科学技術のアネクドート

「トリッピン・スパイス」の羊牛豚ミックスキーマカレー――カレーまみれのアネクドート(109)



名古屋市は人口230万の大都市。味噌を基本とした各種「名古屋めし」が浸透しているからといって、カレー店が栄えていないはずがありません。カレーうどんは「名古屋めし」の部類に入るとされますが、カレーとライスの組みあわせについては、やはり「カレー」としての認識が強いのではないでしょうか。

東区泉、名古屋高速道路のジャンクションを背に、ビルの半地下に降りていくと、「トリッピン・スパイス」というカレー店があります。2016年10月に開店したという、まだ新しい店。

情報によると、店主は世界50か国を旅したとのこと。さまざまな旅先の地で、カレーの研究を重ねたのでしょう。インドカレーのみならず、タイ、ベトナム、シンガポール、日本などを想起させる各種カレーをつくる能力をもっていることが、カレーのメニューからうかがえます。

香辛料を効かせたカレーを出す個人経営店は、たいてい店主が海外でカレーの研究をして、その成果を発揮するもの。ただし、そのカレーは、インドならインドといった具合に国がかぎられるもの。一国のカレーに集中して研究をすれば、そうなるのも必然的です。

そうした点で、「トリッピン・スパイス」のように、個人経営の一店でさまざまな国を想起できるカレーを選んで食べられるというのは、なかなか貴重な存在ではないでしょうか。

写真は、「羊牛豚ミックスキーマカレー」。ウコンで染めたライスの上に、羊、牛、豚の合ひき肉を和えたであろうカレーソースが乗っかっています。そのソースのなかには、香辛料の粒も。そして頂には緑の葉ものが。ライスのまわりには、唐辛子粉がほんのり。蓮根揚げと漬物も添えられています。

客がすくない時間帯とはいえ、注文してから出てくるまでわずか数分。この日のカレーの種類は、この羊牛豚ミックスキーマカレーをふくめ6種類。カレーの種類は日によって変わっていくといいます。

これだけの凝ったカレーを1日に複数種類、お客のために揃えられるとは……。きっと毎日が楽しいことでしょう……。

「トリッピン・スパイス」の公式フェイスブックはこちらのようです。
https://www.facebook.com/Trippin-Spice-539361992916110/
食べログ情報はこちらです。
https://tabelog.com/aichi/A2301/A230104/23061892/

参考資料
ちょい飲みしながらKenKenPa!2016年10月26日付「Trippin Spice:世界50カ国を旅したオーナーのこだわりカレー」
http://kenshinsakae.blog.fc2.com/blog-entry-116.html

| - | 22:58 | comments(0) | trackbacks(0)
1975年開発の検査法で認知症を診断
ほかの病気についてもいえることではありますが、認知機能が落ちているかどうかの診断は、結果次第で治療を始めるかどうかが決まることであり、また、本人の精神的な負担もあることから、重視されるべきものといえます。

そこで、認知症を診療する医療機関では、信頼性のある検査法にのっとって、認知症のおそれがある人を検査していきます。

多くの医療機関で採用している認知症の診断法のひとつが、「ミニメンタルステート検査」(MMSE:Mini Mental State Examination)とよばれるもの。1975年、米国のマーシャル・フォルスタインとスーザン・フォルスタインの夫妻らが開発しました。

実際の検査では医師などの実施者がつぎのような質問を対象者にします。
_____

1 日時(5点)
・今年は何年ですか。
・いまの季節は何ですか。
・今日は何曜日ですか。
・今日は何月何日ですか。

2 現在地(5点)
・ここは、何県ですか。
・ここは何市ですか。
・ここは何病院ですか。
・ここは何階ですか。
・ここは何地方ですか。

3 記憶(3点)
・相互に無関係な物品名を3個聞かせ、それをそのまま復唱させる。1個答えられるごとに1点。すべて言えなければ6回まで繰り返す。

4 7シリーズ(5点)
・100から順に7を引いていく。5回できれば5点。間違えた時点で打ち切り。
・あるいは「フジノヤマ」を逆唱させる。

5 想起(3点)
・3で示した物品名を再度復唱させる。

6 呼称(2点)
・時計と鉛筆を順に見せて、名称を答えさせる。

7 読字(1点)
・次の文章を繰り返す。「みんなで、力を合わせて綱を引きます」

8 言語理解(3点)
・次の3つの命令を口頭で伝え、すべて聞き終わってから実行する
「右手にこの紙を持ってください」
「それを半分に折りたたんでください」
「机の上に置いてください」

9 文章理解(1点)
・次の文章を読んで実行する。「目を閉じなさい」

10 文章構成(1点)
・何か文章を書いてください。

11 図形把握(1点)
・次の図形を書き写してください。

_____

これらの質問に対して、正解すれば上のかっこ内にある得点が加えられます。そして、30点満点中、24点以上であれば「正常」、20点未満だと「中等度の知能低下」、10点未満だと「高度な認知低下」と判断されます。

医師などの実施者は、質問内容を改変しない、相手に不安をあたえる「テスト」や「検査」などのことばを使わない、ヒントをあたえない、など、客観的に評価するための態度が求められます。

参考資料
ウィキペディア「ミニメンタルステート検査」
https://ja.wikipedia.org/wiki/ミニメンタルステート検査
介護百科ドットコム「これだけは押える! MMSE:認知症テストの基礎知識」
http://kaigo.moo.jp/page056.html
| - | 12:23 | comments(0) | trackbacks(0)
「EPAやDHAが……」はまぁにているから
食べものの成分に関心のある人であれば、「EPAやDHA」と聞けば、だいたいの人が「知っている」または「聞いたことはある」となりそうです。

「EPA」とよばれるのは「エイコサペンタエン酸」という物質のことで、“EicosaPentaenoic Acid”の頭文字などをとったもの。また「DHA」とよばれるのは「ドコサヘキサエン酸」のという物質のことで、“Docosahexaenoic Acid”の頭文字などをとったもの。ともに、イワシやサバなどの魚に多くふくまれる成分とされます。

では、どうして「EPAやDHAが……」といったように、このふたつの物質はおなじ並びで語られることが多いのでしょうか。「どこさ」と「いこさ」で語呂がいいといったことではまさかありますまい。

エイコサペンタエン酸は、炭素原子20個、水素原子30個、酸素原子2個からなりたっています。いっぽう、ドコサヘキサエン酸は、炭素原子22個、水素原子32個、そして酸素原子2個からなりたっています。エイコサペンタエン酸のほうが水素原子は2個、また炭素原子は2個多いわけです。


エイコサペンタエン酸とドコサヘキサエン酸の化学構造

原子の数や、構造がにていることから推測できるように、このふたつの物質はちょっとした化学変化により、エイコサペンタエン酸からドコサヘキサエン酸になったり、ドコサヘキサエン酸からエイコサペンタエン酸になったりするのです。

これらふたつの物質は「オメガ3脂肪酸」とよばれる系列にふくまれています。オメガ3脂肪酸とは、脂肪酸の一種。脂肪酸とは、脂肪を構成するおもな物質です。「オメガ3」とつくのは、脂肪酸の分子のメチル末端とよばれる端っこから数えて3番目の結合のところに「炭素と炭素の二重結合」という特徴的な結びつきをもっているからです。

オメガ3脂肪酸は、はじめの段階として「アルファリノレン酸」という物質から始まり、代謝によって「ステアリドン酸」さらに代謝によって「エイコサテトラエン酸」となります。さらに代謝が進むと「エイコサペンタエン酸」となり、さらに進んで「ドコサペンタエン酸」(DPA:DocosaPetaenoic Acid)に、さらに進んで「ドコサヘキサエン酸」となります。

また、エイコサペンタエン酸とドコサヘキサエン酸では、逆方向の化学変化も可能で、ドコサヘキサエン酸からドコサペンタエン酸を経て、エイコサペンタエン酸にもなります。

さらに、エイコサペンタエン酸から、ドコサペンタエン酸を経ずにドコサヘキサエン酸になるという、もうひとつの経路もあるとされます。この経路は「シュプレッヒャーの側路」などとよばれています。

かいつまんでいえば、「EPAやDHAが……」のように一括りで語られるのは、基本的な構造がオメガ3脂肪酸でおなじであり、よって魚などから摂取したときの人体への作用もにかよっており、代謝でおたがいがおたがいになりやすいといったものだからと考えられます。

参考資料
ウィキペディア「ω-3脂肪酸」
https://ja.wikipedia.org/wiki/Ω-3脂肪酸
ウィキペディア「エイコサペンタエン酸」
https://ja.wikipedia.org/wiki/エイコサペンタエン酸
ウィキペディア「ドコサヘキサエン酸」
https://ja.wikipedia.org/wiki/ドコサヘキサエン酸
| - | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0)
「穴の向こう側まで見えるちくわ」の写真がなかなか見あたらない
いろいろな材料を集めて記事をつくる人を「編集者」といいます。材料のひとつとして写真を記事に載せることが効果的だと考えれば、編集者はその写真を探します。

ある編集者は、とある特定の条件を満たす写真がないかと、インターネット上の写真提供サービス業のサイトなどを探していったといいます。ところが、さまざまなサイトをくまなく見ていっても、どうしてもその「とある条件を満たす写真」を見つけられないというのです。この編集者はつぎのように言います。

「私が手に入れたい写真は、“穴の向こう側が見えているちくわ”の写真でした。ところが、探しても探しても見つからないのです……」

ちくわは、すりつぶした魚肉を棒に巻きつけて、焼いてつくる食品です。魚肉に棒が貫かれるので、必然的に穴があることになります。ですので、写真
にうつっているちくわのすべてに貫通穴があるはずです。

「ところが、探しても探しても、穴の向こう側までは見えない写真ばかりなのです。これはほんとう、どうしたことなのでしょうか……」

ためしにインターネットの画像検索で「"ちくわ"」と入れると、ずらっとちくわの写真が並んで出ますが、たしかに穴の向こう側が写っている写真はなかなか見あたりません。薄く輪切りにしたちくわのかけらの写真で、ようやく穴の向こう側が見えるくらいのものです。

「"ちくわ"」の画像検索結果。

では、おなじく「"ちくわ" "穴"」と入れるとどうでしょう。ようやく、ちくわの断面を正面に撮影し、穴の向こう側が写っているような写真がちらほら見られるようになりました。


「"ちくわ" "穴"」の画像検索結果。4番目に該当する写真が。

「穴があるからこそちくわなのに、その穴の向こう側まで見えている写真がほとんど見つからないとは……。これは、社会の盲点といってもよいのではないでしょうかぁ !!」

「社会の盲点」を発見したことに、この編集者はむしろうれしそうです……。

どうして、ちくわの写真では、穴の向こう側が見えないものがほとんどなのでしょうか。おそらく、ちくわを撮る人は、ちくわをちくわらしく撮るための角度を、撮るときに自然と定めるのでしょう。その角度は「斜めから」というもの。よって、穴の入口は見えても、穴の向こう側までは見えない写真ばかりが世の中に出まわるのでしょう。

ところで、この編集者はどうして、「穴の向こう側まで見えるちくわの写真」を必要としたのでしょうか。

「原稿を書いてもらったライターさんが、ヒトの体は口から肛門まで、ちくわのように空洞が貫かれている、といった説明をしていて、ぜひそのイメージを写真で示したかったんですよ」

結局、写真提供サービス業のサイトで見つからなかったため、この編集者は“自撮り”をするかどうか検討しているようです。そんなにその記事にとって必要なものなのでしょうか。

もし、近々、穴の向こう側まで見えるちくわの写真がインターネット上に加わったとしたら、それは、その編集者が自分で撮ったものである可能性があります。
| - | 20:32 | comments(0) | trackbacks(0)
勝てば勝ちと評価され、負けても負けと評価されず



大相撲の平成30年五月場所は、27日(日)が千秋楽。横綱の鶴竜の優勝や、関脇の栃ノ心の大関昇進を確定的にする準優勝などでわきました。

いっぽうで、十両の取りくみでは、元大関の照ノ富士が、東幕下筆頭の天風に破れるなどし、幕下への陥落が確実な状況となっています。

十両の力士と幕下の力士が勝負するのはよくあること。たとえば、十両の力士の一人が休場して人数が奇数となれば、必然的に十両より下の幕下の力士か、あるいは十両より上の前頭の力士と対戦する力士が出てきます。十両と幕下の勝負では、十両で番付の低い力士と、幕下で番付の高い力士が、十両の取りくみで戦います。

幕の内や十両が一場所で15番、取りくむのと、幕下以下の力士は7番しか取りくみません。しかし、やはり計算上、どうしても「全力士がすべて7番を取りくむ」ということができなくなる場合があります。

その場合、幕下以下の力士が、一場所で7番でなく、8番、取りくむことになります。これは「八番相撲」とよばれるもの。

27日(日)の照ノ富士と天風の対戦では、幕下東筆頭の天風が「八番相撲」に取りくむこととなりました。対戦力士が元大関というのは「八番相撲」が組まれたこととは関係ないでしょうが。

通常、幕下力士は一場所で7番しか取りくまないところ、「八番相撲」を取りくむ力士は当然、8番、取りくむことになります。すると、成績はどうなるのでしょう。

その力士が8番、取りくんだのは事実ですから、2勝6敗とか、3勝5敗とか、合計8番での成績となります。天風も五月場所では、1勝6敗で照ノ富士と対戦し、勝ったため、2勝6敗でした。

いっぽうで、勝ち星の負け星の数の評価については、これとは異なってくるようです。つまり、ほかの力士とおなじく「7番、取りくんだ」という前提で均すようです。

では、「八番相撲」をとった力士の成績の評価をどうするのか。これについては、もし「八番相撲」をとった力士が勝てば、勝ち星がひとつ増えたことにし、負けても、負け星はひとつ増えないことにする、といった規定があります。勝った場合は有利にはたらき、負けた場合は不利にはたらかない、というわけです。そのため、勝った一番は「勝ち得」、負けた一番は「負け得」とよばれます。

よって、天風の場合では、成績は2勝6敗、評価の点では2勝5敗の扱いということになるわけです。

十両力士との「八番相撲」に選ばれる力士は、幕下上位であり、かつ、負けが混んでいる力士からの場合が多いとされます。もし、幕下上位で、かつ勝ち星が多い力士が選ばれると、来場所の十両昇進に大きな影響が及ぶためとされます。実際、幕下筆頭にはもう一人、西方に千代の海がいましたが、成績は4勝3敗。

4勝3敗の力士を取りくませるより、1勝6敗の力士を取りくませるほうが、“無難”といったところでしょうか。

参考資料
日本相撲協会「幕下の星取表」
http://www.sumo.or.jp/ResultData/hoshitori/3/1/
ウィキペディア「八番相撲」
https://ja.wikipedia.org/wiki/八番相撲

| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
「伝えたいこと」があると水かけ論を防げる

写真作者:ad.mak

きのう(2018年)5月25日(金)付のこのブログの記事「『伝えたいこと』がなくても、定められる」は、記事をつくるとき、たとえ「伝えたいこと」がないとしても、記者は「伝えたいこと」を定めて、伝えたい“ふり”をして原稿を書くほうが、「なにを伝えたいか」が明確な記事になる、という主旨の話でした。

たとえ「なにを伝えたいのか」が記者の頭のなかで明確でなくても、それを定めてから原稿を書くということには、ほかの利点もあります。編集者など、“その原稿の面倒を見る人”とのやりとりが、合理的におこなわれるようになる、という利点です。

その記事で、記者が「なにを伝えたいのか」が明確になっており、かつ、それを編集者も承知していれば、記者と編集者のあいだで、その記事で「伝えたいこと」をわかりあうことができます。つまり、「なにを伝えたいのか」の方向性を一致させることができるわけです。

記者と編集者のあいだで、「なにを伝えたいのか」が一致しているかしていないかは、その後の記事が世に出るまでのあいだのやりとりに大きなちがいをもたらします。

「なにを伝えたいか」が明確であり、記者と編集者のあいだで一致していれば、記者が書いた原稿に対して、編集者は「ここは、こう改稿するほうがよいのではないでしょうか。そうするほうが、伝えたいことがより伝わりますよ」と言うことができます。記者のほうも、「自分がなにを伝えたいのか」に照らしあわせて、編集者の意見を聞くことができます。

いっぽう、「なにを伝えたいか」が明確でなく、記者と編集者のあいだで一致していないと、記者が書いた原稿に対して、編集者は「ここは、こう改稿するほうがよいのではないでしょうか」と言うだけにとどまるでしょう。そして編集者がそのように言う理由は、「私はそのほうがよいと思ったから」というものにとどまるでしょう。その編集者の進言に、記者が納得すればよいですが、「なぜ、この編集者はそんな改稿の意見を言ってくるのだろうか」と納得しない場合もきっとあることでしょう。

この二人は、この記事で「なにを伝えたいのか」を理解しあっていないため、自分の感覚で「こうするのがよい」と思うことを伝えあうしかないわけです。これだと、記者は「私は自分の書いた原稿の表現がよいと思っている」、編集者は「いや、それはちがう。こう改めるほうがいいに決まっている」と、みずからの主張にこだわるだけの水かけ論に陥ってしまうおそれがあります。

二人以上の人がなにかにとりくもうとするときは、とりくむ目的が明確になっていて、それをとりくむ人たちが理解しあっているほうが、むだな議論はすくなく済むはずです。記事造りの場合、すくなくとも記者と編集者のあいだで理解しあうべき「目的」は、その記事で「なにを伝えたいのか」になります。
| - | 18:24 | comments(0) | trackbacks(0)
「伝えたいこと」がなくても、定められる

写真作者:Jamie

「なにを伝えたいのか」がわからない記事に対して、読者は「この記事はなにを伝えたいのだろうか」と感じます。なぜなら「なにを伝えたいのか」がわからないからです。

そうした記事ではおそらく、記者が「なにを伝えたいのか」を曖昧にしたまま原稿を書いてしまったか、伝えたいことをたくさん盛りこんでしまったのかのどちらかなのでしょう。

記事というものは、社会で起きたことや、記者が取材したこと、あるいは記者が考えたことなどを伝えるためのものです。ですので「なにを伝えるか」が明確になっていないということは、本来ありえないはずです。伝えたいことがあるから、記事をつくるわけであり、伝えたいことがなければ、記事をつくる必然性がないのですから……。

しかし、実際のところ、記者は「伝えたいこと」をもっていなくても、記事をつくらなければなりません。そうした場面はとても多くあります。得意先や上司から「記事を書くように」と言われて、伝えたいことがなくても書かなければならないという場合が多くあるからです。あるいは、自分で「毎日ブログを書く」ことを課してしまい、伝えたいことがなくても書かなければならないという場合もまれにあるのでしょう。

では、伝えたいことがなくでも、記者が記事をつくらなければらない場合、記者はどうすればよいでしょうか。

その記事で「なにを伝えたいか」を、自分のなかで人工的に定めて、伝えたい“ふり”をすればいいのです。本心から「これを伝えたい」と思えることが、記事をつくるにはもっともよいのでしょうが、「これを伝えたい」と思えることがなくても、「これを伝える」と自分で決めることはできます。

そして、自分で、これからつくっていく記事で「なにを伝えたいのか」が定まったら、それを伝えるためにどう書けばよいのかを考えて、書いていけばよいのです。そうすれば、書くことのすべてが、自分で定めた「伝えたいこと」につながるものとなりますから、全体として「なにを伝えたいか」が明確な記事ができてきます。
| - | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0)
「自分の位置の表示」こそ地図の技術革新
現実の世界を縮めて、平面に表し、そこに文字や記号などの情報を加えたものが、「地図」です。

いま残されている地図で、もっとも古いものは、紀元前6世紀ごろ西アジアで作られたバビロニアの世界地図とされています。あくまで、残されているもので最古ということなので、実際はもっと昔から地図が作られ、使われていた可能性は高そうですが。

地図はおもに、使っている人にとって、まったくあるいはあまり把握していない土地について知るための“手段“といえます。なかには、地図を眺めることそのものを楽しむ、つまり地図そのものが“目的”になるときもありますが。

手段としての地図を考えれば、使いやすさが高まることが「地図の進歩」といってもよいのではないでしょうか。

では、紀元前から作られ使われてきた地図の歴史のなかで、もっとも地図が進歩したできごととは、どのようなものでしょうか。

大航海時代に人類の活動範囲が広がり、世界をくまなく地図で表現できる状況に近づいたというのは、大きな進歩のひとつかもしれません。しかし、まだ気軽に移動できない時代において、万人がそうした地図を必要としていたわけではありません。

20世紀には、測量技術が発達して、地図がより正確に描かれるようになりました。19世紀の伊能忠敬らによる測量技術の正確さも目を見張るものがありますが、20世紀に入ってから、レーザー光、航空機、さらには人工衛星などの技術を使えるようになり、これらが地図の正確性をいちだんと高めました。ただし、これら20世紀の文明の利器が使われるより前から、地図の正確さはある程度、高い水準が保たれていました。

これらの技術革新よりも、より大きな地図の進歩は、「自分のいる位置が地図上に示されるようになったこと」ではないでしょうか。



自分の位置を含めた地図が表示される全地球無線測位システム(GPS:Global Positioning System)の使用開始が宣言されたのが1993年のことといいます。

その後、スマートフォンでも、全地球無線測位システム、それにジャイロセンサー、また、グーグルマップなどのアプリケーションの組みあわせで、地図上に自分の位置が表示れるようになっています。

従来の紙などでの地図では、自分の位置が表示されなかったため、「おそらく自分はここにいるのだろう」と推測しながら、地図を使うしかありませんでした。これには、推測が外れて、目的地にたどり着けない危険性もあります。

しかし、自分の位置が表示されることになり、地図の情報と合わせて、「自分はここにいる」というのが、直感的にわかるようになりました。つまり、地図を使いながら迷う危険性が格段に減ったわけです。使いやすさの高まりという点では、地図の発明に次ぐくらいの、進歩といえるのではないでしょうか。

今後、「自分の位置が地図上に表示される」といった進歩よりもよりもさらに革新的な進歩は現れるでしょうか。

参考資料
NHK for School「地図の歴史」
http://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005402652_00000
| - | 21:00 | comments(0) | trackbacks(0)
はね太鼓、叩き終わるとエレベータで降下


東京・横網の両国国技館では、大相撲五月場所がおこなわれています。

たいてい、その日の最後の取りくみ「結びの一番」は18時前にあり、それが終わると館内から客が出てきて家路につきます。

そのころ界隈に聞こえてくるのは太鼓の音。これは「はね太鼓」とよばれます。「はね」は、「その日の興行が終わる」という意味の「跳ねる」からきているのでしょう。NHKの実況中継などでも放送終了時に「トトト、トト、トトン」という太鼓の音で締めくくられますが、これも「はね太鼓」を意識したものと考えられます。

実況中継での「はね太鼓」はまずもって“生演奏”ではないでしょうが、大相撲の会場から聞こえてくる音は実際に人が叩いているもの。両国国技館でおこなわれる一月場所、五月場所、九月場所のほか、大阪での三月場所、名古屋での七月場所、福岡での十一月場所でも、実際に人が太鼓を叩きます。

太鼓を叩くのは、呼出。力士の名を呼びあげる役目の人だから「呼出」とよばれるわけですが、やぐらにのぼって太鼓を叩くのも呼出の役目です。

両国国技館の敷地内にある、太鼓を叩くためのやぐらはエレベーターで上ることのできるもの。高田川部屋に所属する呼出の和也さんのブログによると、このエレベーターつきやぐらは、1995年にできたものだそう。

「はね太鼓」はたいてい15分から20分ほど、音の強い弱いや律動の速い遅いをつけながら叩かれます。だんだん音が小さくなっていき、聴いている人が「終わりかな」と感じたあとも、ふたたび威勢が戻るなどして続きます。



太鼓の音が止み、「これで終わり」となると、たしかにエレベーターが降りてきます。地上には係の人が待っており、扉が開くと太鼓を叩いていた呼出が出てきます。館内にいる呼出の姿とはちがって、ジャケットを着ている姿……。



相撲を観ていた客のなかには、太鼓を叩く呼出をひいきにする人もいるのでしょうか。“出待ち”をして、呼出がエレベータから出てくると、ちらほらと拍手も。

暮れなずむ界隈に、甲高い太鼓の余韻が残ります。

参考資料
高田川部屋ブログ「和也ブログ」
http://www.takadagawa.com/blog/?p=1945
大相撲.com「呼出し」
http://ozumou.com/archives/68
| - | 14:59 | comments(0) | trackbacks(0)
「ないです」だと続くが、「なしで」だと終わりやすい


いわゆるポイントカードをもつことに積極的でしょうか。貯まったポイントがお金がわりになったり、目標のポインツに達すると割りびきされたりするため、ためらうことなくポイントカードをもって使うという人はいることでしょう。

しかし、いっぽうで、ポイントカードをもたないことに積極的という人もなかにはいます。財布の膨れていくのがいやだから、という理由もあるでしょう。また、もつことによって、「この店で買わなければ」といった強迫観念のようなものがはたらき、買いものの自由をみずから制限することにつながるからといった理由もあるでしょう。

ポイントカードをもたないことに積極的な人にとって、買いもの時に店員から「有無の確め」「作成の伺い」とつづく一連の流れは「わずらわしい」と感じるものかもしれません。

  店員「ポイントカードはありますか」
  客人「いえ、ないです」
  店員「おつくりしましょうか」
  客人「いいえ、結構です」
  店員「かしこまりました」

さすがに「いいえ結構です」と明確に言えば、店員は「なぜつくらないのですか」とまでは言わず「承知しました」などと言って会話は終わります。

「ポイントカードはありますか」と聞かれるまでは受けいれるとして、せめて実現可能性のない「おつくりしましょうか」という誘いを店員に言ってもらわなくても済むような方法はないものでしょうか。

ある店で店員と客人が、レジスターのところでつぎのような対話をしていました。

  店員「ポイントカードはありますか」
  客人「なしで」
  店員「かしこまりました」

つまり、その客人は「いえ、ないです」ではなく「なしで」と答えていたのです。

この「なしで」には、ふたつの意味があるように受けとれます。

ひとつは、まだ店員は言っていないものの、店員から「(ポイントカードを)おつくりしましょうか」と言われることに対し、さきどりして「ポイントカードはなしで結構です」という意味で「なしで」と答えるものです。

もうひとつは、「ポイントカードはありますか」の答として「ないです」の意味で「なしで」と答えるもの。厳密には「ありますか」と聞かれたとき、「ないです」「ない」「ありません」などにくらべて、「なしで」と答えるのは、対応関係としてはすこしだけ違和感はあるでしょうか。しかし、自分がポイントカードをもっていないということを伝えることはできそうです。

ということで、すこしむりやりかもしれませんが「なしで」には「ポイントカードはないですし、なしで構いません」といった意味が一挙にふくまれていることになります。これにより、店員に、実現可能性のない「おつくりしましょうか」という誘いのことばを言ってもらわないで済ますことができそうです。
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乗りもので重力に逆らったまま寝ちがえ


むりな姿勢で長いこと寝たため、首や肩の筋を痛めることを「寝ちがえ」といいます。寝ちがえは一般的に、検査や画像診断などで捉えることができず、明らかな「けが」であるとはいえないようです。日本整形外科学会は「軽い病気と考えてよいと思います」としています。

しかし、寝ちがえると生活に支障をきたすのはたしか。昼間、首を一度たりとも回さずに生活するということはあまりないので、回そうとするたびに「いててて」となります。

寝ちがえの原因にはいろいろなことがいわれているようです。一部の筋肉に血液が行かなくなったため、しこりとなるというもの。筋肉が痙攣、つまりこむら返りを起こしているというもの。また、頚椎のうしろの椎間関節や関節包というところに炎症が起きているというものもあるようです。

自宅の寝床のうえでは寝ちがえになることが多くなくても、バスや電車などの乗りものに長距離、乗っているときに寝ちがえることが多いという人はいるのではないでしょうか。とくに、背もたれが傾くけれど完全に水平にはならないような座席に座ったまま、長いこと寝てしまうと、目覚めたときすでに「いてててて」となっていることはよくあるものです。

寝床するときとちがって、乗りものに乗っているときの首は、地面に置かれるわけではないので、基本的には重力に逆らったままといえます。そうしたなか、首はあらぬ方向へ。首が前方に下がる、背中から前方に下がる、首が横にかしげる、そして背もたれが枕がわりとなり天井を向く、といったようなむりな姿勢が起きるわけです。寝床のうえでの寝ちがいよりも、はるかに高い力が加わっていそうです。

乗りものに乗っているときの寝ちがえによる痛みを避けるには、目覚めたときに勢いよく首をもとに戻さず、ゆっくり戻していくことが大切という話もあります。居眠りから覚めたとき「ここはどこだ」と慌てふためかないようにすることが重要となるでしょうか。そうした落ちつきは、日々の過ごしかた、あるいは性格や気質にもかかってくるのかもしれません。

参考資料
日本整形外科学会「寝違え」
https://www.joa.or.jp/public/sick/condition/sprained_neck.html
All About 健康・医療 「電車の居眠りで首を痛めない眠り方」
https://allabout.co.jp/gm/gc/300039/
| - | 22:19 | comments(0) | trackbacks(0)
「ついに」に期待、「ようやく」に不満


世の中では、不祥事や問題行動が明らかにされた人に対して「その役職を辞めろ」という圧力のようなものが加わります。「辞めるべき」と評価されてしまった人がなかなか辞めないでいると、「さっさと辞めたら」といった圧力が強くなります。そして、いざその人物が役職を辞めることになると、「ついに辞めたか」「ようやく辞めたか」といった世間の意見が聞かれるようになります。

そうした世間のありかたについてはさておき、「ついに」と「やっと」はよくにた副詞です。では、どちらにどんな意味あいがともなうでしょうか。

「あの人、ついに辞めたか」
「あの人、ようやく辞めたか」

「ついに」のほうは、期待が高まりつづけた末に、その期待が現実のものになり、達成感を得られたような語感があるのではないでしょうか。「辞めてほしい」という期待が強まる一方だったなかで、「ついに辞めたか」というわけです。

いっぽう、「ようやく」については、こちらも期待をしつづけていたことがあるけれど、それがなかなか実現しないため、期待が不満が募っていたところ、その期待が現実のものになり、溜飲を下げることができたような語感があるのではないでしょうか。「辞めてほしい」のに辞めないという不満が強まる一方だったなかで、「ようやく辞めたか」となるわけです。

つまり、実現されていなかったことに対する心の状態が「期待」か「不満」かでいえば、「ついに」は「期待」のほうであるのに対し、「やっと」は「不満」のほうであるというわけです。

ほかの例でも、「ついに」と「ようやく」の意味あいのちがいがうかがえます。

「彼は、ついに成功をおさめた」
「彼は、ようやく成功をおさめた」

なお、「ついに」は「終に」「遂に」「竟に」などと書き、「とうとう」と極めて意味が近いとされます。ただし、「ついに」のほうは、期待していたことが達成されるだけでなく、達成されなかった場合にも使うのに対し、「とうとう」のほうは、達成された場合のみにも使われる傾向があるといったちがいはあるようです。

また、「ようやく」は「やっと」と極めて意味が近いとされます。どちらも「漸く」「漸と」のように、「漸」の漢字が使われます。

参考資料
デジタル大辞泉「ついに」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/146107/meaning/m0u/ついに/
デジタル大辞泉「ようやく」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/226831/meaning/m0u/ようやく/
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寺の境内に神輿


東京・浅草の界隈で「三社祭」がおこなわれています。2018年は、5月17日(木)から始まって、20日(日)の夜までくりひろげられます。

数々の神輿が街をめぐったあと雷門の前へ。それぞれの神輿のまわりでは三々五々に三本締めの乾いた音が空に響き、そして、すべての神輿で一斉に三本締め。そして、天井に上げられて傘の短くなった大提灯の下を通り、仲見世通りを進んでいきます。このまま進んで浅草寺境内へ。

こうした風景は、いかにも日本の祭という印象をあたえます。しかし、よくよく考えると、「あれ、ちょっと不思議だな」と感じる人もなかにはいるかもしれません。

浅草寺は「寺」です。ご本尊は、聖観世音菩薩。つまり観音様。仏教の世界で存在の欠かせない菩薩です。いっぽう、御輿を担いでの祭というものは、一般的に神様を奉るもの。広い意味での神話の世界での神々が主役となるはずです。

三社祭では、仏教の寺の境内で、神を奉る神輿が進んでいくわけです。

では、三社祭で奉られる神々は、どこの神々なのか。三社祭で担がれる主となる神輿は「浅草神社」に奉納されているもの。浅草神社は、浅草寺のすぐ北東にあります。

では、浅草寺と浅草神社の関係はどうなのかというと、1400年ほど前、海から漁師たちが引きあげた観音像を奉ったのが浅草寺とされます。そして、その観音像を引きあげた3人の漁師を神として建立された神社が、浅草神社であるとのこと。

「三社祭」の「三社」は、この3人の神、つまり漁師たちに由来するものとされます。

三社祭の主催者は浅草神社。しかし、浅草神社と浅草寺はほど近く、浅草寺の境内は浅草を象徴する“広場”のひとつ。浅草寺の境内に神輿を入れることなく三社祭をおこなうことは、むしろおかしなことになるのかもしれません。

しかし、浅草寺は、あくまで三社祭を“協力”する立場。「祭の場所を貸してあげている」
という見方もできます。実際、浅草寺側は、三社祭に対して、境内を出ていく「宮出し」の時刻について、早めてもらうよう要求を出しているという報道もあります。

ともあれ、「寺に神輿」の組みあわせに不思議さを感じるような人はあまりいないのかもしれません。日本人にとって、仏様と神様の区別はかなり曖昧なものです。

参考資料
浅草神社「三社祭とは」
https://www.asakusajinja.jp/sanjamatsuri/about/
ウィキペディア「浅草神社」
https://ja.wikipedia.org/wiki/浅草神社
Newsポストセブン 2018年5月16日付「浅草の三社祭が『今年で最後』の危機 浅草寺が時間と場所を制限」
https://www.news-postseven.com/archives/20180516_675056.html
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「遣る」「繰る」で「やりくり」


ふつうは、ひらがなで書かれているため、漢字で書かれると「そういう漢字が使われているのか」と気づかされることばがあります。そして、漢字での書かれかたを知ることで、そのことばの真の意味に近づけることもあります。

「やりくり」ということばがあります。あれこれと工夫をして都合をつけることをいいます。

「やりくり」を漢字も使って書くと「遣り繰り」。これは明らかに「遣る」と「繰る」ということばが連なったものとわかります。

「遣る」には、「子を大学へ遣る」のように、「そこに行かせる」といった意味がありますが、それ以外にもさまざまな意味があります。

そのなかのひとつに「どうにか生活する」という意味があります。たとえば「この給料では遣っていくのがむずかしい」のように使われます。また、物事をうまくなしとげるという意味でも「遣る」は使われます。よく人は「ついに、やった!」とうれしがりますが、これは「ついに、遣った!」ということです。

いっぽう「繰る」には、「細長いものをなにかに巻きつけたりまとめたりする」といった意味がありますが、意味はそれだけではありません。

たとえば、「送り動かして移動させる」といった意味があります。「数珠を繰る」や「雨戸を繰る」のように使います。いま、この意味で「繰る」を使っている人はそう多くはなさそうですが。

これらの「遣る」と「繰る」の意味からすると、「遣り繰り」の本来的な意味は、「どうにかうまくこなしたり、ものごとを動かしたりする」といったことになるでしょうか。

あるいは、「遣る」を「そこに行かせる」という意味で捉えれば、「ものごとを向こうに行かせたり、こっちに越させたりする」といった解釈もできそうです。こちらのほうが、「遣る」も「繰る」も「動かす、移す」という似た意味で並列的に使われているので自然な解釈かもしれません。

「やりくり」をするにしても、使える資源に限りはあるわけです。そのかぎられた資源を、まさに向こうに行かせたり、こっちに越させたりして、最大限に有効活用するというのが「やりくり」の本義となるでしょうか。

国語辞典には、「やりくり」は「不十分なものをあれこれ工夫して都合をつけること」とあります。

参考資料
デジタル大辞泉「やりくり」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/223364/meaning/m0u/
デジタル大辞泉「遣る」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/223431/meaning/m0u/遣る/
デジタル大辞泉「繰る」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/64277/meaning/m0u/繰る/
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サイズが揃っていても自分に合う服があるとはかぎらない


写真作者:Jonathan Mueller

世のなかには、とくに問題にとりあげられなくても、多くの人が「むずかしい」と感じているようなことはあるものです。たとえば、路線バスやローカル線の運賃の支払いかたなどはその典型でしょうか。

服の試着から購入までの一連の作業も、かなりの人が「むずかしい」と感じているのではないでしょうか。なにがむずかしいかといえば、「自分のからだの寸法に合った服を買うのがむずかしい」ということです。

人がスーツやジャケット、またビジネスパンツなどを買おうとするときは、たいてい試着します。自分の体型に合った服を買って着るため、あるいは自分の体型に合わない服を着ることになって嫌な思いをするのを避けるためです。

試着したときから、「これは自分にぴったりだ」と感じられれば幸運です。しかし、そうは問屋がおろしません。Mサイズを試着して「ちょっと袖が短いな」などと感じたら、ひとサイズ大きなLサイズを試着して「これだとちょっとぶかぶかだ」などと感じ、どちらにするか迷う、といった人も多いことでしょう。

たいていの売られている服は、「その人」の体型でなく、「人びと」の体型を考えてつくられるもの。かならずしも「その人」のからだにぴったりくる服ばかりではありません。たとえば、試着したLサイズのスーツの胸まわりはまあ合っていそうだけれど、腕と手にくらべて袖が長いため、手を下ろすと袖が手の甲まで達してしまうといったこともあるわけです。

自分の体型がその服にほんとうに合っているのか。それを、試着というほぼ”一瞬”の機会に見さだめて、買うかどうか、あるいはどのサイズを買うかを選ぶわけですからむずかしい。ほんとうは、丸一日ぐらい着てみて、ようやく自分の体型に合っているかがわかってくるものであるはずなのに。

しかも、試着するとき、かならずしも店員が味方になってくれるとはかぎりません。たとえば、客がLサイズの服かMサイズの服かで迷っているとき、その店にLサイズしか在庫がなければ、多くの店員は「このような服は、若干余裕をもたせて着るのが普通ですよ」などと言ってくることがあります。なかには「Lサイズだとちょっと大きいですね。あいにくMサイズがないので、ほかの店舗に在庫があるかお調べしましょうか」などと言ってくる親切な店員もいるでしょうが。

かならずしも、Sサイズ、Mサイズ、Lサイズ、XLサイズのようにサイズの種類が揃っていても、そのなかに自分の体型に合う服があるとはかぎらないわけです。どちらのサイズにするか迷っているときは、「うーん……、Lサイズで!」などと即決はしないで、「サイズが微妙なので、ちょっと考えます」と、買わずに立ちどまっておくほうが無難かもしれません。

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空の“車検”、年一度の更新が不要になる場合も


写真作者:rurinoshima

自動車は、定期的に検査されなければなりません。その検査のことを「車検」といい、道路運送車両法という法律で定められています。車検の結果、その自動車が保安基準に適合したときは、「車検証」という証明書があたえられます。

自動車とおなじく、航空機も乗りものです。「車検」とおなじように、検査によって安全性を保つしくみがあります。これを「耐空証明」といいます。航空機に対して、安全性のほか、騒音や発動機からの排出物にかかわる基準に適合していることを、国土交通大臣が証明するのです。耐空証明があたえられない航空機を航空に使うことはできません。これらは「航空法」という法律で定められています。

自動車の車検では、車検証の有効期限は新車登録から2、3年ほどで、それ以降は2年となっています。いっぽう、飛行機の耐空証明の有効期限は、通常は1年と定められています。

ただし、耐空証明の有効期限については例外的な措置もあります。それは、「連続式耐空証明」とよばれるもの。

過去に国土交通省は、航空機安全課長から「航空運送事業の用に供する航空機の耐空証明の有効期間について」という通達を、航空業界に向けてしています。この通達に書かれているのは、航空機とそれを使う航空会社の整備体制が一定の基準を満たせば、耐空証明の有効期間を「航空運送事業者の整備規定の適用を受けている期間」と定める、というもの。この連続式耐空証明があたえられることにより、1年に一度、更新する必要がなくなるのです。

これは航空会社にとっては意味の大きなもの。通常どおり耐空証明を得るとなると、1機につき年間3日から4日、そのために航空機を飛ばせなくなるからです。

航空会社は、航空機を使えない期間をできるだけ短くすべく、連続式耐空証明を得ようとしてきました。従来、連続式耐空証明は大手の航空会社にあたえられるものでしたが、近ごろは大手だけでなく、格安航空会社や地方都市間航空会社なども連続式耐空証明を得ることに成功しています。

連続式耐空証明を得るということは、高い安全性などが認められたことも意味します。航空会社にとっては、年一度の更新をせずに済むし、整備面などでの安全性を高らかに宣伝できるし、よいことがたくさんあるわけです。

参考資料
国土交通省航空局航空機安全課 2008年4月「航空運送事業の用に供する航空機の耐空証明の有効期間に関する通達の改正について」
http://www.mlit.go.jp/common/000014143.pdf
フジドリームエアラインズ 2018年4月6日発表「独立系リージョナルエアラインとしては日本初となる連続式耐空証明の取得について」
http://www.fujidream.co.jp/company/press/doc/180406_new.pdf
トライシー 2015年10月23日付「ピーチ、連続式耐空証明を日本の航空会社として最速で取得 毎年の更新検査不要に」
https://www.traicy.com/20151023-17
ウィキペディア「耐空証明」
https://ja.wikipedia.org/wiki/耐空証明
JAFクルマ何でも質問箱「車検の有効期間は何年ですか?」
http://qa.jaf.or.jp/car/carinspection/01.htm

| - | 20:33 | comments(0) | trackbacks(0)
(2018年)5月18日(金)は「リスコミセッション」


催しものの案内です。

(2018年)5月16日(水)から18日(金)にかけて東京・有明の東京国際展示場(東京ビッグサイト)で開かれる「第23回国際食品素材/添加物展・会議」において、最終日の18日(金)15:30より、展示会場内セミナーのひとつとして「リスコミセッション」がおこなわれます。主催は「くらしとバイオプラザ21」。

「リスコミ」とは「リスクコミュニケーション」のこと。一般的に、健康への影響が心配されることがらについて、それに携わる人たちが情報を共有し、意思疎通をはかって対策を進め、リスク低減にとりくむことをさします。

主催のくらしとバイオプラザ21は、社会全体のバイオテクノロジーへの理解を深め、バイオテクノロジーの健全な発展を促進し、社会全体の公益の増進に寄与することを目的とする特定非営利活動法人。この目的のために、一般の人びとに、科学的でわかりやすく、生活者の視点からバランスのとれた情報発信をおこない、また一般の人びとと双方向のコミュニケーションをおこなっています。

例年、同会は「リスコミセッション」を開催していますが、2018年の今回の中心テーマは、遺伝子組みかえ食品。基調講演がふたつあります。

ひとつは、「気になる食品表示制度改正のポイント 遺伝子組換え表示と添加物表示の今後」(仮)という講演で、フード・コミュニケーション・コンパス代表の森田満樹さんが登壇します。

消費者庁は、遺伝子組みかえ食品の表示についての検討を重ねてきました。早ければ、2018年度に食品表示基準が改正されるといいます。検討会は、これまで、遺伝子組みかえ食品の混入率が重量比で5パーセント以下であれば「遺伝子組換えでない」と表示できていたのを、「不検出」に厳格化する報告書をまとめるなどしています。

森田さんのおもな研究領域は、食品表示、食品安全、リスクコミュニケーション。専門家の観点から、食品表示制度改正のポイントが語られそうです。

もうひとつは、「知っておきたい海外の遺伝子組換え食品関連の規制」(仮)という講演で、名古屋大学大学院環境学研究科教授の立川雅司さんが登壇します。

遺伝子組みかえ食品についての規制をめぐっては、「新しい育種技術」とよばれる技術が遺伝子組みかえ技術にふくまれるのかをめぐって、各国が判断を下しはじめているところ。「新しい育種技術」とは、分子生物学的な手法を組みあわせた品種改良技術のことで、代表例はゲノム編集です。

立川さんは、バイオテクノロジーなどの技術が農業・食料に対して及ぼす影響について、農業・食料社会学的観点から研究している人物。2016年にはJBpress「食の研究所」の取材にも応じています。前篇はこちら後編はこちら

新たな制度や技術というものは、関心をもっていないと、自分の知らぬ間に始まり、気がつけば暮らしのなかに入っているようなもの。このような食をめぐるリスクコミュニケーションの催しものに参加することから、自分の関心が高まっていくということもあるのではないでしょうか。

くらしとバイオプラザ21主催の「リスコミセッション」は、5月18日(金)15:30から16:50まで、東京国際展示場「第23回国際食品素材/添加物展・会議」の「食の安全・科学ゾーンセッション会場」でおこなわれます。聴講は無料ですが、展示会に入るには入場料または招待券が必要です。

「くらしとバイオプラザ21」のフェイスブックによる「リスコミセッション」の案内はこちらです。
https://www.facebook.com/events/314611179063894/

「第23回国際食品素材/添加物展・会議」の公式サイトはこちらです。
https://www.ifiajapan.com

参考資料
JBpress 2018年2月23日付「『遺伝子組換えでない』と言える混入率は何%まで?」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/52404
毎日新聞 2018年3月14日付「遺伝子組み換え食品『なし』表示、来年度にも厳格化」
https://mainichi.jp/articles/20180315/k00/00m/040/063000c
| - | 15:52 | comments(0) | trackbacks(0)
「科学ジャーナリスト賞2018」特別賞の森裕美子さん「科学コミュニケーションをする人は、まちがえているときがあるのでは」
「科学ジャーナリスト賞2018」では、「特別賞」が、「理科ハウス」の館長をつとめる森裕美子さんに贈られました。“世界一小さな科学館”の設立・運営に対してです。同賞で特別賞が贈られるのは、2015年に東京理科大学近代科学資料館代表の大石和江さんに贈られて以来、2度目のこと。

理科ハウスは、神奈川県逗子市にある私設の科学館。館長の森さんと、学芸員の山浦安曇のふたりで運営しています。贈呈式では、ふたりが壇上にあがり、スピーチと実演をしました。下記はその一部抜粋です。


山浦さんと森さん

「きょうはどうもありがとうございました」

「来週(2018年5月)16日、理科ハウスは創立10周年を迎えます。こんなよいタイミングでこの賞をいただけるのは、ほんとうにうれしいことです。理科ハウスを始めたときの目標が『10年続ける』だったので、目標が達成されてよかったなと思いましたが、この賞をいただいて『(運営を)やめるわけにはいかない。続けていかなければ』と思っています」

「理科ハウスでやっている展示を持ってきましたので、みなさんいっしょにどうぞ」

「丸い箱に、ピンポン玉が、白いのとオレンジ色のが合わせて10個、入っています。オレンジ色の球が何個あるかを当ててください」

「方法は、箱から1個とりだして、色を確認したら、箱にまた戻し、これを10回やるというものです。白いのが何回、オレンジ色のが何回出たかで、オレンジ色の球の数を予想するのです」

「ひとりだと、なかなか当たる確率がすくないものです。家族や親子など3人ぐらいでやると、ちょっと正解に近づくかなと」

「たとえば、3人でやって、つぎのような結果になったとします。Aさんは白いのが6個、オレンジは4個。Bさんは白8個、オレンジ2個。Cさんは白6個、オレンジ4個。全員あわせると白が20個で、オレンジが10個。オレンジは何個、入っていると考えたらよいですか」

「3個だと思う人、手をあげてください。では、4個だと思う人、手をあげてください。それ以外と思う人、手をあげてください……」

「私は、平均値を計算する練習いこれはいいかなと思って、『3個と答えてくれるだろう』と思ってやっていました。そうしたら、来館者の人ほとんどが『3個』とは言わないんですね。普通に計算すれば『3個』なのに。『どうして(3個ではないの)』と聞くと、『取るときに偏って取ったから』とか『(出題するのは)理科の人たちだからなにかあるにちがいない』とか、すごくいろいろな理由を言います」

「私はびっくりしました。人は、科学的なスイッチが入って科学的に答えてくれるものだと思っていましたが、ぜんぜんちがったのです。『科学的なスイッチが入るということはないのだ。科学コミュニケーションをする人は、まちがえているときがあるのでは』と自分自身、反省しました。『これはいかん。みんなの意見を聞かないと。答を先に言ってはいけない』と思ったのです」

「理科ハウスのだいたいの展示には答が書かれていません。さきに来館者の意見をどんどん聞くようにしていますが、そういう形での展示がほとんどです。科学的な考え方をいつもみんながやっているわけではないというのを、逆に私が教えてもらいました」

「(このピンポン玉の展示を)やっているときに、STAP細胞のニュースがありました。(展示を使って)『科学的な考え方とはこういうこと』と説明できたのでばっちりでした」

「理科ハウスは、お客さんとのやりとりのなかで展示が進化していきます。私たちも勉強させてもらい、変化していく、おもしろい場です」

「理科ハウス」のホームページはこちらです。
http://licahouse.com

日本科学技術ジャーナリスト会議「『科学ジャーナリスト賞2018』が決まりました」のお知らせはこちらです。
https://jastj.jp/info/20180425/

大賞、賞、特別賞それぞれの受賞者みなさん、おめでとうございます。
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「科学ジャーナリスト賞2018」安部康之さん「彼らは『儲かるからやる』と」
「科学ジャーナリスト賞2018」では、日本放送協会(NHK)政治・国際番組部ディレクターの安部康之さんと、同番組部チーフプロデューサーの相沢孝義さんにも「賞」が贈られました。テレビ番組「クローズアップ現代+」の2017年12月4日放送分「中国“再エネ”が日本を飲み込む!?」の番組に対してのものです。

安部さんによる受賞スピーチの一部抜粋です。


安部さん(左)その右横がもう一人の受賞者の相沢さん

「歴史と名誉のある賞をいただき、たいへん恐縮しています」

「僕は文系で、科学とはななか縁遠い人間でした。(中国の再生可能エネルギーという)このテーマに出会ったのは、昔の仲間との飲み会です。気象予報士が、『じつは中国の人が気象データを買いにくる。風力発電をやりたいんだよね、と』と言ったので、『それ、なに』となり企画を考えはじめました。私はNHKの福島放送局出身で、福島に行ったことや気象予報士の話を聞き、企画がふくらみ、番組まで行きつきました」

「中国に行き、再生可能エネルギーの現場や企業で取材をすると、善し悪しはべつにして、彼らは『儲かるからやるんだ』と言っています。『再生可能エネルギーには未来がある。いまは安い。なぜ選択しないんですか』と」

「この番組をつくって、いろいろな反響がありました。印象的なのは、聞いたところ、霞が関に衝撃が走ったという話です。送電線の系統の接続問題は、いろいろある問題のひとつと言われていましたが、すごく大事なことなのだと認識されるようになったのは、やりがいがあったと思います」

「私たちが勇気をもって一歩を踏み出せるかは、じつは3・11のときに私たちに突きつけられた宿題だったのではないでしょうか。いろいろな選択肢がありますが、以前のとおりのことをやっていて本当によいのか、真剣に考えなければいけないと思いながら、番組を制作してきました」

NHKクローズアップ現代2017年12月4日(月)放送分「中国“再エネ”が日本を飲み込む!?」の番組ページはこちらです。
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4072/
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「科学ジャーナリスト賞2018」川端裕人さん「アジアの人類進化、だれも書いたことがないから書いた」
日本科学技術ジャーナリスト会議主催の「科学ジャーナリスト賞2018」では、「賞」が、きのう(2018年)5月11日(金)付のこのブログで紹介した佐々木芽生さんのほか、文筆家の川端裕人さんに贈られました。川端さんが講談社ブルーバックスから上梓した著書『我々はなぜ我々だけなのか』に対してです。

この本は、アジアの人類に光を当てて、「我々」サピエンスだけが残った理由や経緯などに迫るもの。国立科学博物館人類研究部に所属する海部陽介さんが監修をつとめています。

下記は川端さんのスピーチの一部抜粋です。


川端裕人さん

「このたびは栄えある賞をいただき、戸惑いつつも大いに感動しています。プロの書き手として評価されたのは、かれこれ20何年(のキャリア)でたぶん初めてとなります。ありがとうございます」

「今回、監修の海部陽介さんと密に連絡をとりあってきたこともあり、僕のなかではこの本は『海部さん本』でした」

「僕の(著者としての)名前で、海部さんから聞いたというかたちで本として出ることは、日本ではめずらしくあります。僕の知っているサイエンスライターには、ゴーストライターが数々います。宇宙本などのハードなサイエンス本を出している有名な先生の下で、専門的な原稿を書いている人がけっこういます。聞き書きで書いているわけです」

「たとえば、田中太郎さんがライターだとして、『田中太郎“フィーチャリング”アルバート・アインシュタイン』といった著者名の本が出たら、みなさんどう感じるでしょうか。実際、よく売れる本のつくりかたの7割はそのようなつくりかでされています。『なんであの(ライターの)人の名前が出ないのか。実力者なのに』という人の顔が何人か浮かびます。そうしたことをなんとかするような環境は、こういうことから始まるのかなと思います」

「僕がこの本を書けたのは、海部さんが忙しかったからだろうと思います。海部さんの活動をすべて知っている人は極めてすくなく、僕は割と知っているほうですが、それでもまだ発見することが多々あります」

「(僕は)サイエンス・ジャーナリズムはやがて溶けてなくなればいい、つまり(サイエンス・ジャーナリズムが)特別なことでではないと思う人が増えればいいと思っていますが、海部さんはそれを体現するようなことをしており、壁を崩しつつあります。日本では、考古学と人類学は、かたや理系、かたや文系でトレーニングされた人が別々に学のルートをつくってきました」

「海部さんは、考古学者たちと人類学者たちがいっしょになってものごとをやるようなしくみを大きくつくっています。そういうエキサイティングなことを考えている人に取材させていただきました」

「今回は、アジアの人類進化というテーマにフォーカスして書かせていただきました。いまだにだれも書いたことがないからです。アジアの猿人、たとえば21世紀になってから見つかった『ホビット』つまりフローレス原人などについて、いちばんよく知っている人が日本にいたりするのです。そういうところからの情報がまとまっていない状況がありました」

「僕は『ナショナルジオグラフィック』でインタビュー記事を連載していますが、海部さんと何度かお会いするうちに『おもしろいネタがある。川端さん、書きませんか』と言われました。そう言われたら書くではないですか。幸運な仕事をさせていただきました」

講談社による『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』の紹介ページはこちらです。
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784065020371
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「科学ジャーナリスト賞2018」佐々木芽生さん「正義の反対は悪ではなく、べつの正義」
「科学ジャーナリスト賞2018」では、「賞」が、ドキュメンタリー映画監督・プロデューサーの佐々木芽生(めぐみ)さんに贈られました。集英社から出版した著書『おクジラさま ふたつの正義の物語』に対してです。

『おクジラさま』は、2017年8月に出版されました。ほぼ時をおなじくして、佐々木さんが監督をつとめた同題のドキュメンタリー映画が2017年9月から全国で公開されました。佐々木さんは、映画を作るとともに本を作ったわけです。

佐々木さんは米国在住ながら、この期に来日して賞の贈呈式にのぞんだとのこと。下記は佐々木さんのスピーチの一部抜粋です。


佐々木芽生さん

「名誉あるしょうをいただき、心から感動しています」

「私にとって、映画は3本目、書籍は初の書きおろしでした。この本を書きあげられないんじゃないか。途中で苦しくて逃げようか。消えてしまいたいというくらい辛い思いをしました。しかし、(編集担当の)集英社クリエティブの(聡平)さんはじめ、みなさんに支えてくださり、辛抱強く我慢強くおつきあいくださったので完成して、たいへんな賞をいただくことができました。ありがとうございます」

「書籍のお話をいただいたのは2015年でした。映画(の「おクジラさま」)の制作中でした。2010年には映画『ザ・コーヴ』が発表されました。私は米国に30年住んでいて、議論をよぶ映画にはかならず賛否両論があるのに、捕鯨問題のテーマだけは捕鯨反対の意見しか出ません。この映画を観たときはあまりに衝撃的で、『このままではまずいのでは』となりました。喉に突き刺さる魚の小骨のようにずっと気になっていたテーマでしたが、『ザ・コーヴ』を見たとき、この『おクジラさま』を作る決意をしました」

「クラウドファンディングで資金集めをしていましたが、いろいろなニュースにとりあげていただき、そのとき森山さんが映画のことを知ってくださり、『書籍にしてみませんか』とメールを頂戴しました。映画だけでもたいへんだたので、書籍なんてとんでもないからお断りしようと思って集英社に向かいましたが、みなさんに説得していただき、(集英社を)出るときは『書きます』と返事してしまいました」

「取材を始めたころは、怒りでいっぱいで、『ザ・コーヴ』や反捕鯨に反論してやるという気持ちがありましたが、取材をして映画で6年、書籍を入れて7年、『これはちょっとちがうんじゃないか』と考えるようになりました。どっちが正しくて、どっちがまちがっているという問題ではない。正義の反対は悪ではなく、べつの正義である、と。それぞれの正義をうち負かそうとするのではなく、嫌いながらも共存していかなければならない。排除するのでなく共存するという考え方が大事なのではということを『おクジラさま』から学ばせていただきました」

「科学では割りきれないのではないかというメッセージなのに、科学ジャーナリスト賞をいただき光栄に思っています。ありがとうございました」

佐々木さんの著書『おクジラさま ふたつの正義の物語』の集英社による紹介ページはこちらです。
http://gakugei.shueisha.co.jp/kikan/978-4-08-781608-2.html

映画「おクジラさま ふたつの正義の物語」の公式サイトはこちらです。
http://okujirasama.com
| - | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0)
科学ジャーナリスト大賞2018、小松恵永さん「依存性当事者が口にするのは『つながり』」
(2018年)5月10日(木)、東京・内幸町のプレスセンタービルで、「科学ジャーナリスト賞2018」の贈呈式が開かれました。

科学ジャーナリスト賞は、日本科学技術ジャーナリスト会議が、科学技術に関する報道や出版、映像などで優れた成績をあげた人を表彰するもの。2006年から始まり、2018年で第13回となります。

今回、「大賞」が1作品に対して1人、また「賞」が3作品に対して4人。また「特別賞」が1作品に対して1人に贈られました。受賞者のスピーチを抜粋します。

大賞は、信濃毎日新聞社編集局「つながりなおす」取材班代表の小松恵永さんに贈られました。2017年1月3日から6月29日まで連載された「つながりなおす 依存症社会」に対してです。


小松恵永さん(手前)

「信濃毎日新聞は、長野県長野市に本社のある地方新聞社です。地元では『信毎(しんまい)』という愛称で読まれています」

「毎年テーマを決めており、2017年のテーマが『依存性』でした。依存症というテーマにはとりくんだことがなく、報道部長が『依存症でやれないか』と提案し、取材班が結成されました」

「(取材先には)最初はみなさん心を開いてくれませんでした。けれども記者たちは足しげく通いました。時間がかかったものの、なんとか取材することができ、連載をスタートしました」

「始めたときは、反響がないのではと思っていましたが、いざ始まってみると、毎日のように反響がきました。それほど依存症に苦しんでいる人が身近にいるのかと驚かされました」

「当事者や家族の方に聞くと、社会での生きづらさがあったり、また、病気ということで、自分の意志ではどうにもならない病気ではあるのだが、それが惹かずに孤立していきます。当事者たちが口にするのは『つながり』です。家族や職場といったところとのつながりが切れていく。それで依存症対象物に頼らざるえないとなっていくわけです」

「一方で、専門家とつながることで、回復の道をたどる人もいます。タイトルについてはたくさん議論しましたが『つながり』をキーワードにして、社価値のいろいろなつながりを築きなおそういうことで決まりました」

「(とりくんできて)これで正しいのかと、自信はありませんでしたが、この壇上にきて、過分な評価をいただいて、このテーマにとりくんでよかったと思っています」

信濃毎日新聞が2018年4月25日に掲載した「信濃毎日新聞の連載に大賞 科学ジャーナリスト会議」の記事はこちらです。
http://www.shinmai.co.jp/news/world/article.php?date=20180425&id=2018042501001678

この連載と関連して、信濃毎日新聞取材班は、2018年2月『依存症からの脱出 つながりを取り戻す』という本を海鳴社から出版しています。海鳴社の案内はこちらです。
http://www.kaimeisha.com/index.php?cmd=read&page=依存症からの脱出&word=つながり
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
「若いときの苦労は借りてでもしろ」


ことわざに「若いときの苦労は買ってでもしろ」というものがあります。若いときにする苦労は貴重な経験となり将来に役立つから、自分から求めてでも苦労するほうがよい、といった意味です。

ものを「買う」というのは、お金を払って自分のものとする、ということ。「若いときの苦労は買ってでもしろ」の場合、さすがにお金を払う人はあまりいないでしょうが、「手間がかかってでも積極的に苦労を得るべき」といった意味で「買う」が使われているものと考えられます。

ところで、とくに近ごろは、ものを「買う」ことをせず、かわりに「借りる」ことで目的を済ませる、といった考えや行いが広まってきたようです。かねてから、車を借りるレンタカーはありましたが、近ごろはさらに車を借りあうカーシェアリングも多くなってきています。

「買う」も「借りる」も、目的とするものを得るという点ではかわりありません。「車を買う」とも「車を借りる」ともいいます。

では、「苦労」については、どうなってしまうのでしょうか。「若いときの苦労は買ってでもしろ」ではなく、「若いときの苦労は借りてでもしろ」となったら……。

「買う」と「借りる」のちがいは、「買う」は自分の所有物にするのであるのに対して「借りる」は自分の所有物にはせず返却する、というもの。

ですので、「苦労」を買わずに借りるとすれば、いったん人から自分が受けとった「苦労」を、いつかその人に返却することになります。

たとえば、苦労に絶えない作業を担わされている人がいるとします。この人に対して、べつの若い人が「苦労を買ってでもする」となれば、「私がその作業をこれからはさせていただきます」のように完全交代になりそうなものです。

いっぽう、苦労に絶えない作業を担わされている人に対して、若い人が「苦労を借りてでもする」となれば、「私がその作業をこれからはさせていただきます。でも、その後お返しします」のように一時交代になりそうなものです。

苦労をさしあげる側の人にとっては、苦労を買ってもらえたほうが「金輪際、この仕事から離れられる。ああよかった」となるでしょうが、苦労を貸すとなると「いまは苦労から解かれたけれど、後日また私があれをやるのか」と、だいぶ嫌さ感が残りそうです。

参考資料
故事ことわざ辞典「若い時の苦労は買ってでもせよ」
http://kotowaza-allguide.com/wa/wakaitokinokurou.html
| - | 17:09 | comments(0) | trackbacks(0)
Cc:で「公開質問」、Cc:で「援護射撃願望」


いまに始まったことではありませんが、「カーボン・コピー欄」(Cc:)に多くの宛先が入ったメールというものは巷でよく存在するものです。メールを発信する人が、カーボン・コピー欄に多くの人の宛先を入れることには、どのような理由や心理があるのでしょうか。

まず、「多くの人に伝える必要があるから」という理由があることは、認めなければなりますまい。たとえば、上司から「私にメールするときは部署全員にCcで送っておくように」と言われた部下は、それをしなければなりません。1人の上司に10人の部下がいる部署であれば、カーボン・コピー欄には自分以外の9人を入れることになります。

上司から言われたからということだけでなく、たとえば同窓会の案内などでも、把握しているかぎりの名前を入れておく必要があります。カーボン・コピー欄でなく、ブラインド・カーボン・コピー欄を使う人もいますが……。

しかし、必要があるから、という理由だけではありますまい。

カーボン・コピー欄に多くの人の名前を入れることで、相手からの返事を促そうとしている人はいるのではないでしょうか。たとえば、なかなか返事をよこさない相手にメールで「本件どうなりましたか」と催促するとき、Ccの欄に相手の上司のアドレスを入れておけば、相手にとっては「上司に知られてしまった」ということになるから、早く返事をよこすだろうと期待するわけです。表現は悪いものの、いわば「ちくり」や「公開質問」のようなものです。

また、得意先に返事をするとき、カーボン・コピー欄に、自分の味方だと思っている自分のチームの関係者のアドレスを入れておくことで、その味方を巻きこもうと、意識的にか無意識的にか、考えている人もいるようです。後日、カーボン・コピー欄に入れた人物に、電話などで「先日、Ccで共有させていただいた件ですが、誰々さんも同席しませんか」などともちかけるわけです。いわば「援護射撃願望」のあらわれのようなものです。

しかし、自分がカーボン・コピー欄に名前を入れて「みなさんに読んでくれているだろう」と期待してるほど、カーボン・コピー欄に名前が入った人はそのメールを読まないものではないでしょうか。あるもの書きの人は「Ccの数が多いほど、Ccで受信した人がそのメールを読むことはすくなくなる」と言います。

日本の会社について外国人に「ここが変」と思われていることをまとめた新書では、タイ人の女性が「メールにCCが多いのは和の精神でしょうか」と疑問を呈したといいます。たしかに「情報をみんなで共有したい」という、ある種の和の精神もあるのでしょうが、上にあるような「公開質問」や「都合のよい援護射撃」を目的とした意味あいのほうが大きいのではないでしょうか。

参考資料
ダ・ヴィンチニュース 2013年12月24日付「『日本はCCメールが多すぎる!』外国人が感じる“日本企業の弱点”」
https://ddnavi.com/news/176461/a/
| - | 20:09 | comments(0) | trackbacks(0)
ミトコンドリアのDNAも調べて過去を探る


遺伝子の本体である物質を「デオキシリボ核酸」(DNA:DeoxyriboNucleic Acid)といいます。DNAには遺伝子の情報が詰まっており、たとえ生きものが死んだとしてもDNAは保存されます。なので、その生きもののDNAを細胞から採って調べれば、生きものがどんな体の特徴をもっていたかがある程度わかるし、どんな暮らしをしていたかもある程度は推しはかれます。

DNAというと、細胞の核のなかにある染色体のものを多くの人は思い浮かべることでしょう。しかし、細胞のなかにあるDNAは核DNAだけではありません。「ミトコンドリアDNA」もあります。

ミトコンドリアは、細菌類や藻類を除く大多数の生物がもつ真核細胞のなかにあり、それ自体は呼吸にかかわるはたらきをしています。このミトコンドリアにもDNAがあるのです。しかも、核DNAとちがって、ひとつの細胞には数百から1千数百のミトコンドリアDNAがあるといいます。

人間のミトコンドリアDNAの塩基対の数は、1万6569。人間の核DNAの塩基対の数はおよそ30億とされるので規模は小さめ。いっぽうで、たくさんのDNAがあるため、多様化しやすいといった特徴があります。

また、核DNAの遺伝子は性別にかかわらず遺伝するのに対して、ミトコンドリアDNAの遺伝子は母から子にのみ遺伝します。そして、その子が女性であり母になれば、その母から子へ遺伝します。卵子よりも精子のミトコンドリアDNAはとてもすくないことや、受精のときに除かれやすいことなどが理由とされます。

つまり、ミトコンドリアDNAでは、父子鑑定をふくめ男系の祖先をたどっていくはできないものの、母子鑑定をふくめ女系の祖先を純粋にたどっていくことはできるわけです。すると、母の母の母の母の母……をたどっていけば、理屈では、人類共通のひとりの母にたどりつくことができます。この存在を「ミトコンドリア・イブ」といいます。学説では、約16万年前にアフリカにいた女性にたどりつくとも。

ただし、ミトコンドリア・イブ以外にも、かつての同時代の地球上には女性がいて、その女性の系列はいまでは途絶えてしまったかもしれません。そう考えると、そのミトコンドリア・イブが、人類で最初の女性であったとはかぎりません。

核DNAとともにミトコンドリアDNAの存在が、生きものの昔を探るために役立てられています。

参考資料
朝日新聞掲載「キーワード」「ミトコンドリアDNA」
https://kotobank.jp/word/ミトコンドリアDNA-881694
日本大百科全書「ミトコンドリアDNA」
https://kotobank.jp/word/ミトコンドリアDNA-881694
デジタル大辞泉「ミトコンドリア-イブ」
https://kotobank.jp/word/ミトコンドリアイブ-638909
デジタル大辞泉「イブの仮説」
https://kotobank.jp/word/イブの仮説-435654
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
市民ホールに向かう人びとから演者を推しはかる

写真作者:Yi-hsuan Lin

市民ホールなどの催しものの会場の近所に住んでいる人のなかには、「だれの催しものか当て」を、ちょっとした愉しみにしている人もいるのではないでしょうか。

たとえば、向こうからぞくぞくとサングラスと黒いTシャツを身につけた男性が、市民ホールに向かってきます。ギターを担いでいる人も多くいます。まさか舞台に立つ演者たちの一人ではありますまい……。

この光景を見て、「今日はだれのコンサートなんだろう」と推しはかるわけです。そして、答えあわせはインターネットで。市民ホールのホームページには催しものの予定表が載っていますので、それを見れば答がわかります。「ああ、今日は長渕剛のコンサートか。どうりで……」と。

べつの日は、がらっと変わって、母親と娘と思わしき人たちが、ぞくぞくと市民ホールへと向かっていきます。「親子でともに盛りあがるような演者なんだな。だれだろう」と推しはかりながら、催しものの予定表を見ると、「なるほど、キンキキッズか」と。結成20周年超とあれば、親子ファンも多いにいそうです。

なかには、市民ホールへと向かう観客たちの容姿や年齢層などからは、当てるのがむずかしい演者もいます。演者の服装などに特徴がなければ、観客の服装もとくに特徴がないことになりますし、老若男女幅広いファン層であれば演者がどのくらいの年齢層であるかも推しはかりにくいもの。「うーん、となると今日は、さだまさしのコンサートあたりかな」と思いながら、催しものの予定表を見ると、「ああ、松山千春だったか」などとなるわけです。

ファン層の傾向は、その演者のおもむきが反映されたものといえましょう。ファン層に特徴があらわれる演者も、逆に特徴があらわれない演者も、どちらもすごいものです。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
「みどりの学術賞2018」篠崎和子さん、植物の環境ストレス応答のしくみを解明

植物研究のモデルによく使われる「シロイヌナズナ」
写真作者:Norio Nomura

きのう(2018年)5月4日(金祝)付のこのブログでは、2018年度の「みどりの学術賞」の受賞者のひとり、熊谷洋一さんの業績などを、内閣府のサイトにある「受賞者プロフィール」をもとに記しました。

きょう5日(土祝)は、2018年度のもうひとりの受賞者である東京大学大学院農学生命科学研究科教授の篠崎和子さんの業績を、おなじく「受賞者プロフィール」からたどります。

篠崎さんの受賞は、「植物の環境ストレス応答機構の解明と耐性作物の開発」に対してのもの。これは、植物たちが身のまわりのストレスに対して応じるときのしくみを解きあかし、それを活かしてストレスに強い作物をつくった、といった研究内容といえそうです。

植物たちは、基本的にはみずからの居場所を移すことなく、じっとそこにとどまっているわけですから、低温、高温、乾燥、それに塩などのストレス要因にさらされたとき、自分の体のなかでそれらにうまく対応するしくみをもっていることが、生きのびるうえではとても重要になります。

篠崎さんは、植物の遺伝子や、遺伝子がはたらくためのしかけがどうなっているかに注目したようです。そして、デオキシリボ核酸(DNA:DeoxyriboNucleic Acid)の塩基配列のなかにある、2種類の「転写調節因子」とよばれる部分の正体をつきとめます。その転写調節因子は「DREB1」(Dehydration Responsive Element Binding protein-1)と「DREB2」とよばれるもの。日本語では「乾燥応答領域結合タンパク質因子」などとよばれます。篠崎さんは、植物がストレスを受けるとき、これらの因子がつくられて、環境ストレスに応答する遺伝子が発現するといったしくみを見いだのです。

また、DREB1やDREB2とはべつに、篠崎さんは「AREB」(Abscisic acid-Responsive Element Binding protein)とよばれる転写調節因子も見つけています。こちらは、日本語にすると「アブシシン酸応答領域結合タンパク質因子」となるでしょうか。「アブシシン酸」とは、植物が環境ストレスを受けたときに体のなかで放出するホルモン。このアブシシン酸が体に出たとき、AREBがはたらいて、ストレス環境に応答する遺伝子を発現させるわけです。

篠崎さんは、夫の一雄さんらとともに、2000年には、「乾燥と高塩分の環境下におけるアブシシン酸由来のシグナル伝達経路に関するシロイヌナズナの基本ロイシンジッパー転写因子」という論文で、乾燥応答にはAREBが必要とされるということを述べています。

こうした研究は、植物が身のまわりでストレスを受けたとき、どのようなしくみで応答し、生きのびようとするかを詳らかにしたものといえます。そうしたことが遺伝子のレベルで解明されたということは、過酷な環境の土地においても耐性のある作物をつくりだすことにつながります。

篠崎さんは、環境ストレス耐性作物を開発するためのさまざまな国際的な事業で、イネ、コムギ、トウモロコシ、トマト、ダイズ・イモ・牧草など作物に、DREB1、DREB2、AREBなどの遺伝子を取りいれていったとのこと。「海外では野外の農場で栽培実験が進められている」そうです。

自然科学の研究では、よく、自然のしくみを知的好奇心から探っていく基礎研究と、知見を社会に役立てることにつなげる応用研究の側面があるといわれます。そして「基礎の研究者」や「応用の研究者」といわれるように、人びとは、その研究者がどちらの分野に根ざしているかを見定めようとします。

そうしたなか、篠崎さんは、いわゆる基礎研究と、いわゆる応用研究の両方の分野に貢献しました。生命科学への貢献と、農学への貢献ともいえるかもしれません。ただし、そうした分けへだては、まわりの人が言っているだけのことで、そうした視点とは異なる視点をもっているのかもしれません。

参考資料
内閣府「第12回みどりの学術賞 受賞者プロフィール」
http://www.cao.go.jp/midorisho/gakujutsusho/profile_shinozaki.html
Yamaguchi-Shinozaki K et al. “Arabidopsis basic leucine zipper transcription factors involved in an abscisic acid-dependent signal transduction pathway under drought and high-salinity conditions.”
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/11005831
| - | 22:16 | comments(0) | trackbacks(0)
「みどりの学術賞2018」熊谷洋一さん、景観影響評価方法論の構築と自然環境の理解普及に貢献


5月4日は「みどりの日」。「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」日と法律で定められています。また、4月15日から5月15日までは「みどりの月間」でもあります。

内閣府が主催する「みどりの学術賞」という賞があります。これは「国内において植物、森林、緑地、造園、自然保護等に係る研究、技術の開発その他『みどり』に関する学術上の顕著な功績のあった個人」が受賞するもの。「みどりの日」についての国民の造詣を深めるために設けられました。

第12回となる2018年度は、東京大学名誉教授、兵庫県立淡路景観園芸学校名誉校長の熊谷洋一さんと、東京大学大学院農学生命科学研究科教授の篠崎和子さんが受賞しました。

熊谷さんへの賞は、「自然環境の保全管理の基本となる景観影響評価方法論の構築と自然環境についての国民への理解と普及への貢献」に対してのもの。

景色や眺めのことを「景観」といいますが、景観のよさなどを測る方法を築いたり、自然の環境のすばらしさなどを広く人びとに知ってもらうための活動をおこなったりしたことが、受賞の理由となったようです。

「環境アセスメント」ということばはよく聞くもの。開発が環境に及ぼす影響などについて事前に予測することをさします。熊谷さんは、この考えかたに、景観という観点を採りいれる提案をしました。つまり、数値などで、そこの景観のよしあしを測れるようにし、それを、アセスメントのひとつとして具体化したわけです。2002年には『環境アセスメント技術ガイド 自然とのふれあい』(自然環境研究センター)といった本として出版されました。

なお、熊谷さんの博士論文は、「景観アセスメントにおける予測評価手法に関する研究」というもの。学生時代からの研究テーマが、その後、実際に社会で役立てられていったことがうかがえます。

いっぽう、自然の環境のすばらしさなどを広く人びとに知ってもらう活動としては、「人を育てる」というところに力を入れてきたことがまず挙げられそうです。

永らく東京大学で教授職をつとめたほか、1998年からは兵庫県淡路景観園芸学校の校長、学長、名誉学長を歴任しています。この学校は、「景観園芸」という学際的な学問分野を学べる学校。専門職大学院課程、園芸療法課程、生涯学習課程といったコースがあり、学校や学生の活動は本格的であることがうかがえます。

また、東京・日比谷公園で10月に開かれている、「日比谷公園ガーデニングショー」では、実行委員長をつとめるなど、人びとがみどりを愛する機会をつくる活動にも積極的です。

景観や自然環境といったものを、多くの人びとは「そこにあって当たりまえ」という感覚で接しています。しかし、そのよさやすばらしさを人びとが分かちあううえでは、「方法」というものがあるもの。熊谷さんの業績は、景観や自然環境にかこまれて過ごす人びとすべてにかかわるものといってよいのではないでしょうか。

このブログでは5日(土)には、2018年度の「みどりの学術賞」もうひとりの受賞者である篠崎和子さんの業績などをたどる予定です。

参考資料
内閣府「第12回みどりの学術賞 受賞者プロフィール」
http://www.cao.go.jp/midorisho/gakujutsusho/profile_kumagai.html
熊谷洋一「環境アセスメントにおける予測評価手法に関する研究」
https://ci.nii.ac.jp/els/contents110004661194.pdf?id=ART0007389071
兵庫県立淡路景観園芸学校「新しい学問分野『景観園芸』」
http://www.awaji.ac.jp/about/new_field
日比谷ガーデニングショー実行委員会 2018年1月25日発表「『第16回日比谷公園ガーデニングショー2018』開催が決定」
http://www.hibiya-gardening-show.com/news/20180125_2.pdf
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
蹴伸びで水の抵抗をすくなく


運動競技やその練習では「抵抗をすくなくする」ことが大切になる場面が多くあります。抵抗とは、運動している体に対し、運動と反対の方向に作用する力のこと。

体が受ける抵抗がすくないほど、その人は素早く動けるようになります。素早く動くというのは、ほぼすべての運動競技で利にかなうものなので、抵抗をすくなくすることは、基本的に大切なわけです。

水泳は、陸上の競技とちがって、空気でなく水の抵抗を受ける競技です。水の抵抗は空気の抵抗の10倍から40倍あるとされるため、とくに泳者は水の抵抗をできるだけすくなくして前に進むことが求められるわけです。

そこで、練習の「定石」となっているのが「蹴伸び」です。プールの側面を両脚で蹴り、両腕を前のほうに伸ばして、前へと進む動作をさします。かんたんにいえば、体のかたちを「一文字」にするわけです。すると、体のなかで水の抵抗を受ける部分が減ることに。

蹴伸びの姿勢には、いくつかの要点があるといわれています。

まず、耳と腕をぴたりとつけること。肘が曲がると水の抵抗を受けやすくなるため、それを避ける姿勢が耳と腕をつけるということになります。腕が耳のうしろにきているくらいがよいという解説もあります。

つぎに、みぞおちを意識すること。すると、足が浮いてくるのだそう。これも、体を一文字にすることにプラスとなります。

蹴伸びの姿勢を体感して、自分の体に覚えさせるには、陸上での練習がものをいうともいいます。立ったまま両手を天井に向けて上げ、背中などの体の裏側を壁にできるだけぴたりとつけます。この姿勢を直角に倒せば、水中での蹴伸びの姿勢になります。

水の抵抗に逆らわないために、自分の体の姿勢をふだんはしないくらい不自然に真一文字にするというのは、すこし矛盾めいたものように感じられます。しかし、自分の体の姿勢を水の流れに合わせるという点では、蹴伸びは理にかなった動作といえます。

参考資料
合屋十四秋「水泳の基本動作『けのび』の巧拙と習熟過程に関するバイオメカニクス的研究」
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/3/30918/201410161801006018/diss_otsu4065.pdf
兵庫県健康財団「水中運動」
http://www.kenkozaidan.or.jp/health/2010/07/post-52.html
Place for the Fun of Sports「ストリームラインを作るための4つのポイント」
http://lapulem.jp/ストリームラインを作るための4つのポイント/
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
外国人名もセカンドネームまで表記すべき案に例外も
本や雑誌記事などの原稿をつくるうえで、「外国人名はセカンドネームのみ」とする風潮があります。たとえばつぎのような例です。

「光は粒子であると主張したのはニュートンである。いっぽう、光は波動であると主張したのはホイヘンスである」

ここでの「ニュートン」はアイザック・ニュートン(1642-1727)のこと。また、「ホイヘンス」とはクリスティアン・ホイヘンス(1629-1695)のこと。ともに、いまでいう自然科学者です。


アイザック・ニュートン


クリスティアン・ホイヘンス

日本人の人名をその原稿で初めて述べるとき、たとえば「iPS細胞を樹立した中山の功績によって……」などとセカンドネームだけで表すことはあまりありません。この場合は「山中伸弥の功績によって……」とするでしょう。二回目に述べるときは「山中は……」のように氏を省略するでしょうが。

なぜ、外国人名だけはセカンドネームのみということが多いのでしょう。

そもそも、その人の名前が記述されている書物などで、きちんと綴られている名前がセカンドネームのみという理由はありそうです。参考にした情報には「クリスティアン・ホイヘンス」とは書かれておらず、「ホイヘンス」で済まされているため、「自分もホイヘンスでいいや」となるわけです。

また、『ネイチャー』などの英文科学誌に載っている論文では、筆者名は「S. Nakayama」「C. Huygens」などと綴られます。よって論文からは、その人のファーストネームやフルネームを知ることはできません。そこで、インターネットなどのほかの情報で探るものの、なかなか出てこないものです。

とはいえ、もし「山中の功績によって……」という記述を読者が目にすれば、「たぶん、山中伸弥さんのことだろうが、ちょっとぶっきらぼうだな」とちょっとひっかかるかもしれません。日本人名はフルネームで表記し、外国人名はセカンドネームだけに略する必然性はあまりないわけです。

あえていえば、外国人名のほうが文字数が多くとられるため、省略することで字数を確保できるといったちがいぐらいでしょうか。しかし、これとて、筆者側の都合であり、けっして読者の立場になった表現法とはいえますまい。

ただし、例外的に、外国人名のなかで「この人をファーストネームもふくめて表現するのはかえって違和感が生じる」とためらわれるものもあります。つぎの場合はどう感じるでしょう。

「そうしたなかで、アルバート・アインシュタインは、光は粒子性をもつと考えないと説明できない現象があると考えた」

この場合、「アルバート・アインシュタイン」より「アインシュタイン」のほうが違和感なくしっくりくる、という人もかなりいるのではないでしょうか。「アルバート・アインシュタイン」だとかしこまりすぎる、というわけです。


アルバート・アインシュタイン

アインシュタインの場合、ほかにこの性での有名な人物がいないことや、あまりに孤高な存在であることなどから、わざわざ「アルバート」をつけなくても「アインシュタイン」で通じるということが、この例外につながっているのではないでしょうか。だれもが存在を認めるような人物になると、「さん」や「氏」をつけなくなるといいますが、これににた現象なのかもしれません。

これからの時代、セカンドネームを省略しても違和感を覚えないような人物は現れるでしょうか……。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
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