2009.06.30 Tuesday
新聞に原子爆弾の跡を見る――長崎とアトム(4)
1945年8月9日午前11時2分、長崎市松山町171番地(当時)に原子爆弾が落とされました。この場所は、その3日前に原子爆弾が落とされた広島市の相生橋東南(いまの原爆ドーム付近)とともに、世界史上ふたつしかない戦争における“爆心地”となりました。富豪の別荘地だったこの地は、その後、場所としての意味づけがまったく別のものになっていきます。
その変遷を追うための資料として有効なものが新聞です。
まずは、長崎に原子爆弾が投下されたことを戦時中の新聞がどのように伝えているか、その一報を見てみます。
朝日新聞は、戦前、戦中、戦後と、一貫して新聞の過去号が出版されており、大きな図書館などで閲覧することができます。1945年8月12日付の朝日新聞には、1面下段に「長崎にも新型爆彈」という記事が載っています。
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長崎にも新型爆彈
西部軍管區司令部発表(昭和二十年八月九日十四時四十五分)
一、八月九日午前十一時頃敵大型二機は長崎市に侵入し、新型爆彈らしきものを使用せり
二、詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込
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長崎の原子爆弾投下の第一報は、わずかこれだけのものでした。この記事の左側には、広島への原子爆弾投下を受けて「新型爆彈への對策」や「一瞬に廣島變貌」といった記事が載っていますが、それらに比べるとごく小さな扱われ方でした。
いっぽう、原爆投下からまもないころの長崎の様子をつぶさに見ることができるのは、長崎県に配布されていた複数の地方紙です。
1945年から1949年の占領期に米国軍から検閲を受けた出版物が眠っているメリーランド大学のプランゲ文庫には、原爆投下後まもないころの長崎市民が読んでいた新聞が収蔵されています。「毎日新聞長崎版」「長崎民友」「長崎日日」「長崎日日炭坑版」の4種類です。
長崎県の地方紙史をひもとくと、1889年9月の「長崎新報」の創刊にさかのぼることができます。ロシア戦争が起きた1911年、同紙は「長崎日日新聞」に解題します。
他に長崎県内では、「長崎民友」、「佐世保時事新聞」、「島原新聞」などの地方紙が立ち上がりましたが、長崎日日新聞を含め、これらの新聞社は1942年、太平洋戦争の戦時体制下で、いったん「長崎日報」という新聞に合併統合されます。
そして、原爆投下と敗戦を迎え、1946年12月9日に、合併統合されていた4紙は「長崎民友」「長崎日日」「佐世保時事新聞」「新島原新聞」に分離されました。長崎民友と長崎日日は、その後1959年に合併し、「長崎新聞」となり、いままで続いています。
こうした地方紙の流れとは別に、全国紙だった毎日新聞の長崎版も、プランゲ文庫には収蔵されています。
原子爆弾が投下された直後の長崎市の様子がわかる新聞記事は、残念ながらプランゲ文庫にも収蔵されていません。検閲が開始されたのは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が「言論および新聞の自由に関する覚書」を出した1945年9月10日以降となります。
しかし、1946年以降の長崎市民に配布された新聞紙には、爆心地の変遷や復興する長崎市民の様子などが克明に描かれています。つづく。
参考文献
朝日新聞1945年8月12日付
参考ホームページ
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