科学技術のアネクドート

「あいちサイエンスフェスティバル」がフィナーレへ


催しもののおしらせです。

(2011年)10月1日(土)より5週間にわたり、愛知県全域で「あいちサイエンスフェスティバル」が行なわれています。このフェスティバルは、名古屋大学が、サイエンス・コミュニケーション・ネットワーク活動の一環として行なっているもの。

11月5日(土)と6日(日)、締めくくりとなる二つのイベントが行われます。

まず、5日には14時から名古屋・栄の電気文化会館で、京都大学霊長類研究所所長の松沢哲郎さんによる「想像するちから チンパンジーが教えてくれた人間の心」という主題の講演会が開かれます。

松沢さんは、2010年に『想像するちから チンパジーが教えてくれた人間の心』(岩波書店)という一般向けの本を上梓。この著作により、日本科学技術ジャーナリスト会議主催の「科学ジャーナリスト賞」も受賞しています。

チンパンジーなどの人に近い動物を研究することにより、人の本質に近づけるともいわれています。霊長類研究者の松沢さんが語る「人間の心」とはどのようなものでしょうか。講演で聞けそうです。

最終日の11月6日(日)には、14時から名古屋・不老町の名古屋大学ES総合館で、「原発報道を振り返る」というシンポジウムが開かれます。日本科学技術ジャーナリスト会議からの登壇者を中心に、福島第一原子力発電所事故後の報道だけでなく、これまでの原発に対するマスメディアの報道のしかたなども検証します。

講演者は、元朝日新聞科学部長の柴田鉄治さん。柴田さんは「原発報道『失敗』の歴史」という主題で講演します。それに元毎日新聞科学環境部長の瀬川至朗さん。瀬川さんは「原発報道は大本営発表だったのか」という主題で講演します。

また、その後のパネルディスカッションでは、全国紙の科学医療部長、福島県の地元紙の報道部長、放射線の研究者、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムSPEEDIの開発者などが登壇予定。進行役は、NHK解説主幹の室山哲也さん。

科学技術を伝え、考えるための催しものは、いまも全国各地で行われています。あいちサイエンスフェスティバルのホームページはこちら。
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「まさか自分が選ばれるとは」
 今年2011年のプロ野球ドラフト会議でも、驚きの選択権獲得など、いろいろと波乱のできごとがありました。

北海道日本ハムファイターズは、早稲田大学ソフトボール部の大嶋匠捕手をドラフト7位で指命しました。ソフトボール部員に対して、プロ野球のドラフト会議で指命があるのは異例のこと。大嶋捕手は、ドラフト指命を受けたあと、報道陣に対して「自分の名前か、4、5回見直した。うれしかった」と感想を述べています。

ゆめゆめ思わなかったが「自分が選ばれる」ということがドラフト会議では起きるわけです。「ソフトボール部の捕手への指命」という驚きの指命をさらに延長させれば、つぎのような、もっと驚きの指命が起こる可能性が皆無ではありません。

「第8回選択希望選手、北海道日本ハム、野手、佐藤一郎、青森県リンゴ栽培農家」
「第9回選択希望選手、福岡ソフトバンク、捕手、山田宏、沖縄県在住サーファー」
「第10回選択希望選手、読売、フグ田マスオ、投手、海山商事係長」

過去に野球で投手をしたことのある、現在はリンゴ栽培農家の佐藤一郎さんが、ドラフト会議で突然に指命を受けるというわけです。

おそらくこの佐藤さんは、テレビを見ていたら「え、佐藤一郎で、リンゴ農家って、ひょっとしておれのことじゃないか」となり、その後、球団や報道陣から電話が殺到することでしょう。

おなじように、ゆめゆめ思わなかったが「自分が選ばれる」という驚きの人選には、ノーベル賞の受賞もあります。2002年にノーベル化学賞を受賞した、田中耕一さんはその例です。島津製作所で一会社員として働いているなかで、ノーベル化学賞を贈る旨の連絡をノーベル財団から突然に受けました。

さすがに自然科学の賞では、論文を発表するなどの業績がなければノーベル賞受賞はむずかしそうです。しかし、活動自体が評価される平和賞などでは、まだ可能性はあるのかもしれません。

もちろん、「筋ちがい」の人物が、ドラフト指命を受けたり、ノーベル賞を受けたりといったことが起きるのは、かぎりなくゼロに等しいといえます。しかし、可能性が完全にないということにはなりません。選ぶ側もまた、意図をもつ人間だからです。
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「虚構新聞」科学欄に“まことしやかなうそ”の妙
「虚構新聞」という“新聞”があります。

名前のとおり、事実でないことを事実らしく記事にしているのがこの新聞。エイプリルフールのうそとおなじく、「まったくのうそ」とはじめからわかるような内容でなく、「あたかも本当の話っぽいうそ」を伝えることが、この新聞の要点となります。

虚構新聞には「科学欄」もあります。あたかも本当の話っぽいうそとして、どのような記事があるでしょうか。

「『10桁で終了』円周率ついに割り切れる」という虚構記事があります。

この虚構記事によると、「千葉電波大学」の研究グループが、大学の所有する「ディープ・ホワイト」というスーパーコンピュータを使って円周率を計算しなおしたところ、円周率は、「3.151673980」で割り切れたといいます。また、円周率暗記世界記録保持者の「西岡さん」のコメントも寄せています。西岡さんは「死にたい」と答えたと虚構記事は伝えています。

「ジャンボプチトマトを開発 都立バイオ研」という虚構記事もあります。

「都立バイオ研究所」が、プチトマトを巨大化させた「ジャンボプチトマト」の開発に成功したと発表したというもの。同研究所の山際上級研究員の「ジャンボプチトマトは8倍の大きさ。単純に計算すると価格も8倍。ジャンボサイズの商品化とともに、プチトマト農家の拡大に貢献できれば」といった談話も紹介されています。記事は、「プチトマトの欠点だった大きさの問題を乗り越える」と紹介しています。

なお、すべての見出しの横には、白い画面の字に、白い文字で「これは嘘ニュースです」と書かれています。

科学の記事を「あたかも本当の話っぽいうそ」の記事に仕立てるには、科学の基本的な素養や知識をもっていることが大切になります。この「虚構新聞」をつくっているのは、滋賀県在住の塾講師のUKという人物。ホームページでは原稿の執筆依頼もしています。

虚構新聞の科学欄はこちら。
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「今か今かと待ち続けるキノコの発芽


日本ビジネスプレスのウェブニュース「JBpress」で、きょう(2011年)10月28日(金)、「今か今かと待ち続けるキノコの発芽 マツタケ、人工栽培への道(後篇)」という記事が配信されました。記事の取材と執筆をしました。

秋の味覚の代表であるマツタケは、日本人しか「よい香り」と思わないといわれています。マツタケをおいしく食べるのは日本人くらいとも。それほどマツタケは、日本人に向いたキノコといえましょう。

しかし、人びとの“里山ばなれ”によって、マツタケの育つような環境を保つことがむずかしくなっています。さらに、追いうちをかけるように、マツタケの住処である、マツの木が、マツにとっての害虫のしわざによりつぎつぎと枯れていっています。

昭和初期のころにくらべて、マツタケの日本での生産量は下がりつづけています。

そこで、「マツタケを人工栽培する」という考えかたが生まれ、過去に多くの研究者が、マツタケの人工栽培に挑んできました。

しかし、いまだにマツタケの人工栽培法を確立したという状況にまでは至っていません。生きているマツの木の根に育つという生育条件のむずかしさから、マツタケを人工栽培することがむずかしいのです。

その“至難の業”に挑みつづけているのが、この記事で登場する茨城県立林業技術研究センターきのこ特産部主任研究員の小林久泰さん。

マツタケの人工栽培化への戦略は、「苗づくり」「植え付け」「菌の増殖」という三段階からなるもの。

「苗づくり」では、マツタケの菌がついたマツの苗を人工的につくります。「植え付け」では、そのマツの苗を林に植えてマツタケ菌を定着させます。そして「菌の増殖」では、マツの林にマツタケ菌を増やして、「シロ」とよばれる“マツタケ安住の地”をつくります。

現段階では「植え付け」によるマツタケ菌の定着に挑んでいるところ。これまで、最高2年、マツタケ菌が林で生きつづけたということです。

「まだ、2年しか生存させられないというのが実感」と、語る小林さん。菌類と付き合う研究者の謙虚さや辛抱強さがことばに見られます。

日本ビジネスプレスの記事「今か今かと待ち続けるキノコの発芽 マツタケ、人工栽培への道(後篇)」はこちら。

マツタケと日本人の関わりあいを紹介した前篇「庶民の食材が「高嶺の花」に上り詰めた理由」はこちらです。
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過大評価と過小評価のバイアスにわけあり

「バイアス」は、「偏ったものごとの見方」といった語感でとられ、「できれば取りのぞきたいもの」といった感覚で受けとめられることが多くあります。

しかし、人あるいは動物が、なにかの行動をとるときにバイアスをもっているのにも、合理的な理由があるといいます。

人がもっているバイアスには、つぎのような方向性があります。

「起きる確率の小さい物事を、起きるのではないかと過大に評価する。そして、起きる確率の大きい物事を、起きないのではないかと過小に評価する」

たとえば、競馬で勝馬投票権を買うとき、買う前よりも買った後のほうが「当たるのではないか」とより強く思うようになります。これは、起きる確率の小さい物事を過大評価する例。

いっぽう、多くの人びとは、人ががんになる確率に対して、「自分はがんなんてならないのではないか」と思っています。これは、起きる確率の大きい物事を過小評価する例です。

防災の観点で見てみると、過大評価という点では、「万が一、私の身のまわりに大地震や大津波が起きたときのことを考えて、防災の備えをしておこう」という心がはたらきます。この課題評価のバイアスによって、災害への備えを人はするようになります。

いっぽうで、起きるか起きないかわからないような危険情報のすべてを鵜呑みにして「危険だ逃げよう」と判断していては、自分の自由な意思が奪われていくことにもなります。そこで、高い危険性があったとしても、それを「まあ、大丈夫だ」と過小評価するバイアスがはたらくわけです。

人のバイアスは、ときに本当に外れてしまうことがあり、それによって大きな事故や犠牲を招くこともあります。すくなくとも「人の判断や行動にはバイアスがある、自分も含めて」ということを知っておくことは、生きていくうえでプラスになりそうです。

参考文献
広瀬弘忠 杉森伸吉「正常性バイアスの実験的検討」
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「たいめいけん」のカレーライス――カレーまみれのアネクドート(36)


東京・日本橋には、橋を中心に、三越、高島屋、太樓總本鋪、山本山などの、古くから続いている店が多くあります。

洋食屋の「たいめいけん」も、そのひとつ。1931(昭和6)年、料理人の茂出木心護が中央区新川の地に「泰明軒」という洋食屋を開いたあと、1948(昭和23)年、日本橋に店を移し名も「たいめいけん」と改めました。

以降、ビジネス街ではたらく人びとの胃袋を満たしつづけてきました。昼11時45分にもなると、店の前では行列ができ始めます。そして、客で満たされた店のなかでは、ウェイトレスがせっせかと注文をとったり、料理を運んだりしています。

ここは洋食屋。もちろん、メニューの中には、「カレーライス」があります。各50円という破格の値段のコールスローやボルシチとともにカレーライスを頼む人も多いもよう。

ウェイトレスに注文をしてから5分。出されるカレーライスは、「カレーライス」というよりむしろ「ライスカレー」とよぶにふさわしいような、古風なカレーです。

肉は、東日本でよく使われてきたポーク。そしてルゥは、小麦粉が多く使われたもので、“とろとろ”というより“ぽとぽと”としています。そして、カレー専門店などで食べるカレーに比べると、辛くもありません。

たいめいけんのカレーライスは、インドカレーとは遠く離れ、英国カレーとも一線を画す、まさしく「日本のカレー」といえます。

たいめいけんのホームページはこちら。
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死刑囚からの臓器提供、日本では行なわれず

重い臓器の病をかかえた人が、脳死の人などから臓器を提供されて移植することがあります。ちかごろでは、運転免許所の裏側などにも、脳死になったとき自分の臓器を提供するかの意志を示す欄が設けられたりしています。

どの臓器についても、患者は提供されることを待ちのぞみながら、臓器提供者は慢性的に不足している状況です。

そこで、こんな発想が生まれます。

「臓器提供を、死刑囚からすることはできないのだろうか」

この問題に対しては、「死刑による人の死亡は、臓器提供にあまり適していない」という壁があるといわれています。日本での死刑の方法として法律で決まっている絞首刑では、死亡確認の作業などに時間がかかり、臓器がいたんでしまうなどといわれています。

では、臓器がいたまない方法で死刑が執行法されれば、臓器提供をすることができるのでしょうか。これは、できるといえます。

実際、中国では、銃殺または薬物注射で死刑が執行されていますが、移植手術で使われる臓器の65%は死刑囚からのものとされています。ただし、中国と日本とでは、かなり死や死体に対する意識のちがいはあるようですが。

死刑囚の価値観や人権を無視して、「死刑囚は臓器の提供をすべし」となれば、それは重大な深刻問題になります。

では、こんな場合はどうでしょうか。法律で「脳死が可能となる死刑執行」が認められ、死刑囚が、「死刑になるのであれば自分はだれかに臓器を提供したい」と望み、それを死刑囚の家族も承諾し、かつ、臓器提供を受ける側も「死刑囚からの臓器提供であっても問題ない」と認め、かつ、臓器提供の手術をする医師も「死刑囚からの臓器提供でも執刀する」と意思表示する……。

これらの条件が揃えば、すくなくとも当事者たちのあいだでは、なんの問題もないような状況になります。それでも、死刑囚からの臓器提供が日本で行なわれないのは、法律の問題をのぞけば、そうした状況が起こることがまずないからか、または、その制度を導入したときの社会全体への倫理的あるいは価値的な影響があるからなのでしょう。

参考記事
47ニュース2009年8月28日付「中国の臓器提供65%超が死刑囚 一般ドナーはわずか」
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臨時夜行列車、8時間半で16キロを走行


夜行列車というと、せまい日本のなかでも、東京駅と出雲市駅のあいだや、上野駅と青森駅のあいだなどの長距離を、数時間から10時間以上かけて結ぶもの。「寝台のベッドから朝、起きるとそこは別世界」という体験ができるわけです。

しかし、かつて日本には、始発駅と終着駅の距離がわずか16キロほどという、短い距離の夜行列車が運行したことがあります。

その夜行列車は、1991年から1993年にかけての春と夏の季節、東海道本線のある区間で、臨時に運行されていました。

JRの新大阪駅を、22時10分に出発します。そしてつぎの停車駅は大阪。淀川の鉄橋を渡り、5分もあれば大阪駅に到着します。

大阪駅に22時15分に停車したあと、この列車はなにもせず、じっと大阪駅に停車したままでいます。日付が変わる23時59分には、ドアも締めて乗客の乗り降りもしなくさせます。そして、その後も6時間、出発せず大阪駅に止まっているのです。

大阪駅に止まったままの列車の中で、乗客は一晩をすごします。そして、朝になり、列車はまだ大阪駅。ようやく6時台、この列車は大阪駅を出発して、西へと向かいます。

いよいよ旅も終わりに近づいてきました。最終到着駅は、大阪駅と三宮駅の間にある「甲子園口駅」。6時45分に到着。合計10時間35分の「短い旅」でした。

この臨時列車の名前は「ナインドリーム甲子園」。名のとおり、甲子園で高校野球の大会が行われてる期間に、運行されていました。甲子園での試合観戦を翌日に控えた、地方からの客などを乗せて一晩をすごすのでした。

いまは、すでにこの「ナインドリーム甲子園」は運行されていません。京阪神地区の宿泊事情が充実したために、その役割を果たしおえたとされています。

しかし、大阪駅と新潟駅をむすぶ「急行きたぐに」の列車名表示幕には、いまも「ナインドリーム甲子園」を見ることができるといいます。

参考ホームページ
train.gotohp.com「ナインドリーム甲子園号」
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薬の試験に公平性と倫理のジレンマ


薬の効き目というのはとても微妙なものです。まったく効き目のないデンプンでできた偽薬でも「この薬は自分の病気に効くのだ」と信じこまされることで、ほんとうに効き目が出てくる場合もあります。

なので、その薬に効き目があるかどうかを試験で確かめるには、薬の微妙な効き目から「本当にこの薬で効いている」ということを証明しなければなりません。

その方法のひとつとして行われているのが「二重盲験法」です。Aという薬の効き目を確かめるために、対象となるBという薬も用意します。このBのほうの薬は、これまで使われてきた薬が使われることもあれば、デンプンなどでできた偽薬が使われることも。

そして試験では、医者「自分がAという薬を出しているのか、Bという薬を出しているのか」がわからず、患者も「自分がAという薬を出されたのか、Bという薬を出されたのか」がわからない状態で、両方の薬が、両方の患者群に使われていきます。もちろん、AとBの薬は、外観や包装や味などはまったく見分けがつかないようにしています。

医者にしてみると、たとえば臨床試験の対象としたAのほうの薬に期待を寄せていれば、Aという薬に対してつい有利になる結果を報告してしまうもの。「絶対に私はそのようなことはしない」という固い信念の人であっても、バイアスは掛かってしまうものです。AかBかどちらの薬を使っているかわからないようにするほうが確実に公平を期することができます。

いっぽう、患者のほうも、新しいAという薬を出されたということを知ってしまえば、新しい薬は効き目がよいのではないかといった期待を寄せ、偽薬効果を引きおこしてしまう可能性があります。

こうしたバイアスによって真の薬の効果が見えなってしまうことを、二重盲験法は防ぐのです。

ただし、二重盲験法では、協力しますと言ってくれる患者に薬を試すとはいえ、「患者に偽薬をあたえてもよいのか」といった倫理的な問題もつきまといます。そこで、医者も患者もその薬がAなのかBなのかを知っているうえで試験する「非盲験試験」という方法がとられることもあります。日本での臨床試験では、海外にくらべて二重盲験法はしづらいといったこともあるようです。

しかし、非盲験試験では、上であげたような弊害のおそれがつきまといます。“公平な試験”とはいいづらいのです。

これから出そうとする薬の公平性と、協力したもらう患者についての倫理と。薬の臨床試験にはむずかしい課題があります。

参考ホームページ
バイエル薬品「抗血栓療法トライアルデータベース」
薬学用語解説「非盲験試験」
同上「二重盲検試験」
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心臓に役割不明の「耳」
 なぜ、人のからだは、このようなかたちをしているのか。部分的に見てみると、まだわからない点もあります。心臓についているふたつの“耳”も、その例とされています。

心臓には、大きくわけて、右心房、右心室、左心房、左心室という四つの部屋があります。

静脈の血ははまず右心房に入り、しきりの弁を通って右心室へ。その後、肺へと送られて酸素を得ます。酸素を得た血は、ふたたび心臓へ。左心房から、べつの弁を通って左心室に入ります。そして、体じゅうの動脈へと向かいます。

このうち、右心房と左心房には、それぞれ三角状の突起のようなものがついています。これを「心耳」(しんじ)といいます。心臓の内側から見てみると、心耳は袋のようなかたちになっているといいます。

心臓の右側と左側に、それぞれ出っぱった部分があるため「心臓にある耳のようなもの」ということで「心耳」と名づけられたのでしょう。英語では“Atrial Appendage”といいます。これを直訳すると「心房の附属物」。

人のかたちには、それぞれこうなっていった進化的な理由があるはず。しかし、心耳という袋がなぜ心房についているのか、つまり心耳の役割はなにであるのか、その理由はよくわかっていないといいます。

いっぽうで、心耳があることによって、よからぬ病気も起きています。

心耳の袋にも、血液は入っていきます。しかし、入ったところが袋状になっているため、ほかの心臓の部分にくらべて血がふたたび外に出て行きづらいのです。

そのため、左心耳では血がよどみ、血栓とよばれる血の固まりがつくられてしまいます。左心耳でつくられた血栓は、なにかの拍子にはがれて動脈へと移り、そして脳まで達して、脳卒中のひとつである心原性脳塞栓という病気を起こすことがあります。

いまのところ、心耳はなんの役にも立たないどころか、脳卒中の原因をつくりだすという、人にとって都合の悪い存在となっています。しかし、心耳に血がよどむというのは、加齢により心臓のはたらきが弱まることで生まれるもの。心耳に血がよどむようになるくらいまで、人は死ななくなったといえるのかもしれません。

参考ホームページ
慶應義塾信濃町ITC「Cor(心臓)Heart」
土橋内科医院院長ブログ「左心耳 これまで見逃されてきた心房細動の始まりの部位」
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「ガラス」で「ガラス」を見て手術


内視鏡は、手術のとき、からだの臓器や器官の内側を見ることのできる装置です。

19世紀はじめには、すでに内視鏡の原型のような器具が使われていたと言います。1950年には、東京大学と、いまのオリンパスにあたるオリンパス光学工業の共同開発で、「腹腔内臓器撮影用写真機」(ガストロカメラ)つまり、胃カメラの開発がありました。

その後、内視鏡の開発技術は進化を遂げました。いまではファイバースコープの先端にカメラをとりつけて映像を撮影して幹部を見ながら、幹部を除去するといった内視鏡手術がひんぱんに行なわれています。

眼の手術でも内視鏡が使われています。眼のたまの内部には「硝子体」とよばれる透明のゼリー状の部分があります。この硝子体が、外側の眼の表面に近くにあり光を感じる網膜にくっついてしまったり、濁ったり血が出たりすることで、網膜に光が届くのを遮ってしまうことがあります。

硝子体にこのような問題が起きたとき、硝子体をとりのぞけば網膜のはたらきをふたたび元に戻すことができます。この硝子体をとりのぞく手術は「硝子体手術」とよばれています。

これまでの手術用顕微鏡という器具を使った硝子体手術では見ることのできない“死角”ができてしまっていました。たとえば、網膜のすぐ脇のあたりです。手術用顕微鏡の光を、眼の外側からあてるため影の部分ができてしまうのです。

しかし、眼科用内視鏡を使った硝子体手術では、内視鏡を網膜の横の「白眼」の部分から刺しこんで硝子体を見ます。眼科用内視鏡を眼に射しこむ角度を変えることができるため、光を当てる範囲も変えることができるわけです。そのため、これまでの手術用顕微鏡で死角となっていた部分にも光を当てて、撮影することができます。

この眼科用内視鏡は、ファイバースコープという光ファイバーを材料にしたものでできています。光ファイバは柔軟性のあるガラス。硝子体はゼリー状をしたガラスのような組織。つまり、「ガラス」によって「ガラス」を覗きこむわけです。

参考文献
虎の門病院「硝子体手術説明」
参考ホームページ
広瀬眼科「手術の話 硝子体手術」
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「確実に一定に崩壊」を使って年代を調べる

「この頭蓋骨から、この人はいまから2万年前に生息していたと推定される」といったような科学の情報を見聞きすることがあります。いったい、そのようなとても古いものが生きていた年代をどのように測るのでしょうか。

有力な技術のひとつとしてあるのが「放射性炭素年代測定」です。

炭素という元素には、いくつかの種類があります。ほとんどの炭素は「炭素12」とよばれる、6個の陽子と6個の中性子からできた炭素ですが、1000億個のうち12個の割合で「炭素14」という種類のものが含まれています。この炭素14は、6個の陽子と8個の中性子からなりたっています。

炭素14には、炭素12にはない特徴があります。それは放射線を発しつづけるというもの。放射線を発しつづけることにより、すこしずつみずからの身を崩壊させていって、しまいには窒素という原子になります。もともと、炭素14は、地球の空の高いところで窒素が宇宙線を受けて変わったもの。よって、すこしずつ放射性を出してもとの自分の姿に戻っていくわけです。

化学的な変化とはちがい、放射性物質の崩壊というものは、とても“変化に富まない”もの。つまり、炭素14がみずからの身を崩壊させていく速度は、つねに一定です。その法則は「5730年で崩壊が半分進む」というもの。つまり、炭素14の半減期は5730年ということになります。

それだけ、しっかりとした半減期があるのであれば、ぎゃくに利用しない手はありません。

炭素が含まれた試料のなかには、炭素12と炭素14が含まれています。炭素12のほうは放射性物質ではないので、みずからを崩壊させることがありません。いっぽう、炭素14は確実にみずからを崩壊させていきます。しかも、炭素12と炭素14がどのくらいの比率で存在するかは、あらかじめわかっています。

その試料は昔はいきものだったとします。人がご飯などから炭素の一種である炭水化物をとって生きているように、どのいきものも栄養に炭素を得て暮らしています。しかし、いきものはいったん死ぬと、もう炭素をとりいれることはありません。つまり、その時点から、一方的に炭素14は崩壊により減っていくことになります。

そこで、調べたい試料について、炭素12に対して炭素14がどれだけあるかを調べれば、その炭素14の減り具合から、「この試料は何万年前に生きていた」ということがわかるわけです。

たとえば、ある試料について、1000億個のうち12個あるはずの炭素14が、1000億個中6個しかなければ、炭素14は半分に減ったことになります。炭素14の半減期は5730年なので、この試料は5730年前に死んだ、つまり5730年前に生きていたということがわかります。

この放射性炭素年代測定法を開発した、米国の化学者ウィラード・リビー(1908-1980)は、この功績で1960年に、ノーベル化学賞を受賞しました。リビーがこの世を去ったのは1980年のこと。リビーの骨からは、生きていたころから比べて約0.2%、炭素14が崩壊していることになります。

参考ホームページ
放射性炭素年代測定の原理と暦年代への換算
吉田邦夫「放射性炭素(炭素14)で年代を測る」
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好業績には組織再編より意思決定

日常のなかでは「あれもいいが、これもいい。どれにしようか」と、最善の策を決める場面があります。

一人で「これにしよう」と決めるときは、自分のなかの迷いをとり去ればよいだけなので、さほど時間がかかることもありません。しかし、組織で「これにしよう」と決めるときには、いろいろな案を推す人がいるために、時間がかかることがあります。

なにかの目標を達成するために、いろいろな案から「これが最善だ」と決めることは「意思決定」とよばれます。

組織の機能を高めるにはどうすればよいか。この問いに対して、「組織を再編することよりも意思決定の質を高めることのほうが重要だ」と主張する人たちがいます。

米国のコンサルタント会社ベイン・アンド・カンパニーのマーシャ・W・ブレンコらは、世界760社の会社の経営幹部を対象に、重大な意思決定がどのくらい有効になされているかの調査をしました。

この調査では、経営幹部への聴きとりから、その企業の意思決定の有効さを、つぎの三つで評価しました。意思決定が適切であったかどうかという「質」、意思決定が強豪他社より迅速だったかという「スピード」、主要な意思決定に労した時間や手数やコストはどうだったかという「労力」の三つです。

ブレンコらは、この三つの評価から総合得点を出し、さらにその企業の財務業績を見てみました。すると、調査した企業の国、業界、規模を問わず、95%以上の信頼性で、意思決定の有効さと財務業績とに相関関係があるとわかったといいます。

いっぽう、この調査では「組織と業績」という観点からも、相関関係があるかどうかを調べました。その結果、組織のあり方が企業の業績に関係しているような結果にはならなかったといいます。

この結果から、ブレンコらは明確にこう述べています。「組織再編では、組織構造よりも意思決定に大きな重点をおく必要がある」。

組織づくりをするとき、「あの人をこのポストに置いて、あの人はあのポストから外して」といった人材配置にまずとりかかることは多いもの。しかし、「案を出して実行するまでには、こういう手順を踏んで」といった、意思決定の方法を明確に決めておくことのほうが、先決事項というわけです。

参考文献
マーシャ・W・ブレンコほか「意思決定をする組織」『ハーバード・ビジネス・レビュー』2010年11月号
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「いいチームの日」に「チームワーク・オブ・ザ・イヤー」を表彰
11月26日は「いいチームの日」です。この日、ソフトウェア開発企業のサイボウズが運営するロジカルチームワーク委員会が、「チームワーク・オブ・ザ・イヤー2011」という表彰をする予定です。

チームワーク・オブ・ザ・イヤーは、その年にもっともチームワークが発揮され、顕著な実績を残したチームを表彰するというもの。

すでに四つのチームがノミネートされており、ホームページを通じて一般からの投票が受けつけられています。

ノミネートされた四つのチームとは、理化学研究所の京速コンピュータ「京」開発プロジェクトチーム、日本コカ・コーラの「い・ろ・は・す」プロジェクトチーム、羽田空港国際線旅客ターミナルの旅客サービスプロジェクトチーム、三洋電機の「GOPAN」プロジェクトチーム。

それぞれの、ノミネート内容を抜粋しますと、つぎのようなチームワークが紹介されています。

「チームの目標は、10ペタの性能を達成するシステムの開発と技術の維持発展。最初から目的、目標が明確で、皆がそこに向かっていました。チームのモチベーションは、クリアな目的、目標があるということが一番大切です」(「京」開発プロジェクトリーダー渡辺貞氏)

「周囲からのプレッシャーも大きかったのですが、チーム内で『いいよね!』『ここまでやってきたから大丈夫だよ!』と互いに励まし合ってきました。うまくいかなかったときのことを考えて、『会社に席なくなるかな』『大丈夫だよ』などと言い合ったりもしていましたね」(「い・ろ・は・す」プロジェクト 統括部長福江晋二氏 ウォーターグループマネジャー小林麻美氏)

「つい先日まで学生であった新入社員に、まず社会人としての意識を持たせるところからのスタートだったので、より高い接遇サービスを提供できるプロ集団(チーム)を目指していけるよう一人ひとりをケアし、モチベーションを維持することが大変でした。実地研修や、コンシェルジュの制服の検討に加わってもらうなどすることで、モチベーションを盛り上げていきました」(東京国際空港ターミナル 旅客サービス部長 飯田恭久氏ら)

「GOPANを単純に『ベーカリー』というハードとして出すのではなく、生活がどんなふうに変わるかというストーリーを伝えよう、と各部署のリーダーが知恵を出し合い、話し合いを続けていきました」(三洋電機コンシューマエレクトロニクス副統括部長 滝口隆久氏)

組織としてのしくみや決まりづくりの重要性から、チームワークが根付くための努力までが語られています。組織を引っぱる人、その人に従う人、成功への転機となる鍵をにぎる人物などが、それぞれの役割を果たして、物語がつくられていきます。

「投票」は、各プロジェクトのページの左側にある「投票する」のマークをクリックすることで一票入れることができます。

「チームワーク・オブ・ザ・イヤー2011」のホームページはこちら。
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「“住む場”から“学ぶ所”へ 注目集める学生寮の力」


(2011年)10月17日(月)発売の『週刊東洋経済』では、「本当に強い大学2011」という特集が組まれています。全国の大学の財務データが書かれた「大学四季報」という付録と合わせて、116ページの分厚い特集となっています。

特集では「教育力」「就職力」「財務力」という三つの柱から、大学のいまを追っています。

毎年、秋のこの時期に経済誌はこぞって大学特集を組みます。この時期は、親が息子・娘の大学受験を真剣に考えだす時期でもあるのかもしれません。『週刊東洋経済』でも、今年は親の視点からの大学選びの情報提供に力を入れています。

「“住む場”から“学ぶ所”へ 注目集める学生寮の力」という記事では、「寮」というものに視点をあてて、寮を充実させている東京理科大学、昭和大学、立命館アジア太平洋大学、中央大学を紹介しています。

東京理科大学の基礎工学部があるのは、札幌と函館の間にある長万部町。入学式を東京の日本武道館で済ませると、基礎工学部の入学生はそのまま羽田空港から飛行機に乗り、長万部キャンパスに向かうといいます。学生たちは、翌年の2月までの約1年を、キャンパス内の寮で暮らすことになります。

実際に寮で暮らす学生の声が紹介されています。「人間関係で嫌なことももちろんたまにはある。でも明日も明後日も一緒に生活しなければならないから、みんなが丸く収めようと努めているようだ」。

うまく生活を続けるためには、人びとと和することも大切。そのようなことを、寮生活は教えてくれるのかもしれません。寮で友と出会って、寝食をともにするということそのものが、広い意味で人を育てる一環になっているようです。

記事では、ほかに国際基督教大学や早稲田大学が最近になり、寮を新設したり新設を予定したりしていると伝えています。

ほかにも、「“女子だけ”だからこそ育つ リーダーシップや就職力」「地域や社会とかかわり学生の意欲に火をつける」などの記事で各大学の、教育力向上への取り組みが紹介されています。大学評論家の山内太地さんの「学問の基本は1年生から」といった初年次教育に視点をあてた寄稿も。

編集担当者がポジティブ思考だからでしょうか、全体的に大学の前向きな取り組みをとりあげた特集になっています。『週刊東洋経済』「本当に強い大学2011」特集号のお知らせはこちら。
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長周期地震動、油断禁物


東日本大震災から、人びとは防災をよりよくしていくうえでの知見や教訓を得ました。津波の警報があったら避難を徹底すべきであるということは、重要な例のひとつです。

しかし、地震学者たちは「東日本大震災によって、人びとが油断することになりかねないこともある」と警告をいいます。そのひとつが、長周期地震動への備えです。

地震による揺れでは、震源から岩盤中を伝わってくるP波(Primary wave)やS波(Secondary wave)がよく知られています。しかし、岩盤内を伝わるのでなく、地球の表面を伝わってくる別の波もあります。これは表面波とよばれるもの。

表面波の伝わる速度は、S波とおなじくらいかやや遅め。いっぽう、表面波には、P波やS波よりも長い間隔の周期で揺れるものがあります。このうち、揺れの周期5秒以上のものを長周期地震動といいます。

長周期地震動の特徴として、場所について、時間について、揺れについてがいわれています。

場所としては、震源から200キロや400キロとだいぶ離れたところでも、大きな揺れに見舞われるおそれがあることが特徴です。これには、粘度や砂が何層も積まれたような堆積層の厚い平野などで起こりやすいといった、その場所の特性も関係しています。

また、時間的な特徴としては、P波やS波よりも相当に長くつづくという点があります。2003年9月に起きたマグニチュード8.0の十勝沖地震では、苫小牧で長周期地震動が50秒以上にわたり続いていたことがわかりました。地震によっては、8分や9分もつづくともいわれています。

揺れの特徴としては「長周期」とあるように、ゆっくりとしたもの。揺れの周期はその地域ごとに、6秒周期とか7秒周期とかが決まっています。たとえば、神奈川県横浜付近の地下では6秒周期、東京・新宿の地下では7秒周期といったもの。

これらの地域で特有の周期に加えて、高層ビルにも6秒周期とか7秒周期とかの固有の揺れやすいさの周期があります。地域特有の周期とビル特有の周期の二つが重なりあうと、“共振”とよばれる現象によってとても大きく揺れることになります。

東日本大震災でも、新宿の高層ビルなどで長周期地震動は観測されました。しかし、複数の地震・防災の専門家が話すのは、「今回の地震ではマグニチュードの大きさのわりには、長周期地震動の揺れは小さかった」というもの。

たとえば、東日本巨大地震のように宮城県沖で起きる地震にくらべて、紀伊半島沖で起きる東南海地震では、長周期地震動の大きさは2倍になるとされています。東日本巨大地震では、倒れなかった職場の棚やOA機器などが、つぎの大きな地震で倒れないとはかぎりません。

地震の規模にくらべて被害がわりかし軽かったようなことがらについては、とくに「警戒をつよめるべき」と考えることが重要となります。

参考記事
古村孝志「『次なる巨大地震・津波』にどう対応するか」『無限大』第129号
池田雅俊「長周期地震について」
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共通化、「圧倒的に便利」ゆえの結果


新聞の記事には「共通化」という見出しが多く並んでいます。「銀行ATMシステムをクラウド導入で『共通化』」「住宅関連メーカー23社、住宅補修部品を一部共通化」など。

ふたつまたはそれ以上のもののどれにも通じることを「共通」、そのようにすることを「共通化」といいます。

人びとが使うものを「共通化」するとき、その利点はどこにあるのでしょうか。

よく、共通化の利点として引き合いに出されるのが言語です。各国の人びとが集まるような場では、意思疎通のためになんらかの言語を共通言語として使わなければなりません。たいていの場合、国際共通語は英語とされています。

たとえば、日本人と、中国人と、フランス人が顔を合わせる会議が開かれる場合、3か国の人がたがいの意思疎通をはかるためにはどうすればよいでしょうか。「すべての人が日本語、中国語、フランス語を理解している」という状況であれば、だれが母国語を話したとしても、他の人が付いていくことができるようになります。

しかし、中国語とフランス語にも長けている日本人と、日本語とフランス語に長けている中国人と、中国語と日本語に長けているフランス人が、一同に会するということは考えにくいことです。さらに、日本人、中国人、フランス人が会する会議に、さらにバングラデシュ人が加わった場合、すべての人がすべての参加者の母語を理解できるという確率はさらに低くなります。

「会議において、すべての人が自分以外の国の人びとの言語をすべて理解している」という状況は、参加国が増えれば増えるほど急激に考えづらくなります。

そこで、すべての人に共通的に身につけており、それを使えばどの国の人にも通じるような言語がひとつあれば、すべての人がすべての言語を理解しなくても、意思疎通ができるようになります。

実際、国際共通語として認められているのが、英語です。

英語を母国語とする人口は3億5000万人で、広い意味での中国語を母国語とする10億人にくらべれば圧倒的にすくないといえます。しかし、かつて大英帝国が世界中のいろいろな国を支配下とし、さらに英語を話す人びとが北米大陸に移住してアメリカ合衆国ができ、その後も、英国と米国が世界情勢のなかで、大きな影響力をもち続けてきたという既成事実が、だれもが「共通言語は英語」とする事実をつくりだしています。

英語が共通言語となった歴史的経緯には反対する考えかたがあるとしても、「共通言語がひとつある」という状況は、いろいろな国の人が集まる会議を進めるうえでは、圧倒的に便利な道具であるといえます。

なにかをするうえでの方法がばらばらである状態から、だれにとっても通じるようなひとつの方法をつくり出します。それをだれもが共通の方法と認めれば、だれがいつどこでその方法を使ったとしても通じないことがなくなるわけです。

参考記事
All About「英語が国際共通語なのはなぜ?」
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(2011年)11月3日、文化の日に「科学記者と語る『3.11』後の社会と科学」


催しもののおしらせです。

(2011年)11月3日(木)文化の日、東京・西新宿の朝日カルチャーセンター新宿教室で、「科学記者と語る『3.11』後の社会と科学」というサイエンスカフェが行なわれます。

サイエンスカフェは、参加者や講演者が喫茶しながら、科学についての関心ごとを聞いたり語りあったりする催しものの形式です。

講師は、朝日新聞社編集委員の尾関章さん。小関さんは、1977年朝日新聞に入社し、1983年以降科学記者として宇宙論、量子論、素粒子物理などの物理学などを中心に記事を書きつづけてきました。著者も『量子論の宿題は解けるか』(講談社)『量子の新時代』(共著、朝日新聞出版)などを出しています。

日本のもつ科学技術を、「3.11」以降の社会にどのように組み込んでいけばよいのかを、語りあうというのが企画の趣旨。

省エネルギー社会、自然エネルギー社会、また、長寿高齢社会といった社会像のなかで、医療や情報技術などの先端技術をどのように活かしていくかといったことが語られそうです。

開催者ホームページで小関さんは「私たち一人ひとりが科学技術に何を求め、どのようにつきあっていくかを、みんなで考え、語り合いましょう」と語りかけています。

催しものの副題は「オトナの文化祭 サイエンストーク」。長年、報道の立場から科学技術を見つづけてきた科学ジャーナリストの小関さんとともに、社会と科学技術について考え、語りあってみてはいかがでしょうか。

11月3日(木)文化の日、西新宿の住友新宿ビル内、朝日カルチャーセンターで15時30分から17時まで。参加費は1,000円です。ホームページはこちら。
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降圧薬に“5種類”の“第一選択薬”
薬には、「第一選択薬」とよばれるものがあります。患者に対する薬がいろいろとあるなかで、まず投与すべき薬のことです。当然ながら、第一選択薬となる薬は、たいていの場合、効き目があり、副作用もすくないものが選ばれます。

「第一選択薬」といっても、ある病気の治療薬として、ただひとつの第一選択薬があるというわけではありません。

たとえば、高血圧の治療薬である降圧薬では、「カルシウム拮抗薬」「アンジオテンシンII受容体拮抗薬」(ARB:AngiotensinII Receptor Blocker)「アンジオテンシン変換酵素(ACE:Angiotensin Converting Enzyme Inhibitor)阻害薬」「利尿薬」「β遮断薬」という5種類が第一選択薬とされています。これは、日本高血圧学会高血圧治療ガイドライン作成委員会がつくったガイドラインに書かれてあること。

なぜ、第一選択薬が5種類もあるのかといえば、薬があたえられる患者の病気の状態がいろいろちがうからです。ガイドラインにも、「これら5種類の降圧薬には、大規模臨床試験の成績などから、それぞれ積極的に適応および不適応となる病態が存在する。これらの病態がある場合は、それに合致した降圧薬を選択する」ということが書かれてあります。

では実際、高血圧の患者に対して、どの薬が第一選択薬として使われているのでしょう。

「日経メディカルオンライン」が行なった「高血圧に関する調査2010-2011」によると、もっとも多かった薬がアンジオテンシンII受容体拮抗薬でした。その率は50.8%で、過半数となっています。

この薬は、血管を収縮させて血圧を高めるレニン・アンジオテンシン系という物質に対してはたらくもの。レニン・アンジオテンシン系のはたらきに拮抗する、つまりはたらきをうち消します。

第一選択薬としてつぎに多く使われていたのは、カルシウム拮抗薬でした。この薬は、体のなかでのカルシウムイオンのはたらきに拮抗するもの。細胞には、カルシウムチャンネルとよばれるカルシウムイオンの通り道があります。カルシウムイオンがこのチャンネルを通って細胞のなかへと入っていくと、筋肉が縮みます。

血管にも血管平滑筋という筋肉があります。ほかの筋肉とおなじようにカルシウムイオンが血管平滑筋の細胞のなかに入っていくと、血管が縮むのです。これが高血圧の原因のひとつになります。

カルシウム拮抗薬は、カルシウムイオンの通り道であるカルシウムチャンネルを防ぐはたらきをもっています。このはたらきにより、高血圧を抑えるわけです。

2008年までは、高血圧の第一選択薬はカルシウム拮抗薬でした。しかし、2009年になると、アンジオテンシンII受容体拮抗薬が第1位の座を奪いました。

降圧薬において、第一選択薬のなかの第一選択薬がアンジオテンシンII受容体拮抗薬であるというのが、現状です。

参考文献
「日本高血圧学会高血圧治療GL作成委員会/医療・GL(09年)/ガイドライン」

参考記事
日経メディカルオンライン2011年4月1日付「降圧薬の第1選択薬、2年連続でARBが1位」

参考ホームページ
札幌厚生病院循環器科「カルシウム拮抗薬」
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シロから生える


種のちがういきものが、もちつもたれつの関係で暮らすことを「共生」といいます。松の一種であるアカマツと、きのこ類のマツタケは、共生するいきものの代表格のひとつです。

運がよければ、アカマツの木の根元あたりに、マツタケが生えているのを見ることができます。地中では、アカマツの根にマツタケが菌糸が張りめぐらされています。このように、アカマツの根とマツタケの菌糸がひとつのかたまりになったものは「菌根」といいます。マツタケは、菌根をつくる菌類であることから「菌根菌」(きんこんきん)とよばれています。

アカマツの根とマツタケの菌糸がからみあったところの土は、白っぽくなるといいます。マツタケが生えてくる場所は、むかしから「シロ」とよばれていますが、掘りかえした土が白っぽくなるから「シロ」とよばれるという説もあります。

ほかにも「シロ」には、「きのこの城」という意味で「シロ」、苗代のように区切りのある場所を意味する「代」という意味で「シロ」とよばれるようになったなどの説もあります。

ひとつの地点にマツタケが生えはじめると、1年後には、その中心から半径15センチほど広がった輪の線上にマツタケが生え、そのまた1年後には、さらに15センチほど広がった輪の線上にマツタケが生えていきます。こうしてマツタケは「シロ」を拡大させていくのです。

しかし、マツタケとアカマツは共生関係にあるため、アカマツの根が弱ってしまうと、マツタケも育たなくなってしまいます。マツタケは、アカマツがみずから光合成によってつくった栄養をおすそわけしてもらっています。いっぽう、マツタケはアカマツに水分や栄養を補給してあげています。

アカマツが健康に育って、しっかりとした根を張りつづけることが、マツタケが生きるための大切なことのひとつになります。それはまた、マツタケを食べる人にとっても大切なことです。

参考ホームページ
宜寿次盛生「マツタケの『シロ』」
岡山理科大学総合情報学部生物地球システム学科植物生態研究室「生態学概論」
JAグループ福岡「アキバ博士の『農の知恵』マツタケの『シロ』って何?」
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“似たものどうし”になった世界で情報ネットワークが普及――グローバル化という名のなりゆき(下)

1970年代以降の地球環境の危機を前にして、世界では「グローバルに問題に対応せざるをえない」という状況が生まれました。これが、グローバル化が必然的になった背景のひとつとされています。

その後、経済のグローバル化が顕著にいわれるようになってきました。その背景には、世界各国の情勢の変化と、情報技術の進化があるといわれています。

まず、世界各国の情勢変化というのは、ソ連や東欧諸国などの社会主義国家が崩壊して、市場経済を前提にした国が一気に広がっていったことです。米国や日本など、市場経済の下で活動をしていた企業は、東欧という新しい市場を手に入れることができるようになったのです。

東欧ほど劇的ではありませんが、1990年以降は、ラテンアメリカ諸国の経済成長も見られました。また、中国、韓国、台湾などの東アジアの国々が大きく発展したことは、隣国である日本にも実感として伝わるものがありました。

こうして、1980年代にくらべて、1990年代以降の世界状況は、急激に“似たものどうし”になってきたのです。

そこに、追いうちをかけたのが、情報技術の進化とされています。

1969年に、米国の国防総省高等研究所計画局(ARPA:Advanced Research Projects Agency)の指揮により、米国の3校の大学がいつもネットワークでつながっている状態がつくられるようになりました。

このネットワークの開発は、1961年にユタ州で起きた、電話中継基地をねらったテロが発端とされています。当時の電話回線では、A局からB局という中継局を介してC局へと情報が届くという、単純な中継システムでした。

しかし、B局にあたる電話中継基地がテロでやられたため、A局からC局への連絡ができなくなりました。これを避けるため、情報の伝わりかたを直線的なものにするのでなく、「D局経由」や「E局経由」のように、迂回もできるネットワーク的なものにする必要があると考えられたのです。

その成果として、はじまったのがARPAのネットワークでした。そして、このARPAのネットワークの発展の果てにあるのが、いま世界中で使われているインターネットです。

インターネットの発展は、人と人とのコミュニケーションをすくなくとも“気軽なもの”にさせました。面会で直接合ったり、電話で直接話したり、手紙で何日も掛けたり、ファクスで紙を用意したりすることをせず、相手に情報を伝えることができます。しかも、インターネットの情報はデジタルであるため、大量に普及させやすいという点もあります。

とくに、世界全体が市場経済になっていたなかにインターネットが広く使われるようになったため、お金のやりとりが一瞬にしてやりとりできるようになりました。

こうして政治のグローバル化につづいて、経済のグローバル化も進んでいったのです。

「グローバル化」の歴史を見ると、積極的に「グローバル化をしよう」という人間の意志があってグローバル化が行なわれたのではけっしてないということが見えてきます。了。

参考文献
岩本武和「経済のグローバル化の功罪」

参考ホームページ
あいち産業振興機構「インターネットの歴史」
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地球規模で議論せざるをえなかった――グローバル化という名のなりゆき(上)


世のなかでは、なぜこうも「グローバル化」の重要性がいわれるようになったのでしょうか。

実際、「グローバリゼーション」や「グローバル化」ということばが使われている文献数は、1990年代終盤になってから増えてきたようです。

福岡大学商学部教授の川上義明さんの調査では、「Globalization」「グローバリゼーション」「グローバル化」といった書名の付いた英書と和書の合計は、1995年までどのとしも40件未満でした。ところが、1996年になると68件、以降1997年から2000年までの各年で、90件、115件、146件、204件と増えていきました。

グローバリゼーションということばが使われていなかった時代においても、世界はグローバル化が進んできました。

米国コーネル大学の政治学者ベネディクト・アンダーソンは、グローバリゼーションの萌芽を、19世紀後半の電信網の発達や海底ケーブルの発達といったできごとに捉えています。

インターネットが発達するよりずっと前から、グローバル化は起きていたと捉えることもできます。

グローバリゼーションという考えかたが広まるようになった背景には、「地球規模でものごとを捉えなければならない」という必要性が出てきたということがありそうです。

1972年、「国連人間環境会議」がストックホルムで開かれ、ここではじめて地球環境問題が国際的な政治課題であると考えられるようになりました。おなじ年には、ローマクラブが「このまま地球汚染がつづけば、100年以内に地球上の成長は限界に達する」という「成長の限界」を発表しています。

こうして、環境問題の議論を機に、ものごとをグローバルに考えなければならないという意識が生まれることになりました。

1990年代になると、経済のグローバル化が顕著になってきます。その背景には、世界各国の情勢の変化と、情報技術の進化があるといわれています。つづく。

参考文献
梅森直之編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』
川上義明「現代企業のグローバル化に関する検討」
岩本武和「グローバル化の功罪」
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Jリーグ球団の収入、1に広告、2に入場料


スポーツの球団が、経営をつづけていくためには、なんらかの方法で収入を得つづけなければなりません。球団の収入の内訳はどのようになっているのでしょうか。

プロ野球では、12球団のうち黒字であるのは,わずか3球団ほどで、大半は赤字経営といいます。いっぽう、あまり知られていませんが、プロ野球にくらべて黒字経営が多いのは、サッカーJリーグの球団のほうです。

Jリーグ公式サイトにある、2010年度の「球団別経常利益規模分布表」によると、経常利益が「0円以上」となっている球団は、J1では全18球団のうち9球団。半分になります。また、J2では全19球団のうち11球団で、過半数を占めています。経常利益とは、通常の経営活動から、毎期、一定して生ずる利益のこと。

では、Jリーグの営業収入の内訳はどうなっているのでしょう。おなじくJリーグ公式サイトに、2010年の収入内訳の実績が出ています。J1クラブの平均で見ると、収入は30億3000万円。このうち、もっとも高い割合を占めるのは広告料収入。13億5400万円で全収入の47%を占めました。

つぎに多いのは、入場料収入、つまり観客が入場券を払うことによって得られる収入です。6億8200億円で、22%を占めました。

ほかに、Jリーグ配分金といわれる収入が2億9000万円あり、収入の10%を占めています。これは、放送局がJリーグに支払う放送権料により発生する収入です。どのチームの試合を放送するかに関わらず、Jリーグが一括して放送権料をあずかり、これを球団に分配します。

残る、23%分の705億円は「その他」となっています。試合のときに、観客が食べ物や飲み物を買ったり、ファングッズを買ったりしたときの興業関連の収入や、ファンクラブの会費による収入などが考えられます。

大きいのは、広告収入、それに入場料収入。しかし、広告収入は、ほかの業界とおなじように、不況の影響を受けやすいものです。実際、年度毎の総収入に占める広告料の割合と、総収入に占める入場料の割合をくらべると、J1、J2ともここ数年、入場料収入のほうは20%前後と安定していますが、広告収入のほうは、高い年には50%、低い年には40%と、ゆれ動いています。

サッカー場に観に来てくれる客をいかに掴み、離さないかという点が、安定した球団経営には重要なようです。

参考ホームページ
Jリーグ公式サイト「2010年度Jクラブ情報開示」
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「買わない」という「漏れ」を分析


販売業やサービス業では、あまたいるお客さん候補のうち、ものを買ってくれたりサービスの対価を支払ってくれたりする“真のお客さん”になる人は、ごく限られています。

たとえば、ある店に、1日100人の来店者が来たとしても、実際にものを買う人が1人であれば、99人はなにかしらの理由で結局のところものを買わなかったことになります。

店側にとってみれば、なるべく多くのお客さんにものを買ってほしい。では、どのようにすれば、ものを買うまでに至るお客さんを増やすことができるのか。そこで「漏れ分析」という手法の出番となります。

100人の来客数がいるうち、最終的にものを買ってくれるお客さんは10人。しかし、90人がおなじ理由で、ものを買うのをやめて店から出ていくということは考えにくいことです。来店してから「ものを買う」あるいは「ものを買わない」という結果に至るまでには、さまざまな分岐点があるはず。

そこで、もの買わないお客さんが、なぜ「ものを買わない」という結果になったのか、その理由を考え、各段階ごとに「ものを買わない」となったお客さんの数を数えていきます。

あるお店に1日で100人が来店したとします。来店者の行動を店員がチェックしてみると、商品が置いてある棚の近くまで来る人が50人、その後、商品を手にとってみる人が25人、その後、ものを買うに至る人が10人ということになったとします。

100人のうち10人がものを買うに至ったわけです。逆にものを買わないという結果に至った人のほうを見ると、商品が置いてある棚の近くまで来なかった人が50人、その後、商品を手にとってみなかった人が25人、その後、ものを買うに至らなかった人が15人いたことになります。

この漏れ分析の結果を把握することで、店側はとくに「漏れ」が深刻であるのはどの段階であるかを把握し、その対策を重点的にたてることになります。

「棚の近くに来てくれさえしないお客さんが多いのか」と気付けば、「店内の棚の位置をお客さんの目に入るところに移そう」といった案が出てくるでしょう。「商品を手にとってみたけれど買わないお客さんが多いのか」と気付けば、「もうすこし値段を安くする必要があるのではないか」と検討することになります。

「漏れ」の多い段階を改善することができれば、ものを買うに至るお客さんをそれまでの10人よりも増やすことにつながるでしょう。

この漏れ分析は、来店客の買う・買わないの動向を分析するだけでなく、商品を買ってもらうために広告を出稿した企業や、競合他社とのシェア争いが激しい企業なども取り入れることができます。
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製品の買いはじめから買いおわりまで5タイプの消費者――法則古今東西(18)
これまでに使われていた製品とは異なる新製品とは、どのように市民に受け入れられ普及していくのでしょうか。

米国スタンフォード大学の教授だった社会学者のエベレット・ロジャーズ(1931-2004)は、新製品の普及過程を、「どの段階でどのような消費者が製品を買うか」といった視点から研究しました。

ロジャーズによると、製品の普及過程に伴い、消費者を5つにわけることができるといいます。

新製品が世に出て間もないころ、新製品にとびつく消費者はイノベーター。待ちに待って新製品を買うような、新製品への関心がとても高い人びとです。つぎの段階で新製品を買うのは、初期少数採用者とよばれる人たち。市民のオピニオンリーダーのような役割を果たす人が多いといわれます。

しかし、まだ、本格的に普及をしたとはいえません。つぎの段階で前期多数採用者とよばれる層が新製品を買うことで、数が出るようになります。前期多数採用者は、世間の一般的な人びとよりやや早い時期に新製品を買います。

このころになると、もはや「新製品」ではなくなってきます。普及した製品は、後期多数採用者とよばれる、やや遅ればせながら製品を採用する人びとによって買われていきます。彼らは、社会の評価が固まるまでは手を出さない慎重派といえます。

最後に遅れてやってくるのが、採用遅滞者とよばれる層です。基本的には新しい製品が出ても興味を示さないような人びとといえます。

ロジャーズは、これらそれぞれのタイプの消費者の割合も示しています。イノベーターは2.5%、初期少数採用者は13.5%、前期多数採用者と後期多数採用者はそれぞれ34%、そして、採用遅滞者は16%といいます。


参考ホームページ
日本リサーチセンター「消費者意識と購買行動」
http://www.nrc.co.jp/marketing/10-02.html
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「前に話していたことはまちがいだと思う」


人の記憶とはあいまいなものです。ただたんに忘れるだけではありません。ときに、人の記憶は変わるともいいます。

記憶を研究対象とする世界の研究者たちは、よく、こんな実験をするといいます。

同時多発テロのような大事件や、巨大地震のような大災害が起きてからさほど日が経たないうちに、被験者に当日の記憶をたどってもらいます。「その日のことを思い出してください。あなたはどこで、だれといて、なにをしていたのか、詳しく教えてください」と。

この実験は、その後もつづきますが、数年間はなにも起きません。研究者は、ただひたすら歳月が経つのを待ちます。そして、数年後、おなじ被験者に対して、おなじ質問をします。「あの日のことを思い出してください。あなたはどこで、だれといて、なにをしていたのか、詳しく教えてください」。

多くの被験者は、大事件から間もないときに答えた内容と、大事件から数年たってから答えた内容にそれほどちがいはありません。しかし、なかには、一度目の証言と二度目の証言とで、まったくといってよいほど、話している内容が異なる場合もあるといいます。

そこで、研究者は、二回目の実験で「あの日」自分がしていたことを詳しく語り終えた直後の被験者に、「前にお話を聞いたときは、あなたはこう答えていましたよ」と、事件から間もないときに語っていた「あの日」の内容を知らせます。

多くの被験者は、自分の証言がちがっていることに驚きながらも、こう言うそうです。「前に話していたことはまちがいだと思う。いま、話したことが正しい」。

過去の記憶は、その体験をしたあとに、上書きをされていくことがあるようです。

参考文献
ダン・ガードナー、田淵健太訳『リスクにあなたは騙される』
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環境対策の切り札として再注目――歴史から見る電気自動車の未来(4)
石油の価値が高くなると、ガソリンに頼らない電気自動車の開発気運が高まる。この構図は、20世紀を通じて見られました。

くわえて、20世紀も終わりに近づいてくると、電気自動車開発にべつの重要性が出てくることになりました。環境問題です。

ガソリン車が排出するガスは、大気汚染をもたらしてきました。また、地球温暖化につながるといわれる二酸化炭素や窒素酸化物なども出します。ガソリン車が普及すればするほど、問題の対象として考えられるようにもなっていきました。

電気自動車は、走行中にガソリンを使わないため、走っているあいだは二酸化炭素を含む排ガスを出しません。環境負荷という点では、電気自動車はガソリン車より圧倒的に優位に立ちわけです。

1990年代から、日本をはじめとする各国の自動車メーカーは、電気自動車や、電気とガソリンのエネルギー源を組みあわせて走るハイブリッド車などの開発に力を入れていきました。

車の長い歴史を見ると、ガソリン車が栄えるなかで、石油の価値が高まる、あるいは環境問題が関心をよぶといったような事情が起きると、電気自動車の気運が高まる、といった法則が見えてきます。電気自動車は、生まれては消えのくりかえしだったのです。

21世紀はじめ、電気自動車への期待が高まっています。しかし、電気自動車への期待が高まっていたどの時代においても、きっと「これからは電気自動車の時代だ」などといわれていたにちがいありません。

未来の技術革新は、なにがどのようなかたちで起きるか、予測できなものです。十数年後、電気自動車に代わる、究極のエコカーが開発されている可能性もなくはありません。

将来のある時点で、いまの時期をふりかえったとき、「21世紀はじめにも、電気自動車が開発されていた時代があった」となるのか、「いまやあたりまえに走っている電気自動車は、21世紀のはじめに普及が始まった」となるのか。

それは、ある程度は自動車メーカーなどの努力に、またある程度は未来のなりゆきにかかっているもの。すくなくとも「電気自動車の未来は、なにもしないでもやってくる」と考えることはできません。了。
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開発の背景に「ガソリン車なんらかの事情」――歴史から見る電気自動車の未来(2)
日本でも20世紀はじめごろ、電気自動車がお目見えをします。

1901年、在米のサンフランシスコ日本人会が、のちの大正天皇となる皇太子の成婚祝いに電気自動車を献じたという記録が残っています。

1911年には、日本自動車が、東京電力の前身となる東京電燈が輸入した電気自動車を見本に、国産の電気自動車をつくるまでになりました。

ガソリン車が栄えた20世紀、電気自動車の開発は、つねに「なんらかの事情」によって行われるものでした。

たとえば、石油が貴重なものになると、電気自動車を開発しようとする動きが出てきます。

1937年には、いまの富士重工業の源流である中島製作所と、いまのジーエス・ユアサコーポレーションの前身にあたる湯浅電池が電気自動車を共同開発。満州や台湾などで使われました。当時、日本や日本の領地でもガソリン車は走っていました。しかし、日中戦争が拡大していくにつれ、石油の需給が逼迫してきたため、この時代に電気自動車が開発されたのです。

1935年から1945年までの10年間、日本でつくられた電気自動車は1500台にのぼりました。

さらに、敗戦後も日本では石油が不足していたため、1947年にはいまの日産自動車の源流のひとつにあたる東京電気自動車が「たま号」という小型電気自動車を開発しました。1949年の電気自動車国内生産台数は3299台、日本の車の3%が電気自動車となりました。

その後も、ガソリン車のほうに「なんらかの事情」が起きると、電気自動車の開発が盛り上がりを見せます。そのひとつに、20世紀後半に起きた環境問題があります。つづく。

参考文献
矢田技術士事務所「ニッサンは日本の電気自動車の草分けか」

参考ホームページ
次世代自動車振興センター「EVヒストリー」
「「明治」という国家」「日本初の電気自動車お目見え」
| - | 23:59 | comments(0) | -
100年前の性能に目をみはる――歴史から見る電気自動車の未来(2)

19世紀末から、20世紀はじめにかけて、電気自動車の開発が盛んだった時代がありました。

21世紀前半を生きる人間の感覚からしても、100年以上前の電気自動車には目覚ましい性能があります。

ベルギーの発明家カミーユ・ジェナッツィ(1865-1913)は、「ジャメ・コンタント」という名の電気自動車を開発しました。ロケットミサイルを横倒しにして、4個のホイールと運転席をむりやり付けたような形をしています。

カミーユ・ジェナッツィと「ジャメ・コンタント」

1899年、フランスのパリ近郊で、ジェナッツィ本人が運転するこのジャメ・コンタントは、時速106キロを記録しました。世界初の車による100キロ超えの瞬間は、電気自動車によるものでした。20世紀にまにあいました。

ちなみに「ジャメ・コンタクト」は、フランス語で「決して満足してはいない」という意味です。

発明家のトマス・エジソン(1847-1931)も、電気自動車を開発した人物のひとりです。1909年、エジソンはみずからで発明したニッケル・アルカリ蓄電池を四輪車に載せて走らせました。エジソンの電気自動車の特徴は、「よく走る」というもの。1回、蓄電をしただけで、160キロもの距離を走ったといわれています。

ちなみに日本で発売された電気自動車の航続距離といえば、スバルの「プラグイン・ステラ」で90キロ、三菱自動車の「アイ・ミーブ」で160キロ、日産自動車の「日産リーフ」で200キロ。車の機能や装備にはもちろん、いまと100年前では大きくちがうものの、エジソンの電気自動車は、いまの電気自動車が走れるのとおなじくらいの距離を走ることができたのです。

ところが、電気自動車の全盛は長くはつづきませんでした。

自分の会社の名前に「モーター」を付けておきながらも、1896年からガソリン車の開発を進めていたヘンリー・フォード(1863-1947)は、1908年「T型」とよばれるガソリンエンジン車を発売しました。

フォードは、このT型の生産で、ベルトコンベヤに部品を乗せて組み立てる流れ生産方式をとりいれました。これにより、車の品質を安定させるとともに、価格を安くすることに成功したのです。T型は爆発的にヒットし、それまであった電気自動車の市場をのみこんでいきました。

T型が、ガソリン車全盛の20世紀をつくっていったのです。もはや、自動車王たちの眼には、ガソリンエンジンしかうつっていませんでした。つづく。

参考文献
岩倉信弥 長沢伸也 岩谷昌樹「ホンダのデザイン戦略」
奥田章順 野呂義久 志村雄一郎「技術社会連関モデルの構築に関する基礎研究」

参考ホームページ
次世代自動車振興センター「EVヒストリー」
| - | 23:59 | comments(0) | -
180年以上前、世に誕生――歴史から見る電気自動車の未来(1)
 「電気自動車」というと「新しいタイプの車」という印象をもつ人も多いでしょう。しかし、電気自動車の歴史には、すでに180年を超える長い開発の歩みがあるのです。

18世紀後半、世界初の自動車は蒸気機関で動くものでした。しかし、蒸気機関式自動車の発明者である、フランス人のニコラ・キュニヨ(1725-1804)は1769年、世界初の自動車初試乗会で、車をレンガ塀に激突させるという世界初の自動車事故を起こしてしまい、開発は失敗に終わります。

それから半世紀以上がたった、1828年ごろ、電気自動車が世に誕生します。電気モーターで動く小型の電気自動車がハンガリーで発明されました。

実用的な電気自動車の誕生は、英国の発明家ロバート・ダビッドソン(1804-1894)の業績によるものが大きいとされています。ダビッドソンは1842年、すでに鉄道の線路のうえで走らせる電気自動車を開発していました。

ダビッドソンはさらに改良を重ね、1873年、郵便配達などに使われる実用的な電気自動車を誕生させました。このとき、ダビッドソンが用いた動力は、「鉄亜鉛一次電池」とよばれるもの。いまの「二次電池」とよばれる電池を使う電気自動車とちがって、充電をすることはできません。

この頃から、20世紀初頭にかけて、車の開発といえば電気自動車が盛んでした。それは、この頃に創業した自動車会社の名前からもうかがえます。

1903年に米国で創業したのは「フォード・モーター」。1908年に、同じく米国で創業したのは「ゼネラルモーターズ」。いずれも「エンジン」でなく電気自動車の動力として使われる「モーター」が社名に使われています。つづく。

参考ホームページ
About.com. “History of Electric Vehicles”
石崎洋一「電気自動車」
「最初の自動車 事故」
高阪健太郎「自動車の誕生とその歴史」
| - | 23:59 | comments(0) | -
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