科学技術のアネクドート

「ロービジョン」日本に144万人
 視力が完全に失われているわけではない。しかし、視力が弱いため、日常生活や仕事をするうえで不自由を強いられている。

そのような状態や、そのような状態にある人のことを「ロービジョン」といいます。

世界保健機関(WHO:World Health Organization)は、ロージョンを「両眼に矯正眼鏡を装用して視力を測り、視力0.05以上0.3未満」と、定義しています。

日本眼科医会の発表では、国内には144万9,000人のロービジョンがいるといいます。

超高齢社会を迎えた日本では、もともとはロービジョンでないとしても、加齢現象にともない、白内障や加齢黄斑変性などの眼の病気などにより、ロービジョンになる高齢者がより増えていきそうです。

ほかの病気の患者数とくらべると、日本に心臓病の患者は100万人、アルツハイマー病の患者は125万人、認知症の患者は170万人ほどいるといわれています。

これらのよく知られる病気の患者数とおなじ規模で、ロービジョンの患者がいるというわけです。社会全体が「ロービジョンはよくおきるもの」と捉えることが、ロービジョンの方への理解にもつながり、また自身がロービジョンになったときの心の受けとめかたもよいほうにむかうことでしょう。

特定非営利活動法人ぴあサポート「ロービジョンとは」
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エレベータ内で「大震災を察知」はありえる


「大地震」と「大震災」ということばは、区別されずに使われることがあります。しかし、ことばのなりたちから考えると、ふたつのことばの意味はすこしちがいます。

「大地震」は、“大きな地面の震え”を意味するのに対して、「大震災」は、“大きな地震の災害”を意味します。

地震と災害の関係を表すと、「地震が起きた。それにより災害が起きた」という順番になります。地震では、まず比較的小さな揺れの初期微動が起き、そのあと比較的大きな揺れの主要動が起きます。たいがいの場合、大きな揺れのほうの主要動で、ガラス窓が割れたり、壁にひびが入りはじめたりします。これが災害の始まりといえるでしょう。

つまり、「大地震」の発生と「大震災」の発生の間は、ほんの数秒ながら時間差があるわけです。

新聞記事には「東日本大震災が発生した瞬間、東京のビルのエレベーターの中にいました」という表現が見られます。

「東日本大地震が発生した瞬間、東京のビルのエレベーターの中にいました」であれば、揺れが起きたまさにそのとき、この記者は東京のビルのエレベーターの中にいた、ということになります。

しかし、「東日本大震災が発生した瞬間、東京のビルのエレベーターの中にいました」となっているので、この表現を厳密にとらえれば、大きな地震の災害が起きたまさにそのとき、この記者は東京のビルのエレベーターの中にいた、ということになります。

この表現で示されている状況がありえないかというと、そうとはかぎりません。

記者はエレベータ内にいたのですから、おそらく屋外での大災害発生の瞬間は察知できなかったことでしょう。この記者がエレベーターの中にいながら「大震災が発生した」と感じられたのは、エレベーターの中の様子を察知したからこそ、ということになります。

エレベーターの中にいながら「大震災が発生した」と察知できるのはどういうときでしょう。エレベーターのロープが切れて落下するということもありえます。エレベータの落下は、死亡するか大けがするかのたいへん危険な災害です。

しかし、記者は「大震災が発生した瞬間」のことを振りかえっているわけですから、死や大けがは免れていると考えられます。よって、エレベーターのロープが切れて落下したことが「大震災」ではないようです。

よりありえそうな状況は、エレベーター内の停電です。揺れが起きたあと、エレベータ内のあかりが消えてまっ暗になり、恐怖が記者を襲ったり、平衡感覚を失ってエレベータの壁に頭をぶつけたりしたら。それは「大震災が発生した」と察知するのに十分な状況といえるでしょう。

大震災は大地震よりもほんの数秒、あとに起きます。しかし、大震災のほうが大地震よりはるかに長くつづきます。
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“豆腐”の上に住むことを選ぶ


法律などで禁止されている場所でないかぎり、人はどこに自分のすみかを選ぼうが自由です。

多くの人びとにとって、平野とよばれる地形の場所は住みやすい場所でした。

平野はその名のとおりほとんどまったいらであり、山や谷をこえて移動する必要はありません。楽なわけです。また、硬い岩でできた山岳地域とちがって、平野や盆地では砂や火山灰が堆積した柔らかい土でできていて、さらに大きな川がなだらかに流れます。田畑を開くにはこれほど適した場所はありません。

こうして、もともと平野に住んでいた人はその場所に住みつづけ、また、平野以外の場所に住んでいた人は平野を選んで住むようになり、平野に住む人の数は増えていきました。その結果、日本では関東平野に3000万人ほどの人が住み、大阪平野に約1000万人の人が住んでいるわけです。

しかし、便利であることは、危険であることの裏かえしともいえそうです。

地盤がやわらかくて、水の豊富であることが平野の地理的な特徴です。これは裏をかえせば、平野の土地はぐずぐずであるということになります。

大きな地震が起きたとき、地面はやわらかいため大きな揺れに襲われる危険性は、山地や岩盤の硬い土地よりも高いわけです。とくに、ゆっくりと揺れる長周期地震動に対しては、揺れが増幅しやすいといいます。これはよく、すり鉢の中にやわらかい豆腐を入れて揺すると、いつまでも豆腐がぷるぷる揺れるようなものとたとえられます。

また、水が豊富であるということは、洪水が起こりやすいということの裏がえしでもあります。地形が平らであれば、いちどあふれた川の水は、どこまででも広がっていきます。これは、地震によって起きる津波についてもいえること。平野には高台は少なく、どこまでも津波が押しよせる危険があります。

つまり、平野という場所は、とても住みやすくて便利ではあるけれど、天変地異が起きたときはとても脆弱であるという、“諸刃の剣”のようなものなのです。

そのような、便利でもあり、危険でもある土地に、人々は住みつづけることを選び、これほどまで平野の人口は膨れあがりました。これは、いつくるかはわからない災害を避けるよりも、今日も明日も便利に過ごせる暮らしを人々が選択した結果です。
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「忙しい」が「辞めたい」に


忙しい人どうしで労いあう会を企画した人がいたといいます。ところが、会を開こうにもみんなあまりに忙しすぎて中止になってしまったそうです。

栃木県教職員協議会が(2011年)5月、県内の小中学校の教職員にアンケートをとったところ、46%が「辞めたいと思った」と答え、そのうち理由として最も高かったのが、「業務の慢性的な多忙を感じた」ことで28.6%だったといいます。多忙という理由は、2007年のおなじ調査では上位に入っていませんでした。

教職員はなにに忙しいのでしょう。2006年に文部科学省がベネッセ教育研究開発センターに委託した「教員勤務実態調査」によると、小中学校の教諭が勤務日の残業時間に行なった仕事でいちばん長かったのは、成績処理で平均28分、ついで授業準備17分、部活動・クラブ活動15分などと続きました。

「28分の残業なんて大したことないじゃないか」と思う人もいるかもしれません。しかし、成績処理に充てた時間が28分ということであり、教職員はたくさんの仕事を抱えています。おなじ調査では、勤務日の残業時間量は2時間9分となりました。

さらに、残業だけでなく、教職員には家に仕事を持ちかえる方もいます。その平均時間は勤務日で35分。残業時間と合計すれば、2時間44分となります。

それだけではありません。多くの教職員は休日にも仕事をしています。休日に学校に来て仕事をするのと、家で仕事をするのを合計すると、1日で3時間14分になったといいます。

忙殺された状態で人と接したり、書類をつくったりしても、ほかのすべきことが気になり、集中力に欠けてよいことはありません。生徒や生徒の親、また同僚の教職員にも負の印象をあたえそうです。「『忙』は心を亡くすと書く」とはよく言ったものです。

教職員には、アシスタントや部下がいるわけでもありません。自分の時間で自分の力で、やるべきことをこなさなければなりません。終わることもない忙しさに絶望感を覚えたとき、「こんな仕事、もう辞めて楽になりたい」と思うのでしょう。

参考記事
下野新聞5月14日付「教職員の46%『辞めたいと思った』 栃教協調査 業務多忙が理由最多 栄養教諭・職員が7割で突出」

参考文献
ベネッセ教育研究開発センター「平成18年度文部科学省委託調査『教員勤務実態調査(小・中学校)』報告書」
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「多収量イネは『第2の緑の革命』を実現できるか」


日本ビジネスプレス発行のウェブニュース「JBpress」に、(2011年)5月27日(金)、「多収量イネは『第2の緑の革命』を実現できるか」という記事が掲載されました。この記事の執筆をしました。

名古屋大学生物機能開発利用研究センターの芦苅基行教授に取材をしたもの。芦苅教授は、これまで、コメの粒を多くする鍵を握る「Gn1」という遺伝子や、コメの穂の枝の数を多くする鍵を握る「WFP」という遺伝子を発見してきました。

これらの遺伝子は、めずらしいイネのなかにあることがわかっていました。イネゲノムのなかからその遺伝子の場所を特定して、その遺伝子を、たとえばコシヒカリなどのよく利用されているイネに導入します。そうすれば、「収量を多くする遺伝子が入ったコシヒカリ」といった品種を誕生することになります。

芦苅教授の視野は、国内のコメの収量を高めることとともに、海外でのコメのコメの収量を高めることにあります。

1960年代後半、世界の農業に「緑の革命」とよばれる大きなできごとがありました。世界の人口爆発が進もうとしていたころ、フィリピンの国際イネ研究所(IRRI:International Rice Research Institute)が新品種「IR8」を開発して、世界のコメ生産量を大きく伸ばしました。

しかし、いまもなお世界の人口は爆発的に増えつづけ、飢餓で1日2万5000人が亡くなっているといわれています。

芦苅教授は、「『第2の緑の革命』を実現したい」ということを明言しています。今後、生物機能開発利用研究センターは「WISH」(Wonder rice Initiative for food Security and Health)というプログラムを立ち上げる予定。東南アジアなどで栽培されているインディカ米に、多収量につながる遺伝子を入れて、増収量イネを普及させることを目指しています。

JBpressの記事「多収量イネは『第2の緑の革命』を実現できるか」はこちら。
この記事の前篇「収穫50%増!多収イネの遺伝子を突き止めた」はこちらです。
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「日本の自然エネルギーは太陽光」決定づける
 菅直人首相が、(2011年)5月25日(水)、フランスのパリでの経済協力開発機構(OECD)設立記念行事で演説しました。

演説のなかで菅首相は、エネルギー政策について、つぎのような「四つの挑戦」を述べました。

―――――
 まず第一は、原子力エネルギーの「安全性」への挑戦です。今回の事故を教訓に、我々は「最高度の原子力安全」を実現していきます。そのために、まず事故調査・検証委員会を立ち上げました。単なる技術的検討だけでなく、人材、組織、制度、そして安全文化の在り方まで包括的に見直していきます。 

 第二が、化石エネルギーの「環境性」への挑戦です。 

 最先端の技術を用いて、化石燃料の徹底した効率的利用を進め、二酸化炭素の排出削減を極限にまで図っていくことは、大きな意義ある挑戦であると考えています。 

 第三は、自然エネルギーの「実用性」への挑戦です。 

 技術面やコスト面などの大きな「実用化の壁」を打ち破り、自然エネルギーを社会の「基幹エネルギー」にまで高めていくことに、我が国は、総力をあげて挑戦したいと考えています。発電電力量に占める自然エネルギーの割合を2020年代のできるだけ早い時期に少なくとも20%を超える水準となるよう大胆な技術革新に取り組みます。その第一歩として、太陽電池の発電コストを2020年には現在の3分の1、2030年には6分の1にまで引き下げることを目指します。そして、日本の設置可能な1000万戸の屋根のすべてに太陽光パネルの設置を目指します。 

 第四は、省エネルギーの「可能性」への挑戦です。 

 我が国は、産業部門の省エネルギーについては、世界の最先端を走っています。次なる挑戦は、家庭とコミュニティにおいて、「生活の快適さを失わずに省エネルギーを実現する」ことです。それは、「エネルギー消費についての新たな文化を創る」という意味での「社会のイノベーション」を行わなければなりません。 
―――――

注目されるべき点がいくつかあります。

四つの挑戦のなかで「原子力」と「火力」を一番目と二番目にもってきました。世界に向けて、原子力政策をまず伝えなければならないという配慮もあったのでしょう。しかし、「自然エネルギー」や「省エネルギー」よりも、「原子力」と「火力」に力を入れるという位置を示したともとれます。

第三の挑戦として掲げた自然エネルギーの実用性に向けた挑戦の内容は、26日(木)に先進国首脳会議で菅首相が発表する予定の「サンライズ計画」の内容と重なる点がありそうです。

発電電力量の2割を自然エネルギーで占めるための「第一歩」として、菅首相は太陽光発電のコスト引きさげを述べました。

いま、太陽光発電のコストは1ワット時あたり42円ほど。これを2020年には14円に、2030年に7円にするというわけです。しかし、この価格は、NEDOが2009年に示した「太陽光発電ロードマップ(PV2030+)」という青写真にもすでに示されているものであり、新鮮さがあるわけではありません。

いっぽう、「日本の設置可能な1000万戸の屋根のすべてに太陽光パネルの設置」は、新しく示された具体的数値です。日本の市民の生活にも関わってくるものです、

より大きな観点で演説の内容を見る必要もあります。「第一歩」とはしたものの、自然エネルギーの例として、菅首相は太陽光発電を示したわけです。

もちろん、日本がこれまで力を入れてきた自然エネルギーの代表が太陽光発電であるのは事実です。産業面でも太陽電池

しかし、世界の自然エネルギー利用の趨勢を見ると、太陽光発電は脇役的存在です。2010年に新たに設けられたエネルギー装置の発電容量を見ると、太陽光発電がおよそ1500万キロワットだったのに対して、風力発電はおよそ3500万キロ。太陽光発電の2倍強の勢いで、風力発電が普及しているのです。

今後の日本の再生可能エネルギーの開発は太陽光発電中心で行くという印象を鮮明にした演説でした。サンライズ計画の発表でも、おなじく“太陽光重視”の内容が考えられます。今後の、日本の再生可能エネルギー普及への道筋に、影響をあたえることでしょう。

参考ホームページ
首相官邸「OECD50周年記念行事における菅総理スピーチ」
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ほとんど合っている計算に「大丈夫だ」


「保証」ということばを国語辞典で引いてみると、『広辞苑』では「大丈夫だ、確かだとうけあうこと」、『デジタル大辞泉』では「間違いがない、大丈夫であると認め、責任をもつこと」などとあります。

数学の世界でも、この「保証」が計算によって行なわれることがあるといいます。その方法は「精度保証付き計算」とよばれるもの。数学の計算の精度を「このくらい大丈夫だ」とうけあうための計算です。

数字と記号で基本的になりたつ数学の世界では、「答はこれだ」といった正確な世界しかないと思われがちです。「答がこれかもしれないけれど、厳密にいうとどうだろう、うーん」といった考えかたは相いれない印象があります。

しかし、答に近づくものの、「答はこれだ」とは言いきれないような場面に出合うこともあるのです。その場面は、おもにコンピュータを使って計算を解こうとするとき訪れます。

たとえば、どこの部分をきりとってもなめらかであるような、連続的な動きをコンピュータで処理するとき、コンピュータはその連続的な動きにひとつずつ段階を設定して、個々に対応しなければならないことがあるといいます。これは、坂になっている場所を階段として表現するようなものです。このときに誤差が生まれます。

また、いつまでいっても割りきれない数式もあります。たとえば、「√2」や「π」などは割りきることができません。これをコンピュータで計算させると、小数点以下はずっと続いてしまいます。どこかでけりを付けて「近似値」として処理しなければなりません。その近似値は「√2」や「π」そのものではなくなってしまいます。

「答に近いけれど厳密にはちがう」といった計算結果が生まれる事情があるわけです。

とはいえ、近似値の近くに真の答はあるはず。そこで、そのふたつの誤差がどのくらいであるかを調べるために計算をします。数値計算で起きてくる誤差がどのくらいかをきちんと評価して、数学的に 正しい結果を数値計算によって導きます。これが、「精度保証付き計算」の目的です。

複雑なもののふるまいを数学で表す「カオス」という分野では、すこしの誤差が大きな結果のちがいを生みだしうるといいます。このような分野で精度保証付き計算はとくに役立つといいます。

参考文献
大石進一「計算機で微分方程式の厳密解を求める」岩波書店『科学』1996年6月号

参考ホームページ
大石進一「線形方程式はもう一度数値解を計算する手間で精度保証できる」
Commutative Weblog「精度保証つき数値計算」
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シーベルトの数値がならぶ
 福島第一原子力発電所の放射性物質漏れ事故以降、新聞やテレビなどの報道で「何ミリシーベルト」という数値が出てきています。

シーベルトは、放射線によって人体の組織にどれだけの影響が起きるかを表わすときの単位です。英字で単位を表すと“Sv”。放射性物質の種類によって人体への影響は異なるためで、各放射性物質に与えられている係数をかけて算出します。

「シーベルト」という単位の前には、量の多さによって「ミリ」や「マイクロ」ということばがさらに付くことがあります。「ミリ」は、なにもついていない数値の「1000分の1」を表し、「マイクロ」は「ミリ」の1000分の1、つまりなにもついていない数値の「100万分の1」を表します。

「何シーベルト」という数値の表現には、“節目の量”があります。そこで、“キーワード”ならぬ“キー数値”を整理してみます。

「0シーベルト」または「0ミリシーベルト」または「0マイクロシーベルト」。これは、いずれも「人体に放射線が当たっていない」ということを意味しますが、事実上ありえません。自然界には放射性物質が存在しています。

「0.1ミリシーベルト」。放射線リスクに関する欧州委員会(ECRR:European Committee on Radiation Risk)という組織は、「公衆の構成員の被曝限度を0.1ミリシーベルト以下に引き下げること」という勧告を発表しています。「公衆の構成員」とは、つまり一般市民のこと。この委員会は、1997年に欧州で発足された非公式の組織。以下に登場する国際放射線防護委員会が示す放射線のリスクを「過小評価」と批判しています。同委員会の勧告は、原子力利用に反対する人びとが反対論を示すときの根拠に使われる場合も多くあります。

「3.8マイクロシーベルト」。福島第一原子力発電所の事故を受け、日本政府が、福島県内の幼稚園や学校などで子供の屋外活動を1時間に制限するかどうかを判断するための基準放射線量として発表した数値です。「1時間につき、3.8マイクロシーベルトの放射線を浴びる」ような校庭では、屋外活動を避けるべき、ということになっています。

「1ミリシーベルト」。国際放射線防護委員会(ICRP:International Commission on Radiological Protection)は1年間に浴びても問題ない放射線量を平常時は1ミリシーベルト未満

「5ミリシーベルト」。いまの日本での、飲食物からの被ばく許容量の暫定基準となっています。この数値は、国際放射線防護委員会が1984年に勧告した「事故時の飲食物制限の介入の下限」となっています。この暫定基準を評価する立場の食品安全委員会は、3月29日の「緊急とりまとめ」で、放射性セシウムの暫定基準を年間5ミリシーベルトとしていることについて、「かなり安全側に立ったもの」と、いわば“お墨つき”をあたえています。

「10ミリシーベルト」。国際放射線防護委員会が、「1種類の食品について、1年間に回避される実行線量」として定めた値です。食品安全委員会は、年間5ミリシーベルトにお住みつきをあたえながらも、この年間10ミリシーベルトの基準値についても「不適切とまでいえる根拠は見いだせず」としています。

「20ミリシーベルト」。上記にある、福島県内の幼稚園や学校などで、子どもの屋外活動を1時間に制限するかどうかの基準となる放射線量を「1年間で」とした値です。です。国が発表しました。

「50ミリシーベルト」。厚生労働省が定めている、通常時の原発作業員の1年間の被ばく限度の量です。

「100ミリシーベルト」。おなじく、厚生労働省が定めている、通常時の原発作業員の5年間の被ばく限度の量です。これとはべつに、この値にはもうひとつ大きな意味があります。人びとの健康に、明らかな影響が出る被ばく量が、この100ミリシーベルトであるといわれているのです。100ミリシーベルトよりも低い被ばく量の健康への影響については「わからない」とされるのが一般的です。

「250ミリシーベルト」。福島第一原発事故の復旧作業にかぎって、厚生労働省が定めた作業員の被ばく量の上限です。

基準値、それに人体への影響の閾値について、これだけ多くの数値が示されています。とくに基準値については、絶対的な基準があるわけではなく、“いろいろな状況を踏まえて決めるもの”であることがわかります。

参考文献
食品安全委員会2011年3月29日「放射性物質に関する緊急とりまとめ」
山内知也「ECRR2003報告における新しい低線量被曝評価の考え方」
厚生労働省「電離放射線障害防止規則の特例に関する省令の制定について(報告)」
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『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』発売


新刊の情報です。『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』という本を、(2011年)5月23日(月)、洋泉社より出版しました。

2010年1月に『図解 次世代エネルギーの基本からカラクリまでわかる本』という本を出版しましたが、今回はそれを一新したものとなります。福島第一原子力発電所の放射性物質漏れ事故を受けての緊急出版の色合いが強くあります。

新刊では、冒頭に「PART1」として、「岐路にたつ原子力発電をどう考えればいいか」という新たな章を設けました。福島第一原子力発電所事故以降にとりわけ注目されている原子力エネルギーや放射線についての10の話題を、図版とともに盛りこみました。

各話題のタイトルは、「福島第一原発事故後の世界」「政治家とマスメディアが原発大国への道をつくった」「原子力関連の組織・団体は機能していたのか」「放射性物質の測定はどうやって行われているか」「土壌汚染の処理はどうされるのか」「廃炉完了までの長い道のり」「浜岡原発から考える安全基準への信頼性」といったものです。

PART1では、ルポライター古川琢也さんによる、福島第一原発事故の推移や、浜岡原発停止に関する解説記事もあります。

その後の3章分は、既刊の『図解 次世代エネルギーの……』を踏襲しつつ、新しい情報は更新しました。各章のタイトルは「PART2  意外と知られていないエネルギーの基本」「PART3 次世代エネルギーを評価する」「PART4 次世代エネルギーの政治力学」です。なお、章などのタイトル命名は、ほぼすべて編集部によるものです。

日本のエネルギー利用が大きな岐路を迎えたなかで、未来のエネルギー利用はどうあるべきかを考える本にすることを目的としました。できるかぎり簡単な言葉で、原発や次世代エネルギーのしくみ、現状、業界、政策、そして未来がわかる内容を目指しました。

『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』は、こちらでどうぞ。
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クレヨンでなじみの色は鉱物由来


幼稚園で園児が使う道具の代表格にクレヨンがあります。

10色セットほどのクレヨンでは、しろ、あか、くろ、きいろ、ちゃいろなど、小さな子どもになじみある色が揃うなかで、聞きなれない色としてあるのが「ぐんじょういろ」です。「ぐんじょう」という語感と青系統の濃い色とがあいまって、どこか荘厳な雰囲気を醸しだしています。

漢字にすると「群青色」。なんとなく、「空に群がる雲」といった表現があるからでしょうか、「空の青を色にしたもの」と捉えられがちです。しかし群青色は、地中からとれる鉱物の色にちなんでこうよばれるようになったようです。

「青金石」または「ラズライト」、さらには「ラピスラズリ」とよばれる鉱物に含まれる色素から表現される色が群青色です。硫酸塩、硫黄、塩化物などによって構成され、アフガニスタンが主要な産地でした。

その後、18世紀に欧州で粘土、炭酸ナトリウム、木炭、石英、硫黄をまぜて加熱させることにより、天然色素の群青色とおなじ色を再現することに成功し、絵画や工芸などの世界にも普及していきました。

「群青」ということば自体は、「群青色をつくるラズライトの顔料」という意味のほかに、もうひとつ「岩群青」とよばれる岩絵具も指します。「岩群青」のほうは、「藍銅鉱」あるいは「アズライト」とよばれる鉱物からとれます。

つまり、「群青色」は、アズライトからつくられる岩絵具「岩群青」にちなんだ言葉ではあるものの、実際に使われる色素としては、ラズライトからつくられる色素によってつくられてきたものということになります。

参考文献
『広辞苑』第5版
参考ホームページ
Blog 地球のかけら「ラズライトとラズライトとアズライト」
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科学ジャーナリスト賞2011松沢さん「人間とはなにか。それは想像する力」

「科学ジャーナリスト賞2011」では、科学ジャーナリスト賞が、京都大学霊長類研究所長で国際高等研究所学術参与の松沢哲郎さんにも贈られました。

松沢さんは、『想像するちから チンパンジーが教えてくれた人間の心』(岩波書店)という著書を2010年に上梓。その著書に対して賞が贈られました。

省贈呈式の日と、松沢さんの英国での「想像する力」演題の講演の日程が重なったため、編集担当者の岩波書店・濱門麻美子さんが、松沢さんの「受賞の言葉」を代読しました。

「岩波書店の濱門麻美子さんに代読をお願いします。科学ジャーナリスト賞の受賞に際し、ひとことごあいさつ申しあげます」

「人間とはなにかを考えながら、日本で、アフリカで、チンパンジーの研究を続けてきました。彼らには、人間のような言葉はありません。でも、彼らなりの心があり、ある意味で、人間以上に深い絆があります。進化の隣人を深く知ることで、両者の心のなにが似ていて、どこがちがうのかが見えてきました」

「人間とはなにか。それは想像する力。私たちは、遠い過去の記憶を引きずり、遠い未来に思いを託し、遠く離れて苦しんでいる人びとに、共感することができます。未曾有の震災を経て、いま、人間のもつ想像する力が試されているのではないでしょうか」

「さて、本となると書名が大切です。10年ほど前、『チンパンジーの親子と文化』とするつもりで本を書いていたときのことです。それを聞いた、高校性というむずかしい年ごろの娘が『おらぁ、そんなむずかしい題名の本は読まねぇよ』と言いはなちました。当時の経験を踏まえ、今回は、最初から編集者の濱角真美子さんにすべてお任せしました。本書を、この世に送りだしてくださいました」

「末尾になりましたが、推薦し、選考してくださった委員のみなさま、すばらしい書評を寄せて下った方々、そして本書を手にしてくださった読者の方々に、心より御礼申しあげます。ありがとうございました」

受賞者のみなさま、おめでとうございます。日本科学技術ジャーナリスト会議「科学ジャーナリスト賞2011 の受賞者が決定!」はこちらです。
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科学ジャーナリスト賞2011榎木さん「博士が社会の中に出ていくのが3月11日以降の世界」


「科学ジャーナリスト賞2011」では、科学ジャーナリスト賞が榎木英介さんと、松沢哲郎さんに贈られました。

榎木さんは、病理診断医。いちど、東京大学の博士課程まで進みながら中退し、その後、神戸大学医学部医学科に学士編入学。2006年に医学博士となった経歴の持ち主です。

榎木さんの著書『博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか?』が、受賞の理由になりました。榎木さんの受賞あいさつです。

「このような栄誉ある賞を与えてくださいまして、ありがとうございました。相澤先生、過分なご紹介ありがとうございます。選考委員のみなさん、読者のみなさん、書く機会をあたえてくださったディスカヴァー・トゥエンティワンの干場さん、編集担当の藤田さん、それから、科学コミュニケーションの活動を支えてくださったみなさまに、心よりお礼もうしあげます」

「私自身は博士課程の途中でやめてしまって、医学部に入りなおすという、まわり道のキャリアパスを歩んでいます。当事者として生きてきたなかで、いろいろなことを考えて、いろいろな人に会い、いろいろなことを議論してきました」

「そのなかで、『博士が活用されないこの状態はいったいなんなんだろう』と長年考えてきました。『博士を雇え』とか、いろいろな声はあるのですが、『それだけではいけないだろう。社会の中でもっと活躍しよう』と考えることになり、それを本にしようと思って書きはじめたわけです」

「社会が博士を活用しようということが本の主旨でした。しかし、3月11日以降、とてもそんなことを言っていられるような状態ではなくなってしまったというのが、正直なところです」

「活用しようとする社会自体がいま、厳しい状況におかれています。多くの方が亡くなり、行方不明になり、コミュニティが破壊され、そして避難所で被災されている方がたくさんいます。『博士を雇ってください』という余裕はないだろうと、悩むような、苦しむような思いを抱くようになりました」

「本のなかで最後のほうに、『科学2.0』という話を書きました。博士号をもった科学者がもっと社会に出て行って、社会の中で自分の能力を発揮するようになったらどうだろうということを提案させていただきました」

「震災あるいは原発の事故のなかで、情報が錯綜したり、さまざまなことがあり、科学不信が高まっています。もし、論文を読んで情報を噛み砕いてみたりとか、御用学者とよばれないために独自な立場で研究をしてみたりとか、そういう博士が社会に増えていけば、科学不信というものはもっと少なかったのではないかという気がするようになりました」

「博士を社会のなかで活用するのでなく、博士が社会の中に出ていく。その方向に向かうのが、3月11日以降の世界ではないかと思うようになりました」

「博士が役立つ部分は、情報を噛み砕くことだけではありません。さまざまな部分で役立つことはあると思います。復興のための提案をする、被災地に行って科学教育になんらかのかたちで携わる。博士がもっとそういうことにするようになれば、科学への厳しい視点は多少なりとも安らぐだろうと思っています。3月11日以降、博士がこれからどうするかを、みなさんにも考えていただきたく思います」

「とはいうものの、博士が暮らしていかなければいけない点もあります。その部分は変わっていません。震災以降、社会にゆとりがなくなって、博士の行き場がもっとなくなるかもしれません。問題が解決されていない部分が多々あるわけで、その部分はこれから考えていかなければいけないし、私たちも博士がもっと活躍できるためにどうすべきかを考えていきたいと思います」

「(選考委員)浅島誠先生は、私の大学院時代の恩師でした。私の“漂流”を止めてくだださった方です。漂流が止まってこういう道に来て再開するという、個人的にはドラマのような時間を過ごしています。研究とは異なる道に行った私自身の歩みが、この本の歩みであると思っています。浅島先生に、あらためてお礼を申しあげます」

「3月11日以降、博士のありかたも問いなおされる時代が来ています。これからも、活動を続け、執筆を続けていきたいと思っています。叱咤ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。どうもありがとうございました」

日本科学技術ジャーナリスト会議「科学ジャーナリスト賞2011の受賞者が決定!」はこちら。
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科学ジャーナリスト大賞2011春原さん「『封印された』に意味を込めた」松木さん「データを手触りで感じられた」


(2011年)5月17日(火)、東京・内幸町の日本記者クラブで「科学ジャーナリスト賞2011」の賞贈呈式が開かれました。

科学ジャーナリスト賞は、日本科学技術ジャーナリスト会議が、科学技術に関する報道や出版、映像などで優れた成果をあげた人を表彰するもの。今年2011年で第6回となります。

3日にわけて、大賞と賞の受賞者によるあいさつの要旨を伝えていきます。

大賞を、NHK広島放送局チーフプロデューサーの春原雄策さんと、ディレクター松木秀文さんが受賞しました。2010年8月6日に放送されたNHKスペシャル『封印された原爆報告書』の番組に対して贈られたものです。

1300人にのぼる日本の調査団や、国を代表する医師、科学者がさんかして、原爆被害の実態を詳細に伝える報告書がつくられました。しかし、その資料は米国へとわたるものであり、被爆者のために活かされることなく“封印”されつづけました。

春原雄策さんのあいさつです。

「NHK広島放送局の春原ともうします。このような素晴らしい賞をいただき、本当にありがとうございます。表彰された4人のうち、私だけ文系で、科学とは関係ない道を歩んできた人間です。正直、この場に立たせていただいてるのはいささか戸惑いもあります。大勢のスタッフがいて制作した番組です。私はスタッフを代表してこの場に立たせていただいていると思っています」

「今回の番組に、あえて『封印された』という言葉を使っています。もちろん、この報告書は門外不出だったわけではありません。米国の公文書館に行けば閲覧できますし、一部は日本でも出版されているものであります」

「『封印された』という言葉に込めた意味があります。その現場でひん死の重傷を負った人たちの治療に当たった人がいるのも事実ですが、あれだけの大がかりな調査を被爆直後に一線級の人たちが集まって広島と長崎で行なっていたにもかかわらず、そのことがその後の原爆症認定や被爆者救済の点で活かされることがなかった。その重さというのを、あえて『封印された』という言葉に私たちは込めたわけです」

「当時、調査にあたった複数の関係者からご意見をいただきました。意図的に封印したわけではないし、当時は米国の占領下で、調べたものは米国に提供せざるを得なかったし、調べた内容を日本国内で公表することもできなかった。それはそのとおりなのです。私たちは、調査にあたった科学者や医師の責任を問うためにこの番組をつくったのではありません。いまにつながる話として、描きたかったのです」

「その後、報告書は日本にもあったわけです。被爆者の解剖標本は、米国に渡されたわけですが、1970年代に返還要求があり返ってきています。そうした生きたデータ、被爆者の命の記録が、その後の原爆症の認定や救済のために活かされることがなかったのはなぜなのだ、むしろ、それを切り捨てるほうに使われてきたのではないか、と思います。その後の国の責任を思います」

「被爆から65年経ってから制作した番組です。広島にいらした方は、そういった調査が行われたことや、中味を、あるところにいけば閲覧できるということも知っていたわけです。ただし、65年経つまで、なにが書かれていたのかをすべて調べるということをしてこなかった。私たちマスコミの責任もとられるべきだと思っています」

「そのなかで今回、被爆者の方をはじめ、たくさんの方々が番組の取材に協力していただきました。多くの方々が80歳代から90歳代です。取材に応じてこなかったのだけれども、自分が話ができるうちに話しておきたいということで協力していただいた方も数多くいらっしゃいました」

「広島で取材をしていて思うのは、当時のことを知る人はほとんどがお亡くなりになって、まさにいまがご本人から話を聞ける最後の時だということです。実際、さっきのダイジェストで映っていた「自分はモルモットみたいだ」と語っていた方は、この放送の4か月後、残念ながらお亡くなりになりました」

「いろいろな思いを込めてつくった番組です。これからもそういった人たちに向き合いながら、私たちはこうした番組をつくりつづける責任があります。今回のこの賞は私たちにとって励みになりました」

「最後になりましたが、科学的な知識のない私が制作統括した番組です。多少とがった部分のある番組ですが、そうした番組にこのような賞をくださった日本科学技術ジャーナリスト会議のみなさまの度量の大きさといいますか、ご決断に、あらためてお礼を申しあげたいと思います。本当にありがとうございました」

松木秀文さんもあいさつしました。

「このたびは、このような賞をいただきましてありがとうございました。私は大学では地球科学の研究をしていまして、修士課程まで進んで研究者になろうと思っていたのですが、“漂流”を始める前にNHKに拾っていただいて、いまに至っています」

「ずっと科学とは関係ない番組をつくってきました。広島に来て原爆のことをテーマに取材することになり、ようやく科学的な知識を活用することができるようになりました。これまで春原からは『無駄な学歴』と揶揄されてきましたが、このような賞をいただきましたことで、決して無駄ではなかったと多少は胸を張れるかなと思っています」

「今回の番組は、報告書が軸になっています。私は理系だったとはいえ、医学的なことはまったくわからず、専門家の方にひとつひとつ教えていただきながら、なにが書かれているのか、なにを調べていたのかということを勉強させていただきました」

「ただし、それはあくまで知識であって、情報であったと思います。それをもっと立体的なものにする、“わかる”ものでなく“感じる”ものにするには、大勢の被爆者の話をひたすら聞いていくしかないと思って、やりました」

「戦後生まれの私が話を聞いてわかるとは、おこがましいことです。耳を傾けて寄り添うことしかできませんでしたが、はじめはただの数字やデータとしてしか見えなかったものが、その後ろにひとりひとりの人間の命や活きてきた人生があるといことを手触りを持って感じられるようになって、この番組のメッセージは強くなっていたのだろうと思います」

「これからも原爆の番組をつくり続けようと思っています。まさに原爆自体が科学が生んだ手段でありますし、科学的なこととその切っても切り離せない番組なってくると思う。そのなかで、今回の原発の事故も含めて、核や放射能とどう向き合っていくのか、そのベースになるのがヒロシマ、ナガサキだろうと思っています。科学的なものの背景にある命や人権を大切にしながら、この賞に恥じない番組を制作していきたいと思っています」

「最後になりますが、取材に協力していただいた方、いっしょの志をもって番組に向きあった仲間、そして家族にお礼を申しあげます。今日は本当にありがとうございました」

日本科学技術ジャーナリスト会議「科学ジャーナリスト賞2011 の受賞者が決定!」はこちらです。
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新聞社が原子力利用を推進――原発導入の経緯をたどる(4)
米国は、アイゼンハワー大統領が「原子力の平和利用」を国連で訴えた裏で、原子力の戦争利用をも視野に入れていました。原子爆弾を再びつくり、さらには水素爆弾をつくり、使える準備をしようとするものです。

そうした矢先、1954年に、第五福竜丸の乗組員が米国が行なった水素爆弾実験で被爆をしたのです。

日本に反原発の気運が高まったなか、米国の国務省は、対日政策についての報告書のなかで、つぎのような文言を記しました。

「核実験の続行は困難になり、原子力平和利用計画にも支障を来す可能性がある。そのために、<日本に対する心理戦略計画>をもう一度見直す必要がある」

米国は、日本で広がった原水爆反対の雰囲気を拭いさるには、日本のマスメディアを利用して、原子力の平和利用を日本国民に知らしめる必要があると考えました。これは、後に「毒をもって毒で征する」と表現されるようになります。

米国側が接触したのが、当時、読売新聞の経営者であり、日本テレビ初代社長でもあった正力松太郎でした。

正力のほうにも、日本がエネルギー不足に陥り、共産主義化してしまうことに対する懸念があったといいます。米国側からの接触を受け、1955年の正月、米国の「原子力平和使節団」を日本に招き入れることを伝える社告を掲載しました。その後も、読売新聞は原子力利用を推進するキャンペーンを展開しました。

この年には、さらに正力本人が衆議院選挙に立候補。当選を果たし、国政からも原子力導入を働きかけることになりました。ジャーナリズム組織の長が、国政に入り内側から国を動かそうとするかたちです。1957年には、第一次岸改造内閣のもとで、正力は科学技術庁長官や原子力委員会委員長にも承認しています。

しかし、読売新聞だけが原子力利用の推進に加担したわけではないようです。1955年には、新聞各社がキャンペーンを張る新聞週刊の標語として「新聞は世界平和の原子力」が入選し、採用されました。ジャーナリズム全体が、原子力利用に前向きだったことがうかがえます。

1955年「新聞週間」の標語

マスメディアの世論形成が、日本で原子力利用を受容する雰囲気をつくりだした要因は大きいといえます。

その後、原子力基本法などの法整備や、日米間、日英間、日加間の原子力交渉なども進みました。茨城県東海村で国内初の原子力施設となる動力実験炉の運転が始まったのは1963年。第五福竜丸事件から9年後のことでした。了。

参考番組
NHK現代史スクープドキュメント「原発導入のシナリオ 冷戦下の対日原子力戦略」
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原子力研究の初予算は2億3500万円――原発導入の経緯をたどる(3)

米国のアイゼンハワー大統領が1953年に国連で発した「原子力の平和利用を」という呼びかけに、日本の政界では、のちに首相になる中曽根康弘が強い反応を示しました。

中曽根は、1918(大正7)年生まれ。戦前の1941年、内務省に入り、その直後、戦争が始まると海軍の主計とよばれる会計担当になりました。そして、戦後、1947年には衆議院選挙に立候補し、初当選を果たしています。

中曽根は終戦直後、日本を占領していた連合国軍が日本製の加速器を品川の海に捨てたことを新聞で知り、「これはもう,アメリカは日本を農業国家にしてしまうつもりかな」と思ったといいます。

その後、国会議員になってから8年。アイゼンハワーの演説の内容を知ると、中曽根は「これは大変だ、これを放っておいたら日本はまさに農業国家だけに転落してしまう」とあらためて実感したといいます。

そして、日本の科学技術が発展するためにも、原子力の利用を推進しようという意を強くしたといいます。

中曽根は、アイゼンハワー大統領の講演の翌年、1954(昭和29)年に、その年度の予算案に原子力研究のための予算を盛りこむことを画策しました。

そして、賛意を示しそうな議員に呼びかけるなどして、議員立法で予算を確保したのです。その額は、2億3500万円。当時の物価からすれば、相当な予算でもありますが、この額にはもうひとつの隠れた意味があるといいます。原子力の核燃料となる「ウラン235」の数字にちなんで、2億3500万円という額を計上したとされています。

この1954年は、第五福竜丸が被爆する事件があり、原子力研究予算が成立し、さらにその後、内閣に「原子力利用準備調査会」も開かれました。原子力利用にとっては目まぐるしい一年となりました。

さらに、こうした流れと並行して、原子力利用を推進する米国の当局と、戦後のマスメディアを駆け上がろうとしていた日本の新聞社の重要人物が接近し、日本での原子力利用を推進するための画策が行なわれていました。つづく。

参考文献
「元内閣総理大臣中曽根康弘氏茨城原子力 50 周年記念講演会要旨」
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第五福竜丸事件で原水爆反対の火が付いた――原発導入の経緯をたどる(2)

終戦から数年、日本では広島と長崎に原子爆弾を落とされたにもかかわらず、原子力が受け入れられてきました。

しかし、原発礼賛ともいえる社会の状況は、1954(昭和29)年に大きく変わります。中部太平洋、マーシャル諸島の北西にあるビキニ環礁で、米国が行なった水素爆弾の実験により、近くの海で漁をしていた日本の第五福竜丸の乗組員23人が被爆しました。この事件は日本国内にも伝わりました。

さらに、日本国民の不安は増していきます。

太平洋で捕れたマグロから、放射線が検出されたのです。放射線が検出されたマグロは廃棄処分に。食卓の直撃を受けた日本の市民はしばらくパニック状態になりました。

さらに、第五福竜丸の乗組員のひとり、久保山愛吉さんが、被爆が明るみに出てからは半年後に息を引きとりました。

久保山さんの直接の死因についてはさまざまな説があり、輸血によって肝炎ウイルスに感染し、肝機能障害で亡くなったともいわれています。しかし、久保山さんが病床で最期に残した「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」という一言が、日本の市民の原水爆反対運動を一気に強くしました。翌1955年には、広島で第1回原水爆禁止世界大会も開かれました。

第五福竜丸事件が起きたいっぽうで、日本では、エネルギーを確保するために原子力を積極的に利用しようとする動きも活発になっていました。第五福竜丸事件が起きる前年1953年に、
米国アイゼンハワー大統領が国連総会で「平和のための原子力利用」を提唱したのを受けてのことです。

アイゼンハワー大統領は、「原子力技術をもつ各国政府は、蓄えている天然ウラン、濃縮ウランなどの核物質を、国際原子力機関(IAEA)をつくり、そこにあずけよう。そしてこの機関は、核物質を平和目的のために、各国共同で使う方法を考えてゆくことにする」と述べました。

「平和利用」というこの呼びかけに、日本の政界とマスメディアの人物が反応しました。つづく。
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戦後直後、日本は原子力を敵視でなく受容――原発導入の経緯をたどる(1)


原子力利用の是非をめぐる議論が多く聞かれるようになりました。当ブログでも、4回にわたり「原発是非論」を展開しました(第1回第2回第3回第4回)。

原発の是非が議論されるいっぽうで、「被爆国の日本が、どのように原子力を利用するに至ったのか」といった経緯については、あまり触れられていません。そこで、日本はどのように原子力発電所をもつ国になったのか、戦後から日本初の原発が運転開始となるまでの経緯をふりかえります。

1945年8月、広島と長崎に原子爆弾が落とされました。そして、日本は太平洋戦争の終戦を迎えました。

終戦直後から連合軍占領期にかけて、日本国民が原子力というものに対する嫌悪感を抱いていたかというと、けっしてそうではありませんでした。むしろ、興味や賞賛の雰囲気のほうが強かったのです。

たとえば、1947年2月10日付の南日本新聞には、「豆解説」という記事につぎのような記述が見られます。

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アトム

アトムはすでに日本語になつている、物質の最後の單位を原子としたのは過去の科学、今日ではその構造が電子、陽子、中性子であることは常識である、この電子と中性子を使つて偉大なアトミック・ボーム(原子爆彈)が現出した、今日の科学の最も華々しい舞台である原子物理学はすべて原子の内部の究明に研究対象がおかれている

 新聞や雑誌の雑筆欄に『アトム』というのがあるが『原子爆彈的な』というしやれだろう、アトムが人氣ものになつてからこれが動詞にも使われるようになりアトマイズ、直訳して原子爆彈攻撃を加えることであり、もちろん廣島が爆撃されてから使われた新語である
―――――

「アトム」ということばは、被爆地の長崎でも流行していました。1949年に長崎でつくられた「新長崎文化音頭」という民謡には、「アトムネー、アトム・ナガサキ茜の空に」という歌詞が使われるなどしています。

被爆国となった日本で、なぜ「アトム」が流行したのか、つまり原子力が受け入れられたのかについては、まだ研究の必要がありそうです。しかし、戦争中は“鬼畜米英”と敵視していた米国を、戦後は歓迎の態度でむかえいれたような日本国民の精神性と、どこか重なる部分はあります。

戦争直後の数年間、日本では原子力が原子爆弾の源として受け入れられていました。大きな変化が現れたのは1954年のことでした。つづく。

参考記事
南日本新聞1947年2月10日付「豆解説 アトム」
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“しどろもどろ”が功を奏することも

ものかきが記事を書くためには材料が必要。そこで、材料を得るために取材をします。科学技術分野の記事づくりであれば、おもに研究者などの専門家に取材をすることになります。

物書きが質問をして専門家が答える。基本的にそのようなやりとりで取材は進んでいきます。

取材において、質問する側はできるだけ相手に対して、質問をわかりやすく伝えようと心がけます。質問の意図が異なって伝わると、異なった答えを得ることになります。もちろん、そのあとで「あ、いまの質問はそういうことでなく、こういう意味なのですが」と再び質問することもできます。しかし、合ったばかりの人との対話の流れとしてあまりよいものではありません。

しかし、質問する側がしどろもどろに質問をするほうが、かえってよい場合もときどきあります。

取材を受ける側は専門家だとはいえ、つぎのような質問については、“すこし考える時間”が必要となる場合があります。

「具体的な事例として、どのようなことがありますか」

記事は、「結論となるような抽象的な話」と「その結論を肉付けするような具体的な話」の構成が基本となります。そこで、抽象的な話があっても具体的な話がまだないとき、「具体的にはどのようなことが」と聞くわけです。

しかし、かならずしも専門家のほうも、具体的な例を想い描きながら話しているとはかぎりません。具体的な話を頭のなかで思い出したり引き出したりするためには、すこし考える時間が必要なことがあります。

具体的な答えを即答してもらえるかわからない可能性があるなかで、質問する側が「具体的には」だけ質問すると、あまりに質問の時間が短すぎて、専門家に考える時間をあたえないことになります。

いっぽう、しどろもどろに質問するというのはつぎのようなもの。

「いまのお話について、さらに具体的にお聞きしたいと思うのですが、いま先生な何々とおっしゃいましたが、ふつうの人がその言葉から想像するのはこういうことになるかと思いまして、ただ、専門領域では、われわれの知らないような特別な世界とかもあるのかななどと思っていましてですね、なにかそのー、研究のなかでこんな事例があったというようなお話があれば、ぜひお聞きできればとおもうのですが、えー、いかがでしょうか……」

しどろもどろに質問の意図などを話すと、それでかなりの時間ができます。質問を受ける専門家は、瞬時に具体例を思いうかべることができなくても、相手の質問がぐだぐだとしているうちに頭を回転させて質問の答えを探そうとします。

質問する側が注意すべきは、質問の意図は「具体例を聞きたい」ということであることを先に示しておくことでしょう。しどろもどろがつづいた挙句、最後に「具体例はどんなことがありますか」と聞くと、そこから相手は考えはじめることになりかねないからです。
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「隠れた誤り」たち悪し
本や雑誌などの書物に、つぎのような思いをもっている人は多いことでしょう。

「本や雑誌なのだから、誤りなどあるはずがない」

個人が書いた日記やブログはともかくとして、売りものになっている書物には誤りはないものだ、という思いです。

誤りをなくすための労力は、本や雑誌などの書物のほうが、個人が書く日記やブログよりも均せば強いかもしれません。誤りがないかを確かめるのが仕事の校閲者という人がいる出版社もあります。

しかし、個人が書くものも、出版社が出すものも、「人という誤りを起こすいきものが作業してつくったもの」であるという点では共通しています。つまり、出版社の刊行物にも誤った情報は出るわけです。

出版物にかぎったことではありませんが、つくったものの誤りには、“明らかな誤り”と“隠れた誤り”があります。

明らかな誤りの典型例は誤字・脱字です。「日本」が「日た本」と記されていたり、「高校生」が「高校性」と記されたりすれば、読者は「これはまちがいだ。VOW級だ」などとわかるわけです。誤りをつくった記者や編集者は、「日た本」や「高校性」という文字を見て、恥ずかしい思いをします。

しかし「これは誤りだ」と気づく誤りは、まだよいほうなのかもしれません。

いっぽうで、“隠れた誤り”があります。「それが誤りである」ということが気づかない誤りです。

たとえば、大学受験対策やセンター試験対策の問題集では、“範囲外出題”という誤りがあります。試験には「この範囲から問題を出す」という出題範囲があります。この出題範囲を超えた問題を問題集に載せてしまうと、読者の受験生は試験には出ない範囲の問題にとりくむことになります。

よほど入学試験に詳しい、通な受験生でなければ「これは本番の受験の範囲外だろう」と気づく人は多くありません。出版社は、範囲外の問題を出すことによって、受験勉強にとってむだな時間を読者にあたえてしまうことになります。

こうした誤りは、誤りがあること自体が気付かれにくいため、読者から指摘を受けることも多くありません。つくる側は、恥ずかしい思いをしたり、お詫びをしたりすること、明らかな誤りよりも多くはないでしょう。

しかし、誤りだとわからずに誤りが真実と受けとめられるということを考えると、たちの悪いのはこの隠された誤りのほうです。潜在的には明らかな誤りより数も多いことでしょう。
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とりわけ気体になりやすく、とりわけ体を害しやすい

福島第一原発事故では、ヨウ素131とセシウム137という、おもに2種類の放射性物質が関心の対象になっています。あとはセシウム134でしょうか。

しかし、核分裂によって生みだされる放射性物質には、ほかにキセノン、ラドン、クリプトン、テルル、ストロンチウム、ウランなど、数おおくあります。

ヨウ素131とセシウム137のみがもっぱら注目されて、ほかの放射性物質がさほど注目されないのはなぜでしょう。いろいろな情報を総合すると、つぎのふたつの理由があります。

ひとつめは「沸点の高い放射性物質はあまり放出されなかったが、ヨウ素131とセシウム137は沸点が低いので大気中に放出された」ということです。

ヨウ素の沸点は184.3度、セシウムの沸点は671度。炉心溶融などにより炉心が高温になると これらの多くは気体になります。ヨウ素131やセシウム137が気体になったところで、原子炉格納容器を開けて圧力を下げるベントという作業がなされたり、水蒸気爆発が起きたりしたため、これらの物質が大気に大量に放たれました。

いっぽう、たとえば沸点が988度の放射性テルルや、1382度の放射性ストロンチウムなどは、気体にならず空気中には漂わなかったものと考えられます。

ふたつめの理由は、「人体に影響がない放射性物質は心配されないが、放射性ヨウ素と放射性セシウムは人体への影響が強いため心配されている」ということです。

放射性物質の中には、ヨウ素やセシウムより沸点が低く気体になりやすいものがあります。たとえば、キセノンはマイナス108.1度、ラドンはマイナス61.7度、クリプトンはマイナス153.2度などとなっています。しかし、これらの希ガスとよばれる物質は、体内に取り込まれても体の器官や組織に貯まるとは考えられていません。

いっぽう、放射性ヨウ素は甲状腺に貯まりがんの原因になるということがわかっています。放射性セシウムも、染色体や遺伝子の突然変異を起こす原因になると考えられています。

数ある放射性物質のなかでも、ヨウ素131とセシウム137は、気体になりやすく、かつ、人体への影響があるために関心の対象になったわけです。ただし、期待の放射性物質だけが漏れたわけではありません。関心の対象を、放射性ヨウ素と放射性セシウムだけに絞り込まないほうがよいでしょう。
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「2030年までに原発2倍」が無理ないま、再生可能エネルギー加速のとき――原発是非論(4)
福島第一原発事故の直後から、人々の不公平感はより高まりました。計画停電により、停電が強いられる地域と、停電にならないで済む地域が生まれたからです。

このような状況になり、原発にたよらず、かつ地球にとって有害とされるガスをあまり発生しない再生可能エネルギーにこれまでよりも高い注目が集まるようになりました。原発反対派のなかには、「原発がなくても再生可能エネルギーがあるじゃないか」と主張する人もいます。

2007年度の時点で、日本の発電電力量のうち、太陽光、風力、バイオマスなどの再生可能エネルギーが占める割合は10%まで行っていません。

これまでも再生可能エネルギーの重要性がいわれていたにもかかわらず10%に達していないのは、電力会社が再生可能エネルギーの導入にあまり前向きではなかったという遠因もあります。電力会社が積極的に推進してきた原子力は26%を占めています。

いまの再生可能エネルギーの普及度合を考えると、「すべての原発をすぐに停止して、再生可能エネルギーに代えよう」というのは、急すぎる話です。

経済産業省は、「2030年のエネルギー需給の姿」という報告書を発表しています。このなかでは、2030年度の発電電力の日本全体の量は、2007年よりもやや減っているという姿を描いています。

そこにあるのは、再生可能エネルギーの発電電力量も、原子力発電の電力量も、2007年度よりそれぞれ2倍ほど増やすといったものです。

しかし、この将来像は、今回の原発事故を受けて、大きく変わらざるをえません。国も電力会社も「原発を新設する」とは言いづらい状況になっているからです。菅直人首相も(2011年)5月10日に、エネルギー政策の基本方針を定める「エネルギー基本計画」を白紙から検討しなおすことを表明しました。

いっぽうで、日本でいま使われている原発には、すでに運転開始から30年以上が過ぎているものが多くあります。いま、廃炉が決まっている原発は、茨城県の東海発電所原発と福島第一原発くらいです。

しかし、これからは「いくらなんでも運転開始から40年もすぎれば、この原発も廃炉にすべし」といった声が市民、地域、国会、マスメディアなどから上がってくるでしょう。

これまでは、徐々にしか広がってこなかった再生可能エネルギーの利用を加速させることと、福島第一原発事故後に多くの市民が協力することになった省エネルギーへの取り組みを続けていくこと。この二つが、原子力発電を「現状程度にとどめ」ながら、未来の社会をつくっていくために重要になります。了。

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原発に付いて回るのは不公平感――原発是非論(3)
 人は、「自分に対してあたえられる絶対的な利益」より、「他人と比べたときの公平性」のほうを重視するといいます。

たとえば、100万円をもらえるとしても、同時にべつの人に200万円があたえられる場合、「あいつに200万円が渡るぐらいなら、俺の取り分は10万円になってもいい」という気持ちになるというのです。

この理論は社会学で「最後通牒ゲーム」という名で認められているもの。人が“不公平感”を覚えたとき、いかに理論よりも感情が優先されるかを示したものといえます。

原子力利用には、このような“不公平感”を増長させるようなことが多くあります。

まず、原発事故によって被ばくしたり、退避を余儀なくされたりした多くの人は不公平感をいだくでしょう。「なんでうちだけが、こんな辛い思いをしなければならないのか」と。

事故が起きていないときでも、地方と都市とのあいだの格差がもたらす不公平感があります。原発が建てられる地域はつねに地方。それでいて、原発による電力を使うのは都市の人びとです。原発が建てられた地域の住民が「なぜ、都会のやつらが使う電気を、うちの町で危険をともないながらつくらなければならないのだ」と不公平感を抱くのは当然のことです。

さらに、原子力をめぐっては利益の集中も見うけられます。産学官が連携ならぬ結託をしあいながら、“原子力村”とよばれる排他的なコミュニティで暮らしつづけているのです。排他的であるのは、独占したくなるような利権や利益があるからです。この状況を“原子力村”の住民でない人が見れば、「あいつらは、俺たちより楽して儲けているにちがいない」といった気持ちにもなるでしょう。

これらはすべて心情的な問題といえます。人びとのやるかたない心情に追いうちをかけるのは、原子力の“得体の知れなさ”でしょう。

原子力以外のエネルギーに目を向ければ、火力では火、水力では水、風力では風、太陽光では太陽といったぐあいに、暮らしのなかの身近なものに引きつけてかんがえることができます。

しかし、原子力というエネルギーは、ウランやプルトニウムといった、市民にとってとうてい身近とはいえないものを燃料としています。さらに、この燃料は放射線というこれまた得体のしれないものを発しつづけるわけです。

「正体がよくわからないものが、自分たちへの説明もなしに使われている」といった理解しづらさは、人に心情にマイナスに作用することはあっても、プラスに作用することはないでしょう。つづく。
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三つの原発反対理由に三つの反論――原発是非論(2)
 原子力の利用に反対する人びとは、複数の「エネルギーが原子力由来であってはならない理由」を示します。代表的なものには、つぎのようなものがあります。

ひとつめは、「原爆でたいへんな思いをしたから」というものです。1945年、広島と長崎に原子爆弾が落とされました。1954年には、マーシャル諸島付近にあった第五福竜丸に“死の灰”が降りました。戦争の体験をした方や、被曝の経験をもつ方は、この思いをとくに強くもっています。

ふたつめの理由は、「放射性物質漏れが起きたとき、人の健康に害が及ぶ危険があるから」というものです。人体に対する直接的な影響ということができます。人は、大量の放射線を浴びると、癌になる確率が高くなるということもわかっています。

そして、みっつめは、「放射性物質漏れが起きたとき、生活の質が低下する危険があるから」というものです。実際に、福島第一原発の事故では、周辺の住民が避難や屋内退避を余儀なくされました。事故以前に営んでいた生活をとりもどせないでいる方が多くいます。

過去のトラウマ。人体への影響。生活の質の悪化。これらが「エネルギーが原子力由来であってはならない理由」として挙げられます。

しかし、これらの原発反対理由に対しては、さらに反論もあります。

ひとつめの「原爆でたいへんな思いをしたから」という原発反対理由に対しては、「原爆と原発は、兵器として利用するものか平和利用するものかという点で異なるものである」といった反論が考えられます。

さらに「日本は“核兵器をもたない、つくらない、もちこませない”という三原則を基本姿勢としている。原子力利用が発展して原子爆弾の作成につながるということは日本ではないだろう」といった論も考えられます。

ふたつめの「人の健康に害が及ぶ危険があるから」という原発反対理由に対しては、「放射線被ばくによる発がんの危険性を再考するデータ」があります。

(2011年)4月25日付の日本経済新聞に、国立がん研究センター調べとする表が掲載されました。放射線を浴びてがんになる危険性と、生活習慣でがんになる危険性を並べたものです。これによると、1000から2000ミリシーベルトの放射線を浴びたとき、発がんの危険性は通常の1.4倍となるとのことです。また、2000ミリシーベルト以上を浴びたときは、1.6倍になるとのことです。

いっぽう、喫煙による発がんの危険性も1.6倍、また、毎日3合以上の酒を飲むことによる発がんの危険性も1.6倍になるといいます。大量の放射線を浴びるのと、煙草を吸ったり、大酒を飲んだりするのとは、発がんの危険性という点からすれば大差ないというわけです。

もっとも難しいのは、みっつめの「生活の質が低下する危険があるから」に対する反論でしょう。生活の質の低下に対しては、金銭的な保障により解決をはかろうとするのが、現実的な対応策となっています。

また、原発事故が起きない平時にも、国は原発を受け入れた自治体に対して補助金や優遇策を出すなどしています。

原爆と原爆はちがう。発がんの危険性はさほど高くない。金銭的な保障をする。これらは、原発反対派に対するかなり強力な反論になりえます。

しかし、これらの論拠をかざしたところで、原発反対派に「わかりました。原発を容認します」と言わせることができるかというと、そうはなりそうもありません。多くの原発反対派は「それでも、原発は受け入れられない」と言うでしょう。

原発反対論には、理論とはべつの側面の問題が深く関わっています。つづく。
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「原子力由来でならなければならない理由」はない――原発是非論(1)
福島第一原子力発電所の事故のあと、原子力発電に対する反対論と容認論がよく聞かれるようになりました。

朝日新聞は、(2011年)4月18日、市民に対して「原子力発電は今後どうしたらよいか」を問う世論調査を結果を発表しました。

結果は、「増やす方がよい」が5%、「現状程度にとどめる」が過半数の51%、「減らす方がよい」が30%、「やめる」が11%でした。2007年の同内容の調査に比べて「減らすほうがよい」や「やめる」が増えたものの、「現状程度」は、前回の53%から2ポイント減っただけで今回も過半数となりました。

すべての原発を即刻停止するということが現実的ではないという市民の判断の結果が現れているといえるでしょう。

エネルギーというものの大きな特徴は、代替が可能であるということです。どのようなエネルギー源からエネルギーをとりだしたとしても、使うときにエネルギー源のちがいによる影響はありません。

原子力発電で得た電気エネルギーも、風力発電で得た電気エネルギーも、100ワット時の量を使うときに「こっちの電気のほうがよかった」といった質的なちがいは生じません。これは、「1万円」を、1万円札1枚で用意しても、500円玉20枚で用意しても、5000円札や1円札が混じったかたちで用意しても、1万円の価値そのものが変わらないのとにています。

この点から考えると、「エネルギーが原子力由来でなければならない理由」は、ないことになります。

もちろん、原子力エネルギーには「安上がり」とか「クリーン」といった特徴がいわれることもあります。しかし、それは程度の問題であって、仮に原子力が使えなくなったときは、ほかのエネルギーを使うことができます。

では、「エネルギーが原子力由来であってはならない理由」はあるでしょうか。その理由こそが、多くの原子力発電反対派が主張する、反対の根拠となります。つづく。

参考記事
朝日新聞「原発『減らす・やめる』41% 朝日新聞世論調査」
| - | 23:59 | comments(0) | -
「施設の供用期間中に極めてまれではあるが発生する可能性があると想定することが適切な津波」を「大津波」と表現できない議論


菅直人首相の要請により、中部電力浜岡原子力発電所が全面停止となる可能性がきわめて高くなりました。全面停止は、東海地震などの巨大地震による津波を防ぐための防波壁をつくるまでの措置とされています。

津波が襲ったことにより事故が起きた福島第一原子力発電所の事故が起きてから、原子力発電所の津波対策の弱さが指摘されるようになりました。

経済産業省が2006年に改訂した原発設置の安全基準「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針」に対しても、津波への検討事項がほとんど盛りこまれていないことが週刊誌などで批判されています。

14ページにわたる指針で「津波」の文字が登場するのは最後の項目。「次に示す事項を十分考慮したうえで設計されなければならない」として、このようなことが書かれてあります。

「施設の供用期間中に極めてまれではあるが発生する可能性があると想定することが適切な津波によっても、施設の安全機能が重大な影響を受けるおそれがないこと」

この文には、「施設の供用期間中に極めてまれではあるが発生する可能性があると想定することが適切な津波」という句が書かれてあります。

これを解釈してかんたんにいいかえると「発生しうる大津波」、もっとかんたんにいいかえると「大津波」ということになるでしょう。この文全体の内容を20字以内で表現せよという試験問題が出れば、「大津波によっても重大なことにならないこと」と置きかえることができます。

「発生する可能性があると想定することが適切な」といった表現は、慎重とも回りくどいともとれます。公的な文書に見られる迂遠的な表現は、議論の末の“妥協の産物”であることがよくあります。

国が方針や指針を決めるとき、専門家が招かれて会議を開き、その議論の結果をまとめるというかたちが多くとられます。あらかじめ官僚が方針案を決めておき、同意してくれそうな専門家だけが集まる会議を開けば、“しゃんしゃん”と方針は固まることでしょう。

しかし、しゃんしゃんとならず「私から言わせてもらうと結論はこうなります」「私はちがう立場から、ちがう意見を申しあげます」といった議論が展開されることもあります。意見がわかれるような会議の取りまとめとなる議長や、実際の文言づくりをする事務方官僚は、「誰々先生の発言も取りいれ、誰々先生の発言も取りいれ」と、なるべく角が立たないような表現を目指すようになります。

そうした苦肉の策の結果が、迂遠的な表現として現れることがあるわけです。

「発生する可能性があると想定することが適切な」といった表現は「なにをいっているのかよくわからん」と批判の対象にされがちです。しかし、いっぽうで「御用聞きの専門家が集まったのでなく、活発な議論が行なわれた」と捉えることもできます。マスメディアなどが言及するのは、もっぱら前者のほうですが。

参考資料
経済産業省原子力安全委員会「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針」
| - | 23:59 | comments(0) | -
相づちのことばで7文字


金属を打ってきたえる鍛冶仕事で、弟子が師匠と向かいあって鎚を打っていくことを「相づち」といいます。弟子「キン」師匠「キン」弟子「キン」師匠「キン」と、調子よく交互に鎚を打つことから、会話で同意を示す声を発することを「相づちを打つ」と表現するようになりました。

人には人それぞれの「定常的な相づちのことば」があります。

たいていの日本人は、目上の人には「ええ」や「はい」、友だちや身内や目下の人には「うん」や「んー」となるでしょうか。街なかで、人が電話をしているのを耳にすると、「ええ………ええ……ええ、わかりました」などと聞こえます。

なかには、お殿さまと話すように「ははぁ」を定常的な相づちにしている人もいます。「ははぁ、ははぁ……はぁ、それなんですが……ははぁ。承知しました」。

まれではありますが、「おっしゃるとおり」を定常的な相づちにしている人もいます。「ええ」や「うん」にくらべて明らかに長い「おっしゃるとおり」を、いちばん使う相づちの言葉としているのです。

いっぽうの人の確認の言葉と、もういっぽうの人の相づちの言葉が、小気味よく繰りかえされるのが、学会で研究者が発表を終えたあとの、質疑応答の時間です。つぎつぎと確認の質問を投げかける聴衆に対して、2、3秒に一度の頻度で相づちで同意する発表者。

そんな速い応酬のあいだでも、「おっしゃるとおり」を定常的な相づちにしている人は、その形を崩しません。

「グラフの縦軸は時間」「おっしゃるとおり」「横軸はイベントの回数」「おっしゃるとおり」「すると比例関係が生じるのだ、と」「おっしゃるとおり」「で、つぎのグラフはそうでない」「おっしゃるとおり」「この違いが原因であると」「おっしゃるとおり」

学会の場で、「おっしゃるとおり」を繰りかえす研究者を見ていた海外の研究者は、となりの席の日本人に、“He says shalltori. What's Shalltori?”と聞きました。「おっしゃるとおり」が「シャルトリ」と聞こえるほど、相づちのことばが短縮化しているのでしょう。

「ええ」や「うん」にくらべて、「おっしゃるとおり」の連続は、初めのうちは忙しそうな感じを覚える人も多いでしょう。しかし、慣れてくると会話のやりとりが心地よく聞こえてきます。

ただし、この相づちを使う側にとっては、「おっしゃるとおり」「おっしゃるとおり」と勢いに乗ると、本当は「おっしゃるとおり」でないことに対しても「おっしゃるとおり」と答えてしまう場合もありうるので注意が必要です。注意が必要なのは、ほかの相づちをうつ人にもいえることかもしれません。しかし、「おっしゃるとおり」は言葉として明確になっている分、より勢いに乗らない注意が必要になるわけです。
| - | 23:22 | comments(0) | -
「みどりの学術賞2011」佐藤公行さん、光合成の謎に光を照らす――みどりを見つめる(17)

2011年の「みどりの学術賞」では、きのうの記事で紹介した田畑貞壽さんとともに、岡山大学名誉教授の佐藤公行さんも授賞しました。植物の営みである光合成のしくみを研究した成果などに対して賞が贈られます。

植物が、光エネルギーを使って、二酸化炭素と水分とから栄養をつくりだすのが光合成です。葉などにある葉緑体で光合成は行なわれます。

佐藤さんは米国留学時代、葉緑体のなかにあって光を集める役割などを担う「クロロフィル蛋白質」とよばれる物質を識別することに成功しました。

クロロフィル蛋白質の複合体のひとつに、「光化学系II」とよばれる部分があります。水を分解して酸素がつくられる、動物にとって重要な部分です。

1980年代はじめ、この光学系IIのなかにあって、光エネルギーを化学エネルギーに変える「反応中心」とよばれる部分に研究者たちの目は注がれていました。

多くの研究者の常識になりつつあったのは、「CP-47」とよばれるクロロフィル蛋白質こそが反応中心だということでした。

いっぽう、佐藤さんは、自分で実験をして、それを確かめるまで自分のなかで結論を出そうとはしませんでした。そこで佐藤さんは、半年間の留年が決まっていた大学4年生の難波治さんとともに、実験で確かめることにしました。

ところが、実験を続けていくと、反応中心として働いているのは、どうやらCP-47ではなく、D1、D2とよばれる蛋白質であるらしいとわかってきたのです。

1986年に、研究者が集う国際会議でこの実験結果を発表すると、会場からはおどろきの声が大きくなっていったといいます。多くの研究者が抱いていた常識が崩れていった瞬間です。

佐藤さんの研究は、光合成のしくみの見えなかった部分に光を当てることになりました。

「自分の目で確かめてみる」というのは、研究者あるいは研究者以外の人にとっても基本的でありながら、なかなかできない行為です。その行為をおこたらずにしつづけるとき、定説というものはくつがえされるのかもしれません。

「みどりの学術賞」のホームページはこちら。
佐藤公行さんの紹介はこちらです。

参考文献
佐藤公行「光化学系 II 反応中心同定への途(回顧)」

シリーズ「みどりを見つめる」は今回で終了です。今後もこのブログでは、みどりや自然を対象とした記事を伝えていきます。
| - | 23:59 | comments(0) | -
「みどりの学術賞2011」田畑貞壽さん、緑被率を提唱――みどりを見つめる(16)


三連休の中日にあたる5月4日は「みどりの日」です。

みどりの日にちなんで、内閣府は2007年から「みどりの学術賞」を定めています。日本国内で、植物、森林、緑地、造園、自然保護などの研究や技術開発など顕著な功績のあった個人に総理大臣があたえる賞です。

2011年の「みどりの学術賞」は、千葉大学名誉教授の田畑貞壽さんと、岡山大学名誉教授の佐藤公行さんにあたえられました。

田畑さんは、都市圏などの一定の範囲の地域が「どれだけみどりで被われているか」を数値で示す手法を開発しました。その率は、「緑被率」とよばれています。

「みどり」とよばれる土地には、さまざまな種類があります。森林、草原、水辺、湿地、農地、並木、公園、庭園、生垣、屋敷林などなどです。田畑さんが緑地率を提唱するよりまえまでは、これらの土地をひとまとめに「みどり」として数値計算するような考えかたがありませんでした。

1964年、日本では東京五輪が開かれ、東京の街の様子は大きく変わりました。いっぽう、この年、田畑さんはパキスタンの新首都イスラマバードでの緑地計画に携わっていたため、東京からしばらく離れていました。

イスラマバードから帰国した田畑さんは、翌1965年、のちに「緑被地図」とよばれるようになる地図をつくります。かつての東京の地図と、新しい東京の地図を比べながら、街路樹などみどりに関する地域を地図上に色塗りしていったのです。

この緑被地図づくりをきっかけに、田畑さんは、地図などを駆使して地域の緑被率を算出するという方法を考えるようになったといいます。

さらに、田畑さんは、緑被地率とほかの現象を示す数値との関係性を調べていきました。他の現象とは、人口密度、呼吸器疾患の発生状況、小動物の生息状況、地下水の水位などです。

これらの数値とみどりの多さは、いまでは「関係性があって当然」と考えられています。しかし、田畑さんが緑被率の考えかたを提唱するよりまえは、数値データによって確かめられるようなことは、ほぼなかったのです。

いまでは全国の自治体などで、「緑被率を50%まで増やそう」などといった目標がつくられるようになっています。

「みどりの学術賞」のホームページはこちら。
田畑貞壽さんの紹介はこちら。

あすは、2011年みどりの学術賞の受賞者のもう一人、佐藤公行さんの業績を紹介する予定です。
| - | 23:59 | comments(0) | -
「シネ・マッド・カフェ」のチキンと茄子のココナッツグリーンカレー――カレーまみれのアネクドート(32)


東京・押上は、634メートルの東京スカイツリーをほぼ真下から見あげる街。川をわたる橋の歩道では、観光客がみなカメラを空のほうへ向けています。

スカイツリーのふもと、業平橋駅から徒歩1分のところに、真新しい「シネ・マッド・カフェ」というカフェがあります。2011年3月に開店したばかり。

外の光をとりいれた開放的な店内。白壁には映画のポスターがところせましと掲げられています。本棚には、映画にまつわる本などがいろいろ。「映画館のロビーのような小さな喫茶店」を目指しているとのこと。

メニューは、コーヒーやアルコールなど飲みものが中心ですが、食べものではカレーが充実しています。「オリジナルカレー」としてメニューにあるのは、ヨーロピアンカレーのチキンとビーフ、それに海老と茄子のココナッツカレー。

お昼の時間帯にはランチメニューもあり、カレーを中心とした2種類ほどのセットを選べます。写真にあるのは、ある日、セットの一つとして出されていた「チキンと茄子のココナッツグリーンカレー」。

汁は、「カレールゥ」というよりは「カレースープ」といった表現がにあうほど透明感があります。その汁の中に鶏肉と茄子がごろごろ。具はたくさん入っています。

ご飯は日本の米。カレースープをすくうスプーンで具とスープをご飯の上に乗せると、具はご飯の上に、スープはご飯の下に。

スープの味は、だれもが食べられるようにしているためか辛くはありません。その分、鶏肉や茄子などの具のほうを味わうことができます。

カレーが出てくる前には、温かいグリーンピースのポタージュ。カレーを食べた後には、ジャムが乗ったチーズケーキとソフトドリンクが出されました。

「映画を語らうカフェ。でも、飲みものや食べものには手を抜かない」。そんなお店主の志がただよう店とカレーです。

シネマッドカフェのホームページはこちら。店のホームページによると、ランチメニューは一週間ごとに内容が変わります。
| - | 23:59 | comments(0) | -
釜石を対象とした希望学、研究者がメッセージ

東日本大震災後、さほど新聞などでは報じられていませんが、岩手県釜石市は「希望学」という学問の実地調査の対象となっていました。

「希望学」は、東京大学社会科学研究所の研究者により2005年に始まった学問です。希望学のホームページには、学問を構成する「三本の柱」が示されています。一本目が「希望の思想研究」。二本目が「データ重視の実証分析」。

そして、三本目が「岩手県釜石市を対象とした包括的な地域調査」です。以下のような説明が加えられています。

―――――
鉄の街として繁栄し、ラグビー七年連続日本一という偉業により、全国にその名をとどろかせるなど、釜石は、かつてまぎれもなく「地方の希望の星」だった。釜石は現在、人口減、高齢化、産業構造の転換など、日本に迫り来る近未来を一身に体現している地域である。その地に多くの研究者が何度も赴き、希望の再生に向けて行動する人々と対話を積み重ねた。
―――――

希望学の研究者のなかには、釜石に35回以上、足を踏み入れた人もいるといいます。ある研究者は、「釜石の人びとが抱く希望を観察対象として客観的に分析する」というよりも、「釜石の人びとといっしょに、釜石の希望を考える」という姿勢を釜石市民に示してきたと言います。

さらにホームページでは、釜石での地域調査からつぎのような仮説を得られたとしています。

―――――
その結果、地域における希望の再生には「ローカル・アイデンティティ(地域の個性)の再構築」、「希望の共有」、「地域内外でのネットワーク形成」の三つが不可欠という仮説に、希望学は辿りつくこととなった。
―――――

“その地域らしさ”を見つめなおし、希望を人びとで分かちあい、地域の外側とも連帯をもつ、ということが地域に希望をもつには重要であるようです。

東日本巨大地震で、釜石にも大津波が押し寄せ、市民も街も大きく傷つきました。大震災に際して、希望学プロジェクトを進める、社会科学研究所の玄田有史教授が産經新聞に(2011年)4月9日、寄稿しています。その内容は、具体的な提案です。

―――――
ボランティアの人たちが現地に入ると、さまざまな交流も生まれる。阪神大震災では、ボランティアの人たちが去るとき、何げなく「頑張ってね」と声をかけていったが、それが被災者にとってつらかったという話もある。何もかも失って先の目標もみえない人に、何を頑張れというのか。

「また来るからね」。こちらも支援に入った人がしばしば口にするが、実際には戻ってくることができない場合も少なくない。だから、その言葉を素直に受けて待っていた人は、裏切られた気持ちになってしまうことがある。被災者は、善意は善意としてありがたくいただきつつ、言葉どおりにまともに受けすぎないことも大切だろう。

さらに被災者に対し、避けるべき言葉がある。「もっと○○しておけばよかったのに」というものだ。被災地では常日頃から津波の恐ろしさを肌身に感じ、できるかぎりの対策を講じてきたのだ。にもかかわらず、災害は人知を超えて猛威をふるった。そんな無力感にさいなまれている人に、後づけの評論めいた発言は、厳に慎むべきである。
―――――

釜石市民への調査をもとに、「被災地の皆さんへ」という記事で綴られたものです。「希望は、試練や困難をくぐり抜けた先にある。それを信じて生活していただきたい」と、玄田教授は締めくくっています。

東京大学社会科学研究所「希望学」のホームページはこちら。

参考記事
産經新聞2011年4月9日付「東大教授 玄田有史さん 希望は試練の先にある」
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