科学技術のアネクドート

永田徳本からトクホン
人の名前を、商品の名前や会社の名前にすることがあります。ファストフード店のマクドナルドは、創業者マック・マクドナルドとディック・マクドナルドのマクドナルド兄弟からくるもの。本屋のTSUTAYAは、江戸時代の版元である蔦屋重三郎の名字にちなんでいます。

トクホンは、どうでしょう。

トクホンは、1901(明治34)年に、鈴木由太郎が創った薬屋です。当時の店の名前は鈴木日本堂でした。1933年に、外用消炎鎮痛プラスター剤としてトクホンを売りだしました。そして、1989(平成元)年には、鈴木日本堂は会社の名前もトクホンにしています。

同社はホームページに、トクホンの名前の由来をこう書いています。

「トクホンの事業精神は、社名の由来ともなった、室町後期から江戸初期に活躍し、安価な治療で広く庶民に親しまれた放浪の医聖、『永田徳本』の『野にあって人を治す』の精神に遡ります」

トクホンも、人の名前から来ていたわけです。

永田徳本は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての医師です。永田徳本には、さまざまな伝説が残っています。三河で生まれましたが、甲斐に移り住んだとされます。甲斐の武将だった武田信虎と武田信玄の侍医であったともされ、さらに江戸幕府の第二代将軍だった徳川秀忠の病も治したといわれます。


おそらく、永田徳本

永田徳本は「甲斐の徳本、1服18文」と声をあげて薬を売ったといいます。また、どんな治療でも18文以上のお金を受けとることはなかったといいます。すると「甲斐のトクホン、1服18文」は「甲斐に住んでいる徳本といいますが、1服18文以下で売ることができます」という意味になるでしょうか。

治療のしかたには“攻め”の姿勢が見られたようです。当時の病気の治しかたは、病気の部分を温めるといった穏やかなものが主流だったといいます。しかし、永田徳本は、そうした消極的な方法を使わないで攻撃的な薬剤を活用したといわれています。

驚くべきは、永田徳本がたいへんな長寿だったかもしれないということです。室町時代の1513(永正10)年に生まれ、そして亡くなったのは江戸時代が始まってから27年になる1630(寛永7)年といいます。これが本当であれば、117歳か118歳まで生きていたことになります。

トクホン創業者の鈴木由太郎やトクホン関係者が、永田徳本の子孫であるという話はありません。しかし、なんのゆかりがなくとも、このような数々の伝説を残す魅力的な人物に対して、つい商品名や社名に「トクホン」の名をつけてしまいたくなるのもむりないことかもしれません。

参考ホームページ
トクホン「ご挨拶」
トクホン「沿革」
朝日日本歴史人物事典「永田徳本」
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ビジネス流行語大賞着実浸透部門があれば「共有させていただく」
 もし仮に「ビジネス流行語大賞」という賞があったとしたら、「着実浸透部門」にはどのような表現がノミネートされるでしょうか。

「共有させていただく」という表現は、有力候補のひとつになるかもしれません。昔から使われていた表現ではあるでしょうが、とくに近ごろ、いろいろな仕事現場で「共有させていただきます」が使われているようです。

たとえば、メールで添付ファイルを付けて「資料を共有させていただきます」などと使います。ビジネスの場面での「共有させていただく」をべつのことばで表現すれば、「送る」「渡す」「伝える」あたりになるでしょうか。

使い手にとって「共有させていただく」は便利な表現といえそうです。

まず、「送る」「渡す」「伝える」などより、一方的ではありません。「私から相手へ」という一方通行の動作の意味合いを減らすことができます。ほんとうは一方通行かもしれませんが。

さらに、連帯的な意識を芽生えさせうる意味合いが含まれています。「共有する」と表現する場合の主語は、「私たち」となります。

さらに、仕事をする人びとがこれまでも使っている「させていただく」を使うことができます。「共有させていただく」の場合、さらに幸せなことに、「体言+させていただく」でなりたっています。「お送りさせていただく」なのか「送らさせていただく」なのか、といった「用言+させていただく」を使うときの迷いが生まれません。単に「共有+させていただく」で済むのです。

こうした便利さがあるため、だれかが使っている「共有させていただく」を、つい本人も使ってしまう。こうして着実な浸透がなされているのでしょう。

「共有」とは、本来、ある同一のものを複数の人が共同でもつことをいいます。配布物や添付ファイルを「共有させていただく」というのが本来的な意味であるかどうかは、また微妙な問題です。
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「すばらしい人」と思いこんですばらしい人に――法則古今東西(20)


人が人から受ける評価や期待は、じつにさまざまです。ある人のことを、Aさんは“仕事のできるすばらしい方”と見ます。しかしおなじ人のことを、Bさんは“仕事のできないだめなやつ”と見ます。

その人のなにをどう見るかは人それぞれなので、このようにまるで逆の評価があたえられたとしても、ふしぎではありません。

では、ある人のことを“仕事のできるすばらしい方”と思いこんで接するのと、“仕事のできないだめなやつ”と思いこんで接するのでは、全体にとってどちらのほうがよいのでしょうか。

人は「あなたは仕事ができるすばらしい人だ」と言われたり思われたりしていれば、その気になってくるものです。認められて自信がつくわけです。いっぽう、「おまえは仕事のできないだめなやつだ」と言われたり思われたりされても、その人はその気になってくるものです。否定されてへこむわけです。

教育学の世界では、「教師期待効果」とよばれる心理的行動が話題になることがあるそうです。ある教師が、学校側から「この児童たちはハーバード式突発性学習能力予測テストを行った結果、これから成績が伸びてくると約束された子たちだ」と言われました。ほんとうは無作為に選ばれた児童たちにもかかわらず。

“ハーバード式突発性学習能力予測テスト”の結果を信じこんだ教師は、この“選ばれし”児童たちに「彼ら、彼女らは成績が伸びるんだ」という思いこみをもって接するようになりました。

数か月後、この“選ばれし”児童たちの成績はほんとうに伸びたといいます。

この教師期待効果に対しては、やりかたに問題があったなどとの批判もあります。鵜呑みにすることはできなさそうです。しかし、多くの人は経験的に「そのとおりだ」と感じるところがあるでしょう。

教師期待効果を期待するとすれば、“仕事のできるすばらしい方”と思いこんでいる人に対してはそのまま思いこみをつづけるとよいでしょう。

いっぽう、“仕事のできないだめなやつ”と思いこんでいる人に対してはその思いこみを即刻やめて、“仕事のできるすばらしい方”と思いこむようにするのがとるべき手となります。あとは自分をだましとおすことができるかどうかが課題となりそうですが。

参考ホームページ
人材マネジメント用語集「ピグマリオン効果」
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彗星の明るさや形の予測はむずかしい
ハッブル宇宙望遠鏡が2013年5月8日に捉えたアイソン彗星
NASA

天文学に予測の正確さが抜きん出ているという印象をもつ人は多いでしょう。「何年何月何日の何時何分に日食が起きる」とか「小惑星が地球に衝突する確率は0.00000000何パーセント」とか、厳密に計算がなされます。

しかし、天文学にも、それほど予測が正確につくわけではない分野があります。

彗星の予測はそのひとつです。

たしかに、彗星についても、いつごろ地球に接近しそうかといったことは、ほかの小惑星などとおなじく、計算することができます。

しかし、彗星が地球に近づくとき、どのくらい明るく見えるのか、また、彗星に特徴的な尾がどのようにみえるのか、といったことは本当に地球に近づいてから出なければなかなかわからないのだといいます。

彗星は、太陽から半径およそ1光年のところにあり、太陽系を囲んでいる「オールトの雲」という氷の微惑星の集まりか、または、オールトの雲より内側、太陽から0.0005光年のところにあり、同じく太陽系を囲んでいる「カイパーベルト」という場所でつくられるといわれています。

なぜ、彗星の明るさや形を予測するのがむずかしいのか。国立天文台はつぎのように説明しています。

「太陽に近づいた際に、どの程度明るくなるか、地球からどのように見えるかは、彗星本体のサイズや表面の状態、成分、さらに地球との位置関係によっても異なるため、正確な予測は難しいのです」

彗星は、おもに太陽の重力に引かれて太陽のすぐそばまでやってきます。そして、太陽のごく近くまで来ると、そこで太陽の重力により急激に向きを変えます。彗星が太陽にもっとも近づいたときの点のことを「近日点」といいます。じつは、彗星によっては、近日点あたりまでくると、分裂したり崩壊したりしてしまい、姿を消すこともあるといいます。

2013年11月29日(金)には、アイソン彗星という彗星が、近日点までやってきます。近日点あたりまでくると、あまりにも太陽に近すぎて観測することはできませんが、近日点を通過する前後には、大きな彗星の姿が観測されるかもしれないと考えられています。

しかし、このアイソン彗星についても、国立天文台は「近日点通過後の明るさや見え方の予想はたいへん難しいため、具体的にどのように見えるかは、実際に彗星が近づかないことには分からないでしょう」としています。

“期待のしすぎでがっかり”といったことに対して、予防線を張っているようでもあります。

参考ホームページ
国立天文台「彗星についての一般的な解説」
国立天文台「アイソン彗星」
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東京で暮らす屋外猫の数はだいたい8万頭


街なかを歩いていると、猫と出くわします。たいてい街なかの猫は警戒心が強く、人と目が合うと一目散に逃げてしまいますが。

都市に住む多くの人は、野良猫と出くわしても、さほど「めずらしい」とは感じないでしょう。もちろん、会社や学校への行き帰りのとき猫を見ない日はあります。しかし、猫を見る日もあります。

人を街なかでかならず見るのに対して、猫のほうは街なかで見たり見なかったり。このことからすると、都会で暮らしている数は、人のほうが猫よりも多いことが考えられます。

飼育猫と野良猫をふくむ、屋外の猫はどのくらいいるのでしょう。

東京都福祉保険局は、「東京都における犬及び猫の飼育実態調査の概要」という報告書を公表しています。この報告書で、当局は東京都の「都市計画区域」といわれる地域における屋外猫の推定頭数も公表しています。

都市計画区域とは「市町村の中心市街地を含み、かつ、自然的社会的条件、人口・土地利用・交通量などの現況・推移を勘案して、一体の都市として総合的に、整備、開発保全する必要がある区域」のこと。人が住んでいるような地域と考えてよいでしょう。

東京都の職員が屋外猫さがしに長けていたとしても、すべての屋外猫を見つけられるわけではありません。そこで、屋外猫の頭数を推定していくことになります。

屋外猫を見つけるための調査の対象となるエリアがあります。そのエリアの面積(ヘクタール)から、見つけた屋外猫の頭数を割れば、1ヘクタールあたりに見つけた屋外猫の数を求められます。

たとえば、調査エリアが10ヘクタールであるのに対して、見つけた屋外猫の数が1匹だったとします。すると、1ヘクタールあたり、0.1匹の猫がいるという計算になります。

そして、この1ヘクタールあたりの見つかった頭数に、都市計画区域の面積(ヘクタール)を掛けます。これで、もし仮に、都市計画区域の全域にわたって屋外猫さがしをしたとしたら、何頭の屋外猫を見つけられるかがわかります。

しかし、屋外猫は、えてして人の見つからないところで暮らしているもの。そこで、「発見率」を加味しなければなりません。

たとえば、調査で屋外猫を10匹見つけたとしても、見つけられなかった猫も10匹いるとします。その場合、発見率は50%となります。

この調査報告書では、屋外猫の発見率に「0.43」という数値があたえられています。つまり、調査で43匹の野良猫を見つけたとしても、57匹は見つけられないということになります。

以上をまとめると、「調査で見つけた頭数」を「調査面積」で割り、「都市計画区域面積」を掛けて、さらに「発見率」を掛ければ、東京都の都市計画区域における屋外猫の推定頭数をもとめることができます。

報告書では、この計算の結果、屋外猫の推定頭数は、「7万8368頭」ということになりました。

東京都の人口は、およそ1327万7000人。東京都の都市計画区域の屋外猫の頭数は、7万8368頭。発見率などを考えず単純に計算すれば、169人の人間に出くわすのに対して、1匹の屋外猫に出くわすということになります。

東京都のみなさん、実感としては妥当なところでしょうか。

参考文献
東京都福祉保険局『東京都における犬及び猫の飼育実態調査の概要(平成23年度版)』
参考ホームページ
東京都「東京都の人口(推計)」
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大切な季節なので「夏向きの家」に

兼好法師こと吉田兼好(1283ごろ-1350ごろ)が、居住空間の設計を、冬向きでなく夏向きにすることを説いたことが知られています。随筆『徒然草』でこう書いています。

「家のつくりようは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり」

最後の「暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり」からすると、吉田兼好は暑がりだったのでしょうか。そうかもしれません。しかし、夏向きの設計をすることを説いたのは、暑がりだったからだけではありますまい。

いまとちがってガスも電気もない時代、家のつくりを夏向きにするか冬向きにするかは、人びとの切実な関心事だったことでしょう。

気象学者の倉嶋厚さんは、吉田兼好も推す「夏向きの家づくり」について、著書のなかで、その理由をみっつ加えています。

ひとつめは、夏のほうが大切にされていたからという理由です。

「農耕社会では夏は労働と生産の季節であるが、冬はほとんど無為の季節であった」といいます。大切な生産の季節にからだを壊してしまったら、その後、食べていくこともままなりません。夏を大切にする暮らしを考えれば、とうぜん、「夏向きの家づくり」をすべし、となります。

ふたつめは、暖めるほうがかんたんだったからという理由です。

「暖房の技術は、その効率・性能を問わなければ比較的容易であったのに対し、冷房や除湿の技術は近年までほとんど未発達であった」といいます。たしかに、火を焚くことは吉田兼好が生きていた時代、すでに発達していたことでしょう。しかし、夏に技術で冷やすことは至難の業。冷凍庫がない時代、夏場の氷は最高の食材でした。暖めるほうが、まだやりやすいのであれば、「夏向きの家づくり」をすべし、となります。

そしてみっつめは、気候が暖かかったからという理由です。

「関東以西の平野部の冬の寒さは『いかなるところも住まる』程度であった」といいます。ただし、吉田兼好が生きた鎌倉時代後半から室町時代初期にかけての日本の気候は、過去2000年間の平均気温からすると1度から2度ほど寒かったという説もあります。

いまの人からすると、「冬は寒いと凍え死ぬおそれがあるな」「でも夏も暑いと熱中症で死ぬおそれがあるな」「どっちで死ぬほうがまだましかな」といった議論になるのかもしれません。暖房も冷房もままならない昔にくらべれば、お気楽な議論かもしれませんが。

参考文献
北川浩之「屋久杉に刻み込まれた歴史時代の気候変動」『歴史と気候 講座 文明と環境』朝倉書店

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「モーゼ」と錯覚するくらいの“いいかげんさ”が大切


あるクイズ番組で、つぎのような問題が出ました。

「モーゼが方舟に乗せた動物の数はいくつだったでしょう」

これに対して、回答者は「200」「2」「1」などと答えました。しかし、いずれも正解ではなし。

正解は「0」でした。旧約聖書に出てくる、洪水に対して方舟をつくり、人や動物を乗せたのは、モーゼではありません。「ノアの方舟」で知られるノアです。

モーゼも旧約聖書に出てきますが、彼は神から十戒を授かり、それをイスラエルの民に伝えた人物。方舟関係者ではありません。

問題で「モーゼが」と言われているのに、つい「モーゼ」をノアのことと思いこんでしまう。このような錯覚を「モーゼの錯覚」といいます。「鬼退治に金太郎が連れていった動物は」という問われて、「猿、犬、きじ」と答えてしまうようなものです。

クイズの問題に答えるとき、人は脳から過去の記憶を引き出します。その引き出しが厳密なものでなく、なんとなくモーゼとノアが記憶の引きだしのなかでいっしょ詰めこまれていたり、なんとなく桃太郎と金太郎が記憶の引きだしのなかでいっしょに詰めこまれていたりするため、人はついひっかけ問題にひっかかってしまうのだと説明されています。

人の記憶の引き出しは、コンピュータとちがって厳密にはわかれてはいないのです。

しかし、この“いいかげん”であるという人の記憶の特徴は、いっぽうで人にとっては大きな利点にもなっているといいます。

たとえば、きのう会った友人が、きょう髪型をすこし変えて現れたとします。人は髪型がすこし変わっていたとしても、その人がきのう会った自分の友人であることぐらいは認識できます。

もし、記憶の引き出しが厳密でありすぎると、人は「きのう会った友人と、いま目の前で会っている人は、髪型がちがうから別の人」といったぐあいに認識してしまい、友人をつくれなくなってしまうかもしれません。

おなじように、すこし縦長に書いた「あ」という字と、すこし横長に書いた「あ」という字が、どちらも「あ」と読めるのも、人の記憶の引き出しがいいかげんだからです。

「モーゼの錯覚」を利用したひっかけ問題を出されて、ひっかかるようなよからぬことはたまにはあるけれど、人の記憶の“いいかげん”さは人が生きていくうえではよいことといえそうです。

参考文献
スティーヴン・ベイカー著 土屋政雄訳『IBM奇跡の“ワトソン”プロジェクト』
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“機械”になってその場をしのぐ

人がまるで機械になったかのようにふるまうことは、あまりよいものと思われません。そのふるまいは、まわりの人から「機械のように冷酷だ」「人間味がない」などといわれます。

しかし、時と場合によっては、まるで機械になったかのようにふるまうことが、かえって成功につながることもあります。まわりの人から「冷酷だ」などと思われずに。

通訳をしたことのある人は、こんなことを言います。

「専門用語が多く出てくると、自分でなにを訳しているのかわからなくなることがある。でも、そのとき自分は機械のようになって、逐語訳に徹するようにしているんだ。これで、その場をなんとか乗りきっているよ」

たとえば、外国の人が発した“Key Performance Indication”という用語を、通訳が聞いたとします。“Key Performance Indication”は、日本語では「重要業績評価指標」というきちんとした訳語があります。しかし、この通訳は「重要業績評価指標」という対応する日本語をしりません。そこで、そのときだけ機械のようになって“Key Performance Indication”をそのまま訳すというわけです。「鍵となるようなパフォーマンスの指標」といった具合に。

「重要業績評価指標」と「鍵となるようなパフォーマンスの指標」というふたつの訳語。きちんとしたことばか、きちんとはしていないことばかのちがいはあります。しかし、「鍵となるようなパフォーマンスの指標」でも意味はまあ通じなくはありません。

この通訳は、自分がこのときだけ、英語の単語それぞれをそのまま日本語に訳して並べるだけの機械になることによって、どうにかその場をしのぐというわけです。

その場だけまるで機械になったかのように行動をとることによって場をしのげる例は、ほかにもあります。

プレゼンテーションをすることになったとき、暗唱することができるまで丸暗記する人がいます。もちろん、発表のとき“自分の言葉”で話そうとすることは大切です。しかし、途中で頭がぼおっとしてきて、自分でなにを話しているのかわからなくなってしまうときもあります。そんなとき、自分がまるで機械になって暗記していたセリフを口から発しておけば、なにを言っているか自分でわからなくても、どうにかその場をしのぐことはできます。そして、それを聞いている人から、それほど違和感をもたれることもないでしょう。

自分の知らない専門用語が出てきたとき、日本語でなんと通訳するのかわからないことを正直に言うのも人間。そのときだけ機械になって直訳をしてしのぐのも人間。

自分でなにを話しているかわからなくなったとき、頭が真っ白になっていることを正直に言うのも人間。そのときだけ機械になって暗唱をしてしのぐのも人間。

みんな人間なのです。
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ザ・ドッグ・スターの由来はいずれも猟犬


欧州の人びとは、7月23日からの1か月間を「ドッグ・デイズ」(Dog Days)とよびます。

これは、おおいぬ座の主星シリウスが「ザ・ドッグ・スター」とよばれ、この時期に太陽とおなじ方向に現れるため。ザ・ドッグ・スターが現れるドッグ・デイズは猛暑になり、人も家畜も元気がなくなります。それはこのザ・ドッグ・スターのせいであるともいわれてきました。

おおいぬ座の“犬”をめぐっては、さまざまなギリシャ神話があります。

オーリーオーンという狩人が飼っていた、うさぎを追いかける猟犬であるという神話。ギリシャ神話に登場するアクタイオーンという狩人の猟犬であるという神話。曙の女神アウロラがケパロスという猟師にあたえた猟犬であり、この猟犬をゼウスが空に放りなげたために星座になったという話もあります。

いずれの話も共通するのは、この星座の“犬”が猟犬であるということです。

人はなぜ、犬を家畜化したのか。その大きな目的が、犬を猟りに連れていくというものでした。ラブラドール・レトリバー、ゴールデン・レトリバー、ビーグルなどは、かつて猟犬としての役割を担っていたのです。

犬の祖先は狼であるという説が有力になっています。そして、狼が犬になったのは、人が飼って家畜にしたあたりからとされています。狼は群れをなして集団生活する動物。そのDNAは犬にも引きつがれました。そして犬は、人との関係のなかでも集団生活を、人にしむけられたわけです。

おおいぬ座のザ・ドッグ・スターが、いずれも神話のなかでの猟犬であるというのも、人と犬との関係の歴史から考えると、当然のことといえそうです。

参考文献
秦千里「犬の性格はバラエティ豊か!」講談社『Rikejo』第22号
参考ホームページ
ウィキペディア「おおいぬ座」
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大都市を破壊するにはどうすればよいか研究


2011年に東日本巨大地震が起きてから、日本ではより一層、安全を保ち、災害を減らすにはどうすればよいかが世の課題になっています。

行政や企業などが、安全を保つにはどうすればよいかを考えます。しかし、安全のことを考えれば考えるほど安全からは遠ざかっていくという、矛盾めいた状況に陥るおそれがあるといいます。

「ここについては、こうすれば安全だ」「ここについては、こうすれば安全だ」。人はつぎつぎと安全に向けた対策をつくっていきます。「安全な話」ばかりが積みかさなっていくと、人はいつの日か「これでまちがいなく安全だ」と思い込むようになります。

ほんとうは根拠がないのに、「絶対に安全だ」という信じこむことを、安全神話などといいます。安全神話は、安全が崩れたときでしか、神話であることがあらわになりません。

部分的な安全を積みかさねて安全神話をつくるのではなく、根本的な安全を求めるにはどうすればよいのでしょうか。

関西大学社会安全学部教授で、内閣府の下に置かれている南海トラフ巨大地震対策検討ワーキンググループ主査の河田惠昭さんは、発想の転換を求めます。

たとえば、東京や大阪などの大都市圏に、どのようなことが起きれば都市は“破壊するか”をまず考えるのだそうです。

都市には、それなりの減災のためのしくみも備わっているはずです。しかし、そうした備えを超えて、都市が壊滅するような状況が起きるには、どのようなことが必要になるかを考えるわけです。そのできごとは、“最悪のシナリオ”といえるでしょう。

つぎに、その最悪のシナリオに対して、そうならないためになにをしなければならないかを考えるわけです。これは、それまでの安全対策では済まないほどの規模の安全対策になるでしょう。

都市が壊滅的な被害を受ける条件を考えて、そうならない方法を考える。こうすることで、小手先だけの安全対策が積み重なり安全神話化することを防げるのでしょう。

「いまは、誰もが東京などの都市を“安全にする”ための対策しか考えていません。私は考え方を変えて、東京を“破壊する”ためには、どうすればよいかという研究をしているのです」。雑誌で、こう河田さんは話しています。

参考資料
河田惠昭「迫り来る南海トラフ巨大地震」日本IBM『無限大』第133号
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「負けて悔いはない」真偽は対象によりけり


人は、さまざまな勝負ごとに挑みます。選挙戦、入学試験、トーナメント式の野球の試合などです。

その勝負事で念願かなわなかった人からは、よくつぎのようなことばが聞かれます。

「負けて悔いはありません」

「負けて悔いはない」というのは本当でしょうか。

「悔い」とは、自分がしてしまったことを、あとになって悔やむことをいいます。すると、この「悔い」の対象がなにであるのかが、「負けて悔いはない」が本当であるかどうかのわかれめになりそうです。

もし、「負けて悔いはありません」と言った人が、悔いの対象を「自分が勝負事のために準備してきたこと」としていたとします。この人が、勝負に勝つために最善を尽くしてやってきたと自分で思っているのであれば、「なぜ自分は最善の準備を尽くせなかったのだろう」と悔いることはないでしょう。

つまり、この場合、口にした「負けて悔いはありません」は、この人にとって本当である可能性が高いわけです。

いっぽう、「悔い」の対象が、その勝負ごとに向けられている場合もあります。

もし、「負けて悔いはありません」と言った人が、悔いの対象を「自分が勝負ごとに挑んだこと」としていたとします。この人は、自分が敗れてしまった勝負ごとに対して「悔いはない」と言っていることになります。

この人は、勝負に勝つために最善を尽くして準備をしてきたかもしれません。それにもかかわらず、勝負に敗れたのだとすれば、「なんで負けてしまったのだろう」と残念に思うことでしょう。

つまり、この場合、口にした「負けて悔いはありません」は、この人にとって本当ではない可能性もありそうです。

人は「悔い」の対象を「自分が勝負事のために準備してきたこと」とするか、「自分が勝負ごとに挑んだこと」とするかなどは、ふだん考えません。人が「負けて悔いはありません」と言うときには、そのような分析を超えた、いわくいいがたい気持ちが起きるのでしょう。

その気持ちを抑えようとするためことばとして世のなかに存在しているのが、「負けて悔いはありません」なのかもしれません。
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奇をてらわぬことが方向音痴を減らす


方向や方角についての感覚があまりない人のことを、方向音痴ということがあります。

よく人は方向や方角を、まわりの目印になるような大きなものとの位置関係から理解しようとします。そのようなことをしないと、自分の方向を見失うことになるわけです。

人の方向音痴を、人が招いている場合も、街中では見うけられます。方向感覚を狂わせるようなたてもののつくりが、その例です。

たとえば、横浜市西区の横浜駅東口側には、「横浜ポルタ」という地下街があります。1980(昭和50)年に開業しました。

方向に自信のない人を困らすのは、横浜駅東口改札方面からの階段を降りていくとすぐ、通路が「Y」の字のように分かれていることです。降りてきた階段とおなじ方向で進むことを許しません。フロアマップでもわかります。
http://www.yokohamaporta.jp/shopguide/index.html

たいていの地下街では、駅からの階段を下りると、階段とおなじ向きで大きな通路がつづいています。しかしポルタでは、ほぼ階段の向きに対して、ほぼ45度の角度で、左へ行く通路と右へ行く通路にわかれます。

これは、方向音痴の人や、初めてこの場所を訪れる人にとっては、むずしいところ。自分がどっちの方向に進んでいるのかを、駅からの階段の方向との関係から把握することがしづらくなるからです。

大きなお店のなかを大改装することでも、方向音痴が生まれます。

たとえば、大阪市北区にある梅田駅に入っている紀伊国屋書店梅田本店は、過去に複数回のフロア大改装をしました。

1990年代、梅田駅のたてもの内にあるビッグマンという大型スクリーンの下から紀伊国屋書店に入ると、多くの書棚は南北方向に並んでいました。

しかし、その後、店内の改装が行われ、書棚は東西方向に置かれるようになりました。これは、ながらくこの店を利用していた客に、すくなからず方向性の混乱をあたえました。大阪をひさびさに訪れるような人は、「あれ、こんな店内だったっけ」と思ったことでしょう。

そして、2010年、梅田本店はさらに店内の書棚の配置などを全面的に改装。今度は、店内を東西でも南北でもなく、ななめに突き抜ける目抜き通路をもうけました。この改装に対しては「見通しがよいうえに、目的の棚まで縦横に移動する必要がなくてわかりやすい」などの好評の声も聞こえます。店側も検討を重ねたのかもしれません。

とはいえ、その場所に行きなれていた人ほど、まえに置かれていた書棚の方向や、通路などの記憶は残っているもの。その記憶が、新しいフロアを把握することの妨げにもなりえます。

大きなたてものの通路などの方向は、なるべくまわりのたてものの方向とおなじにすること。そして、改装前と後で、方向や位置をなるべく変えないこと。大きく印象を変えることを目指すより、そのくらいにとどめるほうが、すくなくとも新たな方向音痴を増やすことを防ぐことはできそうです。
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ドーピング禁止の理由は世のなかのようすに流動的


掲示板サイト「2ちゃんねる」に、「スポーツは何故ドーピング禁止なのか」といった問いではじまる板が掲げられています。

ドーピングとは、運動選手が禁じられた薬物を使うことをいいます。米国の陸上男子100メートル国内記録保持者のタイソン・ゲイ選手がこのたび、ドーピング検査で“陽性”となったことを受け、掲示板でも議論が起きているようです。

ドーピングをなぜ禁止するのか。この問いに対して、「フェアプレイの精神に反するため」「反社会的行為であるため」そして「競技者の健康を害するため」といった三つの大きな理由があるようです。国際オリンピック委員会と世界各国が協力し、1999年に「世界アンチ・ ドーピング機構」(WADA:World Anti-Doping Agency)をつくり、ドーピングを禁止する活動をしています。

ドーピングを禁止する三つの理由には、共通する特徴がありそうです。それは、理由の根拠が流動的であるということです。

一つめの「フェアプレイの精神に反するため」という理由は、「なにをフェアプレイとするか」という価値観にもとづいたものといえます。極端な話ながら、仮にすべての選手や関係者が、「ドーピングをするのは当然」と考えるような時代を迎えれば、ドーピングをしあうことは「フェア」になってしまいます。

おなじく、二つめの「反社会的行為であるため」という理由も、「なにを反社会的行為とするか」という価値観にもとづくものといえます。これも極端な話ですが、仮に世のなかの人びとの総意が「体を強くする薬を使ってもいいんじゃないの」となっている時代になれば、ドーピングをすることは「反社会的行為」にはならないわけです。

かつては反社会的と考えられていたものの、いまは反社会的とは見なされないことは多くあります。内部告発、茶髪、不労所得など。逆に、かつては反社会的行為と見なされなかったことが、いまでは反社会的と見なされるようになったこともあります。体罰、路上喫煙、空気の読めなさなど。

三つめの「競技者の健康を害するため」というのが、もっとも流動的でなく、客観性の高いドーピング禁止の理由といえそうです。薬物を使うことは、短い目ではからだを強くすることになるものの、長い目ではからだをむしばむことになる、ということでしょう。

とはいえ、人が薬を使うことは一般的に認められています。運動選手が微量の薬を一度きりで使ったとしても、それだけでからだを大きくむしばむような影響は出ないでしょう。

しかし、一旦、薬を使いはじめると、常習化するおそれもあるため、常習かへの入口をドーピング禁止で閉ざすという考えかたはできそうです。

この三つめの理由に対して、選手からは、「なぜ、それだけ理由で、一切の禁止された薬物を使っていけないのだ」という思いも上がってくるかもしれません。

三つの理由と、それに対する反論をまとめると、ドーピング禁止の理屈はとても流動的なパラダイムの上になりたっているといえそうです。

世界アンチ・ ドーピング機構などの管理組織は厳しくドーピング制限しようとする。それにもかかわらず、選手からドーピング陽性が検出される。これは、ドーピング禁止の理由がきわめて脆いものである裏がえしなのかもしれません。

参考ホームページ
ちゃんねるZ「スポーツは何故ドーピング禁止なのか」
日本分析センター「ドーピングについてのQ&A」
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紫外線を浴びることで健康によいことも


大阪市内の私立小学校が、2010年から屋外プールに日光の紫外線を防ぐためのテントを設けているそうです。毎日新聞の記事で伝えられています。

太陽からの光に含まれる紫外線が人の肌を傷つけます。その結果、日焼けするだけでなく、肌にしみができたり、ひいては皮膚がんになったりするといわれています。これらのことは科学的な研究で認められたことであり、多くの人にも知られているところです。

そのいっぽうで、太陽の光にふくまれる紫外線を浴びることで、からだに健康をもたらすビタミンがつくられるということはあまり知られていません。

皮膚に紫外線が当たると、皮膚にたまっている7-デヒドロコレステロールというコレステロールの一種が変化します。その変化によって、ビタミンD3が合成されます。ビタミンD3は、ビタミンDのなかでも人などの動物で重要なはたらきをしているもの。ビタミンD3をビタミンDとよんでもよいでしょう。

ビタミンDが不足すると、さまざまな症状があらわれます。

骨がもろくなるのはそのひとつ。ビタミンDの不足で、副甲状腺ホルモンという骨を溶かすはたらきをもつホルモンがより分泌されるようになります。

また、足を中心とした筋力の衰えも起きるとされています。そのため、ビタミンD不足が、骨折の危険性を高めるといわれています。

皮膚でビタミンDがつくられると、コレステロールが減るという関係もあります。そのコレステロールはおもに「悪玉コレステロール」ともいわれるLDL(Low Density Lipoprotein)コレステロール。血管がかたくもろくなる動脈硬化をもたらします。動脈硬化が起きると、さらに心臓の血管がつまってしまう虚血性心疾患という病気になるおそれがあります。

米国の疫学的調査では、日光にさらされている人のほうが、日光にさらされていない人よりも、虚血性心疾患になる危険が低いという統計結果も出ているといいます。

ビタミンとは体の外から摂ることによって得られるもの。なので、ビタミンDは例外的です。ビタミンDも、サケやキクラゲなどの食べものから得ることはできます。しかし、「食べ物だけで、ビタミンDを充足させるのはかなり困難」(日本骨代謝学会)という見解もあります。

紫外線の量は、むかしにくらべて日本各地ですこしずつ増えているようです。気象庁の調べによると、那覇、つくば、札幌の3都市ではかった年間の紫外線積算量は、1990年代初期から2000年代後半にかけて、いずれも長期的には緩やかな増加傾向を示しているといいます。

紫外線に当たらないで日焼けやしみや皮膚がんを避けようとするのも、紫外線にさらされて骨密度不足や虚血性心疾患の危険を避けようとするのも、その人が生きかたとして選ぶもの。しかし、選ぶよりも前に「紫外線はとにかく当たってはいけない」ということが常識になってしまっています。

冒頭の小学校の教頭は、「子どもが肌を守り、元気に水泳を身につけてくれれば」と話しているそうです。

参考文献
ロバート・アーリック『トンデモ科学の見破り方』
参考記事
毎日新聞2013年7月18日付「プール:テントが日差しから守る…大阪の小学校」
参考ホームページ
日本骨代謝学会「ビタミンDとカルシウムの必要性」
大塚製薬「ビタミンQ&A集 ビタミンD」
気象庁「日本における紫外線」
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「人、宇宙へ」は生物進化の延長かをめぐって賛否
NASA

人が宇宙まで生息域を広げるのは、生きものの進化の延長線上にあるものだ。このような考えかたがあります。そして、このような考えかたを認めない人もいれば、認める人もいます。

認めない人は、「生物の進化にしては、人のしていることは飛躍しすぎている」と、認めない理由をいいます。

たとえば、鳥は、地球上のいろいろな空間を飛んでいます。生きものの進化のなかでは、高い空間を飛ぶような種も現れました。たとえば、キバシガラス、アネハヅル、クロヅルといった鳥たちです。飛んだときの高さは8000メートルにもなるといいます。

もし仮に、鳥がさらに高いところまで飛べるように進化して、ついには大気圏を超えて宇宙空間まで飛ぶようになったら、それは生きものは進化によって宇宙までいけるようになった、と愛でることはできそうです。

そのような鳥が現れるまえに、人間は、ロケットやスペーシャトルという機械を開発して、一気に宇宙に行きました。人間は、生身のからだで宇宙空間に出られるわけではありません。体そのものは、宇宙対応に進化したわけではない。そのため、認めない人は「飛躍しすぎている」というわけです。

しかし、人が宇宙まで生息域を広げようとしていることを、生きものの進化の延長線上にあるものと認める人もいます。

認める人は、「人は生物としての本能にもとづいて、宇宙へ行こうとしているのだ」と、認める理由をいいます。

「あなたはなぜ山に登るのですか」と聞かれた英国の登山家ジョージ・マロリー(1886-1924)は、「そこに山があるからだ」と答えたといわれています。このことばは、好奇心のまま未到の場所にたどり着こうとする人の本能をあらわしています。

人は、人の本能に素直にしたがえば、「そこに宇宙があるから」宇宙へ行こうとするわけです。これは、生きものとして生息域を伸ばす本能と認めてもよさそうです。海外に行こうとしなくなった日本人の問題はおいておいても、おそらく人間は全体として「宇宙に行くのをやっぱやめよう」などと萎縮していくことはないでしょう。

「宇宙まで行こう」という目的は、生きものとしての本能的な理にかなっている。しかし、「ロケットを使おう」という手段は、生きものとしての生息域拡大の理からは外れている。いずれにしても、人は宇宙に行きます。
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「カレーと本」の相性めぐる新論考も


マガジンハウスの雑誌『POPEYE』の(2013年)8月号で、「カレーと本」という特集が組まれています。

夏場に出る雑誌で、カレー特集は定番といえます。おなじマガジンハウスでは、5月末発売の『Hanako FOR MEN』でも「カレー万歳! 150軒」という特集が組まれていました。

今回の『POPEYE』の特集で特筆に値するのは、特集のテーマとして、カレーと本を組み合わせたところにあります。

多くの雑誌の特集では、もっぱらカレーのみが主役で、カレーという中心的存在があり、その中心に向けて、著名人、有名店、スパイス、レシピなどのベクトルが向いているようなつくりになっています。

しかし、『POPEYE』ではカレーと本をおなじ並びにして、おなじ扱いをしています。雑誌のカレー特集の新境地開拓といってもよいでしょう。

なぜ、「カレーと本」なのか。そこには、この二つの対象物の、人間を介したときの相性のよさがあります。単純にいえば、右手にカレーのスプーンを、左手に本をもって、一時を過ごすことができる組み合わせなのです。本の街である神田神保町にカレー屋が多いという関係性も故なしではありますまい。

加えて、今回の特集では、「カレーと本」の相性について、つぎのような論も加えられています。
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 カレーは読み進めている「物語」を待ってくれる食べものである。寿司もアイスもチーズフォンデュも、鮮度があったり溶けてしまったり手間がかかったりと、ページをめくることを待ってくれない。余裕があるのはカレーだけである。自分のペースで読書させてくれる。
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時間をかけて、たとえカレーが冷めてしまっても辛さは残る。食べものとしての質はあまり落ちない。このような特徴も、読書との親和性をつくるという論考が見られます。

カレー愛好者からは、「なぜ、神保町の地図にエチオピアが入っていないのだ!」とか、「キッチン南海のカツカレーの写真がいつもより上品すぎる!」といった、細やかな批評はあがるかもしれません。

しかし、「カレーと本」という、ありそうでなかった企画の斬新さが、これらの声を上回りそうです。そして、カレーの辛さが、これらの声をかき消しそうです。

マガジンハウスのホームページによる『POPEYE』「カレーと本」特集号のお知らせはこちら。
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書評『第三の脳』
あらためてお肌に感謝したくなってしまうような本です。



さまざまな体の部分があるなかで、注目を集めているところといえば、脳だろう。

しかし、脳より注目されていないながらも、じつは脳よりも“脳らしい”はたらきをもっている体の部分があるのかもしれない。それはどこかとえば、皮膚だ。皮膚のはたらきが、人びとが想像している以上に多くて深いということを、この本は示してくれる。

書名にある『第三の脳』には、皮膚が、頭脳、それに「第二の脳」といわれる消化器にならぶ、脳としてのはたらきをもっているという意味が込められている。脳のはたらきは、感じ、考え、判断し、行動する指示を出すと数が多い。皮膚研究の第一人者である著者は、「皮膚も脳である、言わば第三の脳だ」という宣言をしている。

皮膚を「第三の脳」とまでいいきるのには、皮膚のさまざまな力やしくみが2000年前後から発見されてきたからだ。

たとえば、著者たちの研究班は、皮膚のもっとも外側にあるケラチノサイトとよばれる層に、神経にそなわっているTRPV1というタンパク質が存在することを発見した。

TRPV1は、熱さ、酸性、痛さの一種などの刺激を電気信号に変えるはたらきをもつ物質で、神経に存在するものが脳へと信号を送っていると考えられていた。ところが、ケラチノサイトにもTRPV1が存在することがわかり、体のもっとも外側にある皮膚が外からの刺激をいったん認識して、その情報を神経に伝えているという新たなモデルが打ちたてられたのである。

これは、皮膚が、脳のはたらきのひとつ「感じる」臓器であることを意味するものだ。

さらに、ケラチノサイトは、神経細胞が外部刺激により電気的に「興奮」と「抑制」をくりかえすのおなじしくみをもっていることも、明らかになっている。紫外線などにより表皮が傷つくと、皮膚そのものが免疫作用をもつサイトカインというタンパク質を放つ。「皮膚の表皮が傷ついたとき、SOSを発信するのは表皮ケラチノサイト自身だったのです」と著者は述べる。

皮膚、とくにケラチノサイトのもつさまざまな能力に驚く読者も多いことだろう。すぐに体の表面から剥がれて死んでいく薄い層でありながら、このケラチノサイトは圧力、温度、湿度、分子、そして光を感じることができる。さらに、電気をはじめ、さまざまな情報伝達物質をつくっては放出している。著者は「感受性豊かで表現も多様なのがケラチノサイトです」と述べる。

さまざまな皮膚の真実を知らされると、「脳よりも皮膚のほうが大事なのでは」という感覚になる人もいることだろう。

著者もそれを意図していたにちがいない。骨で頑丈に覆われて脳が存在しているのに対して、体の内側と外側の境界線という現場に皮膚は存在している。中央集権的な存在の脳に対して、現場主義的な存在の皮膚に眼を向けてみることを、著者は読者に促している。

この本に深みがあるのは、新たな視点を投げかけることを重んじる考えを著者がもっているからだろう。最後の最後に出てくる次のことばが、そのすべてを語っている。

「眼で見た世界では説明つかないことが、皮膚から考えると理解できる。皮膚が見る世界に思いをはせ、皮膚が語ることに耳を傾けることが、今の私たちに必要だと信じます」

体の表面を覆う臓器の知られざる能力を知ることができる。さらに、脳を中心とするような従来の見方とはちがう視点を得ることができる。皮膚のもつ深遠さを、知ることができる一冊だ。

『第三の脳』はこちらでどうぞ。
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「つばめが家の軒に巣をつくると豊作」


つばめは、春ごろに巣をつくって卵を産み、夏にかけて子育てをします。地方では、ひんぱんに親のつばめが巣に出入りし、雛たちに虫などの餌をやる姿がまだ多く見られます。

多くのつばめは人の建てた建てものの一部を使って巣をつくります。人の住む家の玄関の軒先や、駅の看板の上、はたまた扉のない店の天井など、人のいる近くのさまざまなところに巣をつくります。

これは、つばめにとっての生存戦略といえるかもしれません。巣で雛を育てるとき、からすやすずめなどの鳥は天敵になります。そこで、人が多く現れるところに巣をつくれば、これらの鳥が近寄りがたいため、子育てをしやすいというわけです。

人が鳥にくらべて巣に危害を加えないということも、つばめは長い暮らしのなかで覚えていったのかもしれません。

実際、人はつばめに危害をあたえるような理由はありません。むしろ、人にとってつばめが近くにいるのは、ありがたいことといえます。

つばめの主食はもっぱら虫。穀物を食べることはまずありません。そのため、田畑では、穀物には手をださず、害虫をたくさん食べます。これは、農業を営む人にとってはとても都合のよいこと。

そのため、日本では古くから、「つばめが家の軒に巣をつくると豊作」「つばめが巣をつくる家は縁起がよい」「つばめは衰える家には巣をつくらない」などと、つばめを愛でるような言いつたえがあります。

ふたつの種類以上の生きものが、おたがい利益を交換して暮らすことを、「共生する」といいます。つばめと人にも、この共生関係がなりたっているのです。

卵がかえってからおよそ21日で、雛はすくすくと成長して巣立ちできるまでになります。近所でつばめが子育てをしているという人は、巣立ちの瞬間を見ることができるかもしれません。

参考ホームページ
ウィキペディア「ツバメ」
八王子・日野カワセミ会「私たちの生活とツバメ」
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「打つ」と「千切り」で「ぶっちぎり」


長距離走などの競技で、ほかの相手を大きく引きはなして勝つことを「ぶっちぎり」といいます。「川内選手、2位に2分以上の差をつけて、ぶっちぎりのゴール!」などと使います。

なぜ、「ぶっちぎり」なのでしょう。

「ぶっちぎり」は、漢字を使うと「打っ千切り」となります。そして、「ぶっ」と「ちぎり」にわけることができます。

「ぶっ」は、激しい勢いで動作をすることを表すときに使う接頭辞。日本人は「ぶっ」を使うのが好きなようで、「ぶっかける」「ぶっきる」「ぶっこむ」「ぶっころす」「ぶっこわす」「ぶっさく」「ぶったおす」「ぶったおれる」「ぶっつづける」「ぶっとばす」「ぶっぱなす」など、さまざまな、ことばに「ぶっ」をつけています。

いっぽうの「ちぎる」は、なんなのでしょうか。これは「千切る」と書くとおり、細かく切ってばらばらにすることを指します。「契約書をちぎって捨てる」とか、「ちぎって投げろ加藤」のような使い方をします。

細かく切ってばらばらにするということは、敵となる相手は一人でなく、複数のほうが、このことばを使う状況としては適していそうです。現に、一対一でおこなうテニスの対戦で「6-0、6-0のストレートでぶっちぎりの勝利」とはいいません。複数の選手でおこなうゴルフの試合では「合計20アンダー、ほかの選手に10打差をつけてのぶっしぎりの優勝」といいます。「千切る」と書くことからも、いろいろな相手との差を引きはなすことを指していそうです。

複数の選手が出るなかで、いろいろな選手をばらばらに引きはなして勝つ、といったときに「ぶっちぎる」というのが、もっとも適していそうです。

ちなみに、「打っ千切り」にさらに漢字を当てて「仏恥義理」と書く少数派もいるようです。

参考文献
『スーパー大辞林』
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筋肉で超回復、脳でも超回復
グリコーゲンの構造

からだに持久力がつくと、考えかたや生きかたも粘り強くなるといわれることがあります。ほんとうでしょうか。

持久力、とくに筋肉の持久力の源になる物質にグリコーゲンがあります。

ご飯、パン、うどんなどの食べものをとると、体に入った炭水化物がグリコーゲンに変わり、肝臓や筋肉に貯えられていきます。そして、激しい運動をしたときなどに、体に貯まったグリコーゲンが使われます。これが、エネルギー源になるわけです。

じつは、このグリコーゲンは、肝臓や筋肉だけでなく、脳にも含まれていることがわかっていました。そして、脳のグリコーゲンは、注意力や集中力を高めるということもわかっていました。

そうなると気になるのは、運動などでグリコーゲンを貯えると、それが脳のグリコーゲンを貯えることにもつながるかどうかです。

この問いに対して、筑波大学の研究チームは2012年、運動と休息をくりかえすと、筋肉に貯まるグリコーゲンの量が増えていくにしたがって、脳に貯まるグリコーゲンの量も増えていくことをつきとめました。

それまで、脳のグリコーゲンは代謝が速いため、量をはかるのは難題でした。しかし、この研究チームは、電子レンジにも使われる「マイクロ波」という電磁波を使った測定法を導入して、脳のグリコーゲンの量をはかることに成功しました。

実際、研究チームは被験者に運動をしてもらい、筋肉のグリコーゲンの量と脳のグリコーゲンの量をはかってみました。すると、運動後の休息のときに、筋肉で見られる超回復という現象が、脳でも見られたといいます。超回復とは、運動時にグリコーゲンが使われて量が少なくなったあと、休息時にグリコーゲンの量が前よりも多くなることをいいます。

この研究成果から、体を鍛えて持久力をつければ、注意力や集中力が高まるということをいうのは、早すぎかもしれません。しかし、すくなくとも、筋肉のグリコーゲンの量と、脳のグリコーゲンの量には、関わりがあるということはいえそうです。

しかし、研究チームは「高橋尚子さんのようなエリートマラソンランナーの強さの秘密には、脳のグリコーゲン、とりわけ注意・集中や判断力、記憶・学習に関係した脳のグリコーゲンが増加している可能性が高いことがうかがわれます」と話しています。

参考文献
漆原次郎「『持久力』の正体を探る」『Zwinning』2013年4月号
参考記事
筑波大学 2012年1月31日「スタミナをアップする脳グリコゲンローディング 脳神経の活動に不可欠なグリコゲンを運動で超回復できる」
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「データ操作」でARBの信頼低下さらに
 京都府立医科大学は(2013年)7月11日(木)、「バルサルタン」(商品名は「ディオバン」)という高血圧治療薬の効き目を調べる臨床試験で、発表されていた6本の論文に「明らかなデータ操作」があったとする調査結果を発表しました。

論文の結論は、この薬は血圧を下げる効果はほかの薬と大差なかったが、脳卒中や狭心症のリスクが大幅に下がった、などといったものでした。

バルサルタンという薬は、高血圧治療薬のうち、アンジオテンシンII受容体拮抗薬(ARB:AngiotensinII Receptor Blocker)という種類に入る薬です。

生活習慣などが原因の高血圧に対しては、おもに、おしっこを多く出すことで血圧を下げる効果をねらう利尿薬と、体のなかの血管が狭まるのを抑えることで血圧を下げる効果をねらうレニン・アンジオテンシン系抑制薬があります。

ARBは後者のレニン・アンジオテンシン系抑制薬のほう。つぎのようなしくみで、血圧が高まるのを抑えるとされています。

体のなかで血管が狭まるしくみとして、腎臓でつくられたレニンという物質から、アンジオテンシンIというべつの物質がつくられ、さらにこのアンジオテンシンIがアンジオテンシンIIに変わり、このアンジオテンシンIIが血管を狭める、といったものがあります。

ARBは、アンジオテンシンIIのはたらきを抑えるといいます。アンジオテンシンIIは、受容体とよばれる体の部分にはまることにより血管を狭めます。しかし、この受容体にさきにARBが入り込むことで、アンジオテンシンIIが受容体に入るのを妨げるわけです。

高血圧治療薬のうち、ARBは製薬会社が巨額の開発費を投じてつくった“鳴りもの入り”の薬といわれてきました。巨額の開発費を投じたからには、それを回収しなければなりません。それをかなえるためには、患者を対象にした臨床試験で「この薬にはこれまでの薬にはない効き目がある」という結果を出さなければなりません。

これまでもARBをめぐっては、医師などのあいだで、すでに出ていた薬にくらべて、それほど効果はないのではないかといったことがささやかれてきました。

今回の「明らかなデータ操作」の背景には、「効き目があるようにしむけなければならない」といった事情があったと考えられてもしかたない面がありそうです。ARBという薬に対する信頼性や評価がまた下がったのはたしかなことでしょう。

参考文献
参考記事
読売新聞 2013年7月11日付「『薬論文で明らかなデータ操作』京都府立医科大」
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「ゆっくりした時」流れる人には流れる


自然の多いところを旅するツアーなどの惹句には、「ゆっくりとした時が流れる」といったものがあります。「ゆっくりとした時間」とはなんでしょうか。

都会での1秒と、自然の多いところでの1秒に、ゆっくりかどうかの差はありません。地球上のどこにいようとも、どこでも1秒は1秒です。相対性理論により、高いところにいると時が経つのが遅くなりますが、それも「ゆっくりとした時」を感じられるほどではありません。

自然の多いところには、都会にはない“のどかさ”や“平穏さ”があります。喫茶店も人はすくなめ、プールで泳いでも前を泳いでいる人にぶつかるほど混んではいません。

遊べるような場所や時間も、都会にくらべて限られています。店の数はすくなく、たいてい20時か21時ごろにはしまります。自然には、遊べるところは多くありますが、やはり日が暮れたあとには遊べる範囲はたいへんに限られてきます。

そうなると、都会で過ごしているときにくらべて、やることはすくなくなります。

なにもすることがなく、ただじっとしているとき、多くの人は「時が経つのが遅いなぁ」と感じるようです。抱えている仕事が多すぎるときには「ああ、もう時間が足りない」と感じるのに、手持ち無沙汰のときには「まだ、こんな時刻か」と思うものです。心理的な影響により、時間を長く感じることと、時間を短く感じることがあります。

これらのことから、都会での暮らしとちがってやることが多いわけでなく、また、これといって仕事に追われていることもないときに、「ゆっくりとした時間が流れる」と感じることはありそうです。

仕事を多く抱えている人が、自然の多いところに行ったとしても、ゆっくりと時間が流れているから都会にいるときより仕事を多くこなせたということにはなりますまい。「こんな自然のなかに来たのだから、仕事なんていいや」という心理がはたらき、むしろ都会にいるよりはかどらないかもしれません。
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都合よく「本格的に普及したのは」


ものごとが正確に始まった時代と、世の中に出まわった時代がずれていることがあります。過去のできごとを紹介する記事をもの書きがつくるとき、どう表現するのでしょうか。

たとえば、インターネットなどで、高速かつ大容量のデータを送れるブロードバンドの“元年”は2001年とされます。しかし、1999年には、東京都内でNTTの電話網を使った商用のADSL(Asymmetric Digital Subscriber Line)回線がの使われはじめていました。

ここで、もの書きは「インターネットのブロードバンド通信が始まったのは1999年」と書いてもまちがいではありません。しかし、開始年の1999年と“元年”の2001年では、2年もちがいます。さらに、20世紀のできごとか、21世紀のできごとかという大きなちがいもあります。

このもの書きには、「自分も2001年にごろになってから、ブロードバンドでのインターネットをやりはじめた記憶があるな」と考えていました。

そこで、ブロードバンドの歴史を追う記事をつくるとき、このもの書きは、「インターネットのブロードバンド通信が本格的に始まったのは2001年」と書いたのでした。

おなじことが、「エコカー」とよばれる低公害車の普及でもいえます。電気自動車が世の中に現れたのは19世紀末のことでした。それは別にしても、近年の動きでも、トヨタのハイブリッド車「プリウス」が発売されたのは1997年でした。その後、「エコカーといえばプリウス」という時代がしばらくつづいたあと、2009年にホンダがハイブリッド車「インサイト」を出し、トヨタが「二代目プリウス」を出しました。

そこで、もの書きは、最近の動向に目を向けた記事をつくりたいとき、「エコカーの本格的な普及が始まったのは2009年」と書くわけです。

ほかにも「本格的に」という表現は、正確にものごとがはじまったのがいつか調べきれていないときにもよく使われます。「本格的な普及が始まったのは江戸時代中期」といった具合に。

読者からすれば「本格的に」という表現に出くわしたときは、「このもの書きは、年代をあいまいにしたいか、調べきれていないかのどちらかもな」と考えてもよいでしょう。
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皮膚も色を見わける


眼は、色を見わけることができます。

赤外線よりは光の波長の短い赤から、紫外線よりは光の波長の短い紫までの色を、眼の網膜にある錐体細胞という細胞にあるオプシンというタンパク質が、青、緑、赤、それぞれの色の光をとらえます。この三つの色の光をとらえることさえできれば、それぞれの色の“かけあわせ”により、赤から紫までのどんな色でも脳が感じることができます。

じつは、眼のほかに、人は色を見わけることのできる体の部分をもっていることが、研究でわかってきています。それは、皮膚です。

皮膚には、眼とおなじく、色の光をとらえるタンパク質のオプシンがあることがわかっています。皮膚には、青、緑、赤のそれぞれの色の光を区別するオプシンがあるといわれています。

皮膚が色を見わけることを支持する実験もあります。実験者が、20人の実験協力者に目隠しをしてもらい、赤い紙と青い紙を触ってもらい、「赤いほうはどちらか」を質問してもらいました。すると、20人中16人が正解をこたえたといいます。50%の正答率よりもはるかに上まわる結果です。

また、こんな実験もあります。皮膚もっとも外側の「角層」といわれる層に粘着テープを貼り、そのテープをはがします。痛いそうですが、確実に皮膚の角質も壊されます。その状態で、赤、青、緑それぞれの色の発光ダイオードを当てると、色により角層の回復時間が異なったといいます。赤い光、緑の光、青の光の順に、回復時間が短かったということです。

皮膚がどのようにそれぞれの色の光を感じて色を見わけているのか。まだ明らかになっていないことも多いですが、これからも研究は進んでいくことでしょう。

人の眼は、紫外線や赤外線を色として感じることはできません。しかし、皮膚は紫外線も赤外線も感じることができます。太陽の光を浴びつづければ肌はこんがり茶色にやけます。これは紫外線に対する皮膚の反応です。また、太陽の光を浴びつづければ体がぽかぽかと温まります。これは赤外線に対する皮膚の反応です。感じることのできる色の幅という点では、眼よりも皮膚のほうがまさっているわけです。

すくなくとも「肌は眼ほどに色を感じる」といえるかもしれません。

参考記事 日経ビジネスオンライン2009年2月26日付「皮膚は喜び、傷つき、人を求める」
参考ホームページ
東海大学総合研究機構地球情報調査プロジェクト「太陽光の不思議なパワー」
東邦大学生物分子科学科「可視光線」
参考番組
TBS 2012年2月21日放送「教科書にのせたい! 驚きの新事実!皮膚は色を認識する!」
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むやみやたらには掲げられない


街なかの電車の窓からは、建物の壁が見えます。その建物の多くは、企業の商業施設や工場など。その壁には、その企業の名前などが掲げられています。

しかし、壁一面にでかでかと社名を掲げたり、壁一面をすべて自社の製品を宣伝するような広告面にしたりしている建物は見あたりません。

たとえば、電機メーカーが沿線の工場の壁に「新発売! 男のひげ剃り誕生」などの惹句ともに、大きなひげ剃りの写真を掲げたり、沿線の出版社が会社の壁全面に「ベストセラーあなたは読みましたか?」などの惹句とともに本の表紙を掲げたりすれば、とても大きな宣伝効果になることでしょう。

会社などが自己の建物に掲げた自分の会社に関係する広告は「自家用広告物」とよばれます。なぜ、会社は自己のたてものの壁を全面的に使って自家用広告物を掲げないのでしょう。

その理由は、景観を損ねないようにするための法律や条例に従わなければならないから、ということになります。

法律には「屋外広告物法」というものがあります。1949年に施行された法律で、第一条で、「良好な景観を形成し、若しくは風致を維持し、又は公衆に対する危害を防止するために、屋外広告物の表示及び屋外広告物を掲出する物件の設置並びにこれらの維持並びに屋外広告業について、必要な規制の基準を定めることを目的」としています。

広告のことを定める法律なので、広告の定義も必要になります。そこで第二条に「広告」の定義として「この法律において『屋外広告物』とは、常時又は一定の期間継続して屋外で公衆に表示されるものであつて、看板、立看板、はり紙及びはり札並びに広告塔、広告板、建物その他の工作物等に掲出され、又は表示されたもの並びにこれらに類するものをいう」と定められています。

この定義からすると、「広告」の対象となるものはとても広そうです。それぞれの企業が掲げる自分の会社の名などを示す看板も、広告に入ることになります。

そして、どのくらいの大きさの広告をどのように出すことができるかについては、各自治体の条例で定められています。

たとえば、東京都には「東京都屋外広告物条例」という条例があります。第1条に示されている条例の目的は「良好な景観を形成し、若しくは風致を維持し、又は公衆に対する危害を防止すること」。

この条例では、細かく広告物の規制が書かれてあります。たとえば、広告物などの一面の面積は、商業地域内においては100平方メートル以下、商業地域以外においては50平方メートル以下とする定めがあります。

100平方メートル以下といえば、たとえば縦10メートル、横10メートルといったもの。

さらに、広告物などの表示面積の合計は、壁面面積の10分の3以下にすることも合わせて定められています。

このような、細かい規則があるなかで、企業は広告を出そうとします。それはつねに、景観をまもるための法律や条例とのせめぎ合いになるわけです。

参考文献
東京都「屋外広告のしおり」
参考ホームページ
電子政府の総合窓口イーガブ「屋外広告物法」
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代筆者の書いた本に賞を贈るのを避ける


出版の世界には、さまざまな賞があります。有名どころでは、半年に一度、文学作品に対して贈られる「芥川賞」や「直木賞」、また全国の書店員が投票で大賞の本を決める「本屋大賞」などがあります。科学ジャーナリズムの世界には、「科学ジャーナリスト賞」といった賞もあります。

これらの賞では、おもに本が賞に選ばれることになります。ただし、かずかずの本から賞を選ぶにあたり、賞の主催者はある課題も抱えているといいます。それは、「代筆者が書いた作品を賞の対象として認めるか」という問題です。

いまや出版の世界では、本物著者の代わりに「ゴーストライター」などとよばれる代筆者が始めから終わりまで原稿を書くことが、あたりまえのようになっています。代筆者は本物著者に数時間分の取材をし、その音声を文字に起こして、章立てや構成を考え、原稿にするわけです。その本で書かれている「私は」という主語は、もちろん本物著者のことを指しています。

代筆者を立てて本を出すというしくみは、じつによくできたしくみといわれます。

出版社は、本を出せばお金になる「条件払い」という制度のもと新刊を乱発しようとしています。忙しい専門家が原稿を書くより、代筆者が数時間分の取材をして短期間で原稿を書いたほうが、すばやく本を出すことができます。

本物著者にしても、忙しかったり書くことがあまり得意でなかったりします。取材を受けて、それを原稿にしてもらうほうが、あきらかに手間はかかりません。

代筆者はこの場合、印税を満額もらえるわけではありません。たいてい本物著者のほうが取り分が多めにはなります。しかし、それでも仕事と報酬をもらえることになるので幸せがあります。

読者は、専門家の書いた難解な文章でなく、代筆者がかみくだいて書いた平易な文章を読むことができます。ただし、専門家みずからが書いたものと信じてうたがわない読者にとって、代筆者が書いているという事実は裏切られ感につながるおそれもありますが。

いろいろな立場のかずかずの利点からすると、代筆者がほんの原稿を書くというしくみは、“四方よし”のビジネスモデルといえそうです。

しかし、賞によっては、内規などで、本物著者がほんとうは原稿を書いていない本に賞をあたえないようにしているところもあります。本の最後に「執筆協力」と書かれてある本を外したり、下読みをする出版者の社員が「これは本物著者が書いたものではなそうだ」と判断した本を外したりするわけです。本物著者が書いていないのにその著書に賞を贈ることへのためらいがありそうです。

また、内規などがなくても、本物著者に賞を贈ったあとに、あの本は代筆者によるものだったということを賞主催者が知れば悔いるかもしれません。ここには、賞の格式を下げることになりかねないという考えがありそうです。

これからも科学書やビジネス書などで代筆による本が多く出されていくのはたしかなこと。賞の主催者にとって、本物著者が書いたものか、代筆者が書いたものかを見極めることはますます大切になりそうです。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
書評『センス・オブ・ワンダー』
赤い実をつけた野草の写真が表紙の「新潮社版」が有名ですが、カーソンがたたずんだ海辺の写真が表紙の「佑学社」版もあります。



人は、みずからにとってなじみのないものごとに出あうと「こんなことがあるのだ」と驚き、心を動かされる。神秘さや不思議さに目を見はるような感覚を、「センス・オブ・ワンダー」とよぶことがある。

世の中に広がったこのことばの原点としてあるのが、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』だ。

カーソンは、米国の女性海洋学者。農薬による環境汚染に警鐘を鳴らした『沈黙の春』で知られている。『沈黙の春』の原稿を書いていたとき、すでにカーソンはがんにおかされていた。『センス・オブ・ワンダー』は、その後みずからの命の終わりを悟りながら遺した、人びとへのメッセージである。

甥で1歳8か月のロジャーとととも出かけた海岸の場面から本書ははじまる。暗闇のなか降る雨、叫び声をあげる波、穴を掘って砂のなかにひそんでいくスナガニ。そうした自然の営みに、カーソンとロジャーは夢中になっていた。

その後も、カーソンとロジャーは自然の不思議さを見つける冒険に出かける。原生林に漂う木の香り、海に沈んでゆく満月、ふかふかした苔のカーペット。子どもにとっては触れたもののすべてが新鮮だっただろう。

だが、人というものは、歳を重ねるにつれて、そんな新鮮な感覚を失っていく。そのことをカーソンは知っていた。「センス・オブ・ワンダー」をいつまでも保ちつづける人びとであってほしい。そのためには、子どもにとっての大人の存在が大切になると、カーソンは説く。

「生まれつきそなわっている子どもの『センス・オブ・ワンダー』をいつも新鮮に保ちつづけるためには、わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、すくなくともひとり、そばにいる必要があります」

そして、親に求める。「感じる」ことを。

「わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭をなやませている親にとっても、『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないと固く信じています」

子どもは、意識しないでも、自然界の不思議なものごとに対して驚きをもつ。自然に触れること以外のさまざまな経験も重ねてしまったおとなは、その能力を失いがちだ。

しかし、しばらく使っていなかった感覚の回路は、いつでもまた開くことができる。あらためて、目、耳、鼻、指先などで自然を感じるようにすればいいとカーソンはいう。

「自然に触れるという終わりのないよろこびは、けっして科学者だけのものではありません。大地と海と空、そして、そこに住む驚きに満ちた生命の輝きのもとに実をおくすべての人が手に入れられるものなのです」

自分のなかの「センス・オブ・ワンダー」をとりもどす機会は、自然のなかにいくらでもある。カーソンは、おとなにその気づきを求めていたのだった。

『センス・オブ・ワンダー』はこちらでどうぞ。
| - | 22:58 | comments(0) | trackbacks(0)
蚊とり線香で蚊は死にいたるもよう
蚊とり線香を使う季節になってきました。耳もとで「プーン」という音がきこえてきたとき、まずは“みどりの渦巻き”があると安心です。
蚊とり線香を使っている人のなかには、つぎのような疑問をもっている人もいるといいます。
「蚊とり線香で、蚊は死ぬのだろうか」
蚊とり線香に火をつければ、蚊はよってきません。しかし、「プーン」と音をたてていた蚊はどうなるのでしょうか。
この疑問をもつ人は、蚊とり線香のあたりで蚊が死んでいる姿をまだ一度も見たことがないことが多いようです。「蚊とり線香」は「蚊をとるための線香」。では、「蚊をとる」とは「蚊を捕って殺す」ということを意味するのでしょうか。
蚊とり線香大手の大日本除虫菊はホームページで、蚊とり線香の効きめを紹介しています。「金鳥の渦巻」とよぶ蚊とり線香の効能に「蚊成虫の駆除」を掲げています。
さらに「製品詳細」のページを見ると、この製品について、つぎの効果をあげています。
「バリア効果」
「追出し効果」
「バリア効果」と「追出し効果」。これらは、蚊を寄せつけない効果といえそうです。これらの意味することは、つまりは蚊は生きていることになるのではないでしょうか。
しかし、「バリア効果」と「追出し効果」を紹介したページのイラストでは、瀕死の状態に追いこまれている蚊の姿も多く描かれています。
いったい、蚊とり線香によって、蚊は死ぬのでしょうか、生きたままなのでしょうか。
この疑問に対して、実験のようすをユーチューブであげているひとがいます。黄猿サカズキさんは、「蚊に蚊取り線香が効くか試してみた」として、ペットボトルに蚊を入れて、その中に蚊とり線香の火のついている部分を入れて実験をした動画をユーチューブに公開しています。
この動画では、蚊はペットボトルの中で暴れまわったあと、弱りはてたような姿を示します。しかし、完全に死んでしまったわけではありません。
蚊とり線香によって、蚊は死ぬのかどうか。もういちど、大日本除虫菊のホームページに戻ります。「工場長に聞く」というページには、“工場長”が「なぜ蚊取線香で蚊が死ぬのでしょうか?」という質問に答えています。
「除虫菊(シロバナムシヨケギク)の花に含まれているピレトリンという成分は、殺虫効果を持っています。そのピレトリンを化学的に合成したものがピレスロイドと呼ばれており、蚊取線香の中にはこのピレスロイドが含まれています」
「ピレスロイド系の殺虫剤は、その中でも虫の体表(皮フ)から体内に入り、神経を攻撃して虫を興奮させ、やがてケイレンを起こしマヒ状態となって死んでいくのです」
工場長が「なぜ蚊取線香で蚊が死ぬのでしょうか?」という質問に答え、かつ、答として「(虫が)死んでいく」と述べていることからすると、やはり蚊とり線香で、蚊は死にいたるようです。
参考ホームページ
大日本除虫菊「金鳥の渦巻 ミニサイズ」
大日本除虫菊「工場長に聞く 詳細な話コース」
参考映像
Youtube「蚊に蚊取り線香が効くか試してみた」
| - | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0)
「科学ジャーナリスト塾」第12期の塾生を募集


「科学ジャーナリスト塾」の第12期生の募集を、塾の主催者である日本科学技術ジャーナリスト会議がこのたび始めました。

科学ジャーナリスト塾は、科学ジャーナリストを目指す人などを育てるための塾。2002年の秋に、有志ある科学ジャーナリストたちが開きました。

第1期から第6期までを日本科学技術ジャーナリスト会議が開いていましたが、第7期からサイエンス映像学会というべつの団体が開くようになっていました。しかし、体制をあらためるべきときを迎え、ことし2013年の第12期から、ふたたび日本科学技術ジャーナリスト会議が開くことになりました。

10月7日から、翌2014年3月17日まで、月曜日の夜に全10回で開かれます。会場は、日本科学技術ジャーナリスト会議のある、東京・白山の東京富山会館ビル5F会議室の予定です。

今期の塾は、おおむね1時間の毎回異なる講師による話と、1時間の全員による討論というかたちをとるとしています。各回の講師を日本科学技術ジャーナリスト会議の理事などの会員がつとめます。

共通の大きなテーマとして、塾は「科学報道の失敗体験に学ぶ」というテーマを掲げています。この大きなテーマのもと「核の冬はソ連の謀略? 放送への外圧と自己規制」「伝えられなかった長崎豪雨災害」「原子力で繰り返された水俣病の失敗」などの、各回のテーマを各講師が用意しています。

また塾は、講演の柱のひとつに、「講師本人の体験談」というものを掲げています。さまざまな科学ジャーナリストの個人的経験の語りから、塾生が科学報道の失敗体験に学ぶことを期待しているようです。

20人から30人の定員を、先着順で募っています。学生、社会人、研究者など、科学コミュニケーションに興味関心のある人を対象としています。塾費は1万5000円で、このなかには塾の期間中の日本科学技術ジャーナリスト会議主催の「月例会」という勉強会への参加費もふくまれています。

詳しくは、日本科学技術ジャーナリスト会議の「塾生募集!JASTJ『科学ジャーナリスト塾』」に紹介されています。なお、「JASTJ」は同会議を略したよびかたです。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
直線と超伝導で効率よく加速
 宇宙創世の謎を探ることのできる超大型加速器「国際リニアコライダー」(ILC:International Linear Collider)の国内候補地の一本化が(2013年)7月末までに行われるといわれています。日本に決まった場合、岩手県南部の北上山地か、福岡県と佐賀県にまたがる背振山脈か、どちらかの地下につくられることになります。

国際リニアコライダーは、電子と陽電子という素粒子をぶつけるための装置です。「電子」はよく聞きますが、「陽電子」はなじみのないことばです。陽電子は、質量などの点で電子とほぼおなじ性質をもっていますが、電気現象の大もととなる電荷の点では、マイナスの性質をもつ電子とは反対に、プラスの性質をもっています。

この電子と陽電子を、とても高エネルギーでぶつけると、宇宙がはじまったときとおなじような状態をつくることができます。その状態を観察することで、宇宙のはじまりのとき、どのような反応が起きたかを解明する。これが、国際リニアコライダーのおもな用途です。

素粒子をぶつけてその反応を見る研究は、欧州原子核研究機構(CERN)の「大型ハドロン衝突型加速器」(LHC:Large Hadron Collider)などでも行われています。2012年には、大型ハドロン衝突型加速器によりヒッグス粒子が観測されました。

欧州原子核研究機構の加速器は、大きくまんまるの環を描いたかたちをしています。研究で扱う陽子という素粒子の通り道をまんまるの環状にして、何周もぐるぐるさせれば、どんどん速度を上げることができるからです。素粒子は、ふつうまっすぐ飛びますが、人間が磁石を使って、曲線の通り道を飛ぶようにしむけているのです。とはいえ、陽子は速度を高めると、そうかんたんに曲がりません。そのため一周27キロメートルにもなる巨大装置になるわけです。

いっぽう、国際リニアコライダーの計画では、大型装置のかたちはまんまるの環状ではありません。F1レースのサーキット場のように、長い直線と急カーブでできています。

まんまるの環状にしない理由を、国際リニアコライダー計画を推しすすめる先端加速器科学技術推進協議会はつぎのように説明します。

「円形型の加速器にもデメリットがあります。カーブのたびに粒子に加えたエネルギーの一部を失ってしまうのです。そこで、現在ある加速器よりも粒子を速く加速するためには、直線型(リニア)にするのが、もっともよいと考えられています。そのため、ILCは直線型(リニア)で設計されています」

長い直線にする理由はわかりました。しかし、国際リニアコライダーには急カーブもあります。ここも電子や陽電子は通ります。急カーブの存在は気にしないでよいのでしょうか。

要は、急カーブのハンデがあっても問題ないくらいに、直線で電子や陽電子の速度を高められればよいわけです。そこで使われるのが「超伝導」の技術です。超伝導は、金属の温度を下げていくと電気抵抗がゼロになる現象のこと。

超伝導素材でつくった「超伝導加速空洞」という空洞を、氷点下271度まで冷やします。すると超伝導の状態になり、電気抵抗が生じなくなります。この空洞の中を電子や陽電子が通ります。これでエネルギーの損失がきわめてすくなくなるので、電子と陽電子の加速が進みます。

超伝導技術を使うこと。そして、30キロメートルないし50キロメートルという、素粒子が加速するにはじゅうぶんな長い直線をとること。これらにより、まんまるの環状にしない方式を、国際リニアイコライダー計画ではとっているわけです。

参考ホームページ
先端加速器科学技術推進協議会「加速器を知る」
「巨大な精密装置『加速器』」『三菱重工グラフ』2012年10月号
参考文献
山本明「国際リニアコライダー計画(ILC)に求められる超伝導技術開発」
高エネルギー加速器研究機構『宇宙をつくる加速器[国際リニアコライダー]がやってくる!?』
| - | 22:51 | comments(0) | trackbacks(0)
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