科学技術のアネクドート

“かたちあるもの”に価値の継承力


ことし2010年は、奈良時代の都が平城京に移ってから1300年にあたる節目の年でした。平城京があった奈良県は、大々的に「平城遷都1300年祭」を通年で開きました。イメージキャラクターの「せんとくん」も話題づくりに一役かいました。

東大寺には「盧舎那仏像」があります。いわゆる「奈良の大仏」です。聖武天皇(701-756、在位724-749)の発願により、745(天平17)年からつくられはじめ、752(天平勝宝4)年に、開眼供養会という“魂入れ”の儀式が行われました。この大仏が、東大寺の本尊です。

聖武天皇が統治していた時代、豪族たちの勢力あらそいに加え、国内では疫病がはやり、社会情勢は不安定だったといいます。仏教を信仰していた聖武天皇は、国民の信仰心を高めるための方法を考えました。大仏の造営もそのひとつでした。

大仏の高さは14メートルほどあります。仏教の経典のひとつ『華厳經』には、「盧舎那仏は宇宙そのものである」といったことが説かれてあります。宇宙的な寸法に近づくためにも、“大きな仏”の造営が必要だったのでしょう。

大仏をつくった中心人物は、国中公麻呂(生年不詳-774)という仏師とされています。

粘土で、大仏のあらかたのかたち、つまり塑像をつくります。そしてそのまわりに土の鋳型をかたちづくります。塑像と鋳型の間にはすきまを残しておき、ここに溶けた銅を流し込み、形をつくっていきます。大きさが大きさだけに、足元から顔へと、8回にわけて溶かした銅を流し込んでいったといわれています。

過去に二度の焼失がありました。1180(治承4)年の戦による焼きうちと、1567(永禄10)年の兵火によるものです。さらに、これらの前には855(斉衡2)年、地震により首が取れてしまったこともあります。

これらの災厄のたびに、人々は修復や再興にとりくみました。そして、およそ13世紀を経たいまもなお、人々は東大寺の大仏を拝んでいます。

いわば、大仏の造営は、奈良時代における「ものづくり」の一大事業だったわけです。

平城遷都から1157年後、明治時代がはじまりました。日本は西洋文明をつぎつぎに取りいれてきました。しかし、それ以前にも日本にものづくりの技術があったことは、奈良時代に建てられた大仏や、そのほかの寺々の壮麗さを見れば一目瞭然です。

“かたち”があること。その“かたち”につくった人の心が込められていること。そして、その“かたち”が、人々に「いつまでも受けつぎたい」と思わせる美しさをもっていること。これらのことが相まったとき、その価値は代々引きつがれていくのでしょう。

いま、日本の「ものづくり」が、外国の「しくみづくり」に敗れる場面がしばしば見られます。いくら、日本がものづくりの技をみがいても、人々がものを受け入れるしくみそのものを外国に変えられてしまうため、敗れてしまうという論があります。1年や10年の短い視点で見れば、そのとおりなのでしょう。

しかし、100年や1000年の長い目で見れば、ものづくりによりつくられた“かたちあるもの”には、価値を継承させるより強い力があるのかもしれません。目に見えるものの力強さです。

今年も「科学技術のアネクドート」にお付き合いいただき、どうもありがとうございました。来年も、どうぞよいお年をお迎えください。
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書評『脳を休める』
もうすぐ「寝正月」に突入する方もいるかもしれません。その前に読むのも損はなさそうです。



「日々の眠りについて気にならないでいられるのは、よい眠りをしていられている証し」とよくいわれる。しかし、世の中の夜型化、過労、暮らしの中での刺激の増加などにより、人々のよい眠りは妨げられていく方向にあるようだ。

本書『脳を休める』は、睡眠について読者が思いがちな疑問に対して、一問一答のかたちでこたえていくもの。著者は、東京医科歯科大学大学院の精神科医で、付属病院での外来問診なども行っている、睡眠の研究と臨床の専門家だ。

質問は、たとえばつぎのようなもの。

「寝不足が続くと早死にする?」
「睡眠の90分サイクル説、信じていい?」
「なぜ、ひとは夢を見るのでしょうか?」

これらの質問に対する、著者は答は、「○」「×」そして、「まだわかっていない」。

まず、寝不足について。睡眠時間が短すぎる人も、ぎゃくに睡眠時間が長すぎる人も、なんらかの病気をもっているおそれがあり、これが死亡率の高さに関係しているのでは、という。ただし、睡眠の個人差は大きいもの。4時間の睡眠で平気な人もいれば、9時間眠らないと気がすまない人もいる。「自分に合った睡眠時間と睡眠スタイルを知り、それをキープするのが、長持ちのコツです」と著者は述べる。

また、90分で眠りの浅い深いの周期がくりかえすという説はよくいわれるもの。これに対しての著者の見解は「×」だ。「結論からいうと、このノンレム、レム睡眠サイクルがきっちり90分間隔で進むことは、ありえないといっていいくらい可能性が低い減少です」という。寝つくまでの時間、夜中のトイレの有無、パートナーのいびきなど、多様な眠りの環境をひとくくりにして「90分サイクル」とする説は乱暴すぎるようだ。

そして、「なぜ、人は夢を見るのでしょうか」という問いへの答えは「実はまだわかっていません」。睡眠の研究でわかっていることとわかっていないことを区分けして、わかっていないことについては、誠実に「まだわかっていない」と答える。睡眠の研究論文に幅広く触れ、また憶測よりも証拠を重視する著者の姿勢が見てとれる。

眠りについての悩みを抱えている人は、なにをすべきか。不眠、過眠、朝寝坊、睡眠時無呼吸など、悩みは様々だが、共通することは眠りを知るということのようだ。

「いちばん現実的なのは、睡眠に対する基礎知識、『睡眠リテラシー』を身につけることです。この本にも書いてありますが、光や体温、体内ホルモンのことを知るだけでもずいぶん違います」

一問一答のかたちで、肩肘はらず、眠りについてを再認識することのできる。「睡眠リテラシー」を高めるための入口にある本だ。

『脳を休める』はこちらで。
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2010年の画期的科学成果、2位以下は生命科学の成果が豊富

米国の科学雑誌『サイエンス』が選ぶ、「2010年の画期的科学成果」トップは、「初の量子機械」でした。では、ほかの10項目にどのようなものが上がっているのか、見てみます。

「自身でゲノムを形成」。分子生物学者のクレイグ・ベンターは、ヒトゲノム解読競争で、日米欧の国際プロジェクトに対抗してたたかった人物。そのベンター率いる、クレイグ・ベンター・インスチチュートの研究者らが、人工的にゲノムを合成し、それを細菌がもともともっていたDNAの代わりに入れました。

「ネアンデルタール人のゲノム解読」。ネアンデルタール人は、ヒト属の一種で、いまの人類であるホモ・サピエンスにもっとも近い種。2万年ほどまえに絶滅してしまいました。このネアンデルタール人のゲノムの3分の2ほどが再更生されました。いまの欧州人とアジア人の遺伝子の、1%から4%がネアンデルタール人の遺伝子から受け継いだものであることもわかりました。

「次世代ゲノミクス」。ゲノム関連の成果がつづきます。ゲノム解読の方法は進化し、それによる成果もあらわれています。例として記事に紹介されているのは、ヒトの「一塩基多型」の全確認。一塩基多型とは、DNAのなかの、ある塩基に複数の型があること。型のちがいは、突然変異ほど特殊でなく、「この型の人もいれば、この型の人もいる」といった程度です。「1000ゲノムプロジェクト」という国際研究コンソーシアムによるプロジェクトでは今年、新しく確認された850万個を含む1500万個の一塩基多型を確認しました。

「パワーアップした細胞初期化」。特定の器官に分化する前の状態に初期化 された「iPS細胞」(人工多能性幹細胞、Induced pluripotent stem cells)は、中山伸弥教授らにより開発されて以来、つくりかたで進歩しています。外部者として攻撃されることを防ぐよう合成されたRNA(リボ核酸、RiboNucleic Acid)を使って、細胞の初期化を行なわれ、従来より100倍効率的に初期化を行うことができるようになりました。

「異常な遺伝子をみつける」。低コストでヒトなどのDNAの塩基配列を決める方法と、ある機能をもったゲノムの1%の塩基配列を決める簡単な方法を組みあわせて、病気の原因となるDNAを見つけだす方法が開発されました。

「最初の重要な試験を通過した量子シミュレータ」。量子の特性を使うことで、膨大な量の計算を行うことが可能となります。「凝縮系物理学」とよばれる分野での問題をすばやく解決できることが確かめられました。

「分子動力学のシミュレーション」。タンパク質が折りたたまれるとき、100個のアミノ酸でなる単純なものでも、3の198乗とおりのたたまれかたになるといいます。これは、タンパク質を構成するアミノ酸の結合のしかたの多さがなすもの。この折りたたまれかたの過程を調べるための計算が、スーパーコンピュータで行われています。2010年には、低分子のタンパク質のなかの原子の動きを、これまでより100倍、追跡できるようになりました。

「帰ってきたラット」。実験動物のラットとマウスは、似て非なるもの。マウスに対しては特定の遺伝子を消すことのできますが、ラットにはできませんでした。ある遺伝子を働かなくさせた「ノックアウトマウス」は、よく聞きますが「ノックアウトラット」は聞きません。しかし、2009年にはジンクフィンガーヌクレチアーゼという酵素を使って「ノックアウトラット」が生みだされ、今年2010年には、突然変異をもったラットもつくられています。

「HIV予防」。エイズについての臨床試験で、2010年に2件、成功がありました。抗エイズウイルス薬の「テノフォビル」を含む膣ゲルを使うことで、エイズになる危険の高い女性のうち、30か月の間でエイズに感染する確率は39%も減ったのです。また、べつの試験では、テノフォビルとエムトリシタビンという薬の合剤ツルバダを毎日、使うように指導された被験者たちの群は、プラセボ群にくらべて、感染率が43.8%低くかったことが発表されました。

そして、「原油流出の真っ直中に飛び込む」。これは、科学者たちの奮闘による成果ということで、番外編といったところ。2010年にメキシコ湾でおきた原油流出事故に対して、科学者らが現地調査をすることを名のりでました。しかし、流出量の推定などをめぐり、事故を起こしたBP社と、科学者たちの見解が対立。さらに科学者たちのあいだでも、予備データの公表時期などについての対立が起きたといいます。それでも、科学者たちの奮闘は成果を上げているもよう。米国政府に収集された研究チームは、深海に分散剤を使う決定を認め、「この試みはうまくいったようである」と記事で評されています。

科学は、それを主張する科学者の立場などにより、答は大きく変わりうるものだということを象徴しています。

2010年は、生命科学の成果が多く扱われました。

『サイエンス』「2010年の画期的科学成果」の「自身でゲノムを形成」から「HIV予防」までの記事は日本語で全文が翻訳されています。こちら。
「原油流出の真っ直中に飛び込む」の日本語翻訳記事はこちら。
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2010年の画期的科学成果、トップは「初の量子機械」発明


米国科学振興協会が発行する科学雑誌『サイエンス』では、例年12月に発売の号で「今年の画期的科学成果」(Breakthrough of the Year)という特集が組まれます。

同誌は今年2010年12月17日、「2010年の画期的科学成果」を発表しました。今年は、2010年という節目ということもあり、ここ10年間の画期的成果をふりかえった「10年間の洞察」(Insight of the Decade)という特集も合わせて組んでいます。

「2010年の画期的科学成果」のほうは、例年どおり「第1位とほかの10個の成果」という形式。どのような成果がとりあげられているでしょうか。

まず、トップ扱いで「今年の画期的科学成果」と評価されたのは、「初の量子機械」(The First Quantum Machine)というもの。成果を紹介する映像では、米国カリフォルニア州立大学サンタバーバラ校のアンドリュー・クレランドと、米国イェール大学のジャック・ハリスという二人の物理学者に取材をしています。

「量子」とは、物理量の最小単位のこと。量子の量の増えかたや減りかたは、なめらかに増減するような坂道状のものでなく、いきなり量が増減する階段状のものです。このように、原子や分子の寸法の極微の世界では、日常、人が目にするのとまったく異なる現象が起きます。

今年、研究者たちによってつくり出された機械は、量子の理論による法則でしか説明がつかない様式で振動をするもの。機械が、古典的な物理法則による支配から、ついに抜けだしたといえそうです。

ふしぎな量子の世界では、ものは、ひとつのところにとどまらず、まったく同時にふたつのところに存在するというふるまいを示します。そのふるまいは、原子や分子などでは観察されてきました。しかし、人工的につくった機械で、このふしぎなふるまいを観察することはできませんでした。

人工的につくりだした量子のふるまいを見るには、「発振器」とよばれる極微のビームが必要です。しかも、その発振器ビームをエネルギーの最も低い「基底状態」という状態にしなければなりません。基底状態にするためには、発振器ビームの温度を摂氏マイナス273.15度、つまり絶対零度まで下げる必要があるとされてきました。

しかし、発振器ビームを絶対零度まで下げなくても、人工的につくりだした量子のふるまいを見られる方法があったのです。それは、窒化アルミニウムという物質で「ダイビングボード」という板状の素子をつくるというもの。

ダイビングボードが、毎秒60億の周期というとても細かい振動を起こします。すると、ある特殊な状態をつくりだすことがあります。この特殊な状態のなかで、「位相量子ビット」とよばれる電子素子を操作することにより、絶対零度まで行かなくとも、数百分の一度まで冷却すれば、基底状態をつくりだすことができることがわかりました。

『サイエンス』は、「これを何に利用できるのか。基礎研究では、単純な量子機械により超高感度の力検出器を作ることや光の量子状態を生成することが可能である」と、この研究成果を評し、さらに「自動車や人はなぜ同時にふたつのわずかに異なる場所に存在できないのか。何かの原理がそれを禁じているのか」といったことを確かめる方法につながるともしています。

『サイエンス』「2010年の画期的科学成果 初の量子機械(The First Quantum Machine)」の記事はこちら(英文)。
日本語にも翻訳されています。こちら。

あすは、これ以外の2010年の「画期的科学成果」を紹介する予定です。
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書評『動物たちはなぜ眠るのか』
動物たちの寝姿から、自分自身の眠りを考えるのもよいかもしれません。



睡眠は脳や体を休めるためにあるという。人は、天動説よろしく、つい自分たち人間の眠りを“眠りの標準”として位置づけてしまいがちだ。だが、大脳が発達しすぎたヒトという種の眠りは、むしろ動物のなかでは特殊なのかもしれない。

本書『動物たちはなぜ眠るのか』は、睡眠研究者として有名な著者が、動物の睡眠に対する自他の研究成果から、さまざまな動物の眠りの特徴をつづったエッセイだ。「キアゲハとベニシジミ」「ヒキガエル」「ツバメ」「コアラ」「アフリカゾウ」などのように項目ごとに動物が登場し、その“寝姿”や“寝相”を著者が解いていく。

寝るときの姿勢、脳の休めかた、睡眠時間などは動物によってさまざまだ。

たとえば、人間とおなじ哺乳類であるコウモリは、洞窟の天上などにぶら下がったまま眠る「懸垂型」の寝相。これは、脊椎動物としてはたいへんに珍しいものだという。

また、ツバメやイルカなどは、人間にはできない「半球睡眠」という眠りかたをする。右脳と左脳のうち、半分だけを休ませることで、眠りながらも活動することができるという。「自分もそれができれば」と思う人間は多いことだろう。

睡眠時間でいえば、百獣の王ライオンやトラなどは、生態系の頂点に位置するため“敵”がおらず、眠りも長い。いっぽう、アフリカゾウなどは、巨体の活動を支えるためにつねに食べていなければならず、睡眠時間はとても短いという。

著者は、「眠ることとは筋肉をゆるませる、意識レベルを下げる、栄養補給を断つなどの危険を伴う“命がけ”の行為です」と話す。自分たちの生活環境や自分たちの生体の特性に見合うかたちで生きるために眠りの戦略をとった。その結果が、動物たちは眠りの多様性をもたらしたのだろう。

各項目にはかならず動物の寝姿の写真が飾られている。木の上で目をつぶっていうつらうつらしているコアラ。粘液の“寝袋”に包まれて体を休めるブダイ。これらを見るだけでも癒されるだろう。

『動物たちはなぜ眠るのか』は、こちらでどうぞ。
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「劇的な人生に鮮やかな言葉」


『文藝春秋』の2011年1月号では、「弔辞 劇的な人生に鮮やかな言葉」という特別企画が組まれています。

タモリさんから育ての親だった赤塚不二夫さんへ、物理学者の小柴昌俊さんから弟子だった戸塚洋二さんへなど、46の弔辞が全文掲載されています。逝った人と、残った人の、心の通じ合いがわかる46編です。

弔辞とは、人の死をとむらい哀悼する心を表した文章のこと。日本の仏式の葬式などでは、生前とくに親しかった友人や弟分・兄貴分などが、参列者の前で読みあげます。

故人の生前の行いを讃え、故人との生前の思い出を語り、そして故人との別れを告げる。語りかける故人のよびかたは「誰々君は」や「君は」といった二人称です。

世界じゅうの葬式で、このように、誰かが故人に語りかける弔辞の儀式が行われているのかというと、そうではありません。

キリスト教式の葬儀では、日本の仏式の葬式にあるような、故人に語りかけるかたちでの弔辞はあまりないといいます。これは、キリスト教では葬儀の本来的な位置づけは、死者との別れというよりも、神の栄光を賛美するためのものだからだそう。

プロテスタントの葬儀では、教義を厳格にあてはめると、故人の生前の人柄や功績を讃えることは許されないという解釈も。カトリックの葬儀ではそれほど厳密ではないものの、弔辞を述べる人は故人に向かって話すのでなく、葬儀の参列者に向かって話すことが多いようです。ただし、雑誌などで故人を偲び讃える追悼記事や表現記事は、欧米でもよく見られます。

もっと厳しいのはイスラム教。キリスト教とおなじく、厳格な一神教でもあります。イスラム教では、生者が死後の世界に干渉することはできないとされているため弔辞はありません。さらに、死者の供養をすることもできないため、弔意を示すための儀式もほぼなく、死者を土葬した場所さえ、時が経てばわからなくなることも多いといいます。

いっぽう、儒教の思想が強い日本や韓国では、故人が語りかける弔辞が行われます。無宗教の葬式のときも、弔辞はしばしば行われます。生の世界で生き残った人々は、弔辞を発し、弔辞を聞くことで、亡き人との別れの区切りをつけるのです。

『文藝春秋』2011年1月号のおしらせはこちら。

参考文献
副田義也『死者に語る 弔辞の社会学』
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書評『中国コピー商品対抗記』
“偽ドラえもん”や“偽ガンダム”で失笑を誘っている中国。しかし、笑い話だけではすまされない「コピー商品市場」という世界があります。



「郷に入っては郷にしたがえ」ということわざがある。その土地の風習にしたがうのが処世のしかただということだ。

しかし、「郷に入っては郷にしたがえ」とはいっていられないこともある。

日本のメーカーがつくった商品を、中国のメーカーが断わりもなく堂々とコピーして、日本メーカー製を装って売る。いわゆるコピー商品が中国を中心に出まわり、日本に輸入されたりもしている。日本の企業は、日本でのもののつくりかたや売りかたがある。中国でのコピー製品を数々を前に「郷に入っては」といっても、ただたじろいでしまうだけだ。

本書『中国コピー商品対抗記』は、そんな中国でのコピー商品づくりやコピー書品売りの実態を赤裸々に紹介したもの。著者は、日本の大手や中小のメーカーなどを渡りあるいてきた人物とのこと。「自分が開発に携わった製品でコピー商品が造られ、被害に遭ったことが何度も」あるという。情報の機密保持が重要だからか、本名などは伏せている。

“日本では非常識、でも中国では常識”といった事例を、経験談のかたちでつぎつぎと紹介していく。コピー商品に関わる中国人から聞き出した声は生々しい。

たとえば、著者が手掛けたDVD再生機部品に対して、中国のDVD再生機メーカー担当者から、読みこめないような海賊版DVDにも部品を対応させてほしいと注文を受けたという。それでも著者は驚いたが、担当者と面と向かって話していると、ことまで言われたという。

「御社の競合メーカーのユニット部品は、条件の悪いDVDで御社の製品より2秒も長く読むことができました。つまり、それだけ御社よりも粘り強いユニット部品を造っているということです」

海賊版であるという違法行為を当然のこととして、それでも製品の品質を高めなければDVD再生機は売れない、という現状があるわけだ。

また、あるメーカーのつくったブレーカが、コピーされて中国の店先に並んでいたという。メーカーの担当者が、店主に問いつめると、店主からこう言われた。

「私は、何度も何度もあなたと価格交渉をしたはずです。でも、全然価格を下げてくれない。この製品(コピー商品)は、あなたのところよりも3割で仕入れることができるんですよ。お客さんには同じ価格で売れるんだから、より安い製品を仕入れるのが、ビジネスとして当たり前じゃないですか」

これが、中国では当たり前。「郷に入りて」では、やっていけそうもない。

このような現状があるいっぽうで、著者は、「『日本メーカーの技術者はあまり危機感を持っていない』というのが、私の正直な感想です」と述べる。

地震や火事とおなじようなもので、日本のメーカーは、実際の被害に遭わないと、コピー商品の問題をなかなか意識しはじめないのかもしれない。被害に遭っていることさえ知らないでいる企業も多いのだろう。

著者は長年、中国のコピー商品メーカーと接触してきた。また、勤務先の日本企業でも、かならずしも上役や会社側との関係は円満だけというわけではないようだ。そのあたりが、著者の視点の客観性を保たせている。むしろ、コピー商品メーカーから日本企業は見習うべき点さえあるという。

―――――
日本メーカーが中国のコピー商品メーカーから学ぶべき点は、「人にもっと投資すべき」ということではないでしょうか。
(略)
中国のコピー商品メーカーは、投資の回収を素早くする要素が「人」であると認識しています。同じ資材を投入しても、回収効率は人次第で大幅に変わってしまうからです。そのため、人に対する投資のウエートが非常に大きいのです。
―――――

経験談が“主”で、ノウハウは“従”といった位置づけなので、体系的に模倣品対策を勉強するという点ではやや不向きかもしれない。だが、生々しい経験談は、“疑似中国体験”をするに余りあるほどだ。

『中国コピー商品対抗記』はこちらでどうぞ。
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束ねて、入れて、外して、届ける。


各地の郵便ポストで年賀はがきが受けつけられています。(2010年12月)25日(土)までに年賀はがきを投函すれば、全国どこでも翌2011年1月1日に届くようです。

ポストによっては、「年賀郵便」「一般の郵便」のほか、「年賀はがきは輪ゴムで束ねてご投函ください」の注意書きが見られます。ていねいに「年賀はがき用輪ゴム入れ」まで用意されています。

輪ゴムまで用意されていたら、輪ゴムで束ねて投函しないわけにはいきますまい。

では、年賀はがきを輪ゴムで束ねて投函することの、郵便局側の利点はどこにあるのでしょう。

ある人が年賀はがきを50枚書いて、輪ゴムで束ねてポストに投函したとします。この束ねられた年賀はがき50枚は、おなじ宛先の人に50枚届くわけではありません。

なので、結局は輪ゴムを外さなければなりません。この時期の臨時アルバイト職員などによって外され、それから住所ごとに分けられていくことになるのでしょう。

輪ゴムを外すときの手間はかなりなものになることが考えられます。国民の半分の6000万人が年賀はがきを輪ゴムで束ねたとします。そして、郵便局の職員が輪ゴムを3秒かけて外したとします。

すると、すべての輪ゴムを外すのにかかる時間は1億8000万秒、つまり5万時間となります。郵便局の臨時アルバイトの時給が800円だとすると、4000万円が輪ゴム外しに費やされることになります。再利用できるとはいえ、輪ゴムを用意する費用も相当なものになるでしょう。

そこまでお金をかけるからには、なんらかの利点があるのでしょうか。

郵便局は、つぎのように説明します。「ふつうのはがきと、年賀はがきをわける作業のときに、輪ゴムで止めてあると便利なので、郵便局によってはそのようにしているのだと思います」。

上の写真にもあるように、多くの郵便ポストでは、二つの投函口があり、年末年始はいっぽうが年賀郵便、もういっぽうが一般の郵便の口になっています。

しかし、郵便局によってはこの時期、ふつうのはがきと年賀はがきが混ざってしまうことがあるということになります。もし、投函する側に問題があるとすれば、「一般の郵便」の口のほうに年賀はがきを入れてしまったり、逆に入れてしまったり、といったことが考えられます。

年賀はがきが前年末に届いてしまい、信頼を損なわないようにするための輪ゴム作戦。過誤を防ぐための費用の付いた“安全輪ゴム”といったところでしょうか。
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根ぶかい模倣品問題、重なる常識のずれ
 「模倣」ということばがあります。自分で創りだすのでなく、すでにあるものをまねてならうこと。

なにかを学ぶとき、模倣は欠かせないほど大切といわれます。いっぽうで、独創的につくったものを広めようとするとき、模倣があるとその妨げとなってしまいます。

ある人が独創的につくったものをべつの人に模倣されて、従来入るはずの利益を奪われてしまう、模倣品の問題や被害はよく話題になります。

とりわけ、多くの人は「日本の商品が模倣されるのは中国で」という印象を報道をとおして強めていることでしょう。

日本政府が開いている模倣品・海賊版対策総合窓口への相談件数では、中国関連のものが52.5%と過半数。日本国内の19.0%や台湾の12.3%を大きく引きはなしています。予想にたがわぬ結果といえそうです。

そもそもなぜ、日本人から見たところの模倣品の問題が多く起きるのでしょうか。そこには、日本と中国との意識のちがいなどが、階層ごとに重なっているということがありそうです。

まず、政府としての模倣品の取り締まりかたへの意識。行政の模倣品に対する取りしまりは、全般的に日本より中国のほうがゆるい傾向があります。

取締をする行政当局は、民家に立ち入って捜査をする権限を原則的にもっていません。そのため、模倣品業者は工場でなく、マンションや民家のなかにこもって作業をすることが増えているといいます。

また、5万元、日本円で75万円ほどを超えない模倣品は、刑事罰の対象にはなりません。そのため、業者にとってみれば、一品ずつの在庫量や販売量を小さく細切れにしておけば、刑事罰を受けることは免れることができるわけです。

さらに、地方で取りしまりでは、模倣品業者が摘発を受けてから逃亡すると、逃亡者には処罰をくださなくなる当局や、結果、処罰の決定がなされていないために再犯行為と見なさない制度などがあります。

まず、商売をする業者の意識も日本とは相当ちがいます。

模倣品をつくればそれは当然、行政上の違反行為として罰せられるわけです。日本では、処罰を受けることは恥ずかしいこととして、極力、罰せられないようにすることでしょう。

いっぽう、中国では模倣品業者などが行政罰を受けたとしても、「ビジネスで失敗した」「ビジネスコストを損失した」といった程度の意識にしかならないといいます。

そもそもの根本的な考えかたからして、大きく日本と中国では異なっています。べつの常識がある人に、自分たちの常識を理解して、さらに遵守してもらうというのはかんたんなことではありません。中国での模倣品問題には根ぶかさがあります。

参考文献
政府模倣品・海賊版対策総合窓口 2010年6月「模倣品・海賊版対策の相談業務に関する年次報告」
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真夜中の“ドーバー海峡”を歩く(後編)
真夜中の東京大学“ドーバー海峡”ツアーは、半分をすぎました。後半の航海へようこそ。

左の石垣は弥生キャンパス。歩道に看板が立っています。看板には「『弥生式土器』の発見地」という見出しにつづいて、つぎのような解説文が。

―――――
「弥生式土器」の発見
明治十七年、東京大学の坪井正五郎、白井光太郎と有坂鉊蔵の三人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼の壺を発見した。これが後に、縄文式土器と異なるものと認められ、町名をとり「弥生式土器」と命名された。

発見地はどこか
「弥生式土器」の発見地は、その後都市化が進むなかで、はっきりしなくなり、謎とされてきた。指定地としては、次の三か所が指摘されている。
(1)東京大学農学部の東外側(サトウハチロー旧居跡付近)
(2)農学部と工学部の境(現在地付近)
(3)根津小学校の校庭内の崖上
―――――

(1)なら、発見地は弥生キャンパス。(2)なら弥生キャンパスと本郷キャンパスは五分五分。(3)ならどちらかというと、弥生キャンパス寄り。どちらかというと、弥生キャンパスよりが発見地である可能性が強いわけです。そんなこともあり、この看板は弥生キャンパス側の歩道に立てられたのかもしれません。

都営バス「弥生二丁目」のバス停付近。奥は農学部のある弥生キャンパス。急に、キャンパス内の景色が開けます。アジア生物資源環境研究センターの敷地。

東京は坂の街。“ドーバー海峡”には高低差もかなりあります。道路標識は、直進が「言問橋 鶯谷」、右折が「上野」、左折が「千駄木」。

ここは「弥生二丁目」。奥には、石柱と鎖。その奥には石碑が。

石碑には「弥生式土器発掘ゆかりの地」の文字。「発掘の地」でなく、「発掘ゆかりの地」。前編で紹介した「弥生式土器の発見地」という見出しがついた看板が弥生キャンパス側にあるのとは対照的に、この石碑は本郷キャンパス側にあります。

本郷キャンパス側には、つづいて「浅野キャンパス」という敷地が。「工学部9号館」や「武田先端知ビル」といった建物が入った、おもに工学部の敷地です。自転車がたくさん置かれ、奥の建物の入口には明かりが。耳を澄ますと「シューッ、シューッ」という実験機器が稼働している音が聞こえてきます。

時刻は日付が変わるころ。にもかかわらず、“ドーバー海峡”には東京大学の学生や若手研究者とおぼしき人たちの行き来する姿がたえません。

農学部も工学部も、どちらも徹夜での作業が続いているようです。了。
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真夜中の“ドーバー海峡”を歩く(前編)
東京・文京区の東京大学には、理学部や工学部などがある本郷キャンパスと、農学部のある弥生キャンパスがあります。このふたつのキャンパスは、「言問通り」という通りをへだてて向かいあっています。

東京大学の研究者や学生たちは、この通りのことを、英国・フランス間の海峡よろしく“ドーバー海峡”とよびます。

言問通りの実際の道幅は10メートルほど。かたや、本物のドーバー海峡の幅は、もっとも狭いところでも34キロメートルほど。

ドーバー海峡の幅に匹敵するほど、本郷キャンパスにある工学部・理学部と、弥生キャンパスにある農学部は疎遠で、交流がない。そんな揶揄を込めて、人々は“ドーバー海峡”といっているのです。

両キャンパスを分ける“海峡”とはどんなものか。真夜中の“ドーバー海峡”ツアーに出発。

本郷通りと言問通りが交わる「本郷弥生交差点」が出発点。「言問通り」は、東京・台東区の言問橋まで至ります。「言問」の名の由来は、平安時代の歌人・在原業平(825-880)が京から左遷されて隅田川までやって来たときに詠んだ歌から。

「名にしおはば いざ言問はむ都鳥 わが思う人は ありやなしやと」
(そんな名前をもつならば、さあ聞いてみよう都鳥。わが思う人は元気かどうか)

本郷弥生交差点。奥が言問通り。右側が本郷キャンパス側。左側が弥生キャンパス側。角には交番。もともとは農学部正門横にあったそうです。

こちらは、工学部・理学部などがある本郷キャンパスの垣根。古風な赤れんが風情で、趣があります。

対してこちらは、農学部がある弥生キャンパスの垣根。均等な格子模様のれんが風情。

言問通りの都営バス停留所。「東大農学部前」。おそらく「東大工学部・理学部・法学部・文学部前」と名づけるより都合はよいのでしょう。奥は本郷キャンパス内の工学部5号館。日付が変わろうとするなか、部屋の明かりが灯っています。

通りをしばらく進むと、歩道橋が。この歩道橋は、左手の弥生キャンパスと、右手の本郷キャンパスを結ぶもの。“ドーバー海峡”に掛けられた橋です。

弥生キャンパスの総合研究棟前。

弥生キャンパス内。中央に見えるのは階段。2枚上写真の歩道橋へとのぼっていく階段です。

歩道橋へのぼっていく階段を下から。

階段を上り、先ほどの歩道橋の上へ。左が農学部のある弥生キャンパス。右が工学部・理学部などのある本郷キャンパス。

歩道橋から下りて、ふたたび“ドーバー海峡”へ。公衆電話の先はY字路に。右へ折れると、本郷キャンパスの「弥生門」に至ります。

ツアーは、このさき左の道を進むことにします。つづく。
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“光の網”は東アジアに集中
人々の福祉や経済発展のための基盤をインフラストラクチャーといいます。インフラストラクチャーひとつに、「FTTH」や「FTTB」とよばれるものがあります。

どちらも、光ファイバに関係するもの。

FTTHは、“Fibre-To-The-Home”の頭文字をとったもので、インターネットやケーブルテレビなどで使う光ファイバを使用者の自宅まで引きこむことを意味します。

また、FTTBは、“Fibre-To-The-Building”の頭文字をとったもので、光ファイバを集合住宅やビルまで引きこむことを意味します。FTTBでは、建物に入ってからの情報通信は、従来のメタル線を使った電話回線によるものとなります。

FTTHやFTTBなどのサービスを最初にはじめた国は、日本です。2003年から、NTT東日本・西日本やKDDIなどが始めました。いま、このブログを「フレッツ光」などの光回線で受信して読んでいる方も多いことでしょう。

その後、米国や中国が2005年から、韓国が2006年からFTTHのサービスを始めています。

世界のさきがけである日本は、FTTHとFTTBを合わせた契約者数も世界一。2008年末で、1445万7000件の契約件数があり、これは韓国675万7800人の2.1倍以上。米国399万2000人の3.6倍以上となっています。


仏IDATE社調べ。2008年末

いっぽう、もうひとつべつの観点からFTTHとFTTBの普及状況を見てみると、この順位は変わってきます。

世界の国々や地域は人口もまちまち。そこで、人口を契約数で割り、「何人に1件の割合で契約されているか」を見てみるとどうなるでしょう。

各国の人口はいずれも2008年現在。国際貿易投資研究所 国際比較統計による。ただし、スウェーデンと香港の人口は、国際通貨基金“World Economic Outlook”による

順位は大きく変わってきます。人口あたりの契約件数が最も多いのは、日本を抜いて韓国となります。韓国では、国策として政府がインターネット網の充実をはかっている点や、都市に人口集中していて、かつ集合住宅が多い点などが、普及の原因になっています。

韓国、日本、香港、台湾といったようにアジアの国と地域が上位を占めるなかで、スウェーデンは第4位。スウェーデンは国内の新幹線鉄道網に無線LANサービスを提供するなどしており、「インターネット最先端国」ともいわれています。

全体的に見ると、光ファイバの普及は、東アジアで進んでいることがわかります。国土面積が狭い割には人口が多いという点は、通信網の整備には有利なのでしょう。

参考文献
富士キメラ総研 2008年10月9日「世界の光通信関連市場の調査を実施」
情報通信研究機構パリ事務所「欧州における超高速通信網の普及状況及び政府等による普及支援の仕組み、並びに超高速通信に関する最新技術研究の展望に係る調査」
| - | 23:59 | comments(0) | -
『こんなによくなる!糖尿病』発売


新刊のおしらせです。

『こんなによくなる!糖尿病 驚きの「インクレチン」新薬効果』という本が、朝日新聞出版から(2010年)12月17日(金)出版されました。著者は、HDCアトラスクリニック院長の鈴木吉彦さん。

この本の編集協力をしました。編集協力とは、本づくりで原稿を整理したり、挿入する図版の提案をしたりする作業のことです。

生活習慣などが原因でおきる糖尿病に対して、「インクレチン」という物質の効果を発揮させる新薬が日本で使われはじめています。その新薬のうち、「DPP-4阻害剤」という薬を中心に、効きかたのしくみや、効き目の程度などを紹介する本です。

人は食事をすると、糖を血液なかにたくさん貯めこみます。しかし、糖が血液のなかに増えすぎるのはよくないこと。そこで、膵臓のβ細胞という細胞からインスリンというホルモンを分泌して、血液中の糖が細胞のなかにしまわれるようにはたらきかけます。

生活習慣などでおきる糖尿病は、膵臓のβ細胞からインスリンがあまり出なくなったり、血液中の糖が細胞にしまわれなくなったりする病気です。ほおっておくと、神経障害、網膜症、腎症といった深刻な病気に発展します。

糖尿病に対して、新しい薬が使われはじめました。

人の小腸を食べものが通過すると、小腸からインクレチンという物質が出ます。この物質は、血液中の糖の量が多くなっているとき、膵臓のβ細胞に「インスリンをもっと出しましょうよ」とはたらきかけます。

しかし、インクレチンはとてもはかない物質。膵臓から出てきた直後、DPP-4(Dipeptidyl Peptidase-4)という別の物質により分解されてしまいます。

インクレチンは糖尿病を抑えるのにプラスとなるすぐれた作用をもっていながらも、DPP-4のしわざですぐに消えてなくなってしまうのです。

インクレチンをすぐに消しにかかるDPP-4をはたらかなくさせる薬が、「DPP-4阻害剤」です。インクレチンが力を発揮することで、糖の量が多くなったときインスリンがよく出るようになるほか、インスリンの生産工場であるβ細胞を増やしたり、食欲を抑えたりする効き目があります。糖尿病を抑えるのにプラスの作用がいろいろと発揮されるわけです。

インクレチンには、血液の糖の量がすくないときはあまりはたらかないという特徴もあります。このため、これまでの糖尿病薬の大きな課題だった血糖値の“下がりすぎ”に対する心配もすくなくなります。

DPP-4阻害剤は、2009年から日本で販売がはじまりました。著者の鈴木さんは、糖尿病の専門医として、クリニックに通う患者さんにDPP-4阻害剤を処方してきました。本では、その効果のほどをデータを紹介しながら解説します。

著者の鈴木さんは、「『真の意味で糖尿病を治療できる時代が始まった』という実感を得た」と述べています。

「不治の病」ともいわれてきた糖尿病に、DPP-4阻害剤がどれだけ斬りこむことができるか。これからも糖尿病専門医などがデータを積みかさねていくことにより、効果のほどが詳しくわかっていくことでしょう。新薬への期待が高まっています。

『こんなによくなる!糖尿病 驚きの「インクレチン」新薬効果』はこちらでどうぞ。
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『生と死の倫理』を読みなおす(4)新しい戒律



ピーター・シンガーの著書『生と死の倫理』の第三部は、「第九章 旧来の倫理に代えて」という1章分のみでなりたちます。

この最終章で、著者シンガーは、生命をめぐる五つの戒律について、古いものを新しいものに変えるべきだといいます。古い戒律を通しつづけようとしても、いまの時代には無理がおきるからです。

古い戒律と新しい戒律とは、つぎのようなものです。

―――――
第一の古い戒律   人命をすべて平等の価値を持つものとして扱え。
第一の新しい戒律 人命の価値が多様であることを認めよ。
―――――

新しい戒律の「人命の価値が多様であることを認めよ」とは、意識のない命はまったく価値のないものだということを認めるということです。意識がない存在は、楽しもうとする意思も、生き続けようとする意志もないからといいます。

―――――
第二の古い戒律  罪のない人間の生命を決して意図的に奪うな。
第二の新しい戒律 決定したことの結果に責任をもて。
―――――

「決定したことの結果に責任をもて」とは、罪のない人間の生命を意図的に奪えるようにする代わりに、そのような判断をしたことについての責任はもつべきだとするもの。おもに医師に向けられています。「患者の生命を終わらせると予見される決定が、あらゆる事柄を考慮に入れたうえで、正しい決定であるかどうか」を医師は問わなければならないとしています。

―――――
第三の古い戒律  あなた自身の生命を決して奪うな。人が自分の生命を奪うことをつねに阻止するよう努めよ。
第三の新しい戒律 生死に対する個人の欲求を尊重せよ。
―――――

「生死に対する個人の欲求を尊重せよ」は、キリスト教では罪にもなる自殺という行為の権利を認め、医師が自殺を助けることも認めるべきだとするものです。

―――――
第四の古い戒律  産めよ増やせよ。
第四の新しい戒律 望まれた子どもだけを産め。
―――――

「望まれた子どもだけを産め」では、受精直後の胚には人格はなく、肺を傷つけたとしても苦しみを与えることはできないため、胚を殺すことは不正ではないと主張します。

―――――
第五の古い戒律  すべての人間の生命を人間以外の生命よりつねに価値があるものとして扱え。
第五の新しい戒律 種の違いを根拠に差別するな。
―――――

「種の違いを根拠に差別するな」は、「人間だから」「動物だから」ということで扱いかたを分けへだてすべきでないということです。そして著者シンガーはべつの分けへだての尺度をもちだします。それは「意識があり、痛みを感じることができるか」「意識がなく、痛みを感じることができないか」といったものです。

これらの新しい戒律を示しながらも、著者シンガーは「だからといって、不可逆的に意識を失った患者の生命を終わらせる決定が簡単であるとか、機械的に行われるということにはならない」と述べます。

残された患者の意思決定を重視すべきであり、その前提にたって新しい取り組みかたをあてはめれば、意識を取り戻すことのない子どもや患者に対してうまく対処することができるといいます。

注意すべきは、著者シンガーの示した「新しい戒律」は恒久的なものではないということです。シンガー自身も、「新しい戒律を石に刻まれたものと受け取らないようにしてもらいたい」と述べ、本の原題にある「再考」(Rethinking)をつねにすべきであるとしています。

『生と死の倫理』に示されている新しい戒律は、すでに社会が受け入れ始めているものもあります。一部の国や地域で行われている安楽死や、日本でも行われている尊厳死は、第三の新しい戒律「生死に対する個人の欲求を尊重せよ」を具現化したものといえます。

いっぽうで、これらの戒律がしめされたとしても、多くの人びとのなかに“違和感”や“わだかまり”や“不納得感”が残ることもつづくことになるのでしょう。意識ある人間は、理論と感情のあいだで生きていることを日々、感じています。了。

ピーター・シンガー著『生と死の倫理』はこちらで。
| - | 19:09 | comments(0) | -
書評『行基』
謎も多い奈良時代の僧を紹介する本です。


1300年前に奈良時代は始まった。奈良時代の歴史を追うと、元明天皇、桓武天皇、聖武天皇といった天皇一族と、藤原家などの公卿の名が並ぶ。

奈良時代は、刑法と行政法を基本とする律令制度の国家が本格的に成立した時代でもある。その律令制度は国家の支配者により確立されたという印象は強い。

しかし、ある“民間人”が律令制度の確立に大きく寄与したとする話もある。畿内・河内出身の僧である行基(668-749)こそが律令国家成立の立役者であるという説だ。

日本最古とされる地図「行基図」にも名の付く行基。聖武天皇の発願で行われた大仏造営を推進する「勧進」としての業績でも知られる。だが、出生や業績などの点では謎も多い。

本書『行基』は、行基研究者の一人である井上薫が1959年に著したもの。行基の出自、出家、地域開発事業、同時代の政治、大仏造営、東大寺建立など、行基に関わる史実と、資料をもとにした著者の推論が書かれている。

律令制は、民衆に収奪を強いる制度でもあった。役民は京に向かうよりも帰途のほうが餓死者が多かったという。役民が京までたどり着いて役目を果たせば、あとは政府から無雑作に扱われるのみだったからだ。

奈良時代は想像以上に厳しい時代だったのかもしれない。そうしたなか、行基は民衆にとって威光を放ちつづける人物だったのだろう。行基の生前や死後を伝えた文献が紹介されている。

日本の8世紀の歴史を記した『続日本紀』には、行基の記述も多い。

―――――
 都鄙に周遊して衆生を教化す。道俗、化を慕ひて追従する者、動もすれば千を以て数ふ。所行の処、和尚の来るを聞けば、巷に居人なく、争ひ来りて礼拝す。器に随ひて誘導し、咸く善に趣かしむ。
―――――

行基の業績は大仏造営への寄与だけではない。社会福利のため畿内の地域開発で、数多くの業績をあげた。

行基の死から400年ほどのちの1157(安元元)年、泉高父宿弥により記された『行基年譜』には、行基の地域開発の業績が記されている。行基が築いたとされる架橋、直道、池、溝(水田用貯水池まで引く水路)、樋(水を送るためにかけわたした管)、船息(船舶施設)、堀、布施屋などの個数と場所が記されている。

行基は49の布施屋、つまり宿泊所を開いたともいわれる。伊丹地方の昆陽池の近くには「昆陽施院」を開いた。

―――――
この道場が単に昆陽院とよばれずに昆陽施院とよばれたのは、布施屋のほかに身うちのない人を収容する悲田院的施設があったからで、その施設の経営に孤独田の収穫があてられたのである。
―――――

大仏造営は行基72歳のとき。畿内の地域開発という国家事業を遂げてきた行基にとっては、大仏づくりへの加担はちょっとした仕事にすぎなかったのかもしれない。

ときに為政者は行基の行いに警戒をし、行基を敵視することもあった。「小僧行基」といわれ蔑まれることもあったという。しかし、やがて「行基菩薩」と評されるようになる。

「彼の思想や立場が根本的に変ったのでなく、変ったのは政治・社会の情勢や、官の行基観である」という著者の言葉が印象的だ。

『行基』の書籍情報はこちらです。
| - | 23:26 | comments(0) | -
『生と死の倫理』を読みなおす(3)「人命の神聖性」より「生命の質」


ピーター・シンガーの著書『生と死の倫理』の第二部には「伝統的死生観の崩壊」という題がついています。第二部では、中絶のありかたや、中絶を受けた胎児の扱いかたといった、これまた重い主題が中心になります。

「第五章 不確実な始まり」は、妊娠中絶に対する賛成と反対の論争の歴史を紹介します。そのうえで、著者シンガーは、中絶に反対する人たちに胃を唱えます。

著者シンガーは、中絶反対論者の論を整理します。

―――――
中絶反対論を形式的な議論として述べれば、次のようになる。
  第一前提 罪のない人間の生命を奪うことは不正である。
  第二前提 受精の瞬間以降、胚もしくは胎児は罪のない生きた人間である。
  結論   胚もしくは胎児の生命を奪うことは不正である。
―――――

著者シンガーは、中絶反対論者のこの論を認めながらも、中絶問題をめぐる全体的な解決策として、「第一前提を疑うべきである」と述べます。そして「『どうして人命を奪うことは不正なのか』と問わなければならない」と述べます。この問題的で、人命を奪うことの是非をめぐる主張は始まりました。

「第六章 生命の質にもとづく判断をくだす」では、米国で生まれた「ベビー・ドゥ」とよばれる赤ちゃんについての事例を紹介します。

「ベビー・ドゥ」は、ダウン症として生まれ、食道が正常にかたちづくられなかったためミルクが胃まで届きません。医師と両親は、「痛みを取り除く薬だけを与える」という治療方針に達しました。

しかし、全米社会はこの医師と両親の方針に対して「赤ちゃんを死ぬままにまかせるのか」と批判しました。

さまざまな議論の末、時のレーガン政権下の保健社会福祉省は、つぎのような規則を提案しました。「生まれつき致死的状況の乳児の死に行く過程を一時的に引き延ばすに過ぎない無駄な治療を教養するものではない」。

レーガン大統領は、あらゆる命は救われなければならないとする「生命の神聖性」をはじめは主張しながら、結局、その命がおかれた状況により命を救うかどうかを決める、「生命の質」にもとづく判断を重視せざるをえませんでした。著者シンガーはこう表現します。

―――――
「生命の神聖性」の倫理と「生命の質」の倫理のいずれかを選択しなければならなくなったとき、きっぱりと後者が選択されたのである。
―――――

「第七章 死を依頼する」は、安楽死を扱った章です。とくに、安楽死を国の方針として認めているオランダの状況を紹介します。

オランダで1971年、ある医師の母親が脳出血を起こしました。母は「自分の命を早く終わらせてくれ」と子に懇願します。子は医師であり、母の懇願に応じて母にモルヒネを注射し、安楽死させました。この医師は逮捕され有罪となりましたが、「1週間の執行猶予つき」という極めて軽い刑でした。

事件後、オランダでは「自分もおなじ行為をしたことがある」と告白する医師が相次ぎました。このモルヒネによる安楽死と、その後の医師たちの告白などのできごとが、オランダにおける安楽死の道を開くきっかけになったといいます。

著者シンガーは、安楽死をめぐる反対派の最も強力な主張は「滑りやすい坂論」であると述べます。これは、いちど歯止めがきかなくなると、ものが坂を滑りおちていくように拡大解釈がとられていくというもの。

この「滑りやすい坂論」に反論すべく、シンガーは「オランダでの調査から、何かが『次第に増えてきている』ことを証明しうるようなものはない」と述べています。そして、こう予測します。

―――――
何よりも確かなことは、一〇年も経てば――あるいはもっと早くかもしれないが――オランダ以外にもいくつかの国の国民が、オランダにならって自分の死に方をコントロールする方法を見つけるだろう、ということである。
―――――

なお、2010年現在、安楽死は、オランダのほか、スイス、米国(オレゴン州、ワシントン州)、ベルギー、ルクセンブルクで認められています。

「第八章 『種の不連続性』という考えを越えて」は、著者の根本的な思想が最も色濃く出ている章でもあります。それは、動物も人間とおなじ条件で生存権をあたえるべきだとするもの。

かつての西欧社会では、「神が人間という特別な存在をつくった」という話が常識になっていました。しかし、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』出版以降、人間も動物も科学的にはおなじ「いきもの」であり、なんのちがいもないということがわかってきました。

この科学的な流れから、著者シンガーはつぎのように強く主張します。

―――――
人間に生存権があると主張する一方で、その人間と同じか、あるいはそれ以上の特徴や能力を持っている動物に生存権を認めないことはきわめて困難になるだろう。
―――――

『動物の権利』や『動物の解放』といった著書を出す著者シンガーの特徴的な主張といえます。

第二部でも、著者シンガーの主張で一貫しているのは、「人命の神聖性」を捨てて、「生命の質」を考えるべき時代になったのだということです。ここまでの章を踏まえて、シンガーはいよいよつぎの、第三部で結論を述べます。つづく。

ピーター・シンガー著『生と死の倫理』はこちらで。
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魚の“寝袋”事情は人と異なる


日本全国、寒気に包まれて寒い日がつづきそうです。こう寒いと、からだを布団ですっぽり覆って、寝袋のようにして、眠る人も多いのではないでしょうか。

海のいきものにも毎晩、“寝袋”のような状況をつくって、休みをとるものがいます。

スズキ目にブダイという魚がいます。熱帯性で、さんご礁などの近くで暮らしています。全長は35センチメートルほどで、ラグビー球をすこし平たくしたようなかたちをしています。一生のうち、何度も雄と雌をくりかえすという生態もあります。

このブダイ科の「アミメブダイ」や「ハゲブダイ」という魚は、夜になるとえらから粘り気のある透明な液を出します。そして、その液で自分の身を包みこみます。そして、休みます。

人とはちがって、寒さから寝袋のように身をくるめているのではなさそうです。

ブダイの天敵は、全長80センチにもなるウツボ。凶暴な性格で知られており、ブダイとは逆に夜、活発になり、エサを漁ります。

魚にも「原始睡眠」といわれる眠りがあるといわれます。ブダイにとってみれば、夜、眠っているあいだにウツボにぱくりと食べられてしまうのは、ごめんこうむりたいわけです。

そこで、アミメブダイやハゲブダイは、この粘液で自分をおおうことによって、自分の身から出てくる臭いを隠そうとしているのだと考えられています。

安眠の工夫は、海のいきものにも見られるのですね。

参考文献
井上昌一郎『動物たちはなぜ眠るのか』
参考ホームページ
ナショナルジオグラフィック公式日本サイト「ブダイ」
| - | 23:59 | comments(1) | -
『生と死の倫理』を読みなおす(2)医療進歩の裏に避けがたい死の議論


ピーター・シンガーの著書『生と死の倫理』の第一部は、「疑わしい結末」という名前です。

「第一章 死後の誕生」では、はじめに1993年、米国で起きた事件を紹介します。

28歳の女性が見知らぬ人の家に侵入し、強盗をはたらこうとしたところ、家の住人がもっていた銃で撃たれ、脳死状態になりました。病院に運ばれると、彼女は妊娠していることが発覚。病院は、彼女の身体機能をなるべく維持しようとする方針を決めます。そして、事件から3か月半後、脳死者から子どもが生まれました。

いっぽう、1992年にドイツで起きた事件も紹介します。交通事故で脳死状態になった女性が妊娠していることがわかりました。病院は、彼女の身体機能を維持することを決めます。しかし、この方針に彼女の家族は反対。ドイツでは、この脳支社の身体機能の維持をめぐって社会的論争になりました。しかし、赤ちゃんがうまれたときには、この赤ちゃんも死んでいました。

これらの事例を引きあいに、シンガーはこう述べます。

―――――
医療技術の進歩によって、これまでなら正面から取り組む必要のなかった問題について考えざるをえなくなった。……生まれつき脳のない乳児が数日中には必ず死んでしまい、しかも臓器移植が存在しない時代なら、「あらゆる人間に生存権がある」と言うことは簡単なことだった。
―――――

医療技術の進歩により、「あらゆる人間に生存権がある」ということをかんたんには言えなくなったということを、本の冒頭で示唆しているわけです。

「第二章 どのようにして死は再定義されたか」では、「死の定義」をめぐる変遷などを紹介します。

1967年は、南アフリカで世界初の心臓移植が行われた年です。このころと時をおなじくして、米国のハーバード大学では「脳死の定義を検討するためのハーバード大学医学部臨時委員会」(ハーバード脳死委員会)が発足しました。

ハーバード脳死委員会は、「死」の定義のひとつとして、意識が元どおりに戻ることはない「不可逆的昏睡」という状態であることを挙げます。ハーバード脳死委員会による新しい死の定義の提案は、のちに米国政府がうちたてた生命倫理問題に対する基本的立場にも影響をあたえました。1980年代、大統領委員会は、ハーバード脳死委員会の提案をだいたい踏襲した「脳の死による死の定義」を出しました。

こうした変遷を紹介しつつ、著者シンガーはこう述べます。

―――――
 脳死による死の再定義が円滑に進んだのは、それが脳死患者に害を与えることがなく、しかも患者以外の誰にとっても利益になったからである。……脳が破壊されれば、意識が回復することはなく、したがって身体を維持し続けることに意味はないということが一般の人びとに理解されたのである。脳が破壊された人を死者と定義するのは、そのような人に対する治療を中止するべきかどうかという問題をめぐって考え出された方便である。
―――――

「感覚的にはほとんどの人が、旧来の死の考え方を捨てきれずにいた」ものの、脳死者を死を見なさなければ、延々と延命治療を続けなければならなくなる状況ができあがりました。そこで、脳死を死とする「方便」が社会から出されたというのです。

「第三章 シャン博士のジレンマ」では、「シャン博士」という人物が登場します。シャン博士は、オーストラリアのメルボルン王立小児病院の集中治療室責任者フランク・シャンのこと。

シャン博士は、ジレンマに遭遇します。それは、人工呼吸器を外せば命が絶たれる心臓病の子どもの横のベッドに、大脳皮質は死んでいるものの心臓は正常に動いている子どもがおかれているというもの。当時の国の法律では、心臓移植はできませんでした。シャン博士は二人の子どもを前に立ち尽くすのみ。少なくとも心臓移植によって一人の命は救えるところ、二人の死という結果となりました。

著者は、脳死問題について自身と主張の近い提案を紹介します。デンマークの厚生大臣への勧告機関であるデンマーク倫理評議会が掲げた提案です。

――――――
 人が死ぬのはいつか。
 人間を生かし続ける努力をやめてよいのはいつか。
 他の人間に移植するために、一人の人間から臓器を摘出してよいのはいつか。
――――――

これらのことを分けて考えるべきだと、デンマーク倫理評議会は提案したのです。

脳の機能を失った乳児は死んでいるかどうかという問題と、その乳児の臓器が移植のために摘出されてよいかという問題は、混同されるべきでないというのが著者の主張です。シンガーは「私たちは、決して意識をもつことのない人間に対してこれまでとは違った対応の仕方を見つける必要がある」と述べます。

「第四章 トニー・ブランドと人命の神聖性」では、トニー・ブランドという一人の青年の身に起きたできごとを紹介します。

トニー・ブランドは、17歳の英国人。熱狂的なサッカーファンでした。彼が訪れた競技場で、たままたトラブルからファンが卒倒し、トニーは肺を押しつぶされてしまいました。脳が酸欠をおこし、脳幹という部分だけがはたらくだけの状態に。

トニーの主治医らは、人工的な栄養補給を中止しようとしました。ところが、英国当局の検屍官が「トニーの命を意図的に終わらせれば刑事告発される可能性がある」と警告したのです。トニーの命の扱い方をめぐって、裁判になりました。

判決は、「患者にとって何が最善の利益になるか。この場合、ブラントはいかなることに関しても意識がなく、容態が改善する見込みもない。ブラントの治療を中止してよい」といったものでした。

著者シンガーは、この判決をつぎのように評価します。

―――――
患者の生命は患者本人にとって何一つ利益をもたらさない。したがって、医師はそのような患者の生命を終わらせるために合法的に栄養補給を中止することができる。イギリス法では、この判決によって、生物学的な意味で存在しているにすぎない人間の生命をやみくもに保護することをやめたのである。
―――――

著者は、あらゆる命は救わなければならないとする「人命の神聖性」より、その命が置かれた状況がどうであるかを重視する「生命の質」を優先したという点で、この判決は画期的だったと述べます。

第一部では、20世紀の後半、死の定義や臓器提供の条件をめぐり、人の命をいつ終わらせるかについての議論が世界各地で起きていたという状況が見てとれます。つづく。

ピーター・シンガー著『生と死の倫理』はこちらで。
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「木を見て森を見ず」を防ぐための「ロコモ」


(2010年12月)13日(月)発売の『週刊東洋経済』では、「子に頼らない 親を迷わせない 老後の住まいと介護」という特集が組まれています。この特集の「要介護となる病気の基礎、予防、管理、治療」という記事に原稿を寄せました。

いまの日本の介護保険制度では、介護が必要であるかどうかの認定制度があります。「介護が必要になる疾患」の比率は明確。厚生労働省の「国民生活基礎調査」(2007年)によると、比率の高い原因として、脳卒中(脳血管疾患)27.9%、認知症18.7%、高齢による老衰12.5%とつづきます。

これらにつづくのが、関節疾患9.1%と骨折・転倒8.4%。最近では、このふたつに関わる徴候のまとまりとして、「ロコモティブ症候群」という考えかたが広まっています。骨や関節、脊髄、筋肉などの体を支え、動かす運動器の障害により、要介護になる危険の高い状態になることをいいます。

「ロコモティブ症候群」あるいは「ロコモ」などとよぶのには、それなりの意味があります。

症候群は、「群」という字がついているとおり、いろいろな病気をまとめてよぶもの。その「いろいろな病気」のうちのひとつだけに気を使って治療をしても、全体的に考えると状況が悪くなるといったことがあります。

取材に応じたある医師は、つぎのような例を紹介します。

―――――
転倒して骨折したある高齢患者が、ある病院に入院。再び転倒しないようベッドからなるべく動かぬよう措置された。ところが、骨折が回復した頃には、認知機能などほかの機能が落ちて、寝たきり同然に。骨折から数カ月後で息を引き取ったとという。
―――――

「木を見て森を見ず」とはよくいったもの。“木”ばかりを見ていると、“森”全体の状態が悪くなっていくこともあるわけです。

体全般の状態を考えて、最適な治療をすることが求められます。ロコモティブ症候群は、「木を見て森を見ず」を防ぐための考えかたでもあるといえそうです。

特集は、介護のときを前にして、住まいかたをどうするか、介護のしかた・受けかたをどうするかを考えるためのもの。「自分に合った住まいを選ぶにはコツがいるし、住み替えのタイミングを見極めることも必要。資金や体の状態に合わせてじっくり検討したい」と提案しています。

『週刊東洋経済』「老後の住まいと介護」特集号のお知らせはこちらです。
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『生と死の倫理』を読みなおす(1)功利主義者の新・生命倫理


ことし2010年は、日本の臓器移植についての大きな転換点でもありました。臓器移植とは、病気などで心臓や腎臓などの臓器がはたらかなくなった人に、べつの臓器を植えこむことです。昨2009年、臓器の移植に関する法律が改正され、ことし2010年1月、つぎのふたつのことができるようになりました。

ひとつめは、1月から、自分が脳死状態になったとき、自分の臓器を親族に対して優先的に提供する意思表示ができるようになったこと。他人まず近しい親族に臓器を提供することを、事前に示せるようになったのです。

ふたつめは、7月から、本人が臓器提供する意思があるかどうかがわからないときも、家族の承諾があれば、臓器提供が可能になったこと。臓器移植をおこなう機会の幅がひろがったわけです。

臓器提供は、脳のはたらきが死んでしまう脳死という状態に臓器提供者がなっていることが条件です。そこで、「いつまでが“生”で、いつからが“死”か」あるいは「臓器提供の手術をすることのできる人の状態はどのようなものか」といった線引きが大切になります。

こうした線引きについて、明解かつ過激な主張をする一人の哲学者がいます。哲学者ピーター・シンガーです。オーストラリアのメルボルン出身で、メルボルン大学、英国オックスフォード大学、ニューヨーク大学などで、研究を続けてきました。

シンガーは「功利主義者」という立場で紹介されることがよくあります。功利主義とは、「なにごとについても、世の中のより多くの存在にとっての幸せをもとめるべきであり、それが善いことだ」とする考えかた。

1994年、“Rethinking Life & Death : The Collapse of Our Traditional Ethics”(『生と死の再考 伝統的倫理の崩壊』)といった本を出しています。日本では1998年、『生と死の倫理 伝統的倫理の崩壊』という邦題で、昭和堂から訳書が出ました。訳者は樫則章さん。

死の定義や臓器提供の条件などをめぐる論が展開されています。その論は、日本で、これまで決して巻き起こることのなかったような過激なものでもあります。

日本で臓器移植の機会の幅が広がった2010年、あらためて『生と死の倫理』の内容を振りかえります。

この本は三部構成。「第一部 疑わしい結末」の4章分、「第二部 伝統的死生観の崩壊」の4章分、「第三部 整合的な取り組み方に向けて」の1章分からなります。そこでこのブログでは、3部を3回にわけて、各章の要点の紹介と重要部分の抜粋により、シンガーの主張を伝えることにします。つづく。

ピーター・シンガー著『生と死の倫理』はこちらで。
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エネルギー・環境問題、地域差とともに世代差


エネルギーや地球環境をめぐる問題では、先進国と開発途上国の対立や、石油産出国と石油輸入国のかけひきといった、「地域のちがい」がよく議論の的になります。

いっぽうで、地域差とはちがう、もうひとつのものさしがあります。「世代のちがい」です。

人を含めた生きものには細胞分裂の限界があるため、いつまでも生きつづけるということはできません。いまのところ、人は長生きしても120年で、かならず死ぬことになっています。

これは、「人がいつまでも世の中における問題を抱えつづけることはありえない」ということも示します。

「どうせ自分はゆくゆくこの世から去るのだ。だからエネルギーの問題をあれこれ考えず、無駄づかいをしたってかまわないじゃないか」「地球環境を守ることなどしなくてもいいだろう。自分はもうそれほど長くこの世のはいないのだから」

ことばにするとエゴイズムのように聞こえますが、事実、こうした状況の繰りかえしで、時代はいまに至ったわけです。

現代の世代が、未来の世代の生存可能性に対して、責任をもつべきではないか。こうした考えかたやありかたにもどづいた考えは、「世代間倫理」とよばれています。

エネルギーや地球環境の問題で、なにが問題になるかといえば、不可逆性があるということです。エネルギーにおける化石燃料は、その典型的な例です。現在の世代が使いすぎてしまえば、未来の世代が使える化石資源の量は減ってしまいます。

時が進んでいくと元どおりに戻らなくなる性質があるものは、現代の世代が使いすぎないように利用したり、使っても元にもどる程度に利用したりしなければ、未来の世代が使えなくなります。化石燃料が減って、困ることもおそらくは出てくるでしょう。

世代間倫理を考えることが大切なことは多くの人が考えていることです。しかし、むずかしさもあります。むずかしさのひとつは、「いま」という時が連続しているということ。

いつからが「現在の世代」で、いつからが「未来の世代」なのか、その線引きはあいまいです。被害者的な立場と思っている人が、いつのまにか加害者的な立場になっていることもあるでしょう。

いまの世の中の意思決定のしくみに、異なる世代にまたがる利己主義をチェックする機能が備わっていないという点を指摘する哲学者もいます。

自分が去ったあとの世の中のことまで、考えがまわらないのが人間の本質なのかもしれません。世代間の問題の解決策は、その本質がもたらす限界を超えたところにありそうです。
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「基礎研究に『選択と集中』の動き」


JR東海系列の出版社「ウェッジ」は、総合月刊誌『ウェッジ』のほか、ウェブマガジン「ウェッジ・インフィニティ」で記事を配信しています。

ウェッジ・インフィニティに、「基礎研究に『選択と集中』の動き」という記事を寄せました。前編が(2010年)12月10日、後編が11日の掲載です。

基礎研究とは、科学の研究を分けた場合のひとつ。未解明の知識や理論などを純粋に得ることを目的とするような研究です。典型例は「宇宙創成の謎に迫る研究」とか「原子の量子力学的なふるまいの解明に迫る研究」といったものです。

基礎研究にとって、2009年から2010年にかけては、数年後にふりかえってみると転機といわれるようになるかもしれません。

事業仕分けなどによって、さまざまな基礎研究にかかわる事業が予算削減や廃止などと判断されました。いっぽう、この判断についていかがなものかと批判があがり、世の中でこれまでにないほどの話題にもなりました。

いま、基礎研究の“担い手”たちは、「選択と集中」を迫られる度合が強くなってきています。

そのひとつの例が、「世界トップレベル研究拠点プログラム」。文部科学省が2007年から始めた予算支援事業で、10年から15年にわたり、1拠点に対して年間14億円ほどの支援があります。

「世界トップレベル研究拠点プログラム」に採択されたのは、東京大学、東北大学、大阪大学、京都大学、九州大学、そして独立行政法人の物質・材料研究機構。

採択された大学には、惜しみないほどの資金が行きます。反面、「選択と集中」は進み、こうした予算の支援を受けられない研究者たちは、研究をすることさえままならない状況になります。

さらに、大学とともに基礎研究を担う独立行政法人にも、新たな制度が押し寄せようとしています。独立行政法人化が行われた2001年から10年。今後は「国立研究開発機関」(仮)として、国によるトップダウンのマネジメントが始まろうとしています。

記事では、前篇と後篇にわけて、基礎研究に迫るあらたな潮流を報告します。

ウェッジ・インフィニティのウェッジ・レポート「基礎研究に『選択と集中』の動き」前篇はこちら。
後篇は、12月11日(土)に配信される予定です。こちらです。
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『THE UNIVERSITY OF TOKYO by AERA 東大へ行こう。』発売


朝日新聞出版が(2010年)12月9日、『THE UNIVERSITY OF TOKYO by AERA 東大へ行こう。』というムックを発売しました。このムックの一部の記事に寄稿しました。

『アエラ』が大学を紹介するムックを出版するのは、7月の明治大学ムックについで2度目となります。

今回のムックでは、表紙に女子の現役東大生が24人、写っています。中身も、女性の研究者や、女性の卒業生などが中心。これから東大に進学しようと考えている女性を意識したムックになっています。

「東京大学」ながら、施設は全国各地。千葉県の房総半島南部には、日本の大学の演習林として最も古い歴史をもつ「千葉演習林」があります。千葉演習林を含め、東京大学には全国に七つの演習林があり、その面積は山手線の内側五つ分。

取材に応じてくれた演習林の助教・久本洋子さんらが、各学部の学生や研究者、また東京大学以外の大学の学生などを森に迎えいれています。タケの研究から発展させて、ササの交雑のしくみの研究も。ササの開花周期は数十年と長く、代々ひきつがれる演習林があるからこそできる研究もあるようです。

ムックでは、東京大学の研究者であるとともに、テレビなどを通じて文化人として広く知られている知られている人の顔ぶれも。

科学技術分野では、生物物理化学が専門でインタープリター養成プログラム代表の黒田玲子教授、建築家であり東大が母校でもある隈研吾教授、「普遍的なコンピュータ網」を意味するユビキタスコンピューティングの提唱者である坂村建教授、文科省「世界トップレベル拠点プログラム」に採択された数物連携宇宙研究機構の初代機構長である村山斉教授などが登場します。

ほかにも、人類の進化を示す頭蓋骨の標本が並べられたり、チョウの標本を保管したりと、“博物館らしい博物館”の雰囲気ただよう「東京大学総合研究博物館」の紹介などもあります。

少子化を迎えて、日本の大学はいかに学生を入学させるかが大きな課題。東京大学も、女子に対して大学の魅力を紹介することで、優秀な人材を確保しようとしているようです。

いきいきと研究をしたり、仕事をしたりしている女性たちの姿を見て、「東大へ行こう」あるいは「東大へ行きたい」あるいは「東大へ行けるといいのだけれど」あるいは「東大に行く夢を見たい」と思う女子高生が増えることでしょう。

朝日新聞出版による『THE UNIVERSITY OF TOKYO by AERA 東大へ行こう。』のお知らせはこちら。
アマゾンでも発売中です。こちら。
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書評『理系冷遇社会 沈没する日本の科学技術』
“沈没”しそうな日本の科学技術の現状を、客観的に示しています。



「日本の状況は悪くなってきている」という論があちらこちらにある。

「理系」という属性についても、このことが当てはまる。理系に関心のある人が耳にするのは、「理系をとりまく状況はますます厳しくなっている」といった話だ。

著者は、東京大学先端科学技術研究センター教授。かつてあった科学技術庁、文部科学省、内閣府などの省庁での勤務を重ね、宇宙航空研究開発機構(JAXA)での勤務歴もある。

書名からしてわかるかもしれないが、この『理系冷遇社会』も「厳しくなる理系」という立ち位置で語られている。

各章で、日本の理系のおかれた現状が、つぎつぎと披露されていく。産業や技術力(第1章)、理系で働く人びとの待遇(第2章)、理系に関係のある組織(第3章)、国際標準(第4章)、医療(第5章)、国外の状況(第6章)、各分野での科学技術(第7章)といった具合で、最後にまとめとなる第8章が来る。

「数々の難関を突破して博士号まで取ったのであるから、非常に優秀であると自他共に認めてきた人達が大変多く、本来であれば社会が尊重すべき人達であろう。しかしポスドクと言うのは、言ってみれば『高級非正規労働者』に過ぎない」

経歴や資格を重視しして人を評価するか、現状を重視して人を評価するかは人それぞれだが、この文言に著者の日本の理系に対する考え方が集約されている。一生懸命に勉強してきた博士号取得者を、もっと厚遇すべきだととれる。

ただし、著者のむきだしの感情や感覚があらわにされている部分は少ない。筆致は、かんたんにいえば、データ重視だ。内閣府、経済産業省、文部科学省などの省庁、それに著者がいまも上席フェローとして籍をおいている科学技術振興機構(JST)などの調査データをつぎつぎと並べて、日本の理系の置かれた現状を伝えていく。

現状を伝えるときには、「なにかとくらべてみてどうか」といった視点が大切になる。そのあたりの比較データは数多い。

たとえば、2007年における主要国の研究者数。欧州145万人、米国143万人、中国142万人と、140万人台が並ぶなかで、日本では71万人と半数ほどだ。人口比率などからすれば、日本は米国と並んでこのなかで1位になるかもしれないが、絶対数では劣るのはたしか。

ほかにも、『Nature』や『Science』などの主要な科学雑誌での、論文掲載本数や引用本数の各国比較や、電子情報通信、ナノテクノロジー、ライフサイエンス、臨床医学、環境技術、先端計測技術などにおける米国、欧州、中国、韓国、日本の国力比較などのデータが並べられていく。

データの積み重ねによる現状報告はある。「ぜひともこうするべきだ」というような強い主張はない。このあたりで、「もっと著者の主張を知りたかった」といった感想をもつ人もいるかもしれない。だが、理系全般について、これだけの現状データを揃えたことに価値はありそうだ。

『理系冷遇社会』はこちらでどうぞ。
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「2位じゃだめ」なのは「夢をあたえるため」と「日本のアイディアを世界に先行して発揮するため」
 

発言というものは、報道によって一部分が断片的に伝わってしまうものです。

結果的に科学のあり方を社会に考えさせるきっかけとなった、行政刷新会議事業仕分けでの、蓮舫議員の「2位じゃだめだんでしょうか」発言も、そのひとつです。

内閣府の行政刷新会議事務局は、2009年11月13日に行われた「事業仕分け」の第3WG「理化学研究所 次世代スーパーコンピューティング技術の推進」という議論の議事録をつくり、公表しています。

この議論では、理化学研究所や文部科学省がこれまでの予算額を維持しようとする側で、蓮舫議員がこれまでの予算額を切りくずそうとする側、という構図です。

「2位じゃだめんでしょうか」発言が出る前に、理化学研究所の説明者は、次のような発言をしています。

「こうした国民に夢を与える、あるいは世界一を取ることによって夢をあたえることが、じつは非常に大きなこのプロジェクトの一つの目的でもあります」

これに対して、蓮舫議員は、国民に夢を与えることの意義は理解していることを示したうえで、「世界一になる理由は何があるんでしょうか。2位じゃだめなんでしょうか」と言っています。

この発言を受けて、理化学研究所の説明者は、次のように応えます。

「現在の科学技術では、スパコンなしでは最先端の科学技術の発展というのは、不可能に近いところがございます。そして世界一の研究というのは、世界一の装置」

ところが、ここで進行役の中村卓氏が、「最初からお答えいただいていることに、2回も3回も結構でございますので」と、話をさえぎります。

しかし、スーパーコンピュータの技術が「世界一」であることの意義については、そこまでの発言で理研の説明者や文科省の担当者は明確に応えていたわけではありません。

ここまでの各氏の説明者の発言をまとまると、「夢をあたえること」のために「世界一になること」が大切だということを発言し、それに対して蓮舫議員は「2位じゃだめなんでしょうか」と発言したわけです。

じつは、蓮舫議員はこの議場で、このあとも「2位じゃだめなのか」と、あらためてただしています。

「教えていただきたいのは、1位のところだけをみなさんの企業は利用したいということでしょうか。2位になって、もうちょっと応用したものを提供するということはできないんでしょうか。なぜ1位なんでしょうか。2位になってもうちょっと安価でわかりやすい応用の技術を提案してあげれば、それは余力のない企業でも利用したいと思われるのではないですか」

これに対して、文部科学省の説明者が次のように応えています。

「いわゆる企業等の汎用的にするには、確かにこれから時間も必要だと思います。なぜ1位にこだわるか。いわれる10ペタクラスに早く到達したいということは、繰り返しになりますけれど、そこでの日本のいろんなアイディアが世界に先行して発揮できる状況をつくりたい。そういうことに尽きると思います」

「10ペタクラス」というのは、スーパーコンピュータの性能のこと。世界最高峰水準ということができます。つまり、スーパーコンピューティングの技術力で1位になることで、「日本のアイディアが世界に先行して発揮できる状況」をつくれる、と説明者は考え、そう発言したわけです。

さらに、蓮舫議員は、「1位であること」の意義をただしなおします。

「世界一を目指すという崇高な目的はわかるんですけれども、科学の場合は、先ほど金田先生がおっしゃったように、目指している間に想定外の発明が出てきたり、想定外のもしかしたらこの分野で日本は勝てるかもしれないというものが出てくるけれど、1位を目指すが余りに、こちらに目が向かないということもあると思うんです。それはどうなんでしょうか」

これに対して、理化学研究所の説明者は、つぎのように応えています。

「1位を目指す中でもちろんサイエンティストは、そのマシンを使って、それぞれの分野で世界最高の成果を出そうと努力するわけです。その中でいろんな芽がありますから、本当にブレークスルーが出てくる。これがサイエンスの世界で す。決して連続的にサイエンスというのは」

ここで、“時間切れ”のようなかたちになり、「限りなく見送りに近い縮減」ということが決められ、事業仕分けは終了となります。

そしてこのあと、多くの報道は蓮舫議員の最初の「2位じゃだめなんでしょうか」の部分を中心に断片的に切りとって報じ、この発言だけがひとり歩きしていったたわけです。

蓮舫議員の疑問に対する完全な答えにはなっていませんが、「国民に夢を与えること」と「日本のアイディアが世界に先行して発揮できる状況をつくること」が、事業仕分けの席での「スーパーコンピュータの分野で日本の技術力が1位になること」の意義の説明ということになります。

行政刷新会議「事業仕分け」第3WG「理化学研究所 スーパーコンピューティング技術の推進」の議事録はこちら。
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2010年からの「エネルギー基本計画」は経済との結びつき重視


一人ひとりに、「これが世の中にとってよいことです」ということを知らせても、一人ひとりがその「よいこと」に向けて取りくむとはかぎりません。そこで、国などの行政が「私たちの国はこのようなことを目指します」という計画をつくり、政策にするわけです。

エネルギーについては、「エネルギー基本計画」という国の計画があります。2002年に施行された「エネルギー政策基本法」という法律にのっとってつくられた計画です。

エネルギー基本計画は、2003年10月にはじめて策定され、その後、2007年3月に改定。さらに、「エネルギーを取り巻く環境変化を踏まえ」(経済産業省)、2010年6月にふたたび改定されています。

2010年のエネルギー基本計画では、「基本的視点」として6点を掲げています。

一点目は、「総合的なエネルギー安全保障の強化」。人はエネルギーなしに生きていけません。その点で、日本はエネルギー資源に乏しく、安定にエネルギーを得られる状況を保つことが大切になります。

計画では、自給率の向上、省エネルギー、エネルギー構成や供給源の多様化、サプライチェーンつまり供給網の維持、緊急時対応力の充実の五点を「確保する必要がある」としています。

二点目は、「地球温暖化対策の強化」。石油や石炭などの化石燃料を使うと、温室効果があるとされる二酸化炭素が排出されます。そのため「エネルギー政策は地球温暖化対策と表裏一体」という考えかたをしています。

三点目は、「エネルギーを基軸とした経済成長の実現」。エネルギーにかかわる新技術やシステムの開発で、内需を拡大する、つまり日本国内の経済状態をよくすることを目指しています。

エネルギー分野を日本の経済成長の中核にするため、国内にお いて、エネルギー関連の産業構造や社会システムの変革を積極的に推進し、国 際競争力のある技術や製品の市場を拡大することと、競争力のある我が国のエ ネルギー産業や省エネ製品・技術の海外展開の加速化を図ることが不可欠であるとしています。

四点目は、「安全の確保」。エネルギーの利用は大きな事故につながる危険性があることから、「安全の確保がすべてに優先されなければならない」としています。

エネルギーの確保は「科学的合理性に基づき効果的に、かつ、透明性をもって行われるべき」であるとし、電力会社などの事業者に向けては「安全 規制法令を遵守することはもちろん、効果的な社内体制の維持・向上に向けた努力」を求めています。

五点目は、「市場機能の活用等による効率性の確保」。国民の生活を安定させたり、国の産業の競争力を確保するには、「経済効率的なエネルギー供給の実現が重要」としています。「経済効率的」とは、ここではなるべく少ないお金を使うことで、なるべく大きなエネルギーを得ることを指しているものと考えられます。

六点目は、「エネルギー産業構造の改革」。日本国内では、これからもエネルギーについての新しい技術やサービスが生まれていき、国際市場では資源確保やエネルギー・インフラ市場をめぐる競争が激しくなり、「エネルギー大競争時代」がやってくるとしています。

そんな時代を迎えるにあたり、エネルギーの安定供給と環境への適合が同時に成されるような産業構造をつくることが重要としています。

七点目は、「国民との相互理解」。エネルギーの主な利用者である国民や、企業などの事業者に、意識や行動を変えてもらうことが大切としています。また、国民からの理解と信頼も重要としています。

今年2010年の計画の改定では、三点目の「エネルギーを基軸とした経済成長の実現」と、六点目の「エネルギー産業構造の改革」が、基本的視点に新しく加わりました。エネルギーの賢い利用のしかたを経済成長の手段としたり、エネルギーにとってよいことをすればするほどお金が増えるような社会のしくみをつくろうとするもの。

エネルギーをたくさん使うことが経済の活発さにつながるというのが、世の中のこれまでの見方でした。かんたんにいえば、この計画では、見方を逆転させて、エネルギーをなるべく使わないでも済むようにすることを経済の活発さにつなげるようにしよう、というわけです。けっしてかんたんではない計画です。

2010年6月に改定された「エネルギー基本計画」はこちら。
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人工池のなかに人工島はつくられた。


空から日本列島全体を眼で見るためには、スペースシャトルなどの宇宙船に乗らなければなりません。しかし、飛行機の窓側に座ることでも、“日本列島”を眺めることはできます。

大阪・伊丹市の大阪空港を離着陸する飛行機から、池のなかにある日本列島を形どった島を見ることができます。

この池は昆陽池。奈良時代の僧だった行基(668-749)が、いまの伊丹にあたる地の水田開発をするため、つくった溜池です。水面が、水田よりもわずかに高くなるように溜池をつくり、水田に水が必要なとき、この溜池から水を引いてくるのです。

行基は、日本で初めて日本地図をつくったのではないかといわれ、その地図は「行基図」ともいわれています。

しかし、昆陽池のなかの“日本列島”は行基がつくったわけではありません。「行基図」そのものも、行基自身がつくったかどうかには賛否両論があります。すくなくとも、昆陽池にあるような日本列島のかたちが地図に描かれているわけではありません。

国土地理院の「国土変遷アーカイブ空中閲覧システム」で、昆陽池周辺の空中写真を見てみると、1967年の撮影分までは昆陽池の内側に日本列島のかたちは見られません。

しかし、1975年に撮影された空中写真を見ると、昆陽池の真ん中に日本列島がらしきかたちが現れます。東京湾と相模湾がいっしょくたになっていたり、佐渡島、対馬、奄美大島、琉球列島がなかったりしますが、日本人であれば99%以上は日本列島をかたちどったことがわかるであろう、人工島を見ることができます。

この日本列島は、1972年から5年をかけて伊丹市が昆陽池の再整備したとき、野鳥の楽園にしようということでつくられたものといいます。

日本地図をつくったかどうか賛否両論ある行基がつくった昆陽池のなかにつくられた日本列島を模した島。野鳥の生活のための目的とはいいますが、それだけであれば日本列島をかたちどる必要はありますまい。飛行機の窓側を座る人たちに見てもらうことが目的のひとつにあったのでしょう。

これ見よがしに、このような人工の地形をつくることについては、ナンセンスだという人もいます。そんな人はこう言います。「人がつくった緑の風景は、自然がつくった緑の風景よりもはるかに見おとりする。庭園で見る樹々よりも、自然林のなかで見る樹々のほうが美しく見える」。

ただし、この言葉が、昆陽池に対してあてはまるわけではありません。というのも、昆陽池そのものも、行基がつくった人工物だからです。人工の池のなかに、人工の島をつくる。自然の美うんぬんという論がでてくる余地はなさそうです。

「それにしても、池のなかに日本列島をつくるなんて、くだらない行為に感じてしまう」。そう思う人は、歴史のある地形を現代の人がいじることに対する違和感があるのでしょう。

もし、行基が、いまの昆陽池を見たら、「これが日本の形なのか!」と言うかもしれません。
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「高病原性」鳥インフルエンザのウイルスに「強毒性」が判明


島根県の養鶏場の鶏に鳥インフルエンザの疑いがもたれ、動物衛生研究所で調べたところ、「H5型」というウイルスが検出されました。

各新聞記事を見ると、「高病原性」と「強毒性」という似た表現が使われていることがわかります。
 
12月1日付の読売新聞では、次のように伝えています。
 
「島根県安来市の養鶏場で鳥インフルエンザに感染した疑いのある鶏の死骸が見つかった問題で、農林水産省は1日、遺伝子検査の結果、高病原性のH5型の鳥インフルエンザウイルスが検出されたと発表した」

いっぽう、この2日後、12月3日付の毎日新聞では、つぎのように「強毒性」ということばを使って報じています。
 
「島根県安来市の養鶏場の鶏が感染した高病原性鳥インフルエンザ(H5型)について、農林水産省は2日、ウイルスを強毒性と確認したと発表した」(2010年12月3日付)

政府の発表はどうなっているでしょうか。農林水産省は、12月2日に、それぞれつぎのような発表をしています。
 
「島根県安来(やすぎ)市で発生した高病原性鳥インフルエンザ(H5亜型)について、(独)農研機構動物衛生研究所が、分離されたウイルスの遺伝子解析を実施しました。この結果、当該ウイルスが強毒タイプであることを確認しました」(12月2日)
 
農林水産省は、「高病原性」の鳥インフルエンザについて調べたところ、そのウイルスが「強毒タイプ」であることがわかったと伝えています。3日付の毎日新聞では、この農水省の発表にある「強毒タイプ」を、「強毒性」とおきかえたのでしょう。
 
国立感染症研究所によると、「高病原性」とは「鳥に対する病原性」を示したもの。また、「高病原性」の定義として、国際獣疫事務局が、「最低8羽の4〜8週齢の鶏に感染させて、10日以内に75%以上の致死率を示した場合『高病原性』を考慮する」としていることを紹介しています。

農林水産省の発表文や、国立感染症研究所の説明をまとめると、「高病原性」ということばは「鳥インフルエンザ」に対して使われている表現であり、さらに「高病原性」のあるウイルスには「強毒タイプ」がある、ということになります。

いっぽうで、一般的に「強毒性」ということばは、鳥インフルエンザだけでなく、嘔吐や下痢などを引き起こすコレラ菌などを含め、さまざまな対象について使われています。

農水省が今回の鳥インフルエンザについての発表で、「強毒性」でなく「強毒タイプ」と使ったのは、「強毒性」という言葉の使われ方が広すぎるため、それを避けたのかもしれません。

参考記事
読売新聞12月1日「島根の鳥インフル、ウイルスは高病原性のH5型」 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101201-OYT1T01205.htm
毎日新聞12月3日「鳥インフルエンザ:島根養鶏場『強毒性』」 http://mainichi.jp/select/jiken/news/20101203ddm041040108000c.html
農林水産省12月2日「島根県において確認された高病原性鳥インフルエンザのウイルス分析結果について」
 http://www.maff.go.jp/j/press/syouan/douei/101202.html
参考ホームページ国立感染症研究所感染症情報センター「鳥インフルエンザに関するQ&A」 http://idsc.nih.go.jp/disease/avian_influenza/QA0612.html
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“遅れて来た”日産自動車、“満を持して”リーフ


日産自動車は(2010年)12月3日(金)、横浜市高島の本社で電気自動車「リーフ」のお披露目をしました。ホームページでもニュースとして発表しています。

電気自動車は、ガソリンやガソリンで動くエンジンを使わず、代わりに電気とモーターで動く自動車です。これまでのトヨタ「プリウス」やホンダ「インサイト」などのハイブリッド車では、ガソリンと電気の両方が使われていましたが、電気自動車のエネルギー源は電気のみ。

当然ながら、リーフを給油所へ向かわせる必要がありません。エネルギーが少なくなれば、充電のためのコンセントがある場所へと向かうことになります。

充電には、8時間かけて100%を満たす「普通充電」と、30分で80%を満たす「急速充電」の2種類があります。

普通充電ポートにコネクタが挿されている。左の円形の筒が高速充電ポート

日産自動車は、これまで国内外などで充電設備の試用を含めた実証実験を行ってきました。今回の発表時点で、日本にはふつう充電できる店舗が2,200か所ほど、急速充電ができる店舗が200か所ほどとなっています。

街なかの充電できる店舗に行かなくても充電をすることはできます。住宅で充電をするのです。「充電プラグをコンセントに挿し、車の充電ポートリッドを開いて充電コネクターをポートに挿す。ご自宅での充電の操作はこれだけです」と、充電の気軽さをうたっています。

ただし、家やマクドナルドにあるような、携帯電話やコンピュータの充電をするような二口コンセントを使うことはできません。電気自動車充電用の新型コンセントに充電用プラグを挿す必要があります。

新たに専用充電設備を家に導入する場合、かかる費用は10万4000円。2日間で工事は行われます。リーフそのものの価格は384万円8250円から。神経経済学的には、この額に10万円とちょっとを上乗せしても、あまり大きな負担と思わないのかもしれません。

トヨタもホンダもハイブリッド車のほかに、電気自動車としては、2009年に富士重工業が「プラグインステラ」を、また、三菱自動車が「iミーブ」を先に発売していました。2010年12月20日の発売にこぎつけた日産自動車。「遅れての発売」といわれるか、「満を持しての発売」といわれるかは、購買者やメディアの評価にもよるのかもしれません。

日産自動車のニュース発表「ゼロ・エミッションの電気自動車(EV)『日産リーフ』を発売」はこちら。
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世界のエネルギー使用量は増えていく
(2010年)11月30日の記事「経産省、2030年の“経産省的理想的エネルギー需給の姿”を示す」で、経済産業省の描く2030年のエネルギー供給の内訳を紹介しました。
いっぽう、世界的な将来のエネルギー予想はどうなっているのでしょう。
米国に、エネルギー情報局(EIA:Energy Information Administration)という政府機関があります。エネルギー情報局は、「国際エネルギー展望」(International Energy Outlook)という報告書を2010年7月に公表しています。
この報告書には、経産省が示したのとおなじ、2030年の世界的なエネルギーの供給状況が描かれています。

上の棒グラフは、世界市場のエネルギー消費量の2007年実績と、2015年から2035年までの予測を並べたもの。縦軸の単位は「1000兆英熱量」というもので、「1英熱量」は1ポンドの水を華氏1度、摂氏にすると約0.55度、上げるために使われるエネルギーの量です。
薄水色の部分が、日本、米国、英国、ドイツなどを含む経済協力開発機構(OECD:Organisation for Economic Co-operation and Development)に加盟する30の国について。2035年まで、ほんの少しだけ予測消費量は増えていますが、ほぼ横ばいです。
いっぽう、赤い部分は経済協力開発機構の非加盟国。ブラジル、ロシア、インド、中国などの大きな国々や、アフリカ各国などはこちらに含まれます。年が経つにつれてだんだんエネルギー消費量が増えていくことがわかります。
では、世界で使われる一次エネルギーの種類は、どのような内訳になるのでしょう。それを示したのが、上の曲線グラフです。“Liquids”は石油などの液体燃料、“Coal”は石炭、“Natural Gas”は天然ガス、“Renewables”は再生可能エネルギー、“Nuclear”は原子力のことです。
もっとも右肩あがりなのは石炭。また液体燃料もあいかわらず伸びています。注目される再生可能エネルギーは堅調な伸びといったところ。そして最も伸び方が鈍いのが原子力です。
これは、経済産業省が示した、2030年の日本のエネルギーの使われ方とは大きく異なります。経産省は、2007年比で原子力による一次エネルギー供給量を倍増させ、石油に次ぐ一次エネルギー供給源にしようとしています。
エネルギー情報局の「国際エネルギー展望」は、2035年までの世界の電力生成の燃料別内訳も示しています。上の棒グラフです。縦軸の単位は「1兆キロワット時」。
石油は2007年から2035年までほぼ横ばいであるほかは、石炭、天然ガス、再生可能エネルギー、原子力のそれぞれが、ほぼおなじ比率で伸びていくことを示しています。ここからは、「電力のために、これ以上のペースで石油を使うことはしない」という意味が含まれています。
経産省の2030年の日本の発電電力量の内訳では、石油による発電量は2007年の10分の1以下。日本のほうが「電力に石油を使うまい」という意図が色こく見えます。
どのような内訳でエネルギーを供給するかは、国によってさまざま。世界の状況と見比べたときに、一国の特徴が見えてきます。
参考資料
U.S. Energy Information Administration “International Energy Outlook 2010”
経済産業省「2030年のエネルギー需給の姿」
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