人は、亡くなった人に対していさめ、死後の世界での幸せを祈ろうとします。つまり「弔う」わけです。そしてその方法はさまざまあります。
弔いのことばつまり「弔辞」を発することは、そのひとつ。
文学界にとっての弔辞は、それそのもののがひとつの“作品”にまで昇華することもあります。たとえば、小説家の川端康成が、1946(昭和21)年3月末に、肝硬変で41歳で急に亡くなった小説家の武田麟太郎に読んだ弔辞があります。武田は1929(昭和4)年、小説「暴力」を発表し、プロレタリア作家としての地位を築き、1933(昭和8)年に『文學界』を相関しました。その一員が川端でした。下記は川端による弔辞の冒頭の部分です。
「愛する人親しい人の死を多く見るにつれて、死の恐怖は却つて薄らぐとも言はれる。已に四十歳を越えた君は、死者の国に親愛な人々を持ち、今またその大きい一人をその国に送ることがどのやうな思ひであるか知つてゐるられるであらう。しかも我々文学者の生命は最も深く自らのうちに生れ、最も豊かに他のうちに生きる。私の理会する君は猶私と共に生き、君と共に死んだのは君が理会してくれてゐた私である。この後の私の仕事は、君のみが見得てくれるだらう部分は永遠に無となるかもしれなくて、或ひは最早死であらう。かういふ寂寞孤独を君ほど多くの友人の骨に刻みつけた死は稀有である。君の徳と力とによるは勿論ながら、また君の宿業の文学への愛の証に外ならない」
政界には追悼についての慣わしがあります。党首などの名をなした議員が現職で亡くなったとき、対立政党の党首が追悼演説をするのが通例となっています。衆議院では「追悼演説」、参議院では「哀悼演説」とよばれるようです。
たとえば、自由民主党党首だった池田勇人が、日本社会党党首で、1960(昭和35)年に東京・日比谷公会堂での党首演説会の登壇中に、17歳の右翼少年に刺されて亡くなった淺沼稲次郎に対し、死後6日後の衆議院本会議場で追悼演説をおこなっています。池田の演説に与野党とわず拍手が起き、この追悼演説が池田の評価を高めたともいわれます。
「日本社会党中央執行委員長、議員淺沼稻次郎君は、去る十二日、日比谷公会堂での演説のさなか、暴漢の凶刃に倒れられました」
「私は、皆様の御賛同を得て、議員一同を代表し、全国民の前に、つつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます」(拍手)
「ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに、本会議のこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行ない、また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であります」
企業への貢献が強かった故人には、社葬が執りおこなわれ、ともに働いてきた同志の仲間が弔辞を述べることがあります。本田技研工業の創業者の一人、本田宗一郎は、おなじく創業者の一人で、「本田の名参謀」とも評されていた藤沢武夫が1988(平成元)年に亡くなったときの社葬で、弔辞を述べました。下記も弔辞の冒頭部分です。
「藤澤武夫君、四歳も年下の君が突然逝ってしまい、今私がお別れの言葉を述べることになろうとは夢にも思わないことでした」
「四十年間藤澤君と私は最良のコンビ、最良の友と言われてきましたが、私にとって君は友人というよりは兄弟、いやそれ以上の存在でした」
「経営にあたっては二人合わせて一人前でした。会社を退いてからはそれぞれに自分の好きな道を歩んできて、お互い顔を合わせることも少なくなりましたが君の豪快な笑顔はいつも私の近くにありました。昨年の十月スズカサーキットでF1が優勝したときはわざわざ電話をいただき、「勝てゝ本当によかったな」と喜んでくれました。私はほかの誰から贈られた言葉よりそのひと言がジーンと胸に浸みました。君と言葉を交した最後の機会になってしまいましたが、今日のスズカサーキットを築いてくれた藤澤君と共に日本での初勝利の喜びを分かちあえたのは幸せでした」
参考資料
国会会議録検索システム「衆議院 第036回国会 本会議 第2号 昭和三十五年十月十八日(火曜日)」
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/036/0512/03610180512002c.html