科学技術のアネクドート

故人をいさめ、死後の世界での幸せを祈る


人は、亡くなった人に対していさめ、死後の世界での幸せを祈ろうとします。つまり「弔う」わけです。そしてその方法はさまざまあります。

弔いのことばつまり「弔辞」を発することは、そのひとつ。

文学界にとっての弔辞は、それそのもののがひとつの“作品”にまで昇華することもあります。たとえば、小説家の川端康成が、1946(昭和21)年3月末に、肝硬変で41歳で急に亡くなった小説家の武田麟太郎に読んだ弔辞があります。武田は1929(昭和4)年、小説「暴力」を発表し、プロレタリア作家としての地位を築き、1933(昭和8)年に『文學界』を相関しました。その一員が川端でした。下記は川端による弔辞の冒頭の部分です。

「愛する人親しい人の死を多く見るにつれて、死の恐怖は却つて薄らぐとも言はれる。已に四十歳を越えた君は、死者の国に親愛な人々を持ち、今またその大きい一人をその国に送ることがどのやうな思ひであるか知つてゐるられるであらう。しかも我々文学者の生命は最も深く自らのうちに生れ、最も豊かに他のうちに生きる。私の理会する君は猶私と共に生き、君と共に死んだのは君が理会してくれてゐた私である。この後の私の仕事は、君のみが見得てくれるだらう部分は永遠に無となるかもしれなくて、或ひは最早死であらう。かういふ寂寞孤独を君ほど多くの友人の骨に刻みつけた死は稀有である。君の徳と力とによるは勿論ながら、また君の宿業の文学への愛の証に外ならない」

政界には追悼についての慣わしがあります。党首などの名をなした議員が現職で亡くなったとき、対立政党の党首が追悼演説をするのが通例となっています。衆議院では「追悼演説」、参議院では「哀悼演説」とよばれるようです。

たとえば、自由民主党党首だった池田勇人が、日本社会党党首で、1960(昭和35)年に東京・日比谷公会堂での党首演説会の登壇中に、17歳の右翼少年に刺されて亡くなった淺沼稲次郎に対し、死後6日後の衆議院本会議場で追悼演説をおこなっています。池田の演説に与野党とわず拍手が起き、この追悼演説が池田の評価を高めたともいわれます。

「日本社会党中央執行委員長、議員淺沼稻次郎君は、去る十二日、日比谷公会堂での演説のさなか、暴漢の凶刃に倒れられました」

「私は、皆様の御賛同を得て、議員一同を代表し、全国民の前に、つつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます」(拍手)

「ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに、本会議のこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行ない、また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であります」

企業への貢献が強かった故人には、社葬が執りおこなわれ、ともに働いてきた同志の仲間が弔辞を述べることがあります。本田技研工業の創業者の一人、本田宗一郎は、おなじく創業者の一人で、「本田の名参謀」とも評されていた藤沢武夫が1988(平成元)年に亡くなったときの社葬で、弔辞を述べました。下記も弔辞の冒頭部分です。

「藤澤武夫君、四歳も年下の君が突然逝ってしまい、今私がお別れの言葉を述べることになろうとは夢にも思わないことでした」

「四十年間藤澤君と私は最良のコンビ、最良の友と言われてきましたが、私にとって君は友人というよりは兄弟、いやそれ以上の存在でした」

「経営にあたっては二人合わせて一人前でした。会社を退いてからはそれぞれに自分の好きな道を歩んできて、お互い顔を合わせることも少なくなりましたが君の豪快な笑顔はいつも私の近くにありました。昨年の十月スズカサーキットでF1が優勝したときはわざわざ電話をいただき、「勝てゝ本当によかったな」と喜んでくれました。私はほかの誰から贈られた言葉よりそのひと言がジーンと胸に浸みました。君と言葉を交した最後の機会になってしまいましたが、今日のスズカサーキットを築いてくれた藤澤君と共に日本での初勝利の喜びを分かちあえたのは幸せでした」

参考資料
国会会議録検索システム「衆議院 第036回国会 本会議 第2号 昭和三十五年十月十八日(火曜日)」
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/036/0512/03610180512002c.html
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横並びの席で隣人に身を乗りだされると疎外感が高まる

写真作者:Mack Male

長い机、それに椅子がいくつも置いてあり、そこに横一列で人びとが座るような状況はよくあるものです。

食事会では、人びとが横一列に座り、また向かい側にも人びとが横一列に座り、向かいあって会話しながら食事するというのはよくあること。また、就職活動などの集団面接でも人びとが横一列に座ることはあたりまえのようにあります。

そうした席において、「話をするのに困ってしまう」というのは、どのような状況でしょうか。

人びとに“迷惑行為”とまでは思われていないようですが、「となりに座っている人に身を乗りだして話をされる」というのは、じつのところ、かなり困ってしまう状況ではないでしょうか。

たとえば、ある食事会で、手前側に5人が横一列に座り、向かいの奥側にも5人が横一列に座っているとします。

Aさんは、手前側の左端の席。となりには、Bさん、Cさん、Dさん、Eさんと横に並んで座っています。また、Aさんの向かいには、左から順にFさん、Gさん、Hさん、Iさん、Jさんが座っています。

参加者の趣味の話などですこし盛りあがってきて、Aさんは自分も話をしようとします。ところが、右どなりに座っているBさんが、机のほうに身を乗りだします。しかも、寿司屋のカウンター席などでよく見られるように、Bさんは左ひじを机のうえに置き、姿勢をCさん、Dさん、Eさん側に向けて、楽しそうに話しています。

こうなると、Aさんの視界に入るのは、おもにBさんの肩から背中にかけてと、向かいの席のFさんぐらいのみ。

しかも、さらに困ったことに、話を盛りあげる人は、Aさんからもっとも離れた対角線上にいるJさんです。真向かいにいるFさんが盛りあげ役であればまだしも、こうなると、輪から疎外されたまま「……」と黙っているか、あるいは、話に「ああ、それそれ、私も経験あります」などと大きな声で割ってはいるしかありません。

話に割ってはいるのは、なかなか勇気のいるもの。Aさんは、話すに話せず、食事だけでなく疎外感も味わうのみでした。

Bさんが、身を乗りだして、左ひじを机に置いたとしたら、きわめて悪意ある行為といわねばなりません。しかし、人によっては、自分が身を乗りだすことで、会話しづらくなるということに気づいていない人もいそうではあります。

意図的でも無意識的でも、今度、おなじ状況でAさんとBさんの席が入れかわるようなことがあったとき、AさんはBさんをしたらどうでしょうか。

「ああ、これまで自分はおなじように身を乗りだして、となりの人に迷惑をかけていたのだ」と気づく人もいれば、自分がおなじようなことをしているのに気づかず「おい、A、おまえおれの話すじゃまをするな!」とただ怒りだす人もいるかもしれません。
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「科学にもとづく目標」でもとづくのは「2度シナリオ」

写真作者:ricky artigas

医療の世界では、「根拠にもとづく医療」(EBM:Evidenced Based Medicine)という考えかたが、とくに2000代に入ってから、医師などのあいだで重きをおかれるようになってきました。医師の経験や主観でなく、論文で認められているなどの科学的根拠にもとづいて医療をおこなうことをさします。

医療は人の病気を治す技術のことですが、地球の環境をよい状況にするための方法をめぐっても、ちかごろは「根拠」があることに重きが置かれるようになってきています。

自然環境の保護をめざす世界自然保護基金(WWF:World Wildlife Fund)や、 地球環境問題などについての政策を研究したり技術の支援をしたりする世界資源研究所(WRI:World Resource Institute)などの国際的な組織は「科学にもとづく目標イニシアチブ」(SBTi:Science Based Target initiative)というとりくみを2015年に、共同ではじめました。

このとりくみそのもには、メキシコのカンクンで2010年に開かれた気候変動枠組条約第16回締約国会議の決定文書に書かれた「産業化前からの地球平均気温上昇を2度ないし1.5度以下に抑制し、それを可能にする2013年以降の国際枠組みを構築し、機能させることを目指す」という記述をきっかけとするもの。地球の平均気温の上昇を産業革命前にくらべて2度までに抑えるための活動を企業にうながします。

具体的には、これにとりくむ企業は、「実行意思表明文書を提示する」「目標を設定する」「妥当性確認のための目標を提示する」「目標を広報する」といった段階を経ていくことになります。2018年3月上旬の時点で、世界の670の企業がイニシアチブに参加しているといいます。

では、地球平均気温の上昇を産業革命前にくらべて2度までに抑えるための「科学にもとづく目標」とは具体的にはなにをさすのでしょうか。

「科学にもとづく目標イニシアチブ」で開発された方法として「部門別脱炭素化手法」(SDA:Sectoral Decarbonization Approach)という方法があります。

イニシアチブの公式文書である「科学にもとづく目標 第1版」には、「この手法は、国際エネルギー機関が2014年に技術展望報告書でモデルとされた二酸化炭素部門別シナリオの『2度シナリオ』にもとづくものである。報告書の試算は、気候変動に関する政府間パネル第5次評価報告書からの『代表濃度経路2.6シナリオ』と一致するもので、それは2100年における世界が目標とする気温上昇2度未満にもっとも高い可能性をあたえている。同パネルによるその実現可能性は最低でも66パーセント。国際エネルギー機関の2度シナリオは、2050年までの総炭素収支として、二酸化炭素換算で1兆550億トンと見つもっている」としています。

「2度シナリオ」そして「代表濃度経路2.6シナリオ」とあるのは、気候変動に関する政府間パネルの第5次評価報告書で示された4種類のシナリオのうち、もっとも地球温暖化が抑えられる場合を想定してのシナリオです。

上の説明からすると、「部門別脱炭素化手法」は、国際的に信頼されている国際機関がこれまでに示している気温上昇抑制の目標を基本にしているわけです。そして同文書によると、企業活動を構成する「農業、林業、土地利用」「建設」「輸送」「生産」「ほかのエネルギー」「発電・発熱」といった部門に分けて目標達成を考えることを提案しています。

なお、同イニシアチブでは、この部門別脱炭素化手法を強く推しすすめているものの、すでに国際的に普及している手法を受けいれる姿勢を示しているといいます。

いまのところ、「科学にもとづく目標」は、手法の内容よりも企業のとりくみのほうを指すことばとして捉えられる向きが大きいようでもあります。しかし、とりくむからには「科学にもとづく根拠をもつ」ということは基本的に大切なこと。よって、手法の内容についても大切にすべきことといえます。

参考資料
EICネット「世界資源研究所」
http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=1515
環境省・みずほ情報総研「サプライチェーン排出量の算定と削減に向けて」
https://www.env.go.jp/earth/ondanka/supply_chain/gvc/files/SC_syousai_20180306.pdf
みずほ総合研究所「『パリ協定』と『SBT』」
https://www.mizuho-ir.co.jp/publication/column/2016/1115.html
サステナブル・ジャパン 2017年8月7日付「SBTイニシアチブとは何か 科学的根拠に基づく二酸化炭素排出量削減目標」
https://sustainablejapan.jp/2017/08/07/sbt-initiative/26580
the Science Based Targets Initiative “Science Based Target version 1”
https://sciencebasedtargets.org/wp-content/uploads/2015/05/Sectoral-Decarbonization-Approach-Report.pdf
世界自然保護基金「地球温暖化についてのIPCCの予想シナリオ」
https://www.wwf.or.jp/activities/2015/08/1278424.html
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新幹線の網製もの入れ、考えてみれば“優れもの”


ふだんなにも意識することなく使っているものも、あらためて使い勝手を意識してみると、よくできた“優れもの”であると気づかされることがあります。

多くの人は、新幹線などの鉄道座席の背面にある「網製もの入れ」に対しても、「考えてみればよくできている」と感じるのではないでしょうか。

この網はゴムでできているため伸縮自在です。そのため、雑誌や新幹線の乗車券などの大きめの切符といった薄いものも、缶コーヒーやじゃがりこなどの丸みのあるものも収めておくことができます。

しかも、網であるため、このもの入れになにを入れてあるかが一目瞭然です。もし、これが網状でなく袋状のもの入れだったら、透明なものにしないかぎり入っているものがわからないでしょう。そうなると忘れものは多くなるでしょうし、また、ごみをそのまま置きざりされることも増えるのではないでしょうか。

掃除も、ほかの仕様だった場合を考えると楽そうです。袋状のもの入れだとすると、奥の角のあたりを布などで拭くのはたいへんそうです。網であれば、拭き逃す場所がなさそうです。

一時期、JR東日本の東北新幹線では、ゴム網の部分が“ゴム帯”になっていた時期があったようです。しっかり下側でものを支える機能がないため、ものを留めておく安定性は低かったでしょう。いまは、ゴム網のもの入れに戻っているようです。

さらに、JR東日本の新幹線の車種によっては、網製もの入れの左側に輪っか状のゴム紐もついているそう。これは、傘をくぐらせて留めておくためのもののようです。

網製もの入れのことを、「これはとても便利だ」などと噛みしめて使う人はあまりいないでしょう。逆に、「これは使いづらいな」などと不便を感じる人もあまりいないでしょう。なにも感じさせずに“そこにある”というのは、道具として優れている証拠ではないでしょうか。

参考資料
アイプラス店長 キューティー吉本の自由旅行「東北新幹線 はやぶさ はやて やまびこ なすの」
https://qt-yoshimoto.ai-plus.com/blog/archives/15953
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「旦過スパイスカレーARATA」のドライキーマカレー――カレーまみれのアネクドート(108)


わりと大きな街には、表通りから横へと入る小路、つまり「横丁」があるものです。人がすれちがえるくらいの道幅ですから、グーグル車は入れません。

横丁といえば、バー、スナック・バー、寿司屋あたりが店の定番でしょうか。しかし、街によっては「カレー」を求める者が横丁に入っていくこともあります。

北九州市・魚町には「新旦(たんが)過飲食街」という横丁があります。紫川支流の川岸に店々のならぶ商店街「旦過市場」のすぐとなりにある小さな路地。市場の通りとちがって横丁に屋根はないものの、道が狭いため見あげる青空も狭い。「旦過」には、この街では市内にある宗玄寺のための宿の名に由来するとも、宿泊した旅人たちが旦つまり早朝に立ったことに由来するともいいます。

横丁の入口からかなり奥のほう、「旦過スパイスカレーARATA」が佇んでいます。ぱっと見でカレー店と見えないのは、横丁にカレー店というめずらしさがあるからでしょうか。

店内には、カウンターの6席のみ。木のいす、木の卓、木の床です。木製のギターも壁にかかっています。

つねに供しているカレーは、「ドライキーマカレー」「チキンカレー」「ブラックチキンカレー」の3種。客が品を頼むと、のれんの奥のほうから具材を炒める音が聞こえ、すぐのちに香ばしい香りがやってきます。

香辛料の揃えに自負があるのでしょう。卓には「スパイスの効果」と書かれた香辛料の一覧が。カルダモン、コリアンダー、しょうが、唐辛子、シナモン、フェンネル、クミン、ターメリック、胡椒、にんにく、クローブと連なっています。

「キーマカレー」は、ライスが隠れるくらいに、ひき肉とひよこ豆を和えたカレー、コリアンダー、パプリカ、漬けもの、それに卵が盛られています。

ひき肉ひとかたまりと、ひよこ豆ひとつがちょうどおなじくらいの大きさで、ふたつが合わさってキーマカレーとなっています。カレーの風味は、香辛料をふんだんに使っているとわかるほど豊か。

ティファニーの皿に盛られたすべての食材を混ぜてから食べる人もいれば、ライスと具材をひとさじずつ均衡よくすくって食べる人もいるもよう。

店は2017年に開業したのだそう。小倉の新たな名店に名のりをあげそうです。

「旦過スパイスカレーARATA」のフェイスブックページはこちら。
https://www.facebook.com/tangaspicecurryarata/
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不自然に感じられても本来は自然なかたち


東京・谷中には、ふつうの道とは考えられないほど曲がりくねった道があります。「一発貫太くん」の副主題歌で歌われる「曲がりくねった道だけど」というのは、まさにこのような道のことを指しているのでしょうか。

この曲がりくねった道は、「三里」というそば店のあたりから始まり、北上すると、左へ、右へ、左へ、右へ。すこしまっすぐ北上してから、右へ、左へ、また右へ。すると、「ペチコートレーン」いう喫茶店が見えてきて、だいたいこのあたりで顕著な曲がりくねりは終わりとなります。

近くを南北に走る不忍通りの真っすぐさとは対照的。地図で調べてみると、「へび道」というよび名もついていることがわかります。まさに、蛇がにょろにょろと這って進むときの動きのような小さな曲線が連なる道です。

シケインカーブのようにかくっと曲がっている道としては、江戸時代、敵が街道から攻めてきたときに勢いを止めて迎え撃つためのものや、道の先に遊郭街があるため人々の視野から外すためのものなどがあります。しかし、それらの道は、この「へび道」ほど数多く曲がっているわけではありません。

へび道が曲がっているのは、かつてこの道が川だったからです。藍染川は、いまの豊島区にあたる上駒込村にあった長池を水源とし、田端、根津、谷中などを通り、不忍池に注ぎこんでいました。

しかし、氾濫が多く起こったため、1921(大正10)年から工事がおこなわれ、蓋がされてその上が道路となりました。いまの時代では、まさに蛇行するような川を暗渠にするとき、まっすぐな道にしたり、コンクリートの道にせず緑道にしたりするかもしれません。しかし、当時は、川のかたちをそのまま残して道がつくられたわけです。



曲がるところでは、車道と歩道を分ける左右の白線が極端なほど狭められています。歩行者が車に巻きこまれないようにするための注意ということでしょうか。

まわりの道路が直線的なものであることを考えると、へび道は不自然なくらいに曲がりくねっています。しかし、もともとは川の流れだったことからすると、へび道の曲がりかたは不自然なものではなく、むしろ自然なものと考えなければなりません。川でなく道と化していることや、まわりの道が直線的であることから、自然のかたちも不自然に感じられてしまうのかもしれません。

参考資料
文京ふるさと歴史館「根津界隈」
https://www.city.bunkyo.lg.jp/rekishikan/history/machi_b/index.html
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表に学びの目標を記し、学ばせ、評価する



文部科学大臣が教育課程の基準として示す学習指導要領の改訂が、小学校では2020年度、中学校では2021年度から全面実施されます。高校でも2022年度から年次進行で実施されていきます。

新しい学習指導要領をめぐっては、どのように学ぶかを検討するなかで「課題の発見・解決に向けた主体的・協働的な学び」の重要性が叫ばれてきました。これは、いわゆる「アクティブ・ラーニング」といわれるもの。実際の学習指導要領では「アクティブ・ラーニング」という文言はなくなったようですが、課題を発見して解決する学びや、主体的な学びを重視することにちがいはなさそうです。

こうした学びかたの変化をめぐっては、教育者のあいだで注目されている手法もあるようです。

「ルーブリック評価」という学びの評価法はそのひとつ。これは、学びで身につけてほしい目標を表に示しておき、学びに区切りがついた段階での到達度を3段階から5段階ほどで評価する方法。

先生が、表を用意します。左端の列には「評価指標」とよばれる学びの目標を上から下にかけて並べていきます。また、上端の行には「評価基準」とよばれる学びの水準を左から右にかけて、水準の低いほうから高いほうに3ないし5段階ほどで並べます。そして、表組の本体には、その評価指標とその評価基準について、「このくらいのことまではできていること」といった到達の条件を書いていきます。

これを学びを始めるときに、学ぶ人たちに示しておくわけです。そして、学期末などの学びに区切りがついた段階で、その評価指標についての到達度を示していくわけです。

「ルーブリック」(Rubric)ということばは、ラテン語で「赤」を意味する“Ruber”
を語源とし、法律や典礼において指示内容となる文言が赤い字で書かれていたことに由来するといいます。

米国などではルーブリック評価はいち早く1960年代から導入され、1970年代には教室でよく使われるようになったといいます。

上にあるように、新しい学習指導要領では、課題を発見して解決しようとする姿勢を身につけることが重視されています。正解か不正解かを求めるだけではないような、学びが増えていくなかで、それでも学びに対する評価をする必要があることなどから、このルーブリック評価が教育者たちのあいだで注目されているようです。

参考資料
沖裕貴「ルーブリックって何?」
https://www2.chubu.ac.jp/quest/about/documents/rubric_what.pdf
G-Edu グローバル教育気になるキーワード「ルーブリック」
http://www.core-net.net/g-edu/issue/6/
文部科学省「教育課程企画特別部会 論点整理」
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/attach/1364316.htm
Donna K. Korycinski “Using Rubrics”
https://www.usma.edu/cfe/Literature/Korycinski_11.pdf
Debra Shipman .et al “Using the analytic rubric as an evaluation tool in nursing education: the positive and the negative.”
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/21571406

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通天閣、広告面3面、公共面1面


大阪・恵美須東にある通天閣は、電気街のある日本橋や、ターミナル駅のある天王寺などからも、景観を特徴づける建てものとなっています。2014年に開業したあべのハルカスも近くにあるものの、大阪南部の高い建てものといえば、通天閣を思いうかべる人は多いのではないでしょうか。

夜の通天閣に映えるのは、やはり電照広告です。鉄塔の色は15分ごとに変わるなかで、白く縦に輝く文字がとりわけ映えます。

いまの通天閣は“2代目”。1956(昭和31)年に竣工しました。そして、電照広告が灯ったのは翌1957(昭和32)年7月だったそうです。当初から広告主は日立製作所。同社サイトの「日立と通天閣の歴史」というページには、「日立は通天閣が再建された1956年に白黒テレビ第1号機を発売し、家電事業に本格参入した時期でした。競合がひしめく関西エリアで日立の名を広めたいという強い志と、通天閣を再建したいという地元の想いが合致して、日立が通天閣にネオンサインを出すに至ったのです」とあります。

当初は「日立テレビ」のほか、「日立モートル」「日立ポンプ」といった製品名や企業ブランドを表現した電照広告だったそうです。2017年2月以降は「社会イノベーションの日立」そして「社会に貢献する日立」など。製品名から企業ビジョンなどに移りかわったのも時代の変化のあらわれでしょうか。

電照広告を出せる面が東西南北4面あるなかで、西面は「公共面」として、日立の広告でなく、「社会貢献や地域の活性化」を目的としたことばにしているとのこと。これは、通天閣と日立製作所の契約時の約束なのだそうです。

1961年までは水銀柱式寒暖計のような模様の「マンモス寒暖計」でしたが、以降、1967年まで「日本万国博」、1970年まで「みんなの願い交通安全」、1983年まで「交通安全大阪21世紀計画」、1988年まで「花の万博 あと○○日」、ふたたび2001年まで「交通安全大阪21世紀計画」となり、1996年からは夜のみ見られる「防火・防災街づくり」も加わりました。

その後、21世紀に入り、2001年から2006年まで「人、まち、かがやく大阪」「なにわの安心防火から」「安全はゆずりあいの心から」、2011年まで「元気な大阪、美しい水の都」「もってますか!!警戒心」「こころでつなぐ防火の輪」となり、2011年10月からは「笑顔の生まれる街、大阪」という公募採用標語とともに「通天閣」というシンプルなことばに。

そして、最新の2017年2月からの西面では、「通天閣」のほか「笑顔の生まれる街、大阪」と表現しています。

街には横書きによる広告があふれるなかで、天に通じる高い建てものには、やはり縦書きの広告がにあっています。

参考資料
日立製作所「日立と通天閣の歴史」
http://www.hitachi.co.jp/about/publicity/ad_outdoor/tsutenkaku_60th/history.html
日立製作所・通天閣観光 2006年6月29日付「なにわのシンボル・通天閣ネオンの全面的なリニューアル工事に着工」
http://www.hitachi.co.jp/New/cnews/month/2006/06/0629c.pdf#page=2
日立製作所・通天閣観光 2011年10月14日付「大阪のシンボル・通天閣ネオンのデザインを一新」
http://www.hitachi.co.jp/New/cnews/month/2011/10/1014.pdf
日立製作所「ネオンサインの改修内容」
http://www.hitachi.co.jp/about/publicity/ad_outdoor/tsutenkaku_60th/upgrade.html
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性格診断によって自分の判断や行動を縛る人も


写真作者:Nina A. J. G.

おもに20世紀なかごろから、人の特性を見きわめて活かすための「性格診断」や「性格分析」といわれる方法が編みだされ、使われてきました。個人が「自分のことを知りたい」と興味本位で試すというほかに、企業が多くの社員に試みさせて、組織の力を活かそうとするといった目的でも、性格診断や性格分析はおこなわれているようです。

たいていどんな性格診断の方法にも、「第何版」といったように版がありますから、改良が重ねられてきたのでしょう。改良が重ねられるということは、診断を試みる人の“ほんとうの姿”を、より正確に導きだせるようになってきているといえるのかもしれません。性格診断の信憑性が高まってくるわけです。

「あっはーん。自分って理性的な気質のもち主とばかり思っていたけれど、試験を受けてみたら、意外なほどに感情的だったのねー」とか、「むむむ。事務能力に長けていると考えていたけれど、創造性のほうが圧倒的に高かったのか」とか、人によっては性格診断を試すことで、自分が考えていたのと異なる自分に出あえることもあるのではないでしょうか。

そうした自己の発見は、新たなことにとりくむきっかけをもたらしたり、人との接しかたを考えなおすきっかけをあたえたりするといった側面もあることでしょう。

しかし、そのいっぽうで、「自分とはこういう性格の人間なんだ。性格診断でわかった自分の性格に合わないことは避けることにしよう」といったように考える人も、すくなからずいるのではないでしょうか。

性格診断を受けたある人物は、自身の変化をつぎのように語っています。

「結果を見てみたら、自分をつくりあげるさまざまな要素が、みんな『創造性』とか『発想』とかの領域に入っていたんです。自分では『理詰め』とか『確実さ』といったことをどちらかといったら自分のもち味と考えてきたのですが、ぜんぜんちがっていました」

「それで、この性格診断を受けてからというものの、『自分はきっちりとした仕事をするのは向いていないんだ』とばかり思うようになって、確認することが大切な仕事とかを頼まれても『あ、私はそれは向いていないので、できません』と断るようになってしまった。いいんだか、悪いんだか……」

どうでしょうか。「あなたはこういう性格の人です」とか「あなたは周囲からこういう人に見られています」などと判断されると、「自分はそういう人なんだ」とか「自分はそう振るまうのがいいんだ」とか強く考えすぎて、自分の判断や行動に縛りかけてしまう人も出てくるのではないでしょうか。

そういう“縮んでしまう”人を出さないため、性格診断では、質問紙や分析結果に「この診断は、あくまで参考程度のものと考えていただき、自分の行動を限定的になさらないでください」などと書いておくのも手かもしれません。

しかし、技術が進んで、正確性が高まれば高まるほど、「参考程度」とは思えないようになってきます。影響を受けやすい人は、可能であれば「受けない」というのも一考に値しそうです。

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「本家 → 専門家たち → 本家」の手順で集団学習

写真作者:ben.gallagher

一人でなく、人が集まってみんなで学ぼうとすることがあります。学校での学びはその典型例といえましょう。そこでは、みんなが集まっているからこその学びの方法も考えられているようです。

1971年に米国の心理学者エリオット・アロンソ(1932-)は「ジグソー法」とよばれる集団での学習法を編みだしました。この方法は、端的にいうとつぎのようなものです。

ふたつの集団を用意する。まず、ひとつは「本家」としてまとめられる集団。たとえば、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんの4人で構成されるものとする。全体で16人いるときは、「本家」の集団はこの場合、4組あることになる。

「本家」の構成員でなにかを学ぶとして、全体のなかの学ぶ部分を、この4人で分担する。AさんはA’の部分を学ぶ、BさんはB’の部分、CさんはC’の部分、DさんはD’の部分、といった具合に。

いったん、「本家」の集団は離ればなれになり、もうひとつの集団である「専門家たち」の集団へと向かう(実際は部屋のなかで席替えをする)。「専門家たち」集団は、ほかの「本家」集団で、A’の部分を学ぶことを担当する人たち、B’の担当の人たち、C’の担当の人たち、D’の担当の人たちからなる集団。

ここで、たとえばAさんは、ほかのA’の部分を学ぶことを担当する人たちとともに、A’の部分のことについて情報を交換するなどして学びを深めていく。おなじようにBさんもCさんもDさんも、それぞれの担当の部分の学びを深めていく。

「専門家たち」集団による学びが終わったら、ふたたび「本家」の集団に戻る。そして、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんがそれぞれ「専門家たち」集団で学んできたことを「本家」のほかの人たちに伝えていく。

このようなものです。どうでしょうか。

ジグソー法で学ぶ人たちにとっては、学ぶ対象の全体像を理解することが目的となります。しかし、学びを課す教育側の人たちにとっては、みんなで学ぶにあたり、協力することの大切さを身につけてもらうといったことが、ジグソー法での目的となるといいます。

たしかに、「本家」の集団で、A’の部分を学ぶのはAさんのみ。Aさんは、責任をもって「専門家たち」集団から情報を仕入れてこなければと考えることでしょう。聞こうとする姿勢が養われるわけです。

また、その裏かえしに、Aさんは、ほかのBさん、Cさん、Dさんから、頼られることになります。「本家」集団の学びのために自分が役に立てたという達成感や自尊心を得ることもできそうです。

ジグソー法は、みんなでジグソーパズルを解いて全体像を浮かびあがらせるような作業であることから、こう名づけられたといいます。学校の授業や企業の研修などでは、実際にジグソー法を採りいれた学びがおこなわれてもいるようです。

参考資料
熊本大学 基盤的教育論「ジグソー法」
http://www.gsis.kumamoto-u.ac.jp/opencourses/pf/3Block/10/10-3_text.html
友野清文「ジグソー法の背景と思想」
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20170730224230.pdf?id=ART0010444625
白岡市立南中学校校長室通信 第9号「すばる小集団学習のすすめ」
https://www.fureai-cloud.jp/minamij/attach/get2/174/0
| - | 10:24 | comments(0) | trackbacks(0)
「ジャンボカレー」のカツカレー――カレーまみれのアネクドート(107)


街のなかったところに新たに「ニュータウン」として街がつくられたのが1970年代ごろ。それから40年や50年が経とうとしています。そのくらいの歳月が経つと、ニュータウンには一斉に街の歴史が始まったからこその雰囲気が出てくるものかもしれません。

ニュータウンが開かれたころに開業したカレー店も、いま新たに築こうとしてもなかなか実現できないような店の雰囲気が出るものです。

豊中市・新千里東町の商業施設「せんちゅうパル」に入っている「ジャンボカレー」もまさに、歳月の経ったニュータウンのカレー店としての店構えを感じさせます。

この店は、北大阪急行の千里中央駅のプラットホームが見おろせる通路にならぶ飲食店のひとつ。「せんちゅうパル」とよばれる創業施設の地下1階にあります。駅もこの商業施設も大阪万博が開かれた1970年に開業しました。そして「ジャンボカレー」も駅や商業施設の開業当初から営業していたといいますから、ニュータウンの歴史を築いてきた一要素といえそうです。

店の前には「ようこそジャンボカレーへ」の看板が。「辛口カレー」「ハンバーグカレー」「デラックスカレー」などとカレーの写真が縦よっつ、横よっつ並んでいます。そんななかで「カツカレー」は、最上段の左から二番目という好位置に。定番のカレーのひとつなのでしょう。

店にはカウンター席のみ。わりと高い位置で腰かけるいすがあり、机は銅色が鈍く光るもの。店は「スタンドカレー」の類のひとつといってもよいでしょうか。

カツカレーは、ライス、カレーソース、そして衣を含めて1センチメートルほどの厚さのカツで構成されています。カレーソースには具がなく、素朴な見た目。ポリ容器のなかに入った福神漬も、店の雰囲気に溶けこんでいます。

カレーの味は、とても辛いわけでも、甘すぎるわけでもなく、だれもが受けいれることのできる穏やかなもの。

店がまえも、カレーの中身も、「1970年代に開業したニュータウンの商業施設のカレー店」と言われたとき、裏ぎるような要素がほとんどありません。

千里中央駅は北大阪急行の終点駅でした。しかし、2020年度には、さらに線路が北に伸び、この駅は途中駅となる予定。「終着駅があるニュータウン」という街の位置づけも変わっていくなかで、ニュータウンのカレー店はこれからどのように歩んでいくでしょうか。

「ジャンボカレー」の食べログ情報はこちらです。
https://tabelog.com/osaka/A2706/A270601/27005241/

参考資料
Lament「豊中千里中央 ジャンボカレー」
http://lament.blog.jp/archives/24580716.html
ウィキペディア「千里中央駅」
https://ja.wikipedia.org/wiki/千里中央駅
| - | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0)
病的なくらい健康……、健康的なくらい病気……


人は、ある状態と、その状態を実現するための過程とが、正反対なものになっていることがときにあります。

たとえば、「病的なくらいに健康である」人がいます。血圧を1日50回、血圧計で測って、正常値であることを確かめているような人は、自分の健康に対して病的です。あるいは、どんなに寝不足でも、あるいはお腹が痛くても、健康のためにと自分に課した運動のノルマをなにがなんでも果たそうとするような人も、自分の健康に対して病的です。

病的というのは、心や体が異常なさまをいうものですが、「的」がついていることでいくぶん、純然たる「病気」よりは和らいだ状態を表してはいるかもしれません。しかし、血圧計測1日50回も、寝不足で運動も、ある意味で病気といってよいのではないでしょうか。

「病的なくらい健康である」ということがあるのであれば、その逆のような人もまたいたりするのでしょうか。つまり、ことばを入れかえると、「健康的なくらいに病気である」といったことになります。

「病的なくらい健康である」人よりも想像はしづらいものの、「健康的なくらい病気である」人もいなくはなさそうです。つまり、自分の患っている病気をめぐって生き生きとなるような状態の人です。

たとえば、自分たちの抱えているメタボリック症候群に対して、喜々として自慢しあっているような人たちの会話を耳にすることがあります。「おれ、先日の健康診断で、ついに血圧150を超えちゃったんだよ!」「ほほう、おれなんか尿酸値7.4だったよ!」といった具合に、病気自慢で盛りあがるわけです。

あるいは、病院に通うことが日々の生きがいになっているような人もいます。病院にいる医師やほかの患者たちと会話をするのが楽しみであり、それが健康的に過ごす理由となっているような人です。

「病的なくらいに健康である」という人は、病的な習慣の部分を奪ってしまったら健康を保つことができなくなるかもしれません。また「健康的なくらいに病気である」という人は、健康的でいられる部分を奪ってしまったら病気が悪化してしまうかもしれません。どちらも「病」と「健康」が微妙に均衡をとりながら保たれているといえそうです。
| - | 23:40 | comments(0) | trackbacks(0)
バトンを受けわたすようにリン酸化がつぎつぎ進む


写真作者:Changjin Lee

分子レベルで生命現象を解明しようとする分子生物学などの研究者にとっては、あたりまえのことかもしれませんが、この分野の研究内容で登場することの多い現象のひとつに「リン酸化」があります。たとえば、つぎのように「リン酸化」が出てきます。

「インスリン受容体ならびにその下流のリン酸化阻害によるインスリン/IGFシグナル経路の抑制が示された」

「大腸の酸素分圧は胃のそれに比べて5分の1程度と報告されており、大腸では正常組織もがん組織も酸素を必要とする酸化的リン酸化反応はほとんど行われていないのではないかと推測される」

「KaiAは、KaiCに作用してCaiCのリン酸化を促進します。このリン酸化がKaiCの寿命を調整している可能性があると見られています」

現象という点から見ると、「リン酸化」とは、タンパク質に「リン酸基」という物質の一部が加わる化学反応のことを指します。通常のリン酸の化学式は「H3PO4」ですが、たんぱく質に加わったリン酸基の部分は「PO3^2-」のように表されます。

リン酸化の代表的な化学変化として紹介される例のひとつは、セリンというアミノ酸の一種にリン酸基が加わるというもの。セリン(C3H7NO3)がもつヒドロキシ(-OH)の基から、プロトンともよばれる水素原子1個(H)が離れていくと、そこに、アデノシン三リン酸(ATP:Adenosine TriphosPhate)という物質のもつ「PO3^2-」の部分がくっつきます。

この結果、リン酸化を受けたセリンはホスホセリンという物質になります。ホスホセリンは「リン酸化セリン」ともよばれます。また、アデノシン三リン酸はリン酸基を渡して、アデノシン二リン酸(ADP:Adenosine DiphosPhate)となります。

リン酸化されるということは、タンパク質などの物質の構造が変わるということ。リン酸化によって構造が変わることによって、静かだったタンパク質が働きはじめます。これは「タンパク質の活性化」ともよばれる変化です。

リン酸化が起きたタンパク質は、さらに関わりのあるべつのタンパク質をリン酸化します。こうして、タンパク質の活性化が移っていくことに。リン酸基というバトンを受けわたして、つぎつぎとタンパク質が元気になっていくといった喩えもあるようです。

榛葉繁紀「メタボリックシンドロームとアンチエイジング」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/dds/24/2/24_2_127/_article/-char/ja/
Hirayama, A など「CE-TOFMS による胃がんおよび大腸がん組織のメタボローム解析」
http://www.iab.keio.ac.jp/research/highlight/papers/200910141503.html
「生物時計のタンパク質を解明 立体構造と機能を原子レベルで」
http://www.riken.jp/~/media/riken/pr/publications/annual_report/annual_report-2004_05-jp.pdf
夢ナビ「タンパク質のリン酸化で情報が伝わっている」
http://yumenavi.info/lecture.aspx?GNKCD=g001989
Thermo Fisher「リン酸化」
https://www.thermofisher.com/jp/ja/home/life-science/protein-biology/protein-biology-learning-center/protein-biology-resource-library/pierce-protein-methods/phosphorylation.html
ウィキペディア「リン酸化」
https://ja.wikipedia.org/wiki/リン酸化

| - | 15:53 | comments(0) | trackbacks(0)
信頼に足る社会が、健康や長寿をもたらしうる

写真作者:purplejavatroll

心の状態と体の状態にはつながりがあり、「病は気から」とか「心配は万病のもと」とかいったことわざもあります。逆に、心が健全だと体も健康になるとも考えられるでしょう。

こうした考えかたの発展型といえるのが、「社会的な関わりの状態と体の状態にはつながりがある」というものです。

「社会関係資本」という考えかたがあります。社会における人びとの結びつきや信頼関係を表すもの。ほかの人を信頼すること、つきあったり交流したりすること、社会活動に参加すること。こうしたものごとが充実していればいるほど、社会関係資本はよい状態にあるといえます。

「社会関係資本の状態がよいと健康や長寿になる」といった関係性を示す研究結果がいくつも報告されています。

「一般的に人は信頼できるものだと思うか」といった質問を人で「一般的信頼感」があるかどうかを知ることができます。一般的信頼感は、人一般を信じられる感覚といえばよいでしょう。

この一般的信頼感が高いほど、「健康感が高い」「死亡率が低い」といった関係が、異なる研究から見いだせています。

また、国の高齢者保障制度に対する信頼感についても、それを信頼している人にくらべて信頼していない人がもつ不安感は2.29倍、まったく信頼していない人がもつ不安感は3.5倍にもなるという研究結果もあります。

社会関係資本が豊かだと、どうして健康であったり、死亡率が低かったりするのか。大きなところでは、やはり日常的なストレスがすくないなかで生きられるようになり、それが、健康や長寿によくはたらく、といった説明がされるようです。

一般的に、昭和などのかつての社会のほうが、知らない人どうしの会話も多く生じたし、となりに住む人との関わりも強いものがあったのではないでしょうか。もし、社会関係資本が健康や長寿をもたらす大きな要因であるとすれば、昭和よりも平成のほうが、健康や長寿になりづらい時代になっているということになります。

社会関係資本と健康や長寿の関係性を研究してきたハーバード大学のイチロー・カワチさんは、取材記事で、日本で社会関係資本が減ってきていることを心配しています。

「日本では、伝統的に組織や地域の『ソーシャル・キャピタル』の力が強く、社会が抱える様々な問題を『助け合い』で解決してきました。私は、日本人が長寿であり続けた大きな理由に、この『ソーシャル・キャピタル』があると考えています」

「でも近年、日本ではこの力が急速に衰えています。その大きな理由が、やはり格差の拡大です。社会的な格差が広がると、社会との摩擦や、人と人との軋轢が生じて『ソーシャル・キャピタル』がすり減ります。その結果、地域や社会の『助け合い』の力が弱まり、その結果、持てるものと持たざるものとの間で『健康格差』が生まれ、その差はどんどん広がっていきます」

信頼できるかどうかは、自分の考えかたもさることながら、相手がどういう心のありかたをしているか、あるいは社会がどういう状態であるか、といったことでも変わってくるもの。健康や長寿でいられるかは、個人の課題でもあるし、社会の課題でもあるといったところでしょうか。

参考資料
デジタル大辞泉「ソーシャルキャピタル」
https://kotobank.jp/word/ソーシャルキャピタル-553520
朝日新聞掲載「キーワード」「ソーシャルキャピタル」
https://kotobank.jp/word/ソーシャルキャピタル-553520
村山洋史「ソーシャルキャピタル:人や社会とのつながりが健康に与えるインパクト」『老人研NEWS』2010年7月号
http://www.tmghig.jp/J_TMIG/books/rj_pdf/rj_no239.pdf
ハフィントンポスト日本版 2017年12月2日付「日本が「長寿大国」と言えなくなる日。ハーバード大教授に聞く、深刻すぎる理由」
https://www.huffingtonpost.jp/2017/12/01/health-disparities-in-japan_a_23292489/ 
| - | 12:44 | comments(0) | trackbacks(0)
「約束の日時よりも前に催促」の背景に信頼のなさ

写真作者:Clemson

きのう(2018年)3月16日(金)のこのブログの記事「“頼む・請けおう”の関係で『締めきり』はねじれ気味」は、仕事上の「締めきり」について、締めきりを設定するのは頼む側なのに、ことばどおりの「締めきる」という行為をしてもなんの得もないという話でした。

頼む側にとって「締めきる」ことに意味がなくても、仕事を頼んだ先の相手に対して「約束した日時までに納品させる」ことはとても重要なこととなります。約束の日時までに納品されないと、その後の予定がくるってしまうからです。

頼む側と請けおう側で、「何月何日何時までに納品してください」「はい、わかりました」と約束するとします。約束がなされたからには、請けおう側は、その「何月何日」までに納品をすることが必達事項となります。この約束からすれば、請けおった側は、その「何月何日何時」までに納品するものを用意して納品しなければならないし、納品するはずです。

しかし、こうした約束がなされたにもかかわらず、約束した日時よりも前の段階で、頼んだ側が請けおった側に対して、約束を果たさせることを強化するような行動をとることがあります。

たとえば、納品の約束日時の1週間前に、頼んだ側がつぎのような連絡をすることもあるみたいです。

「納品日が迫ってきましたが、いまの進み具合を知らせてください」
「用意ができたところから、提出していただけますか」
「できているところまでで結構ですので、送ってもらえますか」

「何月何日何時までに納品する」という約束のほか、「納品1週間前に進捗状況を報告する」とか「用意できた部分から順次、納品する」とか「納品前のある段階でできているところまでまず送る」とかいった約束もなされていれば、当然、請けおった側はその約束を果たさなければなりますまい。

しかし、そのような約束がなされていないのであれば、請けおった側は「そんな約束はしていませんよね」と、突っぱねることはできます。そういう態度をとって、つぎにまた仕事がくるかどうかはべつとして。

約束がなされた日時までに、納品が果たされれば、その約束は果たされたことになります。それにもかかわらず、その「何月何日何時」がくる前に、納品にかかわる連絡、いってしまえば催促がなされ、当初の約束とは異なる頼みごとが生じることがあるわけです。

たしかに、まだ約束の日時になっていないとしても、納品がなされていなければ、頼んだ側としては不安に思うのでしょう。「ちゃんと約束の日時までに納品されるのだろうか」と。だから、催促のような行動をとるのかもしれません。

では、なぜ頼む側は、請けおう側に「ちゃんと納品されるのだろうか」といった心配をするのでしょうか。

これは、請けおう側が信頼されていないからにほかなりますまい。「約束の日時までに絶対に納品される」と信じていれば、すくなくとも催促めいた連絡がされることはないでしょう。

では、なぜ、請けおう側が信頼されていないのでしょうか。

これはひとえに、これまでの社会で、請けおう側が約束の日時までに納品をしなかったという事例が数多くあったからではないでしょうか。たとえば、もの書きについていえば、「締めきり日時までに原稿を出さないことが多い」という通念が社会に広まってしまっているわけです。

「私はきちんと約束の日時までに納品をしているのに」と言いはれる人にとっては、せめて自分がそれをつづけることが、「ちゃんと納品されるのだろうか」と思われないためにとりつづけるささやかな手だてとなります。
| - | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0)
“頼む・請けおう”の関係で「締めきり」はねじれ気味

描画作者:Eric Geiger

世の請けおい仕事では、たいてい「締めきり」が決められています。

請けおった立場の人にとっての「締めきり」の意味は、「約束していた納品の日時」とか「過ぎるとまずい日時」とか「努力目標としての提出日時」とか、人によって異なるのかもしれません。

でも、「締めきり」ということばの本義からすれば、仕事を請けおった側の人は「締めきり」を気にしすぎなのかもしれません。「締めきり」は、自分が主体となるものごとではないのだから……。

「締めきる」のはだれかといえば、仕事を請けおった側の人でなく、仕事を頼んだ側の人です。辞書には「取り扱いを打ち切ること。また、その時日」とあります。

仕事を頼んだ側の人からすれば、締めきり日時を過ぎても納品がなければ、辞書どおりでは「打ちきる」ことになるわけです。なにを「打ちきる」のかとえば、この場合は「頼んでいた仕事を」となるでしょう。つまり「頼んでいた仕事については、約束の日時までに納品されなかったので締めきりましたから」と。

しかし、頼んだものがまだ納められていないのに、頼んだ側の人が「締めきりましたから」と放っても、ことはなにも解決されません。納められるはずのものが納められていないのですから。

もし仮に、頼んだ側の人が、受けおった側の人に対して「おまえに仕事をくれてやる。もし、納品が約束の日時より遅れたら、ものを納めなくてもいっこうに構わないからな。だが、そうなったら報酬は払わないし、もうおまえには新たな仕事をあたえてやらない」ぐらいの、きわめて高慢な態度に出られる仕事であれば、締めきりをすぎて納品がなければ、辞書どおりの「締めきり」にして、その仕事を打ちきることができるかもしれません。

しかし、“頼む・請けおう”という関係での仕事において、このような「締めきり」はまずもってありません。頼んだ側の人は、受けおった側の人に、約束の日時までに納品させないとまずいことになるからです。たとえば、予定していた出版日を遅らせなければならなくなったり、製品発表会を中止せざるをえなくなったり……。

そうした由々しき事態を避けるために、頼む側の人は、請けおう側の人に対して、ぜひ守ってもらわないと困るという意味を込めての「締めきり」を課すわけです。

しかし、約束を守るかどうかは、あくまで請けおう側にかかっているわけです。納品するのは請けおった側の人なのですから。ここには「締めきり」のねじれが生じています。

そもそも「締めきり」は、“頼む・請けおう”という関係にある人びとのあいだで使われることばでなく、“募る・応じる”という関係にある人びとのあいだで使われるものなのでしょう。

「この仕事に興味ある人は、何日の何時までに連絡ください」と募っておいて、その日時を過ぎて応じてきた人がいたら、「あ、もうその仕事の募集は締めきってしまいました」と言えば済むだけですから。締めきりを過ぎても、なにも困ることはありません。

参考資料
goo類語辞典「『締め切り』の類語・同義語」
https://dictionary.goo.ne.jp/thsrs/15009/meaning/m0u/
goo国語辞典「しめきり」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/101005/meaning/m0u/しめきり/
| - | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0)
本よりネット記事より読者に寄りそい体系的に


高校の理科の教科書というと、本文のなかに式が入っていて、一般向けの科学の読みものやインターネット記事よりもむずかしそうな印象がもたれがちです。

しかし、読者に寄りそいながら体系的に述べられているという点では、いまの高校の教科書は、ほかの媒体よりも優れているのかもしれません。

たとえば、『総合物理2 波・電気と磁気・原子』(数研出版)という教科書では、光、X線、電子などがもつ、粒子と波動の二重性という性質を、つぎのような流れで説いていきます。

「これまで学んできたように、光を含め電磁波は、電場と磁場が互いに垂直振動をくり返す波動である。しかし、後で学ぶように、光を波動と考えると理解できない現象が出てきた。そこで、アインシュタイン(ドイツ → アメリカ)は、光は光子(光量子)と名づけた粒子の集まりの流れであり、……」

波動と考えられてきた光が、波動では理解できなくなってきたとするわけです。しかも「これまで学んできたように」や「後で学ぶように」といった表現は、高校生たちが学んでいるということを明確に意識した記述といえましょう。

そして、アインシュタインの「光量子説」を紹介したあと、つぎのようにひとつの結論を述べます。

「このように、光は波動性をもつと同時に、粒子性もあわせもつ」

そして、その後、「後で学ぶように」としていた「光を波動と考えると理解できない現象」として「光電効果」を記述していくのです。

さらに、X線についても、波動性と粒子性があることを示したうえで、「粒子の波動性」という項目に移ります。

「これまで光やX線などの電磁波は波動としての性質だけでなく、粒子としての性質もあわせもつことを学んだ。このように一見すると相反する2つの性質をもつ現象は、粒子と波動の二重性といわれる」

さらに、粒子と波動の二重性が、電子にも当てはめるということを示していきます。

「ド・ブロイ(フランス)は、その逆に、ふつうは粒子と考えられている電子などにも波動性があるのではないかと考えた」

そして、ド・ブロイが唱えた「ドブロイ波長」を紹介し、電子における粒子と波動の二重性も示すのです。

さらに、この章の最後では、量子力学の本質にすこしだけ触れます。

「電子など微視的な粒子は、これまで学んだ力学でなく量子力学とよばれ自然法則に支配され、位置と運動量など関連した2つの量を同時に正確に求めることはできない。これを不確定性原理といい、1927年にハイゼンベルク(ドイツ)が初めて導入した」

さらに、「参考」という枠のなかでは、「電子線の干渉実験」を扱って、電子が波としての性質をもつことを示したり、「電子顕微鏡」を扱って、光のかわりに電子線を物体に当てて高い分解能で観察できるといった能力を示したりします。

科学の読みものでは著者の視点が入ることがあるし、インターネットの記事では断片的な情報を拾うのみということもあります。教科書は、過不足なく客観的に、しかし使い手である読者の学びの程度を考慮しつつ、自然科学の展開のしかたも効果や現象の内容も伝えてくれます。

参考資料
数研出版『総合物理2 波・電気と磁気・原子』
https://www.amazon.co.jp/dp/4410812122
| - | 15:30 | comments(0) | trackbacks(0)
からだのなかでも滝の流れのように情報伝達

写真作者:Gemma Stiles

情報伝達というと、新聞社と読者とか、広告主と消費者とか、とかく意思をもつ人と人とのあいだでおこなわれるような印象があるでしょうか。

しかし、意思をおそらくもっていない物質どうしのあいだでも、情報伝達がおこなわれます。生きもののからだのなかでは、そこいらじゅうで「情報伝達」がおこなわれています。

生きものの細胞の膜の表面には受容体というたんぱく質の一種があります。この受容体に、細胞の外にある化学物質やホルモンなどの分子がやってきて結びつくと、情報伝達のスイッチのようなしくみが入ります。

すると、スイッチが入ったのを受けて、その刺激により二次伝達物質とよばれる物質がつくられます。受容体と結びつく物質が「一次」だとしたら、そのつぎに動きだす物質は「二次」というわけです。

二次伝達物質のほかに、受容体のスイッチが入るとまたほかの物質が活性化していきます。このように、受容体と分子が結ばれたことを起点に、さまざまな物質がつぎつぎと刺激を受けて活発になっていく連鎖反応がからだでくりひろげられているわけです。こうした連鎖反応を、「階段状の滝のようだ」とたとえることもあります。

たとえば、トランスフォーミング増殖因子β(TGF-β:Transforming growth factor-β)というたんぱく質が細胞膜をいちど貫通し、受容体と結びつきます。するとこの受容体は細胞内でべつの受容体にリン酸基と結びつくようはたらきかけます。これは「リン酸化」とよばれるもの。すると、そのリン酸化を受けた受容体が、さらにSmadとよばれるたんぱく質をリン酸化します。

このSmadが仲間のSmadと結びつくと、核のなかへと移っていき、デオキシリボ核酸(DNA:DeoxyriboNucleic Acid)のすぐ側にいる「転写因子」というたんぱく質と結びつきます。転写因子は、特定の遺伝子を発現させるおおもととなるものですから、Smadと転写因子が結びつくことによって遺伝子が発現していくことになります。

人から人への情報伝達というのもなかなか複雑なものではありますが、その人のからだのなかでくりひろげられている情報伝達も、相当に複雑なものといえましょう。そして、複雑なしくみに対して、人は「あたかも意思をもっているかのよう」と感じます。

参考資料
生物学用語辞典「シグナル伝達」
https://www.weblio.jp/content/シグナル伝達
薬学用語解説「シグナル伝達」
http://www.pharm.or.jp/dictionary/wiki.cgi?シグナル伝達
生物化学2 2014年「細胞内情報伝達」
http://www2.huhs.ac.jp/~h990002t/resources/downloard/14/14biochem2/03signaling14_2.pdf
栄養・生化学辞典の解説「SMAD」
https://kotobank.jp/word/SMAD-762224
ブリタニカ国際大百科事典「リン酸化反応」
https://kotobank.jp/word/リン酸化反応-150344
| - | 20:45 | comments(0) | trackbacks(0)
1食ごとのちょっと分を食糧難の国に


世界の国ぐにが抱える「食糧難」に課題に対し、さまざまな方法により解決がめざされています。生物学や農学の分野では、環境ストレスに耐性をもたせたイネなどの作物の開発がおこなわれていますし、植物工場を使って作物の栽培を安定化させるための研究もおこなわれています。

社会的なしくみによる食糧難対策として、「食糧難の国での給食費用を、食糧難でない国での食べものの値段に上乗せする」という方法があります。日本の特定非営利活動法人であるテーブルフォーツー・インターナショナルがとりくんでいます。

たとえば、ある日本人が国内でテーブルフォーツーの対象となっている定食を食べるとします。すると、その定食に払ったお金のうち20円が寄付金の扱いとなり、食糧難の開発途上国の学校給食代に充てられるというもの。「20円」は「開発途上国の給食1食分の金額」(同NPOホームページより)。日本人が食べる1000円の定食1食に対して、途上国の子どもが食べる20円の給食1食がつくられるわけです。

さらに、この発想を発展させて、 テーブルフォーツーは「カロリーオフセット」という手法も開発し、2014年からこのとりくみも始めたそうです。

「カロリーオフセット」も、開発途上国での学校給食や畑の設備費が寄付されるしくみです。このとりくみの惹句は「あなたがオフしたカロリーが、誰かのカロリーになる」というもの。たとえば、従来800キロカロリーの熱量がある食べものを、分量を減らすなどして700キロカロリーに抑えたとします。これを日本人が食べると、本来はその人が摂るはずだった100キロカロリー分が摂られずに“浮く”ことに。その100キロカロリー分を、開発途上国の学校給食などに使ってもらうというわけです。

あくまでこれは理念的な考えかた。実際は熱量を抑えた食べもののほか、体を動かすことで熱量を消費できる商品や催しものなどを提供する参加企業が売りあげの一部を、テーブルフォーツーを通じて開発途上国に向けて寄付するということのようではあります。

自分で選んで食べようとしている食べものが、地球のどこかでだれかが食べようとしている食べものとつながっていると考えると、食事のたびにすこしだけ心も豊かになりそう。

参考資料
テーブルフォーツー・インターナショナル「TABLE FOR TWOプログラムの仕組み」
http://jp.tablefor2.org/aboutus/profile.html
テーブルフォーツー・インターナショナル 2014年5月22日発表「TABLE FOR TWO が『カロリーオフセット』を開始」
http://jp.tablefor2.org/limited/calorieoffset.pdf
| - | 14:29 | comments(0) | trackbacks(0)
語源の捉えかたもだが「生前」の使いかたがむずかしい


「生前」ということばがあります。「死んだ人がまだ生きていたとき」や「存命中」といった意味のことばで、「祖母が生前好きだった花を買った」のように、「生前」を副詞的に使うこともあります。

「死ぬ前のことなんだから『生前』はおかしい。むしろ『死前』がふさわしいのでは」と考える人もいます。使われている「生」「前」「死」といった文字の意味からすると、たしかにそう考えるほうがむしろ自然といえるかもしれません。

古語辞典などには「生前」の「生」とは「往生」つまり「この世を去って、ほかの世界に生まれかわること」を指すのであるという指摘もあるようです。「往生する前」と考えれば、「生前」もおかしくはなりません。

「生前」を記事の原稿などに使うときには、ややむずかしさがあります。だれかのおこなったことや状態ことについて「生前」と使うと「当然ではないか」と捉えられうるからです。

たとえば、上の「祖母が生前好きだった花を買った」についていえば、この「祖母」が往生した死後の世界でどんな花を好きでいるかは、生きている人びとにはわかりえません。ですので、「生前」をつけなくても、「花」を指すのが祖母が生きていたころに好きだったその「花」であることは自明のこととなるわけです。

たしかに、「生前」とつけることによって、その「祖母」は故人であるという情報が加わりはします。しかし、「亡くなった祖母が好きだった花を買った」とすれば故人であることは伝わるし、あるいは「祖母が好きだった花を買った」であっても過去形の表現になっているので、伝わらなくもありません。

いっぽうで、「生前」に続くおこなったことや状態のことばが、その故人を主体としないとすれば、「生前」を使う意味が明確に出てきます。

たとえば、「A氏の生前に出版されていた本が、没後30年の今年、復刊されることとなった」という文の場合です。「生前」に続く「出版された」ということばの主体は「A氏」でなく「本」です。こうであれば、「A氏が生きていたときに出版された」という情報を「生前」ということばを使って表すことの意味が強くなります。

「生前」ということばが使われる記事は、書く人が故人に想いを馳せることでつくられるもの。その馳せる想いは、記事を読んでいる読者にも伝わってきます。

参考資料
デジタル大辞泉「生前」
https://kotobank.jp/word/生前-532321
知らずに使っている「仏教の言葉」〜心の縁側「『生前』という言葉」
https://ameblo.jp/engawae/entry-10240406112.html
教えて!goo「生前・死後」
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/85386.html
| - | 16:41 | comments(0) | trackbacks(0)
「カレーハウスリオ」の半スパカレーセット――カレーまみれのアネクドート(106)


カレーライスを献立の主として供している店、つまりカレー店では、カレーライスを単品で出すことを基本とし、そこに鶏肉、牛肉、豚肉などの肉の種類を選んだり、カツ、コロッケ、野菜などの盛りつけを好みにより選んだりするというのが基本です。

しかし、なかにはカレーライスに加えてもう一品、主食にもなりうる食べものを添えて、セットとして出す店もあります。中華料理店でいえば、拉麺と炒飯のくみあわせのようなものです。

では、カレーと合う“もう一品”とはどのようなものでしょう。そば屋では、カレーライスとそばのくみあわせは定番ですが、カレー店ではカレーとになにがくみあわせとしてふさわしいのでしょうか。

その答えのひとつが、横浜・南幸の相鉄ジョイナスに構えるカレー店「カレーハウスリオジョイナス店」にあります。

カレーハウスリオは1960年に創業した店。横浜の、気軽に食べられるカレーの店として人びとに親しまれています。

この店の看板的な品のひとつとなっているのが、「半スパカレーセット」です。白い器の広いほうにはカレーライスが、そしてやや狭いほうにはスパゲティのナポリタンが盛られ、さらにサラダとスープもつきます。

店が「カレーとスパゲティーナポリタンのコラボレーションが魅力で、
ボリューム満点のメニュー」と謳っているように、カレーライスに加えてスパゲティとなると、相当な分量。しかし、お腹をすかせたサラリーマンや、学生らしき若い人たちが、この品を注文します。

同店は、「ナポリタン」や「カレーミートソース」といった、スパゲティの料理を単品でも出しています。「半スパカレーセット」が献立に載るのは、必然といえるのかもしれません。

しかし、カレーライスとスパゲティナポリタンのくみあわせには妙(たえ)があります。カレーライスは、明治時代に日本に入ってきて、日本で独自に進化を遂げたもの。いっぽうの、スパゲティナポリタンも、日本で独自に発明された、西洋料理の姿をした日本料理。しかも、発祥地は横浜とされています。

カレーライスもスパゲティナポリタンもじゅうぶん単品でも味わえる食べもの。しかし、このふたつが合わさっても、たがいの個性や特徴を消さないから不思議であり、妙でもあります。

カレーハウスリオジョイナス店の献立情報はこちら。
http://www.curry-rio.co.jp/publics/index/26/
| - | 18:24 | comments(0) | trackbacks(0)
「波」が示され「粒」が示され「光の波動と粒子の二重性」がいわれだし

画像作者:Zappys Technology Solutions

このブログの(2018年)3月8日(木)の記事「光の正体が『粒』か『波』かでかつて対立」では、光は粒としての性質と波としての性質の両方をもちあわせているものの、中世から近代にかけては「粒子説」と「波動説」が対立していたという話がありました。

では、光の正体が「粒」でもあり「波」でもあるということは、どのようにわかったのでしょう。

まず、光の波としての性質については、クリスティアーン・ホイヘンスが説を唱え、ジェームズ・マクスウェル(1831-1879)が理論的に発見しましたが、実験でも明らかになっていました。

1805年ごろ、英国の物理学者で「波動説」を主張していたトーマス・ヤング(1773-1829)が、のちに「ヤングの実験」とよばれるようになる実験をしました。これは、敷居に「 | | 」 のような複数の細長い穴を開け、手前から光を照らすと、敷居の向こうの壁に、光が干渉したことによる縞模様が映るというもの。

干渉とは、ふたつ以上のおなじ種類の波が一点で出あうとき、その波の振幅はそれぞれの波の振幅の足し算として表せることを指します。光を発したら干渉が生じたということは、つまり、光は波であることを示しているわけです。

いっぽう、光の粒としての性質については、19世紀後半から20世紀はじめごろにかけて示されます。

1888年、ドイツの物理学者ヴィルヘルム・ハルバックス(1859-1922)が、金属に光をあてると金属は正に帯電し、また、あらかじめ負に帯電させていた金属は帯電しなくなることを発見しました。

さらに、1902年にハンガリー出身でドイツで活躍した物理学者フィリップ・レーナルト(1862-1947)は詳しく調べ、この現象は、光を当てると金属から電子が飛びだすからだということを明らかにしました。これは「光電効果」とよばれています。

そして、この光電効果を、量子の概念と結びつけたのが、ドイツ生まれの物理学者アルバート・アインシュタイン(1879-1955)です。

量子とは、連続的でなく、とびとびの値で表される物理量の最小単位のこと。アインシュタインは、光のエネルギーは、電磁波の振動数と、「プランク定数」とよばれる物理の定数とをかけ算したものであって、このエネルギーは「光子」とよばれる光の粒子1個がもつものだと考えました。

光電効果が起きているときは、光子1個のもつエネルギーを電子が受けて電子が飛びだしているわけですが、そのときの電子はある一定以上のエネルギーを受けないと飛びだしません。

つまり、光子1個のもつエネルギーは、電子を飛びださせるか、電子を飛びださせないかのどちらかでしかなく、その中間はないことになります。つまり、光子のエネルギーの量が増えるときは、いわばエネルギーの値が「1」「2」「3」ととびとびに増えていくのであり、「0.5」や「1.7」や「2.4」といった中間どころの値にはならないわけです。つまり、光子は量子であるわけです。

波としての光で表現される振幅などの値は、とびとびでなく連続的なもの。いっぽう、光電効果から導きだされた光子のエネルギーの値はとびとびの量子的なもの。相容れません。

そこで、アインシュタインは、光を量子のとるエネルギーをもつ粒として考えればいいのだと唱えたのです。

こうして、時代を経て、べつべつに光の波としての性質の説明と、光の粒としての性質の説明が両立するようになりました。光は粒子と波動の二重性をもっていると考えざるをえなくなったのです。

参考資料
ウィキペディア「ヤングの実験」
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤングの実験
世界大百科事典「ハルバックス,W.L.Fの言及」
https://kotobank.jp/word/ハルバックス%2CW.L.F-1395598
原子「波動性と粒子性(前期量子論)」
http://www15.wind.ne.jp/~Glauben_leben/Buturi/Gensi/Gensibase2.htm
アインシュタインの科学と生涯「アインシュタインの光量子仮説」
http://koshiro56.la.coocan.jp/contents/relativity/contents/relativity3005.html
加藤初弘「量子論の基礎概念」
http://www3.ms.yamanashi.ac.jp/kato/Lectures/QM/QM00.pdf
| - | 19:53 | comments(0) | trackbacks(0)
「乳酸菌が効く? 全否定はできない食べる花粉症対策」


ウェブニュース「JBpress」で、きょう(2018年)3月9日(金)「乳酸菌が効く? 全否定はできない食べる花粉症対策 アレルギー性鼻炎に対する食の民間療法(前篇)」という記事が配信されました。

気象予報会社の予想によると、3月中旬は全国的にスギ花粉の飛散量が上りつめる時期といいます。電車のなかや喫茶店などでは、マスクをつけている人が多くいます。

花粉症を患う人にとっては、くしゃみ、鼻水、鼻づまりなどの症状をどうにか抑えたいもの。医療機関で診療を受けるのはそのための方法のひとつですが、そこまでせずにどうにかしたいという人もすくなくなさそうです。そこで、「なにか特定の食べものや飲みものを摂れば症状を軽くできるのでは」と考える人もいるでしょう。

では、そうした飲食に花粉症の治療効果はあるのでしょうか。記事では、山梨大学耳鼻咽喉科・頭頸部外科学講座助教の五十嵐賢さんが、研究界でこれまでなされてきた試験の結果などを紹介しながら解説しています。

「ヨーグルト」による民間療法をしているスギ花粉症患者の率は35.1パーセント。「甜茶」では7パーセント以下……。こうした数値が記事で出されています。これらは、五十嵐さんも所属している「山梨環境アレルギー研究会」が山梨県内で実施した実態調査によるもの。

この研究会は、山梨県下の施設に所属する環境アレルギーに関心のある医療関係者・研究者で構成されている会。その目的を「花粉やダニなどの環境アレルギーおよび関連する疾患を中心とした諸問題を総合的に調査・研究し、その啓蒙・指導その他の活動において山梨県内での推進的役割を務め、地域の健康増進に貢献すること」としています。

研究会のホームページの冒頭画面にあるのは、山梨県の衛星画像地図。そこに「韮崎」「甲府」「中央」「南アルプス」「富士川」「身延」「富士吉田」「上野原」と地名があり、クリックすると棒グラフや表によるデータが見えます。これは花粉採集器によるスギ・ヒノキ花粉飛散観測の値。定点観測をすることで、その花粉の飛散量がどのくらい増減しているのかがわかります。

さらに、甲府市での毎年のデータを集計して「甲府市における過去の花粉症飛散状況」のページを掲げ、1985年から2013年までの花粉飛散量の推移をつかめるようにもしています。

このような医療関係者や研究者の有志でなる団体が、花粉症をめぐる患者の実態を把握し、また患者たちに対して情報を提供することで、人びとの花粉症に対する理解が進むという側面も多分にあるようです。

「乳酸菌が効く? 全否定はできない食べる花粉症対策 アレルギー性鼻炎に対する食の民間療法(前篇)」はこちらでどうぞ。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/52525

記事は前後篇によるもの。3月16日(金)に掲載される予定の後篇では、食と花粉症をめぐる話の周辺として、漢方の効果やプラセボ(偽薬)効果の位置づけなどについての話が展開されそうです。
| - | 21:27 | comments(0) | trackbacks(0)
光の正体が「粒」か「波」かでかつて対立


「光の正体がなんなのか」は、近世の自然科学者たちのあいだで明かしたいことがらとなっていました。そして、大きくふたつの説が、ふたりの人物により対立していました。

ひとつは、アイザック・ニュートン(1642-1727)による「光の粒子説」。つまり、「光の正体は粒なのである」とする説です。

高性能の望遠鏡をつくろうとしていたニュートンは、光の研究に手をつけました。そして、白く見える太陽光をプリズムに通すと、虹とおなじさまざまな色に分かれることを確かめました。「光の色が分かれるということは、光は粒である」と、ニュートンは考えたのです。

しかし、障害物に一部さえぎられた光が、障害物の影のところにも伝わることが知られていました。粒だとすると、どうして届きそうもないところに粒が届いているのかの説明がつきません。

光の粒子説に対して、「光の波動説」つまり「光の正体は波である」とする説を唱えたのが、クリスティアーン・ホイヘンス(1629-1695)です。

ホイヘンスは1678年、「ホイヘンスの原理」とよばれるようになる光のしくみを唱えました。「ある時刻に、波面上の各点を波源とする小さな波がつくられるとき、その波を合成したものがつぎの時刻の波面をあたえる」とするものです。光の正体は波であるとするとだいたい辻褄が合うことから、光の波動説の根拠となりました。

さらに、近代の19世紀に入り、英国の物理学者ジェームズ・マクスウェル(1831-1879)が登場します。マクスウェルは、電磁波の存在を理論的に発見。さらに、打ちたてた方程式から、光は電磁波のひとつではないかと予測しました。つまり、これは「光の正体は波である」ということを強く支持することになります。

これで、光の粒子説と波動説の対立に決着がついたかのようですが、それは「光は粒子なのか、波動なのか」という文脈においての話。べつの可能性、つまり「光は粒子でもあり、波動でもある」という理論は除かれます。そして、この「光は粒子でもあり、波動でもある」とする光の二重性こそが、光の正体であることが19世紀末から20世紀はじめにかけてわかったのです。

光の二重性という性質がわかっているいまとなっては、粒子説と波動説は二項対立の関係ではなかったとわかります。しかし、粒子説と波動説の対立の過程がなければ、光の二重性が示されたのはもっと後の時代になってからだったのかもしれません。

参考資料
ブリタニカ国際大百科事典「光の粒子説」
https://kotobank.jp/word/光の粒子説-119238
世界大百科事典「光学」
https://kotobank.jp/word/光の粒子説-119238
ブリタニカ国際大百科事典「光の波動説」
https://kotobank.jp/word/光の波動説-119235
キヤノンサイエンスラボ・キッズ「光の“正体”は? ニュートンもわからなかった光の正体」
http://web.canon.jp/technology/kids/mystery/m_01_01.html
大辞林 第三版「マクスウェルの電磁理論」
https://kotobank.jp/word/マクスウェルの電磁理論-633687
| - | 20:12 | comments(0) | trackbacks(0)
からだの病気は「何々炎」だらけ

写真作者:Esther Max

からだの一部に充血、はれ、発熱、痛みなどの症状が起きることを「炎症」といいます。

もちろん、からだから炎が上がっているわけではありませんが、炎症とはいい得て妙ではないでしょうか。ギリシャ医学で、からだにできた赤みが燃えているように見えたことから、「炎」の語が用いられたといいます。英語では、“inflammation”といいます。

炎症が起きるのは、炎症が起きる原因があるからです。一般的に炎症は、有害な刺激に対するからだの防御反応のあらわれであるとされます。より詳しくは、からだにとっての異物や死んでしまった自分の細胞をとり除き、生体の恒常性を保とうとする反応という説明がなされます。

そして、炎症の起きかたには、からだにあらかじめ用意されている成分がすぐにはたらくことによるものと、からだが時間をかけて異物の中身を分析してから攻撃することによるものの、ふたつがあることがわかっています。二段がまえで異物に対処しようとしているわけです。

そもそも「何々炎」と名のつく病気の名前はたくさんあります。アトピー性皮膚炎、アレルギー性鼻炎、肝炎、関節炎、気管支炎、結膜炎、口内炎、歯肉炎、虫垂炎、日本脳炎、肺炎、膀胱炎などなどなど。炎症という反応が、からだのあちこちで、さまざまなかたちとなってあらわれることを意味しているといえましょう。

近ごろでは、からだのなかの神経系が炎症を制御したり、ぎゃくに神経系が炎症によって制御されたりといったように、神経系と炎症のあいだに双方向の影響があるといったこともわかってきたようです。

炎症のしくみやその影響などが詳しく解明されていけば、病気の多くのしくみを解明することにもつながりそうです。

参考資料
ブリタニカ国際大百科事典「炎症」
https://kotobank.jp/word/炎症-38168
日本大百科全書「炎症」
https://kotobank.jp/word/炎症-38168
科学技術振興機構 CREST/さきがけ「慢性炎症」研究領域「炎症の起こる理由(メカニズム)」
http://www.jst.go.jp/crest/inflam/inflam/mechanism.html
『LFニュース』第78号「神経と免疫・炎症のクロストーク」
http://www.senri-life.or.jp/lfnews/lf_pdf_78.pdf
| - | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0)
知りたい本人にあらかじめ情報提供してもらうことはありがたい

写真作者:Hungju Lu

知りたい人がいるとき、なんらかの方法でその人を知るための行動に出ます。

よくあるのは、初顔合わせとなる人について、名前だけ聞いているので、インターネットでその人の名前を入れて検索をかけるというものです。インターネット上で顔写真が見られるかもしれませんし、ソーシャル・ネットワーキング・サービスや記事での発言も読めるかもしれません。

また、もの書きがある研究者に取材をすることになったときにも、その研究者の論文や記事などを手に入れて、読んでおくようにします。

ごくまれな例として、知られる側の人のほうから、その目的がかなうような情報があらかじめ提供されるということがあります。たとえば、上の研究者への取材の場合、研究者のほうから取材前に「これらを読んでおいていただくと、私の研究のことがわかると思いますよ」と論文が送られてくるようなものです。

しかし、このような例はそう多くはなく、ありがたいものです。あくまで、知る側の人が、自分で知りたい人の情報を得ておくというのが基本姿勢ではありましょう。

まして、知りたい人のことを知る目的が「その人が信頼に足る人であるかを確かめる」といった不確定要素もふくむものとなると、知られる側から事前に情報を受けるということは、よりまれになりそうです。

たとえば、「あなたに仕事の依頼をしたいのだけれども、あなたに仕事を任せられるかまだよくわからないから、あなたからあなたについての情報を提供してくれますか」という依頼または要請は、どのようなときになりたちうるものでしょうか。

考えられるのは、主従関係がはっきりしている場合でしょうか。たとえば、雇う人が雇われる人に、あらかじめ履歴書を送らせる、といったことはあります。これから雇われるかもしれないという人が、「履歴書をご用意ください」と言われたことに対して、「なんで用意しなければならないんだ」といった違和感はそう起こりますまい。

そうした主従関係がはっきりとしていない場合、知りたい人のことを知るために、その本人にあらかじめ情報提供の依頼や要請をするというのは、高い意思疎通の技術が求められるものかもしれません。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
花粉から特有の抗原と特異的な抗原がつくられて花粉症に

写真作者:tsuda

3月上旬から中旬は、東日本や西日本などでスギ花粉の飛散量の頂点を迎える時期です。スギ花粉が原因で花粉症になるしくみとはどのようなものでしょう。

花粉が鼻の孔に入っていきます。すると、ある程度の花粉は鼻の粘膜にある線毛という複数の小さな突起によって鼻の奥に運びだされます。しかし、運びだされない花粉もあり、それらは「Cry j1抗原」や「Cry j2抗原」とよばれるたんぱく質を鼻の粘膜に浸透させます。

抗原は抗体をつくらせるもととなる物質ですから、Cry j1抗原やCry j2抗原に対しても抗体がつくられます。その抗体は「スギ特異的免疫グロブリンE抗体」といいます。Cry j1抗原やCry j2抗原が鼻の粘膜に入ると、樹状細胞やマクロファージといった異物を認識する細胞と会い、抗原についての情報が免疫細胞のひとつであるT細胞へと送られ、さらにその情報がT細胞からB細胞へと送られ、スギ特異的免疫グロブリンE抗体がつくられるのです。

では、スギ特異的免疫グロブリン抗体がCry j1抗原やCry j2抗原とくっつくとどうなるか。肥満細胞がヒスタミンやロイコトリエンという物質を放つようになります。これらの物質が過剰につくられることにより、くしゃみ、鼻水、鼻づまりが生じます。

つまり、花粉という物質を体に取りこむことで、体のなかに抗体がつくられ、さらに花粉をふたたび体に取りことで、抗原と抗体の特異的な反応が起き、それがくしゃみ、鼻水、鼻づまりなどにあらわれる病気が、花粉症ということになります。

花粉症などのアレルギー性鼻炎では、くしゃみの発作が1日何回あるか、鼻水が1日何回出るか、鼻づまりで起きる口呼吸がどのくらいの時間あるかといった尺度により、軽症、中等症、重症、最重症の4段階に分かれます。

参考資料
厚生労働省「的確な花粉症の治療のために(第2版)」
http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/0000077514.pdf
| - | 21:36 | comments(0) | trackbacks(0)
量子テレポーテーション、成果つぎつぎと


写真作者:Cianan O'Dowd

ある場所にある粒子の状態についての情報を、量子力学の特性を使って、べつの離れた場所に粒子に瞬間的にうつすことを「量子テレポーテーション」といいます。

このふたつの場所にある粒子は「量子もつれ」とよばれる関係にあります。量子もつれとは、ふたつ以上の量子が古典力学では説明できないような相関をもつことを指します。量子もつれの状態にある粒子どうしは、たがいが離れた場所にあってもその関係性を保っているため、その粒子の片方に作用をあたえると、離れた場所のもう片方にも瞬時に作用がおよぼされるわけです。

いま、量子テレポーテーションの研究はどこまで進んでいるのでしょうか。

「衛星を使った量子鍵配送と量子テレポーテーションに成功」という話題が、英国の科学誌『ネイチャー』に載りました。この記事によると、中国科学技術大学の廖勝凱氏らと任継剛氏らはそれぞれ、地球周回軌道をまわる衛星と地上の局とのあいだでの量子通信を成功させたことを2017年9月『ネイチャー』に発表しています。通信距離がこれまでより数百キロメートル延びたことが、この研究成果の意義として評価されています。

さらに、中国では、上海交通大学の研究チームが量子テレポーテーションを海水のなかでおこなう実験が2017年におこなわれ、成功したと報じられています。

いっぽう、日本では、量子テレポーテーションの応用として、「究極の大規模光量子コンピュータ実現法を発明」といった話題がのぼっています。東京大学の古澤明教授や武田俊太郎助教は、ひとつの量子テレポーテーション回路を無制限にくりかえし用いることで大規模な量子計算をおこなえる方式を発明しました。従来の方式では、数十量子ビットが限界でしたが、この新方式では原理的には100万個以上の量子ビットを処理できるということです。

量子力学は、日常の感覚では想像できないような原理や効果を見いだせるもの。それを応用するための研究も進んでいるわけです。

参考資料
はてなキーワード「量子テレポーテーション」
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%CC%BB%D2%A5%C6%A5%EC%A5%DD%A1%BC%A5%C6%A1%BC%A5%B7%A5%E7%A5%F3
ウィキペディア「量子テレポーテーション」
https://ja.wikipedia.org/wiki/量子テレポーテーション
ネイチャーダイジェスト 2018年1月30日付「衛星を使った量子鍵配送と量子テレポーテーションに成功」
https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v15/n1/衛星を使った量子鍵配送と量子テレポーテーションに成功/90554
カラパイア2017年9月7日付「史上初、水中での量子テレポーテーションに成功」
https://news.biglobe.ne.jp/trend/0907/kpa_170907_5991946589.html
東京大学・科学技術振興機構 2017年9月22日発表「究極の大規模光量子コンピュータ実現法を発明 1つの量子テレポーテーション回路を繰り返し利用」
https://www.jst.go.jp/pr/announce/20170922/index.html

| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
「レーザー」が揺れている
よく使われる科学・技術のことばには、正しそうに聞こえて、厳密には正しいといえるかは疑わしいようなものもあります。

「レーザー」もそのひとつではないでしょうか。

このことばに対して、多くの人が「光」を想起するようです。インターネットの画像検索で「レーザー」と入れると、色とりどりの光線の画像がいくつも出てきます。


グーグルでの「レーザー」の画像検索結果

しかし、レーザーは光というよりも、本来的は装置のことを指します。

国語辞典では「レーザー」は、はじめに「振動数が光および光に近い周波数にあるメーザー」と出てきます。では「メーザー」とはなにか。国語辞典では「誘導放出を利用してマイクロ波を増幅する装置」と出てきます。

つまり、「レーザー」は「メーザー」であり、「メーザー」は「装置」なのだから、「レーザー」は「装置」ということになります。

では、「レーザー」ということばから想起される「光」をどう表現すればよいのか。ふさわしいのは「レーザー光」あるいは「レーザー光線」あたりではないでしょうか。

大リーグのイチロー選手が外野フライをとってから、走者の走塁を封じるため3塁や本塁に一直線に球を投げることがあります。この一直線の球の軌跡は「レーザービーム」とよばれます。「ビーム」は「光線」ですから、「イチローから放たれたレーザービーム」という表現は、使いかたとしてはふさわしいといえそうです。なお、このときイチロー選手は「レーザー」の位置づけになります。

しかしながら「レーザー」を「装置、またはその光」という意味で捉えることを許容する向きもあります。べつの国語辞典には、「メーザーと同じ原理を用い、誘導放出によって光を増幅・発振する装置。また、その増幅された光」とあります。

ウィキペディアでは、「自由電子レーザー」という項目には「自由電子のビームと電磁場との共鳴的な相互作用によってコヒーレント光を発生させる方式のレーザーである」とあります。「光を発生させる」とありますから、これは装置を指すものと考えられます。

しかし、おなじウィキペディアの「X線自由電子レーザー」という項目には「自由電子レーザーのうち、X線領域で発振を行うものから得られる光である」とあります。こちらは明らかに光を指しています。

すくなくともレーザーの装置と光の両方を表現するような記事や文書では、「レーザー」と「レーザー光」を分けて使うほうが、読む人の理解は進みそうです。

このような記事を出すこのブログで、「レーザー」と「レーザー光」をきちんと分けていたかどうかは……。

参考資料
スーパー大辞林「レーザー」
スーパー大辞林「メーザー」
デジタル大辞泉「レーザー」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/234474/meaning/m0u/レーザー/
ウィキペディア「自由電子レーザー」
https://ja.wikipedia.org/wiki/自由電子レーザー
ウィキペディア「X線自由電子レーザー」
https://ja.wikipedia.org/wiki/自由電子レーザー
| - | 19:51 | comments(0) | trackbacks(0)
タカヂアスターゼ発見の前に“ニッポン・ウイスキー”の夢絶たれ
消化不良や食欲不振などに対する薬に、「タカヂアスターゼ」があります。一般名は消化酵素剤。糖質やたんぱく質を消化する効き目をもつ薬です。

この薬を発明したのは、応用化学者だった高峰譲吉(1854-1922)。ほかに、強心剤や血圧上昇剤としても使われるアドレナリンを発見した人物でもあります。


高峰譲吉

教科書に出てくる高峰の説明はこのくらいかもしれません。しかし、タカヂアスターゼを発明するまでの半生は、さほど知られていないものの壮絶なものだったようです。

高峰は1890(明治23)年、独自に開発した「高峰式」とよぶウイスキー醸造法をひっさげて、前の渡米中に出会い結婚した妻キャロラインや仲間と米国へ行きます。そしてシカゴに着くと、小麦麩(こむぎふすま)から麹をつくり、それをトウモロコシに付けて糖をつくり、発酵、また蒸留してウイスキーを試作しました。麹を使ったウイスキーづくりは、高峰にとっても初めてのことでした。

この成功の話に衝撃を受けたのが、米国の製麦業者たちでした。従来、ウイスキーづくりでは、トウモロコシなどの穀物に麦芽を加えて、糖化、発酵、蒸留していました。その麦芽が、高峰がもってきた麹に代わられるとしたら、製麦業がなりたたなくなると、米国の製麦業者たちは危機感をつのらせたのでした。

そして、製麦工場では、新たな醸造法の排斥運動が起きました。さらに、高峰の協力者だったウイスキー・トラスト社のグリーン・ハットが用意した高峰のウイスキー工場が火に燃やされ、工場は灰と化したといいます。

高峰とハットはこれにめげず、半年後に工場が再建され、ウイスキー・トラスト社のウイスキーのかなりの率を、高峰の醸造法でつくる計画を立てたといいます。

ところが、社内の製麦業者がやはり反対運動をくりひろげ、ついに当時の米国政府が会社に解散命令を下し、3年間は政府が管理することになったのでした。

高峰にとっては大きな挫折だったでしょうが、そこから立ちあがります。ウイスキーづくりでは幻の材料となってしまった麹を水に浸し、そこにアルコールを加えて、出てきた沈殿物を調べてみると、それまでにないほどの強力な酵素によるデンプンの分解作用が起きていることを発見したのです。

おそらく、ウイスキーの醸造の仕事を進めながら、高峰は、酵素はデンプンを分解することを知っており、「酵素を強力にはたらかせる麹を見つけることができれば」と考えていた、つまりタカヂアスターゼを発見するための準備はしていたのでしょう。

米国で憂き目に遭い、米国で100年以上も使われつづけることになる薬を発見した高峰は、1922(大正11)年、米国で死を迎えました。

参考資料
坂口謹一郎『日本の酒』
https://www.iwanami.co.jp/book/b247068.html
第一三共ヘルスケア「新タカヂア錠」
https://www.daiichisankyo-hc.co.jp/products/details/takadia/
高峰譲吉博士研究会「タカヂアスターゼ」
http://www.npo-takamine.org/works/02.html
ウィキペディア「高峰譲吉」
https://ja.wikipedia.org/wiki/高峰譲吉
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
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