科学技術のアネクドート

「高血圧に血糖値上昇、メタボ要素を抑える酢の力 」


ウェブニュース「JBpress」で(2017年)3月31日(金)「高血圧に血糖値上昇、メタボ要素を抑える酢の力 調味料の名脇役「お酢」の歴史と科学(後篇)」という記事が配信されました。

日本での基本的な調味料は、砂糖、塩、酢、醤油、味噌の五つといわれています。JBpressの食べものの記事を集めた「食の研究所」では、これまで「醤油」を主題とする記事と、「味噌」を主題とする記事がありました。

そして今回は「お酢」。食酢製造の最大手であり、老舗でもあるミツカンがこれまで研究してきた、血圧、食後血糖値、脂肪とかかわるお酢の健康機能について伝えています。

高めの血圧を下げる。食後血糖値の上昇を緩やかにする。肥満気味の人の内蔵脂肪を減らす。これらは、いずれもメタボリック症候群の予防や改善につながるもの。そして、お酢にはこれらの機能が兼ねそなわっているということです。記事では、それぞれの機能を示すグラフや腹部断面の比較画像も出ています。

興味深いのは、いずれもメタボリック症候群を抑えるのにつながる機能であるとともに、その機能のしくみはそれぞれ異なるという点です。

取材に応えるミツカン開発技術部の担当者によると、高めの血圧を下げる機能については、摂取した食酢が体内で代謝されるときアデノシンが出てきて、これが血管を拡張させることで、血圧が下がるといいます。アデノシンはアデニンと糖が結合した物質です。

また、食後血糖値の上昇を緩やかにする機能については、ご飯が胃から吸収器官である小腸に移行するのをゆっくりにさせる作用がお酢にあるためという説明です。血糖値の上昇が緩やかであるため、上昇した血糖値を抑えるようにはたらくインスリンの分泌も緩やかに。つまり、全体的に急激な血糖値の上がり下がりは起きづらくなるようです。

さらに、肥満気味の人の脂肪を減らす機能については、糖が脂肪に変わるのを抑える効果と、脂肪の燃焼を促進する効果のふたつがお酢にあるからではないかと考えられているとのこと。

高血圧、食後血糖値の急上昇、脂肪の蓄積といった要素がいずれもメタボリック症候群につながるいっぽうで、お酢がそれぞれことなるしくみによって、これらを抑えるようにはたらくというのは、よい意味でなんとも妙なことです。

一般的に、長く使われつづける食材には、それなりの理由があるといわれます。これらの機能を兼ねそなえるような調味料であるからこそ、お酢は長らく使われつづけてきたともいえるのかもしれません。

JBpress「高血圧に血糖値上昇、メタボ要素を抑える酢の力 調味料の名脇役「お酢」の歴史と科学(後篇)」はこちらです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/49575
お酢の歴史を追った前篇「お酢はいつから「健康によい」調味料になったのか?」はこちらです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/49501

記事の取材と執筆をしました。
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「まで」に解釈ふたとおり


このブログではこれまで何回かに、日本語の弱点や欠陥をとりあげてきました。「とっても、かわいそうだね!!!」だと「かわいい」という意味が通じないといった問題や、「イオンになりやすさ」も「イオンのなりやすさ」も表現としては違和感があるといった問題、また「偉い」に「そう」をつけて「偉そう」と表現するとべつの意味が加わってしまう問題、などです。

「まで」が、いつまでか曖昧ということも、日本語の弱点あるいは欠陥といえそうです。

たとえば、ある下請けの業者が、得意先から「3月31日までに納品してください」と言われたとします。いつまでに納品をすれば相手との約束を守ったことになるのでしょうか。

人の解釈は大きくふたつに分かれそうです。つまり「31日までというのだから、31日になるまえの30日には納品されているのが約束を守ったことになる」という解釈と、「31日までというのだから、31日いっぱいに納品されているのが約束を守ったことになる」という解釈です。

このふたつでは、最大24時間のずれがあるわけですから、解釈のちがいで大きな問題になりかねません。

もうひとつ、相手先の会社の佐藤部長に電話をかけたところ、佐藤部長の部下から「佐藤部長は休みをとっていて、31日までは出社しません」と言われたとします。いつから佐藤部長は出社するでしょうか。

これも、「31日までは出社しないというのだから、翌日の1日から出社するのだろう」という解釈と、「31日までは出社しないということは、31日から出社するのだろう」という解釈に分かれそうです。

国語辞典を見てみると、副助詞の「まで」には、「動作・事柄の及ぶ距離的、時間的な限度・範囲・到達点を表す」との説明があります。

大切なのは、「動作・事柄」の「限度・範囲・到達点」を表すということです。たとえば、上にある納品の場合であれば、「納品する」という「動作」の「限度」が「31日」ということになるわけですので、辞典による解釈では「31日いっぱいに納品されているのが約束を守ったことになる」ということになります。

また、ふたつめの例では、「出社しない」という「事柄」の「範囲」が「31日」ということになるわけですので、辞典による解釈では「翌日の1日から出社する」ということになります。

しかし、辞典でそうは言っていても、現実社会に「まで」の解釈がふたとおりあるのは事実です。せめて、「31日まで」という発言があったときは、言った人が「31日の何時何分まで」と補足するか、言われた人が「31日いっぱいでよいのですね」と確認するか、さらに意思疎通をとるのが、相手にとって親切となります。

「31日まで」といった会話は、日本中のどこでも起きていることでしょう。ずっと使われてきたということは、解釈のされ方があいまいでも、どうにかなってきたといことかもしれません。

参考資料
デジタル大辞泉「まで の意味」
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/208999/meaning/m0u/まで/
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「部外者が最古参現象」が生じることも



3月末から4月初旬にかけて、日本では年度がわりのため、「人の入れかわり」も多くあります。学校では卒業生が巣だち、入学生として新たなところで学びはじめます。会社や官公庁では、新入社員や異動してきた人が働きはじめたりします。

組織では人の入れかわりはつきもの。しかし、自由業では人の入れかわりは起きません。その人はその人だけだからです。

すると、世のなかではまれに「部外者が最古参」という珍事が生じることがあります。

たとえば、ある組織がある事業を立ちあげたとします。事業に携わるチームをつくり複数の人員を担当者にあてます。そして、この事業は毎年つづくもので、かつ大がかりなものでもあるため、外部から自由業の人も“助っ人”として雇います。

雇われた自由業の人は、その事業に携わる人員のひとりとして、組織に所属する人たちとともに立ちあげからはたらいていきます。

事業はうまく行き、2年目や3年目といったはじめの期間を超えて、4年目、5年目、6年目と安定期に入っていきました。そして、その自由業の人も毎年、組織から「今年もお仕事よろしく」と声をかけられ、事業に携わっていきました。

しかし、組織に人事異動はつきもの。最初の事業立ちあげチームの人員は、3年後に1人が退職、5年後にまた1人が異動といった具合に、その事業から離れていきます。そして、そのたびに後任の人員がその事業に携わっていきます。

こうして、組織内でその事業に携わる人はつぎつぎと代わっていきました。いっぽう、毎年、雇われている自由業の人は「今年もよろしく」と言われ、事業に携わりつづけていきます。組織の新任の人員からは、「長いこと携わってもらいありがとう」などとあいさつを受けるように。

さらに事業が10年目、15年目と歳月を重ねていくうちに、その事業に立ちあげから携わっている人は、ついに外部から雇われている自由業の人のみに。事業がどのように立ちあがったかを知る人は、もはや組織のなかでもすくなくなっています。

歳月が経つことで「部外者が最古参」という珍事が生じるわけです。

事業を立ちあげた人たちの意志を後任の人が引きついでいる以上、たとえ事業にはじめから携わっていた人員がいなくなっても、その組織はその事業をつづけていく必然性はあるのでしょう。

いっぽうで、異動のない自由業の人が、組織の人員よりも長くその事業に携われるというのは、ほまれなことといえるかもしれません。組織の人がみんな入れかわったなか、外部者がその事業をだれよりも長く携わっているというのは、なかなかありがたいことだからです。

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利き耳、右が6割ほど


人のからだはおおよそ左右対称といえます。しかし、むしろ、それだからこそ、左右非対称の部分は、とりわけ関心を集めます。

左右あるからだの部位には「利き何」とよばれるものがあります。はたらきのすぐれているほうを指して、たとえば「私の彼は左きき」などといいます。

「利き何」でよく知られているのは「利き手」です。日本人では右利きの人が9割、左利きの人が1割ほどとされています。「手」だけでなく、たとえばサッカーで思いきり球を蹴ることができる「利き足」や、視界の軸をなす「利き目」もあるようです。

そして、「利き耳」というものもあるといいます。つまり、左耳の右耳のうち、より聴くという能力に優れているほうの耳のことをいいます。

たとえば、電話の受話器を耳に当てるとき、無意識であっても、左右のうち聞きやすいと感じるほうの耳に当てるもの。当てる耳のほうがより、聴くのに優れていると考えると、そちらの耳のほうが利き耳となりそうです。

しかし、受話器をとるときは、たとえば利き手が右の人であれば、右手でペンをもって記録をするかもしれません。すると必然的に左手で受話器を左耳にあてるため、たとえ聞き耳が右であっても、反対の耳に当てるかもしれません。

より中立的に、自分の利き耳が左右どちらかを調べる方法もあるといいます。小さな音を聴こうとするとき、右耳を向けるか左耳を向けるか。あるいは、壁に耳を当てるとき、右耳を当てるか左耳を当てるか。これらにより、自分の聞き耳がどちらかを見わけやすいといいます。

なお、日本人ではありませんが、利き手、利き目、利き耳が左右のどちらであるかを調べた調査が複数あります。これらによると、利き手、利き目、利き耳の順に、右利きの割合が多いという結果になったもよう。つまり、利き手が右という人は、やはり9割ほど要るのに対して、利き耳が右という人はどちらの調査でも6割台。手ほど、耳は右左の利きがはっきり分かれているのではないようです。

参考資料
ウィキペディア「左右」
https://ja.wikipedia.org/wiki/左右
川村耳鼻咽喉科クリニック公式ブログ「耳・鼻・喉の健康情報局」
https://www.jibika-operation.com/dominant-ear
石津希代子「利き耳研究の概説」
http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf08/8-325-333-ishizu.pdf
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中性子星のまわりの惑星が謎をよぶ
科学の営みは発見と謎の出現のくりかえしです。発見や解明がなされると、それにより謎が生まれ、それがまた研究者たちの解明欲をわきたてるようです。

発見や解明によって謎が生じている研究分野に、「太陽系外惑星天文学」があります。

太陽系外惑星天文学とは、太陽のもとにある地球や火星などの惑星でなく、太陽以外の遠い星のもとにある惑星を見つけたり、そのなりたちを探ったりする学問のこと。

この分野の研究者たちが発見の結果、出くわした大きな謎のひとつに「中性子星のまわりに惑星がある」というものがあります。

中性子星とは星のひとつで、直径10キロメートル程度のとても密度の高い星のことをいいます。中性子星が生まれるまえ、この星の前身は超新星爆発という大爆発を起こしていたはずです。この大爆発によって中心が圧縮されることにより、中性子星は生じます。密度の高さは、さいころくらいの立方体の質量が1000万トン以上にもなるほどといいます。

じつは、1992年に研究者が初めて観測された系外惑星は、この中性子星のまわりをまわっているものでした。「PSR1257+12」という中性子星のまわりで、地球の重さとおなじくらいの惑星が複数あることが見つかったのです。


PSR B1257+12とまわりの惑星の想像図
画像作者:NASA / JPL-Caltech

なぜ、この発見が新たな謎をもたらすものなのか。

中性子星は超新星爆発によってできたものです。ということは、過去のある時点で、この星の前身にあたる超新星は大爆発を起こしていたはず。ところが、大爆発の影響をまるで受けていないかのように、中性子星のまわりに惑星があることが見つかったわけです。

もし、宇宙空間に漂っている惑星が超新星の大爆発を受けたら、まずもって惑星はその衝撃を免れることはできません。吹きとんでしまうことでしょう。しかし、惑星はたしかに中性子星のまわりに存在しているのです。

どうやら、中性子星のまわりの惑星は、超新星爆発が起きたあとに誕生したとしか考えようがなさそうです。たとえるなら、過去に大噴火をおこした火山の火口あたりでいまお茶屋が営業しているとしたら、それは大噴火が静まってから建てられたとしか考えられないといったようなもの。

では、中性子星のまわりの惑星はどのようにつくられたのでしょうか。

これについては詳しいことはわかっていません。ただ、その惑星たちは超新星爆発で生じた微粒子が集まってできたものという考えかたがあります。

まだ謎は多いものの、観測技術や理論が進歩することにより、ひとつずつこうした太陽系とは異なる惑星のつくられかたは詳らかになっていくことでしょう。

参考資料
阿部豊『生命の星の条件を探る』
https://www.amazon.co.jp/dp/4163903224/
日本天文協会IAU太陽系外惑星命名支援ワーキンググループ「太陽系外惑星はどのようにして発見されるのでしょうか?」
http://tenkyo.net/exoplanets/wg/discovery1.html
日経サイエンス2009年9月号「意外な星にも惑星が」
http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0909/200909_040.html
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科学番組またひとつ消え、「夢夢エンジン!」最終回


科学についての話を放送番組にするというのは、ほかの分野を扱う番組よりめずらしいかもしれません。

「若い人たちに科学の面白さ、奥深さを伝えていこう」という目的で、TBSラジオを中心に16局が放送していた「夢夢エンジン!」という番組が、(2016年)3月26日(日)未明0時30分からの放送をもって終了となりました。

俳優の松尾貴史さんと、アナウンサーの加藤シルビアさんが毎回、研究者などの専門家を招いてその人の研究内容について話を聞くという内容です。奇をてらうこともない単純なつくりであり、かつ番組の要素の中心は研究者の話となるため、いたってまじめな番組でした。

ときには聴取者が聴いていてもわからないようなむずかしい内容になることも。しかし、司会役の松尾さんらは、わからないことを包みかくさず「わからない。でも、すごそうな世界」といった感想を口にします。

番組の広告主は東京エレクトロン。若い人たちに科学のおもしろさを伝えるという考えかたには、この企業の思いいれもあったのではないでしょうか。番組内のコマーシャル・メッセージでも同社の若い社員が自分の夢を語るなど、番組全体に雰囲気がありました。

最終回に登場した研究者は、分子生物学者の福岡伸一さん。第1回目や「スペシャルウィーク」など、特別な回のたびに出演しており、最終回も登場となったようです。

福岡さんは、自身も所属していた米国ロックフェラー大学での研究生活などについて話しました。「必死体験という時期がないと、長い人生、つづけていくのはむずかしい」。

そして、「科学はアートであり、ロマンであり、ストーリーであると思うので、われわれ研究者も、科学を支えてくれる納税者も、長い目で科学を見ていただきたい」という福岡さんのメッセージで 6年半にわたる番組は終わりました。

「夢夢エンジン!」の番組サイトはこちらです。ログインすることにより、また一部の回はログインしなくても、過去の放送を聞くこともできます。
http://www.tbsradio.jp/yumeyume/
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「社会を変える新技術 ゲノム編集」は『Rikejo』マガジンで


理系進学をめざす女の子たちを応援する講談社の会員誌『Rikejo』マガジンの第44号が、(2017年)3月中旬に発行されました。

『Rikejo』マガジンは紙媒体ですが、講談社のデジタル版サービス「codigi」でも、ごく簡単な手つづきをすれば、おなじ誌面をウェブで読むことができます。メールアドレスやパスワードを決める新規読者登録をしたうえで、codigiの「電子書籍登録」というページで「r344 wabz zim6」という12文字を入力すると、誌面とおなじ内容を見ることができます。

第44号の科学特集「リケジョサイエンス」では、「社会を変える新技術 ゲノム編集」という特集が組まれています。

「ゲノム編集」とは、遺伝情報が遺伝子というかたち詰まっているゲノムのうち、特定の遺伝子を狙いどおりに改める技術のこと。「改める」には、遺伝子を機能しないようにする、一部を置きかえる、外から遺伝子を入れるといった方法があります。これまでも、遺伝子を改める技術として「遺伝子組みかえ」という方法がありました。しかし、遺伝子組みかえにくらべてゲノム編集ははるかにかんたんで効率的、かつ、広い種の生きものに対して、遺伝子を改めることができます。

特集では、遺伝子組みかえとくらべることでゲノム編集の特徴を浮きぼりにするほか、ゲノム編集を使った研究開発の実例として「理想のトマト」をつくるとりくみを伝えたりしています。たとえば、受粉なしでも実がなる、日持ちする、甘い、栄養が多いといったさまざまな特徴を兼ねそなえたトマトが実現するかもしれないとのこと。

女子高生という世代にとって、ゲノム編集という技術は、まだあまり知られておらず、いまの時点での関心もそう高くないかもしれません。

しかし、ふたつの点でゲノム編集は会員の読者にとって深く関わっていきそうです。

ひとつは暮らしのなかに入ってくるであろうということ。記事で紹介している「理想のトマト」も、こうした作物をつくるためのルールが社会で定まれば、何年かあとには食卓にのぼる日がくるかもしれません。自分たちの生活がどう変わっていくかという視点や知識をいまからもっておくことは女子高生世代のみならずですが、大切です。

もうひとつは自分のこれからの研究生活のなかで使う可能性があるということ。生物学系の分野での大学院修士課程や博士課程まで進めば、自分自身がゲノム編集を利用して研究したい実験動物や実験植物を用意するという機会も出てくるかもしれません。

特集のなかでは、「研究の準備をバイオテクノロジー企業に頼んでいる研究室では『この遺伝子をこう変えてください』と依頼するだけになるかも。でも、ゲノム編集の技術的な講習会なども開かれており、自分でゲノム編集を行えるように参加する若手研究者もいます」と、いまの状況を伝えています。

遺伝子を改めるということ自体が、生きものの設計図を積極的に変えていくという意味をもつため、ゲノム編集の技術をどう扱っていくかは、人びとにあたえられてしまった課題といえます。

「社会を変える新技術 ゲノム編集」は、『Rikejo』マガジン第44号で読むことができます。紙媒体とおなじ内容のデジタル版は、「codigi」の会員登録をして、コード番号を入力することで見ることができます。デジタル版を読むための方法について、詳しくは「リケジョ」のウェブサイトの記事をご覧ください。
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世界の「花粉媒介者」2350億〜5770億ドルの価値をもたらす


このブログの2016年9月7日(水)の記事は「虫たちの送粉がもたらす日本農業の恩恵はおよそ4700億円」というものでした。ミツバチなどの花粉を運んでくれる虫たちの「送粉サービス」の経済価値を、農業環境技術研究所が計算して発表したというものです。

世界規模でもおなじように、動物たちによる送粉サービスの価値が計算されています。

政府間組織として2012年に立ちあがった「生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学-政策プラットフォーム」(IPBES:Intergovernmental science-policy Platform on Biodiversity and Ecosystem Services)は、ミツバチなどの動物による花粉媒介は、2015年の米ドル換算で、年間2350億ドルから5770億ドルの利益に直接寄与していると推計されることを発表しました。日本円では、およそ27兆円から66兆円ということになります。

これは、同組織の「花粉媒介者、花粉媒介及び食料生産に関するアセスメントレポート」という書類で「主要なメッセージ」として書かれたもの。花粉媒介者としては、飼育されているミツバチのほか、野生のハナバチ、ハエ、チョウ、ガ、カリバチ、コウチュウ、アザミウマ、鳥類、コウモリなどがふくまれています。

また、コスタリカでは、花粉を運ぶミツバチが住んでいる森が、近くのコーヒー農場1個分にもたらす経済価値は、平均でおよそ6万2000ドル、収入の約7パーセントにあたるという計算も出ています。日本円ではおよそ700万円となります。

これは、世界自然保護基金(WWF:World Wide Fund for Nature)や米国スタンフォード大学などの研究によるもの。いわば、人が作業した場合、作業者に700万円を支払うようなはたらきを、ミツバチはしてくれていることになります。

ミツバチの個体数が世界的に減っていると伝えられています。これらの計算結果は、生きものの種がいなくなることが、人にとっても大きな影響をあたえることを示唆している例ともいえそうです。

参考資料
地球環境戦略研究機関「花粉媒介者、花粉媒介及び食料生産に関するアセスメントレポート」(抄訳)
https://pub.iges.or.jp/pub/ipbes-花粉媒介者、花粉媒介及び食料生産に関するアセスメントレポート%E3%80%80政策決定者向け要約
Ecosystem Marketplace “The Case of the $62,000 Bees”
http://www.ecosystemmarketplace.com/articles/the-case-of-the-62-000-bees/
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生きものの種の絶滅速度は、過去とくらべて100倍から1000倍

写真作者:Abhijeet Sawant

地球に生命が誕生してから、およそ40億年が経つといわれます。長い生命の歴史のなかでは“最近”にあたる、4億4600万年前のシルル紀から、6500万年前の白亜紀までのあいだに、多くの生きものがほぼ一斉に絶滅する「大量絶滅」は5回、起きたと考えられています。

いっぽう、いまが6回目の大量絶滅の時期に入っていると考える研究者は多くいるようです。米国自然史博物館は1998年、「7割の生物学者は、いまは生きものの大量絶滅の最中であり、激的に種が減ることが人類の存在に大きな恐怖をもたらすと信じている」という調査結果を発表しました。

いま生きものの種が絶滅している速度が、絶滅期でない過去の時期にくらべてどのくらい速いのかを調べて発表している研究者もいます。

2014年には、米国の保全生態学者スチュアート・ピムたちのチームは、「種の生物多様性と絶滅速度、分類、保護」という論文を、米国の科学誌『サイエンス』に発表しました。これによると、いまの生きものの絶滅速度は、過去よりもおよそ1000倍高いといいます。

ピムは、国際自然保護連合が発行する『絶滅のおそれのある生物種のレッドリスト』を解析。結果、年間100万種あたり100種から1000種が失われていることがわかったといいます。また、おもな原因は人の活動によるものとのこと。

いっぽう、過去については、化石から得られる情報を検討して、およそ20万年前の絶滅速度を計算しました。すると、年間100万種あたり1種以下しか失われていないことがわわかったといいます。

この結果は、たとえば環境省の「考えてください生物多様性」といった一般向け資料で、「私たちは、生きものたちの絶滅スピードを1000倍に加速させています」といった説明に使われています。

ピムたちとはべつに、メキシコ出身の地球保全科学者ジェラルド・セバロスらのチームは2015年「加速される現代の人為的な種の消滅 第6期大量絶滅の突入」という論文を『サイエンス・アドバンシーズ』に発表しています。

これによると、セバロスらは、まず、過去における哺乳類の絶滅速度として、100年で1万種につき2種が絶滅するといった値を使いました。そして、いまの哺乳類や脊椎動物の絶滅とくらべたところ、2014年における脊椎動物の絶滅速度は、過去の100倍になったとしています。そして、20世紀に絶滅した脊椎動物の種の数は、過去に800年から1万年かけて絶滅した種の数に匹敵するとしています。

こうしたことから、セバロスは「第6期の大量絶滅はすでに進行中であることが示唆される」としています。

参考資料
磯崎行雄「『語る科学』大量絶滅 生物進化の加速装置」『生命誌ジャーナル』2005年春号
http://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/044/research_11.html
American Museum of Natural History “National Survey Reveals Biodiversity Crisis”
http://web.archive.org/web/20070607101209/http://www.amnh.org/museum/press/feature/biofact.html
S. L. Pimmなど“The biodiversity of species and their rates of extinction, distribution, and protection” Science 2014年3月30日号
http://science.sciencemag.org/content/344/6187/1246752
ナショナル・ジオグラフィック 2014年5月30日付「人間の影響で絶滅速度が1000倍に?」
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/9296/?ST=m_news
Gerardo Ceballosなど“Accelerated modern human–induced species losses:Entering the sixth mass extinction” Science Advances 2015年6月19日付
http://advances.sciencemag.org/content/1/5/e1400253.full
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遺伝子をもつ素材のほとんどが資源

写真作者:Kate Ter Haar

人は、身のまわりから価値のあるものを得て、それを使うことによって生きていくことができます。

たとえば、お店などで食材という栄養の価値のあるものを買って、それを食べることで生きていきます。あるいは、インターネットで情報という価値のあるものを得て、それを使って新たな情報をつくって売ることでお金を得て生きていきます。

広い意味で、生きていくのに役立つ素材のことを「資源」といいます。たとえば、食材は「食資源」といいますし、情報は「情報資源」といいます。

もうひとつ、「遺伝資源」という資源もあります。さまざまな意味があたえられていますが、「遺伝子をもつ素材のうち、価値のあるもの」と捉えることができます。

遺伝子をもつ素材というのは、たとえば染色体、種子、生きものそのものなどを指します。染色体も、種子も、生きものそのものも遺伝子をもっているからです。そして、遺伝子をもつ素材のなかで、価値のあるものを「遺伝資源」とよぶわけです。

ふつうに考えれば、どんな遺伝子をもつ素材でも、なにかしらの価値はもっていそうです。なので、「価値のあるもの」を強調する必要もなさそうです。しかし「遺伝資源」ということばでは「資源」を意識しているため、あえて「価値のあるもの」としているわけです。

付けくわえると、「いま価値のあるもの」でなくても「これから価値の出そうなもの」や「つねに価値のあるもの」であれば、それらも遺伝資源にふくむものと見なされます。

遺伝子をもつ素材、つまり遺伝資源から、価値のあるモノやサービスがもたらされます。たとえば、植物のケシの実は鎮痛薬として使われるモルヒネに応用されています。また、動物のミツバチははちみつをつくってくれるだけでなく、くだものになる植物の花粉を運んだりしてくれます。

これらの遺伝資源があるのは、植物や動物の遺伝子が長らく受けつがれてきたからこそ。そのため、できるかぎり多くの動植物について、これからも遺伝子が受けつがれる状態を保っていこうとする考えかたがた大切になっています。絶滅の危機にある動植物を救い、生物の多様性を保つためのとりくみは、こうした考えかたのもとでおこなわれています。

参考資料
EICネット「遺伝資源」
http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=136
コトバンク「遺伝資源」
https://kotobank.jp/word/遺伝資源-434783
環境省「名古屋議定書の概要」
https://www.env.go.jp/nature/biodic/abs/attach/about_02.pdf
エーザイ くすりの博物館「身近な生活にある薬用植物 医薬品の原料となった植物」
http://www.eisai.co.jp/museum/herb/familiar/medicine.html
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「MON」のモンカレー辛口――カレーまみれのアネクドート(94)


千葉の房総半島を走るJR線のダイヤグラムは、都心のにくらべて疎です。そのため終点・始発の駅では、つぎの電車が出るまで、30分や40分は待ちぼうけとなります。

そのくらいの時間の過ごしかたといえば、駅前ロータリーを散歩するくらいなもの。あるいは、昼時では喫茶店でカレーかなにか食べて暇をつぶすくらいなものです。

どの電車に乗ってもかならず降りることになる館山駅の東口には、「モン」という高い天井の喫茶店があります。地方都市の喫茶店としては大きめ。創業は1977年といいますから、40年も駅の乗りかえ客などを待ちうけてきたのでしょう。

力を入れているのが、カレーライスです。生たまご入り、目玉焼き入り、ハンバーグ入り、カツ入りなどがあるなかで、もっとも基本的なのは「モンカレー」。中からと辛口が選べます。

辛口のほうのルゥの褐色度は、中辛のより1段、いえ2段階ほど高くなっています。具は小さな肉片が入っているくらい。乗りかえのあいだの腹ごしらえであれば、このくらいでもよいのでしょう。

ルゥの味は、辛口だけあって、かなり辛めです。欧風カレーのルゥに近いものの、香辛料の風味とコクがともに高く、「甘くて辛い」と「直接的に辛い」の中間どころといった味わいです。

コーヒーとの相性も合っています。カレーの合間に熱いコーヒーを飲むと、コーヒーの香ばしさが引きたちます。そして、熱いコーヒを飲んでから再びカレーを食べると、ルゥの辛さが引きたちます。

都会よりも店の運営費は安いのでしょうが、人もすくないため集客はきっとたいへんでしょう。しかし、「モンカレー」は初めて駅前で時間をつぶす人の心をつかみます。そして、二度目に駅前で時間をつぶす人にその存在を思い出させます。40年もつづく店には、売りとなる料理がきっとあるのでしょう。

MONの食べログ情報はこちらです。
https://tabelog.com/chiba/A1207/A120704/12013355/
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酒から酢に


酢は、寿司をつくるのに使われたり、餃子につけるのに使われたりと、身近な調味料です。しかし、酢がどのようにつくられるかは、意外と知られていないのではないでしょうか。

ごく大まかにいうと、酢は、酒を発酵させることによりつくられます。

たとえば、日本でつくられてきた酢のうち、もっとも古くから原料として使われてきた米をもとにつくる「米酢(こめず)」のつくりかたを見てみます。

いったん、酒をつくることになるので、米を蒸して蒸米にし、そこに麹菌を加えて米麹をつくり、さらに酵母菌を加えて発酵させて酒にします。このあとからが、酢に特有のつくりかたとなります。

酒に、種酢とよばれる仕込み液を加えて混ぜます。種酢は、酢酸発酵が済んだもろみのことで、酢酸菌という細菌が含まれています。種酢のなかの酢酸菌が、酒の成分であるエタノールをいわば“餌”のようにして酸化発酵していきます。そしてエタノールが減っていくと、かわりに酢酸がつくられていきます。ただし、できあがったばかりの酢では刺激的な臭いが強すぎるため、1か月以上にわたり寝かせて、まろやかな味にしていきます。

なお、アルコール分は酢酸菌による発酵作用で分解されていくため、酢にはアルコール分がふくまれません。この点が、「酒と酢」といわれても、縁があまりなさそうに思われてしまいがちとなる理由なのかもしれません。

酢のほとんどが水分ですが、酢酸菌の発酵作用によりつくられる酢酸も、米酢にかぎらず、4〜5パーセントはふくまれます。

酢酸菌は酸化発酵をするので、それによりつくられる酢酸は当然、酸性です。しかし、酢は「アルカリ性食品」に分類されています。

アルカリ性食品または酸性食品というのは、食品そのものでなく、食品にふくまれるミネラルがアルカリ性か酸性化によって分けられます。酢については、カルシウム、ナトリウム、カリウムなどのアルカリ性の高いミネラルが含まれているため、アルカリ性食品なのです。

参考資料
佐世与一郎「酢――古くて新しい調味料」『おいしさの科学』第12号
http://ci.nii.ac.jp/naid/40017033160
デジタル大辞泉「種酢」
https://kotobank.jp/word/種酢-562056
全国食酢協会中央会・全国食酢公正取引協議会「食酢について 製造工程」
http://www.shokusu.org/oxalis/koutei.html
からだカルテ「酸性食品、アルカリ性食品って何?」
https://www.karadakarute.jp/tanita/ksqa/ksqa051.jsp
| - | 22:12 | comments(0) | trackbacks(0)
地球は自転を遅くし、月と離れていく


写真作者:NASA / Bill Anders

地球の「1日」は、地球が自転により1回転したときの時間で決まります。地球での1日は、時間で表すと24時間。といっても「1日」や「24時間」は、ほぼ人がつくりあげた概念といえるものですが。

かつて、地球での1日は24時間より短かったといいます。地球の歴史が始まって間もないころには、1日が5、6時間という時代もあったといいます。つまり、地球の自転の速度がいまよりはるかに高かったということです。

むかしよりもいまのほうが自転の速度が低くなっているということは、すこしずつ地球の自転に制動がかかっていることになります。そしてのその制動は、おもに海の水が起こす摩擦力によるものと考えられています。

海の水は、地球の自転とは異なる動きをしています。地球が自転する速度よりも、海の水が動く速度のほうが遅いのです。そのため、海の底や海岸線などでは水の動きが摩擦をかけていることになります。これらの摩擦が地球を制動する方向にはたらくというわけです。

地球の自転が遅くなっていることは、地球と月の距離の変化にもかかわっています。

自転する地球のまわりを月は公転しています。ここで、地球と月を一体として見ると、そこには角運動量という物理の量が保存されています。

角運動量が保存されるというのは、フィギアスケートの選手が回転するときの動きからわかります。体を回転させているとき、体の遠くの位置にあった手を体のほうに近づけると、選手の回転する速度は高くなります。逆に、体の近くの位置にあった手を体から遠ざけると、選手の回転する速度は遅くなります。

おおざっぱに、自転する地球をフィギアスケート選手の胴体と考え、地球のまわりを公転する月を選手の手と考えてみます。すると、選手の体の回転が遅くなるほど、選手の手は体から離れていくことになるのとおなじように、地球の回転が遅くなるほど、月は地球から離れていくことになります。

地球の自転の速度は遅くなっているため、地球からの月の距離はどんどん遠ざかっていることになるわけです。実際、月は地球から毎年3センチメートルほど遠ざかっているといいます。

1日の時間や、地球と月の距離といった大きなものであっても、不変であることはない。森羅万象は、すべて無常なのです。

参考資料
月探査情報ステーション「月は地球から少しずつ離れているということですが、逆に、昔はもっと地球に近かったのでしょうか? 月の見え方は今とは変わっていたのでしょうか?」
http://moonstation.jp/faq-items/f319
月探査情報ステーション「月が地球から離れていくのはなぜですか?詳しく教えて下さい。」
http://moonstation.jp/faq-items/f320
三菱電機 See the moon 2007「スペシャル対談 渡部潤一 × 鏡リュウジ 天文学と占星術が月で出会うとき」
http://www.mitsubishielectric.co.jp/dspace/moon/interview/2_b.html

| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
証人喚問「虚偽の証言」を判断するのは議院、委員会、合同審査会

写真作者:Hideyuki KAMON

国会の衆議院と参議院は、森友学園に鑑定価格よりも低く国有地が売却されたことをめぐり、籠池泰典理事長の証人喚問を(2016年)3月23日(木)におこなうことを決めました。

証人喚問は、国政調査権に基づき、衆議院と参議院の委員会が人や団体に証人としての出頭を求め喚問することをいいます。

証人喚問で、証人は真実を述べる旨を宣誓してから証言します。そのため「虚偽の証言をした場合、偽証罪に問われる」とされています。

「証人喚問とはそれほど厳しいものだ」という文脈で「虚偽の証言をした場合、偽証罪に問われる」という説明がなされます。では実際、証人が虚偽の証言をしたかどうかをどう調べるのでしょう。そして、虚偽の証言があったとわかったとき、どのような罰則が待っているのでしょう。

証人が喚問を受けて発した一言一句を、検察が検証するわけではありません。「議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律」の第八条には、つぎのように記されています。

「各議院若しくは委員会又は両議院の合同審査会は、証人が前二条の罪を犯したものと認めたときは、告発しなければならない」

つまり、衆議院や参議院、または国会内の委員会、または合同審査会が、
「証人は虚偽の証言をした」と判断したとき、告発をすることになります。なお、「前二条」とは、「証人が虚偽の陳述をしたとき」について記された第六条と、「正当の理由がなくて、証人が出頭せず、現在場所において証言すべきことの要求を拒み、若しくは要求された書類を提出しないとき」について記された第七条のこと。

そして、証人が虚偽の証言をしたときは、同法の第六条につぎのように罰則が書かれています。

「この法律により宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処する」

国会の証人喚問で「虚偽の証言」をしたとして告発され、検察から求刑された例としては、最近では山田洋行事件をめぐって2007年10月に行われた証人喚問での、元防衛事務次官の守屋武昌氏の「次女の米国留学資金は全て自分で賄った」という証言に対するものがあります。

この証言をめぐっては、証人喚問をおこなった衆院テロ対策特別委員会が「虚偽の証言」があったとして告発。東京地方裁判所が懲役3年6か月、追徴金1250万円を求刑。そして東京高等裁判所は、懲役2年6か月、追徴金約1250万円の実刑ハンケを下した例があります。

また、地方議会では、国会の証人喚問にあたる「地方自治法百条に基づく市議会の調査特別委員会の証人喚問」で、虚偽の陳述があったとして証人が告発される例はあります。千葉県の八千代市が市長を証人喚問したとき、市長の証言に虚偽の陳述があったとして、2017年1月、市議会が市長の告発状を千葉地検に出したということです。

過去の証人喚問では、1976年のロッキード事件で承認となった小佐野賢治(1917-1986)が「記憶はございません」「記憶がありません」とくりかえし話題になったことがあります。「記憶がない」という証言を虚偽であると立証するのはむずかしいため、このことばは証人喚問での逃げせりふにもなっています。

篭池氏の証人喚問のあと、はたしてどのような動きが見られるでしょうか。

参考資料
NHK NEWS WEB 2016年3月17日付「23日に籠池氏の証人喚問 衆参の予算委で議決」
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170317/k10010915251000.html
衆議院「議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律」
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/00119471223225.htm
弁護士 保科法律事務所「偽証罪」
http://hoshinaben.com/kurashi/15gisyo.html
朝日新聞 2008年1月9日付「守屋前次官を偽証で告発へ 衆院テロ対策特別委」
http://www.asahi.com/special/071029/TKY200801090293.html
朝日新聞 2009年11月5日付「守屋前次官に実刑判決、懲役2年6カ月 防衛汚職」
http://www.asahi.com/special/071029/TKY200811050047.html
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
「放送とネットのあり方を実験」に成果を出し「ケータイ大喜利」最終回へ


NHKのテレビ番組「着信御礼!ケータイ大喜利」が、4月9日(日)未明の放送で最終回を迎えます。3月12日(日)未明の放送で、告知されました。

毎回、番組では「お題」が出され、それに対して視聴者が、携帯電話やスマートフォン、タブレット端末などから「答え」を送信します。たとえば、タレントの山下真司さんがゲストで登場した回では、「通販番組にて。山下真司さん、ちゃんとしてください!何と言った?」というお題に対して、「俺は店で買わないと不安だな」といった答えが視聴者から寄せられました。

地上波の全国放送であるゆえ、多くの視聴者がおり、毎回の答えの数は数十万通にもなっていました。

生放送で、これだけの答えの数をさばききるシステムは注目に値するものでした。NHKもこの番組を「放送とインターネットの融合のあり方を実験する番組」と位置づけてきたそうです。視聴者は、答えがつぎつぎと読みあげられるのをあたりまえに受けとめて見ていました。「エラーがないのがあたりまえ」という状況をずっと保ってきたわけです。

ただし、ごくまれには「エラー」も起きていました。答を選ぶ役の千原ジュニアさんが選んだ答と、べつの場所で答を読みあげるゲストのラッパーが読んだ答がべつのものとなってしまったという例です。画面に映された答と音声で伝えられた答がちがってしまい、やり直しも利かず、大きな“ハプニング”となってしまいます。

しかし、こうした「エラー」が起きる率は、おそらく相当に抑えこまれていることでしょう。おなじような内容の番組を、たとえばこの番組以外の制作体制でおこなったとしたら、これほどの「エラー」のすくなさは実現できていたことか……。

番組が始まったのは2005年1月。当時はiPhoneもAndroidも世にありませんでした。しかし、放送開始から10年以上が経ち、もはや「着信」や「ケータイ」といったことばも、すこし前の時代のものと化してきています。

「放送とインターネットの融合のあり方を実験する番組」というのが大きな目的であるとすれば、この番組は、実験で一定の成果を出して、役割をまっとうしたといえるのかもしれません。

最終回は4月9日(日)未明の0時5分から、生放送でおこなわれます。

NHK「着信御礼!ケータイ大喜利」のサイトはこちらです。
http://www.nhk.or.jp/o-giri/

参考資料
NHK 着信御礼!ケータイ大喜利「第293回放送(平成29年3月11日)の作品」
http://www.nhk.or.jp/o-giri/sakuhin/index.html
ウィキペディア「着信御礼!ケータイ大喜利」
https://ja.wikipedia.org/wiki/着信御礼!ケータイ大喜利
| - | 19:57 | comments(0) | trackbacks(0)
講演の内容から逸脱した加筆修正はご法度

写真作者:Southern Arkansas University

雑誌などの記事には、さまざまな目的があります。そして、その目的により、記事づくりのためのおなじような作業でも、やってよい場合とやらないほうがよい場合に分けられます。

たとえば、あるもの書きが、研究者に「先生の研究をぜひ広く読者に伝えたいのです」と言って、記事づくりの協力を相談し、取材で語ってもらい、原稿をつくり、記事が載るまえに研究者に原稿を見せたところ、取材では語られていなかった話を研究者から加筆されたとします。

このときの記事の目的は、「先生の研究をぜひ広く読者に伝えたい」というものです。なので、たとえ取材で語られていなかったことを研究者が加筆してきたとしても、とくだん問題はありますまい。むしろ、加筆の内容が読者に伝える価値の高いものであれば、その加筆はありがたいこととなります。

いっぽう、べつのもの書きが、研究者たちの講演を再録する記事をつくるよう出版社から頼まれて、研究者の講演を聞き、原稿をつくり、記事が載るまえに講演した研究者に原稿を見せたところ、講演では語られてなかった話を研究者から加筆されたとします。

このときの記事の目的は、「研究者の講演の内容を再録する」というものですから、講演で語られていなかったことを研究者が加筆してきたとしたら、問題ありと考えねばなりません。聴衆の前で言ってもいなかったことが記事に載ろうとするのですから、再録という目的から逸脱することになります。

もちろん、講演の一言一句をおなじに再録するするのは、記事ではほぼ不可能です。しかし、講演を実際に聴いた聴衆が受けとめた感覚とおなじような感覚を再録を読んだ人が受けとめることはできます。そして、それが記事で実現できれば、講演を再録するという目的はかなったといってよいのではないでしょうか。

ですので、原稿を確認した講演者から加筆が、この範囲に収まっているものであれば問題なしと考え、この範囲を外れているものであれば問題ありと考えてよさそうです。

「先生、ご加筆なさったこの部分は、講演ではお話していなかったように思いますので、このご加筆はご遠慮いただけませんでしょうか」

すくなくとももの書きは、この講演者にこう伝えることはできます。むしろ、記事の目的を考えれば、加筆した部分を記事に反映させないようにする責務があるとさえいえます。
| - | 23:19 | comments(0) | trackbacks(0)
国税庁の相談窓口によると、文筆業は「第五種事業」


3月は「確定申告」の時期。自由業などの申告納税者が収める税の額などを定めるため、納税者みずからが前の年の所得額や控除額を税務署に申告します。

過去のある一定時期の売りあげ高によっては、所得税のほかに消費税の確定申告をしなければならない人もいます。

この消費税の確定申告では、文筆業を生業とする人たちがすこし迷うことがあるといいます。いくつかあって選ばなければならない「事業区分」をどれにすべきかという迷いです。

この事業区分を決める必要があるのは、簡易課税制度というしくみで確定申告の書類をつくろうとする場合。消費税の確定申告のためには本来、仕事上の経費を計算して記さなければなりませんが、細々と計算するのがたいへんという人は、簡易課税制度を選ぶことができます。

収める消費税の額は、売りあげの額から仕入れなどにかかる額が差しひかれてきまりますが、簡易課税制度ではその仕入れの額を決めるとき「みなし仕入率」という率が使われます。「この仕事をしている人は、売りあげ額に対して、まあ、仕入れ額はこのぐらいになるでしょう」と見なして、売りあげ額に対する仕入れ額の率を一定にするのです。

「この仕事をしている人は」というときの「この仕事」というのには、第一種から第六種まであり、その種類によって、みなし仕入率が変わってきます。

たとえば、卸売業にあたる「第一種事業」だと、みなし仕入率は90パーセント。いっぽう、不動産業にあたる「第六種事業」だと、率は40パーセント。仕事の種類によって2倍以上のちがいとなります。

文筆業が当てはまりそうな事業には、「第三種事業」「第四種事業」「第五種事業」があります。

国税庁の説明によると、第三種事業は「農業、林業、漁業、鉱業、建設業、製造業(製造小売業を含みます。)、電気業、ガス業、熱供給業及び水道業」。「原稿をつくって出版社に売る」と考えれば、製造小売業にかすりそうなものです。

第四種事業はというと「第一種事業、第二種事業、第三種事業、第五種事業及び第六種事業以外の事業をいい、具体的には、飲食店業など」とあります。ほかの種類にはどれも当てはまらない仕事ということです。

第五種事業はというと「運輸通信業、金融・保険業、サービス業(飲食店業に該当する事業を除きます。)をいい、第一種事業から第三種事業までの事業に該当する事業を除きます」とあります。文筆業が、非物質的な生産物、つまりサービスを生みだす仕事であると考えれば、サービス業といえそうです。

あるもの書きは、自分がどの種類の事業に当てはまるのか迷い、国税庁の「税についての相談窓口」に問いあわせたといいます。

もの書き「自分は文筆業をしていますが、第一種から第六種までのどれに当てはまるのかわからなくてお尋ねします」

相談窓口「文筆業ですね。調べますから、ちょっとお待ちくださいね。……どうやら、『第五種事業』のようですね」

もの書き「サービス業ということでしょうか」

相談窓口「第五種事業以外のどれにも当てはまらなかったので、第五種事業となります」

こうして、このもの書きは、文筆業は第五種事業であるということを教えられたのでした。ちなみに、第五種事業のみなし仕入率は、6種類のなかで下から2番目に低い50パーセントとなっています。

参考資料
国税庁「簡易課税制度」
https://www.nta.go.jp/taxanswer/shohi/6505.htm
国税庁「簡易課税制度の事業区分」
https://www.nta.go.jp/taxanswer/shohi/6509.htm
| - | 17:55 | comments(0) | trackbacks(0)
「著」のまえに1文字つけて熟語を創る


「著」という字を、べつの漢字1字のあとにつけて、「何著」と表す熟語があります。この「何著」は、たいてい「なになにな書物」といった意味になります。

たとえば、「原著」といえば、翻訳や改作したものに対して、そのもとになった著作のことを指します。また、「共著」といえば、ふたり以上の人が共同で1冊の書物を著すことや、その書物のことを指します。

「原著」や「共著」は、それぞれ「原作となる著書」「共同でつくられた著書」といったように、「何」に当たるものがわりかし客観的です。

しかし、なかには、好ましく感じられる著書のことを「好著」といったり、すばらしい著作物のことを「快著」といったり、「何」に当たるところに主観的なことを形容する文字が入ることもあります。

あまり聞きませんが、「名著」ならぬ「迷著」という熟語もあるようです。国語辞典によると、なにを書きたいのかわからない著作のことを指すとのこと。

たとえ辞書にはなくても、「何」のところに適当な1字を入れて、それなりの意味が伝わる「何著」を創ることができそうです。たとえば……。

「乱著(らんちょ)」。誤字や脱字が多かったり、ページの順番が狂っていたり、なにかと乱れている著作物のこと。

「甘著(かんちょ)」。読む人をうっとりさせるような甘美なことが書かれてある著作物のこと。

「恥著(ちちょ)」。世間に出すことさえ恥ずべき内容の著作物のこと。

「恐著(きょうちょ)」読むのが恐ろしくなるような著作物のこと。ホラー小説などのほかに、内容がすごすぎて恐ろしくなるといった意味でも使えそうです。

「疎著(そちょ)」。中身が詰まっておらず、すかすかな内容の著作物のこと。

「爆著(ばくちょ)」。著者の発想や才能が爆発しているような著作物のこと。

「慎著(しんちょ)」。主張が控えめだったり、慎重なものの言いようだったりする著作物のこと。

「頑著(がんちょ)」。内容がかためで、読みごたえのあるような著作物のこと。

このような形容する漢字に「著」の組みあわせの熟語が起きていったとしたら、その先には「タフ著」「グー著」「ラブ著」「ヤバ著」「スイー著」といった発展系の造語も現れてくるかもしれません。

参考資料
goo国語辞典『大辞泉』
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/
| - | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0)
「与作」で伝えたいことはおそらく「『与作』という木こりは働きものだ」


「与作」という歌があります。作曲と作詞は七澤公典。歌は北島三郎。1978年にレコードなどで発売されました。また、さほど知られてはいませんが、千昌夫ももち歌としています。

「与作」の歌詞をインターネットでも見ることができます。歌詞には、木こりの「与作」という男性と、その「女房」が登場します。

「与作」については、この歌詞をめぐって話題になることがあります。

よくある話題は、歌詞の一部の「ヘイヘイホー ヘイヘイホー」がどういう意味かについてです。

これについては、歌詞の初めに出てくるものは「与作は木をきる」につづいてのものなので、「与作」が木を伐るときの“かけ声”であり、そのつぎにでてくるものは、「こだまは かえるよ」につづいてのものなので、“山びこ”であると解釈できます。

また、この歌を発しているのはだれなのか、といった役割をめぐる問いもまれに見られます。もちろん、歌っているのは北島三郎や千昌夫ですが、では北島や千が「だれ」あるいは「なに」になったつもりで歌っているのかということです。

これについては、「与作は木をきる」や「女房ははたを織る」などの描写は「説明役」が発していることばであり、いっぽう「ヘイヘイホー ヘイヘイホー」は上記のとおり「与作」が発していると考えられます。つまり、「地の文」と「鍵括弧文」という関係です。また、「トントントン トントントン」については、「女房」がはた織りをしているときに道具から出る擬音語と理解できます。

最後の「ホーホー ホーホー」については、1番では「女房が呼んでいる」のあとに、また2番では「お山が呼んでいる」のあとにつづくことから、「与作」への“呼びかけ音”ととることができます。ただし、だれが発したのかまではわかりません。

さて、「与作」の歌詞をめぐってあまり議論されていないのは、「説明者がこの歌詞によって伝えたかったことはなんなのか」についてです。

歌詞の途中の「気だてのいい嫁だよ」までは、「与作」と「女房」のはたらきぶりをたんたんと描写しています。

しかし、その後は「与作 与作 もう日が暮れる 与作 与作 女房が呼んでいる ホーホー ホーホー」とつづきます。前半の描写とちがって、この後半では「与作」に対して、「もう日が暮れちゃうよー」「女房が(いつ帰宅するのかと)呼んでるよー」と、終業や帰宅を暗に促しているように捉えられます。

では「説明役」が、「与作」の働きすぎぶりを心配しているのでしょうか。そうすると、この歌での伝えたいことは、「『与作』の働きすぎぶりが心配だ」ということになります。

しかし、これが伝えたいことだとすると、「なぜ、そのことを北島三郎や千昌夫に歌わせる必要があるのか」といった疑問があらたに出てきます。わざわざ、歌として人びとに「『与作』の働きすぎぶりが心配だ」と伝える必然性は、そう高くはないでしょう。

そうなると、注目すべきは、歌詞の2番にある「働きものだよ」となりましょう。この歌詞での伝えたいことを「『与作』という木こり(やその女房)は働きものだ」と考えるのです。

このように解釈すれば、この歌を聴いている人びとは「木こりという仕事は働きものであればこそできるものかもしれない」とか、「やっぱり日本の古くからある仕事は、手間ひまのかかるものなのだな」とか、そこに意味を感じられそうです。さらに「与作」というひとりの木こりの事例として、「日本人は勤勉だ」といったことまで解釈を広げる人もいるかもしれません。

「『与作』という木こりは働きものだ」こそが伝えたいことであると捉えれば、北島三郎や千昌夫の歌手としての役割もより明確になるのではないでしょうか。つまり、歌う意味がより大きくなるということです。

ちなみに、作詞者の七澤公典は、ウェイターやサラリーマンなどの職をもつ、一般人に近い立場の人で、NHKの音楽番組『あなたのメロディー』に応募したことを端緒に「与作」の歌がつくられていったということです。七澤は『誰でもすばらしい運を持っている』という本も出しています。

参考資料
J-Lyric.net「与作」
http://j-lyric.net/artist/a000002/l00624d.html
YAHOO!知恵袋「『与作は木をきる、ヘイヘイホー、ヘイヘイホー』の『ヘイヘイホー』とは……」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11109435231
東京大学中原淳研究室 2006年3月7日付「与作」
http://www.nakahara-lab.net/blog/archive/355
ウィキペディア「与作」
https://ja.wikipedia.org/wiki/与作
たちばな出版 商品のご紹介「誰でもすばらしい運を持っている」
https://www.tachibana-inc.co.jp/detail.jsp?goods_id=1727
| - | 20:50 | comments(0) | -
藻が水のなかで輝いているように見える


藻類という生きものがあります。水のなかに棲み、有機物でない物質をもとにエネルギー源となる有機化合物をみずからつくって生きる生きものをいいます。

藻類は、その多様性が特徴といえるくらい、さまざまな種類があり、なかには、黄金色を呈するきらびやかな藻類もあります。

不等毛植物門、黄金色藻綱に属するヒカリモです。光が反射すると、黄金色に光って見えることからそうよばれています。

千葉県富津市萩生には「竹岡のヒカリモ発生地」とよばれる、ヒカリモの生息地があります。ここは、文化財保護法にもとづいて指定された、学術上価値の高い動植物・地質・鉱物などを指す天然記念物がある場所と指定されています。

3月から5月ごろ、水をたたえるお洞のなかに生息するヒカリモが、黄金色に輝きます。日本各地のきれいな場所にもヒカリモは生息します。しかし、毎年、おなじ場所に決まって多く生じることはごくまれ。竹岡のヒカリモは、毎年3月から5月に、決まって輝く姿が見られます。そのため、希少な存在といえそうです。



ヒカリモは、細胞のなかに黄色っぽい色素をもっています。それとともに、お椀形の色素体をもっており、このお洞のなかに光があたると、ヒカリモは見ている人に輝きを感じさせるようにこの光を反射させます。

竹岡のヒカリモの説明には、「菜の花の咲くころ水面に多数浮遊するため、水が黄金色に輝いて見えます」という記述も見られます。しかし、3月から5月ごろに菜の花が咲くのと、おなじ3月から5月にヒカリモが黄金色に輝いて見えることに関係はなさそうです。

きらびやかな印象をあたえるものの、多くの人にその存在は知られておらず、光るしくみにも未解明な点は多い。そのため、ヒカリモに興味をもって、謎を解きあかそうとする研究者もいます。

参考資料
文部省、千葉県教育委員会、富津市教育委員会 1984年5月掲示「天然記念物 竹岡のヒカリモ発生地」
富津市 2016年11月11日発表「竹岡のヒカリモ発生地が見学できるようになりました」
http://www.city.futtsu.lg.jp/0000000564.html
| - | 18:35 | comments(0) | trackbacks(0)
「災害を『仕方ない』とする日本人の『無常観』、防災意識を高めるには?」


ウェッジ社のニュースサイトWEDGE Infinityで、きょう(2017年)3月11日(土)「災害を『仕方ない』とする日本人の『無常観』、防災意識を高めるには?(11)日本人の災害観」という記事が配信されました。連載「学びなおしのリスク論」の第11回目です。

2011年の東日本巨大地震から6年となります。直接的な被害を受けた人たちにとっては、いまも震災が残した被害のあとは相当なものかもしれません。いっぽう、直接的な被害を受けなかった人たちにとって、6年前のことは昔のことになりつつあるかもしれません。

人には「忘れる」というしくみが備わっています。過去にあった災害のことも忘れがちになり、そして忘れます。

日本人にはさらに、一切のものは変わりゆくものとする「無常観」を強く抱く精神性があるとされます。こうしたことも、過去のことにいつまでも固執しない、つまり「忘れる」ということに結びつくのかもしれません。

記事では、きのう10日(金)このブログで著書を紹介した、神戸学院大学現代社会学部社会防災学科教授の前林清和さんに話を聞いています。

無常観が根づいている日本人は、過去の災害のことを忘れてしまいがち。忘れてしまうことは、災害に備えるといった側面では、マイナスに作用してしまいます。

そこで、前林さんは、日本人の無常観を見こしての、社会防災の提案をふたつしています。

ひとつは、学校で「防災」という科目の授業をおこなうこと。教育によって、日本人の防災への意識を高めさせるということです。そしてもうひとつは、省庁に「防災省」あるいは「防災庁」を置くこと。防災の専門家集団を組織し、社会のシステムや、人びとの意識を高めるような役割を果たしてもらうということです。

どちらも、災害の多い日本でどうしてないのだろうと多くの人が感じるであろう提案です。

いまのところ「防災」の授業は、各地でその試みは見られるものの、各教科のなかでの記述にとどまっているのが現状です。

また、「防災省庁」の設置については、河野太郎防災特命担当大臣が2016年5月、「防災庁をつくるより、いざというときに必要な人間をオペレーションにスムーズに加える体制が必要だ」と講演で述べ、否定的であると報じられています。どのような「防災庁」を想定しての発言かはわかりませんが。

記事では、災害が日本人の無常観がとどうかかわってきたか。また、日本人の無常観が災害対応にどう影響するかについて、前林さんの深い考察もあります。

WEDGE Infinity「災害を『仕方ない』とする日本人の『無常観』、防災意識を高めるには?」の記事はこちらです。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/9102

この記事の取材と執筆をしました。

参考資料
日本経済新聞 2016年5月13日付「防災相、『防災庁』設置に否定的」
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS13H3Z_T10C16A5PP8000/
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書評『社会防災の基礎を学ぶ』

社会における防災のあり方を、“日本人である”という視点から見つめなおす機会をあたえてくれる本です。

『社会防災の基礎を学ぶ』前林清和、昭和堂、2016年、202ページ


日本で暮らしている以上、わが身に直に降かかるかはべつとしても、かならず自然災害を感じることになる。1年に一度くらいは台風の影響を受けるし、何年に一度くらいは地震によって犠牲者が出たと伝えられる。

それだけ自然災害が身近であると、ほかの国よりも、自然に生かされているという感覚は強くなるだろうし、その感覚は後世に受けつがれていくものだろう。

著者は、「『自然の一部としての人間』としてどのように生きるかという視点から防災のあり方を考えなければならない」と述べる。この考えはこの本で貫かれている考えかただ。

前半では、日本人の災害観に対する考察が展開される。

日本人も人間であるからには、理不尽なできごとを納得するための理由が要る。日本人にとっての死は、人に殺される死でなく、自然に殺される死だった。身近な死に対して「恨み」より「諦め」の感情がわいていったという。そのため、日本人のあいだには「天命」という死の理由が発達した。

いつ災害が起きるかわからないが、起きてしまった止められないから諦めるしかない。そうした感覚は日本人の無常観につながるのだろう。寺田寅彦のことばが引用されている。「地震や風水の災禍の頻繁でしかも全く予測しがたい国土に住むものにとっては天然の無常は遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑にしみ渡っている」と。

日本人の無常観は、災害を諦めるという心情をつくった。これは、防災の観点からはよくないことだ。だが、無常観は、生かされた人たちにとっては、生きていくための糧にもなる。起きてしまった災害を恨みつづけるより、つぎの一歩目を踏みだそうとする心が生まれる。無常を感じるゆえに。

「鎮魂」もそれがかたちとして表れたおこないかもしれない。著者は「鎮魂」には「たまふり」という読みかたもあると紹介する。「魂に活力を与え再生させる呪術」のことだ。被災者や被災地を奮いたたせるという意味でも鎮魂は大切であると述べる。

著者は、もともと武道や身心統合論などを研究していた。防災や減災の研究については、1995年の阪神淡路大震災のボランティア活動を契機に、深く携わるようになったという。防災・減災のあり方をめぐる考察も、日本人の精神性との深い関係性のなかで語られていく。独特の観点ともいえるが、日本の風土のなかで生かされているからこそ、立ちかえりたいものの見方だ。

『社会防災の基礎を学ぶ』はこちらでどうぞ。
https://www.amazon.co.jp/dp/4812215382

なお、この本の印税は、すべて特定非営利活動法人「活動教育研究センター」を通じて、カンボジアの子どもたちの教育支援活動に使われるとのことです。

| - | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0)
「しめきりまでのなかで、最善を尽くそう」

写真作者:Digital Game Museum

たいていの仕事には「しめきり」とよばれている日時があります。

たとえば、もの書きは、編集者から「何日の何時までに原稿を出してください」などと言われます。その「何日の何時」というのが「しめきり」にあたります。

引きうけた仕事がしめきりの直前までかかってしまいそうだというとき、あるいは、このままだとしめきりに間にあわなさそうだというとき、人はおもにつぎのふたつの考えかたをするようです。

Aさん「しめきりを過ぎてしまっても、よいものをつくろう」

Bさん「しめきりまでのなかで、最善を尽くそう」

Aさんは、完成度重視派(あるいは締切犠牲派)といえます。優先順位としては、「よいものをつくる」が先で、「しめきりを守る」は後。そのため、Aさんがその仕事を終えて納品をするときは、納品先に「しめきりをすぎてしまい、申しわけありませんでした」と詫びのことばもつけることになるでしょう。

Bさんは、締切重視派(あるいは完成度犠牲派)といえます。Bさんはけっして「しめきりをすぎてしまい、もうしわけありませんでした」といった連絡をすることがありません。しめきりを過ぎないからです。しかし、急いでしめきりに間に合わせたため、つくったものの質は高くない場合があります。極端な場合、著しく質が悪くて、納品先から「なんだ、この完成度の低さは」と言われ、つくりなおしを求められることさえあるかもしれません。

いったい、職業的な仕事、つまりお金をもらってする仕事として、どちらのほうが“まし”なのでしょう。

納品先にも、完成度重視派と、締切重視派はいるはずです。その納品先の人が、どちらの派であるかを見きわめておくことは、納品する側の人にとっては大切となります。

しかし、社会的には「しめきり優先」を原則と考えるべきなのではないでしょうか。仕事をする人は、「何日の何時までに原稿を出してください」という注文を受けて、それに応じたのですから。

もちろん、仕事を受注するとき、納入先から「何日までやってほしいですが、それよりも完成度を高めるようにしてください」と言われていれば、「しめきりを過ぎてしまっても、よいものをつくろう」は通用します。

しかし、そうでなければ、「しめきりまでにどう最善を尽くすか」を前提に考えないと、注文を反故することになってしまいます。

約束したしめきりを守らない。だが、納品するものの完成度は高い。そのような完成度重視派の人は、しめきりが来た時点では、まだ納品するものの完成度を高めていないのでしょう。しかし、本来は、しめきりが来た時点での完成度が、その人の実力のかぎりということなのではないでしょうか。

納品仕事をする人たちのなかには、自分たちの職業の地位向上を求める人もいます。しかし、その人がしめきりを守れないのだとしたら、それは、みずからで自分たちの地位を貶めているのも同然です。

ちなみにこのブログ記事は、予定されていた3月9日(木)のしめきりを過ぎて書かれたものです。お金をもらう仕事のほうのしめきりを守った結果こうなりました。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
自分こそが被った災害に理由を求める

安政大地震絵「八幡宮・太神宮・鹿島大明神」
所蔵:国立国会図書館

災害、とくに自然災害で害を被った人は、「どうして自分が被害にあったのか」といったことを問うことになるでしょう。害を被らなかった人がいるいっぽうで、害を被ったのが自分だとすれば、理不尽さが伴います。自分が被った害に対して「これはこういうことなんだ」となんらかの理由をつくらなければ、心のやり場がなくなってしまいます。

日本には、かねてから「自分のこの被害は、自分の力のおよばない天運なのだ」と考える「天運論」があったとされます。天運とは、天からあたえられた運命、あるいは生まれつき定まっている運命のことです。

自分が被った害を天運として捉えることで、すこしでもやり場のない心を落ちつかせることができれば、その考えかたは非科学的だとしても、すくなくとも機能的とえいます。

また、日本には、かねてから「自分のこの被害は、みずからが招いた天譴だ」と考える「天譴(てんけん)論」というものもあります。天譴とはすなわち天罰のこと。

天譴論を唱えた人物で有名なのが、実業家だった渋沢栄一(1840-1931)です。1923年9月の関東大震災に際して、このようなことを述べています。

「我が国民が大戦以来所謂お調子づいて鼓腹撃壌に陥りはしなかつたか、これは私の偏見であれば幸ひであるが兎に角、今回の大震災は到底人為的のものでなく、何か神業のやうにも考へられてならない。即ち天譴といふやうな自責の悔を感じない訳には行かない」

つまり渋沢は、日本が勝利国のひとつとなった第一次世界大戦から、国民は調子づいて太平を謳歌する状況に陥ったのではないかと自戒し、関東大震災を、天罰という神の仕業であると考えられてならないとしているわけです。

自分が被った害を天罰のせいにするというのが非科学的であることは、渋沢もべつの雑誌で「此震災を迷信的に解釈して」と述べており、当然わかっていたのでしょう。また、いまの価値観からすれば、「被害を被った自分を責めるなんて酷い」といった感情も生まれそうです。それでも、それによって自分のやりきれない心にやり場ができるのであれば、それは機能的ではあるのでしょう。

自然観測技術の進歩があったため、いまは災害が起きると、「自然現象によるもの」とする見かたがおきます。ただし、日本人には「自然現象によるもの」を「天のせい」と結びつけてきた精神性もあるだけに、自然災害を「天のせい」とする心もなくなってはいません。

参考資料
コトバンク「天譴論」
https://kotobank.jp/word/天譴論-1373974
リベラル21 2011年5月9日付「関東大震災における『天譴(てんけん)説』論議」
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-1568.html
| - | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0)
壊れるより前に解析する


光を当てると確実に壊れてしまうような物質があります。この物質に光を当ててその構造を観察するにはどうしたらよいでしょうか。

禅問答のような話ですが、この問題を解決した方法があります。“Diffraction-before-Destruction”とよばれる方法です。日本語ではありまり用語がないものの「破壊前回折」といった直訳ができます。

「回折」とは、観察したい試料の影のところにも光が伝わっていく現象のこと。この回折という現象を使って、試料の結晶構造を解析することができます。

いま、結晶構造を解析する技術では、「X線自由電子レーザー」(XFEL:X-ray Free Electron Laser)という光が使われています。これは、「波長がX線の領域の自由電子のレーザー」のこと。

X線とは、波長が可視光よりも、さらに紫外線よりも短く、ガンマ線よりは長い電磁波のこと。可視光とちがって目に見えませんが「光」と表現されることが多くあります。

X線は強い光です。その光の波の表れかたが揃うレーザーがX線でできれば、とても強い光を原子や分子に当てて観察することができます。

けれども、従来のレーザーについての技術を延長させても、X線のレーザーは実現しません。

そこで、自由電子という電子を使います。自由電子は、特定の原子に束縛されず自由に運動できる電子のこと。自由電子を使えば、そのエネルギーを変えたり、電磁場を通過させて波を揃えることができます。これにより、X線のレーザーが実現します。

強い光を原子や分子に当てることによって、原子や分子を細かく観察できるようになります。しかし、X線自由電子レーザーのもつエネルギーが強いため、この光をたんぱく質などの観察したい試料に当てると壊れてしまいます。

しかしながら、X線自由電子レーザーを試料に当てるときの時間はとても短いのです。その時間は10フェムト秒以下、つまり100兆分の1秒以下とされます。

これだけ短い時間の間に、光を当てて観察することができれば、試料が壊れるのは「観測したあとで」ということになります。つまり、「破壊前回折」がなりたつわけです。

日本では、兵庫県の播磨科学公園都市で、理化学研究所が運営している「SACLA」(SPring-8 Angstrom Compact free electron LAser)という施設で、X線自由電子レーザーを使った“Diffraction-before-Destruction”により、結晶構造の解析がおこなわれています。

参考資料
理化学研究所 SACLA(XFEL)「XFELとは」
http://xfel.riken.jp/xfel/
大阪大学大学院工学研究科自由電子レーザー研究施設「自由電子レーザー(Free Electorn Laser:FEL)の原理」
http://www.fel.eng.osaka-u.ac.jp/FEL.html
ウシオオプトセミコンダクター「技術・サポート情報(レーザ)」
http://www.ushio-optosemi.com/jp/technology/laser/index.html
ウィキペディア「自由電子レーザー」
https://ja.wikipedia.org/wiki/自由電子レーザー
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
(2017年)3月16日(木)は「いま科学者の役割を考える 科学コミュニケーションのあり方」


催しものの案内です。

(2017年)3月16日(木)15:00から、東京・港南のコクヨホールで「いま科学者の役割を考える 科学コミュニケーションのあり方」というシンポジウムが開かれます。主催は、科学技術振興機構と同機構の科学コミュニケーションセンター。

科学コミュニケーションは一般的には、科学についての話を、科学の分野の専門家ではない一般の人たちも参加して、やりとりすることを指します。

催しものの題からすると、一般の人たちが参加する科学コミュニケーションという営みにおける「科学者」の役割を考えるためのシンポジウムといえそうです。案内にも「科学者はどんな声に耳を傾け、語りかけ、社会での存在意義を見出していくのか。私たちの子孫が豊かな未来を生きていくための、新しい科学者像とは」とあります。

登壇者には、“科学コミュニケーションの世界”では、おおいに知られている研究者たちの名が連なります。

基調講演をするのは、科学技術振興機構特別顧問で東京大学元総長の吉川弘之さん。

その後、パネルディスカッションが、第一部「伝えたいことは何ですか? 伝わっていますか? 伝わると社会はどう変わりますか?」と、第二部「知のループを社会に広げるために」という2部制でおこなわれます。

登壇者は、日本学術会議副会長の井野瀬久美惠さん、国立情報学研究所所長の喜連川優さん、大阪大学副学長の小林傳司さん、理化学研究所多細胞システム形成研究センタープロジェクトリーダーの高橋政代さん、東京大学総合研究博物館館長の西野嘉章さん、東京工業大学学長の三島良直さん、京都大学総長の山極寿一さん。

これらの登壇者は、吉川さんがこれまで「科学コミュニケーションを考える」という主題で対談をしてきた人物たち。催しものは、これらの対談を締めくくる位置づけでもあるようです。また、科学コミュニケーションセンター長の渡辺美代子さんも登壇します。

シンポジウムの登壇者の顔ぶれは、ほぼ「科学者」あるいは「研究者」の肩書きにふさわしい専門家たちで占められています。

あらためて、科学コミュニケーションとは、一般の人びとも参加するからこそ生じうるもの。この催しものも、専門家たちのやりとりだけでなく、来場した一般の人たちとのコミュニケーションがどのように繰りひろげられるかで、“伝わっているか”や“社会がどう変わるか”の評価が定まっていくのかもしれません。

「いま科学者の役割を考える 科学コミュニケーションのあり方」は、3月16日(木)コクヨホールで。定員が300名で、観るには事前の申しこみが必要です。詳しくは、シンポジウム事務局の博秀工芸のサイトで案内されています。こちらです。
http://www.hakushu-arts.co.jp/csc/
| - | 15:57 | comments(0) | trackbacks(0)
「がんゲノム」解明からがん治療へ(3)
「がんゲノム」解明からがん治療へ(1)
「がんゲノム」解明からがん治療へ(2)



がん化した細胞にあるデオキシリボ核酸(DNA:DeoxyriboNucleic Acid)について、その要素である塩基の並びかたを読みとっていくことを「がんゲノム解読」といいます。

がんゲノム解読で得られた情報は、がんを治療するための薬を創ることにも活かされます。

デオキシリボ核酸のうち、がんの原因になっている遺伝子の部分や、その遺伝子からつくられるたんぱく質の情報を調べることで、その遺伝子やたんぱく質と結びつく分子を創ることができます。

その分子は、その遺伝子、または、そのたんぱく質と結びついて、がんが生じないようにはたらいたり、がんが進まないようにはたらいたりすることができます。そのため、この方法では、がんの細胞でないからだの部分も攻撃してしまう抗がん剤とちがって、ねらいを定めて攻撃することができます。

こうした考えからつくられる薬を「分子標的薬」といいます。がんゲノムを読みとることは、薬のなかでもおもに分子標的薬を創ることに役立てられるわけです。

ゲノム解読は、2000年ごろにくらべて、とても手軽にできる技術となりました。いまでは、ヒトゲノム解読や、患者のがん細胞を試料とするがんゲノム解読を、一般の大学や研究機関の研究室でもおこなえるほどです。こうした状況を背景に、がんにかかわる分子標的薬の開発の速度も上がってきています。

たとえば、「クリゾチニブ」というがん治療薬は、「未分化リンパ腫リン酸化酵素」(ALK:Anaplastic lymphoma kinase)というたんぱく質のはたらきを妨げるタイプの分子標的薬のひとつ。この薬は、棘皮動物微小管結合たんぱく質様4(EML4:Echinoderm Microtubule-associated protein-Like 4)というたんぱく質を発現する遺伝子と、未分化リンパ腫リン酸化酵素を発現する遺伝子からなる融合遺伝子「EML4-ALK」を標的としたものです。

驚くべきは、この標的が見つかってから、米国で薬を使ってよいと認められるまでにかかった期間がわずか4年だったということ。2001年に承認されたイマチニブというがんの分子標的薬では、おなじような過程を踏んで薬として使われるまでおよそ40年かかったといいますから、隔世の感があります。

がんの種類はさまざまです。また、患者の症状もさまざまです。ほかの病気の治療でもおなじですが、がんの治療でも選択肢を多くもっていることは、治療の効果の可能性を高めることになります。がんゲノムの読みとりから応用される「がんゲノム創薬」も、治療の選択肢を広げるひとつとなっています。了。

参考資料
中外製薬「ゲノム創薬とは?」
http://chugai-pharm.info/bio/genome/genomep12.html
製薬協「『分子標的薬(ぶんしひょうてきやく)』とは、なんですか」
http://www.jpma.or.jp/medicine/med_qa/info_qa55/q48.html
医学書院 2013年1月21日付「新春鼎談 がんを知り,がんを制す」
http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA03011_01
科学技術振興機構、がん研究会、自治医科大学 2012年2月13日発表「肺がんの原因となる新しい融合遺伝子を発見」
http://www.jst.go.jp/pr/announce/20120213/#YOUGO1
ウィキペディア「イマチニブ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/イマチニブ
| - | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0)
「がんゲノム」解明からがん治療へ(2)
「がんゲノム」解明からがん治療へ(1)


写真作者:MIKI Yoshihito

デオキシリボ核酸(DNA:DeoxyriboNucleic Acid)をなりたたせる「アデニン」「チミン」「グアニン」「シトシン」という4種類の塩基の並びかたをすべて読みとる「ゲノム解読」が、人をはじめさまざまな動植物でおこなわれています。

おなじように、がん細胞のデオキシリボ核酸の塩基の並びかたを読みとれば、どんなデオキシリボ核酸の複製の異常により、がんが生じるのかといったことがわかってきます。そのため医療機関や研究機関で「がんゲノム解読」が進められています。

たとえば、理化学研究所、国立がん研究センター、東京大学、広島大学の研究者からなるグループは、日本人の300例の肝臓がん患者の全ゲノム解析をおこない、解読を完了させました。2016年4月、これらの機関が共同で発表しました。

合計およそ70兆個の塩基がどう並んでいるかを調べたことになります。解析には東京大学ヒトゲノム解析センターのスーパーコンピュータなどを使ったとのこと。解析の結果、ひとつの腫瘍あたり、平均でおよそ1万のゲノム異常が見つかったといいます。数100塩基から数100万塩基といった大規模な塩基配列の変異も、従来わかっていたもののほかに多数、見つかったそうです。

こうしたがんゲノム解読の成果は、広く世の中で共有されて、使われていくことが、がん対策には大切になります。そのため、研究機関は、がんゲノムの情報を公開することにもとりくんでいます。

たとえば、日本医療研究開発機構は2015年6月、21種類のがん合わせて2000例以上のがんゲノム情報を解析し、その結果を公開することを発表しました。データの“公開度”には3段階があり、がん種ごとにまとめた変異の一覧をだれもが見ることのできる「オープンデータ」と、がん試料提供者ごとの塩基配列のデータであり、申請して許可を得られた研究者が見ることのできる「制限公開データ」、それにこのプログラムの研究者と共同に研究をする研究者が見ることのできる「臨床情報データ」に分かれています。

がんゲノムのデータの使いかたとして、大規模なデータから遺伝子の異常を定めるといったこともおこなわれています。

国立がん研究センター、理化学研究所、日本医療研究開発機構は2016年11月、17種類のがん合わせて5243例のがんゲノムデータをもとに、喫煙と突然変異の関連を調べたと発表しました。突然変異とは、塩基のならびのなかの遺伝にかかわる部分が、親とは異なるかたちになり、それが遺伝するすることをいいます。

発表によると、一生での喫煙の量が増えるほど、突然変異の数も増えるといった関係性が見いだされたとのこと。また、喫煙による突然変異のしかたにはすくなくとも3種類があり、臓器によって異なることなどもわかったそうです。

今回とりあげたそれぞれの研究はべつべつのものですが、大きくは「がんゲノムを読みとり、データを公開し、データを活用する」といった流れで、がんゲノムの扱いかたを考えることができます。つづく。

参考資料
理化学研究所、国立がん研究センター、東京大学、広島大学 2016年4月12日発表「肝臓がん300例の全ゲノムを解読 ゲノム構造異常や非コード領域の変異を多数同定」
http://www.riken.jp/pr/press/2016/20160412_1/digest/
日本医療研究開発機構 2015年6月29日発表「我が国初の大規模がんゲノム情報を公開します」
http://www.amed.go.jp/news/release_20150629.html
国立がん研究センター、理化学研究所、日本医療研究開発機構 2016年11月4日発表「がんゲノムビッグデータから喫煙による遺伝子異常を同定」
http://www.amed.go.jp/news/release_20161104-01.html
| - | 13:27 | comments(0) | trackbacks(0)
「がんゲノム」解明からがん治療へ(1)



日本人の死因のうち、もっとも多いのが「がん」です。厚生労働省の「人口動態統計年報」によると、2009年時点で、40歳から89歳までの広い年齢層で、がんが死因の第1位になっています。日本人全体でも、1981年から一貫して、がんが死因の第1位となっています。

がんは、細胞の分裂のしかたが異常になってかぎりなく増えつづけ、まわりの組織を侵したり、場所を移したりして、生体を死にいたらしめる病気です。

では、からだの細胞のなかで、がんはどのように生じるのでしょうか。

細胞の核には、二重らせん状のデオキシリボ核酸(DNA:DeoxyriboNucleic Acid)があり、これは「アデニン」と「チミン」塩基が一対になり、また「グアニン」と「シトシン」という塩基が一対になって、この二つの対が不規則的に並んだつくりとなっています。

多くの細胞は分裂をして増えています。そのとき、デオキシリボ核酸の複製がおこなわれています。たとえば「アデニン」と「チミン」という一対のところでは、この二つの塩基が離れて、「アデニン」は新たな「チミン」と、「チミン」は新たな「アデニン」とそれぞれ対になります。

「アデニン」と「チミン」を結びつけているのも、「グアニン」と「シトシン」を結びつけているのも、水素結合というしくみです。ただし、「アデニン」と「チミン」は2本の水素結合で結ばれているのに対し、「グアニン」と「シトシン」は3本の水素結合で結ばれているというちがいがあります。

細胞が分裂して、デオキシリボ核酸が複製されるとき、たまに3本の水素結合が2本になったり、2本の水素結合が3本になったりと、異常が起きることがあります。すると、たとえば「グアニン」の相手として新たな「シトシン」が結びつくはずなのに、たとえば「グアニン」の相手として異常な相手である「チミン」が結びつくなど、通常ではありえない一対ができてしまいます。

こうした複製の異常に対して、正常な複製に戻るように、体のさまざまなしくみがそれを修復します。

しかし、修復がされないと、その後の細胞分裂では、異常な相手だった「チミン」が、新たに相手として「アデニン」と結びつき、一対になります。「チミン」と「アデニン」が結ばれることは正常ですが、本来そこには「グアニン」の相手として「シトシン」がいるはずだったのに、「チミン」がいすわって「アデニン」と一対になってしまったのですから、その後は、デオキシリボ核酸の異常な複製が進んでいくことになります。

こうして起きる複製の異常は、デオキシリボ核酸に刻まれた「傷」といえます。

このような複製の異常は、たばこを吸う、酒を飲む、感染症にかかる、精神的ストレスを受けるといったことで起きやすくなります。また、一定量以上の放射線を浴びたときは、放射線の強いエネルギーによってデオキシリボ核酸が切れてしまい、そこからまちがった複製が始まるといったことで、異常が進みます。

「傷」をもったデオキシリボ核酸が、細胞分裂によって増えていくと、それががんとして診断されます。

人のデオキシリボ核酸の塩基の並びかたは、10年前にくらべたらはるかにかんたんに調べられるようになっています。ひとりの人の塩基の並びかたを網羅的に調べる「ヒトゲノム解読」が2003年ごろに完了し、その後、さらに技術が進んだためです。

ヒトゲノムを解読できるということは、人がからだのなかにもってしまったがん細胞のなかにあるデオキシリボ核酸の塩基の並びかたも網羅的に
調べられることになります。つまり、「がんゲノム」を調べられるわけです。

「がんゲノム」を解析すれば、塩基対の並びのうち、どのようなところで複製の異常が生じうるかといったことがわかるようになります。そのため「がんゲノム」を解読して、それをもとにがんの治療につなげようとする研究が、いまさかんにおこなわれています。つづく。

参考資料
厚生労働省「人口動態統計年報 主要統計表」
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii09/
週刊東洋経済 2012年4月28日・5月5日号「ガンの原因とは一体何か?」
https://store.toyokeizai.net/magazine/toyo/20120423/
国立がん研究センター「細胞ががん化する仕組み」
http://ganjoho.jp/public/dia_tre/knowledge/cancerous_change.html

| - | 14:56 | comments(0) | trackbacks(0)
著者がみずから書くという選択肢なしに本づくりが始まることも


写真作者:Sean MacEntee

書物を書きあらわすことや、書きあらわしたものを「著書」といいます。書物を書いて世に出すことを「著す」といいます。

かつては「著書をみずから書く」ことは、あたりまえの行為でした。もし、みずから書かないとなれば「書物を書く人物が『自分』でなくてどうするんだ」と思われていたことでしょう。

ところが、いまは「著書をみずから書く」ことは、あたりまえの行為とは思われていません。むしろ、「著書をべつの人が書く」ということをあたりまえにして、本がつくられていくことが多くなっています。

このブログには、「代筆」あるいは「ゴーストライティング」とよばれる行為についての記事の掲載がいくつかあります。「幽霊が取材に立ち会い」や「できるだけ代筆の本には授けない賞も」といったものです。

代筆というしくみでは、ほんとうの著者は原稿を書く手間を割かなくて良いし、代筆者は得意とする執筆力でお金をもらえるし、出版社はこなれた原稿を用意できる、ということで「三方よし」の商業の手本にもなっています。

著書を代筆でつくるのが当然という風潮になると、ほんとうの著者が原稿を書くという方法がはじめから選択肢にはない、といった状況にもなってきます。

しかし、これは「人が本を著す」というときの基本を欠いた行為であるとはいえないでしょうか。

「著す」を成りたたせる要素のひとつは「書く」です。もちろん、「著す」の要素には、ほかに「伝える」といったものもあります。しかし、「書く」ことで「伝える」のと、ほかの方法で「伝える」のは、まったくおなじ行為ではありません。そのことから「書く」は「著す」のかなり重要な要素であることがわかります。

たとえば、講演会やラジオ・テレビなどで伝えたいことを伝える人はいます。しかし、そのときに即時的に話したことは、そのまま本にはなりません。口で話したことが効果的に伝わるかというと、それはまた別問題だからです。口で話して伝えるときには、聞いている人に助けられたり、雰囲気で伝わったりする可能性が高くあります。

口で話すのでなく、原稿用紙やコンピュータに向かって「書く」となると、やはり話の展開のしかたなどを考えなければなりません。その展開のしかたをもっとも最適化できるのはほんとうの著書であって、代筆者ではありません。その本はほんとうの著者のものだからです。

「著す」という行為は、基本的には著者本人が自分で書いてつくるものです。その本に携わる人は、まずは著者に「自分で書く意志があるか」を確認することから始めるべきではないでしょうか。

ほんとうの著者に書く意志があるのであれば、著者本人が書くのが、著者としてもっともふさわしい形式になるでしょう。その本はほんとうの著者の著書だからです。売ることを第一の目的としている関係者にとっては不本意かもしれませんが。

書く意志がないことが確かめられれば、そのときはじめて代筆者が出てくる可能性がでてきます。
| - | 21:27 | comments(0) | trackbacks(0)
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