科学技術のアネクドート

「地球基準」と「原子基準」のずれをなおす


あす(2015年)7月1日(水)は「うるう秒」のある日です。午前8時59分が、ほかの1分間より1秒だけ長くなります。8時59分だけ「……57秒、58秒、59秒、60秒」と秒を刻んでから、9時ちょうどになるわけです。

4年に一度ある「うるう年」のほうは、地球の公転周期が365日ぴったりでなく、5時間48分45秒よぶんに長いため、「1年365日」をくりかえしていくうち月日と季節がずれてしまうことを防ぐ目的で設けられているものです。

「うるう年」で、「1日」というわりと長い時間の調整ができているのであれば、わざわざ「1秒」という短い時間の調整をする必要もなさそうなもの。それでも「うるう秒」が設けられていることにはべつの理由があります。

20世紀、人間は“正確な1秒”を数えるために、原子を使うことを考えつきました。

すべての原子は、その原子に特有の周波数をもつことができます。周波数とは、1秒間での波のくりかえし数のこと。1秒間に1回の周期的な波が起きれば、その波の周波数は「1ヘルツ」となります。原子において、エネルギーがある状態から異なるほかの状態に移るときに放たれる電磁波の周波数は、その原子の種類ごとに一定になるのです。

たとえば、セシウムという原子では、エネルギーがある状態から異なるほかの状態に移るとき、その周波数は91億9263万1770ヘルツとなります。つまり、セシウムから放たれる電磁波は、1秒間に91億9263万1770回というくりかえし数の周期になるわけです。


1993年まで使われていたセシウムの原子時計の一部
写真作者:Momotarou2012

逆に、エネルギーがある状態から異なるほかの状態に移るときに放たれる電磁波の周波数をはかることができれば、確実に時間をはかることができます。たとえば、セシウムから放たれた電磁波の周期を91億9263万1770回、数えることができれば、そのときにかかった時間は「1秒」になるわけです。

セシウムは、原子のなかでも安定的に周波数を出しつづけることができます。そこで、1967年に、国際度量衡総会が、セシウムから放たれる電磁波の周波数を計ることで、正確な1秒間を得ることに決めたのです。正確には、1秒は「セシウム133の原子の基底状態の2つの超微細準位間の遷移により放射される電磁波の周期の9192631770倍に等しい時間」と定められました。

原子時計は1949年、物理学者ハロルド・ライオンズが、アンモニアという物質を用いることではじめて開発しました。また実用的なセシウムの原子時計については、英国の物理学者ルイ・エッセン(1908-1997)たちにより1955年に開発されました。

セシウムの原子時計により「1秒」が定められるまでは、 地球が一回自転する時間の長さを8万6400で割ったものが「1秒」とされてきました。しかし、地球の自転を頼りにする「1秒」と、セシウムの周波数を頼りにする「1秒」にはずれが生じます。このずれを調整するための何年かに一度の1秒が、「うるう秒」というわけです。

2月が28日で終わらず29日まである「うるう年」は、紀元前46年に古代ローマで制定された暦法「ユリウス暦」にはすでに設けられていたといいます。いっぽう「うるう秒」のほうはというと、1972年7月1日にはじめて設けられました。

なお、その後、人の時を計る技術は進み、いまではセシウムの原子時計よりも1000倍ちかく精度の高い「光格子時計」という時計も、東京大学の研究者らによって開発されています。

参考資料
ウィキペディア「閏秒」
https://ja.wikipedia.org/wiki/閏秒
シチズン「うるう秒について」
http://citizen.jp/cs/guide/leapsecond/leapsecond_01.html
TBSがっちりマンデー!! ホームページ「儲かる元素『原子番号55Csセシウム』」
http://www.tbs.co.jp/gacchiri/archives/20090215/5.html
コトバンク「原子時計」
https://kotobank.jp/word/原子時計-60612
東京大学工学系研究科・工学部 2015年2月10日付「時計の概念を巻き直す『光格子時計』」
http://www.u-tokyo.ac.jp/ja/utokyo-research/editors-choice/rewinding-the-future-of-timekeeping/
科学技術振興機構、東京大学、理化学研究所 2015年5月27日付「水銀・ストロンチウム光格子時計の高精度直接比較に成功」
http://www.jst.go.jp/pr/announce/20150527/
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「縄文の遺跡、東北に集中」の理由は日本の南方にあり
日本の時代区分のなかで、紀元前5世紀ごろから始まる弥生時代の前にあった時代が縄文時代です。表面に縄文のある「縄文土器」がつくられていた時代であるため「縄文時代」とよばれます。

縄文時代が始まったのは、およそ1万6500年前とされています。つまり、縄文時代は1万年以上の長い歴史があるわけで、細かくは草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の六つに一般的には区分されています。

この中で、約7000年前までの草創期と早期における遺跡や遺物は、もっぱら東北地方で見つかっています。たとえば、青森県外ヶ浜町の大平山元(おおだいやまもと)遺跡は、縄文時代草創期ごろの遺跡とされています。土器片についていた炭化物を放射性炭素年代測定で測った結果です。また、青森県八戸市の五戸川の岸からは、縄文時代早期の貝塚が見つかり「長七谷地貝塚」と名づけられています。

一般的に、縄文時代の草創期や早期における遺跡や遺物は、東北地方によく見られる。その理由として説明されているのが、西日本で超巨大噴火が起きたためというものです。

およそ7300年前、いまの鹿児島市の南およそ100キロメートルの海域で「鬼界カルデラ噴火」とよばれる超巨大な噴火が起きました。カルデラ噴火は、火山の火口のあたりが陥没するなどしてできる「カルデラ」という大きな窪地の地形をつくるような大規模噴火のことです。

鬼界カルデラが起きたのは、東シナ海の薩摩硫黄島や竹島あたりの海域。薩摩硫黄島も竹島も、この鬼界カルデラ噴火のあとにつくられた島と考えられています。


薩摩硫黄島
写真作者:名古屋太郎

鬼界カルデラ噴火では、放出されたマグマは東京ドーム約10万杯分にもなり、大阪のあたりで20センチメートル、関東地方でも10センチメートルほどの火山灰が積もったとされています。

これほどの噴火が起きたため、火山に近かった九州や四国の縄文人は死滅してしまうか、または火山灰のない当方地域への移動を余儀なくされたと考えられています。

つまり、日本の南部にたしかに存在していたであろう「文明」が、超巨大な規模の噴火によって断絶してしまったため、このころの遺跡や遺物は日本の南部からはさほど見つからず、東北地方などで集中して見つかっているのではないかとされています。

ただし、1986年には、鹿児島県国分市(いまの霧島市)から遺跡が見つかり、この遺跡のなかには縄文時代早期までのものが含まれていることがわかりました。遺跡は「上野原遺跡」とよばれています。西日本でも、縄文時代早期までの遺跡や遺物がまったく見つかっていないというわけではないようです。

しかし、九州で見つかっている土器の形を見ると、鬼界カルデラ噴火の以前のものと以後のものでは型式が大きく変わっていることもわかっています。人びとの生活や文化に甚大な影響をもたらしたのはまちがいなさそうです。

カルデラ噴火は日本列島では過去に何度か起きていますが、鬼界カルデラ噴火がもっとも新しいものとなっています。

参考資料
島村英紀『火山入門』
http://www.amazon.co.jp/dp/4140884614
JOMON JAPAN「史跡 大平山元遺跡」
http://jomon-japan.jp/jomon-sites/odai-yamamoto/
JOMON JAPAN「史跡 長七谷地貝塚」
http://jomon-japan.jp/jomon-sites/choshichiyachi/
NHKそなえる防災「第5回 カルデラ噴火! 生き延びるすべはあるか?」
http://www.nhk.or.jp/sonae/column/20130314.html
産業技術総合研究所「火山の生い立ち」
https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/satsumaioujima/vr/doc/040.html
防災地質研究所「カルデラ概説」
http://www.dpgi.jp/caldera/kikai.html
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おなじ値を結んだ線は人の発明物
暮らしのなかであたりまえのように見ているような図形も、自然界にもともとあったものでなければ人が発明したものとなります。

地図上に、値がおなじ点を線で結んで表現することがあります。身近なところでは、天気図で見かける「等圧線」があります。おなじ気圧の点を線で結んだもので、4ヘクトパスカルごとに線を描いていきます。また、地形図には、おなじ高さの点を線で結んだ「等高線」が描かれています。

さらに、桜のソメイヨシノの開花日や開花予想日を線で結んだ「開花前線」や、ツバメの南国からの飛来日を線で結んだ「ツバメ前線」などもあります。

これらの、値がおなじ点を線で結んだものを「等値線」といいます。等値線を見ることにより、人はあるものごとの状況を点でなく面として把握できるわけです。

「値」というものは人が調べて測ってわかるものですので、当然ながら等値線も人が創りだしたものとなります。

等値線をはじめて描いたのではないかとされる人物が、英国のエドモンド・ハレー(1656-1743)です。ハレーは、「ハレー彗星」の名が付いているように、彗星の軌道を計算するなどの業績で知られる天文学者です。


エドモンド・ハレー

しかし、ハレーの観測対象は天体だけではありません。1963年には、死亡年齢の統計的解析をして保険数理学や人口統計学におおいに貢献しました。そして、1698年には、地球で観測される現象についても目を向けました。

この年、英国海軍のパラモア号の艦長に任命されたハレーは、大西洋を航海しながら、北緯52度から南緯52度までの地磁気の観測を2年間かけておこないました。地磁気とは、地球がもっている磁気のこと。地球上の場所によって強さは異なります。

ハレーは地磁気を測定した結果を1701年に「磁石の変化量の総合図(General Chart of the Variation of the Compass)」という論文で発表しました。

ハレーが示した図版には、大西洋における地磁気の強さのちがいを、等値線で示した地図がありました。この当地線こそが、いまのところ世界で発見されている史上初の当地線とされています。その後、ハレーは大西洋にかぎらず、世界に範囲を広げた等値線も発表しています。当時、こうした当地線は、ハレーの名にちなんで「ハレリアン・ライン」とよばれました。


ハレーが1701年に示した大西洋の地磁気の等値線
NOAA

あるものごとを関心の目で長らく見つめつづけていると、ほかの人には見えないかたちのようなものが見えてくるといいます。ハレーの目には、大西洋の海原に当直線が写っていたのかもしれません。等値線の発明の恩恵を、いまの人びとはさまざまなかたちで受けています。

参考資料
ウィキペディア「エドモンド・ハレー」
https://ja.wikipedia.org/wiki/エドモンド・ハレー
sio.midco.net「Isolines」
http://sio.midco.net/dansmapstamps/isoline.htm
アメリカ海洋大気庁 Photo Library
http://www.photolib.noaa.gov/htmls/cgs02147.htm
コトバンク「等値線図」
https://kotobank.jp/word/等値線図-1568155
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楽器の「枇杷」から植物の「枇杷」


初夏の季節にあると、街のあちらこちらで、枇杷(びわ)の実が橙色に熟しているのを見かけます。果樹園の葡萄や梨は手を出せませんが、街に植えられている枇杷の実ならひとつぐらいと、つい手を出そうとする人もいるかもしれません。

枇杷は、バラ科の植物です。西日本に自生していたとも、また中国から果樹として渡来したともいわれています。実は食べものになるほか、葉は薬用としての効用がさまざまあるといわれてきました。『本草綱目』の著者として知られる中国の本草学者の李時珍(1518-1593)は、枇杷の葉には「胃を和し、気を下し、熱を清し、熱毒を解し、脚気を養ずる」と述べているそうです。また、木材としても櫛や木刀に使われます。

おなじ「びわ」と読んで「琵琶」と書く熟語もあります。「琵琶」のほうは東洋の木製弦楽器。「枇杷」と「琵琶」、たまたまどちらも「びわ」と読むだけかというと、そうではありません。やはりかかわりがあるようです。

中国では、楽器の「琵琶」のことを「ピパ」などとよんでいたといいます。琵琶が奏でられるときの「ピーン」「パーン」という音から「ピパ」とよばれたともされています。

そして、もともと中国では、楽器の琵琶のほうに「枇杷」の文字をあたえていたようです。2世紀ごろの中国の語学書『釈名』には、楽器の演奏法を指して「推手前日批、引手却日把」という記述がありました。この「批把」が「枇杷」になったのでしょう。

つまり、楽器としての「枇杷」が先にあったわけです。

ところが、5、6世紀ごろになると、植物の枇杷がよく栽培されるようになり、この植物に「枇杷」の文字を当てることが多くなっていったようです。その理由は、楽器のかたちが、植物の実のかたちに似ているからともいわれています。

楽器を指すことばに使われていた「枇杷」の文字は、この楽器が「琴」であるということから、「琵琶」と書かれるようになっていったといいます。ちなみに滋賀県の「琵琶湖」も、楽器の琵琶のかたちが湖のかたちに似ていることから16世紀初頭ごろよりよばれるようになったとされています。もちろん、衛星写真などはありませんでしたが、ある程度のかたちは把握できていたのでしょう。

参考資料
兵庫栄養調理製菓専門学校 栄養コラムなでしこ通信「ビワ(枇杷)」
http://www.hyoei.ac.jp/library/nadeshiko/199.html
ビワミン「びわについて」
http://www.biwamin.jp/about/biwa
南房総いいとこどり「ビワの語源」
https://www.mboso-etoko.jp/cec/data/biwa3/biwa3.html
語源由来辞典「枇杷」
http://gogen-allguide.com/hi/biwa_fruit.html
滋賀県「『琵琶湖』の名前」
http://www.pref.shiga.lg.jp/biwako/koai/handbook/files/1-01.pdf
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「緑茶の健康効果は『カテキンの分解』が鍵だった」


日本ビジネスプレスのウェブニュース「JBpress」で、きょう(2015年)6月26日(金)「緑茶の健康効果は『カテキンの分解』が鍵だった」という記事が配信されました。この記事の取材と執筆をしました。

「緑茶は健康によい」ということは、多くの日本人がなんとなしにわかっているところでしょう。このブログでも5月25日、「緑茶を飲むほど全死亡リスクが低下」という記事で、国立がん研究センターの最新の研究成果を伝えました。

しかし、「緑茶はどのように健康によいのか」については、さほど知られてはいません。それどころか、緑茶を研究している人たちにとっても、未解明な部分がまだあるようです。

今回の記事では、三井農林の食品総合研究所に取材をしました。三井農林は、「三井銘茶」や「日東紅茶」などのブランドのお茶商品をつくっている企業です。1909(明治42)年の創業以来、「100年以上にわたり、お茶の研究してきた」といいます。

緑茶の成分としてよく知られているのが「カテキン」。渋みをもたらす成分です。三井農林はこのカテキンに1980年台から着目し、抗酸化作用や脂質異常症改善作用などの、さまざまな機能性を見いだしてきました。

しかし、緑茶にふくまれるカテキンの分量からすると、カテキンだけでは辻褄が合わないほど、緑茶には大きな健康の作用があるということを研究所の人たちは考えていたということです。「本当は何が効果をもつのか」と。

緑茶を飲むことでからだに摂りこまれたカテキンは、さらに血管などに入っていき、細胞の抗酸化作用などを起こします。しかし、そのままのかたちで血管などに入っていくカテキンばかりではありません。カテキンがべつの物質に変わって、その物質が血管などに入っていき、体に作用するという過程もあるということを研究者たちはつきとめました。

では、なにが、どのようにカテキンをべつの物質に変えるのか。そして、べつの物質はどのように体に作用するのか。いまもつづいている研究の成果の一端を、記事で紹介しています。

緑茶のおいしさと、健康への機能性は結びつくもの。「緑茶の健康効果は『カテキンの分解』が鍵だった いつもそこにある『煎茶』の歴史と科学(後篇)」はこちらです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44125

前篇は、緑茶の代表的存在となった煎茶の歴史を追った記事になっています。「緑茶の流行に『永谷園』『山本山』の先人の契りあり」。こちらです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44066

三井農林では、食品総合研究所と、鑑定開発室という部署の社員たちが2013年に「お茶科学研究所」というプロジェクトチームを発足させました。「お茶のチカラをより多くの方に役立てたい」というねらいがあるということです。そのホームページにもさまざまな、お茶の研究についての最新情報が載っています。こちらです。
http://www.mitsui-norin.co.jp/ochalabo/
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「堪忍袋」がどこにあるかは微妙

堪忍袋ににたかたちの巾着

「堪忍袋」という袋があるといいます。堪忍とは、人のあやまちをがまんして許すこと。がまんした怒りをこの袋に入れておきさえすれば、自分の身からは怒りがとり払われて平静でいられるということです。

しかし、その堪忍袋の緒が切れることがあるともいいます。「緒」というのは糸やひもなどの長細いもののこと。堪忍袋という袋は、どうやら巾着のようなかたちをしているらしく、袋に収納されていた怒りの体積が袋の容積を超えると、結びの役割を果たしていた緒までが切れてしまうということです。

「堪忍袋の緒が切れる」という慣用句は、自分自身のがまんの限界を超えて、怒りが爆発することと一般的にはいわれています。

しかし、堪忍袋という袋が存在して、そこに自分の怒りを入れておくのだと考えた場合、「堪忍袋の緒が切れるとは自分自身の怒りが爆発すること」と解釈することには、すこし違和感が生じます。自分の怒りはその袋にいわば預けてあるわけであり、自分自身のなかでの怒りが爆発するということにはならなさそうです。

実際、「堪忍袋」という落語では、熊五郎という主役とその妻が堪忍袋を共有して使います。さらに、「怒りを堪忍袋に入れれば自分の怒りがおさまる」という効果を聞きつけた人びとが、ひとつの堪忍袋につぎつぎと自分の怒りを入れていきます。やはり共有して使うわけです。

つまり、自分自身とは離れたところに堪忍袋があるという設定になっています。とはいえ、この落語でも、最後に堪忍袋の緒が切れて、袋のなかから「けんか」がいっぺんに飛び出してくるという落ちになってはいますが。

違和感をなくすために、落語のことは置いておいて「堪忍袋とは自分自身のことなのだ」と捉えたらどうでしょう。がまんした怒りが自分自身のなかにたまっていきます。しかし、自分自身には怒りの許容量というものがあるわけで、その許容量を超えると雄が切れて怒りが飛びだしていきます。

「たまっていたストレスが爆発する」といった表現があります。自分自身を堪忍袋と捉える場合、「堪忍袋の緒が切れる」は、この「たまっていたストレスが爆発する」と近い状況になります。

参考資料
故事ことわざ辞典「堪忍袋の緒が切れる」
http://kotowaza-allguide.com/ka/kanninbukuronoo.html
ことわざ学習室「堪忍袋の緒が切れる」
http://kotowaza.avaloky.com/pv_fre11_01.html
ウィキペディア「堪忍袋」
https://ja.wikipedia.org/wiki/堪忍袋
スーパー大辞林
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「『人類を滅亡させるリスク』を研究者に単刀直入に問いかけた」


ウェッジ社のニュースサイトWEDGE Infinityで、きょう(2015年)6月24日(水)、「『人類を滅亡させるリスク』を研究者に単刀直入に問いかけた」という記事が配信されました。「学びなおしのリスク論」という連載の第8回です。

「人類を滅亡させる」の主語にくるものは「人工知能」です。このブログでも、2014年12月5日の「著名な科学者が人工知能開発に警鐘を鳴らす段階に」という記事で、英国の天文学者スティーブン・ホーキング氏が「人類を滅ぼすことになるかもしれない」と、人工知能の加速的な発達に対して警鐘を鳴らしたことなどを伝えました。

では、人工知能についてとても詳しいと思われるこの分野の研究者は、「人工知能が人類を滅亡させるリスク」をどう考えているのか。WEDGE Infinityの記事では、その疑問を東京大学大学院工学系研究科准教授の松尾豊さんにぶつけています。

松尾さんは、人工知能や、ウェブからほしい知識をとりだすウェブマイニングなどの分野を専攻する研究者。最近の著書『人工知能は人間を超えるのか』や、共著書『東大准教授に教わる「人工知能って、そんなことまでできるんですか?」』などが人びとによく読まれています。

また、人工知能学会という社団法人で2014年9月に発足された「倫理委員会」の委員長にも就任しています。松尾さんたち委員が書いた論文によると、倫理委員会は「人工知能研究あるいは人工知能技術と社会の関わりを広く捉え、それを議論し考察し、社会に適切に発信していくこと」を本来の趣旨とするもの。研究や技術が進んでいく人工知能と社会のかかわり方などを、人工知能の研究者や人工知能に詳しい人物が議論し、発信しています。

世のなかでは、「人工知能が人類を滅亡する」ということがあるとすれば、それはみずからの能力を上まわる人工知能を人工知能自体がつくることが可能になったときだ、と考えられています。能力がみずからの0.99倍のものをいくら掛け算のように増やしていっても0のほうに向かうだけですが、能力がみずからの1.01倍のものを掛け算のように増やしていくとあっというまに無限大に近づいていきます。そうした「1.01倍の掛け算」が実現する瞬間が訪れるのかどうかが、議論の対象になっているわけです。

人工知能の研究とともに開発を進めている研究者が、「人工知能は人類を滅亡させるリスクはありますよ」などと発言したら、逆に社会的な混乱が起きるかもしれません。松尾さんの結論は、やはり「そういうことが起きる可能性は非常に低いと思います」という否定的なものではありました。

その根拠のひとつとして松尾さんが挙げているのが、人工知能が生物がもっているような“欲”をもつ(もたせる)のがむずかしいというもの。記事で詳しく説明しています。人工知能がみずからを増やしていく可能性を考えるうえで生命論が深く関わっていることを感じさせます。

人工知能に対して、「見られている」「推しはかられている」といった不気味さをもっている人はまだ多くいることでしょう。そのような不気味さや、人工知能の技術の発達の速さなどが、人びとに「人工知能はなにをしでかすかわからない」と感じさせる要因なのかもしれません。

今後も、松尾さんら研究者は、人工知能の社会とのかかわりを発信していくことでしょう。

「『人類を滅亡させるリスク』を研究者に単刀直入に問いかけた」の記事はこちらです。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/5089

参考資料
松尾豊など「人工知能学会倫理委員会の取組み」『人工知能』2015年5月号
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「ひどい目に遭わせるぞ」のかわりに「ひどいことはしません」


国が軍事力を高めて、それをまわりの国に見せつけて、「もし攻撃をしてくるなら、ひどい目に遭わせるぞ」と脅す力を、抑止力といいます。

核兵器をもっている国々は、核兵器をもっていることを対外的に示します。「核攻撃してくるなら、核攻撃をしかえすぞ」と暗に示すことにより、核兵器をもっている国どうしが攻撃しあわないで均衡が保たれる。このような考えもあり、核抑止論などとよばれています。

しかし、国と国との均衡のとりかたは、抑止力を示しあうことだけではありません。脅すのとは逆の方法により国どうしが均衡をとろうとするという考えかたもあります。

「わが国はひどいことはしません」ということを、まわりの国に発信します。すると、相手の国は「あ、あの国はひどいことはしないみたいだ。安心だ」となりえます。こうして、おたがいに「ひどいことはしません」ということを示しあうことで、国と国とが均衡をとるというわけです。この考えを「安心供与」といいます。

抑止と安心供与の考えは、国どうしという世界規模の話でなく、個人的な人間関係の規模でも当てはまるものといえそうです。

たとえば、地域での“縄張り争い”を主張している営業担当者が、近くのライバル営業担当者に、「自分の支配エリアに入ってきたら、どうなるかわかっているだろうな」と明に暗に脅しをかけるとします。近くのライバル担当者も「それは俺のセリフだ」と明に暗に返したとします。これにより、おたがいのエリアが保たれることもあるでしょう。

いっぽうで、近くのライバル営業担当者に「エリアに入ってきても、ひどいことはしませんよ。おたがい情報交換しながら成績を伸ばしていきましょう」ということを発信すれば、近くのライバル担当者も「あの人とは、そのぐらいの関係性で接触したらいいんだ」となるかもしれません。これにより、おたがいのエリアが保たれることもあるでしょう。

ただし、抑止にしても安心供与にしても、「やりすぎると相手に攻撃される」という危険もありそうです。相手にとっては、抑止力の誇示に耐えきれなくなる、あるいは安心供与を受けて堂々と攻撃をしかけようとする、という可能性もあるからです。抑止や 安心供与を示すうえでの均衡というものも、また大切といえそうです。

参考資料
毎日新聞 2015年5月28日付「月刊・時論フォーラム:安全保障法制/人工知能の進化/橋下大阪市長」
http://mainichi.jp/shimen/news/20150528ddm004070011000c.html
珍行史恵「なぜリビアは大量破壊兵器の廃棄を行ったのか 数理モデルによる核交渉メカニズムの解明」
http://www.e.yamagata-u.ac.jp/~oshiro/paper/chingyo2011.pdf
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ファクスいまなお“絶滅種”にならず

写真作者:Abhisek Sarda

アナログ・レコードやフィルム・カメラは一部の愛好者を残してほとんど使われなくなりました。アナログ・レコードはコンパクト・ディスク、楽曲ダウンロード、ユーチューブなどに置きかわられ、またフィルム・カメラはデジタルカメラやカメラ機能付きスマートフォンなどに置きかわられていっています。

こうして、“絶滅”が進む機器があるなかで、いまもそれなりにしっかり使われている機器がファクシミリです。米国や英国では、日本でいまもファクスがふつうに使われつづけていることを「時代遅れ」と評するメディアもあるようです。

使い勝手の点でファクスと比較されるのが電子メールです。たとえば、単に文書で連絡をしたり、原稿を提出したりするときには電子メールのほうが便利でしょう。

しかし、印字される文字に加えて、校正記号など手書きの伝達内容を入れたものを伝達するときにはファクスが便利になります。コンピュータ上で手書きの伝達内容などを入れるのは大変な作業。アドビ社の「アクロバット・プロ」といった校正指示を入れられるアプリケーションもありますが、まだ普及率はそれほどでなく、校正指示を見落としたり理解できなかったりする場合もあるようです。

手書きを含む伝達内容をファクスで送らないとすれば、その紙をスキャニングしたり、あるいはデジタルカメラに撮影したりして画像データにして、それをメールに添付して送信するといった方法があります。

ただし、スキャニングにしても撮影にしても、1枚の画像のデータ容量が多くなりがち。サイズを小さくしたり準備していると、それなりに手間がかかります。とくに外出先では、「手間をかけてファクス内容を画像化するか、それともコンビニエンスストアを見つけてファクス送信するか」が比較対象となります。

もうひとつ、ファクスがなかなかなくならない理由に、印字された紙という物体を相手に意識させることができる、というものもありそうです。メールでのやりとりが当たりまえになったなか、紙のファクスで送信されると目立ちます。締切を守ってほしいといった意味を込めるときには、少数派となっているファクスで伝えるほうがむしろ効果はあるといえます。

ちかごろでは、紙を介さず、ウェブ上でファクスを送受信できるサービスもあります。これは、いまもなおファクスの需要がなかなかなくならないことの裏返しととることができます。

参考資料
NewSphere 2014年4月15日付「ハイテク日本はなぜファックスを使い続ける? 高齢者の執着が要因と海外紙分析」
http://newsphere.jp/national/20140415-5/
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「なにもかも知っている」を当然とする人がいる

写真作者:tiarescott

人は、さまざまなことを身をもって経験したり、さまざまな知識や情報を本などで得たりしながら人生を送ります。得られたものごとが多ければ多いほど知識の量は多くなるわけです。

しかし、人びとはいつでもインターネットで知識や情報に触れることができるようになると、世の中にあふれている量にくらべて自分のもっている知識の量がいかに少ないことかを知らされるようになりました。

それでもなお、人びとのなかには「なにもかもを知っている」ということを自分の当然の状態として、人と対話に臨むという人がいます。

たとえば、会社の会議の場で、たまたま関西圏の鉄道の話題になり、大阪と神戸をJR、阪神、阪急の3路線が並走しているという話になったとします。

すると、「なにもかもを知っている」ことを当然にしている部長の心の琴線に触れたようです。

「ああ、あれね。乗るんだったら阪急がいいぞ。いちばん山側を走るから六甲山の自然がよく見えてきれいだぞ」

すると、関西出身で学生時代に大阪と神戸のあいだを毎日のようにJR神戸線で通学していた部下がこう口を挟みました。

「ぼく、JR使っとったんですけど、JRからもそれなりに六甲山の景色は見えますよ」

すると「なにもかもを知っている」ことを当然にしている部長がこう切り返しました。

「おまえな、おれは『いちばん山側を走るから自然がよく見える』って言ったんだよ。JRの話はしていないだろうに」

本当のことをいうと、この「なにもかもを知っている」ということを当然にしている部長は、JR神戸線と阪神で大阪と神戸のあいだを行き来したことはなく、唯一、使ったことがあるのが阪急だったのです。

しかし、「関西圏の鉄道」「大阪と神戸のあいだ」「鉄道の競合」という話になり「自分は阪急に乗ったことがある」という経験があることから、「その話題について知っている」という思いにつながり、自分が「知っている」ということを会議の参加者の前でつい示すことになったのでしょう。

ここで、「なにもかもを知っている」ことを当然としないで生きている人であれば、「私は阪急だけしか乗ったことないんだけれど、山側を走っているから六甲の自然がよく見えてきれいだったよ」と話すかもしれません。

「なにもかも知っている」ことを当然とする部長の話とのちがいは、阪急しか乗ったことがないのでJRと阪神のことは知らないことを示していることと、自分が経験したかぎりでは自然がよく見えてきれいだったという個人的な経験談として話していることです。

人びとのなかには、「自分は対話をしている相手よりも“上”である」という状況を保とうとする人がいます。「自分はなにもかも知っている」ということを当然としている人は、そうした心をもっているのかもしれません。

しかし、自分の人生は相手の人生ではありません。相手が得ていないが自分は得ている知識もあれば、逆に自分が得ていないが相手は得ている知識もあるわけです。そのことを前提に、知らないことがあれば知っている人に聞くという対話のほうが、対話としては弾みそうなものですが、いかがでしょうか。

ちなみにですが、記事の原稿を書いてお金をもらう知識人や、番組に出演してお金をもらう解説者といわれるような人たちは「なにもかもを知っている」という前提で知識を示さなければなりません。たとえ原稿提出や番組本番の5分前まで知らなかったことであっても。
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湖の姿は変わっていく

諏訪湖

時が流れるとともに、多くのものはその状態が変わっていくものです。1日や2日の長さでは変化が感じられないものも、長い年月が経てば大きな変化を遂げているということがあります。

湖や沼という地形も時の流れとともに変化をしていくものです。その原因はさまざまあります。

湖に流れこむ川が運んでくる土砂などが、すこしずつ湖の底にたまっていき、湖が埋まってしまうということがあります。川の水は標高の高い上流から低い下流へと流れていくわけですから、それにともなって土砂が下流へと流れていくのも当然のことです。そしてたどり着いた場所が湖であれば、底にたまっていくわけです。

長野県の諏訪湖では年間1センチメートル以上、堆積物がたまっているともいわれています。諏訪湖の平均水深は4メートルほど。堆積物をとりのぞかないと数百年後にはべつの姿になるのかもしれません。

堆積物がたまることでなく、湖が干上がることで陸地になるという場合もあります。福島県内のかつて信夫郡とよばれていた郡には、かつて大きな湖があったという説があります。しかし、長い歳月を経てこの湖は干上がっていき、その陸地に集落がつぎつぎと生まれていき、これが福島盆地の街になっていったという話です。もっとも、平地にくらべて福島の盆地の標高のほうが低いといった事実もあり、この話は伝説の域を出ませんが。

こうした湖や沼の変化では、人の営みが原因になることもあります。かつて京都の南部には巨椋池という大きな池がありました。巨椋池は宇治川とつながっていましたが、豊臣秀吉(1536-1598)が伏見城を築いたとき、巨椋池を宇治川と大部分を切りはなして遊水地にしました。

さらに、1933年から1941年にかけて、巨椋池は国営の干拓事業の対象となり、当時16キロの周囲のあったこの大きな池は干拓田と化しました。このあたりの地図や衛星写真を見ると、まわりの場所にくらべて、やけに区画の整った農地があることに気づきます。また、第二京阪道路には「巨椋池」という名のインターチェンジもあります。

世界に目を向ければ、中央アジアのカザフスタンとウズベキスタンの国境の砂漠にあるアラル海が四半世紀のうちに干上がっていきました。かつて世界で4番目に大きかった湖は、ほぼ消滅してしまいました。原因は、この湖に注ぎ込んでいたアムダリヤ川とシルダリヤ川の水を、旧ソビエト連邦時代の灌漑計画で大量に使ったためともいわれています。

自然現象にしろ人為にしろ、長い歳月では、湖の地形が変化していくもの。しかし、身のまわりのさまざまな変化のなかで生きている人にとって、湖の地形に見られるような長い歳月の変化にはなかなか気づかず、「湖はいつも変わらない」と思いがちです。そうした感覚で接している湖が変化をしていることがわかると、人びとは余計に危機意識のようなものをもつのかもしれません。

参考資料
目がテン! ライブラリー「ワカサギと氷の琵琶湖」
http://www.ntv.co.jp/megaten/library/date/05/02/0206.html
福島県「県名の由来」
https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/ken-no-sugata/kenmei-yurai.html
ウィキペディア「福島盆地」
https://ja.wikipedia.org/wiki/福島盆地
京都府「巨椋池干拓田での取り組み」
http://www.pref.kyoto.jp/yamashiro/no-chiiki/1285909526232.html
CNN 2014年10月1日付「世界で4番目に広かった湖『アラル海』、ほぼ消滅」
http://www.cnn.co.jp/fringe/35054524.html
日経サイエンス 2008年7月号「アラル海消失の教訓」
http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0807/200807_096.html
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神楽坂「翁庵」のカレー南ばん――カレーまみれのアネクドート(64)


東京・神楽坂は、戦前いろまちだったところ。地名にもなっている神楽坂は、JR飯田橋駅の神楽坂口からを出て、お堀と外堀通りを過ぎたところから始まります。

神楽坂下から坂をのぼってすぐのところに「翁庵」という蕎麦屋があります。この店の創業は1884(明治17)年。じつは創業から130年位上の老舗。テーブル席とともに、広く空間をとっているのが座敷席。昼間の時間帯、背広を着た会社員風情の人や界隈を散歩中とおぼしきご年配夫婦などでにぎわいます。

そば屋の他聞に漏れず、この店の献立にも「カレー南ばん」があります。丼鉢のなかには、カレー汁がたっぷり。すこしだけそばが顔を覗かせています。そして、厚みのある鶏肉、それにカレー南蛮に欠かせない長ねぎが何本も。

「南蛮」は、室町時代から江戸時代シャムやジャワなどの南方地方を指したことばでした。これらの地域を経てポルトガル人やスペイン人などが渡来したため、ポルトガルやスペインのことも「南蛮」とよぶようになりました。

そばの世界では「南蛮」は「ねぎ」のことを指します。これは、江戸時代に渡来した南蛮出身の人たちが、健康をたもつためにさかんにねぎを食べていたことに由来するとされます。本来は「南蛮そば」で「ねぎそば」を指すことになるはずですが、「そば」は略されたのでしょう。うどんとそばを区別するために「南蛮そば」という場合もありますが。

カレー南蛮については、19世紀終盤の明治30年ごろ、東京でそばとカレー粉の両方を扱う店で売られだしたのが始まりとされています。神楽坂の翁庵も創業年からすると、古くからカレー南ばんは献立のひとつに入っていたとしても不思議ではありません。

これもそば屋の他聞に漏れず、長ねぎが入っているのが当然のカレー南ばんに、薬味として刻みねぎが添えられます。おなじねぎでも、カレー南ばんの主役のひとつになるものもあれば、脇役のひとつになるものも。

やや細めのそばに、とろりとしたカレー汁が相まみえ、そこに肉のうまみと長ねぎの甘み、それに薬味の刻みねぎのほろ苦さが加わります。これぞ定番のカレー南ばんといったところ。

「翁庵」の食べログ情報はこちらです。
http://tabelog.com/tokyo/A1309/A130905/13040894/

参考資料
All Aboutグルメ「東京の100年店ランチ 翁庵(そば/神楽坂/創業1884年)」
http://allabout.co.jp/gm/gc/440112/
杉本商店「カレー南蛮の歴史」
http://sugimoto-shop.com/history.html
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「人とロボットの新たな関係が始まる」


きょう(2015年)6月18日(木)ソフトバンクは、人型ロボット「ペッパー」の一般販売の予定を発表しました。あさって20日(土)10時より発売を開始。6月にまず1000台の販売分を受け付けるということです。

経済情報の共有サービス「NewsPicks」の連載記事「為末大の未来対談」でも、きょう「人とロボットの新たな関係が始まる」という題で、元陸上プロ選手の為末大さんと「ペッパー」の開発統括役のソフトバンクロボティクス林要さんが「ペッパー」を交えて語りあっています。

ペッパーは、家庭のなかで人とともに時を過ごすことを想定したロボット。為末さんは「ペッパーでできるようなことを、家そのものが担えばよいのではといったことも考えていたんですが、人型ロボットというかたちにしたのはどうしてですか」と、「人型」であることの理由を林さんに聞いています。

林さんは「人型にすることで、人の接し方がちがってくる」と、その理由を答えています。

人工知能を備えたものは人型ロボット以外にもさまざまあります。たとえば、スマートフォン「iPhone」で人が発話すると応答する「Siri」もその一つです。

林さんは「Siriの回答を待っている間は誰もが『サーバーに接続して処理している待ち時間』と考えています。でも、人型ロボットのPepperに対してなら、『あ、Pepperが何か悩んでる、困ってる』などと思ってくれるんです」と話します。

人間が「ペッパー」を人間に対するかのように接する。その人間の動きを、ペッパーは記録していきます。これにより、機械に対して動いたり応じたりするのでない、人間のより本能的な振るまいかたのデータを蓄積していくことができるというわけです。蓄積した人間の振るまいかたのデータは、「ペッパー」どうしがクラウドコンピューティングでつながれるため、大きな情報の総体になっていくのでしょう。

なぜ「人型ロボット」でなければならないかという議論は、これまでも研究者たちのあいだでされてきました。「人型ロボットをつくることで人間の体のしくみを理解できるから」とか「義足や義手などの開発に役立つから」といったことがいわれてきました。

人型ロボット「ペッパー」にもそうした目的がないわけではないでしょうが、「人間の所作や言動のしくみを解明できるから」という目的のほうが大きいようです。

「為末大の未来対談 人とロボットの新たな関係が始まる」はこちらです。
https://newspicks.com/news/1019373?ref=user_9083
為末さんと林さんの対談は全3回を予定しており、つぎの第2回は24日(水)に配信の予定です。

この記事の構成をしました。

参考資料:
ソフトバンク 2015年6月18日発表「世界初となる自分の感情を持ったパーソナルロボット『Pepper』を6月20日より販売開始」
http://www.softbank.jp/robot/news/product/20150618a/
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ウェブ管理は“だれもができる”時代に

画像作者:Descrier

出版の世界では1990年台後半に、それまでの組版や写真植字といった旧来の作業から、コンピュータ画面で組まれた形を見ながら文字組などができる「デスクトップ・パブリッシング(DTP:Desk Top Publishing)」による出版の時代へと大きく変わっていきました。

ウェブサイト管理の世界でも、ここ10年で大きな変化があったとされています。それは、HTML(Hyper Text Markup Language)やCSS(Cascading Style Seat)といった専門的な知識を使ったウェブの構築・管理から、より簡単な「コンテンツ・マネジメント・システム(CMS:Contents Management System)」とよばれる方法でのウェブの構築・管理に移ってきているというものです。

これまでのウェブ管理は、必要な専門的知識を必要としていました。そのため、ウェブ管理者でないけれどもウェブの内容づくりにかかわっている人が情報を更新したいというとき、ウェブ管理者に頼んで情報を更新してもらう必要がありました。

しかし、CMSでは、ウェブを見たときに表現される文章や画像などの情報をそのまま扱う感覚で、ウェブの管理や更新をすることができます。

出版のDTPには、”WYSISYG(What You See Is What You Get)”つまり「見ているものが得たいもの」ということばがありました。これはコンピュータ画面に出版物の完成イメージがつねに示された状態でレイアウトなどをしていくというものです。

CMSでも、”WYSISYG”のような感覚でのウェブ管理や更新ができるといいます。

実際にCMSでウェブの管理をするというとき、代表的なソフトウェアとして「WordPress」があります。米国のマット・マレンウェッグたちが開発したソフトウェアで、ブログ管理用のソフトウェアとして知られていますが、ウェブを想定したCMSのソフトウェアとしても使われています。

WordPressのサイトには「ショーケース」つまり、実際にWordPressでつくられたホームページの例が紹介されています。たとえば、暮しの手帖社のウェブサイトはWordPressでつくられたもよう。シンプルですが、雑誌『暮しの手帖』に醸しだされているような手作り感の印象をウェブサイトから得ることができます。
http://www.kurashi-no-techo.co.jp

CMSの登場により、かんたんな「CMS講習会」を開けば、ウェブ管理者でなく、サイト関係者のだれもが情報の更新を手軽にすることができるようになります。

参考資料
NTTデータビジネスブレインズ「CMSとは」
http://www.nttd-bb.com/service/web/cms/about.html
WordPress.ORG 日本語
https://ja.wordpress.org
ウィキペディア「WordPress」
https://ja.wikipedia.org/wiki/WordPress
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「報酬なし」で成りたつ世界がある


なにかの作業に対してお礼で支払われるお金のことを「報酬」といいます。「対価」といいかえることもできます。人生は有限であり、世界はいまのところ資本主義を前提としているということからすれば、依頼されておこなうなにか作業に対して報酬があってしかるべきと考えることができます。

しかし、そうした社会でも“報酬なし”がけっこう当たりまえのようになっている作業というものもあるものです。

研究の世界でよく知られているのは、「論文の査読は報酬なし」という原則です。専門の科学誌などでは、だれかが書いた論文について、その分野で研究している著者以外の研究者が編集部から「査読をしてください」と依頼されることがあります。ここでいう査読とは、その論文が掲載する水準に達しているかなどを審査するために論文を読むことをいいます。

きちんと査読をすれば、それなりの時間がかかります。時間がかかった分、自身の研究をする時間が奪われます。しかし、それでも査読は無償。それで長年、研究者のコミュニティは保たれてきました。

査読者にとっては、査読の結果がどうであれ、先端研究の情報をいち早く知ることができる点が、無償で査読することの利点といわれています。これについては、査読した結果が悪用されかねないという課題もあるようですが。それはともかく、自分も書いた論文をだれかに無償で査読してもらうのだから、“おたがいさま”という精神も成りたちえます。

マスメディアの世界では、かならずではありませんが、「取材の対応は報酬なし」という考えも通ることがあります。その話題の専門家や当事者が記者などから取材を受けるわけですが、そのときの報酬はなし、という場合がかなりあります。

このとき、記者側が提示する“無償の口実”に「先生の最近のご活躍ぶりなども記事で紹介しますから」といったものがあります。身勝手な口実といえなくもありません。あるいは、ジャーナリズムに重きを置いている出版社や新聞社などでは、謝礼の発生が報道の公平性を崩しかねないという理由で「取材の対応は報酬なし」をお願いすることもあるようです。ときに、報酬についていっさい触れないという場合もありますが、これは取材対象者との齟齬をもたらしかねません。

取材対象者にとっては、報道側の代表として臨む記者の意見を聴くことができるということに、取材対応の利点を見出すことができるかもしれませんし、できないかもしれません。また、名を世間に広めたいという目的がある人にとっては、無償でも取材を受けるということに意義を見いだせそうです。

もうひとつ、教育の世界、とくに公立中学校では、「部活動の顧問は報酬なし」ということが問題を抱えながら当然のことになっているといいます。

部活動の顧問をつとめることは、“ほぼ強制”ともいわれます。活発な部には、平日は朝練をし放課後は夜まで練習、そして土日も練習や試合といった場合もあります。土日には報酬が支払われることもあるようですが、時給は最低賃金と同程度のようです。教師にしてみれば、自由なはずの時間を返上して部活動の指導にあたらなければならないわけです。

部活動の顧問指導を「ブラックバイト」あるいは「ブラックボランティア」と問題視する人もいるようです。ただし建前としては、生徒たちの自主的な課外活動に対して、先生が勤務外時間にボランティアで参加するということになっているようです。

「報酬なし」に、どのような利点を見いだせばよいのでしょう。がんばる子どもたちに接するのが好き、あるいは、その部活動の競技や内容が好き、はたまた自分も優勝を目指したい、といった思いでいられる先生はよいのかもしれません。しかし、そうでない先生は……。

査読、取材対応、部活動顧問。ほかにも「報酬なし」の活動はさまざまあるでしょう。この三つにかぎれば、その活動にまったく価値を見いだせない人にとって、費やされる時間がいちばん長い部活動顧問の「報酬なし」がもっとも辛そうではあります。

参考資料
植田憲一「物理系ピアレビュージャーナルとオープンアクセス」
http://www.nii.ac.jp/sparc/event/2008/pdf/042208/3_doc_ueda_0328.pdf
電子情報通信学会 和文D論文編集委員会「論文の書き方と査読の方法」
http://www.ieice.org/jpn/shiori/jd/kakikata_jd.html
佐藤翔「査読をめぐる新たな問題」
http://current.ndl.go.jp/ca1829
日刊アメーバニュース 2014年月28日付「大手新聞の取材受けた大学教授『謝礼ゼロは当たり前?』」
http://yukan-news.ameba.jp/20140428-96/
弁護士ドットコムニュース 2014年3月26日付「公立中学校の「部活顧問」制度は違法? 『教員』視点で不満を記したブログが話題」
http://www.bengo4.com/roudou/1102/1234/n_1327/
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女子高生1割「スマホ15時間以上」に質問の見えなさ


女子高生のスマートフォンの使用頻度についての実態調査が行われ、その結果が報じられています。おとながつい驚くほどの数値も示されていますが、ほんとうのところはどうなのでしょう。

2015年2月に、情報セキュリティ企業デジタルアーツが「未成年者と保護者のスマートフィンやネットの利活用における意識調査について」という報告書を発表しました。携帯電話やスマートフォンをもつ全国の小学校4年生から高校生の男女、それに未就学児から小学校3年生の保護者にインターネットで調査し、1,213人から回答を得たというものです。

この調査結果は、かなり報道機関でもとりあげられ、たとえば朝日新聞では2015年2月10日付で「女子高生のスマホ利用、1日7時間 2割がトラブル経験」といった見出しの記事になっています。

この調査は、2011年12月からデジタルアーツが定期的に行ってもので、2014年6月に実施したときとくらべても、携帯電話・スマートフォンの使用頻度は高まっているとしています。解説では、つぎのような言及があります。

「女子高校生の1日の平均使用時間が前回6.2時間から7時間に増え、0時〜3時の時間帯も24.3%が使用していることがわかり、今後、スマートフォンを所有することによる使用時間の長時間化が懸念されます」

また、発表資料では「女子高生の9.7%が一日15時間以上使用している」という調査結果も強調して示しています。

これらを受けて、朝日新聞でもつぎのように結果を伝えています。

「(1日の使用時間は)女子高生は昨年の6・4時間から延びて7時間だった。『1日9時間以上』が約3割。睡眠時間以外はほとんど手放していないと思われる『15時間以上』との答えも全体の約1割を占めた」

高校生の睡眠時間は、2005年にベネッセ教育研究開発センターが実施した調査では、半分を超える50.1%が「6時間以内」としています。それから10年が経ったのでさらに短くなったとしても5時間台といったところでしょうか。

すると、一日24時間のうち、活動できる時間は19時間ということになります。さらに高校生には学校の授業があります。50分の授業が5時間目まであるとすると1日250分。つまり約4時間ほどは学校の授業を受けている時間となります。

睡眠と学校での授業を受けている時間を除くと、ほぼ15時間ということになります。朝日新聞の「睡眠時間以外はほとんど手放していないと思われる『15時間以上』」という表現は、「睡眠時間と授業時間以外は」とすれば、ほぼ的を射たもののように思えてしまいます。

しかし、このデジタルアーツの調査の発表、それを受けた新聞記事の報道で抜けているのが、「質問文」です。どのような質問のしかたで回答者に答えてもらったのかが記されていません。

10分おきぐらいに「メールが届いていないかな」とスマートフォンでメールを確認するといったことは、多くのおとなも経験していることでしょう。もし、このときたまのメール確認も、スマートフォンなどを使っている時間にふくまれるのだとしたら、「1日15時間以上」という答えもあながちおかしくはありません。

いっぽう、スマートフィンを肌身はなさずもっていて、休む時間もなくLINEをしてユーチューブを見てゲームをしてということが続くような使いかたで、全体の1割が「1日15時間以上」というのであれば、にわかには信じがたいものとなります。

おそらく「あなたは、携帯電話やスマートフォンを1日どのくらいの時間、使っていますか」のような、「使う」の解釈はその回答者次第の質問がなされたのではないでしょうか。

参考資料
デジタルアーツ 2015年2月9日発表「女子高校生の1日の平均使用時間は7時間 0歳〜9歳の保護者64.0%が情報モラル教育や対策が不十分と回答」
http://www.daj.jp/company/release/2015/0209_01/
デジタルアーツ「未成年者と保護者のスマートフィンやネットの利活用における意識調査について」
http://www.daj.jp/company/release/common/data/2015/020901_reference.pdf
朝日新聞 2015年2月10日付「女子高生のスマホ利用、1日7時間 2割がトラブル経験」
http://digital.asahi.com/articles/ASH296T1PH29UTFL00M.html
ベネッセ教育総合研究所「調査データクリップ! 子どもと教育 生活時間〜第1回〜」
http://berd.benesse.jp/berd/data/dataclip/clip0005/
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「練習」は“する”もの、「訓練」は……

2013年に米国航空宇宙局ジョンソン宇宙センター近くの無重力環境訓練施設で訓練に臨む油井亀美也宇宙飛行士
NASA

宇宙飛行士の油井亀美也さんが2015年7月23日(木)に、ロシアの宇宙船ソユーズで国際宇宙ステーションへ向かう予定となったことが伝えられています。同期で宇宙飛行士になった大西卓哉さん、金井宣茂さんとのなかでは、いち早く宇宙へ向かうことになります。

宇宙飛行士の活動に欠かせないのが「訓練」といえます。訓練でくりかえししてきたことを宇宙へ行ってそのまま再現するのが宇宙飛行ともいわれるなどしています。

ところで、「訓練」と「練習」はどのようにちがうのでしょう。宇宙飛行士の活動をめぐる報道や発表では「練習」よりも「訓練」を使うほうが多いようですが……。

類語辞典では、「訓練」の類語に「練習」が、また「練習」の類語に「訓練」が出てきます。

「訓練」ということばには、「訓」という字が使われます。この「訓」は、心得や注意などを教えしめすという意味の「訓示」や、そのことばである「訓辞」、また、方針や権限などの基本的な命令を発するという意味の「訓令」などのことばにも使われます。

つまり、「訓」には、目上の者が目下の者に諭したり教えたりするという意味あいがふくまれるわけです。

この「訓」の使われかたからすると、「訓練」も、目上の者が目下の者に“させる”ものであるということができます。つまり「訓練する」の主体者は、訓練を企ててあたえる側の人になるわけです。宇宙飛行士の訓練でいえば、宇宙航空研究開発機構(JAXA)や米国航空宇宙局(NASA)などの組織あるいは訓練担当の教官などになるでしょう。

いっぽう、「練習」のほうは、「習」ということばがふくまれていることからわかるように、本来、自分が自分の技術を高めたりするために努力をするときに使われます。

しかし「訓練」が、「練習」とおなじく「技術の向上をはかりたい本人がおこなうもの」の意味で使われる場合がよく見られます。たとえば、宇宙航空研究開発機構の発表でも、「油井宇宙飛行士は、NASAジョンソン宇宙センター(JSC)でISS長期滞在に向けた訓練を行いました」「油井宇宙飛行士は、環境衛生システムの運用手順を確認する訓練も行いました」などとあります。「訓練を受けました」あるいは「訓練にとりくみました」あたりの使われかたがより本来的なのでしょう。

「練習」より「訓練」が使われがちなことには、宇宙飛行士の技術向上では、本人が主体的にそれに臨むということ以上に、技術向上のための組織的な計画が存在し、それをこなしていくという意味あいが強いといった背景もあるのかもしれません。たとえ「宇宙飛行士が訓練する」が誤用であっても、それを凌駕するほどに「訓練」を使うことの意味は強いのかもしれません。

なお、このブログの2014年1月8日付の記事「訓練は本番より高度に」でも、「訓練」を「練習」と混同した使いかたをしていました。この場で触れておきます。

参考資料
デジタル大辞泉「訓練」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/65822/m0u/
宇宙航空研究開発機構 2015年1月23日付「油井宇宙飛行士、ISS長期滞在に向けた訓練を実施」
http://iss.jaxa.jp/astro/report/2014/1412/yui_issexp.html
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「串」の意味するところ単純ならず
漢字の成りたちかたの分類のひとつに「象形」があります。もののかたちをかたどって字にしたものが象形です。

「串」という字は象形のひとつ。インターネットでは、「串」という字について、「如何に説得力のある象形文字か」「超象形文字だよな」「形が正にそのままだ」などと書かれています。とてもわかりやすい、典型的な象形として見られているようです。



たしかに、まんなかの縦棒に対して、二つの具のようなものが“串刺し”されているような字形を見れば、多くの人は「『串』って、いかにも串っぽい」と感じることでしょう。「単純すぎる。ひねりがなさすぎ」と感じる人もいるかもしれません。

しかし、ほんとうに「串」は単純すぎる象形といえるでしょうか。

そもそも串という道具がどんなかたちをしているかを思いおこしてみると、写真にあるように細い直線の棒状のものであることにあらためて気づきます。


写真作者:Chris 73

この「くし」という棒状の道具を、そのまま象形として示そうとすれば、「|」または「一」または「/」のような、単なる一本線の文字なるはずです。しかし、漢字の「くし」は「串」。明らかに、細い棒を示す一本線だけでなく、細い棒に貫かれたふたつの具材も、この字形にはふくまれています。

実際、漢字がつくりだされた中国では、「串」は「くし」という道具そのものを指しているわけではないといいます。字形を見てのごとく、「串」は「くしに貫かれた具もふくめた全体」のことを指すといいます。

では、中国で、単品の道具としての「くし」をどう表すか。そこでは「籤」という字が使われることが多いようです。

「籤」は、中国では「チエン」と発音しますが、日本語では「くじ」や「ひご」などと読みます。「くじを引く」というときの「くじ」、あるいは「竹ひご」というときの「ひご」に当たるもの。「くじ」は、器に入った複数本の細棒を器から引いておこなうために、このようによばれているようです。

日本語でも、「串」は、道具そのものを指すだけではありません。たとえば、「串焼き」や「串揚げ」といったことばがあります。単なる細い棒の「くし」を焼いたり揚げたりしても意味がありません。串に刺さった具を焼いたり揚げたりするするからこそ「串焼き」であり、「串揚げ」であるわけです。

「串」は、道具を指す場合もあれば、道具と具材をふくむ全体を指す場合もある。字形からの印象としては単純きわまりないものではありますが、この字の意味しているものはそう単純とはいえません。

参考資料
ウィキペディア「串」
http://ja.wikipedia.org/wiki/串
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「自然の摂理に反する」という理由はなかなか通らない


人は、みずからの主張を通すため、さまざまな理由づけをするものです。かなり強引な理由づけの例としては、剛田武の野比のび太に対する「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの。な!」が、あります。

それほどではないものの、根源的な理由づけとして人が使うものに、「自然の摂理に反するから」があります。「摂理」とは、森羅万象を支配する、理にかなった法則のこと。なかでも、自然がもっている摂理のことを「自然の摂理」といいます。

自然の摂理に照らしあわせて考えると、その人のその行為はあるまじきもの。「自然の摂理に反する」と発言する人は、そう言いたいのでしょう。本心からのものか意図的なものかはさておいて。

ここのところの報道を見るかぎり、「自然の摂理に反する」という理由づけの対象となるものごととして多いのは、性についてのものです。

たとえば、トルコのレジェップ・エルドアン大統領が2014年、「女性と男性を平等の地位に置くことはできない。自然の摂理に反している」と発言し、批判的に報じられました。

また、ザンビアでは、性的行為をした男性どうしが、「自然の摂理に反する性的行為」であるとして起訴され、1年以上、収監されていましたが、2014年に裁判所が無罪をいいわたしたということです。

上のふたつの例は、いずれも「自然の摂理に反する」という理由では主張は通りづらい、あるいは通らない、ということを支持しているものととれます。

そもそも人は、自然の摂理に反することをしつづけてきましたし、いまも日常的に自然の摂理に反することをしつづけています。

たとえば、エレベーターで上階へと上っていく行為は、「重力に逆らう」ことであり、自然の摂理に反しています。しかし、エレベーターに乗りながら「俺はいま、自然の摂理に反しているんだぁー」などと複雑な心境に陥る人は、そう多くはいますまい。

車や飛行機のような機械を使わないと実現できない速度で移動することも、「自然の摂理に反する」ととることができます。しかし、だからといって「私は自力より速く移動する乗りものには乗らないぞぉ」と決めこんでいる人は、そう多くはいますまい。

たしかに人は、「自然の状態からすると違和感を覚える」という経験をするものではあります。

しかし、同時に人は、「自然の摂理に反する」と思えるようなことでも、あたりまえのようにそれをくりかえし、その行為をみずから許してしまうものです。

そんな人という“生ぬるい”生きものが、あるものごとに対してのみ「自然の摂理に反する」と理由づけをしたとしても、それほど説得力が高まることにはなかなかなりません。

参考資料
朝日新聞 2014年11月25日付「トルコ大統領、男女平等は『自然の摂理に反する』」
http://digital.asahi.com/articles/ASGCT1W6BGCTUHBI003.html
アムネスティ国際ニュース 2014年7月3日付「ザンビア:『自然の摂理に反する性的行為』で起訴されていた2人が無罪に」
http://www.amnesty.or.jp/news/2014/0714_4718.html
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欧州の一国と日本の一県に地勢的な共通点
山、川、平野、海などの配置のありさまを「地勢」といいます。地勢の観点から見ると、場所や規模がちがいながらも、にたような位置づけにある地域が世界にはあるかもしれません。

地勢的ににているといわれているとかいわれていないとかいわれている二地域に、欧州の国ベルギーと、日本の県の佐賀県があります。

ベルギーと佐賀県に共通するおもな点は、まわりの要所と要所のあいだにある“通路的な地域”であるという点です。

ベルギーの東側にあるのは、ドイツやオランダといった国々。そこには、オランダの首都アムステルダムや、ドイツの大都市デュッセルドルフ、それにケルンなどがあります。また、ベルギーの西側にあるのはフランス。花の都パリがあります。

これらの東西の大都市を陸路で移動するとなると、必然的にベルギーを通過することになります。途中にベルギーがあるからです。なかでもベルギーの首都ブリュッセルを通るという場合が多くあることでしょう。


ベルギー

いっぽう、佐賀県の東にあるのは、福岡県。福岡県には九州最大の都市である福岡市や、人口30万人を擁する久留米市などがあります。また、佐賀県の西側には長崎県があります。長崎県にも、江戸時代から開港場として栄えていた長崎市や、かつて軍港だった佐世保市などの主要都市があります。

これらの東西の都市を陸路で移動するとなると、かならず佐賀県を通過することになります。とくに道路でも鉄道でも、県庁所在地の佐賀市内をほぼ通ることになります。


佐賀県

また、海に臨むという地勢でもベルギーと佐賀県には共通点があります。ベルギーの北西岸は北海に面しています。そして佐賀県の北西岸は玄界灘に面しています。

もちろんベルギーや佐賀県がたんなる“通路的な地域“にとどまっているかというとそういうわけではありません。ベルギーあるいは佐賀県に「仕事がある」という人や「観光をしたい」という人も多くいます。また、ベルギーにはワッフル、ビール、チョコレートなどの特産品が、また佐賀県には牛肉、いちご、海苔などの特産品があります。国として県として、それなりに栄えているわけです。

とはいえ、どちらにも派手さのようなものがあるわけではありません。田園地帯が広がるなかで機械や化学などの工業などもさかんという特徴がかなり共通しています。そこに住みやすさを見いだす人もいるはずです。

「ベルギーは欧州の佐賀県」もしくは「佐賀県は欧州のベルギー」といわれているとかいわれていないとか、いわれています。どちらもおそらくは、佐賀県のことをよく知っている日本人が言うことでしょうけれど。
| - | 21:01 | comments(0) | trackbacks(0)
発酵させないからこそ「緑茶」
緑茶、紅茶、烏龍茶は、原料となる植物としてはみなおなじであることが知られています。このなかで、日本の国内消費量となると、圧倒的に多いのはいまもむかしもいまも緑茶。2013年での国内消費量は、紅茶と烏龍茶がともに、およそ1万5600トンだったのに対して、緑茶はおよそ8万6700トン。紅茶または烏龍茶の5.5倍の消費量となっています。

そもそも、緑茶とはなにを指すのでしょう。

その要点は「発酵」させない茶であるということ。お茶での「発酵」とは「酸化」のこと。ツバキ科の常緑低木であるチャの若芽を蒸します。これで、酸化反応を触媒する酵素のはたらきが止まります。紅茶や烏龍茶をつくるときは、チャに酸化反応をさせるためお茶の色が褐色になりますが、緑茶では酸化反応をさせないため、緑色のままで保たれるわけです。

「発酵させない茶」という点では、急須でお湯を注いで香りや味を煎じて飲む「煎茶」も、粉状のお茶にお湯を加えて茶筅(ちゃせん)でかき混ぜて飲む「抹茶」も、日本茶の分類に入るといえます。

ただし、緑茶のなかでも、煎茶と抹茶には、やはりちがいがあります。

煎茶のほうは、新芽が出てから摘みとるまでのあいだ、ずっと日光に照らして育てます。日光に照らされることにより、チャの葉では光合成がおこなわれます。すると、渋みの成分になるカテキンとよばれる物質が多くつくられます。これが、煎茶に特有の渋みとなるわけです。

煎茶

これに対して、抹茶のほうは、新芽が出たあと、摘みとり3週間前ごろから日光に照らさずに育てます。この育て方を「覆下栽培(おおいしたさいばい)」とよぶことも。日光にあまり照らされないことにより、チャの葉では光合成があまりおこなわれません。すると、渋み成分のカテキンがあまりつくられず、その分、べつの「テアニン」とよばれる物質の量の比率が相対的に高くなります。テアニンはうまみの成分。そのため、抹茶では、渋みが抑えられて、うまみの強い風味になるわけです。

なお、抹茶に用いる、覆下栽培で育てて蒸してもまずに乾燥させた茶のことを「碾茶」といいます。これに対して、おなじく覆下栽培で育てて蒸してあと、もんで乾燥させたお茶のことを「玉露」といいます。もめめば玉露、もまなければ碾茶というわけです。


抹茶

また、緑茶の分類のなかには「ほうじ茶」という褐色のお茶もふくまれます。これは、煎茶を強火であぶって香りをもたせたもの。「ほうじ」は「焙じ」と書きます。つまり「焙(あぶ)った」お茶というわけです。法事のとき待合室で出されそうなお茶、というわけではありません。


ほうじ茶

ひとえに「緑茶」といってもさまざまな種類があるのは、ひとえに日本人が緑茶に親しんできた証ともいえるでしょう。

参考資料
茶ガイド「茶の生産と流通」
http://www.zennoh.or.jp/bu/nousan/tea/seisan01b.htm
竹林茶屋「発酵度とお茶」
http://homepage2.nifty.com/chikurin-chaya/What_is_tea/hakkoudo/hakkoudo.htm
宇治園「緑茶、煎茶、玉露の違い」
http://www.ujien.jp/lecture/kind/gyokuro-sencha/
小山園「抹茶のできるまで」
http://www.yamamasa-koyamaen.co.jp/trivia_flow.html
| - | 23:59 | comments(0) | -
ネコに輝板


夜、神社の境内にたたずんでいるネコをスマートフォンで撮ると、眼が光って写ります。フラッシュは炊いていません。それでも、毛の白いところよりもくっきりと、眼のところが白く写っています。

ヒトをふくむ哺乳類の眼の奥のほうには、網膜という膜があります。外から入ってきた光を受けとめて像をむすぶための部分です。ヒトの眼では、網膜が受けた光をさらに奥にある脈絡膜へと通してそこで光を遮断します。

いっぽう、ネコの眼の奥には、ヒトとちがって、網膜と脈絡膜のあいだに、もう一枚の膜があります。この膜を「輝板(きばん)」あるいは「タペタム」といいます。

ネコの眼のまわりにある光がネコの眼に入ってきます。すると、光はまず網膜を通ります。そして、光はそのつぎにある輝板で反射するのです。

輝板で反射した光はふたたび網膜を通ることになります。これで、ネコは光を増幅させて感じることができるわけです。

ではネコはヒトの2倍以上、視力がよいのかというと、けっしてそうではないようです。視力と光の感受性はべつもの。じつは、ネコは近眼で、視力そのものはヒトの10分の1ほどしかないといいます。しかし、輝板があるため、ヒトの7分の1の光の量で十分に足りるとのこと。

ネコは夜行性の動物。活動する夜の暗い時間帯にとりわけ光を効率的に受けとるために、視力よりも眼の奥の“輝く板”を発達させることを選んだのでしょう。

ちなみにヒトでは、フラッシュをたいて撮影されると「赤目」になることがあります。これは、血管の多い網膜にフラッシュの光が届いて、光で照らされた網膜が写真に写されて赤くなるもの。ヒトが輝板をもっているわけではありません。

参考資料
参天製薬「猫の目の仕組み・不思議:暗闇のなかでキラリと光る印象的な大きな瞳」
https://www.santen.co.jp/ja/healthcare/eye/eyecare/wonders/cat_eye.jsp
花王「猫の不思議サイエンス」
http://www.kao.co.jp/pet/cat/science/scat/scat01.html
ウィキペディア「赤目現象」
http://ja.wikipedia.org/wiki/赤目現象
| - | 21:54 | comments(0) | trackbacks(0)
自分たちの名をさり気なく口に出すという気づかいも


相手の人に対して、「こういうことを考えているのではないか」とか「こうしてさしあげるとよいのではないか」などと気をつかうことを「気づかい」といいます。

気づかいにはさまざまなかたちがあります。またさらにいえば、気づかいをされた人が「気づかいを受けた」と気づく気づかいもあれば、気づかないくらいの気づかいもあります。気づかないぐらいのほうがよいという考えかたもあります。

人と人とが再開するとき、自分や身内の名前をさり気なく言うというのも、気づかいのひとつといえるかもしれません。

たとえば、ある企業の佐藤さんが同僚の鈴木さんとともにうちあわせに臨んだとします。相手はべつの企業の田中さん。初対面なので、当然その場で「佐藤と申します」などとあいさつをして名刺を渡します。

それから1か月後、佐藤さんは同僚の鈴木さんとともに、ふたたび田中さんとうちあわせをすることになりました。

日が経つと、人は前にあった人の名前を忘れてしまいがちです。田中さんは、前回の商談でおもに話していた佐藤さんの名前はなんとなく覚えていたけれども、同僚の鈴木さんの名までは忘れてしまっていました。

しかし、ふたたびのうちあわせではもはや名刺交換はしません。相手の名をすでに知っていることがあたりまえの状態で、うちあわせがはじまるわけです。

このとき、気づかいをすることのできる佐藤さんは、田中さんに対して、「ごぶたさしています。佐藤です。今日もよろしくお願いします」と、さり気なく自分の名を口にしたのでした。

さらに、佐藤さんは「あのうちあわせのあとも、鈴木とともにいろいろとふりかえりましてね、ええ」などと、またしてもさり気なく同僚の名を口にしたのでした。

うちあわせをする人の名をあらかじめ思い出しておくことは、ビジネスマナーといえばそれまでかもしれません。しかし、名前わすれは得てしてありがちなこと。

そこで、佐藤さんは、田中さんに気づかいをして、さり気なく自分と同僚の名を会話のなかに忍ばせておいたのでした。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
「ターャジス」は「スジャータ」と発音すればよい


街なかを歩いていると、たまに食品メーカー「めいらくグループ」の業務車に出合うことがあります。

この業務車の右側面には、「ターャジス 人恋の色褐」という文字が示されています。

ではと、車の左側面に回ってみると、「褐色の恋人 スジャータ」という文字が示されています。このことからすると、車の側面に「褐色の恋人 スジャータ」と記す技術がないわけではなく、車の右側面には、意図的に「ターャジス 人恋の色褐」と記しているようです。そのことを支持するように、「タ」のすぐ左下には、「冷凍・冷蔵車」と記されています。これを左から右に「しゃぞうれい・とうれい」と読む人はいますまい。

「ターャジス」の表記について、巷では「どのように発音するのか」「人類がまだ発音出来てない言葉」などといわれているようです。

「ター」をまず発音するのはかんたんです。難関はそのつぎにやってきます。「ヤ」が小さく「ャ」になっています。通常、小さな「ヤ」は、「ジャ」のように、2字の仮名の2番目にきて、この2文字で「拗音」とよばれています。

拗音は、仮名2字でなりたちます。いっぽう「ャ」の前にある「ー」は、長音符とよばれる記号であり、厳密には仮名ではありません。そのため「ーャ」の組みあわせが拗音として成立しないため、発音することができないといわれているようです。

しかし、そんなにむずかしく考えることはありません。「ャ」のように、ほかの文字とくらべて小さく記されていたら、小さく発音をすればよいのです。発音記号にすれば【taːjaðis】となるでしょうか。

あるいは、「そもそも横組のことばを、左から右に読まなければならない」という概念をとりはらえば、「ターャジス」をどう発音するかといった悩みは一気に消えることでしょう。多くの人は、これは「褐色の恋人 スジャータ」のことなのだと気づくはず。そう気づいたならば、素直に「かっしょくのこいびと すじゃーた」と発音すればよいだけの話です。もちろん、口に出して発音したいならそうすればよいだけのはなしではありますが……。

なお「ターャジス」をどう発音するかの問題とはべつに、「ターャジス」をいうロゴをあしらったTシャツがつくられているようです。
http://blog.livedoor.jp/r2koba/archives/68199911.html
| - | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0)
結びつきが弱いと色褪せやすい


電車のなかに掲げられている駅名の案内を見ていると、路線のシンボルとなっている色の線が褪せていることがあります。

たとえば、東京都と千葉県を走る総武線各駅停車の駅名案内では、総武線各駅停車のシンボル色である黄色がだいぶ褪せて、黄色なのか桃色なのかわからないような色になっています。

ほかの総武快速線のシンボル色の青色や、中央快速線のシンボル色のオレンジ色などは、それほど褪せてはいません。このことからすると、印刷される色のなかでも黄色は褪せやすいようです。

印刷物に使われている液体はインキといいます。インキには、顔料とよばれる、水などに溶けない粉末が使われています。そして、インキの4つの原色となる、藍、紅、黄、墨ごとに、使われる顔料の物質が異なります。

たとえば、藍のインキには、フタロシアニンブルーとよばれる物質が使われています。古くから藍のインキの顔料として使われてきたもの。この物質のつくりは、銅原子(Cu)を、直接的または間接的に計8個の窒素原子(N)が囲んだものになっています。さらにその外側には、炭素原子(C)が複数あって、原子と原子のあいだで1対の電子が共有されている単結合と、2対の電子が共有されている二重結合が交互にくりかえしています。

このくりかえされる二重結合を共役二重結合といいます。共役二重結合があると、物質はとても安定します。たとえば、長いこと紫外線にさらされたりしても、なかなかこの結合が崩れることはないのです。

いっぽう、黄色のインキには、ジスアゾ系とよばれる物質からなる顔料でできています。「アゾ」とは、窒素原子(N)どうしが二重結合をもっている化合物をさすことば。これに「ジス」がついた「ジスアゾ」は、窒素原子の二重結合がふたつあることを意味しています。

黄色を呈する顔料物質は、ジスアゾイエローとよばれます。そして、このジスアゾイエローは、フタロシアニンブルーにおける原子の結びつきにくらべて、結びつきかたが弱いのです。とくに、窒素原子の二重結合のしかたについては、ジスアゾイエローのほうでは島と島を結ぶ唯一の橋のようになっていて、結合が弱くなっています。

結合が弱いと、紫外線などに晒されたとき、そこの結合が破壊されてしまいます。すると、本来は呈するはずの色味が失われてしまうわけです。

参考資料
DICグラフィックス 色彩の扉「光はインキを変えてしまう!?退色とは…」
http://www.dic-graphics.co.jp/navi/color/fading.html
愛産研ニュース 2009年8月号「金属フタロシアニン錯体内包触媒について」
http://www.aichi-inst.jp/other/up_docs/no89_05.pdf
コトバンク「共役二重結合」
https://kotobank.jp/word/共役二重結合-53085
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
わかりづらいまま自転車運転の法律改正


(2015年)6月1日より、改正された道路交通法が施行されました。道路交通法とは、道路交通の安全と円滑をはかることを目的とする法律です。

この改正道路交通法で話題になっているのは、自転車の危険行為に対して自転車運転者講習を義務づけるようになったことでしょう。

自転車運転での危険行為を3年以内に2回以上反復した人は、公安委員会から命令を受けて、3時間で5,700円かかる「自転車運転者講習」という講習を受講する必要があります。もし、受講の命令を破ると5万円以上の罰金が課されます。

では、自転車運転の危険行為とはどのようなものか。つぎの14個が掲げられています。

「信号無視」「通行禁止違反」「歩行者用道路における車両の義務違反(徐行違反)」「通行区分違反」「路側帯通行時の歩行者の通行妨害」「遮断踏切立入り」「交差点安全進行義務違反等」「交差点優先車妨害等」「環状交差点安全進行義務違反等」「指定場所一時不停止等」「歩道通行時の通行方法違反」「制動装置(ブレーキ)不良自転車運転」「酒酔い運転」「安全運転義務違反」

たとえば、「通行区分違反」では、車道の右側を通行した場合や、自転車が通行できる条件でない歩道を通行した場合などをいいます。

巷では、「こんなことも危険行為になるのだろうか」と話題になっています。

たとえば、イヤホンを使いながらの運転。

東京都を管轄する警察機関である警視庁は、「違反行為」として「イヤホーン等を使用して音楽を聴くなど、運転上必要な周りの音や声が聞こえない状態で自転車を運転してはいけません」としています。

しかし、神奈川県警は「片耳でのイヤホンの使用は、それだけでは違反となりません」としています。では、どうすると違反になるのか。「安全な運転に必要な音又は声が聞こえない状態であれば、違反となります」としています。

このふたつの情報からすると、イヤホンを使いながら運転することは危険行為になるのかどうかわかりづらいものがあります。ただし、本質は「イヤホンを使いながら自転車を運転してはいけない」ということでなく、「運転に必要な音が聞こえない状態で自転車を運転してはいけない」ということにありそうです。

また、傘をさしながらの運転も、危険行為にふくまれるかどうかが話題になっています。

傘をさしながらの運転は、上の項目のなかの「安全運転義務違反」にふくまれるという見方があるようです。しかし、これも傘をさしていることそのものが危険運転なのでなく、それによって人身事故を起こすと危険運転とみなされるということのようです。

道路交通法での自転車運転の決まりに長けている人は、「自転車は原付とおなじと考えて運転しなければいけないもの。たとえば、原付きに乗りながら傘さしはしないでしょう」といいます。

しかし、人の感覚として、自力で運転する自転車と、機械の力で動かす原付とは、大きく異なるもの。多くの人は、「徒歩の延長として自転車運転がある」ぐらいの感覚かもしれません。

自転車運転についての道路交通法に対する人びとの理解度はいまもって高くありません。

参考資料
警視庁「違反行為」
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/bicyclette/jmp/bicyclette.pdf
神奈川県警「自転車の運転による交通の危険を防止するための講習に関する規定の整備」
http://www.police.pref.kanagawa.jp/mes/mesf0207.htm#no9
法庫「道路交通法」
http://www.houko.com/00/01/S35/105.HTM
東京都道路交通規則
http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/g1012199001.html
朝日新聞大阪版夕刊 2015年6月1日付「自転車危険運転→講習 摘発2回で義務化、きょうから」
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
看護師、高学歴かつ高収入の時代に


患者の看護をしたり医師の医療を補助したりする人が「看護師」です。看護師というと「勤務時間が不規則で忙しいにもかかわらず、収入は低い」といった先入観をもつ人は多くいるはず。実際のところ、どうなのでしょう。

朝日新聞出版から(2015年)5月30日、『看護師になる』というムックが出版されました。

このムックで書かれているのは、看護師の就職先としての人気が高まっているということ。東京大学医科学研究所が同ムックに提供するデータによると、「18歳人口あたりの看護学部志望者数の割合」は、2004年に1.57%だったのが、2014年には4.87%に。いまや100人の18歳のうち、5人弱は看護学部の入学を志望しているということになります。

人気上昇の理由はさまざまあるでしょうが、高収入であるということに着目している親子もすくなからずいることでしょう。同ムックによると、看護師の平均年収は2014年度で473万円。これは、全国の労働者の平均年収を50万円ほど上回っている額です。記事では「安定した収入も(看護師の)魅力のひとつ」としています。

看護師は国家資格ですが、2014年度の試験合格者の30%以上は大学卒業者になっているといいます。そして、その看護師の高学歴化は、“医療の質“そのものに影響するという面もあるようです。

同ムックの記事で取材に受けている東京大学の上昌広特任教授は、「ヨーロッパ9カ国300病院と患者のデータから、病院に大卒またはそれ以上の学歴のナースの割合が多いほど、外科患者の入院後30日以内の死亡率が低い、という研究結果があります」と説明しています。

患者にふれあって要望を親身に聞いて、チーム医療の要として医者だけでなく医療従事者たちを支える。こうしたところにやりがいを感じて看護師を目指す人は多いのでしょう。「機械にとってかわられにくい職業」ともいわれます。

ムックには、「新人ナースお悩み相談Q&A」や「ワーク・ライフ・バランスを考える」といったほんとうに看護師を目指そうとしている人の疑問に答えるような記事が並んでいます。

朝日新聞出版によるムック『看護師になる』の紹介はこちらです。
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=17080
| - | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0)
東京・亀戸界隈に伝統の大根


東京はかつて、いまほど建てものが密集しているわけではありませんでした。そのことを示すように、東京特産の野菜がいくつかあり、よび名には東京の地名がついているものもあります。

JR総武線のか亀戸駅のすぐ脇の敷地には「亀戸大根」の看板が見られます。亀戸は東京都江東区のいち地区。このあたりの地で育てられ、採られる大根の種類は亀戸大根とよばれています。

亀戸のあたりで大根がつくられるようになったのは、江戸時代末期の文久年間(1861-1864)年とされています。荒川が運んでくる肥えた土のなかで育っていくため、肉質がちみつになるといいます。

スーパーマーケットなどで見られる大根とちがって、亀戸大根は図太くありません。このあたりは、いかにも伝統的な野菜らしいところ。本来の大根の姿は亀戸大根のように、にんじんをひとまわり大きくしたぐらいのものだったといいます。

東京ではほかに「小松菜」という葉もの野菜が栽培されていて、その名は全国的にも知られています。これも、江戸川区の小松川のちかくで多く栽培されていたことから、そうよばれています。

ただし、いま栽培されている小松菜は、1世代のみしか使わず子孫を残さない「F1種」とよばれるもの。従来の小松菜はF1種でなかったことから、むかしの小松菜のことを「伝統小松菜」とよぶ向きもあるようです。

亀戸大根をつくる農家は、いまでは江東区のとなりの葛飾区に、わずか何軒かの農家を残すのみとなっているようです。しかし、亀戸大根を使った鍋料理などを出しつづけている料亭「升本」が栽培農家と契約を結んでいることもあり、伝統の火はいまも絶えていません。

参考資料
THE PAGE 2014年12月17日付「幻の野菜『亀戸大根』、伝統野菜とビジネスのいい関係」
http://thepage.jp/detail/20141225-00000004-wordleaf
知恵蔵2015「F1品種」
https://kotobank.jp/word/F1品種-185410
農山漁村文化協会「故郷に残したい食材 亀戸大根」
http://nipponsyokuiku.net/syokuzai/data/038.html
亀戸升本本店
http://masumoto.co.jp/ja/honten/
| - | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0)
芭蕉の「五月雨を……」大雨にあらずの解釈あり

写真作者:
Tröss Nipanki Le Roij

沖縄地方につづいて、きょう(2015年)6月2日(火)、九州と山口地方も梅雨入りを迎えました。日本列島のほか各地も、あと幾日もせず梅雨入りとなりそうです。

陰暦でいう5月、新暦でいう5月下旬から7月上旬ごろに降る雨のうち、降りつづく雨を「五月雨(さみだれ)」といいます。

「五月雨」という季語が使われた有名な句が、江戸時代前期の俳人だった松尾芭蕉(1644-1694)が歌ったつぎの一句です。

「五月雨をあつめて早し最上川」(おくのほそ道)

この句はもともと1689(元禄2)年の旧暦5月29日、新暦でいう7月15日、芭蕉に「さみだれをあつめてすゝしもかミ川」と歌われたとされます。「すゝし」とは「涼し」のこと。滞在先の船問屋の近くを流れる最上川から、涼しい風が渡ってきて、蒸し暑さを和らげてくれたことから、この「すゝし」の句が生まれたといいます。

しかし、芭蕉は「すゝし」を「早し」に変えました。梅雨の末期には大雨がつきもの。芭蕉が見た最上川も「水みなぎつて舟あやうし」というありさまだったようです。「おくのほそ道」に綴られています。

しかし、芭蕉が句の冒頭で表した「五月雨」には、さほど大雨ではなかったとする解釈があります。

最上川の光景を芭蕉は「雨をあつめて早し」と表現しました。この部分を「雨の水が集まったからこそ早くなった」と解釈することができます。すると、「雨の水の量はそれほどでもなかったのではないか、けれどもその雨の水が集まってできた最上川の流れをとりわけ早く感じたのではないか」という推測が生まれるわけです。

実際、最上川の水系は、羽毛を描くように、小さな支流が本流に合流したような地形になっています。たとえ雨の量は多くなくても、この最上川水系に、山の雪解け水もふくめた雨水が集まってきた。だからこそ、芭蕉はこの句を表したのかもしれません。

「五月雨をあつめて早し最上川」

参考資料
「いにしえの心 科学散歩」『サイエンスウィンドウ』2008年6月号
http://sciencewindow.jst.go.jp/html/sw15/sr-stroll
| - | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0)
食べたときの空気と悪玉菌のガスが混ざりあって……

写真作者:Thomas Rousing

かつて「おならはうんこのため息です」ということが話されていたラジオの深夜番組があり、このことを聴いたさだまさしさんが説得力のある話だと感心したということです。

おならが“ため息“なのかどうかはわかりませんが、このガスは、ほぼだれしものからだから出てくるものであることはまちがいありません。

どうしておならのガスがからだでつくられるのか。おならのガスにはふたつの由来があるといわれます。

ひとつは、食べたり飲んだりするときに口から空気が入っていくというもの。人は食べものだけを飲みこむということをなかなかできないようです。

しかし、空気はおもに窒素と酸素からなりたっていて、これらの気体にはにおいがありません。ところがおしりから出てくるおならには、においがあります。

このにおいの原因は、おならのふたつめの由来に関連します。腸内には、いわゆる悪玉菌といわゆる善玉菌とよばれる細菌があります。

悪玉菌は腸内のたんぱく質や脂質などをもとに増えていき、アンモニア、インドール、スカトールといった臭いのもととなるガスを発生させます。

この悪玉菌のはたらきを抑えるのが、いわゆる善玉菌です。しかし、体調があまりよくなかったり、年齢が増していったりすると、善玉菌の悪玉菌のはたらきを抑える機能が減っていってしまいます。

なお、おいもなどの食物繊維が豊富にふくまれる食材を食べると、おならが出やすくなるとされます。しかし、おならそのものは、出すほうが健康的にはよいものであるため、「おならが出ないようにするため食物繊維をとらない」という考えかたはあまりされません。

参考資料
日経WOMA 2014年9月24日付「おならがたくさん出て困る…原因は腸内バランス」
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO76946720R10C14A9000000/
カラダの教科書「インドールとスカトール 悪臭の原因物質」
http://www.karada-navi.com/smell/farting/851/
小林製薬「ガスだまりによる症状」
http://www.kobayashi.co.jp/brand/gaspitan/condition.html
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
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