科学技術のアネクドート

アトム公園に断食男――長崎とアトム(11)


爆心地に成立した公園について、変遷をまとてみます。

1945(昭和20)年8月9日まで、高見和平の別荘の敷地だった。
1945(昭和20)年8月9日から1947(昭和22)年は公園としての認識がなかった。
1948(昭和23)年、公園が開園し「アトム公園」「原爆公園」と呼ばれた。
1949(昭和24)年8月9日、新名称が公募され「国際平和公園」となった。
1951(昭和26)年、長崎国際文化都市建設計画の中で「平和公園」として建設大臣の承認を受けた。
1955(昭和30)年8月、「平和公園」が開園した。

このうち、戦争直後の長崎市民や国民の精神性を探るうえで注目すべきは、やはり「アトム公園」というよび方でしょう。「国際平和公園」は、都市計画のなかで募集と応募の末に決まるという公的な過程を踏みました。

いっぽう「アトム公園」には、当時の新聞を見るかぎりは公的に決められた跡はうかがえません。“名称”というよりは“愛称”という性格が強いものと考えられます。「アトム公園」というよばれ方から、当時の長崎市民の心的状況を探れるのではないでしょうか。

1946(昭和21)年から1949(昭和24)年にかけて長崎市で読まれていた新聞記事をプランゲ文庫で調べてみると、これまで紹介した1948年8月の長崎民友の記事のほかに、もう2点、「アトム公園」のよび方が載っている記事が見つかりました。

一つは、長崎民友の1949年5月7日付けの「長崎市に原爆資料館 松山町のアトム公園に」という見出しの記事です。


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長崎市原爆資料保存委員会は、六日午後二時から委員会を開いて協議した結果、市内松山町アトム公園に原爆資料陳列館を建設することになつた
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この「原爆資料館」は、いまの長崎原爆資料館の前身の前身にあたるもので、1949年に開館しました。その後、原爆資料館は1955(昭和30)年に国際文化会館内に移設され、さらに1996(平成8)年に長崎市平野町に移転しています。

もう一つは、同じく長崎民友の1949年8月4日付の「アトム公園に斷食男 みちやおれん! 浮世浄化論を一くさり」という見出しの記事です。

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國際文化都市長崎の青年男女の行動は見るにしのびない、自覚するまで俺は死の断食をする!と長崎市アトム公園のど真中に頑張り続けている、断食男がある
いつから断食をはじめたか
「七月一日から始めたがあまりあついのでテントを取りに帰り八月一日からやり直している、今度は死ぬまでやるつもりだ」
胸を張り目をみはつて怪気焔をあげていたが急に声を落して
「でもなるべくなら死なん方が良い、たれか私の意思をうちついでくれる青年があつたら止めるつもりだ」
―――

「怪気焔」というのは、調子がよすぎて信じがたい盛んな意気のことをいいます。

記事の内容そのものは“街ねた”に近い内容ですが、この記事が8月4日のものであるという点は意味がありそうです。國際文化都市を発足する記念式典が行われるのが、この5日後。式典が迫る時期に、公園に断食男が居座っていたことを考えると、式典への警備などもゆるやかなものだったことがうかがえます。

どのような経緯で「アトム公園」のよび方が現れたのでしょうか。つづく。
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書評『害虫の科学的退治法』
詳しい虫の部分を描く図はべつにして、家での害虫駆除の要点など描いたよしだかおりさん作の漫画がほとんどですので、写実的描写に恐れをなす心配はほぼありません。



動物ジャーナリストであり、害虫駆除のプロ。ありそうでなさそうな経歴をもつ著者が、“害虫の科学的退治法”を伝授する。

動物学と害虫学は、扱う動物の対象が重ならず、かつ“殺さない姿勢”と“殺す姿勢”という世界観のちがいもあるため、似て非なる学問のようだ。著者が両方の分野にまたを掛けているのは、職業選択的な事情あってのこととも聞くが、それよりも動物全般に対する好奇心の高さゆえのことだろう。

扱う害虫は、ゴキブリ、カ、ハエ、ムカデ、ダニなど、おおよそ網羅されていて、詳しい。とくに、ゴキブリ対策には紙幅の半分ほどを割いており、念入りだ。

害虫駆除業の専門的立場から、ゴキブリの殺虫剤の分類を「スプレー型」「毒エサ型」「煙型「トラップ型」と分類して、それぞれに解説と評価を加える。たとえば、「毒エサ型」について「ゴキブリというものはフンを食べることもあり、食べたゴキブリにも殺虫効果を発揮します。そしてゴキブリはゴキブリの死体を食べることがあり、その死体にも毒エサの効果が残っていますので、それを食べたゴキブリも……」といった具合に。

さらに、ゴキブリが繁殖度合がどうか、「危険レベル」「警戒レベル」「安全レベル」の3段階で見極めるチェックリストなども用意している。

著者のこれまでの本は、現代社会を生きる動物へのまなざしの強さが特徴のひとつだった。今回の本は主題が害虫駆除だけあって、あまりその強さはないが、それでも洞察力の強さをうかがえる記述が見られる。

体長2ミリほどの甲虫シバンムシの大量発生の原因を突き止めることになったという。捜査が難航し迷宮入り寸前のところで、地下駐車場に置かれていた段ボール箱の中の空調機材からシバンムシの幼虫、蛹、成虫などやフンなどが粉状で見つかった。

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シバンムシが緩衝材を食べる、という事例はこれまでほとんど報告されていないようです。それは、植物原料による緩衝材の登場が最近のことだったからでしょう。
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かつては、緩衝材はプラスチックが原料だった。だが、ポリエチレンなどの化学的材料は避けられつつあり、いまはコーンスターチや植物繊維などの自然由来の材料が緩衝材に使われてはじめている。自然由来の材料から化学的材料へ、さらにその寄り戻しで自然由来の材料へ。この寄り戻しが害虫環境を変える可能性を著者は示唆している。

退治しても退治しても出てくるゴキブリやカに、果てのないいたちごっこを感じる方もいるだろう。果たして害虫駆除に王道はあるのか。

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もっとも万能で確実な対策、もっとも究極的な対策をあえて1つ挙げるとすれば、それは「きれいがいちばん」ということになるのではないかと思います。
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きわめて単純な結論に「やっぱりそれしかないのか」と思う読者は多いだろう。だがここには、虫がわいたら殺虫剤で退治という対処療法よりも、そもそも虫がわかない環境をつくるという根絶治療を目指すべしという、根本主義を見ることができる。

長年にわたり動物を追いつづけてきて、害虫の世界への理解も深い著者が出した結論は「あきらめて、部屋の掃除をはじめよう」と背中を押してくれる言葉でもある。

『害虫の科学的退治法』は、こちらでどうぞ。
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ロンドンで語られた科学ジャーナリズムの危機


きょう(2009年7月29日)東京・内幸町の日本記者クラブで「皆既日食をどう観たか/科学ジャーナリスト世界大会に参加して」という報告会が開かれました。主催は日本科学技術ジャーナリスト会議。

6月30日から7月2日まで、英国ロンドンで第6回科学ジャーナリスト世界会議が開かれました。第1回の会議を日本科学技術ジャーナリスト会議が呼びかけて東京で開いた経緯があります。今回も同会議から、数名が会議に参加しました。

報告者の感想や会場との質疑応答などでとくに話題になったのは、“科学ジャーナリズムの危機感”。ロンドンの会議でもひんぱんに論じられていたようです。

世界的な経済不況により、米国の新聞社を中心に記者の人員削減が行われています。政治、経済、運動、どの分野も人員削減で、記者がふだんどおり働きづらい状況があるのは変わらないようですが、とりわけ科学部に対する人員削減の波は強いようです。ボストンで売られている新聞「ボストン・グローブ」では、ベテラン科学記者5人の解雇があったということです。

「“不要不急”の科学記者から切るという心持ちが編集統括者にはあるようだ。真相をつく科学ジャーナリズムが見られなくなるという印象を受けた」と報告者のひとりは話します。

もう一点、科学ジャーナリズムの危機として世界会議で話されていたのが、ウェブの普及により紙媒体で科学を伝えることが衰退してきている、ということでした。不況とおなじく、新聞などの大手媒体が科学記者の首を切る要因となっているということです。

紙に向かって筆を執る科学記者が、ネット記者の勢いにおされているという状況はあるようです。ただし、科学界で起きていることを伝えるという点から考えれば、媒体がウェブであろうが紙であろうが、その目的に向かっているわけです。

「ネットとどう共存するか考えることは絶対に必要。科学ジャーナリズムはだめだ、と言っている人には、伝統的なメディアがなければだめだという基本思考があった気がする」(報告者)

日本の科学ジャーナリズムではまだ、新聞記者の人員削減がなされたといった情報は聞かれません。しかし、米国で始まった科学ジャーナリズムの衰退が、日本に伝わってこないという保証はどこにもありません。
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市民がつくった公園の新しい呼び名――長崎とアトム(10)
爆心地に設けられた公園は、一時期「アトム公園」という名前が付けられていました。その後、この公園は1949年制定の「長崎国際文化都市建設法」により「國際平和公園」というよび方がつけられたのでした。

「國際平和公園」は、長崎市民からの公募により決まったものです。1949年8月10日の毎日新聞長崎版と長崎民友の記事は、このよび方が生まれるまでのいきさつを伝えています。

毎日新聞長崎版1949年8月10日
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長崎原爆四周年 復興の決意新た 文化都市建設を宣言 きのう盛大な記念式典
爆心地公園を九日から国際平和公園と改称する発表と名称募集の当選者への賞品授与式があり、かくて大橋市長は国際文化都市建設の宣言を行い、永井博士令嬢茅乃さん(九つ)の手で平和の鳩が放たれ、五色のテープの尾をひいてはとは空高く舞上がり、正午盛大な記念式典の幕を閉じた。
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長崎民友1949年8月10日
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平和の誓い・文化祭の幕開く 月光浴びて盆踊り 爆心地に集う二万余名
続いて長崎民事部長バグーハイム大佐、マツカーサー元帥、ローマ教王使節のメツセージ傅達、吉田首相、衆議院幣原議長、参議院松平議長をはじめ文部、安本など各大臣の祝辞、また杉田知事、脇川商議会頭、岡本縣議会議長などからも祝辞がのべられ、松山爆心地を「國際平和公園」と命名、名称募集入選者には賞状並びに賞金が贈られたのち、大橋長崎市長は力強い句謂で「宣言」を朗読、永井博士令嬢茅乃ちやんの放つ五色のテープをなびかせた平和の鳩は満場の拍手の中に大空高く、舞上がつた。
―――

このように、1949年8月9日、爆心地を含む「國際平和公園」は、市民からの公募によりつけられたのでした。

どのような形で公募が行われ、長崎市民のだれがどのような経緯で「國際平和公園」と名づけたのか、記事からは「名称募集の当選者」としか示されていません。

長崎民友の記事に見られる「永井博士」とは、長崎市で活躍し、みずから被爆を負った医師・永井隆のことです。原子爆弾投下の直前、永井は放射線研究による被爆で白血病と診断されていました。

そして、原子爆弾の投下。長崎医科大学の診察室にいた永井は、爆風を受け、右側頭動脈切断という瀕死の重傷を負います。それでも、頭に布をあてがうのみで、被爆者の治療に従事しました。

その後、病床に伏しながら、1949年5月には天皇陛下と面会。8月1日には長崎市長から表彰を受けます。永井は、長崎市民にとって被爆者の象徴であるとともに、生きる灯火の象徴でもありました。1951(昭和26)年5月、享年43歳でこの世を去ります。

プランゲ文庫に収蔵されている記事は、1946年から1949年まで。よって原子爆弾が投下された「8月9日」をめぐる新聞記事はこれで以上となります。

その後、爆心地の公園は1951(昭和26)年、続行された長崎国際文化都市計画のなかで建設大臣の承認を受け、その後4年にわたる復興土地区画整備事業による整備ののち1955(昭和30)年に「平和公園」として、改めて開園したのでした。つづく。
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「差がつく睡眠力」


きょう(2009年7月)27日(月)発売の『週刊東洋経済』は、「差がつく睡眠力」という特集を組んでいます。

いま、日本では5人に1人の成人が「眠れない」などの眠りについての問題を抱えているといいます。特集では、不眠や睡眠不足などがもたらすからだや仕事への影響や、眠りの知識を伝えています。

特集の「睡眠をめぐる10の誤解Q&A」と「眠りの科学と睡眠障害」という記事に原稿を寄せました。

「Q&A」の記事では、「1日8時間睡眠をとらないと健康に悪い?」や「明日は徹夜覚悟、今夜から『寝だめ』するのは可能?」といった設問を立てて、睡眠学の専門家への取材や『睡眠障害の対応と治療ガイドライン』などの情報を伝えています。

日本における睡眠学の牽引者であり、『眠る秘訣』(朝日新書)など一般向けの本なども出している井上昌次郎さんは、睡眠のことが気にならない状態こそが、“善い眠り”のしるしであると唱えています。

「日常生活で、眠りによる支障を来していなければ、そのままでいいと思ったほうがよい。体を信頼すべきで、あまり眠りに干渉しないほうが得策」(記事より)

人の生活様式や体内時計の働き方などは千差万別。「人の眠りはかくあるべし」という、“べき論”や“正しい姿”にとらわれすぎると、かえって眠りを悪化させてしまう場合があるというむずしさがあります。

井上さんとおなじような考えが、厚生労働省委託「睡眠障害の診断・治療ガイドライン作成とその実証的研究班」発表の「睡眠障害対処12の指針」でも示されています。

12の指針のうち、始めにくるのが「1.睡眠時間は人それぞれ、日中の眠気で困らなければ十分」というもの。第一にこの指針を示すしているのは、「困っていない人は深く考えないほうがよい」というメッセージのあらわれなのでしょう。

「睡眠障害」となれば、不眠症や無呼吸症候群などの症状が見られ、状況は深刻です。不眠症はうつ病との関係も密接です。病院での治療が必要な場合もあります。

いっぽう、「今晩に限っては眠れない」といった程度の一過性の「不眠」であれば、さほど深刻に悩まないほうが“吉”となる場合もありそうです。「睡眠についてあまり気にならない人は気にしない。気になる人は自分の心にプラスになることろだけを睡眠の知識から求める」といったような姿勢でいるのがよいのかもしれません。

『週刊東洋経済』「差がつく睡眠力」の目次はこちら。
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8月22日(土)は「しろありんの環境について ちょっと気になる☆おしゃべりCafe」

催しもののお知らせです。

理化学研究所が(2009年)8月22日(土)、「理研エコセミナー」という催しものを、東京・秋葉原の複合施設「UDX」で開きます。

午前中に行われるのは「しろありんの環境について ちょっと気になる☆おしゃべりcafe」というサイエンスカフェ。サイエンスカフェは、科学の話題について研究者と市民が飲みものをたしなみながら語らう催しもの。研究機関や大学研究室、科学館や書店などが各地で開いています。

ゲストは理化学研究所の研究者である基幹研究所の守屋繁春さん。守屋さんの研究室チームは、シロアリの共生系をモデルとした複合微生物系の解析などの研究をしています。

さらにゲストがもう一匹。「しろありん」というゆるそうなキャラクターが現れて、ともにお茶を喫すようです。

シロアリは腸のなかに細菌を棲ませており、この細菌が人間にとっての燃料であるエタノールをつくります。植物由来の燃料資源であるバイオエタノールをつくり出すシロアリの能力を紹介します。

また、カフェでは理化学研究所植物科学研究センターの井藤賀操さんも登場します。井藤賀さんのチームは、植物が栄養に応答するときに行われている情報伝達のしくみを解明中。コケの猛毒吸収能力を紹介します。

理化学研究所のサイエンスカフェ「しろありんの環境について ちょっと気になる☆おしゃべりcafe」は8月22日(土)秋葉原UDXにて。参加には事前登録が必要です。また、午後には、感染症研究ネットワーク支援センターの加藤茂孝さんが新型インフルエンザの講演会を行います。

理化学研究所によるお知らせはこちら。
| - | 23:59 | comments(0) | -
グーグルメールの“山下さん”問題


グーグルのサービスを使って行う電子メール「グーグルメール」(ジーメール、Gmail)をめぐって、“山下さん”や“松下さん”たちのあいだで、ちょっとした問題が起きているといいます。

グーグルは、アカウントともよばれるメールアドレスを、無料で提供しています。「@gmail.com」のまえに、好きな使用者名や文字を入れれば、すぐにメールが使えます。

ただもちろん、登録しようとしたメールアドレスが、すでに他の誰かに使われている場合は、ほかの使われていないアドレスで登録する必要があります。

とある山下さんは、「アットマークの前を“yamashita”で登録しても、たぶん誰かに使われているだろうな」と思いつつ、それで登録してました。

案の定、ジーメールの登録ページに、「yamashitaは使用できません」という返答が即座に示されました。

そこで、その山下さんは「だったら、生年月日をつけてyamashita19720608としよう」「名前もつけてyamashitafuminoriとしよう」「アンダーバーを入れてyamashita_fuminoriとしよう」などと、つぎつぎと使われてないと思われるアドレスの登録を試みます。

ところが、ことごとく「yamashita19720608は使用できません」「yamashitafuminoriは使用できません」「yamashita_fuminoriは使用で来ません」の返事が。「これはどういうことだ……」。

ジーメールにくわしい人は、この問題について、次のように解説します。

「グーグルは、“shit”の文字が入っているアドレスを提供することを嫌っているのだと思います。“Yamashita”さんの“shit”も、ご多分にもれません」

どの言語にもありますが、英語には「汚い言葉」として知られる語彙があります。とくに英語では「7つの汚い言葉」があるとされます。これはコメディアンのジョージ・カーリンが「放送禁止用語」として1972年に掲げたものとされています。

ちなみに、“shit”は「ちくしょう!」などといった間投詞として、また、「大便」や「くだらないやつ」などの名詞として使われています。

ほかの「汚い言葉」の例として、“piss”などもあります。これは「小便をする」などの動詞として使われるとともに、「うんざりさせる」などの意味が含まれています。

ジーメールでは、“shit”と同じく、やはり“piss”の含まれたアドレスを登録することはできないようです。

登録ページには、使用できるかの確認とともに、使用できないときは、登録者の姓名から、ほかの案を提案してくれます。たとえば、山下文則さんであれば、「fy4664」とか「fuminoriy063」といった具合に。

また、「yamashitafuminori」は登録できなくても、「yamasitafuminori」など“shi”を“si”に換えれば、なんなく登録はできます。

しかし、他のアドレスを「yamashita」で統一させているような山下さんにとって、ジーメールだけ「yamasita」にするというのは、ストレスを覚える人もいるかもしれません。

ジーメールにくわしい人は、「グーグルはさまざまな登録制限についての条文があり、その変更をかなり頻繁に行っているようだ」と話します。いまのところ、使用者は“グーグル帝国の法律”に従うしかなさそうです。
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組み込まれる家電製品、組み込まれない開発者


「組み込みソフトウェア」という技術分野があります。聞きなれない方も多いかもしれませんが、生活に密接に関係した分野です。

たとえば、ちかごろの炊飯器や洗濯機、テレビなどには、コンピュータシステムが搭載されていて、炊き加減や、水加減の調整、番組情報の受信などをしています。こうしたコンピュータのソフトウェアを組み込むから「組み込みソフトウェア」とよばれます。

組み込み方式が登場するより前にも、コンピュータを利用した家電製品はありました。それは、回路を設計することにより働いていました。埋め込まれた回路は簡単には置き換えることはできないため、製品が使われ出したら機能が改良されることは基本的にはありません。

いっぽう、組み込み式の家電製品では、ソフトウェアという書き換え可能なシステムが組み込まれています。この部分に新しいしくみを入れれば、その家電製品の機能が追加されたり進化したりするわけです。

じつは、日本では組み込みソフトウェアの技術開発者の人材不足がここ何年か取沙汰されています。経済産業省は、2007年6月に「組み込みソフトウェア産業実態調査報告書」を公表。組み込みソフトウェアの技術者はおよそ23万5000人いると推定し、それでもなお不足する人材は9万9000人にのぼるとしています。

人材不足の背景としては、ソフトウェアに加えてハードウェアの知識も必要で両方の技術を学ぶことが大変である点などが上げられます。大学機関では、東海大学が2008年に「組み込みソフトウェア学科」を設立するなど、人材教育に力を入れ始めています。

経済不況により電化製品そのものが売れない時代を迎えていますが、もちろん景気が回復すれば組み込みソフトウェアの入った電化製品の需要も高まっていくでしょう。

電化製品の製造業界に、開発者人材の“組み込み”が求められています。

参考文献
経済産業省『2007年度版組み込みソフトウェア産業実態調査報告書』
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国際文化都市宣言と國際平和公園――長崎とアトム(9)


長崎の原子爆弾投下の爆心地は、1948(昭和23)年になり「アトム公園」または「原爆公園」とよばれるようになったことが、当時の新聞からわかりました。

翌1949年、5月6日の毎日新聞長崎版には、「平和よみがえった原爆公園」という見出しの写真記事が載っています。

写真には「原子爆彈落下中心地之標」の周辺でつるはしをもって土地をならしている市民の様子。記事の見出しには、「平和都市へ猛運動 “遅れとるな廣島に 戰いのピリオッドは長崎だ”」とあります。長崎への原子爆弾投下が、戦争を終結に導いたという意味合いの濃い記事といえます。

この記事に「平和都市への猛運動」とあるのは、1949年8月9日の原子爆弾投下4周年に、長崎市が宣言することになる「国際文化都市」に向けての推進運動などを指すものでしょう。

長崎市のこの宣言は、「長崎国際文化都市建設法」という法律に基づいて行われたものです。法律の第一条には、「この法律は、国際文化の向上を図り、恒久平和の理想を達成するため、長崎市を国際文化都市として建設することを目的とする」とあります。

国際文化都市の建設を目指していた長崎市は、国にはたらきかけをするなどして、この法律の制定を実現しました。1949年7月7日に長崎市で行われた住民投票では73%の投票率で、98%以上が法律に対して賛成を投じました。市民も“信任”を与えたかたちです。

いっぽう、広島市についてもおなじような過程を経て「広島平和記念都市建設法」が成立しています。広島市の住民投票は投票率65%、賛成は91%ほどだったといいます。両市は、投票率の高さをめぐって激しく対抗意識を燃やしていたようです。

長崎や広島が平和の象徴として明確に捉えられるようになったのは、このころからのようです。

1949年8月9日、長崎市で読まれていた新聞各紙は、国際文化都市発足を大きく報じています。さらには、爆心地の名称が変更されることも報じています。次の引用は、上から順に毎日新聞長崎版、長崎民友、長崎日日の8月9日の記事からのものです。

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文化都市宣言へ きよう長崎・原爆4周年式典
記念式典は午前十時から浦上國際平和公園(旧爆心地公園)で開かれ吉田首相その他各大臣祝辞、ローマ法王日本駐在使節のメッセージが市民におくられ、一方三菱精□、同製鋼等の工場や被爆地各学校などでは慰霊祭が催される。
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國際文化都市きよう發足
この式典には、國際文化都市を祝してマツカーサー元帥、ローマ教□□長崎民事部長から喜びのメッセージが傅達されるほか、吉田首相、幣原衆院議長、安本大蔵など六大臣、知事その他の祝辞が送られ、爆心地の新名称「國際平和公園」の標託が新しい長崎の姿を象徴して建設される。
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きよう新長崎の誕生日 世界に平和を誓う 午前十時爆心地で式典
きよう八月九日は新生長崎市が國際文化都市建設への輝かしい第一歩を踏出した記念すべき日。原爆による『火の洗礼』をうけたあの日から四年、文化祭記念式典は思出の原爆中心地『國際平和公園』で午前十時から開かれる。
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三つの記事から、爆心地には「國際平和公園」という名前があたえられたことがわかります。

この公園の名前は、市民の公募により決められたものでした。つづく。
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スマートな送電、ラッシュな競争


東京・有楽町の東京国際フォーラムで「日立uVALUEコンベンション2009」が開かれています。あす(2009年6月)24日(木)まで。

日立製作所の技術を開発者などが展示ブースの前に立って紹介します。“日立の見本市”といったところ。また、講演やセミナーも行われます。

きょうは日食の映像も特設モニタで映されました。そちらに客が流れたためか会場はやや閑散。

ただ、そのなかでも来場者の注目を引いていたのは、環境やエネルギー関係の展示コーナー。日立製作所は“スマートグリッド”のシステム開発に力を入れています。

スマートグリッドは、電力を供給側から消費側に送るとき、情報技術を使って効率よく電気を使うための計画です。電力は、火力や原子力などの発電所のほか、風力や太陽光やバイオマスなどのエネルギーを利用した発電拠点でもつくられています。

小規模な地域に向けて、こうしたそれぞれの電力を供給する場合、風力なら風力、太陽光なら太陽光といったようにばらばらに電気を送るとむだが生まれます。そこで「マイクログリッド」というシステムを使って送電をネットワーク化します。

太陽光発電などは日々の天候によりつくられる電力の量が変わってきます。そこで、監視制御システムを使って「きょうは太陽光と風力がちょっと元気ないな。この地域には電力会社の電力を多めに送ろう」といったように、最適な電力バランスを考えて割り振りします。

日立製作所は電力中央研究所と組んで、監視制御システムを開発し、新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)実証研究設備にシステムを渡すなどしています。

スマートグリッドのように、さまざまな電力を一元的に制御管理する場合、それぞれの送電系統の規格の統一が重要になります。また、スマートグリッドのシステムを開発しているのは日立製作所だけではありませんから、各社が用意するシステムどうしも融通の利くものにしておくほうがスマートです。

システムについての業界規格の統一も検討が必要。そして、自社の提案する規格で統一されれば、その企業は有利な立ち位置を得ることができますから、どの企業も「わが社のシステムを標準システムに」と狙っています。

日立uVALUEコンベンション2009は、6月23日(木)まで東京国際フォーラムで。事前登録制ですが、きょうの午前中は会場での登録受付も行われていました。日立製作所による案内はこちら。
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「結果往来」な編集者
 

ある物書きから、ある編集者に次のようなメールが送られました。

「お世話になります。原稿の編集をありがとうございました。朱入れのなかで一つだけ、原稿のままでお願いしたいところがあります。『結果オーライ』を『結果往来』とされていますが、これはオールライトの日本語なまりではないのでしょうか」

この編集者は物書きのメールを見て思いました。

「あれ、ライターさん、勘ちがいしてるよ。『怒り心頭に発す』も『押しも押されもせぬ』も、まちがえない人なのに。『結果往来』を『結果オーライ』のままに、だなんて。しょうがないなー」

編集者は「ちなみに『結果往来』は辞書にも載っているのかな」と思い立ち、『広辞苑』を引いてみました。しかし「結果往来」の項目は見あたりません。

「インターネットでけっこう『結果オーライ』で誤用している人は多いんじゃないの」

そう思った編集者は、さっそくグーグルで「“結果オーライ”」と入力して検索しました。件数は「1,810,000件」。

「えー! 181万件もあるなんて! どいつもこいつもまちがった使い方をしてるもんだなー」

驚いた編集者は、とうぜん次の行為に出ます。グーグルで「“結果往来”」と入力して検索をかけてみました。件数は……。

「あ、れ……。1860件……。なにかのまちがいかな……」

いぶかしがりながら「“結果往来”」の検索結果を見てみると、「『結果往来』は誤り」といった文が見えます。ここで、ようやく編集者は気づいたのでした。「結果往来」が1860件しかないのはまちがいではなく、むしろ、まちがっているのはこの自分だということに。

「往来」とは、行ったり来たりすること。「往来が激しい通り」などといいます。また、熱の差し引きを「寒熱往来」などともいいます。

もし「結果往来」という熟語があるとすると「結果が行ったり来たり」ということになります。結果がまだ“揺れ動いている”という語感が強くなります。「結果右往左往」や「結果スウィングバイ」と言い換えてもいいかもしれません。

おそらく、この編集者は「結果がとにかく訪れる」という語感で「結果来訪」(けっからいほう)という言葉を想像しつつ、「来訪」を「往来」と置き換えていたのでしょう。

「結果オーライ」のほうは、「結果はとにかくよかった」という語感。「ボクサーがダウンを2回もらったけれど、最後は判定勝ちに持ちこんで、結果オーライ」といった使われ方です。俗語として広まった言葉といわれます。

さて、20年の長きにわたり「結果往来」とばかり信じこんで生きていた編集者は、最後にひとりごちました。

「オーライ、オーライ。『結果往来』も1860件使われているのなら、今後とも俺は『結果往来』を使おう」

ちなみに記事の記述は「結果オーライ」だったとか。
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続・子どもの夏、長いようで、短いようで、長かった――法則 古今東西(11)


多くの地域の小学校は、海の日を過ぎていよいよ夏休みに入ります。

夏休みに関連して、昨2008年8月、このブログの「子どもの夏、長いようで、短いようで、長かった」という記事で「ジャネの法則」を紹介しました。

ジャネの法則は、フランスの心理学者ピエール・ジャネが考えたもの。「年月の長さは、年齢が低いほど長く、年齢が高いほど短く記憶される」と説明できます。

小学生のころの夏休みはとても長く感じられたものの、おとなになってからの7月下旬から8月末までのおなじ40日間はそれほど長く感じられません。

ジャネの法則からすれば、40歳の会社員は「子どものころって夏休み長かったよな。でも、いまではあっという間に夏が過ぎていくぜ」という感覚におちいるわけです。TUBEが「夏よ、逃げないでくれ」と歌うのもしかたありますまい。

ブログの記事では、ジャネの法則とともに「なにかを覚えるような体験が多いほど、そのときの時間が長かったと感じる」という「初体験の法則」も、子ども時代の夏休みが長く感じられる理由として次のように紹介しました。

子どもにとっての8月は、虫とり、バーベキュー、プールなど初体験が目白押しです。いっぽう大人の8月は、お盆休みはあるものの、あとは毎日会社に行く代わりばえない日々。初体験のできごとの多い子ども時代のほうが、おなじ期間を長く感じられるというわけです。

さて、ジャネの法則や初体験の法則とはまたちがった視点から、「おなじ期間なのに子ども時代のほうが長く感じられる理由」を説く科学者がいます。青山学院大学教授の福岡伸一さんです。

分子生物学を専攻する福岡さんは、子どもと大人では、たんぱく質の新陳代謝の速度が異なるという点に着目します。大人のかたは実感できるとおり、加齢が進むほど新陳代謝は遅くなります。

新陳代謝の速度がゆっくりになることは、人間に刻み込まれた体内時計の進む速さがゆっくりになることと同じだと福岡さんはいいます。

そして、大人のほうが、おなじ期間を「短いな」と思うからくりをこう述べます。

―――
タンパク質の代謝回転が遅くなり、その結果、一年の感じ方は徐々に長くなっていく。にもかかわらず、実際の物理的な時間はいつでも同じスピードで過ぎていく。

だから? だからこそ、自分はまだ一年なんて経っているとは全然思えない、自分としては半年くらいが経過したかなーと思った、その時には、すでにもう実際の一年が過ぎ去ってしまっているのだ。そして私たちは愕然とすることになる。
―――

たとえば、大人がきょう7月20日からの小学校の夏休み40日間の長さを、自分の体内時計だけに頼ってはかるとします。

「はい。いま、7月20日から40日が経ちました」

しかし、「はい。いま」と言ったときには、9月中旬の敬老の日あたりになってしまっていることが考えられます。速さがゆっくりになってしまった体内時計をもっているため、8月31日を迎えた大人は、「え、もう、8月も終わりなの」と思ってしまうということです。

大人にとって、この説が恐ろしいのは、夏休みの40日間だけが短く感じるのではないということ。齢を重ねるたびに、すべての期間が短く感じられるようになります。納品日までの期間も、原稿締め切りまでの期間も。

参考文献
福岡伸一『動的平衡』
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8月6日(木)は「一緒に見よう、な! 生命科学を視覚化する」
 催しもののお知らせです。

(2009年)8月6日(木)、京都市左京区の京都大学で「第10回生命科学と社会のコミュニケーション研究会」が開かれます。

この研究会は、文部科学省科学研究費特定領域・応用ゲノム「ゲノム研究と社会コミュニケーションに関する研究」の一環で行われるもの。京都大学人文科学研究所文化研究創成部門の加藤和人さんが研究代表です。

会の題目は「一緒に見よう、な! 生命科学を視覚化する」。生命科学のしくみを説明するうえで重要な視覚的手法について、その道で実践をしている客人が講演し、生命科学と社会のコミュニケーションの中の「視覚化」の役割を議論します。

理化学研究所の西川実希さんは「ライフサイエンスを感覚的に理解するための取り組み」を講演。東北大学の長神風二さんは「“見える科学”のためにできること 制作の役割から」を講演。また、SunREORの竹村真由子さんによる「科学するこころと表現」、Tane+1の奈良島知行さんによる「意識していただきたい・・・研究者とビジュアルの関係・・・」といった演題も並びます。

同研究会は「小さくて目に見えなかったり、普段の生活とはなじみの薄いものを扱う事
が多い生命科学。そのため、生命科学を伝えるときには、相手が一般の方々であっても、あるいは研究者の場合でも、イラストレーションやCGなどの視覚化の手法が、重要な役割を果たします。生命科学と社会のコミュニケーション研究会は、生命科学あるいは科学と社会の関係について興味や 関心をお持ちの方を対象としています」と、参加をよびかけています。

第10回生命科学と社会のコミュニケーション研究会「一緒に見よう、な! 生命科学を視覚化する」は(2009年)8月6日(木)13時30分から17時40分まで。京都大学大学院農学・生命科学研究棟1階セミナー室で。参加希望の方は、下記のメールアドレスに「生命科学と社会のコミュニケーション研究会参加」という件名で申し込みを。会終了後の懇親会(有料)に出席参加の方はその旨も。

 biosoc@lif.kyoto-u.ac.jp(担当 川上雅弘さん・東島仁さん)送信する場合は@を半角にしてください。

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ミニ朝日新聞が渋谷をミニジャック


東京のJRの駅コンコースに、立体的な広告が登場しました。朝日新聞社の「ミニ朝日新聞」の企画広告です。画像は渋谷駅のもの。

広告壁に貼られてあるのは「ミニ朝日新聞」。シール式に貼り付いていて、ぺりっとはがすと新聞を手に入れることができます。いったんはがせばべたべたしない圧着式のシールの束ね紙が壁の広告についています。


記事は、日々、新しい情報を掲載する朝日新聞に比べると、広告出稿の何日間か読むことができる解説的な記事がならんでいます。右上欄外には「この紙面は2009年1月からの記事を再編集したものです」。

たとえばトップ記事は「普及へ欧州並み制度 太陽光発電 倍額買い取り」という見出しのもの。

―――
太陽光発電をドイツなどで急速に普及させるきっかけになった「固定価格買い取り制度」が、10年度から日本でも導入される。経済産業省が2月24日、家庭で発電したのに使い切れなかった電気を今の2倍の1キロワット時当たり約50円で、電力会社に買い取りを義務づけると発表した。新たな制度で普及を促す考えだ。
―――


2面と3面は環境面。朝日新聞本紙の特集「地球異変」から「水辺後退エサ場を求めて」というチャドのチャド湖からの報告記事や「世紀末にペンギン激減」などの記事が。

4面と5面は教育面。東京都台東区立大正小学校司書教諭の東川久美子さんが取り組む動物の本を読み聞かせを伝える「開園、お話動物園」や、「小中学校の9割 携帯禁止」といった世の中の状況を表す記事が。

6面と7面は医療面。「放射線治療3〜5日で」と、乳がんなど女性のがんに退位する先端治療の記事などが載っています。そして、最終8面は(2009年9月23日)まで開かれる「海のエジプト展」の案内。

「環境」「教育」「医療」は、「これからの人生に関わる大切なテーマ」として、とりわけ朝日新聞が力を入れているもの。ミニ朝日新聞の立体広告を渋谷駅などにも掲げることで、新聞ばなれの進む若者などの新聞への興味は起きるでしょうか。


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爆心地に付けられた「アトム公園」――長崎とアトム(8)

プランゲ文庫に収蔵されている長崎関連の新聞は、1948年になると毎日新聞長崎版だけでなく、長崎長崎民友や長崎日日なども見られるようになります。

1948年8月8日付の長崎民友2面には「祈りもあらた」という見出しのもと写真が掲載されています(上の画像)。爆心地に白い墓碑が建っている写真です。前年の矢印形の標識から改められたのでしょう。

ここには、翌日の原爆3周年を迎えるにあたり、次のような行事予定が記されています。

―――
△松山町アトム公園で午前十一時から開園式をかねた文化祭の式典をあげ、午後二時から輿霊祭を行う。
―――

ここにきて初めて、爆心地付近に呼び方が付いていることがわかりました。その呼び方とは「アトム公園」。

原爆投下3周年の行事を行った翌日8月10日付の長崎民友(下の画像)にも、爆心地付近の呼び方を記す記事が見られます(下の画像)。


―――
この日午前七時から長崎カトリツク教區一千余名のけいけんな追悼ミサが行われ、午前十一時からは爆心地浦上アトム公園□盛大□式典□幕をあけ、十一時二分打ち鳴らす平和の鐘の響きは、黙想をささげる市民の上に流れ、續□て大橋市長の挨拶□移り「世界の希望する文化長崎の実現を期す」との強□決意で語られ、マツクアーサー元帥□らのメツセージを伊藤長崎市助役代讀
(□は判読不能)
―――

同じ記事では、「写眞は文化祭典―爆心地アトム公園で」というキャプションのもと、テントの下で追悼する市民の様子が写されています。屋外には日傘をさす女性の姿も。

この長崎民友の1948年8月8日と8月10日の記事からは、1948年に入り、初めて爆心地の松山町が公園として認識されたこと、そしてその公園の呼び方として「アトム公園」が使われていたことがわかります。

多数の犠牲者を出すことになった原子爆弾が落とされた爆心地が「アトム公園」と呼ばれるようになったことの意味については、また回を改めて検証します。

この爆心地につけられた名前については、ほかの呼ばれ方もあったことが、プランゲ文庫からは読みとれます。

プランゲ文庫の記事項目を検索できる占領期新聞・雑誌情報データベースで検索すると、「原爆公園(Atomic Bomb)」という項目が見つかります。これは、新聞記事の見出しではなく、詩の名前。修学旅行で長崎を訪れたと思われる山口県山口高校の生徒が、爆心地公園の様子を詩にしています。縣立山口高等學校文藝部が出す『椹水』という雑誌の1948年10月20日発行分に収められています。

―――
○原爆公園
(Atomic Bomb Centre)
悪夢の様な戦争を終結にみちびいれ
二發目の原子爆弾の落下点、
思ひ出をとゞめる如く草うえ木うえ
白い記念碑は立てられそしてその側に
松山町一七〇番地、この地上約一五〇〇米
―――

「この地上約一五〇〇米」とありますが、原子爆弾が炸裂したのは地上500メートルとされています。

「原爆公園」の呼びかたは、1949年5月の毎日新聞長崎版でも、「原子爆彈落下中心地之標」の周辺でつるはしをもって土地をならしている市民の様子を示す写真のキャプションに「平和よみがえった原爆公園」と、見られます。

原子爆弾が落とされた、松山町171番地には「アトム公園」と「原爆公園」という呼びかたが付けられたのでした。つづく。
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「地球深部探査船『ちきゅう』の挑戦」


日本IBMが広報誌『無限大』の2009年夏号を発行しました。

『無限大』では、毎回あるテーマをもとに専門家や物書きなどの記事が載せられます。今回のテーマは「Smarter Planet 地球をより賢く、よりスマートに」。IBMがいま会社として推進しているテーマでもあります。

「地球深部探査船『ちきゅう』の挑戦」という記事には、海洋研究開発機構理事の平朝彦さんが登場しています。平さんへの取材と記事執筆を行いました。

平さんは、いま太平洋で運用されている科学探査船「ちきゅう」の計画者。「ちきゅう」のおもな活動場所は「南海トラフ」という海底の溝の海上。パイプを下ろして海底に突き刺し、海底の地層の試料を採取します。「統合国際深海掘削計画」という日米共同プロジェクトの主力船でもあります。

「ちきゅう」そのものの全長は210メートル。大型タンカーほどもある巨大な調査船です。しかし、より大きな特徴は“深さ”にあります。海底から7000メートル以上の地面までを掘ることができ、世界で始めて“マントルに手が届く”調査機器となりました。

船から伸びるパイプが海底まで届く姿を、平さんは「天井から床のある決められた一点に、縫い針を刺すようなもの」と、たとえます。直径50センチもあるパイプも、地球規模の寸法で見れば“縫い針”のようなものなのでしょう。

「ちきゅう」が行う調査の主な目的は、地震の発生源の地層のしくみがどうなっているかを調べること。今年2009年5月に始まった「ステージ2」という調査では、周期的に起きる南海地震の巣とされる南海トラフの固着領域が調査対象のひとつになっています。

地震はやわらかい地層では起きません。とくに巨大地震は、硬く固着した地層が一気に柔らかくなることで起きるとされています。

固着していた地層がなぜ急に柔らかくなるのか、つまりどういう力学で巨大地震が起きるのかはまだ諸説があるところ。固着している地層のなかの“水のつぶつぶ”が、何かの小さなきっかけで一気に連鎖することで大規模な破壊が起きるのではというのがひとつの説です。

とすると、少し心配になる方もいるかもしれません。「巨大地震を起こす“小さなきっかけ”を「ちきゅう」が作ってしまうことはないのか」と。

平さんはこう説明します。

「自然が相手ですから絶対に起きないということは言えません。しかし、少なくともわれわれのもっている知見や常識から考えると、そういうことは99.99%ないと思っています」(記事より)

直接、地層を掘削することで、地震の正体がまたすこしずつ明らかになっていくことでしょう。

『無限大』2009年夏号の記事は、ダウンロードして読むことができます。もくじはこちら。
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リズムを知って賢く眠る


厚生労働省の予算に「精神神経疾患研究委託費」というものがあります。この委託費により、睡眠研究者などが「睡眠障害の診断・治療ガイドライン作成とその実証的研究班」を組織し、1995年に「睡眠障害対処12の指針」を発表しました。

「1 日中の眠気で困らなければ十分」や「3 就床時刻にこだわりすぎない」といった心構えを述べるものもあるが、もちろん科学的な根拠に基づいた指針も見られます。

「5 光の利用でよい睡眠」では、朝、目が覚めたら日光を取り入れることを勧めています。これは、人が明るい光を浴びると“体内時計”がリセットされるという、日光の効果を利用したもの。

「起きる・寝る」の周期が遅いほうにずれて、昼夜逆転してしまったような人に対しては、早朝に2000ルクス以上の強い光を数十分から数時間ほど浴びせて、周期を前に移動させるといった治療がなされています。

また「指針」は、夜は明るすぎない照明を使うようにともよびかけています。寝る直前に強い光を浴びると、脳が「新しい朝が来た!」と勘ちがいしてしまうからです。朝と真逆の夜に体内時計がリセットされてしまうのを避けるための方法といえます。

また「7 昼寝をするなら、15時前の20〜30分」という指針も、科学的根拠の色合いが強いもの。

脳の生体時計が刻む周期には、おおむね24時間周期の「概日リズム」のほか、おおむね12時間周期の「概半日リズム」があります。この概半日リズムの一つ目の頂点となる時間は昼間の15時前後。

つまり、眠気の頂点となる15時ごろに、従順になって眠るのが昼寝としてはふさわしい、ということです。

ただし、長い昼寝をとると深い眠りにおちいってしまい、起きてもぼんやり。そのため指針は「20〜30分」の短い時間の睡眠をすすめています。

また、“昼寝”を夕方以降にすると、夜の本来の眠りに悪い影響があるとして、すすめていません。概半日リズムによれば、夕方は眠さが最も抑えられる時間帯です。「でも眠いものは眠い」といって眠ってしまうと、つぎの概半日リズムの眠さの頂点となる夜を迎えても、眠れなくなってしまいます。

こうした指針は、概日リズムや、概半日リズム、それに短い時間で繰り返す浅い眠りと深い眠りのリズムなど、人の身体に刻み込まれたいろいろなリズムを理解し利用しようとするものです。

参考文献
睡眠障害の診断・治療ガイドライン研究会編『睡眠障害の対応と治療ガイドライン』
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爆心地に突き刺さる“矢印”――長崎とアトム(7)



原爆投下から2年後、1947年8月9日の周辺の毎日新聞長崎版を見ても、爆心地が“公園”として認識されていることを示す記述は見あたりません。

ただし、翌10日付の記事には、浦上天主堂での追悼ミサの模様を写した写真の下に、市民が頭を下げて黙祷を捧げている写真が掲載されています。

この写真でまず目に飛び込むのは「原子爆彈中心地」と記された大きな標識です。すぐ右横に立っている少年や青年の身長からすると、この標識は6、7メートルほどの大きなものだったようです。

この標識の形は、弓矢の矢印(下の画像)を意識したものでしょう。空から落ちていたものが、大地に突き刺さったというような意味を連想させるかたちです。このかたちからは、原子爆弾の投下により多数の犠牲者が出たという追悼的な意味は読みとれず、ここに原子爆弾が落とされたという機能的な意味がものであるようです。


また、矢印形の標識のすぐ右、少年の足元には、小さな石碑のようなものが立てられています。標識と石碑のようなものの大きさのちがいからいって、まずこの小さな石碑のようなものが爆心地の目印として置かれ、その後、矢印形の大きな標識が立てられたのが順番だと推測されます。

写真にはキャプションがあります。「(下)十一時五分原爆中心地で黙祷を捧げる児童たち(長崎−門司ハト便)」。

当時、毎日新聞の西部支社は、福岡県門司市(いまの北九州市門司区)にありました。九州の各地から門司支社にフイルムなどを送るため、伝書鳩が主要な手段のひとつとして使われていたことがわかります。

翌1948年、爆心地付近を示す呼称に、大きな展開が見られます。つづく。
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“おおむね一日”時計


人の脳には“時計”が埋め込まれているといいます。

有名な時計は眠りに関するもの。健康な生活を送る人は夜に眠くなります。この眠さは、それまでに睡眠不足の量がどれだけあったかとは別に、周期的にやってくるものです。

人は、太陽が昇っているか沈んでいるかによって、いまが昼か夜かを判断することができます。また機械じかけの時計を見ることもできます。体内時計の手がかりは自分の外界にあるのでしょうか。そうではありません。

実験的に、時刻の手がかりのない環境をつくりだし、その中で人を生活させるとします。するとだいたい1日周期で、眠さが訪れるといいます。外界の情報でなく、体内のしくみによって周期が刻まれているという証拠です。

こうしたリズムを睡眠学では「概日リズム」(サーカディアンリズム)といいます。「概日」の「概」は「おおむね」。つまり「概日」には「おおむね一日」という意味が込められています。

ということは体内時計の周期は「ぴったり一日」というわけではありません。いくつものを機械時計を並べて、いっせいに0時0分から動かしはじめてもだんだんずれていくように、人の体内時計も個人差があります。

また、体内の時計は太陽の周期ともすこしずれています。個人差はあるものの、平均すると25時間で一周します。

なぜ、日の出・日の入りとおなじ24時間周期ではないのかは謎です。睡眠学者の井上昌次郎さんは「すこしばかりアソビのあるほうが、季節による日朝時間の変動や潮汐リズムに同調するのに都合がよかったので、そのような遺伝子が継承された」のではと考えています。

1日の長さは24時間。体内時計に従順に25時間の生活をしていると、だんだん社会生活と睡眠周期がずれていってしまいます。

それでも構わない自由な生活の人は、それでも構いません。それだと問題のある世の中のほとんどの人は、朝きまった時間に起きたり太陽の光を浴びたりすることで時計を“リセット”しています。

現代人にとっては、朝きまった時間に、きまった報道番組が放送されているというのも、概日リズムのリセットという意味ではけっこう大切なのかもしれません。

参考文献
井上昌次郎『眠る秘訣』
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「軍艦マーチ」に見る戦争資源


流行歌には、その時代のさまざまな世のなかの状況が映しだされています。

国際政治学者で放送大学教授の高橋和夫さんは、「軍歌からかつて戦争で使われていた資源を考える」という視点の話をします。

日本の軍歌のなかで、いまもっとも有名なもののひとつは「軍艦マーチ」でしょう。パチンコ屋などでたまに流れていた、威勢よく明るい旋律の曲です。

『広辞苑』にも「軍艦マーチ」の項目があります。

―――
ぐんかんマーチ【軍艦―】
行進曲名。鳥山啓作詞・瀬戸口藤吉作曲の軍歌「軍艦」(1897年作)を、1900年、瀬戸口がさらに行進曲に編曲したもの。
―――

この説明に見られるように、軍艦マーチには詞があります。詞に曲をつけて行進曲ができあがった、というのは本当の順序のようです。

作詞したのは東京華族女学校教授だった鳥山啓。この軍艦マーチの歌詞は、はじめ「此の城」と呼ばれていました。軍艦を「城」に喩えたのでしょう。歌詞を見てみますと……。

 1番
   守るも攻むるも黒鉄の 浮かべる城ぞ頼みなる
  浮かべるその城日の本の 皇国の四方を守るべし
   真鉄のその艦日の本に 仇なす国を攻めよかし
 2番
     石炭の煙は大洋の 竜かとばかり靡くなり
     弾撃つ響きは雷の 声かとばかり響むなり
  万里の波濤を乗り越えて 皇国の光輝かせ

注目されるのは2番です。はじめに「石炭」が登場します。当時「石炭」は「いわき」とよばれていました。詞の読み方は「いわきのけむりはわだつみの たつかとばかりなびくなり」。軍艦の煙突から出てくる石炭の煙のなびき方を、竜にたとえているわけです。

歌詞ができた1897年といえば、日露戦争が行われる7年前のこと。高橋さんによると、当時の戦争ではどの国の軍艦も船いっぱいに石炭を敷きつめて軍港を出港し、敵のいる海へと向かいました。そして、いざ敵との戦いが近づくと、積んでいた石炭を海に捨てて“身”を軽くして臨戦態勢に入ったのだそうです。

戦争における兵器の運輸にも便利な石油という資源が採掘されたのは、軍艦マーチが完成した8年後の1908年でした。豪州出身の英国人ウィリアム・ダーシーが、採掘利権を得ていたイランの地で発見したのです。ダーシーは「拝火教(ゾロアスター教)が隆盛した地には原油があったのでは」と着目し、石油を掘り当てたといいます。

こうして、1914年からの第1次世界大戦では、戦争のための資源は石炭から石油へと移りました。第1次大戦は、石油を利用した飛行機や戦車が実戦ではじめて本格的に使われた戦争になりました。

いっぽう「石炭の煙は」と歌われる日本の軍艦マーチは、太平洋戦争でも代表的な軍歌として使われつづけました。石油をもたぬ軍国だった日本をどこか象徴しているようにも見えます。

参考番組
放送大学「エネルギー学の基礎第14回」高橋和夫「エネルギーと国際政治」
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7月25日(土)は「ジャーナリズムの危機」


催しもののお知らせです。

早稲田大学大学院政治学研究科のジャーナリズムコースが、(2009年)7月25日(土)、早稲田大学の大隈講堂でシンポジウム「ジャーナリズムの危機 アメリカ・メディアの現状と新聞の未来」と開きます。

ジャーナリズムコースは、2008年に開講した、日本初のジャーナリズムの学位を授与しうる大学院課程。このコースが、米国の報道界の現状に斬り込みます。

米国発の世界不況では米国の新聞社にも影響をあたえました。経営不振で記者やディレクターが大量に失職し、閉鎖を余儀なくされた新聞社も。取材人員の不足が、2008年の大統領選挙での「オバマ報道」の質にも影響をあたえたといいます。

米国の新聞報道に詳しい二人の客人が問題を提起します。

立命館大学准教授の奥村信幸さんは、テレビ朝日報道局の出身。選挙戦の期間中に起きたとされる“報道のゆがみ”を調査しています。

また、東京工芸大学専任講師の茂木崇さんは、ニューヨークタイムズの研究をしています。米国を代表する新聞にも、報道力の変化は見られるのでしょうか。

さらに、毎日新聞外信部長で前北米総局長の板東賢治さん、早稲田大学科学技術ジャーナリスト養成プログラム教授の小林宏一さんもコメントをします。司会は、ジャーナリズムコースのプログラムマネージャー瀬川至朗さん。

同コースは、この催しものについて「苦悩するアメリカの現状を多角的に分析し、日本のこれからを考える」としています。

さまざまな分野で米国を鏡としてきた日本。しかし、報道の世界でも、日本はその姿勢を再考する必要が出てきているようです。

「ジャーナリズムの危機 アメリカ・メディアの現状と新聞の未来」は7月25日(土)14時から17時、東京・新宿区の早稲田大学早稲田キャンパス大隈講堂にて。300名が定員で、事前登録が必要です。終了後、政治学研究科とジャーナリズムコースの進学説明会も開かれます。

同コースによるお知らせはこちら。
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文学・技術・歴史で語られる『量子の新時代』


新刊のお知らせです。

朝日新書から『SF小説がリアルになる 量子の新時代』という本がきょう(2009年7月10日)発売されました。甲南大学教授・佐藤文隆さん、大阪大学大学院教授・井元信之さん、朝日新聞社論説副主幹・尾関章さんの共著です。この本の第2部「量子情報科学が開く世界」の構成を担当しました。

量子とは、宇宙の万物を原子の寸法で見たときに観測される物理量の最小単位のこと。20世紀のはじめ、量子の存在が物理学者たちによって発見されてから、ノーベル賞受賞理由となるような発見がつぎつぎとなされ、量子力学は物理学の花形になっていきました。

本は3部構成。それぞれの章ごとに量子に対する視点が大きくちがいます。

第1部は、文学の色合いが強いもの。

新聞社で科学記者を長年つとめ、書評欄で書評もしている尾関章さんが、記者の眼から量子力学のしくみや不思議さを紹介するとともに、量子力学を書く動機に思われる数々の映画や小説を紹介します。

量子力学には、もののふるまいが、Aという世界、Bという世界、Cという世界……に枝分かれしていくとする「多世界解釈」という見方があります。この多世界解釈に刺激を受けた小説家たちは、主人公が複数の世界に入っていくような話を書きます。

―――
世界にたった一つしかないモノではなく、複製可能のコトにこそ値打ちがある。そんな見方が芽生え育って、私たちのものの見方を変えつつある。それが新しい分身文学を生みだしているのではないだろうか。
―――

第2部は、技術の色合いが強いもの。

この部に登場する井元さんは、大阪大学で量子暗号や量子コンピュータなどの開発をしています。電電公社の技術者だった井元さんは、1980年代から量子力学を相手に通信システムの開発をしてきましたが、大きな転換点を経験することに。通信技術にとって邪魔者だった量子が、積極的に利用できるものであることが英国の物理学者たちに示されたのです。

―――
そうです。私はエカートから、量子の性質を利用したさまざまな挑戦的な研究があることを知らされたのです。それは、目からウロコの体験となりました。私が八〇年代を通して続けてきた研究は、量子雑音という邪魔者を消すためのものでした。……量子に対する姿勢が、私と彼らとでは、まるで逆だったのです。
―――

第3部は、量子力学を歴史的な視点で捉えたもの。

この部を執筆した佐藤文隆さんは、アインシュタインと量子力学の関わり合いを歴史からひもといていきます。アインシュタインは相対性理論を打ち立てた人物という印象が強いものの、じつのところ量子力学に多大なる貢献をしました。ただし、その貢献とは、量子力学の不思議さを批判することで逆説的になされたものでした。

―――
単に新理論の真価を見抜けなかったというのではなく、量子力学を一生懸命考えて、最後まで不承認だったのである。アインシュタインといえば「相対論」。この定番的な見方にこだわる限りは、アインシュタインの半分を見たことにしかならない。
―――

書名の『量子の新時代』には、量子が推測されるものから観測される時代になったこと、量子暗号や量子計算のように実用される時代になったこと、当初は研究者たちのあいだでも信じがたかった多世界解釈が採用される時代になったことなど、さまざまな意味が込められています。

朝日新聞出版社編集担当の井原圭子さんによると、書店に並びはじめて二、三日の「初速は好調」とのことです。

『量子の新時代』はこちらでどうぞ。
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1946年8月9日、小倉でも黙祷――長崎とアトム(6)


「長崎市民に告ぐ」の公告が掲載された1946年8月9日は、長崎で原子爆弾が投下されて満1年でした。8月9日に発行された毎日新聞には「原爆から1周年」といった記事は見あたりません。

しかし、翌8月10日の新聞には「原爆投下から1周年の催しものが行われた」という記事が載っています。

1946年8月9日、長崎市は1周忌を迎えた犠牲者を悼むための「慰霊祭」を執り行ないました。翌10日の毎日新聞長崎版は、2面トップに「長崎にめぐり來し“あの日” 四万の靈に祈る 小倉市代表も参列」という見出しの記事を掲げました。

この記事には、慰霊祭が行われた場所や式の様子などが書かれています。

―――
原子爆弾の一閃に奪はれた四万三千の靈を弔ふ市主催戰災死歿者慰靈祭は爆心地松山町の一角に設けられた斎場で午前十時から遺族、官公衞、町内會、各會社、諸團体代表など多数参列、佛式により施行された
―――

慰霊祭の斎場は、爆心の街である松山町に置かれたようです。しかし、爆心地が“公園”として認識されているような記述は見当たりません。また、「爆心地松山町の一角」と書かれてあることから、この斎場は、爆心地そのものに置かれたものでないと考えてよいでしょう。

記事には、もう一つ、当時の日本の様子が見てとれる記述があります。

福岡県小倉市(現在の北九州市小倉北区・小倉南区)は、1946年8月9日の原子爆弾投下の、最初の標的になった街です。リチャード・ローズの『原子爆弾の誕生』という本などによると、小倉は悪天候だったこともあり、米軍戦闘機B29による原子爆弾投下を免れました。

小倉市の市長代理と市議会議長代理が、長崎市の慰霊祭に弔問に訪れています。これは、見出しに「小倉市代表も参列」とあるとおり、記事にもつぎのように書かれています。

―――
あの日に爆弾が落される豫定だったのが長崎市に變更されて危く被害を免れた小倉市から市長代理宮田収入役と市會議長代理の関谷副團長がわざわざ弔問して、懇な焼香を捧げた
―――

しかし、さらに注目すべきは、「小倉発」の「小倉で祈祷」という記事です。

―――
小倉でも默祷【小倉】
市民たちもこの日“反省の日”として原爆投下時刻の午前十一時には一斉にそれぞれの職場や各家庭で自分たちにかはつて散華した長崎市民の霊に黙祷をささげ冥福を祈った。
―――

記事は、小倉市民にとっての「この日」つまり8月9日は、「反省の日」でした。

終戦直後、8月17日に発足した東久邇宮内閣のもと発せられた「一億総懺悔」ということばがあります。国民すべてが、太平洋戦争で敗戦の責任をとるという国民統制のための合言葉のひとつです。「反省の日」には、この合言葉が色濃く反映されています。

翌1947年、原爆投下から2周年を報じる記事には、爆心地の様子がわかる写真が掲載されます。つづく。
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予測の立つ製造業


商売をするうえで、つぎにどんなが流行がくるかを予想することは大切な仕事です。流行に乗って儲けようとする人は、アンテナを張って「3か月後には、こんな流行がくる」と、時流を考えるわけです。みずからが仕掛け人となって流行をつくりだす人もいます。

むずかしいのは、かならずしもその予想が当たるわけではない、ということ。むしろ、近い未来でさえ、どんなことが流行するかは、なかなかわかりません。ある地域、ある社会、ある世代から突発的に、にわか景気が起きることもあります。

しかし、なかには、儲けの種となるできごとがいつ起きるかを確実に判断できる商売もあります。しかも「何月何日にこんなことが起きる」といった、極めて限られた時期まで狙うこともできるといいます。

観測装置の製造業に詳しい人はこう言います。「天体観測の装置を売っているメーカーほど、外さないで済む業種はないかもね」。

天文学では計算が発達しています。何年何月何日何時何分にどのような天体ショウが起きるといった予測は、ほぼまちがいなく立てられます。たとえば、近々では「(2009年)7月22日(水)午前11時ごろを中心に日本で日食が見られる」といった予測が天文台などによって立てられています。この予測がはずれることは、まずないでしょう。

しかも、天体ショウの予測は、20年や30年前から立てることができます。2009年のつぎに日本で皆既日食が見られるのは2035年9月2日と、すでに予測が立てられています。

天文観測装置の製造業にしてみれば、流行の変動で工場ラインを急に増やしたり減らしたりする必要がないわけです。次の天文イベントに向けて、確実に観測装置を製造すればいいのですから。作る数量についても「前の日食のときは何個売れたから、今回は何個つくろう」といった過去の経験を参考にできます。

ただ、こう指摘する人もいるかもしれません。「天体ショウは当日の天候に左右されがち。屋外球場のナイトゲームで弁当をいくつ用意しておくかと同じむずかしさがある」。

しかし、天文観測装置の販売と屋外球場の弁当販売は、やはり本質的にちがうもの。天文観測はずっと前から何年何月何日に何が起きるといったことを予想できるわけです。ほとんどの購買者は当日の天候がわかる前日にあわてて買うようなことはしません。当日が曇りでもなんでも、事前に「何月何日に天文イベントがありますよ」と宣伝しておけばいいわけです。

予測ができる業種として天文観測装置製造業に焦点を当てましたが、ほかにも確実な予測で儲けられる商売は考えられます。「何年何月何日」にこういう催しものがある、といった予定に着目して、その時点に焦点を当てて計画を立てることが大切になります。その催しものが人気を博すかどうかは、むずかしい予測かもしれませんが。
| - | 23:59 | comments(0) | -
「DNA鑑定」と「DNA型鑑定」


日本化学会の『化学と工業』(2009年)7月号に、「真実に近づくために 犯罪捜査で活用される先端技術」という記事が掲載されています。この記事の原稿を寄せました。

2009年に入ってから、和歌山毒物カレー事件の最高裁判決で毒物の異動識別鑑定が死刑判決の決め手になったり、「足利事件」の受刑者だった菅谷利和さんのDNAの再鑑定が行われて菅谷さんが釈放になったり、いろいろな意味で科学捜査への注目が高まっています。

記事では、これらの事件で対象となった先端技術を紹介するほか、微量な爆薬の成分を感知してテロを防ぐ技術や、封を開けずに封の中身を調べる技術などが紹介されています。

犯罪捜査をとりあげる記事では、“言葉の使い方”が、とりわけ厳密になります。そのひとつの例が「DNA鑑定」と「DNA型鑑定」です。

足利事件をめぐる報道でも、「DNA鑑定」と表現する記事が多いものの、「DNA型鑑定」と表現する記事も見られます。ちがいはどのようなものでしょう。

「DNA鑑定」は「DNAを用いた鑑定」。「DNA型鑑定」は「DNA型を用いた鑑定」。後者のほうは、DNAという物質のなかでも、その“型”に着目している分、意味が狭まります。

このちがいは、「血液」と「血液型」のちがいに置き換えるとわかりやすいかもしれません。「血液を調べる」場合は、血液を採取して、その成分をさまざまな角度から調べあげることになります。いっぽう、「血液型を調べる」場合、焦点になるのは血液型。A型なのか、B型なのか、O型なのか、AB型なのかといったことを調べる意味合いになります。「血液型」のほうが「血液」よりも、意味が狭まります。

血液に血液型があるように、DNAにもDNA型があります。ただし、血液型の種類よりも、DNA型のほうが調べられる部分や、型の種類が多くあるため複雑です。

じつは、犯罪捜査や鑑定に関わる機関によっても「DNA鑑定」を使うか「DNA型鑑定」を使うかは異なります。

今回の記事で取材させてもらった弁護士の方は、型の判定のほか、塩基配列を直接分析するような方法も含めて「DNA鑑定」と定義している、と説明します。

いっぽう、警察庁の支部である科学警察研究所の表現法は別。警察はDNA全体を調べているのではなく、「型」の分類をしているのだから「DNA型鑑定」を行っていることになる、という説明です。

表現として一般に通るのは「DNA鑑定」のほうでしょう。今回の記事でも「DNA鑑定」と表現し、とりわけ型の鑑定を強調するときは「DNAの型の鑑定」としました。

ただし、新聞によっては「DNA鑑定」と「DNA型鑑定」の両方をわけて使っている場合もあります。それは、記者や新聞社の、細かく詳しく伝えようとする態度の現れかもしれません。

『化学と工業』2009年7月号の目次はこちら。
| - | 20:45 | comments(0) | -
「書く」を運動で喩える人々


人がなにかを行っているときに感じられる心もちを「何々みたいだ」と、喩えることがありますね。

本や雑誌や論文などの原稿を「書く」という行い対して、人々はどのような喩えを使ってその実感を伝えようとするのでしょう。

ある人は、書きはじめるときの気分を「自転車を漕ぐときみたいだ」といいます。

ペダルに足をかけて漕ぎはじめるときが、最も力が要るとき。いったん自転車が加速すれば、それほど力は必要なくなります。つまり、書きはじめるまでの気力をためこむことが大変だ、ということですね。

書く内容の水準が高いほど、ペダルの漕ぎはじめはとても力が要るものになるでしょう。なかには、漕ぎはじめたものの、中途半端にふらふらとして転んでしまう場合もあるかもしれません。

しかし、書くモードに入れば、それほど「やるぞ」といった気合いを入れっぱなしにする必要はなくなるということでしょう。

また、ある人は、書き終えたあとの気分を「長距離を走ったあとのようだ」といいます。翻訳者などにもおなじ喩えがする人がいます。

書いている途中は「ああ、脱稿までまだまだだな」と感じるものの、長丁場の執筆を終えたあとは「ああ、終わった。苦しかったけれど、また次もがんばろう」という気持ちになれるということでしょう。

書いている最中と、書き終わった後の気分が大きく変わるわけです。

さらに、ある人は、締め切りを守れなかった期間の心もちを「泳いでいて溺れかけているときのようだ」といいます。ずぶずぶと身が沈んでしまわぬように、あっぷあっぷともがきながらどうにか書き終えようとする、ということでしょうか。

漕ぐ、走る、泳ぐ……。書くという行為は、よく運動に喩えられるようです。あるいは、書くという行為も運動のひとつなのかもしれません。
| - | 23:59 | comments(0) | -
7月15日は「科学コミュニケーションのネットワーク構築に向けて」


催しもののお知らせです。

東京・青海の日本科学未来館が(2009年)7月15日、「科学コミュニケーションのネットワーク構築に向けて」という公開討論会を開きます。

日本科学未来館は、文部科学省傘下の独立行政法人「科学技術振興機構」(JST)が建てた科学館です。開館は2001年7月。

館長は宇宙飛行士の毛利衛さんです。2回目の宇宙飛行から帰還後の2000年、開館前に就任しました。およそ9年にわたる、長丁場の舵取りとなっています。

この時期に、公開討論会を開く目的を、毛利さんは催しものの「ご案内」のなかで、次のように述べています。

―――
設立の理念に基づきながらも、未来館を取り巻く環境の変化に対応し、未来館が今後どうあるべきかについて「日本科学未来館の長期ビジョン」の方向性を表明させていただくとともに、近年発展著しい中国における科学館政策の現状について講演を開催したいと存じます。
―――

日本科学未来館は、開館したころ「私と科学」を示す「MeSci」という合言葉や、「見てもらうのは物より人です」「発見してもらうのは出会いです」「音楽も美術も演劇もスポーツも私たちの運動体を形成します」といった方針を示した「MMコンセプト」を掲げていました。

その後、合言葉には変遷があり、いまは「科学がわかる 世界がわかる」というものに。「『新しい知』によって『かしこく生きる』社会をつくろうとする未来館の姿勢が、このスローガンにこめられています」と、未来館は説明します。

ビジョンはほかにも掲げられています。「未来館が目指すもの」として、「科学と向き合う心を潜在的に備えている人すべてに対し、先端を行く『新しい知』を分かち合うことで、一人ひとりが未来を見つめ、かしこく生きていける社会を実現する」といったことを発表しています。

科学を示すとともに、展覧会では音楽など芸術との融合なども模索してきた未来館。館内の雰囲気は、東京・北の丸の科学技術館に感じられる子どもを対象の中心とした昔ながら雰囲気でなく、“おしゃれ”で“小ぎれい”で、大人にも対応した科学館です。

「取り巻く環境の変化に対応」が意味するものはどういうものでしょうか。“科学コミュニケーション”の発展、大幅な人事の刷新、はたまた財政状況の変化……。7月15日の公開討論会で、その答が語られそうです。

日本科学未来館の公開討論会「科学コミュニケーションのネットワーク構築に向けて」は、2009年7月15日、日本科学未来館にて。無料ですが、事前申し込みが必要です。お知らせはこちら。
| - | 23:59 | comments(0) | -
「長崎市民に告ぐ」――長崎とアトム(5)


原子爆弾投下から満1年の1946(昭和21)年8月9日、プランゲ文庫所蔵の長崎県で配達された新聞記事には、原子爆弾投下に関する記事は見当たりません。

しかし、当時の長崎市内の雰囲気を連想させる広告欄の記事があります。毎日新聞長崎版の1面最下段には、「占領軍歩兵第三十四聯隊長」の名のもと、「長崎市民に告ぐ」という広告が掲載されています。この広告はおもに、当時の長崎市に存在していた“不良團”に対して発せられた警告です。内容を見てみます。

ーーー
長崎市内には互に対抗する二つの不良團があり、團員は各々短刀と木劍を所持して闘争して居る。(中略)不幸にして逮捕の際無辜の市民も不良の一味と交際をしをりたる為に検挙されたることに就ては気の毒に思ふ。然し不良者と交際し居る者は誰でも嫌疑の眼で見られるは當然なり。犯意を有する連中は又米國軍の兵隊と交際する少女達を脅迫せり。(中略)尚寶塚ダンスホールで働きをる少女達も脅迫せられ其の一人は若い男に殴られ負傷せり。
ーーー

広告からは、二つの“不良團”が活動していたこととともに、「米國軍の兵隊と交際する少女達」がいたことがわかります。おそらく「交際する少女達」とは日本人女性のことでしょう。また「寶塚ダンスホール」という“社交の場”が、原爆投下後1年後にはすでに存在していたこともわかります。

前年、1945(昭和20)年、占領軍が長崎に進駐してくる直前には、長崎県や長崎市から「米軍が上陸する時、婦女子は避難していること」との通達があったといいます。「鬼畜米英」のイメージが強くあったのでしょう。

しかし、広告の「米國軍の兵隊と交際する少女達」や「寶塚ダンスホールで働きをる少女達」という記述を見ると、たった一年で、街の雰囲気は進駐軍により別のものになっていたことがわかります。つづく。
| - | 23:59 | comments(0) | -
インド・ネパール料理店カナ早稲田店のカレーセット――カレーまみれのアネクドート(14)


東京・新宿区の早稲田は、いわずとしれた学生の街。界隈に立ち並ぶ食堂や料理店も学生対応型です。量は多め、値段は安め。

早稲田のカレー屋といえば、第1回で紹介した「メーヤウ」が有名です。量多め、値段安めの原則に、“味は辛め”も加えられます。

そして、もう一点、早稲田の食堂の特徴をあげるとすれば、かなり“新規出店の入れ替わり”が激しいという点もあります。

古くから営んでいる店には安定して客が入りますが、新規出店に対して、学生が意外なほど厳しい。たこ焼き屋の「築地銀だこ」も、ほかの支店では待ち客が並びますが、早稲田店に行列はなかなか見られません。

そんな早稲田で2008年、ちかごろメーヤウの目と鼻の先、馬場下町交差点の一角にカレー屋が開店しました。「インド・ネパール料理カナ」です。「カナ」(khana)はヒンディー語で「食べる」の意味。店名は漢字で「花菜」も使われています。

店内は奥行きがあって広く、4人がけテーブル席が10ほど。インド人の店員が給仕します。

メニューは、インド料理屋としてはごく標準的。カレーは、チキン、マトンや、豆のカレーなどなど。単品でも注文できますが、これらを2、3種類選んで、ナンやライスやラッシーやチャイとともにセットで注文することもできます。ナンは厨房で焼いており、インド料理屋では標準的な大きさのものが出されます。他に、インドやネパールのビールなども種類豊富。

一言でいえば、“外していない”インド料理屋といえるでしょう。

しかし、ここは早稲田。カレーの激戦区かつ新規出店に厳しい土地柄で、客の定着度は、まだそれほど高くない模様。早稲田大学の、とある講師によると「あの店は、昼どきもけっこう空いていて、落ちついて話したりすることができるんだ」。

カナの入る前、この店舗には“外していないうどん屋”が入っていました。しかし、客足は伸びずに撤退したようです。カナは生き残ることができるでしょうか。

「インド・ネパール料理店カナ早稲田店」の場所情報などはこちらで。
| - | 23:59 | comments(0) | -
書評『眠る秘訣』
著者の井上昌次郎さんは、日本の睡眠研究の大家とよばれるいっぽうで、「解体新ショー」などのバラエティ番組などにも出演しています。この本は“研究色”も“バラエティ色”も強くなく、著者の“ヒューマニティ”がほどよく出ています。



一般向けの医学の本などでは、さまざまな疫学調査を紹介し「調査の結果、こういう因果関係が見えてきた」と話を展開する場合が往々にしてある。

いっぽう、この本では「調査結果がこうなっているから」ということより、読者が「なるほど!」と納得する論を示すことで、睡眠の“本当のところ”を明かそうとする。

たとえば、寝る前の(ぬるめの)入浴は深い睡眠によいとよくいわれるが、著者は、睡眠中は体の体温が下がるという事実を示した上で、入浴が睡眠によい理由を次のように説明する。

―――
寝る前に入浴すると、体温がふたたび上昇しますから、ひきつづく下降の勾配が急な傾斜となります。そのため、寝つきが加速されるのです。
―――

睡眠に関するさまざまな本でも「疫学調査の結果によれば」はよく出てくる。そうした本は「快適な睡眠の平均時間は何時間」のように、読者が参考とすべき“眠りの標準”を示そうとする。だが、著者の姿勢はその対極だ。

―――
日常の生活で、自分の眠りが気にならなければ、つまり、自分の眠りについて悩みがなければ、それがよい眠りです。

眠ろうとあせりすぎるために眠れないのですから、「眠ろう!」とがんばらなければ、「眠れる」はずです。

「睡眠を型にはめないこと」、これこそが眠る秘訣なのですね。
―――

このように、著者は眠るという行為に対して個人尊重的自由主義を貫いている。睡眠研究により眠りの智慧が深まるほど、社会が「こうするとよい、ああするとよくない」と右往左往するのを見て「そう、あわてなさんな」と言っているようでもある。

それにしても、人生のおよそ3分の1を眠っていながら、眠りのことについてまだまだ知らないことが多いと気づかされる読者も多いだろう。一般的に考えられていることに対する否定論も展開される。

―――
いつでもどこでもすぐ眠れるのは、あまり自慢のできることではなくて、睡眠不足の決定的な症状の一つであることが多いのです。こんな人は、眠りを自在にコントロールできる特技の持ち主ではなく、慢性的な睡眠不足の状態にある、不眠症ないし不眠症予備群の要注意人物、とみなすほうが妥当です。
―――

科学的理論で解明されたことの上に、著者の長年の経験則から語られることが加わり、睡眠研究の大家でしか書けない本に仕上がっている。

読んでいて眠気に誘われることは、もちろんない。でも、興奮して眠れなくなる、といったこともない。そういったことが気にならない、つまり“よい眠りの本”だ。

『眠る秘訣』はこちらで。
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