科学技術のアネクドート

「不慮の事故」死亡原因1位は窒息、職業別リスク1位は鉱業
人は、いつ起こるかもわからない「不慮の事故」に遭う危険をつねにもちながら生きているものです。

生命保険などの世界では、「不慮の事故」には、偶然性と、急激性と、外来性というみっつの要素があると考えられています。

偶然性というのは、まさに「不慮」のことを示しており、予想もしなかったことが身に起きるという意味です。

急激性というのは、事故があまりに切迫して身に起きたため、事故が起きることがわかっていても避けようがないようなものをいいます。ぎゃくに、「これは過労死になりそうだな」というような働きづめの状況がつづいていたり、死につながるような病気をもっていたりする人が、それに関係する災厄に遭ったとしても、不慮の事故とはいいづらいようです。

外来性というのは、事故に遭う人そのものが事故の原因をもっていないということを意味します。

どんな「不慮の事故」で、人が死亡しやすいかを表す統計もあります。厚生労働省は「平成21年度『不慮の事故死亡統計』の概況」という発表のなかで、「主な不慮の事故の種類別にみた死亡数の年次推移」を公表しています。



主な不慮の事故の種類別にみた死亡数の年次推移
厚生労働省「平成21年度『不慮の事故死亡統計』の概況」より

それによると、1995年から2008年までの13年間でも、交通事故による死亡数は1万5,147人から、7,499人へと半分ほどに減っています。

いっぽうで、交通事故を超えて、不慮の事故ナンバーワンになったのが「窒息」です。これはおもに食べものをのどに詰まらせてしまい、息がふさがることを指しているようです。乳幼児や高齢者が窒息することが多く、すべて死亡事故ではありませんが、乳幼児の窒息の原因として、ナッツ類、プチトマト、もち、 ちくわ、生のにんじん、棒状のセロリ、リンゴ、 ソーセージ、こんにゃく、ポップコーンなどが報告されています。

第3位につけているのは転倒・転落。これからの日本では、高齢者がさらに多くなるため、転倒や転落といった不慮の事故が増えていくことでしょう。

職業別でも不慮の事故による死亡リスクが調査されています。厚生労働省の人口動態統計から導かれるところでは、不慮の事故による死亡のリスクがもっとも高い職業は、鉱業。つぎに高いのは林業。そのつぎに漁業、そのつぎに農業、そのつぎに電気・ガス・熱供給・水道業とつづいています。

こうした不慮の事故をめぐる統計調査は数多くあります。しかし、多くの人は不慮の事故がわが身に降りかかることばかりを考えたりしません。考えないで生きるほうが、幸せに生きられると無意識に判断しているからでしょう。

参考ホームページ
ズバリ!生命保険「『不慮の事故』とはどんな事故?」
厚生労働省「平成21年度『不慮の事故死亡統計』の概況」

参考文献
食品安全委員会「食べ物による窒息事故を防ぐために」
柴田徳思「放射線量の読み方と的確な対処法」
| - | 23:59 | comments(1) | trackbacks(0)
デジタルカメラ、眼と似て非なる機械――(3)センサ

カメラで撮影するときに欠かせない要素の三つ目は、「光を記録する」というものです。具体的には、フィルム式のカメラではフィルムが、デジタルカメラではセンサが、光を記録するための材料となります。

デジタルカメラでは、光を記録するセンサとして、相補型金属酸化膜半導体(CMOS:Complementary Metal Oxide Semiconductor)という半導体か、あるいは電荷結合素子(CCD:Charge Coupled Device)という部品が使われます。

カメラで撮影した写真の画像は、「ピクセル」という小さな点をたくさん並べることで表現されます。レッド、グリーン、ブルーの光の三原色の組みあわせで、すべての光の色を表現することができます。たとえば、レッドとブルーを重ねればマゼンタに、レッドとグリーンを重ねればイエローになります。

デジタルカメラで撮影された光は、レッド、グリーン、ブルーの各要素にわけられてから、CMOSやCCDのセンサに当てられていきます。この段階では、フォトダイオードという半導体が、光を電気信号に換えます。これにより、レッド、グリーン、ブルーのそれぞれの光は0から255までの数値情報になります。

このレッド、グリーン、ブルーの三原色のセットの情報が、縦と横にいくつも並べられたピクセルに反映されます。それにより、全体として写真で撮影した像が再現されるわけです。

CCDセンサは、シリコン酸化膜のうえに、多くの転送用電極という素子を乗せた構造をしています。CCDセンサでは、電荷をバケツリレー方式に転送していき、最終的に信号として扱うようなしくみになっています。


CCDセンサ

いっぽう、CMOSセンサでは、画像を構成する最小単位である画素のひとつひとつに対して、信号をとりだしていきます。

CMOSセンサ

かつて、CMOSセンサを使ったデジタルカメラでは、画像はきれいに保存されにくいといわれていました。しかし、CCDがほぼ光の記録のみに使われるのに対して、CMOSには半導体メモリやマイクロプロセッサなどさまざまな使われかたがあるため、進化のしかたが速いといわれています。そのため、ちかごろでは、CMOSを使ったデジタルカメラの画像性能も高まってきています。

フィルム式のカメラであっても、デジタルのカメラであっても、像として捉えたものをこれほど鮮明に記録することができる点は、人や動物の眼と脳ではまねのできないことです。了。

参考ホームページ
キヤノンサイエンスラボ「写真」
スタジオグラフィックス「デジカメの『しくみ』 CMOSって良いの? 悪いの?!」
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
デジタルカメラ、眼と似て非なる機械――(2)シャッター


カメラで写真を撮るときに欠かせないふたつ目の要素が、「光を一定時間だけあてる」ということです。

フィルムを使う方式のカメラでは、シャッターという装置がその役目を果たしています。いっぽう、デジタルカメラでは、シャッターとおなじ役目を電子回路による処理で果たしています。

レンズを通して入ってきた光は、第3回でとりあげる記録用のフィルムやセンサに、“ほどよい量”で当たる必要があります。光がフィルムやセンサに当たりすぎると、写真が真っ白になってしまい、ぎゃくに光がフィルムやセンサにほとんど当たらないと、写真が真っ黒になってしまいます。そのため、“ほどよい量”の光にする必要があるわけです。

レンズからフィルムやセンサへの光の道がいつも筒ぬけになっていては、フィルムやセンサが光を全面的に受けることになります。できた写真は真っ白に。そこで、すこしの時間だけ光を受けいれて、あとは光を受けいれないようにしておく必要があるわけです。

ここで使われるのがシャッター機能です。フィルム式のカメラでは、実際にフィルムの手前に光を遮断するシャッターの装置が用意されており、撮影した像に対して“ほどよい量”の光にかぎる役割を果たしています。

いっぽう、デジタルカメラでは、記録するためのセンサに対する光を調整するため、「電子シャッター」とよばれる機能がついています。画像記録用のセンサでは、電気を空の状態にしておいて、撮影のときに光をためこんでいき、光がある程度たまったところで電気としてとりだすというしくみになっています。

この光をためこんでいる時間が、シャッタースピードということになります。

シャッターのほかにも、カメラには光を受け入れる量を絞り込む「絞り」の機能もついています。シャッターと絞りにより、“ほどよい量”の光を記録用のフィルムやセンサにあたえて、ほどよい明るさの写真を再現するわけです。つづく。

キヤノンサイエンスラボ・キッズ「カメラのしくみって?」
NTT PCコミュニケーションズ用語解説辞典「電子シャッター」
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
デジタルカメラ、眼と似て非なる機械――(1)レンズ


カメラのしくみは人の眼のしくみと比較されて説明されることがあります。しかし、カメラでは「撮影する」つまり「景色を記録する」といった、眼にはないしくみもあります。

そもそも、カメラはどのようにして、形式を記録することができるのでしょうか。いま多く使われているデジタルカメラで、そのしくみを見ていきます。

カメラで写真を撮るときには、つぎのみっつの要素が欠かせないといいます。

「像をつくる」「光を一定時間だけあてる」「記録する」

まず「像をつくる」というのは、カメラの正面についているレンズシステムが担うはたらきです。レンズは光を集めるための部品です。カメラのレンズは複数枚あるのがふつうで、レンズが前後に移動することによってピント合わせをします。

デジタルカメラでは、携帯電話のカメラ機能をふくめ、どの機種にも自動でピントを合わせるしくみがあります。おもにデジタルカメラのピント合わせでは、「コントラスト検知式」と「位相差検知式」というふたつの方式が使われています。

コントラスト検知式は、デジタルカメラのなかにあるイメージセンサという、光情報を電気信号に換える素子を使ってピント合わせを行なう方式です。このイメージセンサは、カメラが写そうとしている対象物や風景のコントラストの状態を調べることができます。そこで、このイメージセンサによって、コントラストがもっとも高くなるレンズの位置にレンズを移動させるわけです。

コントラスト検知式のピント合わせは、おもにコンパクトデジタルカメラで使われています。

いっぽう「位相差検知式」は、レンズを使ったピント合わせの方法です。ふたつのレンズが、ひとつの被写体に対して、それぞれ、どの方向にどのくらいずれているのかを検知します。そのうえで、べつのレンズが前後に移動して、そのずれがなくなるような位置に来ます。これによりピントを合わせます。

位相差検知式のピント合わせは、大きな筒状のレンズシステムひとつがカメラの正面についた一眼デジタルカメラでおもに使われています。

「コントラスト検知式」や「位相差検知式」とはべつに、デジタルカメラから超音波や赤外線を被写体にむけて当て、跳ね返ってくる時間や角度を検知して、カメラから被写体までの距離を測る方法もあります。この方法を組み合わせているデジタルカメラもあります。

ふたつめの要素である「光を一定時間だけあてる」というのはどのようなしくみでしょうか。つづく。

参考ホームページ
キヤノンサイエンスラボ・キッズ「カメラのしくみって?」
おやじの写真屋さん「ピントの合わせ方」
デジタル大辞泉「コントラスト検出方式」
デジタル大辞泉「位相差検出方式」
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
秒針が1秒より長く止まって見える


アナログ表示の時計とデジタル表示の時計では、「どちらのほうが使いやすいか」といったことが議論の対象になります。

いっぽうで、「秒針がカチ、カチ、カチと秒を刻んで動く時計」と「秒針がスムーズに動く時計」でも、くらべ甲斐があります。

秒針がカチ、カチ、カチ……と刻んでいく時計の秒針を、突然にぱっと見てみます。すると、最初に見た瞬間の秒針が、1秒より長く止まっているように見えることがあります。

これは、アナログの腕時計などでも、デジタルにコンピュータ画面上に示される時計でも感じられるもの。また、つぶっていた目を突然にぱっと開いて時計の秒針を見ることによっても、「1秒間より長く止まっている秒針」を感じることができます。

いっぽう、秒針がスムーズに動いている時計では、秒針そのものが止まっていることはありませんので、秒針がじっと止まっている感覚を味わうことはできません。

秒を刻む秒針を突然ぱっと見たとき、1秒より長く止まっているように見える感覚には、科学的な説明が付けられています。

目でとらえた物理的なできごとを視覚として感じるのは、眼と脳の連携のなせるわざ。しかし、脳には「無駄になるようなことはあえてせず、さぼれるところはさぼる」といった性質があります。

たとえば、人がなにか動いているものをぱっと見たとします。そのとき脳は、動いているあいだのものについては、あまりきちんとは視覚として捉えようとしません。いわば、脳が手を抜いているわけです。そして、ものが止まった瞬間に、脳は視覚できちんと捉えようとするのです。

ここで、脳は、“辻褄合わせ”をします。

ものが止まる前の動いているあいだの時間に眼がとらえた景色も“映像”としてつなぎあわさなければなりません。そこで、脳は、ものが止まってからの景色を、ものがまだ動いている時間にもあてはめるのです。脳は、止まっている画像を、止まるまでの時間にさかのぼって“穴埋め”しているわけです。

眼が時計の秒針を見たときもおなじことがいえます。秒針をぱっと見るまでの時間は、視点がまだ秒針にさだまっていません。その時間、脳は手抜きをして、きちんとその像を視覚として表現しようとしないわけです。

そして、眼が秒針をきちんと捉えた瞬間、脳はその画像を、手抜きしていた時間帯にも当てはめるわけです。つまり映像の“穴埋め”をするのです。

そのため、突然ぱっと見た秒針は、1秒間よりも長く止まっているように感じられることがあるといわれています。これは、錯覚のひとつで「クロノスタシス」とよばれています。

参考ホームページ
脳と心と人工知能「サッケードとクロノスタシス」
| - | 23:59 | comments(0) | -
「いつの間にか味の改良が進む『緑のたぬき』」


日本ビジネスプレスのウェブニュース「JBpress」で、きょう(2011年)11月25日(金)、「いつの間にか味の改良が進む『緑のたぬき』」という記事が配信されました。記事の取材と執筆をしました。

日本そばの歴史と現代を紹介する前後篇の記事です。きょうの後篇は現代篇。即席の日本そば「緑のたぬき」をつくる東洋水産に取材をしました。

「緑のたぬき」が生まれたのは1980年のこと。それよりまえに、同社は1963年、四角い袋のなかにそばと粉末スープが入った「マルちゃんのたぬきそば」という即席の日本そばを発売しています。この商品が売れたことが、その後の「緑のたぬき」誕生への布石にありそうです。

即席カップそばや即席カップうどんでは、関東で発売するものと関西で発売するものの味つけが異なることはよく知られています。「緑のたぬき」でも、関東ではかつおぶしのだしと濃口しょうゆが基本になっているのに対して、関西ではかつお節、にぼし、昆布のだしと醤油を合わせています。

風味のちがいは、発売される地域によるものだけでなく、発売される時代によるものもあるようです。

「緑のたぬき」では、発売当初から、すこしずつ“つるつる”と口に入るようななめらかな麺に進化してきているといいます。そばの成分のうち、小麦粉は通常“つなぎ”の役割を果たすもの。しかし、カップ麺の日本そばでは、小麦粉を滑らかさを出す役割として重視しているようです。

こうした風味の変化は年々、行なわれているもよう。しかし、「あれ、なんか『緑のたぬき』が変わったな」と気がつく消費者はすくなそうです。発売当初からの食感を好んでいる消費者に、「これは『緑のたぬき』ではないのでは」と思われてしまわないように、はっきりとは味の変化が判らない程度に、味を変えているのだそうです。

そばの製法を大きくかえて、ちぢれ麺をまっすぐにしたのを大々的に宣伝した食品メーカーがあるいっぽうで、東洋水産は、判らない程度の味の変化を重ねていく戦略をとっているようです。

日本ビジネスプレスの記事「いつの間にか味の改良が進む「緑のたぬき」 旬到来!日本そばの進化は続く(後篇)」はこちら。
前篇「中国4000年より深い『そば』の歴史9000年」はこちら。
| - | 21:15 | comments(0) | -
データセンターで情報は分散から集中へ

電子的なデータなどの管理を、会社のコンピュータで行なうのでなく、データセンターという建物におかれたコンピュータで行なうといった方法が増えてきています。インターナットなどのネットワークを介して操作するコンピュータの利用形態は「クラウドコンピューティング」ともよばれています。

データセンターを使って電子情報を管理することの利点には、どのようなものがあるのでしょうか。

ひとつは、電力消費のむだを減らせるというもの。会社が自社内にコンピュータ管理用のサーバを置くと、社員のいない夜や休日でもサーバを冷やしておく必要があり、空調代がかかります。データセンターでサーバを管理してもらえば、自社をいつも冷房で冷やさなくてもよくなるわけです。

もうひとつは、会社の経営をうまく進めることができるというもの。たとえば、サーバなどのコンピュータ管理設備が必要ないため、資産をもたずに経営ができるようになります。高いお金を使って設備をとりいれると、その設備を購入するのにかかったお金のもとをとろううとします。

しかし、その「もとをとろうとする」という行いに引っぱられるあまり、逆に儲けを減らしたりすることも起こりえます。資産をもっていなければ、それだけ自由に行動することができるわけです。

そしてもうひとつが、情報の安全性を高められるというもの。「データを自分たちの組織以外の人たちに預けて、しかもデータを集中させて、危なくないの」という疑問もわいてきます。

しかし、データセンターは、電機メーカーや情報通信関連企業などが運営しています。多くの企業からしてみれば、自分たちの会社で管理するよりも、よほど情報管理の専門家にデータ管理をまかせたほうが安全だといわれています。

これらの利点をデータセンター運営企業や、業界団体はデータセンターの利点としているわけです。インターネットの普及で電子情報は分散化してきましたが、ここにきてデータセンターやクラウドコンピューティングの利用価値が高まることにより集中化あるいは一元管理化の動きがでてきています。

参考ホームページ
IT用語辞典「データセンター」
日本データセンター協会「データセンターの効用」
| - | 23:59 | comments(0) | -
2012年1月21日(土)は「日本サイエンスコミュニケーション設立記念シンポジウム」
 催しもののおしらせです。

2012年1月21日(土)、東京・本郷の東京大学福武ホールで、「日本サイエンスコミュニケーション協会設立記念シンポジウム」が行なわれます。

日本サイエンスコミュニケーション協会は、国立天文台台長の縣秀彦さんを代表として7年間、活動をつづけてきた「21世紀の科学教育を創造する会」が来年2012年1月に創設を目指している社団法人です。

協会のホームページでは、協会設立の主旨をつぎのように述べています。

―――――
サイエンスコミュニケーションを促進し、継続していくためには、全国で行われている多様なサイエンスコミュニケーション活動を繋ぐことで支え合い、一般の人々、教員、科学技術者、メディアおよび行政の関係者など社会の多様な活動主体を積極的に巻き込むことで、ネットワークをより頑強なものにしていく必要があります。

そこで私たちは、全国の広範な仲間との交流を通じた情報と理念の共有、学術研究の深化などを積極的に進めるため、「一般社団法人 日本サイエンスコミュニケーション協会」を設立することといたしました。私たちは、サイエンスコミュニケーションを促進し、サイエンスリテラシーを育み、社会に貢献していきたいと考えています。
―――――

この協会の設立にあたり、設立記念シンポジウムが行なわれるわけです。そのテーマは、「今こそ、科学の芽を育む!」。「日本におけるサイエンスコミュニケーションのあるべき姿を皆さんと一緒に考える」ことが、この催しものの内容とのこと。また、「サイエンスコミュニケーションを活性化させるための事業企画や課題」を、国立天文台が主催してきた「日本科学普及リーダー養成研究会」の参加者たちがポスター発表します。

基調講演は、科学技術振興機構(JST)研究開発戦略センター長の吉川弘之さんが行なう予定。

また、パネルディスカッションでは、東京理科大学教授の北原和夫さん、文部科学省研究振興局の倉持敬雄さん、埼玉大学教育学部准教授の小倉康さん、神奈川県立生命の星・地球博物館館長の斎藤靖二さん、ガリレオ工房理事長の滝川洋二さん、インターネット総合研究所の藤原洋さん、日本科学技術ジャーナリスト会議理事の元村有希子さんがパネリストとして登壇します。進行役は、はこだて未来大学教授の美馬のゆりさん。

催しものの対象は、「サイエンスコミュニケーションに関心のある方ならどなたでも」。合わせて、日本サイエンスコミュニケーション協会は、会員も募集しています。

科学コミュニケーションの大切さが大きくいわれるようになって数年が経ちます。これまでの各団体が行ってきた科学コミュニケーションへ試みがうまくいっているのであれば、市民にも科学を知り、科学で考える力は定着しはじめているはず。そのなかで、同協会が目指していくのはどのようなものか、この催しもので明らかになりそうです。

日本サイエンスコミュニケーション協会設立記念シンポジウムは2012年1月21日(土)。詳細の載っている同協会のホームページはこちらです。
| - | 23:59 | comments(0) | -
山形新幹線内の1435ミリは続くよどこまでも


山形新幹線は、東京駅から福島駅を通って、山形県の新庄駅までを走っています。東京駅から福島駅までは東北新幹線とおなじ路線を走り、福島駅からさきは山形県内や秋田県内などを通って青森駅までを結ぶ奥羽本線を走ります。

新幹線と一般の在来線の軌条幅はちがうもの。新幹線の軌条幅は1435ミリであるのに対して、在来線の軌条幅は1067ミリメートル。400ミリ弱もちがうわけです。

東京から出発した山形新幹線は、福島駅までのあいだを東北新幹線の軌条で走り、福島駅から先は奥羽本線の軌条で走ります。新幹線と在来線では軌条がちがうはずのに、どうやって走るのでしょうか。

福島駅では、山形新幹線はしばらく停車します。このあいだに車輪の幅がヴィーンと狭まているのでしょうか。いいえ、山形新幹線の福島駅での停車は、連結して走ってきた東北新幹線と車両の切りはなしをするためのもの。

車輪の幅をフレキシブルにするのは技術と費用がかかりそうです。そこで、奥羽本線のうち、山形新幹線が走る区間の軌条幅を1067ミリから1435ミリのものに変えたのです。これにより、山形新幹線内の線路幅1435ミリは続くよどこまでも、ということになりました。

しかし、もともと奥羽本線の普通列車は1067ミリの軌条幅のうえを走っていたはず。1067ミリの車輪幅の電車が1435ミリ幅の軌条のうえを走ることはできません。とすると、電車をつくりかえたのでしょうか。

じつは、電車のつくりでは、車輪がある台車と、客がいる車体とは独立したものになっています。つまり、車輪のある台車のうえに車体を乗せたかたちで、電車の一両はセットになるわけです。

そこで、奥羽本線の普通列車用として1435ミリ幅の台車を用意し、そこに、1067ミリの台車から車体を外して載せかえます。こうすれば、普通列車も新幹線の1435ミリの軌条幅のうえを走れるわけです。

ただし、山形新幹線は新庄駅で終点に。この先は、山形新幹線は走らないのだから、1435ミリの軌条幅にする必要はありません。実際に、新庄駅から北の軌条幅は1067ミリに。そのため、福島駅から新庄駅までを走る奥羽本線の普通列車は、新庄駅から北の区間を走ることはできません。奥羽本線の線路は続くよどこまでも、とはいかないわけです。

なお、奥羽本線では、さらに北の大曲駅と秋田駅のあいだを秋田新幹線が走っています。こちらの一部区間には、レールを3本置き、ひとつめとふたつめの軌条幅を1067ミリに、ひとつめとみっつめの軌条幅を1435ミリにした、「三線軌条」という線路も見られます。
| - | 23:59 | comments(1) | -
「肉のジュージュー」が目覚ましく発展


ことばの使いかたの発展には、目をみはるものがあります。

たとえば、「シズル」ということばがあります。英語の“Sizzle”から来ているもので、“Sizzle”は肉を焼くときの「ジュージュー」という擬音語です。

日本国内にあるステーキ店「シズラー」も、この「シズル」を意識して付けられたのでしょう。

「シズル」は転じて、食品の味わいを思い浮かばせるような写真や映像や図案などを指すことばとして、広告業界やマスメディアで使われています。

つまり、「ジュージュー」という音を模したことばが、聴覚だけでなく、視覚に訴えるものの意味までもつようになったわけです。

たとえば、「シズルの画像はメールで添付します」といった具合に使われます。英語圏の人たちが「ジュージューの画像はメールで添付します」と言っているようなものでしょうか。

「シズル」の発展は続きます。「シズル」に「感」がついて、「シズル感」という表現ができました。これは「実物とおなじような美味しさや新鮮さの感覚」といった意味をさすもの。

たとえば、「このポスターだけど、もうちょっとビールのシズル感がほしいのよね」といった具合に使われます。もともと「シズル」が、肉の焼ける音を示したことばであることを考えると、このセリフは「このポスター、もうちょっとビールの“肉のジュージュー感”がほしいよね」となるわけです。わけがわかりません。

さらに、「シズル感」は広告業界を超えたといいます。同人誌業界などで「肌のみずみずしさ」や「きらきらした輝かしさ」を意味する表現として使われています。

「肉のジュージュー」がここまで発展するのは、この「シズル」や「シズル感」を使う人たちが、ことばの使いかたに対して俊敏だからなのでしょう。

参考ホームページ
デイリーポータル「なんでもかんでもシズル感」
同人用語の基礎知識「シズル感」
| - | 23:59 | comments(0) | -
「津波の心配なし」に理由づけを、の声
 なじ分野の情報に、くりかえし触れているうちに、だんだんと知識が身についていくことがあります。そのひとつの好例とされているのが、気象情報です。

わざわざ気象学の勉強をしなくても、毎日の天気予報を聞いているうちに、「あすは西高東低の冬型なので北風が吹いて寒くなる」といった知識がすこしずつ身についていきます。また、「あすの夜の降水確率は60%です」といった確率の話を何度も聞いていれば、リスクという概念にも慣れていきます。

日によって変わる気象条件に対して、くりかえし「明日はこういうことになるので天気はこうなる」といった理由が説明されていきます。これを「明日の天気はどうなるのかな」といった興味をもって接する市民は、天気のことが詳しくなっていくわけです。

東日本巨大地震のあと、余震をふくむ地震の情報がたびたび速報されることにもなりました。震度5以上の大きな地震では、放送局が番組を中断してニュースを伝えることもあります。

このとき伝えられるのは「ゆれが強かった地域の方は、念のため津波に注意してください」とか「個の地震による津波の心配はありません」といったものです。

こうした「津波の警戒を」や「津波の心配なし」といった情報に対しても、理由が付くと市民の地震や津波に対する知識が高まるのではないかという声が聞かれます。

津波の警戒をするかどうかには、地震が発生すると、ただちに震源位置や地震規模を推定して、津波が発生するかどうかを判定します。このとき、とくに「津波の心配なし」となったときには、なぜ心配するに至らなかったのかもニュースの中で伝えることにより、地震や津波に対するリテラシーが高まるようになるという意見です。

緊急性を要する津波警報では、「理由を説明している場合ではない」といったことなのかもしれません。しかし、天気予報にくらべて、津波の有無に対しては理由づけが不足しているのではという意見もあります。

参考ホームページ
tenki.jp「津波の情報と正しい行動」
| - | 23:59 | comments(0) | -
動画配信で「会場に行く利点」探し課題に


サイエンスカフェやシンポジウムなどの科学技術の催しものも、ちかごろは会場に足を運ばないでも映像で見ることができるようになってきました。

とくに、インターネット上の動画供給サービス「USTREAM」(ユーストリーム)などを使って、会場の様子をそのまま同時に映像として配信することが多くなっています。

こうなると、わざわざ会場にまで行って、その場で催しものを観る意義はなにかということに関心が集まってきます。

もし、講演者の話す内容を把握したいということだけであれば、会場で観ても、インターネット映像で視ても、ほとんどかわりません。であれば、わざわざ会場まで行かなくても、インターネットで視ればよいということにもなりかねません。

くらべる対象になるのがスポーツの試合でしょうか。野球場やサッカー場に行って観戦をする派と、テレビ中継で観戦する派にわかれるといいます。

試合会場まで行って試合を観る人たちは、「テレビでは味わえないスタジアム全体の雰囲気がある」といったことをよく口にします。

しかし、科学の催しものは、スポーツの試合などにくらべると、たんたんと進んでいくもの。科学の催しものは、スポーツの試合ほどは、現場での臨場感や迫力が重視されるわけではありません。

すると、科学の催しもので、映像でも内容を伝えるけれど、会場にもお客さんに来てほしいというときは、会場まで足を運ぶ人だけが得られるような利点を明らかにしておくことが大切になるわけです。

会場で見たくなるような有名な人を客人が登壇することを強調する。会場で質問をすることができるということを強調する。スポーツとおなじような臨場感を醸しだす演出をする……。

映像の同時中継が行なわれるようなり、会場にいかに客を集めるかという点での課題がすこしずつ浮きぼりになってきています。
| - | 23:59 | comments(0) | -
“河上”に影響をあたえて血圧を下げる

高血圧を治療するときの第一選択薬には、アンジオテンシンII受容体拮抗薬(ARB:Angiotensin Receptor Blocker)、アンジオテンシン変換酵素(ACE:Angiotensin Converting Enzyme)阻害薬、カルシウム拮抗薬、利尿薬、β阻害薬という5種類があります。

2009年になり、新しい種類の高血圧治療薬が使われるようになりました。「レニン阻害薬」とよばれるものです。

薬は、病気を起こすしくみのどこかに影響をあたえて、しくみがはたらかないようにするもの。高血圧をもたらすしくみには、おもにレニン・アンジオテンシン系という一連の物質によるものと、塩にふくまれるナトリウムによるものがあります。

レニン阻害薬は、レニン・アンジオテンシン系によって引き起される高血圧のしくみに影響をあたえて、血圧を下げようとする薬です。

レニン・アンジオテンシン系には、まるで「風が吹けば桶屋がもうかる」のような連鎖反応を起こしたすえに血圧が高まるしくみがあります。

腎臓でレニンというホルモンがつくられると、それが血液のなかでアンジオテンシノーゲンという物質にはたらきかけて、アンジオテンシンIという物質をつくりだします。このアンジオテンシンIが、変換酵素によってアンジオテンシンIIに変わり、この物質が受容体に“はまる”ことで血圧を高めるのです。

これまでのARBという薬は、アンジオテンシンIIが受容体にはまるのを妨げる薬です。また、ACE阻害薬のほうは、アンジオテンシンIがアンジオテンシンIIに変わるのを妨げる薬です。これらの薬は、いわば一連のレニン・アンジオテンシン系のなかの“河下”に影響をあたえるものでした。

いっぽう、レニン阻害薬は“河上”に影響をあたえるもの。腎臓から出てきたレニンの分子のすきまに、このレニン阻害薬が入りこみます。これによって、レニンがアンジオテンシノーゲンにはたらきかけて、アンジオテンシンIをつくりだすことを妨げるのです。

このレニン阻害薬の一般名は「アリスキレン」。2007年3月に米国で、8月には欧州でいちはやく、製造・販売の承認がありました。効き目が24時間以上つづくというのが特徴とされています。

高血圧の治療の指針が記される『高血圧治療ガイドライン』の次期改訂で、このレニン阻害薬がどのような評価を受けるか、注目が集まります。

参考記事
日経メディカルオンライン2009年7月30日「アリスキレン:10余年ぶりの新機序降圧薬『レニン阻害薬』」
47NEWS 2010年2月23日付「"上流"に働き血圧下げる 昨年発売のレニン阻害薬」
| - | 23:59 | comments(0) | -
「前」に逆の意味
 「なぜ鏡の世界で上は上、下は下のままなのに、左は右になり右は左になるのか」といったなかなかの難問があります。この難問ほど、あまり話題にはのぼらないものの、方向をあらわすことばでの難しいものがもうひとつあります。

「前」ということばには、逆の意味が兼ねそなわっています。

物理的には逆や反対のことを意味するのに、おなじことばが使われる表現はたまにあります。たとえば、「影」ということばは「光と影」と表現するように「光のあたらない部分」を意味するいっぽうで、「月影」や「星影」と表現するように「光があたる部分」を意味することもあります。

おなじように、「前」にも、真逆の意味が含まれています。

自分の顔が向いている先の方向を「前」と表現することがあります。「前向き」「前へならえ」「前のめり」といった表現で使われる「前」がその例です。

いっぽう、自分の顔が向いている先とは反対方向を「前」と表現することもあります。「ひとつ前の駅」といえば、電車が進んできた方向に対しては後ろの位置にある駅のことを言います。「手前」ということばも、手の先にある位置を示すのでなく、手元の位置を示すものです。

時を表現するのに使われる「前」(まえ)には、ある時よりも未来のことを示すことはなさそうです。過去のことをしめすことがもっぱらです。「1時間前」「食事の前に手を洗う」「前相撲」などのことばがあります。

つまり、位置を示すときには、基準となる位置よりも前方を示すことがあり、時を示すときには、基準となる位置よりも後方を示すことがあるわけです。
| - | 23:59 | comments(0) | -
入稿、入校、しっちゃかめっちゃか(下)



「入稿」(にゅうこう)には、手書き原稿を印刷所に渡す意味や、印刷物のデータを印刷工場に渡すといった意味があるほかに、出版の作業でつぎの段階の作業にあたる人に原稿を渡すといった意味もあります。「入稿」ということばが指すものが人によってばらばらのため、意思疎通の齟齬も招くおそれがあります。

さらに「にゅうこう」の意味をしっちゃかめっちゃかにする要因がもうひとつあります。「にゅうこう」ということばに「入校」という漢字が使われる場合があるのです。

「入校」の「校」とは、ここではおそらく「校正刷」のことを意味します。「校正刷を入れる」あるいは「校正刷が入る」という意味で「入校」が使われるわけです。

校正刷とは、仮に刷った印刷物のこと。なぜ仮にするかというと「校正」をするためです。「校」という文字には「くらべ調べること」といった意味があります。校正刷に刷られてある内容と真実を“くらべ調べて”、刷られてある内容に誤りがあれば、それを印刷する前に修正しておくわけです。

編集者は、赤字で修正指示を記入した校正刷を印刷工場に渡すという作業をします。つまり、この作業については「校正刷を入れる」という表現が当てはまるわけです。そのため、「入校」ということばが、出版業界で使われることもあります。

また、編集作業が完了して、あとは印刷するだけという状態になることを「校了」ともいいます。そもそものことばの意味からすれば、「校正作業が完了すること」となります。しかし、「校了」ということばを、印刷工場に印刷を指示するといった意味で使おうとする人もいます。それを「入校」と表現する人も見られます。

もう、しっちゃかめっちゃかです。外部委託編集者と出版社の社員編集者がはじめて仕事をするような場合、どちらかが「にゅうこう」と言ったとき、その意図するところが合わない確率のほうが、合う確率よりも高いといえるのかもしれません。

予定がかなり厳密に組まれる印刷という作業において、この「にゅうこう」の意味の齟齬は、大きな問題になりかねません。とくに、電話など口頭で「にゅうこう」と言った場合には、大きな齟齬の危険がつきまといます。

「にゅうこう」ということばを使わないでも、意思疎通をすることはじゅうぶんできます。「原稿渡し」「レイアウトデータ渡し」「写真データ渡し」「修正済み校正刷渡し」「印刷指示」といったことばです。

原稿の形態が手書きからデジタルになったことで、「入稿」の指すものが大きく変わりました。それに加えて「入稿」ということばそのものの曖昧さと、「入校」という紛らわしいことばとの混用があるため、「にゅうこう」はとても危険なことばになっています。了。
| - | 23:15 | comments(1) | -
入稿、入校、しっちゃかめっちゃか(上)


出版業界の用語に「にゅうこう」というものがあります。このことばを「使用排斥運動を繰り広げてもいいくらいに厄介なことば」と評している出版関係者もいます。なにが厄介なのでしょうか。

まず、「にゅうこう」に一般的に使われる漢字をあてはめると「入稿」となります。「入」は、入ること、あるいは、入れること。「稿」は、「原稿」などのことばがあるように、下書きを意味します。

入稿では、原稿を入れる作業、または、原稿が入る作業が行なわれるわけです。原稿を入れる先といえば、印刷工場になります。つまり、入稿はもともと、原稿用紙に書いた小説や詩などの原稿を、印刷工場に入れる作業を意味するわけです。いっぽう、原稿が入ってきた印刷工場は、その手書き文字の並びをみながら活字を並べていき、印刷物としての体裁をつくっていきます。

しかし、いま出版業界では、手書きの原稿を印刷工場に渡すといったことは、ほとんどされなくなりました。電子化が進み、手書きで原稿をつくることがなくなったからです。その代わりに、出版社の編集者は「インデザイン」という、ワープロソフトの発展系のような編集ソフトを使って、印刷物としての体裁が整ったレイアウトをコンピュータ画面の中でつくってしまいます。

そして、編集者は、印刷物としての体裁が整ったレイアウトのデータを、印刷工場に渡します。これが、電子化が進んだいまの状況における「入稿」と考えられる場合が多いようです。その入稿データを受けた印刷工場は、試しにそのデータを紙に印刷して「校正刷」あるいは「ゲラ」とよばれる本番印刷前段階の出力紙をつくります。

ここまででいえることは、もはや手書き原稿を印刷工場に渡すという意味での「入稿」はほとんどなくなり、印刷物としての体裁がある程度は整ったレイアウトデータを印刷工場に渡すという意味での「入稿」が、このことばの使われかたとしての主流になっているということです。

ただし、「入稿」をべつの意味で使っている出版関係者もすくなくありません。「DTP用語辞典」というインターネット上の辞典では、「入稿」をつぎのように定義しています。

―――――
本来は、編集者またはデザイナーが組版部門に指定とともに原稿を入れること。しかし、現在では次の段階の作業をする人に原稿を渡すこと一般を指すことも多い。編集者がデザイナーに文字原稿や写真を渡すデザイン入稿(レイアウト入稿)、写真類・色指定など製版のための材料を製版担当に渡す製版入稿などがある。
―――――

つぎの段階の作業をする人に原稿を渡すことが「入稿」であるとすると、いろいろな場面で「入稿」が行なわれることになるわけです。執筆者から編集者への入稿。編集者からレイアウトするデザイナーへの入稿。外部委託編集者から出版社の社員編集者への入稿、などなど。

その出版社や出版コミュニティのなかで使われている「入稿」ということばの解釈のまま、ほかの出版社ではたらく人と「入稿」ということばを使って会話をすると、意思疎通が噛みあわない場合があります。「入稿」で指しているものが異なるからです。

委託編集者「入稿日はいつにしますか」
社員編集者「入稿日ですか。12月1日でいかがでしょう」

委託編集者は、原稿を正編集者に提出して見てもらう日を聞いたのに、出版社の社員編集者は、レイアウトデータを印刷工場に入れる日を答えた、といったことになりかねません。齟齬を防ぐためには、「入稿っておっしゃいましたが、なにを指していますか」と確かめる必要があります。

これで、「にゅうこう」の問題が終わるかといえば、そうはいきません。つづく。
| - | 23:49 | comments(0) | -
一社の禁忌破りで業界全体が慌てふためく
いろいろな業界にはいろいろな「禁忌」があります。その業界のなかで厳しく禁止されている行為のことで「タブー」ともいいます。

その禁忌を業界のなかのたった一社が破ることで、それまで保たれてきた禁忌が意味のなさないものになる場合があります。

たとえば、保険料を考えてみます。

保険料は、大きくわけて「純保険料」と「付加保険料」というふたつの料金にわけることができます。純保険料とは、保険に加入している人が事故などにあったときに支払われる保険金のことです。いっぽう、付加保険料とは、保険制度そのものを保っていくために必要なお金のことで、付加保険料には保険会社の運営費や、利益などが含まれます。

賭けごとでたとえると、200円を賭けて戻ってくるのが平均して50円という場合、賭けた200円のうちの50円が純保険料にあたるもので、残りの150円は付加保険料にあたるものです。この150円は賭けの主催者のために回されるわけです。

保険業界では、保険料のうち純保険料がいくらで付加保険料がいくらであるかという情報は、基本的には禁忌です。純保険金と付加保険料の比がわかってしまえば、保険加入者から「あの保険会社は、保険金のうち、こんなにも多くの額を儲けに当てているのか」と批判されないからです。

しかし、保険料のうちの原価つまり土台の部分にあたる純保険料は、どの保険会社の額もさほど変わりはないといいます。

そこで、保険会社のうちのA社が「わが社のXという保険商品の保険料については、5万円のうちの4万円が純保険料で1万円が付加保険料です」と公表してしまうとどうなるでしょう。


B社にもXとおなじ内容の保険商品があるとします。その保険料は8万円だとします。すると「純保険料は4万円」というA社の情報から、B社はたとえ保険料の内訳を公表していなくても「純保険料4万円、付加保険料4万円」という額で保険料を徴収していることが明らかになります。

これにより、A社の付加保険料は1万円であるのに対して、B社の付加保険料は4万円で、B社は4倍も付加保険料を徴収しているといういうことがわかってしまいます。

内訳がばれないほうが都合のよいとどの会社も考えている業界では、禁忌がまもられつづけることでしょう。

しかし、その禁忌は、業界のうちどこか一社が破ればまたたくまに意味のなくなる脆いものでもあるのです。そうした業界では、一社の禁忌破りにほかの会社はみな慌てふためくことでしょう。

参考記事
損害保険料率算出機構「科率の基礎知識」
| - | 23:59 | comments(0) | -
ベッドのうえで崖から落ちる


眠っているとき、突然に足がだれかに引っぱられたかのように“ガクン”となった経験はあるでしょうか。からだを横にして寝ているはずなのに、あたかもどこかの崖から足を滑らせて奈落の底に落ちたような感覚になります。

ベッドから落ちたのでなければ、寝ながらにして足を滑らせて奈落の底に落ちることはありません。このからだのふしぎな動きは、ジャーキングとよばれる生理現象で説明されています。

人は、自分が「からだを動かそう」と意図していないにもかかわらず、体が動いてしまうことがあります。これは不随意運動とよばれます。不随意運動の代表的なものはしゃっくりです。

寝ているときに足がガクンとなるジャーキングの現象も、不随意運動のひとつ。「ジャーク」とは、きゅうにぐいと動かすことをいいます。重量挙げの競技でも、胸から頭のうえまで急にバーベルをもちあげることをジャークといいます。足がとつぜんに引っぱられるのも「ジャーク」なのです。

ジャーキングは夢を伴うことがあります。つまり、夢のなかで“ほんとうに”崖から落ちたり、階段を踏みはずしたりした体験をすると同時に、足がガクンとなるわけです。これは、電話のベルが鳴っている夢を見ていたら、ほんとうに電話のベルが鳴っていたといったものと似ているのでしょう。

ただし、崖から落ちる夢を見ることが原因で、それに合わせてジャーキングが起きるのか、ジャーキングが起きることが原因で、それに合わせて崖から落ちる夢を見るのかは、まだじゅうぶんには解明されていないようです。

たまに起きるジャーキングは病気ではありません。しかし、寝ているといつものようにジャーキングが起きて睡眠をさまたげるような極端なときは、「周期性四股運動障害」という睡眠関係の病気に分類されます。

病気に至らないていどにたまに起きるのであれば、崖から落ちずに崖から落ちたような体験がベッドのうえでできるのだから貴重な体験といえるかもしれません。

参考ホームページ
goo注目ワードコラム「寝ているときの『びくっ』の正体は」
| - | 23:59 | comments(0) | -
薬への不満、上位は「薬価」


人々が薬に対する不満としてあげることがらはなんでしょうか。

アンテリオという医療専門市場会社が、高血圧の患者に対し、血圧を下げる薬つまり降圧剤について調査をしたところ、もっとも多かったのは「薬価」(自己負担額)だったということです。

薬の価格はどのように決められるのでしょう。薬の価格は、ある薬局で安く、ある薬局では高いといったかたちで市場原理に委ねられているわけではありません。薬の価格を最終的に決めるのは、中央社会保険医療協議会という機関です。厚生労働大臣の諮問機関で、「中医協」ともよばれています。

薬はまず、厚生労働省の所管である医薬品医療機器総合機構という機関によって、「製造を認めます」と承認を受けます。その後、価格が決まるためには、大きくふたつの経路にわかれます。

ひとつめは、これまでに似たような製品がなく、初めて承認を受けるような薬に対して。こうした薬は、製造原価の2.5倍を基本に、価格の目安が定まります。さらに、ほかの国での価格の状況とかけ離れていないかなどの微調整が、中医協によってなされます。

ふたつめは、これまでに似たような製品がある薬に対して。これは、すでに決まっているほかの薬の価格がおおいに参考になります。

こうして、薬の価格がはじめて決まることを「保険に収載される」あるいは「薬価基準に収載される」などといいます。

中医協は、2年に一度の割合で、薬の価格や医療機関の治療の価格を定める診療報酬を改訂します。この改訂を減るたびに、基本的には薬価は引き下げられていきます。「大量生産されれば、そのぶん1個の製品の製造費用は安くなっていく」といった原則にしたがったものです。

そのため、新しく出た薬の価格は高めとなり、古くからある薬の価格は安めとなっています。

冒頭で見た高血圧患者の「薬価」への不満というのは、降圧剤のなかでは新しく登場したARB(アンジオテンシンII受容体阻害剤)という薬の価格がまだ高めであることが関係しているようです。

なお、日本では、すべての人が医療保険に自動的に加入する「国民皆保険」の制度がとられているため、患者は実際の薬価の3割を払うことになっています。

また、薬の特許が切れると、「ジェネリック医薬品」とよばれる、特許ぎれを受けての後発医薬品が出まわり、その薬価は「これまでに似たような製品がある薬に対して」の価格の決めかたに振りわけられ、とうぜん低い価格に決まります。

参考文献
ロハス・メディカル「それでいいのか薬価」

参考記事
ミクスOnline2011年10月31日付「降圧薬への不満 トップは『薬価(自己負担額)』」
| - | 23:59 | comments(0) | -
診療ガイドラインに光と影(下)


医療の世界では、さまざまな分野に「ガイドライン」がつくられています。このガイドラインを参考にしながら医療行為を行なっている医者は多くいます。

患者は、ガイドラインがあることによって、ガイドラインがない場合に比べて統一的な医療を受けやすくなります。ガイドラインがなければ、「A先生」と「B先生」と「C先生」の医療のしかたがばらばらになるため、医者や医療機関の選択がいまよりも大切になります。しかし、ガイドラインがあれば、その手引きに従って行われる医療行為が増えるため、自分にあった医療行為をしてくれる医者や医療機関を選ぶ負担は減ります。

しかし、ガイドラインの存在に弊害がないわけではないようです。

ひとつは、ガイドラインづくりをする人たちに考えかたの偏りがあると、適切なガイドラインにはならないという弊害があります。いま、多くのガイドラインの作成委員会は、専門医によって成り立っているといいます。専門医とは立場のちがう開業医、さらには哲学者や宗教家なども含めた分野横断的な委員会にすべきであるという声はあるようですが、実現している学会はすくないもよう。

すると、権威ある専門医が、子分的存在の専門医と集団をつくり、その権威の考えが色濃く反映されたガイドラインができるおそれがあります。それでも、ガイドラインの内容が適正であればそれにこしたことはありません。

しかし、意思決定集団のなかには、専門家以外の人が多く含まれているほうがよい成果が生まれるということは、えてしてあることです。

また、もうひとつガイドラインの弊害として、医療の画一化が行きすぎるということも問題視されています。

医者は、ガイドラインに従って医療行為をすれば、それで医師としての責任を果たせたと思うようになります。もし、医療ミスによる事故が起きたとしても、「私はガイドラインに従って医療行為をしていただけです」と言えば、責任を避けることができるかもしれません。

この弊害については、日本形成外科学会が「ガイドライン作成の手引き」のなかで、つぎのような意思表明をしています。

「本ガイドラインは、現在得られるエビデンスを集積・整理・検討し、現時点での 一般診療に有用な情報提供を目的とするものであり、個別の診療(診断法、治療法)を制限するものではない」

とはいえ、医療ミスで訴えられるおそれとつねに背中合わせでいる医師からすれば、「ガイドラインに従っておけば問題ない」という考えかたが生まれるのは自然なことでしょう。

実際のところは、ガイドラインに書かれていることに従わないほうがよい結果になるという事例はいろいろあるようです。その分野に専門的な医者であればあるほど、ガイドラインに従った薬の処方をしなくなる、といった話も聞かれます。

となると、そもそも診療ガイドラインの内容そのものがまちがいなのではないかということになります。過去に判断したことが適正でなかったとしても、なかなか自分の意見を曲げようとしない権威的な医者もまだいるのかもしれません。

参考文献
重永敦、鈴木博道、葉山和美、西岡文美、薄葉千穂「EBM診療ガイドライン作成のステップと問題点」
「ガイドライン作成の手引き」(2011年5月13日修正版)
| - | 22:21 | comments(0) | -
診療ガイドラインに光と影(上)


文字を書くときに、文字を整列させるのに役立つ薄い線を「ガイドライン」といいます。薄く印刷されたガイドラインに従って書けば、文字列が曲がっていく心配はありません。

「ガイドライン」には「指針」という意味もあります。ものごとの見当をつけるためのものという意味では、文字を書くときの薄い線という意味とさほど変わりません。

医療の世界では、さまざまな「診療ガイドライン」があります。日本医療機能評価機構の下部組織である医療情報サービスセンターが発信している「医療情報サービス Minds」は、診療ガイドラインをつぎのように説明しています。

「病気になった時、どんな治療を受けたら良いかをはじめ、判断に困る場合がいろいろ出てきます。そういう時の手助けになるように、医学的な情報や専門医の助言をまとめた文書」

診療で起きる“迷いごと”の手助けを果たすものが診療ガイドラインであるとしています。たいてい医療ガイドラインは、「脳卒中」や「糖尿病」などの大きな病気のくくりを対象として、その分野の学会がつくります。

『診療ガイドライン作成の手引き』という診療ガイドラインのガイドラインもあります。2007年版には、ガイドラインがつくられるまでの手順が記されています。

「作成の目的(テーマ)・対象・利用者の明確化」→「作成主体(団体)の決定」→「作成計画の立案」→「作成委員の選定」→「当該テーマの現状の把握」→「クリニカル・クエスチョンの作成」→「文献検索」→「文献選択―採用と不採用」→「文献の批判的吟味とアブストラクト・フォームの作成」→「アブストラクト・テーブルの作成」→「エビデンスのレベル分類」→「推奨の決定」→「外部評価と試行」→「公開」→「診療ガイドラインの有用性の評価」→「改訂」

重要なのは、制作委員の選定でしょう。選ばれた委員の声が、ガイドラインの内容に反映されるからです。『手引き』では、「委員には、当該テーマにかかわるさまざまな臨床分野から少なくとも1人ずつ、それに診療ガイドライン作成の専門知識(臨床疫学や生物統計学、図書館・情報学)を有する者が任命されるべきである」と書かれています。

また、にあるうち、「クリニカル・クエスチョン」とは、医療をするうえで浮かんでくる疑問を意味しています。たとえば、「Q:糖尿病,変形性関節症および高血圧患者において,自己管理プログラムは有用か」といった疑問文で示されます。

また、「アブストラクト・フォーム」とは、ガイドラインをつくる人たちが書き出す研究論文の要約で、図書館の目録をつくるときに記入するような書誌事項などを記します。

こうして、手順を踏んで、診療ガイドラインはつくられ、また5年に一度くらいの頻度で改訂されています。

診療ガイドラインがあることにより、医療の進めかたには統一性が出てくることになります。これは一見、よいことのようにも考えられますが、ガイドラインがつくられることによる問題点はないのでしょうか。つづく。

参考文献
医学書院『診療ガイドライン作成の手引き2007』

参考ホームページ
医療情報サービスセンター「診療ガイドラインとは」
| - | 23:59 | comments(0) | -
血圧を下げる利尿剤にロングセラーあり
ロングセラーは、長いあいだ人びとから、「これはいいものだ」という評価を受けつづけている証しといえます。薬の世界にも「ロングセラー」といえるものがあります。

たとえば、高血圧の治療では「サイアザイド系利尿剤」という薬が使われています。

「利尿剤」とは、おしっこの通じをよくさせるための薬のことです。尿を出すと、患者にとっては体のなかに貯め込んでおく必要のない物質をいっしょに出すことができます。利尿をうながすしくみはいろいろとあるため、そのしくみによって、「何々系」といった種類にわけられています。

そのなかでも「サイアザイド系利尿薬」は、高血圧を防ぐための薬。高血圧をもたらす物質として、塩に含まれるナトリウムがあります。ふつう、からだは、尿をつくる腎臓のところまでやってきたナトリウムを、ふたたび吸収しようとします。

しかし、サイアザイド系利尿薬は、ふたたび吸収されようとするナトリウムに「待った」をかけて、からだにとりこまれないようにします。

また、利尿作用によって、おしっこがよく出て、からだから水分が出ていけば、血管のなかがたくさんの水で満たされることもなくなります。これも血圧を下げるためには効果的。

サイアザイド系利尿薬の歴史は古く、1957年にはじめて「クロロチアジド」という薬が世に誕生しました。その後、1950年代、「ヒドロクロロチアジド」「クロルタリドン」「キネサゾン」といったサイアザイド系利尿薬がつぎつぎと開発されていきました。

1970年には、米国で「VA研究」(Veterans Administration Study)という、高血圧患者への薬の効き目などを調べた研究の報告が行われました。ここでも、サイアザイド系利尿剤が、高血圧の先にある脳卒中や心不全を予防する効果があることが確かめられました。

それから、世界で血圧を下げるための薬としてずっと使われています。日本では、血圧を下げるしくみが異なる、新しい薬が多く使われており、利尿剤はそれほど使われているわけではありません。しかし、それでもなお、50年以上にもわたり廃れない、ロングセラーになっています。

参考記事
日経メディカルオンライン2006年9月14日付「1960年代後半 VA研究が降圧薬治療の扉を開ける」

参考ホームページ
Circulation Forum「利尿薬」
| - | 23:59 | comments(0) | -
窒素から炭素に。また窒素に。


周期表には、炭素(C)と窒素(N)がとなりに並んでいます。受験生が語呂あわせで覚える「水平リーベぼくのお船」の「く」と「の」にあたるのが炭素と窒素です。

このふたつの元素は、地球の上空で複雑な反応をして、窒素が炭素になったり、炭素が窒素になったりしています。

地上より1000メートル以上の高層大気から、地上より5万メートルまでの成層圏の空間では、宇宙から降り注がれた宇宙線が、中性子という素粒子をつくることがあります。この空間で、こうしてできた中性子を、窒素原子が受けとることがあります。

しかし、窒素には受けとめられる器がかぎられているので、1個の中性子を受けとったら、なにかを放さなければなりません。そこで、窒素を受けとったかわりに、陽子あるいはプロトンとよばれる素粒子を1個、放すのです。

すると、もはや窒素は窒素でなくなっています。窒素原子はもともと中性子7個と陽子6個をもっていましたが、大気で中性子1個を受けとるかわりに陽子1個を放すことで、中性子8個と陽子6個をもつようになりました。

この中性子を8個もち、陽子を6個もつ原子は、もはや炭素です。炭素は炭素でも、中性子8個と陽子6個の炭素は「放射性同位体」とよばれる“際もの”。おおくの炭素は、中性子6個と陽子6個を足した「炭素12」です。しかし、この際ものは、中性子8個と陽子6個を足した「炭素14」とよばれる不安定な原子です。

炭素14は不安定なため、つぎつぎの自分の身からベータ線というビームを出しつづけていき、身をすり減らしていきます。

炭素14が身をすり減らした結果、この放射性同位体からふたたびできるのが窒素原子です。

つまり、場合よって、窒素はいったん炭素になり、そしてふたたび窒素になるのです。目には見えないところで、周期表のおとなりどうしの原子は複雑な変身をつぎつぎとおこなっているものです。

参考文献
GEヘルスケア「ラジオアイソトープ利用ガイドブック」

参考ホームページ
原子力資料情報室「炭素-14」
| - | 23:59 | comments(0) | -
麺としての日本そば、歴史のなかでは新製品


日本そばというと、多くの人は「すこし黒っぽい色がついた麺」を思いうかべることでしょう。しかし、長い日本そばの歴史からすると、日本そばが麺のかたちになったのは、まだ新しいことといえそうです。

日本そばは、そば粉を含む粉をこねてつくるもの。そば粉のほか、小麦粉を使うことも多くあります。いまでは、全国公正取引協議会連合会の「生めん類の表示に関する公正競争規約」のなかで、粉のなかにそば粉が3割以上含まれていないと「そば」の表示ができないということが決められています。

もともと日本そばは、そば粉を練ってそのまま餅のようなかたちにする「そば掻き」のかたちで食べられていたといいます。そば掻きは「そば練り」とも。このそば掻きやそば練りに対することばとして、いまの麺のかたちになった日本そばを「そば切り」といいます。

「そば切り」という表現が日本の書物にはじめて出てきたのは、長野県大桑村の「定勝寺」(じょうしょうじ)という寺で書かれた「定勝寺文書」という書物とされています。これは、郷土史家の関保男さんが1992年に発見したもの。

この書物には、戦国時代の1574(天正2)年、お寺の仏殿の修理をおこなった落成祝いとして「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」「振舞ソハキリ 金永」と、記されていました。お寺へのお祝い品として、そば切りが供されたのです。ちなみに「ソハフクロ」はそば粉を入れる袋と考えられています。

16世紀後半にはすでに、「そば切り」としての日本そばがあったことがこれでわかりました。しかし、それ以前の文献には「そば」の記述はあっても「そば切り」の記述は見つかっていません。

日本そばが、そば切り、つまり麺として食べられるより前は、そば掻きとして食べられていたとされています。さらに時代をさかのぼると、奈良時代前期の元正天皇(680-748)が出した詔のなかで、ソバの栽培を奨励した記録が残っています。

日本そばと日本人の関わりを、さらに古くに見出す話もあります。

高知県土佐市では、9000年以上前の地層からソバの花粉が発見されました。高知大学の鑑定によって、ソバが栽培されていた可能性が高いという話になっています。

麺のかたちでの日本そば、つまりそば切りが登場したのは、定勝寺文書に書かれていた16世紀から、せいぜいさらに1、2世紀さかのぼったころではといわれています。それからすると、麺としての日本そばの歴史は600年から700年ほど。

9000年以上前から日本でソバが栽培されていたことからすると、麺としての日本そばはまだ新参者といえるのかもしれません。

参考文献
全国公正取引協議会連合会「生めん類の表示に関する公正競争規約」

参考ホームページ
豊科ばんどこ「そば切りの発祥(下)」
おそば大好き 蕎麦!「蕎麦はいつから栽培されていたか?」
鈴廣かまぼこ「『そば』の豆知識」
| - | 23:59 | comments(0) | -
熱伝導率の高い成分が豊富


焼肉の七不思議となっているかはわかりませんが、レバーはほかの肉にくらべてかなり早い時間で火が通ります。

カルビやハツなどを網に乗せて、30秒ほどしてからレバーを網に乗せます。ところが、最初に食べごろの焼きかげんになるのはレバー。カルビやハツはまだ表面が赤いままなのに、レバーだけは赤い部分がすでになくなっています。

物質には「熱伝導」という性質があります。熱が、物体の高い温度のところから低い温度のところに向かって伝わっていくことを熱伝導といいます。そして、熱の伝わりやすさを数字にしたものを「熱伝導率」といいます。

熱伝導率は、物質によりさまざま。たとえば、ガラスにくらべて、水の熱伝導率は0.6倍、鉄の熱伝導率は84倍などとなっています。

レバーがほかの焼肉よりも、火が通りやすいのはなぜでしょうか。その理由として考えられうるのは、熱伝導率の高い物質が多く含まれているということです。

たとえば、食材の成分を見ることができる江崎グリコの「栄養成分ナビゲーター」というホームページで、カルビにあたる牛のバラ肉100グラムと、ハツにあたる牛の心臓100グラムと、レバーにあたる牛の肝臓100グラムの成分をくらべてみます。

すると、熱伝導率がガラスの420倍ととても高い銅は、バラ肉には0.05ミリグラム、心臓には0.42ミリグラム含まれているのに対して、肝臓では5.30ミリグラム含まれています。

また、銅ほどではないものの、熱伝導率の高い鉄も、バラ肉1.5ミリグラム、心臓3.3ミリ蔵見に対して、肝臓では4.0ミリグラムと多めです。

ほかにも、火の通りやすさはかたちによって変わったたりしますので、レバーの火のとおりやすさには、ほかの要因も関係しているかもしれません。

レバーを加熱をしすぎると、レバーに含まれているアラキドン酸という脂肪酸が、鉄と結びついて酸化するため、生臭くなることも知られています。あっという間に火が通るレバー。火のとおしすぎには注意です。
| - | 23:59 | comments(0) | -
「こんな効き目も」に注意


製薬会社が薬を開発して発売しようとするとき、薬の安全性や効き目を確かめるために大規模臨床試験という試験をおこないます。試験に協力してくれる何人もの患者さんに、まだ発売されていない薬を使ってもらい、効き目などを調べるのです。

この大規模臨床試験では、長いこと「サブグループ解析」という試験の方法が問題となっています。

「サブグループ」とは、試験の対象となる人たちを、さらになんらかの属性に分けた群のこと。典型的な例では、男性と女性というふたつのサブグループがあります。また、年齢によって何歳から何歳まで、何歳から何歳までというサブグループもあれば、過去に心臓の病気にかかったことのある人とそうでない人といったサブグループもあります。

大規模臨床試験では、「薬を試しに使ってもらい、その薬が目指していた効き目が得られたかどうか」が第一の目的となります。たとえば、心臓の病気を予防する薬の大規模臨床試験では、「心臓病にならないか」や「心臓病による死亡率が下がるか」といったことが焦点の的になります。

いっぽう、サブグループ解析では、「男性のうちでは」とか「50歳代では」とか「心臓病に過去にかかったことのある対象者のうちでは」といった限定的な範囲のなかで、薬の効き目がどうだったかが調べられます。

しかも、調べる効き目も「心臓病にならないか」といった薬の第一のねらいのものだけでなく、「脳卒中にならないか」とか「高血圧を下げるか」といった、ねらいとは別のものが対象にされることもあります。

このサブグループ解析には、試験を行う前から、「こういったサブ解析も行ないます」と決められている場合と、「試験をしたけれど、こういったこともデータから解析してみよう」と後づけされる場合と両方があります。

とくに問題なのは、後づけされたサブ解析です。製薬企業がこれから薬の宣伝をしようとするとき、「働き盛りの50歳代にはとくに効く薬です」とか「心臓病の薬ですが、脳卒中にも効きます」とか、強調できる点が得られれば得られるほど都合がよいわけです。

そこで、後づけのサブグループ解析では、薬の効き目を強調するデータだけを拾いだすといったことも行われているといいます。コンピュータに計算させれば、そうしたことは簡単にできることでしょう。

また、サブグループ解析は、「サブグループ」を対象としているため、人数も限られてしまいます。そのため、「偶然にも結果はこうなった」といったデータが拾われてしまうといったことも起こりやすくなります。

サブグループ解析の結果などは、たいてい製薬会社の医薬情報担当者(MR:Medical Representative)から、医者に伝えられるもの。「こんな効き目“も”ある」といった薬の宣伝文句には注意が必要です。
| - | 23:59 | comments(0) | -
大きく見るとよからぬ面があり、小さく見るとよい面がある。


(2011年)10月31日午前、世界の人口は70億人を超えました。国連が発表しました。今後、21世紀末には世界の人口は100億人に達するといわれています。

人口の増加は、大きく見るとよくない面があり、小さく見るとよい面があるという、多面性をもった問題の代表例です。

世界的な視点で見ると、人口爆発によって、食料の不足、水の不足、貧困の増加などの問題が深刻になると考えられています。2000年代、飢えによる死者の数は1日あたり2万5000人もいるとされています。有効な手を打たないかぎり、人口が増えれば、さらにその死者数は増えていくかもしれません。

いっぽうで、日本に目を向けてみると、少子化が深刻化しているわけです。働きざかりの年代が減ってしまうと、国の競争力が落ちることになります。

世界の人口増加が将来の不安材料になっているいっぽうで、日本の人口減少が将来の不安材料になっているわけです。

大きく見るとよからぬ面があり、小さく見るとよい面があるといった、物事の多面性はほかにもあります。

たとえば、ニュース番組で「地球温暖化問題に対して、各国の具体的な枠組みづくりが待ったなしの課題になっています」などと司会者が伝えたあとで、つぎの気象情報のコーナーでは気象キャスターが「きょうも、日本列島はぽかぽか陽気、晴天に恵まれました」などと伝えます。

大きく見るとよくないけれど、小さく見るとよいといった事例は、世のなかのあちこちで見つかります。働きすぎは、大きく見れば人の健康をむしばむけれど、小さく見れば働きぶりを認められる、といったのもにたことです。

人や組織はその事例について、一貫した姿勢を示すべきなのでしょうか。たとえば、ニュース番組で「地球温暖化問題」を伝えたあと、気象情報でも「きょうも、日本列島はぽかぽか陽気。地球温暖化がますます懸念される日々です」と伝えるべきなのでしょうか。

一貫した姿勢をとおすことは、それはそれで美徳なのかもしれません。しかし、いちいち一貫した姿勢を保つことにこだわっていては、それはそれで疲れてしまいます。

多くの人は恣意的に、大きく見るとよからぬ面には「よくない」と言い、小さく見るとよい面には「よい」と言いながら生きていくのです。
| - | 23:59 | comments(0) | -
「原子核は底知れぬ深淵」


人の書きもののなかには、その後の時代の人びとへの影響力を遺すものがあります。17世紀にフランスの数学者ピエール・ド・フェルマー(1601-1665)が「この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くのは狭すぎる」と記した走り書きは、のちの数学者たちの“証明欲”をかき立てることになりました。

日本で最初にノーベル賞を受賞した物理学者の湯川秀樹(1907-1981)は、日記を書いていました。湯川は1934(昭和9)年の元旦に、つぎのようなことを走り書きしています。

「我等の前には底知れぬ深淵が口を開いてゐる。我等は大胆に沈着にその奥を探らねばならぬ。実に原子核は物理学者にとって底知れぬ深淵である」

これは、湯川の研究対象である原子核という存在に対して、湯川自身がどのような心構えをしていたのかがうかがえます。

原子核の研究が本格的に始まったのは、20世紀に入ってからのこと。まだ研究者の手が付けられて間もない原子核という存在に対して、湯川は「底知れぬ深淵」を感じていたのでした。

その後、湯川はこの原子核の研究にとりくみ、中間子という素粒子があることを予言するに至ります。

湯川のこの中間子の予言は、物理において「三つめの力」と「四つめの力」が存在することを導き出すものでした。その力とは、原子核のもつ「強い力」と「弱い力」とよばれる力です。

この原子核のもつ「強い力」をエネルギーとして利用してきたのが、原子力発電でした。

2011年、福島第一原子力発電所の事故により、人は原子核の力の影響力を知ることになりました。そして、原子力発電というしくみには“底知れぬ深淵”がいまだにあることを物理学者だけでなく、一般の人びとも知ったのでした。

湯川は、将来、原子力が電気エネルギーとして利用されることを予言して「原子核は底知れぬ深淵」と書いたのかはわかりません。しかし、湯川のこのことばは、人が原子核というものに対して、どのように接するべきかを示唆するものといえます。湯川の遺したこのことばが、いま注目されてはじめています。

この記事は、2011年11月3日に行なわれた、朝日新聞社編集委員の尾関章さんによる講演「科学記者と語る『3.11』後の社会と科学」の内容を参考にしたものです。
| - | 23:59 | comments(0) | -
ルチン単独よりルチン入り蕎麦茶が血をさらさらに


食べもののなかには「ルチン」(Rutin)という物質が含まれていることがあります。糖類と、酸素と水素元素からなる水酸基という化合物が結びついた物質のひとつで、ソバなどの植物に含まれています。

ルチンは、体の健康にとってよい物質であるといわれることが多くあります。「そばを食べると健康になる」とうたわれているのも、おもにルチンの効果を言っていることが多いようです。

なぜ、ルチンが健康によいといわれているのか。それは、血管を健康にし、血液をさらさらにするという効果があるとされているからです。

いっぽうで、ルチンの血管への効果に対して、あまりにも鵜呑みにはすべきではないと示唆する情報もあります。

国立健康・栄養研究所の「『健康食品』の安全性・有効性情報」というデータベースの「ルチン」の項目では、ルチンの血管に対する作用をつぎのように説明しています。

「俗に、『高血圧を予防する』、『毛細血管を強化する』などといわれている」

「俗に」というのは、「世間一般では」ということ。科学的に実証されているわけではないという示唆が「俗に」にということばに込められていそうです。

ルチンには、血管にとってよい作用はないのでしょうか。伊藤園の中央研究所がつぎのような実験を行ないました。

実験協力者のうち「ルチン群」とよばれる8人の人たちに、夕食後、ルチン入りのカプセル30ミリグラムを1週間にわたり飲んでもらいました。いっぽう、「蕎麦茶群」とよばれる8人の人たちには、夕食後、蕎麦茶500ミリリットルを1週間にわたり飲んでもらいました。この蕎麦茶を500ミリリットル飲むと、ルチン30ミリグラムが体内に入ることになります。

実験の結果、ルチン群の人たちの血の流れは若干よくなりました。ただし、その効果は、単なる水を500ミリリットル飲んだ人たちと対して差はありませんでした。

いっぽう、蕎麦茶群の人たちの血の流れは、ルチン群の人たちの血の流れよりも明らかによくなりました。

この実験からいえることは、ルチンそのものを純粋に摂りいれるよりも、蕎麦茶を取りいれるほうが血をさらさらにする効果が高いということです。また、ここからは推測ですが、蕎麦のなかにはルチンと相まって血をさらさらにする物質が含まれていることが考えられます。

すべての食材にあてはまるわけではありませんが、サプリメントのようにある物質を純粋に抽出するのとちがって、いろいろな物質が含まれるバランスの中で、食の健康効果は起きるのかもしれません。

参考文献
細山広和「『蕎麦茶の働き』最新知見」『蕎麦春秋』2008年6月号

参考ホームページ
国立健康・栄養研究所「『健康食品』の安全性・有効性情報 ルチン」
| - | 23:59 | comments(0) | -
光学式ファインダーがすこしずつ消えゆく


カメラの世界では、「光学式ファインダー」の存在がすこしずつ失われつつあります。

光学式ファインダーは、カメラに付いている覗き窓のこと。光学ファインダーから目視をして、カメラがどのような像を捉えているかを確かめるわけです。

フィルム式の一眼レフカメラなどでは、光学式ファインダーは不可欠なものでした。レンズの位置と光学ファインダーの高さの位置は異なります。そのため、カメラ本体のなかで鏡が反射するしくみを駆使して、光学式ファインダーの高さまで光をもってきていたわけです。

しかし、デジタルカメラでは、カメラが捉えている画像を液晶画面で見ることができます。この液晶画面のことを、光学式ファインダーに対して「電子ビューファインダー」といいます。

一眼レフカメラとは、そもそも撮影するためのしくみと目視するためのしくみを一系統の「一眼」とし、それを反射つまり「レフレックス」の機構によって実現させたカメラ。

デジタル一眼レフカメラでは、カメラが捉えている被写体を、光学式ファインダーでも電子ビューファインダでも見ることができます。

しかし、電子ビューファインダーで被写体を覗いても、実際にカメラが捉えている視野よりも狭かったり、角度がすこしずれていたりする機種もあります。「光学式ファインダーに不便を感じるなら、電子ビューファインダーを使ってね」ということなのかもしれません。

いっぽう、ちかごろでは、一眼レフカメラのようなかたちをしながら、光学式ファインダーをなくし、電子ビューファインダーのみにした「ミラーレス一眼カメラ」が流行しています。

ミラーレス一眼カメラでは、光学式ファインダーまで光を反射させる機構がないため、カメラの小型化や軽量化が進みました。手軽に持ち歩けることから女性にも人気といいます。

カメラの撮影では「両手でしっかりカメラを持ち、光学式ファインダーも目つまり頭できちんと抑えて安定させる」という基本姿勢があります。しかし、光学式ファインダーがないカメラでは、液晶画面を見るのですから、この姿勢はもはやありえません。

だんだんと、かつてのカメラの持ちかたも、“古い姿勢”になりつつあるのでしょうか。

参考記事
朝日新聞2011年10月31日付「カメラ女子、ミラーレスに夢中 可愛いもの『採集』」
マイコミジャーナル2010年8月25日付「カメラ上級者に聞く、ミラーレスと一眼レフのメリット&デメリットとは!?」
| - | 23:59 | comments(0) | -
CALENDAR
S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930   
<< November 2011 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで (JUGEMレビュー »)
サイモン シン, Simon Singh, 青木 薫
数学の大難問「フェルマーの最終定理」が世に出されてから解決にいたるまでの350年。数々の数学者の激闘を追ったノンフィクション。
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
amazon.co.jp
Billboard by Google
モバイル
qrcode
PROFILE