科学技術のアネクドート

文字そのものをデザインの要素にしてしまう

画像作者:kristine oplado

雑誌やポスターなどのデザインでは、予算がかぎられていて、イラストや写真をたくさんは使えないというときがあります。しかし、だからといって文庫本のように、たんなる本文の字を並べるわけにはいかないということも。そこで、発想や工夫でどうにか予算難を克服することが検討されます。

ほとんどの雑誌やポスターでは、内容を伝えるために文字が使われることになります。そこで、「文字そのものをデザインの要素にしてしまう」という発想が起きてきます。

たとえば、インターネットのイメージ検索で「文字だけのデザイン」と入れると、実際に文字にかかわる工夫や発想によってデザインされているものをいろいろ見ることができます。

「文字にいろいろな色をつける」というのは、文字だけのデザインにかぎったことではありませんが、有効な方法になります。

長方形をなしている誌面あるいは画面に対して、「文字を斜めに配置する」というのも、見る人に変化の印象をあたえることにつながります。

それぞれの文字にはなんらかの書体が使われており、それ自体がデザインの要素といえます。さらにその「書体を個性的なものにする」ことで、ほかのデザインと差別化をはかることもできます。

日本語や中国語の漢字は、それぞれに意味をもった「表意文字」です。そこで、「その漢字の意味するところを利用する」ことで、趣向を凝らすこともできます。

こうした、文字そのものをデザインにしてしまうという手法をとってみても、「それをする意味はどんなものなのか」や「どうしてそうすることが効果的なのか」といったねらいがはっきりしていると、見ている人にとってもなんとなく腑に落ちるものとなるのでしょう。
| - | 20:52 | comments(0) | trackbacks(0)
左専用と右専用の靴下に「意外と面倒」の声
衣料品店などに靴下が売られています。靴下にもいろいろな種類があるなかで、「左足専用と右足専用が対になった靴下」も見られます。左足と右足、それぞれに合ったかたちをしているということで、生地に「左」を表す「L」と「右」を表す「R」が印刷されているものもあります。

裏がえしにはかないかぎり、かならず左足用と右足用が決まってしまう靴下もあります。下の写真のように、足の5本指それぞれ通す袋が分かれているものです。足のかたちだけでなく指の大きさにも忠実になっているため、これを左右あべこべにはくことはできません。



この靴下がこのかたちである理由は、足の指1本ずつが離れた状態のままではくことを目指したからでしょう。こうした靴下をはく人のなかには「はき心地がよい」とか「水虫を防げる気がする」とかの感想をいう人もいます。

しかし、そうした便利さとは裏腹に、左足専用と右足専用が対になった靴下が、世のなかを席巻するほど出まわっているわけでもなさそうです。店の靴下売り場を見ると、左右どちらにはいても問題ない靴下が占めています。

左専用と右専用が対になった靴下を買った経験のある人は、つぎのように話します。

「靴下が左専用、右専用となると、はくときに面倒くささを感じるのですよね」

この手の靴下を複数対、買うとします。買ってからはじめてはくときはまだしも、はいて洗濯をすると、当然つぎの回からは左専用と右専用を、揃えなければなりません。しかし、これが「意外と面倒くさい」と言うのです。

左用も右用もない通常の靴下を複数対、買った場合、洗濯後、どれを選んでも左足にも右足にもはくことができます。この「なにも考えないでもよい」状況にくらべると、たんすの靴下入れから「左足用を探したら、つぎにかならず右足用を探さなければならない」というのは、かなり面倒くさいことになります。

「しかも、5本指が分かれているのをはこうとすると、それぞれの指に袋がかんたんに入ってくれないんだ。出かける間際で、靴下をはく作業がはかどらないとやきもきするんだよなぁ……」

この人がたんに面倒くさがりということなのかもしれません。しかし、日々の暮らしで、いつもは考えなくてもよいことを考えなければならず、それが毎回のように起きるというのは、やはりこの人の言うように「面倒くさい」ことといえそうです。
| - | 11:18 | comments(0) | trackbacks(0)
宇宙の知的生命体遭遇率、天体の経済状況がかかわる

写真作者:NASA

宇宙にいる地球の生きもの以外の知的生命体を、人は見つけることができるか。これは、古くからの人類の未解決の謎です。

知的生命体にかぎったことではありませんが、人類が生命体を見つけることができる確率はどのくらいか。このことについては、米国の天文学者フランク・ドレイクが1961年に唱えた「ドレイク方程式」が参考になります。

    N = R* × fp × ne × fl × fi × fc × L

この式のそれぞれの値に数値を入れると、銀河系に存在して人類と接触する可能性のある地球外文明の数がわかるといいます。

ただし、R*は銀河系のなかで1年間に誕生する恒星の数、fpはひとつの恒星が惑星系をもつ確率、neはひとつの恒星系がもつ、生命の存在が可能となる状態の惑星の平均数、flは生命の存在が可能となる状態の惑星で生命が実際に発生する確率、fiは発生した生命が知的水準まで進化する確率、fcは知的水準になった生命体が星間通信をおこなう確率、そしてLは知的生命体による技術文明が通信をする状態にある期間のことを指します。

ドレイク方程式は、銀河系にかぎった話なので、銀河系の全宇宙に範囲を広げれば、一気に数は高まることになります。

ドレイク方程式も参考にしながら宇宙の知的生命体と接触することを願っている研究者たちのあいだでは、方程式のなかの「fc」、つまり知的水準になった生命体が星間通信をおこなう確率について、「これを求めるのがなかなかむずかしい」と言います。

たとえば、「宇宙の知的生命体」を、「地球の知的生命体」つまり人類に置きかえて考えてみます。人類が宇宙の知的生命体を探して接触をはかろうとすれば、観測装置の設置費、運営費、探索する研究者の人件費などのお金が必要になります。

しかし、「宇宙の知的生命体を探して接触をはかる」という事業は、社会にあまたあるエネルギー問題の課題、地球環境の課題、社会福祉の課題などを解決するための事業からすると、「そんなに重要ではない」と考えられがちです。

すると、人類が「宇宙の知的生命体を探して接触をはかる」ということをするかどうかは、地球の経済状況に余裕があるかどうかにかかってくることになります。余裕があれば、積極的に人類は宇宙の知的生命体を探すでしょうし、余裕がなければ消極的になるでしょう。

これとおなじようなことは、地球でない知的生命体のいる天体にも当てはまるわけです。たとえば、銀河系の太陽以外の恒星のもとにある惑星に知的生命体がいるとします。その知的生命体が、積極的にほかの天体にいる知的生命体、たとえば地球の人類を探そうとするかどうかは、その天体における経済状況にかかわってくるわけです。

こうしたことから、宇宙の知的生命体探しについて 「宇宙経済学」の観点からも検討すべきという考えかたが、一部の研究者にはあるということです。

参考資料
ウィキペディア「ドレイクの方程式」
https://ja.wikipedia.org/wiki/ドレイクの方程式
| - | 20:05 | comments(0) | trackbacks(0)
「実際に訪れる」ことに人は価値をおく


きのう(2016年)5月27日(金)米国のバラク・オバマ大統領が広島を訪れ、演説をしました。現職の大統領が広島を訪れたのは初のことです。

演説の内容や、被爆者とのあいさつもさることながら、「米国の大統領が被爆地である広島を訪れた」行為そのものが、報道で大きくとりあげられています。

オバマ氏は演説で、自身が広島を訪れた理由をさまざまな表現で述べています。

「なぜわれわれはこの地、広島にやって来るのか。そう遠くない過去に放たれた恐ろしい力について思案するために来るのだ。10万人以上の日本人の男性、女性、子どもたち、数千人の朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために来るのだ」

「技術は、人間社会の進歩を伴わなければわれわれに破滅をもたらす。原子の分裂へと導いた科学的革命は、モラルの革命も必要とする。だから私たちはこの場所に来る。私たちはここ、この街の真ん中に立ち、原爆投下の瞬間を想像せずにはいられない。目の当たりにしたことに混乱した子供たちの恐怖を感じずにはいられない」

「これが広島を訪れる理由だ。愛する人、自分の子供たちの朝一番の笑顔、台所の食卓越しの夫や妻との優しい触れ合い、心安らぐ親の抱擁といったことに思いをはせるためだ」

原子爆弾により亡くなった人びとを悼む。技術と科学の使いかたを省みる。そして人びとのありふれた暮らしに思いをはせる。これらのために広島を訪れたかったということが、演説からうかがえます。

被爆地である広島や長崎のあらゆる情報を集めれば、広島や長崎で戦争末期どのようなことが起きたかを知ることはできます。しかし、広島という場所に直接、出向くことによって達成できたと感じたこともあったにちがいありません。理由はいろいろあれど、とにかく広島に行きたかった。だからオバマ氏は広島を訪れたのでしょう。

いっぽう、オバマ氏の広島訪問を見届ける人びとにとっても、米国大統領が広島を訪れたこと自体に価値を感じています。

たとえば、仮に、オバマ氏が米国のホワイトハウスからインターネット回線を使って、広島平和記念公園に集まっている人びとに、「私は広島で亡くなった死者を心から悼んでいる」「広島の人びとに思いをはせている」と語りかけたら、どうなっていたでしょう。

そうしたメッセージを発すること自体に評価が起きるかもしれません。しかし、確実に「なぜオバマは広島に来て、それを言わないんだ」という批判の声も上がることでしょう。

来るべき場所、あるいは来てほしい場所に、ほんとうに来るということに、その人を見ている人びとは価値を求めるわけです。

世界は情報であふれ、各地の風景、気候、人びとの生活が、文字や写真や映像を通してつぶさに見られるようになりました。離れた場所にいる人と人びとは、電話やテレビ会議システムなどによって、即時的に意思疎通をはかれるようになりました。

そうした時代になったいまもなお、人がある場所を「実際に訪れる」という行為への価値は下がっていません。むしろそういう時代だからこそ、価値は高まるのかもしれません。自分がすることに対しても、人がすることに対しても。

参考資料
時事通信 2016年5月27日付「オバマ大統領の演説全文」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00000192-jij-pol
| - | 12:47 | comments(0) | trackbacks(0)
「お金、一部は出します」と「やってもらいます」と


大学、研究機関、企業などの研究者たちが研究開発をするには、お金が必要です。そのお金には、国または国の外郭団体から下りてくるもの、つまりもとを正せば人びとの税金から下りてくるものがあります。

とはいえ、単純に「お金あげるから研究開発に使ってね」「はい、わかりました」と研究開発がはじまるわけではありません。お金がどのように使われるかによって、研究開発の種類が異なってきます。

よく見られる分けかたとしてあるのが、「助成事業と委託事業」というものです。研究者がつくる研究報告書や論文などに、「この研究は何々機構の助成事業によって行われた」とか「平成28年度何々機構委託事業」とかいった文言が書かれてあることがあります。

まず、「助成事業」の「助成」も、「委託事業」の「委託」も、お金を出す立場としての行為のことをいっています。

「助成」とは、経済的な援助によって事業研究を完成させること。その考えのなかでなされている事業を「助成事業」といいます。

たとえば、国の税金を研究者たちの研究のために割りふる機関のひとつである、新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO:New Energy and Industrial Technology Development)は、「助成事業」をつぎのように説明しています。

「『事業者が主体的に取り組む研究開発等の事業に対し、機構がその事業の一部を負担(交付)する』という制度です。従って、事業の主体、取得財産、特許等の成果の帰属は補助・助成事業者となります」

つまり、「研究をするぞ」と意欲に満ちている研究者の研究開発に、「お金、一部は出しますよ」といってお金を助成するという制度が助成事業というわけです。研究者のしたい研究を支援するものなので、主役は研究者となります。

いっぽう、「委託」とは、自分のかわりをほかの人に委ねることをいいます。その考えのなかでなされている事業を「委託事業」といいます。

おなじく新エネルギー・産業技術総合開発機構は「委託事業」をこう説明しています。

「『本来NEDOが行う研究開発等の業務を、外部の優れた研究開発能力を有する事業者に委任し、当該業務の遂行に要した経費実費額をNEDOが負担する』という制度です。従って、事業の主体、取得財産の帰属はNEDOとなります」

つまり、「自分で研究開発したいのはやまやまだけれど、この分野に強い先生にやってもらいます」「はいわかりました」ということでお金を研究者に預ける制度が委託事業といえます。この場合、お金を出す側が「自分で研究開発したい」と思っているので、理論上の主役はお金を出す側となります。ただし、研究開発で生じた特許権などは、「産業活力再生特別処置法」という法律で、お金を預かった研究者側のものになることが認められています。

助成と委託、どちらの場合も研究開発のためのお金が研究者に下りてくるという点ではおなじです。研究開発を進めたいと思っている研究者にとっては期待の大きな資金源であるはずです。もちろんお金が下りてくるには、申請手つづきや審査などを経なければなりませんが。

参考資料
新エネルギー・産業技術総合開発機構「NEDO新規事業者説明会資料」
http://www.nedo.go.jp/content/100103950.pdf
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
木材の三成分を分離、みな使う


木材というと、木をそのまま木造住宅の柱や、机の木板などに使うような使いみちが思いうかばれます。しかし、それだけではありません。「ほぐして使う」こともあります。たとえば、紙は木材の成分からつくられます。

木材を「ほぐして使う」というとき、おもに木材からは三つの成分が生じます。

一つめはリグニン。木材に2、3割ある高分子化合物です。細胞と細胞のあいだを接着・固化する役目も果たし、いわば「肉」のような存在です。リグニンをさらに精製し、変性させると、フェノール樹脂やエポキシ樹脂といった接着剤の材料や、エンジニアリング・プラスチックとよばれる高い強度や高い耐熱性などの特徴をもつプラスチックの材料になります。

二つめはセルロース。多糖類という物質の一種であり、細胞壁や植物繊維の主成分となります。こちらはいわば「骨」のような存在。紙の原料のパルプや、人造絹糸ともよばれるレーヨン、セロハンテープの原料であるセロハンなどの材料になります。

そして三つめがヘミセルロースです。セルロースとおなじく多糖類ですが、セルロースでは、1万以上のブドウ糖が結合しているのに対して、ヘミセルロースではブドウ糖などの単糖類が100〜300ほどしか結合されず、セルロースとの構造上の関係はありません。セルロースとともに、ヘミセルロースは糖に分解することで、そこからポリアミド原料やアクリル酸原料、またポリカーボネート樹脂原料やポリエステル樹脂原料などの材料となります。

リグニン、セルロース、ヘミセルロース。それぞれに用途があるのであれば、木材から3種類すべての成分を使えるようにしたい。そのような願いから、ひとつの木材から3種類の成分を分離する技術が開発されています。その方法には、機械を使って細かく分解するものや糖化酵素という物質を使って成分の結びつきを切っていくもの、またアルカリ性の物質で加熱してリグニンやヘミセルロースを溶出させるものなどがあります。

木材は、枯渇するとされる石油などの原料とちがって、伐ってもそこにまた種をまけば木が育つため、持続的に使うことができます。そのため、樹脂材料などを石油などの原料からつくるのでなく、木材から効率よくつくるための技術の開発が進んでいるのです。

参考資料
産業技術総合研究所 機能化学研究部門バイオマス成分分離グループ
https://unit.aist.go.jp/ischem/ischem-btg/index.htm
日本製紙グループ「バイオリファイナリーとは」
http://www.nipponpapergroup.com/research/organize/biomass/
森林総合研究所「アルカリ蒸解・酵素糖化法による木質バイオエタノール生産技術」
http://www.naro.affrc.go.jp/org/nfri/yakudachi/biofuel/kadai/2012/pdf/digest2012_60-69.pdf
新エネルギー・産業技術総合開発機構「木材三成分を高付加価値材料へ変える一貫製造プロセスの開発」
http://www.nedo.go.jp/content/100775509.pdf
| - | 23:40 | comments(0) | trackbacks(0)
距離あるところの速さには「旅行速度」

写真作者:Hirotaka Nakajima

「新幹線のぞみ号が浜松駅を時速180キロメートルで通過した」などといったことをいいます。このときの「時速」は、その瞬間に見ている新幹線の速さが1時間にわたり保たれたときに進む距離をいっていることになります。

しかし、鉄道にも駅での停車がありますし、車でも渋滞でののろのろ運転や信号での停止などがあるので、実際の乗りものは速度を高めたり低めたりしながら進んでいくことになります。

そこで、人は「旅行速度」とよばれる速さの尺度を考えだしました。

旅行速度とは、「停滞や停止などをふくめて移動にかかる時間」のことをいいます。たとえば、車が制限速度60キロメートルの道路を時速60キロメートルで走ったり、渋滞に巻きこまれて時速10キロメートルで走ったり、あるいは赤信号で停止したりしながら目的地まで移動するとします。そのとき、目的地までの距離を、目的地にたどりつくまでにかかった時間でわり算すれば、求められます。

「距離 ÷ 時間」で速さを求めるので、式は、よくある速さを求める計算とちがいはありません。しかし、ある地点での乗りものの速さをはかるのでなく、旅行速度は「出発地から目的地まで」などの一定の距離のあるところでの乗りものの速さをはかるという点でちがいます。

国土交通省は、東京の「都心」とよばれる千代田区、中央区、港区における道路での車の旅行速度を公表しています。

それによると、高速道路での旅行速度は時速42キロメートル。全国の高速道路では時速84キロメートルだったので、それの半分の旅行速度ということです。また、都心の一般道路での旅行速度は時速16キロメートル。全国の一般道路では時速35キロメートルだったので、半分未満の旅行速度となります。

車が道路を走るときの旅行速度についての研究では、「いちように上り勾配または下り勾配がつづくような区間では旅行速度のちがいは、上りであろうが行であろうが認められない」とか「時速50キロメートル以上の旅行速度を保つには、6〜6.5メートルの道幅が求められる」とかいった、ことも明らかになっています。

参考資料
国土交通省「道路交通センサス用語集」
https://www.cgr.mlit.go.jp/chiki/doyroj/sensasu/12_yougo/yougo.htm
交通まちづくり技術研究所「旅行速度の推計 交通量配分との比較」
http://www.nmdc.jp/visitok/visitok_07/visitok_07_7.html
下川澄雄ら「一般道路の道路構造が旅行速度に及ぼす影響に関する実証的分析」
http://mng.trpt.cst.nihon-u.ac.jp/pdf/meeting/H26/12.pdf
| - | 10:43 | comments(0) | trackbacks(0)
プラスチックのごみ、「不燃」から「可燃」が数年の変化

写真作者:burnbless

家庭から出るごみの回収では、自治体によってさまざまな分けかたがされています。

かつて、「プラスチックのごみ」といえば「不燃ごみ」扱いでした。たとえば、東京23区では、1974年から2008年まで、廃プラスチックは「不燃ごみ」の一部。ほかの多くの自治体でも、たいてい2000年代から2010年代初頭までは、プラスチックのゴミといえば「不燃ごみ」に分類されてきました。

ところが、2010年前後あたりから、プラスチックのごみはつぎつぎと「不燃ごみ」ではない扱いになっています。

たとえば、東京都港区のごみの分別法で、いま「不燃ごみ」となっているのは、ガラス製品、金属類、アルミ製品、陶磁器類、かさ、スプレー缶・一斗缶、30センチメートル未満の小型家電製品。かつて「不燃ごみ」だった廃プラスチックはふくまれていません。

プラスチックのごみが「不燃ごみ」扱いだったころは、破砕または選別されて、一部は最終処分場で埋め立てに、一部は資源やエネルギー源として回収されていました。

しかし、自治体にもよりますが、いま、プラスチックのごみは「資源プラスチック」として分別されるか、または「可燃ごみ」として分別されることが多いようです。

「資源プラスチック」として扱われる場合は、リサイクル、つまりプラスチックを再生して利用することに使われます。

また、「可燃ごみ」として扱われる場合は、焼却炉でほかの生ごみなどとともに焼かれることになります。

ここ数年で大きな変化が見られたのは、プラスチックのごみが「不燃ごみ」から「可燃ごみ」扱いになる自治体が増えたことです。

「不燃ごみ」が「可燃ごみ」に変わる理由のひとつとして、ごみ処理施設の火力が強まり、高温で焼却できるようになったため、ダイオキシン類などの有毒物質を生じさせなくなったことがあげられます。

また、ほかにも、プラスチックのごみを最終処分場で埋めたてるには、要領の限界が近づいてきているといった問題もあるようです。プラスチックのごみを焼却すると、焼却しない場合にくらべて20分の1ほどに容積をおさえられるといいます。

課題となるのは、プラスチックが「不燃ごみ」扱いから「可燃ごみ」扱いになった地域で、そのことが住民に浸透しているかどうかです。「燃やすとなにかよからぬ物質が出てきそう」という印象から、「可燃ごみ」扱いとなっている地域でも、「プラスチックは燃えないもの」と認識している人は多いのではないでしょうか。

参考資料
港区「不燃ごみの出し方」
https://www.city.minato.tokyo.jp/gomigenryou/kurashi/gomi/kate/k-wakekata/funen.html
ベネッセ エコスタ環境研究所「プラスチックって燃えるゴミ? 燃えないゴミ?」
http://manabi.benesse.ne.jp/ecostudy/question/file01/q05.html
All About 住宅・不動産「プラスチックは『燃えるゴミ』へ 東京23区」
http://allabout.co.jp/gm/gc/29484/
| - | 13:45 | comments(1) | trackbacks(0)
「文殊の智慧」はまったくもって理性的
ことわざには「三人寄れば文殊の知恵」があります。

このことわざの真意や由来を探るには、「文殊の知恵」がどのようなものかを把握する必要がありそうです。

まず「文殊」とは「文殊菩薩」のこと。「菩薩」とは、仏教の世界で、仏になろうとがんばって修行に励む人のことを指します。仏教を開いた釈迦の修行時代も、仏になろうとがんばった人なので「菩薩」とよばれていたようです。

その釈迦の両脇には、二人のべつの菩薩がいて、釈迦を支えてしていました。一人は、普賢菩薩で、徳に長けた人物でした。そして、もう一人が、文殊菩薩です。文殊菩薩のほうは、智慧をつかさどるとされています。

では、文殊菩薩はどのような智慧のもち主だったのでしょう。仏教の世界で「智慧」とは、「万物にはほんとうは実体がない」とする「空」(くう)とよばれる仏教の心理に即して、正しくものごとを認識し、判断する能力といいます。そして「智慧」があれば、執着や愛憎といった煩悩をなくすこともできるといいます。なにかに対して未練をもったり、なにかを好きになりすぎたり嫌いになりすぎたりすることなく、すぱっと決断をくだせるための能力といったところでしょうか。

世界に散らばるさまざまな文殊菩薩像を見ると、獅子の上に乗っている場面が多くあります。獅子はライオンのことで、「百獣の王」とされます。この百獣の王たる獅子のうえに文殊が乗っているということから、「文殊菩薩の智慧は百獣の王よりも強い」といったことを象徴しているとも説明されます。


醍醐寺蔵、国宝「文殊渡海図」(鎌倉時代)

これとはべつの説明では、文殊菩薩のもつ智慧とは、ものごとをまったくもって理性的に判断することのできる智慧とされています。主観が入ることは一切ないということです。冷静かつ客観的な性格のもち主だったにちがいありません。

「三人寄れば文殊の知恵」で、文殊菩薩と対比されているのが「人」です。たしかに、文殊菩薩の生きかたとは対極的に、人は主観がもろに出るような生きかたをしますし、愛憎に満ちた日々を送っています。

そんな人が三人集まれば、文殊菩薩のもっているような智慧を出せるというのです。「三人」寄ることが、エゴのぶつかりあいや三角関係に発展するという懸念よりも、文殊菩薩のもつような知恵にまで昇華するという希望がこのことわざには含まれています。

「三人寄れば文殊の知恵」が、もし事実であるとすると、ふたつのことが考えられます。ひとつは、集まった3人の知的能力が、文殊菩薩レベルの、まったくもって理性的なものになるということです。これは、常識的にはあまり起きそうなことではありません。

もうひとつは、文殊菩薩の智慧とは、人間が3人集まったときの知的能力レベルであるということです。これは、文殊菩薩のいいつたえからすると、もっと起きなさそうです。

ちなみに、大分県国東市には、「文殊仙寺」とよばれる寺があり、この寺は「三人寄れば文殊の智慧」発祥の寺と名乗っています。ただし案内板には、「御本尊文殊師利菩薩は、(略)日本三文殊の一として広く知られ『三人寄れば文殊の智慧』の発祥地とされております」とあります。この寺を「発祥地」とはしておらず、文殊菩薩そのものを「発祥地」としています。

なお、「日本三文殊」には、文殊仙寺以外に、山形県高畠町の大聖寺、京都府宮津市の知恩院、奈良県桜井市の安倍文殊院なども数えられています。有名な文殊菩薩は国内だけでもすくなくとも4体以上はありそうです。これらの文殊が寄ると、いったいどんな智慧になってしまうのでしょう。心配しなくても「船頭多くして船山に上る」ことにはなりますまい。

参考資料
『スーパー大辞林』
ことわざ学習室「三人寄れば文殊の知恵」
http://kotowaza.avaloky.com/pv_lea16_01.html
ほとけぞう「文殊菩薩とは」
http://www.hotokezo.com/bosatsu/monjyubosatsu.html
天台宗峨眉山「文殊仙寺のご案内」
| - | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0)
「たじろぐ」に漢字変換なし

写真作者:mliu92

科学・技術にかかわる記事ではめったにありませんが、「たじろぐ」という動詞で使われることがあります。「圧倒されてひるむ」とか「動揺する」とかいった意味のことばです。小説あるいはビジネス書などで登場人物の状況をくわしく記すような文書では、わりと「たじろぐ」が出てくるかもしれません。

ふだんから、ひらがなでの表現を多めにすることを意識するもの書きは、そのままひらがなで「たじろぐ」と書きます。

ふだんから、漢字での表現を多めにすることを意識するもの書きも、おそらく「たじろぐ」であれば、ひらがなで「たじろぐ」と書くことでしょう。

いっぽう、とにかくことばということばについて、漢字を使うべきと考えているもの書きは、コンピュータで「たじろぐ」と入れたあと、漢字変換するかもしれません。

しかし、変換しても「たじろぐ」「タジログ」「tajirogu」などと出てくるのみ。漢字での「たじろぐ」の書きかたは出てきません。

漢字中心主義のもの書きのなかには「どうしてだ! どうして『たじろぐ』が漢字で出てこないんだぁ!」と心のなかで叫ぶ人もいるとかいないとかいいます。

「たじろぐ」は、過去に「たぢろぐ」と書かれていたことはいわれています。また、古語辞典には名詞形の「たぢろき」を「(心の)動揺。ためらい。障害や抵抗にあっておこる心情」と説明するものもあります。「たじろき」からわかるとおり、動詞でも最後の1字がにごらず「たじろく」と使われていたこともあるようです。

「たじろぐ」の最初の2文字は「たじ」。これをふたつ続けると「たじたじ」になります。「たじたじ」のほうは、「相手の気勢や力に圧倒されて後ずさりするさま」のこと。「たじろぐ」と「たじたじ」の「たじ」は、相通じることばの一部と考えてよさそうです。「たじたじ」のほうが「たじ」が重なるので、「ほんとうに弱っちゃってる感」が強そうな印象をあたえはしますが……。

漢字中心主義にとってはよい話もあります。漢字で「たじろぐ」と書く用例がないのかというと、過去には、こんな字を使っていたことがあったようです。

「津田は此出鱈目の前に退避ろぐ気色を見せた」(夏目漱石『明暗』1916年)

「何んな事でも躊ろがぬ積りだ」(森田草平『煤煙』1909年)

「退避」や「躊」などの語からは、たしかに「圧倒されてひるむ」とか「動揺する」といった意味が伝わってきます。

参考資料
名前の由来言語サイト ユライカ「たじろぐ」
http://yuraika.com/tajirogu/
学研全訳古語辞典「たぢろき」
http://kobun.weblio.jp/content/たぢろき
| - | 21:42 | comments(0) | trackbacks(0)
独立した小部屋に空気が貯まって水に浮く

写真作者:yancy9

ものがぷかぷかと水に浮かぶことがあります。大きなものでは船は水に浮かびます。小さなものでは氷は水に浮かびます。

ものが水に浮かぶのは、その物体が水のなかにあるとき、重力とは反対方向に受ける力、つまり「浮力」が大きいためです。

浮力の大きい材料のひとつに、発泡性樹脂があります。材料に発泡剤とよばれる材料を混ぜて、細かい気泡をいくつももたせたものをいいます。たとえば、プールで使われるビート板は、発泡樹脂でできています。

ピーマンや卓球が水に浮かぶことからわかるように、なかに空気が入っている物体は水に浮かびます。おなじ体積では、水よりも空気のほうが軽いため、その作用によってものが水に浮かぶわけです。

発泡樹脂も、見た目ではわからないほどの細かい気泡がたくさんあります。気泡がたくさんある分、その物質は空気を貯めこんでいることになります。そのため、ピーマンや卓球が水に浮かぶように、発泡樹脂も浮かぶことになります。

しかし、すべての発泡樹脂が水に浮かぶわけではありません。発泡樹脂のなかには、それぞれの気泡がつながっていない「独立発泡体」とよばれるつくりのものと、気泡どうしがつながっている「連続発泡体」とよばれるつくりのものがあります。

連続発泡体は、たとえば台所で使うスポンジ樹脂のようなものです。スポンジ樹脂を水のなかに浸すと、そのまま水を吸ってずぶずぶと沈んでいきます。これは、気泡どうしがつながっていて、気泡のなかにつぎつぎ水が流れこんでくるためです。

独立発泡体であれば、ほぼすべての気泡が自分の部屋として仕切られているので、おとなりから水がずぶずぶと入ってくることはありません。気泡樹脂のこの浮力性が、水のあるようなところで重宝がられているわけです。

なお、気泡樹脂の代表例といえる発泡スチロールは、1950年にドイツで開発され、日本では1959年に減量の国産化が始まりました。

参考資料
東北資材工業「発泡スチロールとは」
http://tsk-kenzai.com/site/eps/page05/
秋元英郎「技術解説 発泡形成」
http://www.cea.or.jp/dcument/z250914.pdf
北陸カラーフォーム「フォーム材(スポンジ)の構造。連続気泡と独立気泡。」
http://gomu.peicolor.jp/cat35/post-11.html
| - | 18:10 | comments(0) | trackbacks(0)
「海外のウイルスが日本の梅を襲っている!」


日本ビジネスプレスのウェブニュース「JBpress」で、きょう(2016年)5月20日(金)「海外のウイルスが日本の梅を襲っている! 梅食文化の発展と危機(後篇)」という記事が配信されました。記事の取材と執筆をしました。

「危機」というのは、日本の梅の一部が「プラムポックスウイルス」(PPV:Plum pox virus)という病原体に感染し、伐採を余儀なくされている状況がつづいているというものです。

このウイルスは別名、「ウメ輪紋ウイルス」ともいいます。「輪紋」とは同心円状の模様のこと。このウイルスに感染すると、梅の葉に輪紋が見られるようになります。また花弁や実にもまだら模様が見られるようになります。

当ブログでも2011年7月30日付で「青梅の梅にウイルス危機」という題の記事で状況を伝えていました。その後、青梅市で生じた感染は、関東、関西、中部の各地に「飛び火」しており、農林水産省や各市町村の自治体が対応に追われています。感染または感染のおそれがある梅の木は伐採しなければなりません。

記事で、日本の梅の現状を話しているのは、法政大学植物医科学センター長で、生命科学部応用植物科学科教授の西尾健さん。「飛び火」の経路として青梅市で感染した梅の木が運びこまれたこと、人をふくむ動物のような免疫のしくみがないため感染すると伐採以外に手立てがないこと、3万本以上の伐採を余儀なくされた青梅市では梅の木を再生させる動きが始まろうとしていることなどを解説しています。

法政大学植物医科学センターは2014年6月、法政大学小金井キャンパス内に開設されました。もともとあった応用植物科学科が学生の教育を担う役割中心であるいっぽう、植物医科学センターは社会貢献の役割を担っている機関といえそうです。

同センターは、外部からの病害虫診断依頼に応えることをおもな業務とし、ほかに植物病の診断、治療、予防にかかわる研修機会を提供することや、教育や研究の成果を社会に発信することなども業務に掲げています。

西尾さんは、同センターを「大学病院の植物版のようなもの」と説明します。病気が生じている植物を受けいれて、その原因や問題解決策を探るとともに、その過程を研究材料にもすることで知見を増やしていくわけです。

プラムポックスウイルスの問題に対しても、行政の「感染したら即、伐採」という意思決定、梅を育てる農家などの理解のほか、感染のしくみなどを解明する大学などの研究機関のとりくみがあります。感染は、関東、関西、中部まで広がりましたが、むしろこれらの関係者たちの努力で、そのくらいで食いとめられていると捉えるべきかもしれません。

「海外のウイルスが日本の梅を襲っている! 梅食文化の発展と危機(後篇)」はこちらです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46882
また、日本における梅干の食文化の歩みを追った前篇「侮るな! 胃の中で真価を発揮する日の丸弁当」はこちらです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46823

また、法政大学植物医科学センターのサイトはこちらです。
http://cpscent.ws.hosei.ac.jp/wp/
農林水産省は「ウメ輪紋ウイルス(プラムポックスウイルス)の防除について」というサイトで現状の最新情報や対策などを発信しています。
http://www.maff.go.jp/j/syouan/syokubo/keneki/k_kokunai/ppv/ppv.html
| - | 02:47 | comments(0) | trackbacks(0)
眠りから覚めた瞬間、音が聞こえだす

写真作者:Andrew Roberts

ラジオやテレビなどをつけたまま眠ることはあるでしょうか。音を聴きながら眠りに入るようなことです。

家族がテレビやラジオのスイッチを消さないかぎり、あるいは、自動タイマー機能をかけていないかぎり、眠っているあいだは音が出つづけます。そして、眠りから覚めたときも音がでつづけているはずです。

ところが、眠りから覚める瞬間のことを考えるとどうでしょう。眠っているときは、ずっと出つづけていたはずのテレビやラジオの音が聞こえてこず、眠りから覚めたときに音が聞こえだすといった感覚をもつ人もいるのではないでしょうか。

テレビやラジオからはおなじ音量が流れていたはずです。それにもかかわらず、目が覚めた瞬間から突然のように音が聞こえてくる。これはどういうことでしょうか。

秘密のかぎを握るのは、耳小骨筋という小さな筋肉です。人をふくむ脊椎動物の中耳の内側にある耳小骨という骨にくっついていて、細ながい筋繊維でできています。

腕に力を入れると、それによって筋肉もぴんと引っぱられ、逆に、腕をだらんとすると筋肉は緩みます。耳小骨金も小さな筋肉ながら、状況によって引っぱられたり縮んだりします。

まず、人が起きているときは、耳小骨筋は基本的にぴんと引っぱられた状態になっています。では、人が眠っているときはどうかというと、ノンレム睡眠とよばれる睡眠のときには、起きているときとおなじく引っぱられた状態になっています。

しかし、レム睡眠という夢を見ることの多い状況にうつると、からだの筋肉は緩んでしまいます。そして、耳小骨筋も緩んでしまいます。

じつは耳小骨筋は、糸電話でいう糸のような役割を果たしています。糸電話で相手からの音が伝わるのは糸をぴんと張っているとき。おなじように、耳小骨筋もぴんと張っているときには音が内耳に伝わります。いっぽう、糸電話の糸がゆるゆるになっているときは、糸を通して音が伝わりません。これとおなじように、レム睡眠中の耳小骨筋もゆるゆるになっているので、耳の外からの音が内耳に伝わりにくいのです。

人は、レム睡眠中の状態から、覚醒する、つまり眠りから覚めるという体験をよくします。このとき、緩んでいた耳小骨筋が、ふたたびぴんと引っぱられた状態になっているはず。これによって、ついさっきまでの眠っているときにはテレビやラジオの音が聞こえなかったのに、眠りから覚めると音が聞こだす、といった感覚が起きるわけです。

参考資料
内山真『睡眠のはなし』
http://www.amazon.co.jp/dp/4121022505
高橋茂樹著、渡辺建介監修『STEP耳鼻咽喉科』
http://www.kaibashobo.co.jp/sample/jibika03_sample.pdf
| - | 16:18 | comments(0) | trackbacks(0)
物理も部品の工夫も体の変化もわかる「“ママチャリ”de科学」『Rikejo』マガジンで


理系進学を目指す女の子たちを応援する講談社の会員誌『Rikejo』マガジンの第39号が、(2016年)5月中旬に発行されました。

『Rikejo』マガジンは紙媒体の会員誌ですが、講談社のデジタル版サービス「codigi」でかんたんな手つづきをすれば、デジタル版のおなじ内容を会員登録なしで見ることができます。「codigi」の手つづきをするのも面倒という人も、「codigi」サイトで、内容の一部を試し読みすることができます。

第39号の科学特集「リケジョサイエンス」では、「サイクリングが楽しくなる! “ママチャリ”de科学」という特集が組まれています。2013年の「リクナビ進学」調査によると、女子高生の自転車通学率は42.8パーセント。そしてその大多数が、ママチャリを利用しているといいます。「自分で漕ぐ」という点からも、ママチャリほど身近な乗りものはないでしょう。

「物理を感じられる乗りもの、自転車♥」という記事では「どうしてちょっとの力だけで動かせる?」や「どうして倒れない?」といった問いを立て、自転車を漕いでいるとき作用する物理に目を向けています。「てこの原理」や「慣性の法則」といった中学や高校の教科書で習うような物理のほか、「ジャイロ効果」「キャスター角」といった要素の紹介もあります。

つぎの「部品のメカニズムに大注目!」という記事では、ママチャリをふくむ自転車を製造する「丸石サイクル」の社員が、同社の通学用自転車最高峰モデル「ホットニュースAL」をモデルにママチャリの各部品の工夫を紹介しています。スカートが巻き込まれるおそれもあるチェーンのかわりに「シャフトドライブ」という部品が使われたり、カゴの位置に細かい工夫がされていたりがわかります。

そして最後の「ママチャリで体感できる かんたん健康メソッド」という記事では、ママチャリを漕いでいるときに体で起きている変化や、ママチャリを入学から卒業まで漕ぎつづけた人の体で起きる変化などを紹介。順天堂大学助教でスポーツ健康科学の博士号をもつ中潟崇さんが答えています。さらに、モデルの道端カレンさんがおすすめする「ママチャリダイエット」の紹介も。

「サイクリングが楽しくなる! “ママチャリ”de科学」は、『Rikejo』マガジン第39号で読むことができます。デジタル版は「codigi」の会員登録をして、コード番号を入力することで見ることができます。デジタル版を読むための方法について、詳しくは「リケジョ」のホームページの記事をご覧ください。

講談社の「codigi」のサイトはこちらです。
https://codigi.jp/
| - | 22:06 | comments(0) | trackbacks(0)
科学ジャーナリスト賞2016近堂靖洋さん「核燃料の厄介さを人類は知ったほうがいいと考えた」
「科学ジャーナリスト賞2016」では、NHK報道局ネット報道部長の近堂靖洋さんにも「賞」が贈られました。近堂さんの前任は科学文化部長。その役職のとき、スタッフとともに制作したNHKスペシャル「廃炉への道 “核燃料デブリ” 未知なる闘い」の番組に対して、賞が贈られるものです。

下記は近藤さんの受賞スピーチの要旨の一部抜粋です。


近堂靖洋さん(左)

「チームでずっと番組を制作してきました。記者、ディレクター、カメラマン、編集マンなど10人ぐらいが中心となり、さらに音響、音楽、CGなどの技術スタッフをふくめ30人ぐらいのチームで番組をつくりました。私が代表というかたちでしたが、していることはほんの一部だけです」

「チームでの番組制作のよいところは、さまざまな専門家がさまざまなつくりかたをしていくことです。いっぽう、意思統一の点では、場合によりけんかになることもあります。何度も試写をして、批判しあって内容を変えていく作業をくりかえしますが、すごい議論になることもあります」

「今回、いちばん議論になったのは、番組の後半で核燃料デブリの現状を模擬的に実験する場面をめぐってです。われわれ取材班も想定していなかったような危険があることがわかりました」

「核燃料デブリを科学的に再現してみました。ウランなどだけでなく、原子炉にある鉄やホウ素などを溶かして混ぜわせました。すると、上部にウランが集中したのに、ウランを抑制するホウ素がほとんどなく、下部には逆にホウ素がたくさんあるのにウランがほとんどない、という結果になりました」

「現場の科学者が『これは再臨界のおそれがけっこうある』と言う場面があります。再臨界のおそれがあるということを現場で突きつけられ、これをどう扱うかで議論になり、われわれは悩みました」

「安易に『再臨界のおそれがある』ということを扱うと、福島第一原発の近くにいる人たちに、いたずらな不安をあたえるのではないかと思いました」

「極端にいえば、この場面を流さないという選択肢もありました。いっぽうで、この事実をわれわれが掴んだとき、思ったのは『核燃料を人間が扱うときには、こういう厄介な部分もあるということを人類は知ったほうがよい。このことを受けとめながら廃炉という作業をしていかなければならないのだ』ということです」

「いたずらな不安をあたえないように、どう伝えたらよいかを議論して、できあがったのがこの番組だと思っています」

「人類が扱うようになった核というものを、どう制御しながら次世代につなげていくか。ひとつの歴史として記録に残そうと思ったことが、今回、評価されたのかなと光栄に思っています」

「40年はつづく廃炉を見つめようと、1年に1回はこのシリーズの番組をつくろうと思っています。5月29日には、シリーズ4回目がNHKスペシャルで放映されるので、ぜひ視ていだければと思います」

賞の対象となった、2015年5月17日放映のNHKスペシャル「廃炉への道 “核燃料デブリ” 未知なる闘い」を紹介するNHKのサイトはこちらです。
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20150517
日本科学技術ジャーナリスト会議の「科学ジャーナリスト賞」のページはこちらです。
http://jastj.jp/jastj_prize

受賞者のみなさん、おめでとうございます。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
科学ジャーナリスト賞2016会川晴之さん「日本発の核拡散の実態に力入れた」
「科学ジャーナリスト賞2016」では、毎日新聞の北米総局長の会川晴之さんにも「賞」が贈られました。同紙での連載「核回廊を歩く 日本編」と記事「日本の核技術流出、初確認」に対してです。

会川さんは北米総局長として米国で取材中のため、代理で同社の砂間裕之さんが、会川さんのメッセージを代読しました。下記がその要旨です。

「栄えある科学ジャーナリスト賞に選んでいただき、まことにありがとうございます。作品が評価されたことをたいへん光栄に思います。贈呈式に出席しようと、あらゆる手立てを探ったのですが、かないませんでした」

「アメリカでは現在、核と日本に関わるふたつの大きなニュースがもちあがり、離れることができませんでした。ひとつは大統領選で、日本に核武装してもらおうという乱暴な発言をくりかえすトランプさんの動向です。もうひとつはオバマ大統領の広島訪問です。核問題を追いかける記者として、アメリカ発の核をめぐる正反対の動きをフォローする責務があり、やむをえず欠席とさせていただきました」

「『核回廊を歩く 日本編』などの一連の報道は、忙しいなか取材に快く応じてくださったみなさまの多くの協力を得て実現したものです。この場を借りて、ご協力いただいた方に厚く御礼もうしあげます」

「この連載は、2013年夏からスタートしたシリーズの第3編です。第1部では核兵器の増産をつづけるパキスタンをとりあげました。第2部では核問題に揺れるイランに焦点を当てました。シリーズ最後となる日本編は、2015年9月から掲載を始めました」

「核兵器に関わる問題だけに、取材では怖い目にも遭いました。パキスタンでは核開発の重要人物に合うたびに、交通事故に合うのです。それは偶然だったのか、『これ以上、深入りするな』という警告だったのか、それは定かではありません。ただ、背筋が凍る思いをしたのは事実です」

「日本編では、先行研究が数多くあるなかで、独自性をもたせることに苦労しました。とくに力を入れたのは日本発の核拡散についてです。平和国家と自負する日本ですが、その技術情報がネットで他国に伝わり、核開発に使われている可能性があります。極端にいえば、イスラム国のような国際的なテロ組織でも、日本初の技術情報に接することができるのです」

「こうした危険な実態を伝えたい。そんな気もちから取材を進めました。韓国への情報流出という実例を伝えることもでき、説得力が増したと思っています。苦労はありましたが、受賞の知らせをいただき、すべてが吹きとび、このとりくみがまちがえではなかったという思いを強くしました。あらためてみなさんにお礼もうしあげます」


会川晴之さんのメッセージを代読する裕之砂間さん

会川さんによる連載「核回廊を歩く」をまとめたものが、2016年3月、まいに新聞出版から『核に魅入られた国家 知られざる拡散の実態』という書籍として発売しました。こちらが出版社による紹介です。
http://mainichibooks.com/books/nonfiction/post-286.html

日本科学技術ジャーナリスト会議の「科学ジャーナリスト賞」のページはこちら。
http://jastj.jp/jastj_prize
| - | 19:31 | comments(0) | trackbacks(0)
科学ジャーナリスト賞2016田辺文也さん「福島第一原発の手順書問題、大きな闇」

「科学ジャーナリスト賞2016」では、社会技術システム安全研究所所長の田辺文也さんにも賞が贈られました。岩波書店の雑誌『世界』の2015年10月号、12月号、2016年2月号、3月号に掲載された「解題『吉田調書』ないがしろにされた手順書」の記事に対してです。

以下は、贈呈式での田辺さんのスピーチの要旨の一部抜粋です。


田辺文也さん

「賞をいただき光栄に思います。提起した問題の重要さを評価していただいたことに深く感謝しています」

「科学者とジャーナリストの共通点として、疑うことの自由の大切さを肝に銘じ、真実ないし真理の探求に邁進するということがあると思います」

「福島第一原発事故以降のようすを見ると、疑うことの大切さを、多くの原子力の専門家といわれる方々が忘れているのではと思います。いっぽう、ジャーナリズムのほうを見ると、とくにこの2年ほど、東京電力や政府の公式発表に寄りすぎている面が大きいのではないかと、すこしさびしい気がします」

「福島第一原発のプラント強度と手順書を対比してみると、すくなくとも2号機と3号機では、手順書を参照していれば、むずかしいながらも炉心溶融を回避できた可能性が高いのではないかということを提起しました。東電は、いまでも全電源喪失以降、参照する基準書は『シビアアクシデント手順書』であると、いまでも公的見解として強弁しています」

「いっぽう、『世界』に書くまでは、その存在さえ知りませんでしたが、2011年12月に東京電力が原子力保安院に対して『手順書の適応状況について』という報告書を、1、2、3号機それぞれについて書いています。そのなかに、全電源喪失以降、参照すべきはシビアアクシデントの手順書であるという重要な文面があります」

「明らかな誤りをふくむ報告書を受け取った原子力安全・保安院が、それどどう評価したかは一切明らかにされていません。規制機関としての義務を放棄しています。手順書の問題についても、規制機関としての保安院がどう対応したか、大きな闇として残されています。ジャーナリストの方々の協力をお願いしたく思います」

「昨年(2015年)11月に70歳になりました。今回の賞は古希の最高の祝いでした。『もっとがんばれ』という励ましをいただいたとも捉えています。喜寿(77歳)のときに、ふたたび科学ジャーナリスト賞をとりたいと思います」

日本科学技術ジャーナリスト会議の「科学ジャーナリスト賞」のページはこちらです。
http://jastj.jp/jastj_prize
| - | 22:47 | comments(0) | trackbacks(0)
科学ジャーナリスト賞2016河合蘭さん「これまでのストーリーに疑問投げかけた」
「科学ジャーナリスト賞2016」では、きのう紹介した「大賞」のほか、「賞」が4作品の関係者に贈られました。

出産ジャーナリストの河合蘭さんには、著書『出生前診断 出産ジャーナリストが見つめた現状と未来』(朝日新聞出版)に対して賞が送られました。河合さんのスピーチの一部抜粋です。


河合蘭さん

「過分な賞をいただき感動しています。『出産ジャーナリスト』とは何者だとみなさん思われるのではないでしょうか。出産についての最初の取材で、衝撃的な体験をし、『これは生涯の私の仕事になるのでは』という予感があり、自分で背負った名前です」

「少子化で、日本の若い人は『子どもは負担』という気持ちが多くなっています。しかし、自分で産んで、取材をして、お産はとても素晴らしい、おもしろくてエキサイティングなもので、いくらでも取材できると思いました。フリーランスの立場だから、できるかぎりぎりぎりのところまで取材する仕事をしていこうということにしています」

「科学ジャーナリスト賞のなかで、妊娠・出産の分野で賞をいただいたのは初めてでしょうか。こういうことに光を当てていただいたことは日本中の妊婦さんにとってもうれしいニュースなので、語っていきたいと思います」

「この『出生前診断』という本について、これまでメディアが語ってきたストーリーに疑問を投げかけた面があります。いままでは出生前診断に賛成か反対かを論じ、それを受けるか受けないかを決めるという論調がありました。私がそれがしっくりこなかったのです」

「ダウン症協会の方が語るというかたちも定番として定着していました。協会のなかには、ダウン症のお子さんが生まれたあと、2人目、3人目を妊娠する方もいます。そういう方が検査を受けるかどうかの葛藤を想像していただければ、この問題の複雑さがわかっていただけると思います」

「むずかしい問題なので、企画のお話をいただいたときは『できるのか』と思いました。でもとりあえず歩きはじめてみようと思って、出生前診断と名のつく催しものがあったらどこへでも行くようにして、3か月考えて『やります』と返事させていただきました」

「私が『書きます』と言ったのは、いま都市部では3人に1人にまで増えている高齢出産の女性の方たちが悩みを抱えており、読者の顔が浮かんだからです」

「この国では、女性が知って決める力が信頼されていません。母親が信頼されていません。お腹にいる子のことが検査でわかるのであれば、検査に走るにちがいないという見方がありますが、これはちがうのではないかと思いました」

「40年間、日本は議論を棚あげし、逃げてきたのだと思います。命の選別ということばで表現する、40年前と変わらない報道になっていることに疑問を感じて、現場を歩きました」

「そういうことを勇気を出して書いたところ、まっさきによろこんでくださったのが、障害者のお子さんを育てているお母さんたちでした。この問題にここまで真剣にとりくんでくれた人はいなかったという話を聞いたときは、『よかった。これでいい』と思いました」

「賞をいただいて、私はフリーのライターとしてとても励まされました。これから私はこれを背負って、賞の名に恥じない活動をつづけていくエネルギーが湧いたという気がしています」

「出産というものに、科学技術が非常にかかわっています。関心をもっていただければうれしく思います」

朝日新聞出版の『出生前診断』の紹介ページはこちらです。
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=16960
日本科学技術ジャーナリスト会議の「科学ジャーナリスト賞」のページはこちらです。
http://jastj.jp/jastj_prize
| - | 23:48 | comments(0) | trackbacks(0)
科学ジャーナリスト大賞2016、「想定外」言わない阿部豊さん受賞


(2016年)5月13日(木)、東京・内幸町のプレスセンタービルで、「科学ジャーナリスト賞2016」の贈呈式がおこなわれました。

科学ジャーナリスト賞は、日本科学技術ジャーナリスト会議が、科学技術に関する報道や出版、映像などで優れた成績をあげた人を表彰するもの。

今回は大賞1点と、賞4点に対して賞が贈られました。受賞者のスピーチの要旨を一部抜粋して伝えます。

大賞を受賞したのは、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻准教授の阿部豊さんです。著書の『生命の星の条件を探る』(文藝春秋)の著作に対してです。体調の関係から出席がかなわなかった阿部さんに代わって、妻でこの本の解説をしている阿部彩子さんと2人のお子さんが登壇し、彩子さんがスピーチしました。

「本日はありがとうございます。主人は来れませんでしたが、非常によろこんでいます」

「主人の専門の地球惑星科学という学問について『なんだろう』と思う方はいると思います。天文学は、光っている星についての学問ですが、地球や地球タイプの惑星のような光らない星についての学問が地球惑星科学です」

「『想定外』ということばをいろいろなところでよく聞きます。地球惑星科学は『想定外』としてしまうようなことを、あきらめないで追究する学問です。対象とする時間スケールは地球の誕生から現在までと長く、また、地球や兄弟の惑星、さらに太陽系外にも惑星があるのではということで、天文学者の方だけがとりくむのでなく、地震学や気象学などいろいろな学問を総動員してやらなければなりません」

「惑星では、想像を絶するような現象が起きます。たとえば、水がありすぎるような惑星では、水が温室効果ガスによって蒸発しだすと、みずからの温室効果によって地表を温め、さらに蒸発を促し、しまいにはぜんぶ蒸発してしまう、暴走温室効果の状態が生じえます。いまの地球を数パーセントだけ明るくするエネルギーを受けたとしただけでも、そういうことが起こりうるということを主人たち研究者は計算しています。たとえ想定するのがむずかしいことでも、いまある数学とコンピュータを中心に、物理学、化学、生物学なども総動員して計算します」

「ハワイなどのホットスポットのあるところでは火山から二酸化炭素が出てきます。地球ではプレートがベルトコンベアのように動くことで、一種の循環が生まれて、それが大気中の二酸化炭素の濃度をちょうどよくしています」

「科学者がいろいろなことを追究していくと、想像しなかったことに出合います。(学問とは)その連続だと学生たちに話しています。『想定外だった』とか『奇跡だ』とは言いません。『地球にしか生命がいない。これは奇跡だ』と言って感動して終わりにしてしまうのは一種の思考停止です。この本での『地球は奇跡の星ではない』という気持ちが、すこしでも伝えられたらよかったなと思います」


阿部彩子さん

文藝春秋による『生命の星の条件を探る』の紹介はこちらです。
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163903224
日本科学技術ジャーナリスト会議の「科学ジャーナリスト賞」のページはこちらです。
http://jastj.jp/jastj_prize
| - | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0)
使役的でもなく、依頼的でもなく……


日本人が習う英語の文法のひとつに「使役動詞」があります。“make”のあとに「人」を指す目的語が来て、さらに「させる」内容にあたる動詞の原形をつづけると、「人に何々させる」といった意味になります。たとえば、“I make him work.”で「私は彼を働かせる」といった意味になります。

使役動詞では、「働かせる」にあたる動詞のまえに不定詞の“to”を入れないといった例外的な用法となるため、英語をマスターしようとする日本人にとってはちょっとした難関になりかもしれません。

ところがどっこい、日本語での使役動詞にあたる表現にも、英語とはまたべつのむずかしさがあります。

人に、なにかの動作をするようしむけるときには、よく「させる」という使役的な動詞で表現します。「彼に担当させる」とか「彼に働かせる」とかは、その例です。

いっぽうで、人の好意により、または自分から頼んでおこなわれた行為により、自分が利益を受ける意を表すときは、よく「してもらう」ということばで表現します。「彼に担当してもらう」とか「彼に働いてもらう」とかは、その例です。

「担当させる」や「働かせる」には、上位の者から下位の者に命令するような語感があります。いっぽう、「担当してもらう」や「働いてもらう」は、下位の者から上位の者へとはかならずしもいえないものの、明らかに依頼するような語感があります。

むずかしさがあるのは、「させる」と「してもらう」の中間にあたることばが見つからないことです。「させる」というと強圧すぎるし、かといって「してもらう」というとへりくだりすぎる。その中間ぐらいの意を伝えたいときがあるのに、なかなかそれにふさわしいことばが見つかりません。

たとえば、先生が教え子に対して、教育上のものごとを課すとき、たいていは「させる」で済みそうなものです。「実験させる」とか「あいさつさせる」とかです。

しかし、たとえば先生と教え子の関係が、大学の助教と博士課程の大学院生くらいの、立場的には上下関係がなりたっていながらも、さほど差はないくらいの関係になると、「確認させる」とか「洗浄させる」とか表現することがためらわれるときがあるようです。

助教と大学院生の関係だけではありません。たとえば、小学校の先生が、自分が実践している授業案をほかの先生たちに発表するようなときも、表現は分かれます。「ここで、15分ぐらいの時間をとって、子どもたちに議論させます」と表現する先生もいれば、「子どもたちに議論してもらいます」と発言する先生もいます。

先生と教え子の立場を考えれば「議論させます」と言ってもよさそうなもの。しかし、子どもたちに「強いる」ような語感を感じとってほしくないときには、つい「議論してもらいます」となってしまうようです。

もし「させる」も「してもらう」も使わないとなると、どんな表現になるでしょうか。

「ここで、15分ぐらいの時間をとって、子どもたちが議論します」とか「子どもたちが議論する時間をとります」といった表現が考えられます。これらなら、使役的な「させる」と依頼的な「してもらう」の中間どころを行っているといえなくもありません。

しかし、「子どもたちが議論します」では、先生の関与があまり感じられません。また「子どもたちが議論する時間をとります」では、「時間とる」ということに意味的な重さがおかれてしまいます。

「させる」を使うか、「してもらう」を使うか。あまり深く考えない人は、自然と、勢いに乗ってどちらかになるのかもしれません。いっぽう、この選択問題を深く考えている人は、機会が訪れるたびに「この場合、どっちにすべきか」と立ちどまってしまうようです。
| - | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0)
機能性はさておき、手書きの案内地図


駅の出口のすぐ脇などには、鉄道会社が用意した地図案内板などとはべつに、ブリキ板にペンキで描かれた、手づくりっぽい地図が掲げられていることがあります。全国的によく見かけますが、いったいどんな地図板なのでしょうか。

地図を見てみると「商工案内板」と書かれてあります。どうやらこれが、この板のよび名のよう。

しかし、地図の役割を果たしているかというと、なかなか怪しいものがあります。まず、降りたばかりの駅が地図の右下すみにあります。しかも、線路が駅を貫いていません。

学校などの目印となる建てものの名前は書かれているものの、寺社仏閣などの、一般的な地図に書かれている建てものの記載は省かれていることも多々。そのかわりに、「サロン」や「ブティック」など、個人経営と思しき店の名前はわりと大きく書かれています。

とはいえ、ゼンリン住宅地図グーグルマップなどの地図にくらべると、路地の曲線の描きかたなどはきわめて直線的で、やはり機能的とはいえません。

地図製造企業のサイトには、この手の地図について、つぎのように説明があります。

「地域に不慣れな方々に、地域の町並みをご紹介し、さらには地域の皆様に非常時の避難場所のご案内や、緊急時の警察署・病院等を日々の掲載を通じて、ご利用いいただくための地図看板」

そして、何か月かに一度、地図の最新情報を更新するため、新たな看板に取りかえているもよう。さまざまな情報を総合すると、地図に掲載されている企業や店は、半年に一度ほどの案内板の取りかえのたびに、1000円から6000円を訪問者に支払っているようです。

文字は手書きのものもあれば、企業によっては印刷書体を使っているものもあります。手書きは、癖のある自体といえそうですが、しかし「ン」の文字などを見てみると、どれも自体としては統一がとれており、独特のバランスがとれているといえなくもありません。

地図を掲げる“目的”次第で、その地図の表現のしかたも変わってくるというものです。

参考資料
「商工案内版の世界」
https://www.flickr.com/photos/heecho/sets/72157625852297025/
| - | 20:50 | comments(0) | trackbacks(0)
「どうぞ」も争い、「われさき」も争い


米国では、エレベータのなかで合う人どうしが目を合わせてにこっと微笑む習慣があります。これは「あなたに敵意はありませんからね」ということをかたちとして示すための行為といわれています。

日本では、エレベータのなかで、そのような非言語的な意思疎通をする習慣はありません。しかしながら、たまたま乗りあわせた人どうしでのちょっとしたやりとりは、それなりにあります。

エレベータの扉が開いたとき、エレベータから出てときの“優先権”をめぐって、ちょっとした“かけひき”のようなものがあることはないでしょうか。

たとえば、乗っているAさんとBさんが、どちらもおなじ階で出ようとするとき、どちらかが「どうぞ」と譲ろうとするときがあります。

「どうぞ」「あ、どうも」となればなんでもないことです。しかし、AさんもBさんも、どちらもが「どうぞ」と譲ろうとしている場合は、どちらが「どうぞ」を貫きとおすかをめぐって、静かで刹那的な争いになることもあります。

「どうぞ」と自分が譲ろうと数秒前から考えていたのに、相手からさきに「どうぞ」としたり顔をされて言われてしまったようなときは「ちーっ、負けたっ」と感じる人もいるのではないでしょうか。「どうぞ」とさきに言ってきた相手の表情が、どこか勝ちほこったように見えます。

興味深いことに、逆の場合もあります。エレベータに乗りあわせているふたりが、おたがい「どうぞ」と譲るようなことを考えず、われさきにとエレベータから出ていこうとする場合です。

その争いでは、さきに肩を入れて扉のまえに立った人のほうが、さきにエレベーターから出られることになります。もしそれが、ふたりのあいだの静かな争いだとすれば、さきに肩を入れた人の勝ち。それをやられて「ちーっ、負けたっ」と感じる人もいるのではないでしょうか。

エレベータのなかでの、どちらが「どうぞ」と譲るかの争い。そして、エレベータのなかでの、どちらがわれさきにと出ていくかの争い。行為としては、譲るのと譲らないのとで、まったく逆のことです。しかしながら、結局のところは、どちらも自分の企てた行為が相手よりも優先できるかどうかをめぐっての争いなのです。みみっちいですが。
| - | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0)
引っぱったときの最大応力から「引張強度」


ものに使われている材料がどれだけ「強い」のか。これを測る尺度のひとつに、「引張強度(ひっぱりきょうど)」というものがあります。

「引張」とは「引っぱる」こと。つまり、強く引いてたるまないようにすること。その強度というわけですから、ごく単純にいうと、引張強度は「どこまで引っぱっることができるか」を指すことになります。

とはいえ、「どこまで」とはなにを指すのかなど、具体的な条件をつけることが必要です。

実際、円柱形にした材料を上下方向に離すように引っぱっていくと、その材料は変形していきます。上下に伸びるとともに、まんなかあたりが細くなり、最後にはまんなかの細くなった部分が引きさかれて破断します。

材料に引っ張る力が加わるとき、その材料に生じる抵抗力を「応力」といいます。引っぱる力が強くなるとともに、材料の応力も高くなっていきますが、まんなかあたりが細くなると、応力は急激にいったん小さくなります。「もう降伏だ」と力が抜けるようなものでしょう。

しかし、なおも材料を引っぱっていくと、ふたたび応力が強くなっていきます。どんどん材料は変形していききながらも、さきの「もう降伏だ」という時点を超えた応力にまでになります。その後、応用力はすこし弱まって、すぐに破断してしまうのですが。

このときの、最大の応力が、引張強度を計算で出すときには重要となります。単位は、力の大きさを示す「ニュートン(N)」が使われます。

いっぽう、引張強度を調べるときの、材料の断面積も計算上、揃えておかなければなりません。引張強度では「1平方ミリメートルあたり」という断面積で統一されます。つまり、もし、引張強度を調べるときに使う材料の断面積が、10平方ミリメートルだとすれば、10で割り算することになります。

こうして、材料の最大応力から、材料の断面積を割ることで、「その材料の断面積あたり(1平方ミリメートルあたり)の最大応力」を求めることができます。その出た答えが、引張強度となります。ですので単位は「ニュートン毎平方ミリメートル」(N/mm^2)となります。

各種材料の引張強度は、すでに計算されています。たとえば、容器などに使われるポリプロピレンは29〜38N/mm^2、純アルミは80N/mm^2、ステンレス鋼は520N/mm^2、炭素鋼の硬いものでは749N/mm^2といった具合です。

なお、材料の強さを示す尺度には、ほかに、破壊するまでに材料に加わるすべてのエネルギーを指す「破壊エネルギー」や、材料を曲げることで破損する場合の強さを示す「曲げ強度」などもあります。

参考資料
日本大百科全書「引張り強度」
https://kotobank.jp/word/引張り強度-1581924
ものづくりウェブ「引張強度と許容応力と安全率」
http://d-engineer.com/zairiki/anzenritu.html
海上技術安全研究所「もの作りのための機械設計工学 材料強度の基礎知識」
https://www.nmri.go.jp/eng/khirata/design/ch02/ch02_01.html
ウィキペディア「強度」
https://ja.wikipedia.org/wiki/強度
| - | 10:25 | comments(0) | trackbacks(0)
陸上選手、地面に接するたびに300キログラム


人は走るとき、足の裏側を地面に接してから蹴りあげます。運動のなかでも、このような走るものでは衝撃が大きく、からだへの負荷が高いといわれます。では、実際どのくらいの力がかかっているのでしょうか。

元長距離マラソン走者で、1928年に米国横断競走という大会で5509.6キロメートルを573時間4分34秒で走り優勝したこともあるアンディ・ペイン(1907-1977)という人物がいます。彼は1983年、「エリート走者の足と地面の接地力」(Foot to ground contact forces of elite runnners)という研究で、二人の陸上短距離選手に協力してもらい、二人がそれぞれ走っているときの床反力を測りました。床反力とは、足が床を蹴って力をあたえているのとは逆に、床のほうが足底面を押す力のことです。

空間のベクトルには縦、横、高さのみっつの成分があります。これとおなじく、ペインのこの研究でも、選手が走っているとき力をみっつの成分に分けました。つまり、走っている選手にとって、左右方向の力、前後方向の力、そして垂直方向の力です。

実験の協力者をふたりの選手にしたのは、走るフォームのちがいによる力のかかりかたの差を調べるためです。

まず、体重63キログラムの「A選手」は、かかとから接地して、足の先端で蹴りあげるような走りをします。A選手の走りのなかで、力の変化が大きく起きたのは、踵が接地した直後の段階でした。垂直方向の力は、最大で3000ニュートンを超えました。また、左右方向の力はからだの外側に向けて500ニュートン、前後方向の力は前方に向けて600ニュートンがかかりました。

いっぽう、体重80キログラムの「B選手」は、かかとを接地させず、足裏の前のほうだけを接地させて走ります。B選手の走りのなかでは、足の先端が接地してから蹴るためのエネルギーを貯めこんでいる段階で、もっとも力がかかっていました。といってもA選手よりも、その力は大きくは、最大でも垂直方向におよそ2000ニュートンの力がかかるくらいでした。

さて、問題は3000ニュートンや2000ニュートンというのが、どれほどの力であるかということです。

ニュートンという単位は力の大きさを表すもの。1ニュートンは、1キログラムの質量をもつ物体に、1メートル毎秒毎秒の加速度を生じさせる力の大きさと説明されます。しかし、これでは実感がなかなかわきません。

おおまかに、1ニュートンとは、およそ100グラムの物体にはたらく重力の大きさとも説明されます。つまり、3000ニュートンとは、およそ300000グラム、つまり300キログラムの物体にはたらく重力の大きさということになります。

A選手が一回、足のかかとを接地するごとに、地面から300キログラムの力が加わっているということになります。

A選手もB選手も100メートルを10秒台で走るほどの速さの選手であるため、いちがいにこの力を一般の人のランニングやジョギングに当てはめることはできません。しかし、この結果は、人が地面に接するたびに大きな衝撃がからだにはあたえられるということを示しています。一般の人が走りこみをしたあと、足が筋肉痛になるのもむりはありません。

慶應義塾大学SFC研究所「走のバイオメカニクス」
https://www.kri.sfc.keio.ac.jp/report/gakujutsu/2008/3-8/SB_09.pdf
wikipedia “Andy Payne”
https://en.wikipedia.org/wiki/Andy_Payne
学研出版サイト「ニュートンって何キログラム?」
http://hon.gakken.jp/reference/column/Q-A/article/090617.html
| - | 18:52 | comments(1) | trackbacks(0)
20世紀序盤、デザインの流行は植物的から工業的へ
芸術の様式に「アール・ヌーヴォー」と「アール・デコ」とよばれるものがあります。どちらも「アール」ということばではじまり、またどちらも欧州で広まったものであるため、混同しやすいもの。どう異なるのでしょうか。

どちらの「アール」も、フランス語で“art”と書きます。これは「芸術」を意味します。

そして、「ヌーヴォー」は、おなじくフランス語で“nouveau”。フランスのボージョレ地区のワインの新酒を「ボージョレ・ヌーヴォー」とよぶことからもわかるように「新しい」という意味です。

すると、アール・ヌーヴォーのほうが、アール・デコより新しい様式なのかとなりますが、そうではありません。アール・ヌーヴォーは、19世紀末までの芸術やデザインに見られなかったような、新しい様式がとりいれられたため、「ヌーヴォー」とついているわけです。


アール・ヌーヴォーがとりいれられた建てもの
写真作者:Eddy Van 3000

具体的には、模様を植物の花やつるなどのかたちから借りてくるという点に、アール・ヌーヴォーの特徴があります。植物のかたちは、基本的に単純ではない曲線でできています。それに倣っているため、アール・ヌーヴォーの芸術作品では「うねり」のような曲線が感じられます。

また、アール・ヌーヴォーでは、多分に日本や中国などの東洋の美術の影響を受けたともいわれます。

このアール・ヌーヴォーのあとに、やってくる美術様式が、アール・デコです。「デコ」は、フランス語の“décoratifs”を略した“déco”であり、「装飾」などの意味をもちます。1925年に、パリで現代装飾美術・産業美術国際博覧会(Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels modernes)が開かれました。この博覧会の名の一部である“Arts Décoratifs”から、「アール・デコ」とよばれるようになりました。


アール・デコがとりいれられたニューヨークのクライスラー・ビル
写真作者:Stefano Brivio

1920年代には、自動車の普及や飛行機の開発などが起こり、手づくりのもののほかに、工業的に生産される製品が意識されるようになりました。そうした時代背景のなか、芸術やデザインも工業的な製品のかたちとの調和をはかる動きが見られました。その移りかわりは、「装飾重視から規格重視へ」と表現できそうです。いわば、定規やコンパスといった道具でつくられるデザインといったところでしょうか。

こうして欧州では、30年ほどのあいだに、アール・ヌーヴォーからアール・デコへと、芸術様式の移りかわりが見られたのでした。

参考資料
雑学万歳「『アール・ヌーボー』と『アール・デコ』って?」
http://www.uraken.net/zatsugaku/zatsugaku_134.html
ウィキペディア「アール・ヌーヴォー」
https://ja.wikipedia.org/wiki/アール・ヌーヴォー
ウィキペディア「アール・デコ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/アール・デコ
| - | 19:14 | comments(0) | trackbacks(0)
(2016年)5月10日(火)は「医療機器開発における知財とは」


催しものの案内です。

(2016年)5月10日(火)東京・北青山のTEPIA先端技術館で、「第14回日本医工ものづくりコモンズ・シンポジウム 医療機器開発における知財とは」がおこなわれます。主催は日医工ものづくりコモンズと、産業技術総合研究所コンソーシアム「医療機器レギュラトリーサイエンス研究会」。

医療機器も製品ですので、開発を進めていくには特許権などの知的財産の取得や保持が大切になります。開発した技術を知的財産として保護しないと、国内外のほかの企業などに“合法的”に模倣されてしまいます。

このシンポジウムでは、「医療ニーズそのものが知的財産に係ることへの留意すべきポイント」「知的財産の創造と保護」「ものづくりにおける知的財産戦略について」がキーポイントになっています。

プログラムでは、日本医工ものづくりコモンズ常任理事で、早稲田大学ナノ理工学研究機構研究院教授の谷下一夫さんが「医療ニーズにおける知財性」という題目で講演します。また、精密順送プレス金型の設計・製作や精密プレス部品の製作をてがけるJKB会長の平井和夫さんが「知的財産の活用と管理の勧め」という題目で講演します。

さらに「医療機器開発における知財戦略の重要性」というセッションでは、特許業務法人太陽国際特許事務所所長で弁理士の中島淳さんが「知財の創造段階と知的財産保護」という題目で、また、橋本総合特許事務所所長で弁理士の橋本虎之助さんが「医工ものづくりの知財戦略の基本視点」という題目で話す予定です。

参加費は無料ですが、会場の都合により定員は先着50名までとのこと。日本医工ものづくりコモンズのホームページにお知らせが出ています。詳しくはこちらをご覧ください。
http://www.ikou-commons.com/t_info/sympo/16510platform/
| - | 23:47 | comments(0) | trackbacks(0)
「みどりの学術賞2016」井上勲さん「取れた微細藻類はなんでも調べてみる」

藻類
写真作者:F_A

第10回を迎えた2016年度の「みどりの学術賞」は、きのうの記事で紹介した三井昭二さんとともに、筑波大学名誉教授の井上勲さんにも贈られました。井上さんは現在、筑波大学の特命教授でもあります。

井上さんの受賞は、葉緑体を獲得した藻類の系統分類学と多様性解明進化に対するもの。

藻類とは、海、池、川などの水のなかで生活をし、光合成などで独自に栄養を得て暮らす植物たちをよんだものです。

地球の歴史はおよそ46億年とされていますが、その3分の2にさしかかった15億年前に、藻類が誕生するうえでの大きなできごとが起きたと考えられています。餌を捕まえて栄養にする、原生生物という生きものが、シアノバクテリアというべつの生きものを、自分のからだのなかに取りこんだのです。

シアノバクテリアは、太陽の光を使って栄養や酸素をつくる光合成を営む生きもの。この光合成のしくみは、原生生物のなかに取りこまれてからもはたらきつづけました。そして、いつしかシアノバクテリアは原生生物のなかで、光合成を専門におこなう葉緑体という器官となっていきました。こうしてできた葉緑体により、光合成をはじめた生きものが、藻類の祖先と考えられています。

しかし、いまの藻類のつくりを見てみると、より複雑であることがわかります。シアノバクテリアが原生生物に取りこまれたあと、さらにそれがべつの生きものによって取りこまれたことを示す跡があるのです。このように、二度にわたり取りこまれた植物は「二次植物」とよばれ、いまの地球で生きる植物の種類の3分の2ほどを占めています。

どうして二次植物が種類を増やしていったのか。井上さんは、藻類を遺伝子の配列のしかたなどを見て明らかにする分子系統解析をおこないました。すると、異なる生きものの系統で、ほぼ同時発生的に二次植物が生じたことがわかったといいます。

さらにもうひとつ、生きものが葉緑体を取りこんで光合成をする生きものに進化していく途中段階を示す、「ハテナ」という生きものを発見したことも、井上さんの功績のひとつとして評価されています。

2000年ごろ、井上さんは大学院生だった岡本典子さんとともに、和歌山県の海岸の海水や砂から、あるふしぎな生きものを見つけました。その生きものは全体的に緑色をしています。そして、自分の細胞を分裂させて増やすのですが、片方のからだは緑色に、もう片方のからだは半透明で白っぽい色の細胞になるのでした。

からだが緑色の細胞のほうは、緑色のもととなっている葉緑体を使って光合成をし、栄養を得ます。それに対して、白っぽい細胞のほうは、あらたに自分のからだに取りこむ相手を捕まえようとします。そして、相手が葉緑体をもっていなければからだに取りこんでから消化して栄養にしてしまい、相手が葉緑体をもっていれば自分のからだに取りこむのでした。

井上さんは、この植物を「ハテナ」と名づけました。

ハテナは、えさを消化して栄養を得ることと、葉緑体をからだに取りこんで光合成をして栄養を得ることの両方をします。これは、ハテナが「半藻半獣段階」にあることを意味するもの。藻類が葉緑体を使って光合成をする植物へと進化していく途中の段階を、ハテナの生きかたは体現していると考えられます。

水をすくってみて、取れた微細藻類はなんでも調べてみる。このような研究手法で、井上さんはさまざまな藻類を幅広く、そして深く研究してきました。

内閣府による「みどりの学術賞」のホームページはこちらです。
http://www.cao.go.jp/midorisho/
同賞で井上さんの業績を紹介する「地球の生きものを支える藻類」はこちらです。
http://www.cao.go.jp/midorisho/pdf/10inoue_dokuhon.pdf
| - | 16:41 | comments(0) | trackbacks(0)
「みどりの学術賞2016」三井昭二さん「これからの入会は“開かれたもの”に」


きょう5月4日は「みどりの日」です。1989年から2006年までは、4月29日がみどりの日でしたが、この日が「昭和の日」になり、2007年からみどりの日は5月4日に移りました。自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心を育む日とされています。

内閣府は、「みどりの日」についての国民の造詣を深めるため、「みどりの学術賞」を2007年に創設しました。国内において植物、森林、緑地、造園、自然保護などにかかわる研究や技術開発、そのほか「みどり」にかかわる学術上の顕著な功績のあった個人に内閣総理大臣が授与しています。

今年で10回目となる2016年度の「みどりの学術賞」では、三重大学名誉教授の三井昭二さんと、筑波大学名誉教授の井上勲さんが受賞しました。

三井さんは、森林と社会の共生にかかわる新たな道筋の提示とその政策などへの反映が理由となり、受賞しました。

日本を衛星画像などで見ると、あらためてみどりの占める面積が多いことに気づかされます。日本人にかぎったことでも、また人間にかぎったことでもありませんが、このみどりの資源を人びとは活かして暮らしてきました。具体的には、森林を育てて木材を得る林業という産業をおこしてきたのです。

では、都会に住む人びとは、みどりの資源の恩恵を受けるばかりかというと、近年はそれだけではなくなってきいます。都会の人びとが森林へと入っていき、そこで林業を営む人たちと交流をしたり、森林をよく保つためのボランティア活動をしたりしているのです。

三井さんは、森林と人のかかわり合いを問う「林政学」という分野の研究を進めてきました。日本の森林や林業の歴史を研究し、さらに、都市で暮らす人びとの森林をめぐる交流のしかたを研究してきました。

都会の人びとの森林を舞台にしたもランティア活動について、三井さんは「里山でレクリエーションも含めて楽しみながらボランティア活動をすることで、雑木林を再び活性化できるという思いが広がりました。また、林業を手伝うボランテ ィアには、いまの林業が苦しいので手助けをしたいという願いもあると思います」と話します。

人びとが森林に向ける目はボランティア活動を基本とするものだけではありません。日本では1990年代以降、「Uターン」や「Iターン」によって、新しく林業に従事する人が増え、35歳未満の若い林業者の割合が増えてきています。農業などの第一次産業では、高齢化が深刻化しているという話が多く聞かれますが、こと林業については、じつは若がえりが進んでいるのです。そうした若い世代の森林業を担う人たちとも、三井さんは接してきました。

人びとと森林のかかわりかたについて、三井さんは「新しいコモンズ」のしくみが大切となると提唱しています。

「コモンズ」とは、共同体や社会の全体に属する資源のこと。森林というコモンズのもとでは、その近くに暮らす人びとが「きまり」や「おきて」をつくり、それに従う「入会(いりあい)」というしくみをつくり、守ってきました。

三井さんは「新しいコモンズ」のしくみとして、都会の人びとと森林の近くの人びとがいっしょになって森林の使いかたなどを考え、ルールを決めていくことの大切さを述べます。

「昔からの入会は、その里山にかかわる人たちだけの“閉じたもの”でした。これからの入会は“開かれたもの”であることも必要ではないでしょうか。“開かれること”によって、都市の人びと山村の人びととの交流のなかから、“新しい道”が見つかるかもしれません」

あす5日(木祝)は、第10回みどりの学術賞のもう一人の受賞者、井上勲さんの業績を紹介する予定です。

内閣府による「みどりの学術賞」のホームページはこちらです。
http://www.cao.go.jp/midorisho/
同賞で三井昭二さんの業績を紹介する「都市と山村の交流でつくる森林」はこちらです。
http://www.cao.go.jp/midorisho/pdf/10mitsui_dokuhon.pdf
| - | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0)
雑誌の特集には“読者の目先の利益”がきく

写真作者:Danny Choo

週刊誌などの雑誌では、かならずといってよいほど特集が組まれます。

国会図書館の雑誌記事検索で「特集」と入れて検索すると、古くは1948年、ダイヤモンド社が雑誌『ダイヤモンド』で「物価は如何に改訂すべきか(特集)」という記事を出していますし、また東洋経済新報社が雑誌『東洋経済新報』で「円ドル交換比率の現状と為替レート単一化問題 調査特集」という記事を出しています。

今日日、週刊誌などの雑誌では、特集の内容によって、売れる部数はかなり変わってくるといいます。

雑誌をつくる編集者の立場からすると、どのような特集の企画を立てるかが、売れる号を出せるかどうかの決めてとなるわけです。

テレビの情報番組などでは、「ラーメン特集」が高視聴率をとりやすいとよくいわれていました。確実なものごとを、俗に「テッパン」といいますが、ラーメン特集はテッパン企画というわけです。ただし、最近はこの話が有名になりすぎて、情報番組でラーメン特集が組まれていると、その番組の視聴率は低迷していると視聴者はとらえるきらいもあるようですが。

では、雑誌の特集では、売れる企画と売れない企画の傾向というものはあるのでしょうか。

経済誌『週刊ダイヤモンド』の「元編集長」は、ウェブの記事で「『身近』なテーマは売れる」といったことを述べています。

「読者の目先のメリットを提示した場合には売れる。例えば、過去に売れた特集を見ると、『丸ごと1冊営業入門』、『丸ごと1冊株入門』、『息子、娘を入れたい学校』、『給料全調査』、『黄金の3年総予測』などなど」

人びとがコンビニエンスストアや駅前のキオスクに立ちよって、雑誌の表紙を見て、つい手にとってしまうのは、「いま」役立ちそうな特集の企画ということなのでしょう。

では、逆に、売れない特集企画の共通点とはどのようなものか。べつの週刊誌の編集長は、このようなことを言っています。

「人びとの心を、とにかく暗くさせるような内容の特集の号はまずもって売れない」

たとえば、仮に「徹底予測! 人工知能が人類を滅ぼす未来」といった特集の見出しが雑誌の表紙を飾ったとします。特集名の過激さや記事の内容はさておいて、これではあまりに絶望的すぎるため、人びとに「この特集、読んでみるか」という気もちを起こさないというわけです。これだったら、まだ「未来サバイバル術! 人工知能との付き合い方入門」のような特集名や内容のほうがましなのかもしれません。

近ごろでは、『週刊文春』がほかの雑誌や放送局がもちえぬ情報をつぎつぎと取材で得て、特だねの特集記事を連発しました。その結果でしょう、「完売」の号も連続したといいます。よく知られている人物の不祥事や醜聞をすっぱ抜いて報じるのは、やはり人びとの関心をよんで売れるものといえそうです。

しかし、どの雑誌も毎号のようにすっぱ抜けるわけではありません。すると、読者が「いま」の自分にとって利益を感じることのできる企画を特集として組むというのが、まずは目指すべきものとなりそうです。毎号毎号、レッツ・ポジティブな内容ばかりというわけにもいかないのでしょうが。

日本著者販促センター「週刊ダイヤモンド元編集長に聞く『売れる特集』」
http://www.1book.co.jp/000704.html
| - | 00:09 | comments(0) | trackbacks(0)
二手に分かれるときは異常の現れであることも


通常、おしっこが出るときは、放物線を描くか直線になるかはさておき、尿が便器に一本線で向かうものです。しかし、人により、あるいはおなじ人でもときにより、おしっこが一本線でなく、二手に分かれることもあるようです(あります)。男子の場合ですが、見下ろすと軌跡が「 V 」の字に。便器が大きければそれでも両方を受け止めてくれますが、便器が小さいと二手のどちらかが便器からはみ出てしまうことも……。

「お、きょうは二手だ」とか「おっと危ない」で済ませられればよいものではあります。しかし、おしっこが二手に分かれることも病気として扱われることがあるようです。

おしっこの軌跡を「尿線」といいますが、これが二手に分かれる症状を「尿線分裂」といいます。また、二手だけでなく、ほうぼうに散らばってしまう症状もふくめて「尿線異常」ということもあります。

尿線分裂や尿線異常の原因は、物理的には、やはり液体の噴きだしかたから探ることができます。

水道水を撒くときに使うゴムホースでは、ゴム管の真中を指で押さえつけると水が二手に分かれていきます。これとおなじく、膀胱から体外に通じる尿道の出口が狭くなっていたり、あるいは奇形になっていたりすると、尿の出かたが一本でなくなってしまいます。

さらによくないことに、こうした尿路分裂は、より深刻な病気をともなって起きる場合もあります。

たとえば、尿道に結石ができると、その結石が尿が出ていくときの妨げとなり、尿線分裂が起きることもあるようです。もっとも、尿道結石は、激痛をともなうといいますから、もはやおしっこが二手に分かれるといった悩みでは済まなくなるでしょうが……。

また、膀胱の下にある前立腺という部分が、異常に肥大する前立腺肥大症も、尿線分裂をともなうことがあります。前立腺肥大症は高齢の男性に多い病気です。

「たかが二手に分かれるだけ」とあなどらず、おなじ症状がつづくなどすれば、ほかの病気を疑ってみることも大切かもしれません。

参考資料
五本木クリニック「おしっこ(尿)の出方がおかしい(散らばる、二股に分かれる)」
http://www.gohongi-clinic.com/section/hinyoukika/condition9.html
浜松町第一クリニック「泌尿器の病気とED」
https://www.hama1-cl.jp/ed_dictionary/urinary_diseases/
| - | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0)
CALENDAR
S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< May 2016 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで (JUGEMレビュー »)
サイモン シン, Simon Singh, 青木 薫
数学の大難問「フェルマーの最終定理」が世に出されてから解決にいたるまでの350年。数々の数学者の激闘を追ったノンフィクション。
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
amazon.co.jp
Billboard by Google
モバイル
qrcode
PROFILE