクローンですので遺伝的な特徴はどのソメイヨシノもおなじ。つまり、花びらの色はすべておなじです。また、ソメイヨシノの花を桜色にするのは、アントシアニンという色素によるもので、花が開いた直後よりも散るころのほうが、この色素の量は増えるため、より赤みを帯びるようになります。

もうひとつだけ、日本人が好む木々の表情について、色の分析をしてみます。つづく。

参考資料
ウィキペディア「桜色」
https://ja.wikipedia.org/wiki/桜色
日本植物生理学会 植物Q&A「桜の花の2つの色」
https://jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=2642

| - | 13:09 | comments(0) | trackbacks(0)
木々の色味は先入観と異なりやすい(1)森林編

人は、ふだん見ているものに対して、「これはこういう色」といった先入観をもちがちです。しかし、実際のところは、人のもっている感覚と色がだいぶ異なっていたり、ただたんにその色だけでなりたっていなかったりもします。

自然のものについてはどうでしょうか。自然の風景を撮った写真の解像度をとても粗くしたり、あるいは「フォトショップ」という写真加工ソフトウェアの「ピクセレート」という画像加工項目のうち「モザイク」という効果を使うと、実際の色味を見て確かめることができます。つまり、その自然のものの色味の傾向を抽出して見るわけです。



たとえば、森林。上の写真のような濃い緑色の印象をもつ人は多いことでしょう。

これを、「モザイク」を使って加工するとつぎのような色模様になります。

上の森林の写真を「モザイク」で加工した画像

しかし、この写真に写っている森林はスギ、つまり針葉樹です。日本の森林には、スギやカラマツなどの葉が針のようなかたちをした針葉樹のほか、幅の広い葉をつける広葉樹からなるものもあります。

広葉樹の写真はたとえばつぎのようなもの。はじめの針葉樹の森林にくらべると、だいぶ緑の色が薄いように映ります。

広葉樹林

この写真も「モザイク」にかけてみると、つぎのような色味になります。

上の広葉樹林の写真を「モザイク」で加工した画像

これらの色味を抜きとると、暗めの画素では、「シアン71%、マゼンタ56%、イエロー100%、ブラック20%」といった色の構成となっています。

シアン71%、マゼンタ56%、イエロー100%、ブラック20%

いっぽう、明るめの画素では、「シアン61%、マゼンタ53%、イエロー79%、ブラック7%」といった色の構成も。

シアン61%、マゼンタ53%、イエロー79%、ブラック7%

人が見ている森林の色を分析すると、陽の光に照らされている場合、針葉樹林にしても広葉樹林にしても、脳のなかで想起される色よりだいぶ明るめといえるのではないでしょうか。また、とくに広葉樹林では、陽の反射のしかただけでなく、そこにある木の種類もさまざまとなるため、色の多様性も高まります。

日本人が好む木々の表情について、もうすこし色の分析をしてみます。つづく。

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「カレーうどん香川」の手揉みカレーうどん大辛――カレーまみれのアネクドート(115)



「カレーまみれのアネクドート」では、どちらかというと昔からその街に根づいているようなカレー店を伝えるものが多くありました。

しかし、街ではいまなお「カレーの店」は新しく開いているものです。その店の行く末がどうなっていくのかはまだだれもわかりません。しかし、その店の歴史の初期に客として立ちあうとうのは、どこか誇らしいものでもあります。

千葉県市川市南八幡には、(2018年)9月3日(月)カレーうどん専門店「香川」が開店しました。JR本八幡駅の南口から徒歩3分、街のなかではネオン街といえる通りにあります。もともと医院だった建てものの1階に構えています。

カレーうどんの種類は「手揉みカレーうどん」と「えび天カレーうどん」。それぞれ辛さを普通、中辛、大辛から選べます。冒頭の写真は「手揉み」の大辛。ほかに、上肉カスうどん、肉おでん各種、ごはんなどの品ぞろえです。

カレーライスでなくカレーうどんの店。店主らの「賭けるもの」を感じさせます。ふつう、食べもの屋におけるカレーうどんの位置づけというと、肉うどんや天ぷらうどんなどのさまざまな種類があるなかのひとつとなっているか、定食屋の品のひとつとなっているか。いっぽう、この店では、カレーうどんを前面に出しています。

そのため、食べたら印象に残るようなカレーうどんをめざしたのでしょう。うどんにはめずらしく、ちぢれ麺となっていて、カレー汁とよくからまります。

「大辛」まであるカレーの辛さも特徴的です。「大辛」は、脳を直接的に刺激するような辛さ。そば屋やうどん屋にある、小麦粉でまったり白くしたようなカレー汁とは異なります。具の肉、ねぎ、糸唐辛子は上品です。

開店した時点での営業時間は18時から翌朝5時まで。地元に住む人、働きおえた人、飲みおえた人たちの「夜の胃袋」を、どれだけ満たすことになるでしょうか。

カレーうどん香川の食べログ情報はこちらです。まだ、あまり情報がありませんが。
https://tabelog.com/chiba/A1202/A120202/12045088/

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「いごかす」かつては広い地域で使われていた

写真作者:Nori Norisa

ふだん聞きなれていることばが、ちょっとだけちがうように聞こえると、かえっておかしげ感じるものです。

年配のかたがテレビ番組でこのようなことを言っていました。

「こうやって、からだをいごかしていくでしょ。そうすると筋肉がほぐれてくんの」

「からだをいごかしていく」というのは、おそらく「からだを動かしていく」とおなじ。人の口から「動く」でなく「いごく」と発されると、ふだん「動く」を使っている人は「いごくだって」とおもしろく感じられるわけです。

国語辞典によると「いごく」は「うごく」が音変化したものといいます。音変化とは、ことばの発音が歴史的に変化すること。動物の「きつね」が一部の地域で「けつね」とよばれるようになるようなものです。

「いごく」は「うごく」が音変化したものなのだから、もともとは「動く」だったわけです。ですので「うごく」のほうが、使われることばとしては本流と考えられます。

ところが、インターネット上では「うちの地域では『いごく』を使っている」という声が、いろいろな地域であがっています。「発言小町」という質問サイトでは「『いごく』はどれぐらい使われているのか」という質問に、さまざまな答が寄せられています。

「愛媛在住、50代半ばです。『いごく』は日常会話でよく使います」

「長崎の者です。長崎では昔から『いごく』といいますね」

「そういえば、実家の父親[70代]と話してると いごく いごいたぞぉ! 有りますねぇ 普通に聞いてました。ちなみに、三重県です」

関東に住んでいる人は、「地方では『いごく』ってけっこう使われているんだな」と思うかもしれません。ところが、関東に住んでいる人も「いごく」を使うと発言しています。

「当方群馬県出身です。子供の頃、親たちや周りの人間は、動く→いごく と言っていました」

「親子代々五代横浜産まれ横浜育ちの主人の実家。みんな『いごく』なんです」

横浜でも使われているとなると、「うごく」を使っているのはむしろ傍流とさえ感じられるでしょうか。

発言のなかで見られるのは、年配の人が「いごく」を使っている、または使っていた、というものです。

日本の広い地域で、かつ、年配の方が「いごく」を使っているとなると、「うごく」の「いごく」への音変化は、地域的に広がったのもさることながら、時代的に「いごく」が広まっていった時期がありそうです。しかし、いまの10歳代や20歳代は、だれかが「からだをいごかしていくでしょ」と言っているのを「『いごく』だって。おかしい」と感じるのではないでしょうか。

すると、もともとの「うごく」だったのが、ある時代だけ「いごく」が広く使われるようになり、そしてまただれもが「うごく」を使うようになってきたと捉えることができるのかもしれません。

参考資料
デジタル大辞泉「いごく」
https://kotobank.jp/word/動く-431712
発言小町「いごく」
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2010/0814/338934.htm
ウィキペディア「近畿方言」
https://ja.wikipedia.org/wiki/近畿方言
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
大停電、太陽光給電は伝わるが、自動車給電は伝わらず


きょう(2018年)9月6日(木)未明に北海道で起きた大地震により、道内すべての地域で停電が生じました。広い地域で停電は終日つづきました。あす7日(金)朝までに全体の3分の1にあたる100万世帯への供給再開がめざされていると伝えられます。

北海道ほどの広い地域で電気を1日以上にわたり使えなくなるという事態はこれまであったでしょうか。2011年3月の東日本巨大地震のときの広域停電につづき、人びとの暮らしは電気でなりたっているということを多くの人に感じさせるような大停電となってしまいました。

このたびの停電を機に、「自分で電気をつくる」ことや「自分で電気を保っておく」ことの有用さ、また課題などが、これから多く話題になっていくことでしょう。

自分の家で太陽光発電をしている人の多くは、停電のときも自分の家に電気を使うことができます。資源エネルギー庁は「停電時の自宅用太陽光発電パネルの自立運転機能について」という案内を緊急で出しました。ふだん太陽光発電装置でつくられた電気は電力会社に売られるしくみになっていますが、「自立運転モード」に切りかえて、自立運転用コンセントに必要な機器をつなぐことで、機器を使えるようになります。

実際に北海道で停電に遭った人から、ツイッターに「太陽光発電あってよかった。とりあえず、自立運転モードにしてタブレット充電しておこう」「あってよかった、太陽光発電。自立運転で電力を冷蔵庫へ」などといった投稿がされています。

車を走らせるときに電気を使う、電気自動車やハイブリッド車も、「停電のとき役に立つ」といわれてきました。停電のとき、車に貯まっている電気を家で必要な電気として使えるというわけです。

日本自動車連盟は2018年2月、「車からの電源供給」についての試験をおこないました。電気自動車、プラグインハイブリッド車、ハイブリッド車、一般的な車の4台について、どんな家庭電化製品をどのくらい使うことができるか試したのです。

「どんな家電製品を使えるか」については、電気自動車、プラグインハイブリッド車、ハイブリッド車で、1350ワットという高い電力を使うホットプレートまで使えたとのこと。一般の車では、直流を交流に換えるインバーターを介せば100ワットのランプを使えるものの、800ワットの電気ストーブになると短時間でバッテリーが上がるおそれありとなりました。むしろ、インバーターがあれば一般の車でもスマートホンの充電や、ランプの点灯などはできるということが強調されるべきかもしれませんが。

「どのくらい使うことができるか」については、一般的な車以外の車で、1250ワット1.2リットルの電気ポットでお湯を何回わかせるか試しました。ハイブリッド車では1回、プラグインハイブリッド車では27回、電気自動車ではすくなくとも30回は使えるという結果になりました。電気自動車には30回わかしたあとでも、バッテリー残量は12分の7あったとのこと。ということは2倍の60回以上お湯をわかせそうです。

ただし、今回の大停電では、電気自動車やプラグインハイブリッド車を使って難をしのいでいるという情報発信はなかなか見あたりません。そもそも北海道では電気自動車やプラグインハイブリッド車の普及率は低いとされます。広い北海道を長く走るという点では、一般の車のほうが向いていると考えられているのかもしれません。

とはいえ、電気自動車やプラグインハイブリッド車をもっている北海道民は皆無ではありますまい。これらの車をつくって売っている企業は、これらの車から給電できることやその方法また注意点などを、ウェブサイト冒頭などであらためて言及してもよいのではないでしょうか。6日23時の時点で、各社のウェブサイト冒頭に、そうした言及は見られません。

いまも、自分の車から給電するための情報をスマートフォンなどで得ようとしている人がいる可能性はあります。そうした情報の発信は、被災していない人たちにも「電気自動車から給電できる」ということが伝わる機会になります。

参考資料
読売新聞 2018年9月6日付「北海道全世帯停電、7日朝までに3分の1供給へ」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180906-00050097-yom-bus_all
資源エネルギー庁 2018年9月6日付「停電時の住宅用太陽光発電パネルの自立運転機能について」
http://www.enecho.meti.go.jp/category/saving_and_new/saiene/kaitori/dl/announce/20180906.pdf
違う見方 2018年9月16日付「北海道地震がキッカケで考えた、災害時の太陽光発電について!」
https://www.chigau-mikata.club/entry/2018/09/06/115938
日本自動車連盟「災害時に車からの電源供給」
http://www.jaf.or.jp/eco-safety/safety/usertest/disaster/detail1.htm
| - | 23:23 | comments(0) | trackbacks(0)
工学で「どうやって」でなく「なんで」を研究する

写真作者:Lenny K Photography

工学というものは、知られていることを活かして、もののつくりかたを探る学問です。工学の知識や考えかたを使って、より多くのものを、より効率よくつくるわけです。

こうしたことから、工学の分野では昔から「どうやってつくるか」が考えられ、探られてきました。

たとえば、米国の工学者だったアラン・モーゲンセン(1901-1989)は1930年ごろ
「作業研究」の大切さを説きました。作業のしかたを測るなどして、ものをつくるときの作業をできるだけ効率よくするための研究です。

また、米国の工学者だったハロルド・メイナード(1902-1975)は1939年「メソッド・エンジニアリング」という研究分野を唱えました。ものづくりをするうえでふさわしい生産量や在庫量、また品質や費用などを保つためにどのような作業をすればよいか分析し、設計するような研究です。作業研究とほぼおなじともいわれます。

こうして「どうやってつくるか」という「手段」あるいは「方法」に目が向けられていくいっぽうで、その後「なぜつくるのか」という「目的」にも目を向けるべきだという考えかたが出てきました。そして「なぜつくるのか」を、工学の知識や考えかたをとりいれて研究する「目的工学」とよばれる分野が新たに立ちあげられたといいます。

「目的工学」を唱える多摩大学大学院教授の紺野登さんは、「目的工学とは、思いをもって事を成し遂げようとする当事者間による、相互作用的な目的群の組織的調整」と述べています。

組織がなにかをなしとげようとするときには、組織としての大きな目的もあれば、その目的をミッションとして具体化した中くらいの目的もあります。また、その組織に参加する人びとがそれぞれにもつ小さな目的もあります。これらのいろいろな種類の目的を「目的群」とよび、目的群をうまく調整していくことで組織がうまくまわるようにしようとするもののようです。

いろいろな目的をどう統合させて、大きな目的をかなえていくかに重きが置かれています。その背景には、あるひとつのものづくりに、より多くの人が携わるようになったということがあるのでしょう。

人は作業をつづけているうちに、「なぜそれをするのか」「なぜそれをつくるのか」といった目的を忘れがちなもの。目的の見えない作業がまったく価値のないものであるかについては議論の余地はあるでしょうが、すくなくとも目的が明確になっているほうが、総じて作業もはかどるでしょうし、作業者のやりがいも大きくなることでしょう。

「目的工学」は、手段はそろっていても目的が混乱しているといった社会のありかたに石を投じるものといえそうです。

参考資料
ウィキペディア「方法研究」
https://ja.wikipedia.org/wiki/作業研究
日本大百科全書「メソッド・エンジニアリング」
https://kotobank.jp/word/メソッド・エンジニアリング-141374
紺野登「イノベーションのためのデザイン思考と目的工学」
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu20/siryo/__icsFiles/afieldfile/2013/09/11/1338420_02.pdf
Biz Zine 2015年6月19日付「イノベーションが“日常”になる時代の『目的工学』とは? 第2回」
https://bizzine.jp/article/detail/836
| - | 16:35 | comments(0) | trackbacks(0)
確率に「客観のもの」と「主観のもの」

写真作者:Yortw

ひとつのことがらの起こりうる確からしさの度合のことを「確率」といいます。たとえば2016年の時点で日本人男性ががんで死亡する確率は25パーセント、つまり「0.25」とされていますし、あす石川県の金沢で1ミリ以上の雨の降る確率は100パーセント、つまり「1」とされています。

確率は、数値で表されるため「まずもって客観的なもの」という印象をあたえます。しかし、確率の計算をするのは人間であり、人間が確率を求めるための数値をこしらえるときには主観も入りうるものです。

そこで、確率は「客観的に定義できる確率」と「主観の要素がふくまれる確率」に分けられるという考えかたが出てきました。

人間の主観とは独立して生じることがらの確率を「客観確率」といいます。

たとえば、硬貨を真上に飛ばす機械を使って硬貨を飛ばし、地面に落ちたとき表が出る確率と裏が出る確率を求めていったとします。1000回、試したら表が出た回数は510回、裏が出た回数は490回だったとします。これを無限回、試したとしたら、表が出る回数は2回に1回の頻度、裏が出る回数は2回に1回の頻度なるでしょう。こうして求められる硬貨の表(または裏)が出る確率「0.5」は、客観確率とされます。

いっぽう、人間がもつ主観を混ぜて評価した確率を「主観確率」といいます。これは「人間が考える主観的な信念あるいは信頼の度合」などとも説明されます。

たとえば、人びとに「飛ばされた硬貨が落ちたとき表が出る確率はどのくらいか」と聞いたとします。聞かれた人は「硬貨には表と裏があるんでしょ。何度も硬貨を飛ばしたら、表も裏もおなじように出るだろうから、表の出る確率は50パーセントつまり『0.5』だよ」と答えるでしょう。ところが、べつの聞かれた人は「ぼくが硬貨投げするとき、けっこう表のほうがよく出るんだよね。僕の経験からすると、表が出る確率は僕がからめば51パーセントつまり『0.52』だと思うよ」と答えるかもしれません。

この場合の「0.5」にしても「0.52」にしても、いずれも人が考えた末に導きだした確率です。この場合の「0.5」や「0.52」は、主観確率とされます。

冒頭の「2016年の時点で日本人男性ががんで死亡する確率は0.25」というのは、がんが原因で死亡した人の数という数えられる数と、日本の人口という数えられる数から割りだしたものです。この確率は、評価する人の個人によらずに求められる確率とみなせるため、客観判断か主観判断かといえば、客観確率であると考えることができます。ただし、なにをもって客観的あるいは主観的とするかの判断は人により異なるため、この確率を主観の混ざったものと考える人もいるかもしれませんが。

いっぽう「あす石川県の金沢で1ミリ以上の雨の降る確率は1」というのは、計算に使うコンピュータの種類や予報官の判断によってちがう確率になる場合もあるため、客観判断か主観判断かといえば、明らかに主観判断です。

参考資料
国立がん研究センターがん情報サービス「最新がん統計」
https://ganjoho.jp/reg_stat/statistics/stat/summary.html
世界大百科事典第2版「主観確率」
https://kotobank.jp/word/主観確率-1173775
塩田圭「ベイズ入門」
https://www.slideshare.net/zansa/ss-12672841
篠原拓也「主観確率の大きさはどれぐらいか−その出来事は、本当に奇跡的と言えるか?」
http://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=51931?site=nli
​ウィキペディア「主観確率」
https://ja.wikipedia.org/wiki/主観確率

| - | 20:33 | comments(0) | trackbacks(0)
昭和の実業家「得手に帆を揚げる」ような職場をよしとす

葛飾北斎「富嶽三十六景 上総ノ海路」

「得手に帆を揚げる」ということわざがあります。「江戸いろはがるた」にも「得手に帆を揚ぐ」などと出ています。

得手とは、「もっとも得意とすること」「もっとも得意とする技」の意味。そうした得手にある状態のときに、「帆を揚げる」つまり、帆船を前に進めるというわけです。こうしたことから、「得手に帆を揚げる」は「自分の得意なことを発揮するよい機会を得て勇んでする」といった意味のことわざとされます。

にたことわざには「追風(おいて)に帆を上げる」があります。ここでは、帆を揚げるのは「得手」でなく「追風」が使われています。「追風に」となると、帆を揚げるというおこないを得意としているというより、どちらかというと帆を揚げるにふさわしい条件が整っているという点に重きが置かれます。

「得手に帆を揚げる」ということばにゆかりのある人物のひとりが、実業家で本田技研工業を創業した本田宗一郎(1906-1991)です。『得手に帆あげて』という書名の著書を1962年に初めて著しました。以後もおなじ書名の著書が8度、出版されています。

本田が述べているのは、職場に滅私奉公のようなつもりできている人と、自分の生活をエンジョイするために真剣にはたらく人はちがうはずであり、後者のほうが仕事に打ちこめるといったことです。

では、企業が、自分の生活をエンジョイするために真剣にはたらく人たちで満たすにはどうすればよいか。本田はつぎのように述べています。

「一人ひとりが、自分の得手不得手を包み隠さず、ハッキリ表明する。石は石でいいんですよ、ダイヤはダイヤでいいんですよ。そして、監督者は部下の得意なものを早くつかんで、伸ばしてやる。適材適所へ配置してやる」

社員あるいは従業員のみなが、不得手でなく、得手なことを伸ばせるように監督者がしむければ、みんなが楽しい人生を送れる、といったことを述べているわけです。得手を発揮する船乗りたちによって帆が揚がり進んでいく船を、企業の姿と合わせていたのでしょう。

「得手に帆を揚げる」ということばそのものは状況を描いたようなものであり、教訓としての要素はありません。しかし、このことばを受けとめた本田は、「得手に帆を揚げる」を体現するような職場をつくるべきだと考えたわけです。

参考資料
大辞林 第三版「得手に帆を揚げる」
https://kotobank.jp/word/得手に帆を揚げる-445504
デジタル大辞泉「追風に帆を上げる」
https://kotobank.jp/word/追風に帆を上げる-448518
庄村長「本田宗一郎の経営論研究所説」
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180903222420.pdf?id=ART0007575603
Honda Cafe「得手に帆を上げ」
https://www.honda-cafe.jp/本田宗一郎ミュージアム/top-talks/得手に帆を上げ/
| - | 22:54 | comments(0) | trackbacks(0)
「花総線」「淀川製鋼線」……送電線にもよび名
街なかには、電気を送るための送電鉄塔が建っています。大きな割には、街の風景になじんでいて、あまり目立たない存在かもしれません。それでも鉄塔の下に立てば、鉄塔の大きさや高さを実感できます。

送電線の地上から2、3メートルのところには、板がかかっています。そして、そこにはさほど見たり聞いたりしない「線」の名前が記されてあります。



たとえば、東京電力グループが管理している送電線のひとつ「花総線」。これは、東京・加平にある花畑変電所と、千葉県船橋市海神町南にある下総変電所のあいだを結ぶもの。「花畑」と「下総」から「花総線」と名づけられたことが容易に想像されます。

東京電力は、一部の送電路のよび名を、「系統図」とよばれる送電線路の地図に載せています。都内では、たとえば、八重洲変電所と江東変電所を結ぶ「八重洲線」や、常盤橋変電所と城南変電所を結ぶ「常盤橋線」、また城南変電所と角筈変電所を結ぶ「城南角筈線」など。これらは500キロボルト、275キロボルトよりも小さい、154キロボルトという電圧の送電線とのこと。

たいてい、このようになにかしらの地名や地名の一部を使った送電路のよび名が多いようです。しかし、なかには、このようなよび名も見かけます。



「淀川製鋼線」。淀川製鋼といえば「ヨドコウ」の愛称で知られる鋼板、また物置や屋根などを製造する企業。本社は大阪市にありますが、東京電力管内の千葉県市川市内に、写真の「淀川製鋼線」はあります。東京湾にほど近い高谷新町という工場地帯に表面処理鋼板の製造を担う市川工場があり、この工場に電気を供給するための送電路のようです。

特定の企業に向けて電気を送る場合は、地名よりもその企業の名を送電路のよび名につけるほうが便利だし、困ることもすくないといったところでしょうか。

森羅万象のものにはなにがしかのよび名はあるもの。まして、いろいろな種類があって区別する必要のあるものでは、よび名をつけることは重要となります。当然、送電路にもよび名がつくわけです。電気の使い手がそのよび名を意識することはめったにありませんが。

参考資料
東京電力パワーグリッド「電力系統図」
http://www.tepco.co.jp/pg/consignment2/power_grid.html
2010.11.27鉄塔ウォーク「花総線・亀戸線・小松川線 異常接近地帯」
http://ks22.com/sarumaruimg/tetto_walk2010.pdf
淀川製鋼「事業所一覧」
http://www.yodoko.co.jp/company/branch/index.html
鉄塔中毒「淀川製鋼線訪問」
http://tamunosoumenblog.blog35.fc2.com/blog-entry-297.html
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
口頭の指示代名詞を口頭で補う

写真作者:Masa Israel Journey

人は話をするとき指示代名詞をよく使うものです。「こっちの写真のほうが見栄えはいいよね」「その案のほうでやってみましょうか」といった具合に。いちいち「DFC0034のファイルの写真のほうが見栄えはいいよね」とか「山本くんが提案したなかのC案のほうでやってみましょうか」とか言っていては話がなかなか前に進みません。指示代名詞は便利でもあり、必然的に出てくるものでもあるのでしょう。

便利で必然的でありながらも、もの書きが人に話を聞く取材の場での指示代名詞は、けっこう厄介なものになります。

取材対象者が親切に、紙の資料を用意して、グラフを示しながら説明をします。もの書きは取材対象者の説明を理解しようとします。

「被験者群と対照群の実験結果を表したのがこのグラフになります。こっちのほうが有意に影響が出ているのことがわかりますね」
「はい、たしかにそうですね」

「じゃあ、これらの変数を、今度はこっちの変数に変えておなじ実験をしたんです。すると、こっちのほうが有意に影響が出ました」
「ああ、そうなったのですね」

「あと、これについてはこっちのほうでやってみました」
「そうですか」

後日、もの書きは、取材のときの録音を聞きかえしながら、取材対象者の話を文字起こしします。ところが、音声情報だけなので、「こっちのほう」「こっちの変数」「こっちのほう」「これについて」「こっちのほう」といったことばの指示代名詞が、なにを指しているのかわからないところが多く、混乱してしまったのです。こうなると、前後の話の内容から察するか、取材対象者にあらためて確認するか、なんらかの対処が必要となります。

かといって、取材を始める前に「今回の取材では音声のみ記録させてもらいますので、『これ』とか『こっちのほう』とか、指示代名詞はなるべく言わないでくださいね」とは言えません。「なんだこの記者は」と身構えられるし、そもそもこうした注文は礼を欠くものです。

そのため、話のなかで絵指示代名詞が出てくる弊害を承知しているもの書きは、取材対象者が指示代名詞をもち出したとき、さりげなくみずからの口で補うといいます。

「こっちのほうが有意に影響が出ているのことがわかりますね」
「はい、たしかに被験者のほうがそうなっていますね」

「じゃあ、これらの変数を、今度はこっちの変数に変えておなじ実験をしたんです」
「左のを右のに変えたと」
「うん。すると、こっちのほうが有意に影響が出ました」
「ほぉ、対照群のほうにですか」

「あと、これについてはこっちのほうでやってみました」
「はぁ、132ページのは上のやりかたで、と」

このように取材対象者が口にする指示代名詞を、もの書きが具体的なことばにして補うことで、音声起こしのときの混乱を避けることができるというわけです。

ことばの補いはすばやくおこなうことが必要になりますが、取材対象者にとっては「自分が話した内容についていってくれている」という印象をあたえるでしょうから、さほど違和感のあるものにはならないようです。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
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