2012.12.31 Monday
無効票で「後悔」の念をもたない
2012年には、12月に衆議院選挙がありました。この選挙で、自民党が圧勝し、ふたたび安部晋三さんの政権が始まっています。
この選挙の特徴として、候補者を立てた政党が12にのぼったことや、インターネットによる党首討論が行われたことがいわれています。
もうひとつの特徴としてあげられるのが、無効票が多かったことです。小選挙区では、全体の3.31%にあたる204万票が無効票だったといいます。これまでの国政選挙で無効票が3%を超えたことはありませんでした。
無効票とは、投票用紙になにも書かれていない白票や、候補者や政党の名前以外のことが書かれた票のこと。これらは当然ながら、得票としては数えられません。
候補者から議員を選ぶという作業を考えたとき、無効票の存在は意味をなしません。影響があるとすれば、開票者は無効票を除外する分だけ、手間がかかるということです。
しかし、無効票を投じる個人の立場から考えると、この無効票にはまたべつの意味をあたえることができそうです。
「選挙」とは、多人数のなかから票を投じることなどにより適任者を選びだすこと、という意味。この意味からすると、意図的に無効票を投じることは、選挙としての行為からは外れることになります。
しかし、わざわざ投票所まで足を運んで、白票などの無効票を投じた人には、「だれも選ばなかったこと」に対する意識が植えつけられるでしょう。そして、この意識は、ゆくゆくその人のなかで意味をなしてくるかもしれません。
人は、なにかを選んだとき、その選んだものが選ぶまえの期待どおりになれば、「期待どおり」の念が生まれます。しかし、選んだものが選ぶまえの期待どおりにならなければ「後悔」の念が生まれます。
この場合の後悔の念は、自分がなにかを選んだことがもとで生まれてくるもの。もし、自分がなにも選ばずに時を過ごしていくなかでおなじ状況が起きたとしても「自分はこれを選んでしまったのだ」という後悔の念は起きません。
つまり、人は選ぶからこそ、選んだことによる後悔の種が生まれるわけです。
これは選挙についてもいえること。選挙で候補者を選ばなければ、「期待どおり」の念が起きる可能性がないかわりに、選んだことによる「後悔」の念が起きる可能性もなくなります。
ここ数年、選挙で選んだ議員や政党が、ことごとく期待どおりのことをしてくれないという思いを、すくなからぬ有権者は抱いているでしょう。そうであれば、候補者のだれかに一票を投じるよりも、候補者のだれにも一票を投じないほうが、「後悔」の念を抱くことを避けられるわけです。
もうひとつ大きな枠組みで捉えれば、そもそも投票に行かないということもできます。日本では、選挙での投票は、国民の権利ではありますが、義務ではありません。
しかし、選挙権をふくむ権利について、「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」ということが憲法の第十二条には書かれています。
無効票であっても一票を投じることは、選挙により国政を決める状態に寄与するといえるでしょう。逆に、一票を投じないことは、選挙により国政を決めることに寄与するとはいいがたいもの。ちがいは、投票所に行く「努力」があるかないかです。
投票所まで足を運んで、意図的に白票などの無効票を投じた人は、選ぶことによる「後悔」の念をまぬかれることと、選挙により国政を決める制度を保つことのふたつを、一票分、確かなものにすることができたわけです。
2013年には参議院選挙が予定されています。投票率と白票率はどうなるでしょうか。
参考記事
朝日新聞 2012年12月18日付「投票率最低なのに…選挙区の無効票『過去最高』」
今年も「科学技術のアネクドート」をお読みいただき、ありがとうございました。どうぞよい年をお迎えください。