科学技術のアネクドート

「芋、麦、蕎麦…、風味を際立たせる技術とは」


日本ビジネスプレスのウェブニュース「JBpress」で、きょう(2013年)5月31日(金)「芋、麦、蕎麦…、風味を際立たせる技術とは 進化する焼酎(後篇)」という記事が配信されました。この記事の取材と執筆をしました。

焼酎は、日本の代表的な蒸留酒。その起源は、はるかシャム(いまのタイ)にあったといわれています。タイの蒸留酒が16世紀ごろに琉球国(いまの沖縄県)に入り「琉球酒」とよばれるようになりました。この酒は後に「泡盛」とよばれるようになった酒と考えられます。そして、琉球国との人の行き来がさかんだった薩摩国(いまの鹿児島県)に持ちこまれ、これが焼酎とよばれるようになったと考えられています。

このような焼酎の歴史を、前篇の記事で追いかけています。

きょうの後篇では、明治時代以降の焼酎のつくりかたの進歩を追いかけています。

焼酎をよく店で手にとる人は、ラベルに「甲類」「乙類」と記されているのを見たことがあるでしょう。「甲類」と書かれた焼酎の源流にあるのは、19世紀末に日本に持ちこまれた「連続式蒸留機」という機械によりつくられた「新式焼酎」という酒です。

「連続式」とあるように、このつくりかたでは、蒸留をくりかえしていきます。蒸留をすると、醪とよばれる液は、含まれている糖分や酸などがとりのぞかれ、より純粋な液になります。これを何度もくりかえすため、新式焼酎あるいは甲類焼酎は、従来のつくりかたにくらべてとても純粋なアルコールになります。

いま、新式焼酎の流れ受ける甲類焼酎は、ウーロン茶や果実液で割って飲む酎ハイに使われることが多くあります。いっぽう明治時代以前からあったつくりかたによる乙類焼酎は「本格焼酎」ともよばれ、ロックや水割りなどで飲むことがあります。

取材した宝酒造宝酒造技術・供給本部蒸留技術部の担当者の方によると、乙類(本格焼酎)については、芋や麦などの原料の特性を味わってもらいたいので、ジュースで割るようなことはせず、水割りやお湯割りなどで飲んでもらうとよいのではとのこと。

いっぽう、甲類焼酎については、酎ハイ向けにジュースなどで割るものもありますが、味の強いものは水割りやオン・ザ・ロックなどで楽しんでもらえればととのことです。

さまざまな飲みかたで楽しむことができるのも焼酎という酒の特徴でしょう。

記事では、芋や麦や米などの主原料の素材を活かすためのさまざまなつくりかたの工夫を紹介しています。「芋、麦、蕎麦…、風味を際立たせる技術とは 進化する焼酎(後篇)」はこちらです。
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最後まで読みきったかを調べる


人がどのような媒体にどのような興味をもっているかを調べるため、人や組織はいろいろな方法を使います。ラジオで、それぞれの番組の聴取率をとるというのもそのひとつでしょう。また、インターネットでそれぞれのページのページビューを調べるというのもそのひとつでしょう。

しかし、これらの方法は、人がどれだけその媒体に深く接していたかを知ることができません。たとえば、ラジオをつけっぱなしにしていれば聴取したことにはなります。訪れたホームページの内容を見ず、すぐほかのページに飛んだとしてもページビューの数を増やしたことになります。

そのため、もうすこし媒体への接しかたの深さを探ることはできないかと人は考えるようになりました。

よく聞くようになったのは、「視聴質」でしょうか。どれだけ人がその番組を見入ったか、その視聴の質をはかる尺度とされています。しかし、なにをもってその視聴に“質”がともなっていたかを定めることはむずかしく、その方法は放送局によってまちまちいいます。

いっぽう、読みものの媒体に対して注目されている数値に「完読率」というものがあります。これは字のとおり、「完全に読み切った率」を示すもの。

たとえば、その本がとてもおもしろく引き込まれるものであれば、最後まで読む人の率は多いでしょう。つまらなければ、途中で読むのをやめてしまう人の率は高くなります。

完読率を定義するのはかんたんですが、それをはかるとなるとそうかんたんではなさそうです。本や雑誌やメールマガジンなどで、読み切ったかどうかを調べるには、読者の自己申告になりそうです。

たとえば、メールマガジンで完読率を調べようとするとき、「最後まで読んでくれましたか」などと聞けば、すくなからぬ読者は、メールマガジン発行者の気を使って「最後まで読みました」と答えそうです。

インターネットであれば“疑似完読率調査”ならできそうです。

たとえば、ニュース記事を3ページなどにわけて配信し、1ページ目と2ページ目と3ページ目のページビューを見るのです。つまらなくて、途中で読まれなくなる記事では、1ページ目と3ページ目のページビューの差は大きくなるでしょう。対して、最後まで読ませる記事では、1ページ目と3ページ目のページビューの差は小さくなるでしょう。

実際、このような手法で、読者がその記事を最後のほうまで読んだかを調べているウェブ媒体はあるといいます。

今後、デジタルデータによる媒体では、より多くの媒体への接し方のはかりかたが生みだされていくかもしれません。
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米国の“情報研究”の手、市民のブログやツイッターにも
米国の国防総省には「情報先端研究プロジェクト活動」(IARPA:The Intelligence Advanced Research Projects Activity)とよばれる事業があります。

この事業を、国防総省は「米国にとって未来の敵国を凌駕するような情報優位性をもたらしうる、危険度が高いながらも見返りの大きい研究プログラム」と位置づけています。そして、3年から5年といった事業期間に焦点をあてています。

具体的な事業にはどのようなものがあるのでしょう。たとえば「鋭敏分析事務局」(Ofiice of Incisive Analysis)という部門が管理しているプログラムのひとつに「オープンソース指標」(OSI:Open Source Indicator)というものがあります。



国防総省は「情報先端研究プロジェクト活動」のホームページで、「オープンソース指標」を、つぎのように説明しています。

「オープンソース指標プログラムは、政治的危機、人道危機、集団的暴力、暴動、大量移民、病気の発生、経済不安、資源不足、自然災害の対応といった、重大な社会的事象を予測し、検知するための継続的で自動的な分析の方法をつくるためのものである。遂行者は、現実世界の事象について伝える警告にもとづいて評価される。成功すれば、このオープンソース指標の手法は、社会で入手可能な複数のデータソースとタイプから、事象の早期指標を融合させることで、“ニュースをうちまかす”ことができるだろう」

この「オープンソース指標プログラム」が具体的に使おうとしているものは、ウェブ検索、ブログ、ツイッター、インターネットのトラフィック、インターネット接続カメラ、金融市場、ウィキペディア編集、そのほかの、世のなかで入手可能なデータです。

これらのデータを大量に集めて分析すると、上に示したような「重大な社会的事象」を予測できるようになるといいます。

これは、ちかごろよく話題になっている「ビッグデータ活用」のひとつといえそうです。ビッグデータとは、世のなかの情報通信化が進んだことにより存在するようになった莫大なデータのこと。コンピュータがビッグデータを分析すると、なにかの傾向や兆候を見出すことができるといわれています。

しかし、国防総省は、このオープンソース指標プログラムが米国内で起きる事象を対象としているものではないことを明確にしています。ここには、国が自国に出まわる情報を分析して、重大な事象を予測するということのむずかしさも見えかくれしています。

参考ホームページ
IARPA “About IARPA”
OPEN SOURCE INDICATORS(OSI)PROGRAM
参考文献
Jason Matheny “OPEN SOURCE INDICATORS(OSI)PROPOSERS’ DAY BRIEFING"
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ものとの距離を感じて像にする
京都には、千手観音像が1001体おかれている三十三間堂という寺があります。この寺を訪れたことのある人が、このようなことを言いました。

「目をつぶって両手をかかげて廊下を歩いていると、右の手のひらのほうから“気”を感じたんだよ」

千手観音に触れてはいません。しかし、この人によれば、千手観音がたくさん置かれてある右の手のほうに感じるものがあったということです。だれもがそのように感じるわけではないでしょうが。

ものに触れることなくそこにあるものを感じる技術は、ナノテクノロジーの世界では確立されています。走査型トンネル顕微鏡とよばれる顕微鏡のしくみがその例です。1982年、ドイツの物理学者ゲルト・ビーニッヒと、スイスの物理学者ハインリッヒ・ローラーが発明しました。

顕微鏡というと、見たいものをレンズで拡大して見る方法があります。しかし、走査型トンネル顕微鏡でのものの見かたはまったく異なります。この顕微鏡には、探針とよばれる細い針がついています。この探針に数ボルトの電圧をかけながら、見たいものに近づけていきます。その距離を1ナノメートル(10億分の1メートル)ほどまで近づけると、触れていないものどうしのあいだに電流が流れだします。

この電流はトンネル電流というもの。あまりに距離が近いところで電圧がかかると、電子がものとものの見えない“壁”を超えて移っていきます。この電子の流れがトンネル電流です。走査型トンネル顕微鏡では、探針と見たいもののあいだに、トンネル電流が生じるわけです。

しかも、トンネル電流の大きさは、ものとものの距離によって、とても敏感に変わっていきます。たとえば、原子1個の大きさである0.1ナノメートルの半分くらいの距離の差でも、トンネル電流は変わります。

これは、ものの表面を調べるには都合のよいこと。わずかに変わるトンネル電流の大きさを調べれば、探針と見たいものの距離がかんたんにわかるからです。

このように、走査型トンネル顕微鏡は探針を、見たいものにとても近づけることで、トンネル電流を“感じ”とっていきます。そして、探針が移った場所ごとで、見たいものとの距離を求め、それを画像にして表現します。結果、人は、見たいものの像をみることができるわけです。


銅表面の楕円状のコバルト原子を走査型トンネル顕微鏡で観察したところ

参考ホームページ
日立ハイテク「走査型トンネル顕微鏡(STM)」
大阪大学 横山研究室「走査型トンネル顕微鏡」
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医療も“個重視”の時代へ
 ここのところ“集団重視の世のなか”から“個重視の世のなか”に移りつつあるといわれています。なにかのはたらきかけをする人が、集団にとって必要そうに思えることをあたえるのでなく、個人にとって必要そうに思えることをあたえるということです。

医療の世界でも、“個重視”になりつつあります。

たとえば、内閣府の総合科学技術会議は、2012年7月に発表した「科学技術重要施策アクションプラン案」の「ライフイノベーション分野」のなかで、「社会に重要な疾患の予防」という政策課題を掲げ、「個人の特性に着目した予防医療(先制医療(早期医療介入))の開発推進」という重点的とりくみをあげています。

「個人の特性に着目した予防医療」という表現について、あきらかに意識していると考えられるのは、「オーダーメイド医療」や「テーラーメイド医療」といった医療のしかたです。

オーダーメイド医療もテーラーメイド医療もほぼおなじ意味のことばで、患者の体質に合わせて、治療法や予防法を選んでいく医療のことをいいます。

その具体例としてあげられるのが「遺伝子診断」です。遺伝子には、その人がある病気になるかどうかの鍵をにぎるようなものがあります。その人の遺伝子を調べれば、その人が将来どのくらいその病気になりやすいかがわかるわけです。

生まれるまえの胎児の遺伝子を調べれば、生まれてくる赤ちゃんがどのような病気をもつかもわかります。これは出生前診断とよばれます。

医療がこのように“個重視”へと進歩するなか、自分の将来のことを知ることになるということ、また生まれてくる赤ちゃんの病気を知ることになるということには、倫理的な問題もつきまとっています。

参考文献
総合科学技術会議 2012年7月19日「平成25年度科学技術施策アクションプラン(案)」
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人間を中心に機械をつくる


自己中心的なふるまいは、“自己チュー”などといわれ、人びとに避けるべきものと思われてきました。いまもその向きはあるでしょう。

そのいっぽうで、人間という“自己”を中心にあるべきものであると考えたうえで、ものごとを計画したり設計したりするという考えかたがあります。これは、「人間中心設計」や「人間中心デザイン」などといわれます。

人は、機械を生みだして、長らく使ってきました。パーソナル・コンピュータなどもそのひとつの例です。

このような機械を使うとき、人は「機械を使いこなさなければいけない」という感覚をもつことがあります。「機械を使う」のでなく「機械に使わされる」といった表現や、「メカ音痴」といった表現があるのは、人間にとって“自己”であるみずからが、機械の設計に合わせてきたことのあらわれといえるでしょう。

しかし、機械をつくるのも人間。それを使うのも人間。そうであれば、人間がなぜ機械に使わされなければならないのか。そう考える人もいるわけです。

そこで、人が機械を使うことに慣れていくのでなく、人がなにを求めているかあらかじめ考えをめぐらせて、その求めを中心にして、人と機械との接点のありかたを企てていくべきだという考えかたを、人は考えるようになりました。

この考えかたを「人間中心設計」といいます。機械などの使い勝手を、人間中心にしようとする考えは、国際的に広がっています。たとえば、1999年には、国際標準化機構(ISO:International Organization for Standard)が「ISO13407」という規格を定めました。これは「人間工学・インタラクティブシステムの人間中心設計プロセス」というもの。人間中心設計が国際標準規格になっているのです。

逆に「人間中心設計」といったことばや考えが注目されていることは、いかにこれまで機械が人間を中心にして考えてこなかったかの裏返しであるともいえます。機械をつくるのも人です。機械をつくった人は、機械のことを考えるあまり、人寄りでなく機械寄りの発送に立ってしまっていたのかもしれません。

参考ホームページ
情報マネジメント用語辞典「人間中心設計」
ウィキペディア「ISO 13407」
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「アドオンを無効」でインターネットの重さをなくす


よく、インターネットをしていると、「アドオンを無効にすることで、閲覧の速度を上げます」といった表示にでくわすことがあります。これはなにを意味しているのでしょうか。

インターネットをするときには、インターネットエクスプローラーやファイアフォックス、サファリ、グーグルクロームなどの「ブラウザ」とよばれる閲覧用ソフトウェアを使います。

これらのソフトウェアを使うのに、はじめから手元のコンピュータに入っていることもあれば、新たにインストールして入れることもあります。どちらの場合にしても、ブラウザがコンピュータに入れば、インターネットをすることができます。

しかし、人はより便利な使いかたをブラウザに求めるもの。たとえば、ことばを検索するときグーグルをよく使うとします。いちいちグーグルの検索ページに行ってから、ことばを検索するのでは手間がかかります。

もし、ブラウザの画面のどこかに、つねにグーグル検索をすることができる枠を設けておくと、この手間を省くことができます。その枠にことばを入れてリターンキーを押せば、グーグルで検索することができるわけです。

このように、ブラウザのはじめの状態ではなかった機能を新しく加えることを「アドオン」といいます。「アドオン」は英語では“Add-on”と書きます。“Add”には「加える」という意味が、また“on”には「なになにのうえに」という語感があります。ここから、“add on A”は「Aを加える」とか「Aを増築する」といった意味で使われます。

ブラウザは、あらかじめ新しい機能をアドオンすることを前提に設計されています。そのため、ブラウザの使用者は、あとから機能をアドオンすることができるわけです。

ブラウザに新しい機能をアドオンすれば、たしかにインターネットの使い心地はよくなります。しかし、機能をアドオンすると、その機能がはたらくための処理がブラウザに必要になります。あまりに機能がアドオンされすぎていると、ブラウザでの表示が重くなったりすることも。

そこで、「アドオンを無効にする」という機能の出番となります。アドオンされた機能を一時的にはたらかせなくすることが「アドオンを無効にする」の意味です。アドオンされた機能を削除するわけではないため、また必要となれば「アドオンを有効」にして、ふたたび機能を使いはじめることもできます。

なお、ブラウザにアドオンするプログラムは、「プラグイン」ともよばれます。また、わざわざカタカナ語を使わず「機能拡張」などと表現しているブラウザもあります。

参考ホームページ
とはサーチ「アドオンとは」
IT用語辞典 e-Words「アドオン」
IT用語辞典 BINARY「アドオン」
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「わかりやすい」よりも「伝わる」


なにかのものごとを伝えるとき、人は「わかりやすく伝える」といういことを目指そうとします。

たとえば、科学にかかわる研究所がなにかの発見をしたとき、その成果を発表します。このとき、発表の内容を書く人は、読んだ人にわかってもらえるように、なるべくかんたんなことばを選ぶなどして、わかりやすく伝えようとします。

しかし、「わかりやすく伝える」ということのさらに上を目指す人もいます。それをことばにするなら「伝わるように伝える」ということになります。

「わかりやすい」という状態には、「人がわかろうとする」という積極的な行いの要素がふくまれます。人がわかろうとしたときに、その難易度が低いため「わかりやすい」となるわけです。難易度が低いとはいえ、「わかりやすい」という状態がなりたつには、「わかろうとする」という行いがなければなりません。

いっぽう、「伝わる」という状態には、「人がわかろうとする」という積極的な行いがかならずしも含まれるわけではありません。「伝わる」という状態は、人が話を見たり聞いたりするだけで、話の内容を受けとることができることをいいます。そこには、わかろうとする努力はともないません。

人は伝えたいことがあるときに、書いたり、話したり、映像をつくったりして伝えようとします。話を得る人にとって、わかろうとするよりも伝わるほうがはるかに楽なことになります。このうらかえしで、伝える人とって、わかりやすい話をすることよりも、伝わることのほうがはるかにたいへんなことになります。
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青い光で客の心をしずめようとする


色のついた光は、人の心をしずめたり、落ちつかなくさせたりするといいます。

鉄道会社は東京都内の駅で“青い光”を利用しています。たとえば、葛飾区にある新小岩駅では、2013年に入ってから、プラットホームの天井に青く透きとおる板を使い、日の光がホームに青く差すようにしています。

JR東日本がねらっているのは、駅を使う客の心の状態をおだやかにするということ。色彩心理学という分野では、青い光には沈静化の効果があるといわれています。

新小岩駅では、2011年7月から9月までのあいだに、5人の客が線路への飛びこんでいます。つまり、自殺をはかったわけです。このようなことがあり新小岩駅は、“自殺の名所”とまでいわれるようになりました。

駅員にとっても、駅で人の命が亡くなるということは、しのびがたいことでしょう。さらにいえば、人身事故の結果、列車のダイヤグラムに乱れがでるため、営業面での損失も大きいといいます。

ほかにもJR東日本は、山手線の駅の天井に青く輝く発光ダイオードを置き、おなじように客の心の状態をおだやかにすることを目指しています。自殺を防ぐほかに、落書きやごみ捨てなどを防ぐねらいもあるといいます。

参考記事
AFP「山手線全駅ホームに『青色LED』の自殺防止照明」
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「スパイスカレー カマル」のバターチキンカレー――カレーまみれのアネクドート(47)


京都の三条通は、四条通や五条通とくらべて狭い道幅。この通りには、京都のなかでもしゃれた飲食店や服屋が建ちならんでいます。烏丸三条の交差点から東に一ブロック進んだところに「スパイスカレー カマル」というカレー専門店があります。

店は奥に細い、長屋のようなつくり。手前にはカウンター席が、奥にはテーブル席があります。厨房は奥のほうにありますが、ディナーの仕込みでしょうか、入口ちかくでも鍋でカレーを煮込んでいて、香りを漂わせます。

店が定番としているのが、「バターチキンカレー」。白い皿に、半分はライス、半分はルゥがよそわれて出てきます。テーブルに、福神漬けのかわりに置かれているのは、緑、白、ピンクなどのとりどりの色に染まった刻み漬けもの。これをライスの上に乗せます。

ルゥには、上品なデミグラスシチューのように、白いソースがすこしかかっています。そして、バターの風味が自己主張しすぎない程度にきいていて、まろやかさを醸しだしています。また、ルゥには香辛料とバターのほか、トマトも使われているようです。穏やかな味で辛くはありません。

ルゥに浸っている具は鶏肉のみと素朴。鶏肉は手ごろな大きさ、手ごろなやわらかさで、バターの風味が効いたルゥとの相性もよし。

店の名前にある「カマル」(Kamal)は、ヒンディー語で「蓮」のこと。蓮はインドの国花でもあります。うるわしい店の名前。三条の街に似合うこじんまりとした店のたたずまい。そして奇をてらわないカレー。これらの要素のバランスがとれて、カレー専門店らしさをつくっています。

ちなみに、激辛のビーフカレーなどもあります。

「スパイスカレー カマル」のホームページはこちら。
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「京都と大阪はわかるけれど……」
新幹線などの主要な駅の多くは、その都市の中心街からすこし外れたところにあります。そのため、その駅をあまり利用したことのない人が、出張などで出かけるとき、「新幹線の駅」と「中心街」の位置関係をわかっておくことが、すこし大切になります。

ある首都圏在住の人は、新幹線で、名古屋、京都、大阪方面へ出張することが多いといいます。そして、その人はこう言います。

「京都はよくわかる。大阪もわかる。でも名古屋がいまひとつわからないんだよな」

これは、新幹線の駅と中心街の位置関係のこと。京都駅と京都の中心街、それに新大阪駅と大阪の中心街の位置関係はわかるのに、名古屋駅と名古屋の中心街の位置関係はわかりにくいと言うのです。もし、このような人が多いとすれば、その理由にどのようなことが考えられるでしょうか。

たいてい、人は自分のいる位置を、過去に見たことのある地図などの連想によって、「いま、自分はこのあたりかな」と想像します。

おそらく、この人は、日本地図における東海道新幹線の路線図と、それに各都市の地図を連想して、自分のいる位置を想像しているのでしょう。

このとき、この人には、「新幹線は東西に移動するもの」という先入観があるのかもしれません。この先入観に照らしあわせると、京都駅と新大阪駅はそれぞれの中心街の位置関係について、合理的といえます。

京都駅、国土地理院25000分の1地形図より

京都駅は、新幹線の路線の大きな方向とおなじく、東西に駅があります。そして、中心街は京都駅の北にあります。京都の街並みは東西南北に碁盤の目のようになっているため、これも位置関係をわかりやすいものにしています。

新大阪駅、国土地理院25000分の1地形図より

新大阪駅は、京都駅よりもすこし地図上では“ななめ”になりますが、それでも新幹線の路線の大きな方向とおなじく、ほぼ東西に駅があります。そして、大阪の中心街である梅田や難波は、新大阪の南側にあります。

これらの駅と中心街については、新幹線の路線の大きな方向とおなじ東西方向に駅があるのに対して、中心街はその北か南にあるという、かんたんな位置関係です。

名古屋駅、国土地理院25000分の1地形図より

ところが、名古屋駅はどちらかというと南北方向にホームがあります。これは、東海道新幹線が東西に走るという多くの人のもつ概念からは外れるもの。

そして、駅のホームが南北に伸びていれば、中心街は駅の南北方面でなく東西方面になります。名古屋についても、栄などの中心街は名古屋駅の東側になります。

「名古屋がいまひとつわからない」といったこの人にとって、新幹線の路線の大きな方向が、わからなさを助長しているのかもしれません。この人は、名古屋の地図を直角に回転させてみると、すこしわかるようになるかもしれません。
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“糖質なし”の鍵は蒸留


「糖質制限ダイエット」というダイエットをしてる人は多くいます。糖質とは、炭水化物のこと。ご飯やパンなどに多くふくまれている糖質をあまり摂らないで、食生活を送る方法を糖質制限ダイエットといいます。

糖質をとらないとからだの血糖値が低く抑えられます。血糖値が高いと、膵臓から出されるインスリンによって脂肪がつくられます。つまり、糖質をとらずに血糖値を低く抑えたままにすることで、脂肪をつくらないからだにする、というのが糖質制限ダイエットの理論です。

お酒についても、糖質制限ダイエットの見方からすると、「飲むべきでない酒」と「飲んでもよい酒」があるといいます。

飲むべきでないとされる酒として、日本酒やビールなどがあがります。いっぽう、飲んでもよいとされる酒として、ウイスキーや焼酎などがあがります。このちがいは、どこにあるのでしょうか。

日本酒やビールをつくるとき、穀物や果物などを酵素の力で発酵させて酒にしています。日本酒では米と米こうじを発酵させもろみという状態のものにして、これを漉して日本酒にします。ビールづくりでは大麦の糖液にホップを加えて低温で発酵させて酒にします。

これらの方法でつくられる酒は、醸造酒といいます。醸造とは、発酵や熟成などの自然のしくみを使って、酒や味噌や醤油などをつくること。

いっぽう、ウイスキーや焼酎でも、穀物や果物などを発酵させます。しかしウイスキーや焼酎をつくるときは、日本酒やビールとちがって、発酵させた液体を蒸留するのです。

蒸留とは、液体を熱して気体にし、その気体を冷やしてふたたび液体にすること。蒸留することによって、不純物がとりのぞかれ、純粋な液体になります。

たとえばウイスキーでは、麦などを麦芽の酵素で糖化してから、これに酵母を加えて発酵させた液をつくります。さらにこれを蒸留するのです。

また焼酎では、米と米こうじからもろみをつくり、さらにこれにさつまいもなどの芋類や麦などの穀類を加え、そうしてできた液体を蒸留するのです。

ウイスキーづくりや焼酎づくりでは、この蒸留をおこなうことによって、液体にふくまれていた糖質をとりのぞくことになります。そのため、“糖質ゼロ”が実現するというわけです。

しかし、ウイスキーや焼酎がダイエットに完全に効果的であるというわけでもなさそうです。

もちろん、ウイスキーや焼酎には、糖質がふくまれていませんので、糖質制限ダイエットには向いています。そのいっぽうで、アルコールがふくまれる酒を飲むことそのもので、血糖値は乱れやすくなるといった話も、栄養関連の学会などで論じられています。

「糖質なし」であることを免罪符にしての飲みすぎはよろしくないということでしょう。

参考資料
秦千里「本格焼酎とは何か」『化学と工業』2013年1月号
参考ホームページ
月桂冠「三大醸造酒(醸造酒・蒸留酒・混成酒)」
日本酒増組合中央会「本格焼酎と泡盛 本格焼酎の作り方」
日本栄養士会
「栄養相談Q&A  日本酒は血糖値を上げるが、蒸留酒(焼酎)は上げないというのは本当ですか?」
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書評『津波災害』
東日本大震災の前後には、数多くの書評も出されました。



本書が刊行されたのは2010年12月。巨大地震とそれに伴う津波が東日本を襲う、わずか4か月前のことだ。「この本のことをもっと早く知っていたら」「大津波が起きる前に読んでいたら」といった読者の声も聞かれるという。

著者は、防災や減災それに危機管理などを専門とする研究者。いまは、南海トラフ巨大地震対策検討ワーキンググループの主査も務めている、防災や震災対策の第一人者だ。

本書を著すきっかけとなったのは、2010年2月に起きたチリ沖地震津波だったという。日本でも避難指示や避難勧告が出されていたが、避難した人は対象の3.8パーセントにすぎなかった。危機意識が契機となった。「もっと早く知っていたら」という声もたしかにあがるだろう。しかし、本書が“3・11”の大津波の前に出されたことで、救われた命もあるはずだ。

本書で著者は、さまざまな視点から津波の諸相をつまびらかにして、津波の実態を浮かびあがらせる。

津波の恐ろしさを示した第1章では、津波が防波堤などの壁にぶつかったとき、運動エネルギーが位置エネルギーに変換されるため、理論上、津波の本来の高さの1.5倍にまで達することを示している。

過去の津波災害を追った第2章では、M8.4の南海地震を発生させると、生駒山脈の麓にまで津波が達するという恐るべき実験結果を示している。とりわけ地下空間が発達している現在の日本でこのような津波が起きた場合、その被害は甚大なものになりかねない。そして、確実に南海地震あるいは南海トラフ巨大地震はこれからやってくるのである。

その後、第3章で著者は、津波情報への対しかたを述べる。「逃げるが勝ち」という表現に集約されるという。また、第4章ではミクロな視点から、読者が津波に襲われそうになったときの対しかたを細かに述べる。「津波が来るから逃げろ!」と大声で叫びながら避難することが、まわりの人びとの避難を促すなどといった実際的な方法を示す。そして最終章では、より大きな視点から、津波災害への備えかたを述べる。

著者は、津波が岬や湾のあたりでどう高くなっていくかといった理論的な話も多くする。だが、これらの話の根底にあるのは、人の命を一人でも多く救いたいという切実な願いなのだろう。

「私は、持続可能とは『いま私たちが持っている大事なものを失わないこと』だと考えている。大事なものとは、まず命である。(略)命をみやみに亡くさない社会が『持続可能な社会』といえるのではないか」

東日本巨大地震が起きてから2年とすこし。人は忘れていく生きものだ。すこしずつ、そのときの教訓は薄れつつある。一般の人、行政の人、企業の人、あらゆる人がつぎの大津波に備えるために、あらためて手にとるべき本である。

『津波災害』はこちらでどうぞ。
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すべてがそれをすると困ったことになる


世の矛盾点やおかしさを示す話のひとつに、「すべてがそれをすると困ったことになる」という問題があります。

たとえば、“赤ペン先生”などでおなじみの通信添削サービスでは、毎月まじめにきちんと解答を送る会員もいれば、途中であきらめてしまう会員もいることでしょう。

もし、会員のすべてが毎月まじめにきちんと解答を送っているとしたら、“赤ペン先生”が添削をしきれなくなるといわれています。すると、この通信添削企業は“赤ペン先生”を補充するなどして人件費を増やさなければならなくなります。これが経営を圧迫して、困ったことになるという話です。

ただし、通信添削企業は、会員からの解答回収率を世に公表することはありません。企業秘密の部分が多分にあるのでしょう。この話もまことしやかな噂の域を脱していません。

飛行機でも、おなじような「すべてがそれをすると困ったことになる」問題があるといわれています。

いま、上空で飛んでいる飛行機もあれば、空港でつぎの飛行に備えたり点検を受けたりしている飛行機もあります。

もし、上空で飛んでいる飛行機のすべてが空港に着陸するということになると、航空の管理能力を超えてしまうためにそれはできないという話があります。

ただし、いま空を飛ぶことのできる航空機の数は世界で数千台といわれており、また、世界にある空港の数は世界で数百といわれています。大きな飛行機を滑走路の長い空港に入れるなどのやりくりをうまくすれば、すべての航空機が空を飛ばない状態をつくるのも、不可能でないのかもしれません。

では、これはどうでしょうか。

大きな地震と津波が起きて、大都市圏にも大きな被害が及んだとします。地震や津波や火災で家を失った大都市圏の住民は、避難しなければなりません。

もし、避難の対象となった被災者のすべてが学校や公民館などの避難所に押しよせたとしたら、収容能力の限界を超えてしまうということが考えられます。実際、南海トラフ巨大地震が起きたとき、地震の規模などよっては、このような問題がかんたんに発生すると心配されています。

自分の命は自分で助ける、ともともと考えおくほうが、万一のときには得策かもしれません。
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科学ジャーナリスト賞2013佐々木元さん「ダイオウイカ撮影成功の要因はデータ蓄積」
日本科学技術ジャーナリスト会議がおこなっている「科学ジャーナリスト賞2013」では、NHKエンタープライズ制作本部自然科学番組エグゼクティブ・プロデューサーの岩崎弘倫さんも賞を受賞しました。「NHKスペシャル 世界初撮影! 深海の超巨大イカ」の番組に対してです。

授賞式では、海外出張中の岩崎さんに代わり、同チーフ・プロデューサーの佐々木元さんが、受賞のあいさつをしました。


佐々木元さん

「選考委員のそうそうたる方々に賞に選ばれたことを光栄に思います。ありがとうございます」

「1月に放送したときの視聴率が16.8%でした。この10年間で日曜に放送したNHKスペシャルでは最高の数字をとりました。欧米でダイオウイカは評判と思っていましたが、日本でここまでみなさんに見ていただけるとは、うれしいことでした」

「撮影できて、ほんとうによかったと思っています。10年前から(ディレクターの)小山靖弘くんがほそぼそとロケを始めており、小笠原にダイオウイカがいると聞いて、二人で小笠原に行って撮影していました。何百回と撮影するも、厳しい状況でまったく映像がありませんでした」

「4年前にプロジェクトができました。NHKがテレビ史に残るような番組の提案を出すというものでした。ふたつだけ通った企画のひとつがダイオウイカの撮影でした。実際にはたいへんで時間もかかりました。途中で東日本大震災があり、撮影を中断することもありましたが、ここまできました」

「いかにおもしろい番組にするかだけを考えてきました。撮影できたことはほんとうにうれしいし、いまも信じられないくらいです。なぜ撮影できたか考えると、4年前に世界中の研究者とダイオウイカを撮影するにはどうしたらよいかの会議をしました。イカの専門家だけでなく、クジラにカメラを付ける専門家や、クラゲの発光生物を研究する研究者にも集まっていただき、だれも撮ったことのないダイオウイカを撮るにはどうしたらよいか話しあいました。NHKで超高感度カメラが開発されたりもしました」

「いちばん大きいのは、小山くんが6年間、足しげく小笠原に通って、積み重ねられたデータがあったことです。どの時期、どの海域、どのくらいの深さで、ダイオウイカの痕跡が見つかったかを細かくデータどりしていくことで、米国からの潜水艇をいつどのように沈めたら撮影できる確率が上がるかを求めました。データをもとに突きつめられたのが成功の要因かなと思っています」

「NHKのなかのはしっこばかり歩いていましたが、撮影することができてようやく廊下のまんなかを歩けるようになりました。テレビマンとして、いままでだれも見たことのないような驚く映像を撮れたことがひとつの誇りです。身近な海の底にまだ知らない世界が広がっているということを多くの人に知っていただけたのがよろこびです。こんな賞をいただけてうれしく思っています。ありがとうございました」

NHKスペシャル「世界初撮影! 深海の超巨大イカ」のホームページはこちらです。

日本科学技術ジャーナリスト会議による「科学ジャーナリスト賞2013 の受賞者が決定!」はこちらです。各賞の授賞理由も書かれています。

受賞関係者のみなさん、おめでとうございます。
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科学ジャーナリスト賞2013加藤就一さん「ディレクターが筋とおす」
「科学ジャーナリスト賞2013」では、日本テレビ放送網報道局ニュースセンター
チーフディレクターの加藤就一さんも、賞を受賞しました。加藤さんが制作した「NNNドキュメント'13」という番組の「活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択」という回が受賞対象になりました。

加藤就一さんの受賞あいさつです。


加藤就一さん

「このたびは、畏れ多い賞をいただきまして、ありがとうございます」

「私たちは深夜番組(の制作者)ですので、数台のカメラや長い期間をかけられません。中間貯蔵施設や廃炉施設を撮影したドイツではドイツ語もしゃべれませんでした。いったい何時間、滞在させてくれるかもわかりませんでした」

「米国では、電力会社に取材のための許可を申請しました。最初のうちはよい顔をしてよい返事がありました。しかし、『どんな質問をするのですか、細かい質問を出してください』と言ってくるようになり、『日本にとっての先輩国として、活断層があったときどういう選択をしたのか。バッシングするつもりはない。日本に先輩のお手本として伝えるものです』と送りました。こう書いたのですが、結局なんとなくごまかされて、施設内に入れませんでした」

「(施設内に)入れないにどうするかということで勝負しなければなりません。カメラスタッフを日本から連れて行くことはできません。米国の大統領選が終わったあとをねらって取材をし、ニューヨーク支局の徹夜あけのカメラマンを廃炉に呼び取材をしました」

「また、ドイツの廃炉については、パリ支局のカメラマンをドイツに連れていき撮りました。カメラマンから『ドキュメントで途中でカメラマンをかえてもよいのですか』と聞かれましたが、『いいのです。それは私というディレクターが一本、筋を通せばいいのだから』と説得をした次第です」

「そうしたことでようやく着地して、結果、このような晴れやかな賞をいただきました。一本の番組で、とんでもないことが報道されておらず、日本の人に知らせなければならないことがごまんと見つかりました。科学ジャーナリストとして“空っぽ”なところに自分のからだを埋めていくために、なんとか1本でも2本でも多く、訴える作品をつくっていけたらなと思っています。ありがとうございました」

「活断層と原発、そして廃炉 アメリカ、ドイツ、日本の選択」が紹介されている「NNNドキュメント'13」のホームページはこちらです。
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科学ジャーナリスト賞2013八田さん「待ちつづけて現場おさえた」
「科学ジャーナリスト賞2013」では、きのう紹介した「大賞」のほか、「賞」が3人の方に贈られています。

毎日新聞科学環境部再生医療取材班代表の八田浩輔さんは、「韓国人に未検証の幹細胞治療」というスクープ記事を報道したことにより賞を受賞しました。

八田さんたち科学環境部再生医療取材班は、この記事を2012年12月に報じました。福岡市のクリニックに、毎月500人近い韓国人がやってきて、まだ研究段階にある幹細胞を投与しているということを明らかにしました。その後も、幹細胞投与の顧客が約3700人にのぼるなどの続報をしました。

八田さんの受賞あいさつです。

八田浩輔さん

「今日は過分な賞をいただき、ありがとうございました。重厚な受賞作品ばかりのなかに、短い作品が潜りこみました」

「韓国からの患者が、どこにやってくるのかをずっと2年間にわたり追いつづけてきました。どこに、どの時間に行けば、患者が入っていくのか、そして出ていくのかを、雪が降るなかでずっと待ちつづけて、現場を押さえることをしたのが、事の始まりでした」

「今回の取材チームは、1人のデスクと7人の記者の、計8人による成果です。1人でも欠けたら成果はなかったと思います。私は(チームで)いちばん下っ端ですが、先輩がたがいなければ、こうした成果はなかったと思います。本当に感謝したいと思います。どうもありがとうございました」

毎日新聞のホームページで2012年12月22日付の「幹細胞投与 来日韓国人、月500人に 福岡の医院が」という記事を読むことができます。こちらです。
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科学ジャーナリスト大賞2013隈元さん「検証を」上丸さん「終わったことをとりあげるのに意味がある」


(2013年)5月14日(火)、東京・内幸町の日本記者クラブで「科学ジャーナリスト賞2013」の授賞式が開かれました。

科学ジャーナリスト賞は、日本科学技術ジャーナリスト会議が、科学技術に関する報道や出版、映像などで優れた成果をあげた人を表彰するもの。今回で第8回となります。

4日にわけて、大賞と賞の受賞者によるあいさつの要旨を伝えていきます。

大賞を受賞したのは、朝日新聞社「原発とメディア」取材班代表の隈元信一さんと上丸洋一さんです。朝日新聞が、2011年10月から2012年12月まで計306回にわたり連載した「原発とメディア」の報道に対して、大賞が贈られました。

隈元信一さんと上丸洋一さん

隈元信一さんの受賞スピーチ(一部抜粋)です。

「このたびはありがとうございます。授賞理由を見ますと『反省』という文字があります。『反省している姿勢は大賞に値する』と。3・11からなにが世の中にもたらされたかというとキーワードは『反省』だったというのはまちがいないと思います。みながそれぞれの立場で反省をしました」

「ぼくらは、反省しなければいけない事態になぜ至ったのかを検証しようということで、チームをつくって集まりました。1年3か月で306回の連載をして、取材記者は8人です。デスクは3人かわり、足して11人。野球やサッカーをやれる人数になっていますが、検証の作業は終わらないものです。なにも起きていなくても今日も明日も検証をしているというのが大事だと思うのです」

「上丸洋一編集委員は通史をしっかり書いてくれました。また、大阪本社の永井靖二編集委員は福井県のことを書いてくれました。ぼくらの気もちとしては、通史で書ききれないことを、地域を掘りさげて書いていこうというのがありました。その中で永井は福井支局にいたことがあり、ぼくは青森支局にいたことがあり、自分が支局にいた時代に書いた記事を俎上にあげて、先輩や後輩がやったことだけでなく、自分が書いた記事を含めて検証しよう、そこまでやらないとまずいと思ってやりました」

「青森支局にいて、その後、東京本社に来て、青森のことをすっかり忘れていました。福島でなにが起きていたのかを、東京の人はすっかり忘れていたのでは、見ていなかったのではという反省があります。つまり、ぼくらはそれを伝えてこなかったのではないでしょうか」

「福島で、福井で、青森でなにが起きていたか。原発処理をしなければいけないとき、下北半島の人びとはどう日々を暮らし、なにを考えているのかをとりわげなければいけないという反省が前提にありました。すべての出発点は反省でした」

「いろいろなことを経験して、ひとつ提案があります。すべてのメディアが自己検証をやってみたらどうでしょう。自分の会社のことを、自分の属しているメディアが書いてきたことを、内部にいるジャーナリストが検証したらどうでしょう。原発のことに関わらず、そういった姿勢をもったらどうでしょう」

「ぼくはよく言うのですが、日本でいちばんいけないのは“一社ジャーナリズム”で、それを乗りこえるのは“一者ジャーナリズム”です。記者、医者、役者、それぞれプロフェッショナルの意味あいをもった“者”というものを基本にしてつくりなおしていって、一人一人のジャーナリストが伝えることのできる環境をつくるのが、組織のためにもよいのではと思うのです」

「ただし、一人でやれることはかぎられています。ときに孤立もするし、寂しいし、つぶされたりもします。それをカバーするのがチームの力だと思うのです。テレビと新聞というメディアのちがいを超えて、本当の意味でのメディアスクラムをやってみたらどうでしょうか。その源泉にあるのは一人一人のジャーナリストだと思います」

おなじく大賞を受賞した上丸洋一さんの受賞スピーチです。

「選考経過の説明で印象に残ったのは、遠慮のなさがよかったということです。ふてぶてしい記者のように思えますが、この2年、科学の近くを歩いていましたが、ぼくは廊下のはしっこを歩いています」

「この仕事にあたり、ぼくらのようなロートルになにができるのだろうかと考えました。前線の戦いは厳しいもので、朝刊や夕刊の切った張ったの世界です。ぼくらになにができるのかという発想がありました」

「取材でいちばんうしろをさかのぼるわけです。バレーボールでいえば後衛の仕事です。場外といえるぐらいのうしろのほうから、さらに過去を眺めるという仕事をしたわけです。それが突然のように(受賞をして)、いちばん前に押しだされたということに、戸惑いを感じるわけです」

「(報道機関は)戦争が終わったとき、いまさらやってもしょうがないと思って、なにもしなかったのだと思います。しかし、だれがどのように取材したか、だれがどう判断をしたかということを新聞で検証していれば、すこしはちがっていたのだと思います。ちがうジャーナリズムがあったのではないかと思うのです」

「終わったことをとりあげることにも積極的な意味があるのではないかと、多少は肯定的に思うようになりました。ありがとうございました」

朝日新聞「原発とメディア」のホームページはこちらです。

あすからは賞の受賞者のスピーチを伝えます。
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脳は忘れ、記憶を強化し、認知を認知する


よく、脳とコンピュータは、記憶したり、記憶を活かしたりするという点で“似たものどうし”とされます。脳もコンピュータも、得た情報をうまくさばいて、貯めておき、そして要るときにとりだすことができるからです。

しかし、脳とコンピュータの記憶のしかたや、記憶の活かしかたはまったくおなじというわけではありません。脳には脳ならではの、そのやりかたがあるといいます。それはどのようなものでしょう。

まず、脳が記憶を活かそうとするとき、コンピュータよりも「忘れる」ということが大切になります。大切な記憶をとりだそうとするとき、あまり大切でない記憶を忘れるという過程が脳では起きているといいます。コンピュータでこのような過程がなされるのは、ただひとつ、空き容量がないときぐらいでしょう。

また、脳には、あるできごとの記憶は、それが貯められたところから何度もとりだすことによって強化されるという特徴もあるといいます。一度に集中的に記憶をとりだすよりも、こまめに何度も記憶をとりだすほうが、その記憶はたしかなものになります。この特徴は、忘れないうちに反復的に学習するといった方法で取り入れられています。情報がデジタル化されているコンピュータでは、こまめに記憶媒体から情報をとりだしたからといって、その記憶がほかの記憶より強化されるようなことはありません。

そして、脳は、なにかのものごとを認知することを認知することもできます。このしくみを「メタ認知」といいます。たとえば「私はこの単語の意味を理解したということを理解した」「私はこのできごとを知っているということを知っている」といったようなものです。すくなくともいまのコンピュータは、このようなメタ認知を行えるまでには至っていません。

このような、脳ならではの記憶のしかたや記憶の活かしかたがあるのを知ることができるのもまた人の脳。学習法などに活かせる可能性はありそうです。

参考文献
Andy Van Schaackら“Learning Algorithms”
| - | 22:29 | comments(0) | trackbacks(0)
いまが「激動の時代」と述べるのは、過去を述べるよりむずかしい


人は、自分のしていることに大きな価値を置こうとしたり、自分が時代の主役であるように考えたりしようとするものかもしれません。

よく、「いまはまさに激動の時代」とか、「いまは革命期のまっただなか」とかいうことを口にする人がいます。世のなかについて、あるいは、より限られたことについて、自分が生きているいま、時代の流れが大きく変わっているということを感じて、そのように言うのでしょう。

人が「激動の時代」や「革命期」ということばを使えるのは、むかしのことを引きあいに出せるからです。たとえば、「いまは革命期のまっただなか」と述べる人は、「農業革命」や「産業革命」というものを振りかえり、「これらとおなじくらいの衝撃の大きさで世のなかが変わっている」ということを感じているわけです。

むかしあった激変や革命については、それが世のなかにどのような衝撃をもたらしたのか、人は知ることができます。その激変や革命にリアルタイムで居あわえることはできません。しかし、歴史を振りかえってみて、そのできごとが大きな衝撃をもたらしたのだ認識することはできます。

かつてのことを振りかえったときの「激変の時代」と、いまのことを指しているときの「激変の時代」で大きくちがう点が、そのできごとの衝撃の大きさを振りかえってみることができるかできないかということにあります。

これは、運動競技のリーグ戦でいえば、そのチームがかつて優勝を果たしたという事実を言うのと、いま行われているリーグ戦でそのチームがいまのところ首位あらそいをしているという事実を言うののちがいのようなものでしょう。つい、そのチームを応援する人は「このシーズンも優勝だ」と口ばしります。しかし、“優勝しない可能性がある”という点で、いま首位あらそいをしているということと、過去の“優勝した”ということは、大きく異なります。

もちろん、「いまはまさに激動の時代」とか「いまは革命期のまっただなか」といったことを感じて、そう述べる人を止める権利はだれももっていません。しかし、そのようなことを言う人は、「いま、自分がこの時代を体験している」という世のなかのダイナミズムを感じるからこそ、そこに自分の生きている時代に大きな価値を置こうとしているのかもしれません。

いまがほんとうに「激動の時代」や「革命期」にあるのかどうかは、未来の人びとが現在という時代をふりかえって評するほうがより、的確なこたえを見いだせるのでしょう。ミネルヴァの梟は夜に飛びはじめるのです。
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後発の強み、“高速レーン”でも


技術開発では「後発の強み」とよばれるものがあるといいます。なにもないところから生みだした技術よりも、ある技術に影響を受けてあとから生みだした技術のほうがすぐれる、ということです。

これは、あたりまえといえばあたりまえのこと。後発の技術を生みだす人は「いますでにある技術のすばらしさを超えてみせよう」とがんばれるからです。超えるべき目標をたしかにもつことができます。

回転ずしのチェーン店でも、この「後発の強み」が活かされています。

ちかごろ、回転ずしのチェーン店では、ゆっくりとお皿にのって客の前を動いていくふだんのレーンから寿司皿をとる人が減ったといわれています。「高速レーン」などとよばれるべつのレーンがあり、そちらを使う客が増えているからです。

この高速レーンは、席に備えつけのメニュー画面から食べたい寿司を注文したときに使われるレーン。厨房のほうから、注文した寿司皿が高速で客のほうへやってきます。

この高速レーンで、子どもをふくむ家族づれに人気を博していたのが「かっぱ寿司」です。かっぱ寿司のレーンは「新幹線レーン」というもの。客が食べたい寿司を画面で注文すると、新幹線を模した“のりもの”に乗っけられた寿司皿が厨房から客のほうへやってきます。そして、寿司皿をとってから画面の「OK」の表示を押すと、新幹線が厨房のほうへ戻っていきます。

ところが、客が高速レーンを使いすぎるため、いまや新幹線はひっきりなしに厨房と客席のあいだを行ったり来たり。客の注文の多さにまにあわず、“渋滞”を起こしている店もあるといいます。

このような状況に対して「後発の強み」を活かしているのが、おなじく回転ずしチェーン店の「くら寿司」です。

くら寿司も2013年に入り、「特急レーン」とよばれる高速レーンを店舗によってはとりいれました。

かっぱ寿司の新幹線レーンにくらべて、くら寿司の特急レーンがあきらかに優れているのが、寿司皿を乗せる“新幹線”のような台を使わないという点です。くら寿司の特急レーンでは、ベルトコンベアのようなベルトの上に寿司皿がじかに置かれ、そしてベルトが高速で動くのです。

客のまえに寿司皿がやってくると、そこでレーンのベルトが急に停まります。客はひょいと寿司皿をとります。ただこれだけ。新幹線を厨房に戻す必要がありません。そのため、すぐに特急レーンをひきつづき使うことができます。

くら寿司がこの方法による高速レーンをとりいれたのは、まちがいなくかっぱ寿司の新幹線レーンに対する意識があったのでしょう。まさに後発の強みです。しかし、このくら寿司の特急レーンを超える、後発の強みがさらに生まれないともいえません。
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せめて“ギザギザ”の手すりで


街なかには、意識しなければ見すごしてしまうものの、意識して考えたら「そもそもなぜ、このようなかたちをしているのだろう」と思わせるものがあります。

駅などでたまに見かける、写真のような“ギザギザ”のかたちをした手すりも、そのひとつでしょう。

手すりとは、人が手でつかんで歩くのを楽にするための器具のこと。多くの階段の手すりは、階段の角度にそって一直線状になっています。

では、写真のような手すりは、なぜわざわざギザギザのかたちにつくられているのでしょう。

その答えが、東京のJRお茶の水駅の階段の脇に示されています。


ピクトグラムの人が「下る」ときは「ささえる」と書かれています。いっぽう、人が「上る」ときは「ひく」と書かれています。

人が階段を下るとき、そのからだは重力にしたがって下へ下へ向かおうとします。しかし、足の弱っている人や、足をけがしている人などが、この下へ下へ向かう力を足でまともに受けとめると、足に衝撃や負担を受けてつらくなることがあります。

そこで、手すりに手でつかまって、その衝撃や負担を軽くするわけです。このとき、手すりが斜めに一直線状になっているよりも、水平になっているほうが、より大きな力を手で受けとめることができるわけです。

いっぽう、人が階段を上るとき、そのからだは重力にさからって上へ上へと向かっていきます。しかし、足の弱っている人や、足をけがしている人などが、この上へ上へ向かう力を出そうとすると、足に衝撃や負担を受けてつらくなることがあります。

そこで、手すりに手でつかまって、上へ上へと向かう力を補うわけです。このとき、手すりが斜めに一直線状になっているよりも、垂直になっているほうが、より大きな引っぱる力を得ることができるわけです。

JRお茶の水にこの“ギザギザ”の手すりが付いているのにはそれなりの理由がありそうです。この駅の近くに大きな病院が多くあります。それにもかかわらず、ホームや階段の幅が狭いためエスカレーターを設置できないという事情があります。“ギザギザ”の手すりで、病院に通うお客などの負担を軽減してあげたいという、せめてもの配慮があるのでしょう。

ちなみにピクトグラムに示されている矢印のうち、左側の下向きの矢印は、作用・反作用の物理からいうと、上向きになっているほうが適切でしょう。
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書評『生命の逆襲』
週刊誌『AERA』で連載中の「ドリトル先生の憂鬱」をまとめたもの。さくさくと読めます。



生物学者である福岡伸一さんが書いた、生物、生命、自然についての随筆集。『遺伝子はダメなあなたを愛してる』の続編にあたる。

どんな生物学者でも、生命の営みに驚く気もち、“センスオブワンダー”の心はもっている、あるいはもっていただろう。著書については、その度合がとても高い。

子どものころから蝶をとりに跳ねまわり、生きものや自然をこよなく愛してきた。みずからを「オタク」とまでよんでいる。「できることなら私も職業としての生物学者でなく、アマチュアとしての純粋な虫好きでいたかったです」と赤裸々な告白までしている。

そんな著者が自然を好きで、自然にまなざしを向けてきたからこそ、にじみ出てくる、自然への愛を感じることができるだろう。

たとえば、夏場になると、電灯のまわりをたくさんの虫が飛びまわる。多くの人にとって不快なことだ。しかし、著者は虫の立場に身を置きながら、これも人間みずからがまねいたことであると説く。

虫は鳥などを避けるため夜行性で、月の光を頼りに動いている。月は地球から遠いため、その光はつねに地球に対してほぼ平行だ。この月の光に対して一定の角度を保って飛んでいれば、虫は風や障害物にでくわしてもおなじ方向に飛びつづけることができる。

ところが、人間は、この地球のいたるところで、虫が月の光とまちがえてしまう電灯をいくつもつくってはおいてきた。電灯は、月とちがって虫のすぐ近くにある。虫がこの電灯の光に対して正確な角度を保とうとすると、電灯の周りをぐるぐるとまわることになってしまう。

さらに、こうこうと照る電灯の光を昼の太陽の光とかんちがいする虫もいる。虫は夜行性だから“昼間”の動きは鈍り、結果、電灯のまえでたたずみつづけることになる、という。

このような、いきものの精緻なしくみを、知識と、伝わりやすさと、愛着とをもって親しみやすく読者に伝える。

この本のためのあとがきにある、著者のことばが、著者の人と生きものを捉えるときの立場を端的に表している。

「ほとんどの生物は人間の大先輩にあたります。そして彼らも進化の試練をくぐり抜けて、現在、その頂点に立っているのです。より長い時間を経験している分、完成度もより高いのです。人間こそがまだ未熟者なのです」

『生命の逆襲』はこちらでどうぞ。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
お腹を鳴らせるのはモチリン


しんと静まりかえった教室で、また、相手との距離が近い商談の場で。おなかは「ぎゅるるる」と鳴る場所を選びません。どうにかおなかの鳴る音をかき消そうと、椅子をずらしたり、咳払いをしたりする人もいます。

お腹が鳴るのは、からだの自律的な運動によるもの。この音の正体は、ながらく謎のままでしたが、1970年代に、「モチリン」というホルモンがお腹を鳴らす物質であるということがわかってきました。ホルモンとは、からだの特定の場所でつくられて分泌され、わずかな量でからだのどこかに特定のはたらきかけをする物質です。

1971年、カナダのジョン・C・ブラウンという生化学者が、モチリンを十二指腸から発見しました。ブラウンは、十二指腸かや小腸から分泌されるこのモチリンが、胃にはたらきかけて胃を波打たせているようだと考えました。しかし、モチリンがどのようなとき分泌されるかまではわかりませんでした。

1974年、群馬大学医学部の伊藤漸が、モチリンを犬のからだに入れてその反応を見るという実験をしました。胃や腸など十数か所に検知装置をとりつけ、1マイクログラムのモチリンを犬に注射。すると、お腹がすいたとき「ぎゅるるる」と鳴るのとおなじく、胃が波打っているようすが見られたといいます。あの音を引き起こす正体がモチリンであることを伊藤は突き止めました。

しかし、なぜ、お腹がすいたときにかぎって、モチリンが胃にはたらきかけて、胃が鳴るのでしょう。

伊藤は、胃の“掃除”がおこなわれているのだと考えました。お腹がすいたとき、胃が「ぎゅるるる」と波うつことで、胃のなかのはがれた細胞や増えすぎた細菌や粘液などを、胃の先にある小腸のほうへと押しやるのです。つぎの食べものを胃が迎えいれるための準備をしているということです。

この“掃除”が活発なのは健康のしるしともいえそうです。ただし、そう考えたからといって、静まりかえったところで鳴るときの恥ずかしさがなくなる人はすくないでしょうけれど。

参考文献
漆原次郎「あなたのまわりのサイエンス」『Azest』2009年7月号
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“思い入れ”のなさがうまくいくことも
なにかの主題に対して“思い入れ”があるということは一般的によいことだとされます。思い入れがあるためにうまくいかないとき、「思い入れが強すぎたのですね」などと言います。この言いかたを逆にとれば、度の強すぎない思い入れならあってよいということになるでしょう。

しかし、思い入れをもっていないほうが、かえってうまくいくという場合もあります。

たとえば、原子力エネルギーの利用について、思い入れのある人は、「私は断固反対だ」「私は安全性が守れれば使ってよいでしょう」などと、自分の思いを表します。いっぽうで、思い入れのない人は、このような思いをなにももちません。「原子力を使っても使わなくても、私はどっちでもよい」。

ときに、社会では「できるだけ中立にその主題のことを知らせてほしい」という求めが上がることがあります。その社会の求めの背景には、人びとのつぎのような感情がありそうです。

「あの原発反対論者が原発について解説すれば、反対の立場から解説をするにちがいない」
「あの人は賛成論者でしょ。賛成の立場で解説するよ、きっと」
「思い入れがある人が原子力について説くと、かたよりがあるんじゃないかという目で見てしまう」

社会の人びとがこれらの感情をもつのに対し、賛成か反対かといった思い入れがないような人を、人びとが「あの人は賛成派だから」「あの人は反対派だから」といった目で見ることはありません。

賛成と反対が起きやすい主題について中立に内容を知らせるという立場は、また、社会のなかで必要とされるものです。もっとも、思い入れがないということと関心がないということは紙一重。なにかを説くには、思い入れがなくても関心だけはもつか、関心さえなくても自分と人に対して関心のあるふりをすることは大切にはなるでしょう。
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「なぜ、若者の間でノー“テレビ”ライフが広がるのか?」


きょう(2013年)5月6日(月)、サイゾーのウェブニュース「ビジネスジャーナル」で、「なぜ、若者の間でノー“テレビ”ライフが広がるのか?テレビを捨てた人たちの本音」という配信されました。この記事の取材と執筆をしました。

国民全体もそうですが、とくに20歳代や30歳代に、テレビをまったく見ない人が多くなっている傾向が見られます。そこで、テレビをまったく見ない生活を実践しているこれらの世代の男女3名に、きっかけや実感を語ってもらいました。

3人とも、ほぼ異口同音に、テレビなしの生活を始めて生活の質が向上したということを言っていました。テレビを見るという受動的な行為がなくなることで、生活全般が能動的になったようです。

この記事の読者がツイッターなどでコメントを寄せています。おなじくテレビを見ないような人たちは、「テレビなくても意外とだいじょぶだと思うのです」「捨てて数年。全く困らない」「ノーテレビ健康法とか出てきていいんじゃないかと思います」などと、共感的な感想を示しています。

いっぽうで、「テレビ見る時間が減っても、その分ケータイやネット見る時間増えたら意味なし」「時間を有効活用できている。しかしその分仕事の時間が増えた。もっと大きく言うとリビングに居る時間が減った」などといった全肯定ではないコメントを寄せる人もいます。

記事では、「テレビがつまらなくなった」といったことまでは触れていませんが、そのような理由でテレビをまったく見なくなった人もすくなからずいるようです。インターネットなどのほかの媒体の情報量が多くなるなかでテレビを視るという選択肢の幅が狭くなった人や、テレビ番組には商業主義の影響が強くあると考えてテレビを避ける人もいるようです。

ビジネスジャーナルの記事「なぜ、若者の間でノー“テレビ”ライフが広がるのか?テレビを捨てた人たちの本音」はこちらです。
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「みどりの学術賞2013」宮地重遠さん、海の植物の光合成のしくみ明らかに
2013年度の「みどりの学術賞」を、きのう付でこのブログの記事で紹介した鷲谷いづみさんならびに、東京大学名誉でクリーンアース環境研究所所長の宮地重遠さんが受賞しました。

いま、中学や高校の教科書でもあたりまえのように記述されているのが光合成です。光合成とは、みどりの草木が光と二酸化炭素と水を使って、炭水化物と酸素をつくること。教科書では体系だって光合成のしくみが述べられているため、光合成のすべてが一度にわかったような感覚にもなります。

しかし、研究者たちが、ひとつひとつのしくみをすこしずつ明らかにしていくことで、光合成の全体像が示されるようになってきたのです。

宮地さんは、自身の研究のなかで、光合成の「カルビン・ベンソン回路」とよばれる過程に着目して研究を進めてきました。カルビン・ベンソン回路は、光合成が行われる葉緑体のなかで、さまざまな酵素がさまざまな段階ではたらいて光合成を行う周期のことです。米国の生化学者メルヴィン・カルビンと、アンドリュー・ベンソンにより発見されたことから、この名がつきました。

ちなみに、宮地さんは、来日していたベンソンに誘われて、米国カリフォルニア大学スクリップス海洋研究所で研究をしていたことがあります。

このカルビン・ベンソン回路では「二酸化炭素固定」とよばれる現象が起きます。光合成では二酸化炭素が使われますが、植物はこの二酸化炭素を固定させます。

宮地さんが研究を進めるまで、水のなかの植物では、この二酸化炭素固定の能力はきわめて低いと考えられていました。水のなかで二酸化炭素が拡散する速度は、陸の大気中にくらべてとても遅いからです。

しかし、宮地さんは、水のなかで生きるクロレラという植物を使って、二酸化炭素固定がどのように起きているのかを調べました。とくに、炭酸脱水素酵素とよばれる酵素に目をつけ、この酵素が二酸化炭素固定の速度を高めることを突きとめました。つまり、炭酸脱水素酵素がはたらくことで、二酸化炭素固定の短い時間で行われ、二酸化炭素が濃縮されることを見いだしたのです。


クロレラ

さらに宮地さんは、二酸化炭素の濃度が低いときには、炭酸脱水素酵素があまりはたらかなくなること、また、クロレラ以外の水にすむ植物も、おなじように二酸化炭素固定を行っていることなどを明らかにしました。

その後、宮地さんは、まわりの人びとからの人望を集め、新たな研究団体を率いる役割を果たします。1988年にはマリンバイオテクノロジー研究会を創設し、また、1990年からは海洋バイオテクノロジー研究所の総合研究所長に就くなどしました。まだ日本であまり確立されていなかった海の植物を研究する分野を切りひらいたのです。

さまざまな研究を進め、また研究分野を切りをしてきた宮地さんは、「知ることこそ研究の楽しみ」と話します。「ぼくは、科学というものは本当のところは遊びだと思っているのです。いままで知らなかったことを知る。研究の楽しみはそれにつきます」。

長年にわたり、一流の研究をしつづけるためには、自分がする研究が好きであることがひとつの大切な条件となる。そのようなことを宮地さんは伝えようとしているのでしょう。

宮地さんは、奥さんの倭文子さんとともにいまも世界を旅をするなどして、人生を楽しんでいます。

内閣府による「みどりの学術賞」のホームページはこちらです。
宮地さんの弟子筋の方がつくった「宮地重遠公式WEBサイト」にも宮地さんによる随筆や業績の数々が紹介されています。こちらです。
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「みどりの学術賞2013」鷲谷いづみさん、サクラソウとの出合いから保全生態学へ
4月15日から5月15日までは「みどりの月間」です。全国で「みどり」に関するさまざま行事が重点的に開催されます。

この「みどりの月間」や、5月4日の「みどりの日」にちなんで、内閣府は2007年に「みどりの学術賞」を創設しました。この賞は、国内において植物、森林、緑地、造園、自然保護などにかかわる研究、技術の開発その他「みどり」に関する学術上の顕著な功績のあった個人に内閣総理大臣が授与するものです。

7年目となる2013年度、東京大学農学生命科学研究科教授の鷲谷いづみさんと、東京大学名誉教授でクリーンアース環境研究所所長の宮地重遠さんが「みどりの学術賞」を受賞しました。

鷲谷さんは、いまでは保つことが大切と知られるようになった生態系や生物多様性を、学問として保っていくにはどうすればよいかを考えました。そしてその方法を学問にしました。いま、この分野は「保全生態学」とよばれています。保全生態学は、絶滅のおそれがあるような生きものをもとの姿にもどすにはどうすればよいか、という目的がはじめからある学問です。

鷲谷さんが保全生態学を始めることになった大きなきっかけのひとつに、「サクラソウ」という植物との出合いがあったようです。


サクラソウ

もともとサクラソウの進化の研究は、かのチャールズ・ダーウィンにより行われていました。

ダーウィンは、この植物の雄しべと雌しべの位置に規則的な“ずれ”があることを見つけました。あるサクラソウの花では、雄しべのほうが雌しべより高くなっています。いっぽう、べつのサクラソウの花では、雌しべのほうが雄しべより高くなっています。そして、この両方のサクラソウでは、雄しべと雌しべの、また雌しべと雄しべの位置がおなじ高さになっているのです。

ダーウィンは、これを、サクラソウが進化のなかで得た特徴のひとつと考えました。自分の雄しべとおなじ高さに、べつのサクラソウの雌しべがあるのは、サクラソウにとって都合のよいことです。花粉を運ぶハチが、サクラソウの花の蜜みつを吸ったついでに舌に付けた花粉が、べつのサクラソウの雌しべの位置にちょうど当たるためです。

こうした説をうちたてたダーウィンのサクラソウ研究を、「(ダーウィンが)いちばんの先生」と仰ぐ鷲谷さんがいわば“引きついだ”のです。鷲谷さんは、サクラソウの花粉のやりとりが、トラマルハナバチというハチにより行われているのを、自然環境動態論の研究で知られる京都大学の加藤真さんとともに突きとめるなどしました。

鷲谷さんは、『サクラソウの目』という著書のなかで、サクラソウをめぐって、ひとりのおばあさんとの出会いもあったことを述べています。

ある日、鷲谷さんがサクラソウの自生地で、研究の場でもあった埼玉県の田島ヶ原に向かうと、一人のおばあさんがたたずんでいました。話を聞くと、幼少時代に住んでいた東京の川辺に広がっていたサクラソウを懐かしく思い、田島ヶ原まで見にきたのだと嬉しそうな顔をして話したそうです。田島ヶ原のとちがって特別な保護をしないところでは、サクラソウの生きのびるところが少なくなっていました。

鷲谷さんは、風景のなかから消えた野の花を、そして人の心から消えた野の花を取り戻さなければならないと、強く考えたといいます。

サクラソウに見られる植物の進化の精緻さや、それを愛でる人の心が、鷲谷さんを保全生態学を日本で確立する道へと向かわせたようです。

5日付の記事では、おなじく受賞をした宮地重遠さんの業績を紹介する予定です。

内閣府による「みどりの学術賞」のホームページはこちらです。
参考文献
鷲谷いづみ『サクラソウの目』
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
硬性憲法「3分の2以上」の論拠に議論の余地

きょう5月3日は憲法記念日。日本国憲法が1947(昭和22)年5月3日に試行されたことを記念して、1948年から実施されています。

憲法をめぐって、「第96条」の改正手つづきの議論が起きています。安倍晋三首相が、「憲法改正の手つづきの方法を、いまより緩和すべきだ」と言っているためです。

憲法第96条には、憲法の改正手つづきについて、つぎのように書かれてあります。
_____

改正の手続、その公布
① この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
_____

「いまより緩和すべき」という議論の対象になっているのは、おもに「各議員の総議員の3分の2以上の賛成で」の部分。衆議院と参議院の両方で、すべての議員の3分の2以上の賛成があってはじめて憲法改正を国民に提案することができることになっています。

人びとが集まってなにかの物事を決めるとき、よくとられる方法に「多数決」があります。多数決とは、意見がいくつかにわかれたとき、賛成者の数の多い考えを採用することです。そして、多数決の場合、「過半数」を得た考えが採りいれられるという方法が多くとられています。

実際、法律を立てる国会では、表決は出席議員の過半数で決まるということも、日本国憲法の第57条で定められています。

では、なぜ憲法では改正の手つづきのはじめの一歩を「各議員の総議員の3分の2以上の賛成」としているのでしょう。

憲法には「硬性憲法」という考えかたがあります。改正にあたって、通常の法律よりも厳格な手つづきを必要とする憲法のことです。日本でも、通常の法律は過半数で決するのに、憲法の改正はまず衆議院と参議院の3分の2以上の賛成が必要になるということから、硬性憲法であることがわかります。

では、憲法を“硬性”にする意義はどこにあるのでしょうか。

憲法調査会の最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会は2003年4月、「硬性憲法としての改正手続に関する基礎的資料」という資料のなかでつぎのように述べています。
_____

「憲法には高度の安定性が要求されるが、反面また、政治・経済・社会の動態に適応する可変性も必須の条件である。
 ……この安定性と可変性という相互に矛盾する要請を調和させる憲法的技術が、硬性憲法だと言うことができる。憲法規定は一般に簡潔で将来の社会情勢の発展に対して開かれた形になっている場合が少なくないが、それだけでは政治・経済・社会の動態に適応することは不可能であるから、安定性の要請を充たしつつ時代の動態に合法的に応えるためには、特別に困難な手続による憲法改正を認めておかねばならないのである。
_____

つきつめると、憲法には安定性が要求されるため、硬性であるべきだという考えかたが起きる、ということになるでしょう。

しかし、それでもなお、なぜ改正に必要な賛成が「3分の2以上」なのか、つまり「3分の2以上」であることの論拠をめぐる疑問は残されます。「4分の3以上」でも「7分の4以上」でもなく「3分の2以上」となっています。

ここには、「過半数以上の賛成で憲法改正を進めるのでは緩すぎる。では、より厳しいほうで、過半数のつぎにわかりやすい数値はなにか。3分の2でしょう」といった数学的な論拠もあるのかもしれません。

なぜ、憲法改正の手つづきに「3分の2以上」という値がとられているのか。これを考えるのも、憲法記念日にふさわしいかもしれません。

参考文献
法務省「日本国憲法」
憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会「硬性憲法としての改正手続に関する基礎的資料」
朝日新聞 2013年5月3日付社説
| - | 15:08 | comments(0) | trackbacks(0)
「関心ありますか」と聞かれれば「あります」


新聞社や放送局などが存在感を示せることのひとつに、世論を伝えるということがあります。「あなたは現在の政権を支持しますか」「あなたはつぎの選挙でどの政党に投票しますか」といったことを多くの市民に調査で聞き、その結果を報じるわけです。世論を知ることで読者は「社会の人びとはこう考えているのか」とあらためて考えることになります。

しかし、世論調査の結果が社会の人びとの考えを、ふだんに忠実に反映しているかというと、そうではないとする人もいます。

まず、問いにこたえる人びとにかたよりがあるという声があります。よく世論調査では、無作為ではコンピュータが無作為に選んだ電話番号にかけるといった「無作為抽出」という方法がとられます。この方法には、問いにこたえる人にかたよりが生じることはなさそうです。

しかし、電話に出た人が世論調査に協力するか、協力しないかという段階で、問いにこたえる人びとにかたよりが生じるおそれがあります。

仕事などで忙しい人は、世論調査にこたえる時間がないため「忙しいから答えられません」と断る可能性が高くあります。いっぽう、仕事をリタイアした人は、世論調査にこたえる時間があるため「こたえますよ」と協力する可能性が高くあります。

結果、世論調査のこたえは、どちらかというと仕事をリタイアした高齢者の声を反映しやすいということがいわれています。

また、「世論調査にこたえる」という枠のなかで人びとがこたえるから、本心とは異なるこたえの傾向が生じてしまう、というおそれもあります。

たとえば世論調査で報道側から「あなたはつぎの選挙に関心がありますか」と聞かれれば、 その人のなかで、なにも聞かれないときよりも「関心があります」とこたえるほうに心が傾くことはありうることです。

なぜならば、「あなたはつぎの選挙に関心がありますか」と、関心をもつ呼び水を直前にあたえられるからです。また、「選挙に関心がある」とこたえたほうが社会市民としてふさわしいという思いから、「選挙に関心がある」とこたえる人はいるでしょう。

「何々に関心がありますか」と聞く問いでは、なにも聞かれないときにくらべて「関心がある」とこたえる率が高めに出るわけです。

世論をより忠実に反映させる方法があり、それが本当に「世論を忠実に反映している」ということが証明されれば、人びとはいまおこなわれている世論調査とはべつの結果に関心をもつようになるかもしれません。

たとえば、人びとがインターネット上で発言した内容から、つぎの選挙でどの党に投票するかを予想するといったビッグデータの活用も、実際、大手新聞社では始まっているようです。

もちろん、「インターネットで発言する人」にも、政治に関心がある、コンピュータを使うことに慣れているといった傾向があるため、かならずしも世相そのものを忠実に反映するものではありません。しかし、これらの声は、聞かれるからこたえるという種類のものではありません。将来の状況を予想するときの参考にはなりそうです。

参考記事
朝日新聞 2013年1月22日付「膨大な情報、パッとわかる」
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
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