2009.07.31 Friday
アトム公園に断食男――長崎とアトム(11)
爆心地に成立した公園について、変遷をまとてみます。
1945(昭和20)年8月9日まで、高見和平の別荘の敷地だった。
1945(昭和20)年8月9日から1947(昭和22)年は公園としての認識がなかった。
1948(昭和23)年、公園が開園し「アトム公園」「原爆公園」と呼ばれた。
1949(昭和24)年8月9日、新名称が公募され「国際平和公園」となった。
1951(昭和26)年、長崎国際文化都市建設計画の中で「平和公園」として建設大臣の承認を受けた。
1955(昭和30)年8月、「平和公園」が開園した。
このうち、戦争直後の長崎市民や国民の精神性を探るうえで注目すべきは、やはり「アトム公園」というよび方でしょう。「国際平和公園」は、都市計画のなかで募集と応募の末に決まるという公的な過程を踏みました。
いっぽう「アトム公園」には、当時の新聞を見るかぎりは公的に決められた跡はうかがえません。“名称”というよりは“愛称”という性格が強いものと考えられます。「アトム公園」というよばれ方から、当時の長崎市民の心的状況を探れるのではないでしょうか。
1946(昭和21)年から1949(昭和24)年にかけて長崎市で読まれていた新聞記事をプランゲ文庫で調べてみると、これまで紹介した1948年8月の長崎民友の記事のほかに、もう2点、「アトム公園」のよび方が載っている記事が見つかりました。
一つは、長崎民友の1949年5月7日付けの「長崎市に原爆資料館 松山町のアトム公園に」という見出しの記事です。
―――
長崎市原爆資料保存委員会は、六日午後二時から委員会を開いて協議した結果、市内松山町アトム公園に原爆資料陳列館を建設することになつた
―――
この「原爆資料館」は、いまの長崎原爆資料館の前身の前身にあたるもので、1949年に開館しました。その後、原爆資料館は1955(昭和30)年に国際文化会館内に移設され、さらに1996(平成8)年に長崎市平野町に移転しています。
もう一つは、同じく長崎民友の1949年8月4日付の「アトム公園に斷食男 みちやおれん! 浮世浄化論を一くさり」という見出しの記事です。
―――
國際文化都市長崎の青年男女の行動は見るにしのびない、自覚するまで俺は死の断食をする!と長崎市アトム公園のど真中に頑張り続けている、断食男がある
いつから断食をはじめたか
「七月一日から始めたがあまりあついのでテントを取りに帰り八月一日からやり直している、今度は死ぬまでやるつもりだ」
胸を張り目をみはつて怪気焔をあげていたが急に声を落して
「でもなるべくなら死なん方が良い、たれか私の意思をうちついでくれる青年があつたら止めるつもりだ」
―――
「怪気焔」というのは、調子がよすぎて信じがたい盛んな意気のことをいいます。
記事の内容そのものは“街ねた”に近い内容ですが、この記事が8月4日のものであるという点は意味がありそうです。國際文化都市を発足する記念式典が行われるのが、この5日後。式典が迫る時期に、公園に断食男が居座っていたことを考えると、式典への警備などもゆるやかなものだったことがうかがえます。
どのような経緯で「アトム公園」のよび方が現れたのでしょうか。つづく。
| - | 23:59 | comments(0) | -