科学技術のアネクドート

記者が撮影する枚数はすくなめ

写真作者:Susanne Nilsson

雑誌やウェブの記事づくりでは、その話題について詳しい人や、その話題の当事者に取材をします。取材では、編集者、撮影者、ときにデザイン担当者も同行することがありますが、どんな取材でも欠かせないと考えられているのが、記者です。「聞いた人が書く」または「書く人が聞く」という不文律があるのでしょう。

記者がひとりだけで取材に臨むことも多くあります。このとき、記者は取材対象者に話を聞くほか、写真を撮るという役割も担います。一般的に、出版社の経営が厳しくなったため、カメラマンが取材に同行することは減ったといわれます。これを、記者が「自分で撮影もしなければならないのかよ」と後向きに思うか、「撮影もうまくこなして編集者に頼られよう」と前向きに思うかは、その人によりけりです。

実際に記者が撮影もする場合、撮影枚数はプロのカメラマンのときとくらべて多いでしょうか。すくないでしょうか。

おそらく、すくないのではないでしょうか。

もちろんプロのカメラマンは、記者が話を聞いている最中も、取材対象者を撮影しまから、その分をふくめれば撮影枚数が多くなるのは当然です。

しかし、記者が話を聞いている時間を除いたとしても、記者による撮影枚数はプロのカメラマンのときとくらべて、すくないのではないでしょうか。

よい写真を撮るためには、多くの枚数を撮ることが大切といわれます。取材対象者を1枚しか撮っておかなければ、たとえうまく撮れなくてもその1枚の写真を選ぶしかありません。でも、10枚撮っておけば、たとえ1枚目がうまく撮れていなくても、ほかの9枚から写真を選べばよいのです。

「プロは“下手な鉄砲、数打てば当たる”のようなことはしない。シャッター1枚に精力を注ぐんだ」という考えかたもあるでしょう。しかし、ほとんどの記者はプロのカメラマンではありません。プロでない人が撮影するのなら、多く枚数を撮っておくに超したことはありません。

それにもかかわらず、記者は、プロのカメラマンにくらべて、多く撮影しようとしません。その理由は、いろいろ考えられます。

「自分は記者なのであって、撮影者ではない。撮影はおまけのようなものだ」と考えている記者は多いでしょう。ほとんどの媒体では、記者が撮影も担うからといって、記者の報酬が増えるわけでもありませんし。

「自分は撮影者ではない。だから取材対象者を何枚も撮るのは場ちがいだ」と、無意識にでも考える記者もいるかもしれません。取材対象者と記者の双方が「記者による撮影とは、かんたんに終わるもの」と思いこんでいれば、当然、撮影枚数は多くはなりません。

「1枚または2、3枚、多くて4、5枚、撮るのが撮影というもの」とはじめから考えている記者もいるかもしれません。多くの枚数を撮れば、それだけうまく撮れている確率は高まるという考えが、もともとないのです。

もし、「自分はプロでないのに、取材対象者を何枚も撮影しては申しわけない」と思うのであれば、取材対象者に「私はプロのカメラマンではないので、申しわけありませんが、何枚も撮らせてもらいます」と断っておけばよいことです。

プロのカメラマンでも、そうでない記者でも、縦の構図、横の構図、右からの角度、左からの角度は、すべて撮っておくというのが撮影の基本とされています。
| - | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0)
週のはじまり、歌では日曜、国際規格では月曜


1週間のはじまりは、何曜日なのでしょうか。

市販のカレンダーには、いちばん左の曜日、つまり1週間の始まりの曜日を「日曜」にしているものと、「月曜」にしているものがあります。日曜か月曜が、1週間のはじまりとして認識されているわけです。

歌の世界では、1週間を曜日の表現とともに歌うものがいくつかあります。

ロシア民謡の「一週間」では、冒頭「日曜日に市場に出かけ 糸と麻を買ってきた テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャ……」と歌われています。日曜日から歌われはじめるので、この歌では「週のはじまりは日曜」といえそうです。

また、英語の「曜日の歌」では、「サンデー、マンデー、チューズデー」とはじまって、「サンデー・カムズ・アゲイン」で終わります。やはり最初に「サンデー」が来るということで、この歌でも「週のはじまりは日曜」といってよいでしょう。

日本には、軍歌に「月月火水木金金」というものがあります。艦隊勤務の海軍兵たちが、土日を返上してはたらくことを歌ったものです。「月月火水木金金」は、本来の「日月火水木金土」がもとになっているのですから、やはりこの歌でも「週のはじまりは日曜」という認識がもたれています。

いっぽう、公的には、1988年1月に労働省労働基準局長と労働省婦人局長通知が、都道府県の労働基準局長あてに出した「改正労働基準法の施行について」という通知のなかで、つぎのように述べています。

「なお、一週間とは、就業規則その他に別段の定めがない限り、日曜日から土曜日までのいわゆる暦週をいうものであること」

これは、当時の労働基準法施行規則で、1週間の法定労働時間についての規定があり、その説明として「一週間」の定義をする必要があったために述べたもの。「一週間とは、……日曜日から」と明確に記しています。

ここまで見たところでは、「週のはじまりは日曜」が有力です。しかし、国際的な規格として「週のはじまりは月曜」ととることのできる記法があります。

国際標準化機構(ISO: International Organization for Standardization)の、日付と時刻の表記に関する国際規格「ISO 8601」では、「年と週と曜日」の記法について、月曜日を1とし、日曜日を7とすると定められています。これは、明らかに月曜が1番目の曜日であることを示していると捉えてよいでしょう。

ただし、「週のはじまりは月曜」という印象を人びとに思わせるとすれば、それは国際的な規格というよりも、人びとの感覚によるものかもしれません。日曜日は前日の土曜日と合わせて「休みの日」という人が圧倒的に多く、そうした人にとって月曜日がその週での「仕事はじめ」の曜日となるわけです。

しかし、「土曜はまだ楽しいけれど、日曜になると憂鬱になる」という人も多いことでしょう。そういう人にとって土曜と日曜の境が峠のようなものでしょうから、「週のはじまりは日曜日」という意味あいも、あながちまちがいではなさそうです。

参考資料
労働政策研究・研修機構「改正労働基準法の施行について」
http://www.jil.go.jp/rodoqa/hourei/rodokijun/KH0001-S63.html
ウィキペディア「ISO 8601」
https://ja.wikipedia.org/wiki/ISO_8601
| - | 23:36 | comments(0) | trackbacks(0)
仮想現実酔いに仮想現実の鼻の頭が効く

写真作者:Maurizio Pesce

自分たちの気づきそうで気づかないくらいのわずかなからだの部分のはたらきが、人の生活にとってじつは大切でだった、という話があります。

意識しなければほとんど気になりませんが、人の視界には、ほぼいつの瞬間でも「鼻の頭」が入っています。人の視線は、ほとんどの時間、ほかの対象物に向けられているため、視界のなかで鼻の頭は「ないも同然」となっているわけです。しかし、「ないも同然」ながら、かならずそこに鼻の頭はあります。

この視界のなかの鼻の頭が、じつは重要な役割を果たしているということが、ゲームの分野で知られるようになりました。

視界をまるごとコンピュータ映像で覆ってしまうヘッドマウントディスプレイをはめて人がゲームをするとき、酔ってしまうことがあります。「仮想現実酔い」ともよばれます。自分は実空間では動いていないけれど、画面内の映像が動いているため、自分が動いているような錯覚を覚えて、酔ってしまうのだと説明されています。

仮想現実酔いにならないためには、ヘッドマウントディスプレイをはめてゲームをしなければよいのです。けれども、それではゲームをすることができなくなるので、元も子もありません。

仮想現実酔いの問題に対して、コンピュータグラフィックスの研究者で、米国パデュー大学助教授のデビッド・フィッティンヒル氏らの研究チームが2015年3月、ある一定の解決策を示しました。ヘッドマウントディスプレイをはめて遊ぶゲームの画面内に、仮想現実の鼻の頭を映しておくことで、酔いを軽減できるというのです。仮想現実の鼻の頭が画面内に入れられた画面の例を、パデュー大学のサイト内で見ることができます。

これは、フィッティンヒル氏の研究室の学生の、ブラッドレイ・ジグラーさんが提案したもの。ジグラーさんの提案を、フィッティンヒル氏は「天才的な発想」と評価しています。

どうして、映像に仮想現実の鼻の頭を入れておくと、仮想現実酔いを軽減できるのか。「人はいつも自分の鼻の頭を見ている。横に向いたとしても、鼻の頭はそこにある。おそらく、手がかりとする枠組があたえられることで、人は地に足をつけていられるようになるのだろう」とフィッティンヒル氏は見ています。

フィッティンヒル氏らは、サンフランシスコで開かれたゲーム開発者の会議で、この発見を紹介し、実際に仮想現実の鼻の頭を画面内に入れたゲームで人びとに遊んでもらいました。

仮想現実でトスカナ村を探索する映像に見入った人たちは、仮想現実の鼻を画面に配置した場合、酔わずにいられた時間が平均で94.2秒、伸びたということです。いっぽうで、ローラーコースターに乗っているような気分になる映像では、酔わずにいられた時間は平均で2.2秒だけ、伸びたということです。

そして、映像に見入っている人びとは、やはり画面内での仮想現実の鼻の頭の存在に気づかなかったようです。

おそらく人の鼻が顔の中央で出っぱっているのは、臭いをかいだり空気を体に入れたりするために都合がよいからであり、人の平衡感覚を保つためではないのでしょう。

しかし、鼻が顔の中央で出っぱっているからこそ視界のなかに入り、結果的にそれが平衡感覚を保つことにもつながっているともいえそうです。

参考資料
パデュー大学 2015年3月24日発表 “'Virtual nose' may reduce simulator sickness in video games”
http://www.purdue.edu/newsroom/releases/2015/Q1/virtual-nose-may-reduce-simulator-sickness-in-video-games.html
| - | 13:30 | comments(0) | trackbacks(0)
「私も」の影響力は相当に強い

写真作者:uka0310

日々の変化ない暮らしのなかでちょっとした刺激を得るには、なにかのものごとを勇気をすこしもって試しにやってみる、というのも手です。

たとえば、バーや居酒屋などのような、客が店員に注文するかたちの店で、こんなちょっとした行動に出てみるのはどうでしょう。客として自分、自分とは面識のない客、そして店員がいる、といった状況での会話例です。

他客「すいませーん、ハイボールください」
店員「はい。かしこまりました!」
自分「あ、すいません。私も、ハイボールください」
他客「……!」

要は「私も」のように、「も」という係助詞を使って、他客とおなじ飲みものを注文するということです。

係助詞の「も」には、さまざまな役割があります。そのなかでも「ほかにも類似のものごとが存在することを言外にほのめかすかたちで、あるものごとを提示する」という役割があります。「僕も行く」や「あしたも雨みたい」と言うときの「も」です。

この店の場面での「類似のものごと」とはなにかといえば、「ハイボールを注文する」ということです。そして、その類似のものごとをしている動作主は、自分と面識のない客です。「私も、ハイボールください」は、厳密には「私も、そちらにいらっしゃる方が注文なさったのと同様に、ハイボールください」ということになります。

この「私も」は、短い発言ではありますが、相当に強い影響力をもっています。自分と面識のない客がハイボールを注文したという事実を自分は認識しており、その認識をその客になかば強制的に共有してもらうことになるからです。

この会話例では、その客の反応は「……!」となっています。しかし、心のなかを読めば「ん……。あの客、俺と知りあいでもないのに、俺がハイボールを注文したことを聞いて、『私も、ハイボールください』と言ってる……」となるでしょう。

自分の「私も、ハイボールください」という注文のあとに、最初にハイボールを注文した面識ない客からこんなふうに言われても、なんら不思議ではありません。

「ハイボール、おたくも好きなんですか」

この会話がはじまれば、もうすでにふたりの客は面識ないものどうしではありません。

しかし、なかには「私も、ハイボールください」という会話が聞こえてきて、不快に思う客もいるかもしれません。「自分を利用された感」が起きうるからです。人によっては「おい。お前。『私も』ってなんだよ!」とつっかかってくるかもしれません。

いっぽうで、自分の「私も、ハイボールください」という注文をしても、最初にハイボールを注文した面識ない客になんの反応もされないという場合ももちろんありえます。しかし、なんの反応をされなくても、その場所の空気は、それまでとは変わっていることにちがいありません。面識のない客が店員と交わした会話を巻きこんでいるのですから。

勇気をすこしもって試しに「私も、ハイボールください」と言ってみる。その結果、面識のない客が自分に対して友好的な態度をとってくるか、不快感を示すような態度をとってくるか、反応を示してこないが空気が変わるか。いずれの場合も、自分の発言で状況の変化が起きるわけであり、ちょっとした刺激を得られそうです。
| - | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0)
二塁と外野がテキサス州だからという説も――テキサス安打の語源を探る(2)
野球で、弱い当たりの飛球が、内野手と外野手のあいだにぽとりと落ちる「テキサス安打」の語源をめぐって、大リーグの本場である北米で、さまざまなことがいわれています。

カナダの「ノータブル」というサイトでは、「テキサス湾からの風」説が紹介されています。テキサス湾から吹いてくる強い風がひんぱんに、外野手の前で打球をぽてんと落とす、というものです。しかし、このサイトは「この説は、こじつけのように思える」としています。

いっぽう、かなり昔の情報になりますが、1946年7月13日付の米国の新聞『トレド・ブレード』には、ハロルド・V・ラトリフというスポーツ記者が「だからテキサス・リーガーとよぶんだ」という見出しの記事を書いています。


トレド・ブレード紙1946年7月13日付ハロルド・V・ラトリフによる記事

この記事でまずラトリフは、テキサスリーグを組織したジョン・J・マクロスキーという人物が1900年、テキサスリーグの選手を引きつれて、昔のナショナリルリーグに加われないかと、ルイビル・コロネルズというチームに交渉に行ったということです。そして、そこで選手たちは、たてつづけに2塁手を軽く超えるような安打を放ったといいます。

すると、テキサスリーグの選手たちが打席に立つと、ファンが「ああ、また“テキサスリーガー”になるぞ」と言ったということです。

ただし、この話では、いかに選手たちが試合に出られるようになったかといった詳細は書かれてはいません。

ラトリフはもうひとつ、べつの説を紹介しています。

テキサスリーグの試合がおこなわれていた地に、テクサーカナという街があります。この街は、テキサス州とアーカンソー州をまたぐように発展しています。

そして、当地にあった野球場にも州境がありました。一塁と三塁を結ぶあたりに州境があり、それよりも本塁側がアーカンソー州に位置し、それよりも二塁側がテキサス州に位置していました。

そこで、選手が二塁を超えるような安打を放ったのを、人びとは「テキサスリーガー」とよぶようになったというのです。

紹介した説は、いずれも「テキサス安打」の語源はこれだと断定するには、決めてに欠くといったところでしょうか。しかし、これほどの説がいわれているということが、「テキサス安打」への人びとの興味のあらわれの証しととらえることができます。了。

参考資料
NOTABLE CA「Toronto Blue Jays: A Guide For The Part Time Fan Week 25」
http://notable.ca/toronto-blue-jays-a-guide-for-the-part-time-fan-week-25/
TOLEDO BLADE 1946年7月13日付「...And That's Why They Called It A Texas Leaguer」
https://news.google.com/newspapers?nid=1350&dat=19460713&id=Id9OAAAAIBAJ&sjid=0P8DAAAAIBAJ&pg=1886,1845599&hl=ja
| - | 13:05 | comments(0) | trackbacks(0)
オーリー・ピカリングの“功績”という説も――テキサス安打の語源を探る(1)

写真作者:Ola Christian Gundelsby

2016年のプロ野球が3月25日(金)に開幕しました。開幕全6試合で本塁打は2本とすくなめです。いっぽうで、安打は安打でも、弱い当たりのフライが内野手と外野手のあいだにぽとりと落ちる、テキサス安打が何本か出ています。

「テキサス安打」は、和製語です。これに該当する表現が生まれた米国では「テキサスリーガー(Texas Leaguer)」や「テキサスリーグ・ヒット(Texas League hit)」などとよばれています。日本ではよく、所有格の「……'s」がついて、“Texas Leaguer's hit”つまり「テキサスリーガーズ・ヒット」ともよばれますが、米国ではあまりこのよばれかたはされていないようです。

「テキサス」という固有名詞がふくまれているという点で、数ある野球用語のなかでも「テキサス安打」は独特な表現といえるでしょう。

では、テキサス安打はどのような語源からきているのか。よく日本で見られる説明はつぎのようなものです。

「テキサス‐リーグ出身の選手がよく打ったところからいう。ぽてんヒット。テキサスリーガースヒット。テキサスリーガー」(デジタル大辞泉)

テキサスリーグは、米国大リーグ傘下のマイナーリーグのひとつです。マイナーリーグには、大リーグに近い位置づけの順に、トリプルA、ダブルA、アドバンストAなどの段階がありますが、テキサスリーグはダブルAに位置づけられています。よく、テキサス安打の語源について「テキサスリーグという独立系のプロ野球出身の大リーグ選手が多く打ったヒット」という記述が見られますが、テキサスリーグは大リーグ傘下であり、ほかに「テキサスリーグ」とよばれる野球のリーグは存在しないため「独立系」は、誤記と考えられます。

「テキサス安打」ということばの生まれた米国では、日本で見られる説明よりもさらに詳しい、いくつかの語源の説がいわれています。

米国では、このことばをめぐる一人の関係者として、オーリー・ピカリングという選手の名が挙げられることがあります。1892年と1895年に、テキサスリーグのフォートワース、ガルベストン、ハウストンという球団でプレイし、メジャーリーグのアメリカンリーグが創立された1901年には、クリーブランド・ブルースというチームでプレイしました。

テキサスリーグから招集されて試合に出場したピカリングは4本の安打を記録し、いずれの安打も内野をすこし超えてぽとりと落ちるようなものだったといいます。

この試合を見ることができなかった記者が翌日、1塁にいるピカリングにきのうはどうだったかと聞いたといいます。すると、ほかの記者が「彼はね、もう一つのテキサスリーグヒットをやってのけたよ」と言ったということです。これが、テキサスリーグヒットのいわれはじめとされています。

しかし、後年、ロバート・マコーネルという米国の野球の記録に詳しい人物がピカリングの1896年の初出場を調べたところでは、このような説を支持するような記録はなかったということを報告しています。

なお、オーリー・ピッカリングに関連する説では、外野手の前にぽとりと落ちるような安打を7連続で生んだという話もあります。もちろん、19世紀末ごろでは、テレビ中継などありませんので映像の記録などなく、これがほんとうかは定かではありません。

では、ほかに「テキサス安打」の語源となった説として、どのようなことがいわれているのでしょうか。大リーグの本場での記述をいくつか見てみます。つづく。

参考資料
Bill James “Bill James Historical Baseball Abstract”
| - | 16:58 | comments(0) | trackbacks(0)
スポーツ競技の乗りものに炭素繊維強化プラスチック

写真作者:Berik

レーシングカーやバイク、レース用ボート、自転車などのスポーツ用などの乗りものは、競争で使われるため日常では考えられないような力がかかることがあります。そうした力にも耐え、かつ動かすときに有利となる軽さを兼ねそなえた材料が求められています。

軽くて強い材料のひとつとして使われているのが、炭素繊維強化プラスチック(CFRP:Carbon Fiber Reinforced Plastic)。炭素繊維によって強化されたプラスチックです。

基本的にはプラスチックですが、製品としてはプラスチックのなかに炭素繊維が使われていて、これで軽さと強さを実現させています。

炭素繊維とは、炭素で構成された繊維のこと。羊毛ににた感触のあるアクリル繊維や、石油や石炭などの副生成物として生じるピッチなどの原料を炭化してつくります。アクリル繊維からは、その繊維を高温炉に複数回、通して炭素繊維にします。また、ピッチからは、繊維にしやすいものに改質するなどしたうえで、やはり高温の空気中を複数回、通して炭素繊維にします。

こうしてつくられる炭素繊維は、黒鉛結晶がならんだつくりをしています。黒鉛も炭素の元素からなる物質で、六角網が積みかさなったようなかたちをしています。黒鉛結晶は、ダイヤモンドなどのほかの炭素原子でできた物質よりも、炭素の原子のあいだに隙間があるため比較的、軽くなります。いっぽうで、六角網が積みかさなったようなかたちでは、炭素原子が電子を提供しあうことによる結合が強いため、とくに平面方向の引っぱり強度がとても強くなります。


炭素繊維強化プラスチックに使われる炭素繊維
写真作者:Hadhuey

実際の、炭素繊維強化プラスチックのつくりかたにはいくつかの方法があります。

代表的な方法のひとつがプリプレグ方法です。炭素繊維の織物に樹脂を浸しこませた、プリプレグとよばれるシート状の材料をまずつくります。これを、何枚も積みかさねて、オートクレーブとよばれる加圧容器に入れて、高い温度で圧して固めることで、炭素繊維強化プラスチックにします。

レーシングカーでは、車体のほか、送気管、車台の一部などにも炭素繊維強化プラスチックが使われます。車をより軽くして速度を出せるようにしながらも、衝撃への耐久性を確保するといった点で優れた素材といえます。

また競技用の自転車でも、フレームそのものを炭素繊維強化プラスチック製にしたものもあります。

こうしたスポーツでの乗りもののほか、炭素繊維強化プラスチックは飛行機やロケット、自動車、風車などの材料にも使われています。費用をかけてでも、軽く、そして強くしたいと、いった部分に使われる材料といえます。

参考資料
炭素繊維協会「炭素繊維の特長とその性質」
http://www.carbonfiber.gr.jp/material/feature.html
炭素繊維協会「用途情報」
http://www.carbonfiber.gr.jp/field/craft.html
日経テクノロジーオンライン「CFRP」
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/WORD/20060622/118449/?rt=nocnt
AGCマテックス「FRPの製造方法」
http://www.agm.co.jp/about_frp/frp_sub.html
ジェイオートモビルズ「CFRP製品の企画・製作・販売」
http://jautomobiles.co.jp/cfrp-plan.html
ウィキペディア「フレーム素材(自転車)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/フレーム素材_(自転車)
| - | 15:06 | comments(0) | trackbacks(0)
寒、戻る
きょう(2016年)3月24日(木)は全国的に寒の戻りとなりました。東京・練馬では、前日23日(水)15時の気温が17.3度まで上がったのに、きょうの15時の気温は7.8度と、9.5度も下がりました。

春になってから、一時的に寒さがぶり返すことが、寒の戻りです。寒の戻りが起きるのには、いくつかのしくみがあります。

まず、日本海を西から東へと進む移動性低気圧が、寒さをもたらすことがあります。低気圧は、中心に向かって風が吹くため、低気圧よりも南東に位置する地域では、はじめに南風が吹きます。ところが、低気圧がその地域過ぎていくと今度は風向きが北よりに変わり、冷たい空気を運んできます。これにより、暖かくなったあとに寒くなる、つまり寒の戻りが起きます。

これに似ていますが、日本の南岸を移動性低気圧が西から東へと進むときは、日本列島の南に位置する低気圧の中心に向かって風が吹いてくるため、日本列島には北風が吹きやすくなります。

いっぽうで、日本海を進む移動性高気圧もまた寒さをもたらします。高気圧は、低気圧とは逆に、中心から外側に向かって風が吹くため、高気圧の南東に位置する地域では、はじめに北風が吹きます。これもまた、寒の戻りの原因のひとつになります。

ほかにも、4月あたりになると、放射冷却によって寒の戻りが起きることがあります。高気圧に覆われて晴れた日の朝、赤外線放射の放出によって大気や地表面の熱が奪われていきます。曇りの日には、地面から奪われた熱が地面と雲のあいだにたまるため冷えこみは弱くなります。また、風のある日には、冷やされていた地表面に、上空からの比較的暖かな空気が運ばれてきて、地表のあたりの寒さは和らぎます。逆に雲がなく、風もない日は、寒さを和らげる要素がなくなるため寒くなります。

天気図によると、きょうの寒の戻りは、日本の南岸を移動性低気圧が西から東へと進むことによってもたらされたもののようです。


2016年3月24日(木)15時の天気図(気象庁ホームページより)

寒の戻りは、日本では一般的にそう長くはつづかないようです。気象予報士の南利幸さんが、NHKのニュースで話していたところでは、過去30年間で、「いったん寒い日に戻ってから、また暖かい日になった」という事例でもっとも多かったのは、「一寒一温」の36回だったそうです。つぎに「二寒一温」の22回、「一寒二温」の19回とつづきました。ことばとしてよく知られる「三寒四温」は6回のみだったということです。

寒の戻りの典型的な日となったきょうも、宮崎と高知では桜の開花が気象庁により発表されました。寒の戻りも終われば、また春めいてきます。

参考資料
気象庁アメダス「2016年3月23日 練馬(ネリマ)」
http://www.jma.go.jp/jp/amedas_h/yesterday-44071.html?areaCode=&groupCode=
気象庁アメダス「2016年3月24日 練馬(ネリマ)」
http://www.jma.go.jp/jp/amedas_h/today-44071.html
goo天気「放射冷却」
http://weather.goo.ne.jp/term/191.html
| - | 20:54 | comments(0) | trackbacks(0)
「クールジャパン政策」にも「自分で言うか」問題

写真作者:Danny Choo

自分がかかわることをだれか人に紹介しようとしてことばで表すとき、たまに「自分で言うか」問題が起きます。

「ぼくって、ほめられることで伸びるタイプなんですよ」
「あたしって、愛されキャラじゃないですかァ」
「今回は俺、努力したよなー」

それぞれのセリフのあとに、それを聞いた人の「自分で言うか」という心のなかのつぶやきが聞こえてきそうです。

日常会話でなくても、「自分で言うか」問題は、たまに見られます。

たとえば国は、「クールジャパン政策」という政策を推進しています。クールジャパンとは、一般的に、まんが、アニメ、ファッションなどの日本独自の文化が海外で高く評価されている現象のことをいいます。

こうした海外の潮流を受けるかたちで、経済産業省は2010年に「クールジャパン室」を設けました。そして、海外で人気の高い日本の商材を、国内外に発信しています。その一連の政策が「クールジャパン政策」です。

「クールジャパン政策」が「自分で言うか」問題に触れるのは、「かっこいい」という意味の「クール(cool)」ということばが、この政策名に使われているからです。直訳すれば、「かっこいい日本政策」。日本が、自分の国を「かっこいい」と言っているのであり、これに対して「自分で言うか」とつっこみを入れたくなる人もいるというわけです。

食べもの屋の名前や宣伝文句などにも「本当に旨い!」などのことばがついていると、「自分で言うか」と言われることがあります。また、雑誌記事のタイトルなどで、「おもしろい話10選」などとあると、これも「自分で言うか」と言われそうです。

結局のところ、「自分で言うか」問題が生じるのは、その表現を発する者が、自身についてのよい価値評価をあらわすようなことばを使っているときに起きるのでしょう。よい価値評価をあらわすことばとは、たとえば、「かっこいい」「おもしろい」「かわいい」「やさしい」「すばらしい」「うつくしい」「ほめられる」「愛される」「努力している」といったものです。

評価とは「自分以外のものごとについてするもの」という基本的な考えが人にはあるのでしょう。その証拠に「自己評価」とか「自画自賛」といった熟語が使われています。自分以外の人に向けられるはずの評価が自分にかかわることに向けられている表現に対して、人びとは「自分で言うか」とつい感じてしまうのです。

ちなみに、インターネットでは「うま煮」にということばに対して「←自分で言うな」というつっこみも見られました。この食べもの自体が「自分は、うま煮です」と言っているわけではありませんが、「うまい」という価値評価をあらわすことばが使われているため、ユーモアある人がつっこみを入れたのでしょう。

参考資料
経済産業省「クールジャパン/クリエイティブ産業」
http://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/mono/creative/
日本語教師 泉原省二ウェブサイト「い形容詞」
http://blog.livedoor.jp/s_izuha/archives/3270781.html
| - | 20:04 | comments(0) | trackbacks(0)
自転車が倒れない物理でパラダイム転換


科学研究の業績で、しばらくのあいだ多くの人の規範になるようなものを、よく「パラダイム」といいます。研究者や一般の人びとは、その時代におけるパラダイムのもとで話をします。

しかし、そのパラダイムについて「なにかがおかしい」と気づく研究者が現れ、パラダイムがほころびはじめることがあります。さらに、その「おかしい」ということが科学的に裏づけられて、その時代を支配していた考えかたが劇的に変化することがあります。こうした一連の変化は、パラダイム変換といわれます。

パラダイム変換といえるほどの大きなことかどうかは議論が分かれるかもしれませんが、2010年代に入って、自転車をめぐる物理で、それまでの支配的な考えかたが覆されるようなことが起きています。

「どうして自転車は倒れないのか」という疑問があります。もちろん、人が乗っていない自転車を走らせずそのまま置いておけば、その自転車は倒れてしまいます。しかし、動いている自転車は倒れにくくなっています。

人が乗っているときの自転車については、車体の傾いたほうにハンドルが切られるとともに、乗っている人の体は無意識に逆側にずれることで、車体が起きあがります。このくりかえしで、自転車は倒れずに進むと説明されています。

では、人が乗っていない自転車はどうでしょう。自転車をうしろから押すなどしてかなりの勢いをつけてから放すと、自転車はしばらく倒れずに前に進むことがあります。

この、人の乗っていない自転車が走っているときに倒れない理由として、説明されてきたのが、「ジャイロ効果がはたらくから」というものでした。

ジャイロ効果とは、ものが自転運動を高速でするほど姿勢を乱されにくくなる現象のことをいいます。自転車では、両輪が高速で回転運動するため、姿勢が乱されにくくなり、つまりは倒れにくくなるということがいわれてきました。

さらに、自転車では「トレイル」とよばれるところが長いほど、倒れにくくなるともいわれていました。トレイルとは、前輪が地面についている点から、フロントフォークの延長線が地面につく点までの長さをいいます。フロントフォークが前に突きでるほど、トレイルは長くなります。

従来の“パラダイム”では、「ジャイロ効果」や「トレイルの長さ」が、自転車の倒れにくさに大切な要素といわれてきたのです。

これに対して、2011年、オランダのデルフト工科大学のジョディ・コーイマン氏らの研究チームは、このふたつの要素をわざとなくした構造の自転車をつくって走らせました。この自転車は、回転運動を打ちけすような車輪になっていて、これでジャイロ効果を消すことができます。また、フロントフォークが前でなく後ろに向かって延びるようなかたちになっていて、これでトレイルの長さが“マイナス”になっています。

ジャイロ効果もトレイルの長さも期待できないこの特別仕様の自転車を、人を乗せず、うしろから押して走らせてみたところ、この自転車はぱっと見で倒れそうになりながらも倒れないで、前に進んだのでした。そのようすを動画で見ることができます

コーイマン氏らは、米国の科学雑誌『サイエンス』で発表し、「私たちの結果は、前方部分の位置や、車輪の軸の傾きといった、さまざまなデザインの変数が、複雑な相互作用があるなかでの安定性につながっていることを示している」と述べています。

すくなくとも、いままでいわれてきた「自転車が倒れない理由」が覆されたわけです。この時点で、自転車の物理をめぐる、ひとつのパラダイム転換が起きはじめていたといってよいかもしれません。

参考資料
J. D. G. Kooijmanら「A Bicycle Can Be Self-Stable Without Gyroscopic or Caster Effects」『Science』2011年4月15日号
http://science.sciencemag.org/content/332/6027/339.abstract
朝日新聞 DO科学「自転車はなぜたおれずに走れるの?」
http://www.asahi.com/edu/nie/tamate/kiji/TKY200505230230.html
ウィキペディア「ジャイロ効果」
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャイロ効果
GIZMODO 2011年4月22日付「自転車が倒れない理由って? 定説がくつがえっちゃいました!」
www.gizmodo.jp/2011/04/post_8775.html
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「ビックカメラ」社名の由来に「バイクバイク」説も
いまさらの話題ですが、家電量販店の「ビックカメラ」は、どうして「ビッグカメラ」でなく「ビックカメラ」なのでしょうか。

英語の“big”(ビッグ)は「大きい」という意味のことば。日本人にもなじみのある“big”を社名に用いて「ビッグカメラ」とすれば、多くの人に知られるという点では有効だったことでしょう。

しかし、「ビックカメラ」は「ビック」です。英字表記では、“bic”です。

日本人が英語を使うとき、「ク」と「グ」の区別はあいまいになりがちです。とくに、つづりの最後に「g」「c」「ck」などがくる単語についてはなおさらです。

たとえば、「犬」に当たる英語は“dog”ですが、「造船設備」にあたる英語は“dock”。日本人には「犬」を指す単語なのに「ドック」と発音して、「ホッドドックください」などと言う人もいれば、「造船設備」を指す単語を「ドッグ」と発音して、「人間ドッグに行ってきました」などと言うと人もいます。

もしかして、いまもビックカメラの上層部の人たちは、「ビッグ」のことを「ビック」と認識している、というおそれはないのでしょうか。

その可能性はまずもってないであろうことは、ビックカメラの薬屋に「ビックドラッグ(BIC DRUG)」という店名がついていることからもわかります。きちんと「ビック」の「ク」と、「ドラッグ」の「グ」を使いわけています。



当のビックカメラは、社名の由来について、ホームページでつぎのように説明をしています。

「『Bic』はバリ島のスラング(俗語)です。『大きい(Big)』の意味を持つ一方、ただ大きいだけでなく中身を伴った大きさ、という意味もあります。『限りなく大きく、限りなく重く、限りなく広く、限りなく純粋に。ただの大きな石ではなく、小さくても光輝くダイヤモンドのような企業になりたい』という希望をこめて、『ビックカメラ』と命名しました」

さらに、ウィキペディアの「ビックカメラ」の項目には、「要出典」となっているので情報源は明らかではありませんが、つぎのようなことも書かれてあります。

「創業者の新井隆司は、バリ島を訪れた際に現地の子供たちが使っていた『ビック、ビック』という言葉に、『偉大な』という意味があると聞いて社名に使ったと述べている」

バリ島は、インドネシア南部にある島です。インドネシアにはさまざまな語族がいるため、バリ島では公用語のインドネシア語とはべつに、バリ語が使われています。

しかしながら、グーグルで、「"Balinese" "bic"」などと検索しても、それらしく、“bic”が使われている文例は見られません。また、インドネシア語で、「バリ語」は“bahasa Bali”なので、「"bahasa Bali" "bic"」と検索しても、おなじく日常的に“Bic”ということばが使われている形跡は見られません。

この件について、米国の言語学者で、オックスフォード大学出版の英語辞典の編集などに携わったことのあるベン・ジマー氏は、彼のブログでつぎのように推察しています。

「新井氏は、ほんとうはなにを聞いたのだろうか。バリ島の子どもたちが、英語の模倣として『ビッグ、ビッグ』と言っていて、それが、新井氏自身には無静音化されて聞きとられ、ビックカメラという社名になったということはありうるのだろうか。それも可能性ではあるが、私は、新井氏の『ビック』には英語とは関係ない、より考えられうる原因があると思っている。インドネシア語で、非常にありふれたことばのひとつが『バイク(baik)』であり、『よい、素晴らしい』を意味するのだ。『バイク』は会話ではしばしば『バイク、バイク』のようにくりかえして使われる……」

たしかに、インドネシア語では「baik」は、日常会話でもとてもよく使われる単語です。そして、意味も「よい、素晴らしい」なので、新井氏が聞いたとウィキペディアで説明されている「偉大な」という意味とそう遠くはありません。

よく使われるインドネシア語であれば、バリ島の子どもたちも知っているにちがいありません。そして、「バイクバイク」と、早口で子どもがしゃべっていれば、それが「ビックビック」と聞こえてもおかしくありません。

ジマー氏の推測する「バイク」説がほんとうであれば、「ビックカメラ」は「バイク」がもとになって生まれた社名ということになります。しかし「バイクカメラ」だと、日本人からすれば、バイクを売っているのかカメラを売っているのか、よくわかりません。

バリ島の子どもたちがしゃべっていたことばが「ビック」と聞こえたからこそ、「ビックカメラ」の社名は誕生したのでしょう。そして、いまや「ビックカメラ」は、多くの日本人になじみのある店の名前になっています。

参考資料
ビックカメラ「よくあるご質問」
http://www.biccamera.co.jp/ir/faq.html#q0102
ウィキペディア「ビックカメラ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/ビックカメラ
Language Log「"BIG" IN JAPAN(AND BALI)」
http://itre.cis.upenn.edu/~myl/languagelog/archives/003211.html
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「待つことです」と語る森田浩介さんのインタビュー、『Rikejo』マガジンに掲載


理系進学を目指す女の子たちを応援する講談社の会員誌『Rikejo』マガジンの第38号が、(2016年)3月中旬に発行されました。記事の一部を編集・執筆しました。

『Rikejo』マガジンは紙媒体の無料会員誌ですが、おなじ内容のデジタル版であれば、会員登録しなくても、女の子でなくても、講談社のデジタル版サービス「codigi」で、かんたんな手つづきをすれば全ページ読むことができます。また、手つづきが面倒という場合も、「codigi」のサイトで“試し読み”をすることができます。

第38号の目玉の記事のひとつに、113番元素を合成した森田浩介さんへのインタビュー記事があります。113番元素は、地球の自然界に存在しないため人工的な合成でできる元素のひとつ。世界の研究者たちが、「自分たちのグループが113番元素を合成した」と主張していましたが、2015年12月、国際純正・応用化学連合という国際機関が、森田さんが合成した元素を、新元素として認定する旨の通知をしました。そして、森田さんに新元素の命名権が贈られました。

森田さんの研究グループは、2004年から2012年までの9年間で、1兆回の1億倍の「垓(がい)」という数の単位のレベルの回数、べつの元素どうしをぶつける試みをして、合わせて3回、113番元素を合成しました。といっても、鉄やアルミニウムなどとちがって、合成された113番元素は0.002秒で崩壊してしまいます。113番元素を合成した数といい、113番元素が存在したであろう時間といい、とてもわずかなものでした。

113番元素を合成するための装置は加速器とよばれます。むかしのパチンコのように1回ずつ指ではじくようなことをくりかえさなくても、準備をすれば長い期間、加速器が自動で元素どうしをぶつけるようになっています。

何回も元素どうしをぶつけていれば、いつかは113番元素が合成されるにちがいない。森田さんたちはそのことをわかっていました。そして、それを実現するには、加速器を稼働しつづければよいということもわかっていました。

となると、森田さんたちは日々、なにをしていたのでしょう。記事で、森田は、こんなふうに答えています。

「待って待って待つことです。(略)基本は元素をつくるための加速器を稼働させたら、あとは待つことでした。『何も起こらないのが当然』という精神状況にグループのスタッフみんなが慣れる必要がありました」

いつか「その時」がくるだろう。しかし、おとといも、きのうも、きょうも「その時」はこない。こんな日々がずっとつづいたようです。とくに2回目の合成から3回目の合成までは、7年4か月、つまり2700日ほどの日数がありました。そのあいだには、113番元素の合成のしかたが正しいことを確かめるための実験をしたりはしたそうですが。

研究グループには、データ解析や検出器調整などを担当する、女性の研究員もふたりいます。

「とりわけ彼女たちは待つのが得意でした。きめ細やかな仕事もしてくれて、グループがうまくまとまった気がします」とも森田さんは話しています。

ほかにも、子ども時代の理科への興味のことや、その後の大学時代での挫折経験、また、気になる113番元素の命名のことなどについても、質問に答えています。

森田さんが登場するニュース「新元素を発見した研究グループの森田浩介さんに特別インタビュー」は、『Rikejo』マガジン第38号で読むことができます。デジタル版は「codigi」の会員登録をして、コード番号を入力することで見ることができます。デジタル版を読むための方法について、詳しくは「リケジョ」のホームページの記事「Rikejoマガジン vol.38 デジタル版公開!」をご覧ください。

「codigi」のサイトはこちらです。
https://codigi.jp/
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素数の非均等傾向、「素数k組予想」証明が“次”の鍵


数学の研究成果が話題になっています。インド出身の数学者で米国スタンフォード大学教授のカナン・サウンダララジャン氏と、博士研究員のロバート・レムケ・オリバー氏が、素数の現れかたに特有の傾向があることを見いだし、(2016年)3月11日(金)コーネル大学の運営する論文保存・公開サイト「arXiv(アーカイブ)」で報告しました。

素数は、それ自身と1でしか割りきれない整数のことです。たとえば、2、3、5、7、11、13などは素数です。

ふたりが見いだした特有の傾向とは、「ある素数の最後の桁と、つぎに現れる素数の最後の桁は、おなじ数になりにくい」というものです。

たとえば、1で終わる素数のひとつに11があります。11の最後の桁は「1」です。では11のつぎに大きい素数はというと、13です。13の最後の桁は「3」です。「1」と「3」なので、おなじ数になっていません。

もちろん、「11」と「13」というのは一例をとりあげただけにすぎないので、おなじ数になっていなくても、もちろんおかしくありません。しかし、ふたりは小さいほうから順に10億個の素数を調べたところ、最後の桁が「1」の素数のつぎの素数の最後の桁が「1」である率は、18パーセントにとどまったということです。

10以上の素数の最後の数は、1、3、7、9のいずれかとなります。つまり、素数の現れかたが、まったく無作為であるなら、最後の桁が「1」の素数のつぎの素数の最後の桁が「1」である割合は4分の1ほど、つまり25パーセントほどとなるはずです。しかし、実際は18パーセントしかありませんでした。

いっぽう、最後の桁が「1」の素数のつぎの素数の最後の桁が「3」になる割合は30パーセント、「7」になる割合は30パーセント、「9」になる割合は22パーセントだったといいます。

おなじく、最後の桁がたとえば「3」になる素数のつぎの素数の最後の桁が「3」になる割合も、25パーセントより明らかに低くなったといいます。「7」の場合も、「9」の場合も同様です。

そして、ふたりは、“ある数学の予想”が正しければ、この素数の傾向はすべての素数に当てはまることになるということも示しました。その“ある数学の予想”とは「ハーディとリトルウッドの素数k組予想」とよばれるものです。

この予想は、双子素数、三つ子素数、四つ子素数などとよばれる、ある特定の式で表せる素数の分布のしかたは、素数はまんべんなく分布しているという基本的な考えよりも、より正確であるというもの。

双子素数とは、3と5、11と13のように、差が2である素数どうしをいいます。また、三つ子素数とは、5と7と11、また11と13と17のように、差が2と差が6の素数のくみあわせか、7と11と13、また13と17と19のように、差が4と差が6の三つの素数のくみあわせをいいます。さらに、四つ子素数は、5と7と11と13のように、差が2と6と8の四つの素数のくみあわせをいいます。

雑誌『ネイチャー』の解説によると、この予想の背景には、「素数では起こりえない数の並びがあるため、その分、ほかの並びを起こりえやすくしている」という考えがあるといいます。

たとえば、もし「n」という数が素数だとすると、「n+1」は偶数、つまり2で割れる数になるため、素数にはなりえません。その分、たとえば「n+2」は、わずかながら素数である可能性が高くなるということです。

「ハーディとリトルウッドの素数k組予想」は、いわば、このような考えを、双子素数や三つ子素数のようなくみあわせに当てはめようとするものだといいます。

ふたりは、小さいほうから10億個までの素数にこのような傾向があることを、コンピュータを使って導きだしたそうです。さらに時間をかければ、おそらくコンピュータで調べる範囲を広げて、100億個までの素数の傾向もつかむことができるでしょう。

世のなか一般の考えかたに照らしあわせれば、「それほどの多くの素数を調べて傾向を見つけたのだとすれば、もはや、すべての素数に当てはまるといってもよいのではないか」となるかもしれません。

しかし、数とはかぎりなくつづくものです。10億個や100億個の範囲で当てはまるからといって、それを「すべての数」に普遍のものとするわけにはいきません。そのため「ハーディとリトルウッドの素数k組予想」が正しいことが証明されることが、今回の成果の価値をより高くすることにつながってきそうです。

参考資料
『nature』2016年3月14日付 “Peculiar pattern found in ‘random’ prime numbers”
http://www.nature.com/news/peculiar-pattern-found-in-random-prime-numbers-1.19550
ウィキペディア「三つ子素数」
https://ja.wikipedia.org/wiki/三つ子素数
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「美味しい卵料理の秘密は『テクスチャー』にあった!」


日本ビジネスプレスのウェブニュース「JBpress」で、きょう(2016年)3月18日(金)「美味しい卵料理の秘密は『テクスチャー』にあった! 卵料理、その多様化の秘密を探る(後篇)」という記事が配信されました。記事の取材と執筆をしました。

卵には、生卵、ゆで卵、卵焼き、目玉焼き、炒り玉子、卵とじといった料理があります。また、マヨネーズ、麺、パンなどの卵を使った加工食品もあります。日本人の食材のなかで、これほどの食べかたがあるのは、ほかに大豆ぐらいなものではないでしょうか。

では、どうして卵の食べかたには多様性があるのか。その理由を探るというのが、今回の記事の主題です。

11日(金)に配信された前篇では、「『卵、食べてもいいんだ』と気づいた日本人」というタイトルで、日本人が卵をどのように食べるようになり、そしてさまざまな食べ方をするようになったのか、その歴史を追いました。

今回の後篇では、卵の調理のしかたに目を向けて、どうして卵料理の種類がさまざまになりうるのかを探っています。

卵料理の多様性について、調理の側面から解説をするのは、中部大学応用生物学部教授の小川宣子さんです。小川さんは、食生活の視点から卵を総合的に研究し、卵の美味しさとはなにかを追究してきました。多くの研究者が卵の主要な成分を抽出して、その特徴を調べていた時代、小川さんは卵は食べるものであるという考えから、卵の全体を研究対象にしてきたということです。

記事では、卵料理では「テクスチャー」つまり、食べたときの「触感」が美味しさの大切な要素になるという前提で、生卵、ゆで卵、厚焼き玉子などの“定番”をつくるときの、卵の成分の変化などを見ています。

小川さんは、取材時「3月はなぜか卵の取材の相談を受けることが多いんです」と言っていました。メディアが春のこの時期に、卵を主題とする記事や番組をつくりたがるようです。いったい、どうしてでしょう。

卵にはいちおう、旬があるとされているようです。その旬は、ものの情報によると2月から4月。「鶏の産卵量が減る冬から春にかけては、卵が母体内で成熟される期間が長くなる」という説明も見られます。メディアの人たちは、卵の旬を調べて、中心の月である3月に卵ネタをもってくるのでしょうか。

しかし、3月や4月が、もっとも卵の消費量が多くなる時期ではありません。年によって異なりますが、近年の家庭消費推移では12月や5月の生産・出荷量が多くなっています。

春分の日は、卵といくぶんかのかかわりをもっています。春分の日には、「卵を立たせやすい」といわれることがあります。春分の日と秋分の日は、地球の軸が太陽に対して垂直になり、重力場がもっとも安定するため卵を立たせやすい、と説明されているようです。

ちなみに、卵にちなんだ記念日としては、日本養鶏協会が2010年に「いいたまごの日」と定めた11月5日や、鈴木養鶏場という企業が「卵」の字とにているからということで定めた6月9日などがあります。いずれも春ではありません。

なぜか3月に卵の取材が多くなるという理由は「なぜか」のままです。ひょっとすると、人びとがまだ知りえないような卵にかかわる力に支配されているのかもしれません……。

JBpressの今回の記事も意図することはなく、なぜか3月の取材、記事配信となりました。

「美味しい卵料理の秘密は『テクスチャー』にあった! 卵料理、その多様化の秘密を探る(後篇)」はこちらです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46357
前篇「『卵、食べてもいいんだ』と気づいた日本人」はこちらです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46293

参考資料
旬の食材カレンダー「卵の旬」
http://k52.org/syokuzai/201
農林水産省 2013年3月15日公表「鶏卵流通統計調査の結果(平成24年)」
http://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/tikusan_ryutu/pdf/keiran_12.pdf
原体験教育研究会「第1005回 例会情報」
http://www.gentaiken.com/?p=7522
デジタル大辞泉プラス「たまごの日」
https://kotobank.jp/word/たまごの日-720506
| - | 14:02 | comments(0) | trackbacks(0)
「尿1滴で、線虫が早期がんを嗅ぎ分ける!」


きょう(2016年)3月17日(木)、日本IBMのウェブメディア「mugendai」に、「尿1滴で、線虫が早期がんを嗅ぎ分ける! 95.8%という驚きの高感度」という記事が掲載されました。

九州大学大学院理学研究院助教の廣津崇亮さんが研究開発している「線虫」という生きものを使った新しいがん検診の方法について、廣津さん自身が、開発の経緯や診断のしくみ、また実用化への見通しなどを語っています。

がんの検診の方法については、これまで放射線を使った撮影による診断などがされてきました。画像診断技術についても、画像が鮮明になったり、いろいろな角度からからだを見ることができたりと、進化はしています。

しかし、いまのがん検診には大きな問題点あります。からだの部位別に検診を受けなければならないことや、高いお金がかかること、また早期がんは見つかりにくいことなどです。費用や労力に対する効果はさほど高くないといえます。

これに対して、廣津さんが開発している新しい検診法では、からだのなかのどの部位にあるがんでも、また進行度がどのくらいであっても、とにかく「がんがあるかないか」を、高い精度で判別することができるという利点があります。1回の検査で、がんの部位別の種類は問わず、あるかないかを調べられるというのは、これまでのがん検診ではなかったことです。

からだに病気がないかどうかを精度よく調べるために、もっぱら人は機械の性能を高めようとしてきました。

いっぽう、廣津さんの方法は、生きもののもっている能力に頼るというもの。これまでの方法とは根本的にちがうものです。人がいくら自分たちの知恵を出して機械の性能を高めても追いつけない能力を生きものがもっている場合もあります。

使う生きものは、C・エレガンスとよばれる線虫です。C・エレガンスは、ここ半世紀ほど、生物学の研究者たちに「モデル生物」として扱われてきました。室温で飼うことができ、遺伝子の数がすくなく、4日間で次世代をつくるといった、実験するのに都合のよい生きものだからです。

おそらく、ほとんどの研究者たちは、C・エレガンスのことをモデル動物として捉える以外の視点をもっていなかったのでしょう。匂いに対して敏感であるというC・エレガンスの能力に視点を当てた研究者は、新しいがんの診断の手段の開発にたどり着いたのです。

記事では、線虫を使ったがんの検診が実現したときのインパクトなども紹介しています。「尿1滴で、線虫が早期がんを嗅ぎ分ける! 95.8%という驚きの高感度」はこちらです。
http://www.mugendai-web.jp/archives/5131

この記事の取材と執筆をしました。
| - | 20:20 | comments(0) | trackbacks(0)
基礎代謝量が増すほどの筋肉は簡単にはつかない

写真作者:D Allen

人の日々の生活では、なにもしていなくても生命を維持するためにエネルギーが使われます。からだのなかで物質がエネルギーに変わっていくことを代謝といい、とくにからだを動かしていなくてもからだのなかで物質がエネルギーに変わっていくことを基礎代謝といいます。

そして、1日あたり基礎代謝でどのくらいのエネルギーが使われるかを示した量は、基礎代謝量とよばれます。成人で1日1200キロカロリーから1400キロカロリーともいわれます。

もし、ある人の基礎代謝量が増えれば、その人はより多くのエネルギーを必要とすることになります。いわばからだが“浪費家”になるわけです。しかし、逆に「たくさん食べたいけれど、太りたくない」という人にとっては、基礎代謝量が増えることは好都合です。

一般的に、基礎代謝量を増やすことはできるといわれています。その方法として知られるのは、筋肉の量を多くするということです。脂肪にくらべて筋肉のほうが“浪費家”であるため、からだに筋肉がたくさんついていれば、筋肉がエネルギーをたくさん使ってくれる、というわけです。

この理論は広く世のなかで知られているところです。では、ある人の基礎代謝量が増えるためには、どのくらいの筋力トレーニングをすればよいのでしょうか。

北星学園大学の運動生理学などを研究するグループが、「若年女性の運動習慣が基礎代謝量、および体組成に及ぼす影響」という研究報告をしています。

この研究で、研究グループは、女子大生15名を対象に、長期にわたって日常的に部活動で運動をつづけている群、部活動で運動をつづけていたが中止した群、運動をしていない群に分けて、それぞれの基礎代謝量、体脂肪率、除脂肪体重などを測りました。除脂肪体重とは、体脂肪を除いた体重のことです。

測定の結果、運動継続群は、非運動群にくらべて、基礎代謝の点では差が見られなかったということです。つまり、部活動で運動をつづけている人であっても、基礎代謝量を増やすほどの筋力がついたわけではないという結果になったわけです。

いっぽうで、体脂肪率については、運動継続群では23.6±1.9パーセントに対して、非運動群では27.7±2.3パーセントとなりました。つまり、運動継続群のほうが非運動群より脂肪はついていないということです。

これらの結果から、部活動で運動をつづけても、筋肉の量が多くなって基礎代謝量が増えるまではいかないけれど、運動をしてエネルギーを使っていることで体脂肪はつきづらい傾向にはある、と考えることができます。

この研究での運動継続群の人たちの部活での運動量は、1年以上、週2回から5回、1日2時間から3時間といったものでした。運動の内容は、水泳、硬式テニス、剣道、アイスホッケー。どれも運動種目としてはかなりハードなものです。

研究者たちは「基礎代謝量を増加させるためには筋量を増量するレジスタンストレーニングを積極的に取り入れ、負荷を増大する必要があると思われる。部活動のような運動形態では心肺機能への影響はあるものの、競技者のように筋量の増大によって基礎代謝量を高くしてエネルギーを消費するまではいたらず……」と考察しています。

つまり、すくなくとも、部活をつづけているくらいの運動では、「筋肉の量が増えて基礎代謝量が増える」といったからだを実現することはできない、ということのようです。

参考資料
武田秀勝ら「若年女性の運動習慣が基礎代謝量、および体組成に及ぼす影響」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009559224
| - | 12:43 | comments(0) | trackbacks(0)
「社会実装」が謎めいている


一般の人びとが、ほとんど使わないような科学・技術にかかわることばが、国などの公的な機関が発する情報のなかでごく当たりまえのように使われていることがあります。そこで使われることばは、えてしてむずかしそうな印象をあたえるものです。

「社会実装」ということばは、公的機関が企業などに研究を公募するときのプログラム名などとして、よく使われます。

たとえば、文部科学省は2015年9月に「気候変動適応技術社会実装プログラム」という事業を公募しています。

漢字と片仮名が並んでいるのをほぐすと、おそらく「気候の変動に適応する技術を社会に実装するためのプログラム」なのでしょう。しかし、「技術を社会に実装する」といっても、やはり「実装」というのがあまり使われないことばのため、むずかしそうな印象をあたえます。

この事業の概要の説明を見てみると、「気候変動に伴って増加する極端気象現象(猛暑や豪雨)等への自治体による地域特性に応じた適応策の導入を支援することを目的としております」とあります。「地域特性」ということばが「社会」にまずまず近い意味であることからすると、「実装」に対応することばは「導入」となりそうです。

しかし、この概要を見ても、また41ページにおよぶ公募要領を見ても、「社会実装」がなにを意味しているのかの説明はひとこともありません。応募する団体は、「社会実装」という概念を知っていることを前提にしているようです。

このことばが入っている公的機関の事業名としては、ほかに「研究開発成果実装支援プログラム」「グリーンテクノロジー社会実装事業」「大学等における研究成果等のプロトタイピング及び社会実装に向けた実証研究事業」などが見られます。

インターネットのニュース記事などでも「社会実装」が使われています。

「『ルンバ』のコア技術は軍事用。日本も大企業がロボット活用の社会実装を急げ」という見出しの記事がありました。「ロボット活用の社会実装」とあります。ことばじりを捉えると、「活用を実装する」という意味あいで「実装」が使われているようです。

わけがわからなくなってまいりました……。orz。

「社会実装」ということばがいつごろ使われるようになったのか。国立国会図書館の雑誌記事検索では、2009年12月に発行された『犯罪と非行』という雑誌で「子どもの被害調査と日常活動調査 その必要性と、社会実装のための試み」という論題の記事が見られるのが最初です。

「実装」とはもともと、部品を実際にとりつけることを指します。これからすると、「部品」にたとえられるようなものを、社会に実際にとり付けるような意味あいが、「社会実装」にはあるのでしょう。

知っていて当然のように「社会実装」が使われているなかで、科学技術振興機構は「社会実装」の意味を説明するのに積極的です。どうやら、科学技術振興機構が使っていた「社会技術」ということばから使われるようになったという、自負があるようです。

たとえば、科学技術振興機構の地球規模課題対応国際科学技術協力プログラムでは、研究提案公募の説明のなかに「社会実装」の意味をきちんと説明しています。

「社会実装:具体的な研究成果の社会還元。研究の結果得られた新たな知見や技術が、将来製品化され市場に普及する、あるいは行政サービスに反映されることにより社会や経済に便益をもたらすこと」

この説明からすると、ことばとしてより使われている「社会還元」に置きかえても、意味はとおりそうです。あるいは「社会実用」に置きかえるのでもよいかもしれません。

それでも、「社会実装」という、多くの一般人からすれば謎めいたこのことばが公的機関でよく使われるのは、「研究成果を世の中にとり付ける」といったどこか能動的な語感が「実装」から漂ってくるからかもしれません。

事業の公募といったものは、たしかに「社会実装」ということばのわかる人に伝わればそれでよいという考えかたもできます。しかし、「社会実装」が「社会」にかかわる概念である以上、社会の多くの人びとに伝わる表現があれば、それに置きかえるほうがという考えかたもできます。

参考資料
文部科学省「平成27年度気候変動適応技術社会実装プログラムの公募について」
http://www.mext.go.jp/b_menu/boshu/detail/1361644.htm
http://www.mext.go.jp/b_menu/boshu/detail/__icsFiles/afieldfile/2015/09/03/1361644_01_1_1.pdf
科学技術振興機構基礎研究通信 臨時号No.71「『脳科学と社会』領域架橋型シンポジウムについて」
http://www.jst.go.jp/kisoken/mail/s071.html
科学技術振興機構 地球規模課題対応国際科学技術協力プログラム「平成28年度研究提案の公募」
http://www.jst.go.jp/global/koubo.html
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“しゃべり好き”と評判の人が黙ってしまうときの苦痛は大


世間には、相手と会話をしているとき、沈黙がつづくことをおそれる人がいます。初対面の人や、面識はあっても心から打ちとけていない人と二人きりでいるとき、会話がとぎれてしまうと、沈黙を埋めることに躍起になって、会話の内容どころではなくなってしまうというわけです。

相手との会話がとぎれてしまう原因を、「自分のせいだ」と考えている人は、より沈黙が苦痛になることでしょう。「話題を豊富にもっていない」「会話の間が悪い」「状況説明が苦手」などの意識をもっている人は、沈黙を自分のせいにしてしまいがちです。

沈黙の苦手なある人が、こんな話をしていました。

「友だちのAくんと、AくんのともだちのBさんと、3人で会うことになったんだ。Bさんとは初対面だったけれど、とにかく“しゃべり好き”っていうことで通っている人でね」

「それで、実際、3人で会ってみると、聞いていたとおりBさんはとにかくよく話す話す。半分以上はBさんが話していたんじゃないかな」

「ところがね、Aくんが『ちょっと、トイレに行ってくる』って言って席を離れて、自分とBさんの二人きりになったんだ」

「すると、いままでかなりの勢いでしゃべっていたBさんが、自分に対しては急に黙ってしまって……。もちろん自分もだけれど、Bさんのほうも沈黙がつづいていることを意識はしているみたいで。それで、Aくんがトイレから戻ってくるまでの3分が、とにかく苦痛だった」

「とにかく“しゃべり好き”で知られているBさんが、自分と二人きりになったときに、おしゃべりがぴたっと止まってしまうとは。相当、自分って沈黙のつくり手なんだなって思って。よけいに沈黙が嫌になってしまったんだなぁ」

たしかに、“しゃべり好き”な人が黙ってしまえば、「自分はしゃべり好きな人でさえ黙らせてしまっているんだ」と考えてしまいそうです。そして、そうした意識が対話中(というか沈黙中)に芽ばえれば、よけいに話が出てこなくなってしまうものです。

沈黙を回避する対策として、「『黙る』ことにつきます」といった逆説的な方法を提示する人もなかにはいるようです。間をおそれず、あたりまえのこととして受けとめるのだそうです。

しかし、沈黙をおそれているから回避しようとしているのであって、「間をおそれず」と言われても元も子もありません。「お化けが怖かったら、お化けを怖れないことです」といっているのとおなじようなものです。

自分から、相手に話をあたえることはできなくても、相手自身のことについてなにか尋ねれば、たいてい相手はなにかを話してくれるようになり、心的にも楽になるものです。「鮮やかな色の靴ですね」とか、「缶コーヒーはブラックが好きなんですね」とか、すこしでも気を引かれたことであれば、些細なことでもよいのです。
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「この温度のときはこうなる」で物質を調べる
いろいろなものをなりたたせているさまざま物質は、温度が変わることによって反応を起こしたり、性質を変えたりします。逆に、その物質をいろいろな温度にして、それぞれの温度のときに起きる反応や、変わる性質を調べれば、その物質がどのような特性をもっているかがわかってきます。

このように、物質の温度を制御して、その物質の応答を分析することを、熱分析といいます。日本工業規格では、熱分析は「物質の温度を一定のプログラムによって変化させながら、その物質のある物理的性質を温度の関数として測定する一連の技法の総称(ここで、物質とはその反応生成物も含む)」と定義されています。

熱分析が使われた最近の研究成果のひとつに、空気中にふくまれている水分子がシルクの結晶構造などにあたえる影響を解明した、というものがあります。理化学研究所がことし(2016年)2月に発表した成果です。

シルクの性質が水の影響を受けやすいことは前からいわれていました。その影響を定量的に分析したということです。その分析では、研究者は、結晶のつくりなどを見るためのX線分析や、引っぱり強度を調べるための引張試験などのほかに、熱分析もおこないました。

熱分析には、さらに細かくいくつかの方法があり、この研究では、熱重量分析と、示差操作熱量分析というふたつの方法が使われました。

まず、熱重量分析とは、調べたい物質の温度を変えることで、その物質の重量がどう変わるかを測ることで、その物質の性質などを知るという方法です。研究者たちは、ふくまれる水分のちがうシルク材料それぞれを加熱して、水が脱離する段階と、さらにシルク材料の熱分解が起きる段階で、シルク材料の質量の減りかたを調べたといいます。


熱重量分析器の例
写真作者:Luigi Chiesa

もうひとつの、示差走査熱量分析とは、分子のガラス転移、結晶化、融解などの現象を熱流変化として検出する分析法です。研究者たちは、ふくまれる水分のちがうシルク材料を、この方法で分析して、ガラス状態からゴム状態への変わりかたや、物質の結晶化のしかたについてを調べました。

熱分析をふくむこれらの分析により、水の分子が、柔軟性をあたえる可塑剤としてはたらき、シルクの分子の運動性を高めて、たんぱく質の基本構造をとりやすくさせることなどがわかったといいます。

物質の性質を調べるためには、「このときはこうなる」といった結果をいくつか揃えて、そのちがいなどから分析をするわけです。そのとき、熱をあたえて、「この温度のときはこうなる」と調べる方法は有効なわけです。

参考資料
日本分析機器工業会「熱分析の原理と応用」
http://www.jaima.or.jp/jp/basic/cta/
住化分析センター「熱分析/熱物性:熱重量分析(TG)」
https://www.scas.co.jp/principle/pdf/pa_24temp.pdf
理化学研究所 2016年2月4日発表「シルク材料での水の影響を解明」
http://www.riken.jp/pr/press/2016/20160204_1
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「うどん錦」のカレーうどん――カレーまみれのアネクドート(77)


名古屋には「なごやめし」があります。名古屋の独創的な食文化がもたらした数々の料理が、なごやめし。味噌かつ、手羽先、天むす、ひつまぶし、きしめん、あんかけスパゲティ、喫茶店のモーニングサービスと、あげれば切りがありません。

そんななごやめしのひとつと考えられている料理に、カレーうどんがあります。

カレーうどんの発祥地といえば東京とされます。その歴史が語られるとき、早稲田の三朝庵や、目黒の朝松庵などの店の名はよく出てくるもの。

そんな東京を差しおいて、カレーうどんがなごやめしのひとつとされるのには、やはり理由があるようです。

名古屋のカレーうどんがなごやめしのひとつである理由を教えてくれる店のひとつが、中区錦の繁華街にある「うどん錦」です。

店に入るとすぐ、店員から「カレーうどんですか」と聞かれます。壁の品書きには、「うどん」「月見うどん」「きつねうどん」「肉うどん」などの献立も書いてあるにもかかわらず。この店では、カレーうどんを食べるのが標準で、そのほかのうどんを食べるのは例外的であることが「カレーうどんですか」からうかがえます。

L字の木製のカウンターに置かれたのは、カレーうどん。東京などほかの地域でのカレーうどんの支配色は褐色ですが、この店のは色としてはより薄らいだ鬱金色をしています。しかし、カレー汁の表面が液体のはずなのに凹凸がかっている点や、顔を出した揚げの下半分がまるで見えないことなどから、カレー汁の濃厚さがうかがえます。

カレー汁にほぼ隠れている麺を箸ですくいだすと、麺の表面がカレー汁に覆われています。それをそのまま口に入れると、麺のこしとカレー汁のぽたぽた感とが同時に口のなかに広がっていきます。麺とカレーが絡まったまま分かれないことが、この店のカレーうどんの肝なのではないでしょうか。

各種情報によると、カレー汁は、むろあじからとった出汁に野菜を入れて濾したものを基本としているのではないかとのこと。鬱金色をしているからには、カレー粉には鬱金をふんだんに使っているのでしょう。また、濃厚にするために小麦粉も使われているようです。

量が決して多くありません。具も揚げとねぎぐらいで簡素です。しかし、1杯のうどんとして完成されています。

東京のカレーうどんに慣れしたしんできた人にとって、やはり明らかに「うどん錦」のカレーうどんは異なるもの。なごやめしのひとつにカレーうどんが入っている理由を、見て食べて理解することができます。

うどん錦の食べログ情報はこちらです。
http://tabelog.com/aichi/A2301/A230103/23000374/
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自然か人為かで死の扱われかたが異なるという考えも

写真作者:Groman123

災害は、自然災害と人為災害に分けることができるとされています。

自然災害とは、異常な自然現象によって起きる被害のこと。異常な自然現象とは、地震、津波、台風、噴火といったものです。いっぽう、人為災害とは、人間の引きおこした事故や、自然破壊、管渠汚染などにより起きる被害のこととされています。

このほか、災害の分けかたとして、特殊災害というものもいわれています。核(Nuclear)、生物(Biological)、化学(Chemical)による災害を指すとされていますが、これらの災害はほぼ人間の引きおこすものと考えられるので、人為災害にふくまれると考えてよいかもしれません。

災害により起きる被害の最たるものは、人が死ぬことでしょう。人の社会活動も経済活動も人が生きてこそのものであり、生を奪われることはなにごとにも代えがたいと考えられるからです。

死を被害の最たるものとすることは、多くの人が認めるところでしょう。では、災害による人の死は、のこされた人びとにとって、すべて平等に扱われるものなのでしょうか。

もちろん、自分の家族が災害で死ぬことと、自分の知らない人が災害で死ぬことでは、受けとめかたが大きく異なるのはもちろんのことです。では、死んだ人の身近さがおなじであるとした場合、災害による人の死は、のこされた人びとに平等に扱われるものなのでしょうか。

ここには、ふたつの考えかたがあります。

ひとつめの、おそらく多くの人がもっている考えかたは、災害による死は、たとえどんなものでも平等に扱われるべきものだ、というものです。「人が生きる価値はみな平等なのであり、災害により失われる価値も平等だ。だから、どんな死も平等に扱われるべきだ」というわけです。

しかし、災害による死についても、冒頭のとおり自然災害によるものと、人為災害によるものがあります。自然災害による死は、たとえば、津波にのみこまれて溺れて命を落とすことや、火山噴火で火砕流にのみこまれて火傷により命を落とすことなどです。
人為災害による死は、たとえば、原子力発電所の制御がきかなくなり放射線を大量に被爆して命を落とすことや、ほかの人が運転している乗りもので交通事故に遭い命を落とすことなどです。

自然災害によっても、人為災害によっても、人が死んだという事実があれば、そこでの死という単位にちがいはありません。

しかし、残された社会の人たちにとって、どちらのほうが「あの人は殺された」という意識が高くなるかといえば、多くの場合は人為災害のほうでしょう。「なにによって殺されたか」と問うた場合、「津波によって」や「火山噴火によって」という表現はしっくりきませんが、「会社によって」や「運転者によって」という表現はしっくりときます。

自然災害によって、ある日とつぜん人の命が奪われるのは理不尽なことです。しかし、人為災害によって、ある日とつぜん人の命が奪われるのは「だれによって」という、被害をあたえた人の姿がうかがえるため、自然災害よりも受けいれがたい。災害による人の死は、のこされた人びとに平等に扱われるものにはならない、という考えかたもできるわけです。
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熱で立体構造が崩れていき、豆腐、チーズ、ゆで卵に


豆乳からつくられる豆腐、牛乳からつくられるチーズ、生卵からつくられるゆで卵といったように、食べものには液のようになっているものが固まってできあがるものがあります。

これらの食べものがつくられるときかかわってくるのは、これらに含まれるたんぱく質、それに熱です。

たんぱく質は、熱を加えられると、性質を変えます。そして、性質が変わるともとに戻らなくなります。チーズは牛乳に戻りませんし、豆腐から豆乳も、ゆで卵から生卵もできません。

たんぱく質は立体的なつくりをとります。分子どうしが、水素の原子を仲介役にして結びつくからです。ところが、ここに熱が加えられると、この分子どうしの結びつきが断たれてしまい、立体的なつくりが崩れてしまいます。これは、「たんぱく質の立体構造の変性」とよばれます。

たんぱく質の立体構造が崩れてしまうと、分子の内部で折りたたまれていたアミノ酸が分子の表面にむきだしになります。このアミノ酸は水とはなじみにくく、近くのアミノ酸どうしが、かたっぱしから結ばれていきます。水の分子はそっちのけで、アミノ酸どうしが結ばれていく結果、その部分は固まっていくわけです。

たとえば、大豆にはたんぱく質が多くふくまれています。豆腐をつくるとき、大豆をすりつぶしてから、それを煮て豆乳にします。このとき、たんぱく質の分子どうしの結びつきは、崩れかけの状態になります。そこに、「にがり」ともよばれる、塩化マグネシウムなどの物質が入った凝固剤を加えると、固まりやすくなっていきます。

豆腐、チーズ、ゆで卵などは人が「固まらせよう」と意識してつくるものですが、ほかにも、やわらかかったものが固くなってから口に運ばれる食べものはあります。肉はその典型例で、たとえば焼肉屋で肉を焼くと、生のときよりも固くなり、またすこし縮みます。これも、たんぱく質の立体構造が熱のはたらきによって崩れることで、水となじまなくなった結果として起きるものです。

参考資料
東海コープ事業連合「食品が固まる不思議」
http://www.tcoop.or.jp/anzen/documents/2010026_p45_ぎふあいち.indd.pdf
東工大Science Techno「科学の目で見た伝統食品 豆腐の科学」
http://www.t-scitech.net/miraikan/shokuhin/kouzou2.html
フカベエッグ「ゆでたまごについて」
http://www.fukabe-egg.jp/qa/qa02.html
食肉品質研究会「焼くと肉が縮むのはなぜ?」
http://www.agr.okayama-u.ac.jp/amqs/josiki/18-9411.html
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岩石に力をかけつづけるとかたちがどこまでも変わる


地球の陸は、地面から30キロメートルくらいまでの深さまで、地殻とよばれる層で覆われています。この地殻はなにでできているかというと、おもに岩石でできています。岩石とは、かんたんにいうと硬い岩のことです。

しかし、硬いからといって、岩石のかたちがまったく変わらないわけではありません。

ためしに、海辺や岩山にある大きな岩の表面のうち、ほんの干しぶどうぐらい面積に1キログラムの力を加えるとします…………。

なにも起きません。

しかし実際は、なにも起きないようにしか感じられないだけで、その岩はほんのわずかながらかたちを変えてへこんでいるといいます。その割合は、もとの状態の10万分の1から100万分の1ほどといいます。

岩石のかたちは、このくらいの弱い力を受けたくらいなら、すぐ元に戻ります。このように、力がかかるとかたちが変わるものの、力がかからなくなると元に戻る性質を、弾性といいます。

では、岩石のかたちは、どんな力をかけられても、いつか力がかからなくなればかならず元に戻るのかというとそうではありません。力をずっとかけられつづけて、元に戻る限界の時間を超えると、岩石のかたちはどこまでも変わっていってしまいます。

たとえば、飴玉のような固形に思えるものをコップなどのなかに入れておいて、何日も忘れていると、飴玉が潰れていることがあります。これは、飴玉に重力がかかりつづけると、かたちがどこまでも変わっていってしまうためと説明できます。

飴玉とおなじように、岩石もずっと力をかけられていると、かたちが戻らず変わっていくばかりになります。たとえば、赤道あたりの岩石は、地球の自転による遠心力でふくらみ、地球全体としては赤道のまわりがふくらんだ楕円体になっていますが、これも赤道ちかくの岩石にずっと遠心力がかかっているからということです。

このように、物体に力をかけつづけるとどこまでもかたちを変えていく性質を、粘性といいます。

つまり岩石に力をかければへこむし、力をかけるのをやめれば元のかたちにもどるし、力をかけつづければかたちが変わりつづけることになります。

人が想像する以上に、岩石にはやわらかな性質があるわけです。ちなみに、震源地で起きた揺れが岩石を伝わって遠くまで届くのも、岩石に弾性があるためです。

参考資料
山岡耕春『南海トラフ地震』
http://www.amazon.co.jp/dp/4004315875
東京大学地震研究所 大久保研究室「粘弾性 流れる固体」
http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/people/okubo/ResearchHP/HP16.Viscoelasticity.pdf
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昭和2年のカルピス広告、文字のみのデザインで勝負
カルピスは1919(大正8)年7月、日本初の乳酸菌飲料として生まれました。そして同年12月には早くも新聞に広告を出稿しました。

その後、1923(大正12)年には、カルピスの創業者である三島海雲(1878-1974)の発案により、欧州の美術家に広告用ポスターの懸賞を募集しました。

そこで3等に入った、オットー・デュンスケルスビューラーの、黒人がカルピスをストローで飲んでいるキャラクターが、広告用途として最適なものとして選ばれました。以降、このキャラクターは1924年2月に新聞広告で初掲載され、1989年まで広告に使われました。

ほかにも、カルピスのむかしの広告といえば、「カルピスの一杯に初戀の味がある」というコピーとともに瓶に翼の生えたようなデザインをあしらったものや、童画家の武井武雄(1894-1983)による瓶を背負った兵隊が行進するデザインのもの、また、カルピスを飲みほした金太郎が熊をやっつけているデザインのものなど、どれもなにかと斬新です。

これらの広告はいずでも絵と文字の要素を組みあわせたもの。いっぽう、1926(昭和2)年4月には、さらに斬新といえるカルピスの広告が見られます。

この年の4月8日付の朝日新聞東京版夕刊の2面には、黒いバックに「カルピス」の文字をいくつも置いただけの広告が見られます。



しかもよく見ると、大きめの「カルピス」それぞれの文字の、書きはじめと書きおわりの縁がぎざぎざになっているといった凝りようです。

文字のみで広告のデザインをするという手法は、いまもよくあるもの。その場合、文字そのものをデザインの対象にして、形などの工夫をする手法がとられます。そうしたデザインが、すでに昭和の初期にはおこなわれていたのです。まだ、「デザイン」が「図案」とよばれていたころの時代です。

参考資料
カルピス「カルピスギャラリー」
http://www.calpis.co.jp/museum/gallery.html
カルピス「カルピスの歴史」
http://www.calpis.info/story/history/

ちなみに、カルピスの広告の上にあるのは、キユーピーのマヨネーズの広告。初代キューピーも見られます。これはこれで味があるものです。
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「おいしさ」で重要視されるのはテクスチャー


2個のりんごを皮むきして食べるとします。見た目は、どちらもおなじです。

食べてみると、1個目のほうはしゃきしゃきとして、噛んでいるそばから蜜の液がしたたります。ところが2個目のほうは1個目のようなしゃきしゃき感はまるでなく、ぶわぶわとしています。こうした歯ごたえのないりんごの状態を「ふけている」とか「ぼけている」とかよぶこともあります。

「どちらのほうがおいしかったか」と聞かれれば、ほとんどの人は「1個目のほう」と答えることでしょう。仮に味の成分はまったくおなじだとしてもです。

食べもののおいしさを決める要素として、意外と大きいのは、こうした感触にかかわるものとされています。そして、口あたり、舌ざわり、歯ごたえといった食べものにかかわる感触は「テクスチャー」とよばれています。

かつて日本では、食べものを食べるときの感触のことを指して「テクスチャー」とはあまりよばれていませんでしたが、2000年以降からこのことばがよく使われるようになりました。定義によっては、見た目での食べものの性質もテクスチャーのふくめる場合もあるようです。

東京都内の大学で調理学を担当する教師などに、16種類の料理について「甘味」「酸味」「苦味」「塩から味」「うま味」「渋味」「香り」「形」「色」「つや」「硬軟」「粘り」「滑らかさ」「もろさ」「温度」のどれにおいしさの重点を置くか、ひとつだけを選んでもらうという意識調査の結果があります。これら要素のうちの「硬軟」「粘り」「滑らかさ」「もろさ」といった食感的要素は「テクスチャー」に括ることができます。

意識調査の結果は、テクスチャーがいかに重要視されているがわかるものとなりました。

たとえば、「だんご」については、味が18.4パーセント、外観が22.9パーセントだったのに対して、テクスチャーは55.4パーセントを占めました。

また、「卵豆腐」についても、味27.9パーセント、外観16.8パーセントなどを抑えて、テクスチャーが49.4パーセントを占めました。

そのほか、テクスチャーを選んだ率がほかの要素を抑えてもっとも高かった食品として、「クッキー」「粉ふきいも」「白飯」「水ようかん」「練りようかん」があがりました。これらはいずれも40パーセント台か30パーセント台です。

逆にテクスチャーを選んだ率が低かった食品としては、「オレンジジュース」の0.3パーセント、「清酒」の1.2パーセント、「なすぬかみそ漬け」の9.9パーセントなどでした。さらっと飲んでしまうような食品ではあまりテクスチャーは重要視されていないようです。

この研究成果が報告されたのは1977年とだいぶ昔ですが、いまも食についてのさまざまな論文で引用されています。

いくら味がよいものであったとしても、食べるときに歯や舌や口全体での感じかたがよくなければ、「おいしい」とはいえなくなる。大半の食べものは、ほんとうはそういうものなのかもしれません。

参考資料
合谷祥一「テクスチャーとおいしさ」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kagakutoseibutsu1962/45/9/45_9_644/_pdf
松元文子「21世紀の食事論」
http://ci.nii.ac.jp/els/110001170874.pdf?id=ART0001429554&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1457326259&cp=
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付箋を最後まで使いきるのはむずかしい


いろいろなものが数えられ、ビッグデータの一部になっていくなかで、ここまで実現できるようになるかわかりませんが、「付箋を最後まで使いきる」率は50パーセントいくかいかないかぐらいなのではないでしょうか。

「付箋を最後まで使いきる」とは、付箋のいちばん上の剥離紙から剥がしはじめ、台紙の1枚上の剥離紙までを順番に使う、という意味です。

「そんなのあたりまえではないか」という声も聞こえてきそうですが、これを阻む、さまざまな事象が生じます。

まず、途中で付箋の束が“割れてしまう”ことがあります。大切と思うところに付箋を貼りながら本を読んでいるとき、左手で本を持ち、右手で無意識に付箋をいじっているようなことがあります。いざ付箋を剥がそうとするとき指に力を入れすぎて、たとえば70枚ある付箋を34枚と36枚に割ってしまうのです。

ほかにも、かばんの収納小袋や筆入れに入れておいた付箋がなにかの表紙で割れたりすることもよくあります。

慌てて割れた付箋どうしをくっつけようと、指でぐーっと押さえつけるという人もいるでしょう。しかし、経験的に、割れてしまった付箋の粘着力は落ち、その後やはり割れてしまいます。

これとにた事象として、誤って台紙を剥がしてしまうという失敗も起きえます。通常、剥離紙の色と台紙の色はちがいますが、それでもべつのことに夢中になりながら付箋を剥がそうとすると、台紙のほうを剥がしてしまうことがあります。台紙を失った付箋は、いちばん下の剥離紙の粘着部分に、ほこりなどがついていき使いものになりません。よって、貼って使うという意味では、「付箋を最後まで使いきる」ことはできなくなります。

シャツの胸ポケットや、パンツの腰ポケットに付箋を入れたまま洗濯をしてしまうという事象も起きえます。この場合たいてい気づくのは、洗濯物を干すときか、乾かしてたたんでいるときです。付箋はふにゃふにゃに。ただし、洗濯のしかたによっては付箋の粘着力は残っていて、使いつづけることができる場合もあります。

こうした事象とは異なるいまひとつの問題として、付箋がどこかに行ってしまうという事象もよくあることです。しおりがわりに本に挟んでいた付箋が、本から外れてしまったみたいで行方不明に。机に置いていたはずの付箋が見あたらなくなったということも。一説には、付箋は「死期を悟るとふっといなくなってしまう習性がある」という話もありますが、科学的根拠は怪しいところです。

本の大切なところに付箋を貼っている人は、付箋の貼られた本を知人に見られて「へぇ、3色ボールペンみたいに、色分けをしているのね。すごいね」と言われたそうです。しかし、付箋を貼る人は「いや、ただ、そのときに自分がもっていた付箋を貼っていったらこうなっただけ」と答えたということです。

付箋を最後まで使いきることがむずかしいということが、なかなか話題にならないのは、最後まで使いきらないとしても、ほぼ問題にはならないからにまちがいありません。
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「大きいです」「かわいそう」日本語にも欠陥

写真作者:Shravan samurai

人びとが日常会話などで使っている言語は、人が生みだしたものという点では人工的ですが、人の進化のなかでできあがっていったという点では自然的です。

日本語についても、日本の人びとが意識しないで使っているなかで、いまのような使われかたが自然とできあがっていきました。

しかし、自然とできあがっていったからこそ、日本語にも「こう表現することができない」とか、「こう表現するとべつの意味に捉えられてしまう」といった欠陥がいくつかあります。つぎのようなものです。

「です・ます調」だからといって、形容詞に「です」をつけるとちょっと違和感を抱かれます。たとえば「その神社の菩提樹はとても大きいです」といった表現が地の文であると、読み手はやや違和感をもちます。「です」の過去形として「大きいでした」とは表現しないことからも、この違和感はわかります。「この神社にはとても大きな菩提樹があります」などと書きかえを余儀なくされます。

「すごい」を「すごそう」とか、「明るい」を「明るそう」と言うのとおなじ感覚で「かわいい」を「かわいそう」と言ってしまうと、まるでべつの意味をあたえてしまいます。日本人でも「やばい、ちょーかわいそう!」などとつい言ってしまうことも。かわりに「かわいらしい」などを使うことになりますが、ほんとうに伝えたいことと微妙にずれています。おなじような欠陥として「偉い」を「偉そう」と言うと、「横柄」といった意味がふくまれてしまうという例もあります。

「がんばってください」とにた意味のほかの表現が見つかりません。「がんばって」は、相手に対する締めくくりの表現としてよく使われますが、ときに相手に「がんばってほしくない」ときもあるし、「がんばって」の紋切り型を避けたいときもあるもの。かわりに「うまくいきますように」とか「成功を祈っています」などを使うことになりますが、「がんばってください」ほど直接的なメッセージではありません。

「誰々に代わる」という場合、「誰々」は代わる前の人なのか、変わった後の人なのかがあいまいです。前後の文から察するしかありません。

「適当」の意味が、「いいかげん」の場合もあれば、「ふさわしい」の場合もあります。その「いいかげん」の意味も「でたらめ」の場合もあれば、「よいかげん」の場合もあります。

「人気」が「にんき」として使われることもあれば、「ひとけ」として使われることもあります。これも前後の文から判断するしかありません。「大人気」が「だいにんき」と「おとなげ」の両方で使われるというのも同様です。

「まえ」が「向こう」という語感で使われることもあれば、「手前」という語感で使われることもあります。

日本語にも、このようなさまざまな欠陥があります。これらの欠陥はいつかは、新たな表現が出まわることで問題解決となるのかもしれません。しかし、そうすぐに新たな表現が出てくるわけでもありませんから、その都度、説明を加えるなど補足するのが適当な対処法となります。

参考資料
教育出版「『美しいです』『大きいです』は正しい言い方か」
https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/view.rbz?nd=1750&ik=1&pnp=101&pnp=113&pnp=566&pnp=1750&cd=17
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「締めきりぎりぎり」を肯定してうまくいっている人も

たいていの仕事には「締めきり」があるものです。そして、すくなからぬ人が、締めきりが近づいてきて「もうやらなければ」と感じるほどのぎりぎりまで、その仕事をやらないようです。ほかの仕事が積みかさなっていて、どうしてもその仕事を始めるが、締めきりのぎりぎりになるということもあるでしょうが、さほど忙しくなくても、お尻に火がつくまでやらないでいるという人もたしかにいます。

一般的には、「ぎりぎりに行動するパターンから抜けだそう」といわれています。その理由は、ぎりぎりにものごとをおこなうことの動機は怖れをもとにするもののため、くりかえしていると自己嫌悪感が強くなっていくからというものです。

いっぽうで、締めきりぎりぎりまで仕事をやらないという心理について、米国コロンビア大学のアンジェラ・シン・チュン・チューと、カナダのマクギル大学のジン・ナム・チョイが2005年に“再考”をしています。

「先のばしの再考 「積極的」先のばしの態度や行動への好影響」(Rethinking Procrastination: Positive Effects of “Active” Procrastination Behavior on Attitudes and Performance)と題する論文によると、ふたりはカナダの大学に通う学部生230人に「大学生の時間の使いかたの調査」という題の質問に答えてもらいました。

その結果、ものごとをぎりぎりまでやらない人のすべてが、自分に害をあたえるような先のばしの行動をとっているわけではないということがわかったといいます。

では、そうでない人はどういう人かというと、ふたりは「積極的先ばし者(Positive Procrastinator)」とよんでいます。積極的先のばし者は、「重圧のもとで作業をすることを好み、ぎりぎりまで仕事をしないことをきちんと考えたうえで決めている」というのです。そして、積極的先のばし者は、目的にかなった時間の使いかたや、自己効力感、そして学業などの成績という点で、消極的な先のばし者よりも、先のばしをしない者に近かったということです。

つまり、ぎりぎりまでやない人のなかにも、それを肯定的に考えて、うまくやっている人もいるというわけです。

一説では、締めきりのぎりぎりまでやらずに過ごして、お尻に火がついたらやって、締めきりまでに間にあわせるという体験には、過集中からの脳内麻薬の放出や、成功体験への報酬がともなうため、依存性があるともいいます。

結局のところ、そうしたぎりぎりの状態に追いこまれている自分を、自分自身で認識し、制御できているかどうかが、積極的先のばし者と消極的先のばし者の分かれめになるのでしょう。

ただし、ぎりぎりまでやらずに、締めきりを過ぎてしまったときは辛い経験をともないますから、締めきりに間にあわせることが前提になるでしょう。それに、締めきりに間にあわないことは約束している人に影響をあたえもします。

参考資料
Angela Hsin Chun Chu,Jin Nam Choi “Rethinking Procrastination: Positive Effects of “Active” Procrastination Behavior on Attitudes and Performance”
http://www.motivationalmagic.com/library/ebooks/motivation/motivation%20-%20An%20article%20on%20procrastination.pdf
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“手前”を下に、“奥”を上に描く――立体視への挑戦(3)
人は平面で立体を伝えようとしてきた――立体視への挑戦(1)
手前の馬と奥の馬を重ねて示す――立体視への挑戦(2)

2頭の馬を重ねて描くことで“手前と奥”という概念を図示する。これが、人類の立体視への挑戦のはじまりだったようです。

画法はあまり詳らかに解きあかされてはいませんが、これとにた方法で“手前と奥”を表現する方法を人類は紀元前に発明していたのは確実です。その方法のひとつは、いまは「上下遠近法」とよばれるものです。英語では“vertical perspective”とよばれます。

「遠近法」とは、遠くのものと近くのものを目で見たときとおなじような距離感を表現できるように描く方法のことです。一般的に、遠近法といえば、遠くのものを小さく、近くのものを大きく見せる表現がよく知られています。いっぽう、上下遠近法では、遠くにあるものを絵の上に、近くにあるものを絵の下に描きます。


画像掲載者:Internet Archive Book Images

たとえば、この絵では、大きく上段の要素と下段の要素に分けて見ることができます。このうち、絵を描いている人、それとともに絵を見ている人にとって、“手前”になるのが下段の要素であり、“奥”になるのが上段の要素、ということになります。上下遠近法でのこうした描き方は、古代エジプトの絵などでよく見られるものです。

いまを生きる人も、「この絵が奥ゆきを表現しているものとしたら、“手前”は上段と下段のどちらになるか」と聞かれれば、多くの人は感覚的に「下段」と答えるのではないでしょうか。それは、当たりまえの話ですが、人の目の位置が地面より高いところにある、ということと関係していそうです。

人の目の位置は、立っているときでは地上から1〜2メートルほどの高さにあります。座っているときも50センチメートルから1メートルほどの高さにありますし、寝ながら顔の肘をついているようなときでも目の位置は地上(あるいはベッド)から10〜20センチメートルぐらいの高さになります。

つまり、人は、ほぼすべての場面で地面を、見上げるのでなく、見下ろしていることになります。例外的に地面を見上げるということがあれば、それは、透明な板でできた床という地面を地下から見るといったときや、逆立ちをしているときのように、ごくまれなことです。

ほぼすべての場合において、人は地面を見下ろすことになるため、手前のものは視界のなかでは下のほうに位置することになり、奥のものは上のほうに位置することになります。

この原則があることから、上下遠近法では、下に描かれたものが近くにあるものと見え、上に描かれたものは奥にあるものと見えて、逆に感じることはないということになるのでしょう。

人が“手前と奥”の位置関係を表現しようとする前の絵は、精神的なものだったようです。そのため、表現者にとって大切なものは絵のなかでは上のほうに描かれたといいます。いまも「上位者、下位者」などというように、人は、大切な存在を“上”に位置づけます。その感覚を昔の人ももっていて、絵の表現としても大切なものを上のほうに描いていたのでしょう、絵で奥ゆきを示そうと考えるまでは。

絵を描く人にとって、大切な人は遠くでなく近くにいるはずです。その大切な人を描くには、“手前と奥”を気にせずに描いていたときの上下関係を逆転させなければなりません。上下遠近法の誕生には、絵による表現法のひとつの大きな逆転現象を見いだすことができます。つづく。

参考資料
桶田洋明・波平友香・山元梨香「絵画と遠近法I 東西の比較から絵画教育の可能性をさぐる」
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/12061/1/AN10374875_v20_p59-68.pdf
wikipedia「Perspective(graphical)」
https://en.wikipedia.org/wiki/Perspective_(graphical)
美術部「上下遠近法」
http://pw6.jp/index/jyougeenkinhou/
Horst Woldemar Janson・Anthony F. Janson “History of Art: The Western Tradition”
https://books.google.co.jp/books/about/History_of_Art.html?id=MMYHuvhWBH4C&redir_esc=y
| - | 14:32 | comments(0) | trackbacks(0)
春、暦では2月4日から、気象庁では3月1日から

沈丁花(じんちょうげ)

日本には春夏秋冬の季節があります。3月にも入ると、多くの人は「もうすぐ春」と思うことでしょう。

しかし、暦のうえでは、春はかなり前に始まっています。2016年の「立春」は、およそ1か月前の2月4日でした。しかし、2月の上旬といえば、まだ寒さもあるため、「春は名のみの風の寒さや」などと歌われます。なお、暦での春は「立夏」の1日前までになるので、2016年の春は5月4日までとなります。

天気予報では、春夏秋冬をどのように定義しているのでしょう。気象庁には「時に関する用語」があって、そのなかの「季節を表わす用語」では、つぎのように定めています。

「春 3月から5月までの期間」
「夏 6月から8月までの期間」
「秋 9月から11月までの期間」
「冬 12月から2月までの期間」

つまり、天気予報などで使われている「春」も、またほかの季節も、暦とはおよそ1か月弱ずれていることになります。

天気予報を伝える報道機関でも、たとえばNHKは「原則として気象庁の区分に合わせています」とのこと。気象庁の季節の定義と、それを伝える放送局の季節の定義がずれていたらややこしいので、原則は気象庁の区分どおりにしているのでしょう。

ただし、日本列島は東西に長く、地域によって季節の移ろいかたもちがってくるため、「気温は氷点下何度」「桜が開花」「紅葉真っ盛り」などと、各地のいまのようすがわかることばを添えて、「地域の季節感を出したい」としています。

人びとの季節感を決める要因は、おそらく「暖かくなった」「暑くなった」「涼しくなった」「寒くなった」という気温の感覚によるところが大きいでしょう。すると、気温がじょじょに上がってくる3月を「春のはじまり」とするのは、人の肌には合っているといえます。

となると、やはり“ずれている”のは暦のほうになりそうです。「立春」などが決められている「二十四節気」は、およそ2600年前の中国の黄河地方の気候に基づいてつくられたものとされています。たしかに、蘭州など、中国の黄河流域の都市の平均気温を見ると、東京の日本の都市より1か月ほど、早く暖かくなったり涼しくなったりしはじめるようです。

“暦主義”の立場をとるは、人びとが「3月も初旬かぁ、春はすぐそこだな」と話しているのを聞くと、「春はもうすでに始まっている!」と指摘したくなるのかもしれませんが、会話には柔軟な対応というものも大切になります。

参考資料
気象庁「時に関する用語」
http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/toki.html
NHK放送文化研究所「放送での四季(春夏秋冬)の区分は?」
https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/gimon/194.html
日本文化いろは事典「二十四節気」
http://iroha-japan.net/iroha/A04_24sekki/
旅行のとも ZenTech「蘭州 気温」
http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/infomation/kion/china_lanzhou.htm
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