科学技術のアネクドート

(2013年)4月20日(土)からは「MUSCIA 宇宙はなぜ美しい?」


プラネタリウム番組上映のお知らせです。

山梨県甲府市愛宕町の山梨県立科学館のプラネタリウムで、(2013年)4月20日(土)より「MUSCIA 宇宙はなぜ美しい?」という番組が上映されます。プロデューサーは同館天文担当主任学芸主事の高橋真理子さん、監督は映画監督の上坂浩光さん。監修を、物理学者の佐治晴夫さんと、サイエンスナビゲーターの桜井進さんがしています。

副題は「音楽と数学で宇宙を解き明かすサイエンスファンタジー」。宇宙は「ユニバース」(universe)とよばれます。「単一の」という意味の“uni-”と、「転回させる」という意味の“verse”が結びついたことば。古代の人は、宇宙というものに、統一のとれた調和的なものを感じとっていたのかもしれません。

統一の採れた調和的な宇宙は、いったいどのようにできているのでしょう。映画ではそのような深遠な謎を考える機会があたえられそうです。

同館は、「森のせせらぎや木漏れ日、夕暮れの空、満天の星……私たちは自然の情景を美しい、と思わずにはいられません。私たちの心を揺さぶるのは、宇宙を包み込み、また私たちの中にも共通する『根本原理』が何かあるからではないか? 宇宙や自然の美しさを、音楽と数学で読み解いていく、まったく新しいプラネタリウム番組です」と、番組を紹介しています。

監修の桜井進さんによると、封切り日の4月20日(土)には、舞台挨拶のような催しものもあるとのこと。

「MUSICA 宇宙はなぜ美しい?」の番組上映は、4月20日(土)から9月20日(金)まで。一時、上映されない期間があります。番組時間は26分で、上映は毎日16時から。費用は、入館料とのセット券で、大人800円、小中高校生320円。また幼児は入館料無料ですが、観覧費用は200円となります。

山梨県立博物館による案内はこちらです。
| - | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0)
出来合いと誂え……出来合いに軍配


製品を種類でわけるとき、「出来合い」と「誂え」でわけることができます。

「出来合い」とは、注文によってつくるのでなく、すでにつくられているもののこと。ある特定の人のために手間ひまをかけてつくったものでないということから、「出来合い」には「にわか仕立て」や「即席」といった語感もあります。

いっぽう「誂え」とは、注文によってつくられるもののこと。歌舞伎では、作者や役者がある場面のために道具を注文してつくらせることがあり、これも「誂え」といいます。

いろいろな物事によい点とよくない点があるように、出来合いの製品と誂えの製品にも、それぞれ利点と難点があります。

出来合いの製品の大きな利点は、安く、早く手に入ることです。不特定多数の人につくるということは、大量生産ができて、一つの品にかける費用もすくなく済ませることができます。しかも、すでにつくってあるものを人が買うわけですから、製品ができるまでの待ち時間もありません。見つければ買うことができます。

ほかにも、出来合いの製品は、複数の人が使うことになりますから、おなじ製品を買った人どうし、共通の話題をもつことができるという利点もあります。

いっぽうで、出来合いの製品には難点もあります。製品に自分のほうを合わせる必要があるというのはそのひとつ。たとえば、出来合いの服を買うと寸法が合わないこともあります。この服をぴったりと着るには、自分自身のからだを絞りこんだり、逆に太らせたりする必要があります。

誂えの製品の利点と難点は、出来合いの製品とは逆になります。

誂えの製品の大きな利点は、自分の望みどおりの製品を使うことができるという点です。あたえられた“枠組み”に自分のほうを合わせるのでなく、自分の使いかたに合わせて、その製品の枠組みを決めることができるわけです。これは、もともと自分がしたいことが制約なく可能になるという意味で、誂え品の大きな特徴といえます。

しかし、誂えの製品にも難点はあります。それは出来合いの製品の裏がえし。つまり、使うその人のためだけにつくられるものため、費用は高くなります。それに注文があってからつくられるために、日数もかかります。

また、使いかたで問題を抱えたような場合、おなじ製品を使っている人はいないため、情報を共有することはできません。もっとも、そのような場合、誂えの製品をつくった人に相談できるなら、その人を頼ることはできますが……。

世の中全般で、出来合いの製品と誂えの製品のどちらが多いかといえば、圧倒的に出来合いの製品となります。価格の安さや入手しやすさという利点にがあるとともに、自分のほうを合わせるということにも、多くの人は違和感を覚えずに、それを当然のことと受け止めているのでしょう。
| - | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0)
(2013年)3月30日(土)は「つながるヨガ わたしとみんなと地球と」
催しもののお知らせです。

東京・青海の日本科学未来館で、(2013年)3月30日(土)18時30分から「つながるヨガ わたしとみんなと地球と」が開かれます。22日からの10日間、地球と人間とのつながりを体験するために行われている「10日間の地球合宿」での特別プログラムです。

日本科学未来館には、「シンボルゾーン」という大広間があります。この空間には、「ジオ・コスモス」という球体があります。1000万画素で表現できる発光ダイオードを並べて、地球の様子などを見ることができる展示物です。

ジオ・コスモス

月あかりならぬ、“地球あかり”の下で、参加者がヨガの体験をするというのがこの催しもの。

ヨガとは、いまは、心身の健康法として応用されています。もともとは古代インドで行われていた宗教的実践法で、心身の統一などにより、物質の束縛から解放されることを目指すものでした。

日本科学未来館では「心地よい呼吸とポーズを通じて、自分とのつながり、自分とみんなのつながり、みんなと地球のつながりを、心とからだで感じる、未来館ならではのヨガです」と催しものを紹介しています。

企画者の人たちのヨガやこの催しものへの思い入れも強いようです。

「つながるヨガ わたしとみんなと地球と」は3月30日(土)18時30分から19時30分まで、日本科学未来館で。入館料は600円ですが、参加費は無料。定員は先着50名で17時から予約券を配布。必要なものは、ヨガマットやバスタオルなどの床に敷くもので、着替えスペースも用意しているとのことです。

日本科学未来館によるお知らせはこちら。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
企業の管理システムにも“中央集権”と“地方分権”


「これからは地方の時代」などといわれるなかで、「中央集権」ということばには、「すべてを“おかみ”が管理しようとするのにはむりがある」といった意味あいがふくまれるようになりました。

より客観的に捉えると、中央集権とは、政治権力が一元的に中央の機関に統合・集中していることを指します。このような意味から、一元的に管理することを「中央集権的」と表現することもあります。

情報技術の世界でも、長いこと中央集権的なしくみが存在しつづけてきました。「メインフレーム」あるいは「汎用機」とよばれるコンピュータシステムのことです。

メインフレームは、企業が基幹業務を行うときなどに、使われる大型コンピュータのことです。基幹業務とは、販売管理、生産管理、会計、人事、給与などの業務のことで、これらはどのような企業であっても必要となります。このような基幹業務を支える役割として、メインフレームのコンピュータが使われてきました。

メインフレームが中央集権的といわれるのは、さまざまなコンピュータ関連の装置が、このなかにふくまれているからです。電源はもちろん、命令などを行い頭脳にたとえられる中央処理装置(CPU:Central Precessing Unit)、それに情報を記憶する記憶装置などが、すべてメインフレームのなかに入っています。

いっぽうで、このメインフレームとつながっている端末のほうには、処理装置や記憶装置などはありません。端末で入力したことを、メインフレームが処理するわけです。こうした点も、メインフレームが中央集権的とよばれるゆえんです。

行政に中央集権と地方分権の考えがあるように、企業の業務管理でも中央集権的なコンピュータのシステムを使うだけでなく、地方分権的なシステムを使う動きが1990年代から出てきました。

コンピュータが扱う情報は、ネットワークでつながっています。そのネットワーク上に、メインフレームほど大規模ではない、ハードウェアやソフトウェアをいろいろな節目に置くことによっても、情報の処理をすることができます。

このような情報処理のしかたは、日本では「分散系」などとよばれています。情報処理を分散系にすることで、もし、ある節目にあるコンピュータが壊れたとしても、ほかの節目にあるコンピュータは動きつづけることができます。また、扱われるデータのすぐ近くにコンピュータが置かれるため、通信費用が減るといった利点もいわれています。

行政の分野では、地方分権がさけばれていながらも、中央集権の存在はいぜんとして大きなものがあります。情報通信の分野でもおなじように、分散系によるシステムが登場以来、増えていったなかで、いまもオープンフレームのシステムも使われています。

参考ホームページ
IT用語辞典「メインフレーム」
@IT情報マネジメント「メインフレーム」
コトバンク「メインフレーム」
Tableau用語集「メインフレームとは」
NEXGATE用語集「メインフレーム(mainframe)」
| - | 23:59 | comments(1) | trackbacks(0)
雨が落ちてきたか確かめるとき手のひらをかざす理由に「軒下説」


以前、このブログに「雨が落ちてきたかを確かめるときに手のひらをかざす」という記事がありました。

人は、雨が落ちてきたとき、手のひらをかざして雨が当たるかを確かめるしぐさをします。なぜ、頭で雨が当たるのを確かめるでもなく、手の甲で雨が当たるのを確かめるでもなく、手のひらで雨に当たるのを確かめるのでしょうか。

このしぐさの疑問をめぐって、すくなくとも頭で雨が当たるのを確かめることをしないことを支持する、ひとつの有力な説が見出されてきました。

人が雨が落ちて来たかどうかを確かめる場面はどのようなときでしょう。たいてい、人が家やビルなどの建物のなかから、屋外へ出ようとする瞬間でしょう。

そして、人には、なるべくだったら落ちてくる雨にぬれたくないという心理もはたらいているのかもしれません。ぬれるとなにかと不快な思いをするということは、経験的にわかっていることであるし、あるいはそのような記憶が永い世代を通じて記憶されているのかもしれません。

そのため、建物のなかから屋外へ出るまえに、なるべくからだ全体をぬらさないで、すこしだけ雨が降っているかどうかを確かめようとする、ということは考えられます。

すると、からだのほとんどが建物の軒下に入っていながら、雨が降っているかどうかを確かめるために、義性になるからだの部分はどこになるでしょうか。

足を出すと重要な足下や履物がぬれてしまうおそれがあります。いろいろなものに触れてきた手こそが、軒下から屋外へもっとも合理的に出すことができそうな部分となります。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
『日産V-upの挑戦』発売


新刊のおしらせです。

日産自動車のV-up推進・改善支援チームが、このたび『日産V-upの挑戦 カルロスゴーンが生んだ課題解決プログラム』という本を出しました。このチームは、日産自動車の課題解決法「V-up」を開発し、支援している部署。本の出版社は中央経済社。監修は、早稲田大学の井上達彦さん、協力は神戸大学の鈴木竜太さんです。

日産自動車は、2000年代以降、V-up(バリューアップ)という課題解決法を全グループ的にとりいれ、社員が直面するさまざまな課題に対して解決策をうちたて、実際にその策で課題を解決してきました。

V-upを紹介する本としては、過去に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)という本が出されていました。著者のライターが、日産自動車の問題解決方法を、おもに「会議」という観点から描写したものです。会議の視覚化や役割明確化といった、このライターが捉えたV-upの要点が説明されていました。

いっぽう『日産V-upの挑戦』は、V-upの開発者たち自身が著者として書いたもの。V-upとはどのような課題解決法であるか、そして、どのような思いやいきさつでこのプログラムを開発し、日産自動車に浸透させていったか。その詳細を自分たちの経験をもとに書いています。

要点をとりあげるだけでなく、V-upの体系を網羅的に説明してもいます。たとえば、一日や半日の短期集中で課題解決策をうちたてる「V-FAST」、3か月などの長期で課題解決策をうちたてる「DECIDE」といったプロセスを一段階ごとに紹介するだけでなく、その前段として解決にとりくむべき課題を定義する「IDEA」という方法も事細かに紹介しています。また、課題解決のための会議で使う「ツール」とよばれる視覚化の手段も、巻末にまとめて説明しています。

副題や出版社の内容紹介では、V-upは最高経営責任者のカルロス・ゴーン氏が生んだ課題解決法であることを強調しています。たしかに、V-upは、1990年代の日産自動車の危機を救うためにやってきたゴーン氏の号令により始まったものなので、これは事実です。

いっぽうで、ゴーン氏の強烈なトップダウンによる号令を受けて、課題解決法を開発し、社内に浸透させ、これまで3万件の課題解決を実現させた“育ての親たち”の試行錯誤や努力もありました。

監修で、早稲田大学商学部教授の井上達彦さんは、解説のなかで読者に対してV-upを模倣することでイノベーションを実現するための解説「イモベーションのすすめ」のなかで、当たり前のことを当たり前のようにやることの大切さを書いています。

「V-upというのは、きわめて単純なことを地道に進めることによって成果を上げていることがわかる。適切な課題設定をして、適切な人を集め、彼ら彼女らに適切な場とツールを与える。そうすれば、ものごとを解決することができるということなのである」

きわめて単純なことを地道に進めることは、簡単なことではありません。その単純であるけれども、簡単ではないことを続けてきたことが、「V-upの挑戦」のひとつだったといえるのではないでしょうか。

『日産V-upの挑戦』はこちらでどうぞ。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
“でたらめ”を規則的に生成
コンピュータにも、“数を扱ううえでの苦手なこと”はあります。

これまでのコンピュータにとって、「大きな数を因数分解すること」は苦手で、時間がかかってしまいます。たとえば、「238129×997351」を「237498196279」と答えるのは簡単でも、「237498196279」が「238129×997351」でできていると答えるのは難しいということです。

もうひとつ、コンピュータが苦手とされる作業に「乱数を発生させること」があります。

乱数とは、表される値に規則性のない数のこと。さいころを振ると、規則性なく、0から6までの値がでます。まさに「出たら出たその目」の「でたらめ」なわけです。

しかし、コンピュータは、人に入力されたプログラムに応えるもの。でたらめである乱数を、規則性を前提にしたプログラムでつくるのは、そもそも矛盾しているのです。

しかし、だからといって苦手なままで済ますわけにはいきますまい。人は、コンピュータでも乱数をどうにかして再現できる方法を考えてきました。プログラムにより発生させるため、真の意味での乱数ではないものの、乱数とおなじような値を発生させる方法を考えたのです。この値を「擬似乱数」といいます。

たとえば、「コンピュータの父」と言われるジョン・フォン・ノイマン(1903-1957)は、「平方採中法」という方法を考えました。

まず、「3321」のような、適当な初期値をつくります。これを2乗すると出てくる数値は「11029041」。この8桁の数のうち、中央の4桁をとりだすと「0290」となります。

この「0290」つまり「290」をまた2乗すると「84100」となります。これを8桁で示すため「00084100」とします。そしてまた、中央の4桁をとりだすと「0841」が出てくるのでこれを2乗します。「00707281」となるので、中央の4桁をとりだすと「7072」が出てきます。

これで、「3321, 0290, 0841, 7072, ……」という値が得られました。これを、ノイマンは、疑似乱数列とよびました。

しかし、これをくりかえしていくと、いつかは前に出てきた4桁の数とおなじ数が出てきます。そこからは、過去の計算がもう一度行われることになり“2週目”に突入することになります。ここには規則性があるため、真の意味での乱数ではないわけです。

その後、人びとは平方採中法より優れた擬似乱数の発生法をさまざま考えました。しかし、それらも“疑似”であることには変わりありません。

参考ホームページ
裏CHUNSOFT「乱数生成」
上智大学Econom01「乱数と確率事象」
Wikipedia「擬似乱数」
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
「ピッコロ」のチキンカレーレギュラー――カレーまみれのアネクドート(45)


大阪・梅田の地下街「ホワイティうめだ」中央の通路沿いに「ピッコロ」という店があります。通路を人びとがせわしなく西へ東へ往来するなかで、この店にはべつの時間が流れているような雰囲気があります。

「ピッコロ」は、1980年代、梅田に開店したカレー専門店。「梅田界隈の草分け的専門店」と自負しています。

「⌈ 」の形をしたカウンター。そのカウンターに沿って茶色いシートの椅子が並んでいます。椅子に囲まれた小さな厨房では、店員がいそいそと鍋の中のルゥをかきまわしたり、ライスの盛られたカレーに盛りつけたりしています。

注文後、やがてチキンカレーが出されます。白い楕円形の皿のうえに、丘のようにこんもりしたライスとルゥ。その丘の頂や斜面には、一口では口に入らないくらいの鳥肉が置かれています。

「ピッコロ」のカレーの特徴は、ルゥのこくでしょう。

褐色のルゥの色からくる想像にたがわず、その味は深みがあります。ルゥを口に入れると、ほんのわずかに香辛料のつぶつぶを舌で感じられるか感じられないか。強烈に辛いわけではありませんが、こく味のなかから、じわじわとした辛さが口のなかを伝わってきます。

ルゥには「数10種類」の香辛料が入っているといいます。香辛料にそれほどの種類があるかはわかりませんが、ルゥに深みがあるのは、多様な香辛料が渾然一体となっているからでしょう。チャツネや生クリームで味も整えているといいます。

歴史のある店には、ほかの新規店ではまねのできない、店の雰囲気や料理の風味があるもの。「ピッコロ』は、人びとがもつ「古めかしい名店」の想像を裏ぎることのないカレーを出しつづけています。

「ピッコロ」のホームページはこちら。
| - | 20:21 | comments(0) | trackbacks(0)
トンネル内では“漏らして”情報受信を可能に


ケーブルには、「情報を伝える」という役割があります。あるAという地点とべつのBという地点をケーブルでつないで、そこに信号あるいは電波を通らせるのです。信号や電波は情報に変わりますので、A地点からB地点に情報が届くようになります。

こうした2地点間の情報通信に対して、情報通信企業や電線企業は、たいてい情報の損失をすくなくすることを目指します。A地点からB地点まで、伝えたい情報が信号や電波として100パーセント伝われば、伝える信号や電波に冗長性をもたせる必要が理論的になくなります。

しかし、ケーブルで信号や電波を伝えるとき、なかには、あえてその信号や電波をケーブルから“漏らす”こともあるといいます。

このたび、東京を走る地下鉄「東京メトロ」で、乗客が電車の中でも携帯電話やスマートフォンを使えるようになりました。ここには“電波が漏れる”ケーブルが使われています。

通常、携帯電話やスマートフォンが受信する電波は、基地局とよばれる電波発信拠点から送られます。しかし、トンネル内では電波が届きにくく、携帯電話やスマートフォンはあまり使えませんでした。

しかし、トンネル内に這わせたケーブルから、携帯電話やスマートフォンが受信する電波を漏らすようにしたら……。地下鉄がトンネル内のどこを走っていても、携帯電話やスマートフォンは、その漏れた電波を受信することができるようになります。

信号が漏れるケーブルは実際にあり、「漏洩同軸(LCX:Leaky CoaXial)ケーブル」といいます。「同軸ケーブル」とは、高周波の電気信号を伝えるためのケーブル。内部導体とよばれる内側の層で送られる電気信号をケーブルの外に漏らさないよう、外部導体とよばれる外側の層がとりかこんでいます。

この同軸ケーブルに、電波を漏洩させる機能をつけたものが、漏洩同軸ケーブル。同軸ケーブルのつくりに加えて、「スロット」とよばれる細い穴があいています。そのスロットから、わざと電波が漏れるようしているのです。

漏洩同軸ケーブルが使われるのは、東京メトロのトンネルだけではありません。自動車道路にはラジオを聞くことができるトンネルがあります。

あえて信号や電波を漏らすことで、これまで情報を得られなかった場所でも、情報が得られるようになってきました。

参考ホームページ
通信用語の基礎知識「LCX方式」
ケータイ用語の基礎知識「漏洩同軸ケーブル」とは
参考記事
マイナビニュース 2013年3月22日付「なぜ地下鉄で携帯電話が使えるの? 東京メトロ全線エリア化の理由と経緯とは」
| - | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0)
「体のためには強烈なにおいのニンニクを」

日本ビジネスプレスのウェブニュース「JBpress」で、きょう(2013年)3月22日(金)「体のためには強烈なにおいのニンニクを 孤高の食材『ニンニク』の真相(後篇)」という記事が配信されました。この記事の取材と執筆をしました。

「ニンニク」と聞くだけで、どのようなことを直感するでしょう。人によっては、あの「プワーン」としたにおいを思い浮かべるでしょう。また人によっては「元気が出る」といった強壮のことを思い浮かべるでしょう。さらに、“その両方”を思い浮かべる人もいるかもしれません。

記事では、日本大学生物資源科学部教授の関泰一郎さんに、ニンニクの成分と健康への影響の関係について、科学的にわかっていることとわかっていないことを解説してもらいました。

あのにおいは、ニンニクにとっては、外敵から自分を守るための忌避物質です。タマネギを切ると催涙性物質が出てきて涙が出てくるのとおなじく、ニンニクを切ったり齧ったりするとにおい物質が出てきてにおいます。「これ以上は傷つけてくれるな」というニンニクからの警告ともいえるでしょう。

しかし、ニンニクにとっては必死の抵抗でもあるにおいを大好きになり、たくさん食べる人もいます。これはニンニクにとっては“誤算”だったかもしれません。あるいは、ニンニク好きの人がニンニクを育ててくれるようになったのだから、嬉しい“誤算”かもしれませんが。

ニンニクのにおいと、ニンニクの健康効果。このふたつは、切っても切りはなせない関係にあるようです。ニンニクには「元気になる」というほかに、「血小板凝固作用を抑えられる」「がんを予防する」などのさまざまな効果がいわれています。

これらの効果は、「アリシン」「MATS」「DATS」などの物質によるものであることが、関さんたちの研究によりわかっています。そして、これらの物質はみな、ニンニクが切られたり齧られたりしたときに発するにおい成分でもあるのです。

多くの生物にとって、ニンニクのにおい成分は、避けるべき毒のようなもの。刺激が強いわけです。しかし、人にとって、ニンニクのにおいはかえって好まれるほど。食べすぎなければ、ニンニクの刺激は、人にとって健康にプラスになるくらいの刺激であるわけです。

人とニンニクの関係も、助けあいながら生きていく“共生関係”にあるといったら大げさでしょうか。

「体のためには強烈なにおいのニンニクを 孤高の食材『ニンニク』の真相(後篇)」はこちらです。
日本におけるニンニクの歴史を追った前篇「源氏物語でも“難物”だったニンニクのにおい」はこちらです。
| - | 22:42 | comments(0) | trackbacks(0)
ほかの人が“再び書く”
物書きの仕事には、「リライト」とよばれる作業があります。

“write”つまり「書く」に、“re-”つまり「再び」がついて「リライト」。まさに「再び書く」わけです。ただし、自分で1回目に書いた原稿の出来が悪いためふたたび書くことは「書き直し」とよばれます。「リライト」は、だれかが書いた原稿に、そのだれかとは別の人が手を加えることを指します。

リライトの典型的な例は、一般の人が体験談などの原稿を書いた原稿に、職業的な物書きが手を加えるというものでしょう。職業的な物書きがリライトするのであれば、原稿の文章の質が高まるという判断を編集者などが行い、そのようなリライト作業が発生するわけです。

リライトの実際の作業には、表層的なものと根本的なものがあります。

表層的なリライトとは、1文もしくは、大きくても1段落分のなかで、元の文を平易なものにしていくような作業です。たとえば、なるべくやわらかい文体を目指しているようなとき、「連鎖する」ということばを「連なる」ということばに代えるような作業があります。また、句読点の位置を変えたり、長い1文を2文にわけたり、段落を改めたりといった作業もリライト作業にふくまれます。

この表層的なリライト作業は、ある程度、機械的に行うことができます。たとえば「何何する」ということばが出てきたときは、かならず辞書を引いて「何何る」に換えるといったルールを設ければ、あとはそれを繰りかえすだけです。

いっぽう、根本的なリライトとは、もとの原稿には見られないような要素を新たに加えたり、もとの原稿での話の展開を覆したりする作業のことです。例えば、節と節のあいだにリライト担当の物書きがもう一節を加えたり、難しい説明の部分をいったんすべて削除して、新たに比喩などを使って説明を再構成するような作業も含まれます。

表層的なリライトは、1文ずつを読みやすくしていく作業ですが、これには限界があります。もともとの文章の展開や段落の展開などが論理的なものでないと、いくら表層的にリライトをしても、論理的ではない文書のままだからです。

では根本的なリライトをすればよいかとなると、そこにも限界はあります。原稿にはなにも示されていないような状態から、なにかを示すようにするのは、リライトをする物書きの独創性をともなうもの。根本的なリライトを重ねれば重ねるほど、それは原文を書いた人の原稿から、事実として遠ざかっていくものです。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
うちあげあり・なしの理由もあり・なし
刊行物を完成させたときや、プロジェクトを完結したとき、人びとは「うちあげ」という行事を行おうとします。

「うちあげ」の第一義は、もともと「ロケットのうちあげ」のように、文字どおり、打って高く上げる、というものです。

その意味とはべつに「うちあげ」には「事業や興業を終えること」という意味もあります。さらに、「事業や興業が終わったあとの宴」の意味も含まれます。

事業や興業が終わったあとの「うちあげ」ということばの語源には、邦楽の演奏が関連しているといいます。

邦楽の曲の途中で、鼓や太鼓を加えて、曲調に一区切りをつける手法を「うちあげ」というのです。「一区切り」という意味が強調されて、「うちあげ」ということばが、「事業や興業を終えること」や「事業や興業が終わったあとの宴」という意味で使われるようになったといいます。

「事業や興業が終わったあとの宴」という意味での「うちあげ」をめぐっては、「うちあげが行われる」場合と、「うちあげが行われない」場合があります。

うちあげが行われるのはどのようなときでしょう。

まずうちあげが行われる確率が大きいのは、その事業や興業が成功裏に終わったときです。物事を成功させた人びとは、その成功や成功にいたるまでの苦労を、分かち合いたいもの。そこで、事業や興業の取締役が、うちあげをひらくわけです。

このようなうちあげは、事業や興業が行われてから1週間以内、遅くとも1か月以内に行われるのがたいていのことです。

しかし、事業や興業の3か月後や半年後に行われるうちあげも、まれにあるようです。この場合は、本当にうちあげを行うタイミングを損ねてしまっていたか、「うちあげ」と称して事業の参加者にまた新たな事業に加わってくれないか打診をするなどのべつの目的を伴うかの、どちらかでしょう。

いっぽうで、多くの事業や興業、とくに事業では、うちあげは行われません。うちあげを行わないのが当然とされていること以外に、うちあげを行わない理由もそれなりにあるかもしれません。

たとえば、事業が失敗だったとき、うちあげをやろうと考える人は多くないでしょう。うちあげをするからには、その事業のことが話題の対象になる。しかし、失敗した事業なので、その話題には触れたくない。そうであれば、うちあげをしないことが、だれにとっても無難なこととなるわけです。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
影響を受けて元に戻れない


一度、なんらかの影響を受けると、もとの状態に戻ろうとしてもなかなか戻れないということが、さまざまな分野であります。人も生まれながらの気質をもっているとはいえ、だれかから大きな影響を受ける前と後では、考え方や行動にちがいが出るということもありえます。

物理学の分野にも、“影響が残ったままなかなか元にもどらない”という状態が起きることがあります。

身近なところでは、鉄が磁石から影響を受けたときに影響が残るという現象があります。

たとえば、鉄でできた釘を、強力な磁石でごしごしと擦りつけます。そして、磁石を離してから、この鉄釘をおなじく鉄でできたクリップに近づけます。

すると、鉄が磁石の役割をして、クリップを引っぱったり、持ちあげたりすることができます。このような現象を「鉄が磁化をした」といいます。

すべての物質で、多かれ少なかれ磁化が起きます。原子を構成する電子や陽子などの素粒子には、スピン角運動量という物理的な量をもっていて、これが磁極の存在を示す磁気モーメントというベクトルで表せる量をともなうからです。

しかし、さまざまな物質のなかでも、鉄は、磁石の影響を受けると、磁気モーメントの方向がすべてひとつにそろいます。このような性質をもつ物質を「強磁性体」といいます。鉄のほか、ニッケルやコバルトといった金属も、強磁性体です。

磁化した鉄釘を、ふたたび磁化しない鉄にすばやく戻すにはどうすればよいのでしょうか。

たとえば、その鉄釘を、金槌でかんかんと叩きます。すると、さっきまで磁化していた鉄釘は、クリップを引きつけなくなります。これは、鉄釘が叩かれて衝撃を受けることで、磁気モーメントの方向が揃わなくなったからです。

たまにですが、人の場合も、強い衝撃をあたえると“我に返る”ときがあります。

参考文献
『スーパー大辞林』
参考ホームページ
公文書院「鉄が磁石になる」
岡山大学理学部物理学科味野磁性グループ「強磁性」
コトバンク「強磁性」
| - | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0)
東京大学が科学技術の成果を発信できる人材を募集


人の募集のお知らせです。

東京大学の本部広報室は、「特定有期雇用教職員」とよばれる特任研究員を募集しています。とくに、科学技術を伝える能力をもった人を求めているようです。

職務内容は、「本学の各学部・研究科、研究所等における学術研究成果をとりまとめ、わかりやすく解説・編集し、広報の視点で社会へ発信を行う企画・実務を行う」というもの。東京大学がどのような研究をし、どのような成果を上げているかをわかりやすく発信するということが要点のようです。

実際、「科学技術を公報する研究に従事する」とありますので、東京大学のなかでも理系分野の研究内容を発信することが目的のようです。なお、「英語による国際的発信を含む」ともあります。

2013(平成25)年6月1日から、翌2014(平成26)年3月31日までという10か月間ですが、「最長5年」の範囲で「期間満了後、再契約する場合がある」としています。

応募資格や条件として東京大学が掲げているのが三つ。「学術研究成果の社会に向けての発信について科学コミュニケーターや科学技術インタプリター、科学技術ライターとしての専門的な知識、経験を有する者」「海外へ情報発信するにあたっての必要な英語力を有する者」「博士の学位を取得していること、もしくはそれに相当の研究経験があることが望ましい」というものです。

いわゆる科学コミュニケーションに精通していることや、英語力があることは条件として掲げられています。加えて「博士の学位を取得していること」ともあります。ただし、この三番目の要件には「望ましい」とあるため、必須というわけではないようです。

応募締め切りは3月22日(金)必着とあります。

科学や技術をわかりやすく伝える職は、いまもって必要なのかもしれません。

詳しくは東京大学「東京大学本部広報室室員募集要項」に掲載されています。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
水位の変動に身をまかせて生きながらえる


植物は、鳥や虫や人とちがって、みずからで情動反応をとることはありません。情動とはなにかの刺激によって起きる急な感情変化のこと。栄養物を見つけたらそれに飛びつく、敵が現れたらとにかく逃げる、よろこびとともに顔がほころぶ、といったものです。植物は、このようなことをすることがないわけです。

しかし、みずからの情動反応はなくても、まわりの環境に身をまかせることで、結果的に自身の生存や子孫の繁栄をうまくやってのけることはあります。タンポポの種が風に飛ばされて遠くまでたどり着き、結果的に生息域を広げるといったことはその例です。

アサザという植物も、環境に身をまかせることで生きながらえてきました。

アサザはリンドウ科の水草で、沼や湖で生きています。ハスなどとおなじく、葉を水面に浮かせながら、地下茎を伸ばして生長します。

いくつかの生殖についての特徴がアサザにはあります。水の中や土の中では芽を出さないというのも特徴のひとつ。種のままじっと“そのとき”がくるのを待つのです。

では“そのとき”とはどのときでしょう。アサザの種が芽を出すのは、種が沼や湖の岸辺に打ちよせられ、地面のうえに身を置いたときです。地面のうえであれば、水の中でも土の中でもないため、芽を出します。

水や土のなかで芽を出さずに“そのとき”がくるのを待っている。そんなアサザの種にとって、芽を出す機会となるのは、沼や湖の水位が変わるときとなります。

たとえば、1年のうち春に水が引いて水面の位置が下がるような湖があるとします。

このような湖の水にたゆたうアサザの種のなかには、水の流れに揺られて湖のほとりにたどり着くものもあるでしょう。

ほとりにたどり着いたあと、春がきて水が引いていくことになれば、種はそのままほとりにとり残されることになります。味噌汁の味噌糟が、お椀のふちに残されるように。

水の引いた湖のほとりで、つまり地面のうえで、アサザの種はついに芽を出すわけです。

アサザにとって大切なのは、この湖が1年周期で水位を変動させているということ。この湖では、また夏になれると水の高さが上がっていくとします。すると、地面のうえで生長していたアサザは、水に浸ることになります。そして今度は生長した葉として、水面をたゆたうわけです。水面という広い場所を得たアサザは、のびのびと花を咲かせたり、種をつくったりすることができます。

こうしてアサザは、沼や湖の水位の変動に身をまかせることにより、生きながらえてきました。

アサザそのものに「水が引いたら湖のほとりにとり残されるからそこで芽を出そう」といった情動や意志はないはずです。しかし、長年にわたり湖で生きてきた結果、そのような生存戦略がアサザに備わったのです。

参考ホームページ
利助おじさんの湿地探検「ビオトープ各論 護岸と湖岸湿地」
上杉龍士・高川晋一「アサザの保全生態学 なぜ・どのようにアサザを守るのか」
| - | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0)
大賞を選んだあとに超大作


人は暦をたよりに生きているため、一年に一度の行事を開こうとします。年間の作品から賞を選んだり、年間のできごとから重大ニュースを決めたりするのはその例です。

このとき、見すごされがちな問題として「決定後に対象期間が残されている問題」があります。

たとえば、2012年度に発表された作品を3月中旬に選んで4月に発表するような賞があるとします。日本でいう「2012年度」とは、ふつう、2012年4月1日から2013年3月31日のこと。その賞では、この1年間に発表された作品が、「2012年度の賞」を受ける対象となるわけです。

2012年度に発表された作品から賞を選ぶ。この作業を対象期間を過ぎてから行うのであれば問題は起きません。しかし、なるべく早く発表をしないと、2012年度という“旬”をすぎてしまいます。そのことをいやがる人もいます。

そこで、3月の中旬あたりに、候補作品から賞の選定をする場合があります。

しかし、賞の選定をしたあと、賞をあたえる価値のある作品が発表されないとはかぎりません。たとえば、社会現象を巻きおこすような、大賞にふさわしい超大作が3月31日に発表されたとしたら……。

そのような“ぎりぎり”の作品は、次年度に回すということもありえます。しかし、「賞の対象は、その年度の4月1日から3月31日までに発表された作品とする」という賞の規定があれば、その規定からは外れてしまうことになります。

賞ではありませんが、実際、年末に起きた大事件が、その年の重大ニュースから外れたこともありました。「在ペルー日本大使公邸占拠事件」が起きたのは1996年12月17日のこと。「読者が選ぶ重大ニュース」などの企画をしていた報道機関などは、事件が起きるよりまえに「候補のニュース」を発表していたため、この事件が重大ニュースに選ばれないということもありました。

もし、対象期間中に賞や重大ニュースを選ぶ必要がある場合、すくなくとも選び終わってからの残りの対象期間に発表された作品や報じられたニュースに対して、“救済策”はあってしかるべきでしょう。

たとえば、3月中旬に賞の候補作品を選ぶ場合、対象期間を前年の3月1日から翌年の3月31日の“13か月”として、“緩衝期間”を設けておくのもひとつの手かもしれません。

賞を確実に得たいがために、選考時期に作品を発表するのをあえて外すような現象が起きれば、その賞も大したもの。しかし、たいていの賞では、そこまで考慮はされません。
| - | 20:14 | comments(0) | trackbacks(0)
昭和初期にも“キャッチコピー的”広告
人びとの心を強くとらえる宣伝文句を「キャッチコピー」といいます。広告のキャッチコピーは、1950年代なかばからの高度経済成長期、消費社会が成熟したことから多く現れはじめたといわれています。

しかし、それ以前の広告に、キャッチコピーがまったくなかったというわけではありません。たとえば戦前の1934(昭和9年)の頃にも、人の心をつかもうとする表現の工夫が広告に見られます。朝日新聞の6月25日付東京版夕刊から。

現在キッコーマンの社名で知られる野田醤油が出稿した広告には、うしろ姿の坊やがキッコーマン醤油を引いて歩く絵とともに、こんなコピーが見られます。


「くるまをひいて おとなしく 坊やはどこへ 行つて来た 坊やはおつかひ 母ちゃんに キッコーマンを 買って來た」

七五調の韻律のあるコピーで、坊や本人でも母親でもない、“だれか”に坊やがキッコーマン醤油をお使いに行った場面を描写しています。醤油の味を宣伝するのでなく、醤油の贈答品としての価値を宣伝した広告です。「おとなしく 坊やは」というあたりにやや品を感じさせながら、「母ちゃんに」とするあたりに大衆さも漂わせます。

このキッコーマン醤油のすぐ近くにはこんな広告が。


「老人には杖 病弱者には ヱビオス錠」

この「ヱビオス錠」は、1936年の当時に存在した大日本麦酒というビール会社が、目黒に製造工場を建ててつくっていた健康用の錠剤です。その後も、製造会社や販売会社を変えながらも「エビオス」という名前で発売されています。

当時は「老人」に対して「杖」と言い切り、「病弱者」に対しては「エビオス錠」と言い切るような、直接的な表現が堂々と使われていたことを伺わせます。現代であれば「お年寄りには杖を 体の弱い方にはエビオス錠を」とでも表現するでしょうか。「老人」も「病弱者」という、体をいたわる必要がある人を対句的に表現しています。しかも、「病弱者には」の延長線上に「ヱビオス錠」のロゴをそのまま使って、商品名を目立たせています。

このころの時代、キャッチコピーということばがまだなかったため、出稿者たちに「キャッチコピーをつくる」という意識はなかったことでしょう。しかし、いかに人びとの心をつかむかに、出稿者たちはこの時代も試行錯誤をしていたことがうかがわれます。

参考資料
朝日新聞 1934年6月25日付夕刊
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
メールやネットの設定用語がとり残されていく

情報技術(IT:Information Technology)が勢いよく進化していくなかで、なかなか進化せず、進化にとり残されている関連技術があります。それは情報技術関連の用語を、一般市民に伝わるようにする技術です。

たとえば、ある人がコンピュータを新しく買って、メールやインターネットをはじめようとしています。このとき、その人が向き合わなければならない、普段はあまり使わないことばがいろいろ現れます。

メールをはじめようとするとき「アカウント情報」という欄を開きます。「アカウントってよく聞くけれど、なんだ……」。

この人は、インターネット接続サービスを提供するプロバイダのホームページに行き、「アカウント」ということばを調べました。すると、つぎのような説明がありました。

「インターネット接続をするためのアカウントやパスワードについて解説します。実際にお客様がご利用されるアカウントなどはユーザーメニューからご確認いただけます」

そして、アカウントの例として、「123456.1@abc.zero.jp」という数字と英字と記号の羅列が載っていました。

「アカウントについて説明します」とは出ているものの、「アカウントとは何々のことです」といった意味を説明してくれるわけではありません。

そこで、この人は辞書を引きました。最近の辞書には、「アカウント」の項目に、「勘定・計算」「勘定口座」という意味のほか、「OSやネットワークを通してコンピュータを利用するための固有のIDナンバーやその権利」という意味が見られます。この3番目の意味が、メールをはじめようとするときに出くわす「アカウント」のことを指すようです。

しかし、「固有のIDナンバーやその権利」というあいまいな意味であり、この人はアカウントの意味をよくつかめません。

その後も、この人は、メールやインターネットを始めようと試みるにあたり、つぎのような聞き慣れないことばにつぎつぎと出合うのでした。

「TCP/IP」「PPP」「POP」「プロキシ」「受信用メールサーバ」「ユーザ名」「送信用メールサーバ(SMTP)」「ポート」「SSL(Secure Sockets Layer)」……。

たいていの項目は、変更したり入力したりせず、そのままにしておけばよいもの。しかし、「受信用メールサーバ」という欄や「ユーザ名」という欄には、その人にあたえられた固有の文字を入れなければ、メールを送受信することはできません。

たいてい、これらのことばは、コンピュータ技術が進んでいた米国などから来た外来語です。たとえば「プロキシ」ということばは、もともと「代理」や「代理人」という意味のことばですが、インターネットでは、内部のネットワークから外部のインターネットにアクセスするときの中継サーバーのことを指すといいます。

「代理」や「中継」ということばでは、より混乱を招くためあえて「プロキシ」ということばが使われつづけているのかもしれません。しかし、表意文字のことばをつかう試みがあってもよいかもしれません。

情報技術の進歩で、より人びとが情報を発したり受けとったりすることが簡単になっていくいっぽうで、ネットワークに参加するための第一歩となる設定の用語は簡単ではありません。それとも、これらのことばを理解しないでも、メールやインターネットでコミュニケーションをすることのできる世の中になっていくのでしょうか。

参考文献
『スーパー大辞林』
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
つい「根比べ」「犬寝る」「食べるな」を連想


新しいローマ法王を決めるための会議「コンクラーベ」がバチカン市国のシスティーナ礼拝堂でつづいています。

立候補制ではなく、法王につぐ聖職位の枢機卿たちが無記名で投票を行い、3分の2の得票があった枢機卿が新しい法王になります。しかし、そうかんたんには新しい法王は決まらず、何度も投票をくりかえすことも多々。2013年の今回も、すでに3回の投票をしましたが、新しい法王はまだ決まりません。

すくなからぬ日本人は、口にせずともこう思っていることでしょう。

「コンクラーベか。これは根比べだな」

「コンクラーベ」(Conclave)ということばは、「鍵(clavis)とともに(cum)」という意味のラテン語から来ているとされます。クレメンス4世(1195-1268)の後継者を決めるとき、2年9か月もかかったため、たまりかねた民衆が「鍵のかかった部屋で決めろ」と提案したことから、コンクラーベが始まったといわれます。

コンクラーベをする前に、もっと根比べが必要なできごとがあったわけです。

ある外国のことばと、ある日本のことばが、ともに意味をもち、さらにその意味に関連性があるという例は、ごくたまにあるものです。

「ケンネル」(kennel)は、英語で「犬小屋」を意味します。「犬」は日本語で「けん」とも読み、さらに「寝る」が後ろに付いて「犬寝る」。

「ケンネル」ということばは、ラテン語で「犬」を意味する「カニス」(canis)から来ているとされます。

「タベルナ」(taverna)は、イタリア語で「食堂」を意味します。またギリシャ語でも「タベルナ」(TBEPNA)で「食堂」を意味します。このことばに対しても、多くの日本人はほかのイタリア語やギリシャ語のことばを知るのとはべつの反応をすることでしょう。日本語に「食べるな」という会話文があるからです。

コンクラーベで根比べとは……。ケンネルで犬が寝るとは……。タベルナで食べるとは……。2か国語のことばの意味に偶然にも関連性があることに驚く人は多いでしょう。しかし、これほどの言語とこれほどの語彙があるなかで、そのなかのどれかが巡りあわせで意味の関連性をもつということがあっても、不思議ではありません。
| - | 23:27 | comments(0) | trackbacks(0)
インプットをアウトプットに換える


「プロセス」ということばがひんぱんに使われます。たいていは「この訓練においてはプロセスを学ぶことが大事だ」のように、「手順」や「経過」といった意味で使われます。

生産工学や情報技術などの分野には、より厳密な「プロセス」の定義もあります。

それは、「プロセスとは、インプットをアウトプットに換える過程」というもの。

たとえば、ある自動車会社の工場で、人が車をつくろうとしています。なにもないところから製品はうまれないので、ガラスや鉄板やネジなどの、車の材料を用意しなければなりません。これらの材料を使うことが、インプットにあたります。

いっぽう、この工場の社員は、最終的に車をつくろうとしているわけです。材料をもとに、車を完成させることが、アウトプットになります。

インプットの状態からアウトプットの状態にするには、組み立て、接着、塗装などのいろいろな作業をすることになります。これらの作業がプロセスとなるわけです。

そもそも人が行う作業の多くは、この「インプット、プロセス、アウトプット」のくりかえしといえそうです。自分が得た情報という資源を集めて、ワードプロセッサーなどで処理して、そしてあらたな記事やプレゼンテーション資料をつくる。この作業も「インプット、プロセス、アウトプット」で捉えることができます。

そして人によって世の中に出たアウトプットは、またべつのインプットに影響をあたえていきます。たとえば、アウトプットしての新型自動車がよく売れたら、その自動車のよかった点をインプットとしての材料に反映することでしょう。また、ある人がつくったアウトプットとしての記事を、べつの人がインプットのための情報として使うことでしょう。

こうして、人びとはプロセスという作業を経ているわけです。

参考ホームページ
JMAC「業務のプロセス面から仕事を見える化する」
@IT情報マネジメント「ソフトウェアプロセス」
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
「全体のエネルギー」はひとつではない


風力や太陽光などの「再生可能エネルギー」がどのくらい使われているのか。それを示す情報はさまざまあります。

「全体のエネルギーのなかで再生可能エネルギーが占める割合」も、そのひとつです。

エネルギーを、火力や原子力などの「“非”再生可能エネルギー」と、風力や太陽光などの「再生可能エネルギー」にわけることができます。その両方を合わせたエネルギーのなかで「再生可能エネルギー」がどのくらいの割合を占めているのかがわかれば、「全体のエネルギーのなかで再生可能エネルギーが占める割合」がわかるわけです。

しかし、「全体のエネルギー」とひとえにいっても、そこにはいくつかの定義のしかたがあります。その定義のしかたによって、知りたい数値も変わってきます。

たとえば、中国での再生可能エネルギーの普及状況について、「(再生可能エネルギーは)2010年の中国国内における発電設備容量の26%、発電量の18%、そして最終エネルギー消費の9%を占めています」という情報があります。

26%も18%も9%も、「全体のエネルギーのなかで再生可能エネルギーが占める割合」を表しているものの、具体的な数値は大きく異なっています。

「発電設備容量」とは、発電施設が発電することのできる最大の能力のこと。発電施設の能力をむだなく100パーセント利用できればもっとも効率がよいわけですが、実際そうはいきません。風力発電所では風が強すぎて風車を回さないときもありますし、原子力発電所では定期点検のため原子炉を止めることもあります。そうした事情は考えず、理想的に発電施設を最大限利用できたときの発電量がどうなるを示したのが、発電設備容量です。単位には、仕事率を示す「ワット」や「キロワット」などが使われます。

「発電量」とは、発電施設が実際に発電をした電力の量を指します。単位には、発電の量を示す「ワット時」や「キロワット時」などが使われます。ワット時は、1ワットの仕事効率で1時間になされる仕事量のこと。

「最終エネルギー消費」は、このみっつのなかでもっとも聞きなれない表現でしょうか。この表現を理解するためには、エネルギーがどのように使われたり使われなかったりするのかを知るのがよさそうです。

まず、自然界にあるがままの形で存在するエネルギーを「一次エネルギー」といいます。原油、石炭、天然ガス、原子力、風力、太陽光、太陽熱などです。

この一次エネルギー、つまり自然界にあるがままのエネルギーを、人などの生きものがあるがままの状態で使えればむだはないのですが、そうはいきません。たとえば、人が電気を使おうとするとき、石炭や天然ガスなどの一次エネルギーを電気にかえる必要があります。このとき、石炭や天然ガスから熱が逃げていったりするため、石炭や天然ガスのすべてのエネルギーを電気にすることはできないのです。

こうして、ありのままの一次エネルギーを使いやすく加工したエネルギーを、「二次エネルギー」といいます。二次エネルギーには、電力のほか、都市ガスや蒸気などがあります。電気のことだけに絞れば、上にあげた「発電量」が、二次エネルギーにあたります。単位は「ワット」や「キロワット時」となります。

では、一次エネルギーを加工してできた二次エネルギーを、人がそのまま使えるかというと、そうはいきません。発電所でできた電気を、人びとが使うまでには、電線を経由しなければなりません。発電所から各家庭に電気が届くまでにも、電気が熱に変わってしまったりして、人が消費できないむだが起きるのです。

一次エネルギーから二次エネルギーにかわるときにエネルギーが失われ、二次エネルギーが人びとに実際に使われるときにまたエネルギーが失われていくわけです。しかし、それ以上はエネルギーは失われません。なぜなら、人が最終的に消費するからです。

つまり、「最終エネルギー消費」とは、人びとが最終的にエネルギーを使うことを指します。これを量として表現すると「最終エネルギー消費量」となります。最終エネルギー消費量は、量であるため、単位は「ワット時」や「キロワット時」などになります。

まとめると、「全体のエネルギー」という表現のなかで、「発電設備容量」は仕事の効率のことを示すため別扱いの数値となります。「一次エネルギー」「二次エネルギー(発電量)」「最終エネルギー消費量」はエネルギーの量のことを示し、順番にそのエネルギーの量は減っていきます。

参考文献
資源エネルギー庁「一次エネルギー供給、発電電力量及び最終エネルギー消費の推計について」
参考記事
CASA Letter 2012年4月号「再生可能エネルギーの普及に向けて」
参考ホームページ
EICネット「一次エネルギー」
三省堂 大辞林「二次エネルギー」
| - | 23:08 | comments(0) | trackbacks(0)
食べられることで命をつなぐ


スーパーマーケットの棚には、さまざまな野菜や香辛料がならんでいます。なかでも、タマネギなどの根菜類は、炒めものなどの料理によく使われます。

タマネギ植物学的に分類される先は、「ユリ科ネギ属」。この属には、タマネギのほかにも、おなじみの野菜や香辛料がふくまれています。

「長ねぎ」として知られるネギもそのひとつ。タマネギは、葉の部分が地面のなかで変形して丸くなったのに対して、ネギはまっすぐ棒状。栽培すると、根の白い部分は土のなかにうまり、緑色の部分は土から顔を出します。

ニンニクも、ユリ科ネギ属。独特のにおいは、「アリシン」という物質によるもの。鱗片(食べる部分の固まり一個)をすりおろしたり、刻んだりすることで、もともとのアリインという物質がアリシンに変わり、においを放ちます。タマネギなどにも量は少ないものの、アリシンのもとであるアリインはふくまれています。

ラッキョウも、タマネギ、ネギ、ニンニクなどの仲間です。ユリ科ネギ属に共通しますが、ラッキョウもにおいを放ちます。

ニラもユリ科ネギ属。ネギとおなじく、土のなかの根の部分は白色で、葉の部分は緑色をしています。

ユリ科ネギ属には、ほかにも、アサツキ、ギョウジャニンニク、イトラッキョウなどもあり、種類は700種類以上になるといいます。


ユリ科ネギ属の学名は「Allium」(アリウム)。ラテン語では「アリウム」は「ニンニク」の意味。食材として使う根の部分とあまり結びつかない人もいるでしょうが、写真のような全体で丸い形となる花を咲かせます。とくに花の色が白いものは「ネギ坊主」とよばれます。

タマネギは紀元前5千年ごろ、ペルシャ地域で食用として栽培されていたといいます。またニンニクも、紀元前3200年ごろには古代エジプトですでに食用として栽培されていました。

人にいろいろな食用あるいは観賞用に栽培してもらえば、子孫を残してもらえることになります。ユリ科ネギ属は、人を利用した生存戦略の勝者のひとつといえるかもしれません。

参考ホームページ
ブルドックソース「玉ねぎの秘密。」
湧永製薬「ニンニクを科学する」
NHK出版「みんなの趣味の園芸 アリウム」
参考文献
栃木県健康増進課「玉ねぎ」
世界大百科事典第2版「アリウム」

| - | 19:07 | comments(0) | trackbacks(0)
書評『機械との競争』
幾何学的な表紙カバーのデザイン。本文のページも茶色い紙に青い文字と奇抜。それでいて内容はごくシリアスです。



ものづくりの現場では、「機械ができることは機械にやらせる」という考えのもと、機械がものをつくることがあたりまえになった。工場の自動化が進んだわけだ。

自動化を果たした工場の管理者たちはこう話す。「人員削減で人件費も減り、生産効率性も高まりました。え、それまで働いていた作業員はどこへ向かうのかって。より人としての仕事ができるところに移ってもらうのです」。

しかし、実際に機械に仕事を奪われた人は、どこへ向かっているのだろうか。

著者は、マサチューセッツ工科大学スローンスクールの経済学部教授とリサーチサイエンティスト。著者は、人がしてきた仕事を、情報技術(IT)や機械が奪いはじめている現状を示す。さらに、今後も人が仕事の機会を得ていくために、「機会との競争」の時代にどのように対処すべきか、その提案もしている。

生産現場での自動化はすでに起きている。本書で、著者はさらに、これまで人でしかできないとされるのが常識だったような職種に、情報技術が侵出している事実を指摘する。機械に仕事を奪われる可能性のあるとする職種は、「帳簿の記帳」「銀行の窓口係」「工場の半熟練工」「運転手」「弁護士」「医師」とさまざまだ。

人の仕事が機械に奪われるという傾向は、実際の経済状況で現れているという。労働生産性は年々高まっている。しかし、いっぽうで実質世帯所得中央値は横ばいあるいは下がっているという。つまり、生産力は高まれど、人びとの所得は増えない、という状況に陥っているのだ。

このような状況になった理由を、著者は、情報技術の進歩があまりにも急激すぎるからとしている。情報技術は加速度的に進化していく。それに人びとが付いていくことができない。チェス盤のうえに米を1粒、2粒、4粒、8粒と倍々になるよう載せていくと、ある段階から急に盤のうえに米粒が増えることを感じることになる。この「チェスの法則」というたとえを使って、現在が情報技術の進化における、その「ある段階」にさしかかったのだと説く。

「チェスの法則」が情報技術の進歩に当てはまるかどうかの検証が乏しいため、この状況が真実であるかは、10年後に10年前を振りかえって確かめるしかない。しかし、確実に機械が人の仕事を奪っていく状況が存在するのは確実だ。

情報技術を推進するのは、その技術を創出した人、あるいはその技術を駆使して効率性の向上を目指そうとする経営層であり、そうした人びとが人口に占める割合は、ごくわずかだ。ごくわずかのそうした人びとが、情報技術を積極的に導入しようとする。いっぽう、大多数の人びとは導入された情報技術に受動的に対応していくしかない。

情報技術はどこまで進歩しているのか、それが経済にどのように影響をおよぼしているのか、そして人が働くとはどういうことか、こういったことを問いなおす機会を、著者は人びとにもたらした。

『機械との競争』はこちらでどうぞ。
| - | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0)
真夜中の県道305号江の島線を行く(後)
神奈川県藤沢市の片瀬海岸と江の島を結ぶ、県道305号江ノ島線の道を深夜に進んでいます。江の島に付いてからのつづきです。

島の付け根にある土産物レストラン「貝作総本店」の前のベンチとテーブル。昼間はここで、観光客がさざえのつぼ焼きを食べているのか。

江の島にもバスは走る。県道305号沿いのバス停の名は「江ノ島」。

仲良くならび、おなじ色の光を放つ自動販売機。

江島神社の鳥居。本尊は、土産物屋や、伝説の「江ノ島エスカー」がある歩道の先、江の島2丁目に。

歩道に刻まれた「こきざみがい」。イガイ科。

江の島ヨットハーバーで大切に置かれているヨットの数々。

県道305号線の途中にある旋回路。先にも道はつづくが、ここですべての車が旋回路を回って引き返していくのは……。

5時までは閉鎖中のため。

ここにも“島らしさ”の象徴、ソテツが植わる。

江の島ヨットハーバーの入り口。看板の惹句はなにをかいわん……。

県道305号線の端。車道はここも旋回路になっている。先には防波堤の壁がそびえる。

防波堤の壁の脇には階段があり、鉄格子はあいていて、防波堤の向こうへと誘う。

防波堤の向こう。手前に波消しブロック、海の向こうには三浦半島の街の灯り。星が輝くのは、海の上には街の光がないから。了。
| - | 21:18 | comments(0) | trackbacks(0)
真夜中の県道305号江の島線を行く(前)
神奈川県藤沢市にある江の島は、砂州で陸続きになった島。個人クルーズ船を使ったり、泳いだりしないかぎり、この島を訪れるには「305号江の島線」という700メートルの短い神奈川県道を通ることになります。

305号江の島線をわたって、真夜中の江の島へ出発します。


江の島の最寄り駅は、小田急江ノ島線終点の片瀬江ノ島駅。終電を降りた客が、竜宮城の佇まいの駅舎から出てくる人の数はまばら。

駅のすぐ先には、境川にかかる橋。

人の体をモチーフにしたような像も。

橋を渡ると観光案内所。ここは片瀬海岸一丁目。

国道134号線の下をくぐる通路。こうこうと灯りだけがともる。

西浜と東浜は「片瀬海岸」とよばれる海岸。

いよいよ、江の島に向かう橋へ。ここから県道305号線。

龍の灯籠が、来島客を迎える。

古くからの看板ははげかかっている。

「島」らしくソテツの木が植わる。

橋の途中にある「江の島乗合船」の乗り場。行き先は、江の島の岩屋の洞窟。

歩行者用の「江ノ島弁天橋」が工事中のため、車道の「江の島大橋」の道幅を狭くして一部を歩道に。

橋の向こうには、遠く三浦半島の葉山町あたりの海岸線の灯りが。砂州に打ちよせる波の音が聞える。

夜中の1時30分、江の島へ向かうランナーの姿も。

ついに江の島へ到着。右奥は、土産物屋や、伝説の「江ノ島エスカー」へとつづく歩道。県道305号線は、左に折れて江の島の奥へ。つづく。
| - | 23:15 | comments(0) | trackbacks(0)
3月、南風吹き、火ひろがる


春の全国火災予防運動が、ことし2013年も3月1日(金)から7日(金)まで行われています。会社や学校で、避難訓練をした人もいることでしょう。

3月初旬のこの時期になぜ火災予防運動が行われるのでしょう。

運動の発端となったのは、1927年3月7日に起きた北丹後地震での火災被害とされます。マグニチュード7.3の地震が18時27分に起きました。ちょうど夕食時だったため、いたるところで火事が起き、京都府北部の峰山町(いまの京丹後市)では、家の97%が消失したといいます。

この火災被害を受けて、消防庁傘下の大日本消防協会が、1930年3月7に「防火運動」を行い、京都、大阪、兵庫、滋賀、奈良の2府3県が参加しました。これが、春の火災予防運動の始まりとされます。

いっぽうで、この春先は、地震が起きなくても火災が起きやすい時期でもあります。

春の移動性低気圧が、西の大陸から日本海を通って東へと移っていきます。低気圧はまわりの空気を自分のほうに引き込みますので、日本列島の広い地域で南風が吹きます。

この南風そのものは、太平洋から“生温かい”風で、湿り気を帯びています。しかし、南風が山を駆けのぼり、さらに山を越えて駆けおりていくと、乾燥した空気だけが山の向こうに達します。これは「フェーン現象」とよばれるもの。

乾燥した空気が山を駆けおりてくるうえに、風も強いわけです。そのため火が出ると、とても燃え広がりやすくなります。3月の火災発生件数は、1月とならんで、毎年のように、ワースト1位か2位になっています。

消防庁も、春の全国火災予防運動の目的を、「火災が発生しやすい時季を迎えるに当たり、火災予防思想の一層の普及を図り、もって火災の発生を防止し、高齢者等を中心とする死者の発生を減少させるとともに、財産の損失を防ぐこと」としています。

参考記事
消防庁 2013年2月21日発表「平成25年春期全国火災予防運動の実施」
参考ホームページ
東京消防庁「火災予防運動のあゆみ」
| - | 21:36 | comments(0) | trackbacks(0)
剛田武「おまえのものはおれのもの、おれのものもおれのもの」の二義性誇示に成功


『ドラえもん』に登場する“ジャイアン”こと剛田武は、さまざまな名台詞のもちぬしでもあります。

「おまえのものはおれのもの、おれのものもおれのもの」は、“ジャイアン語録”屈指のひとつでしょう。これは、野比のび太が所有する野球道具を、剛田が「おれのもの」にしようとしてのび太に凄んだときの台詞です。剛田に「な!!」と、同調を求められた骨皮スネ夫は、「うん。」と言いました。

剛田の発したこの台詞は、英国の劇作家ウィリアム・シェイクスピアが「尺には尺を」という劇で創作した、“What's yours is mine, and what's mine is my own.”という台詞と極めてにています。「トリビアの泉」などでも紹介されています。

“What's yours is mine, and what's mine is my own.”と似た意味の慣用句に、“Heads I win, tails you lose.”というものもあります。

“heads”とは、硬貨の表のこと。“tails”とは硬貨の裏のこと。コイントスをして、「表が出たらおれの勝ち、裏が出たらおまえの負け」と言っていることになります。つまり、どちらにしても「おれの勝ち」となるわけです。

いずれにしても利己的な意味のことばといえます。

しかし、剛田が発した「おまえのものはおれのもの、おれのものもおれのもの」をめぐって、2010年代に入って新展開が見られました。

2011年3月25日に放映された、アニメの『ドラえもん』「のび太のハチャメチャ入学式」で、小学校に入学したばかりの野比が、ランドセルを植木屋の車の荷台に誤って載せてしまい、遠くまでもっていかれそうになる一幕があります。

ここで助けに入ったのが、おなじく入学したばかりの剛田でした。剛田は、植木屋の車のあとを必死に追いかけていきます。そして、運も味方して、ついに野比のランドセルを奪還したのです。

のび太にランドセルを渡した剛田は、野比に「ありがとう、ジャイアン」と感謝されて、こう言ったのでした。

「どうってことねぇよ。だって、おまえのものはおれのもの、だろ」「だから、おまえのものはおれのもの、おれのものもおれのもの、だ」

野比のランドセルであるにもかかわらず、危険を顧みずそのランドセル奪還を決意した理由として、剛田は「おまえのものはおれのもの」だからと、野比に説明したのでした。

剛田は、この台詞を発することによって、野比の所有物を「おれのもの」にしてしまうほどの利己的な性格の持ちぬしであるという側面があることを示唆しながらも、野比に対して献身的に尽くした自身の行為との辻褄を合わせることに成功したのでした。

参考文献
『ドラえもん』第33巻
参考ホームページ
english-worldview “Heads I win, tails you lose.”
参考番組
テレビ朝日『ドラえもん』2011年3月25日放映「のび太のハチャメチャ入学式」
| - | 20:19 | comments(0) | trackbacks(0)
伐るべきだけれど伐りづらい


人は、視野を広げたり狭めたりすることができます。それは、眼の前の人を見つめたり遠くの山を見たりといった物理的な視野だけでなく、いまの瞬間を見るか100年間を見るか、また、町内会を世界を見るかといった抽象的な視野のこともさします。

物理的な視野については、両眼を寄せたり離したりすれば、近くのものも遠くのものも見ることができます。

いっぽう、抽象的な視野については、そうかんたんにはいかないこともあります。

身のまわりの自然を守る活動にも、そのむずかしさを示す話があるといいます。

里山の自然を守ろうとしている市民団体があるとします。里山とは、人の暮らしに深い関わりをもつ森林のこと。

その市民団体は、あるジレンマに直面していました。「里山の姿をとりもどすために、樹齢100年になる大木を切り倒すべきかどうか」。

里山とよばれていた森では、いつの時代も人の手が入ることで、豊かな自然や生物多様性がまもられてきました。里山では、樹齢100年になるような木は、多くありませんでした。かつて人びとは、樹齢20年の木を成長した木として伐りたおし、木材や木炭などの材料に使っていたのです。木を伐りたおしたあとには、日の光が降りそそぎ、新たな木の新芽が生えてくるのでした。

里山は、樹齢20年ぐらいの木を伐りたおしては、また木を成長させるといったことを繰りかえして、平衡状態を保ってきたわけです。

その市民団体が管理している森には、もう何十年も人の手が入っていません。そのため木は伐られず、樹齢は100年にもなっています。そのような木を前にすると、人は、たんに技術的に伐りづらいと感じるだけでなく、こんな巨木を伐ってしまってもよいのだろうかという精神的な伐りづらさも覚えるといいます。センチメンタルバリアのようなものでしょう。

その木のことだけを考えれば、そこまで成長したのだから、伐りたおすのはもったいない、あるいは畏れおおいという感覚になるのも無理ないことです。いっぽうで、人との関わりがある森林をまもるということを考えれば、その木を伐りたおしたほうがよいことになります。

長期的なことや壮大な視野でとりくむべきことと、短期的なことや身近なこととしてとりくむべきことには、しばしば対立する考えがつきまとうものです。

参考文献
太田猛彦『森林飽和』
| - | 23:40 | comments(0) | trackbacks(0)
獰猛路線も臆病路線も成功して“さまざまな性格の犬”
犬には、いろいろな性格があります。アメリカン・ピット・ブル・テリアや土佐犬に多いような獰猛な性格のものから、ミニチュア・ダックスフントに多いような臆病な性格のものもいます。


アメリカン・ピット・ブル・テリア

ミニチュア・ダックスフント

犬の性格には、ひとつの種類の固体のなかでも現れるとはいいます。つまりアメリカン・ピット・ブル・テリアのなかにも獰猛なものから臆病なものまでいるということです。とはいえ、種類によってある程度は「獰猛な種類」や「臆病な種類」といったように区別をつけられるようです。

なぜ、犬には獰猛な種類や臆病な種類があるのでしょうか。

ここで思考実験をしてみます。もし、この世のすべての種類の犬が、みんな獰猛であったとします。一匹の犬からしてみれば、獰猛な性格の持ちぬしは力強いでしょうから、闘いに勝つこともできそうです。

しかし、すべてが獰猛な犬の世界では、争いごとが絶えません。縄張りや餌の確保をめぐって、犬どうしが傷つけあうことでしょう。これは、ほとんどの犬にとって、都合のよいことではありません。つねに争っていては、命の危険にさらされてばかり。自分の子どもを残すエネルギーの確保もままならないからです。

いっぽう、獰猛な種類の犬もいれば、臆病な種類の犬もいる世界では、どのようなことが起きるでしょう。「あの犬、怖いよぅ。なるべく近寄らないようにひっそりとしていよう」というような臆病な性格の犬は、なるべく争いごとから遠ざかって暮らそうとすることでしょう。

おびえながら一生を送るのは、一見、大変そうではあります。しかし、むだな争いを避けて生きることはできます。闘う機会がすくない分、生きのびやすいし、子どもを残しやすくなるともいえます。

臆病であることで成功した犬は、だんだんと進化していくなかで、臆病なほうへ、臆病なほうへと、“圧”がかかっていきます。

いっぽうで、獰猛な犬も、ほかの犬との縄ばり争いなどに勝つことで、その犬にとっては生きやすい環境を築くことができます。つまり、獰猛であることで成功した犬も、だんだんと進化していくなかで、獰猛なほうへ、獰猛なほうへと“圧”がかかっていきます。

さらに、犬は、古くから人に飼われてきました。このごろでは、愛玩動物としての価値が高まっています。

そのため、ご主人である人の都合のよいように、「番犬に向いた犬」「服従性の強い犬」「鳴かずにおとなしい犬」といった具合に、選択交配がかけられてきました。

この人工的な交配によっても、より犬の性格はわけられていったことでしょう。

平芳幸子・中島定彦「性格表現語を用いた犬の性格特性構造の分析」
| - | 17:24 | comments(0) | trackbacks(0)
書評『森林飽和』
問題視されていることを問題視するといった観点からの森林紹介です。


いま、よくいわれている課題も、より長期的な視座で見ると、ちがったように見えてくる。そんなことを読者に考えさせる、日本の森林をテーマにした本だ。

いま、日本では「里山」の荒廃がいわれている。薪や炭に使う木材や、山菜などを採ることのできる、人里から近いところにある森林のことだ。

たしかに、“いま”の視点でとらえると、里山は人が入らない場所となり、手入れがされない。ササの生えるがままとなり、荒れた森となった。

しかし、著者は、1950年代以前、日本の里山とよばれる場所では、より激しい荒廃があったと述べる。江戸時代や明治時代に撮影された野山の写真や、江戸時代の絵師が描いた風景画などをもとに、日本の野山は広く「はげ山」であったというのだ。

かつて、日本人のエネルギー源は、薪や炭だった。また、建物も木を伐って木材にして使っていた。資源は森林しかなかったのである。さらに、戦国時代から江戸時代にかけての人口の増加により、人の森林への利用圧が増えた。こうした森林は「はげ山」になっていったという。

その後、20世紀になると、明治時代中期に森林法をはじめとする森を整備する法や制度、技術が確立していった。戦後には造林が広がっていった。明治期までの日本の荒廃した森林は、戦後になり豊かな森林に変わっていったのである。

さらに、1960年代になると、エネルギー革命により、日本人はエネルギー源を、森でなく、石炭に求めるようになった。こうして人は森林からはなれていった。

そして“いま”がある。

では、この長期的な視点のなかで、いまの森林をどのように見ればよいのか。著者の結論はこうだ。

「日本の森林は劇的に変化し、現在日本の森林は四百年ぶりの豊かな緑に満ちているのである。……こんな変化は日本の植生史上なかったことである」

であるとすると、いまいわれている「森林を守ろう」「里山を守ろう」という声は、どのようなものなのか。

豊かな森といっても、それは“量的”なものであると著者は指摘する。日本の森は“質的”には、まだ豊かではないということだ。明るいコナラやクヌギなどの二次林、アカマツの二次林などは、うっそうとした密林に変化している。モウソウチクの林の管理がいきとどかなくなり、竹は過密状態になっている。

人の手入れをしてきた森林については、量的には飽和状態を迎えたいまもなお、管理・保全していく必要があるということだろう。著者は、生物多様性の保全などの必要がある森を「護る森」、人の生活に役立てる森を「使う森」として、区別して考える必要があるとする。

大きく捉えれば、「昔のほうがもっと森は荒れていたのだから、いまの森の豊かさは心配する必要がない」という著者のメッセージがある。しかし、細かく捉えれば、「“量的”な豊かさを、“質的”な豊かさに変えていく必要がある」という著者のメッセージがある。日本の森林に対する認識をあらためる読者は多いだろう。

『森林飽和 国土の変貌を考える』はこちらでどうぞ。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
CALENDAR
S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< March 2013 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで (JUGEMレビュー »)
サイモン シン, Simon Singh, 青木 薫
数学の大難問「フェルマーの最終定理」が世に出されてから解決にいたるまでの350年。数々の数学者の激闘を追ったノンフィクション。
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
amazon.co.jp
Billboard by Google
モバイル
qrcode
PROFILE