科学技術のアネクドート

「ニコチン」から「ニチコン」、いや「コチニン」に


たばこに含まれる「ニコチン」という物質は、毒性の強い物質です。ニコチンの致死量は、体重1キログラムに対して、0.5ミリグラムから1ミリグラムほどとされています。

このニコチンという物質は、体のなかに入るとどうなるでしょうか。

「ニコチンが“ニチコン”という物質に変わる」という話が巷の一部であります。

ためしに「ニチコン」ということばをインターネットで検索してみると、それなりに「ニチコン」が出てきます。アルミ電解コンデンサやフィルムコンデンサなどを扱う「ニチコン」という会社はべつとして、タバコとの関係で「ニチコン」と記されています。

たとえば、日本経済新聞の2010年12月27日付の記事に、つぎのような記述があります。
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厚労省が、今年8月公表の国民生活センターの調査でカートリッジ内の液体からニコチン反応があった電子たばこ11銘柄を国立医薬品食品衛生研究所で分析したところ、煙の代わりに吸い込む蒸気からニチコンを検出。うち9銘柄は包装などに「ニコチンを含まない」との表示があった。
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これはどういうことでしょう。「ニコチンを含まない」という表示のある電子たばこから「ニチコン」という物質が検出されたというのです。やはりニコチンが、なんらかの作用でニチコンという物質に変わるのでしょうか。しかし、この記事全体でも「ニチコン」が出るのは、上にある1か所だけ。新聞が、知られていないことばを平気で出すものでしょうか。

そこで、「ニコチン 体内 分解」などとあらためて検索をしてみると、べつの似たことばが出てきます。

「コチニン」。

どうやらこちらの「コチニン」のほうが、「ニコチンから変わる物質」として正解であることがわかります。インターネットの辞典にも「タバコの煙に含まれるニコチンが体内で分解されてできる物質」などときちんとした説明がなされています。

もともと「ニコチン」のほうは、フランスの外交官ジャン・ニコ(1530-1600)の名にちなんでつくられたもの。ニコがポルトガルに大使としていたとき、大使館の庭に「あらゆる病気に効く」とされていたタバコ種の植物を植えて栽培。偏頭痛もちだったフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシス(1519-1589)にも献上したといいます。

これでまず、このタバコ種の植物のよび名が「ニコチアナ」となりました。さらに、300年後、タバコ植物に含まれる物質のなかで特徴的な物質にもニコの名にちなんだよび名がつけられました。それが「ニコチン」です。

「コチニン」(Cotinine)というのは、「ニコチン」(Nicotine)ということばの綴りを入れかえることでつくられたものとされています。いっぽう、たばこ関連の文脈で「ニチコン」と記されているのは、たんなる誤記のようです。

参考資料
日本経済新聞 2010年12月27日付「電子たばこ11銘柄の蒸気にニコチン 販売中止に」
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2704P_X21C10A2CR8000/
語源由来辞典「ニコチン」
http://gogen-allguide.com/ni/nicotine.html
ウィキペディア「コチニン」
http://ja.wikipedia.org/wiki/コチニン
ニチコン株式会社「会社概要」
http://www.nichicon.co.jp/company/com_about.html
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神経科学と経済学が融合


経済学は、さまざまな異分野学問との融合がはかられている学問といえます。もともと数学と経済学の関係性には深いものがありました。ほかにも生物とその環境の相互関係を研究する生態学との融合や、物理現象を理論的に解いていく理論物理学との融合なども見られます。

経済学の一分野として確立されてきているのが、神経経済学です。

神経というのは、脳などにはりめぐらされ、刺激を伝達するのに使われる細胞のこと。その神経のもつしくみを科学的に解きあかそうとする神経科学という分野があります。そして、この神経科学の視点をとりいれて、人の経済現象を解きあかそうとする学問が、神経経済学といえます。

1960年代、それまで行なわれてきた経済学の理論が、実際の人間の行動にそぐわないという指摘や実証研究が発表されるようになりました。

そこで、人間の行動という視点から、経済学の理論を見なおすことで、経済学の理論と人間の行動との差の課題を解消していこうという動きが起きてきたのです。人間の行動を観察することで、選択や行動がどうとられるかなどを研究する行動経済学や、実験的な手法を重視する実験経済学なども生まれました。ここにもうひとつ、神経経済学も加わったのです。

神経科学と経済学の結びつきの例としてよく示されるのが「時間割引」という理論です。これは、「報酬の価値は時間経過とともに減っていく」というもの。たとえば「いま1000円をもらえる」のと「1年後に1万円もらえる」のを選んでよいといわれると、多くの人は「1年後の1万円」よりも「いまの1000円」を選ぶといいます。つまり、ずっと先のことよりも、いまのことのほうが価値が高いと、人間の脳は感じるわけです。

実際の神経経済学の研究では、人間を対象に、精神を安定させるとされるセロトニンなどの脳内物質の出かたなどを参考に、「何日後の場合、どのくらいの割引をしてもよいか」といった値を算出するための実験などもおこなわれているといいます。

かつての経済学は、経済的合理性のみにもとづいて行動する「経済人」とよばれる人間像を対象に研究が進んできました。しかし、ふつうの人びとの行動は、経済人ほど合理的ではないということもいわれてきました。こうした課題も、神経経済学が興った背景になっているようです。

参考資料
竹内幹の講義「実験経済学14:神経経済学をつかむ」
http://takekan-lecture.blogspot.jp/2012/07/14.html
大阪大学 特集「よみとく」「すぐにもらえる小さい報酬か 将来にもらえる大きい報酬か」
http://www.osaka-u.ac.jp/ja/news/snapshots/special_issue/yomitoku/201209_special_issue4
ウィキペディア「経済人」
http://ja.wikipedia.org/wiki/経済人
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2014年、「チューリング・テスト」に史上初の合格
人間の知能とおなじような機能を備えたコンピュータシステムを人工知能といいます。では、そこのコンピュータが「人間の知能とおなじような機能」を備えているのかどうかを測るには、どうすればよいか。ここで編みだされた方法が、「チューリング・テスト」です。このブログでも、2008年に「“ラジオ版”チューリング・テスト」という記事で、紹介したことがあります。

チューリング・テストは、英国の論理学者アラン・チューリング(1912-1954)が考えだしたもの。被験者は、コンピュータのキーボードやモニタを使って、自分の見えるところにはいない“二人の相手”と「チャット」をします。


英国サレイ大学にあるアラン・チューリングの銅像

ところが、“二人の相手”のうちの一人は人間ですが、もう一人はコンピュータとなっています。チャットのあと、被験者は、チャットした相手のうち、どちらがコンピュータであるかを当てなければなりません。

もし、被験者の多くが、この質問に誤答すれば、そのコンピュータは人工知能をもっているということができるといえる。チューリング・テストでは、このような一般的解釈ができます。

チューリングは1950年、「コンピューティング機械と知能」(Computing Machinery and Intelligence)という論文に、チューリング・テストのことを書きました。その後、長年にわたり、このテストの合格者と認められる人工知能は現れませんでした。

すこし前の話になりますが、2014年6月、チューリング・テスト提唱後64年後にして、ついにこのテストの“合格者”が現れたのです。

ロシア人の人工知能開発者ウラジミール・ヴェセロフと、ウクライナ人の人工知能開発者ユージーン・デムチェンコたちは英国のレディング大学がチューリング没後60年を記念して英国王立学会で開いた「チューリングテスト2014」で、「13歳のユージーン・グーツマンくん」という設定の人工知能を参加させました。

テストは5分間のチャットで行なわれました。各審査員と「ユージーンくん」は、事前の質問などはなしに、自由にチャットをしました。その結果、審査員の33%が、「ユージーンくん」を人間だと判断したそうです。

チューリング・テストでの合格ラインは、30%以上の被験者を、「相手は人間である」と騙せること。つまり、合格ラインを突破したわけです。

レディング大学の発表によると、厳密なルールのもとでおこなわれたチューリング・テストに合格したのは、このチームが史上初ということです。

「ユージーンくん」開発者の一人のウラジミール・ヴェセロフは、「今年、われわれは、たんに問いに答えるだけのプログラムにくらべて、はるかに人間らしい会話をする“会話制御”を向上させました。今後も、ユージーンをより賢くさせて、われわれが“会話ロジック“と述べているものの研究をつづけていく計画です」と述べています。

コンピュータが人間の相手あるいは代わりをする道のりは、すでにだいぶ進んでいるようです。

参考資料
レディング大学 2014年6月8日付「TURING TEST SUCCESS MARKS MILESTONE IN COMPUTING HISTORY」(英文)
http://www.reading.ac.uk/news-and-events/releases/PR583836.aspx
IT Mediaニュース 2014年6月9日付「人工知能の13歳の少年、チューリングテストに“合格”」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1406/09/news049.html
ウィキペディア「チューリング・テスト」
http://ja.wikipedia.org/wiki/チューリング・テスト
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人体の細胞の数はおよそ37兆2000億個
「37兆2000億個」の内訳や、人体の細胞数をめぐる研究についての記事「ヒトの細胞の個数を求める」もどうぞ。


画像作者:Kyle McDonald

おとなの人の細胞の数は、長いこと「およそ60兆個」といわれていました。まずまず切りのよい数として、生物学に興味のある人などにはよく知られる数値です。

しかし、実際のおとなの人の細胞の数は、60兆個よりもかなり小さいということが2013年末ごろよりいわれています。

『人体生物学紀要』(Annals of Human Biology)という雑誌の2013年11・12月号に、イタリアの生物学者エヴァ・ビアンコニを筆頭著者とする「人体の細胞数の推定」(An estimation of the number of cells in the human body)という論文が載りました。

この論文によると、つくりの単純な生物の細胞数はよく知られているものの、人のような高等生物については、あまりしっかり調べられていなかったのだそうです。

そこで研究チームは、標準的な成人を構成する細胞の標準的な数についての理論的問題を議論するために、細胞数をあらためて調べることにしました。その方法は、人の体全体の細胞数、それぞれの器官の細胞数を、文献的そして数学的なアプローチを使って統計的に計算するというもの。

そして、この計算により出た成人の細胞数は「37兆2000億個」だったといいます。

研究グループは、つぎのような結論を述べています。

「個々の器官とともに人体の細胞の総数を知ることは、文化的、生物学的、医学的、比較モデリングなどの観点から重要である。示された細胞数は、完全なる合計演算を目指す共通の取り組みへのスタート地点になりうる」

人体の細胞数を60兆個としていた計算は、人の体重を60キログラムとしたものでした。60キログラムはおよそ60リットル。そして、細胞の大きさ1辺10マイクロメートルとすると60兆個分になるというものです。

しかし、論文によると、人体の細胞数はこれまで60兆個というほか、じつは1兆個から1京個のあいだの広い範囲でいわれていたそうです。

60兆個にくらべると37兆2000億個は、半端な数ではあります。しかし、研究紀要に載ったことから、より信頼のおける数ともいえそうです。

参考資料
Eva Bianconi, et al. “An estimation of the number of cells in the human body.” Annals of Human Biology, November-December 2013, Vol. 40, No. 6 , Pages 463-471
http://informahealthcare.com/doi/abs/10.3109/03014460.2013.807878
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できるだけ代筆の本には授けない賞も


無名の物書きが、こんなことを言います。

「ゴーストライターやってると、ほとんどの新刊が著者自身でなく代筆者に書かれた気がしてくる」

この物書きの言うことは極端かもしれませんが、本の原稿をゴーストライターなどとよばれる代筆者が書いてできた本があることは事実です。著者は書かなくてよい、出版社はこなれた原稿を用意できる、ゴーストライターは収入を得られる。この「三方良し」のビジネスモデルは崩れがたいものがあります。

しかし、「三方」に含まれていない「読者」の存在もあります。読者が「著者本人が書いたもの」と信じていた場合、代筆の行為は読者にがっかり感をあたえるおそれがあります。これに対して、本のどこかに「執筆協力 誰々」などと載せて、実質上ゴーストライターが携わっていることを知らせようとする出版社も多くあります。

本の代筆から生まれる課題はそれだけではありません。

出版社などのマスメディアは、最近1年間などに出版された本や作家に賞を贈る場合があります。

その受賞作がゴーストライターにより書かれたものであったらどうなるでしょう。

賞を授けるべきではなかったと恥ずかしく思う出版社もいることでしょう。ほかのメディアに「何々賞受賞作、ゴーストによる代筆が発覚」などと騒ぎたてられたら、賞の価値も下がりかねません。

そこである大手出版社は、授賞候補作品のうち、ゴーストライターが書いた可能性がある作品を可能なかぎり選考から外そうとしているとされます。社員編集者などに候補作品を割りあて、それが代筆者に書かれたものであるかどうかを調べさせるといいます。

「執筆協力」の名が入っていれば代筆確定などと機械的に調べられる部分もあるでしょうが、執筆協力者が書かれていなくても疑わしいということもあるでしょうから、作業はたいへんです。

今後は、こうした調査に情報技術が使われていくかもしれません。著者本人の文章をインプットして文体の特徴をコンピュータが分析したうえで、受賞候補の本の文体が合致しているかを率で示せばよいのです。「著者本人との合致率98%」「著者本人との合致率32%」といった具合に。

代筆による本に授賞するのをできるだけ許さないという出版社の姿勢は、多くの人が「そうあるべき」と思えるものです。しかし、この作業を行うということは、「代筆者が書いた著作物は賞を受ける価値がない」ということを出版社みずからが認めていることにもなります。

代筆者がどこまで手を加えると授賞に値しない本になるのか。編集者だけがすごく手を加えた本であればよいのか。そもそも著作物とはなんなのか。こうしたことを考えさせられる課題です。
| - | 17:49 | comments(0) | trackbacks(0)
始原生殖細胞がエピジェネティックな情報をリセット――細胞とエピジェネティクス(下)
「200種類の細胞」のしくみにDNAメチル化――細胞とエピジェネティクス(上)


メチル基の構造

生きものの細胞内にあるデオキシリボ核酸(DNA:DeoxyriboNucleic Acid)の配列がたとえおなじであっても、細胞は、皮膚細胞、肝細胞、心筋細胞など、さまざまな種類に分化します。そのしくみは、ゲノムの複製とは異なり、メチル化を例とするエピジェネティクスによるものであるという話を、きのうの記事でしました。

エピジェネティックな情報は、ほとんどの場合、細胞分裂でつくられた新たな細胞にもひきつがれていきます。しかし、そうしたエピジェネティックな情報を、さかんにリセットしようとするのが、始原生殖細胞です。

発生初期の細胞群では、早くも次世代をつくるための精子や卵子のおおもととなる始原生殖細胞がつくられます。この始原生殖細胞がつくられてから数日後、細胞群のなかの生殖巣とよばれるところまで移動すると、エピジェネティック情報のリセットが起きます。

たとえば、「ゲノム刷りこみの消去」が起きます。ゲノム刷りこみとは、その遺伝子が父親と母親とどちらから受けついだものであるかを覚えていること。「ゲノム刷りこみの消去」は、その記憶を消してしまうことです。

始原生殖細胞は、その後、精子あるいは卵になっていくもの。つまり父方としての配偶子になるか、母方としての配偶子になるかのどちらかです。自分が父方になるか母方になるかに基づいて、DNAメチル化の型を再構成する必要があります。そのため、「ゲノム刷りこみの消去」で、いったん記憶を消してしまう必要があるわけです。

ゲノム刷りこみの消去には、「DNAメチル化」と逆の「DNA脱メチル化」というはたらきが関わっていることがわかってきました。脱メチル化は、分子から、炭素元素1個と水素元素3個からなるメチル基が除かれることを意味します。

このように、始原生殖細胞は、精子や卵がつくられていく過程で起きたエピジェネティクスをいったんリセットして、次世代に遺伝子の情報をひきつぐ準備をしているのです。

参考資料
斎藤通紀「生殖細胞の起源と特質 ゲノム情報の再編集と全能性」『蛋白質 核酸 酵素』2006年 第9号
遺伝子電子博物館「ゲノムインプリンティング インプリンティングの機構」
http://www.nig.ac.jp/museum/genetic/04_d.html#zu3
ウィキペディア「リプログラミング」
http://ja.wikipedia.org/wiki/リプログラミング
| - | 22:07 | comments(0) | trackbacks(0)
「200種類の細胞」のしくみにDNAメチル化――細胞とエピジェネティクス(上)

DNAメチル化のイメージ
画像作者:Christoph Bock(Max Planck Institute for Informatics)

人の細胞には、皮膚細胞、肝細胞、心筋細胞などなど、200以上の種類があるとされています。受精卵からそれほどの種類のさまざまなな細胞に分化していくわけです。

しかし、200以上のどの種類の細胞も、同一の遺伝子からなるゲノムをもっています。受精卵のゲノムが、単純に複製されていくからです。

ゲノムはよく“細胞の設計図”にたとえられます。設計図である遺伝子が同一であるならば、分裂してつくられる細胞も同一になるはず。それにもかかわらず、皮膚細胞、肝臓細胞、心筋細胞などの異なる種類の細胞がつくられるわけです。この細胞の種類の多様さは、細胞分裂時の遺伝子のミスコピーなどでは説明のつきません。どうして起きるのでしょうか。

これには、ゲノムの複製とは異なるしくみがはたらいていると考えられているのです。生物学者たちはそのはたらきを「エピジェネティクス」とよんでいます。

エピジェネティクスとは、ゲノムの配列がたとえ同一であっても、細胞の特徴を変化させるはたらきのことです。つまり、同一のゲノムからさまざまな種類の細胞がつくられるのは、エピジェネティクスがあるからということになります。

「エピジェネティクス」ということばは、英国の生物学者コンラッド・H・ウォディントン(1905-1975)が名づけたもので、細胞のつくりが最初からあるのでなく次第につくられていくという「後成説」を意味する「エピジェネシス」と、「遺伝学」を意味する「ジェネティクス」のふたつのことばを結びついたものとされています。

では実際、細胞が分裂するなかで、なされているエピジェネティクスの例として、よくあげられるのが「DNAメチル化」というものです。

DNA(DeoxyriboNucleic Acid)とは、デオキシリボ核酸ともよばれる、遺伝子をふくむ物質のこと。ここでは「ゲノム」とだいたいおなじと捉えてもよいでしょう。

DNAは、「アデニン(A)」と「チミン(T)」、「グアニン(G)」と「シトシン(C)」という2種類ずつの“文字”の対が並んだ塩基配列というかたちをとっています。その塩基配列のうち、シトシンのつぎにグアニンが現れるところを「CpG」といいます。

この「CpG」の部分で、シトシンに、炭素元素1個と水素元素3個からなる「メチル基」という分子がくっつくことがあります。ある分子に、メチル基がくっつくことを「メチル化」といいます。CpGのメチル化は、DNAの内部で起きる現象のため、とりわけ「DNAメチル化」とよばれます。

DNAメチル化が起きた部分では、その遺伝子が使われれなくなってしまいます。つまり、これにより、DNAのなかでどの遺伝子が使われ、どの遺伝子が使われないかが、決まるわけです。

さらに大切なことに、このDNAメチル化というエピジェネティックな情報は、細胞分裂でつくられた細胞にもひきつがれます。つまり、エピジェネティクスによって加えられる「ここはメチル基です。ここの遺伝子は使われません」という情報はなかなか消えないのです。

しかし、エピジェネティックな情報を、さかんにリセットしようとする細胞があります。それは、精子や卵などの生殖細胞のおおもととなる「始原生殖細胞」です。つづく。

参考資料
斎藤通紀「生殖細胞の起源と特質 ゲノム情報の再編集と全能性」『蛋白質 核酸 酵素』2006年 第9号
科学技術振興機構 さきがけ「エピジェネティクスとは?」
http://www.epigenetics.jst.go.jp/epigenetics.html
国立がん研究センター研究所「DNAメチル化とは?」
http://www.ncc.go.jp/jp/nccri/divisions/14carc/14carc01_1.html
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まれな死因に過敏、身近な死因に鈍感
人は予想をはたらかせる生きものです。「この事象にはこれだけの危険があるのではないか」ということを予想します。そして、「これだけの危険」というときの「これだけ」の度合が高い事象には敏感になります。

しかし、人はしばしば、現実の危険の度合とはかけはなれた危険の度合の予測をしてしまうようです。

米国の心理学者のサラ・リクテンシュタインたちの研究グループが1978年に発表し、いまも語りつがれている有名なグラフがあります。

この研究者たちは、実験のとき、被験者たちに「米国では年間5万人が自動車事故で死んでいます。では次にあげる死因では年間どのくらいの人が死亡していると思いますか」という質問をしました。

するとある傾向が見られました。



実際の年間死亡者数が比較的すくない死因に対しては、人びとは実際の数よりも多くの死亡者数を予想したのです。たとえば食中毒のひとつ「ボツリヌス中毒」で死ぬ人は当時でも年間1人から10人の範囲でしたが、被験者たちの予想は年間100人から1000人の範囲でした。およそ実際より予想のほうが10倍も危険と感じていたわけです。

いっぽうで、実際の年間死亡者数が比較的大きい死因に対しては、人びとは実際の数よりもすくなめの死亡者数を予想したのです。たとえば脳卒中で死ぬ人は当時、年間10万人から100万人の範囲でしたが、被験者たちの予想は年間1万人といったところでした。10倍から100倍、甘く見つもっていたことになります。

もし、「この事象にはこれだけの危険があるのではないか」という予想が正確であれば、それぞれの点はグラフの斜め直線の上に乗るはずです。

この結果からは、まれにしか起きない死亡の原因に対しては、報道の量などが多いことなどから人びとは危険に敏感になり、一方で、ひんぱんに起きる死亡の原因に対しては、身近なものと感じることなどから人びとは危険に鈍感になることを表しているといえそうです。

参考資料
Sarah Lichtenstein. et al.(1978). Judged frequency of lethal events. Journal of Experimental Psychology, Human Learning and Memory.
芳賀繁『自己がなくならない理由』
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猫にロガー


動物のからだに、計測器をとりつけて放し、計測データを観測することを「バイオロギング」といいます。このブログでは、(2014年)9月19日(金)に「計測装置を背負って泳ぐ鮭、子づくりの仕組みが明らかに」という記事で、サケに計測器をつけて生殖行動などを調べる研究を紹介しました。

人にとって、魚よりも身近な存在の動物にも、計測器をつけて行動を調べる動きが見られます。といっても、科学者がおこなうというよりも、アマチュアが純粋な興味でおこなっているくらいですが。

その代表的な動物は猫です。

計測器は年々小型化しているため、動物では大きいほうの猫に計測器をつけることはむずかしくありません。まして、飼い猫であればなおさらでしょう。また、位置情報などを調べられる「GPS(Global Positioning System)ロガー」とよばれる装置は、数千円で買えるようにもなりました。

そこで、一般人の猫好きが計測器をつけて猫を放し、戻ってくるまでにどのような経路をたどったかを調べ、それをインターネットに公開しているのです。検索サイトで「猫にロガー」と入れて画像を検索すると、ちらほらですが、猫のたどった道のりが示されます。グーグルアースのような衛星写真上に、猫のたどった跡が線で描かれています。かならずしも猫の足跡だけでなく、人の足跡が示された画像も検索されてしまいますが。

猫の足跡を示した画像では、しばらくはまっすぐに進むものの、ある場所では集中的に行ったり来たりを繰りかえしている、といった動線が浮かびあがってきます。

このようにして猫の足跡を調べた人や、その結果を見た人は、猫の行動範囲は大して広くないという感想をもっているようです。

猫は夜行性の動物ですが、昼間もあたりをうろうろしている様子です。これは、自分の縄張りに異常がないかどうかを調べるパトロールのためにやっているのではないかなどといわれています。

参考資料
おーぷん2ちゃんねる「猫の首輪に発信機をつけてみた結果wwwwww」
http://open2ch.ldblog.jp/archives/8047665.html
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忘れもの保管駅まで電車利用が無料
電車に乗っていて、つい忘れものをしてしまった経験はあるでしょうか。

忘れものに気づいた人は、どの路線の電車に乗っていたとき忘れものをしたか、その可能性を考えて、鉄道会社の「忘れものセンター」や「忘れもの窓口」に電話をします。運よく忘れものが届けられていれば、その場所まで運転免許書などの身分証明書をもって取りにいくことになります。

忘れものが預けられる場所は、たいていどこかの駅です。忘れものをした人にとって、その駅がかならずしも家の近くにあるわけではありません。忘れものが見つかったこと自体が幸運なので心的影響は小さいかもしれませんが、その駅まで行くための交通費がかかるかどうかが気がかりです。

たとえば、JR東日本では、忘れものの引き取り場所が駅の改札外にあるといいます。つまり、駅で電車から降りて、いったん改札を済ませてから、忘れものを引きとるようなしくみです。これで、電車を使って目的の駅まで行ったのに、その代金を支払わないという一種の無賃乗車を防ぐわけです。

いっぽうで、忘れものを取りにいくときに乗る電車を無料としている、サービス精神旺盛な鉄道会社もあります。

東京都の秋葉原駅と茨城県のつくば駅を結ぶ「つくばエクスプレス」を運営する首都圏新都市鉄道は、まさにその会社。

お忘れ物問合せセンターとの電話のやりとりで、忘れものがつくばエクスプレスの駅で預けられていることが判明すると、係員が「つくばエクスプレスの路線で、お客さまの最寄りの駅はどこですか」と聞きます。

忘れものをした人が「秋葉原駅です」などと答えると、忘れものをとりに行く日にちを聞いたうえで、「では、秋葉原駅から、忘れものを預かっているつくば駅の往復の電車を無料でご利用いただけますので、秋葉原駅の改札脇にいる駅員にお名前をおっしゃってください」と言われます。

実際に忘れものを取りに行くとき、家の最寄りの駅で渡されるのが、「忘れ物取引券」という切符です。この切符には「無料で電車に乗れます」という文言はどこにもないものの、どうやらその役割を果たしているようです。



警視庁の「私鉄等の取得物取りまとめ駅一覧表」によると、つくばエクスプレスでは、忘れもの保管駅は、浅草駅、流山おおたかの森駅、そしてつくば駅の3駅。見つかった場所で、保管駅が決まります。

秋葉原駅からつくば駅までは1183円。往復すると2366円。運賃が高いことも考慮しているのかもしれませんが、忘れものを取りに行く目的のみで使う電車は無料にするという規則に、利用客に対する企業精神が感じられます。

参考資料
つくばエクスプレス「お忘れ物、落し物について」
http://www.mir.co.jp/faq/lost/faq000295.html
警視庁「私鉄等の拾得物取りまとめ駅一覧表」
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/kouhoushi/no4/welcome/tour133.htm
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カード挿し、縦向きも裏向きも可
東京・永田町の国立国会図書館では、利用者が本や雑誌などの資料を閲覧しようとするとき、端末のコンピュータの置いてある脇のカードフォルダに登録者カードを挿します。カードに記録された情報をコンピュータが読みこむことで、図書館のシステムが、だれがなにを借りようとしているかを把握します。

また、請求をした資料が、カウンターに届いているかどうかを調べるときも、登録者カードを端末のコンピュータの脇にあるカードフォダに挿します。すると画面に「到着済」かどうかの情報が表れます。

さらに、資料を複写するときも、資料の何ページから何ページを複写するかを書く用紙を印字するために、登録者カードを専用端末のコンピュータの脇にあるカードフォルダに挿します。

つまり、国会図書館を利用するときには、登録者カードをカードフォルダに挿すという作業を利用者はひんぱんにおこなうわけです。登録者カードを発行しなくても図書館を利用することはできますが、その場合も「当日利用カード」を発行してもらう必要があり、カードをカードフォルダに挿すことになります。

さて、登録者カードや当日利用カードをカードフォルダに挿すとき、知っているとちょっとだけ得した気分になる裏技を、国会図書館の館員がしていました。

まず、ほとんどの利用者が、カードを横向きにして、カードフォルダに挿します。カードを横向きに挿すとぴったりはまるようにフォルダが設計されているからです。



いっぽう、館員の一人はカードを縦向きにして、カードフォルダに挿していました。これでもカードの情報は読みとられます。



さらに、カードを縦向きで裏と表を逆にして、カードフォルダに挿しても、おなじくカードの情報は読みとられます。



そもそもこのカードは、コンピュータ側のデータ読みとり部分に近づければ、それだけで読みとられるもの。カードフォルダが横向きになっていて、カードに表面と裏面があるからといって、律儀にカードを横向き、表面にしてフォルダに挿す必要はないわけです。

横向きにカードを挿すようにカードフォルダが設計されているのは、そのような形をしていないと、どこにカードを挿せばよいか利用者がわからないからなのでしょう。

この裏技を知った利用者の一人は、「カードを挿す作業が1回につき0.5秒ぐらい短くなった気がします。10回この作業をすれば、5秒の時間短縮ですね」と話しています。
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ヤフーコメントにほぼ決まって「賛同しない」票


インターネットサイト「ヤフー」に掲げられるニュースの多くに、読んだ人のコメント欄と、そのコメントに賛同するかしないかを投票する欄が設けられています。記者が書き、新聞社や通信社が配信したニュースに対して、市民が感想を述べたり評価を下したりするしくみです。

ヤフーのニュースにコメントをする人びとは、よく「ヤフコメ民」などとよばれます。韓国、フジテレビ、朝日新聞、民主党などに関わるニュースに対しては、とりわけ敏感に反応を示す傾向があるようです。

コメントされたニュースの分野はべつとして、読んだ人のコメントに対して賛同するかしないかを示す欄にも、共通の傾向があるようです。どんなコメントに対しても、「賛同しない」という票が入らないことはほぼない、ということです。「賛同しない」を示すのが、親指を下側に向けたマーク。コンピュータでここをクリック、あるいはスマートフォンでここを触れると、即座に1票が入ります。

もちろん、物事には賛成意見もあれば反対意見もあるものなので、「賛同しない」とする票がすくなからずあったとしても、おかしくはありません。

しかし、純粋に「賛同しない」という意見を票のかたちで入れる以外にも、「賛同しない」に票が入る場合もありそうです。

まず、スマートフォンで、コメントをいくつも見ようとして、画面を指で下のほうに移そうとすると、たまたま指が「賛同しない」のボタンにあたることがあります。すると、それだけで「賛同しない」に1票が入ってしまいます。

ほかにも、あえて「賛同しない」が0票のコメントに対して「賛同しない」を入れるような人もいるのかもしれません。

「賛同する」のほうにもまだ1票くらいしか入っていないような場合は、さすがに「賛同しない」もまだ0票という場合はあります。そうした場合を除けば、「賛同する」という票をたくさん得るよりも、「賛同しない」という票を得ないほうが至難の業といえそうです。
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みずから放出したガスがみずからに付着

米国航空宇宙局と欧州宇宙機関の土星探査機「カッシーニ」のイメージ

宇宙空間にある人工衛星などの宇宙機は、さまざまな材料によってつくられています。たとえば、装置の表面を薄く覆うためのポリウレタンやシリコンなどを原料とするコーティング材や、ガラスを接着するためのエポキシという物質などを原料とする接着剤などがあります。

地上で使われている製品にも、必要によりコーティング材や接着剤などの材料が使われますので、その点では地上でも宇宙でも大きく変わりはありません。

しかし、宇宙で使われる材料は、地上で使われるよりもガスを放出しやすいという環境のちがいがあります。

宇宙空間は物質がほぼ存在しない、真空に近い状態にあります。真空状態といってもよいでしょう。こうした真空の環境で、有機材料などから放出されるガスは「アウトガス」とよばれています。つまり、宇宙空間にある宇宙機の材料から放出されるガスが、アウトガスです。

では、どうして宇宙にある宇宙機の材料からはガスが放出されやすいのでしょうか。

地上には、窒素や酸素などの物質からなる空気があるので気圧があります。いっぽう、宇宙の真空環境には、ほぼ物質がないため地上での気圧のような圧力がありません。

そのため、宇宙の真空環境では材料が圧えつけられずにガスとなって漂いやすくなります。

こうして放出されるアウトガスは、宇宙機のまわりを漂って、宇宙機そのものに付着するおそれがあります。宇宙で観測するために打ちあげられた望遠鏡などでは、いかに望遠鏡の鏡を、アウトガスの影響を受けずに保てるかも課題となるわけです。

参考資料
宇宙航空研究開発機構「アウトガス」
http://matdb.jaxa.jp/Outgas/OG_main_j.html
国立天文台SOLAR-B推進室「写真で見るコンタミネーションとの戦い」
http://hinode.nao.ac.jp/photos/contamination/
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「やらないよりやって後悔」は「裏目に出る」でなく「負ける」を対象としたもの


よく聞く格言に「やらないで後悔するのであれば、やって後悔するほうがよい」というものがあります。

ある物事に対して、「やるか、やらないか」の選択をせまられているとします。そうしたとき、「やらない」を選択をした結果、よからぬことが起きるとします。その人は、「やっておけばよかった」と後悔することでしょう。

ここまでは、多くの人がわかるところです。

では、「やる」という選択をした場合はどうか。「やる」を選択した結果、よからぬことが起きるとします。この人は「やらなければよかった」と後悔するものの、その後悔の度合が「やっておけばよかった」よりも低いということを示しているのでしょうか。

選択にせまられたとき、「やる」ということを選ぶことも「やらない」ということを選ぶことも、行為としては「選ぶ」ことなのでおなじです。

たとえば、野球の監督が、疲れの見えはじめた投手に代えてつぎの投手に交代をするか。つまり「(投手交代を)やるか、やらないか」の選択をせまられます。

ここで、「(投手交代を)やらない」という選択をした結果、そのまま投げつづけた投手が本塁打を打たれて試合に負けたとします。この場合は「交代させておけばよかった」という後悔がおきうるわけです。

いっぽうで、「交代させる」という選択をした結果、交代した投手が本塁打を打たれて試合に負けたとします。この場合は「交代させなければよかった」ということになるでしょう。

しかし、「やるか、やらないか」の指す中身を変えただけで、「やらないか、やるか」に意味は逆転します。

たとえば、野球の監督が「(投手交代を)やる」ということは「(投げ続けていた投手に投げさせることを)やらない」ということになります。逆に「(投手交代を)やらない」ということは「(投げ続けていた投手に投げさせることを)やる」ということになります。

おなじ選択を、「やる」と捉えることもできれば、「やらない」と捉えることもできるわけです。となると、おなじ選択を「やる」ほうの意味で捉えてうまくいかないほうが、後悔の度合は軽くなるということなのでしょうか。

むしろ、この格言の本質はべつのところにあるのかもしれません。

「やらないで後悔するのであれば、やって後悔するほうがよい」とは、「なにも手を打たずにいるよりは、なにか手を打っておいたほうが、おなじ負けという結果になったときでも受けいれやすい」と捉えることができます。ここでいう「負け」とは、「目標に達成しなかった」「試験に合格しなかった」などと置きかえられます。

つまり後悔の対象が、「やらないことが(またはやることが)裏目に出る」ということでなく、単純に「(どちらにしても)負ける」ということになるわけです。
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「結局、人工甘味料は体にいいのか悪いのか」


日本ビジネスプレスのウェブニュース「JBpress」で、きょう(2014年)10月17日(金)「結局、人工甘味料は体にいいのか悪いのか 『ネイチャー』人工甘味料論文の衝撃(前篇)」という記事が配信されました。この記事の取材と執筆をしました。

9月17日に発行された雑誌『ネイチャー』に、「Artificial sweeteners induce glucose intolerance by altering the gut microbiota」(人工甘味料が腸内細菌叢の変化で糖代謝異常を引きおこす)という論文が掲載されました。筆頭著者はイスラエルのワイツマン科学研究所の免疫学部門のジョサム・スエズ氏です。このブログでも、(2014年)9月23日(火)に「腸内細菌叢の乱れがインスリン抵抗性を引きおこす」という記事のなかでこの論文の内容に触れました。

人工甘味料は、炭酸飲料などに使われてきました。「熱量ゼロ」などを特徴をうちだすことができます。砂糖を使わずに甘さを引きだせるため、血糖値が高めの人や糖尿病治療をしている人、さらには肥満を気にしている人などが摂取してきました。

『ネイチャー』の論文には、「人工甘味料を使うことは砂糖を摂取するよりもむしろ糖尿病のリスクを高める」という主旨のことが書かれています。マウスを対象とした実験、300人弱の人を対象としたアンケートなどの調査、そして7人の人を対象とした試験の結果によるものです。

これまで、人工甘味料は、糖分摂取を抑えられることから、糖尿病治療などにむしろ推奨される向きもありました。この論文内容をどのように捉えればよいのか。記事では、城西大学薬学部の中島啓教授に答えてもらっています。

この論文が大きなニュースになった要因として、『ネイチャー』に掲載されからという点は否定できません。世界的に権威のある雑誌に掲載された論文で、かつ一般の人びとの生活に身近な話題は、ニュースとして扱われやすい傾向があります。

しかし、『ネイチャー』に論文が載れば、それが最終結論的な真実であるのかというと、中島教授はそれを否定します。

「基本的には、いままでの研究結果に、信頼性の高い研究結果が加わったということです。今回の研究結果をもって、いままでのすべての研究成果を総括するといったものではありません」

これまでも、人工甘味料と糖尿病リスクの関連をめぐっては、さまざまな研究結果が論文で発表されてきました。中島教授によると、関連があるとする結果もあれば、関連がないとする結果もあったそうです。

今回の『ネイチャー』の成果に、これまでにない新規性を見出すとすれば、論文タイトルにあるように、腸内細菌に着目している点です。来週24日(金)掲載予定の記事後篇では、腸内細菌と高血糖の関連性などについて、ひきつづき中島教授に尋ねる予定です。

「結局、人工甘味料は体にいいのか悪いのか 『ネイチャー』人工甘味料論文の衝撃(前篇)」はこちらでどうぞ。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41973
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他人のいるなかで込みいった電話をしなければならない


仕事で外まわりの多い人にとって、「外出先からの電話」は、ちょっとした課題になる場合もあることでしょう。

外出先から同僚や仲間に、きょうは直帰するといったことを伝えるときは「あ、私ですが、鈴木課長いますか」ぐらいのかんたんな一言で相手に通じます。

これが、別企業の顧客に注文内容を確認するようなときは、「お世話になっています。海山商事の磯野と申します。佐藤さまはいらっしゃいますか」などと、自分が何者であるかを固有名詞を使って伝える必要が出てきます。

これが、静かな喫茶店のなかでの電話になると、まわりの人びとにすべて自分の話が聞こえてしまいます。自意識の過剰な人は「うわ、自分が海山商事の磯野という人物であることがまわりに知られてしまっている」と、なるわけです。

その電話が「きのうのご注文の件ですが、いかがでしょうか」ぐらいの、具体性のないもので済めば、立ち入ったことを聞かれずに済みます(まわりの人は立ち入ったことを聞かずに済みます)。

しかしときには、まったく面識のない相手に電話をして相談や依頼をする場合もあります。

「はじめてお電話させていただきます。私、海山商事の磯野と申します。山田課長さまはいらっしゃいますでしょうか。あ、山田さまですか。どうも突然のお電話失礼いたします。じつは、初芝電気の島さまからご紹介をいただきまして。私どもは、漁船に取りつける漁業向けの発光ダイオードを取りあつかっている商社なのですが、山田さまが、青色発光ダイオードのご開発者の中村さまとご面識があるとお聞きしたものでして。ええ。それで、ぜひ山田さまより、中村さまをご紹介いただけないかと存じましてですね。突然申しわけありません。ええ。ええ……」

はじめて電話をする相手には、「私です」「きのうの件」「あれ」といった具体的でないことばを使うことができないため、自分の所属先、名前、電話することになった経緯、相談内容などを、固有名詞や具体的なことばを使って伝えなければなりません。

そしてその電話の内容は、喫茶店でまわりにいる人びとに、山田さんに伝えるのとまったくおなじように聴かれるわけです。

そこで、自意識過剰な人は、まわりにだれもおらず、しかもメモをとったり、タブレット端末を見たりすることができる場所を探して、そこから電話をしようとします。

しかし、そうした場所はそう多くあるわけではありません。そこで、このような事情を抱えた人は、街のなかをうろうろとさまようことになります。
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コモディティ化の先に“地獄”が待っている


多くの人が買って使うような製品は、それだけ「使うと便利」ということがいえます。人によっては、「みんなが使っているから自分も使う」ということもあるでしょう。その場合でも、自分が使うことは、みんなが使っているなかで自分だけ使っていない状態から脱することになるので、広い意味で「使うと便利になる」といえます。

使うと便利とみんなが思って、実際にみんなが使うようになった製品は「日用品」といいます。英語では「コモディティ」。コモディティには、「日用品」のほかに「便利な物」という意味もありますので、「日用品」と「便利な物」は同義といえそうです。

しかし、日用品化した製品の“行く末”はあまりよいものではありません。といっても、これは製品自体の立場より、製品をつくる人びとの立場の話ですが。

ある用途の製品がありふれたものになることを、「製品のコモディティ化」といいます。たとえば、パーソナルコンピュータの国内での普及率は2014年3月で78.7%。ここまで達すればパーソナルコンピュータはほぼだれにも行きわたった製品といえそうです。

ただし、普及率が高くなることだけがコモディティ化を指すのではありません。「ありふれた」という意味のなかには、「どのメーカーのどの種類の製品を使っても大差ない」という意味もふくまれています。パーソナルコンピュータであれば、どのメーカーのものを買っても、とりあえずはおなじように使うことができます。

ほかにも、洗濯機、電子レンジ、冷蔵庫などの白物家電、テレビ、それに最近ではスマートフォンもコモディティ化した製品とされています。

製品のコモディティ化が起きる理由はいくつかいわれています。

まず、企画の統一化による製品どうしの均質化があります。製品が普及してくると、使用者の便利のため、規格の統一化も進みます。かつてのビデオデッキでは、VHS(Video Home System)という規格で統一されました。そのほうが、ビデオテープを買ったり、ビデオを借りたりする人も、ビデオテープを売ったり、ビデオを貸したりする人も便利です。すると、ビデオの取出し口はこのくらいの大きさで、そのまわりにはボタンがあって、といった製品の特徴がどのメーカー製でも似たようになってくるわけです。

また、技術の円熟化もコモディティ化を進めるとされています。製品が普及するとき、メーカーどうしは競争し、製品の質が高くなります。こうしてその製品に関わる技術の水準が全体的に高くなると、高い技術をもたない二流メーカーでもある程度の技術を備えた製品をつくることができるようになります。一流メーカーよりも数の多い二流メーカーが製品を出していけば、その製品はどれも「まあ、悪くはない」といったものになります。

このほかにも、製品のモジュール化もコモディティ化を進むとされています。メーカーAがつくる部品A、メーカーBがつくる部品B、メーカーCがつくる部品Cなどのモジュールを組みたててつくられる製品があるとします。その製品をつくるメーカーは、わざわざ自分の工場ですべての部品をつくらなくても、メーカーA、B、Cからそれぞれ部品A、B、Cを買うほうが安上がりになります。おなじことは、ほかの製品メーカーにもいえます。そのため、どの製品メーカーも、部品A,B、Cやそれに類する部品を使うことになり、結局は「ありふれた製品」ができてしまうわけです。

コモディティ化が進むと、メーカーは自分たちの製品が売れるようにと、価格を下げるようになります。すると、ほかのメーカーも価格を下げざるをえず、こうして低価格化をめぐる過当競争がくりひろげられることになります。ゼネラル・エレクトリックの最高経営責任者ジェフリー・イメルトは、コモディティ化が進んだ挙句の低価格競争状態を、「コモディティ・ヘル」と表現しています。

参考資料
内閣府「消費動向調査」
http://www.esri.cao.go.jp/jp/stat/shouhi/shouhi.html
コトバンク「コモディティ化」
https://kotobank.jp/word/コモディティ化-188901
ウィキペディア「コモディティ化」
http://ja.wikipedia.org/wiki/コモディティ化
日経Bizアカデミー グローバルマーケティング講座「社会的価値によるコモディティ化への挑戦」
http://bizacademy.nikkei.co.jp/special/gmk2012/lesson1.html
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「気象情報を駆使すれば賢明な意思決定ができるかもしれない」


ウェッジ社のニュースサイトWEDGE Infinityで、きょう(2014年)10月14日(火)、「気象情報を駆使すれば賢明な意思決定ができるかもしれない」という記事が掲載されました。「学びなおしのリスク論」という連載の第2回です。

10月に入ってから日本では2個の台風に見舞われました。台風がいつ、どのあたりに到達しそうかといった予報をもとに、人々は「避難をすべきか」「催しものを中止にすべきか」「列車を運休すべきか」「外出するのを控えるか」といった意思決定をするわけです。

仕事や生活にともなうさまざまな危険を最小の労力で食いとめるための活動を「リスクマネジメント」といいます。とかく日本人は、リスクの大きさから意思決定をするリスクマネジメントが不得手であるといわれています。しかし、気象や気候に対しては、日々リスクマネジメントを意識せずとも、リスクマネジメントをしているわけです。

記事では、とくにすこし長い期間の大気現象を意味する「気候」について、リスクマネジメントを行い、それを仕事や生活に役立てようとする提案がなされています。気象庁で気候リスク対策官をつとめる中三川浩さんに話を聞きました。ちなみに、「気候リスク対策官」は5000人強いる気象庁職員のなかでも、中三川さんだけだということです。

気象庁は、2013年9月、「気象情報を活用して気候の影響を軽減してみませんか?」というサイトを開設しました。気候によって影響を受ける可能性を意味する「気候リスク」を認識し、評価し、これに対応するための方法論が書かれてあります。

こうしたサイトを開設するよりも前、気象庁はどちらかといえば天気予報や気候予想などの情報を世の中に提供するのみで、その情報をどう扱うかは世の中次第、という姿勢でした。

しかし、1か月間や3か月間といった大まかな天候を予報する「季節予報」などの情報は、あまり世の中で活用されていないことが、実態調査などによりわかったそうです。

いっぽうで、2週間先から1か月先といった気候の予想でも、短い期間の情報については、年々精度が上がっています。

そこで、気象情報の活用のありかたなどを検討する、国土交通省の交通政策審議会気象分科会が、気象庁が民間企業と協力して、気候予想のニーズなどを把握し、活用のしかたや活用事例などを世の中に積極的に伝えることになったのだといいます。

気象庁のサイトで紹介されているのは、アパレル業界での「何度になるとどのような商品が売れはじめる」といった気候リスク・マネジメントの事例や、農業での「低温や高温に対してどのような深水管理などの対策を打つ」といった気候リスク・マネジメントの事例です。

これ以外にも、発想次第で、自分たちの仕事や生活に、気候リスク・マネジメントを活用することができるかもしれません。

「学びなおしのリスク論 気象情報を駆使すれば賢明な意思決定ができるかもしれない(2)気候」はこちらです。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4309
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“母なる工場”を日本に残しておく


1990年代から2000年代にかけて、日本でおこなわれていたものづくりが、つぎつぎと海外でおこなわれるようになっていきました。主な理由は、海外のほうが人件費が安いためです。

しかし、日本の製造業の経営者たちの中には、海外に生産拠点を移したとしても、日本にも生産拠点を少なくともひとつは残しておくという選択をする人もいます。

日本国内で培ってきたものづくりの技術は、そうかんたんに海外で再現できるものではありません。そこに携わる作業者の、ものづくりに対する興味や、手先の器用さなどのちがいが、国民性として現れるからです。

そこで、製造業者が海外に工場を建てて、海外で生産活動をしようとするとき、それを支援するための高い技術力や開発力、また管理力などを備えた生産拠点を国内に残しておこうとするわけです。こうした海外の生産拠点のお手本となるような、優れた力を備えた工場を「マザー工場」といいます。

ときに、海外の生産拠点で生産の問題が発生したときは、マザー工場から社員が派遣されて、指導にあたることもあります。

こうした海外生産拠点をうまく機能させる目的がマザー工場にはあります。しかし、マザー工場をもっていることの意義はそれ以外にもあるようです。

もし、日本国内資本の製造業者が、生産拠点をすべて海外に移して、「国内にはマザー工場なし」という状況になった場合、海外の生産拠点は日本のグループ本部のことを見下しかねません。「もはや生産の技術ももっていないやつらの言うことを聞く必要があるか」となるわけです。

そうならないために、つまりは“なめられない”ために、マザー工場を置いておくという目的を認める企業もあります。

また、海外に生産拠点を建てるものの、日本国内にもともとある複数の生産拠点も残し、それら日本国内の生産拠点を「マザー工場」と位置づける企業もあります。これにより、日本国内の昔からの生産拠点と海外の新しい生産拠点を競争させて、グループ全体としての生産力工場を狙おうとするものです。

参考資料
コトバンク「マザー工場制」
https://kotobank.jp/word/マザー工場制-666226
徐寧教「マザー工場制の変化と海外工場」
http://merc.e.u-tokyo.ac.jp/mmrc/dp/pdf/MMRC398_2012.pdf
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オリエンテーリングは走る競技


写真作者:Martin Ward

小学校でおこなわれる遠足や林間学校などでは、オリエンテーリングがいまも恒例行事のようです。インターネットには、多くの小学校で「児童たちがオリエンテーリングをしました」といった行事報告が出ています。

オリエンテーリングは、自然のなかで、地図上に指定されたいくつかの地点を、地図と磁石を使って見つけて通り、できるだけ短い時間で最終地点までたどりつくことを目指すものです。

小学校のときオリエンテーリングをしたことのある人は、何人かでチームを組み、あっちだろうか、いやこっちかと道に迷いながらも歩きまわった体験を覚えているかもしれません。

ところが、実際のオリエンテーリングの標準的な競技は、歩いて通過地点を探すほど生やさしいものではないようです。

オリエンテーリングは、いかに各地点を通過して短時間でゴールするかを競うもの。そう考えると必然的に、地点間の移動は「歩く」でなく「走る」ということになります。

たとえば「日本学生オリエンテーリング選手権」の映像を見ると、ゼッケンを付けた学生の選手が地図を片手に長距離走なみの速さで走ってきます。

こうした競技としてのオリエンテーリングとちがい、日本では人びとに「オリエンテーリングといえば歩いて野山をめぐるレクリェーション」という印象が浸透しています。

これは、日本にオリエンテーリングが普及したときの経緯に関係しているとされています。

1969年、国民健康つくり運動協会という社団法人(いまの健康・体力づくり事業財団)のなかに、日本オリエンテーリング委員会という組織が設けられました。国民健康つくり運動協会は、1964年の東京五輪直後に閣議決定された「国民の健康・体力増強対策について」にもとづき発足されたもの。いまも続く「体力つくり国民運動」を主導するなどしています。

この体力つくり国民運動の一環として、だれもが楽しめるレクリェーションとしてのオリエンテーリングが国民に紹介されたといいます。たしかに、オリエンテーリングの競技には、複数人がグループを組んでのぞむ初心者むけの「グループクラス」という種目があります。

日本ではグループクラスが国民の間でオリエンテーリングとして浸透したあまり、本来のオリエンテーリングからはかけはなれた印象を日本国民は抱くようになったとされています。

いま、日本でのオリエンテーリング競技を統括している日本オリエンテーリング協会は、本来的なオリエンテーリング競技を「地図読みやナビゲーション技術とアウトドアレクリエーションを繋ぎあわせた、とてもチャレンジングなスポーツです」という説明しています。

参考資料
ウィキペディア「オリエンテーリング」
http://ja.wikipedia.org/wiki/オリエンテーリング
健康・体力づくり事業財団「体力つくり国民運動」
http://www.health-net.or.jp/undou/
日本オリエンテーリング協会「オリエンテーリングをやってみよう」
http://www.orienteering.or.jp/lets/
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飛行機も地平線の向こうから飛んでくる


地球が丸いことを示すための論拠にはいくつかあります。そのひとつに、「はるか沖からやってくる船はマストの頂から姿を現す」という事実があります。

もし、船が丘のようなものを越えて自分のほうにやってくるとすると、丘を超えてくるのだから、まず船のいちばん高いところから見えはじめるはずです。海の水平線のところでも、船はいちばん高いマストの頂から姿を見せはじめます。つまり、地球も丸みを帯びているはずだ、というわけです。

この話を発展させたものとして、「空を飛ぶ飛行機はどこからやってくるか」という問いがあります。

地上にいる人が空を飛ぶ飛行機を見ています。その飛行機は、どこかから飛んできました。そして頭上を通って、向こうのほうへと飛びさっていきました。

飛行機は空を飛んでいるので、自分のほうに近づいてくるときは、“向こうの空”から飛んでくるはず。では、“向こうの空“とは具体的どこなのか。飛行機の光が、はじめて自分の目に届きはじめるのは、自分の視野のなかのどの地点からなのでしょうか。

その答は、「地平線」となるはずです。

仮に、地上の建てものなどをすべて取りはらった荒野に自分がいるとします。そのような荒野で向こうの正面から飛行機が自分のほうへと向かってくるとき、はじめの光はどこで見えはじめるかを考えてみます。

飛行機の光の位置を、上の船の話でいうところの船のマストの頂の位置と同じだと考えるとわかりやすいかもしれません。船では、水平線で姿を見せはじめるとき、マストの頂から現れてきます。飛行機の光をマストの頂とすると、やはり飛行機も地平線の向こうから姿を見せはじめるわけです。

たしかに、船のマストの頂より飛行機の実際の位置は空高くにありますが、地球の大きさにくらべると、そのくらいの高さは大したものにはなりません。

地球は丸みを帯びています。すると、飛行機もはじめは自分の視界の向こう側を飛んでいるわけで、いつか地平線を超えて見えはじめる瞬間があるはずです。しかし、建てものや山に囲まれている暮らしている人にとっては、地平線の向こうから飛行機の光が見えはじめる瞬間というのを、なかなか目にすることができません。
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カーボンコピー欄に10人のアドレス


いまや電子メールは、「電子」をつけず「メール」と表現するだけで「電子メール」であることが伝わるほど、コミュニケーション手段として浸透しました。

仕事の依頼をする場合、多くの人がメールをします。メールを送られた人は、依頼者に対して返信をします。

このとき、メールの相手とはべつの人にもおなじ内容のメールが届けられる「カーボンコピー(CC:Carbon Copy)」を使う人がいます。

たとえば、ある記者は、とある独立行政法人の社員にメールで取材の相談をしたといいます。「ぜひ、この事業の概要について、誰々さまに取材をさせていただければありがたく存じます」と。

すると、2、3日後、その相手からメールで返事がきました。

その返事のカーボンコピー欄を見ると、おなじ独立行政法人に所属する人のメールアドレスが10人分も記されていたといいます。本人にとっての直属の上司、本人の所属する部の部長、広報担当者(実務レベル)、広報担当者(統括レベル)、その他の関連部署の役職者、といった具合に「CC」にアドレスが連なっていたのでしょう。

その記者は、カーボンコピー欄の名前のあまりの多さに面食らったようです。その相手の直属の上司、本人の所属する部の部長、広報担当者(実務レベル)、広報担当者(統括レベル)、その他の関連部署の役職者たちの名前まではさすがに知らないという場合が多いことでしょう。

「こんなにCCの人が多いとは、なにか大ごとになっているのではないか」

カーボンコピーの機能にはたしかに便利な面があります。返信をする話題について、本人にすこしでも関わりのある人のアドレスに返事を同報すれば、その人がどのような依頼や相談を受けて、どのような返事をしたのかのやりとりが、関わりのあるすべての人に送られるからです。

また、メールは、やりとりが記録に残る媒体ですので、「こういう返事をしておきましたからね」という証拠を関係者たちに示しておく手段にもなります。

しかし、いったんCCにあらゆる関係者を入れたメールのやりとりが始まると、途中でカーボンコピー欄の人びとを外すことをしづらくなります。たとえば「ありがとうございました」とか「了解しました」といった短いメールでも、カーボンコピー欄の人びとを外してしまうと、人によっては「自分はお礼を返事していないように思われるのではないか」「自分は了解の返事をしていないように思われるのではないか」といった不安がつきまとうことでしょう。

そのため、1人対1人のささいなやりとりに、いつまでもカーボンコピー欄の10人がいつまでも間接的に参加するといった事態になるわけです。このことを、気にしない人は気にしないし、気にする人は気にします。
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エピブラストからヒトES細胞に近い幹細胞


人やマウスなどの生きものが個体として発生する過程のごく初期段階で、「エピブラスト」あるいは「胚性外胚葉」とよばれる細胞の群れがつくられる時期があります。受精してから、人では5.5日後、マウスでは4.5日後以降につくられます。

エピブラストが形成されるよりもひとつ前の段階では、個体は胚盤胞というかたちになっています。胚盤胞は、中に大きな体積の空洞をもった球体の細胞集団です。ただし、中は空洞のみで占められているのではなく、内部細胞塊という細胞の群れが存在します。

この胚盤胞の段階での内部細胞塊が時間ととともに形や位置を変えていって、エピブラストになるわけです。その先の段階で、エピブラストを含む細胞集団は、胚葉とよばれる、外胚葉、中胚葉、内胚葉の3層からなる細胞集団へとなっていきます。エピブラストは外胚葉という層になっていくものなので、「原始外胚葉」などともよばれます。

エピブラストは分子生物学などの研究者に注目されています。ほぼすべての種類の細胞の源になる細胞だからです。それは、皮膚、骨、臓器などの体細胞の源になるだけでなく、子孫を残すための生殖細胞の源にもなります。おととい(2014年)10月7日(火)このブログで始原生殖細胞という、精子や卵子の元になる細胞をとりあげましたが、エピブラストは、この始原生殖細胞のさらに元になるわけです。

マウスのエピブラストを純粋な物質として取りだし、培養していきます。これにより、エピブラストの幹細胞ができます。幹細胞とは、生体のさまざまな種類の細胞になる能力と、分裂を繰り返す能力を備えた特殊な細胞のこと。

幹細胞にはいくつか種類があり、胚性幹(ES:Embryonic Stem)細胞もそのひとつです。胚性幹細胞もまた、あらゆる細胞の源になります。そのため、マウスの胚性幹細胞はしばしば幹細胞の研究に使われてきました。

しかし、エピブラスト幹細胞のほうが人の胚性幹細胞に性質が近いとされています。そのために、人の幹細胞を研究する研究者たちにとって、このエピブラスト幹細胞は魅力的なようです。

参考資料
コトバンク「内部細胞塊」
https://kotobank.jp/word/内部細胞塊-587313
ウィキペディア「エピブラスト幹細胞」
http://ja.wikipedia.org/wiki/エピブラスト幹細胞
実験医学Online「エピブラスト」
https://www.yodosha.co.jp/jikkenigaku/keyword/2191.html
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応接間の机が低い

写真作者:Kaz Andrew

会社は、そこではたらく従業員以外のさまざまな人が訪れる場所です。そこで、人を迎えるための応接のかたちというものがあります。

応接のかたちの代表的なものに「応接室を置く」ということがあります。社員は客人をこの部屋に迎えいれ、商談、交渉、取材対応などさまざまなことをします。

応接のときは社員も客人もメモをとったりコンピュータで対象となる絵を示したりするので、応接室には机が置かれます。また机があれば当然ながら椅子も置かれます。こうした家具類は「応接セット」などともよばれています。

応接セットの構えは会社によりけりです。人と人が会うときの「機能」を優先させて応接セットを置く会社もあれば、人と人が会うときの「雰囲気」を優先させて応接セットを置く会社もあります。

「機能」というのは、話しながらメモをとったりコンピュータで対象となる絵を示したりする行為をしやすくするようなこと。そのためには机の高さは、椅子に座りながら手を自然に差しだせるくらいの位置になります。

いっぽうで、「雰囲気」というのは、その場で相手とくつろぎやすくするようなこと。そのためには机の高さは、威圧感を覚えないほどの低い位置になります。

しかし、机の位置が低すぎると、やはり机の機能としての問題も出てきます。

たとえば、椅子のおしりを置く座の高さよりも、机に物を置く天板の高さのほうが低いような応接セットも見られます。

このような応接セットで、机にノートを置いてメモをとろうとすると大変な姿勢になります。机の上に置いたノートに手をのばそうとするとどうしても前かがみになります。しかしおしりの高さよりメモを書く手の高さのほうが下に位置するため、前かがみになります。

あるいは、社員がiPadなどの電子表示装置を机の上に置いて、客人に示そうとするとします。机が大きいと、iPadを机の中央に置かねばなりません。そして社員も客人も身を乗りだしながら、「このホームページの色合いですけれどもねぇ」などと話しあうわけです。体だけであれば、野球の「キャッチャー座り」あるいは、俗にいう「ヤンキー座り」のような姿勢で話しあうことになります。

しかし、椅子におしりを乗せているからといっても、その姿勢を続けるのは疲れること。そこで、場合によっては、椅子に座るのをもはやあきらめて、膝を床につけながら相手の話を聞く、といった人も出てきます。「椅子に座るのが大変なので、地べたに座っちゃいましょうか」と相手に提案する人がいるかどうかはわかりませんが。いずれにしても、もはや「机と椅子」の役割を果たしていません。

たしかに、高さの低い机というのは、「そこに机がある」といった存在感を消せるため、威圧的にならないという効果はあるでしょう。

しかし、メモをとったり、コンピュータを開いたり、iPadを置いてなにかを示したりする今日日、「雰囲気」を重視することの利は減っていき、「機能」を重視することの利は増えていっているのではないでしょうか。
| - | 21:18 | comments(0) | trackbacks(0)
生命の萌芽期から子を生みのこすための準備
生物について研究する生物学では、「どうして生物はほか種類の生物と争うのか」という問いに対する一般的な答えがあります。それは、「自分が生きのびるため」そして「子を生みのこすため」というもの。

まず、ほかの種類の生物に倒されてしまえば、自分が生きのびることができません。そのため争って勝つ必要もときには出てきます。

また、自分が生きるだけでは意味は半分のみで、子どもに自分の遺伝子をひきついでもらわなければなりません。そういうことを生物は意志としてもっているわけではありませんが、“そういうふうになっている”のです。

この二つの理由を極論するような説に、英国の生物学者リチャード・ドーキンズの「利己的な遺伝子説」があります。「生物とは、遺伝子に乗っとられ、操られた“乗りもの”にすぎない。あらゆる生物が自分が生きのび、子を生みのこすことを遺伝子に運命づけられている」とする説です。

「子を生みのこす」ことが、生物のなかでいかに大切に扱われているかを知られてくれる生命現象があります。それは、「始原生殖細胞の発生」です。

始原生殖細胞とは、生殖細胞の源になる細胞のこと。雄のからだでは、精子になる源であり、雌のからだでは卵子になる源です。

始原生殖細胞の発生は、個体そものの発生のごくはじめの段階でなされます。

ヒトの場合、精子と卵子が受精すると、細胞が卵割し、やがて「内胚葉」「外胚葉」「中胚葉」という細胞の層にわかれます。この生命の萌芽期ともいえる胚葉がつくられる段階で、すでに始原生殖細胞は存在しているのです。現れる時期としては、男性が受精後3週間後。女性が受精後5週間後あたりとされています。

その後、男性では始原生殖細胞から、まず精原細胞という細胞がつくられます。この精原細胞が細胞分裂をくりかえし、一次精母細胞、二次精母細胞と段階を進め、最終的に精子になります。しかし、精原細胞から精子がつくられるのは青年期以降まで待たなければなりません。

いっぽう、女性では、始原細胞が体細胞分裂をして、卵原細胞という細胞になります。卵原細胞の多くは、退化したり消失したりします。しかし、残った卵原細胞は、一次卵母細胞という細胞になり、女の赤ちゃんが生まれてくるときに、およそ200万個を備えています。さらに、青年期になると、40万個ほどまでに減ります。

始原生殖細胞が現れるのは、ヒトが受精の青年期になり受精のしくみを備えるよりもはるか前の生命の萌芽期。その時期からすでに、「子を生みのこす」ための準備が始まっているのです。



参考資料
コトバンク「始原生殖細胞」
https://kotobank.jp/word/始原生殖細胞-280854
WIKIBOOKS「高等学校生物 生物I‐生殖と発生」
http://ja.wikibooks.org/wiki/高等学校生物_生物I‐生殖と発生
京都大学「多能性幹細胞から機能的な卵子を作製することに成功 用語解説」
http://www.kyoto-u.ac.jp/static/ja/news_data/h/h1/news6/2012/121005_2_1.htm
| - | 22:50 | comments(0) | trackbacks(0)
暴風雨に形状で手むかう
きょう(2014年10月)6日、日本列島を台風18号が横断しました。各地で、大雨や暴風などの警報が出ました。

近ごろの大雨では、前線の影響による局地的な豪雨が多く観測されます。しかし、暴風をともなう大雨という点では、やはり台風の威力のほうが優っているようです。

台風の大雨にもかかわらず出勤となると、傘を手放せません。しかし、手に持っていた傘が暴風で煽られ、親骨がひんまがってしまうことも。

こうした暴風雨に対して、かたちの工夫で対抗しようと設計された傘もあります。



写真に写る傘は、オランダのセンズ社が作っている「センズアンブレラ」。ほかの傘との最大のちがいは、形状が対称でない点。傘の前方の親骨や小間が短く、後方はなびくように長くなっています。

センズアンブレラを説明する記事などによると、この形状もとることは、ふたつの理由で傘の親骨の折れにくさにつながっているようです。

ひとつは、傘の向きが自然と風に対して正面になるということです。風見鶏は、風に対して正面を向きますが、それとおなじように向かって風が右から来れば傘の前方は右を向き、風が左から来れば傘の前方が左を向くということです。とはいえ、傘に車軸がついているわけではありません。この傘をもっている人の手や体の向きが微妙に変わるのです。

もうひとつは、正面からやってくる風をうしろに逃がすのに優れているということです。センズアンブレラを説明する記事では、この傘の前方から来る風がどのように流れていくかを視覚的に示しています。

風が傘の正面に当たると、そこから小間をのぼっていき、石突に達し、その後は後方の長く伸びた小間を下っていくようです。

小間が円形になっているふつうの傘が、風で煽られて親骨がひんまがってしまうのは、風が半球屋根の裏側に入ってしまうからです。しかし、センズアンブレラでは、傘の前方が壁のように角度がついているため、屋根の下に風が入りこみづらいのでしょう。

センズアンブレラの紹介文には「空気力学を用いて、風をいなす」と書かれています。風に対して“抗う”のでなく“いなす”。イソップ童話の「北風と太陽」の話とにています。

ただし、傘の親骨や小間が対称形でないため、折りたたむとき、二つのバンドでまとめなければないといった煩わしさはあります。

参考記事
SEMPRE「センズ アンブレラ」
http://www.sempre.jp/brand/SENZ-Umbrellas/
SENZ “the story”
http://www.senzumbrellas.com/en/past-present-future/
| - | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0)
「レッツゴーサザエさん」の出だしの節を解釈(2)


以前、このブログで「『レッツゴーサザエさん』の出だしの節を解釈」という記事がありました。

アニメ「サザエさん」の挿入歌で、北山修の作詞、筒美京平の作曲による「レッツゴーサザエさん」の歌詞の1節目に「お空が大きく見えるのは 私がそこにいるからよ」という歌詞の一節があります。

ここで「お空が大きく見える」と感じているはだれか、また「そこ」はなにを指すのかをめぐっての推論でした。結論として、「お空が大きいと不特定多数の人びとが感じている理由は、サザエさんがお空にいるから」と解釈できるということに達しました。

その論拠となったのは、この1節目のつぎにくる2節目「地球が動いているのはね 私が笑っているからよ」の解釈からでした。

1節目と2節目が対句的になっています。2節目の「地球が動いている」は一般的事象を指すものであると考えると、1節目の「お空が大きく」も一般的事象を指すものになり、そう感じるのは不特定多数の人びとであるとするのが自然であると推論したのでした。

この「お空が大きく見えるのは 私がそこにいるからよ」の解釈をめぐって、これがどのような状況であるのかの直接の答を示すような場面が、(2014年)10月5日(日)の「サザエさん」で見られました。

放送開始から45年スペシャルとして「レッツゴーサザエさん」というタイトルの話が放送されました。話の途中に「レッツゴーサザエさん」をサザエさん自身が歌う、ミュージカル調の回でした。

冒頭で、「お空が大きく見えるのは 私がそこにいるからよ」とサザエさんが歌う場面で、つぎのような絵が描写されました。

サザエさんが虹を滑り台のようにして滑っていく。そこから跳躍して空へと飛んでいく。そして、空を飛ぶカラスの傍らで、雲の上に着地する。

これにより、まず「私がそこにいるからよ」の「そこ」が空であることが確定的になりました。

いっぽう、「お空が大きく見えるのは」だれかという問題については、このシーンからするとさまざまな解釈にわかれそうです。

上記の「不特定多数の人びと」であるという解釈はそのまま生きています。しかし、この冒頭シーンではサザエさん自身の視野にも「お空」が入っているのは確実です。ですので「お空が大きく見えるのは」「サザエさん」とも解釈できます。

さらに、この回を見ている視聴者も、テレビのなかに描かれている「お空」を見ていることになります。ですので「お空が大きく見えるのは」「視聴者みなさん」とも解釈できます。

アニメーションで歌詞に合わせたシーンが実際に映されることで、「お空が大きく見える」のはだれかをめぐっては、さまざまな解釈ができるようになりました。「不特定多数の人びと」「サザエさん」「視聴者」。これらを総合すると、最大公約数的な答は「お空が大きく見えるのはみんな」といえるのかもしれません。

参考資料
フジテレビ 10月5日放送『サザエさん』「レッツゴーサザエさん」
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
“操作”されて川へ向かい、魚に食べられ、生態系が保たれる


生態系というものは、絶妙な均衡のなかで保たれているといいます。それを教えてくれるような例が、陸から川にかけての地域で調べられています。

ハリガネムシという、まさに針金のように細長いからだをした小動物がいます。類線形動物門という分類群に属する小動物で、ミミズや線虫などと似ていますが、それらとは異なる仲間です。

ハリガネムシは、水のなかで卵から孵ると、幼虫が水生昆虫に水といっしょに飲みこまれます。といってもからだのなかで死ぬわけでなく寄生をします。寄生された水生昆虫が陸のコオロギなどの昆虫に食べられると、ハリガネムシは今度はコオロギのからだに移って寄生をします。

そして、コオロギをからだのなかから“操作”して、水辺へと向かわせます。水辺にやってきたとき、コオロギはすでに弱っているもよう。成長したハリガネムシが、コオロギのからだのなかから破りでてきます。そして、川のなかで交尾や生殖活動をします。

さて、ハリガネムシに“操作”されて川までたどり着いたコオロギは、川の水の近くで死を迎えます。するとその屍が川の流れのなかを漂うことに。屍といってもほかの動物にとっては貴重な栄養素。魚がこのコオロギの屍を食べます。

じつは、川の生態系にとって、ハリガネムシに“操作”されて川にたどり着いて死んだコオロギの屍は、重要な役割をしているといいます。魚たちがコオロギの屍を食べることによって、ほかの水生昆虫を食べつくすことなく、生態系が保たれているようなのです。

コオロギはなにも「死に場所は川で」と思って、川へと向かうわけではありません。ハリガネムシに“操作”されているのですから。しかし、それによって川の生態系が保たれているのですから、いかに生態系とは絶妙な均衡のなかで保たれているかがわかります。

参考文献
佐藤拓哉ら “Nematomorph parasites indirectly alter the food web and ecosystem function of streams through behavioural manipulation of their cricket hosts.” Ecology Letters 2012年8月号
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/22583960
丸山宗利『昆虫はすごい』
http://www.amazon.co.jp/dp/4334038131/
ウィキペディア「ハリガネムシ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/ハリガネムシ
| - | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0)
“競合”を避けて10月に打ちあげ


生きものは、それぞれの営みのなかで“競合”をくりひろげます。自分以外の相手となにかをめぐって争いに。たとえば、動物は縄張り争いをしますし、人も席とり争いをします。

強い者はその場に君臨し、そうでない者は自分の定位置をあらたに求めることになります。

このような、相手との力関係によって起きる“競合”が、ある季節の風物詩でも見られるようです。

10月というと秋の半ば。ところが近ごろ、夏の風物詩と考えられてきた花火大会が、10月に開かれる場合が増えてきているといいます。

インターネットの“花火カレンダー”には、たしかに「(2014年)10月の花火大会」として12件の情報が載っています。たとえば、あす4日(土)は茨城県土浦市で「土浦全国花火競技大会」が開かれる予定。2万発も打ちあげるようです。

翌週の11日(土)には、埼玉県鴻巣市で約1万5000発の「こうのす花火大会」が。また、千葉県成田市で約1万発の「NARITA花火大会in印旛沼」が。さらに東京都でも5000発の「北区花火大会」が開かれる予定です。

地元の人びとや花火大会好きにとってみれば「10月の花火」もめずらしいものではないかもしれません。しかし、「花火大会といえば夏」という印象をもつ人には「なぜ10月に」となるかもしれません。

全国の花火大会を追いかけて、夜空に咲く大輪を撮影している写真家はこう話します。

「近年は10月の花火大会も多くなりましてね。7月や8月はすでに花火大会がいっぱいだから、それほどの有名どころではない大会が10月に行われるようですね」

たしかに、7月と8月の“花火カレンダー”を見ると、全国各地、7月の土曜・日曜・休日で178件、8月の土曜・日曜で411件もの花火大会が組まれています。

これほどの“競合相手”がいるとなると、夏場は避けて、秋の半ばを開催日に選ぶ主催者がいてもふしぎではありません。10月の花火大会12件のうち、たしかに人口の多い関東地方で開かれる大会は半分の6件になります。

「10月の花火大会は、来シーズンへの橋渡しにもなるもの。いいものですよ」

過密日程の7月や8月を避けてむしろ10月あたりに開かれる花火を見たら、主催者の苦慮、いや賢明さを感じることができるかもしれません。

まだ、マフラーを巻いて外に出るほどではない10月。穴場的な花火大会が12回ほど開かれます。

毎月の花火大会の情報は、たとえばジョルダン「花火大会2014」で見ることができます。こちらです。
http://www.jorudan.co.jp/sp/hanabi/index.html
| - | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0)
改善にまじめ


日本の製造業などにおける“ものづくり”では、ものづくりに携わる作業者たちが「改善」とよばれる作業がさかんにとりくんでいます。改善とは、ものづくりの効率性を高めたり、作られるものの品質を高めたり、安全性を高めたりすることにつながる試みやとりくみのことをいいます。

とりわけ「ものづくりにおいてむだな部分をなくす」という改善は、だれもが参加できて効果を得られるものです。

もし、ものを作るための作業に、本当はやらなくても済む動作があれば、それをしなければ作業にかかる時間は短くなります。短くなった分、つぎの作業にとりかかる時刻を早められるので、おなじ時間でより多くのものを作ることができるようになります。

「むだな部分をなくす」という改善のひとつに「まじめ」とよばれるものがあります。

「まじめ」を漢字も使って書くと「間締め」。「間」は空間のことで、「締め」は「緩みをなくす」といったことです。つまり、間締めは、作業をするにあたってのむだな空間をなくしていくとりくみのこと。

たとえば、1本の生産ラインのなかで、作業者どうしの立ち位置の間隔を“締める”ことができれば、自分のとなりの作業者のそばにある部品を手を伸ばして取るといった作業を、手を伸ばさないでも取る作業に変えることができます。

また、2本の生産ラインで行っている作業を、1本の生産ラインで行えるようにし、使わなくなった1本のラインを使って、あるいはラインを撤去した空間を使って、ほかの作業をおこなうことも間締めといえます。

「間」を、「空間」の意味でなく、「時間」の意味で捉えることもあるようです。

「間締め」といったことばが生まれてくることは、いかに日本でものづくりの改善活動がさかんに行われているかの証しにもなりそうです。

参考資料
丸岡電子「生産体制」
http://www.kameokadenshi.co.jp/businessmodel/system/
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
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