科学技術のアネクドート

高性能な電子顕微鏡を共用


つくった道具をさまざまな人びとに使ってもらい、つくった側も、使う側も、それぞれ利を得るといった事例があります。

文部科学省の「先端研究基盤教養促進事業」では、「アトミックスケール電磁場解析プラットフォーム」というプログラムが組まれています。

このプラットフォームは、日立製作所が代表機関を担うほか、ファインセラミックスセンターナノ構造研究所、九州大学超顕微解析研究センター、東北大学多元物質科学研究所が実施機関となっているもの。それぞれの組織がもっている計測装置を使いたい人・団体は、申しこみをして有償で使うことができるようになっています。

「原子分解能超高圧ホログラフィー電子顕微鏡をはじめとするアトミックスケール電磁場計測装置を、 国内外の材料・デバイス等の研究および量子物理分野の課題解決に広く活用できるように共用化し、イノベーションの創出を目指すもの」(プラットフォームのサイトより)。

「原子分解能超高圧ホログラフィー電子顕微鏡」は、原子の姿を捉えるほどの分解能をもつ電子顕微鏡と、微細な3次元電磁場分布を可視化する電子線ホログラフィーという道具を兼ねそなえた装置。日立製作所が開発しました。

この装置のほか、同プラットフォームでは、ナノ構造研究所、九州大学、東北大学がそれぞれもっている「300キロボルトホログラフィー透過型電子顕微鏡」も共用することができます。

2017年度の実施課題には、北海道大学の「彗星起源宇宙塵の残留磁化のホログラフィーTEM観察」といった天文学関連の分野から、産業技術総合研究所の「GaN半導体内部のドーパント濃度分布の計測」といった応用物理学関連の分野まで、幅広い成果が掲げられています。

つくられた装置は、使われてこそ価値が高まるもの。つくった人たちが使うだけでなく、使うことで成果をあげられる人たちも使うことで、その価値は高まります。

参考資料
アトミックスケール電磁場解析プラットフォーム
https://www9.hitachi.co.jp/atomicscale_pf/
内閣府総合科学技術・イノベーション会議 最先端研究開発支援プログラム研究課題「原子分解能・ホログラフィー電子顕微鏡の 開発とその応用」説明資料
http://www8.cao.go.jp/cstp/sentan/suisinkaigi/7kai/sankou1-1.pdf
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
『Rikejoマガジン』休刊、ウェブで「情報をさらにパワーアップしてお届け」と講談社



きのう(2018年)4月28日(土)付のこのブログの記事で取りあげられている講談社の会員誌『Rikejo』が、最新号の第50号をもって休刊となることが、第50号の後付や講談社Rikejoホームページ4月23日(月)の記事でなどで伝えられています。

休刊を伝える23日付の「大切なお知らせ」では、「2010年6月の理系女子応援プロジェクト『Rikejo』のサービス開始以来、たくさんの方にご愛読いただいておりました『Rikejoマガジン』は、2018年4月発行のvol.50をもって、定期刊行を終了させていただくこととなりました。読者の皆様、ならびに関係者の皆様に深く感謝し、心からお礼を申し上げます」とあります。

『Rikejo』マガジンの創刊は2010年6月。月1回の発行頻度で会員登録した人に、無料で配られていました。その後、2か月に1回の発行となり、また紙媒体での配布だけでなく講談社のデジタルサービス「codigi」にも掲載されるなどしてきました。

しかし、無料で会員に届けている以上、発行を維持継続するには、その費用を得る必要があります。『Rikejoマガジン』には、広告や広告記事の数は多くありません。ときに、定期刊行物とはべつに、特定の企業や大学などの組織を紹介する『何々版RIkejo』といった別冊なども刊行されていましたが、そうした副収入的な要素だけで、通常号の刊行をつづけることはできなかったのでしょう。

インターネットのグーグルで「“リケジョ”」と検索すると、該当数は86万8000件になります。『RIkejoマガジン』が創刊されるより前は、おそらく当該数は微々たるものだったでしょう。「リケジョ」ということばが社会で広まり、それとともに「理系女性」の存在がさほどめずらしいものでなくなったという点では、講談社の「リケジョ」事業はひとつの社会的役割を果たしたといえるのかもしれません。

しかし、定期刊行が永らくつづくような「持続可能性」を、この事業は獲得することができなかったわけです。その要因がなんなのかが解明されていく可能性は、ほぼないでしょう。

『Rikejoマガジン』第50号の後付には、「講談社Rikejo事務局」から会員に向けて、つぎの文言があります。

「コンテンツはWEBに移行いたします。(略)新WEBサービスでは幅広い年代の理系女子に向けた情報をさらにパワーアップしてお届けしますので、引き続きよろしくお願いします」

紙媒体以上に「パワーアップ」して、理系女子に向けた情報を今後お届けしていくとのことです。

どのようにパワーアップするのか。「リケジョ」の会員でありつづけてきた人たちや、「リケジョ」にさまざまなかたちで携わってきた人たちは、その結果を待っています。

参考資料
講談社『RIkejoマガジン』第50号「読者の皆様へ」
講談社 Rikejo 2018年4月23日付「【大切なお知らせ】『Rikejoマガジン』定期刊行終了のお知らせ」
http://www.rikejo.jp/news/article/20638.html

| - | 18:51 | comments(0) | trackbacks(0)
『Rikejo』から「不思議な量子の世界へようこそ!」


理系進学をめざす高校生の女子などを応援する講談社の会員誌『Rikejo』の第50号が、この(2019年)4月下旬に発行されました。

『Rikejo』は会員登録した人に紙媒体として配られてきましたが、それとともに会員登録しない人も講談社のデジタル版サービス「codigi」で手つづきすれば見ることができます。メールアドレスの記入やパスワードの設定をして、第50号のコード「r450 91nz vpy7」を入力することで、紙での誌面とまったくおなじ内容を、全編にわたり見ることができます。

科学特集「リケジョサイエンス」では、「不思議な量子の世界へようこそ!」という特集が組まれています。量子とは「連続的でなく、ある単位量の整数倍に限られる値(とびとびの値)で表される、物理量の最小単位」のこと。物理学の分野では20世紀のはじめごろから、この量子についての研究がおこなわれてきました。そして、研究が進むにつれ、量子の寸法の物理世界では、人が日々送っている生活の感覚からは受けいれがたいような現象が起きる、または起きうることが、つぎつぎとわかってきました。

特集では、はじめに「量子力学『驚き』の効果、現象、理論」という記事で、不思議な量子のふるまいの数々を紹介します。粒子が壁を通りぬけてしまう「トンネル効果」や、観測のたびに見られた世界と見られなかった世界が分かれていくとする「多世界解釈」などなどです。

つぎに「量子力学の研究はいまも進歩中」という記事では、量子力学の現象として知られる「粒子と波動の二重性」をめぐる研究の歩みを、アイザック・ニュートンの時代から現代までたどっています。「二重スリットの実験」や「新しい二重スリットの実験」といった研究方法やその成果を紹介しています。

そして「量子テレポーテーションと量子計算」という記事では、東京大学の古澤明教授が進めている、量子テレポーテーションという現象を応用した超効率的な計算方法のしくみやすごさを伝えています。

紙媒体の『Rikejo』とおなじ内容のデジタル版は、「codigi」の会員登録をして、コード番号を入力することで見ることができます。デジタル版を読むための方法について、詳しくは「リケジョ」のウェブサイトの記事をご覧ください。
| - | 21:30 | comments(0) | trackbacks(0)
ライター大平万里さんの新連載「考究:食と身体」始まる


ウェブニュースのJBpressで、きょう(2018年)4月27日(金)「考究:食と身体」という連載が始まりました。執筆者は、生物・化学系ライターの大平万里(おおだいら・まさと)さんです。

この企画は、「食」が私たちの「身体」にとってなにを意味するのかをあらためて考えることをねらいとするもの。大きくは、人が食べものを食べてからそれが身体のなかを進んでいく過程に沿って、連載が進んでいく予定です。また、記事の頻度は月1回となる予定です。

執筆者の大平さんは、北海道大学理学研究科博士課程修了した博士(理学)。旧工業技術院(いまの産業技術総合研究所)、秋田県立農業短大附属属研究所などの流動研究員、さらに高校教諭などをつとめ、ライターになりました。2017年8月に『「代謝」がわかれば身体がわかる』という著書を、光文社新書から出しています。また、JBpressでは「夜食は本当に太りやすいのか?」という前篇・後篇の記事に寄稿しています。

新連載「考究:食と身体」の第1回の記事タイトルは、「なぜ食べるのか? 生命の根源に迫る深淵なる疑問」というもの。「『なぜ食べるのか?』と問われたら、あなたはどう答えるだろうか?」という問いを読者に投げかけます。

この問いに対しては「空腹だから」「力が出ないから」といった答も考えられそうです。いっぽう、記事では、さらに「食べないと空腹になったり力が出なくなったりするのはなぜなのか?」と問いを投げかけ、「なぜ」を深めていきます。そう展開しながら、読者を、細胞レベルの世界へと誘っていきます。

この連載で、読みものとしての趣向が凝らされているのが、毎回「オリンポス12神」が登場していくこと。第1回は「主神」ともよばれる「ジュピター」が登場し、この神が武器とする「雷」や「アダマスの鎌」を喩えに用いながら、「なぜ食べるのか」を深く考えていきます。

「『なぜ食べるのか』は『いかにして食べているのか』と問いなおして、総合的に考えてゆく必要があるのだ」と大平さんは綴ります。この第1回としての結論に至るまでの理論が、記事では展開されていきます。

JBpressの新連載「考究:食と身体」の第1回「なぜ食べるのか? 生命の根源に迫る深淵なる疑問」はこちらでお読みいただけます。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/52950
| - | 18:59 | comments(0) | trackbacks(0)
『大学学部調べ 工学部』発売


新刊の案内です。

『なるにはBOOKS 大学学部調べ 工学部』という本が、きょう(2018年)4月26日(木)に、ぺりかん社より出版されました。編集者は同社の中川和美さんです。

「なるにはBOOKS 大学学部調べ」は、大学の各学部について、「どのような勉強をするのか」「どのような希望がかなうのか」などの疑問を解決し、進路を考える手だすけをするシリーズ。高校生や中学生を読者対象に、これまで「看護学部・保健医療学部」「理学部・理工学部」など4点が出版されていました。

『工学部』は、大学の工学部あるいは理工学部など、「工学」と名のつく学部で、どんなことを学べて、その先のどんな進路を選べるかなどを伝える本。「1章 工学部はどういう学部ですか?」「2章 工学部ではどんなことを学びますか?」「3章工学部のキャンパスライフを教えてください」「4章 資格取得や就職後の就職先はどのようになっていますか?」「5章 工学部をめざすなら何をしたらいいですか?」という5章からなります。

中味は大きくふたつ。解説・アドバイス的なページとインタビューのページがあります。

解説・アドバイス的なページは、「工学部は何を学ぶところですか?」といった問いに対して、読者にとっての「先輩」役が「一言でいうと、工学部とは『ものを作る方法や、もの作りにかかわる知識を得るための大学の学部』といえます」などと答えていくもの。

インタビューのページは、実際に大学の工学部などで教えている教員、学んでいる学生、また社会や大学院で活躍している卒業者たちが、インタビューに答え「『作ったものが動く』ことが工学の魅力」などと語っていくもの。教員2人、学生3人、卒業者5人が登場します。

工学部が扱う分野は、機械や材料といった具体的なものから、環境やシステムといったやや抽象的なものまで、じつにさまざまあります。『工学部』では、「『学んだ誰もが共通して得られる知識』がある」「それは何かというと、『問題や課題を解決するための知識や技術』といったもの」といったように、学科を超えて共通する「工学部での学び」の特徴を伝えるとともに、「機械工学科」「電気電子・工学科」「土木・建築工学科」などの「学科での学び」の特徴についても伝えていきます。

大学生活を控える人たちにとって、「工学」は高校までの授業名としてはないため、「工学部でなにを学べるのか」はなかなか想像しづらいかもしれません。『工学部』では、そんな高校生や中学生たちが、自分の大学生活をイメージできるよう、具体的に伝えることをめざしています。

アマゾンでの『なるにはBOOKS 大学学部調べ 工学部』のページはこちらです。
https://www.amazon.co.jp/dp/4831515078

ぺりかん社の紹介ページはこちらです。
http://www.perikansha.co.jp/Search.cgi?mode=SHOW&code=1000001786&type=6&flg=1
| - | 12:24 | comments(0) | trackbacks(0)
「科学ジャーナリスト賞2018」大賞に信濃毎日新聞社の小松恵永さん



日本科学技術ジャーナリスト会議はきょう(2018年)4月25日(水)、「科学ジャーナリスト賞2018」の受賞者と受賞作品を発表しました。「大賞」には、信濃毎日新聞社編集局 「つながりなおす」取材班代表の小松恵永さんが選ばれました。

科学ジャーナリスト賞は、科学技術に関する報道や出版、映像などで優れた成果をあげた人を表彰するもの。2006年に始まり、今年2018年で13回目となります。

小松恵永さんには、信濃毎日新聞で2017年1月3日から6月29日まで続いた「つながりなおす 依存症社会」の連載に対して大賞が贈られました。贈呈理由は「薬物やギャンブル、アルコールなど様々な依存症に蝕まれる現代社会を幅広い取材に基づき多面的に捉えた秀逸なキャンペーン報道である」というもの。

また、「賞」が3組に対して贈られました。

ドキュメンタリー映画監督・プロデユーサーの佐々木芽生さんには、「おクジラさま ふたつの正義の物語」(集英社)の著作に対して。贈呈理由は「クジラやイルカ漁への国際的な批判に対し、関係者への直接的な取材に基づき、異なる文化に立脚する多様な視点を提供した好著である」というもの。

文筆家の川端裕人さんには、「我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な『人類』たち」(講談社)の著作に対して。贈呈理由は「次々と新発見が続くアジアの多様な原人について、化石発掘現場などを丹念に取材し人類進化の謎を紹介した。知的な興奮を呼ぶ好著である」。

日本放送協会(NHK)報道局政経・国際番組部ディレクターの安部康之さんと、同 チーフ・プロデューサーの相沢孝義さんには、2017年12月14日に放送した「クローズアップ現代+『中国“再エネ”が日本を飲み込む !?』」の番組に対して。贈呈理由は「再生可能エネルギーの大量導入を進める中国の動向を紹介し、立ち遅れた日本の状況を浮き彫りにした。インパクトが大きく日本のエネルギー政策を考える材料を提供した」とあります。

そして、2018年の科学ジャーナリスト賞では「特別賞」が、理科ハウス館長の森裕美子さんに贈られました。世界一小さな科学館「理科ハウス」の設立・運営に対して、です。贈呈理由は「神奈川県逗子市の住宅地にある手作りの科学館。『身近な科学館』を目指した設立趣旨と地域コミュニティから親しまれている活動ぶりが総合的に評価された」とあります。

応募作品は、新聞5点、書籍・雑誌55点、映像25点、ウェブ・企画展示7点の計92作品が選考対象となりました。

贈呈式は2018年5月10日(木)東京・内幸町のプレンセンタービルでおこなわれます。

日本科学技術ジャーナリスト会議による「『科学ジャーナリスト賞2018』が決まりました」のお知らせはこちらです。
https://jastj.jp/#20180425

| - | 17:11 | comments(0) | trackbacks(0)
「問題はべつにして、建築意匠は評価できる」の声も


森友学園への国有地売却をめぐる問題では、2018年3月に決裁文書の改竄が明るみになって以降、当時の理財局長が大阪地検特捜部に事情聴取を受けるなど、動きが激しくなっています。

問題の発端となった場所のひとつが、豊中市にある「瑞穂の國記念小學院」が開校される予定だった場所です。ここに建っているのは、小学校として使われるはずだった校舎。煉瓦のような色をした赤い木質の壁が印象的です。

「一連の問題はべつにして、この校舎の建築意匠は特徴的であり評価できる」といった声も一部からはあがっているようです。



校舎の設計を担ったのは、アキラ建築研究機関。そして、この学校の設計は、サステナブル建築物等先導事業(木造先導型)評価・実施支援室による2015年度の「サステナブル建築物等先導事業(木造先導型)」に採択されています。

そして、採択事例集には、この校舎を建築するプロジェクトの概要や提案点などが書かれています。

「主体構造となる鉄骨の構造フレーム等を検討し、建物内外を木
質化することで、主体構造が鉄骨造でありながら、実際の視覚的には、大規模な木造校舎を再現することを目指している」

「主体構造となる鉄骨を、150mm角の柱によるブレース構造とし、法規上の耐火与件を満たしながら、 4寸〜5寸角と筋違による木造フレームと変わらない寸法で納め、内外にわたって木質化することで、 これまで防火地域では不可能だった大規模な木造校舎および体育館を、再現する」

「建物の内外部、また教室の床材に、杉材等の木質材料を使用することで、教室空間の、調湿、清音化を図り、アトピー等の児童らにとっても、優しい教育環境を生み出す」

木質で校舎の外観などを表現することに力点が置かれ、工夫もなされているようです。ブレース構造とは、骨組みの対角線上に斜め材を入れて横からの力に耐えやすくした構造のこと。アトピーなどの病気をもつ子どもにも配慮した設計になっているようです。

「評価のポイント」も記されてあり、「鉄骨造ではあるが、建物内外を木質化することで視覚的に大規模な木造校舎を再現している。内装と外装の木質化された学校として地域の教育機関を通して波及効果が期待できる」とあります。



かつての小学校や中学校の校舎といえば木造でした。その後、1970代以降から鉄筋コンクリート製の校舎につぎつぎ建てかえられていき、「ハモニカ型校舎」ともよばれる、長廊下にいくつもの教室が配置された3階ないし4階建ての校舎が主流となっていきました。

「瑞穂の國記念小學院」の校舎や体育館は、そうした画一的な校舎の建築設計とは対照的なものといえましょう。「一連の問題はべつにして、評価できる」という一部の声に、「たしかに問題は問題だが、建築設計は建築設計」と理解できる人もいるかもしれません。

参考資料
毎日新聞 2018年4月23日付「森友文書改ざん 佐川前理財局長を事情聴取 大阪地検」
https://mainichi.jp/articles/20180424/k00/00m/040/050000c
瑞穂の國記念小學院前掲示「建築基準法による確認済」
http://img-cdn.jg.jugem.jp/b82/15839/20180424_2677591.jpg
サステナブル建築物等先導事業(木造先導型)評価・実施支援室「平成27年度木造建築等技術先導事業報告書(事例集)防火地域に新築される小学校の校舎及び体育館の木質化についてのプロジェクト」
http://www.sendo-shien.jp/28/case/download/jirei42.pdf?20170410
| - | 16:57 | comments(0) | trackbacks(0)
「なにをもってマルチタスクというか」は不明確

画像作者:Urs Steiner

仕事のしかたをめぐっては「シングルタスク」ですべきか「マルチタスク」ですべきかが議論となり、その結論は「シングルタスク」ですべき、ということでほぼ決まっているようです。

マルチタスクとは、同時にいくつかの仕事をすること、とされます。この意味からすると、シングルタスクのほうは、同時にいくつかの仕事をしないこと、ということになります。

マルチタスクでの仕事のしかたについては、研究者が非効率さを説いているようです。たとえば、米国の情報学者グロリア・マークは、技術業界の従業員が特定のプロジェクトにとりくんでいるとき、中断までの時間は平均11分間であり、中断後にもとの仕事に戻るまでに25分かかったとしています。いかに作業の中断を余儀なくされ安い状況であるか、また、いかに、もとの作業に戻るまでに時間が費やされるかがわかるといったところでしょうか。

また、神経心理学者のシオドア・ツァウシデスは、マルチタスクとは「100パーセントの集中力をそれぞれのタスクに振りわけるものなので、ひとつのタスクに向けられる集中力は100パーセントより低くなる」と述べています。二つのタスクがあれば、たとえば集中力は50パーセントずつなり、中途半端な集中のしかたになってしまうといったところでしょうか。

また、コミュニケーションの研究者だったクリフォード・ナス(1958-2013)は、マルチタスクの習慣をひんぱんにつづけても、情報の取捨選択力、複数の作業をすばやく切りかえる能力、作業記憶力の三つがいずれも向上することはないということを、明らかにしたそうです。

これらの証拠がいくつもあがっているということは、マルチタスクは非効率的だということなのでしょう。

しかし、「なにをもってマルチタスクというか」の定義づけは、巷ではあまりはっきりとはされていないようでもあります。

もちろん、聖徳太子のように、複数の人が話していることを同時に聴こうとすればそれば「マルチタスク」でしょう。

けれども実際のところ、仕事をしている人は“その瞬間”だけを捉えれば、マルチタスクでの作業は本当はなされていないのではないでしょうか。もし、なされているとすれば、たとえば会議で参加者の話を聴きながら、べつのメールを書いている、といったような異なる感覚器を使う作業ぐらいではないでしょうか。

おそらく3時間にわたってひとつの仕事に集中していれば、多くの人は、それはマルチタスクでなくシングルタスクだと認められるでしょう。

では、短くして30分間にわたってならどうでしょうか。それもシングルタスクと考える人もいれば、それはマルチタスクの一部であると考える人もいるでしょう。

では、さらに短くして3分間にわたってならどうでしょうか。多くの人は、それはマルチタスクの一部だと考えるかもしれません。

しかし、短い時間であるとしても、ひとつの作業に集中できていれば、その時間での作業は「シングルタスク」といえるのではないでしょうか。

マルチタスクなのか、シングルタスクなのかを時間で区切って考えようとすると、線引きが曖昧になりそうです。むしろ「自分で定めた仕事の終わりまでほかの仕事をはさまずに完了させること」をシングルタスクと捉えるほうがよいのかもしれません。

参考資料
デジタル大辞泉「マルチタスク」
https://kotobank.jp/word/マルチタスク-9083
日経ウーマンオンライン 2015年4月16日付「マルチタスクは非効率?! 本当に効率的な時間の使い方とは?」
http://wol.nikkeibp.co.jp/article/column/20150413/204003/
フォーブズジャパン 2018年1月22日付「マルチタスクは非効率的 成功のための正しい作業方法とは?」
https://forbesjapan.com/articles/detail/19424
ライフハッカー 2013年8月12日付「『マルチタスク』は本当に悪いのか、科学的に解明してみた」
https://www.lifehacker.jp/2013/08/130812multitasking_brains.html
| - | 21:01 | comments(0) | trackbacks(0)
「タイムフリー視聴」と収録番組の親和性は高い


ラジオをめぐっては、2010年にインターネットで放送を聴ける「ラジコ」が始まって、聴取者の番組の聴きかたが変わってきたといわれています。

とくに、「タイムフリー視聴」の実験サービスが2016年10月に始まり、プレミアム会員という有料会員になれば、放送された番組を7日以内であればいつでも聴けるようになりました。2017年9月の時点でのプレミアム会員数はおよそ44万人といいます。いまはもっと増えていることが考えられます。

聴く人の嗜好によりけりかもしれませんが、ラジオの番組には「タイムフリー視聴」に合っているものと、かならずしもそうとはいえないものがあるのではないでしょうか。

ラジオ番組には、大きく分けて「生放送」と「収録放送」があります。

生放送では当然ながら「いま」の情報を伝えることが主眼となっており、ニュース、天気予報、交通情報などがひんぱんに流されます。「いま」の情報を伝えるということは、ラジオ番組の大きな特性のひとつといえるでしょう。

しかしながら、昼時の生放送の番組を、夜中に「タイムフリー視聴」によって聴くといった行為には、やはり違和感を覚える利用者もいるのではないでしょうか。番組で使われる効果音は番組ごとに決まっていますから、昼間に聴きなれている効果音が夜に流れてくると、わかっていても「あれれ」となってしまうわけです。

その点、収録番組のほうは、より「タイムフリー視聴」に合っているといえるのではないでしょうか。収録放送は当然ながら、出演者によって「いま」話されているものではありません。そのため、いつ聴いても「過去の時間に話されたもの」という認識があります。本来の放送日時よりあとの日時に聴いても、「いずれにしても収録放送」であるため、生放送の番組を「タイムフリー視聴」で聴くより、違和感は減るわけです。

「ラジコ」の「タイムフリー視聴」を利用する人がこれから増えていけば、生放送で「いまを伝える」番組より、収録で「いつ聴いても違和感を覚えない番組のほうが重視されることになっていくでしょうか。

参考資料
電通報 2017年9月20日付「ラジコ NHKラジオの実験配信を発表」
https://dentsu-ho.com/articles/5478
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
校正作業、メール本文欄記入式をあきらめて校正紙記入式に



本づくりでは、本が完成するよりも前の段階で、文字や内容に誤りがないかを確かめ、誤りをなおすための指示をする作業をします。一般的には、原稿段階でのこの作業は「原稿確認」と、また、校正刷段階でのこの作業は「校正」などとよばれます。

校正の作業を、一般的には編集者や著者、そして場合によっては校正者という専門職の人がおこないます。

情報の電子化が進んだ今日日。本の校正刷でも紙に印刷せず、コンピュータ上の書類といえるPDF(Portable Document Format)形式の電子ファイルで表示して、そこで文字や内容の誤りを見ていくといった作業も多くなりました。

しかし、PDF形式のファイルで校正作業をおこなうとき、朱入れをどうするかがしばしば厄介な問題になります。

ある著者は、本の校正刷をPDF形式の電子ファイルで出版社から送信してもらったといいます。そして「原稿を完成度高く書いたから、修正希望を伝える分量は多くないだろう」と考えたこの著者は、「メールの本文の欄に、修正希望を記していこう」と決めました。

この場合、たとえばつぎのような伝えかたになります。
_____

13ページ、5行目
恐竜たちの特徴や、発見された経緯などを迫力ある絵と分かりやすい文章で紹介する。

恐竜たちの特徴や、発見された経緯などを迫力ある絵としっかりした説明の文章で紹介する。
_____

つまり、該当するページ番号や行数番号を書き、文の単位、あるいは節の単位、最低でも句の単位で、どう改めるのかを、「改める前」と「改めた後」を記すわけです。

この著者は、「原稿を完成度高く書いたから、修正希望を伝える分量は多くないだろう」と、いわば高をくくっていました。たとえば、200ページの本として、4ページに1か所の修正希望があれば、上のような表記を50個すればよいことになります。

しかし、この計算は大きく外れました。最初の10ページをこの方法でおこなったところ、修正希望は100箇所にもなったといいます。もし、この方式を最後まで貫けば、修正希望を上のように記す作業を2000箇所にわたりしなければならないことになります。

たしかに、PDF形式のファイルでは、たいてい文字のコピーとペーストができるので、キーボードを使ってPDFファイル上の文字をメールの本文欄に転記する手間はありません。しかし、これほど数が膨大になると、「この1文は修正が必要だからコピー・アンド・ペーストしないと」「あれ、つぎの1文も修正が必要だ。コピー・アンド・ペースト」「おいおい、つぎの1文も修正が必要なのかよ……」となり、けっきょく1ページ分の文を丸まるコピー・アンド・ペーストして、「改める前」と「改めた後」をメール本文欄に記していかなければならなくなります。

どうして、予想していたよりもはるかに多くの修正希望が生じてしまうのか。その理由のひとつには「用字・用語の統一にともない、よく使われている基本的な語彙を改めなければならないから」といったことがあるようです。前出の著者はうらめしそうにこう言います。

「『作る』とするか『つくる』とするか。『作る』で統一しようとしたんです。ところが原稿を書いたときには『つくる』のほうをよく使っていたらしく、『つくる』が現れるごとに『作る』に改めるよう、メールの本文欄に修正希望を記していきました。すると、途中から『つくる』だらけになり、ほぼ丸まる1ページ分の文を、メール本文欄にコピー・アンド・ペーストして、修正希望の文を記していくことに。とほほ……」

いつしかこの著者は、メールの本文欄で「つくる」を「作る」に改める指示を記す作業だけに気もちを奪われ、ほかの確かめるべき誤字・脱字などを拾うことに集中できなくなってしまったといいます。

「10ページやったところで、この方法はあきらめました。PDFファイルを紙に印刷して、それを校正紙として赤ペンで朱入れしていく方法に切りかえました」

デジタルの文字群をコンピュータ上のメール本文欄やテキスト・エディタにコピー・アンド・ペーストして、修正希望を記すという方式での校正が効率的であるという場合は、そう多くないのかもしれません。

あるとすれば、もともと校正する記事がウェブニュースなどの電子媒体であるときや、あるいは本づくりの最後の段階で念のために校正刷を見ておくときぐらいかもしれません。そしてたいていは、「改める必要がある箇所は、そう多くないだろう」といった予想は外れるものです。

なお、PDF形式のファイルでは、アクロバットなどのソフトウェアを使えば、画面上の文字に対して「削除」や「文字挿入」などの「注釈」をつけていくことができます。この機能を積極的に使う人もいれば、見逃してしまうおそれがあるため使わうのに消極的である人もいるもよう。

| - | 21:32 | comments(0) | trackbacks(0)
「森林の“厄介者”が生み出した新たな食材ビジネス」


ウェブニュース「JBpress」で、きょう(2018年)4月20日(金)「森林の“厄介者”が生み出した新たな食材ビジネス 美味しいタケノコと悩ましきタケ(後篇)」という記事が配信されました。

日本の風景には竹林がよくにあうと感じる人も多いでしょうか。しかし、江戸時代より前から、山やまが竹林に覆われていたというわけではなかったようです。日本のタケで主流となっているモウソウチクは18世紀前半の江戸時代、いまの京都府または鹿児島県から、人の手を介して入ってきたとされています。

モウソウチクは、ほかの植物をも侵食する、繁殖力の強い植物であるため、その後、日本で広がっていきました。タケノコのほか竹材として多く利用されたころはまだ、竹林の広がりすぎはあまり問題視されなかったものの、輸入タケノコが増えたり竹材の利用が減ったりしてタケが資源として使われなってくると、竹林の管理が届かなくなり放っておかれるようになりました。

タケの地下茎は地中をどんどん這っていき、そこからタケノコがどんどん芽生えるため、なにもしなければこれからもタケは増えていくばかりです。

なにもしなくてもどんどんタケノコが生えてくるわけです。そして、そのタケノコは食べることができ、食材として売ればお金にもなるわけです。

生のタケノコは何日も放っておくと固くなってしまいます。しかし、加工してメンマのような食品にしておけば、しばらく経ってからも食べることができます。

こうしたことから、いま、生えてくるタケノコを切って、煮て、乾かして「乾タケノコ」にして出荷するという農法が、日本の一部でおこなわれています。JBpressの記事では、愛媛県大洲市で乾タケノコづくりを営む第一人者に話を聞いています。

大洲市をはじめ、愛媛県でつくられている乾タケノコの納入先の大きなひとつは「餃子の王将」の王将フードサービス。ラーメン用のメンマに愛媛県産の乾タケノコが使われているといいます。

いまメンマ向けのタケノコのほとんどは中国をはじめとする海外から輸出されたもの。しかし、中国ではほかの作物への転作が進み、メンマ用タケノコの生産量が落ちてきているともいわれます。

乾タケノコの用途はメンマ以外にも、チャーハンの具材やお菓子など、さまざま考えられそう。需要と供給の均衡がとれれば、国産の乾タケノコがより食べられるようになり、また、放置竹林の問題にも解決の糸口が見いだせるかもしれません。

JBpressの記事「森林の“厄介者”が生み出した新たな食材ビジネス 美味しいタケノコと悩ましきタケ(後篇)」はこちらです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/52901

前篇では、日本におけるタケノコやタケの歴史をたどっています。「和食で人気の筍、意外と新しかった日本への伝来」はこちらです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/52827

記事の取材と執筆をしました。
| - | 15:21 | comments(0) | trackbacks(0)
「工学」には設計がともない「技術」には具現化がともなう

写真作者:aussiejeff

学校などの場での教育では「STEAM教育」の大切さがよくいわれるようになりました。“STEAM”は、Science(科学)、Technology(技術)、Engineering(工学)、Arts(芸術)、Mathematics(数学)の頭文字をとったもの。これらの分野を重点的かつ融合的に教育することで、児童や生徒たちの批判的思考力や課題解決力を養おうとするものです。

「科学」は大まかにいえば「理科」のこと。「数学」は数についての学問分野。「芸術」は美を創造したり表現したりするための学問分野。これらは多くの人びとに「だいたいこんな感じ」という印象をもたれることでしょう。

しかし、「技術」と「工学」については「ちがいがどこにあるのかわからない」と思いいだく人も多いのではないでしょうか。外来語で表せば「テクノロジー」と「エンジニアリング」。ますますちがいがわからなくなるかもしれません。

「レゴ・エンジニアリング」というサイトには、マサチューセッツ工科大学で生命科学と電気工学の学位をとり、米国退役軍人省で医工学者として25年の経歴をもってきたジョナサン・ディーツが、「工学と技術のちがいはなにか」という随筆を書いています。

「工学は、デザインの過程であり、物質についての知識や、それらがどのように振るまうか予測するモデル、そして革新的な思考を統合させるものである。それにより、人類が必要な解決策が、頻度高く革新的に創られる」

「対照的に、技術はものをつくる過程として考えることで理解は進むかもしれない。そこでは、道具、物質、プロセス技能といったものが使われ、工学者(あるいは芸術家や設計者のようなデザインの職業者)がつくる計画に物理的実在をもたらす」

そして、例として、建てもののもち主が雨水浸透緑地帯を組みこんだオフィスビルを建てようと考えている場合をあげます。工学者は、典型的な降雨から時間あたりの水量を計算したりして設計するのに対し、技術者はそのしくみを構築するものであるとしています。

これらからすると、工学あるいは工学者は設計をともなうものであり、技術あるいは技術者はものごとの具現化をともなうものであるといえそうです。ものごとが実現したり、課題が解決されたりするときの上流には工学的要素や工学者が存在し、下流には技術的要素や技術者が存在するといってもよいかもしれません。

参考資料
Jonathan-Dietz “What is the difference between engineering and technology?”
http://www.legoengineering.com/what-is-the-difference-between-engineering-and-technology/
| - | 23:25 | comments(0) | trackbacks(0)
「組織」が集まって「器官」、「器官」の種類のなかに「臓器」

写真作者:Eric Villalba

からだを構成する、ある程度のまとまりを指して、「器官」や「臓器」や「組織」などといいます。「器官臓器組織」などと並べると、かつてあった雑誌『蛋白質核酸酵素』の誌名みたいです。それぞれ、なにを意味しているのでしょうか。

「器官」と「臓器」については、使われている漢字に注目すると、関係性が見えてきます。

どちらも「器」が使われていますが、「器官」は1文字目であるいっぽう、「臓器」は2文字目。「臓器」という熟語を分解すると「“臓”の“器官”」といった解釈ができます。

すると「臓」とはなんなのかが問題となりますが、これは「腸」と書く「はらわた」ということばに近いもよう。国語辞典の「臓」の項目には「はらわた」とあります。「はらわた」とは、「大腸」や「小腸」などの総称です。また「五臓」ということばは「肝臓」「心臓」「脾臓」「肺臓」「腎臓」のことを指します。

これらから、「臓器」は、とくに、大腸や小腸などの腹腔や、心臓や肺臓などの胸腔などにある器官を指すものといえそうです。

つまり、「臓器」と「器官」では、「器官」のほうがより多種類なものを指し、「臓器」はその器官のなかでの限られた種類のものを指すことになります。どちらかといえばですが。

では、「組織」はというと、これは国語辞典によっては、明確に「さらに集まって器官を構成する」とあります。つまり、「組織」は「器官」の一部あるいは構成要素といえるわけです。

以上をまとめると、「『組織』が集まると『器官』になるが、その『器官』のうち、とりわけ腹腔や胸腔などにあるものは『臓器』とよばれることがある」といったことになります。

なお、英語では「組織」は“tissue”、「器官」は“organ”、「臓器」は“internal organs”などといいます。

参考資料
デジタル大辞泉「器官」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/50756/meaning/m2u/器官/
デジタル大辞泉「臓器」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/128231/meaning/m2u/臓器/
デジタル大辞泉「組織」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/130515/meaning/m0u/組織/
| - | 19:52 | comments(0) | trackbacks(0)
子育て中の親ツバメは夜、巣の近くで寝る

写真作者:coniferconifer

今年も夏が近づき、ツバメが子育てに励む季節になりました。

ツバメは渡り鳥。春になると南のほうから北のほうへと渡り、そこで子どもを生み育て、そして秋にまた南のほうと渡っていきます。子どもを生み育てる「北のほう」が、日本列島にあたるわけです。日本には人里や人も多いため、天敵のヘビなどから襲われにくく、ツバメにとっては日本は好都合な土地かもしれません。

昼間、親ツバメはがむしゃらなまでに餌を取ってきては子ツバメたちにあたえつづけます。子ツバメのいる巣から離れていることが多いわけです。では、子育て期間の夜には、親ツバメはどこにいるのでしょうか。

卵から孵って間もないころは、まだ子ツバメは毛が生えていないため、体温が奪われがち。そこで親ツバメも夜に巣に入り、子ツバメたちを温めるといいます。

しかし、餌をあたえられた子ツバメの成長は著しいもの。だんだんと大きくなっていくと、親ツバメが巣に入れないくらい手狭になります。

でも、この段階までいくと、子ツバメの体には毛が生えていて、親に体を温めてもらう必要はなくなります。

そうなると、親は子ツバメのいる巣のけっこう近いところで夜は寝て過ごすようです。

人間でいったら、子どもが大きくなって家が狭くなり、親は家の外に出ざるをえなくなり、庭先に布団を敷いて寝るようなものでしょうか……。いいえ、そういう悲しい状況ではないようです。

卵を生むころになると、巣の近くで寝るようになる親ツバメは多いようです。そんな親ツバメからしてみれば、子育て中も巣の近くで夜を寝て過ごすというのは普通の生活といえそうです。なかには、子ツバメを生む前後のころ、子ツバメ用の巣に入って寝る親ツバメもいるそうではありますが……。

子ツバメに巣立ってもらうために、親ツバメは献身的なまでに毎日を過ごす。ツバメにとってみれば、そのように生きることは体に叩き込まれたしくみと化しているわけです。しかし、そうした姿をはたから人間が見ると、人間の目には愛おしく感じられるものです。

参考資料
大阪市立自然史博物館「大阪府下のツバメの集団ねぐら」
http://www.mus-nh.city.osaka.jp/wada/Roost/swallowroost.html
Yahoo!知恵袋「ツバメについてです。親鳥は夜はヒナと一緒に巣の中で寝るんですか?」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13130307173
| - | 22:48 | comments(0) | trackbacks(0)
ゴルフの素振りは見かけるが、相撲の立ちあいのしぐさは見かけない


駅のホームで、ゴルフの素振りのようなしぐさをする人がいます。スマートフォンが普及したため、電車が来るまでの定番は「スマホいじり」になってはいる化もしれません。しかし、いまも傘が必要な天候の日などには、パターがわりなのかアイアンがわりなのか、傘を両手に持って振っている人はいます。

ゴルフの素振りほど多くないものの、野球の投手が球を投げるときのように、片手を肩のところまで上げてから前のほうへ下ろすようなしぐさをする人もたまにいます。たいていは、斜め上の角度から投げおろす「スリークォーター投法」くらいの投げかたです。小林繁や仁科時成のような「下手投げ」のしぐさをする人はさすがに見かけません……。

こうした運動競技のしぐさを駅のホームでする人の多くは、実際その競技をしているのでしょう。そして、電車を待っているとき、つい手持ち無沙汰で、体が動くのでしょう。まわりの人に迷惑をかけるほどの行為は慎むべきでしょうが、体が動くということは基本的には健康でよいものといえます。

ゴルフの素振りや投手の投球のまねをする人がいるのであれば、ほかの運動競技をしている人がその競技のからだの動きをしたとしても、理論的には不思議ではありません。

たとえば、水泳をしている人が、駅のホームで首を前かがみぎみにし、両方の腕と手を回しはじめたとします。この人はクロールで泳ぐ自分の腕や手の動かしかたをホーム上で確かめているのでしょう。さらに、両手を同時にまわしたり、両方の手のひらを合わせたあと手を離して水平に回したりしていたら、この人は個人メドレーの泳ぎしているのでしょうか。

また、相撲をとっている人は、駅のホームで四股を踏むかもしれません。さらに、立ちあいをもっとよくしたいと考えている人は、四股を踏んだあと両拳をホームの地面についてから、前へ前へとすり足で前進するかもしれません。

柔道をしている人は、駅のホームに背中から倒れこみ、そして両方の手のひらをホームの地面にぴしゃんと叩くかもしれません。その人は、受け身の練習をとにかくどんな場所でもしたかったのでしょう。

しかし、水泳のクロールも、相撲の立ちあいも、柔道の受け身も、駅のプラットフォームでしている人を見ることはめったにありません。四股を踏む人はたまにいるかもしれませんが……。

どうして、ゴルフの素振りや投手の投球のまねをする人はホーム上にいて、ほかの運動競技のしぐさをする人はそう多くはないのでしょうか。

競技人口には競技によって多さ・少なさがあるもの。ゴルフや野球などの競技は、そうしたしぐさをしても、自分で「ここでやるのは場ちがいだ」と感じたり、まわりから「この人おかしいのでは」と思われたりしないくらいに浸透しているということでしょうか。べつの言い方をすれば、駅の風景に溶けこむくらい、そうしたからだの動きを人びとは見なれているということでしょうか。
| - | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0)
「椿の湯」に「十年の汗を道後の温泉に洗へ」



愛媛・道後湯之町にある道後温泉には三つの共同浴場があります。1894(明治27)年より建てられた趣のある「本館」はよく知られるもの。いっぽう、最近では2017年9月に「飛鳥の湯」が完成し話題をよびました。

もう一つあるのが、飛鳥の湯のすぐとなりにある「椿の湯」。1953(昭和28)年に建てられ、1984(昭和59)年に改築されました。さらに、2017年12月に改修されています。

伝統の「本館」、真新しい「飛鳥の湯」にくらべると、やや影の薄い存在になってしまったものの、三つの館のなかではもっとも安い400円で入浴ができます(ロッカー使用量がべつに10円かかります)。

男湯の浴室の大理石でできた湯口に刻まれているのは、松山市出身の俳人・正岡子規のつぎの句。

「十年の汗を道後の温泉(ゆ)に洗へ」

野球を愛していた正岡子規。「草野球をしつづけて10年も経験を積んだら、道後温泉で汗を洗ってさっぱりしなされ」とでも言わんとしているのかというと、そうではないようです。

この句は1896(明治29)年、子規が30歳のときに詠んだもの。子規の2年後輩で、おなじ松山出身で言語学者の小川尚義(1869-1947)が、台湾から帰国しました。小川は同年、東京文科大学を卒業後、台湾総督府学務部につとめました。

この句が記されている『寒山落木』には、句の前につぎのような文もあります。

「小川氏大學を卒へて帰國するよし聞きて申遣す」

日本に帰ってくる小川に対して、道後温泉に入って「十年の汗」を洗え、とことばを贈っているわけです。子規と小川が親しくなったのは1887(明治20)年。この年、小川は第一高等中学校予科に入学しています。1889(明治22)年には脚気を患って休学したことも。大学の卒業までに至るおよそ10年の小川の労苦をねぎらったようにもとれます。

子規自身も、この句を詠む前年の1895(明治28)年、帰国途上船中で喀血して入院するなどし、病を抱える身でした。句を詠んだ年には脊椎カリエスと診断されています。

「10年かけてかいた汗」でなくとも、子規から疲れた体を「温泉に洗へ」と言われたと考えると、ちょっと癒やされた気もちになるでしょうか。温泉はぽかぽかですから、夏場などは湯あがりに結局また汗をかくことになりますが……。

参考資料
吟行ナビえひめ「十年の汗を道後の温泉尓洗へ」
https://www.iyokannet.jp/ginkou/spot/detail/kuhi_id/554
愛媛県生涯学習センター「データベース『えひめの記憶』」
http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/5/view/1017
正岡子規会「正岡子規 略年譜」
https://matsuyamashikikai.jimdo.com/正岡子規の略年譜/
WebM旅「十年の汗を道後の温泉に洗へ」
http://www.webmtabi.jp/201009/famous/mshm29026402.html
ウィキペディア「小川尚義」
https://ja.wikipedia.org/wiki/小川尚義

| - | 16:13 | comments(0) | trackbacks(0)
青で「出発」赤茶で「到着」、長距離ながら疲れづらく


成田空港内の格安航空会社による航空機の出発と到着の出入口がある「第3ターミナル」が開業したのは2015年4月。3年が経ちます。

京成電鉄やJRの成田空港駅から第3ターミナルまでは数100メートルあります。駅により近い第2ターミナルと第3ターミナルのあいだに連絡バスも通っているようですが、かなりの人は徒歩で第3ターミナルへ向かいます。

よく使っている人にとってはあたりまえの光景になっているかもしれませんが、第2ターミナルから第3ターミナルまでの通路の地面は、陸上競技場の競走路とおなじ仕様です。もちろん陸上競技場とちがってS字の曲線などもありますが、最近の陸上競技場の競走路とおなじ青色の舗装と、かつての陸上競技場とおなじ茶色の舗装がされています。



この競走路的通路の設計に携わったのはパーティー・クリエティブ。第3ターミナル全体の建築事業を、成田国際空港、日建設計、無印良品とともにおこない、第3ターミナルは2015年度のグッドデザイン賞を受賞しています。

競走路的通路を紹介する記事によると、舗装の色にも意味があるのだそう。青色の舗装は出発口に向けたものですが、空の色に近い色で出発が象徴されているといいます。逆に到着口からの赤茶色の舗装は地球色を意識したものといいます。もし、出発口への色が赤茶色で、到着口からの色が青色だったら、利用者は「なにかがへんだな」と違和感を覚えていたかもしれません。

グッドデザイン賞の資料によると、競走路には「足の負担を軽減する機能」も備えさせたといいます。実際、歩いてみるとアスファルトやコンクリートの地面とちがって弾力性があります。本物の競走路とおなじ素材か、それに近い素材が使われているのでしょう。疲れづらい。



通路の途中には、天井にも「Terminal3 110m」などといった情報が視覚で認識できるようになっています。



いよいよ第3ターミナルに入ると、レーンが4つに増え、直線路と曲線路が融合するような意匠に。海外旅行者などにも斬新に感じられることでしょう。

ただし、この青い競走路的通路の先にある保安検査場には、時間帯によって長蛇の列が。第3ターミナルへの到着が、航空機の出発時刻直前になると、保安検査場から搭乗口までのかなり長い距離を選手よろしく駆けぬけていかなければならないため余裕をもった行動が大切になります。

参考資料
マイナビニュース 2015年4月8日付「成田空港第3ターミナルに陸上トラックが現れた理由は? クリエイティブラボPARTY・伊藤直樹が仕掛けた『空港のデザイン』」
https://news.mynavi.jp/article/20150408-lcc/
グッドデザイン賞2015「空港[成田国際空港 第3旅客ターミナルビル]」
http://www.g-mark.org/award/describe/42995
| - | 18:45 | comments(0) | trackbacks(0)
路面に投影して注目される


ものの影をなにかの表面に映すと、光の部分と影の部分の明るさの対比によって模様が生じます。夕日が沈みかけているときに砂浜に立てば、自分の姿が影となって見えるでしょう。

この光と影の物理的なしくみによる模様を意図的に映しだす技術もあります。しかも、歩道などの路面に。その装置は「路面投影機」とか「路面プロジェクタ」とかよばれています。

路面投影機の製造業が用途として紹介しているのは、一般的に道路上の「安全性」高めるためというもの。たとえば、鹿島道路という企業は、路面投影で「この先電線共同溝工事中 注意!」という文字と工事作業者のピクトグラムを光の部分で表現した路上投影を写真で示し、「夜間における歩行者の注意喚起への認識度を向上させる事ができます」と説明しています。

同社製の路面投影機の照明には、最近では発光ダイオードが使われているのだそう。影と光のもととなるスライドは「現場に即したデザインが可能」とのこと。また「カラー化も可能」とのこと。

投影機という装置そのものは1927年にドイツのリーゼカングという企業に発明されたもの。歴史は古いものがあります。

その投影先を路面にしたという点に、ひとつの発想があるといえましょう。人はどこを向いて歩いているかといったら、「真正面を見ながら」という人はさほど多くなさそうです。むしろ「前方ななめ下を見ながら」という人のほうが多いでしょう。地面のうえを歩いていれば、その地面の先になにがあるかを注目しようとするものです。

それにつけても、公道の路面上に店などの看板を掲げるのとおなじような目的で路面投影をしてもよいものなのでしょうか……。すくなくとも、路面をペンキで塗るような行為にくらべれば許されているようです。人は、塗料や顔料による模様よりも、光と影による模様のほうが慣れているということでしょうか……。この手の路面投影は一般的に、許可を得ているものものか、黙認されているだけのものなのか……。

参考資料
鹿島道路「路面プロジェクタ KRスポット」
http://www.kajimaroad.co.jp/technology/detail.php?pcat=2&cat=30&seq=104
日刊建設工業新聞 2017年8月2日「鹿島道路/路面への画像照射による安全喚起装置改良/省エネ・長寿命化し設置容易に」
http://www.decn.co.jp/?p=93183
ウィキペディア「オーバーヘッドプロジェクタ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/オーバーヘッドプロジェクタ
| - | 18:15 | comments(0) | trackbacks(0)
嫌気がさしているのに売られている商品はそれだけ

写真作者:Luca Sartoni

ドラッグストアなどには、衛生や健康にかかわる商品がたくさん売られています。そして、そうした商品のいくつかには、「マイナスイオン」が含まれていることを思わせるような表示のものがあります。

たとえば、髪を洗うときに使う、とあるブラシの商品には、つぎのような文言が書かれています。

「ブラシ部に練り込んだ、天然鉱石が放射するマイナスイオンの効果で、髪と地肌をリフレッシュします」

「マイナスイオン」は国語辞典にも載っています。「イオンの一種とされる物質。森林中や滝の水しぶきなどに多く含まれ、健康によいとされるが、科学的根拠はない」とあります。さらに「学術用語ではなく、統一された定義をもたない。陰イオンとは異なる」といった補説もあります。

商品の紹介文によると、このブラシは、天然鉱石が「マイナスイオン」を「放射」し、それにより髪と地肌を「リフレッシュ」するものだそうです。

しかし、国語辞典にも載っているとおり、「マイナスイオン」の健康への効果については科学的根拠がありません。

明治大学科学コミュニケーション研究所の「疑似科学とされるものの科学性評定サイト」には、「マイナスイオン」の効果を科学的に検証した研究の結果が紹介されています。

2013年に『BMCサイキアトリ』という雑誌に掲載された「空気イオンと雰囲気結果:調査とメタ分析」という論文については、「マイナスイオンを浴びた場合の効果として、季節性気分障害患者に対する抑うつ作用は認められたが、(健康なヒトを含んだ他の対象への)不安(anxiety)、気分(mood)、リラクゼーション(relaxation)や睡眠(sleep)、個人的な快適さ(personal comfort)などの効果に関しては首尾一貫したデータが得られておらず、効果を認めるのに十分な根拠はないとしている」とあります。

また、おなじく2013年に『ジャーナル・オブ・ネガティブ・リザルト・イン・バイオメディシン』に掲載された「空気イオンと呼吸器機能の結果 包括的な調査」という論文については、「マイナスイオンによる身体的な効果(たとえば代謝機能、痛みの緩和、喘息症状など)はないと結論付けている」としています。

科学的に「マイナスイオン」の効果は認められていないに等しい状況ながら、街なかのドラッグストアには「マイナスイオン」の効果を思わせる商品が置いてあるわけです。

商品を買う人の選びかたはさまざまです。「マイナスイオン」という文言に惹かれて買う人がいるのも事実でしょう。

いっぽうで、「マイナスイオン」という文言があると嫌気がさし、買うことを避ける人がいるのもまた事実でしょう。そして、「科学的に認められていない効果を標榜するかのような商品が嫌な人は、買わなければいい」といった考えかたはなりたつのでしょう。

嫌気がさす人たちにとっての問題は、店先におなじ用途の商品が1種類しか置いておらず、それが「マイナスイオン」を謳った商品である場合があるということです。

もし、「マイナスイオン」が本当にその商品から放出されているとしても、おそらく体に対してよい効果もなければ、悪い影響もないのでしょう。「薬にも毒にもならない」わけです。

だれが「マイナスイオン」を謳う商品を買ったとしても、「マイナスイオン」による効果はないとして、もともとの「ブラシ」の役割は果たすでしょう。なので、「マイナスイオン」に嫌気がさす人がこの商品を買えば、「ブラシする」という目的はかなうことにはなります。

しかし、嫌気がさす人のなかには、「『マイナスイオン』と書かれてある商品はとにかく嫌だから買わない」という人もいるはずです。そうなると、要求を満たす商品は売っていても、それを買わずに店を出ることになります。

店が「マイナスイオン」と書かれてある商品を置くと、「嫌気がさす人たちに買われない」といった損が生じるはずです。しかし、それにもかかわらずそうした商品が置かれているということは、「嫌気がさす人に買われない」以上に、「信じている人たちに買われる」あるいは「嫌気がさすでも信じるでもない人びとに買われる」といった得のほうがやはり大きいという実状があるのではないでしょうか。

参考資料
デジタル大辞泉「マイナスイオン」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/206888/meaning/m0u/マイナスイオン/
明治大学科学コミュニケーション研究所 擬似科学とされるものの科学性評定サイト「マイナスイオン」
http://www.sciencecomlabo.jp/health_goods/negative_ion.html
| - | 16:49 | comments(0) | trackbacks(0)
乾燥機で品質よい干ししいたけをつくる


しいたけは「干す」ことによって日もちさせることができます。そのため昔から保存食としても重宝がられてきました。それに、干して乾かせば水分も減るため、持ちはこびも便利になります。

機械が発達していなかったころ、しいたけを干して乾かすには、太陽の光と熱を使った「天日干し」がおもな方法でした。いまも家庭でしいたけを干す場合は、天日干しをしている家は多いのではないでしょうか。

いっぽう、機械が発達すると「しいたけ乾燥機」といった、しいたけを乾かすことを用途とした装置が開発され、しいたけ栽培農家などに使われるようになりました。

しいたけ乾燥機のおおまかなしくみは、熱源をつくり、熱を風に乗せて、其の熱風を置いた数々のしいたけに通して、しいたけを乾かす、といったもの。

しいたけ乾燥機をつくり売っている機械製造業各社の情報によると、熱源には灯油、ガス、電気などのエネルギー源が使われます。

熱によりしいたけを乾かすため、エネルギー費用はそれなりにかかりそうです。しかし、製造企業によっては、乾かすのに使う熱風を機械のなかで循環させて再利用するしくみも開発されているようです。

機械の技術があるいっぽうで、それを使う人の技術もあります。しいたけ乾燥機をつくる企業のひとつ、黒田工業は「椎茸乾燥のポイント 儲かる乾椎茸づくりのために」という“虎の巻”を堂々と公開しています。

たとえば、採ったしいたけを載せて段々状に置く「エビラ」とよばれる棚の上下位置としいたけの大きさの関係性が記されています。地面近く1段目から3段目の下段には「葉」の大きなしいたけを、4段目から10段目の中段には中くらいのしいたけを、そして11段目から15段目の上段には小さめのしいたけを載せるとよいといいます。

熱風が下のほうから上へと昇っていくため、下段のほうが温度が高めになります。よって乾かすのに必要な時間がかかる大きな葉のしいたけを下段に置くのが適することになるわけです。

天日干しのほうがしいたけ乾燥機を使うより安く済むのはたしかなこと。しかし、しいたけ乾燥機を使えば短い時間で干しいたけをつくることができます。これは、色やつやの変化を防ぐことにもつながるといいます。しいたけを干すときは速さが勝負。品質を保つためにしいたけ乾燥機は大切な機械といえそうです。

参考資料
大紀産業「食品乾燥機シリーズ」
http://www.taikisangyo.co.jp/assets/files/pdf/syokuhin_kansouki.pdf
木原製作所「椎茸乾燥機Fシリーズ」
http://www.kiharaworks.com/product/shiitake.html
黒田工業「熱風乾燥機のしくみ」
http://www.kuroda-dryer.co.jp/sikumi.htm#tanashiki
黒田工業「椎茸乾燥のポイント」
http://www.kuroda-dryer.co.jp/shiitake-kannsonopoint.pdf
| - | 16:03 | comments(0) | trackbacks(0)
末端にいれば意思疎通の手間は減らせる

写真作者:Amphithoe

仕事において、意思疎通のために費やす手間は、金額になかなか換算されづらいものです。本来は1回で済んだはずの意思疎通が、2回も3回もかかれば、手間も2倍、3倍と増えていくわけですが、それをいちいち計算して「一連の意思疎通でかかった費用は人件費換算で2204円でした」などと割りだすことは、いまの社会ではあまりされていません。

しかし、意思疎通に費やす手間を軽視することはできません。1回で済むはずの意思疎通が2回、3回と増えると、作業時間が増えるだけでなく、べつの作業をしていた場合の中断による余計な作業時間がさらに増えたり、意思疎通がうまくいかないことへの精神的ストレスが増えたりしうるものです。

むだに思える意思疎通にも、それで仲が親密になるという場合もありますから、それは真にむだな意思疎通とはいえますまい。そうしたよい効果にもつながらないような、真にむだな意思疎通の手間をできるだけ省くための方法を、人びとはもっと考えてもよいのかもしれません。

いっそのこと、自分の立場を必然的に意思疎通に費やす手間がかからないものにして生きていく、といった方法もあるのではないでしょうか。

仕事の人材配置には「末端」とよばれるものがあります。たとえば、複数人が携わる作業について、Aさんが方向性を示して、Bさんがそれをもとに企画を立てて、Cさんが進行管理をして、Dさんが実作業をする、とします。

この編成では、Bさんは、Aさんから指示を受けて、Cさんに指示を出します。またCさんは、Bさんから指示を受けて、Dさんに指示を出します。Aさんも、あるいはさらに上層の社長や責任者から指示を受けて、Bさんに指示を出しているかもしれません。

となると、唯一Dさんが、Cさんから指示を受けるけれども、ほかのだれにも指示を出さずに作業することができる、ということになります。

単純に、指示を受けるときの手間と、指示を出すときの手間がおなじであるとすれば、Bさん、Cさんにくらべて、Dさんは合計の手間が半分で済むことになります。

「末端」というと、下働きをさせられているといった印象がもたれがちかもしれません。しかし、意思疎通の手間を減らすのに、これほど優位な地位は、社会構造においてはあまりないのではないでしょうか。ほかに組織の最頂点に立つ人も、指示を受けないのでかかる手間はおなじになりそうですが、責任の重さや、出す指示の多さは末端よりもはるかにありそうです。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
タケの拡大、その場で自然に、遠くには人為的に


日本のタケの主要な種となっているモウソウチク(孟宗竹)やマダケ(真竹)の北限はそれぞれ、北海道の函館、そして青森あたりとされます。

しかし、東北大学、長野県、森林総合研究所、気象庁、東京大学、環境研究所
、総合地球環境学研究所が2017年10月に共同発表した内容によると、地球が産業革命以前にくらべて4度、上昇した場合、北限は500キロメートル進んで稚内まで到達するということです。

モウソウチクは18世紀、マダケは10世紀より前に、ともに中国から入ってきた種とされます。日本で育成してきたほかの植物より繁殖力は高く、生育に適した場所が拡大すれば、いかにこれらのタケを管理するかを考えることがますます大切になっていきます。

さて、東北大学などの共同発表には、つぎのような文言があります。

「モウソウチクもマダケも種子から定着して竹林になった報告はなく、人が植えなければ新たな土地に定着することはないと考えられます」

かなり多くの人はつぎのように考えていたのではないでしょうか。つまり、人がかねてから里山を保つなか、タケに対してもそれなりに管理していたものの、近年は放置林が増えたため、繁殖力の高いタケは自然に任すまま、つぎつぎ新たな土地に定着していき、生育域を拡大していった、といったものです。

しかし、上の共同発表からすると、そうしたことは考えられないということになります。

タケも植物です。ほかの多くの草木とおなじように、開花して種子をみのらせます。しかし、マダケが花を咲かせるのは120年に一度、モウソウチクについては67年に一度とされ、めったに種子をみのらせることはありません。

しかし、タケは地下の茎をたくさん伸ばすことで、もともと1本だったタケが竹林にまで成長するといいます。つまり、おなじ場所におけるおなじ種のタケは、クローンであるわけです。

そのため、かつて人が里山で管理していたタケが放置されると、種子を介して新たな土地に定着することはほぼ考えられないものの、地下の茎はつぎつぎと生えていき、その場では拡大するといったことはありえそうです。

とはいえ、青森のタケが地下の茎を伸ばして函館でタケノコとして出てきたり、函館のタケが地下の茎を伸ばして稚内でタケノコとして出てくるようなことは考えられません。竹林は放っておいた場合、年に最大で拡大するのは3メートルから4メートルほどとのことです。

つまり、モウソウチクやマダケをなにもせずに放っておくと、その場所を専有はするものの、遠くの場所に定着していくことは考えにくい、といったことになりそうです。上の「年に最大3メートルから4メートル」の拡大率でいうと、10キロメートル離れたところまで拡大するには、2500年かかる計算となります。

上記の共同発表では、「温暖化がある程度進んでしまった場合にも、外来種被害予防三原則である、入れない・捨てない(管理放棄しない)・拡げない(タケを新たな土地に定着させない)といった管理と対策を、地域住民と行政が一体となって進めることが重要です」としています。

参考資料
東北大学 2017年10月18日発表「タケ、北日本で分布拡大のおそれ」
https://www.tohoku.ac.jp/japanese/2017/10/press20171016-01.html
国立環境研究所 侵入生物データベース「モウソウチク」
https://www.nies.go.jp/biodiversity/invasive/DB/detail/80740.html
academist Journal 2017年12月6日付 高野宏平、日比野研志、小黒芳生「外来種のモウソウチク・マダケが里山生態系を脅かす – 温暖化が進めば北日本でも分布拡大する可能性」
https://academist-cf.com/journal/?p=6586
農林水産省「特集1 竹のおはなし(2)」
http://www.maff.go.jp/j/pr/aff/1301/spe1_02.html
鳥居厚志・奥田史郎「タケは里山の厄介者か?」
https://www.forestry.jp/publish/ForSci/BackNo/sk58/58.pdf
あれこれ それなりクラブ「竹の性質」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~waroh/plants/take-2.htm
| - | 20:36 | comments(0) | trackbacks(0)
2個の球でサッカーをするとまるで別競技
Jリーグや世界杯をはじめとするサッカー競技では、前後半あわせて90分の時間、両チームあわせて22人の選手が1個の球を蹴りあい、敵のゴールに球を入れることをめざします。最終的にゴールに入った球の数が多いチームが勝ちとなります。

ただ1個の球に対して、すべての選手がいかに最善の動作をすればよいか臨機応変に判断して、実際に動作するわけです。

サッカーでは「扱う球は1個」というのは、だれもが疑う余地のない常識。ごくたまに、フリーキックなどのときに2個の球が入れられて、審判が一時中断を命じて、試合がすこし滞ることはありますが……。

しかし、考える人は考えるもの。意図的に「扱う球を2個」にして競技するサッカーも世界にはあるのだといいます。

ウクライナで、通常のサッカーに飽きたらなくなった学生たちが「フットダブルボール」を2007年に始めたといいます。通常のサッカーとの最大のちがいは、色ちがいの球を2個、同時に扱うこと。

両チームのキーパーが自陣から球を蹴ることで試合が始まります。もちろん、ひとつのチームが2個の球を保って、2個とも敵のゴールに入れることをめざしてもよいわけです。そして、1個の球がゴールに入ったときは、べつの球がピッチを割るか、ゴールされるまでは、ふたたびピッチに入れることは待たれるといいます。

規則もさることながら、戦術についても通常のサッカーとは大きく異なってきそうです。1個の球を扱うだけであれば、各選手の位置どりや動きは、すべてが1個のその球の状態によって決まってくるものです。しかし、2個の球を扱うとなると、自分が2個のうちのどちらの球に携わるか判断する必要性が求められるかもしれません。あるいは、チームによっては「翼、石崎、井沢、高杉、長野、おまえたち5人は赤い球だけを、滝、来生、岩見、小田、中里、おまえたち5人は白い球だけを追え」といったように、キーパーを除いて分業制を敷くチームもあらわれるかもしれません。これも戦術です。

試合を観ている観客も慌ただしくなります。1個の球の行方に集中していたら、もう1個の球のほうは敵にゴールに入れられていた、といったこともあるでしょう。「ひとつの球の行方をみんなで追う」といった競技場での一体感は薄れそうです。

実際、ウクライナで行われたフットダブルボールの試合を伝えるフランス通信社(AFP:L'Agence France-Presse)の報道動画がユーチューブに上がっています。視聴者からは「だめな競技。これだと選手がなにをするのが正しいかがわからない」といった“だめ出し”の感想もあるいっぽうで、「この競技は伝統的なサッカーの時代にとってかわるべきもの。なぜもっと早く発明されなかったのだ」といった賛同的な感想もあります。また、より長い尺の動画もユーチューブで見ることができます。こちら。


ユーチューブ “Footdoubleball.flv” より

球が1個と2個以外はほとんど規則にちがいはないとしても、このちがいが競技の中身そのものを大きく変えるものになるにちがいありません。

参考資料
OddityCentral 2011年10月13日付 “You Think Football Is Too Easy? Try Footdoubleball”
http://www.odditycentral.com/funny/you-think-football-is-too-easy-try-footdoubleball.html
AFP 2011年9月29日公開 “En Ukraine, des étudiants inventent le foot avec deux ballons”
https://www.youtube.com/watch?v=sNlzi_vdeic&feature=player_embedded
Bira Martini 2011年11月6日公開 “Footdoubleball.flv”
https://www.youtube.com/watch?v=BvHtzPYV2tc
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
消化・吸収も、のんびり、ゆっくり


人の活動の速度がどんどん高まってきている。それをあまりよくないと感じている人は、生きものののんびりゆっくりした生きかたに「われもああなりたい」と憧れをもつものかもしれません。

のんびり、ゆっくりといった印象をあたえる生きものといえばなにがあるでしょうか。ナマケモノ、ナメクジ、ヤモリ……。

なかでもカメはその代表格ではないでしょうか。人に「世界のうちでお前ほど歩みの遅いものはない、どうしてそんなに遅いのか」と驚かれるくらいです。

カメは、すばやく動くことをしなくなったかわりに、ほかの大きな生きものから餌として食べられないようにするため甲羅を身につけるようになりました。カメのなかには時速0.3キロメートルでしか動けないけれど、頑丈な甲羅で身をまもってきたため、2億年も存続している種もあるといいます。恐竜の時代から生きつづけてきたわけです。

カメののんびり、ゆっくりとした動きは外見だけにとどまらないようです。食べた餌をからだのなかで消化・吸収して、糞としてからだの外に出すまでの時間も、人などからすれば、とてもゆっくりしているといいます。

カメには歯がありません。そのかわりに強力な嘴と舌はあります。このふたつの器官で、餌を噛みきったり砕いたりしています。

食べた葉っぱなどの餌は食道を通っていきます。その後は、ヒトのからだとはちがって肝臓を通り、それから胃に向かいます。人の胃は蠕動運動をしたり胃液を出したりして、消化・吸収の一部を担っていますが、カメの胃にはそれほどの役割はなく、貯蔵庫としての餌を貯めておく役割にとどまるそうです。

その後、葉っぱなどの餌は腸へと向かいます。人とおなじようにカメにも腸内細菌がたくさんいて、これらの細菌の発酵作用によって、消化が進んでいきます。しかし、その速度はゆっくりとしたものであり、何日もかけて消化がなされるといいます。

1匹ずつのカメは「ゆったりと生きよう」といった意思をもって生きているわけではありません。進化の過程で、そういう生きかたにはまっていっただけのことです。そんな結果としてののんびり、ゆっくりした生きかたは、のんびり、ゆっくりとできない生きかたをしている人からうらやましがられています。

参考資料
北村雄一『大人の恐竜図鑑』
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BBM6WLM
けい動物医療センター「亀(カメ)の飼い方」
https://kei-animal.com/about/turtle.html
| - | 20:52 | comments(0) | trackbacks(0)
書評で本編以外について触れるかは議論すくなき課題


本について、その内容を紹介し、また批評する文章は「書評」とよばれます。多くの人にとって、書評を読む機会になるのは、新聞の日曜日の「読書欄」ではないでしょうか。

一般的には、書評は、その本の「伝えたいこと」や特徴、あるいは長所などについて、書き手が評価を述べていくものです。たまに、その本がいかに読む価値のないものかを述べるような否定的な書評もあります。

あまり議論されていないようですが、「書評でそのほんのどこまでを書くか」という課題があります。推理小説を評するときにたね明かしをすべきか、といった課題ではなく、本編以外の部分も書評の対象にしてよいか、といった課題です。

たいていの本には、本編のほかに「まえがき」または「あとがき」があります。さらに、本によっては本編とはべつの「囲み記事」もあります。さらに、翻訳書には「訳者あとがき」とよばれる翻訳者の解説もあります。

「その本に書かれてあることについて評する」という広い考えに立てば、これらの本編以外の要素も書評の対象として書いても差しつかえないといったことになりそうです。

しかし、いっぽうで、本のなかの本編以外の要素は、本編にふくまれなかった理由があるはずです。たとえば、「囲み記事」は、本編の筋とは逸れるけれど著者が書きたいことを書いたものです。

「この本で真に伝えたいことは本編にふくまれているはず」といった考えをすれば、書評で本編以外の要素について書くのは、その本の心に伝えたいことが書かれている部分とは異なる部分を評するということになります。そうした要素について述べるくらいなら、もっと本編について述べるべきではないか、といった考えもできるわけです。

「まえがき」には、著者が「この本で伝えたいこと」や「ねらい」を書くものなので、その部分は、書評の対象にふくめてもよいのかもしれません。

いっぽうで、「訳者あとがき」の内容については、著者本人が書いたものではないため、特筆すべきことがないかぎりは通常は書評にはふくめないものです。

「囲み記事」や「あとがき」については、対象にふくめるかはその書評によりけりといったところでしょうか。しかし、やはり本編のなかに評すべき内容があるのであれば、本編の内容を優先すべきものではあるでしょう。

読者たちは書評に対するイデアをもっているものです。「書評とは、だいたいこんなふうに書かれるものだ」と。書評の書き手が、特徴的な書評を書きたいのだとすれば、その定型から逸脱した原稿を書くことをめざすのではなく、目のつけどころや評価のしかたに独自性をもたせることをめざすべきなのでしょう。
| - | 17:53 | comments(0) | trackbacks(0)
分析的に評価、そして総合的に評価


小学校、中学校、高校で学期末などに先生から教え子に渡される「通知表」には、A、B、Cでつけられる「観点別評価」または「観点」とよばれる項目と、3、2、1、あるいは5、4、3、2、1でつけられる「評定」とよばれる項目があります。

「評価」と「評定」ということばが使われているわけですが、どうちがうのでしょう。

国語辞典では、「評価」に対しては「品物の価格を決めること。また、その価格。ねぶみ」「事物や人物の、善悪・美醜などの価値を判断して決めること」「ある事物や人物について、その意義・価値を認めること」などとあります。

いっぽう「評定」に対しては「一定の基準に従って価値・価格・等級などを決めること」とあります。

このふたつからすると、「評価」は価値を決めたり認めたりすることであり、「評定」は価値を決めること、となります。

しかし、実際に文部科学省が定めている「評価」と「評定」の意味合いは、やや異なります。

文部科学省は、「観点別学習状況の評価」について「各教科の学習状況を分析的に評価するものであり、学習指導要領に示す目標に照らして、その実現状況を観点ごとにA、B、Cの3段階で評価するものです」としています。

つまり、「評価」の意味そのものについては「評価するもの」となっているわけです。「評価」をべつのことばで表現して説明するまではしていません。

いっぽう「評定」については、「観点別学習状況を基本として、各教科の学習状況を総括的に評価するものであり、小学校(第3学年以上)では3、2、1の3段階、中学校では5、4、3、2、1の5段階で評価するものです」としています。

つまり、「評定」の意味するところは「評価するもの」としています。

「観点別学習状況の評価」も「評定」も、どちらも「評価するもの」としているわけです。「評価」と「評定」の辞書的な意味のちがいと照らしあわせても、あまり意味をなさないことになります。

文部科学省の「観点別学習状況の評価」と「評定」説明のなかで、対比がなされているのは、前者を「分析的に評価するもの」とし、後者を「総括的に評価するもの」としているところです。

実際、通知表には、「観点」あるいは「観点別評価」の欄には、教科・科目ごとに3ないし5項目が設けられ細分化されているのに対して、「評定」は細分化されていません。

ウィキペディアの「評定」を説明するページでは「『様々な評価を総合して最終的に定めた値踏み』というニュアンスで理解するのが適当であろう」といった説明が冒頭にされています。ウィキペディアの情報は、さほど知識・情報源として高い価値はおかれていないものの、説明としては的を射ているのではないでしょうか。

「通知表」は、文部科学省によると「保護者に対して子どもの学習指導の状況を連絡し、家庭の理解や協力を求める目的で作成」されるもの。子どものことを保護者に伝えるための通知表に載っている「観点別評価」や「評定」の意味を、どれだけの保護者が理解しているかは定かではありません。「だいたいこんなものだろう」という理解はそれなりにあるのでしょう。

参考資料
デジタル大辞泉「評価」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/187670/meaning/m0u/評価/
デジタル大辞泉「評定」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/187994/meaning/m0u/評定/
文部科学省「学習指導要領について」
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku/faq/001.htm
文部科学省「学習指導要領・指導要録・評価規準・通知表について」
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/07070908/004/001.htm
| - | 14:34 | comments(0) | trackbacks(0)
前を歩く人を追いぬき目的地にたどり着くかは考えどころ

写真作者:Ryo FUKAsawa

他人がこれからどのような行動をとるかは、場所や場合によっては予想つくものです。

たとえば、トイレがすぐ近くにあるような場所で、前を歩いている人がいそいそとトイレに向かっているとします。かなりの高確率で、その人はトイレで用を足そうとしているのでしょう。

この場面において自分がとくに便所で用を足す状況でないとすれば、「ああ、あの人はちょっと焦っているみたいだな」とか「一刻の猶予も許されないみたいだ」とか、心に余裕をもってその人の行動を見とどけることもできます。

しかしながら、自分もおなじ目的地に向かっている状況だとすると、心況はまるで異なったものになります。「まずい、前を歩いている人に先に使われてしまいそうだ」と。

こういうときにかぎって、トイレがひとつしか空いておらず、先に使われてしまうことはあるもの。冷や汗をかきながらトイレが空くのを待つか、そのトイレをあきらめてべつの目的地へさまようかするとことになりそうです。

ここで、道徳的観点をふくめて考えるべき課題として浮かびあがるのが、「いそいそと前を歩いている人を追いぬき、自分が先にトイレにたどり着いてもよいのか」です。

前の人はいそいそしながらも走っていはいないので、自分が走りさえすればその人を追いぬき、先にトイレにたどり着くことはできます。そのトイレは、ひとつだけ空いているかもしれません。

そして、「便所までの道のりを走ってはいけない」といった規則や法律があるわけではありません。「便所に先にたどり着いた人が便所を先に使うことができる」と考えれば、その過程は問われないわけです。

しかし、いそいそ歩いていた人にとっては、追いぬかれて便所を先に使われるのは、たまったものではありますまい。

早く用を足さなければならないような緊急事態のときは、だれであっても気が気ではなくなります。でも、おそらくは前をいそいそ歩いている人も気が気ではないはず。

そうした状況のなか、前を歩いている人を追いぬいて便所にたどり着こうとするのであれば、最大限の配慮は払ってもよいものかもしれません。

せめて、前を歩いている人に「こいつ、追いぬかしやがったな」などと思われぬような行動をとろうとすることが大切になりそうです。「これは競争になりそうだ」と感じた瞬間から行動を起こせば、直前で滑りこんで逆転したような状況を避けることはできます。

駆けだすのも避けるべきでしょう。相手の「いそいそ」よりもすこしだけ速く「すたすた」と歩めば、相手の感情を刺激するおそれはすこしは軽くなるのではないでしょうか。
| - | 14:35 | comments(0) | trackbacks(0)
教育の分野にも「マイスター」の制度


どの集団においても、一人がもっている知や技をつぎの世代の人びとに継がせることは大きな課題となります。その集団がうまく進めるかどうかは、うまくいくしくみがあることもさりながら、人がもっている知や技によるところも大きいからです。

ドイツでは、中世以来の手工業の技術を継がせるため「マイスター制度」が1953年に法制度として生まれました。「マイスター」はドイツ語で「巨匠」や「大家」を意味することば。大工、屋根ふき、ガラス細工、自動車くみたてなどさまざまな職業で独立・開業するには、マイスターの称号を得ておかなければなりません。また、これらの職業の人は、マイスターの下で修行する期間を経ます。

日本でも、ドイツのマイスター制度を模倣したしくみがあります。とくに、ものづくりの分野ではさかんで、「ものづくりマイスター」といった制度もあるようです。

しかし、マイスター制度があるのは、ものづくりの分野だけではありません。日本の教育の分野でも「マイスター」という称号を人にあたえて、教育の知や技を継がせようとするしくみが複数あります。

福岡県では、県レベルでも市レベルでも、教育関連のマイスターがあり、さかんなとりくみであることがうかがえます。

福岡県の教育委員会が設けているのは「ふくおか教育マイスター」。優れた教育実践をし、指導技術がほかの人びとの模範となるような教員を認定し、表彰するもの。

また、北九州市も「マイスター教員」の制度を設けています。とくに指導に優れた教員を認定するもので、その認定基準は「卓越した指導力で、模範となる授業を実践していること」「研修・研究活動において、優れた実績を上げていること」「児童生徒、保護者、地域住民から大きな信頼を得ていること」。ほかの教員から授業づくりについて相談を受けたり、研修会で講師をつとめたり、また公開で授業をしたりといった役割を担います。

おなじように兵庫県尼崎市にも「マイスター教員」の認定制度があります。また、山形県にも「教育マイスター」の制度があり、認定された教員は、県内外の特色ある学校を視察し、その成果を現場に活かしていくといいます。

学校外での教育も対象に「マイスター」の制度を設けているのは茨城県つくば市。「つくば科学教育マイスター」があり、「市内で科学教育活動に精力的に取り組んでいる方」を認定しています。要件は「大学・公的研究機関等に属していること」や「市内で科学教育活動を30回以上していること」などだそう。

学校の教員については、給与を受けて子どもを指導する以上、だれもが一定以上の水準をもって授業をおこなっているとも考えられます。しかし、マイスターのような称号で認証を受けることは、教員にとっての励みやより高い職業意識につながるし、まわりの教員たちへのよい影響もあるのではないでしょうか。

参考資料
人事労務用語辞典「マイスター制度」
https://kotobank.jp/word/マイスター制度-802097
朝日新聞掲載「キーワード」「マイスター制度」
https://kotobank.jp/word/マイスター制度-802097
福岡県立博多青松高等学校 2018年1月22日付「教育マイスター認定されました。」
http://seisho-teiji.fku.ed.jp/intro/Pub/Detail.aspx?c_id=350&id=398&pg=1&nw_id=1&type=new
北九州市「マイスター教員について」
http://www.city.kitakyushu.lg.jp/kyouiku/file_0044.html
青木一朗「すべての子どもたちが参加する授業を目指して『社会マイスターとしての取組』」
http://www.hyogo-c.ed.jp/~kyoshokuin-bo/27jireishu/1.pdf
横浜市立市ヶ尾中学校 2016年10月12日付「山形県からの視察」
http://www.edu.city.yokohama.lg.jp/school/jhs/ichigao/index.cfm/1,2081,15,218,html
つくば市「つくば科学教育マイスター」
http://www.city.tsukuba.lg.jp/shisei/torikumi/kagaku/1003910.html
| - | 16:47 | comments(0) | trackbacks(0)
油揚げでなくあんぱん(こしあん)をさらわれる


のどかな日曜日の午後、ある地方都市の駅前広場のいすで、ある人があんぱんとコーヒー牛乳を食べようとしていました。あんぱんは県内の有名パン屋で買ったものです。

コーヒー牛乳を飲んでいると、ほどなくして向こうからドバトが近づいてきました。お目あてはあんぱんのようです。しかし、野鳥に餌をあげるまいと、あんぱんを右手にもちながら、「あっち行きな、しっし!」とドバトに向かって左手で払うしぐさをしていました。のどかです。

するとつぎの瞬間、「ぶふぉぁーん」と音がし、右手にもっていたあんぱんがすでになくなってしまいました。この人の視界に入ったのは猛禽類が飛びさる後ろ姿。両脚であんぱんをしっかりつかんでいます。旋回し、大空へと向かっていってしまいました。

あんぱんをねだる小型鳥類を蹴散らそうとしていた高機能とされる哺乳類が、猛禽類にあんぱんをかっさらわれたわけです。ちなみにそのあんぱんは“こしあん”だったようです。

タカやワシなどの猛禽類は、基本的には肉食とされます。「猛禽」の「禽」という字には「生捕りする」といった意味があるため、そもそも「猛禽類」といえば肉食ということになるわけです。

しかし、猛禽類ながら肉食のみでなく、雑食であるという例外の鳥もあります。この人の右手に持っていたあんぱん(こしあん)を滑空してきて奪いとったのは、トビではないでしょうか。トビはタカの仲間ですが、とにかくなんでも食べることが知られています。「鳶(とび)に油揚げをさらわれる」ならぬ「鳶にあんぱん(こしあん)をさらわれる」ことになったわけです。


トビ。

猛禽類は一般的に視力に長けているため、空高くからも獲ものにねらいをつけることができます。あんぱんぐらいの餌だと、上空100メートルくらいを飛んでいても視覚でわかるといいます。人の視力でいうと8.0ぐらいになるといいます。

しかし、それにしても、このトビは、どうしてあんぱんを餌だと認識することができたのでしょうか。100メートルも離れていれば、嗅覚で「食べられそうないい臭いがする」とは認識できますまい。

鳥類全般にいえることですが、鳥は手に入れた餌を慎重についばみ、食べられるものを食べ、食べられないものは食べずに避けるといいます。この生態からすれば、このトビは、人があんぱん(こしあん)と認識している物体を、まず獲ってみて、その後、落ちついた場所でついばんで「食べられるぞ」と認識して食べることになるのかもしれません。

しかし、もうひとつ、動物には「学習」というしくみがあります。過去におなじようなものを食べていたとしたら、学習により「これも食べられるだろう」となるわけです。あんぱん(こしあん)をかっさらったトビは、過去にも動物が携えているおなじような餌をかっさらって食べた経験があったのかもしれません。

完敗を認めざるをえなかったその人は、コーヒー牛乳のみであきらめたそうです。そして、相かわらずドハトはあたりを行ったり来たりしていたのでした。

参考資料
知識の宝庫! 目がテン! ライブラリー「油あげ好き!?トビの謎 #678 (2003/04/20)」
http://www.ntv.co.jp/megaten//archive/library/date/03/04/0420.html
サントリー 日本の鳥百科「トビ」
https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1473.html
Yahoo!知恵袋「鳥はどうやって『食べ物』を識別しているのでしょうか?」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1115081051
教えて!goo「動物は何を基準に、餌を餌と判断するか。」
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/4552764.html
| - | 14:02 | comments(0) | trackbacks(0)
高校の「カッター部」全国大会で水上を躍動


高校や中学校などでは、部活動に励む生徒が大きな大会に出場すると、「祝・誰々君、全国大会出場」とか「祝・何々部、インターハイ出場」とかいったことばが書かれた横断幕や垂幕が掲げられます。

ある高校では、「祝 全国大会出場 カッター部……」といった横断幕が掲げられています。

「カッター部」とはどのような部でしょうか。写真の横断幕の「カッター部」のすぐ下には、おなじく全国大会に出場するクラブとして「家庭クラブ」もあるようです。「家庭クラブ」は家庭科の科目にちなんだ活動をしているとすると、そのすぐ上に掲げられている「カッター部」も文化部なのでしょうか。たとえば、“カッターシャツ”の洗濯やアイロンがけの高い完成度をめざすような。クリーニング店への就職の登竜門なのかもと、勝手な方向に想像を膨らませます。

どうやらカッター部は、運動部のひとつのよう。船のひとつに「カッター」とよばれるものがあり、この船を漕いで、定められた距離での時間を競う「カッター競技」があるそうです。カッター・ボートは「端艇」ともよばれます。

カッターは、船の大きさでいうと小型に属するもの。その形はいくつかあり、風を推進力とする帆船としてのものや、動力を備えて監視や警備をするためのものなどもあります。いっぽう、高校の部活動で部員が漕ぐカッターは、帆も動力もないもので、およそ9メートルの長さのボートに、たて2列に複数名の部員が座り、櫂を持って1000メートルの距離を漕いでいきます。


海外でカッター・ボートを人びとが漕ぐようす
写真作者:eigenes Archiv

東京都立大島海洋国際高校の端艇部には、この競技の概要が詳しく書かれてありまる。「カッター艇はもともと救命艇であり、その操練を通して体力・精神力を鍛え、シーマンシップを養うための水産・海洋教育における重要な基礎訓練として位置づけられています」「筋力、持久力と合わせて、強い精神力が求められます」「14人全員が心を一つにし、完全燃焼できるすばらしい競技です」とあり、とても充実した高校生活を過ごせる部活動であることがうかがえます。

高校のカッター部にとって「全国大会」とされるのが、「全国水産・海洋高等学校カッターレース大会」の全国大会のようです。地区予選を勝ちぬいて、あるいはカッター部がすくない地区では予選なしで、全国大会に出場します。第1回は1999年に開催され、優勝校は静岡県立焼津水産高校。ここ3年では、2015年に国立館山海上技術学校、2016年、2017年と連続で京都府立海洋高校が優勝しています。やはり、水上の競技だけあって「海」や「水産」と名のつく高校が強いようです。

「祝・全国大会出場、カッター部」という横断幕は、学校をあげての評価と期待のあらわれ。選ばれた部員は自分たちのとりくんできた部活動に誇りを感じて全国大会に出場することができます。

参考資料
東京都立大島海洋国際高等学校端艇部
http://www.osima-kaiyokokusai-h.metro.tokyo.jp/site/zen/entry_0000025.html
ウィキペディア「カッターボート」
https://ja.wikipedia.org/wiki/カッターボート
ウィキペディア「全国水産・海洋高等学校カッターレース大会」
https://ja.wikipedia.org/wiki/全国水産・海洋高等学校カッターレース大会
| - | 12:38 | comments(0) | trackbacks(0)
CALENDAR
S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     
<< April 2018 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで (JUGEMレビュー »)
サイモン シン, Simon Singh, 青木 薫
数学の大難問「フェルマーの最終定理」が世に出されてから解決にいたるまでの350年。数々の数学者の激闘を追ったノンフィクション。
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
amazon.co.jp
Billboard by Google
モバイル
qrcode
PROFILE