科学技術のアネクドート

核攻撃を受けたときのため予定稿を用意


テレビ局や新聞社などの報道機関は、あらかじめ「こんな大きな事件が起こるかもしれない」と考えて、ほんとうにその大きな事件が起きたときすぐ対応できるよう、予定稿という原稿をつくっておくことがあります。

1970年代、英国放送協会(BBC:British Broadcasting Corporation)は、自分たちの国が核兵器により攻撃を受けたときに、国民によびかけるための予定稿をつくっていました。この予定稿は、2008年まで英国立公文書館で保管されていましたが、秘密にしておく期間が解けて、英国放送協会がおおやけにしたものです。

「これは戦争時の放送サービスです。わが国は核兵器による攻撃を受けました。通信が著しく破壊され、被害者の数や損害の規模はいまのところわかりません。できるだけ早くつぎの情報をお届けするつもりです。その間、この周波数に合わせたまま、落ちついて家のなかにいてください」

予定稿は、このような緊迫感あふれるよびかけで始まります。そして、身のまわりにあるものの使いかたを具体的に示します。

「水はトイレで流すために使ってはいけません。ふたたびトイレを使ってよいといわれるまで、ほかの方法で対処する必要があります。水は、飲むためと食べものを調理するためだけに使ってください。水は命です。むだづかいをしないでください」

「食べものを残すようにしてください。14日間かそれ以上にわたり食べものをもたせる必要があるため、配給はごくかぎられています。もし家のなかに新鮮な食べものがあるならば、むだにしないためそれらから使ってください。缶詰の食べものはもちます」

これらの身のまわりにあるものの使いかたを具体的に示したあと、「もう一度、大切な点をくりかえします」として、外に出てよいといわれるまで家のなかにとどまっていること、ガスや燃料の栓をしめて、すべての火を消すこと、水は飲むためと調理するために使うこと、などを伝えます。

そして、最後につぎの原稿でしめくくります。

「この放送を2時間後にふたたび行います。この周波数に合わせたままにしておいて、再び放送されるまでは電源を保つためラジオのスイッチを切ってください。これで放送を終わります」

この放送をくりかえすことで、すくなくとも英国放送協会は核攻撃によっても壊滅していないということを示して、国民に安心感をあたえるというねらいもあったようです。

公開されたこの予定稿について、「永遠にこの予定稿が使われることがないことを望む」といった声が聞かれます。

英国放送協会がつくった、核兵器攻撃を受けたときのよびかけに使う予定稿はこちらで見ることができます(英語)。

参考記事
AFP BB News 2008年10月4日付「BBC、核攻撃時に放送予定だったアナウンス原稿を公開」
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
死んでからもなお役割を果たす


人のからだは、皮膚に覆われています。皮膚のなかでももっとも外側、つまり体と外界の境目をなすのが角質層とよばれる層です。

角質層には角質細胞という細胞が層をなしています。角質細胞は、ほほなどでは薄く、かかとなどでは厚いものの、ならすと15層ほどで積みかさなっています。その厚さは0.02ミリメートルほどしかありません。

この角質層の角質細胞の特徴のひとつは、“すでに死んでいる”ということです。角質細胞はどこからくるかというと、角層よりも一段、深いところにある表皮細胞という細胞層からやってきます。新陳代謝によって、表皮細胞が外側に押しだされていきます。そして、表皮細胞のときにあった核がなくなり細胞として死んでからも、体のもっとも外側に置かれているのが角質細胞というわけです。

角質細胞が死んでいながらも、人が生きるために立派に役目を果たします。

まず、体の外側の紫外線や乾燥した空気などから体の内側をまもる役目があります。これは角質層のバリア機能などといわれます。車のバンパー表面にたまったほこりは、それ以上の外部からの影響による汚れを防いでくれるといいますが、これとにたような役割を果たしているといってもよいかもしれません。

また、体の内側に保たれている水分を外側に逃さない役目もあります。皮膚の表面で水分を閉じこめるというしくみは、動物が陸上にあがったときに、乾きで干上がってしまわないために進化してきたといわれています。

角質層はこうした役割を果たしながらも、すでに死んでいます。つくられてから2週間くらい経つと、人の体といよいよ別れを告げ、垢(あか)として、地球の一部へと返っていくのです。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
「物に親しめ、物がすべてを教えてくれる」
2013年からちょうど100年前の1913(大正2)年、いまの東北大学の前身である東北帝国大学に、黒田チカ、牧田らく、丹下ウメという3人の女子学生が入学しました。この3人が、日本初の国立大学における女子学生となります。

当時の日本では、女子大学の前身にあたる女子高等師範学校はありました。しかし、女子が男性ばかりの国立大学の学生になるという常識はありませんでした。東北帝国大学の独自の判断で、女子たちに入学試験を受けさせたのだといいます。

この行いに対して、政府の文部省は、東北大学宛に「元来女子を帝国大学に入学せ しむることは前例の無きことにて、すこぶる重大なる事件に有り」などと書いた文書を送り、再考をうながしたということです。

文部省から東北帝国大学に送られた、女子学生受け入れの再考を促す書面。理化学研究所(埼玉県和光市)の展示資料

このリケジョ3人のうち、化学を専攻した黒田チカは(1884-1968)は、おなじく化学専攻の丹下ウメとともに、東北帝国大学の教授だった真島利之に師事しました。そして、1916年に東北帝国大学を卒業後、文部省にも認められて英国をします。


黒田チカの肖像写真。理化学研究所(埼玉県和光市)の展示資料

そして、英国留学後の1923(大正12)年、理化学研究所の主任研究員を兼務していた真島から、理化学研究所で研究をするための手を差しのべられました。

黒田は、真島の下で、植物の紫紺の色素「シコニン」の構造決定を行いました。構造決定とは、物質の化学構造を決定することをいいます。さらに黒田は、紅花色素「カーサミン」の構造決定も行っています。この研究で、黒田は日本人女性2人目となる理学博士号も得ました。

その後も黒田は研究に邁進します。西陣織の下絵染めにも使う露草や、海辺に生きるウニの色素研究などに打ちこみました。

黒田の座右の銘は、「物に親しめ、物がすべてを教えてくれる」というもの。晩年には「真心をもってやっていたら、天然物はかならず姿を見せてくれる」とも語っていたといいます。ここまで言えるようになるほど、黒田は生物と長い間、面と向かって生きてきたということでしょう。
| - | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0)
科学記事づくり、理科の知識は十分条件
物書きが科学を題材とする記事をつくるとき、中学校や高校などで習う理科の知識をもっているに超したことはありません。しかし、通信簿で「5」や「4」をとれるほどの知識をもっていないと、科学の記事をつくることができないかというと、かならずしもそういうわけではありません。

ある科学記者は、つぎのように語っています。「私は高校時代に化学が苦手になりました。『モル』とか『アボガドロ数』とか、そのあたりの話が出てきたところで、私の化学の勉強は終焉を迎えました……」。

しかし、この科学記者は、「科学の記事をつくるにあたって、知識がなくて記事をつくることができなかった、という状況に陥ったことはいままでありませんでした」とも言います。どういうことでしょうか。

世の中の人びとが求めている情報は、「あたらしい素材が開発された」とか、「iPS細胞の研究が医療で実用化される段階に入った」とかいった、先端的なものである向きがあります。いま新聞で「モルとは、質量数12の炭素の同位体0.012キログラム中に存在する炭素原子と同数の構成粒子からなる系の物質量である」といった話が単独の記事になるかといえば、そういうことはありません。それはニュースでないからです。

科学の先端的なニュースを伝えるとき「モル」や「アボガドロ数」といった、教科書で習うような内容を登場させる必要はほぼありません。どうしても、登場させなければならない場合、科学記者は、その知識をいまインターネットなどで得て補うことができます。

そのため、教科書で習う理科の知識を網羅的に把握していることは、科学の記事をつくる上ではかならずしも必要ない、というわけです。

もちろん、教科書に出てくる「モル」や「アボガドロ数」がなにであるかを知っていれば、取材先の研究者は「この記者はそのぐらいのことは知っているみたいだな」と安心します。これは記事づくりでは有利なほうにはたらきます。研究者の話を受けて、さらに記者は質問することもできるでしょう。知識をもっている必要はないとはいえますまい。

それでも、理科の知識なしに、科学の先端的な記事をつくることはできます。このことは、教科書で習うような基本的な知識と、世の中で人びとが求めるような先端的な科学が、大きく離れていることを示しているのかもしれません。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
112番も114番も名前が決まった……
2000年代から2010年代にかけて、人工的につくられる元素のうち、いくつかに「正式な名前」がつけられました。元素の名前は、国際純正・応用化学連合(IUPAC:International Union of Pure and Applied Chemistry)という国際機関によって決められます。

原子番号111、つまり陽子を111個もつ元素は、かつて「ウンウンウニウム」とよばれていました。「1」を表すラテン語が「ウン(Un)」であり、「111」は「ウン」が3回つづくので、「ウンウンウニウム(Unununium)」とよばれていたのです。

1994年12月、ドイツの重イオン研究所が111番元素をはじめてつくりだしました。それからおよそ10年後の2004年11月、国際純正・応用化学連合は、英語読みで「レントゲニウム」(roentgenium)という正式名を決めました。

原子番号112は、「コペルニシウム」(copernicium)。1996年2月におなじく重イオン研究所が初めてつくりました。その14年後の2010年2月、この名前が決まりました。

114番と116番も、「ウンウン……」ではなくなっています。

原子番号114は「フレロビウム」(flerovium)。1998年12月、ロシアのドゥブナ合同原子核研究所がはじめてつくりました。それから13年半が経った2012年5月に正式に名前が決まりました。ドゥブナ合同原子核研究所が、設立者のゲオルギー・フリョロフ(1913-1990)の名にちなんで提案したものです。

原子番号116は、「リバモリウム」(livermorium)。2012年5月に決まりました。米国立ローレンス・リバモア研究所にちなんだものです。

さて、原子番号112と114のあいだにあるのは113番元素。この元素は、日本の理化学研究所仁科加速器研究センターの森田浩介さんらが求めつづけてきたもの。2004年9月、森田さんらは1個目をつくることに成功しました。翌2005年4月には、2個目をつくることにも成功しています。

そして2012年8月、森田さんらはひさびさに3個目の113番元素をつくり、この元素がこれまでとは異なる振るまいで崩壊していくのを観測しました。

原子核が「アルファ粒子」とよばれるヘリウムの原子核を放って安定な核になることを「アルファ崩壊」といいます。2004年と2005年のとき、森田さんらは113番元素が4回連続でアルファ崩壊を起こし、その後、原子番号105のドブニウムと化した原子が核をみずから二つに分裂させる様子を観察していました。いっぽう、2012年のときは、113番元素がアルファ崩壊を6回連続で起こすのを観測したのです。

2004年・2005年と、2012年。どちらの連鎖的崩壊も、113番元素がたどる経路であることがわかっています。複数の方法で連鎖的崩壊が観測できたということは、森田らさんらがつくりだした元素がやはり113番であるということが事実上、示されたことになります。

そのため、日本の化学者たちのあいだでは「いよいよ113番にも正式な名前がつけられるか」と期待されています。理化学研究所がつくった原子がまちがいなく113番元素であると国際的に認められれば、理化学研究所が名前をつける権利をもつことになります。

いま候補として上がっているのは「ジャポニウム」「ジャパニウム」「リケニウム」「ニシナニウム」など。最後のは、戦前から戦後にかけて理化学研究所に所属して日本の物理学を発展させた仁科芳雄(1890-1951)にちなんだもの。

“ご近所”の元素は、つくりだされてからおよそ10年ほどで正式な名前がついています。113番元素はどうなるでしょうか。

参考記事
理化学研究所 2012年9月27日付「3個目の113番元素の合成を新たな崩壊経路で確認」
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
企業が社員の媒体露出を避けようとする時代に


なるべくならわれわれの誇る社員の活躍ぶりを世に知らしめて、「あの会社って、やっぱりすごい!」と思われたい。そのようなことを考えている企業は多いでしょう。

ところが近ごろ、企業が特定の社員をインターネットや雑誌などの媒体に露出させることを避けようとする向きがあるといいます。

たとえば、企業のホームページには、「採用のページ」があります。これは、「この企業に入りたい」と思う人に、その企業での社員の仕事ぶりや働きがいなどを紹介するもの。何人かの社員が登場し、その社員たちの“ある一日”を紹介したりします。

企業によっては、このようなページで紹介する社員の名前をイニシャルにしているところもあるといいます。「機械開発部エネルギー課 S・Iさんのある一日」といったように。

企業が特定の社員を媒体に露出させようとしない向きは、自社ホームページ上にかぎったことではありません。

ある物書きは、“大手企業ではたらく理系人材”という主題で企業に取材を申しこみました。しかし、広報からの返事は「特定の人を対象にした取材は、弊社ではお受けしないことにしています」というもの。取材を断られてしまったといいます。

背景には、なにがあるのでしょう。

可能性としてあるのは、優秀な人材を海外の企業に引きぬかれないよう、特定の人物をメディアに露出させないようにしているということです。

インターネットや雑誌などの媒体に、「機械開発部エネルギー課 鈴木一朗さん」のように個人名まで出すと、それを海外の企業に調べられ、引きぬかれるおそれが高まります。「鈴木一朗」という名前まで見られたら、フェイスブックやさまざまな手段で、この大切な人材に接触されるかもしれません。

そこで、企業は苦肉の策として「S・Iさん」のようにイニシャルを使うわけです。

取材でもおなじことがいえます。出版社側は「事情はわかりましたので、イニシャルでの掲載でオーケーです」などというはずありません。そうであるならば、はじめから「取材は受けない」ということにしてしまい、人材が引きぬかれるのを防ぐというわけです。

企業のなかには、これまで、製品についての情報を出しすぎないことで、海外企業に製品を模倣されないようにしてきました。これからは、人についての情報を出しすぎないことで、人材を引きぬかれないようにするのがあたりまえ、という時代がくるのかもしれません。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
池の“日本列島”は水鳥の糞だらけ

1979年撮影の昆陽池
© 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省

以前、このブログの「人工池のなかに人工島はつくられた。」という記事で、兵庫県伊丹市の昆陽池(こやいけ)という人工池のなかに、日本列島を模した人工島があるという話をしました。

昆陽池をつくったのは、行基(668-749)という奈良時代の僧です。行基は奈良の大仏を実際に建立したことなどでも知られています。いっぽう、昆陽池のなかの“日本列島”は、1970年代に伊丹市による昆陽池の再整備でつくられました。

この“日本列島”が、大きな問題を抱えているといいます。それは、水鳥の川鵜(かわう)がたくさん糞をするというものです。

川鵜はペリカン目ウ科の水鳥で、全長は90センチメートルにもなる大型の水鳥です。川や池の魚などをとって食べています。そして、白い糞をします。

もともと、昆陽池は、野鳥にとって飛来地や生息地でした。1996年に川鵜が住みつきはじめ、その後、急に数を増やしていったといいます。そして、川鵜のせいで、ほかの鳥がなかなか“日本列島”に入りこめない事態に。

“日本列島”をわがものにした川鵜たちは、島の水辺などに大量の糞をしました。そのため、島のふちなどが白っぽくなりました。昆陽池の近くに住む人は、「糞がひどすぎて、“日本列島”のかたちがだいぶ変わってしまった」とも言います。

川鵜の糞害に対して、伊丹市はこれ以上、川鵜の数が増えぬよう、「偽卵大作戦」というプロジェクトを立てています。

ふつう、川鵜は卵を4つ産みます。この卵が2つに減ってしまっていると、川鵜は2つの卵を産み足して、ふたたび卵が4つある状態にするといいます。つまり、人が川鵜の卵を取り去ったとしても、川鵜はふたたび卵を産み足して、4つの卵がある状態にしてしまうわけです。

そこで、川鵜の卵に似せた石膏製の“偽卵”をつくり、これを川鵜の知らないうちに本物の卵と置きかえます。川鵜は、卵が偽であることに気づかず、そのまま卵を抱きつづけます。しかし、偽物なので卵からひなが孵ることはありません。これで、川鵜を増やさないようにする、ということです。

川鵜のことを考えると気の毒な話です。もともとなにもなかった池に“日本列島”をつくりだした人間のしわざが、招いた事態ともいえそうです。

参考記事
世界通信教材科学ニュース No.1736「公園に野生のカワウが大繁殖。そこで…偽卵大作戦」
| - | 22:59 | comments(0) | trackbacks(0)
「ロイ」で終われば合金
工業の世界には、「ロイ」で終わる素材のことばがいくつかあります。いわば、「ロイ」は接尾辞のようなものです。

たとえば、金属を切り削るための工具に使われる材料に「タンガロイ」があります。タンガロイは、ダイヤモンドにつぐ硬度をもっているとされます。

また、ガスタービンや焼却炉の壁の内側には、「ハステロイ」という材料が使われることがあります。これは、クロム、モリブデン、鉄、コバルトなどを合わせた材料です。

このような工業で使われる接尾辞「ロイ」は、「合金」の意味をもっています。

もともと「合金」を意味することばとして、英語に「アロイ」(alloy)というものがあります。合金とは、ひとつの金属に、ほかの金属または非金属を一種類以上、溶かしあわせてつくったものをいいます。この「アロイ」の前に、その製品の特徴的を示すことばや、その製品のブランド名などをつけて、「何々ロイ」とするわけです。

たとえば、冒頭の「タンガロイ」という合金には、炭化タングステンという材料などが使われています。そこで、「タングステン」ということばと「アロイ」ということばをつなげて「タンガロイ」となったわけです。

ほかにも、「ロイ」で終わる合金材料の名はあります。

「イゲタロイ」もそのひとつ。1931年に、いまの住友電工ハードメタルにあたる住友電線製造所が、開発した合金です。炭化タングステンやコバルトなどを粉末を混ぜあわせ、その後、ガス噴出乾燥、圧縮、焼結という工程を経て、つくります。炭化タングステンとコバルトという組み合わせは、タンガロイとおなじです。

この「イゲタロイ」は、もともと「井ゲタロイ」と書かれていました。住友グループの商標である「井桁」を「ロイ」のまえにつけたのでした。

また、ニッケルをふくむ合金で、継電器や変成器などに使われる「パーマロイ」という素材もあります。 このことばの最初にある「パーマ」は、「透磁率」を意味する「パーミアビリティ」ということばから来ています。透磁率とは、材料における磁束の通りやすさを示す率のこと。

これらの事例から、工業の材料で、お尻に「ロイ」ということばがつくものは、なにか複数の材料を合わせた金属であると考えてよいでしょう。

参考ホームページ
ウィキペディア「タンガロイ」
住友電工ハードメタル事業部・住友電工ハードメタル「イゲタロイ」とは
住友電工ハードメタル事業部・住友電工ハードメタル「イゲタロイの歴史」
中野パーマロイ「パーマロイについて」
| - | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0)
「『お酒の前に牛乳』は効果があるのか?」


日本ビジネスプレスのウェブニュース「JBpress」で、(2013年)8月23日(金)「『お酒の前に牛乳』は効果があるのか? 『酒と体』の本当のところ(前篇)」という記事が配信されました。記事の取材と執筆をしました。

日本国民の7000万人がお酒を飲むといわれています。お酒を飲んだときの気分はどうなるかは、飲んだ人があれば知っていることです。

しかし、お酒を飲んだとき、体のなかでそのアルコールがどのように広まっていくのか、そして、どのように酔うことになるのか、そして、体に摂りいれたアルコールはどうなっていくのか、といったところまではそれほど知られていません。

記事では、お酒を飲んだときの体の変化のしくみを、東京・洗足にある洗足メンタルクリニック院長の重盛憲司さんが解説します。重盛さんは、国立久里浜病院で長くアルコール依存症患者の治療に携わってきた医師。精神科医としてだけでなく、アルコール全般への見識を広く深くもっています。

お酒を飲んだとき、からだの変化という点で大切な器官は、胃や小腸、肝臓、血管、そして脳といったところになります。

お酒のアルコールは胃や小腸で吸収され、それが血管を通って肝臓に達すると、肝臓はアルコールを分解しようとします。分解されたアルコールは、アセトアルデヒドというべつの物質になり、その後、さらに酢酸へと変わり、しまいには水と二酸化炭素になります。

しかし、肝臓はからだに入ったアルコールをすべて一気に分解できるわけではありません。そこで、肝臓が分解しきれなかったアルコールは、血管でからだのすみずみまで運ばれるわけです。

その運ばれた先のひとつが脳。重盛さんは、人が酒で酔うしくみを「アルコールによって、脳が麻痺する」と説明します。お酒を飲みつづけると、アルコールが脳の外側から内側へと入っていくことに。これは、理性などをつかさどる大脳から、その後、運動などをつかさどる小脳へとアルコールがしみ込んでいくことを意味します。つまり、飲みはじめでは、理性のたがが外れて気分よくなりますが、その後、深酒になると運動もままならなくなるわけです。

肝臓は、体のなかのアルコールをすこしずつ分解していきます。つまり、アルコールをからだに摂りいれた量が多いほど、肝臓がアルコールを分解しきるまでに時間がかかることになります。摂りいれたアルコールの量が多いほど、酔いから覚めるまでに時間がかかる、ということになります。

記事では、巷でいわれる「“ちゃんぽん”は悪酔いをひきおこす」「酒は肥満のもと」「お酒の前に牛乳を飲むと酔いにくい」といった説が、本当であるのかどうかも、重盛さんが解説しています。

「『お酒の前に牛乳』は効果があるのか?『酒と体』の本当のところ(前篇)」はこちらです。
8月30日(金)掲載予定の後篇では、アルコールは結局のところ、体によいのかどうかといった話を、ひきつづき重盛さんに聞く予定です。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
向きは“ばらばら”ゆえに強い
あるものの集まりが、ひとつの向きにそろっているものと、あるものの集まりが、ばらばらな向きで揃っていないものがあるとします。

「見た目、美しいのは、どちらか」と問われれば、多くの人は「すべてのものがひとつの向きにそろっているほうだ」と答えるでしょう。

しかし、「では、強いのは、どちらか」と問われると、多くの人は迷ってしまうかもしれません。

原子や分子などが、規則的に並んだ固体を「結晶」といいます。この結晶のかたちには、おもにふたつ、「単結晶」と「多結晶」というものがあります。

単結晶とは、ひとつの結晶のどの部分をとっても結晶の向きがそろっているものをいいます。たとえば、透明で輝いて見える宝石は単結晶です。

いっぽう、多結晶とは、結晶の向きがさまざまの小さな結晶が集まったもの。たとえば、鉄鋼製品などは、鉄の結晶がさまざまな向きでたくさん集まった多結晶です。

あるおなじ材料でできた物質でも、単結晶のものと多結晶のものがある場合があります。たとえば、人工のダイヤモンドにも、つくりかたによってこの二種類があります。

単結晶のものは、結晶の向きがそろっているため、見た目はきれいですが、ある一定方向からの力に対して、裂けたり割れたりしやすいという弱点ももっています。

いっぽう、多結晶のものは、結晶の向きがばらばらのため、見た目はあまりきれいではありませんが、ある一定方向から力を入れても、結晶の向きの不統一さから、その力は散りぢりになるため、裂けたり割れたりしにくいのです。

そのため、人工のダイヤモンドでも、現在のところ多結晶のものが単結晶のものより硬いということになっています。
| - | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0)
実売部数印税、著者にも“一利”の要素

本の著者が、またはレコードの作詞家、作曲家、歌手などが、手がけた本やレコードの定価や売れかたに応じて支払われるお金を印税といいます。出版社やレコード会社から印税が支払われます。

出版界では、印税の支払われかたとして、おもに二つの種類があります。本の刷られた部数により著者に支払われるものと、本の売れた部数により著者に支払われるものです。それぞれ「刷部数印税」「実売部数印税」などとよばれます。

どちらの支払い方式になるかは、出版社と著者のとりきめで決まります。ただし、出版社には「うちは刷部数印税」あるいは「うちは実売部数印税」といった支払いの方針があることが多く、たいてい著者がそれを飲んでいるようです。

ある物書きが本を出したとします。その本は定価1000円で、出版社が刷った本の部数は5000部、そして印税率は定価の10%だとします。

刷部数印税の場合、はじめに刷った本の部数に対して印税が支払われるので、著者が受けとるお金は「1000円×10%×5000部」で50万円となります。その後、増刷のたびに、その増刷の部数分が、著者に印税として支払われることになります。

いっぽう、実売部数印税の場合、売れた本の部数に対して印税が支払われます。たとえば、本が出てから3か月で、本が3000部、売れたとします。著者がこの3か月分として受け取る報酬は、「1000円×10%×3000部」で30万円となります。

著者が実売部数印税の方式を純粋に受け入れると、「報酬がまったく生じない」というおそれも出てきます。極端な話、世に出た本が、たった1冊も売れなかったら、この著者は印税をまったく受けとれないことになります。

これでは著者は食べていけません。そこで救済策として、出版社は実売部数印税で支払うときも、ある程度の報酬を“保証”として支払うことがよくあります。たとえば、「実売印税ながら最初の発行部数のうち3000部分については、実際に売れようが売れまいが印税に相当する額を支払う」といったとりきめを交わすわけです。

実売部数印税の保証分はさておき、著者にとってみると、刷部数印税と実売部数印税では、どちらの方式で支払われるのが幸せなのでしょうか。

たいてい、本の1回での増刷数は2000部といったところでしょう。もし、著者が刷部数印税の約束を交わしていれば、増刷のたびに、その増刷分が売れたが売れないにかかわらず、2000部分の報酬を得られるわけです。

ところが、実売部数印税となると、2000部の増刷になったとしても、実際に売れなければ印税が支払われません。著者にとって、増刷は報酬を受けるという点ではあまり意味がない、ということになりそうです。

著者にとって、刷部数印税のほうが実売部数印税よりも幸せということになるのでしょうか。

しかし、ひとつだけ、実売部数印税のほうが著者にとって幸せになりうる要素が残されていると考えられます。実売部数印税では、出版社は著者に刷部数分の印税を支払うことを免除されているわけです。これは、出版社にとって、気兼ねなく増刷をすることができる状況であると捉えることもできます。

出版社は刷部数印税の場合にくらべて増刷を躊躇することがなくなります。思い切った増刷をしやすくなるわけです。その結果、多くの部数が本屋に出まわり、社会への露出が多くなり、結果的に本が多く売れる、といったことが起こるかもしれません。

実際、刷部数印税と実売部数印税のどちらの場合のほうがよく本が売れるのかといった統計は見あたりません。現実的には、著者は刷部数印税で支払われることを望み、出版社は実売部数印税で支払うことを望むのが多いようです。
| - | 22:50 | comments(0) | trackbacks(0)
「IT化するサッカーで、新たな“情報戦”?選手やボールの動きをリアルタイムで分析」


(2013年)8月19日(月)、サイゾーのウェブニュース「ビジネスジャーナル」で、「IT化するサッカーで、新たな“情報戦”?選手やボールの動きをリアルタイムで分析」という記事が配信されました。この記事の執筆をしました。

スポーツ競技に情報技術(IT:Information Technology)がつぎつぎと入ってきています。2012年のロンドン五輪では、各代表チームがバレーボールで試合の最中にも選手たちの情報が集め、いま行われている試合での戦術に活かしました。

このようなデータの活用がよりむずかしいと考えられていたのがサッカーです。なぜなら、サッカーの試合では、前半と後半の合間や、延長戦の前などにしか、監督と選手が戦術を確かめあうたっぷりとした時間がないからです。サッカーは流れるスポーツの典型といえるでしょう。

しかし、そんなサッカーにも、リアルタイムのデータを戦術に活かすために利用する試みが行われはじめています。米国のメジャー・リーグ・サッカーでは、選手に電子チップをつけて動きを計測して、それを迅速に監督のもつ端末に送信するといったことが、試合でもすでにおこなわれています。

記事では、そのほかにボールにもセンサを内蔵させて、リアルタイムのデータを集めて、両チームに情報提供するといったシステムを紹介しています。

記事では触れていませんが、サッカーに対しては、人間型ロボットの開発者たちが「2050年までにサッカーの世界チャンピオンチームに勝てる、自立型ロボットのチームを作る」といった大きな目標を立てて、研究を進めています。

この目標に向けた研究開発では、大きな前進がまだ見られるわけではありません。しかし、徐々に現実味を帯びてきたときには、とうぜん、選手の動きをリアルタイムに把握するようなシステムは導入の対象になることでしょう。

30年後や40年後のサッカーも原型はおなじでしょうが、その中身はだいぶ変わっているのかもしれません。

ビジネスジャーナルの記事「IT化するサッカーで、新たな“情報戦”?選手やボールの動きをリアルタイムで分析」はこちらです。
| - | 19:29 | comments(0) | trackbacks(0)
「松屋」のスパイシーチキンカレー――カレーまみれのアネクドート(49)


牛丼チェーン店の松屋のカレーメニューが豊富になっています。

従来、松屋は「オリジナルカレー」とよばれているカレーを出していました。多くの客層がいるためか味は中庸。しかし、牛丼屋らしく、牛飯に乗せる牛肉をおもな具材にした「カレギュウ」といったメニューもあります。

いっぽう、新しく加わったのは、「スパイシーカレー」とよばれるカレーのメニュー。「オリジナル」とくらべたときの特徴は、基本的な具材がルゥに溶けこんでいること。そして、すこし辛いこと。

これのプレーンなスパイシーカレーに、鶏肉などの具材がごろごろと入ったものが、写真の「スパイシーチキンカレー」です。

手前に転がっているのが、鶏肉ふたつ。スプーンでかんたんにわれるほどにやわらかく煮込まれてあります。すこし辛いルゥと鶏肉のうま味が相まって相乗効果を出します。

もうひとつ、このカレーでは脇役ながら、3つほどルゥに転がっているのが蓮根です。鶏肉にくらべると小さいものの、それでも一口で食べられるかといった大きさがあります。

プレーンなルゥに、ごろごろとした肉、そして蓮根。ごろごをとした肉のおともに蓮根を加えるという発想に、松屋のメニュー開発の熱心さをうかがうことができます。

オリジナルカレーとスパイシーカレーとも、プレーン、カレギュウ、チキンカレー、そしてごろごろした豚肉の入ったポークカレーがあります。

松屋のカレーのメニューはこちらです。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(1)
連休中もすこしは働いていれば“めりはり”っぽくなる


多くの人にとってお盆休みはきょう8月18日(日)まで。夏休みの子どもたちをのぞくと、多くの人はまたあしたから仕事生活がはじまります。

たてまえか本心かはともかくとして、仕事と仕事以外の生活のバランスをうまくとることを、国や企業は推しすすめています。「ワーク・ライフ・バランス」などともいわれます。ことばの順序として「ワーク」がまずくることからすると、やはり仕事を第一とした考えかたなのかもしれませんが。

人びとが口に出すのは、「めりはりのある働きかたをしましょう」といったものです。たとえば、「お盆休みは遊びまくったから、あしたからいっしょうけんめい仕事して、めりはりある働きかたをするぞぉ」などと自分をいい聞かせている人は多いでしょう。

しかし、「めりはり」とはいったいなんなのでしょう。

「はり」のほうは、「はりのある生活」といった表現もあるので、どちらかといえばわかりやすいものです。「ぴんとはった」あるいは「気合いの入った」といった語感があります。

問題は「めり」のほうです。「めりのある生活」という表現はなかなか聞かれません。

「めりはり」を、漢字も使って書くと「減り張り」または「乙張り」となります。ここでいう「減り」や「乙」とは、緩めることをいいます。「めりはり」は、とくに音を弱めたり強めたりするときのことを指すことばでした。

さらに「めりはり」の語源は、尺八での「めりかり」であるともいわれます。「めりかり」は「減上」または「乙甲」と書きます。音の高さを、微妙に下げたり上げたりすることをさします。

まとめると、「めりはり」とは「緩めたり張ったりするさま」をいうわけです。

「めりはりのある働きかた」というとき、「めりはり」の意味どおりに考えれば、働く姿勢をときに緩め、ときに張る、ということになります。つまり、「めりはり」の意味するものは、「無か有か」ではなく、「弱か強か」となります。

「お盆休みをまるまる働かずに過ごした翌日から職場でばりばりはたらく」というおおないは、厳密には「めりはりある働きかた」とはいえなさそうです。「めり」のほうは「働くのを緩める」のであって、「働くのをしない」とわけではないのですから。

いかに、連休明けの仕事に抵抗感なく入っていくことができるか。これは、多くの人が抱えている課題です。

まったく働かない状態からいきなり働く状態に突入するのでなく、すこしは働いている状態からたくさん働く状態に移っていくのが、「めりはり」にふさわしい働きかたといえそうです。

そうはいっても、なかなかそうもいかないのが人間です。
| - | 21:37 | comments(0) | trackbacks(0)
「藤原の効果」で台風どうしが迷走


(2013年)8月17日(土)、日本付近では、沖縄本島のちかくと台湾の南東あたりに、熱帯低気圧があります。さらに、大陸にも熱帯低気圧があります。

熱帯低気圧は、熱帯や亜熱帯の地方で生まれる低気圧のこと。このうち、最大風速が1秒あたり17メートル以上になるものが台風です。いま日本付近にある熱帯低気圧も、これから台風になっていくおそれがあります。

台風のおおまかな進路は、南の太平洋上でできて、はじめ偏東風に乗って北西へと向かい、その後、偏西風に乗って進路をかえて北東へと向かう、というもの。

しかし、おなじ時期にふたつの台風が近くにあると、複雑な動きを見せることになります。

たとえば、強い台風が弱い台風を“吸収合併”したり、いっぽうの台風をもういっぽうの台風が追いかけたり、また、いっぽうの台風が移動していくまでもういっぽうの台風が出番待ちをしたりすることもあります。

こうした、台風どうしのふしぎな動きは、「藤原の効果」とよばれるしくみで説明することができます。気象庁のホームページでは、「藤原の効果」をつぎのように説明していmす。

「2つ以上の台風が接近して存在する場合に、台風がそれらの中間のある点のまわりで相対的に低気圧性の回転運動をすること」

つまり、台風と台風のあいだのあるところを中心に、そのまわりをそれぞれの台風がぐるぐると回りだすというわけです。その動きのなかで、上にあげたような、さまざまなふるまいをします。

この効果は、日本の気象学者だった藤原咲平(1884-1950)が提唱した効果であるため、そうよばれています。

1960年8月23日から24日にかけては、5個の台風が発生していました。この年のローマ五輪にちなんで「五輪台風」とよばれ人々を心配させました。しかし、台風どうしが水分を奪いあったため、結局どれもあまり発達しなかったといいます。

複雑系のなかで、台風はまさに生きもののようなふるまいをします。

参考ホームページ
気象庁「気圧配置 台風に関する用語」
| - | 23:23 | comments(0) | trackbacks(0)
「チャレンジ制」にショウ的要素も
米国のプロ野球大リーグで、2014年度から「チャレンジ制」とよばれる制度がとりいれられる見通しになったと報じられています。

運動競技での「チャレンジ制」とは、審判の判定に選手や監督などが異議をもうしたてる制度のこと。チャレンジがおこなわれると、審判や記録員などが競技を記録しておいた映像を見かえします。そして、もういちど、あらためて判定をします。

大リーグの計画だと、「チャレンジ」することができるのは監督。試合開始から6回までに1回、7回から試合終了までに2回の異議もうしたてができるようになるということです。

大リーグが参考に使用としているのは、アメリカンフットボールのプロリーグNFL(National Football League)でのチャレンジ制度といいます。ヘッドコーチが審判の判定に異議もうしたてをしたいとき、赤い旗をフィールドに投げ入れます。これを受けて、審判団は映像を見かえして、あらためて判定をします。

異議もうしたてが認められて、チャレンジに成功すると、NFLでは戦術を考えたり選手を休ませたりできるタイムアウトをとる権利を1回、得ることができます。

2012年から、NFLでは、競技場の観客に対しても、大きなスクリーンなどで、対象のプレイの映像を見ることができるようになりました。

これには、「チャレンジ制度」のショウ的な要素もふくまれていると考えられます。アメリカンフットボールのほか、プロテニスでも選手が「チャレンジ」をすると、競技場の大きな画面に対象のプレイが映されて、球が線の内側に入っていたか、外側に出ていたかなどをつぶさに見ます。

観客からは「チャレンジ制度」は、どの競技でもおおむね好評のようです。より正しい判定が行われる機会が増えるようになる、ゲームが盛り上がる、といった理由が挙げられそうです。いっぽうで、「純粋な試合の内容こそが競技の見どころ」という理由から、「チャレンジ制」をおまけ扱いとみなしている観客もいるようです。

選手のほうは、決められた規則のなかで競技を行うことになりますが、「試合が進んでいるときの妨げになる」などと反対をする選手もいるようです。

参考記事
共同通信 2013年8月16日付「大リーグもビデオ判定拡大へ 来季から、チャレンジ制採用」
参考ホームページ
WOWOW「テニスの基礎知識」
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
船が鉄道に乗って“運河”をわたる
ペンシルベニアといえば、米国の東部の州。ニューヨーク州の西どなりにあり、ほぼ横長の四角いかたちをしています。

この四角いペンシルベニア州の、北西と南東のはしには、それぞれエリー湖と、デラウェア湾という水域があります。この対角線は直線距離にしても600キロ。じつはこの二つの水域を“運河”でむすぼうとする計画が19世紀はじめにありました。そして実際に、この運河が使われていた時代がありました。

大西洋ともつながっているデラウェア湾のつけねには、州の大都市フェラデルフィアがあります。1800年からの10年間は合衆国の首都でもありました。いっぽうのエリー湖は、五大湖のひとつで、かつて一大工業地帯として栄えていました。

このふたつの地域を、船で行き来できるようにするため、ペンシルベニア州は1000万ドルという当時の巨額を投じるべく、「ペンシルベニア運河計画」を立てたのでした。

運河の水路はおおまかに、州南東部のフィラデルフィアから州の南側をずっと西へ進み、そのあとはひたすら北上して、州北西部のエリー湖へ抜けるといったものでした。

ペンシルベニア運河の全貌

とはいえ、ペンシルバニア州に、運河を掘りやすいような平坦な土地が広がっているわけではありません。その途中にはアレゲーニー山脈という山脈も立ちはだかっています。

州の担当者が考えだした計画は、いまの時代からするとかなり破天荒なものでした。“運河”にもかかわらず、陸路を多用することにしたのです。

その手段のひとつはインクライン。これはケーブルカーのようなもので、坂道にレールを敷き、船を台車に乗せて引きあげます。日本でも京都・蹴上などでかつて使われていたため、まだ法外なものとはいえません。

また、いよいよ山を越えなければならないというところでは、べつの手段としてトンネルも使われました。といっても、船が運河に浮いたままトンネルに突入していくのではありません。陸路で馬が船を引っぱっていき、トンネルをくぐるのです。

その後、船を陸で運ぶ手段として、馬に代わり鉄道が使われるようになりました。フィラデルフィアから西におよそ80キロ離れたコロンビアまで、また、州の中央のホリデーズバーグから西におよそ40キロ離れたジョンズタウンまで、それぞれ“運河鉄道”が走りました。

こうして、船をインクラインや鉄道に乗せては陸路を運び、運河があるところに到着すると船を下ろして運河を走りということを繰りかえして、船はデラウェア湾とエリー湖を行き来したのです。

しかし、この運河計画でも使われたように、当時は蒸気機関車による鉄道網が発達していたころ。船を鉄道に乗せて運ぶくらいならば、船に乗せるような荷物を鉄道で運べばよいではないかとなるのは必然です。

このため、ペンシルベニア運河は、完成した1840年から、わずか10年ほどで役目を終えてしまったといいます。そして1900年、つまりつぎの世紀を迎えないうちに、この運河は閉鎖となりました。

参考文献
参考ホームページ
wikipedia“Pennsylvania Canal”
| - | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0)
天然ダイヤより硬い人工ダイヤは“欠陥”だらけ
「欠陥がある」というと、ふつう、そのしくみは脆くなるものです。しかし、ときに「欠陥だらけ」であることが、そのしくみを、よりかたくすることがあるようです。

大阪大学大学院基礎工学研究科などは、(2013年)8月13日(火)、ある構造をした人工のダイヤモンドは、天然のダイヤモンドより硬度の高いということを立証したと発表しました。その人工ダイヤモンドの“ある構造”とは、“欠陥だらけ”というものです。

さまざまな鉱物のなかで、ダイヤモンドが硬いのは、原子のあいだにはたらく原子間結合力という力が強いからです。原子間結合力とは、原子と原子を結びつける力のこと。ダイヤモンドは炭素原子でできており、その炭素原子と炭素原子を結びつける“手”が、ぎっしり詰まっています。おびただしい手と手ががちがちにつながっているため、ダイヤモンドは硬いわけです。

ダイヤモンドには、天然で採れるものと、人工的につくりだすものがあります。天然のものを上回る硬さの人工ダイヤモンドは、実験的には見出されてきませんでした。

しかし、大阪大学などが開発した人工ダイヤモンドは、天然ダイヤモンドよりも硬度で上まわることがわかりました。

なぜ、開発した人工ダイヤモンドが天然ダイヤモンドよりも硬度で上まわるのか。そのかぎは「双晶」という欠陥構造にありました。

双晶とは、結晶が集まったときの状態のひとつ。物のある面に対して、原子の並びかたが対称的になっているとき、その状態を双晶とよびます。たとえば、図のような結晶の、PとP'、lとl'、xとx'は、たがいに双晶の関係にあるといえます。



結晶学の世界では、双晶もひとつの欠陥構造と見なされます。物の表面に穴ぼこが空いていたり、ひびが入っていたりするわけではありません。それでも欠陥は欠陥なのです。

ふつう、物に欠陥があると、原子間結合力は弱まります。つまり、脆くなるわけです。

しかし、大阪大学などが開発した人工ダイヤモンドについて、直径50マイクロメートル、奥行き5マイクロメートルほどのわずかな部分を鳴りひびかせて、音色を聞きとる測定法で高度を測ってみたところ、天然ダイヤモンドよりも原子間力が高まっていることがわかりました。

大阪大学は、「今回の発見は、さらに大きくバネ定数を向上させる欠陥構造の探索という新たな研究分野の起点となります」と話しています。

欠陥も、使いかたによっては物を強くするといえそうです。

参考記事
大阪大学2013年8月12日付「ダイヤモンドよりも強い原子間結合力を持つ物質」
参考ホームページ
コトバンク「双晶」
| - | 19:02 | comments(0) | trackbacks(0)
結合を緩めさせてガラス表面をなめらかに
レンズなどに使われるガラスは、きれいに磨かれれば磨かれるほど、その特徴を活かせることになります。そこで、ガラスを研磨することが大切になってきます。

ガラスの研磨は、おもに「酸化セリウム」という物質を使った研磨剤で行われています。量販店などでは、「油膜クリーナー」といった商品名で売られていますが、その主成分は酸化セリウムです。


セリウム(Materialscientistによる画像)

セリウムとは金属のひとつで、原子番号は58。原子番号が57から71までの物質は、物理的・化学的な性質がよくにていることから「ランタノイド」という元素群でまとめられることがあります。セリウムも、ランタノイドのひとつです。

このセリウムを酸化させた物質が、酸化セリウムです。

研磨というと、台所のステンレスを、クレンザーとたわしでごしごしとこすって油汚れをこそぎ落とす、といったことを思いうかべる人は多いでしょう。

しかし、レンズに使われるようなガラスを、ごしごしと磨くとガラスの表面に傷がついてしまい、かえって透明度が落ちてしまいかねません。そこで、酸化セリウムの出番となるわけです。

酸化セリウムでガラスを研磨します。すると、ガラスの表面が削られるほかに、酸化セリウムとガラスのあいだに化学的反応が起きてガラス表面の凹凸がなだらかになるのです。

ガラスの成分は酸化シリコン(SiO2)。研磨剤は酸化セリウム(CeO2)。シリコンとセリウムの電子状態はよくにています。そこで、ガラスのほうの酸化シリコンに、研磨剤のほうのセリウム元素が入っていき、シリコンとセリウムが置きかわります。この現象は、置換とよばれます。

ガラスをつくる酸化シリコンでは、ふつう、シリコンと酸素がそれぞれもっている電子を融通しあって、「Si-O-Si」というかたちで結合しています。ここで、セリウムが置換されると、「Ce-O-Si」のかたちの結合になります。

しかし、「Si-O-Si」のときの結びつきにくらべれば、「Ce-O-Si」の結びつきは緩いものになります。そこで、Ce-O-Siで結ばれていた元素たちが「ほぐれていこうぜ」「解散、解散」と離れていきます。

このような化学反応が起きる結果、ガラスの表面から凹凸がすくなくなり、より滑らかになるといいます。

ガラスの研磨では、酸化セリウムがガラス表面を削るはたらきよりも、酸化セリウムがガラス表面を化学反応で滑らかにするはたらきのほうが、より効果として大きいといわれています。

参考ホームページ
塙健三「酸化セリウム系研磨材」
www.toishi.info「酸化セリウム研磨剤はなぜガラス研磨に使われるのか」
| - | 23:59 | comments(1) | trackbacks(0)
「タイ」でなく「新」で盛りあがる風潮あり
プロ野球の東北楽天ゴールデンイーグルスの星野仙一監督は、ことし2013年5月に、監督として1000勝を上げました。しかし、球団関係者は、星野監督の「仙一」という名にちなんで、1001勝を上げたときのほうが盛大に祝ったほうがよいのではと、迷ったと伝えられています。

「1000勝か1001勝か問題」は、星野監督特有のものです。いっぽう、これよりはるかに高い頻度で起きるのが「タイ記録か新記録か問題」でしょう。

タイ記録とは、これまでの最高の記録とおなじ記録のことをいいます。いっぽう、新記録はこれまでの最高の記録をやぶってつくられる記録のことをいいます。

一度の試合での記録を競いあう陸上競技や競泳などでは、タイ記録が生まれるより新記録が生まれることのほうが多いでしょう。

たとえば、男子マラソンの世界記録は2011年のベルリンマラソンでケニアのパトリック・マカウ選手が出した2時間3分38秒。タイ記録が出るのは、マカウ選手またはほかの選手が、おなじ2時間3分38秒で走ったときのみです。いっぽう、新記録が出るのは、2時間3分37秒より短い時間で走ったとき。つまり、2時間3分37秒でも、2時間3分36秒でも、おもいきりがんばって2時間ちょうでもよいわけです。

しかし、記録が生まれかたには、マラソンのような場合とはべつに、積みかさねによるものもあります。

たとえば、2004年に当時シアトルマリナーズにいたイチロー選手が、シーズンの最多安打記録をつくったときは、1回裏にまず257安打目を打ちました。これで、1920年にジョージ・シスラー選手がつくった最多安打記録にならびました。つまり、タイ記録達成です。

その後、おなじ試合の3回裏に258安打目を打ちました。これで、文字どおり“前人未到”の新記録を達成したわけです。

タイ記録も、新記録も、その部門での最高記録です。最多安打のような積みかさね型で記録を達成した場合、観客の印象に残るのは、まちがいなく新記録のほうでしょう。新記録は、その直前に本人が達成したタイ記録をも上まわるからです。

では、タイ記録を達成した瞬間と、新記録を達成した瞬間の盛りあがりぶりは、どちらのほうが高いのでしょう。

どちらも最高記録であるということからすれば、タイ記録達成でも新記録達成でも、観客はどちらも最高のできごとに立ち会えたわけです。それからすれば、どちらの記録達成の瞬間も、おなじ盛りあがりとなってもよさそうです。

しかし、とかく人は「ほかにだれも達していない最高記録に達する」ことに重きをおきがちかもしれません。自分自身の記録でなくてもそうです。そのため、新記録達成の瞬間を見るほうが、すきっとすると感じる人は多そうです。

いっぽうで、タイ記録達成の瞬間を目撃した人は「最高記録をもっている人が2人以上いる」という状況はまれなことなのですから。そして、タイ記録達成を経験した本人も「最高記録を自分以外の人とわかちあう」ことができます。このような状況によろこびを感じることもできそうです。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
連絡方法の気づかいから「五月雨式」


連絡をつぎつぎとしていくようすを「五月雨式」と表現することがあります。とくに、メールで何度も連絡をするとき「五月雨式の連絡となり、申しわけありません」などとあいさつの文を入れてから、本題の連絡をすることがあります。

「五月雨」とは、旧暦の5月ごろに降りつづく雨のこと。五月雨の降りかたから、物事がきまりなく長くつづくことを、人は「五月雨式」とよぶようになったようです。

いっぽうで、「式」ということばに注目してみると、このことばは「何々式」といった具合に、接尾語ように使われます。いろいろと考えられる方法のなかでの「この方法」を指すとき「何々式」と表現します。

たとえば、日本風のやりかたであれば「和式」と言い、西洋風のやりかたであれば「洋式」というわけです。

すると、「五月雨式」も、いろいろと考えられる方法のなかで、とりわけ「物事をきまりなく長くつづける方法」を指すときの方法を表現するものと考えることができます。

注目すべきは、それにもかかわらず、連絡の方法として「五月雨式」のほかに、あまり「何々式」という表現を使うことがないということです。

天気のようすを示す表現で揃えるのであれば、一回のメールで一気に連絡すべきことをすべて伝えようとする方法は「集中豪雨式」となるかもしれません。「集中豪雨式の連絡となりますが、すべてお読みいただければと思います」のように。

あるいは、「あの件どうですか」くらいの短い文で、相手に連絡をぽそっとするようであれば、「にわか雨式」や「おしめり式」といったことになるでしょうか。

連絡の方法について「集中豪雨式」や「にわか雨式」という表現をあまりしないのは、わざわざその連絡の方法に触れるまでもないからなのでしょう。

いっぽう、人びとが「五月雨式」の連絡の方法について触れるのは、くりかえし連絡を重ねることに、どこか済まない気もちがあり、触れておいたほうがよいと判断するからでしょう。

そして、その連絡の方法を表現するとき、人は「五月雨式」ということばを選りこのんで使うわけです。「マシンガン式」ではなにかちがうし殺伐的だし、「連発式」ではやや直接的。「五月雨式」は、ふわりとした語感をもっていて、使ってもそれほど強い印象を相手にあたえることはありません。
| - | 23:59 | comments(1) | trackbacks(0)
風の音にかすかな秋を感じる


日本列島はほぼすべての地域でたいへんな暑さになっています。しかし、気づけば、暦のうえでは立秋。立秋は二十四節気のひとつで、2013年は8月7日。この日から「秋が立つ」とされています。

暑いなかでも、わずかながら秋が立つのを感じられることがあります。

平安時代の歌人だった藤原敏行(生年未詳〜907)は“秋立つ日”に、つぎの歌をのこしました。古今和歌集に収められています。

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」

昔もいまとおなじように、暦のうえでは秋といっても、まだまだ「秋が来た」(秋来ぬ)とは視覚的にははっきりとは見えなかったのでしょう。

しかし、藤原敏行は五感のうち聴覚で秋の訪れをかすかに感じとったのでした。その風は熱かったかもしれません、しかし、その風にはっきりとした音を感じ、そこに秋の訪れを感じとったのでした。

温かい海の蒸気をふくんで勢力を強めている太平洋高気圧も、いつまでもその勢いのままでいるわけではありません。勢いの陰りのすきまには、大陸からの乾いた空気をふくむ移動性高気圧が入りこんできます。

これからの時期、風に、雲に、そして虫の鳴き声に、すこしずつ秋を感じていくことになります。

参考資料
「いにしえの心 藤原敏行『古今和歌集』」『サイエンスウィンドウ』2008年8月号
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
雪の科学者「アメリカの婦人生活」を伝える


物理学者の中谷宇吉郎(1900-1962)は、雪や氷を研究対象とする雪氷学の第一人者でした。中谷の「雪は天から送られた手紙である」ということばは、いまでもよく知られています。

しかし、この「雪は天から送られた手紙」ということばだけが知られすぎていて、中谷が生前ほかにどのようなことを述べてきたのかは、いまとなってはそれほど知られていません。

中谷の師匠は、物理学者で随筆家の寺田寅彦(1878-1935)です。随筆家としての寺田の影響も受けたのでしょうか、中谷もさまざまな随筆を残しています。科学雑誌への寄稿もさることながら、岩波書店の『世界』、文藝春秋社の『文藝春秋』、新潮社の『新潮』、ダイヤモンド社の『ダイヤモンド』といった、いまもつづく総合誌や経済誌への寄稿も多くみられます。

なかでも中谷は米国を主題とする寄稿を数多くしています。「空から見たアメリカ案内」「アメリカの仏教」「アメリカの開発方式」などなど。

1950年には、中央公論新社の『婦人公論』に、「アメリカの婦人生活」という記事を出しています。これは、国際雪氷協会の招きで米国、カナダ、アラスカを訪れたときの見聞を書いたものです。

日本では旦那が働いているあいだ夫人が家をまもるのがあたりまえだった時代、中谷は米国の多くの夫人が職をもって働いていることに驚き、こう述べています。

「かなり高級の暮しをしている人たちでも、たいていは共稼ぎの生活をしている。たとえば有名な大學の相當な地位にある教授の夫人とか、役人でいえば、局長級の夫人とかいう人でも、外に自分の職をもつている人が多いくらいである」

雪氷学者である中谷の眼は、米国の一般家庭の冷蔵庫にも向けられます。

「家庭の冷蔵庫は、内部は二區分になつている。廣いところは、あまり低い温度ではなく、保存用の食品を入れておく。野菜などはたいてい大きい鉢に盛つて出し、皆が自分で欲しいだけとる。それで場合によつては、ずいぶん餘ることがある。そういう時には汁をたつぷり殘したまま、冷蔵庫にいれておくと、次の食事までには、汁が凍っていあにので、またすぐ食べられる。その程度の低温なのである。そのほかに、この冷蔵庫の中には、さらにかなり低温になる箱がある。その中に、これらの冷凍食品を入れておいて、一食分ずつ出して料理する」

いまではあたりまえとなっている冷凍・冷蔵庫も、こう綴るようにものめずらしかったのでしょう。

ものが豊かな米国では、当時の日本人からすれば“もったいない”と思えるような生活が送られていました。現地の女性が、穴の空いたストッキングをすぐに捨てるようすを見て、中谷はこう記しています。

「ストッキングでも一寸孔があくと、棄ててしまう。そのつくろいをする時間だけ働けば、新しいストッキングが買えるからである。日本人の眼から見ると、ずいぶんもつたいない話であるが、こういう浪費は、國全體としてみても、浪費にはならないようである。というのは、その時間だけ外で働けば、新しいストッキングが買えるというのは、それ以上に生産に間接的に寄輿しているからである」

そして、中谷は、「資源の方が、ほとんど無限にあつて、働きさえすれば、いくらでも生産が出来るという國では、たしかにこういう哲學が成り立つのである」と記しています。

米国と日本の生活ぶりは根本的にちがう……。米国の人びとの豊かな暮らしぶりを見て、思うところはさまざまあったのでしょう。日本人が米国に足を踏みいれることそのものがまだめったになかった、六十余年前の時代の話です。

参考文献
中谷宇吉郎「アメリカの婦人生活」『婦人公論』1950年1月号
| - | 18:06 | comments(0) | trackbacks(0)
知らない人と至近距離で並走する


このブログで以前、「知らない人と横どなりを歩きつづける」という記事がありました。人が歩道を歩いていると、たまに“他人とおなじ速度で横どなりを歩きつづける”状況が起きるという話です。

「他人とおなじ速度で」という状況には、さらに“発展版”といえるものがあります。

つまり、「知らない人とすぐ近くを走りつづける」という状況が起きることもあります。ほんとうにめったに起きるものではありませんが。

たとえば、21時に閉店してしまうスーパーマーケットに、どうにか駆けこんで買いものをしたいと思っている人が、たまたま二人いるとします。この二人とも、たまたま、おなじ電車に乗っておなじ駅に降りたところです。

閉店まではあと10分。駅からスーパーマーケットまでの距離は500メートル。そして、駅からスーパーマーケットまでの道は一本のみ。

この二人とも、急いでいるときには走ることを常としていれば、スーパーマーケットまでの道のりを並走することになります。

その並走ぶりは、「太陽にほえろ!」で刑事が犯人を追うときのように、5メートルぐらいの間隔で、一人が一人のあとを走るというものになるかもしれません。

あるいは、マラソンの宗兄弟のように、2メートルぐらいの間隔で、ほぼぴたりと並走するというものになるかもしれません。

さすがに、二人が真横に並んでスーパーマーケットまでの道を走りつづけるということはありますまい。そこまで極端な状況になれば、どちらかが走るのをやめるなどして、距離感のコミュニケーションをとるでしょうから。

いっぽうで、道にはふつうに歩いている人もいます。そのような人からすれば、この二人の並走状態は、かなりの驚きをもって受けとめられそうです。街なかで二人が必死に並走しているという状況自体があまり起こらないからです。運動着の二人でなく、たとえばスーツ姿の二人とか、サンダル履きの二人とかになればなおさらのこと。

人びとがいっせいに並走してなにかを求めるのには、短距離走やマラソン、はたまた西宮神社の戎さんなどがあります。

しかし、これらはいずれも、人びとが一斉に走る状況が用意されたうえでのもの。対して、街なかでの並走状態は用意されたものではありません。

それでも、二人とも走らなければならない状況に置かれているときは、並走も起きうるわけです。
| - | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0)
鳥に負けずガラスに激突


飛んでいる鳥が、たてもののガラス窓に衝突することがあります。ガラスに緑の木々などが写りこんでいると、そのガラス窓をたてものの一部とは認識できず、そのままの勢いでぶつかってしまうようです。

鳥がガラス窓に衝突するのを防ぐには、人が鳥たちに「ここには窓があるんだからね」と示してあげることが大切になります。そこで、人は「バードセイバー」という、鷹やふくろうの影のようなかたちをしたシールを窓にはることも。これで、鳥は、そこにあるのは風景ではないということに気づくようです。

「ガラス窓があることを認識できないとは、鳥とはなんと手間のかかるやつだ」などと思っている人がもしいたら、小さな自己反省が求められるかもしれません。人でも、似たようなことは起きていたからです。

1872(明治5)年、鉄道が品川と横浜(いまの桜木町)のあいだで仮開業しました。この当時、まだ日本では窓ガラスの存在はめずらしいものでした。国内には、ガラスを量産できるような施設はひとつもなかったといいます。

鉄道に乗った客は、そわそわとおにぎりを食べながら窓の外をおもむろに眺めると、船の帆が見えたといいます。客は、とっさにその船のある海のほうに体を乗りだそうとしました。

「バリーン!」

その客は、窓ガラスに激突してしまいました。ガラスは割れ、この客もけがを負ってしまったということです。

こうした事故があとをたたなかったのでしょう。ついに「ガラスに衝突しない方法」の募集がおこなわれたといいます。

そして、採用されたのが、「窓ガラスに白線を引く」という案でした。実際、客車の窓ガラスに白線が引かれてある車両が、さいたま市の交通科学博物館には展示されてあります。

鏡のような効果か、透明の効果かのちがいはありますが、鳥とおなじく人のからだも初めてガラス窓という概念に触れるときは傷ついたのです。

参考ホームページ
交通科学博物館「窓に白線」
| - | 22:40 | comments(0) | trackbacks(0)
赤信号、運転手が夏の技を発揮


真夏の都会。交差点でのある光景です。

車道の信号が赤になりました。ふつう、車は停止線の手前まできて、そこで信号が青になるのを待ちます。

ところが、あるタクシーはちがいました。停止線よりはるか手前、車3台分ほどを前に空けて止まったのです。前にも後ろにも車はなく、そのタクシーだけが車道でぽつねんと止まっています。

車道の途中で故障でもしたのでしょうか。それともガス欠でも起こしたのでしょうか。そうであれば、ハザードランプをつけないと危険です。

しかし、そのタクシーはハザードランプをつけていません。そして、車のなかの運転手は、あわてたそぶりも見せず、いたってふつうに信号が青になるのを待っています。

そうこうするうちに信号が赤から青に。このタクシーは、なにごともなかったかのように走りだし、交差点の向こうへ行ってしまいました。

この交差点は、夏の日差しに照らされています。いっぽう、交差点から車3台前分手前の、タクシーが信号待ちをしていたところは、建物の影にかくれて日が照っていません。

歩行者が交差点で信号待ちをしているとき、たてものの影にかくれて暑さから逃れます。それとおなじように、このタクシーの運転手も、たてものの影にかくれて、暑さから逃れていたというわけです。

この場所をはじめて通りかかるような車の運転手であれば、後ろに車がつづくことを心配して、なかなかできない技です。この時間帯は交通量もすくない。だったら、日影で信号が青になるまで待とう。道に慣れたタクシーの運転手の夏場の技です。
| - | 23:45 | comments(0) | trackbacks(0)
(2013年)9月5日(木)6日(金)は「藻類バイオマス国際シンポジウム」


催しものの案内です。

(2013年)9月5日(木)と6日(金)の二日間、東京・日本橋室町の野村コンファレンスプラザ日本橋で「藻類バイオマス国際シンポジウム」が開かれます。

このシンポジウムは、藻類産業創成コンソーシアム、筑波大学、つくばグローバル・イノベーション推進機構、つくば3Eフォーラムという四つの団体が主催するもの。藻類産業創成コンソーシアムは、筑波大学などの藻類研究者や、デンソー、巴工業、出光興産などの企業が発起して立ちあげた団体です。藻類産業の早期確立を目指しています。

藻類というのは、水中で生活し、無機物から有機物をつくりだす葉状植物を総称したもの。身近なものでは、若布や昆布なども藻類に入ります。

シンポウジウムのスローガンに掲げられているのは「藻類産業を育てる!」。たしかに若布や昆布は食べものとして食べられているので、産業としてなりたっているといえそうです。しかし、藻類全体を見てみると、その多くは産業応用への道のなかばにあります。

たとえば、世の中ではバイオマスエネルギーが注目されています。バイオマスエネルギーとは生物からつくられるエネルギーのこと。バイオマスエネルギーを生みだすのが藻類です。たとえば、ボトリオコッカスという緑藻は、光合成をして炭化水素というバイオマスエネルギーをつくりだします。こうした藻類のエネルギー利用を、産業として成りたつ水準にまで引きあげることが期待されているのです。

シンポウジウムでは、日本と米国の政府関係者や企業が招かれています。

セッション1では「藻類バイオマス利用の政策」というテーマで日米政府が計九つの基調講演をします。 

セッション2では、「学術会の最新研究発表」として、米国カリフォルニア大学、オーストラリア、フランス、日本の研究機関が六つの講演します。

そしてセッション3では、「産業界からの藻類ビジネスの現状」として、ソラザイム社などの米国企業、それに日本の企業などが六つの講演をします。

産学官の代表的立場による講演などをとおして、藻類の産業利用への大きな道筋や、日本が抱えている課題などがより明らかに見えてくることでしょう。

「藻類バイオマス国際シンポジウム」は9月5日(木)と6日(金)、東京・日本橋室町の野村コンファレンスプラザ日本橋にて。参加費が必要で、一般参加の場合は5万円。藻類産業創成コンソーシアムの会員は1万円ということです。

藻類産業創成コンソーシアムによるお知らせはこちらです。
| - | 23:36 | comments(0) | trackbacks(0)
書評『IBM奇跡の“ワトソン”プロジェクト』
この本での舞台になるクイズ番組『ジョパディ!』は、日本ではあまり知られていません。『ジョパディ!』を知らない方は、ユーチューブなどで『ジョパディ!』を見たり、本の最後での訳者の解説「クイズ番組『ジョパディ』について」を読んでから、本編を読みはじめると、より内容をおもしろく感じられるでしょう。


クイズ番組の解答席は3席。うち2席には歴代王者が座る。もう1席に座るのはコンピュータだ。勝つのは人間か、それとも……。

2011年2月、米国の人気クイズ番組『ジョパディ!』で、実際にこのような対戦が行われた。コンピュータの解答者は、IBM基礎研究所が開発した質問応答システム「ワトソン」だ。

このクイズ番組では、「眺望または見解を表す四文字の言葉です」といった文章が司会者に読まれる。読まれた直後から解答者はボタンを早押しすることができ、先にボタンを押せた解答者に解答権があたえられる。この文章に対しては「View」と答えればよい。

本番では、人間の歴代王者2人を押さえこむように、ワトソンがつぎつぎと解答してていく。ときには「終わりを表すラテン語で、同時に列車が出発する場所」という文章に対して「finis」と誤答するような場面も見られた(正解は「terminus」)。だが、おおむね快調に早押しを制し、正解を積み重ねていく。

そして、正解で得られる獲得金額は最後まで人間の解答者を上回った。ワトソンは勝利した。

IBMには、技術的な困難をともなう目標を立てて挑む「グランド・チャレンジ」という特別プロジェクトがある。過去には、1997年にチェスの世界王者ガルリ・カスパロフを、チェスコンピュータ「ディープブルー」が破ったことで知られている。

この「“ワトソン”プロジェクト」もグランドチャレンジのひとつ。あたえられた文章がなにを意味しているかを導きだすのは、現在のコンピュータにとってはたいへんな作業だ。文章を解析し、情報源のデータから答の候補を列挙し、その答が正解であることの根拠も探しださなければならない。そして、確信度の計算をしてもっとも確信度の高いものを答とする。どんな文章が出てくるかまったくわからない状況で、この過程をわずか4、5秒のうちに行わなければならない。

本のなかでは、さまざまな“対立軸”が示される。

まず、クイズにおけるワトソンと人間の解答のしかたのちがいがある。文章が画面に示され、司会者が文章を読みあげるまでに、人間の解答者は知識や直感を駆使して正解を導きだす。いっぽう、ワトソンにも知識はある。5年にわたって人間によりインプットされてきた情報が知識だ。だが、直感はない。その代わりにあるのは答の候補のうちどれが、もっとも正解らしいかを確率的に求める計算だ。

ワトソンを開発するIBMとクイズ番組を制作するソニー・ピクチャーズテレビジョンの間での事前交渉も詳細に描かれる。技術の高さを示したいIBMに対して、クイズ番組としてのエンタテインメント性を高めたいソニー・ピクチャーズ側の思惑が対立する。人間の解答者とおなじく“指”を付けほしいといった条件を突きつけられ、IBM側は葛藤する。

人工知能を開発するIBMとほかのグーグルなどの情報技術企業の開発の進めかたなども対比される。たとえば、自動翻訳の技術開発でも、その言語の専門家を関わらせるか、言語の専門家を関わらせずすべて数字で計算させるか、といったちがいがある。

より大きな対立軸は、機械と人間というものだ。著者は、作家サミュエル・バトラーが19世紀にすでに「われわれはやがて彼ら(機械)の前に劣等種となっていく」と懸念していたことを引きあいに出す。だが、たとえ機械の知が人間の知より優れているとしても、優れた機械の知を使うのは人間のほうだ。いまのところは。著者は「悪いことばかりではない」と楽観的にしめくくる。

クイズ番組で人間の王者を倒すという、じつに具体的な“ワトソン”プロジェクトを通じて、読者は人と機械のこれからの関わりかたを考えていくことになる。

『IBM奇跡の“ワトソン”プロジェクト』はこちらでどうぞ。
| - | 11:30 | comments(0) | trackbacks(0)
知らないうちにデジタル化に貢献


自分の知らないあいだに、自分があるとりくみに貢献している、ということがあります。

インターネットで、制限のかかったサイトなどへ進もうとするとき、うねうねした字でできた文字列の画像がふたつ並んで示されることがあります。利用者は、その画像に示されているふたつの文字列をそれぞれ打ちこむことを求められます。

これには、ふたつの目的があります。

ひとつめは、制限のかかったサイトに進もうとしているのは、コンピュータでなく人であることを識別するための目的です。

画面に示されるうねうね文字は、人が見ても“g”か“q”かがわかりづらかったりするもの。このうねうね文字列のどちらかは、エンジンとよばれるコンピュータ情報処理技術では読みとることのできないものです。

もうひとつは、読みづらい紙の文字を、利用者に読みとらせるための目的です。

たとえば、画面に「ssyligh」という文字列と「currents」が出てきたとします。「currents」のほうは利用者にとっても読みとるのはかんたんです。しかし、「ssyligh」のほうはすこし考えなければ読みとれません。

ここで、かんたんなほうの「currents」の文字列画像に対して利用者が「currents」と打ちこめば、その利用者は読みとり力がある人と見なされ、むずかしいほうの「ssyligh」の文字列画像に対して打ちこんだものも「正解」と仮定されます。

むずかしいほうの「ssyligh」の文字列画像を示されるのは、おそらく世界のなかで一人だけではありません。世界のどこかにいる複数の利用者が「ssyligh」の文字列画像を示されます。その利用者たちが、いずれも「ssyligh」と打ちこんだとすれば、この文字列画像に示されている文字列は「ssyligh」でオーケーということになります。

じつは、これらの文字列画像は、過去のニューヨーク・タイムズや書籍などの紙媒体からコンピュータがとりこんだ文字列です。

ニューヨーク・タイムズやグーグルなどは、これら紙媒体に記されてある記述をコンピュータで読みとって、デジタル化しようとしています。しかし、むずかしいほうの文字列画像は、鮮明でないなどして読みとれなかった文字が含まれています。

そこで、複数のインターネット利用者に、こうした文字列画像を示して、打ちこんでもらうことで、正確らしい文字を決めていくのです。

このシステムは、「リキャプチャ」(reCAPTHA)とよばれるもの。米国カーネギー・メロン大学の計算機科学者ルイス・フォン・アーンが考えつきました。

リキャプチャのしくみを知っているインターネット利用者は、リキャプチャを前にして自分がしていることの意味を認識することができます。いっぽう、リキャプチャのしくみを知らないインターネット利用者は、自分がしていることの意味のすべて認識することはなしに、紙媒体情報のデジタル化にきょうも貢献しているわけです。

参考ホームページ
ウィキペディア「reCAPTCHA」
| - | 19:36 | comments(0) | trackbacks(0)
「『激辛』世界一を目指さないのにはワケがある」


日本ビジネスプレスのウェブニュース「JBpress」で、きょう(2013年)8月2日(金)「『激辛』世界一を目指さないのにはワケがある 唐辛子から見る日本ピリカラ論(後篇)」という記事が配信されました。記事の取材と執筆をしました。

長野県南箕輪村の信州大学大学院農学研究科には、機能性食品育種学講座があります。この講座の准教授の松島憲一さんは、唐辛子を研究対象のひとつとしています。とうがらしを科学、文化、産業と、さまざまな点から調べているようすは、「とうがらし博士」といってもよいでしょう。

唐辛子が日本をふくむ世界に広まったのは、万人があの辛さを好んだからでしょう。しかし、そもそもなぜ、唐辛子はそのような辛さをもっているのでしょう。

取材で、松島さんが紹介したのは、ふたつの説です。ひとつの説は、唐辛子を腐らせるフザリウムという菌を寄せつけないようにするため、というもの。このブログで「唐辛子の辛さは天敵の細菌対策」としてとりあげました。

いっぽう、もうひとつ、科学雑誌『ネイチャー』に載ったほどの有力な説があることを松島さんは紹介しています。

「唐辛子の種子は、ネズミに食べられると、糞からの発芽率が悪くなります。かつネズミの行動範囲も広くないので、種子を広めるという点では“食べられ損”となります。一方、鳥に食べられると、糞からの発芽率は高い。それに種子を飛んで遠くまで運んでくれます。カプサイシンの辛さは、ネズミなどの哺乳類には感じられますが、鳥にはあまり感じられません。鳥に食べてもらう一方、哺乳類には食べられないように、辛さを進化させていったというのがこの説です」

これは、自然誌研究者ジョシュア・テュウスクベリーと農業生態学者ゲーリー・ナブハンが共同研究で導きだした説。

唐辛子も生存競争のなかを生きぬいてきた植物です。自分たちの遺伝子をより広めるには、ネズミに食べられては困るが、鳥に食べられることはおおいにけっこうなこと。であれば、ネズミは感じて嫌がるけれど、鳥は感じないような辛さを発揮すればよいことになります。こうして、カプサイシンなどの辛さの成分を発揮するように進化していったのではないかということです。

ネズミという哺乳類は唐辛子を嫌がりました。しかし、人という哺乳類は唐辛子を嫌がるどころか好んで食べました。人にこれほど食べられてしまうことは、唐辛子の戦略には含まれていなかったかもしれません。

食べられるとともに、人がこれほどまで唐辛子を育てて、広めたことは、唐辛子の生存にとってはよいことだったともいえそうです。唐辛子はいまや人を味方につけたわけです。

記事では、松島さんが手がけた唐辛子の品種改良の話や、長野県産の唐辛子を発展させるための産学連携の話、さらに記事の題にあるように松島さんが激辛唐辛子の開発を目指さない理由の話なども紹介しています。

「『激辛』世界一を目指さないのにはワケがある 唐辛子から見る日本ピリカラ論(後篇)」はこちらです。
日本人と唐辛子の歴史を追った前篇「日本に“激辛”料理が生まれなかった理由」はこちらです。
| - | 23:10 | comments(0) | trackbacks(0)
CALENDAR
S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< August 2013 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで (JUGEMレビュー »)
サイモン シン, Simon Singh, 青木 薫
数学の大難問「フェルマーの最終定理」が世に出されてから解決にいたるまでの350年。数々の数学者の激闘を追ったノンフィクション。
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
amazon.co.jp
Billboard by Google
モバイル
qrcode
PROFILE