科学技術のアネクドート

ヒューマンエラーはなくせない

写真作者:@yb_woodstock

もしこの世界に「エラー」という事象がまったくなかったら、どうなっていたでしょうか。生きものの多様性は、遺伝子のミスコピーがもとで変異が生じた末に起きるものです。エラーがなければ、人間そのものも存在しえなかったことでしょう。

エラーはというものはなくなりません。ヒューマンエラーについてもそれがいえます。

ヒューマンエラーとは、人間が犯す誤りや失敗のことをいいます。これは、機械がなんらかの原因で誤作動するようなマシンエラーと分けて考えるときによく使われることばといえます。

ヒューマンエラーは大きく、不注意や怠慢のために起きる過失によるものと、結果がどうなるか認識していながらも行う故意によるものに分けることができます。

近道しようとする、手抜きをする、違反をするといった故意によるヒューマンエラーもまた、悪しき意味での“人間らしさ”がでているものといえますが、過失によるヒューマンエラーも人間に本質的に伴うものといえそうです。

故意ではないヒューマンエラーを分類すると、つぎのようになるとされます。

「無知、未経験、不慣れ」「危険軽視、慣れ」「不注意」「集団欠陥」「場面行動本能」「パニック」「錯覚」「中高年の機能低下」「疲労」「単調作業による意識低下」

このうち、聞きなれない「集団欠陥」というのは、集団だからこそおきてしまうような悪習慣などのことを指します。また、「場面行動本能」とは、ある場面に遭遇したときとっさに行動に表れるような本能のことを指します。

2、3日間の人間の生活を考えても、眠くなるし、お腹が減るし、疲れます。一定の状態以上を保ちつづけることはまずもって不可能です。もし、人間ができる「一定の状態を保つこと」があるとすれば、「不安定でいること」となるでしょう。

より長い時間軸を考えても、人間の老化は避けられません。瞬発性や判断能力などが低下していき、それまでできていたことができなくなっていきます。

できれば、ヒューマンエラーを経験しないほうがいいし、ヒューマンエラーに遭遇しないほうがいい。だから、エラーを少なくするための努力というものはおこなわれます。

しかし、本質的にヒューマンエラーを皆無にすることは、上のような理由があるためまずもってできません。

そのため、「ヒューマンエラーは起きるもの」という前提に立ちつつも、起きたヒューマンエラーを事故に導かないためのしくみや、影響を最小限にくいとめるためのしくみが研究されているわけです。

参考資料
humanerror「ヒューマンエラーの分類、認知」
http://www.humanerror.jp/classification.html
NISHIOの広報誌 安全くん「ヒューマンエラーを引き起こす12の原因」
http://www.anzenkun.nishio-rent.co.jp/anzen/444.html
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「多くの人の前で恫喝」の裏に気の弱さ


組織として活動するとき、「みんなのいる前ですべきことと、みんながいないところですべきこと」があるといいます。

こんな場合はどうでしょうか。

「なんで、お前はいつもこんなひどい営業成績なんだ!」
「お前の犯したミス、どうしてくれるんだ!」
「社長の前で、なんだあのひどいプレゼンは!」

社員が何人も集まっている会議で、ある部長が、一人の社員をやりだまに挙げる、ということがあります。

組織全体としての利害からすると、上役が何人もの社員のいる前で一人の社員に対してこのような恫喝をすることは、ほぼ百害あって一利なしと考えられています。

あえて、ごくわずかな利点をあげるとすれば、その課題のある社員に対して抱いている多くの社員の不満を、上役が代弁するということでしょうか。つまり多くの社員の溜飲が下がるということです。しかし、その場で「すっきりした」と感じるだけのことは生産的ではありません。それに、はるかに上回る雰囲気の悪さが残りそうです。

「人を叱るときは、ほかの人がいないところで。人を褒めるときは、ほかの人がいるところで」。ビジネスの世界にはこの原則があるとされています。悪い雰囲気は最小限にとどめて、よい雰囲気は最大限にするということからすれば、当然のことといえます。

しかし、その原則を意識せずに過ごしている人は多くいます。

では、なぜ人前で恫喝するという行為が起きるのでしょうか。

大声を張りあげて人を恫喝する人は、よく、その威勢とは逆に気は弱いといわれます。気が弱いからこそ、それを悟られないためか、あるいはそれを自分で否定しようとするためか、大声を上げて恫喝をする。

このことが本当にそうなのだとすると、何人もの人がいる前で恫喝する人も、気の弱い人が多いと考えられそうです。

ほんとうは、何人もの社員がいる前である社員を恫喝する上役は、その問題社員と部屋のなかで“一対一”になって叱るのが苦手、あるいは不可能なのかもしれません。一人対一人になった部屋で、何人もの社員がいる前とおなじような威勢で恫喝する人がどれだけいるでしょうか。

多くの社員がいるという状況のなかでないと、それほど声を荒らげて一人の社員を恫喝するということはできないものです。
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評価や気づかい、上司から部下へ


会社での上司と部下の関係では、たいてい上司から部下に対して「これをやっておいてくれ」と指示や指図をするものです。これは、組織が営むしくみとして当然のこと。

しかし、「作業をあたえる・受ける」の関係でいえば、上司は「あたえる」側であって、部下は「受ける」側。部下のほうは「これをやっておいてくれ」と上司に言われたからやる、という意識があってもおかしくありません。

そのようにして、作業を受けた部下が作業をするなかで、上司がその部下の作業を認めないと、部下としては「部長がやれといったのに、放っぽりっぱなしかよ」とふてくされた気になってしまいます。

おそらく、終身雇用があたりまえで、有無をいえずにその上司の下ではたらくのが当然だった時代には、部下は上司に指示や指図されたことをするのが当然で、「やったから評価してほしい」という願望はいまより小さかったのかもしれません。

しかし、時代は変わりました。上司に対する不満があれば、部下は自分から異動の希望を出すことが認められたり、あるいは勤めている会社自体を変えたりできる時代です。「俺が若かったころには、上司に褒められることなんかなくてあたりまえだった」といった、自分の昔語りはもはや部下たちには通用しないどころか、反感を買われてしまう時代です。

気づかいというものも、かつては部下が上司にするのがあたりまえでした。いまも、もちろん、組織の営みを円滑に進めるには、部下から上司への気づかいは大切です。しかし、それだけでなく、上司から部下に対しても気づかいをすることが大切になってきているわけです。部下に媚びたり諂ったりするのでなく、気づかいをする、ということが。

しかし、これまで部下に気づかいすることなく過ごしてきた上司が、突然に部下に対して気づかいを意識するのにも抵抗がありそうです。気恥ずかしさもあるでしょうし。

上司が部下を褒めたり、気づかいしたりすることが重要であると考えている組織は、自発的に上司にそういう態度をとることを望むことのほかに、そうした風潮が定着するようなしくみを導入するのも手かもしれません。
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納得してもらうには、“理由づけ”が大切

写真作者:Hiroyuki Takeda

人に納得してもらうときには、“理由づけ”が大切といわれます。

まず、理由なしに納得してもらうのと、理由をつけて納得してもらうのとでは、難易度が大きくちがってきます。

理由なしに納得してもらうには、自分が絶対的な権威をもっていたり、絶対服従の対象になっていたりする必要がありそうです。「理由なんていいから、やれ」と言ったところで、なんの不満や疑問もなしに「はい」と言わせるのは、自分が言うことは絶対であると思ってもらっていることが必要です。

しかし、そのような存在にはなかなかなれないため、人に納得してもらうときには、“理由づけ”が大切になるわけです。

人は、納得できないことや、これから納得しようとしていることについて、なんらかの合理性を見つけだそうとするもの。そこで、理由が示されれば、まずその理由で自分が納得できるかどうかを考えることになります。

しかし、「“理由づけ”が大切」ということばには、「理由をつけることが大切」という意味のほかに「理由をつけるとき、その内容が大切」という意味もふくまれています。

「税金を払う理由に納得が行かない」
「判決の理由に納得が行かない」
「解雇の理由に納得が行かない」

このような話はよく聞きます。理由づけをされても、その内容に納得が行っていないわけです。

このような心境に陥ると、人は示された理由の不合理さばかりに心が奪われ、納得をするどころか、納得から遠ざかるほうへと気持ちが向かっていきます。

そこで、納得してもらいたい人は「合理的な理由」を考えるわけです。ただし、この「合理的」というものにはむずかしいものがあります。「合理的」とは、「論理にかなっているさま」を指すことばです。社会的にはじゅうぶん「合理的」といえることでも、納得してもらいたい人には、その人なりの「理論にかなっている」ことにならない場合もあるからです。

そうなると、どんな内容で“理由づけ”をすることが、その人を納得してもらうことにつながるのでしょうか。

おそらく、その人が大切にしていることについて、その大切さが守られるような理由であることが大切になるのでしょう。
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かつて「遠慮」は遠い先を考えることだった

写真作者:Ryuta Ishimoto

「さあ、遠慮なくおはぎをお食べなさい」
「喪中につき新年の挨拶は遠慮させていただきます」
「写真撮影はご遠慮ください」

「遠慮」ということばには、さまざまな側面があります。いまでは、相手に対して控えめにふるまうことや、するつもりのことをやめることに対して「遠慮」は使われます。

しかし、語源をたどってみると、こうした消極的な行為を指すものではなかったようです。

中国の思想家だった孔子(前551-前479)とその弟子たちの言行録『論語』の「衛霊公第十五」には、つぎのような文があります。

「子曰 人無遠慮 必有近憂」
(孔子が言った 先々のことを考えて行動しないと 禍は身近なところからやってくる)

つまり、「遠慮」ということばは、遠い先のことまであれこれ思いめぐらすことを指していたのでした。たしかに「遠」と「慮」という2文字からすると、このような意味であってもおかしくありません。

しかし、ことばの意味は変わっていくものです。「遠い先のことまであれこれ思いめぐらす」には時間がかかり、おいそれと行動に移すことはできません。この「行動のしなさ」のほうが「遠慮」の主の意味となり、いまでは、「控えめにふるまうこと」や「やめること」を指すようになっているといいます。

江戸時代には、「遠慮」というよび名の刑罰がありました。武士や僧侶に科せられる軽い刑罰で、家の門を閉じてこもらせて昼間の外出を禁じるといったものでした。謹慎のようなものでしょうか。この刑罰の内容からすると、すでに江戸時代には、「控えめにふるまうこと」や「やめること」に近い意味で「遠慮」が使われていたことがうかがえます。

現代の「遠慮」については、むしろ相手から「遠ざかる」といった意味の「遠」のほうがより似あっているといえそうです。

参考資料
スーパー大辞林「遠慮」
語源由来辞典「遠慮」
http://gogen-allguide.com/e/enryo.html
論語ガイド「論語 衛霊公第十五」
http://lunyu.lightswitch.jp/?eid=16#02
古典・詩歌鑑賞(ときどき京都のことも)「『遠慮』の語源について(論語より)」
http://e2jin.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-8ad9.html
ブリタニカ国際大百科事典 「遠慮」
https://kotobank.jp/word/遠慮-38418
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(2015年)9月10日(木)は「本当にあった狂気の科学」


催しものの案内です。

(2015年)9月10日(木)18時30分より、東京・八重洲の八重洲ブックセンター本店で、東京大学大学院総合文化研究科教授の石浦章一さんによる「本当にあった狂気の科学」という題の講演会がおこなわれます。主催は八重洲ブックセンター。協賛は出版社の東京化学同人。

これは、石浦さんらが翻訳した『狂気の科学 真面目な科学者たちの奇態な実験』(レト・U・シュナイダー著、東京化学同人)が(2015年)5月に刊行されたことを記念してのもの。

出版社の内容説明によると、この本に書かれてある「狂気の科学」は、「アヤシイ実験」で、たとえば、イグ・ノーベル賞を受賞するようなものもあるといいます。

目次には、「水から木」「感電と去勢」「バナナタワーの建設」「鏡の中のサル」など、90ほどの見出しが並んでいます。「狂気の科学」といえる研究をひとつずつ紹介していくつくりになっています。

講演会では、石浦さんが、『狂気の科学』のなかから、心理学や医学の分野での奇想天外な研究エピソードを紹介するとのこと。また、石浦さんは、脳と心の関係を分子生物学の観点で研究してきた人物。「ボケない脳のための健康法」についても「特別授業」をするようです。

定員は申し込み先着順で50名。八重洲ブックセンター1階のカウンターまたは電話で申し込みとなります。参加費は500円。講演会終了後にはサイン会も実施する予定ということです。

講演会「本当にあった狂気の科学」は9月10日(木)18時30分から、八重洲ブックセンター8階ギャラリーにて。出版社による詳しい案内はこちらです。
http://www.tkd-pbl.com/files/Dr.Ishiurayaesu20150715.pdf
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眠気が襲うほど食後の体は急変している


「腹八分目に医者いらず」といいます。腹いっぱい食べず、すこし食べる量を控えめにしていおけば、病気になる心配は少ないという格言です。

病気にかかるまでには日数のかかるものですが、その日その日の生活でも「腹いっぱい」まで食べるか、「腹八分」で抑えるかで、大きな差が出てくることが人びとの経験からわかっています。つまり、腹一杯に食べて眠くなるか、腹八分で抑えて眠くならないか、のちがいです。

たとえば、会社員の人が昼休み、定食屋でいつもはしないご飯のおかわりをするとします。すると、会社に戻ってしばらく経ってからの時間帯、眠くて眠くてしかたなくなります。眠かったら寝てしまうほうが、よほど生物としては自然な生きかたですが、会社員というべつの立場からすれば眠ってしまうわけにもいきますまい。

たくさん食べると、どうして眠くなるのか。これには、さまざまな理由がいわれています。おそらく、「そのうちのこれこそが正しい理由」というものはないのでしょう。

まず、食後の血糖値の急激な変化によるものといわれています。

食事をします。たいていの食事には炭水化物がふくまれています。炭水化物は人がエネルギーを得る上で必要な物質です。しかし、一度の食事で炭水化物を摂りすぎると、血液中の棟の量が一気に増えます。高血糖という状態です。すると体はこれではまずいと、膵臓からインスリンというホルモンを分泌します。インスリンは、血液中の棟を脂肪や肝臓などに吸収させますから、これで高血糖の状態から逃れることができます。

しかし、食後の血糖値が急に上がると、それを抑えようとするインスリンが過剰にはたらいてしまい、かえって低血糖を引きおこし、これで眠くなるというのです。

もうひとつの理由は、食事をすると、オレキシンという脳内物質の分泌が抑えられ、その結果、眠気が出てくる、というものです。

オレキシンは、脳の視床下部外側野という場所にある神経細胞がつくる物質です。基本的にはオレキシンが分泌されると人の活動は覚醒するほうに向かいます。逆に、オレキシンが分泌されないと、人は睡眠に陥るほうに向かいます。突然に激しい眠気が遅い、どんな重要な場面でも眠ってしまう「ナルコレプシー」という病気は、オレキシンをつくる神経細胞がなくなることで起きるといわれています。

上の説明にもあるとおり、炭水化物をたくさん摂るような食事をすると、血液内の血糖の量が一時的に増えます。すると、オレキシンを分泌する神経細胞がはたらきにくくなり、オレキシンが分泌されなくなります。これにより、ナルコレプシーほどでなくても、眠気が強くなるというわけです。

さらにまたひとつ、食事をするとセロトニンという物質が増えて、これが眠気につながるともいわれています。セロトニンは、体のなかでトリプトファンという物質からつくられる物質で、精神を安定させる作用があります。

このセロトニンにはもうひとつ、満腹中枢を刺激するという大切な役割もあります。腹いっぱい食べると、セロトニンが脳の視床下部にある満腹中枢というところに「体に対して『もう満腹だよね』って言ってくださいよぉ」とはたらきかけます。これで、人は「もう満腹。食べられない」と感じます。

セロトニンは満腹中枢にはたらきかけて満腹感をもたらします。それとともに精神を安定させるはたらきももっているため、眠気が高まることにもつながります。このしくみによっても、腹いっぱい食べることが眠くなることにつながるのではないかと考えられています。

食後の眠気を防ぐためには、こうしたさまざまな眠気をひきおこすしくみの根本的な原因をなくせば
よいことになります。つまり、炭水化物を多く摂るような食事はせず、腹八分に抑えることです。

参考資料
名古屋大学 栄養生化学講座 栄養生化学雑談「食後になぜ眠くなるのか」
http://nutrition2.agr.nagoya-u.ac.jp/eiyozatudan.html#nemuke
自然科学研究機構 生理学研究所「ブレイン・ミステリー 第11回 肥満ホルモン」
http://www.nips.ac.jp/nipsquare/sknews/series/entry/2010/05/post-4.html
life hacker「食後の眠気は炭水化物のせい。避けるには、一緒に食べるものを選ぶこと」
http://www.lifehacker.jp/2015/06/150604carb_coma.html
安藤栞、石橋理恵、江島みなみ「生活」中村学園大学短期大学部「幼花」論文集 2012年第4号
http://www.nakamura-u.ac.jp/~hashimot/members/papers/Vol4/Vol4-4.pdf
大塚製薬「眠気と集中力低下は、グルコーススパイクが関係」
https://www.otsuka.co.jp/health_illness/snack/page_01_04.html
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「権限」と「権力」のちがいは「正当か強制か」のちがい


「権限と権力はちがう」といわれることがあります。多くの場合、「権限をあたえられているからといって、それを権力とはきちがえるなよ」という警告的な意味合いで使われるようです。

では、「権限」と「権力」は、どのようにちがうのでしょうか。たとえば、新聞には「権限」と「権力」という二つのことばが使われています。

まず、「権限」のほう。新聞記事にはこんな1文があります。

「杏林大の森教授によると、米国では各病院ごとに各医師の訓練歴などに応じてどの難易度までの手術をしていいのかの権限を認定する」。

ここでは、「権限」が指すものは明確です。その前にある「どの難易度までの手術をしていいのか」となります。「どの難易度まで」と書かれてあるので、「権限」は、すくなくともこの文脈では、上限を指しているものと考えられます。

いっぽう、「権力」のほうはどうでしょう。こちらはインタビュー記事からの2文。2030年の電源構成についての政府が開いている審議会を批判する識者のコメントです。

「人選に関するルールが何もないなかで『議論した』ことになっていますが、メンバー構成を見ただけで、ある程度の結論が予想できる。事務局となる官僚が実質的に権力を握る源泉になっているのが審議会です」

こちらの文からは、「権力」が直接なにを指しているのかは読めません。しかし、「議論した」とはいってもある程度の結論は予想できる、といった理不尽なものごとが通ってしまうときに使われる力として「権力」ということばが表現されているようです。

こうしたことを踏まえて国語辞書を見ると、「権限」と「権力」それぞれの意味がこう書かれています。

「権限」。ある範囲のことを正当に行うことができるものとして与えられている能力。また、その能力が及ぶ範囲。

「権力」。他人を支配し従わせる力。特に国家や政府が国民に対して持っている強制力。

二つのことばを示す意味のなかで、もっともちがいを示している部分が、「正当」と「強制」というところでしょう。「権限」のほうは、「正当」つまり、万人にとって道理に合っていると考えることに対して、あたえられるものということになります。いっぽう「権力」のほうは、「強制」つまり、万人にとって道理に合わないと考えることに対して、あたえられるということになります。

「正当」か「強制」か。ここには大きなちがいがあります。あたえられた職務をまっとうするという点で、やはり使われてしかるべきなのは「権限」であり、「権力」ではない、ということになります。「権力」を使うことは、その職務を超えた力を使うことに等しいからです。

参考資料
朝日新聞 2015年3月28日付「(be report)腹腔鏡手術、安全どう確保」
朝日新聞 2015年5月29日付「(インタビュー)エネルギーと民主主義 大阪大学教授・小林傳司さん」
『スーパー大辞林』
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子どもの考える未来技術は創造的で飛躍的


人は“いま”の生活の延長にある未来のできごとを想像しがちです。しかし、人びとを驚かせるような革新的な技術は、“いま”の生活の延長で考えるのとはまたべつのところにある発想から生まれるものかもしれません。

そうした、“いま”とは切りはなされた発想が生まれるのは、えてして子どもら若い世代から。あるいは、そうした発想は、大人になるにつれて忘れていくものなのかもしれませんが。

たとえば、「スマートフォンの未来のあり方」を子どもが考えるとどうなるでしょう。その具体的な例を「スマホ未来コンテスト」という催しもののサイトで見ることができます。このコンテストは慶應義塾大学の主催で、6歳以上の児童から大学院生までを対象に「スマートフォンで、未来の社会をより明るく、楽しく、優しくする作品」を募集するもの。2015年で第6回となり、9月30日まで募集をしています。

サイトには、第1回から第5回までのコンテスト受賞作品が紹介されています。たとえば、つぎのようなもの。

「だれとでもケータイ」(第3回未来創造部門最優秀作)。

小学生からの作品です。プレゼンテーション資料には「スーパーコンピューターがインターネット上にあるたくさんの情報を自動的に集めてすぐ分析」とあります。ここまでは、いまの社会でも行われている技術といえます。しかし、その先が創造的です。「いつでも誰とでも(生きていない物でも)会話ができる!」とつづき、その絵として、“いま”を生きる人が、織田信長に人生相談をしたり、太陽の塔に「太郎さんのこと。どう思いますか」と尋ねたりしている場面が描かれています。

「浮遊型スマホ」(第5回最優秀賞)。

高校2年生の作品です。こちらの資料では「スマホを尻のポケットに入れたまま座って…『あ やべ!!』となる… きっと誰もが一度は体験したことがあるのではないでしょうか。でももう大丈夫!! 未来は浮遊型スマホ!!」とあります。そして、使用者のまわりを蝶のようにひらひらと浮かんでいるスマートフォンを絵で示しています。音楽を聞くときは、耳の近くに浮遊型スマホが近づき、また、本を両手でもっているときも浮いているスマートフォンに話しかけて使うことができます。

「形が自由に変わる携帯」(第3回未来創造部門審査員特別賞)。

小学生からの作品です。「普段は小さいがボタンを押すとビョ〜ンと大きくなる」とあり、さらに「とてもうすくてやわらかい」ため「まるめる」ことも「たためる」こともできるとしています。ふだんの姿が“箱型”でなく、“ボタン型”になっています。「スマートフォンは箱型」という既成概念がうち破られています。

大人が過去の長い時間に得てきた経験や知識をもとにものごとを考えるときは、「こんなことはできるはずがない」という否定的なものになってしまいがちなもの。

しかし、子どもには、「こんなことはできるはずがない」と否定する材料になる経験や知識が多くなく、かえってそのことが創造的な発想をもたらすのかもしれません。「飛躍的な発想とはなにか」について、彼ら・彼女らから得られることはすくなくありません。

「スマホ未来コンテスト」のサイトはこちらです。
http://sdc.sfc.keio.ac.jp/2015/index.html
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「持って、成す」から「おもてなし」


大学や企業などで「おもてなし」というものを科学的な視点で研究しようとするとりくみがあります。東京大学人工物工学研究センターとANA総合研究所が共同で2015年6月、「おもてなし」の科学的理解に向けて研究を始めたことを発表しました。

研究では、「おもてなし」の源泉を相手に対する“気づき”と仮定。そして、工学的な視点で満足度の高いサービスを目指す「サービス工学」の手法で、“気づき”を科学的に分析してモデル化することを目指すといいます。

「おもてなし」を理解するためには、そもそも「おもてなし」ということばそのものがなにを指すのか知っておく必要もありそうです。

2013年8月の国際オリンピック委員会総会で、滝川クリステルさんが東京五輪招致のためにプレゼンテーションをしたとき、「おもてなし」についてこう説明しています。

「東京は皆様を、ユニークにお迎えします。日本語ではそれを『おもてなし』という一語で表現できます。それは、見返りを求めないホスピタリティの精神、それは先祖代々受け継がれながら、日本の超現代的な文化にも深く根付いています」

「おもてなし」は「もてなし」に、丁寧語の「お」が付いたもの。「もてなし」を漢字も使って書くと「持て成し」となります。「持って、成す」ということから「持て成し」は来ているようです。では、なにを「持って」なにを「成す」のでしょう。

ことばの語源を示すさまざまな情報を総合すると、まず、「成す」というのは「そのようにする」とか「そのように扱う」とかを意味するもののようです。なにを「そのようにする」のかについては、明確な説明は見られません。

いっぽう、「持って」のほうは、さまざまなことが言われています。この「持って」は、手段などを表す「で」とにた意味の連語「以て」に由来する接頭辞「もて」のことであると考えられているようです。「もて」は、「もてはやす」や「もてかくす」などとおなじように、動詞の前に付いて意味を強めたりするのに使います。

これらからすると、「おもてなし」とは、強い意味を込めて「そのようにする」といった振るまい方や心のもち方ということがいえそうです。

すると、やはり問題になるのは「成す」を「そのようにする」としたとき、なにを指して「そのようにする」とするのかということになります。

「おもてなし」そのものは、相手に接することで成立するものと考えられますから、相手とのやりとりによって実現できるようなことを指して、「そのようにする」のだと考えることができます。

明確になにを「成す」かはあえて日本語のあいまいさとして示さないものの、相手と接してこそ実現することを「成す」。このような語感を「おもてなし」はもっているのかもしれません。

参考資料
東京大学人工物工学研究センタ−・ANA総合研究所 2015年6月4日発表「東京大学とANAは、『おもてなし』の科学的理解に向けた共同研究を開始します。」
http://www.anahd.co.jp/pr/201506/20150604.html
ハフィントン・ポスト 2013年9月8日付「オリンピック東京プレゼン全文、安倍首相や猪瀬知事は何を話した?(IOC総会・プレゼン内容)」
http://www.huffingtonpost.jp/2013/09/07/olympic_candidate_tokyo_presentation_n_3886260.html
RICOH Communication Club「『おもてなし』についてのうんちく」
http://www.rcc.ricoh-japan.co.jp/rcc/breaktime/untiku/131022.html
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2020年「5G」で現行の60倍以上の通信速度に

写真作者:pinboke_planet

東京五輪が行われる2020年をひとつのめどに、無線通信の高速化が計画されています。計画されている方式は「第5世代移動通信方式」などとよばれ、「5G」の略称もついています。

いま、インターネットなどで使われている無線通信には、大きく分けて2種類があります。

ひとつは「無線LAN(Local Area Network)」とよばれるもの。カフェ、駅、家などのなかで使われています。無線LANの代表的な規格が「Wi-Fi」。これは“Wireless Fidelity”を略したもので、直訳すると「無線通信の忠実性」といった意味になります。

もうひとつが、「移動体用通信システム」などよばれるもので、こちらが「5G」と関係するものです。移動体用通信システムは、基地局が発する通信用電波を使うもの。無線LANよりも対象エリアが広く、電波は建てものの外も飛んでいます。

移動体用通信システムでは、2001年以降「第3世代移動通信方式(3G)」や「第4世代移動通信方式(4G)」という方式が使われてきました。テレビ広告などでしばしば宣伝されていた「LTE(Long Term Evolution)」も移動体用通信システムの規格のひとつで、当初は「3.9G」などといわれてきましたが、いまでは「4G」のひとつと位置づけられています。

LTEの通信速度は150メガビット毎秒ほど。これは、ウィキペディアによると「大きめの折り畳み式の地図のデータ量」を1秒間に送信することができる程度の通信速度とされます。

いっぽう、2020年のサービス提供開始が計画されている「5G」では、10ギガビット毎秒の通信速度が目指されています。LTEでの150メガビットは0.15ギガビットなので、10ギガビットはLTEの66.6倍といった計算になります。理論的には、いまのスマートフォンなどで使われている移動体用通信システムの66.6倍のデータ量を、おなじ時間あたりにやりとりできるようになるわけです。

5Gの通信速度は、いまの光ケーブル通信との比較においても実感できます。NTT東日本は、2014年7月より、「フレッツ光」という光回線通信で「毎秒1ギガビット」のサービスを始めました。「有線のほうが通信速度が高い」という印象がもたれるなかで、いま普及している有線での最大通信速度は毎秒1ギガビット。いっぽう「5G」は毎秒10ギガビットが計画されているので、その通信速度は単純計算では、いまの光回線の10倍ということになります。

通信速度が時代ごとにつぎつぎと高まっていく理由には、社会で扱われる情報の量が膨れあがっているから、ということがあります。それと同時に、通信速度が高まるからこそ、より多くの量の情報を扱うことができるようになる、ということできそうです。

参考資料
大塚商会「Wi-Fi、3G/4G、LTE、WiMAX…無線ネットワークを理解する」
https://qqweb.jp/QQW/STATICS/it/pc_techo/201308_2.html
NTTドコモ「ドコモ5Gホワイトペーパー」
https://www.nttdocomo.co.jp/binary/pdf/corporate/technology/whitepaper_5g/DOCOMO_5G_White_PaperJP_20141006.pdf
ウィキペディア「データ量の比較」
https://ja.wikipedia.org/wiki/データ量の比較
日刊工業新聞 2014年6月25日付「NTT東日本、来月1日から通信速度毎秒1ギガビットのFTTHサービス」
http://www.nikkan.co.jp/news/nkx0220140625bfax.html
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「オーバー・ザ・トップ」がキャリアや国を超える


かつて「オーバー・ザ・トップ(Over The Top)」という映画があったことを懐かしむ人もいることでしょう。シルベスター・スタローン主演の腕相撲を題材にする作品で、1987年に公開されました。

いま、「オーバー・ザ・トップ」は、まったくべつの物事を指すことばとして使われています。情報通信の分野で、“Over The Top”の頭文字をとって「OTT」などとよばれています。

情報通信分野におけるOTTとは、通信会社やインターネット・プロバイダとは関係なしに、インターネット上で利用することのできる通信サービスのことを指します。その最たる例が、LINEとされています。

本来、スマートフォンや携帯電話で電話をしたりするときには、NTTドコモやソフトバンクなどの「キャリア」とよばれる電気通信サービスの事業者が提供するサービスを利用するのがあたりまえのことでした。

しかし、LINEの利用者は、自分の携帯電話のキャリアがNTTドコモであろうと、ソフトバンクであろうと、おかまいなしにアプリをインストールして、ほかのLINE利用者と通話やメッセージ交換をすることができます。しかも、こうした通話やメッセージ交換は、インターネットのパケット通信代をべつにすれば、無料で行うことができます。とくに通信料金を払うのが大変な若者世代などにとって、このOTTのサービスはありがたいもの。

LINEなどのOTTサービス提供者は、通信回線を単なるデータの通り道と考えているわけです。基本的にはお金のほぼかからない公道を使って、配送サービスをおこなうのとにています。

ただし配送会社とちがってLINEなどのOTTサービスは無料で利用することができます。サービス提供者は、直接の利用料とはべつのかたちで利益を得るしくみを築いています。たとえば、LINEのサービスを提供するNHNは、「NAVERまとめ」というインターネット上の情報をまとめるサイトでの広告収入などで利益を得ているとといいます。

OTTでは、契約事業者や国籍のちがいを超えて利用者が広がっています。

参考資料
IT用語辞典 e-Words「OTT」
http://e-words.jp/w/OTT.html
日経テクノロジーオンライン「OTTとは」
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/WORD/20130108/259251/
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「廃校」増えるも4分の3が活用


少子化や市町村合併などにより、日本の各地では廃校が増えています。

文部科学省の調査によると、公立の小・中・高校では1989年ごろまで年度あたりの廃校の数は200校前後を推移していました。その後、増えはじめ、2004年には577校に。その後も、年度ごとに500校前後で推移し、2012年には598校にまでのぼったといいます。

廃校の数がここ20年ほどでもっとも多いのは北海道です。1992年度から2010年度まででは、706校が廃止されました。意外なところでは、つぎに廃校数が多いのが東京都。おなじ期間で374校が廃止されました。

少子化が廃校の理由のひとつとなっており、廃校にはやむをえない部分はありそうです。建てものはそのまま残されるのですから、廃校をむしろ資源として捉えることが大切なのかもしれません。実際、廃校をさまざまなかたちで利用する事例があります。文部科学省は、「『みんなの廃校』プロジェクト」という事業をたちあげ、「廃校施設等活用事例リンク集」を掲げています。

工場としての廃校利用は数多くあります。たとえば、食品製造業の白神フーズは、秋田県大館市の旧山田小学校の校舎を生ハム工場として活用しています。

また、レストランや宿泊施設としての廃校利用もあります。山梨県北杜市に本社のある「おいしい学校」は、旧須玉町(いまの北杜市)にあった津金小学校で、レストラン、パン工房、宿泊施設を兼ねた施設を営業しています。

芸術の発信の場として使われるのも、廃校利用の“王道”のひとつといえそうです。東京都千代田区にあった旧錬成中学校では、「アーツ千代田3331」として、メインギャラリーのほか、スタジオやオフィスなどを設置。「Food Lab & 居酒屋らぼ」といった飲食店も入っています。

2011年5月時点で、建物が現存する廃校のうち3754校のうち、活用されていたり、利用の予定があったりするのは2863校で合わせて76.3%。利用の予定がないのは891校で23.7%。4校に3校はなんらかの施設として使われることが決まっているという率になります。「けっこう使われているではないか」と思う人も多いのではないでしょうか。

参考資料
産経新聞 2014年11月13日付「公立1000校超、2年間で廃校に 少子化が影響」
http://www.sankei.com/life/news/141113/lif1411130038-n1.html
文部科学省 2011年9月16日発表「廃校施設等活用状況実態調査について」
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/23/09/__icsFiles/afieldfile/2011/09/16/1311255_1_1.pdf
文部科学省「未来につなごう 『みんなの廃校』プロジェクト」
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/zyosei/1296809.htm
白神フーズ「白神生ハム」
http://www.shirakami-foods.co.jp/03.html
おいしい学校
http://www.oec-net.ne.jp/index.html
アーツ3331
http://www.3331.jp
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「拡大・縮小」に2か所以上感知のタッチパネル方式

写真作者:Andrew Mager

携帯電話とスマートフォンの操作のしかたの大きなちがいに、物理的なボタンを押すか、画面上のボタンに触れるか、があります。

携帯電話では、画面は情報を見るところであり、ことばや記号を入力するなどの操作は、画面とは異なるボタンでおこないます。いっぽう、スマートフォンでは、画面は情報を見るところであるともに、ことばや記号を入力するところでもあります。

画面を指で触れて操作することのできるスマートフォンでは、よりからだの動作に結果が従うようになりました。たとえば、2本の指を画面に置いて距離を狭めれば表示を縮小することができ、逆に広めれば表示を拡大できるようになりました。

こうした画面に直接触れて操作する方法は、スマートフォンに始まったわけではありません。身近な例として、駅でのタッチパネル式の自動券売機は1993年ごろから出はじめました。とはいえ、スマートフォンならではといえる操作を実現させた技術も後年になり開発されています。

タッチパネルのしくみはさまざまありますが、スマートフォンにおもに使われている方式は、投影型静電容量方式とよばれるものです。

まず、静電容量方式というのは、タッチパネルの表面を指で触れたときに生じる静電容量という量の変化をセンサが感知して、どこに触れているかを装置が認識する方式のこと。静電容量というのは、どのくらい電荷が蓄えられているかを表す量のこと。指先が画面に触れると、そこに電流が生じて静電容量が変わることを利用します。

静電容量方式のなかでも、「投影型」とよばれるものは、ガラス基盤と保護カバーのあいだに、透明な電極層が縦方向と横方向に敷かれているしくみのもの。ちょうど、格子模様を描くように、たがいちがいにx軸方向とy軸方向の電極層が現れています。指で触ると、画面の縦と横それぞれどの位置で静電容量が変わっているのかがわかり、これで触れている場所を感知することができます。

なお、静電容量方式にはもうひとつ、「表面型」とつくものがあります。こちらは、ガラス表面に敷かれた薄い導電性物質に微弱な電流流しておき、パネルの周辺の電極のパタンの変化から、静電容量の変化を感知するもの。

「投影型」は、「表面型」とちがって、おなじ画面上で、一度に1か所だけでなく、2か所や3か所の指の接触を感知することができます。これにより、2本の指を画面において、距離を狭めたり広めたりすることで、表示を縮小したり拡大したりすることができるわけです。

投影型静電容量方式は、スマートフォンのiPhoneのほか、iPadなどのタブレット端末でも使われているとされています。

参考資料
スマートフォン情報局 TOUCH & SLIDE「ピンチ」
http://touch-slide.jp/glossary/web担当者様向け/ピンチ/
日本写真印刷「静電容量方式タッチパネル」
http://www.nissha.com/products/dev/input/cap.html
ITmedia PC USER_「なぜ画面に直接触って操作できるのか?――『タッチパネル』の基礎知識」
http://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/1009/27/news004.html
ミナトホールディングス「表面型・投影型静電容量方式タッチパネル」
https://www.minato.co.jp/jp/product/tp/about/seitp/
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「前工程は神様、後工程はお客様」


世の多くの仕事は、一人で完結するものではありません。自分より前の工程でべつの人がおこなった作業を受けて、自分が作業をする。そして、自分が作業をした結果を、自分より後の工程を担うべつの人に渡す。こうして、作業は流れていくわけです。

機械がいまより世に溢れている10年後や20年後はどうかわかりませんが、すくなくとも21世紀になるころまで、ものづくりをする工場では、「前工程」「自分」「後工程」という流れがあたりまえにありました。

ものづくりの質をとりわけ重視する傾向にある日本の企業では、「自分」に対して「前工程」と「後工程」それぞれへの“接しかた”の心構えを植えつけようとするとりくみも見られます。

その一例が、「前工程は神様、後工程はお客様」という合言葉。トヨタ自動車のものづくりを体系化したトヨタ生産方式でいわれているようです。

ものづくりの工程において、部品を組み立てていく「自分」は、前工程の人に「この部品がいくつほしい」という注文を出します。部品を売ってくれるような場所であるため、前工程のことを「ストア」ともよびます。「前工程は神様」ということばには、自分たちの作業にとってなくてはならない存在であるという心のありかたが現れているといいます。つまり、「自分の仕事をあたえてくれる前工程の人につねに感謝しよう」というわけです。

いっぽう、「自分」が作業で組み立てた部品を、今度は「後工程」の人が必要なときに必要な分だけ取りにきます。日本では、店に客が来てほしいものを買おうとするとき、店員は当然のように客のことを「お客様」として接します。当然ながら、不良品などを売ってしまえば、客に迷惑をかける事になります。おなじように、ものづくりでも、後工程で部品を取っていく作業者を大切な「お客様」と捉えて接しなければならない。このような心のありかたが、「後工程はお客様」ということばに現れているということです。

こうした「合言葉」のようなものを高めることによっても、作業者たちの士気を高めることができます。「たかが合言葉」などと軽視できるものではありません。

参考資料
Lean-Manufacturing-Japan「後工程はお客様」
http://www.lean-manufacturing-japan.jp/jit/cat233/post-21.html
PHP人材開発「トヨタ式人づくり お客様のために何ができるかを考える」
http://hrd.php.co.jp/gyoukai/cat198/post-531.php
フェイス総合研究所「前工程は神様、後工程はお客様」
https://www.faith-h.net/case/clm/c141224.html
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カップ焼きそばにも、納豆にも、つゆにも、肉にも地域性


製品に虫が入っていたとして販売がとりやめられていたまるか食品の「ペヤングソースやきそば」が、2015年6月、再び販売されるようになりました。「待ってました!」という反応もあり、再販売後の売れゆきはとてもよいようです。

しかし、再販売の反響については、地域によってさまざまかもしれません。「歓迎と反対」という軸でなく、「関心と無関心」という軸での地域差があるためです。

俗に、カップ焼きそばには「勢力図」があるとされています。大きく分けると、東日本では「カップ焼きそばといえば、ペヤング」となっているものの、西日本では「カップ焼きそばといえば、日清食品のU.F.O.」とされています。「U.F.O.」は日清食品のカップ焼きそばです。ほかにも、北東北地方や北海道では「カップ焼きそばといえば、東洋水産のやきそば弁当」とされているようです。

食の地域性というものは、むかしから存在していたものといえます。地域によって得られる食材は異なってきますので、その地域で食べられるものと食べられないものがもともとありました。

たとえば、いくら北海道でいも焼酎を飲みたくても、北海道でさつまいもは栽培されていなかったため、流通網が発達していなかったころは、なかなか飲むことができませんでした。最近では、技術革新によって北海道でもさつまいもを栽培する取り組みがあるようですが。

ほかにも、納豆は東日本では好まれて食べられるものの、関西や九州では、たまに食べる程度にとどまっている、といった傾向も見られます。うどんなどのつゆについても、関西はだしによる薄味で、関東ではしょうゆによる濃い味がよく付けられる、という傾向がいわれています。

そして、こうした食の地域性は、ビッグデータを得て分析することで如実に、そしてより客観的にわかるようになってきています。

日本経済新聞社の「オープンデータ情報ポータル」では、「食の日本地図」という試みをしています。これは、総務省の「家計調査」という統計の結果を日本地図上に可視化して、さまざまな調査項目の都道府県別の支出金額の傾向がわかるというもの。

たとえば、「西日本は牛肉文化、東日本は豚肉文化」などといわれます。そこで「肉類」というカテゴリーの「牛肉」という調査項目を見ると、やはり京都府と滋賀県では、牛肉の1世帯あたりの支出金額は4万5000円以上と全国一の水準にあるいっぽう、東京都や神奈川県では2万円から2万5000円の範囲と大きく異なります。豚肉のほうはというと、埼玉県、山梨県、静岡県などが3万5000円以上ので全国一の水準であるいっぽう、大阪府は2万5000円から3万円の範囲。やはり、「西日本は牛肉文化、東日本は豚肉文化」の傾向をうかがうことができます。

冷凍・冷蔵技術が進歩して食品が長もちするようになった。流通網が発達して食品が全国に出回りやすくなった。交通網が発達して人の移動が激しくなった。情報量が増えてさまざまな地域の食品の情報を得やすくなった。こうした急激な変化があるにもかかわらず、いまもなお食の地域性というのが色濃く現れているのは研究の対象になりうるものです。

参考資料
Jタウンネット東京都「『納豆嫌い』多い県は? 現代の『納豆格差』、全国アンケートで判明」
http://j-town.net/tokyo/research/results/190941.html?p=all
NIKKEI オープンデータ情報ポータル「『食の日本地図』2014年データを追加 地域の上位品目を表示する新機能も」
http://opendata.nikkei.co.jp/article/kakei-chosa-2005-2014/
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サーバー、ルーター、ケーブルがあってインターネット


日々インターネットで膨大に飛びかっている情報は、実際どのように人から人へと伝わっているのでしょう。

そこには、サーバーとルーター、そしてケーブルの存在があります。

サーバーとは、情報を保管する役目の装置のこと。人によって発信した情報を預かります。その情報を必要な人は、サーバーから入手することになります。

サーバーの大切さは、「サーバーがもしなかったら」と考えるとわかります。サーバーがもしない場合、情報の発信する人のコンピューターの電源がつねに入っていないと、情報をあたえることができません。実際、インターネットより前の通信では、サーバーが存在しないため、そうしたことが課題になっていたといいます。

いっぽう、ルーターとは、複数あるコンピュータネットワークのなかで、最適な経路を選んで情報を伝えるための装置のこと。

たとえば、インターネットのサイトのある情報を得たい人がその部分をクリックするとします。つまり「このページ内容をほしい」という信号を発することになります。

この信号を受けてルーターは、回線の混み具合などを見ながら、どの筋道をたどって情報を預かっているサーバーにたどり着くのが適切かを判断します。このときルーターが参考にするのが、インターネットプロトコル(IP:Internet Protocol)というネットワーク上のルールにのっとった、宛先や差出人についての情報。ルーターは、インターネットプロトコルの情報をもとに、つぎのルーターに「このページの内容をほしい」という情報を届けます。

こうして、ルーターからルーターへと「このページの内容をほしい」という情報がバケツリレーのように伝わっていき、サーバーに届くわけです。

こうしたサーバーやルーターの情報の経路となるのがケーブルというわけです。

参考資料
「インターネットはどう世界につながっている?」『サイエンスウィンドウ』
http://sciencewindow.jst.go.jp/issue/pdf/SW2013_1-3_1P.pdf
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「突出した才能」を認める先に新たな社会


人は、その人だからこその才能がある、といわれます。

人前でなにかを発表するのが得意な人。短距離を速く走れる人。絶対音感をもっている人。その才能はさまざまです。

人あたりもよいし、意思疎通もうまくこなすし、空気を読むこともできる。こうした「人との接し方がまんべんなくうまい人」はいます。

いっぽうで、人との接し方などは、ふつうの人よりも劣っているけれども、ある特定の分野にだけ突出した才能をもっている、という人もいます。

たとえば、「2065年7月14日は何曜日」という質問に、すぐに正解を言うことのできる人。パリの街並みを飛行機から撮った写真を、ほぼそのままに手描きで再現することのできる人。円周率のような、数字の並び方の意味を見出すのがむずかしい物事を暗誦することのできる人。こうした人は、世の中に確実に存在します。

しかし、人間社会というものは、えてして突出した才能よりも、自分にとっての常識的な広い意味でのコミュニケーション能力のほうを重視しがちです。突出した才能をもってはいないが、ふつうに会話をすることができる。そういう人のほうが多い世の中では、ふつうに話すことが重視されます。

では、突出した才能はないけれど、人との意思疎通を卒なくこなすという人だけが、この世の中を占めればよいのか。現実的に、その真逆の、意思疎通は苦手ながら突出した才能をもっている人もいる社会では、そうした突出した才能をもつ人の価値を認めて、その才能を伸ばそうとするとりくみも見られます。

意思疎通は苦手ながらも、突出した才能をもっているような人は、「自分はこのままでいいんだろうか」と自省するかもしれません。また、親も心配するかもしれません。

これに対して、突出した才能を伸ばすとりくみをしている研究者は、「もし本当に自分の子どもがユニークな何かをもって生まれているなら、無理にオールマイティに育てようとはせずに、そのかたよったユニークさを一緒に楽しんでいく方が、親も子も幸せなのではないか」と話しています。

人は、自分自身の「規矩」というものを中心軸にして、世の中のものごとを考えようとするもの。しかし、自分の規矩とはかけ離れるような「突出した才能」をもつ人もいるのだということを認めることで、また新たな社会が構築されていくものかもしれません。
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エイズは「死に至る病気」から「長生きできる病気」に(下)
エイズは「死に至る病気」から「長生きできる病気」に(上)
エイズは「死に至る病気」から「長生きできる病気」に(中)

エイズ感染者に対して、複数の種類の抗エイズウイルス薬をあたえる「多剤併用療法」で、感染症後の平均余命は飛躍的に伸びることになりました。まず、抗エイズウイルス薬として、1987年に、核酸系逆転写酵素阻害剤の「ジドブジン」(ZDV:zidovudine)が使われはじめたのは、きのうの第2回で伝えたとおりです。

その後、1992年に、「ジダノシン」(ddI:2′,3′-dideoxyInosine)という抗エイズウイルス薬が開発されました。ただし、こちらもジドブジンとおなじ種類の核酸系逆転写酵素阻害剤です。

ジドブジンとは異なる種類の抗エイズウイルス薬が使われはじめたのは、米国では1996年3月。日本では、翌1997年4月のことでした。この薬は「プロテアーゼ阻害剤」の「インジナビル」といいます。


インジナビルの構造式
画像作者:Vaccinationist

プロテアーゼは、またの名を「タンパク質分解酵素」ともいう物質。タンパク質を、水との反応によって分解する酵素のことをいいます。このプロテアーゼがタンパク質が分解していくはたらきを阻害、つまりじゃまする薬が、プロテアーゼ阻害剤です。

エイズウイルスが感染した細胞のなかでは、エイズウイルスに特有のプロテアーゼが“はさみ“のようにはたらいて、エイズウイルス蛋白という物質を切っていきます。このエイズウイルス蛋白を“はさみ”で切った細かい部品のような物質の群が組み立てられると、エイズウイルスが複製されたかたちになり、エイズウイルスの増殖につながっていきます。

いっぽう、プロテアーゼ阻害剤は、プロテーゼがエイズウイルス蛋白を切っていくときの“はさみ”の刃にあたる部分にはまり込みます。すると、プロテアーゼはエイズウイルス蛋白を切ることができなくなります。これでエイズウイルス複製の元になる部品がつくられづらくなるわけです。

抗エイズウイルス薬としてのプロテアーゼ阻害剤の第一号として世界で使われはじめたのが「インジナビル」です。それまでにあった抗エイズウイルス薬よりも強力という評判も起きました。その後も、プロテアーゼ阻害剤では、「サキナビル」や「ネルフィナビル」などの薬が開発され、認可されました。

インジナビルのようなプロテアーゼ阻害剤は、核酸系逆転写酵素阻害剤よりも、エイズウイルス増殖過程の後の段階ではたらく薬です。つまり、核酸系逆転写酵素阻害剤とプロテアーゼ阻害剤を併用することで、“二重の関所”が設けられるようなかたちになり、エイズウイルスが増殖していくのを強力に抑えることができるようになるわけです。

世界ではじめて使われだした核酸系逆転写酵素阻害剤についても、ジドブジンやジダノシンのほか、新たな薬が開発されました。また、逆転写酵素阻害剤でも非拡散系のほうで、「ネビラピン」という薬の使用が認められることになりました。

こうして、核酸系逆転写酵素阻害剤、非核酸系逆転写酵素阻害剤、プロテアーゼ阻害剤といった各種の抗エイズウイルス薬がつぎつぎと使われるようになっていったのです。

その結果、いまでは、核酸系逆転写酵素阻害剤2剤とともに、非核酸系逆転写酵素阻害剤またはプロテアーゼ阻害剤の主要な薬を1剤あるいは2剤、組み合わせて投与する方法が、通常の多剤併用療法となっています。

多剤併用療法では、当然ながら複数種類の抗エイズウイルス薬を使うことになるため、医療費が高くなります。自己負担として考えると、毎月15万円から20万円にもなるといいます。保険により「3割負担」で済むとしても5、6万円はかかることになります。こうした費用の点から日本では、「身体障害者(免疫機能障害)」の認定を受けて、医療費の助成を受けるエイズウイルス感染者も多くいます。

エイズウイルスの感染が「死に至る」ということに直結するというリスクは確実に低くなりました。抗エイズウイルス薬を使うことによる医療費を下げていくことや、エイズウイルス感染者に対する偏見などをなくしていくことなどが、社会の課題になっています。

参考資料
NPO法人イルファー「HIV増殖の過程」
https://inadaetal.wordpress.com/2011/12/20/hiv増殖の過程/
エイズ関連用語集「HAART」
http://www.weblio.jp/content/HAART
ウィキペディア「インジナビル」
https://ja.wikipedia.org/wiki/インジナビル
日本化学物質辞書Web「ネビラピン」
http://www.weblio.jp/content/ネビラピン
薬剤耐性HIVインフォメーションセンター「治療の現状と問題点」
http://www.hiv-resistance.jp/knowledge01.htm
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エイズは「死に至る病気」から「長生きできる病気」に(中)
エイズは「死に至る病気」から「長生きできる病気」に(上)

エイズウイルス感染者に対して、さまざまな種類の抗エイズウイルス薬剤を併用することでエイズの進行を抑える「多剤併用療法」が1997年から行われるようになりました。これで患者のエイズウイルス感染後の平均余命は飛躍的に伸びることになりました。

その多剤併用療法につながる、最初の抗エイズウイルス薬剤となったのが、「ジドブジン」(ZDV:zidovudine)とよばれる薬です。またの名を、「アジドチミジン」(AZT:azidothymidine)といいます。もちろん、この薬がエイズの治療薬として「初」ということなので「多剤併用」にはまだ至りませんが。

ジドブジンは、抗エイズウイルス治療薬のなかでも「逆転写酵素阻害剤」とよばれる種類の薬です。


ジドブジンの構造式
画像作者:Jü

逆転写酵素とは、リボ核酸(RNA:RiboNucleic Acid)の塩基配列を写しとって、デオキシリボ核酸(DNA:DeoxyriboNucleic Acid)を合成する反応をおこなう酵素のことです。過去の研究では、DNAの情報をRNAが写しとるという「DNAからRNAへ」の一定方向の過程だけが存在すると考えられてきました。しかし、その逆に「RNAからDNAへ」の方向の過程があることがわかり、「逆転写」とよばれるようになったのです。

エイズを引きおこすエイズウイルスは、自分のRNAを遺伝物質としており、ヒトなどの細胞のなかに入ると、そのRNAを逆転写することでDNAをつくります。この種のウイルスは「レトロウイルス」とよばれています。

この逆転写酵素は、レトロウイルスに特有なものであり、ヒトがもっているものではありません。そこで、逆転写酵素をはたらかなくさせれば、「RNAの塩基配列を写しとってDNAをつくる」という過程でじゃますることができ、エイズの進行を食いとめることができる、ということになります。そのはたらきをもつ薬が、逆転写酵素阻害剤です。

逆転写酵素阻害剤としてはじめて開発されたジドブジンは、つぎのような作用で、エイズウイルスの逆転写を阻害します。

ジドブジンは、エイズウイルスの感染を受けた細胞のなかで、リン酸化という化学反応によって、三リン酸化体という物質になります。この三リン酸化体は、エイズウイルスが逆転写でDNAをつくろうとするときに必要な核酸構成成分とよく似ています。そのため、エイズウイルスがまちがえて、ジドブシンからつくられた三リン酸化体をとりこんでしまいます。これにより「RNAからDNAへ」という過程を阻害し、その先のエイズウイルスが増えていく過程に至らせなくさせます。

とくに逆転写酵素阻害剤のなかでも、ジドブジンのように、ウイルスが逆転写でDNAをつくろうとするとき“まがいもの”となってDNAができるのを抑えるものを、核酸系逆転写酵素阻害剤といいます。いま、逆転写酵素阻害剤では、核酸系のほか、逆転写酵素に結びつくことで酵素の化学的なつくりを変えてしまい、酵素をはたらかなくさせる非核酸系逆転写酵素阻害剤もあります。

ジドブジンは1987年3月、米国で初めて抗エイズウイルス薬として認められました。日本でも同年11月に発売が始まりました。多剤併用療法を実現するための第一歩となる薬が使われるようになったわけです。つづく。
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エイズは「死に至る病気」から「長生きできる病気」に(上)
人がはじめに受けた印象というものは、なかなか拭えないもの。病気についても、「かかるとほぼかならず死に至る」といわれていた病気に対しては、その知識が人びとのなかに強く残るものです。

しかし、その「かつて」からは時が経ち、いっぽう世界では医療が進歩しています。「ほぼかならず死に至る」ものでなくなっている病気もあります。

エイズ(AIDS:Acquired ImmunoDeficiency Syndrome) もその一つ。この病気は、エイズウイルス(HIV:AIDS Virus)の感染により起こるもの。感染した人の体では免疫のしくみが破壊されて、通常は起きることのない病気が起きて、悪性腫瘍のひとつであるカポジ肉腫などの症状が起きます。かつては、まさに「かかるとほぼかならず死に至る」といわれていました。


リンパ球に結合するエイズウイルス「HIV(Human Immunodeficiency Virus)-1」
写真作者:C. Goldsmith Content Providers(s): CDC/ C. Goldsmith, P. Feorino, E. L. Palmer, W. R. McManus

エイズウイルスに感染した体から、エイズウイルスをとりのぞくなどして、根治するということは、いまの医療をもってしても実現していません。

しかし、医療の進歩によって、エイズの症状が進んでいくことを食いとめることはほぼできるようになっています。これにより患者は、非感染者とおなじような暮らしを送ることもできるようになりました。

「ほぼかならず死に至る」いわれていた時代、25歳でエイズウイルスに感染した人の平均余命は約7年といわれていました。ところが、いまでは40年にも延びたといわれています。非感染者の余命とおなじぐらいに近づいてきているわけです。

では、なにがエイズを「かかっても長生きできる病気」にさせたのか。鍵になるのは、エイズに対する「多剤併用療法」という治療法です。1997年から行われるようになり、エイズウイルス感染者の余命は飛躍的に延びました。

多剤併用療法は、名のとおり、多くの抗エイズ薬剤を併用する療法のことです。エイズにかぎりませんが、感染症には、感染から発症に至るまでさまざまな過程を踏んでいきます。つまり感染から発症までのあいだに、「つぎの段階へ進む」という過程がいくつかあるわけです。過程がいくつかあれば、それぞれに対して「つぎの段階へ進めさせない」薬をつくることが理論的には可能です。

エイズに対しても、感染から発症に至るまでのいくつかの過程に対して、「つぎの段階へ進めさせない」薬が開発されてきました。そして、それらをエイズウイルス感染者のからだの状態などに合わせて、組みあわせて使うことでエイズの発症を抑える、というのがエイズに対する多剤併用療法です。

では、どのような薬が開発されたのか、具体的に見ていくことにします。つづく。

参考資料
HIV/AIDS STD COMMUNITY「1日1回2錠での治療が可能ですが、生涯にわたる継続治療が必要となります」
http://www.aids2012community.org/haart.html
Technity 2013年12月20日付「エイズ感染者の20歳平均余命、非感染者と同等のレベルに近づく 北米調査」
http://ggsoku.com/tech/hiv-infected-patients-could-live-longer/
ウィキペディア「HAART療法」
https://ja.wikipedia.org/wiki/HAART療法
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気圧の大きな差で「ボッ!」と吸いこむ


関東に住んでいる人が関西方面へ、あるいは関西に住んでいる人が関東方面へと、お勤めの人は出張をします。午前中から出張先で会議がはじまるというとき、ふだんより早く、たとえば朝5時に起きて、始発の新幹線に乗って、主張先へ向かうということもあります。

出張でなく、ふつうに出社する日であれば、朝、トイレで大便を済ませて通勤する人は多いことでしょう。しかし、出張する日で、起きるのが朝早いと、家では大便が出ず、乗った新幹線のトイレで大便を済ませるという人も、現実問題として多いのではないでしょうか。

家のトイレの便器と新幹線の便器の両方を使ったことのある人は、便の処理のしかたのちがいに気づくことでしょう。家のトイレの便器では、多量の水が出てきて便を排水路へと流すとともに、便器の表面を洗い流します。いっぽう、新幹線の便器では水は少量。しかし、まもなくすると「ボッ!」という音とともに、便が便器中央の穴のなかに一気に入っていきます。

新幹線で使われている便器は「真空式」とよばれるもの。「真空式」とは、「ボッ!」という音とともに便が吸いこまれていくようすとどことなく近そうな語感があります。実際のしくみはどうなっているのでしょう。

「真空」というのは、空気などの物質がまったく存在しない空間のことをいいますが、人は完全なる真空をつくりだすことはできません。しかし、ほぼ空気などの物質が存在しない、ごく低圧の状態をつくることはできます。

空気は高圧のところから低圧のところへと移っていきます。つまり、便器の穴の向こうでごく低圧の状態をつくり、その低圧状態の空間を通常の気圧状態の空間に通せば、空気は「常圧」から「ごく低圧」へと一気に移っていきます。

真空式トイレでは、便器の穴の向こうに「ごく低圧」を用意しておいたうえで、便器の穴にあるシャッターを外します。すると一気に便器のあたりの常圧の空気を、便器の下のごく低圧の環境に移すことができます。

便器のあたりの常圧の空気のところに便が存在していれば、当然その便は、便器の下のごく低圧の環境に空気ごと移っていくわけです。

このときの、ごく低圧の環境に便が空気とともに吸いこまれる音が「ボッ!」というあの音になります。

水洗式にくらべて、真空式は水の使用量がすくないため、新幹線のほか、特急列車のトイレや、飛行機のトイレなどにも採用されています。

出張の人は、これで心も体もすっきり。万全の状態で、出張先での会議にのぞむことができそうです。

参考資料
五光製作所「鉄道車両用品」
http://www.go-ko.co.jp/products/
テシカ「車両トイレあれこれ」
http://www.tesika.co.jp/framepage21.htm
RJ-Essential「真空吸引式トイレ」
http://rail-j.com/esse/index.php?%BF%BF%B6%F5%B5%DB%B0%FA%BC%B0%A5%C8%A5%A4%A5%EC
ウィキペディア「列車便所」
https://ja.wikipedia.org/wiki/列車便所
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北大と同志社、酷似の歌の源流に南北戦争

大学には、校歌や寮歌や応援歌など、その学校にちなんださまざまな歌があります。そのなかには、偶然の一致では片づけられないほどにたような旋律の歌が、べつの大学でべつの曲名や歌詞で歌われている、ということがあります。

旧帝国大学の一つである国立大学と伝統ある私立大学とで、ほぼおなじ旋律の歌が歌われています。

北海道大学の校歌は「永遠(とこしえ)の幸」というもの。ユーチューブで「永遠の幸」または「北海道大学校歌」などと検索すると聴くことができます。1番の歌詞はつぎのようなもの。

  永遠の幸 朽ちざる誉 つねに我等がうへにあれ
  よるひる育て あけくれ教へ 人となしし我庭に。
  イザイザイザ うちつれて 進むは今ぞ
  豊平の川 尽せぬながれ 友たれ永く友たれ。

師が教え、弟子が学び、学業に励む姿や、近隣を流れる川の流れに永遠さを象徴させているところなど、古き大学の校歌としては典型的な歌詞の展開といえそうです。

「イザ」という感動詞が三つつづくところが、「起承転結」でいえば「転」となるところ。とりわけ声量を大きく出すことができる部分であり、歌っている人の心も震えたつことでしょう。

いっぽう、関西にある同志社大学には「若草萌えて」という、運動部に対する応援歌があります。こちらも、ユーチューブで「同志社 若草萌えて」などと検索すると聴くことができます。1番の歌詞はつぎのようなもの。

  若草萌えて 生命は溢る 若人の血 今もゆる
  希望は胸に 心は躍る 男々しく立て 同志社
  高らかに叫べ 誇の歴史 
  いざ起て友よ 勝利は待てり 白熱の意気 敵なし

こちらは、「男々しく立て 同志社」や「勝利は待てり」「敵なし」といった、応援歌らしい勇ましい歌詞となっています。

そして、「高らかに叫べ」のところでは、この歌詞のまま、声量大きく“高らかに叫ぶ”ことができる旋律になっています。北海道大学の「永遠の幸」と旋律がまったくおなじなので、声量を大きくして歌う部分もまったくおなじとなります。

旋律がほぼおなじであるのは、どちらの歌にも、原曲といえる曲があるからです。

米国の音楽家ジョージ・F・ルート(1820-1895)は、南北戦争のさなかの1864年、「トランプ! トランプ! トランプ!(Tramp! Tramp! Tramp!)」という歌をつくりました。作詞も作曲もルートによるものです。これは、捕虜になった北軍兵士たちに希望をもたせるため作られた歌とされています。歌詞はつぎのようなもの。

  In the prison cell I sit, Thinking Mother dear, of you, 
  And our bright and happy home so far away,
  And the tears they fill my eyes Spite of all that I can do,
  Tho' I try to cheer my comrades and be gay.
  Tramp, tramp, tramp, the boys are marching, Cheer up comrades they will come,
  And beneath the starry flag We shall breathe the air again,
  Of the freeland in our own beloved home.


ジョージ・F・ルート

この歌も、もちろんユーチューブなどの動画サイトで聴くことができます。原曲となる歌なので当然ですが、北海道大学の「永遠の幸」や同志社大学の「若草萌えて」とほぼ旋律がおなじです。そして「イザイザイザ」や「高らかに叫べ」といった盛りあがる部分は、この「トランプ! トランプ! トランプ!」では、“Tramp, tramp, tramp,"となっています。

“Tramp”にはさまざまな意味がありますが、ここでは「どしんどしんと歩く」といったような動詞です。日本語にすれば「歩け歩け歩け!」とか「行け行け行け!」いったような歌詞になるでしょうか。行進して進むような語感がありそうです。

「トランプ! トランプ! トランプ!」は、北軍のみならず南軍の兵士たちにも歌われるほど、とてもよく流行したとされます。

この曲を、日本の大学で歌われる歌にはじめにしたのが、札幌農学校といわれていたころの北海道大学です。南北戦争後、米国のさまざまな大学で「トランプ! トランプ! トランプ!」が歌われていました。そして、米国の教育者で、南北戦争のとき北軍の兵士だったウィリアム・クラーク(1826-1886)が「トランプ! トランプ! トランプ!」を口ずさんでいたという話もあります。

「札幌農学校」の名で学校が存在していたのは1876(明治9)年から1907(明治26)年まで。その期間のうち、1900(明治33)年ごろまで、札幌農学校には校歌というものがありませんでした。「農学校にも校歌を」という機運があったようです。

そこで、学校内で知られていたこの「トランプ! トランプ! トランプ!」の曲を、作曲家の納所弁次郎(1865-1936)が選び、学生だった有島武郎これに歌詞をつけました。こうして「永遠の幸」は“誕生”したとされています。


北海道大学構内になる札幌農学校第2農場

いっぽう、同志社では昭和初期、同志社中学校の英語教員だった清水英明が、「トランプ! トランプ! トランプ!」に「若草萌えて」の歌詞をつけました。清水は大のラグビーファンだったらしく、そのこともあってでしょう、ラグビー部で日本語の部歌として歌われるようになりました。

その後、「若草萌えて」は同志社の全学的な応援歌となり、ラグビー、野球、水泳など、さまざまな運動部員が歌う歌、また運動部を応援する歌として、歌いつがれています。


同志社大学

参考資料
同志社大学「若草萌えて」
https://www.doshisha.ac.jp/information/fun/song/song8.html
徒然草 横浜版「北海道大学 校歌 『永遠の幸』の背景」
http://blogs.yahoo.co.jp/tozennsou_yokohama/33626908.html
wikipedia「Tramp! Tramp! Tramp!」
https://en.wikipedia.org/wiki/Tramp!_Tramp!_Tramp!
レファレンス協同データベース「同志社の応援歌「若草萌えて」は元々はラグビー部の応援歌だったのか? 来歴が知りたい。」
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000141803
コトバンク「納所弁次郎」
https://kotobank.jp/word/納所弁次郎-1099984

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着陸のとき、耳に激痛


風邪気味だった人が、東京から沖縄に出張をしました。3、4日、鼻風邪を引いて、粘膜がつーんとするたびに涙が出たりしていました。

飛行機に乗って約2時間。キャビンアテンダントから「まもなくご登場の飛行機は、那覇空港に向けて着陸体制に入ります」と室内放送があります。

窓際で海を見ていると、この人はすこしずつ、しかしながら確実に、頭に痛みを感じるようになりました。わさびを食べたあとに鼻につーんと来るようなあの痛みが、顔の上のほうに走ります。とくに耳の近くのこめかみのあたりが、痛みが激しく走ります。

鼻をつまんで耳から空気を抜いたり、あくびをしたりしましたが、一向によくなりません。そんな乗客を構わず、飛行機は着陸態勢に。高度が下がれば下がるほど、この風邪気味の人の頭痛は激しくなります。そして、着陸のころには、頭の内側が張りさけそうになるぐらい、痛くなりました。

飛行機から降りても、丸一日、この痛みはなかなかとれず尾を引いていたといいます。

鼻風邪を引いた人は、こうした経験をもっているかもしれません。この症状は「航空性中耳炎」などとよばれています。

外耳と内耳のあいだにある中耳には空気が入っていて、喉のあたりと耳管という管でつながっています。ふつう、耳管は閉じていますが、外部の気圧と中耳の気圧が異なるとき、管を開けてやると気圧がおなじになります。これが、耳から空気を抜いたり、あくびをしたりすることとなります。

飛行機では、着陸のとき急に気圧が低い状態から高い状態になります。すると、この気圧の変化に対して、耳管は閉じたままになり、鼓膜の内側と外側で圧力の差があるままの状態になります。

この差が生じると、耳が痛くなるというわけです。おそらく、この風邪気味の人は、鼻をかんでいるとき鼓膜のあたりもいたのでしょう。

離陸よりも着陸のときに、痛みが大きくなるのは、耳管が空気を取り込むときのほうが開きにくく、急激な気圧の高まりについていけなくなりやすいからといいます。

航空性中耳炎になったからといって、死んでしまうことはないでしょう。それでも、その痛みはとても耐えがたいものといいます。しかも、飛行機のなかからは逃れでることはできません。

風邪気味の人でも飛行機に乗るということはあるはず。乗りなれていない人が、たまたま鼻風邪を引いていたりすると、とても“痛い目”に遭います。

参考資料
厚生労働省 海外で健康に過ごすために「航空性中耳炎」
http://www.forth.go.jp/keneki/kanku/disease/dis02_07aer.html
ミナカラ「飛行機の離着陸時にツーンとくる「航空性中耳炎」の原因と予防法・対処法」
https://minacolor.com/travel/articles/892
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
「ひまわり8号」の鮮明な画像を天気予報で
気象庁の新しい気象観測衛星「ひまわり8号」が(2015年)7月7日(火)より正式に使われはじめました。すでに、テレビの天気予報などで、送られてきた画像を見た方もいることでしょう。

「ひまわり」は、日本の気象観測を行う衛星の通称で、1977年に初号機が打ちあげられました。今回の「ひまわり8号」は、2014年10月7日に、種子島宇宙センターから、H-IIAロケット25号機で打ちあげられたものです。

「ひまわり7号」と「ひまわり8号」の画像を比較した気象庁提供の映像が、朝日新聞の記事に載っています。それを見ると、まずカラー画像になったことが、すぐにわかります。これまでもテレビの天気予報などでは、色のついた地上や海に雲が動くといったコマ割り画像が映されていました。しかし、これらは地上や海にカラーの画像を使っていただけの合成画像だったということです。
http://digital.asahi.com/articles/ASH4J3W6ZH4JULBJ005.html

動画を見ると、「ひまわり7号」の画像のほうでは、静止画が細切れに移されているような感覚を受けますが、「ひまわり8号」の画像のほうでは「動画の映像」といっても遜色ないほど、滑らかに雲の動きなどが見えます。これは、観測の間隔が従来の30分ごとから2分半に短縮されたことによるもの。

また、地上での火山の噴火のようすなども、つぶさに見ることができます。動画では、鹿児島県の桜島から、まるでたばこの煙が上がるように、ゆらめきながら噴煙が上がっているようす鮮明に見ることができます。

地球の真の姿にさらに近い“絵”を捉えられるようになったといってよいでしょう。

気象庁の「ひまわり8号のサンプル画像の公開について」というページでは、黄砂などのようすもよく見ることができます。こちらです。
http://www.jma-net.go.jp/sat/data/web89/himawari8_sample_data.html



参考資料
気象庁 2015年5月27日発表「静止気象衛星『ひまわり8号』の運用開始日について」
http://www.jma.go.jp/jma/press/1505/27a/20150527_himawari8_operation_schedule_press.pdf
朝日新聞 2015年4月16日付「積乱雲発達の様子、はっきりと ひまわり8号の観測動画」
http://digital.asahi.com/articles/ASH4J3W6ZH4JULBJ005.html
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「動きの副産物に自然な進路をとらせる」


調子がきわめてよく、やることなすことがうまくいっているような状態を指して「乗りに乗っているなぁ」といいます。ふだん「電車に乗る」とか、「バスに乗る」といったように、「乗る」を乗りものに対して使うことが多くあります。しかし、乗る対象が乗りものでない場合もあるわけです。

対象が乗りものであっても、乗りものでなくても、「乗る」にはなにかの“動き”がかかわっています。その“動き”に対して、自分自身がうまく合わすことができている。こうした状態が「乗る」の本質的な意味なのかもしれません。

「乗る」は「ノる」と表現することもあります。東京工業大学で美学を研究する伊藤亜紗さんは、著書『目の見えない人は世界をどう見ているのか』のなかで、「乗る」と「ノる」は通じているとして、「ノる」をこう表しています。

「『音楽にノる』『リズムにノる』などと言う場合の、調子良く、気持ち良く、身を任せている状態です」

さらに伊藤さんは、米国のダンサーとして知られるトリシャ・ブラウン(1936-)のことばを引用してつぎのように「ノる」を紹介します。

「それは『動きの副産物に自然な進路をとらせること』であると。つまり思い通りにならない、偶然で生まれてしまった動きを『ノイズ』として消すのでなく、むしろキャッチして次の動きのきっかけとすること」

国語辞典の「乗る」の項目には、これと近い意味で「勢いにまかせて進む」や「動き・調子などにうまく合う」などと書かれています。しかし、伊藤さんやトリシャ・ブラウンの説明がより、しっくりとくる人もいるでしょう。

「乗りのいいやつ」も、だれかからお誘いを受けたとき、「予定していなかったから急に言われても」などと、それをノイズにして断ることはしません。その機会をつかんで、つぎの動きのきっかけにしているわけです。そして、それをくりかえしているような人は、よい意味で「乗り」で生きている人といえます。年中そうした生活をできるかどうかは、その人の情動性などにもよるでしょうが。

思いもよらないような動きを、消すのでなく活かすようにして勢いをつける。そのような「乗っている人」は、はたから見ても「乗っているなぁ」と感じられるものです。

参考資料
伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
http://www.amazon.co.jp/dp/4334038549
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使い手の立場から機械システムの設計を支援

写真作者:Intel Free Press

機械は、人びとに便利さをあたえるために存在するものであるはずです。しかし、ときに「機械の使いかたがわからない」「機械が危害を及ぼす」「機械を使っていると疲れる」といったマイナスの影響を人びとにあたえてしまうこともあります。

機械を使いこなせないのは、言語を使いこなせないのとおなじ、といったように考えれば、能力の差と考えられなくもありません。しかし、機械を使いこなせないがために、機械から得られる情報を得られない、あるいは機械に対してストレスをもつ、といった人びとがいるのも事実です。

そこで、学問の一領域として「人間支援工学」という分野の研究を進めている研究者がいます。

香川大学工学部の鈴木桂輔准教授の説明によると、人間支援工学とは、「ユーザーの立場から機械システムの設計支援を行う工学分野」のこと。その具体例として、交通事故を未然に防ぐという点からの運転支援装置の提案などがあげられています。

機械などの使い手が機械の操作方法を身につけなければならないのでなく、機械などの使い手が操作方法を身につけなくても操作できるようなしくみを設計する支援をするための工学といえそうです。

駅や役所などの公共施設では、国籍や障害の有無にかかわらず、だれもが利用できるような「ユニバーサルデザイン」の設計思想がとりいれられてきました。そうした思想を技術や工学の分野にも当てはめるというねらいもあるようです。

人間支援工学の視点で、だれもが機械などの操作を無理せずにできるようになるためには、「アルテク」の活用が大切と考えられています。「アルテク」とは、「身近にあるテクノロジー」のこと。たとえば、携帯電話やスマートフォンなどのことを指します。ここには、新たな装置を用いようとすると、かえってそれが人びとを機械の使用から遠ざけてしまうという思想があるのかもしれません。

ただし、携帯電話やスマートフォンを使うこともままならない人びとがいるという前提で「アルテク」を活用するという考えは大切になりそうです。

とりわけ人間支援工学は、研究者のみのとりくみで、社会的な成果を得られるものではなさそうです。実際に人間支援工学的な見方で開発された装置や設計法を、使い手に使ってもらって、評価を受けてこそ、その設計の価値というものは高められていくことでしょう。

人間支援工学を専門とする研究者は「人間工学とその周辺は広大である」と述べます。社会で役に立つ成果を生み出すには、さまざまな立場の人びとがその分野に携わることが大切といえそうです。

参考資料
鈴木桂輔「人間支援工学に基づいたものづくり研究 人と機械の橋渡し」
http://www.kagawa-u.ac.jp/ccip/images/4-04/h26-sonota/2014.5-k.suzuki.pdf
東京大学先端科学技術研究センター RCAST News「研究者プロフィール」
http://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/research/people/staff-nakamura_kenryu_ja.html
井野秀一「多様性を尊ぶ人間支援工学とバイオメカニズム」『バイオメカニズム学会誌』2008年第1号
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006792847
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「国立国会図書館食堂」のメガ盛りカレー――カレーまみれのアネクドート(65)


大きな図書館や市役所などの公共施設には食堂があります。そんな公共性の香り高き食堂には、かならずといってよいほどカレーライスが献立のひとつにあります。そしてたいてい「カレーライス」というより「ライスカレー」のよびかたのほうがふさわしいような、日本式のカレーが出てきます。

量についても、グルメを気どって少なすぎることも、また、食堂の名物にしようとして多すぎることもなく、ちょうど中庸といったところが多いようです。つまり、公共施設の食堂におけるカレーライスは無難な傾向があるわけです。

しかし、公共施設の食堂のカレーには例外的なものもなくはありません。その一つといえるのが、東京・永田町にある国立国会図書館の6階の食堂で食べることのできる「メガ盛りカレー」です。

このブログの「カレーまみれのアネクドート」で、2007年11月に「国会図書館のカレーライス」として、おなじ場所で出されていたカレーライスを紹介しました。このときは「『食堂のライスカレー』を地で行くようなカレー」と評していました。

いっぽう、今回の「メガ盛りカレー」。具材や味については、それほど特異的なものではありません。が、なんといっても品名にあるように、分量がとても多いのです。

13インチのノート型コンピュータほどもあろうかいうような四角い皿に、ライスがどかんと盛られています。その脇にはルゥがたっぷりとよそわれています。ほとんど、たまねぎなどの野菜はルゥのなかに煮こまれていて形がわかりません。肉も豚でしょうか、わずかながら目で口で感じる程度です。

どうやら、国会図書館では、何年かに一度、食堂を運営する会社が変わるようです。そのため、カレーの献立も変わっているようです。もちろん、「メガ盛り」のほかに、普通のカレーもあります。

それにしても、国立国会図書館という、国会議員の利用もふくめて公共性のとても高い施設のなかで、これほどの個性的な、いいかえれば“B級”的なカレーが供されているとは。本などの資料を閲覧する場所に、「カレーを食べる」という目的で訪れるという人もすでにいるのかもしれません。

国立国会図書館食堂の食べログ情報はこちらです。
http://tabelog.com/tokyo/A1308/A130801/13116042/
| - | 19:55 | comments(0) | trackbacks(0)
「巨人」と「巨人」発音のちがいにも理由あり――法則古今東西(24)

写真作者:IQRemix

大きな人間を指す「巨人」とでは、プロ野球の球団を指す「巨人」と、発音が異なります。大きな人間のほうは、後が高くなる「尾高型」とよばれる発音で、プロ野球球団のほうは前が高くなる「頭高型」となります。

「進撃の巨人」を、プロ野球球団のほうで発音すると、やはり、巨人軍がペナントレースで快進撃をしているように思われます(今シーズンは快進撃をしていませんが)。

昔から、プロ野球球団の「巨人」のほうは、いまとおなじ頭高型で発音されていたようです。たとえば、1949(昭和24)年、巨人の投手として戦前から活躍していた水原茂が、シベリア抑留から日本に帰ってきたときの映像では、アナウンサーが「元巨人、水原茂氏が8年ぶりで元気に帰ってまいりました」と伝えています。このときの「巨人」は、やはり、いまの「巨人」とおなじです。

たしかにプロ野球球団の「巨人」を指して、尾高型の発音にまったくならないわけではありません。たとえば、「巨人びいき」や「巨人軍」などと言うときには「尾高型」になります。

しかし、これらは、ほかのことばとの組みあわせのなかで、その相手となることばの発音の影響を受けて尾高型になるという話です。「巨人」と「巨人」のように、そのことば単体で扱ったときに、はじめから発音に差が出ることに対する説明にはなりきっていません。

じつは、日本語の発音の傾向として、つぎのような法則性があるといわれているようです。

「尾高型の発音の短い普通名詞が固有名詞になったとき、その固有名詞は頭高型で発音される」

たとえば、手紙を送るときに貼る「切手」は尾高型ですが、東京・丸の内にある商業施設「キッテ」は、たしかに頭高型で発音されます。

ほかにも、いろいろあります。海岸を意味する「浜」は尾高型ですが、人の名前で「浜」とよぶときは頭高型になります。「山」や「川」や「沖」などもおなじ傾向になります。

ほとんどの日本人が、この法則にしたがって発音をしています。また、この法則にしたがわない発音を聞いた日本人は、とても違和感を覚えることでしょう。

となると、この法則が、人びとの習慣的な感覚として浸透した文化的なものなのか、それともこの法則に従わないと生存競争に不利になるといった生物学的なものなのか。「名詞の固有名詞化による、発音の頭高型化」の真相は深そうです。奈良時代以前の大和方言にまで、さかのぼることができるともいいます。

参考資料:
Youtube「西鉄ライオンズ三原脩 読売ジャイアンツ水原茂 因縁の対決」
https://www.youtube.com/watch?v=i45o4Q60EmI
OK Wave「『巨人』のイントネーションの違いはなぜ?」
http://okwave.jp/qa/q1687095.html
| - | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0)
違和感、水飲み、接触、足つりが泳者にふりかかる


健康になる、体力をつける、あるいは痩せるというために、水泳をしている人は多くいます。とくに夏場は、屋外プールが使えるようになり、涼しさを求めて泳者が集まってきます。

競泳選手なみに泳ぎなれている泳者にとっては、さほど起きないかもしれませんが、それほどでない泳者にとって、泳いでいる最中に、さまざまな“ちょっとした困難”が起きるものです。市民泳者に聞いた経験談をまとめると、つぎのような“困難”があるようです。

水中眼鏡をつけたけれど、違和感を覚える。水中眼鏡は眼を保護するためにほぼ必須の道具となっています。しかし、装着のしかたが悪いと、泳いでいる途中に眼のまわりのくぼみに水中眼鏡の縁がぶつかるようになり、装着位置をなおさなければならなくなります。また、ゴムひもが緩んでいると、水が眼鏡の内側に入ってきて、嫌な思いをします。

水を飲んでしまう。息つぎのときに口を開けていると、水が不意に口に入ってきて飲みこんでしまうことがあります。とくにとなりのコースで、バタフライで泳いでいる人がいたりすると、波が立つため、その波を顔面に受けて口にも水が入ることがあります。

前の泳者の足を触ってしまう、または後の泳者に足を触られる。これは、泳者どうしの泳ぐ速さのちがいからくるもの。前を行く泳者が遅いと、後の泳者がどんどん近づいてきます。そして、後の泳者が前の泳者の遅さに気づかないと、つい掻いた手の先が前の泳者の足に触れてしまいます。ときに、わざと手の先で前の泳者の足に触れる人もいます。これは「遅いんだよ」という合図なのでしょうが、マナーとしてはよいものではありません。なお、泳ぐ速さのちがいによってコースを分けているプールは多くあります。

となりのコースの人と体の一部がぶつかる。これもたまにあるようです。とくに、自分も隣のコースの泳者もクロールで泳いでいると、掻いた手どうしがばちんとぶつかることがあります。また、平泳ぎでけった脚の先が、となりのコースの泳者の脇腹などにぶつかることもあります。後者のほうがぶつけられた泳者にとっては痛そうです。

脚がつる。長く泳いでいたり、疲れているなかで泳いでいると、脚がつることがあります。とくに、隣のコースまたは前を泳ぐ人の速さに負けじと、急に自分の泳ぎの速さを上げたときなどに、一気に脚がぴーんとつる場合があります。それでもどうにか平泳ぎなどで、向こうの端まで泳ぎきる人はいます。しかし、足がつったらすぐに、泳ぐのをやめて、プールサイドに上がるほうがよいでしょう。

このようなさまざまな“困難”はあるものの、それらを超えて目標の距離を泳いだ人には、なんともいえない充実感が待っているということです。
| - | 22:28 | comments(0) | trackbacks(0)
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