科学技術のアネクドート

チェーン店で活かされる物理現象
 全国展開しているチェーン飲食店でラーメンなどを食べるとき、どの店のラーメンを食べてもほぼ味はかわりません。客の「いつでもどこでもあの味を」という求めに対して店側は答えているわけです。

どの店舗でもおなじ味を保つのにはどうすればよいのでしょうか。まったくおなじ分量の調味料を入れることを定めたレシピをつくり、全店舗が徹底的にそれを守るのも手でしょう。しかし、料理は人がするもの。微妙な調味料の入れかたのちがいも味に反映されそうです。

客の視界に入らないようなところ、あるいは客が店に入っていない時間帯で、「屈折計」や「濃度計」とよばれる道具を使って味を確認することを決めているチェーン店もあります。

屈折計は、液体の濃度をはかるための器具です。利用するのは、“光の屈折”という自然現象です。

ビーカーに入れた割り箸などの棒を水に入れると、水の上と水の下では棒の角度が異なって見えます。さらに、砂糖や塩などを入れてみると、棒の曲がり具合がさらに大きくなることがわかります。小学校や中学校の理科の実験でやった方もいるかもしれません。

屈折計はこの光の屈折の原理を利用したもの。ハンディなものは、小さな望遠鏡のようなかたちをしています。筒のような形の片側に液体の濃さをはかる心臓部があり、もう片側には眼で目盛を覗く接眼面があります。

次のような使いかたをします。

ラーメンの汁など、濃さをはかりたい液体をスプーンなどで少しとって、屈折計の採光板という板に数滴たらす。

採光板を閉じて、反対側の接眼面からなかを覗く。なかには目盛があり、目盛の高さにより濃度の高さを判断する。以上。

液体をたらす採光板はプリズムというガラスでできています。プリズムは、調べたい液体より大きな屈折率があります。

薄い液体をプリズムに垂らすと、液体とプリズムの屈折率の差は大きくなります。屈折率の差が大きいと、液体とプリズムの境目に入ってくる光の曲がり具合は比較的大きくなります。

いっぽう、濃い液体をプリズムに垂らした場合、液体とプリズムの屈折率の差はそれほど大きくなりません。屈折率の差が大きくないと、液体とプリズムの境目に入ってくる光の曲がり具合は小さくなります。

この違いは、屈折計の反対側の接眼面から、眼で確認することができます。液体とプリズムの境界面が、高さになって表われるのです。そこには目盛がついていて、具体的に液体の濃さをはかることができます。

どのような液体でも薄い・濃いは目盛に反映されるので、このしくみは塩分をはかるだけでなく、果物の甘味をはかる糖度計などにも使うことができます。

チェーン店に入って店員が小さな望遠鏡のようなものでなにやら覗きこんでいるのを見た場合、それは店員が味の濃さをはかっているところを覗き見することができたことになります。

参考ホームページ
ウエダ・テクニカルエントリー「研削液濃度管理用屈折計(UTE-MASTER-10M)の取り扱い方法」
アタゴ「製品マメ知識」
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「1+1が2でなく3になる」のなりにくさ


「1+1が2でなく3になる」ということが、組織論などでよく聞かれます。

どうしが提携や合併をしたときの記者会見で、企業の代表がよくいいます。シャープとパイオニアが2007年に業務・資本提携をしたとき、シャープの片山幹雄社長は「1+1=2ではなく、3や4になるような相性の良い企業とペアを組む必要があった」と言ったといいます。

最近では、サッカー日本代表の岡田武史監督が、「“個”の強さでやるには限界がある。やはり1+1を3にすることの方が大事」という発言をしました。いっぽう、Jリーグ名古屋グランパスのドラガン・ストイコビッチ監督は、その後「1+1は2です。3にはなりません」という発言をしたといいます。

組織を考えるとき、“1+1”は、2でなく、2よりも大きな数字になるということはありえるのでしょうか。

想像されやすいのが仕事と成果の関係です。一人ひとりばらばらに仕事をしていれば二人分の成果にしかならないものの、一人と一人が腕を組んで仕事をすれば二人分より大きな成果が得られるというものです。

しかし、一人でしていた仕事を二人でする場合、そこにはかならずコミュニケーションコストがかかります。「じゃあ、今日はプロジェクト初日ですし、目標達成にあたっての進め方をいっしょに決めていきましょう」「わかりました、そうしましょう」。

こうして始まるミーティングは、二人で組むことになったがゆえに生じる手間暇といえます。半日や1日がミーティングで費やされた場合、一人でこなしていればできていた二人分の仕事の成果を、このあとに回収できなければなりません。

しかし、成果を回収するのはそう簡単なことではありません。以降もコミュニケーションコストはかかっていくでしょう。仕事で一人と一人が腕を組んで三人分の成果が生むということは、ほぼ不可能に近い至難の業となりそうです。人々はあまり口にしないものの、「一人でやっていたほうが効率的だった」という場合のほうが多そうです。

“1”と“1”の内容にちがいがある場合は、どうでしょう。たとえば、ひとつめの“1”を研究という仕事、ふたつめの“1”を事務処理という仕事と設定します。研究者がこなすべきは研究なのに、プロジェクト予算の書類づくりに覆われて研究に専念できない、という話がよくあります。そこで、研究者は研究に専念し、事務方は事務をするということにします。

たしかに、これで研究者は煩雑な事務書類づくりをする時間がなくなりました。発揮すべき能力を最大限に活かせる環境が整いました。事務専門の事務方が加わることで、以後の研究成果は“1”よりも大きなものになりそうです。この場合、事務処理の成果は1のままだとしても、 “1+1”が“2”よりも大きくなる可能性はありそうです。

ただし、見方を変えれば、「本来は“1”の研究成果を発揮できるのに“0.5”しか発揮できていなかった研究者が、やっと“1”の研究成果を発揮できるようになった」という解釈もとれそうです。この場合、事務仕事を“1”のままとすれば、「1+1が2でなく3になる」というより「0.5+1だったのが、1+1になる」というほうがふさわしいのかもしれません。

「1+1が2でなく3になる」という話で、「その“1”とはなんなのか」「その“2”や“3”とはなんなのか」まで言及することはあまり多くありません。裏を返せば、「1+1が2でなく3になる」という発言が雰囲気優先であることを示しています。「1+1が3になる」状況を目指すという意識高揚が大切なのでしょう。
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羅列される作品にも歴史あり


中学や高校などの中間・期末試験にまじめにとりくんでいた人は、日本史の「この時代の文化」の勉強を思いだすと、苦笑いするかもしれません。

教科書には、その当時の芸術作品や文学作品と作者の名前がただ羅列されているだけ。時代の“流れ”をつかんで覚えるのでなく、ひたすら暗記に徹するしかないからです。

江戸時代の文学についてもあてはまります。『誹風柳多留』に対して「“はいふうやなぎだる”、ってなんか妙な名前だよな」などと首を傾げながらもひたすら暗記にいそしんだ方もいることでしょう。

『誹風柳多留』は川柳集。1765(明和2)年から1838(天保9)年まで、73年間にわたって出版されました。選りすぐりの川柳を集めたものです。では、選んだ対象はというと、おもに『川柳評万句合勝句刷』(せんりゅうひょうまんくあわせかちくずり)という刷りものに載った句でした。

江戸時代のなかごろ、お江戸では「万句合」という庶民参加型の文化的な遊びが流行しました。浅草に住んでいた柄井川柳(1718-1790)という人物が、短句を七字・七字などのかたちで“お題”として出し、これに江戸の庶民が五・七・五の句を付けて応募したのです。この遊びは「前句付け」とよばれています。

庶民は前句付けに応募して、柄井川柳に評してもらうため、1句につき16文の参加料を払ったといいます。そして応募作のなかから柄井川柳が“勝ち句”つまり入選句を選び、それを刷り物にして発表したわけです。つまり、『川柳評万句合勝句刷』は、“川柳”さんの“評”による“万”もの“句合”のうち、“勝句”を“刷”ったものということです。

優秀作には景品が贈られました。Aランクには木綿一反、Bランクには平椀一通、Cランクには膳一枚、といった具合です。

柄井川柳は本名を「柄井正道」といい「川柳」は俳名でした。柄井川柳などが催した前句付けのうち、五・七・五の部分が独立していきました。これが「川柳」の起こりです。川柳は、柄井川柳の名前からそう呼ばれるようになったわけです。

万句合は、柄井川柳の死後も、俳名を受けついだ、2代目、3代目、4代目、5代目の川柳さんにより続きました。その勝句の中からさらに選りすぐりを集めたのが『誹風柳多留』というわけです。こんな句が載っています。

「子が出来て川の字なりに寝る夫婦」

「孝行のしたい時分に親はなし」

「病上りいただく事が癖になり」

いまの時代も、新聞各紙は市民からの川柳を募集しています。サラリーマン川柳などもブームに。『川柳評万句合勝句刷』や『誹風柳多留』の時代の町人による“発明品”が、いまも文化として受けつがれています。

参考文献
『広辞苑』第五版

参考ホームページ
ドクター川柳「川柳評万句合興行」
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エネルゲイアがあるからにはデュナミスも


古代ギリシャの哲学者アリストテレス(紀元前384-紀元前322、画像)は、師匠のプラトン(紀元前427-紀元前347)から、いまに通じる哲学の基本概念となるものを受けつぎ、そして発展させました。

人びとがりんごを見たとき、「あ、りんごだ」と認識します。りんごを見なくても、「りんご」と書かれた文を読むだけでも、完全に一致はしないものの、多くの人が「赤くて丸いかたちをしたもの」と想像することになります。

プラトンは、ことやものの“本質”は、超越的なもであるとしました。八百屋などで見られるひとつひとつのりんごを超えた、りんごというものの本質があるということです。これをプラトンは「イデア」と名づけました。

この「イデア」の考えを発展させたのが、アリストテレスです。アリストテレスは、プラトンが言った「イデア」という本質を「形相」あるいは「エイドス」と名づけました。

さらに発展的に、形相と不可分のものがあるとして、もうひとつ「質料」という考え方を導きだしたのです。形相と質料が不可分であるということは、たがいがなくては存在しないということです。

形相のほうが具体的なものであり、質料のほうは内在的なものといえそうです。たとえば、アリストテレスは、「エネルゲイア」と「デュナミス」という二つの似たものを対比させました。それぞれ「エネルギー」「ダイナミック」の語源となるものです。

ふたつとも「力」を示すことばですが、エネルゲイアはデュナミスから引きだされた現実的な力を表し、デュミナスはエネルゲイアを引き出す潜在的な力を表します。それぞれは「現実態」と「可能態」とよばれます。

これは、たとえれば、英語で意思疎通をはかれることができる状態と、英語で意思疎通をはかれるようになる環境が用意されている状態のちがいともいえそうです。

形と質という対立した概念は、ギリシャ時代にすでにあったのです。

参考文献
麻生建「哲学における〈エネルギー〉」『帝京平成フォーラム』2004年1号
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“過度の期待”と“世論の形成”は表裏一体


きょう(2010年4月26日)発売の『週刊東洋経済』では、「クスリ全解明+先端医療」という特集が組まれています。この特集の「先端医療編 再生医療」という記事に原稿を寄せました。

再生医療は、人のからだにある「幹細胞」という細胞をおもに使って、失われたからだの機能を取り戻すもの。幹細胞は、自分を増やす能力と、特定の機能をもつ細胞に枝分かれすることのできる能力をかね備えた細胞のことです。

iPS細胞(人工多能性幹細胞)やES細胞(胚性幹細胞)も幹細胞の一種ですが、より医療で実用化が進んでいるのが体性幹細胞とよばれる種類。体性幹細胞は、骨髄や心筋や脂肪などに含まれていて、枝分かれをそこそこすることができます。

記事は、再生医療に携わる3人の研究者とその研究を紹介しています。心筋幹細胞を使った心筋の再生。骨髄幹細胞を使った脳梗塞患者の神経の再生。そして、細胞シートという技術を使った再生量の基盤技術化。

先端医療をあつかう記事で議論になるのは、患者や家族に“過度の期待”をあたえてしまわないかどうかという点です。「先端医療」は、多くの場合は文字どおり、一般には普及されていない医療を指します。ごく限られた患者に対して、本人から同意を得たうえで、治療方法が安全か、効き目があるかなどを試験します。これは「臨床試験」とよばれます。

臨床試験の実績を積み重ねた結果、この治療法は安全で有効だということがわかると、ほかの医療機関でも行われるようになったり、薬として作ったり売ったりすることが認められるわけです。

臨床試験において、手術・治療を受けた患者の回復ぶりがよければ、「臨床試験を受けた何々病の患者の体が回復した」といった事実が生まれます。ただし、これは「何々病を治すための医療が確立された」ということとおなじではありません。臨床試験は、あくまで“試験”です。

その病気に悩みつづけてきた患者や家族からすれば、その記事は大きな期待を抱きます。編集部への問い合わせも寄せられるといいます。

医者や研究者は多くの患者を救いたい。しかし、臨床試験中は治療する患者数はごく限られている。いっぽうで、記事として紹介されることで患者側からの期待が増える……。

こうした状況を抱えながら医者・研究者は臨床試験を進めることになります。取材に応じた研究者は「ようやくスタート地点についた段階」と話します。

いっぽう、記事に臨床試験中の先端医療が紹介されることは、「こんな可能性をもった治療が普及しそうなのか。早く実現するといいな」という世論の形成をうながします。臨床試験の実績をいちはやく積みかさねたい研究者にとっても、多くの患者に臨床試験に応じてもらう機会になります。

どの研究者の話にも通じているのは、「人の命を救いたい」という大きな目標があるということです。

『週刊東洋経済』2010年5月1-8日号の目次はこちらです。
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千葉県と愛知県がデッドヒート


愛知県というと、中京圏の中心的な役割をしている県。いっぽう、千葉県というと首都圏の脇役としてとらえられる向きがあります。

この二つの県が激しいデッドヒートを繰り広げていることがあるといいます。

千葉県は、海と河川に囲まれた県ですが、東京湾をせまくする形で埋め立てが続いています。東京ディズニーランドのある浦安市は、市の面積の4分の3が、1960年代後半に埋め立てされた土地だといいます。

こうして、千葉県の面積はじょじょに増えていき、現在の面積は、5,156.60平方キロメートル。

いっぽう、愛知県にも海があります。埋め立てで面積を増やしてきました。名古屋市から飛鳥村にかけての伊勢湾や、豊橋市の三河湾などを埋め立てていきました。

しかし、その勢いは千葉県にくらべると劣るもの。東京湾が埋め立てられていくうちに、千葉県の面積が愛知県の面積を超えた時期がありました。

このまま食いさがる愛知県ではありませんでした。2005年までに常滑市で大規模な埋め立てが行われてきました。海上空港の中部国際空港を建設するためです。

これにより、愛知県の面積は、5,164.58平方キロメートルに。再び千葉県を抜くことになりました。

今後、この2県の面積はどうなっていくでしょうか。

どちらの県も、さらに埋め立てを進めるための海域はたくさんあります。その点では、条件はおなじといえます。

時間軸を何千年や何万年に広げてみるとどうでしょう。

千葉県は全国の都道府県のなかで最も平均海抜の低い県で、43メートルしかありません。最も高い山でも、愛宕山の408メートルしかありません。実際、数千年前まではいまの千葉県のほとんどが海の底にありました。

いっぽう、愛知県には1000メートル級の山があります。県内で最も高い1229メートルの1200高地のほかに、1121メートルの寧比曽岳、1140メートルの八嶽山などなど。

とはいえ、海面上昇に対して愛知県も油断できません。愛知県には、津島市、弥富市、愛西市、飛鳥村、名古屋市の一部などに海抜0メートルの地帯があるからです。

気候変動に関する政府間パネルの予測では、地球の平均気温が2度上昇することにより、海面は平均50センチ上昇するといいます。
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国立公文書館が路線図広告を出稿


都営地下鉄の窓上広告には、沿線の路線図をつかったものがあります。

広告のまんなかには路線図があり、それぞれの駅の表示のかたわらに、地元にちなんだ広告主がおなじ面積で広告を出している、といった種類のものです。

ここに広告原稿を出している広告主は、たいてい私立学校、専門学校、あるいは開業医など。「あなたの街にあります」といったことを宣伝するためのものでしょう。

そうしたなかで、ひとつ毛色のちがう広告があります。国立公文書館の広告です。

国立公文書館は、重要な公文書を保存管理するための独立行政法人。公文書とは、国や地方自治体などの機関や公務員が仕事のうえでつくった文書のことです。国立公文書館では、おもに総理大臣が国の機関から「あずかってください」と移管を受けた重要な公文書が扱われます。

地下鉄の広告のうち、国立公文書館は皇居の北側にあるため、神保町駅の近くに広告を掲載しています。その内容は「デジタルアーカイブ」。

国立公文書館のデジタルアーカイブは、所蔵している歴史公文書などの目録情報の検索と、原本のデジタル画像の閲覧ができるインターネットのサービス。

たとえば「長崎」などと鍵のことばを入れると、長崎に関係する公文書の一覧が示されます。

1949(昭和24)年の閣議資料として「広島平和記念都市および長崎国際文化都市の建設について(建設省)」といった文書や、1959(昭和34)年に次官会議の資料としてつくられた「長崎大学長北村精一の海外出張について(文部省)」といった資料が検索され、その件名・細目詳細情報と、場合により現物の写真画像を見ることができます。ほかにも1876(明治9)年に法務省長崎裁判所福岡支庁がつくった「断獄表」といった古い文書も。

国立公文書館は、こうしたデジタルアーカイブのサービスを2005年から始めましたが、2010年3月にリニューアル。国立公文書館の地下鉄広告は、その一環としての位置づけもあるのでしょう。

ちなみに広告の惹句は、「歴史公文書をお好きな時に、お好きな場所で」。

神保町で降りなくても、公文書館の機能の一部を市民が享受できることを宣伝したものです。場所を選ばないことを宣伝する広告が路線図広告にある点に違和感を覚える人もいるかもしれませんが、国立公文書館が「デジタルアーカイブ」のサービスをしていることは伝わります。

国立公文書館「デジタルアーカイブ」はこちら。
デジタルアーカイブリニューアルのお知らせはこちら。
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「ボンディ」のチキンカレー――カレーまみれのアネクドート(21)


東京・神保町には、靖国通りという大きな通りがあります。この通りの南側には古本屋が軒を連ねています。古本屋が南側だけに並ぶのは、北側に本を置くと日差しを受けて本が痛むからとか。

この靖国通りの南側の一角「神田古書センタービル」のなかに「欧風カレーボンディ」があります。靖国通りから一本南へ、細い裏路地から建物に入り、細い階段を上って2階へ。奥から香辛料の香りが漂ってきます。

店の中は、木製のテーブルと壁の絵画。白抜きの明朝体で「非常口」と書かれた誘導灯が昭和を感じさせます。

「欧風カレー」の冠がつくように、ボンディのカレーはフランス仕込みのソースを基本としたもの。「ブラウンソースをベースにカレーの素材を加え、出来上がったものがボンディのカレーソースです」(店のホームページ)。

メニューは、ビーフ、ポーク、チキン、エビなどの各カレーとご飯、じゃがいもが付きます。サラダやマリネなどの副菜もあり、背広姿の集団が皿を分け合って食べます。

カレーとご飯は別の皿で出されます。チーズが散りばめられたご飯の上にルーをかけると、ごろごろした鶏肉もご飯の上に。

ルウは、はじめ口に入れたときは“甘み”から入ります。その直後、口のすべての方向に辛みが広がっていきます。追いうちをかけるように、カレーの熱でとけはじめたチーズが、自己主張のない程度にまろやかさを加えていきます。

具は鶏肉のほかの野菜はすべてルーにとけこんでいます。鶏肉は、男性でも一口では食べられないほどの大きなものが3つほど。程よいやわらかさです。

欧風カレーの王道を行くボンディ。今日も若い客の語らいの声がたえません。

都内・都下にはチェーン店もあります。ボンディのホームページはこちら。
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時事通信よりも電通にツッコミが集中


ヤフーの「トピックス」でとりあげられたニュースが、インターネット上で反響をよんでいます。

時事通信は(2010年4月)21日(水)、「女子はかわいい同性が嫌い? =小学生の本音を調査―電通」という記事を配信しました。

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 電通が21日発表した小学校1〜6年生を対象としたインターネット調査の結果によると、「好きな女の子はどんな子?」という質問に、「顔がかわいい子」と答えた女子はわずか3.0%にとどまった。ねたみなどが背景にあるとみられ、電通の担当者は「子どもの社会も大人と同じのようだ」と苦笑している。
 調査は3月に実施し、関東の小学生男女600人から回答を得た。好きな女子のタイプとしては、男子、女子ともに「優しい子」が最多だった。好きな男子は、男子が「おもしろい子」、女子は「優しい子」が多かった。
 このほか、好きな車は、男子でスポーツカー、女子でミニバンがトップ。全体の66.7%が「野球よりサッカーが好き」と答え、過半数が「英語を習いたい」と考えていた。 
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この記事に対して、記事を読んだ市民から「あの・・・好きな同性の特徴はと聞かれて顔とか見た目って答えた人が多いほうがどうか思うんだが?」「2回読んだけど、よくわからなかった。何で結論がねたみになるの?」「何がしたいの?電通は」といったコメントがヤフーの記事コメント欄に寄せられています。

「好きな女の子はどんな子?」と女の子が聞かれて、「顔がかわいい子が好き」とふつうは答えないだろうというのが市民からのツッコミの中心です。さらに、この結果に対して「ねたみなどが背景にあるとみられ」という分析がどのようになされるのかという疑問も上がっています。

質問項目の解答者が3%だったことだけで、残りの97%がその逆のことを思っているわけでは決してありません。しかも、電通が発表している報告書によると、この質問は「顔が可愛い子」のほか、「スポーツが上手い子」「やさしい子」「面白い子」「頭が良い子」「ゲームが上手い子」の中から「単数回答」する質問になっています。「やさしい子」が好きか「顔が可愛い子」が好きかと聞かれたら、多くの同性の子は「やさしい子」と答えるでしょう。

電通に対して「何がしたいの」といった批判が多くあがっているようですが、時事通信社に対して「何を伝えたいの」という批判はそれほど多くはありません。

記者がこうした調査結果を記事にするとき、調査項目のなかでも特徴的な結果を記事の核に据えることが大切になります。だらだらと結果を伝えるだけでは、だれにも読まれないからです。

電通の担当者のコメントが紹介されているということは、時事通信の記者は電通の担当者に取材に行ったのでしょう。調査結果を見ながら、次のようなやりとりをしていたことが想像されます。

時事「結果の中で、注目されていらっしゃるのはどのあたりですかね」
電通「そうですね、野球よりサッカーのほうが好きだったといった結果なんかもやはり出ていますね」

(このようなやりとりが続く……)

時事「ほかにはどうですかね」
電通「あとは、こんなのもありますよ。好きな女の子について聞いたら、男子のほうは顔が可愛い子をあげた子が学年があがるにつれて増えていきましたが、女子はほとんどいませんでした」

時事「ほぉ。これはちょっとネタになるかもしれません。たしかに女子のほうは、ほとんどいませんね。ひょっとして、女の子の世界にもねたみとかあるのかなぁ(笑)」
電通「ねたみですか。どうでしょう……でも、子どもの社会もけっこう大人の社会とかわらなかったりして(笑)」
時事「ふむふむ」

実際このような会話がくりひろげられたかは定かではありません。しかし、このような会話が行われていた可能性が想像されうる記事にはなっています。

「こういう原稿で配信したいと思います」といった予定稿のやりとりが、時事通信と電通のあいだであったかどうかも定かではありません。新聞社や通信社の取材ではないのが一般です。

配信された記事を電通の担当が読んで、「こんな書かれ方をされてしまった!」という表情を浮かべる……。そんな光景が想像されやすい記事です。

本質的な調査結果は、電通のニュースリリース「小学生の本音を調査 電通は『子ども自身が答えるインターネット調査手法』を開発・実施」で読むことができます。こちら。
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科学ジャーナリスト大賞にNHKスペシャル『リーマン予想』

きょう(2010年4月)21日、優れた科学ジャーナリストの仕事を顕彰する「科学ジャーナリスト賞2010」の受賞者が発表されました。科学ジャーナリスト賞は、日本科学技術ジャーナリスト会議が2006年に創設した賞で、今回で5年目を迎えます。

科学ジャーナリスト大賞に選ばれたのは、NHKチーフプロデューサーの井出真也さんと、ディレクターの植松秀樹さん。2009年11月に放送されたNHKスペシャル『リーマン予想』に対して贈られました。

選考理由は「映像になりにくい数学の世界をCGを駆使して巧みに可視化し、奥の深い科学の魅力を見事に描き出した作品である」というもの。

また、科学ジャーナリスト賞は、書籍3作品と、ウェブ1作品に対して贈られました。

毎日新聞論説委員の青野由利さんに、著書『インフルエンザは征圧できるのか』(新潮社刊)に対して賞が贈られます。選考理由は「昨年、世界を震撼させたインフルエンザの話題を詳細に追うと同時に、歴史的な経緯や今後の課題を含めインフルエンザの全体像をジャーナリストらしい的確な筆致でまとめ上げている」。

サイエンスライターで東京大学広報担当特任教授の佐藤健太郎さんに、著書『医薬品クライシス』(新潮新書)の著作に対して賞が贈られます。「製薬会社の研究者だった経験を生かし、いま、製薬業界が直面している危機の深刻さを鮮やかに分かりやすく説いている。科学者からサイエンスライターへの見事な転身だといえよう」。

歌人でフリーライターの松村由利子さんに、『31文字のなかの科学』(NTT出版)の著作に対して賞が贈られます。「自らも歌人として「科学」を詠み込んだ短歌を集めて解説し、短歌を通じて科学の世界に誘い込むという意外性のある試みに成功している」。

医学博士で元・小樽市保健所長の外岡立人さんに、「鳥及び新型インフルエンザ海外直近情報」(原文ママ)のウェブ活動に対して賞が贈られます。「世界中からインフルエンザに関する情報を瞬時に集め、それにコメントを付けて発信するというwebの特徴を生かした活動を展開し、ときにはメディアの情報源になるほど活用された。今後さらなる発展が期待される一つのモデルだといえよう」。

科学ジャーナリスト賞選考委員は、科学技術振興機構理事長の北澤宏一さん、政策研究大学院大学教授の黒川清さん、筑波大学名誉教授でノーベル化学賞受賞者の白川英樹さん、東洋英和女学院大学学長の村上陽一郎さん、慶應義塾大学名誉教授の米沢富美子(以上、外部委員)、小出五郎さん、柴田鉄治さん、瀬川至朗さん、滝順一さん、武部俊一さん(以上、内部委員)です。

日本科学技術ジャーナリスト会議「『科学ジャーナリスト賞2010』が決定しました」はこちら。

NHKスペシャル『リーマン予想』のホームページはこちら。
青野由利さん著書『インフルエンザは征圧できるのか』はこちらで。
佐藤健太郎さん著書『医薬品クライシス』はこちらで。
松村由利子さん著書『31文字のなかの科学』はこちらで。
外岡立人さんによるウェブ「鳥及び新型インフルエンザ海外直近情報集」はこちら。
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空のなかをミジンコがぴんぴん


晴れた日、青空を眺めてみます。しばらくすると、“ミジンコ”のような小さなつぶつぶが“ぴんぴん”と飛び跳ねているような景色が空のなかで映しだされます。本当は空に映しだされているわけではありませんが……。

これは、俗に“ミジンコぴんぴん現象”とよばれるもの。『ファミコン通信』という雑誌で連載されていた漫画「しあわせのかたち」で、作者の桜玉吉さんが名づけられました。桜さん自身、このミジンコぴんぴん現象を子ども時代に経験していたそうです。

“ミジンコ”の正体はなんなのでしょうか。

眼が原因でおきる「飛蚊症」という現象の一種類であるという説明がされます。

飛蚊症は、眼球のガラス体に浮遊性の混濁を生ずるとき、その混濁が網膜に映じて眼前に蚊が飛ぶように見える現象のこと。眼の表面にごくごく小さい濁りがあるため、明るいところでそれが“影”のようになり、ミジンコのような模様として眼に映しだされるわけです。

“青空を動きまわるもの”はミジンコのほかにもいろいろ。糸くずのようなもの、輪ゴムのように環状になったもの、飛蚊症の名どおり蚊のようなもの、などなど。

ガラス体の濁りがおきるしくみはさまざまです。胎児のとき消えるべきガラス体の組織が残ってしまうもの。接しているべきガラス体と網膜が離れてしまうもの。眼を出血してその血液がガラス体に混ざりこむもの。とくに危険なものでは網膜剥離や眼の炎症といったものもあります。浮遊物の形がかわるなどしたときは変性が進んでいるおそれがありますので眼科に相談したほうがよいかもしれません。

危険なものでは視力が落ちるなど眼のはたらきが失われる状況に発展するものもあります。しかし、多くの場合は生きていくうえではそれほど問題のない生理的なものとされます。「飛蚊症」を「病気」でなく「症状」と表現するのもそのあらわれでしょう。

インターネットなどでは、“ミジンコぴんぴん現象”という言葉で多くの人に通じています。日常生活ではほとんど気にしていないけれど、いわれたら「ああ、あれのことね」とわかる程度で“ミジンコ”がぴんぴんしているということでしょう。

参考ホームページ
平島病院ホームページ「飛蚊症」
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説得力高まる「二軸を二重で」


人間や世間を、対立するような概念でとらえる枠組みは、いたるところに見られます。男と女、若人と老人、ボケとツッコミ、下戸と上戸、昼と夜、都会と田舎、国内と国外、といった具合です。

森羅万象を対立する二つの概念でとらえることができるのであれば、ある対立する概念と別の対立する概念を掛け合わせて、リーグ戦の表のように四つの分類にわけることもできます。

『「超」整理法』や『「超」勉強法』などで知られる経済学者の野口悠紀雄さんは、「縦糸だけでも、横糸だけでも、織物は完成しませんよね。両者の力が、絶妙なバランスでつり合わないと、織物の糸が、すぐにほどけてしましますよね」と述べるスピーチ術をすすめています。

“二軸”をさらに“二重”にするだけで、人の説得力は飛躍的に高まるということでしょう。「AかBか」と「CかDか」を掛け合わせた四分類を示されると、人はかなりの確率で「ああ、もっともだ」とその四分類を受け入れるわけです。

たとえば、“二軸”の掛け合わせには次のようなものがあります。

「理系と文系」と「左脳派と右脳派」。

それぞれの掛け合わせイメージは、「理系で左脳派」が理づめ理づめの生物学者。「理系で右脳派」はひらめき重視の数学者。「文系で左脳派」は説得力のある評論家。「文系で右脳派」は爆発型の芸術家、といったもの。

「ちょいワル派とおとなしい派」と「体育会系と文化会系」。

「ちょいワル派で体育会系」は女子からもてる典型。「ちょいワル派で文化会系」は授業をさぼって屋上で本を読んだり映画館に行ったりするアウトロー。「おとなしい派で体育会系」は今日もひたすら30キロ訓練にはげむ長距離選手。「おとなしい派で文化会系」は地味ながら試験の成績はよい秀才、といったもの(イメージには個人差があります)。

人は、目にしたことがらについて、なんらかの枠組みを当てはめて価値判断をしようとするもの。「A」か「B」か、あるいは「A」か「Aでない」か、といった二軸でとらえることは、最も簡単で、かつ最も人を落ちつかせる方法といわれます。

二軸による枠組みがそうであるのなら、その二軸をさらに二重にして捉える考え方を示されれば、人はますます納得感を覚えるもの。「その掛け合わせは怪しいのでは」といった疑念もおこりづらいのでしょう。

ただし、二軸を三重にすることまで進めてしまうと、たいていの人は自分の理解に対する不安感や“もうわけわからん感”を覚えてしまうようです。
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原因と結果、内容はさまざま
 あらゆるものごとには原因があり、原因がなくてはなにも生じないという法則は「因果律」とよばれています。

ものごとの原因には直接的なものも、間接的なものも、その中間的なものもあり、その見極めがそう簡単ではないこともあります。「何々新聞を読んでいた受験生は東大合格率が高い」といったものも、新聞の内容が試験問題に直結しているのか、「何々新聞」を読むような家庭環境が受験にプラスに働いたのか、その両方か、原因がいろいろ考えられます。

「抗酸化サプリメントを飲むと早死にしやすい」という命題はどうでしょうか。

2007年2月、『アメリカン・メディカル・アソシエーション』という雑誌に、デンマークのコペンハーゲン大学病院ゴラン・ビジェラコヴィク博士らが、抗酸化サプリメントの摂取と死亡の関係を調べた過去の385の研究を分析し、その結果を発表しました。

ビタミンCやセレンといった物質が含まれるサプリメントでは、死亡の危険性を高める結果にはなりませんでした。しかし、ベータカロチン、ビタミンA、ビタミンEなどは死亡リスクを増加させる傾向があることが得られたといいます。

発表によれば、「抗酸化サプリメントを飲むと早死にしやすい」ということを示す結果は出たわけです。ただし、その原因についてはさまざまなことが考えられそうです。

「抗酸化」は、体の細胞の酸化に抗うこと。人の体は活性酸素という物質をため込むと傷つける面もありますが、この活性酸素がまったくなくなっても外敵から身を守るためにはよくなさそうです。

分析した試験のなかには、通常の摂取量を超えて摂取した場合も含まれているようで、これも「抗酸化サプリメントを飲むと早死にしやすい」という結果にはプラスの原因をあたえていることが考えられます。

さらには、こんなことも考えられます。

「サプリメントに頼る人は、病院で薬をもらう代わりにサプリメントで体のケアをしようとする傾向がある。そのため、いざ本格的な病気になっても病院には行かない傾向があるため、早期治療の機会を失いがちになる」

ここまで原因をつきつめて調べた試験はおそらくありませんが、理論的には起こりうることです。

「こうだからこうなる」という単純な因果関係を示されることは、気持ち的にはすっきりするものかもしれません。しかし、因果関係の内容がさまざまあるものごとのほうがこの世の中では支配的です。

参考文献
The Journal of the American Medical Association 2007年2月28日付“Mortality in Randomized Trials of Antioxidant Supplements for Primary and Secondary Prevention”
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臨床研究適正評価教育機構が発足


「臨床研究適正評価教育機構」という団体がこのたび発足しました。

漢字が12文字もならび難しそうな印象ですが、団体の目指すところをごく簡単に表すと、「医療での研究を正しくしましょう」ということになります。“J-CREAR”という略称もあり、こちらは“Japanese Organization of Clinical Research Evaluation and Review”の頭文字をとったもの。

薬が人びとに広く使われるようになるには、医療従事者などが臨床研究という研究をおこなう必要があります。患者をはじめとする人を対象に病気の原因を探ったり、開発中の薬の効果を試したりするのが臨床研究。「病“床”に“臨”む」ということばのとおり、実際の人を相手にすることが要点です。

薬の効き目や安全性を調べるため、医療従事者は複数の患者などに協力をあおぎ、薬を服用してもらいます。いま、実状ではこの試験を薬を開発した製薬企業自体がおこなうことが多くなっています。

みずからがつくったものをみずからで評価することはそう簡単ではありません。評価に“甘え”や“かたより”が出てしまうことが考えられます。

製薬企業にしてみれば、基礎研究から臨床研究まで数年あるいは数億円をかけて開発した製品です。これで「効き目がありませんでした」という結果になってしまっては儲けられません。このような心配があるなかで製薬企業は公正な臨床試験を目指すことになります。

患者の立場になれば、かたよりない評価で臨床試験が行われた薬を使いたいもの。ほんとうは「あまり効き目なし」なのに、製薬企業が臨床試験をみずからおこない「効き目あり」と判断したような薬を使うのは不幸なことです。新しい薬ほど値段が高い傾向もあるため、「高い薬代を払ってあまり効果なし」といった状況にもなりかねません。

機構の理事長に就任した、東京都健康長寿医療センター副院長の桑島巌さんは、機構ホームページで次のように述べています。なお、途中にでてくる“EBM”は、“Evidence Based Medicine”のことで「証拠に基づいた医療」を示します。

―――――
わが国の医療界および製薬企業双方の健全なEBMの発展と実践を願い、臨床医への適正情報の提供と臨床研究に必要な統計解析の教育、指導を目的として「臨床研究適正評価教育機構(J-CLEAR)」を設立しました。
―――――

機構は事業内容として、年報の発行、大規模臨床研究情報の配信と意見交換、若手医師などに向けたエビデンス解釈に関するセミナー開催、一般向け公開講座の開催などを掲げています。今後はNPO(特定非営利活動法人)として活動してく予定です。

個人入会は年間3000円、賛助会員入会は1口10万円で受けつけています。

臨床研究適正評価教育機構のホームページはこちら。
| - | 21:09 | comments(0) | -
「向かって右側」より便利


電車のなかで忘れものをしたことに気づくと、客は駅の忘れもの預かり所に出むいてくわしく説明することになります。なにを忘れたのか、いつ忘れたのか、どこで忘れたのか……。

「どこで」は「電車のなか」なのでしょうが、さらに忘れものをしたとき何両目のどのあたりにいたのかを聞かれます。

このときわずらわしいのは、客が座っていた座席が進行方向に対して右側だったのか左側だったのかを説明すること。忘れものの話を聞いた駅員は、電車の運行を管理している係などに電話をして説明しなければなりません。

「7両目の新宿方面に向かって右側の座席です」

このように、終点の駅を指名して右側か左側かを説明するしかたも考えられます。しかし、鉄道会社間でのりいれをしている場合、この説明だとややこしくなります。

たとえば、東京の新宿駅は都営地下鉄新宿線と京王電鉄京王線がのりいれしています。都営地下鉄の職員が、京王電鉄の職員に忘れ物の情報を伝えるとき、「新宿方面に向かって右側の座席です」だと、方向が入れかわってしまうわけです。

実際、このような状況で忘れものに対応する職員は、つぎのような会話をすることがあります。

「7両目の“山側”です」

日本の多くの路線は、いっぽうは海側に面していて、もういっぽうは海側に面していません。上の例の都営新宿線と京王線も、関東地方を東西に走っているため太平洋側に近い座席を「海側」、反対の座席を「山側」とよんでいるもようです。

「わざわざ“海側・山側”とよぶのでなく、“南側・北側”とよべばいいではないか」という話もありそうです。「南側」「北側」でよばない理由として考えられるのは、路線の区間によっては南北方向に走ったり海側と山側が逆転したりすることや、「海側」「山側」を使うほうが業界用語らしいといったところでしょうか。

なお「海側」という場合、太平洋であることは容易に想像できますが、「山側」という場合、どの山を指すのかは想像がふくらみます。関東地方の場合は、埼玉県の秩父連山や群馬県の赤城山、あるいは神奈川県の丹沢あたりになるのでしょうか。
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“モンティ・ホール問題”シミュレーションでも実証


このブログで以前(2008年9月17日)「直感でわからない数学」という記事で“モンティ・ホール問題”という問題をとりあげました。米国の「レッツ・メーク・ザ・ディール」という番組のゲームをもとにした次のような問題です。

(1)A、B、Cという三つの扉の向こうに、車、山羊、山羊を無作為に置く。車は“あたり”の景品、山羊は“はずれ”。

(2)参加客が、どの扉を開けるか選ぶ。

(3)司会者モンティ・ホールは、残りの二つの扉のうち、どちらかを開けて、山羊を見せる。このとき、モンティは車がある扉がどれであるかかならず知っている。二つの扉とも山羊である場合、モンティはどちらの扉を開けるか決める(どっちにしても山羊が出るが)。

(4)参加客は、空いていない二つの扉のうち、最終的に開ける扉をそのままにすることもできるし、変更することもできる。

このような状況で、最初に選んだ扉を開けるのと、変更してもうひとつの扉をあけるのでは、参加者はどちらのほうが車を獲得しやすいでしょうか。

直感的には「どちらの扉を選んでも2分の1なのだから同じ」となりそうです。ところが、確率的には「変更してもうひとつの扉をあけるほうが車を獲得しやすい」となります。

最初の扉を選んだとき車を獲得できる確率は、3分の1。変更してもうひとつの扉をあけたとき車を獲得できる確率は3分の2になります。「2分の1ずつ」ではなく「3分の1と3分の2」。確率的にはこれほどの差が出るわけです。

では、何度もこのゲームを積み重ねていくと、結果は「3分の1と3分の2」になるのでしょうか。

「レッツ・メーク・ア・ディール」の過去の放送分を確かめればその傾向は見つかりそうですが、昔のビデオは残っていないかもしれません。

コンピュータで計算している人はいます。

千葉大学工学部准教授の西山伸さんは、2001年に自身のホームページの「モンティ・ホール ジレンマの誤解」という記事で、「ルビー」というプログラミング言語を使って1000回試行した結果を書いています。ルビーは日本の技術者まつもとゆきひろが開発したプログラミング言語です。

西山さんは、「その結果、何回やっても670回前後になり、考えを変えた場合の当たる確率が2/3になることがはっきりした」と述べています。

また、ブログ「ronSpace」の管理者であるronさんも、2008年2月のブログ記事「モンティ・ホール問題」で、ルビーを使ってコンピュータにゲームを実行させた結果を書いています。その数は10万回です。

―――――
以下が実行結果です。

>ruby monty_hall.rb
33365:66635
―――――

ということで、結果は33%対66%。「3分の1と3分の2」になるという確率的な結果と一致しています。ronさんは「でもやっぱり不思議」と記事をしめくくっています。

モンティ・ホール問題のような、直感と数学的確率が異なりそうな問題では、ただ世間でいわれていることを伝えるだけでなく、実際に確かめてみる作業も重要であるというメッセージがこの二人の記事にはあります。

参考ホームページ・ブログ
| - | 23:23 | comments(0) | -
尿素回路をめぐるオルニチンが400ミリグラム


キリンビールは、きょう(2010年4月)14日、「休む日のAlc.0.00%」を新発売しました。アルコールを含まないビール味の飲料としては「フリー」につづきます。

缶には意味ありげな言葉や文が見られます。

「回復系アミノ酸」「オルニチン400mg配合」「オルニチンは体内で使われても自らがオルニチンに戻るので回復系アミノ酸と呼びます」

医薬品や特定保健用食品などとして登録されていないため、飲み物のからだへの効果を説明することはできないのでしょう。オルニチンや回復系アミノ酸そのものの説明に終始しています。それにしてもその説明も謎めいています。

オルニチンは、人の体の中にも備わっているアミノ酸の一種。血液によりからだの中を巡りますが、人にとっては肝臓でのオルニチンの働きが頼りになります。

肝臓に入ったオルニチンは、人の体にとって有毒なアンモニアと反応します。その反応により、アンモニアは肝臓の外で無毒な尿素に変わります。尿素はおもに動物の尿に含まれる成分です。

じつは、アンモニアと反応して解毒化をかなえた“元オルニチン”は、その後ふたたびオルニチンとなり、肝臓に入るとアンモニアを解毒することになります。

つまり、肝臓の内側と外側でオルニチンがぐるぐると回るなかで、有害なアンモニアと反応して、無害な尿素につくりかえているわけです。このオルニチンの循環を「尿素回路」あるいは「オルニチン回路」とよびます。

このオルニチンは、自然の食材ではしじみのなかに比較的多く含まれています。キリンビールの説明によると、「休む日のAlc.0.00%」に書いてある「オルニチン400mg配合」とは、しじみ900個分のオルニチンが配合されていることと同じなります。

缶に書かれている「オルニチンは体内で使われても自らがオルニチンに戻る」ということは科学的にも常識となっているわけです。

ただし「回復系アミノ酸」は、科学の世界でもめったに聞かれない言葉。グーグルで「"回復系アミノ酸"」と検索しても、このキリンビールの新製品か、ほかのサプリメント商品の説明しかでてきません。学術論文検索では一致する記事はありません。

「回復系」は、「元オルニチンがオルニチンとして再生する」という意味のほか、「体の回復をうながす」といった連想のしやすさから使われているのかもしれません。もっとも、「回復系アミノ酸と呼ばれます」ではなく、「回復系アミノ酸と呼びます」なので、キリンビールの“呼びます宣言”ともとれます。

キリンビールの「休む日のAlc.0.00%」のホームページはこちら。

参考ホームページ
オルニチン研究会「オルニチンとは」
| - | 18:05 | comments(0) | -
「ツッコまれたら、あなたが『学んでいる』証拠だ」


先週(2010年4月)6日にひきつづき、きょう13日、日経ビジネスオンラインのコラム「鈴木義幸のリーダーシップは磨くもの、磨けるもの」に、コーチA社長の鈴木義幸さんと、東京大学大学総合教育研究センター准教授の中原淳さんの対談記事の後編が掲載されています。

鈴木さんは、民間企業のコーチAで、企業経営者などの目標達成を導くコーチングをしています。中原さんは、東京大学で“大人の学び”を研究対象として、企業・組織における人々の学習・成長・コミュニケーションについて研究しています。

記事の題は「ツッコまれたら、あなたが『学んでいる』証拠だ」。

「誰々さんの話は長いんだよな」とか「長いわりには面白くないんだよな」とか、自分の痛いところを平気でツッコまれるような人づきあいのほうが、学ぶことが多いということ。組織のなかでの上司と部下といった間柄では、なかなかこう平気でいわれることもありません。鈴木さんも中原さんも“社外”にそのような“緊張屋”を求めることをすすめています。

中原さんは、組織の外で人と人が会って学び合う場を自身で手がけています。東京大学で行われている、研究者や企業家を大学に招いての勉強会「ラーニングバー」はそのひとつ。中原さんはラーニングバーを次のように説明しています。

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僕の研究室などが「企業・組織の人材育成」や「組織学習」などのテーマで2か月に1度ほど、研究者と実務家が参加して学びあう研究会をプロデュースしています。「バー」なので音楽やお酒も入りながら、自己紹介をしあい、語りあいます。

ラーニングバーは、「聞く、聞く、聞く、帰る」でなく「聞く、考える、対話する、気付く」場ですから、参加した人は変容を伴う学びを得やすいと思います。最初はこのような場を見つけて参加していればいいと思います。
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「聞いて帰る」のでなく「聞いて気付く」という点に、「学びとは変わることである」という中原さんが考える学びの本質があります。

ただし、中原さんは、ラーニングバーのような会の醍醐味は、参加することでなく主催することにあるとも話しています。自分が他人との関係の中でどのように位置づけられているのかを自分で把握できる“フィードバックのループ”をデザインできる利点があると中原さんは言います。

取材中、中原さんは子ども時代から親子キャンプを企画したりするのが好きな少年だったと話します。本質的になにか集まりを開くことが好きな人は、自分が開いた会合から参加者よりも多くのことを得ているのでしょう。

世の中の大多数は、そのような会を催すことが苦手だったり、面倒くさかったりするのかもしれません。しかし、面倒臭さの殻を破って催してみたところに、新たな境地があるのかもしれません。

日経ビジネスオンライン「鈴木義幸のリーダーシップは磨くもの、磨けるもの」の鈴木義幸さん・中原淳さん対談後編「ツッコまれたら、あなたが『学んでいる』証拠だ」はこちら。

前編「あなたは学びやすい人か、それとも『学ばないことを学んでしまった』人か」はこちら。
| - | 18:25 | comments(0) | -
次元が高まる再生医療


「その話と、この話とは、次元がちがうんだよ!」といった発言がたまに聞かれます。

そもそも、次元とは空間の広がりの度合を示すもの。0次元は点、1次元は直線、2次元は平面、3次元は立体といった具合です。

科学技術のさまざまな分野でも、「1次元ではどうか」「では2次元ではどうか」「すると3次元になったらどうか」といったように、それぞれの次元により物事の扱い方が変わってくる場合があります。というか、ほとんどです。

再生医療という医療の分野でも、次元の視点は欠かせません。

再生医療は、人間のからだのなかの再生能力をもった細胞を取り出して培養し、それをふたたび人間の体に入れて失われた組織や機能を回復させる医療のこと。

人間の骨髄や脂肪などからとれる幹細胞、あるいは人工的につくられるES細胞やiPS細胞などがもっている、各組織に分化する能力を使います。

再生医療における“0次元”といえば、細胞のひとつひとつのことになるでしょう。心不全になった患者などの心臓に、心筋に分化する幹細胞が含まれた液体を注射して心臓のポンプ機能などを回復させる再生医療があります。

“1次元”は例がまれなのでおいておきます。

“2次元”となると平面になります。人間のからだのなかで平面的なつくりをしているものといえば、皮膚や眼の角膜など。幹細胞をからだの外で培養することで、皮膚や角膜の2次元細胞シートをつくり、それを火傷を負った体表面や、免疫疾患で視力を失った眼にあてがい、機能の回復を導き出します。

人のからだの組織は、骨、軟骨、臓器など立体的なものが多くあります。そこで、再生医療の世界では“3次元”の組織をつくる挑戦もつづいています。

2次元的につくった細胞シートを何層も重ねることで立体的な組織をつくるといった方法もそのひとつ。積層された細胞膜のあいだに血管が成長する細胞を入れるなどして、立体的な組織をつくります。この立体構造を、からだの失われた部分に埋めこむことで、本来の組織の働きを回復させるわけです。

各次元ごとでの精度や安全性を高めていく技術進歩とともに、次元そのものを高めていく技術進歩が再生医療にはあるわけです。
| - | 23:59 | comments(0) | -
安くなる“カラー版”の裏側に技術革新(下)

一昔前まで本の印刷には、フイルム出力という工程が欠かせませんでした。また、フイルムを出力するためには費用もかかり、とりわけカラー版の本では製造費用が価格に反映されていました。

しかし、近ごろのカラー版の本を見ると、価格は一昔前よりも安くなっています。その背景にあるのは、フイルム出力をせずに印刷をする技術の台頭です。

印刷業界ではCTP印刷という方法が使われるようになりました。CTPは、“Computer to Plate”の頭文字をとったもの。コンピュータ上でデザインレイアウトしていた文字や図を、刷版とよばれる印刷機にかけるプレートに転写する方法です。

家庭用プリンタでは、コンピュータのワープロソフトなどをフイルム出力することなく直接印字しますが、本づくりでもフイルム出力を省いた方法がとられるようになってきたのです。

これにより本の原価にフイルム出力関連の費用を入れる必要がなくなったため、カラー版の本も安くなりました。

しかし、出版社がフイルム出力をしない印刷方法に一気に移行したかというとそういうわけでもありません。

まず、フイルム出力をのぞく印刷費を考えると、1部にかかる費用はまだ新方式のほうが割高であるという点があります。1万部や2万部といった大量印刷になると「フイルム出力をして印刷をしていたほうが安上がりだった」ということに。新方式では、本が売れれば売れるほどフイルム方式よりも利益が薄くなるという自己矛盾性を抱えているわけです。

また、画像のきめ細かさなどの技術はフイルム出力による印刷とあまり変わらなくなりましたが、紙の“波打ち”という課題が残っています。新方式での印刷機では熱を発するため、紙に含まれていた水分が奪われるなどして紙が大きく波を打つことになります。

いま本の出版は出版社にとって薄利多売の時代。1部ごとの単価を安くして、かつカラー版などで目立つようにしたいという点を考えると、フイルム出力をしない印刷方法に乗り換えるのは妥当な選択となるでしょう。了。
| - | 23:59 | comments(0) | -
安くなる“カラー版”の裏側に技術革新(上)

本屋で手にとる本は、たいていが黒インキ1色で印刷されているか、カラーで印刷されているか。書名を見て、中味を見るためページをめくったとき、飛び込んでくる挿絵や図版が1色かカラーかでは、客の印象が大きくちがってきます。

ここ数年、新書や文庫などの比較的安い本でも“カラー版”が増えています。そして、カラー版の低価格化も進んでいます。最近発売された新書では、アスキー新書の『カラー版 メディチ家12の至宝をめぐる旅』が賞味208ページで税込980円。中公新書ラクレの『カラー版 電車のデザイン』は205ページで1,029円などとなっています。

一昔前、おなじ分量の書籍を買おうとすれば、この1.5倍や2倍の値段がしていたことでしょう。

書籍の印刷では10年前まで、ほとんどの場合“フイルム出力”という工程を踏んでいました。編集者は「これ以上、原稿の修正はありません」という校了段階を迎えると、コンピュータ上でデザインレイアウトしたデータなどを印刷工場や出力センターに持ち込んで、フイルム出力を依頼しました。

スチルカメラで撮った写真を紙で見るとき、撮影したフイルムを紙に出力する必要があります。本づくりにおけるフイルムの役割も基本的にはこれとおなじ。本の寸法であるA5判やB6判の8倍ほどのフイルムに、8ページ分が収まるようにフイルムに文字や図を感光させ、これを印刷用紙に出力することで印刷をするわけです。

本の原価を考えるとき、編集者の人件費や著者への印税などの費用とともに、フイルム出力代は大きなものでした。

たとえば、B6判という、新書より少しだけ大きい寸法の書籍でフイルム出力をする場合、8ページ分で7,000円ほどの値段がします。224ページの本では28枚のフイルムが必要となり、フイルム出力費だけで19万6,000円かかることに。

さらに“カラー版”となると、出力するフイルムは、シアン版、マゼンタ版、イエロー版、ブラック版という4枚組になります。つまり、224ページすべてカラーという書籍では、78万4,000円となります。

フイルム出力をした段階で、もし内容に誤りがあったり、図版の差替えが必要になったりすれば、該当するページが含まれているフイルムを出力しなおさなければなりません。こうしたフイルム代が、本の価格にも反映されていました。

ところが、いま本屋を覗いてみると、カラー版の本の価格と1色の本の価格の差は減ってきました。“カラー版”低価格化の背景には、出版技術の変革があります。つづく。
| - | 23:58 | comments(0) | -
「どうやらあれは新入社員らしい」

日本にとって4月は新年度。江戸時代、親が子どもを寺子屋に入学させるの時期として、気候のよくなる春先が多かったため、日本では春が年度の始まりとなったという説があります。

「春夏秋冬」ということばのある国では、春の季節から新しい“1年”が始まることは多くの人が納得いくことなのでしょう。

新年度の開始時期は、新入社員の入社時期でもあります。最近では、大学を卒業していない3月下旬に入社式が行われる会社もあるなど、“年度の早期化”もあらわれてきています。

オフィス街などに行けば、不特定多数の背広を来たサラリーマンを多く見かけます。加えて、この季節は、新入社員も街角に多くいるため街のなかがにぎやかになります。

新入社員も勤続2年以降の会社員も背広を着ています。見かけ上はおなじであるはず。しかし、ベテランのサラリーマンなどは、街中で「あれは新入社員だな」「あれは新入社員じゃないな」と見分けがつくといいます。

このベテランによれば、街中にいる背広姿の人物が新入社員か否かを区別する判断材料が様々あるといいます。使いたての背広やネクタイがまだくたくたしていないこと、靴がぴかぴかしていること、などなど。

もうひとつ、「どうやらあれは新入社員らしい」と判断できる光景があると、このベテランサラリーマンは言います。

「昼休みに、数人で街なかをたむろしていたら十中八九は新入社員だよね」。

入社して間もない新入社員にとって、会社という場は、いわばまだ“アウェー状態”。そうした環境において、同期の新入社員はまず対等な立場でいられる仲間となります。

ベテラン曰く、新入社員が同期の仲間とつるまず、昼食時にソロ活動を始めるのは、まだリスクがある段階。そこで、新入社員は同期どうし、数人が固まって昼食を食べにいくという理論のようです。

やがて、5月になり、6月になり、会社という場所に慣れていくと、じょじょに昼休みの行動もみなばらけていくことでしょう。
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取材時の「追いぬき現象」
 物書きの世界では、たまに「追いぬき現象」とよばれるような現象がおこります。

新聞、雑誌、書籍などの記者は、記事を書くために取材をします。その取材について詳しいと思われる人物に会い、記事づくりに役立つ解説や意見などを聞くのです。

記者は、取材対象者となる人物から、「『何々何々』と誰々教授は話す」といった鍵括弧内の言葉をもらうだけでなく、その主題の背景知識などを解説してもらい、鍵括弧以外の“地の文”づくりの参考にもさせてもらいます。

記者はいろいろとをそのテーマや取材対象者のことについて下調べをして、約束の日に当人に会いにいきます。あって取材が始まるとまもなくして「追いぬき現象」が起きることがあります。

記者「これこれこういったことがよく言われますが、この件についてご解説いただければと思うのですが……」

取材対象者「あの、すいません。それってなんでしたっけか……」

このような調子で、取材対象者より記者のほうがその主題に対して知識を豊富にもっていて、取材対象者の話がすべて記者の知識のうちにとどまってしまうわけです。知識や情報の点で、取材対象者を追いぬいてしまっているから「追いぬき現象」。

この場合、記者のほうが取材対象者を追いぬくほどに下調べをしたか、取材対象者として考えた人がそれほど知識をもっていなかったかのどちらかになります。いずれにしても、記者も取材対象者もばつが悪い状況に陥ります。予定していた取材時間よりも早く切り上げることもしばしばとなります。

しかし、取材で記者が取材対象者を追いぬくことのできないものもあります。それは、体験談や個人的な意見を語ってもらうことです。主題について、取材対象者が経験したことをもっているのは取材対象者だけ。取材対象者が抱いている意見をもっているのは取材対象者だけとなります。

新聞の社会面などでは、街で起きた事件について、そのあたりを歩いている一般の人のコメントが掲載される場合があります。その取材対象者はとりわけその主題に詳しいわけでもありません。それでも、記事に「現場近くを歩いていた会社員の誰々さん(28)は……」という形で掲載されるのです。
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「ラジコ」で聴く機会が増える中波ステレオ


2010年3月15日から、ラジオ放送がそのままインターネットで聴けるサービス「ラジコ」が、一部の地域で始まりました。

関東圏の民間放送のTBSラジオ、文化放送、ニッポン放送、ラジオNIKKEI、インターFM、東京FM、J-WAVEと、関西圏の民放ラジオ、朝日放送、毎日放送、大阪放送、FMココロ、FM802、エフエム大阪が対象です。インターネットラジオでも、通常の電波が届くエリアに向けて放送されています。

これまでも、コンピュータを通じてラジオ放送を聴く方法はありました。iTUNESというアップルコンピュータのソフトを通じて世界のインターネット放送局から流れる音楽を聴いたり、一部の民放では番組の一部を公開するなどしていました。

しかし、新聞のラジオ欄に名を連ねる放送局がすべての放送時間にわたって、広告カットなくインターネットで放送するというのは日本では初めてのことになります。

インターネットラジオの大きな特徴は、中波(AM)放送でもステレオで聴けること。コンピュータのスピーカからそのまま聴くのではあまり気づきませんが、ヘッドホンを付けて聴くと、音楽などが響くように聴こえます。

AMステレオ放送は、今回のインターネットラジオから始まったものではありません。1992年から、在京や在阪の放送局を中心にステレオ放送を始めています。ステレオ放送専用の受信機があれば、ステレオ放送が楽しめるというもの。とくに音楽番組では音の奥ゆきを、また野球やサッカーなどスポーツの実況放送では臨場感を楽しむことができます。

しかし、NHKはこの試みに参加せず、ステレオ受信機も2000年ごろまでに生産終了となっていたため、あまり定着することなくこれまで続いてきました。

今回のインターネットラジオの試験的配信で、ふたたび中波のステレオ放送に脚光が当たるでしょうか。そのほか、ポケットラジオをもっていない人も、iPhoneなどのインターネットをすることのできる端末を野球場やサッカー場にもっていき、観戦しながら実況放送を楽しむことができそうです。

「ラジコ」のホームページはこちら。
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「あなたは学びやすい人か、それとも『学ばないことを学んでしまった』人か」


日経ビジネスオンラインのコラム「鈴木義幸のリーダーシップは磨くもの、磨けるもの」に、きょう(2010年4月6日)、「あなたは学びやすい人か、それとも『学ばないことを学んでしまった』人か」という対談記事が掲載されています。

対談者はコーチA社長の鈴木義幸さんと、東京大学大学総合教育研究センター准教授の中原淳さん。

鈴木さんは、民間企業のコーチAで、企業経営者などの目標達成を導くコーチングをしてきました。いっぽう、中原さんは、東京大学で“大人の学び”を研究対象としながら、研究者や企業家を大学に招いての勉強会「ラーニングバー」を手掛けるなどしています。

中原さんは、学びの本質を「話を聞いて、考えて、対話して、気づき、行動する」ことだと話します。いいかえれば、「変えること」や「変わること」が伴う行為が学びだということです。

その上で、中原さんは、心理学者クルト・レヴィンという研究者が示した人の行動や認知のしかたを表す方程式を紹介します。

「B=(P・E)」

「P」は“Personality”、つまり「パーソナリティ」。「E」は“Environment”、つまり「環境」のこと。個人的性格と対外的環境により、その人の行動が決定づけられるということです。

「学ばないことを学んでしまった人はすごく多い」と語る鈴木さん。上の方程式からは、大人が何かを学ぼうとするためには、いかに本人が身のまわりの環境や人から刺激を受けるかということが大切になります。

鈴木さんは、街の“ならず者”が、気に入った娘からの「あなたが紳士的であればデートしてもいいわよ」という言葉で更正し、街の名手となったという逸話を紹介します。

自分にとって価値の高い人から刺激を受けることの重要性を再認識できる話が語られています。春は学び始めるにもちょうどよい季節であり、出会いの多い季節でもあります。

日経ビジネスオンライン「鈴木義幸のリーダーシップは磨くもの、磨けるもの」の鈴木義幸さん・中原淳さん対談前編「あなたは学びやすい人か、それとも『学ばないことを学んでしまった』人か」はこちら。
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“竹の秋”はじまる


桜の花も散ると、いよいよ新緑の季節になります。

いっぽう、竹にとっては、これからの季節は“秋”。竹の葉が枯れて落ちていくのです。旧暦の3月は、「竹の秋」あるいは「竹秋」などともよばれています。

ほかの木々は新しい緑がそろそろ芽ぶいてくる季節だというのに、竹はなぜこの季節に枯れていくのでしょうか。

タケは、イネ科タケ亜科のうち、茎が木の質のようになるものを総称しています。

竹にとっての若芽といえば、筍。地下の茎からにょきにょきと生えてきます。竹の葉が春に枯れるのは、若芽である筍に養分を多くあたえるため、葉っぱまで栄養が回らなくなるからだといいます。

「筍の親まさり」という言葉があります。これは、子どもがその親よりも優れていることのたとえ。こうしてたとえられるように、竹の地下茎から生えてくる筍は、ものすごい勢いで育っていきます。

筍は、土から顔を出してからしばらく、わずか1日のうちに数十センチも成長する時期があります。「筍」という言葉は、「たけかんむり」に「10日間」などを意味する「旬」。芽が出て10日間のうちにものすごい勢いで成長するために「筍」という字がつくられたともいわれます。

筍に栄養を吸いとられた竹は、さらに夏のあいだ成長を止め、地下の茎の部分に栄養を貯えます。そして、ようやく秋になると、自分の葉っぱをふたたび青々と色づかせるのです。そのため、旧暦の8月は「竹の春」ともよばれています。
| - | 23:59 | comments(0) | -
「一致はありません。」に前向きな人、後向きな人
 

グーグルは、インターネット上にある言葉を検索するためのサービスです。探したい言葉をひとつか複数、グーグルに入力すると、その言葉が使われているホームページの見出しや該当箇所を一覧することができます。

このグーグルを使った言葉の検索を、物事の判断に使っている人もいます。似たものどうしの言葉について、どちらのほうがより一般的に使われているかをグーグルに判断させるというのもそのひとつ。

たとえば、米国カリフォルニアの州都は「ロサンゼルス」。これを「ロス・アンゼルス」あるいは「ロサンジェルス」などと表現する場合もあります。

そこで、["ロサンゼルス"]["ロス・アンゼルス"]["ロサンジェルス"]とそれぞれ検索して、最も該当する件数が多いものを、社会に最も通用すると思われる表現と判断わけです。

ある言葉が、グーグルで1件も検索されない場合、「"何々何々"との一致はありません。」というふうに結果が出ます。このとき、人々の判断はふたつにわかれるといいます。そしてそれは、グーグルにどこまで依存しているかの指標にもなるといいます。

「あれ……、この言葉、グーグルで1件も出てこないのか。ということは、自分がインターネット上で使いはじめれば、それによってインターネット上でも広まることもあり得るのだな」

この人は、すべての言葉、知識、情報がインターネット上にあるわけではないということを心得ているようです。そして、自分がその言葉、知識、情報をインターネットの世界に広めることにも喜びを感じているようです。

対して、グーグルの検索が1件も出てこないとき、次のように反応する人もいるといいます。

「あれ……、この言葉、グーグルで1件も出てこないのか。おかしい。ひょっとして私が仕入れたこの情報は、嘘のつくり話なのではないか……」

この人は、森羅万象の言葉がインターネット上に存在し、グーグルが拾い上げない言葉はないと信じ込んでいる人です。グーグルへの信頼度あるいは依存度はかなりなものといえます。

どちらの考え方がよいということではなさそうです。本や雑誌記事の企画を考えるような人にとっては、「"何々何々"との一致はありません。」と出た場合「ほとんどの人が知らない話なのか!」と前向きに思うでしょう。対して、本屋雑誌の原稿を校閲するような人にとっては「グーグルで検索されないとは、この情報は怪しいな」と疑いを強くするでしょう。

ただし、世の中の情報のすべてがインターネット上で表現されているわけではないという常識に照らして考えれば、グーグルで1件も検索されない言葉が存在しても不思議はないというのが真実といえそうです。現在のところ。
| - | 23:59 | comments(0) | -
1日30万通が保つ笑いの水準


「大喜利」は、「大切り」とも書きます。もともと「歌舞伎におけるその日の最終演目」とか「寄席におけるその日最後の出しもの」とかいった意味があります。

テレビ番組での「大喜利」というと、多くの方がまず思い浮かぶのが日本テレビの長寿番組「笑点」の大喜利でしょう。司会の桂歌丸の問い掛けに対して、解答者がうまい答えを出せば座布団が追加。10枚たまると“豪華賞品”を得られます。解答者5人の答えに、噺家としてのプロフェッショナルぶりを感じる視聴者も多いことでしょう。

これとは対極的な「大喜利」もあります。土曜日の24時にNHK総合で放送されている「着信御礼! ケータイ大喜利」です。

ケータイ大喜利は、番組中にお題が出され、それに対してテレビの視聴者が携帯電話を使って答えを送信し、即座にその答えを紹介する番組。1回の放送で着信する答えは30万通以上といい、この数値は回数を重ねるごとにだんだん増えていっています。

「笑点」では5人のプロの噺家がお題に答えるわけですが、「ケータイ大喜利」では万人の素人がお題に答えるわけです。素人がつくる番組とはいえ、毎回30万通もの着信があれば、笑いの質はとても高いものになります。

多数の人々がある取り組みに参加して出された知恵は、質の高いものになる。これは、「集合知」あるいは「ウィズダム・オブ・クラウド」の理論とよばれます。これとおなじ理論が「ケータイ大喜利」には働いているのでしょう。お笑いのプロとおなじ水準を担保しているのが、参加者の多さ。「集合笑」あるいは「ウィズダム・オブ・ラフ」を感じられる番組が「ケータイ大喜利」です。

日曜日、「大喜利」の見くらべもよいかもしれません。

日本テレビ『笑点』のホームページはこちら。
NHKの『着信御礼! ケータイ大喜利』はこの(2009年)4月からは月3回の放送になりました。ホームページはこちら。
| - | 23:49 | comments(0) | -
空は“鏡餅”のように見える


昼間に空を見上げれば青空が、夜に空を見上げれば夜空があります。そして空をぐるっと見渡してみると、雲や星の位置から頭の真上のそらは高く、地平線付近の空は低く見えます。

地球の表面にいる人々は、空を天球として見ているわけです。人々は、半球の内側の中心から、半球の縁を眺めていることになります。

しかし、その天球が真ん丸のボールを半分に割ったように見えるかというと、そうともいえません。地平線付近の空は比較的とおく、天上付近の空は比較的ちかく見えるといいます。つまり天球は、真ん丸のボールを半分に切ったかたちでなく、鏡餅のように扁平したかたちに見えるというわけです。

気象学者の倉嶋厚さんは、天球が扁平にみえる現象を次のように説明します。

――――――
開けた場所に立って、頭の真上(天頂)と地平の一点を結ぶ円弧を想像し、その中点を指差してみる。もし人が空を半球と感じているのであれば、その指は地平から四五度の点を指すはずである。しかし実際は約三〇度を指してしまう。
――――――

天球の0度から90度までの中間どころを指差したつもりが、じつは30度付近の角度を指差しているというわけです。

地平線付近の空が遠く見えて、天上付近の空が近く見えるのなら、地平線付近にある月や太陽は遠く見えて、天上付近の月や太陽は近く見えると考えてもおかしくなさそうです。しかし、見た目の感覚はこの逆になります。

遠いところにあるものほど小さく見えるわけです。つまり地平線付近の月や太陽は、天上付近の月や太陽より小さく見えます。このとき、人が比較するものはごく近くの建物や山並みです。建物や山並みはあまりにも近いため、地平線上の建物も頭上にそびえる塔も、さほど遠くに見えたり近くに見えたりすることはありません。

たてものは地平線付近も天上付近もおなじ大きさに見えるいっぽう、月や太陽は地平線付近では小さく、天上付近では大きく見えるわけです。

建物の大きさに比べて地平線付近の月や太陽は相対的に大きく見えて、天上付近月や太陽は相対的に小さく見えることになります。

以上のことは地平線付近の月や太陽が大きく見えることの説明のひとつです。ただし「ではなぜ空が扁平に見えるのか」といった点については、まだ解明されていないというのが現状のようです。

参考文献
| - | 21:29 | comments(0) | -
亀裂を修復した分銅座

長さ、容積、重さというはかりの三要素は「度量衡」ともよばれます。

はかり方やはかる道具があいまいだと、「私のはかりではこうなります」「いや、私のはかりでは違います」などと、話がうまくいかなくなってしまいます。計測法の統一はいつの時代にも大切でした。

江戸時代、幕府は容積をはかる枡、重さをはかる秤、そして分銅の三つについて統制をはかっていました。幕府がそれぞれの道具職人を指定し、その御用達一家がつくった道具を正式なものとしたのです。

分銅は、天秤で目方をはかるときの標準にする重りです。学校の理科の実験などで使った記憶がある方もいるでしょう。江戸幕府は、京都の彫金師である後藤四郎兵衛がつくる分銅を公的なものにしました。「後藤四郎兵衛」は、世襲的な名前のため特定の一人をさすわけではありません。

街の衆が使う分銅は、後藤家の印が付いたものでなければなりませんでした。それ以外の分銅は「似せ分銅」と言われて使用が禁止されました。後藤家が分銅づくりを独占していたといってもよいでしょう。幕府の保護を受け、商品の製造・販売上の独占権を有した人々は「座」ともよばれました。

1665(寛文5)年から後藤家が始めた分銅座。政府が江戸にあることもあり、その後、後藤家は江戸に移動。京都を分家としました。

江戸と京都の感覚的距離はいまよりもずっと遠かったことでしょう。享保年間(1716-1736)には、江戸の本家後藤家と、京都の分家後藤家のあいだで、分銅をめぐり対立も起きるようになりました。分家が本家を次のようなことで京都の奉行所に訴えたのです。

「似せ分銅が出まわっているので、分銅の改訂をしたいが、本家がそれを同意しない」
「江戸の本家は、西国の事情に不案内なので、分銅の改訂の大切さを認識できないのだ」
「江戸の四郎兵衛は一族の長なのに、米や収益を供出しようとしない」
「なにより、江戸の四郎兵衛はわがままだ」
「分銅づくりの技術は京都発なので、今後も京都の分家に命じてほしい」
「大判の管理も京都の分家に命じてほしい」

訴えに「わがままだ」とまであることに、両家の対立の根深さがうかがわれます。

政府にとっても後藤家のお家騒動は困ること。そこで、京都奉行所の斡旋により、本家と分家の関係修復を試みました。

訴えを起こした分家としても、本家の四郎兵衛と幕府の結びつきがなければ、やはり家業を保つことはできません。そうした事情もあり、最終的には本家に譲歩して、関係の修復をはかったといいます。

しっかりした分銅を扱う後藤家だけあって、一族に入った亀裂もどうにか修繕されたようです。その後、後藤家の分銅座は、1876(明治9)年まで続いたといいます。

参考文献
馬場章「後藤四郎兵衛家の分銅家業」2007年『計量史研究』19
| - | 21:38 | comments(0) | -
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