科学技術のアネクドート

「『継続は力』が『飽きる力』を失わせる」


きのうの日経ビジネスオンライン「鈴木義幸のリーダーシップは磨くもの、磨けるもの」最終回に続いて、きょう(2009年9月30日)コラム「カラダを言葉で科学する」が最終回をむかえました。この企画は尹雄大が執筆、佐藤類さんと風間仁一郎さんが撮影をしました。

尹雄大さんの鋭角的な問いと、研究者の変幻自在な答えで進行するこのコラム。最終回は東洋大学教授の河本英夫さんが登場します。題は「『継続は力』が『飽きる力』を失わせる」

河本さんは日本のオートポイエーシス研究の牽引役。オートポイエーシスは、自分で自分をつくり出すような身体や社会や文化などのしくみのことで「自己創造」「自己産出」「自己生産」などと訳されます。

そんな河本さんは近年、家族の病気がきっかけでリハビリテーションに関わるようになりました。この分野でも、河本さんの研究心が多いに広がっています。

脳の病や障害というものの概念をつぎのように説明します。

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 前提となる考えは、「本人もしくは神経ネットワークが回復に努めた結果が病気なり障害であり、それらを活かすようにする」ということです。
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「回復に努めた結果が病気」とは、むずかしい表現ですが、神経ネットワークが損傷後に自己のネットワークを回復させようとする努力が、病気や障害という結果になっているということ。

そして、リハビリテーションとはどういうものか説明します。

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そもそもリハビリとは認知できないことをできるようにするものではありません。知ろうとする試行錯誤に同時に伴う身体行為が重要なのです。この身体行為が世界とのかかわりを形成します。
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脳の機能の回復には、ただ認知的なものでなく、身体的なものが伴う必要があるということです。

話は展開して、リハビリテーションとは縁のないビジネスマンへの成長論へと向かいます。

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“飽きること”も重要です。スポーツの練習や仕事をものすごくがんばっても、記録や能力の伸びない人がいますよね。そういう人には飽きる力がないのです。
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つまり、人は「飽きる力」をもっているものの、「継続は力なり」の概念が、その力を失わせているということ。飽きるということと好奇の目をもつということは表裏一体なのかもしれません。

ビジネスマンに役立ちそうな「カラダの智慧」を求め半年。10人の専門家がおおいに語りました。扱われた分野は、「運動音痴」「小腸」「没頭感」「学習」「鍼」「日本人的所作」「動的平衡」「睡眠不足」「宇宙滞在」そして「自己創造」。

むずかしそうな印象の言葉が並びますが、すべては人間という生身に直結する主題です。

河本さんの最後のこの言葉で、連載コラムは閉じられました。「運動とは常に謎のものです。謎だから感じ取ったものをわかったつもりにしてはいけないのです」。

心身への探究は、謎が続くかぎり、これからもずっと続いていくことでしょう。

「カラダを言葉で科学する」記事一覧はこちら。
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「最初から最後まで『自分』なんです。」


日経ビジネスオンラインのコラム「鈴木義幸のリーダーシップは磨くもの、磨けるもの」が、きょう(2009年9月29日)の記事で最終回を迎えました。前身のコラム「鈴木義幸の『風通しのいい職場づくり』」から数えると14か月の長期連載。連結社とともに編集をしました。

コーチA社長の鈴木義幸さんは、人が仕事などで目標達成するための指導である“コーチング”を日本で広めた人物の一人。「『リーダーシップ』は、特別な一部の人のみに宿るものではなく、全ての人の中にあるもの」と位置づけて、だれもがリーダーシップを磨くための方法を一話ごとに伝えてきました。

リーダーシップという主題を考えたのは鈴木さんでした。リーダーに対するコーチングをしてきた心の内に「自分はリーダーではない。向いていない」とリーダーから遠ざかろうとする日本人像があったのでしょう。

そして最終回の題は「最初から最後まで『自分』なんです。」。モチベーションなどの感情の上下動は、外部からの刺激によって主導されているのでなく、本人の心の中でつくったり選んだりすることができるものだと説きます。

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 情熱も、勇気も、愛も、あらかじめ内側にあったから、引き出されるのです。外側から付け加えられるものでは決してありません。いまもこの瞬間、内側にあるのです。
 それは、他人の力を借りずとも、自分で引き出すことが十分可能です。
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リーダーシップは誰もがもっているものという全体的なメッセージ、そして、感情は自分自身でつくる出すことができるという最終回のメッセージ。これらから「人が頼りにできるのは、ほかならぬ自分だ」という結論が導きだせます。

連載はこれでいったん終わり。でも、鈴木義幸さんの“声”は、これからもさまざまな場面で人々の心に響くことでしょう。

「鈴木義幸のリーダーシップは磨くもの、磨けるもの」記事一覧はこちら。
「鈴木義幸の『風通しのいい職場づくり』」記事一覧はこちら。
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単純な収支計算とは別のダイエット言説
人は、人類史のなかのほとんどの時間を飢餓ととなりあわせで暮らしてきました。飽食の時代になったのは、ここわずか50年ほどのことです。

飢餓への備えとして、人の身体は脂肪を貯蔵するしくみをもっています。昔は生存のために必要で便利なしくみだったものが、飽食の現代では“太ってしまうしくみ”へと見られるようになりました。

そこで、肥満を気にする人はダイエットをするわけですが、その方法や言説はさまざま。

ちかごろよく聞かれるのは、「夜食べると太る」という言説です。たとえば「『夜食べると太る』は本当だった」という見出しのつぎのようなインターネット記事。

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食後2、3時間は起きているのが望ましいとされている。また、自律神経が肥満とも関係している。自律神経には交感神経と副交感神経があり、寝ている間は副交感神経が活発になる。すると体は「お休みモード」に切り替わり、翌日に向けて脂肪をためこもうとする。夜間には食べた分は脂肪として蓄えられやすくなる、というわけだ。
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「夜食べると太る」というのは、「その人の1日の消費エネルギーを超える分を夜食としてとれば、それが脂肪として身体に蓄えられる」という意味で本当なのでしょう。

ただし、こうした記事でなかなか触れられないのは、「夜に食べるぶん、昼間は食べないで活動的に過ごしていますから、という人はどうなるのか」ということです。

たとえば、夜にカップヌードルを食べても、昼にカップヌードルを食べても、1食458キロカロリーは458キロカロリー。どの時間帯に食べようが、1日の総エネルギー摂取量から1日の総エネルギー消費量を単純に引き算して、負になれば消費エネルギーのほうが多くなり(だからまだ食べても大丈夫)、正になれば摂取エネルギーのほうが多い(だからこれ以上食べたら脂肪がたまる)ということは明らかです。

エネルギーが不足なのか過剰なのかは、この単純な収支計算で求められます。しかし、おなじカロリーのものでも、どのように食べると脂肪として貯まりやすいか、という話はまた別にあるもよう。

おなじ記事では、摂取したカロリーや運動量はおなじにもかかわらず、明るい時間にごはんを食べたマウスより、暗い時間に食べたごはんを食べたマウスのほうが体重が増えたという米国での最新の実験結果も紹介しています。

また、おなじカロリーの食べものを“どか食い”するのと“ちびちび食い”するのでは、どか食いのほうが太りやすいという話もあります。

分子生物学者の福岡伸一さんは、このしくみを「シグモイド・カーブ」と照らし合わせて説明します。シグモイド・カーブとは最初と最後はなだらかなものの途中は急な上昇を示すようなグラフ曲線のこと。



ラジオなどの音量を上げていくとき、無音の域のほうではしばらく音量を上げても無音のままながら、いったん音が聞こえ出すと急に音量が上がります。これとおなじように、カロリーのインプットとアウトプットは単純な比例関係ではないといいます。だから「チビチビ食べたほうが絶対に太りにくい」。

ダイエットの基本とされているのは、「食事は控えめにして、運動を多めにすること」。しかし、“基本”と“王道”は別。だからこそ、さまざまな方法や言説が話題になるのでしょう。

参考記事
J-CASTニュース2009年9月13日「『夜食べると太る』は本当だった 『8時以降は食べない』『夕食抜き』ダイエットも」
参考文献
福岡伸一『動的平衡』
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「エチオピア」のチキンカリー――カレーまみれのアネクドート(16)


JR御茶ノ水駅の御茶ノ水橋口から、明大通りの坂を下り、明治大学を超えた駿河台下の手前に、カリー専門店「エチピア本店」があります。

住所は東京都千代田区神田小川町。カレー店の“メッカ”神保町のとなり街ですが、カレーマニアにとってはエチオピアも「神保町のカレー屋」の重要な一角をなす店。

場所的にも位置づけ的にも中心ではないものの、神保町のカレーを語るうえでは欠かせない存在。1980年代の巨人軍でいえば、さながらシュアに脇を固めた淡口のような存在です。

「エチオピア」の名にちなんでアフリカンなカレーを売りにしているのかといえば、そういうわけではありません。店名は、開店当時の1988年ごろ扱っていた「エチオピアコーヒー」が評判だったため、これを店名に下とのこと。12種類のスパイスを配合した、インドカレーと日本カレーの中間的なカレーです。

献立の一番目にあるのが「チキンカリー」。辛さは中辛の「0」から、1倍、2倍、3倍……と続き、75倍まで選べます。

このエチオピアのカレーは、ご飯とルーのペース配分が比較的むずかしいカレーといえます。ライスの量が普通でもかなり多く、具もチキンカリーの場合、鶏肉やピーマン、豆などがごろごろでルウは若干すくなめだからです。

そのため、「ライスとルウ」の組み合わせだけを考えて食べるとライスが余ってしまうことに。何度か「ライスとルウ」の組は横に置いておいて、「ライスと具」のみの組で食べることにより、ライスが余らずに食べ終わるような算段です。あるいは、あらかじめ「ライス少なめ」や「ライス半分」と注文する通も。

ルウの味のほうは、本来のスパイスによる辛さが来る前に、長時間煮込んだ野菜の味が先行し、このふたつの組みあわせが直接的に舌に訴えかけます。ルウに使われている野菜は公開されていませんが、トマトをかなりの量、使っていそうです。

スパイシーなルウ、ごろごろした具、そして量の多いライスが三位一体で均衡のとれたカリーライスです。

カリーライス専門店「エチオピア」のホームページはこちら。
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蠅が“おいてきぼり”にならないのは空気の影響が大


「慣性の法則」という物理法則があります。英国の物理学者アイザック・ニュートンが、天文学者ガリレオ・ガリレイや哲学者ルネ・デカルトらの発見を整理して提唱したとされる法則で、つぎのように説明されます。

「静止または一様な直線運動をする物体は、力が作用しない限り、その状態を持続する」

「動いていない」あるいは「一直線に動きつづけている」ものは、なんの力も加わらないかぎり、いつまでたってもその状態をつづける、ということです。

「でも、転がしたボールは、いつか止まるじゃないか」と思う人もいるでしょう。これは、ボールに空気や地面との摩擦という力が加わるからです。

慣性の法則を説明するとき、よく例になるのが、「電車でジャンプ」です。

「一直線上に動きつづけているもの」を、仮に「線路の上を動きつづける電車のなかにいる乗客」と考えます。この乗客が、最後尾の車掌室から50センチ離れた位置で、ぴょんとジャンプしたとしたら……。

ジャンプする直前とジャンプした直後で、電車そのものは20メートルほど進みました。いっぽう乗客は、ジャンプしても最後尾の車掌室から50センチ離れた位置とおなじ床に着地することでしょう。

これは、一直線に動きつづけている乗客にとって、一直線に動きつづけている状態が保たれたため、一直線にうごきつづける電車のなかでおなじ位置の床に着地した、ということ。慣性の法則が働いていたわけです。

では、電車内の蠅(はえ)の場合はどうでしょう。

よく挙げられる疑問は「移動する電車の床を飛びたった蠅が、車両の後ろ側の壁にぶつからないのは、慣性の法則が働いているからですか」というもの。

この問いに対しては「慣性の法則が働いているからだけではない」という答えが妥当な線となるでしょう。

この答えを、思考実験的に説明すると、つぎのようなものになります。

貨物列車などの屋根のない床だけの電車を考えます。まず、人がこの車両の床をジャンプしたとします。この人は、ジャンプする前とほぼおなじ床の位置に着地することでしょう。慣性の法則が働くからです。

いっぽう、屋根のない貨物列車の床で、つぎに蠅が飛びたったとします。この蠅は、人とちがって、おそらく貨物列車の動きに対して“おいてきぼり”にされてしまうことでしょう。

飛びたった蠅にも慣性の法則は働きます。しかし、それよりはるかに強い空気抵抗が、人よりはるかに小さな存在の蠅に強く働くからです。

では、新幹線のような、空気が密閉された車内で蠅が飛びたったらどうでしょう。蠅は走る電車からおいてきぼりにされることなく、車内を飛びまわることでしょう。

空気が密閉されている列車では、屋根のない貨物列車とちがって、動く列車とおなじ速度で車内の空気も動いていることになります。この動く空気にどっぷり浸かっている蠅は、やはりおなじ速度で動くのです。

動く電車の密閉された車両で蠅が“おいてきぼり”にならないのは、慣性の法則の影響よりも、電車といっしょに動く空気の影響のほうがはるかに高いのです。

よって、「移動する電車の床を飛びたった蠅が、車両の後ろ側の壁にぶつからないのは、慣性の法則が働いているからですか」という問いに対する答は「慣性の法則が働いているからだけではない(動く電車といっしょに移動している空気の影響を多分に受けている)」となります。

では、密閉された車両でなく、窓を1枚だけ開けて動く電車の中で飛びたった蠅はどうなるのか。窓を1枚でなく2枚開けた場合は、3枚でなく4枚の場合は……。

蠅にとって、動く電車に“おいてきぼり”にされるかされないかのぎりぎりの車内環境があるのは確実。しかし、実際その“ぎりぎりのところ”がどこかを確かめるといった、イグ・ノーベル賞に値しそうな実験映像はなかなか見られません。
| - | 20:40 | comments(0) | -
才女の口癖は「一番と思われないんだったら」


清少納言は平安時代の女流作家(生没年未詳)。著作の『枕草子』は広く知られています。

さらに『枕草子』といえば「春はあけぼの」という、第一段の最初の一文がよく知られています。清少納言は、夜がほのぼのと明けはじめるころに、春の風情を感じていたようです。

「春はあけぼの」にくらべると、知名度は落ちるかもしれませんが、この第一段では「夏は……」「秋は……」「冬は……」と続きます。

「夏は夜」「秋は夕暮」と続いて、「冬はつとめて」。

「つとめて」も、一日のうちのある時間帯を示すことば。「早朝」です。ただし『枕草子』における「つとめて」は、たんに「早朝」と解釈するよりも、「前夜に何か行事などがあった翌朝」と解釈するほうが、ふさわしいとされています。

この解釈は「冬はつとめて」のあとにつづく「雪の降りたるはいふべきにもあらず」とも関係します。行事があった前日に一区切り打つかのように、雪が積もっていると考えると、生活のにおいがより強くなるという解釈のしかたがあります。

温暖な平安時代とはいえ、冬の京都は寒かったはず。にもかかわらず清少納言は「冬といえば早朝よね」と考えていたわけです。この段落の後半で清少納言は、その理由を絵になるような表現でこう言います。

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霜などのいと白く、また、さらでも、いと寒きに、火などいそぎおこして、炭持てわたるもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもて行けば、炭櫃・火桶の火も、白き灰がちになりぬるは、わろし。
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厳寒のなかで火を起こし炭にして、それを持って廊下をわたる様を「いとつきづきし」つまり「とても似つかわしい」と述べています。

対して、昼になって火桶の火も灰がちになる、そのたるんだ雰囲気を「わろし」つまり「味気ない」と述べています。

「春はあけぼの」や「冬はつとめて」などと並べ立てて、それぞれについて想いを展開するような章段は「類聚的章段」といわれています。「類聚」とは「おなじ種類の事項を集めること」。

「冬はつとめて」と言い切る清少納言には、貴族の家に仕えていたほかの女房たちにおもしろがられた口癖があったといいます。

「すべて、人に一に思はれずは、なににかはせむ」

つまり「何事も、人から一番と思われないんだったら、何になるのかしら」と清少納言は考え、口にしていたというのです。

こうした考え方が、「春はあけぼの」や「冬はつとめて」などのような、ひとつの事柄について最も風情のあるものを断定的に述べる表現にも関係しているという説もあります。

「冬は」と自問すれば、“暖かくなった昼”より“寒い朝”のほうが清少納言にとっては風情あるものとしてふさわしかったのでしょう。

参考文献
池田勉「枕草子鑑賞」『枕草子講座 第二巻』

| - | 23:59 | comments(0) | -
産学連携の齟齬を減らす“常識”


人と人または組織と組織が手をとりあってなにかを共同で進めるとき、“あうんの呼吸”を信じる人もいれば、「こういう場合はこうしよう」と明確なルールを定めようとする人もいます。

とくに、あうんの呼吸か明確なルールかのどちらかが求められるのは、担当が曖昧な領域でしょう。

たとえば、やたら編集のことに口を出してくるデザイナーや、やたらデザインのことに口を出してくる編集者がいます。長いこと仕事をすれば「あの人だから、このあたりまでを自分の担当範囲にすればいいかな」とわかってくるでしょう。しかし、初顔合わせとなるとなかなかそうもいきません。

大学と企業などが手を取りあって成果を出そうとする「産学連携」でも、似たようなことがいえるのかもしれません。

産学連携をおしすすめる国などは、よく大学や企業に対して産学連携をしてみてのアンケート調査を行います。産学連携の成功事例や失敗事例とその要因などを訊くわけです。

「成功」のほうは、「大学とのナノテク関連のベンチャーを推進できた」とか「解析技術を共同研究した結果、製品販売のための手掛かりを得られた」とか、いろいろと書きやすいわけです。

いっぽう「失敗」のほうは、「とくになし」や「失敗にあてはまることは無い」などといった回答が比較的多く寄せられます。本当に失敗なくうまくいった場合もあるでしょう。でも、本当は失敗に終わったものの、連携相手の心情をおもんばかったり、「あれは失敗ではない、失敗ではないぞ」と自分に言い聞かせたりといった場合も考えられます。

しかし、なかには「失敗事例とその要因」についても詳しく答える大学や企業もあります。

たとえば、「大学側のシーズ先行による研究開発におちいり、世の中に役立つ製品を生みだせなかった」というもの。産学連携で目指されるのは、大学側が得意とする基礎研究での成果(シーズ)を、応用開発に長けた企業が発展させて製品にするというもの。

しかし、大学の研究者はかならずしも世の中の役に立つことを念頭において研究をしているわけではありません。“未知”を“知”にするという純粋な知的探究も大学の大きな役割です。知的探究色の強い成果を世の中に役立てる製品に変えていくのは、難しいのでしょう。むしろ産学連携では、「こういう世の中の問題を解決したい」というニーズ先行型のほうが成功しやすいといわれます。

もう一つ、失敗事例としてよく聞かれるのが「大学側と企業側の役割分担が明確でないため、製品化に手間暇がかかった」といったものです。

「あれ、先生。この書類の処理は、先生にしていただけるものだと思っていたのですが」

「えっ、そうなの。おたくさんたちから依頼された研究なんだから、書類の処理ぐらいは会社でやってもらわないと」

また、産学連携では、大学側と企業側が予算を出しあう場合が多く、おたがいの役割が明確になっていないと、予算のきりわけが難しくなります。こうしたことは、製品化に向けた研究開発の歩みを遅らせる原因になりかねません。

「産」と「学」という字で表現されていても、やはり基本は「人」と「人」。初顔合わせで“あうんの呼吸”ができればよいのでしょうが、最初からそうもなかなか行きますまい。

よく重視されるのは、産と学の仲介役となるコーディネーターの存在です。大学内の技術移転機関の職員や、産業総合研究所の各地の産学官連携センターの職員などがその例です。意思の齟齬で問題があれば、「先生も、企業さんも、ここはまあひとつ」と調整に入ることもあります。

意思の齟齬を防ぐために、あまりまだ進められていないと考えられるもう一つの方法は、“常識づくり”でしょう。

大学と企業の役割がとくに曖昧な部分について、「たいてい、この種類の書類を用意するのは大学です」とか「こういう場合の予算負担は、企業がやる場合が多いです」とか、過去の参考事例を集めてそれを“常識”にすれば、大学側と企業側の齟齬はいまより減るでしょう。

大学には大学の、企業には企業の、規則やガイドラインはあるでしょう。いっぽう、産学連携という営みそのものに対する「ガイドライン」や「規範集」を積極的に第三者的立場の機関などが配布すれば、それが役割分担の常識が生まれるよりどころになるかもしれません。
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2009年10月18日(日)は「脳死カフェ」

市民が研究者や専門家などを招いて喫茶しながら科学を語りあう「サイエンスカフェ」のお知らせです。

(2009年)10月18日(日)「脳死カフェ 脳死って移植の問題なの?」が、東京・大井の品川区大井第二区民集会所で開かれます。主催は「科学ひろば」。

科学ひろばは、非研究者の一般社会人たちによって構成されるサイエンスカフェの企画団体。

2009年6月、衆議院選挙前の通常国会で、臓器移植法の改正案が可決されました。

国会で4案出されたうち、可決された「A案」は、これまで禁じられていた15歳未満の提供者からの臓器移植について、家族の同意があれば可能とするもの。これで、国内での幼児や小児の臓器移植への道が開かれるようになりました。

国会議員による議決では、“人の死”という重い問題を対象としているため党議拘束をかけない政党も多くありました。選挙で決められた代議士ひとりひとりが、脳死に対してどのような価値観をもっていたかまでは、市民はなかなか把握できないのが現状です。

また、子どもにおける脳死については、“生還”の可能性が高いという小児科医などからの指摘もあります。法案は可決されたものの、今後も議論を続けていくことが重要なのでしょう。

科学ひろばによると、カフェでは、まず臓器移植法の内容について脳死の部分を中心に確認したうえで、参加者から脳死について意見を出しあいます。

そして、客人の翻訳家・高橋さきのさんとともに、議論を深めます。高橋さんは、ダナ・ハラウェイ著『猿と女とサイボーグ』やフェデリコ・ロージとテューダー・ジョンストンの共著『科学者として生き残る方法』などの訳書を手がけてきましたが、脳死の現場に、家族として立ち会うという経験の持ち主でもあります。

「脳死カフェ」という催しものの名前に、新鮮味あるいは違和感がある人もいるかもしれません。しかし、あえて「サイエンスカフェ」と銘打たなかったことに、科学の問題だけではない議論の幅の広さがありそうです。

「脳死カフェ 脳死って移植の問題なの?」は、10月18日(日)13時30分から16時まで、品川区大井第二区民集会所にて。参加費は800円。申し込みなどについては、以下の科学ひろばのホームページをご覧ください。 http://scienceagora.seesaa.net/

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真夜中の京葉道路(後)
深夜の京葉道路を起点の両国橋から千葉方面へ。前編では、亀戸駅前交差点まで歩きました。後半です。

左方向が京葉道路千葉方面。信号を渡った先には、無印良品の大型店舗も入る商業施設「サンストリート亀戸」があります。

バスが走らない時間帯でもバス停には明かりが。亀戸は、港区赤坂や葛飾区奥戸などとならんで東京23区内で「9丁目」まである街。

左側の下り線と、右側の上り線が二手に分かれます。このあたりになると、並行して走っていたJR総武線は、北のほうへと離れていきます。京葉道路が渡るなかで最も幅の広い河川である荒川が近づいてきました。このあたりの荒川は、大正から昭和時代にかけて治水のために掘削された人工河川です。

荒川を渡る橋。左側の下り線は「小松川橋」。右側の上り線は「新小松川橋」という別の名前がついています。まとめて「小松川大橋」とも。

車の交通量も少ない小松川橋の歩道から「シューン、シューン」と音が。川のなかに入って夜釣りをしている人たちです。

荒川を渡ると、わずか50メートルほどの陸地になります。そしてすぐにまた別の川が。中川です。こちらには手前の岸に二人づれの影が。やはり釣りでしょうか。

荒川と中川を渡ると江戸川区。区が誇る小松川境川親水公園が京葉道路の下を通ります。

京葉道路の下を流れる小川。

東小松川交差点。ここは左折してはじまる千葉街道と右折してはじまる船堀街道の起点です。千葉街道はこの東小松川交差点から千葉市中央区中央まで行く道。京葉道路と同じく国道14号線です。つまり国道14号線は、この東小松川で大きく二手にわかれます。京葉道路の国道14号線と、千葉街道の国道14号線がふたたび合流するのは、約15キロ先の船橋市海神。

西一之江付近には、お屋敷の塀も見られます。

小松川や一之江の一帯は、小松菜の一大産地。そもそも小松菜はこのあたりを流れる小松川一帯で栽培をしはじめたのが端緒。京葉道路沿いにも小松菜栽培のハウスが立ち並んでいます。

新中川を渡る一之江橋。ここには「有料道路京葉道路」の文字と料金表示の看板が掲げられています。有料道路の起点を示す「 0 」の表示も。ここから京葉道路は有料道路となるわけです。ちなみに、“有料道路”ではありますが、じつはこの先3キロほどの江戸川までは、歩道も交差点もあります。

錦糸町や亀戸などの繁華街のあたりは、深夜にも関わらず食べもの屋も営業しています。また車とは別に自転車で行き来する人も多くおり、さすがは幹線道路です。ただ、やはり車の交通量は少なめ。荒川を渡るときなどは一瞬“誰もいない東京”を感じることもできることでしょう。(了)
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真夜中の京葉道路(前)
ふだん通る道も、深夜になると変わった表情を見せます。まえに「真夜中の御堂筋と堺筋のあいだ」という写真記事を載せました。今回は東京から千葉方面へと向かう「京葉道路」の深夜帯の様子です。
起点の標識があるのは浅草橋。千葉方面とは逆に、西へ向かう道は神保町や市ヶ谷方面へと続く靖国通り。

正式な起点は隅田川を渡る両国橋です。橋の向こうを左右に走る高架は首都高速道路。

両国一丁目交差点から北の方向。奥にはライオン東京本店のビル。「おはようからおやすみまで」のためか当たり前か、職場の明かりはついていません。

両国二丁目交差点を北に折れると国技館です。

ふぐは深夜でもそこそこ元気に泳いでいます。

いくつもの川を渡るのが京葉道路の特徴。大横川とその親水公園を渡る江東橋。

錦糸町の繁華街に差し掛かると、歩道は屋根つきに。食べもの屋はまだ営業中。

左手に錦糸町駅と駅ビル「テルミナ」。右手に商業・娯楽施設「楽天地」のビル。歓楽街へと誘う客引きの姿も。

リビンのビルに入る映画館「錦糸町シネマ8楽天地」の入口。このビルには、宿泊できる温泉施設もあります。

深夜帯ではなじみ深い工事風景。

都営バス江東営業所。

バスが休んでいます。スクラップ広告がめっきり減りました。

手前は亀戸一丁目の歩道橋。その奥、斜めに立体交差する鉄橋は、JRの小名木川(おなきがわ)貨物線。江東区の亀戸から明治通りに並行して南砂を抜け、塩浜の越中島貨物駅まで行きます。

亀戸一丁目交差点から北西方向。上記の貨物線の脇に小径があります。奥の坂を上ると亀戸駅の線路沿いへ。しかし、一般人は立ち入り禁止のもよう。

小名木川線のガード下。「張り紙禁止」の下に、「男性エステメンズコンパニオン募集」のはり紙。

亀戸駅前交差点の歩道橋から、千葉方面。道はまだまだ続きます。つづく。

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“閉じられた空間”を重視したルイス・バラガン


東京・神宮前のワタリウム美術館で、企画展「ルイス・バラガン邸をたずねる」が開かれています。2010年1月24日(日)まで。

ルイス・バラガン(1902-1988)は、メキシコの建築家。日本でも関心が高く、過去には2002年に東京都現代美術館で、作品や人物像を紹介する企画展が開かれたことがあります。

今回の展覧会は、バラガンの代表作である「ルイス・バラガン邸」の間取りの一部などを紹介するもの。“ご自宅”の雰囲気をわずかながら味わえます。

バラガン邸はバラガン40歳代のころ建築されました。それまでの異なる建築方式を通しつづけることに疲れていたバラガンにとって、自宅の設計は再び建築に積極的な姿勢をあたえるものでした。2004年、世界文化遺産にも登録されています。


ワタリウム美術館の容積が小さいため、展示に奥行きはありませんが、植物の植えられた庭を窓越しに見渡せるリビングからの眺めを再現しています(上手はスケッチ)。

光が注ぐ開放的なこの眺めは、バラガン作品の象徴として知られています。しかし、バラガンの建築への姿勢は、むしろ“閉じられた空間”を重視するものだったようです。彼は「人は自分の隠れる所、閉じこもる所、孤独になれる場所を持っていなければなりません」と、ジャーナリストからの取材に答えています。

実際、バラガン邸でも、一度つくった見晴らしのいい窓や、書斎とリビングの空間的つながりを塞ぐなどしています。「すると私はすぐさま心地よくなった。閉鎖された空間というのは、落ちつきを与えてくれるものだと思います」。

バラガンには、1928年から1934年の「初期のグアダラハラ時代」、1935年から1940年の「インターナショナル・スタイル時代」、1945年から1981年の「バラガン・スタイル時代」の“三つの時代”があるといわれますが、閉じこもるための空間を重視する設計思想は、初期の時代からあったようです。1930年ごろに次のような論を述べています。

「平穏さを表現していない建築はあやまりです。ですから、今日、壁によって保護する代わりに、大きな窓で解放するというのは間違いなのです」


展覧会では、その他、バラガンが影響を受けた建築家ル・コルビュジエとの旅先での“10分間”のやりとりの紹介や、バラガンとの共作のある芸術家マティアス・ゲーリッツ(1915-1990)の金属板で金色と黒の対比を強調させた「18:5」という作品(上図はスケッチ)なども展示されています。

企画展「ルイス・バラガン邸を訪ねる」は、ワタリウム美術館で2010年1月24日(日)まで。同美術館によるお知らせはこちら。
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キューリから考えるエネルギー単位


エネルギーについての新聞記事などを読んでいると、さまざまな単位に出くわします。ジュール、カロリー、ワット時などなど……。

エネルギー保存の法則という物理の大原則があります。これは、エネルギーが、その総量を保ちながら、運動エネルギーや位置エネルギー、また電気エネルギーや熱エネルギーなどのようにさまざまな形に姿を変えられるということ。そのために、それぞれのエネルギーの状態にふさわしい単位があります。

まず、「ジュール」。これは、厳密な定義ももちろんありますが、「きゅうり1本を1メートルの高さまで持ちあげるときに必要なエネルギー」といわれています。

さらに、ジュールと「ワット時」には、密接な関係があります。

まず、毎秒1ジュールの仕事をする効率の単位が「ワット」。つまり1ワットは、1秒間できゅうり1本を1メートルの高さに持ち上げられる仕事の効率を示しているわけです。

この「ワット」に「時」がついて「ワット時」。この「時」は「1時間」の意味。ワット時は、1ワットの効率で仕事を1時間行ったときのエネルギーの値となります。

1時間は3600秒ですので、1ワット時は3600ジュールとなるわけです。つまり1ワット時はキュウリ3600本を1メートルの高さまで持ち上げるときに必要なエネルギーとなります。

いっぽう、おもに熱エネルギーの計算をするとき使われるカロリーは、ジュールとワット時の関係に比べてかなり独立的です。1カロリーとは、「1グラムの水を1℃高めるのに必要な熱量」のこと。

しかし、エネルギー保存の法則があるかぎり、カロリーと、ジュールやワット時の間にもある倍数をかければ換算することができるわけです。1カロリーは4.1855ジュールで計算されています。
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会社の空気の入れ換えのため『職場スイッチ』発売


新刊のお知らせです。

コーチAの代表取締役・鈴木義幸さんの本『職場スイッチ ひとりでもできる会社の空気の入れ換え方』が、きょう(2009年9月18日)発売となりました。企画・編集を連結社・小畠和幸さんとともに担当しました。

コーチAは、企業などの組織における人に対して目標達成を支援する“コーチング”などを行う日本の草分け的企業です。鈴木義幸さんは、コーチAの代表取締役。「リーダーに力強くリーダーシップを発揮していただくこと」と「次のリーダーを育成すること」がコーチAのミッションであると鈴木義幸さんは会社ホームページで語っています。

コーチとしてさまざまな企業の職場を体験してきた鈴木さんは、「風通しのいい職場」とはどういうものなのかを常日頃から考えてきました。そして、社員が自分で「風通しの悪い職場」を「風通しのいい職場」に変革するためにはどうすればよいのかを考えてきました。

日曜の夜、職場をイメージして憂鬱な気分になるような人が、月曜の朝、笑顔で会社に行けるにはどうしたらよいか。そのための心のスイッチの入れ方を32の話にわけて紹介しています。

鈴木さんは「まえがき」で、次のように述べています。

―――――
空気の入れ換えは、実のところ、さほど難しいことではありません。ほんの少しの知識と新しいことを試す勇気があれば、職場の空気を入れ換えることは可能です。
―――――

鈴木さんは米国での臨床心理学の修士号の持ち主。心理学や科学の知識を駆使して、職場の空気の改め方を紹介します。とともに職場にいる人々すべてに「これをやってみようよ」と、背中をぽんと押すような勇気づけをしています。

章立ては「まずは自分を変える!」「人の中の空気を変える!」「部内の雰囲気を浄化する!」「職場の空気を総入れ換え」の、4章構成。個人レベルのスイッチから、組織レベルのスイッチへと、対象規模が大きくなっていきます。

世の中はまだまだ不況。給与削減やリストラクチャーなどが現実に起きているなかで、少しでも居心地のよい職場を自分自身でつくりあげるためのメッセージが込められています。

『職場スイッチ ひとりでもできる会社の空気の入れ換え方』はきょう発売。こちらに書籍情報があります。
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「つれづれなるままに」つぶやいた兼好法師


迷ったときは古典に学べ、ということはよくいわれること。その参考書のひとつは『徒然草』でしょう。鎌倉時代の歌人・兼好法師(1283-1352)が「つれづれなるままに」(することがなくて退屈なままに)書いた、244段からなる随筆です。

『徒然草に学ぶ』という本をこのたび出版した語り部の平野啓子さんは「アラフォーの働く女性たちに読んでほしい」と言っています。

仁和寺の法師が石清水もうでを目指したものの、勘違いで麓の別のお宮を参拝して引き返してしまったという話などは、国語の教科書でも知られていますね。やや皮肉的ながら、人間の本質をつくような随筆があります。

兼好法師は、いまでいえば科学技術に関する“センス・オブ・ワンダー”をもつ人でもありました。『徒然草』では、自然や人間の営みに対する好奇の眼も向けています。

とりわけ短い文で綴られた段には、兼好法師の“つぶやき”にも似た、自然や人間に対する観察眼が表現されています。原文に「徒然草 吉田兼好著 吾妻利秋訳」を運営する吾妻利秋さんの現代語訳が加わると、そのつぶやき度合がさらに増します。

第九十六段
「めなもみといふ草あり。くちばみに螫されたる人、かの草を揉みて付けぬれば、即ち癒ゆとなん。見知りて置くべし」
(メナモミという草がある。マムシに噛み付かれた人が、この草を揉んで患部にすり込めば一発で治るという。実物を見て知っておくと、いざという時に役立つ)

実物を見ることの大切さより、マムシに噛まれたときの対処法のほうが切実です。

第百二十七段
「改めて益なき事は、改めぬをよしとするなり」
(直してもどうにもならないものは、ぶっ壊した方がよい)

破壊的な思想の持ち主だったことがうかがえます。

第百四十九段
「鹿茸を鼻に当てて嗅ぐべからず。小さき虫ありて、鼻より入りて、脳を食むと言へり」
(精力剤のロクジョウを鼻に当てて匂いを嗅いではいけない。巣喰った小虫が鼻から入り、脳味噌を食べると言われている)

小虫が脳を食べるとまことしやかに言われていたのでしょう。

第百六十一段
「花の盛りは、冬至より百五十日とも、時正の後、七日とも言へど、立春より七十五日、大様違はず」
(サクラの花の盛りは、一年中で日照時間が一番短い冬至から百五十日目とも、春分の九日後とも言われているが、立春の七十五日後が、おおよそ適当である)

桜が咲くことへの関心が寄せられています。まだ染井吉野という種がなかった時代です。

第二百段
「呉竹は葉細く、河竹は葉広し。御溝に近きは河竹、仁寿殿の方に寄りて植ゑられたるは呉竹なり」
(呉竹は葉が細く、河竹は葉が広い。帝の御座所の池にあるのが河竹で、宴会場に寄せて植えられたのが呉竹である)

へぇ、としかいいようがありますまい。

第二百十二段
「秋の月は、限りなくめでたきものなり。いつとても月はかくこそあれとて、思ひ分かざらん人は、無下に心うかるべき事なり」
(秋の月は、信じられないほど美しい。いつでも月は同じ物が浮かんでいると思って、区別をしない人は、何を考えているのだろうか)

とりわけ秋の季節に見える月が、兼好法師のお気に入りだったようです。「中秋の名月は」は平安時代から愛でられていたとされます。

二百二十九段
「よき細工は、少し鈍き刀を使ふと言ふ。妙観が刀はいたく立たず」
(名匠は少々切れ味の悪い小刀を使うという。妙観が観音を彫った小刀は切れ味が鈍い)

まったく思いのまま自由という状況より、少しは制約や条件がつくほうがうまくいくということかもしれません。

140字以内の“つぶやき”をインターネット上のみんなで共有する「ツイッター」が流行していますが、兼好法師も自然や世間に対していろいろとつぶやいているもの。

ツイッタ―は、いまのところだれかがつぶやいた直後にそそられた人が反応するもの。いっぽう『徒然草』は、兼好法師が綴ってから100年はほとんど反響がなく、室町時代に僧の正徹(1381-1459)によって目されたものとされます。

この時代、22世紀まで語りつがれるつぶやきは生まれるでしょうか。

参考ホームページ
「徒然草 吉田兼好著 吾妻利秋訳」
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寄附という名の産学連携


大学などの教育研究機関と民間企業などが手を組んで、研究開発などにとりくむことを「産学連携」といいます。

企業の研究者と大学の研究者がおなじ課題について対等な立場で研究を進める共同研究や、企業が「先生、この分野について研究してください」などと大学側に委託をして行う受託研究などがあります。

「寄附講座の設置」も、産学連携のかたちのひとつといえるでしょう。

民間企業が大学に対して、お金を寄付したり、研究者を派遣したりして「寄附講座」を大学内などに立ち上げます。「講座」といっても、かならずしも学生に対する授業などを行う必要はありません。寄付の資金や研究者の派遣によって研究が行われる場が寄附講座です。

民間企業は、あからさまに「寄附しますから研究成果を出しましょう。そうすればわが社は儲かります」と、利益目的をあらわにするわけではありません。しかし、利点があるからこそ、企業は寄附講座を大学に提案するわけです。

企業のねらいはどこにあるのでしょう。

例えば、損保ジャパンと関西大学は2009年3月、「損保ジャパン寄附講座」を立ち上げました。報道発表では「寄附講座のねらい」について述べています。

―――――
損保ジャパンは、損害保険事業を行うとともにCSR活動に力を入れており、2009年1月には国内保険会社として初めて「世界で最も持続可能な100社(グローバル100)」に選出されました。その損保ジャパンの取り組みを事例とし、学生に企業の環境・社会・ガバナンスに関する幅広い取り組みを伝えることで、次世代の損害保険事業やCSR活動を担う人材を育成することを目的としています。
―――――

CSR(企業の社会的責任)活動についての寄附講座を開設すること自体が、損保ジャパンにとってはCSR活動のひとつになると考えることもできます。

もちろん、寄附する側の企業側は、講座の内容について大学側に提案をすることができます。その寄附講座でなにか成果が上がれば、その企業にとっては製品開発などにプラスになることでしょう。

実際、東京農工大学が日本ケミコンの寄附により開設した「キャパシタテクノロジー講座」では、2009年3月には、放充電が12秒でできてしまう電気二重層キャパシタの開発に成功しました。

欧米に比べて「寄附」に対する意識が薄いとされてきた日本。米国などの大学では、企業や個人からの寄附による献金がかなり収入源になっているといいます。

企業にとってそれなりの利点をもたらすかたちの「寄附」ではありますが、日本の学術界で寄附文化が広まる一因になりそうです。

損保ジャパンの2009年3月の報道発表「関西大学で『損保ジャパン寄附講座』を開設」はこちら。
東京農工大学の2006年3月の報道発表「東京農工大学大学院における日本ケミコン寄附講座の開設について」はこちら。
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可愛い子には旅をさせ勉強させ

日本私立大学団体連合会は、(2009年)7月、「私立大学における教育の質向上 わが国を支える多様な人材育成のために」という報告書を発表しました。

この連合会は、加盟する私立大学の意思決定機関であり、私立大学の教育と研究の発展を目指す組織です。

報告書は、2008年に文部科学省から出された「教育振興基本計画」で、教育の質の保証などが重視された点を受け、連合会が「質保証の共同作業部会」を立ち上げ、調べたもの。私立大学共通のアンケートを実施しています。

この報告書のなかで注目されているのは、「日本版『エラスムス計画』」とよばれる構想です。「エラスムス計画」は欧州連合で 1987年にはじまりました。欧州連合内の大学での人的交流を進めるのが目的です。

「日本版『エラスムス計画』」の構想は、報告書の第4章「大学間の学生移動の促進」のなかに書かれてあります。まず、全国規模での教育の質保証・向上のための案が4つ示されます。

―――――
(1)一定数の教員が一定期間大学を移動し、授業を担当する(教員移動による教育水準の実質的保証)。

(2)各大学のそれぞれの分野が、当該分野の他大学教員を外部試験委員に委嘱し、成績評価の過程に参加させる(他大学教員参加による成績評価水準の実質化)。

(3)学生が移動し、各大学の特徴を活かした科目を正規の科目として履修する(各大学授業に対する他大学学生による全国的授業評価の成立、教育の質の実質的評価と改善)。

(4)大学間の連携によるe-ラーニング等を駆使した遠隔地教育の大規模な実施によって授業の共有を促進する(新時代の教育方法実践による質の実質的確保)。
―――――

このうち、(1)は「全国規模での教員の頻繁な移動は現実的に難しい場合もある」。(2)は「当該分野の教員の理解と協力に依存する部分が多く、場合によっては形骸化する恐れがある」としています。

いっぽう、(3)は「条件さえ整えば学生は比較的移動しやすく、実現の可能性が最も高い」。(4)については「対面授業との併用によって最大限の効果を発揮する」。

報告書は(4)に補強された(3)の方策を提案します。つまり、学生が受けたい授業のある大学を回れるようにして、それとともに通信手段による遠隔授業を加える、といったかたちです。教員よりもフットワークの軽い学生に動いてもらうほうが効果的ということでしょう。

すでに日本私立大学団体連合会のなかに、500以上の私立大学が加盟している以上、ネットワークはあります。また、地方大学などにとっても魅力的な講義などを、東京の大学生に紹介できる機会となりそうです。

ただ、この構想には大きな課題もあります。学生の移動費の負担です。報告書は、旅費や滞在費について「基本的に学生個人の負担とするが、所属大学において履修支援制度等を設けて援助することが望ましい」と述べるにとどまっています。

2009年9月には、経済協力開発機構が発表した「図表で見る教育」のなかで、日本での教育支出に占める家計負担の割合は21.8%で、28か国のうち韓国に次いで2番目に高いことがわかりました。いっぽう日本の国内総生産にしめる教育への公的支出の割合は3.3%で、トルコに次いで2番目に低い順位になっています。

財力のある家は、子どもを全国私大のさまざまな講義を受けさせ充実した勉学生活を送らせられる。いっぽう、財力のない家庭はその機会に恵まれない、といった状況が生まれることも考えられます。

私立大学から財政難や運用損失などの話が聞かれるなか、報告書にある「所属大学において履修支援制度等を設けて援助することが望ましい」という提案に、加盟大学がどれほど賛同するかが「日本版『エラスムス計画』」の実効性の要点のひとつとなりそうです。

日本私立大学団体連合会の2009年7月22日の報道発表「日本版『エラスムス計画』の策定も視野」はこちら。
同連合会が出した報告書「私立大学における教育の質的向上」のお知らせはこちら。報告書の全文を読むことができます。
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生命も世間もけっこう自己産出的


車は、タイヤやエンジン、さらに細かくは板やネジなどが組み合わさって走ります。さまざまな部品が集まり、組織化された構造をつくっているといえます。

では、車は、どのようにつくられるかというと、車工場で、タイヤ、エンジンなどの部品がつぎつぎと集められることによってつくられます。

あたりまえの話かもしれませんが、車工場は「車をつくるためのもの」であり、車は「車工場によってつくられるもの」。つまり、車と車工場は別のものといえます。

では、まとまったなにかの組織がつくられるとき、かならず組織をつくるものと、つくられる組織は別のものになるのでしょうか。

そうともいえなさそうです。世の中には「オートポイエーシス的システム」という構造でなりたっているものがけっこうあるからです。

オートポイエーシスは、「自己」を意味する「オート」と、「生産」を意味する「ポイエーシス」という、ふたつのギリシャ語からなる概念。1970年代、チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラによって提唱されました。

彼らは生命のシステムを成り立たせる構成とはどのようなものかを考えました。そして出した結論は、生命のシステムとは「構成素が構成素を産出するという産出過程のネットワークとして、 有機的に構成された機械である」というものでした。

むずかしい説明ですが、ごくかんたんにいえば、生命のシステム「自分で自分をつくり出すことによって成り立っている」ということになるでしょう。

車は、それがつくられるために車工場という別の機能が働くわけです。しかし、たとえば生物の細胞は、物質やエネルギーを外の世界と交換しつつも、細胞の構造を保ちつづけるためだけに、みずからをつくったり壊したりしています。

マトゥーラは、オートポイエーシス的なシステムには、つぎの四つの特徴があるとしました。

自律性。システムのどのような変化であっても、それはシステムを維持するためのものだといいます。

個体性。たえずシステムが不変に保たれることにより、個体性を保ちます。

境界の自己決定性。自分で自分をつくる過程において、外の世界との境界をつくります。

入出力の不在。外部の要因がその組織の構成を決定するようなものではありません。

このオートポイエーシスの概念は、はじめ生命のシステムを知るためにマトゥーラたちによってつくり出されたもの。しかし、情報学や社会学など、生物学以外のさまざまな分野でも紹介されるものになっています。

たとえば、システム論が専門の永井俊哉さんは、オートポイエーシス的なものの例として、日本国憲法を引きあいに出します。

―――――
日本国憲法の第89条には「この憲法は、国の最高法規である」旨が書いてある。憲法が憲法に言及しているのだから、これは自己言及だが、それ以上に自己正当化でもある。「憲法は最高法規であって誰もこれは否定できない。なぜならば、最高の法規である憲法にそう書いてあるからだ」というわけだ。これは循環論証で、みずからの存在根拠をみずからが含んでいる。つまり自己が自己を産出しているオートポイエーシスというわけである。
―――――

探してみると、オートポイエーシス的なシステムはいろいろとありそうです。きのうの記事にある国語辞典の構造もオートポイエーシス的といえそうです。

参考ホームページ
野村竜也「オートポイエーシスの概観」
「松岡正剛の千夜千冊『オートポイエーシス』」
永井俊哉ドットコム「オートポイエーシスとは何か」
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辞書という閉じられた空間


国語辞書は、“閉じられた世界”の例としてあげられる場合があります。

たとえば、国語辞書の「左(ひだり)」という項目に、「右の反対」と書かれてあるとします。この項目を読んだ人が、「では『右』とはどういう意味だろう」と疑問に思って、右の項目に当たってみるとします。そこに出てきたのは「左の反対」……。orz。

左は「右の反対」。右は「左の反対」。つまり左は「左の反対の反対」となるわけです。

「A」という項目に行くと、Bという言葉を使ってAのことを定義しており、「B」の言葉に行くとAの言葉を使ってBのことが定義している、といった状況は、プログラミングでいえば「無限ループ」、将棋でいえば「千日手」に近いものがあります。

もちろん、れっきとした辞書には、このような無限ループを避けるべく、たとえば「右」を「南を向いた時、西にあたる方」と説明するなどしているわけです。

しかし、もしこの辞書が、「南」を「北の反対の方角」、「西」を「東の反対の方角」と定義していたら……。

「では『北』とはどういう意味だろう」と疑問に思った人が「北」の項目を見ると「南の反対の方角」と定義しているとします。また「東」の項目を見ると「西の反対の方角」と定義しているとします。

これは、無限ループの輪が少しだけ膨らんだだけ。結局、辞書に書かれていることにしたがって意味をたどっていくと、知りたい言葉に戻って来ることになってしまいます。

そもそも、この無限ループの問題は、言葉というものを扱う辞書が、本来的に抱える宿命といえそうです。

ある言葉を別の言葉で説明する空間である以上、すべての言葉は、何らかの別の言葉で説明されなければならないからです。「赤」という言葉の定義を「この色」として、赤く印刷されたものを示すならば話は別ですが。

つまりは辞書は“閉じた世界”が基本ということです。辞書を引くという行為は「知りたい言葉に置き換えられるけれど便宜的にその場で説明するための別の言葉を承知しておく」という行為なのかもしれません。
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2009年10月5日(月)は「科学における情報の上手な権利化と共有化」


催しもののお知らせです。

ライフサイエンス総合データベースセンターは(2009年)10月5日(月)「科学における情報の上手な権利化と共有化」というシンポジウムを東京・弥生の東京大学で開きます。主催は同センターと文部科学省。

同センターは、生命科学の分野のデータベースの統合化の拠点を形成することを目的に2007年に設立された大学共同利用機関法人。「大学共同利用機関法人」は、大学での学術の発展などのために置かれる、大学の共同利用の研究所。国立天文台や、国立歴史民俗博物館なども、おなじ大学共同利用機関法人です。

人の遺伝情報の総体であるヒトゲノムすべて解読されたことは、ひと昔まえの話になりつつあります。生命科学をはじめとする科学分野では、こうした膨大なデータを蓄積し、さらにそららを結びつけて行くことで発展させていく道が開けています。

しかし、こうした情報をデータベースのようなかたちで整理したり、知られていなかった情報を発見したりすれば、それは知的財産の対象になりうるものに。「この情報は、私たちの手によって世の中に出そうとしているものですので、もしこれを使いたい場合はお金を払ってください」と主張することも可能です。

いっぽうで、人が世に出したさまざまな情報や知識に対して、あまりに「私たちのものだから使うときはお金を」などと言っていては、本人以外の研究者はその情報を使いづらくなります。研究をするには国などから与えられる予算が必要ですが、その予算は限られたもの。

人が世に出した情報を本人のために保護するか。それとも、科学技術や医療などの発展のため誰もが使えるようなかたちにするか。こうした問題は、これから情報が増えていくにしたがって、さらに重要性が増えていくでしょう。

シンポジウムの趣旨は、「デジタル化が進むわが国の生命科学を例として、情報流通・共有に関する望ましい規範や制度について考察」するというもの。

第1部では、明治大学特任教授で弁護士の中山信弘さんが「デジタル時代の著作権とイノベーション」について話すなどします。また、第2部では、国立国会図書館館長の長尾真さんなどが登壇する予定。

情報の扱い方は、時代や状況によっても変わるもの。おいそれと「こうあるべきだ」という結論の出る話ではありません。しかし、将来の世代に「なぜ、何も検討してこなかったんだ」といわれないよう、話し合っておくべき課題でもあります。

「科学における情報の上手な権利化と共有化」は10月5日(月)午前10時から東京・弥生の東京大学一条ホールで。参加登録が必要です。同シンポジウムのホームページはこちら。
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質問応答記事の「いきなりハイレベル問題」
 

研究者や専門家に取材をした内容が記事なるとき、おもに二つの表現形式があります。

ひとつは、「教授は今後の課題について『人材の育成がなによりも重要です』と話す。」のように、伝え手の“地の文”と取材対象者の“せりふ”で成りたつ伝聞形式。「です、ます調」か「だ、である調」かのちがいはありますが、読みものの一般的な表現として定着しています。

もうひとつは、「――今後の課題は何でしょうか? 教授:なによりまず、人材の育成に尽きると思います。」といったように、伝え手の“問い”と取材対象者の“こたえ”が分けられている質問応答形式。“問い”のほうは短く、おもに取材対象者の“こたえ”としての語りが記事を占めることになります。

ともに長所や特長があるからこそ、両方の形式の記事が見受けられるわけです。

たとえば、伝聞形式には、取材対象者の表情がどうだったかとか、取材場所の雰囲気はどうだったかとか、まわりの様子などを地の文で伝えやすいなどの利点があります。「研究室に入ると、うずたかく積まれた学術書の数々。そのむこう側で、教授は書類に目を通していた」といった具合に。

いっぽう質問応答形式のほうは、取材対象者の“せりふ”にあたる言葉が占める部分が多くなります。このため、取材対象者の言葉をより直接的に読者に届ける効果が増します。より“生”に近い感覚を読者は体験することができそうです。

ただし、この質問応答形式については、伝え手がおちいる落とし穴もあります。それは一部の人に「いきなりハイレベル問題」などとよばれています。

研究者や専門家に取材をするとき、質問者である伝え手は、その取材対象者の論文や著書などを読むなどの準備をして望むのが礼儀とされています。

また、取材で取材対象者から“とっておき”の話を引き出すためには、取材対象者の研究内容や考え方などをすべて知っておくべきだ、という論もあります。

予習はしすぎることはない、ということです。

質問者である伝え手は、取材対象者のことを予習すればするほど、その取材対象者のもっている知識レベルに近づいていくわけです。知識レベルが近くなった状態で取材にのぞめば、かなり高度なやりとりをすることができるでしょう。

ところが、伝え手がそのやりとりを質問応答形式で書くとなると、記事のはじめから高度な話が始まってしまうことになりかねません。その研究分野の基本的な用語や概念の説明、取材対象者に語らせるような機会が取材時になかったからです。

もちろん、伝え手の質問文や記事のリード文のなかに、基本的な用語や概念の説明を含めることはできます。しかし、説明が膨らんでしまうのはアンバランスな印象をあたえるもとにもつながります。

予習をたくさんして取材にのぞむ伝え手も、質問応答形式を前提とする取材では「先生、まずは、ご研究分野でよく出てくる“何々”という概念について、はじめて耳にする読者もいるかと思いますので、先生のほうから説明をお願いできますか」といったように、質すことの重要性があるわけです。

この「いきなりハイレベル問題」は、伝え手が取材対象者と別の雑誌などですでにおなじ主題で話をしてしまっている場合にも起こりやすいものです。
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「“目的主義者”の話はぶれない」


日経ビジネスオンラインのコラム「カラダを言葉で科学する」に、きょう(2009年9月10日)、「“目的主義者”の話はぶれない」という記事が掲載されています。書き手は尹雄大さん、撮影は風間仁一郎さん。この記事の編集を連結社としました。

取材対象者は、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の山口孝夫さん。今年7月31日まで、長期の宇宙滞在経験をした宇宙飛行士の若田光一さんの素性が語られています。

山口さんの所属部署は有人宇宙技術部・有人技術開発グループ。宇宙開発はおもに、人を宇宙に送りこむ“有人開発”と、機械のみを送りこむ“無人開発”にわかれます。有人技術開発グループは名のとおり、宇宙飛行士の宇宙での活動を担当する部署。

今回、国際宇宙ステーションに取りつけられた日本初の有人宇宙施設「きぼう」を運用するための知識や技を、若田さんら宇宙飛行士に教えることもしています。その他、宇宙滞在中の飛行士と、地上の各部署や家族との情報のやりとりや、緊急時への備えなどもこの部署の役割です。

記事では、地球帰還後の若田さんの近況が山口さんから語られています。宇宙で仕事を終えたあと、飛行士はときおり“燃え尽き症候群”におちいるといいます。

―――――
そういう人もいますが、どうも若田さんは違って、「次はコマンダー(船長)として飛びたい」と言っています。いまはヒューストンのジョンソン宇宙センターで45日間にわたるリハビリテーションを行っている最中です。
―――――

国際宇宙ステーションという限られた空間。外は死の世界。極限状態のなかで、滞在延期帰還もふくめ4か月半にわたるフライト。若田さんもストレスを解消のためいろいろと試みていたようです。

―――――
一人になりたいときは持参した寝袋を使って、「きぼう」の中で寝たりしていました。それがストレス解消に役立ったようです。

一日2時間程度運動していました。仕事が詰まっている中で、毎日2時間運動するのは大変だと思っていましたが、本人にとっては気持ちのリフレッシュになったようで、「楽しかった」と言っていました。
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宇宙飛行士も人の子。ストレスは抱えるもの。山口さんの上記の言葉はそれを示しているといえそうです。

とはいえ、宇宙飛行士はやはり選ばれし職業。若田さんには人並みならぬ優れた点があるということも山口さんは語っています。とくに強調するのがコミュニケーションのしかた。

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何度も面接していると、人によっては言っていることに一貫性がなくなってきます。でも、若田さんはぶれない。
―――――

なぜ、若田さんの話はぶれないのか。記事の題にある「目的主義者」としての若田さんの生き方に鍵があります。

ビジネスにも活かせそうな“若田光一流儀”の数々。「“目的主義者”の話はぶれない」の記事はこちらからどうぞ。
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九九を覚えるように……


小学2年生は、「いんいちがいち、いんにがに、いんさんがさん……」と、九九の勉強をします。「しちろく」とか「くしち」とか大きな数まで進むと、つまずいて「一からやりなおし」となり、苦しむ子どももいることでしょう。

文部科学省が定めている学習指導要領でも、第2学年の内容として「乗法九九について知り、1位数と1位数との乗法の計算が確実にできること」と明記されています。

九九の計算を「いんいちがいち、いんにがに」と暗記するというのは、語呂合わせを使って頭に叩き込むということ。歴史で平安京や鎌倉幕府の成立年を、「鳴くよ(794)うぐいす」や「いい国(1192)つくろう」と覚えるのと、基本的に変わりません。

こうした点から、九九は「学習の基礎は、やはり理論でなくがむしゃらに暗記することが必要」という論の例として、よく引き合いに出されます。「フィールズ賞やノーベル賞を受賞するような独創的な研究者も、最初は九九をむりやり覚えるところから始まったんですから」と。

小学校教育から離れて、たとえば大学1年生に対する教育でも、九九のようにがむしゃらに暗記することを取り入れている教授もいるといいます。

高校時代までに習わなかった分野を学生があらたに専攻する場合、「とにかく覚える」事柄も分野によっては出てきます。理論的に「こういうことでこれが成り立っている」と教えるより、「ここの部分はこうなんだと割り切ってほしい」と教えるほうが近道となるわけです。

ある機械工学系の大学教員は「とにかく覚える」教育の実践者。「大学1年には、ペーパーテストなどを課して、とにかく覚えさせています」と話します。「何年かして、学生たちに、あのペーパーテストをやってよかった、と言われます」。

数学者や科学者にならなくても、人々の普段の生活で、昔がむしゃらに覚えた計算などが役立っている場面はあります。7人の会合で会費が6000円とすれば、合計額を求めるとき「しちくろくじゅうさん」という九九の計算がよみがえるでしょう。

とはいえ、小学2年生であっても、大学1年生であっても、「とにかく覚えましょう」と言われても、腑に落ちない点はあるかもしれません。「なんで、覚えなきゃいけないのか」と。

そこで、教える側は「とにかく覚えましょう」とともに「覚えるとこんないいことがあります」を、示すことが求められます。

大学1年生にペーパーテストを課している大学教員も、「いまはとにかくこの式を九九みたいに覚えてください。そうすれば1年後、みんながロボットの駆動系のプログラムを組み立てるとき、かならず役立ちますから」などと、覚えることの利点を懇切丁寧に説明しているようです。

九九の計算の場合も、教える側は自身が九九を覚えたことにより生活で役立った実感を子どもに伝えれば、教わる子どもにも教える教諭にも気分的な効果が出るかもしれません。
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船を漕ぐ


うとうと、うつらうつら、ぶわんぶわん。

早朝や深夜の時間帯、電車のなかで“船を漕いでいる”人たちがいます。

座席に座りながら居眠りをして、頭が揺れている状態が「船を漕ぐ」。船を漕いでいる人のように、前へ後へと頭が揺れるさまをいうようになった慣用表現のようです。

電車のロングシートで頭を前後に揺すっている人は、たまに後の窓や前の手すり棒に頭をぶつけています。「ゴン!」。ぶつかり音を出し、まわりの人を驚かせます。

右向きや左向きに船を漕ぐ人もいます。隣の起きている人が気になってしかたないのは、むしろこちらの場合でしょう。肘うちをして「よたれかかるな」というボディランゲージを送る人も。

よほどお疲れのなのか、男女問わず、時計まわりまたは地球まわりに、ぶわんぶわんと頭をスウィングしている人もいます。

なぜ、人は電車のなかなどで船を漕ぐのでしょう。

起きているときは、姿勢をそれなりにしゃんと正そうという意識が働いているため、船を漕ぐことがありません。しかし、居眠りを始めると、その意識が働かなくなるため、背骨の上に首を据えるという意識が失われます。

そのため、うとうと、うつらうつらと首が前後や左右に傾きます。しかし、うとうと、うつらうつらしていている人にも「眠るまい」という意識がはたらくようで、それが首の位置をもとに戻そうと行為につながるとされます。

電車で船を漕ぐ行為をふくめ、居眠りというものを睡眠学的に解釈すると、睡眠が不足している人がそれを補うための“不規則な睡眠の混入”という説明がつくようです。

船を漕ぐのは人だけではありません。などの哺乳類でも、その姿は観察されます。

脳を一時的に休ませるけれど、かといって敵の攻撃から身を守るために、それほど深くは眠らない。「船を漕ぐ」は、そういった動物の本能的な構えなのかもしれません。人間の電車内の無防備さをのぞいての話ですが……。
| - | 23:59 | comments(0) | -
9月18日(金)は「たべもの科学カフェ with ワイン『家庭から減らす食品廃棄』」


喫茶しながらテーブルについた人々が科学について語りあう「サイエンスカフェ」の催しものが各地で浸透しています。

(2009年)9月18日(金)19時からは、東京都三鷹市の市民恊働センターで「たべもの科学カフェ with ワイン『家庭から減らす食品廃棄』」という科学カフェが開かれます。9月12日(土)から三鷹市を中心に開かれる第1回「東京国際科学フェスティバル」の一環です。

主催は「食のコミュニケーション円卓会議」。「食の問題についてさまざまな分野の人々が対等な立場で円卓を囲み、実り多いコミュニケーション活動を行い、その中から生まれてきたものを意見や提案、提言の形で身近な人達や地域、そして社会生活に伝えて生きたい」という考えのもと、2006年に発足した市民団体です。

今回のサイエンスカフェの主題は「食糧危機と緩和策」「家庭から減らす食品廃棄」のふたつ。

自給率という概念に対しては、指標として疑問視する声もありますが、いまの日本でつくられる農作物で全人口の食糧をまかないきれないのは事実です。こうした問題も含め、食料不足についての話題と意見が語られそうです。

また、食品廃棄の問題についても語られる予定。家庭における食品廃棄物は、食べられる部分を捨ててしまう過剰除去、賞味期限切れのものをそのまま食べずに捨ててしまう直接廃棄、それにいわゆる食べ残しなどにわかれます。

じつは、家庭から出される食品廃棄物の量は、食品製造業が出す産業廃棄物と、外食産業などが出す事業系一般廃棄物を合わせた量よりも多いというデータもあります。食品廃棄物を少なくすることを考えた場合、まさに「家庭から減らす」ことが求められることになります。

参加費は無料で、ワインやお茶、フランスパンなどを準備するとのことです。後援は、食と農業の理解を深めることを目指す「食と農を語る三鷹市民の会」。

「たべもの科学カフェ with ワイン『家庭から減らす食品廃棄』」は、9月18日(金)19時から20時30分まで、三鷹市市民恊働センターにて。東京国際科学フェスティバルによるこの催しもののお知らせは、こちら。
申し込みは、このお知らせに載っているメールアドレスに、件名を「たべもの科学カフェ」、内容を「9/18参加希望」として、合わせてお名前を明記してください。
| - | 14:04 | comments(0) | -
黄色い皮に甘さの斑点


9月と10月は、日本でのバナナ消費量の第二の頂点がくる季節です。ちなみに第一の頂点は5月前後。熱帯地域原産なのでとくに旬はないものの、暑くもなく寒くもない季節、また運動会が開かれる季節にバナナの消費が多いと考えられています。

八百屋やスーパーマーケットで売られているバナナのうち、まだ青みがかっているものは、皮をむいてもかたくてすっぱく、甘味を感じません。

バナナの食べごろの指標とされるのは、黄色くなった表皮に茶色の斑点がつき始めたころ。この斑点は「シュガースポット」や「スイートスポット」という名前までついています。実が砂糖のように甘くなったことを示す印というわけ。

シュガースポットが出る時期とバナナの甘さが高くなる時期は、たまたま一致しているということではなさそうです。

果物の実が熟すのは、エチレンという植物ホルモンがつくられるため。このエチレンは、ほかに、植物の葉や実を落とすといった役割ももっています。人間の世界では、石油化学工業の基本的な原料でもあります。

実から出たエチレンは、皮にも作用し、これがシュガースポットをつくる原因になっているといわれています。つまり、シュガースポットは実を熟させる成分が働いて起きる現象ということです。

果物が熟すと甘くなるのは、細胞と細胞のあいだに詰まっているペクチンという物質がエチレンによって分解されて糖分に変わるためとされています。

まとめると、「時間経過 → バナナの実からエチレン → ペクチンが分解し糖化・表皮にも斑点 →完熟食べごろ」ということになるわけです。

参考ホームページ
バナナ大学「バナナに旬はあるの?」
わんぱくランチWeb「果物が熟すとやわらかくなるわけ」
| - | 23:59 | comments(0) | -
9月12日(土)は「ガリレオ 宙を観た人」


催しもののお知らせです。

まえにお伝えした第1回「東京国際科学フェスティバル」の開幕が(2009年9月)12日(土)に迫ってきました。

初日の12日(土)午前と午後、三鷹市芸術文化センターでは、ガリレオ工房が脚本や演出などを手がけるサイエンス・ライブショー「ガリレオ 宙を観た人」が行われます。主催は三鷹市とNPO法人三鷹ネットワーク大学推進機構。

ガリレオ工房は、「科学の楽しさをすべてに!」を合言葉に、科学を重視する社会づくりを目指す提言や活動を行う特定非営利活動法人。1986年に小中高校の先生らが発足した「物理教育実践検討サークル」が1995年にNPOとなりました。本や機関誌を出すことのほか、科学実験の発表をしていることで知られています。

「ガリレオ 宙を観た人」は、イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイが行った様々な実験を通して、宇宙の不思議を解き明かしていく演劇形式の実験ショウ。「振り子のナゾにせまろう!」「風船をストンと落とそう!」「天の川をつくってみよう!」という、三つの実験の予告がされています。

ガリレオ工房の実験は、誰もが行えるような身近な道具で行うのが特徴的。メンバーの方は、100円ショップなどをかけめぐり実験の道具と発想を得ているそうです。

サイエンス・ライブショー「ガリレオ 宙を観た人」は2009年9月12日(土)10:30開演と14:00開演の2回、三鷹市芸術文化センターにて。入場は無料ですが、事前申し込みが必要です。

ガリレオ工房によるお知らせと申し込みはこちらです。
| - | 23:59 | comments(0) | -
リハビリテーションの新潮流
 病気の治療をおえた患者が、世の中に出て病気前のような生活を暮らしをとりもどすために行われるとりくみ「リハビリテーション」とよばれます。

リハビリテーションの語源はラテン語。“re”は「ふたたび」、“habilis”は「適した」。つまり、ふたたび適した状態になることを意味しています。中世時代の西欧では「破門されたものがもとの状態に戻る」という意味でも使われていたといいます。

医学的なリハビリテーションの療法が発展したのは20世紀。二度の世界大戦で負傷した兵士に、社会でふたたび活躍してもらうために技術が進歩していったといいます。以来リハビリテーションは、患者の社会復帰のための有効な方法として考えられてきました。

たとえば脳卒中などで半身に障害を負った方のリハビリテーションの方法として思い浮かぶのは、ベッドの上で介護者が患者の手足を動かしたり、手すりをつかって歩いたり、といったもの。

しかし、リハビリテーションを支援する介護者と、実際にとりくむ本人とでは、療養中の感覚的なちがいがかなりあり、これが回復のときの問題にもなりうるといいます。

たとえば、脳の疾患により、足の感覚を失った患者がいるとします。足の筋肉や骨が傷ついたわけではありません。脳の神経が傷ついたため、そこに足が見えるとしても感覚としては“足がない”のです。

仮に、この患者が、用意されたリハビリテーションの段階にあるからといって、歩行訓練を行うとします。感覚として、そしてそれは患者にとっては実際問題として、足がないのにも関わらず、上体をその上にあずけなければなりません。感覚的に異なるかもしれませんが、座禅を1時間して足がしびれている人に「さあ、リハビリですから歩きましょう」といっているのと似た話です。

いっぽう、介護者は患者本人の感覚そのものになることはできません。そのため、“見た目”として、リハビリテーションにとりくむ患者の体がよく動いているかどうかが大きな頼りになります。

リハビリテーションが進み、かたちとしては歩けるようになる。しかし、実際の感覚はともなわない。こうして退院して自宅に戻った患者は、体を動かすということの意味がわからず、結局、寝たきりの生活に陥ってしまう場合が多いといいます。

ただ単に運動機能を回復させるという意味でのリハビリテーションに代わって、患者の知覚・記憶・注意などの広いはたらきを含めた体の機能回復のためのリハビリテーションが注目されています。

イタリア・トスカーナ地方で臨床神経生理学者カルロ・ペルフェッティと老人学者ジャン・フランコ・サルヴィーニが1960年代に提唱した「認知神経リハビリテーション」がその嚆矢。患者に何か「する」ことを求めるのでなく、患者に何かを「感じる」ことを求める方法と説明されます。運動により外の世界との関係がつくられるときの体の内の変化に、患者が注意を向ける必要があるためです。

認知神経リハビリテーションの考え方は日本でも、日本認知運動療法研究会などにより導入されています。

参考文献
河本英正「総力戦 人間再生のために」『リハビリテーション・ルネッサンス』内の解題
参考ホームページ
日本認知運動療法研究会
| - | 18:56 | comments(0) | -
グーグルメールの“Re:”問題


「メール」といえば、多くの人が「電子メール」のことを想像するほど、電子メールは市民権を得るようになりました。10年前には、個人のアドレスでなく、共有のアドレスを使っていた企業も多々。隔世の感がありますね。

メールには、本文を書きこむ欄とはべつに、相手にそのメールの趣旨や主題を伝える件名欄があります。送られた相手はこの件名に「次回の会議日程について」とか「学級閉鎖の解除について」とか、書かれてあるのを見て、何の連絡なのかをまず認識するわけです。

メールの送り手に返事をする場合、件名欄はどうなるでしょう。メール機能の「返信」を使えば、「Re:次回の会議日程について」や「Re:学級閉鎖の解除について」など、「Re:」がつきます。この「Re」は「Return」(返信)の最初の2文字。

返事をする人によっては、この件名欄を「Re:」のままにせず、「次回会議6日了解しました」や「はい、7日から登校します」などと、独自のものに改める人もいます。「Re:」は嫌いだからと意識的にする人もいれば、とくに意識せず自然に件名を改める人もいるでしょう。

ところが、場合によってはこの「Re:」の件名で返事をしないことが相手にすこしわずらわしく感じさせることがあるといいます。

ひとつ目は、個人宛でなく多数宛に送られたメールに返事をする場合。たとえば「要ご返信・ミーティング10月5日開催」などと、参加者全員に出欠確認を促す内容のメールに対して、返事をする人が「了解、5日参加します」とか、「すいません、会議行けません」とか、独自の件名に改めて返事をするとします。

すると、最初の送信者にとって誰から返事が来て、誰から返事が来ていないかが把握しづらくなります。すべての返信者が「Re:要ご返信・ミーティング10月5日開催」とすれば、最初の送信者は統一した件名で確認しやすいわけです。

ふたつ目は、グーグルが提供している「グーグルメール」を使っている人から送られたメールに返事をする場合。

グーグルメールでは、件名がRe:を含む同様のものと認識されたメールは、いつ誰がどのような書き出しのメールを送ったかが新しいものから順に上から下に一覧できる画面構成になっています。

これにより、グーグルメールを使う人は、ひとつの案件について誰がどのような返事をしているかが、パッと見で把握できるわけです。たとえば「原稿拝見しました、返事です」や「Re:原稿拝見、返事です」という件名が束ねられるので、誰がどんな意見を出したかが瞬時にわかります。

しかし「原稿拝見しました、返事です」というメールを受けた人が「原稿を書き改めました」といった件名になおして返事をすると、この時点で件名を束ねて一覧表示する機能は失われてしまいます。

ひとつ目の複数宛メール件名問題に対しては、「Re:」を使って返信するほうがメール上の礼儀作法としてはかなっているのかもしれません。

いっぽう、ふたつ目のグーグルメール件名問題についてはどうでしょう。ひとつ目の状況とおなじく複数宛に送られたメールに返信する場合は「Re:」を使うのが妥当なのでしょう。しかし,個人間でのメールのやりとりでは「たまたま相手がグーグルを使っているだけだから気にしない」とするか「相手はグーグルメールを使っているから『Re:』で返事しよう」とするかは本人の意志次第というところでしょう。
| - | 23:59 | comments(0) | -
原爆肯定から平和・反核へ――長崎とアトム(16)

原子爆弾が投下された1945年から、少なくとも5年ほど、日本では原爆を意味する「アトム」が流行語になり、原子爆弾を好意的に受けとめるような風潮が、新聞報道を見るかぎり、ありました。
 
終戦直後、米国軍が長崎につくった飛行場を「アトミックフィールド」と名付け、長崎で行われたミスコンテストを「ミス原爆コンテスト」と呼んでいた事実があります。

米国軍が、これから支配する日本人に対して、原子爆弾投下への反発心を抑えたいという意図が働いたとすれば、爆心地に「アトム公園」というよび名がついたことも、その目的の一環なのかもしれません。「アトム公園」は必然的な結果であって、もはやこのよび名を驚きをもって受けとめる必要はなくなります。

戦争直後の原子爆弾を肯定する日本の風潮は、その後の原子力の平和利用への気運の高まりにも大きく寄与したことでしょう。
戦争を知らない世代には、原子爆弾で多くの家族や知人を失った街が、その直後、原子爆弾を好意的に受けとめていたという精神性が奇異に思える部分もあります。もちろん当時においても原子爆弾を憎み、否定した人も多かったことでしょうが、原子爆弾に対する憎しみさえ萎えさせるほど、原子爆弾は破壊的なものだったのか、と。

しかし、原爆肯定が続いたわけではありません。1949年に長崎市が爆心地に「國際平和公園」を称しました。平和への願いは徐々に強くなっていきます。遅れて1954年には、第1回原水爆禁止世界大会が開かれるなど、日本でも反核の思想が芽生えてきます。
ここに、人間は本来的には平和を求めているという救いを求められるのかもしれません。
 
戦争直後の日本は、いまよりはるかに情報流通量の少ない時期でした。戦争直後、長崎という日本の一地域から発信されていた新聞記事が「プランゲ文庫」に収蔵されていることは、戦争直後の日本人の精神性を探るうえで貴重な存在でもあります。
 
戦争のことを考える機会の多い8月は終わりました。でも、あともう少しだけ、つづく
| - | 23:59 | comments(0) | -
「透明ランナー」の活躍
 子どもは“遊びの天才”とよくいわれます。必要に応じて、子どもどうしで決まりを創りだし、それをみんなで守ります。

1970年代生まれの男性にとって「透明ランナー」もそのひとつかもしれません。

この世代の子ども時代は、ちょうどファミリーコンピュータが進出するころ。でも、外で遊ぶときは、近くの公園などでプラスチック製のカラーボールとカラーバットで野球をしていた方も多いのでは。

プロ野球や高校野球は、試合を9人対9人で行うもの。さらに審判が加わると参加人数は20人以上になります。しかし、学校帰りの子どもたちのあいだでは、これほどの人数が集まることはまずありません。2人対2人とか、2人対3人とかで試合を始めるわけです。

たとえば、2人対2人でたたかうとき。守備側は投手Aくんと捕手Bくん。攻撃側は、打者Cくん。攻撃側のもうひとりDくんは審判に回ります。たたかっている当事者が審判をするのは公平性を欠きそう。しかし、審判に徹することを請う人はだれもいないので、しかたありますまい。

打者Cくんが単打を放つ。すると、つぎの打順は審判をしていたDくんに。すると審判がいなくなってしまう。

そこで、安打を放ち1塁にいるCくんが「とうめい!」と言って、「透明ランナー」を宣言します。そして1塁を離れて審判に。

つまり、透明ランナーは便宜的に設定された「本当は塁にいるはずの走者」ということです。

もし、透明ランナーが1塁にいる状況で、次の打者が単打を打った場合、透明ランナーは2塁まで進むことができます。2塁打の場合は、透明ランナーは3塁へ。

もし攻撃側が3人いる場合は、1人が打者、1人が審判をつとめるため、少なくとも1人は塁上で走者に徹することができます。その場合も、2人以上が塁上に出る場合は、1人分が「透明ランナー」になる必要がありますが。

ときには、満塁で1塁と3塁が透明ランナーといった、やや複雑な状況も起きます。しかし子どもたちは、守備側も攻撃側もこうした状況を把握しあい、得点計算をするのでした。

「透明ランナー」は、少ない人数のなかで野球という遊びを成立させるための便利な規則でした。インターネットを見ると、全国さまざまな地域で「透明ランナー」と呼ばれていたことがわかります。

昭和時代、こうした子どもの遊びのこまかい規則がテレビやラジオでとりあげられることはそうなかったでしょう。となると「透明ランナー」はどこからやってきたのでしょう。

同時発生的に「透明ランナー」とよばれるようになったのか、それともだれかが「透明ランナー」を言いだし、街から街へと広まっていったのか。全社の場合は子ども社会の共時性を、後者の場合は子ども社会の文化の浸透性を支持するものといえそうです。

| - | 23:59 | comments(0) | -
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