アニメ番組『サザエさん』から、さまざまな名曲が生まれています。「お魚くわえたドラ猫追っかけて」ではじまる「サザエさん」と、「大きな空を眺めたら」ではじまる「サザエさん一家」は、毎週日曜日の番組のオープニングとエンディングでそれぞれ流れています。どちらも宇野ゆう子が歌っています。
さらにノリのいい歌として『サザエさん』愛好者に親しまれているのが、サザエさんの声をつとめる加藤みどりが歌う「レッツゴーサザエさん」です。作詞は北山修。作曲は筒美京平。つぎの一節で始まります。
お空が大きく見えるのは 私がそこにいるからよ
ここでいう「私」は、加藤みどりでなく、サザエさんを指すと考えてよいでしょう。多くの人が歌を聞けば、加藤みどりがサザエさんになりきって歌っていると納得するでしょう。
この節は、前半で結果を掲げて、後半でその理由を示すというつくりになっています。歌詞にしたがうと、「お空が大きく見える」理由は、「私」つまりサザエさんが「そこにいるから」ということになります。
では、1節目の理由にあたる部分の「そこにいるから」の「そこ」とはどこを指すのでしょうか。
ふつうに考えれば、この節の前半の場所を示すようなことばが「そこ」にあてはまりそうです。場所をさすことばは「お空」しかないので、「そこ」は「お空」ということになります。
「そこ」イコール「お空」とすると、下記のとおりになります。
お空が大きく見えるのは 私が「お空」にいるからよ
ここでさらに疑問を浮かべる人もいるでしょう。お空を見ながら「大きい」と感じている主体はだれなのだろうか、と。
もし、お空を見ながら「大きい」と感じている主体がサザエさん自身だとすると、ちょっとした矛盾が生まれてきます。サザエさんはお空にいるのに、そのお空をサザエさん自身が見ていることになるからです。サザエさんの視覚は地上にあり、身体はお空にあると考えなければ、この状態はなりたちません。視覚と身体がべつのところにあるというのは、常識的には考えにくいことです。
あらためて、お空を見ながら「大きい」と感じている主体はだれなのか。この疑問に対して、ひとつの示唆をあたえるのが、つぎに控えている2節目の歌詞です。
地球が動いているのはね 私が笑っているからよ
この節も、1節目とおなじく、前半で結果を掲げて、後半でその理由を示すというつくりになっています。「地球が動いている」理由は、「私」つまりサザエさんが「笑っているから」ということになります。
もちろん、サザエさんが笑わないと地球が動かなくなるというわけではありません。ここでは、サザエさんのかもしだす笑いの絶えない雰囲気が、まわりの人びとに活気をあたえる、といったくらいの意味に考えてよさそうです。こう解釈することは、ここでは末節の問題なので、「地球が動く」ということをそのまま考えていきます。
ここで、1節目の「お空が大きく見える」と、2節目の「地球が動いている」というのは、事象の構図としておなじと考えられそうです。なぜなら、1節目と2節目は、おなじつくりの対句になっているからです。
そこで2節目の「地球が動いている」にしぼって考えると、これは「一般的にいえること」を示したものといえそうです。つまり「地球が動いている」ことを実感する主体を考えるならば、それは不特定多数の人びととなります。
2節目の前半の主体が不特定多数の人びとであれば、対句となっている1節目の前半の主体も不特定多数の人びとと考えるのが自然です。主体が変化するような複雑なつくりと設定するより、主体はおなじと設定するほうが、無駄がすくないからです。
すなわち、お空を見ながら「大きい」と感じている主体は不特定多数の人びとといういことになります。対句を厳密に当てはめようとすれば、つぎのようになります。
お空が大きいのはね 私がそこにいるからよ
地球が動いているのはね 私が笑っているからよ
しかし、こうすると1節目は字足らずになり、旋律にうまく乗ることができません。そこで、「お空が大きいのはね」でなく「お空が大きく見えるのは」と「見える」を入れて調子を整えたのでしょう。
結論として、「レッツゴーサザエさん」の1節目は、「お空が大きい理由は、サザエさんがお空にいるから」と解釈することができます。
もちろん、この節も比喩的な表現が使われていると考えられるので、この節全体として「サザエさんの存在が、空が大きく見えるような晴れ晴れとした雰囲気を人びとにもたらす」というくらいの解釈になりそうです。
「レッツゴーサザエさん」は、たとえば、下記のリンク先で聴くことができます。
http://www.youtube.com/watch?v=4Uo51E77eU8