科学技術のアネクドート

うるう年でも「2月から3月」は大の月の93.5パーセントしかない


このブログでは、毎年2月の末日に、おなじような主題の記事を載せています。しかし、何度も伝えるべき話であるため、2016年の2月末もこの主題となります。

暦のなかで、2月はほかの11か月にくらべてとりわけ日数の短い月です。ことし2016年はうるう年のため、これまでの3年にくらべたら1日長いですが、それでも29日までしかありません。

カレンダーなどを見て「2月って短いなぁ」と感じる人はいることでしょう。しかし、そう感じるのは、“2月”のカレンダーを見ているときではないでしょうか。

たしかに、1か月が28日または29日しかないのは2月ですので、2月のカレンダーを見てそう感じるのはそのとおりです。

しかし、この世の中では、2月の短さが影響をおよぼすのは、むしろ3月のほうです。なぜなら、世の中の多くの仕事は、1か月の周期を基本にしているからです。

たとえば、毎月20日に、出版社に原稿を提出しているもの書きがいるとします。このもの書きが、2月20日の原稿提出日から、つぎの3月20日までに使える日数は28日。ことしのようにうるう年では29日となります。

いっぽう、1月20日から2月20日までの1か月はどうだったかというと、1月は「大の月」で31日まであるので31日分を使えることになります。また、3月20日から4月20日までの1か月はどうなるかというと、3月も大の月で31日まであるので31日分を使えることになります。

つまり、多くの場合は原稿の提出日から、つぎの月のしめきりまで31日間あるところが、2月20日から3月20日までにかぎっては28日間、またはうるう年では29日間しかないわけです。

31日分に対する28日分の長さは90.3パーセントで、9.7%も短いことになります。また、ことしのうるう年のように29日分の長さは93.5パーセントで、6.5パーセント短いことになります。

ふだん31日分のところを29日分で仕事するというのは、1日つまり24時間での計算にするとおよそ94分も短くものごとをこなさなければならなことになります。

しめきりや提出の日が毎月1日など初旬でしたら、2月の短さの影響は、ほぼ2月のみで済むことになります。しかし、しめきりや提出の日が月の中旬や下旬となると、2月の短さは3月に影響してくるわけです。

しかし、28日分でも29日分でも、31日分でも、社会的に1か月分は1か月分です。「3月提出の原稿は、ふだんより作業日数が6.5パーセント短いので、内容の質を若干ですが落とさせてください」という理屈は、まずもって通用しません。
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42.195キロのなかに栄枯盛衰

写真作者:nachans

きょう(2016年)2月28日(日)、第10回東京マラソンが行われています。日本のトップレベルの選手たちにとっては、リオデジャネイロ五輪出場権をかけた選考試合となりました。

優勝したのはエチオピアのフェイサ・リレサ選手。日本人でトップになったのはヤクルトの高宮祐樹選手で男子総合8位でした。

今大会にかぎったことではありませんが、マラソンでは選手たちの“栄枯盛衰”の人間模様を見ることができます。

大会が始まる前から、旭化成の村山謙太選手は「勝負していけばタイムはついてくる。リオ五輪の代表選考会でもあるので日本選手トップを狙いたい」「(2時間)6分、5分台が出てもおかしくない。それだけの練習をしてきた」と述べていました。

実際、レースでは、途中までほかの日本人選手を引きはなして、外国人招待選手の第一集団のなかで日本人ただ一人加わり、期待を抱かせました。しかし22キロメートルあたりで失速し、最終順位は30位。それでも、海外の強豪とともに先頭集団で走り、行けるところまで行くという姿勢に共感を覚えた人も多いのではないでしょうか。

その村山選手を35キロメートルすぎで抜いたのが、東洋大学4年生の服部勇馬選手でした。途中まで第二集団でたんたんと走っていたなかで、1キロメートル3分を切る速さで日本人1位に踊りでると、テレビ中継では沿道の人にガッツポーズを見せるなどしていました。

しかし、村山選手も40キロメートルあたりで失速します。走りが苦しくなり、ゴールするまでに、ライバルノ青山学院大学の2選手をふくむ日本人3人に追いぬかれてしまいます。服部選手はレース後のインタビューに「残り7kmは力不足と弱さが出てしまったと思います」と話していました。

村山選手も服部選手も、フルマラソンは初。レース途中で自分のからだが言うことを効かなくなるという状況に陥ったのかもしれません。もちろん、フルマラソンには、途中で「足が止まる」事態に陥ることがありうるということも折りこみずみで練習をしてきたことでしょう。それでも、自分のからだが言うことを効かなくなることはあるのです。

男子総合1位のリレサ選手は初来日で優勝。初めての東京のコースなどもろともしませんでした。また、日本人1位の高宮選手も、自己最高記録を大幅に更新する結果でした。

さらに強い印象をあたえたのは、学生選手の活躍でした。たとえば、日本人で2位になった青山学院大学の下田裕太選手は19歳。10歳代でのマラソンの日本記録を大幅に更新しました。全体的な結果は、ほかのレースにくらべて秀でたものはありませんでしたが、マラソンのレースを若い力が引っぱるという、新たな潮流を感じさせる東京マラソンでした。

参考資料
日本テレビ「東京マラソン2016 リオ五輪代表選考レース」
朝日新聞 2016年2月8日付「『日本選手トップを狙う』村山謙、東京マラソンへ意欲」
http://digital.asahi.com/articles/ASJ285GDTJ28TIPE02S.html
日刊スポーツ「初マラソン村山謙太『爆発的な走り』で日本記録宣言」
http://www.nikkansports.com/sports/athletics/news/1609399.htm
| - | 20:19 | comments(0) | trackbacks(0)
人工知能の「危険はとてつもなく低い」は意味がちがう

写真作者:Skeletalmess

グーグル傘下の人工知能開発企業「ディープマインド」が開発した囲碁のコンピュータソフト「アルファ碁」が、人間のプロの棋士に囲碁で勝ちました。これまでチェスや将棋で、人工知能が人間に勝つことはありましたが、囲碁でプロ棋士に勝ったのは世界初ということです。

「アルファ碁」は、囲碁に特化した人工知能です。ゲームなどなにかに特化した人工知能が人に勝つことはめずらしくなくなりました。そうした、実績を重ねていったり、あるいは人間とおなじような総合力をもった人工知能の開発が進んで行ったりすると、将来、人工知能が人類を支配しようとしたり、人類に終焉をもたらそうとしたりするのではないか、と心配する人もいます。

よく知られているのは、英国の理論物理学者スティーブン・ホーキング氏の「完全な人工知能の開発は人類の終わりをもたらす可能性がある」という指摘です。また、米国の実業家イーロン・マスク氏は「人工知能の発達により、人間を殺し始めることを合理的だと自ら判断するロボットが生まれる危険がある」と述べています。

いっぽう、人工知能の研究開発者や専門家たち自身はというと、こうした懸念にはおしなべて懐疑的です。

取材や講演などで、人工知能の研究開発に携わる人びとは、よくつぎのようなことを述べます。

「人工知能そのものが人間を危険にさらすなどという可能性は、とてつもなく低いものだと私は思っています」

「人工知能が人を凌駕するようになるといったことは、いまはとうてい考えられません」

こうしたことを述べる本人たちが気づいているのかどうかはわかりませんが、これらの発言は裏がえしにすれば、「人工知能が人間を危険にさらす可能性がまったくないわけではない」ということになります。

危険が「完全にない」ことと「ほとんどない」ことにはちがいがあります。そのちがいとは、危険の可能性が「ない」ことと「ある」ことのちがいです。

「そうはいっても、危険が『ない』のも『ほとんどない』のも、おおむね『ない』と言っていることではないか」と考える人もいるでしょう。たしかに、リスクの専門家などは、あるものごとがもっているリスクを完全に否定することはしづらいので「ほとんどない」といった表現をよくします。事実上「ない」に等しいものであるとしても。

しかし、話がこと人工知能についてとなると、「ほとんどない」の意味を「ない」に等しいとしてしまうことにはためらいがあります。なぜなら、人工知能を実現させているコンピュータの性能は、指数関数的に成長しているからです。

人工知能が人類の危機をもたらす可能性は「とてつもなく低い」と人間が考えていても、その裏返しである「ほんのわずかにある」という可能性を実現化してしまうのは、指数関数的に成長するコンピュータの性能をもってすれば、かんたんなことにはならないのでしょうか。

1日に2倍の勢いで増えていくものがあるとすると、それが半分だった時点というのはわずか1日前のことです。4分の1だった時点というのはわずか2日前のことになります。

人工知能が人間を危険にさらす可能性が、ごくわずかにでもあるとして、その可能性の増えかたが、コンピュータの能力の指数関数的な成長と相関関係をもつのであれば、「ほんのわずかにある」可能性は、あっというまに「大きな可能性」になってしまうのかもしれません。

参考資料
産経ニュース 2016年1月28日付「人工知能、囲碁プロ負かす グーグル開発のソフト」
http://www.sankei.com/life/news/160128/lif1601280003-n1.html
ハフィントンポスト 2014年12月4日付「ホーキング博士『人工知能の進化は人類の終焉を意味する』」
http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/03/stephen-hawking-ai-spell-the-end-_n_6266236.html
Inc 2014年11月17日付「Elon Musk Thinks Robots Could Start Killing Us in 5 Years」
http://www.inc.com/business-insider/elon-musk-robots-could-kill-us-all.html
レイ・カーツワイル『ポストヒューマン誕生』
http://www.amazon.co.jp/dp/4140811676
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コヒーシンが染色体をつなぎとめる
細胞の分裂では、細胞がそっくりな細胞をつくって分裂する方法と、そうでないやりかたで分裂する方法があります。そっくりな細胞をつくって分裂するほうは「体細胞分裂」といい、そうでないほうは「減数分裂」といいます。

減数分裂とは、生殖細胞がつくられるときに起きる細胞の分裂のこと。卵と精子が受精した直後などに起きます。細胞のなかにある染色体の数が半減するため、減数分裂とよばれます。もちろん、細胞分裂をするため、半減した染色体は最終的には半減する前とおなじ数に戻るわけですが。

体細胞分裂にしても減数分裂にしても、1個の細胞のなかにあった染色体が、細胞の分裂にあたって、引きさかれていくわけです。しかし、時間を逆にたどると、引きさかれていく運命にある染色体は、もとは引きさかれずにつながっていたことになります。

そのつながっている状態をもたらす物質は、「コヒーシン」とよばれます。コヒーシンはたんぱく質の一種で、日本語では「染色体接着因子」といいます。1997年、英国出身でオーストラリアで研究をする遺伝学者キム・ナスミス(1952-)がその存在をつきとめました。ノーベル賞受賞級の研究成果ともいわれます。

細胞の分裂にともなう染色体の分裂が、ふさわしい段階で起きるようにする。そのような大切な役割をコヒーシンは担っているといえます。


SCC1とSMC1というたんぱく質からなるコヒーシンの構造
画像作者:Blastwizard

コヒーシンをめぐっては、その後も、生命のしくみにおいて重要な役割を果たしていることを裏づける研究成果が出ています。

2014年には、藤田保健衛生大学の研究チームが、女性の加齢とともに卵細胞内にあるコヒーシンの数が減り、不妊や流産、また染色体異常の子の出産につながるという論文を発表しました。

コヒーシンの数がすくないと、排卵をしたあと受精を受けておこなわれる減数分裂のとき、引きさかれるまえの染色体のつながりが失われ、染色体の正確な分裂ができなくなることがあるということです。これが、出産に影響をもたらすのではないかと考えられています。

生物の教科書や参考書からは、染色体は分裂するのがあたりまえのような印象も受けます。しかし、分裂が起きるときには、やはり分裂が起きるしくみがあるわけです。

参考資料
デジタル大辞泉「コヒーシン」
https://kotobank.jp/word/コヒーシン-686077
新語時事用語辞典「コヒーシン」
http://www.weblio.jp/content/コヒーシン
wikipedia「Kim Nasmyth」
https://en.wikipedia.org/wiki/Kim_Nasmyth
藤田保健衛生大学総合医科学研究所「高齢妊娠で起こる染色体数の変化の原因を解明」
http://www.fujita-hu.ac.jp/ICMS/sp/topics/29_5369fedfb7073/index.html
| - | 11:40 | comments(0) | trackbacks(0)
「だいたいこんな感じなんだ」と画像で把握
情報技術が進化するとともに、近ごろの人は文字情報もあいかわらずながら、画像や映像などの絵の情報もつぎつぎ手に入れるようになりました。

最近に始まった話ではありませんが、グーグルなどの検索サイトには「イメージ検索」があります。知りたいことばを検索欄に入れて、画像検索をすると、その
ことばが示す画像や、そのことばとかかわりの深い画像がずらっと示されるわけです。

「ことばの意味を知りたいときは、いままでは["何々とは"]などとことばを入れて検索していたけれど、最近はまず、どんなものかイメージをつかむため画像検索をするようになった」と、あるもの書きは言います。

あることばが画像としていくつも示されると、そのことばそのものの語感はぼんやりとしたものでも、「だいたいこんな感じなんだ」と視覚的にわかるわけです。

たとえば、「とっちゃん坊や」といういことばがあります。国語辞典の意味としては「一人前の大人でありながら子供っぽい一面のある人をいう語」とあります。

これをグーグルで画像検索してみると、どうでしょう。



そこには、数々の具体的な“顔”が示されます。

一番目に示されたのが、福井県鯖江市あたりの地域FM放送局で番組をもっている八木正幸さんの顔です。本人のブログで、髪を切り、ひげを伸ばした顔を「完全にとっちゃん坊や(笑)」と評している文もついています。

以下では、お笑い芸人の山崎邦正さんの顔、「TOCCHAN BOUYA」のロゴもあしらったTシャツのデザイン上の顔、日本銀行の元総裁の白川方明さんの顔、とつづいていきます。

なかには、北朝鮮の最高指導者である金正恩氏、「ミスター・ビーン」で知られる英国の俳優のローワン・アトキンソンさん、インドの指導者だったマハトマ・ガンジーといった、海外の人物の画像も見られます。

おそらく、グーグルの画像処理技術を使えば、「とっちゃん坊や」で画像検索された数々の画像のなかで、顔ではない画像をとりのぞいて、残った顔のかたちから、「とっちゃん坊や」の顔のだいたいの平均像といった顔もコンピュータでつくることはできるのでしょう。

そして、これからも画像検索の機能がつづいていけば、2010年代の「とっちゃん坊や」の平均像と、2050年代の「とっちゃん坊や」の平均像をくらべることができそうです。さらには2100年代、2150年代……と、時代ごとの「とっちゃん坊や」の顔の変遷を見ていくこともできるかもしれません。
| - | 17:15 | comments(0) | trackbacks(0)
X線の「軟」、ものを透過せず


X線は、電磁波のひとつ。太陽や照明の光のような可視光とよばれる電磁波とちがって、目で見ることはできません。しかし、X線のエネルギーは可視光のよりも強いため、可視光とは異なる性質をもっています。

たとえば、X線のエネルギーは強いため、ものを透過できるのは、電磁波とのちがいのひとつ。X線の波長、つまり波の山からつぎの山にかけての長さは0.0001ナノメートルから10ナノメートルほど(ナノは10億分の1の意味)。いっぽう、可視光の波長は380ナノメートル780ナノメートル。波長が短いほど、エネルギーは高いのです。

ものを透過する性質をもつことから、X線は人のからだの内部などを撮ることにも使われます。X線を使って撮った写真はレントゲン写真ともよばれ、人のからだの内部のほか、金属の材料の内部について知りたいときなどにも使われます。

しかし、すべてのX線がものを透過するわけではありません。X線のなかでも、波長の長い、つまりエネルギーがあまり高くないものは、たとえば人のからだの内部まで入っていきません。こうした、エネルギーが低くて透過性の弱いX線は「軟X線」とよばれています。一般的に0.1ナノメートルよりも長い波長のX線は、こうよばれています。軟X線は、たとえば空気の層にも吸収されるほどの透過力しかもっていません。

エネルギーが低くて透過性が弱いからといって、軟X線が役に立たないというわけではありません。

軟X線は、物質のなかにある電子との作用が強いという性質をもっています。通ろうとする相手の物質にひっかかりやすいといったらよいでしょうか。逆にこの性質を使って、物質の電子的な状態などを分析することができます。

また、半導体や、マイクロメートルほどの寸法のMEMS(Micro Electro Mechanical Systems)とよばれるごく小さな部品集積システムを加工すること、さらに、生きものの細胞を観察したり、たんぱく質のつくり解析したりするのにも軟X線は使われます。

なお、軟X線のなかでもとりわけエネルギーの低い、つまり波長の長いものを「超軟X線」とよんで区別することもあります。

参考資料
デジタル大辞泉「軟X線」
https://kotobank.jp/word/軟X線-590359
製造業技術用語集「軟X線」
http://www.weblio.jp/content/軟X線
原子力百科事典ATOMICA「外部被ばくの評価」
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=09-04-04-03
下條竜夫「軟X線分光」
http://www.spring8.or.jp/ext/ja/sp8summer_school/sp8ss2004/sp8ss2004doc/ouyou3.pdf
村松康司「軟X線分析」
http://www.eng.u-hyogo.ac.jp/msc/msc7/data/h19/sp8ss2007text.pdf
| - | 10:05 | comments(0) | trackbacks(0)
書評『資本主義の終焉と歴史の危機』
アマゾンのレビュー数は186件。「星5つ」が95件あるいっぽう、「星1つ」も19件。「称賛が起きれば酷評も」といった、ベストセラーに典型的といえる評価のされかたをしています。

『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫著 集英社新書 2014年 218ページ​


店でものを買う。そんなあたりまえのおこないは、材料を安く手に入れて商品にし、それを高く売るというしくみがあるからだ。利潤の追求を原動力として動く経済体制のことを「資本主義」という。ごく一部の国・地域を除けば、世界のほとんどの人が資本主義のことを意識することなく生活するくらい、資本主義は浸透している。

ところが、そんな資本主義が「終焉」を迎えつつあると、経済学者である著者は述べる。その理由は、「地球上のどこにもフロンティアが残されていないから」だという。

資本主義とは「過剰・飽満・過多」を内在するシステムであると著者は説く。つねに「この程度が相応だろう」というような度合いを超えた利潤を追いもとめなければ、資本主義経済は保たれないということだ。“足るを知る”ということばが美徳のように言われるのは、人びとは“足るを知らない”あるいは“足るを知っていても止められない”からなのだろう。

著者は、資本主義の終焉の現れを、国債などの金利率の低下に見いだす。「金利はすなわち、資本利潤率とほぼ同じだと言えるから」だ。この本が出版されたおよそ2年後の2016年に日本で起きた「マイナス金利」は、著者の立場からすれば「資本主義の終焉」を象徴するできごとになるのだろうか。

では、資本主義が終焉を迎えたあとは「何主義」になるのか。その点について著者は「どのような社会・経済システムが生まれるのかはまだわかりません」と述べるにとどめている。

いっぽうで、著者のいう「資本主義の終焉」が訪れているにもかかわらず、空間が「無限」にあると思いこんで成長をつづけようとする日本に対しては、「成長至上主義から脱却しないかぎり、日本の沈没は避けることはできない」と警鐘を鳴らす。

そこで、目指すべきとしているのが「定常状態」だ。定常状態とは「ゼロ成長」のことであり、単なる「買い替え」を基本とする経済状態のことだという。

日本以外の国が経済成長をひきつづき目指そうとするなかで、日本だけが定常状態を保つということ自体、資本主義経済に浸かってきた多くの日本人、とりわけ経営者たちは受けいれがたいだろう。

しかし、経済成長はいつまでもつづくとはかぎらない、という見かたをもつことに価値はあるかもしれない(人によってはないかもしれない)。この本を読んで、「グローバル化」や「マイナス金利」や「成長戦略」といったいまの経済で騒がれているものごとの意味が、すこしちがって感じられるようになる人もいるだろう。

『資本主義の終焉と歴史の危機』はこちらでどうぞ。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00MXLQIPU
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「棒に振る」は「価値あるものを棒手振りにする」の説が有力
スポーツの報道などでは、けがやけがの手術をしてそのシーズンの以降の試合で活躍できないことを「棒に振る」といいます。

「昨年5月末に右肘内側側副靱帯(じんたい)を損傷。2年連続の故障に泣かされ、シーズンの大半を棒に振った」

「松坂は、右肩故障で昨年を棒に振った自身の復活はもちろん、世代全員で再び球界の一時代を築くために立ち上がるつもりだ」

「昨季の俊輔はケガで出遅れて前半戦をほぼ棒に振った」

ふつう「棒」とは「それを振る」ために使うものです。「棒を振って」敵をやっつけようとしたり、「棒を振って」オーケストラの指揮をしたりします。

しかし、ことばからすると「棒に振る」場合があるわけです。なにかべつのものを棒に向けて振るのでしょうか。

「棒に振る」の辞書的な意味は「それまでの努力や成果を無にする。ふいにする」といったものです。

かつて、「棒手振り(ぼてふり)」という仕事がありました。天秤かごに魚や野菜などを入れて担いで人のいるところまで行き、それらを売るといった仕事です。


魚を棒に振って売りあるく人。「守貞漫稿」より

語源を記した情報には、「棒手振りにして売り払い全て無くなるの意味から」とあります。つまり、この場合、「魚や野菜などの価値あるものを棒手振りにする」といったことになります。

しかし、棒手振りで魚や野菜を売りはらってすべてがなくなるとしても、わずかでもその代金を得られたにちがいありません。そうでなければ、棒手振りという仕事はなかったことでしょう。

また、べつの語源を記した情報には、「家屋などを棒手振に掛けて売り払う意、つまり、『棒にぶら下げて振る』から」とあります。「住んでいた家などの価値の高いものを、安もの売りである棒手振りにする」といったことであれば、もともとは価値があったものを安く売ってしまうことになるので、「ほとんどをむだにする」といった意味になります。

その点、スポーツ紙などでの「シーズンの大半を棒に振った」といった表現は、程度としては合っていそうです。シーズンのすこしの期間は試合に出て、選手としての価値を発揮できたけれど、「ほとんどをむだにする」といった点では、むだの内容がだいたい合っているからです。

参考資料
日刊スポーツ 2016年2月17日付「阪神西岡2安打2打点 金本監督も悩ます二塁バトル」
http://www.nikkansports.com/baseball/news/1605601.html
報知新聞 2016年2月18日付「ソフトB 松坂『昭和55年会』再興へ 和田復帰がきっかけ『またやりたい』」
http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20160217-OHT1T50145.html
東スポWeb 2016年2月22日付「俊輔『U-23はOA枠不要のギラギラ集団』」
http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/soccer/503945/
故事ことわざ辞典「棒に振る」
http://kotowaza-allguide.com/ho/bounifuru.html
くろご式ことわざ辞典「ほい〜ほそ」
http://www.geocities.jp/tomomi965/ko-jien06/ha16.html
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「ルノアール新小岩店」の鶏唐揚げカレーセット――カレーまみれのアネクドート(76)


東京やその周辺で暮らす人にとっての「喫茶室」といえば「喫茶室ルノアール」。喫茶店なのでもちろんコーヒーもありますが、昆布茶や黒蜜宇治抹茶ミルクといった和風の飲みものもあります。

外まわりの会社員がたばこを吸って休憩していたり、コンサート帰りの主婦たちがよかったわねと振りかっていたり、もの書きと編集者がゆるく打ちあわせをしていたりと、「喫茶室」特有の雰囲気が漂います。

そんな銀座ルノアールのなかでも、異彩を放つのが新小岩駅北口にある、「ルノアール新小岩店」。

雑居ビルを2階までのぼるとガラスばりの扉の向こうに昭和時代を彷彿とさせる椅子と小さな机が。座席では客が新聞を広げたり、イヤホンでラジオを聞いたりと、思い思いにくつろいでいます。

そんなルノアール新小岩店にあるのが「ライスセット」。ご飯とおかずと飲みものが組みになった献立です。ほかのルノアールでの食べものといえば、トーストやサンドイッチやケーキなどの軽食が主。そんななかでライスセットはやはり異彩を放っています。

ライスセットの献立のひとつが「鶏唐揚げカレーセット」。鶏唐揚げだけが具になったカレーライス、それに野菜と飲みものがつきます。

ライスセットにはほかに「カレーセット」や「鳥唐揚げセット」があり、これらは920円。いっぽう、カレーセットと鳥唐揚げセットを合わせた鶏唐揚げカレーセットは970円。わずか50円の増額で両方を味わえるという、なんともいえぬ料金設定です。

味のほうはといえば、ルゥはおそらくレトルト。具のほうは鶏唐揚げが7個と半分に割ったゆで卵で、満腹感をねらっています。「喫茶室」のライスセットとして、カレーの献立がないとならない。そんな使命感さえ覚えさせます。

都内のルノアールではコーヒー1杯600円ほど。いっぽう「ライスセット」は、飲みものもついて満腹になる食べものも合わせて970円。さらにコーヒーの追加は100円。数あるルノアールのなかでも希少価値ありの店です。

ルノアール新小岩店の食べログ情報はこちらです。
http://tabelog.com/tokyo/A1312/A131204/13087019/
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情報の存在に成長意欲の源泉を求める――経済成長必然論の探求(2)


もし、人びとが経済成長を目指すことが当たりまえであるとすれば、そこには、そのようにする根本的な理由があるはずです。「自分のかかわるものごとについて、いまよりもっとよい状態にしたい」という意欲、つまり成長意欲は、どこからやってくるのでしょう。

生物学や進化学における「生存競争」の原理が、人に経済成長を目指すようにしむける、という考えはどうでしょうか。英国の進化生物学者リチャード・ドーキンス(1941-)の“利己的な遺伝子”の考えに沿っていえば、「自分が生きながらえ、自分の遺伝子を残すため」に、人びとは経済成長しようとする、となります。

しかし、自分が生きて遺伝子を残すためには、「死なないこと」は必要であるとしても、かならずしも「経済的に成長すること」は必要ではありません。もちろん、経済成長することが自分の生存と子孫繁栄に有利にはたらく、ということはありうるでしょうが。

人のもつ「認められたい」という欲が、経済成長の意欲をつくりだしている、ということはあるでしょうか。人は、ほかの人に「褒められたい」とか「認められたい」とかいった感情を本能的にもっているとされています。ほかの人からの承認を受けるには、自分の価値を高めることが効果的です。

しかし、「褒められたい」または「認められたい」といった欲を満たすために、かならずしも経済成長をしなければならないわけではありません。たとえば、経済成長につながらない慈善事業や寄付をすることによっても、まわりの人びとから褒められたり認められたりします。「認められたい」という欲から、慈善事業や寄付をするような人もいることでしょう。

人に入ってくる情報の存在が経済成長を推しすすめる、という考えはありえそうです。

人は、ほかの人のことを知って、「あの人は自分よりよい状態にある」と感じれば、「あの人の状態に自分も近づこう」と思うものです。しかるに「あの人は自分より悪い状態にある」と感じても、「あの人の状態に自分も近づこう」とは思いません。これらの感覚は、いつの時点かの自分自身の状態とくらべているのでなく、ほかの人の状態とくらべているもの。ですので、はたから見れば「あの人は現状維持でなく成長をしようとしている」と映るはずです。

こうした、「あの人は……」という、自分とくらべる尺度というものは、外からの情報によってもたらされるものです。ですので「情報の存在が経済成長を推しすすめる」ということはいえそうです。ただし、それが根源的な理由となるのかはわかりませんが。

世界で暮らしている人の多くは、経済成長を心から目指そうとしているわけではないのかもしれません。しかし、国が「成長戦略で国際競争力をつけよう」と言っているし、自分のつとめている会社の社長さんが「会社をさらに成長させていきます」と言っているし、「まあ、なんだか成長を目指さなければならないもんなのかな、よくわからんけど」と思っている人が大半ということもありえます。

資本主義の下、一部の成長意欲の強い人によって、人びとの生活の破綻も起こしうる経済成長が目指されているというのが、ほんとうのところなのかもしれません。了。
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国も企業も成長ありきで考える――経済成長必然論の探求(1)


時がたつとともに経済の規模が大きくなっていくことを、「経済成長」といいます。国は「成長戦略で国際競争力をつけよう」とさかんに言い、企業の経営者の多くは「会社をさらに成長させていきます」とさかんに言います。

成長を遂げていくことが当たりまえという考えのもとで、世のなかの経済は動いているようです。国も企業の経営者も「なによりも現状維持を目指します」とは言いません。

いっぽうで、「人びとが経済成長を求めていくと、人びとの生活が破綻してしまう」という考えはあります。みんなが経済成長が大切だからといって競争をつづけていくと、社会や環境などのどこかにむりが生じて、生活がなりたたなくなるといったことです。

しかし、国や企業を牽引する立場の人びとは、おそらくそうした考えかたがあるを知っているにもかかわらず、経済成長していかなければならないということを前提に、ものごとを進めようとします。

日本のある企業のエコノミストは、「それでも経済成長は必要だ」と主張します。

その理由をかいつまむと、「経済成長のない社会では、人びとははたらく意欲を失うし、お金を得られる仕事がなくなるから」「経済成長のない社会では、少子高齢化に対する社会保障費の負担をしづらくなるから」「経済成長を止めた国に世界の人びとは興味を示さなくなるから」という三つをあげられるとのことです。

最初の理由のうち、「お金を得られる仕事がなくなるから」については、そうなってしまったらたしかに困ります。しかし、成長でなく現状維持を目指す企業が、新たな人を雇わないかといったら、そうとはいえません。現状維持をするにも、会社を退職する人の分の人を補わなければならないからです。

二番目の、経済成長しないと社会保障のお金を負担しづらくなるというのも、たしかにこれから数十年の社会を考えたらそうなのでしょう。しかし、この理由は、どの時代にも通じる普遍的なものとはいえません。少子高齢化の生じていない社会であれば、この理由は関係ないことになります。

三番目の、経済成長をしないと世界の人々が興味を示さなくなるから、というのも「そもそも興味を示さないとなにが悪いのか」という反論が出てきます。「だって、ほかの経済成長をしている国ぐにに見捨てられ、世界からとり残されてしまいますよ」といっても、それはやはり経済成長をしなければならないという前提に立っているからの話です。つづく。

参考資料
杉浦哲郎「経済成長は必要なのか」
https://www.mizuho-ri.co.jp/publication/opinion/eyes/20110301.html
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ざっくりいうと「分析についての化学」

写真作者:Matteo Bagnoli

学問分野のよび名には、その分野で対象とする、さらに細かくわけた分野を冠したものがあります。

たとえば、化学の分野のひとつに「分析化学」があります。「分析」とは、なにかのものの内容や性質などを明らかにするために細かな要素に分けていくことをいいます。

「分析化学」は、分析についての化学であることはまちがいなさそうです。しかし、「分析について」では、まだあいまいです。「分析化学」における「分析」と「化学」の関係はどういうものなのでしょう。

分析化学の特徴については、日本分析化学会ホームページで、会長で慶應義塾大学教授の鈴木孝治さんが、つぎのように述べています。

「分析化学は、『物質が何からできているのか?』『物質がどれだけあるのか?』『どのような機能をもつのか?』などを知る、物質の『科学』 を研究するための最も重要な学問です」

鈴木さんはここで「物質の『科学』を研究するための」という表現を使っています。「科学」とは、ものごとの原理などを理論的に知ろうとする営みといえますので、ここでは「物質の原理などを理論的に知ろうとする研究をするための」と表現できそうです。つまり「分析化学」とは、物質を研究するための学問であるということになります。そして、ここでは述べられていませんが、その手段となるのが「分析」ということなのでしょう。

いっぽう、国語辞典の「分析化学」の項目には、つぎのようなことが記されています。

「化学分析の方法とその理論を研究する化学の一分野」

ここでは、「分析化学」で研究する対象として「化学分析」が挙げられています。そこで、国語辞典で「化学分析」とはなにかをさらに見てみると、化学分析とは、化学的なやりかたによって物質をなりたたせる原子や分子などを確認したり、量や状態を決めたりすることを指すようです。

国語辞典では、分析化学は、化学を使って分析をするための方法を研究する学問だと述べているわけです。

研究するものが物質の科学なのか、それとも化学分析の方法なのか。ここまで見た「分析化学」に対する説明では、すこし異なっているようですが、おそらくは「どちらかでなければならない」と考えて、一方だけを研究対象として扱い、もう一方を除くといったことをする研究者はいなさそうです。「自分や化学分析の方法を研究する立場ですから、物質そのものののことは研究しません」と主張しても、その世界では生きづらいでしょうから。

「分析の化学」は、行きつくところは「分析についての化学」と説明するのが無難なようです。科学の種類を示すよび名には、にたような例が多くあります。

参考資料
日本分析学会「会長メッセージ」
http://www.jsac.jp/sites/default/files/gaiyou/danwa.pdf
スーパー大辞林「分析化学」「化学分析」
| - | 11:26 | comments(0) | trackbacks(0)
​「いい質問」は受け手のため、聞き手のため

写真作者:U.S. Department of Agriculture

教養番組などで、ジャーナリストの池上彰さんが、客人の芸能人の疑問に対して、「いい質問ですねぇ」と言い、番組を盛りあげます。

「いい質問」とは、どういうものでしょうか。「よい」というのを、ここで仮に「する価値の高い」と置きかえたとしても、だれにとって価値の高い質問であるのかによって、「いい質問」の捉えかたはちがってきます。

質問とはそもそも、ある人が疑問を抱いているために、その疑問に答えてくれそうな人に問いただすことをいいます。つまり、質問の主体者は、疑問のもち主です。

その疑問のもち主が、知りたい答を導き出せるような質問をすることができれば、その人にとってそれは「いい質問」になることでしょう。

「あ、あのあのー、さっきのあの件なんですけど、どう……」としどろもどろに問うのでなく、「さきほど佐藤先生が今後の輸出産業の課題をおっしゃってましたが、来年あたりに起きそうな具体的な問題にはどんなことがありますか」と相手に質問の意味がわかるように問えば、きちんとした答をもらえそうです。これは、疑問のもち主にとって「いい質問」です。

しかし、池上彰さんの言っている「いい質問」は、どうやらこの手のものではなさそうです。

質問にかかわる人としては、質問をする人のほかに、質問を受ける人もいます。質問の受けてにとっても、「される価値の高い質問」というものはありそうです。

たとえば、質問を受ける人も、たんに質問に答えるだけでなく、そこに自分の言いたいことを含めたいときはよくあることです。そのとき、自分の言いたいことを導いてくれるような質問をされると、それは「いい質問」となります。

また、「こんな質問が相手からくるだろうな」といったある程度の予想に反していて、かつ、とんちんかんでなく的を射ているような質問も、「答える自分にとって意外性に富んでいて新鮮な質問」という意味で、「いい質問」になりえます。

池上さんの言っている「いい質問」は、こうした、答える自分の心を弾ませてくれる質問といった意味が含まれているのかもしれません。

しかし、人が質問をする場面では、質問をする人と質問を受ける人のほかに、その質問を聞いている人もいます。スタジオに芸能人の客人が何人もいて、さらにテレビごしに視聴者が何百万人もいる状況で池上さんが解説する番組は、まさにその形式です。

そうした質問をする人でも、質問を受ける人でもない、質問と回答を聞いている人たちにとっても、「聞く価値の高い質問」というのはありそうです。疑問をもっている人により出された質問によって、聞いている人の考えを深めるものだったり、聞いている人のためになる答を導くものだったりすれば、それもまた「いい質問」になるわけです。

おそらく、池上彰さんは、答える自分の心を弾ませるということよりも、聞いているほかの人たちにより広く深く考えてもらえるということから、「いい質問ですねぇ」と言っているのでしょう。「いまの質問によって瞬間視聴率、高くなったろうなぁ」とかそういったことまで考えているかどうかはわかりませんが。
| - | 17:40 | comments(0) | trackbacks(0)
袋井市推しの「たまごふわふわ」は江戸時代の全国的な卵料理

写真作者:RiceCracker

B級グルメの献立のひとつに「たまごふわふわ」があります。静岡県袋井市が推している料理です。だし汁を中心につくったすまし汁を鍋に入れて火にかけ、そこに卵などを泡立てたものを、流しこんで蒸らします。すると、流しこまれたたまごなどの具材が盛りあがってがふわふわに。これが「たまごふわふわ」です。

「たまごふわふわ」をどうして袋井市が推しているかというと、江戸時代の戯作者だった十返舎一九(1765-1831)の書いた滑稽本『東海道中膝栗毛』の「袋井宿」の話のなかに、この料理が出てくるからです。

主人公の弥次郎兵衛と喜多八が、町はずれの茶屋の前を通ると、さっきまで喜多八とけんかをしていた田舎親仁が「さっきゃぁ無礼をしました」と言って、茶屋に引きこみます。

茶屋の女が、「はいはい」と言いながら、平たくて大きなお椀と、火で炙った料理を持ってきました。これをみた田舎親仁と弥次郎兵衛が、こんな会話をします。

親仁「えんやらと持って来た。大平はなんだ、たまごのぶわぶわか」
弥次「おそいはずだ。いま鶏が卵を産むのを待っていたと見えた」

茶屋の女の用意に時間がかかったことについて、田舎親仁と弥次郎兵衛がああだこうだと言っているわけです。ここでは「たまごふわふわ」でなく「たまごのぶわぶわ」と記されていたようです。

『東海道中膝栗毛』以外の作品にも「たまごふわふわ」は出てきます。袋井宿の「太田脇本陣」という宿泊所に、大坂の商人だった升屋平右衛門(1764-1836)が投宿したとき、「玉子ぶわぶわ」が膳にのったということを、彼の著した料理本『仙台下向日記』に記しています。

こうしたことから、袋井市が「たまごふわふわ」に目をつけたもよう。袋井市のホームページでも、「袋井宿の大田脇本陣で宿泊客の朝食に出されたとされており」としています。

しかし、市のホームページがつづけて記しているとおり、この料理は「全国的に人気のあった料理」だったようです。『大日本百科全書』のにも、「江戸初期には、卵料理として『玉子ふわふわ』『玉子貝焼』『玉子索麺』などがあった。それぞれ、かき卵を味つけして蒸したもの……」と書かれています。

また、国語辞典でも「ふわふわ」の名詞として、「卵を湯の中でとき混ぜた吸い物」と紹介されています。「たまごふわふわ」は、江戸時代の料理としてかなり知られていた料理だったようです。

「ふわふわ」ということばは日本語の特徴である擬態語のひとつで、日本人であれば「ふわふわ」といえばだいたいどんな感じというイデアを分かちあっているものです。現代に再現された料理の写真ではありますが、「たまごふわふわ」の画像も、“ふわふわ感”そのままのものとなっています。

ちかごろは、「もふもふ」とか「もこもこ」とかいった擬態語や感覚が流行っています。そうした柔らかそうで緩そうな擬態語のひとつに当初から「ふわふわ」がありました。「たまごふわふわ」には、いまの人びとをくすぐるようなことばの響きがあり、それもまた流行をねらう人びとの心をかきたてたのでしょう。

参考資料
袋井市「たまごふわふわ」
http://www.city.fukuroi.shizuoka.jp/kanko_bunka/tokusan/taberu/1425446984685.html
デジタル大辞泉「ふわふわ」
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/197099/meaning/m0u/
十返舎一九の東海道中膝栗毛「東海道中膝栗毛 三篇 袋井宿」
http://www.numazu-s.or.jp/yajikita/yajikita_flame.htm
デジタル版 日本人名大辞典+Plus「升屋平右衛門(4代)」
https://kotobank.jp/word/升屋平右衛門(4代)-1109840
日本大百科全書「卵料理」
https://kotobank.jp/word/卵料理-94302
| - | 12:41 | comments(0) | trackbacks(0)
「ドクターに行くと研究に取り残される」

写真作者:Takayuki Miki

大学を卒業する学生の、その先の進路の選択肢に「大学院進学」があります。さらに大学院に入ると、修士の学位を得るための修士課程があり、さらにその先には博士の学位を得るための博士課程があります。

そのむかし、「末は博士か大臣か」ということばがありました。「博士」や「大臣」という地位を、社会における最上級のものとして表していたわけです。

ところが近年、「大臣」のほうはなんともいえませんが、「博士」のほうの価値は相当に下がっているようです。

宇宙物理学者の松田卓也さんが著書『人類を超えるAIは日本から生まれる』のなかでこんな話を紹介しています。友人の息子が、博士課程の試験に受かったにもかかわらず、人工知能を手がける情報技術系の新興企業に就職する道を選んだのだそうです。その友人の息子が博士課程を選ばなかった理由は、つぎのようなものだったそうです。

「ドクターに行くと研究に取り残されるから」

つまり、大学院の博士課程に進むと、それだけで研究者としては落ちこぼれになってしまうという危機感をもっていたのです。これは、実際に研究をしようとしている大学院生の肌感覚なのでしょう。松田さんは「人工知能界は進歩がものすごく速いので、大学の研究室のペースでは追いつかないというわけです」と彼の代弁をしています。

人工知能の分野でなくても、企業の研究の進み具合は速く、大学の研究とはくらべものにならないといった話はよく聞かれます。それが本当であるならば、理由はいくつか考えられます。企業の研究は社運がかかっていたり、存続を左右させるものだったりするため競争速度が増すことや、得意分野とする事業に集中して資金の投入するために研究を支える人材を多く雇えることなどです。

とりわけ日本では、企業など人を雇う側に「博士を雇っても使いかたに困る」といった風潮があるようです。また、上で紹介したように、博士課程を目指そうとする若い世代の側にしても「博士課程に進んでも研究に取りのこされる」などと考える人が多くなったら、いよいよ博士課程の存在意義はなくなってしまいそうです。

就職先の視野を日本だけでなく世界に広げれば、博士号をもっていること自体は活躍の機会を増やし、収入も高めるものと考えられます。「博士号は世界へのパスポート」ともよばれるくらいです。

博士課程に進むことは、進まないことよりも価値があることかどうか。これには、社会の博士に対する考えかた、博士課程に進む本人たちの動機、大学の博士の育てかたなど、いろいろなことがかかわっています。

参考資料
松田卓也『人類を超えるAIは日本から生まれる』
http://www.amazon.co.jp/dp/4331519902/
「博士号は世界へのパスポート」『東京大学工学部ガイド エンジニアリングパワー』
https://www.t.u-tokyo.ac.jp/epage/public/engpower/features/phd/
| - | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0)
人のからだにある細胞の9割はその人のDNAをもっていない
人のからだは細胞でできています。細胞は細胞質からなり、なかに1個の核があり、細胞膜に包まれています。

そして、細胞の核のなかにはデオキシリボ核酸(DNA:DeoxyriboNucleic Acid)というものがあります。DNAには、“からだの設計図”といわれる遺伝子がふくまれています。

ある人のからだの細胞は、とうぜんその人のDNAをもっているはずです。ところが、「その人のからだのなかにある細胞の9割は、その人のからだのDNAをもっていない」という話があります。どういうことでしょう。

肉、骨、皮膚、臓器、器官などの、人のからだを構成する細胞の数は、およそ37兆2000億個といわれています。かつてはおよそ60兆個といわれていましたが、その後の細胞数の計算では、抑えめな数が出ています。

いっぽうで、人のからだには、こうした人のからだを構成する以外の細胞もあります。それは、常在菌という、人の体に棲みついている、病原性を示さない菌の細胞です。

人のからだの常在菌のなかでも多いのが腸のなかで暮らしている腸内細菌です。その種類は、腸球菌、連鎖球菌、大腸菌など100種を超えます。そしてその数は、500兆個とも1000兆個ともいわれています。

重さにしてみれば、1.5キログラムといわれ、人の体重の2パーセントほどにしかなりませんが、腸内細菌が500兆個あればからだのなかの細胞の93パーセント、1000兆個あれば96パーセントを、腸内細菌が占めることになります。こうした常在菌は、人のDNAをもっているわけではないので、「その人のからだのなかにある細胞の9割は、その人のからだのDNAをもっていない」といえるわけです。


腸内細菌のひとつ、Escherichia coli

人と常在菌は、共生をしています。人が食べものなどから得た栄養分を使って腸内細菌などの常在菌は発酵して増えようとします。増えたそばから菌は死んで大便として体外に排出されるので増えつづけるいっぽうというわけではありませんが。

いっぽうで、人は、腸内細菌によって、食物繊維の分解しにくい物質をエネルギーに換えてもらったり、からだの外から入ってくる病害菌から守ってくれたりします。

自分のDNAではない細胞を9倍も抱えて生きていることを考えると、人はほかの生きものが生きていくのに自分のからだを捧げていると見えなくもありません。

参考資料
日経ヘルス&メディカル「体質も変える腸内細菌って何? 重さは1.5キロにも 働きもののカラダの仕組み」
http://style.nikkei.com/article/DGXNASFK1400Q_U4A410C1000000?channel=DF130120166091&style=1
ウィキペディア「腸内細菌」
https://ja.wikipedia.org/wiki/腸内細菌
| - | 13:04 | comments(0) | trackbacks(0)
降りる駅に近づいても相手の話が途切れない


電車のなかで、いっしょに乗っていた客がべつの駅で降りるのはよくあることです。たとえば、うちあわせの場から帰る方向がいっしょの2人が、途中までおなじ電車に乗っていくとか、上司と部下での営業まわりの帰りに上司は会社に戻るため終点まで乗り、部下は途中べつの用のある駅で降りる、といったことです。

このような状況で、さきに電車を降りる人が緊張を強いられる事態がたまに起こります。自分が降りる駅に近づいたにもかかわらず、相手の話が途切れないような事態です。

自分「ええ、そうなんですよ」
相手「だからさ、困っちゃうんだよね、そういうときってさ。俺なんか、ほんとうはやらなくてもいいんだけれどさ、でも相手の立場ってものもあるからさ。がまんしてやってみたんだよね。そうしたらさ、今後はその相手が怒りだしちゃってさ。また話が降りだしに戻っちゃったわけよ。そんでさ……」
自分「そうなんですか。あ、僕ここなんで失礼します(ふぅ危ない危ない)」

しかし、場合によっては、降りる駅につく寸前のところで、相手がべつの話を始めるような事態もあります。

自分「ええ、そうですね(さ、この駅で降りなきゃ……)」
相手「ところでさ、まったくべつの話なんだけれどさ、この前ね、寝ていたらね、うちの猫が布団のなかに入ってきたんよ……」
自分「(おいおいおい)」

気の弱い人や、相手にくらべて立場がとても低い人などは下手をすると、相手の話につきあわなければならないことから降りるべき駅で降りられず、つぎの駅まで乗ってしまうこともあるようです。

相手「ところで、きみ、どこで降りるんだっけ……」
自分「あ、えーと……。あっ、乗りすごしていたかもしれません」
相手「ええ、きみも話に夢中になっていたからなぁ」
自分「………orz.」

相手とのコミュニケーションは崩したくない。けれども、自分の降りる駅は近づいている。このようなとき、駅で降りれない人は、相手とのコミュニケーションを優先したことになります。

このような事態におちいることはそんなにない、あるいは大したことではない、ということであれば、この事態の防ぎかたを真剣に考える必要はありますまい。

いっぽう、用心深い人は、電車に乗りはじめるところで「誰々さん、どちらまでですか。私は何々駅で乗りかえます」などと言っておくと、こうした事態を防げる可能性がかなり高まります。
| - | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0)
「『虫歯になったら治らない』は間違っていた!」


日本ビジネスプレスのウェブニュース「JBpress」で、きょう(2016年)2月12日(金)「『虫歯になったら治らない』は間違っていた! 誤解だらけの“食と歯”(前篇)」という記事が配信されました。この記事の取材と執筆をしました。

すくなくとも30歳代後半ぐらいまでの人は、小学校の教育などで「虫歯になったら、悪くなる一方」と習ったことがあるのではないでしょうか。しかし、さまざまな病気治療のガイドラインが変わっていくことからもわかるように、医療の考えかたというのは時代ごとに変わっていくものです。

記事のタイトルにあるとおり、「虫歯になったら治らない」という話は、もはや過去のものであるとする考えかたがあります。実際、いまの小学校などでの虫歯の診査には、いわば“虫歯だけれど様子見”の「CO」(カリエス・オブザベーション:Caries Observation)という判定があります。

取材に応じている歯科医師で、日本顎咬学会指導医の西野博喜さんは、「『虫歯は自然治癒するもの』と考えられています」と断言しています。この考えの根拠となるのは、「唾液の緩衝能」とよばれるもの。

虫歯は口のなかの常在菌が、食べものの糖質を酸に変えた結果、酸によりカルシウムやリンが溶け出すことで起きます。しかし、口のなかの唾液は、常在菌がつくった酸を中和する能力をもっています。しかも、唾液にはカルシウムやリンが含まれているため、虫歯になった歯を修復することになるというわけです。

しかも口のなかでのこうした「酸が出て歯を溶かしだして、唾液が中和する」という流れは、ものを食べるたびに起きていて、数分や1時間といった短い時間のあいだにくりひろげられているということです。

西野さんは、記事の最後に「『穴が空いたら即、歯医者で治療』かというと、私自身はそうは思っていません。それには、いくつかの理由があります」とも言っています。その理由は、来週19日(金)の後篇で明かされそうです。食と歯をめぐる多くの人びとの常識をくつがえすような話が出てくるのかもしれません。

「『虫歯になったら治らない』は間違っていた! 誤解だらけの“食と歯”(前篇)」はこちらです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46036
| - | 13:20 | comments(0) | trackbacks(0)
具体的な人名を出さないで話す

写真作者:Matthew Hurst

記事の材料を得るために、その分野に詳しい人や、その話題に直接関係ある人に時間をつくってもらって聞くことを、取材といいます。

科学の分野では、聞き手である記者が、その取材対象者の研究する分野の歴史や、取材対象者本人の研究の歩みなどを聞くことがあります。すると、「いつごろの時代に、こういう発見がなされた」とか、「このころ、自分はライバルの研究者と争っていた」とか、そのような話が出てきます。

そうしたとき、しばしば起きることがあります。それは、取材対象者が具体的な人名を言わずに話を進めていくというものです。

「すでに1970年には、イギリスの研究者によって基本的な原理は解明されていました」

「アメリカ人の競争相手がいたのですが、『サイエンス』に論文を発表したら、直後に、その人からメールが届きまして……」

このように取材対象者が話すことがよくあります。「イギリスの研究者」も「アメリカ人の競争相手」も、もちろん名前のある人物です。そして、取材対象者は“その道の人”ですので、名前を忘れてしまっているということはありますまい。しかし、取材対象者が話を切りだすときは、具体的に名前を出さないことが多くあるのです。

固有名詞を会話に出すことは敷居が高いのでしょうか。とはいえ、「コンビニ」ということばを使うかわりに、「セブンイレブン」などと固有名詞を出して話をする人は多くいます。

セブンイレブンであれば、自分も相手も知っている。けれども、自分は知っている人名だが、聞き手の記者はおそらく知らないであろうと考えられるときには、「イギリスの研究者」とか「アメリカ人の競争相手」とか、人名を出さずに表現する、ということはありえそうです。

ただし、日常生活では、相手が知るはずもない人名を、やたらと出して会話をしてくるような人もいます。「なあなあ、うちの職場の課長にワタナベっていう人がおってな。そのナベさんがきのうこんなこと言い出してん」のように、「ワタナベ」と出すばかりか、愛称の「ナベさん」まで出してくるような人もいます。

取材対象者が人名を出さないで話すことの心理については、定かではありません。しかし、取材を受けているとき「人名を出さなくてもよい」と瞬時に判断して、そうしているということは事実です。

いっぽうで、聞き手の記者側は、人名を出してもらえない話を聞きのがしてはなりません。

取材のあとに原稿をつくるとき、人名を出して書くことが必要になることがとても多いからです。読者に向けて「1970年には、英国の研究者によって基本的な原理は解明されたが」などと書くよりも、「1970年には、英国のラブストックらにより基本的な原理は解明されたが」などと書くほうが親切です。

もちろん、取材のあとにインターネットで調べれば、人名にたどりつけることもあります。しかし、国内であまり知られていないような話となると、検索でたどりつく成功率はさがります。

そこで、話の途中で記者は取材対象者に「その方はなんというお名前ですか」と質問をしておかなければなりません。自分はその人名を知らないということを相手に開示することになるので、若干の恥ずかしさもともなうかもしれません。しかし、その場で人名を聞いておくことの利点のほうが優ることは多いようです。
| - | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0)
「機材のやりくりがつかない」の多くは「飛行機のやりくりがつかない」


飛行機に乗ろうとするとき、欠航したり、予定の離陸時間が遅れたりすることがあります。その理由には悪天候などがありますが、「機材のやりくりがつかなかったため」というものがあります。「機材のやりくり」を「機材ぐり」ともいいます。

ある空港の待合室で、航空会社の地上勤務職員と、これから飛行機に乗ろうとする客のあいだでこんなやりとりがありました。

職員「たいへん申しわけありません、お客さまの便は、機材のやりくりがつかないため、約1時間後の出発予定に変更となっております」
乗客「え、機材のやりくりがつかないだって。機材ってどんな機材ですか。そんなに重要な機材なんですか。ヘッドホンとかなら、べつに用意がなくてもいいじゃないか。機材って、命にかかわるものなんか」
職員「……。申しわけございません……」

おそらく乗客は「機材」を「飛行機に載せる材料」のなにかであると想像していたのでしょう。そこで、「機材って、命にかかわるものなんか」と詰めよったわけです。

たしかに、飛行機にのせるなにかの材料のやりくりがつかないという場合もあるのかもしれません。しかし、多くの場合、この「機材」とは、もっと大きなもの、かんたんにいえば「飛行機」のことを指しているものです。

日本航空の「航空実用辞典」には、「航空機材(flight equipment)」という項目があり、つぎのように説明しています。

「航空機材とは、航空機そのもの、および予備部品(材料)の総称で、『機体』と『原動機』と『装備品』に大別される」

さらに、「機体」は、「航空機から原動機および装備品を除いた部分」とあります。また「原動機」は、「エンジン本体」などとあります。そして、「装備品」は、「諸系統(動翼、着陸、油圧、気圧、航法、通信など)に使用されている、特定の機能を持つまとまった部品」とあります。

国語辞典の「機材」には、「機械と材料。また、機械の材料」とあります。空港などで使われている「機材のやりくりがつかない」というときの「機材」は「機械と材料」のことを指していると考えられます。

詰めよった乗客が「機材って、命にかかわるものなんか」と質した答えは、「そのとおり」となるでしょう。すくなくとも、ヘッドホンとかが準備できないために、「機材のやりくりがつかない」とはいわなそうです。

しかし、詰めよった乗客とおなじように、「機材のやりくり」と初めて聞いて、「飛行機のやりくり」を想像できない人もいることでしょう。欠航したり遅延したりするとき、乗客はなるべくならその理由を具体的に聞きたくなるもの。そこで「機材のやりくりがつかない」と説明するのは、乗客たちにおかしな想像をさせるリスクもふくんでいます。

参考資料
国内線.com「飛行機が欠航になってしまったときの払い戻しについて」
http://www.kokunaisen.com/column/airplane/flight-cancellation.html
日本航空「航空実用事典」
http://www.jal.com/ja/jiten/dict/p348.html
スーパー大辞林「機材」
| - | 20:03 | comments(0) | trackbacks(0)
本物がいそうにない駅で「ホーホケキョ」

写真作者:keyaki

「ホーホケキョ」と、鴬のさえずりのような音が聞こえてくる駅のホームがあります。しかも、一度でなく「ホーホケキョ………ホーホケキョ………ホーホケキョ………」とくりかえします。きれいすぎる鳴き声がくりかえされるため、機械の拡声器で鴬のさえずりを流していることがわかります。

関東では、すくなくとも京成電鉄の駅やゆりかもめの駅などで、この鴬のさえずり音が使われています。「駅の雰囲気をなごませるための背景音としては、さえずりすぎる」とか「毎朝だとちょっと飽きるかも」などと感じる人もいるかもしれません。

しかし、鴬のさえずり音にはべつの目的があります。

この鴬のさえずり音は、階段の近くから流れてきます。目の不自由な客に、「出口に通じる階段はここにあります」ということを、さえずり音で知らせているのです。

国土交通省が2007年に示した「公共交通機関の旅客施設に関する移動等円滑化整備ガイドライン」では、「プラットホーム上の階段における音響案内の標準例」に「鳥の鳴き声を模した音響」が示されています。ただし、鳴き声は鴬のものでなければならないとは書かれていません。

主要駅などで、「向かって右が男子トイレ、左が女子トイレです」という音声案内を聞いたことがある人は多いでしょう。「鳥の鳴き声を模した音響」も、これとおなじ役割のものといえます。

ただし、鳥のさえずり音を発するのは拡声器だけではありません。本物の鳥もさえずります。というよりも、本物の鳥のさえずりそれが本来のものです。

そのため、その駅の近くに本当にいそうな鳥のさえずりを「鳥の鳴き声を模した音響」に採用してしまうと、困ったことになります。たとえば雉鳩の「ベーベボッポポー、ッベーベボッポポー、ッベ」とか、雀の「チュン、チュンチュチュチュン」とかを模した音響を使うのは得策といえないでしょう。雉鳩も雀も、駅のホームにいる可能性が高いからです。

実際、「ガイドライン」にはつぎのような「考え方」も示されています。

「具体的な案内音の選定にあたっては、当該旅客施設周辺に生息する本物の鳴き声と区別がつくよう 配慮することが望ましい」

その点、鴬は里山のようなみどりの多いところでさえずりは聞こえてくるものの、街なかから聞こえてくることはめったにないので、プラットホーム上の階段の場所を知らせる音響としては向いているといえます。

ちなみに、東京・根岸にあるJR東日本の鶯谷駅の「鶯谷」は、江戸時代に近くの寛永寺の住職が京都からとりよせた鴬を放ったために、鴬の鳴き声がよく聞こえる名所だったことからついた地名とされます。鶯谷駅では、駅名にちなんで朝の混雑時間帯に鴬のさえずり音を流していますが、これは発車ベルの一部としてのことです。ユーチューブで聴くことができます。

参考資料
新京成電鉄「駅の設備、ご利用について」
http://www.shinkeisei.co.jp/faq/faq_04/
国土交通省「公共交通機関の旅客施設に関する移動等円滑化整備ガイドライン(バリアフリー整備ガイドライン(旅客施設編))」
http://www.mlit.go.jp/barrierfree/public-transport-bf/guideline/guidelineshisetsu.pdf
発車ベル使用状況「鶯谷」
http://hassya.net/bell/eki.php?鶯谷
| - | 13:38 | comments(0) | trackbacks(0)
靭帯と骨がすれて痛みが走る

写真作者:KOMUnews

運動で走りこみをしている人のなかには、膝の外側が痛くなる人がいます。地面を蹴った瞬間、左または右の膝の外側に、ずきんとする痛みが走ります。

痛みは、からだが異常を知らせる合図なので、走るのを止めるべきですが、自分に課した距離に至っていないと、つい無理をしてさらに痛みを強くすることに……。

この痛みは「腸脛靭帯炎」といいます。腸脛靭帯というのは、太腿から腿の外側を通って、膝の下あたりまで至る靭帯のこと。靭帯は、筋肉とはちがって弾性繊維からなり、関節の補強などをしています。

膝の外側には、腸脛靭帯のほかに骨があります。膝の骨は、太腿をつけ根とする大腿骨の終点にあたるところ。「大腿骨外顆」とよばれています。膝の関節のところの骨は、すこし横に広がっているのです。

走っていると、腸脛靭帯と大腿骨外顆がこすれることがあります。こすれると、この部分で炎症が起きます。炎症というのは本来、体を防御する反応ですが、それが痛みとして現れます。

ふだんよりも長い距離を走ったり、硬い路面を走ったり、または足に負担のかかりやすいシューズを履いて走ったりすると、腸脛靭帯と大腿骨外顆はこすれやすくなります。

両方の膝が同時に痛くなることはあまりなく、たいてい左か右どちらかの膝が痛みます。これは、気づかないくらいに走るときの姿勢が左右どちらかに傾いていたり、またその影響ですが、左右どちらかがすり減ったシューズを履いて走ったりするからと考えられます。

膝の外側に痛みを感じたら、走るのをやめて、しばらく走らずに静かにしていることが治療法となります。しかし、ふだん走っている人にとってそれはストレス。

ふだんから腿の外側やおしりをストレッチしたり、腿の内側の筋肉を鍛えたりすることで、ある程度の予防はできるといいます。シューズがすり減ったら、もったいないと思わず買いかえることも大切でしょう。本来、シューズは安全に走るための道具です。

参考資料
『膝の痛み』全解説「腸脛靭帯炎の詳細」
http://tiryo.net/tyoukeijintaien.html
ザムスト「ランナー膝 別名:腸脛靱帯炎」
http://www.zamst.jp/tetsujin/runners-knee/
ランネット「ランナーの大敵『ひざ外痛』撃退3か条」
http://runnet.jp/project/okamoto201504/
| - | 00:28 | comments(0) | trackbacks(0)
「ティーヌン飯田橋ラムラ店」の鶏肉と茄子のグリーンカレー――カレーまみれのアネクドート(75)

東京近辺でタイ料理を気軽に食べようとするとき、「ティーヌン」があります。店は「タイ人シェフが腕を振るう本格的タイ料理専門店」と自己紹介していますが、「本格的」というよりは「お気軽」といった雰囲気があります。

トムヤムラーメンや焼きビーフンなどの麺類などのメニューが代表的ですが、もちろんタイカレーもあります。

昼の献立にある「鶏肉と茄子のグリーンカレー」もそのひとつ。タイ語では「ゲーン・キョウ・ワーン・ガイ」であると献立表に書かれてあります。

それほど辛くはないスープが出されてから、グリーンカレーと、おわん型に盛られたごはんが出されます。ごはんは、日本での店だからでしょう、タイ米でなく日本米です。

グリーンカレーのなかには、鶏肉、茄子、筍、ピーマン、パプリカなどの具材が入っています。ルゥには、ココナッツミルクたっぷり。透明な油分と緑色のルゥが混ざりあっています。

食べかたは人それぞれ。スプーンでルゥや具材をよそってごはんにかけて混ぜて食べる人もいれば、ルゥや具材を口に入れたあとごはんを口に入れる人もいます。

食卓も椅子もタイの屋台をイメージして簡易。平日の昼どきは、カレーなどの昼食をかっこんだ客がささっと食べて、仕事へと戻っていきます。

「ティーヌン飯田橋ラムラ店」の食べログ情報はこちらです。
http://tabelog.com/tokyo/A1309/A130905/13019074/
| - | 20:54 | comments(0) | trackbacks(0)
混ざりあった波の成分を分析する

写真作者:joiseyshowaa

いろいろな現象には波としての要素がふくまれています。たとえば、ラジオなどで使われる電波は、大気のなかをおなじ振動のしかたをくりかえしながら進んでいくので、波として考えることができます。

波の1秒毎のくりかえしの数を、周波数といいます。たとえば、関東圏のNHKラジオ第一の周波数は「593キロヘルツ」ですが、これは1秒間に593キロ、つまり59万3000回の振動をする電波であることを意味しています。

ラジオの電波のように、ある目的のためだけに発せられる波は、いわば純粋な波といえます。しかし、世のなかにさまざまある現象はそれほど純粋には存在していません。いろいろな波が混ざっている場合がほとんどです。

逆に、その混ざっている波を、ひとつずつ取りだせば、原理的には、周波数で表すことのできるいくつかの波に分けることもできます。それを実際にしている技術があり、「周波数解析」とよばれています。

いくつもの波が重なると、波は一見、不規則なかたちに見えますが、周波数解析では、どの周波数の振動がどのくらいふくまれているかを測るのです。

解析をするときには、おもに「フーリエ変換」という方法を使います。これは、どんな複雑な波のかたちであっても、おなじかたちをくりかえす波であれば、正弦波と余弦波という単純な波の成分に分けることができるという「フーリエ級数」という数学を応用したものです。フーリエ級数もフーリエ変換も、フランスの物理学者ジョゼフ・フーリエ(1768-1830)が考えつきました。

たとえば、都会の雑踏のなかで聞こえるような音には、ある人の声や、鳥の鳴き声、車の音、広告の音、電車の音などが混ざりあっています。これらの音は、振動のしかたでいえばそれぞれ固有に近いもの、すくなくとも別々の振動に分けることのできやすいものといえます。

そこで周波数解析をすることのできる装置を使えば、録音した音声のなかで、ある人が発した声だけをとりだすことが、原理的にはできるわけです。

20世紀には、複雑な対象を高速にフーリエ変換することのできる「高速フーリエ変換」(FFT:Fast Fourier Transform)という処理手順も確立されました。音声のほかに、振動を測定する、画像を処理する、生体信号を分析するといったように、さまざまな目的で応用されています。

参考資料
ヤフー!知恵袋「周波数解析って何でしょうか?」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012608730
ウィキペディア「フーリエ級数」
https://ja.wikipedia.org/wiki/フーリエ級数
世界大百科事典第2版「フーリエ解析」
https://kotobank.jp/word/フーリエ解析-1202508
マースワークス「周波数解析」
http://jp.mathworks.com/discovery/frequency-analysis.html
| - | 12:49 | comments(0) | trackbacks(0)
1+1が“2未満”に――法則古今東西(25)

写真作者:toffehoff

「1の力と1の力を足すと、2でなく3や4の力になる」とよくいわれます。しかし、実際は「1の力と1の力を足すと、2よりも小さな力になる」よう場合が多いようです。

フランスの農学者マックス・リンゲルマン(1861-1931)は1883年、農業大学の学生たちに実験で綱ひきをしてもらいました。綱の反対側には敵でなく、綱が引っぱられる強度を測ることのできる装置が置かれました。

実験では、綱ひきを1人でやってもらう、2人でやってもらう、3人で、4人でといったように、それぞれの回で人数を変えていきました。

すると、1人で綱ひきをしてもらったときにくらべて、2人で綱ひきをしてもらったときの1人あたりの力は93パーセントまで減りました。さらに、3人で綱ひきをしてもらったときの1人あたりの力は85パーセントに、4人では77パーセントに、そして5人ではついに半分まで減ってしまったということです。

綱ひきをするとき、人数が多くなるほど力を合わせづらくなるので、結果的に1人あたりの発揮する力が減ってしまうという可能性はないのでしょうか。

その真偽は1970年代、米国のスポーツ社会学者アラン・G・インガムがおこなった実験で確かめられました。インガムの実験では、実験協力者のなかに綱ひきのふりをするだけの人たちを入れました。そして、力を測られる本人を先頭にするといったことで、本人に「さくら」がいることをばれないようにしました。

この実験でも、やはり力を測られる本人が綱ひきに参加していると思っている人数が増えるほど、本人の力が弱くなっていったということです。ただし、綱ひきをする合計人数が3人までのときにくらべて、4人以上のときのほうが、本人の力の減りかたは緩やかにはなったそうですが。

「集団の参加者が多くなるほど、1人あたりの作業量は減る」ということは、いまでは「リンゲルマン効果」とよばれています。現代の心理学者は、この効果をつぎのように考えているようです。

集団作業では、1人のすることが全体の成果に強くは影響しないため、最善を尽くす意欲が失われる。さらに、個人の貢献が埋もれてしまうため、人をあてにする気分が強まる。

「リンゲルマンの効果」を知っている経営者や集団の牽引者などは、逆に、参加する人数が多くなっても、1人ずつが1人として相応の力を発揮してもらえるようにしむける方法を考えています。

参考資料
レト・U・シュナイダー『狂気の科学』
http://www.amazon.co.jp/dp/4807908626
Alan G. Ingham “The Ringelmann effect: Studies of group size and group performance”
http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/002210317490033X
| - | 11:20 | comments(0) | trackbacks(0)
手前の馬と奥の馬を重ねて示す――立体視への挑戦(2)
人は平面で立体を伝えようとしてきた――立体視への挑戦(1)

人は、太古から絵を描いてきました。絵を描く目的はさまざまですが、人がそこで見ているものの姿や様子を、べつの場所やべつの時間にべつの人に見せるという目的を外すことはできません。

この目的を果たすために、人はみずからの眼で見たのとなるべくおなじような見えかたでで描こうとしました。いまの時代、人は絵を写実的に描くことができます。しかし、絵のそうした表現は、人類が試行錯誤を重ねてきた成果なのであって、はじめから身につけていた技だったわけではありません。

人類最古の文明を築いたとされるのがシュメール人です。彼らは紀元前3000年ごろ、イラクのメソポタミア南部、チグリス川とユーフラテス川の下流域にあたる場所に「ウル」という国家都市を建てました。

シュメール人はさまざまなものを遺しました。シュメール語で書かれた楔型文字の粘土板や法典などがよく知られています。こうした文明のしるしを発掘したのは、欧米の発掘隊や考古学者たちです。1877年には、フランス隊がラガシュでテッロー遺跡を発掘しました。それ以降、シュメールの主要都市、ニップル、ウル、ウルクの発掘が1920年代にかけておこなわれてきました。

英国の考古学者レオナルド・ウーリー(1880-1960)は、ウルの王墓の側で、のちに「ウルのスタンダード」とよばれるようになる工芸品を発掘しました。スタンダードは旗章のことで、ウーリーがその工芸品が旗章であると考えたことから、「ウルのスタンダード」とよばれています。

「ウルのスタンダード」は、青い瑠璃(ラピスラズリ)を背景に、貝殻や石灰岩などをはめ込んだモザイク模様をしています。いっぽうの面にはシュメール人の兵が敵を倒している「戦争の場面」が、もういっぽうの面には山羊、羊、穀物などが貢がれて王がそれに興じている「平和の場面」が描かれています。

どちらの面に描かれている人物も、一人ずつが横に並ぶように描かれています。ただし、「戦争の場面」で戦車を引いている馬だけは異なります。馬の描かれかたをよく見ると、手前に1頭、その奥にもう1頭がいることがわかります。


「ウルのスタンダード」の「戦争の場面」に描かれている馬
写真所蔵:大英博物館

当時の実際の戦車も、2頭の馬で引いていたのでしょう。シュメール人はこれを横から見た構図の絵で表すとき、どうにかして1頭だけ示すのでなく、そこに2頭いることを示そうとしたのでしょう。その結果、手前の馬と奥の馬を重ねて、手前の馬がおもに見えるようにしたのです。

この馬の絵の重なりは、手前のものを上層として描き、奥のものを下層として描くという方法を太古の人類はすでに知っていたことをうかがわせます。

「ウルのスタンダード」は紀元前2600年ごろに作られたものと考えられています。戦車を引く2頭の馬を手前と奥とで重ねて描く方法は、その後、紀元前10世紀から紀元前7世紀にかけてメソポタミア北部にあったアッシリア帝国の遺跡から出土した「アッシリアのレリーフ」や、紀元前6世紀のギリシャでつくられた壺などでも見ることができます。

人は、重ねるという方法で、手前と奥という概念を図示したのです。これは、平面の媒体に立体的な表現をしようとした初の挑戦といってよさそうです。つづく。

参考資料
桶田洋明・波平友香・山元梨香「絵画と遠近法I 東西の比較から絵画教育の可能性をさぐる」
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/12061/1/AN10374875_v20_p59-68.pdf
大英博物館「The Standard of Ur」
http://www.britishmuseum.org/research/collection_online/collection_object_details.aspx?objectId=368264&partId=1
ウィキペディア「シュメール」
https://ja.wikipedia.org/wiki/シュメール
| - | 19:39 | comments(0) | trackbacks(0)
ゆがみに対してはゆがみで

写真作者:van Ort

サッカーの競技場では、ゴール脇奥の地面に“ゆがんだ広告”が貼られることがあります。真上からその広告を見ると、平行四辺形をさらにゆがめたようなかたちになっています。

ところが、メインスタンドの客席や固定テレビカメラからその“ゆがんだ広告”を捉えると、その広告の模様がきちんと立って掲げられているかように映ります。これは、メインスタンドからのゴール脇奥の地面の見えかたを逆手にとったもの。ゆがんで見えることになる平面について、そのゆがみをうち消すような計算をしておき、あらかじめ模様をゆがませておけば、ゆがんで見えるはずの模様がゆがまなく見えるようになるわけです。

こうした競技場の広告は地面に置く(貼る)ものですが、光を投射させて画像や映像を映す投影機でもおなじようなしくみが使われています。

投影機が光を放つ方向と投影幕の面の方向が垂直になっていないと、映された像は台形に見えてしまいます。そうしたときは、投影機の放つ光のほうを、台形をうち消す形に補正すればよいのです。これにより、投影幕に画像がきちんと長方形に映されるようになります。これは「台形補正」とよばれる機能で、多くの投影機についています。

情報を発する側の模様をあらかじめ計算でゆがませておけば、ゆがむはずの模様がゆがまずに見えるようになる。このしくみは、地面や投影幕といった平面に対してでなくても使えます。たとえば、でこぼこだったり、丸みを帯びていたりする建てものの壁に映像を投影するプロジェクションマッピングでも、投影機からの光を、でこぼこや丸みに映るのをうち消すように計算したうえで放てば、見ている人の目にはきちんとした模様に映るはずです。

さらに、映す対象物が動かないものでなく、動きのあるものであっても、このしくみを使うことはできます。動いている対象物をカメラで撮影して、どのように動いているかを解析し、その情報を瞬時に投影機に伝えれば、投影機は動いている対象物のゆがみをうち消すようなかたちで光を放つことができるわけです。

映す情報が静止画であっても動画であっても、そして、映される面が平らであっても曲がっていても、映される面が動かないものであっても動くものであっても、で見ている人にきちんと見せることができます。

参考資料
→10+「プロジェクションマッピングについて語る キャリブレーション編」
http://labs.1-10.com/blog/projection-mapping-calibration.html
| - | 18:27 | comments(0) | trackbacks(0)
「医療の大部分は実は『情報』で成り立っている」


このたび、朝日新聞出版が『AERA Premium 医学部がわかる』というムックを出版しました。大学の医学部への進学を志願する受験生とその親に向けて、「医師になるまでの『悩み』をすべて解決」。医学部にについて知っておきたいデータや、各科の医師の「ホンネ」、塾や予備校の情報などが載っています。

記事のひとつ「医学部発テクノロジーが未来を創る 仁術の先にあるもの」では、医療にかかわる先端技術が紹介されるとともに、受験生たちが一人前の医者として活躍しはじめる10年後の医療の状況が予想されています。

進歩の目覚ましい分野のひとつが、からだの内部を調べるための画像診断技術です。かつてからだの内部を診るために使われていたのは、白黒のX線写真などでした。しかし、コンピュータ断層撮影装置(CT:Computed Tomography)や、核磁気共鳴映像法(MRI:Magnetic Resonance Imaging)などの発達があり、画像診断技術は進歩しました。

いまでは、コンピュータ断層撮影装置によって、おなじ患者のからだの表面、筋肉、脂肪組織、骨や血管などをそれぞれ鮮明なカラー画像で診ることができるようになりました。しかも、そのからだを回転させて、つまり360度どの角度からも見られるようにもなっています。

記事では、取材に応じている慶應義塾大学の教授のことばを引いて、「可視化できる範囲が広がれば、病気の診断がより正確にできるようになる。10年後は、それまで客観的だった『痛み』が、具体的にどの程度の強さで起きているのかといった『痛みを客観化するための挑戦が盛んになっているはず』」とあります。

さらに画像診断の技術が進めば、細胞内の動態まで見えるようになっていくと考えられます。治療の戦略も、より確度の高いものになっていくことでしょう。

小見出しには、「医療の大部分は実は『情報』で成り立っている」の文句が。医療行為といえばもっぱら手術や投薬の印象が強くありますが、患者の病状などの情報を得て、それを医師や医療機関で共有して、医療に役立てるという点では、まさに、医療は情報でなりたっているといえそうです。

『AERA Premium 医学部がわかる』は、アマゾンの売れ筋ランキングで100位以内に入るなど、人気が出ているようです。朝日新聞出版による案内はこちらです。
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=17741

このムックの一部の記事の取材と執筆をしました。
| - | 12:49 | comments(0) | trackbacks(0)
思いが増えて「千本鳥居」の鳥居が1万本に


神社には、鳥居があります。2本の柱の上の部分を貫(ぬき)で固定して、さらに貫の上に黒く塗った「笠木」を渡します。

鳥居は一種の「門」であるとされ、人が住んでいる俗界と、神が住んでいる神域を分けへだてる地点という意味をもちます。その起こりは、木と木のあいだに縄をかけたものとされます。

神社によっては、参道に鳥居をいくつも連ねているところがあります。参詣者は鳥居でできた“トンネル”をくぐっていくようになります。京都・稲荷山にある伏見稲荷大社では、「千本鳥居」とよばれる鳥居の連なりがあります。

伏見稲荷ほどでなくても、多くの鳥居が連なっている神社はいくつもあります。
どうして鳥居が連なるようになったのでしょう。

一説では、千本鳥居をくぐることには「人間の腸壁や胎内をくぐる」といった意味が込められているとされます。鳥居の色が赤いことなどから、そう考える人もいるのでしょう。

いっぽう、伏見稲荷大社の説明では、つぎのようになっています。

「千本鳥居をはじめとする鳥居奉納は江戸時代の後期頃より願いが『通る』『通った』という祈願と感謝の証しとして奉納されるようになったと云われています」

この説明は現実的なものです。奉納する人が多くなったから、鳥居が増えたというわけです。実際、千本鳥居の数は増えつづけ、いまでは1万本以上あるということです。

慣用表現に「鳥居の数が重なる」というものがあります。狐がかぎをくわえて何度も鳥居を飛びこせば稲荷大明神にもなれるという俗諺から、「経験を積む」という意味となりました。「鳥居を越す」ともよばれます。

鳥居には「通る」「通った」という人びとの思いが込められているということですから、くぐればくぐるほど大明神にまではなれずとも、ご利益は多くなりそうです。

参考資料
伏見稲荷大社「伏見稲荷大社の豆知識 千本鳥居」
http://inari.jp/kanban/index_01.html
通信用語の基礎知識「鳥居」
http://www.wdic.org/w/CUL/鳥居
大辞林第三版「鳥居の数が重なる」
https://kotobank.jp/word/鳥居の数が重なる-343962
| - | 11:40 | comments(0) | trackbacks(0)
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