科学技術のアネクドート

絶対に破られない暗号(1)


暗号の世界には「量子暗号」というものがあります。1984年にIBMのチャールズ・ベネットとモントリオール大学のジル・ブラザールが原案を考えました。「絶対に破られない」とされる量子暗号のしくみを見てみましょう。

暗号の説明では、暗号の送り手を「アリス」、受け手を「ボブ」、盗聴者を「イブ」とする決まりがありますので、それに従います。

アリスは、ボブに、2進数で「1001110」というメッセージを送ろうとします。このときアリスは、素粒子「光子」がもつ「偏極」という性質を使います。偏極は、光子がもつ振動の角度のこと。たとえば1個の光子がケーブルを通るにしても、「|」「−」「/」「\」などの偏極が存在することになります。

暗号では、縦横スキームといって、「1」を「|」、「0」を「−」で表す方法と、斜めスキームといって「1」を「/」、「0」を「\」で表す方法があります。通信の際「1」や「0」の情報が縦横スキームで送られるか、斜めスキームで送られるかは、光子の性質上まったくのランダムとなります。

つまり、「1001110」は、「|−−/|/\」という光子の偏極で送られることもあれば、「/−\||/−」と送られる場合もあります。

ここで「ポラロイド・フィルタ」と呼ばれるフィルタが登場します。このフィルタにも「|」「−」「/」「\」の4種類があります。例えば「|」のフィルタを使うと、縦横スキームの「|」は通すものの「−」は引っ掛かってしまいます。

このフィルタに特徴的なのは、ここから先。「|」を使った場合、「|」の光子を確実に通す以外に、「/」の光子と「\」の光子については、通す場合もあれば通さない場合もあるのです。その確率は半々。

さらに特徴的なことに、運よく「|」のフィルタを通過することができた光子は、すべて通過後は「|」の光子として扱われることになります。

ここで盗聴者のイブが使えるのは、光子の偏極が「|」か「−」かを読みとる「縦横スキームだけわかる検出器」か、光子の偏極が「/」か「\」かを読みとる「斜めスキームだけわかる検出器」のどちらかに限られてしまいます。

もしイブが「斜めスキームだけわかる検出器」を使ったとすると、アリスが暗号を送った時点で「/」か「\」だった光子は、判定できますが、「|」だった光子は「/」または「\」として誤読してしまいます。「/」であれば、「|」と同じく暗号は「1」を表すのでイブにとっては幸いですが、「\」であれば暗号は「0」を表すのでイブにとっては困ったことになってしまいます。

イブにとってはさらに都合が悪いことに、フィルタを使って光子の偏極を読みとれるのは、1回きりなのでした。

ここまでの条件は、暗号受信者のボブにとってもおなじこと。ボブもイブ同様、暗号を間違って読んでしまうことになります。

そこで、アリスとボブはあらかじめスキームについての取り決めをしておく必要があります。たとえばアリスが冒頭の「|−−/|/\」をボブに送る場合、アリスはボブに電話をして「『縦横 縦横 縦横 斜め 縦横 斜め 斜め』で送ります」と伝えることになります。

しかし、この会話をもし意地悪なイブに盗聴されてしまったとしたら、ここまでやって来たことが徒労になってしまいます。さてどうしたものか……。つづく。
| - | 23:59 | comments(0) | -
投影幕の故障、講演者も聴衆も切りかえる。


きょう(2008年11月29日)、東京・駒場の東京大学で、「科学技術インタープリターによる社会への発信」というシンポジウムが開かれました。

東京大学は、修士課程以上の学内大学院生に副専攻として「科学技術インタープリター養成プログラム」を提供しています。同じく北海道大学では「科学技術コミュニケーター養成ユニット」、早稲田大学では「科学技術ジャーナリスト養成プログラム」があります。この似て非なる3企画の修了者がプログラムでの経験を語るというもの。

早稲田大学修了生として、15分間ほど経験談を発表しました。内容はまたおいおいお伝えします。

東大のプログラムで客員教授をしていた作家・瀬名秀明さんが基調講演をしました。最近、瀬名さんが始めた飛行機操縦の話をしていたところ、正面に3面、映し出されていた資料の画像が、突然ぱっと消えてしまいました。主催者・東大側の機器故障のようで、対応に追われる係員たち。

瀬名さんは復旧を待ちましたが、「では、ここからはスライド無しで進めましょう。みなさんに場面を想像していただくのもいいものでしょう」と、投影画像に頼らない口頭発表に切り換えました。

「一つ岬を越えるとすぐに砂漠です。モロッコの上空を飛ぶと、藤壷のような家々が見ることができます」。フランス作家アントワーヌ・ド・サンテグジュペリが郵便輸送飛行士としてモロッコの空を飛んだことに思いを馳せ「飛んだあとに彼の『人間の大地』を読んでみるとまた違ったように読める」。

そうしているうち、最後の5分で機材は復旧しました。

会場の雰囲気は投影幕に画像が映っているときよりも、口頭のみの時間のほうが、聴衆の目と耳が瀬名さん一点に集中し、会場の一体感がありました。瀬名さんも講演を数々おこない、こうした不測の事態にも最善を尽くす心構えがあるのでしょう。口頭に切り換えるまでの時間は、故障が起きてから15秒ほどしかありませんでした。

司会をしていた東大・佐倉修教授は「パワーポイントというものに我々がいくら縛られているかがわかります」とフォローしました。

講演者にとって投影資料は二つの意味で便利に思えるもの。

一つは、文字や画像で情報を聴衆に与えることができる(と講演者は思いこんでいる)こと。しかし、文字をよほど大きくしなければ、聴衆には読めません。口頭と画像の出し方などを工夫したりしないと、散漫な発表になってしまいます。

もう一つは、発表する講演者自身が、心の拠りどころにできること。話す内容を頭のなかで叩き込むよりも、自分も見ながら読みながら発表するほうがはるかに楽です。

機器の故障中、瀬名さんに注がれた聴衆の視線と傾聴のベクトルは、今後の講演発表のあり方を考えさせるものでした。
| - | 23:59 | comments(0) | -
科学史上最も美しい実験(3)


外村さんが行った「二重スリットによる電子の干渉実験」実験は、幸運にもインターネットの動画で私たちも鑑賞することができます。

1994年、外村さんは英国王立協会主催の「金曜講話」という講義に招かれ、この実験を映像で紹介しました。その講義の一部始終を、英国の「ベガ・サイエンス・プログラム」というオンラインビデオで見ることができます。

タキシード、蝶ネクタイ姿の外村さん。半円形の座席で講演を味わう聴衆もまた正装です。

クライマックスは講義の中盤。まるで、夜空に星が一つ一つ誕生していくように、電子の点々が増えていきます。ただし、宇宙空間とちがうのは、その先。点々が多くなると、点が集まるところと集まらないところに差が見え始め、最後には何本もの縦の縞々が描かれていきます。

『フィジックス・ワールド』の読者が「科学史上最も美しい実験」として、この「二重スリットによる電子の干渉実験」に一票入れたのは、点々が縞模様になっていく見た目の美しさがあったからでしょう。

しかし、それだけではなさそうです。科学における「美しい」とは、「きれい」というだけでなく、「精巧」「精密」「洗練」といった意味合いも含まれることがあります。

外村さんの実験に、「自然科学の美しさ」を体感してみてはいかがでしょうか。

「二重スリットによる電子の干渉実験」の映像は29分過ぎから。ベガ・サイエンス・プログラムの外村さん金曜講話“Electron Waves Unveil The Microcosmos”はこちら。
http://vega.org.uk/video/programme/66
| - | 19:33 | comments(0) | -
科学史上最も美しい実験(2)


外村さんは「ヤングのスリット実験」と似た、「二重スリットによる電子の干渉実験」を行いました。

開発したホログラフィ電子顕微鏡という装置を使って、電子1個1個を単体で発します。

この電子単体を、たとえば10秒に1個、ヤングの実験と同じように、手前から奥の平板に向け発します。途中には電子がくぐり抜けるための二つスリットを用意します。これも、ヤングの実験の[||]とおなじ。

二つのスリットを通った1個1個の電子は、奥の平板へとぶつかります。電子が平面上のどこにぶつかったは、検出モニタでプロットすることができます。10秒に1個ずつ、点がぽつ、ぽつ、ぽつ、と増えていきます。

時が経つととともに、点の数が増えていきます。電子の点々は、検出モニタにどのように映るでしょうか。

「1個1個の電子が[||]の間をくぐり抜けたのだから、壁にぶつかる点々が増えれば[||]のような形になるはず」。多くの人はそう考えるかもしれません。

しかし、実験結果はそうなりませんでした。ぽつ、ぽつ、ぽつ、と点々が増えていくに従って、検出モニタに見えてきたのは、[||]ではなく、“何本もの縦の縞々”だったのです。

ここで思い出していただきたいのは、「ヤングのスリットの実験」の結果です。電球から発せられた光の波が[||]を通ると、壁に何本もの縦の縞々が描かれたのでした。この縞々は、[||]を通った光が起こす二つの放射状の波(光の強弱)がぶつかりあうことで描かれる、暗いところと明るいところの差でした。

この「ヤングのスリット実験」と同じような縞々が、外村さんの実験でも描き出されたのです。外村さんの実験では、ぽつ、ぽつ、ぽつ、と電子が1個ずつ発せられているにもかかわらず、“波”が[||]を通るときしか出ない模様が平板に描かれたのです。

1個の電子に、ヤングの実験の「光の波」と同じような、“波”としての性質がなければ、このような結果はなりません。実験は「1個の電子には、波としての性質がある」ということを示すものでした。

外村さんの実験で使われたのは1個の電子でしたが、寸法を拡大して1個のビー玉で行ったらどうなるでしょう。[||]を通った1個1個のビー玉は、むこうの壁に何個も当たると、[||]の形が描きだされることでしょう。ビー玉ほどの大きさでは起きないことが、電子ほどの大きさでは起きるのです。量子力学の不思議であり魅力です。つづく。
| - | 23:59 | comments(0) | -
科学史上最も美しい実験(1)


世界の名だたる研究者たちの中に日本人の名前が登場すると、嬉しくなる人は多いと思います。「フェルマーの最終定理」解決の歴史では、志村五郎と谷山豊という二人の日本人が不可欠な役割を果たしました。

英国の科学誌『フィジックス・ワールド』は2002年、「科学史上最も美しい実験」とは何かを読者に聞いて集計しました。

ガリレオ・ガリレイの「落体の実験」やアイザック・ニュートンの「太陽光スペクトルの分解実験」などが上位に来る中、1位に選ばれたのが「二重スリットによる電子の干渉実験」でした。この実験の実行者の中に、日立製作所フェロー外村彰さんがいます。

「二重スリットによる電子の干渉実験」はどのように美しいのでしょう。説明するには、まず英国の科学者トマス・ヤング(1773-1829)が1801年に行った「ヤングのスリット実験」を紹介しておくのがよいでしょう。この実験自体、「科学史上最も美しい実験」の第5位に選ばれています。


トマス・ヤング

暗室のこちら側から電球で光を照らし、向こう側の壁に当てようとします。しかし、その途中にスリットが2つ入った塀を立てます。スリットとは「裂け目」のこと。電球からの光は、絵文字にすると[||]のような、2本の縦長の裂け目を通って向こうの壁にたどりつくのです。

光は波の性質をもっているため、この[||]を通ると、それぞれのスリットの出口から放射状に波がでてきます。波と波はぶつかると山になっているところはより高い山になり、谷になっているところはより深い谷になります。

この干渉という現象を、2つのスリットから出てきた光の波に当てはめると、光の波の「山」どうしがぶつかるところは光の量が多くなり、光の波の「谷」どうしがぶつかるところは光の量が少なくなります。

この結果は、スリットの向こう側の壁に、何本もの縦の縞模様として映しだされます。

さて、外村さんが行った「二重スリットによる電子の干渉実験」は、この「ヤングのスリット実験」のいわば“電子1個版”でした。つづく。

『フィジックス・ワールド』「科学史上最も美しい実験」の記事はこちら(外村さんの固有名詞が出てくるわけではありませんが)。
http://physicsweb.org/articles/world/15/9/2
| - | 23:59 | comments(0) | -
書評『量子力学が語る世界像』
「これぞブルーバックス!」というような、読みがいのある本です。

『量子力が語る世界像 重なり合う複数の過去と未来』和田純夫 講談社ブルーバックス 1994年 256ページ


身のまわりのできごとも、あまりに小さくて見えないと、「別世界でのできごと」に感じられるのかもしれない。量子力学の世界がその典型だ。

私たちの体を構成する原子や、原子をとりまく電子などを単体や数個といったレベルで観測すると、その状態はとても奇異なものに映る。

たとえば、1個の電子が原子からぽんと飛び出して、壁に向かっていくとする。壁には左右ふたつ穴があいている。電子はその穴を通り、向こうの幕にたどりついた。

このとき1個の電子は、波として、左右の二つの穴の両方を通る歴史をかさねあわせることができるというのだ。

ここで登場するのが「波束の収縮」と「確率解釈」という量子力学ならではの言葉である。

「波束の収縮」は文字どおり、波が縮むこと。電子の波には水の波と同じように山の部分と谷の部分があり、うねうねとした曲線を描く。ところが、光の波の状態を人が観測しようとしたとたん、波の広がりはなくなり一点に集中してしまう。これが波束の収縮だ。つまり、人が見ているときと見ていないときとで、電子の波の状態が変わってしまうのだ。

「確率解釈」のほうはどうか。人間が観測したとき、電子がいる場所は確率でしか決まらない。電子はAという点で見つかるかもしれないし、Bという点で見つかるかもしれない。わかるのは次のことだけだ。「何度も観測をすると、見つかりやすさは、その地点での波の高さの2乗に比例する」。これを確率解釈という。

残念なことに、波束の収束と確率解釈に対しては「なぜ起きるか」を問うてはならない。公理だからだ。数学に「a=bなら、a+c=b+cである」のような、より深く説明できない公理があるように、量子力学にも「これは前提です」という公理が用いられてきた。それが波束の収縮と確率解釈だ。

だが、この二つの公理の存在を消し去ろうとする解釈が登場した。「多世界解釈」である。この本の著者は多世界解釈論者であり、多世界解釈をつぎのように説明する。

量子力学がこの世の根本原理だとしたら、原子一つ一つのみならず、それから構成される物体、人間、天体、そして宇宙全体も同じ原理で説明されるべきものである。

公理を使った量子力学の説明では、観測する人と観測される電子では、見る・見られるという異なる立場だった。いっぽう多世界解釈では、見られる電子も見る人も、もっといえば宇宙全体も含めて、すべてを「実在」とする。

そう解釈するとどうなるか。

公理を使った理論では、1個の電子は波として左右の二つの穴の両方を通る歴史が重ねあわさっていた。多世界解釈では、重ねあわさるのは私たちも含めた「世界」なのである。つまり、1個の電子が右の穴を通ったことを観測する自分が存在する世界と、同じその電子が左の穴を通ったことを観測する自分が存在する世界が共存していることになる。

量子力学を多世界解釈で考えると、波束の収縮や確率解釈といった公理をもちだす必要はなくなる。

あとは実感との葛藤だろうか。電子が右の穴を通るのを見た自分と、左の穴を通るのを見た自分が同時に存在する。それだけではない。自分が重ねあわさらなかった世界が無数に存在するのだ。その世界を見たいのも山だが、他の世界の自分に気づくことはない。

世の中を多世界解釈で考えることに矛盾は生じないという。量子力学の歴史としては公理を使う解釈のほうが伝統的だが、いま理論物理学では多世界解釈を採る科学者が確実に増えているという。

量子力学の体系をより単純化した、「論理構成の上でもっとも無駄のない考え」が多世界解釈であると筆者は思う。

論理的に無駄のない考えかどうかを考えるのは著者のような研究者でないとちょっと難しいかもしれない。でも、多世界解釈を受け入れられるかどうかは、誰もが考えて楽しむことができる。あなたはどうですか。

『量子力学が語る世界像』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/量子力学が語る世界像―重なり合う複数の過去と未来-ブルーバックス-和田-純夫/dp/4062570122/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1227645516&sr=1-2

2008年、同じ著者がブルーバックスから『量子力学の解釈問題―実験が示唆する「多世界」の実在』という本を出しています(共著)。こちらです。
http://www.amazon.co.jp/量子力学の解釈問題―実験が示唆する「多世界」の実在-ブルーバックス-1600-コリン・ブルース/dp/4062576007/ref=pd_bxgy_b_text_b
| - | 23:59 | comments(0) | -
見て、聴いて、科学ジャーナリスト塾の作品発表


東京お台場の国際研究交流大学村で(2008年11月)22日(土)から開かれていた「サイエンスアゴラ2008」で、きょう「今、なぜ『サイエンス映像』なのか」という催しものが開かれました。主催はサイエンス映像学会と日本科学技術ジャーナリスト会議。

この2団体は“兄弟組織”。昨2007年まで日本科学技術ジャーナリスト会議が開いていた「科学ジャーナリスト塾」も、今年の第7期から共同で開いています。

きょうは塾生たちが“中間発表”をしました。第7期の塾には、科学映像作品をつくる「サイエンス映像制作演習コース」や、ラジオの科学番組をつくる「科学ジャーナリスト養成演習コース」があります。来春の作品完成にむけ、試作段階の作品を塾生たちが披露しました。

映像作品では、人間をふくむ脊椎動物の祖先であることがわかった「ナメクジウオ」から進化を考える作品や、積み木が子どもの教育にどう生かされるかを追った作品などが映されました。また、ラジオ番組は絶対音感を身につけることの意味を考える番組や、漂流ごみの問題を取りあげた番組などが流れました。

対照的だったのは、映像作品とラジオ番組の発表のときの会場の雰囲気です。映像が流れると聴衆の視線がみな映像幕に注がれます。いっぽうラジオ番組は、聴衆の届くのは天井からの音のみ。目をつぶって聞く耳をたてたり、聞きながらうなずいたりという聴衆も見られました。

情報媒体は、受動的なものから能動的なものまでさまざま。受動的な媒体の王様が映像でしょう。テレビを見る人は映像と音のシャワーを浴びます。ラジオ番組も受動的な媒体といえそうですが、聴く人は音をたよりに想像力を働かせるという能動的な作業も少しします。

映像作品は、ラジオ番組より多くの情報を伝えられる反面、映像づくりには手間暇がかかります。いっぽうラジオ番組は、音声のことだけ考えればいいので技術的には簡単に作れますが、伝えたい内容をきちんと伝える面での難しさがあります。

塾生たちは今後、科学ジャーナリスト塾でさらに作品にみがきをかけて、修了となる春にはインターネット上で完成品を発表する予定です。

科学ジャーナリスト塾の案内はこちら。
http://science-oasis.tv/academy/
| - | 23:59 | comments(0) | -
ある受動的生活者の弁明(4)


人はある物事を選ぶ前と後では、選んだ後のほうがその物事に寄せる期待は高まります。

裏を返せば、選んだものが期待どおりにならなかったときの「後悔」と「埋め合わせの労力」は大きくなります。

まずは「後悔」のほう。これは賭けごとにおける選択で起きることです。「2枠・4枠」を選んだ競馬愛好者は「勝つんじゃないか」という期待が高まった分、外れたときの後悔は大きい(そして外れる場合のほうが圧倒的に多い)。

つぎに「埋め合わせの労力」のほう。こちらは委託仕事における選択で起きます。ある編集者が迷ったあげく、本の書き手としてC氏でなくD氏を選びました。ところが蓋を開けてみればD氏は締めきりを守らぬ上に、取材もいい加減、試しの書き出し原稿も素人どうぜんでした。ところが、編集者は「自分でDさんを選んだんだ」との思いから、大変な労力を割いてでも、D氏に仕事をさせつづけようとします。「自分の選択はまちがっていなかったんだ」と自分に言い聞かせながら。

これらから導かれる結論は「選択をしないほうが後悔や穴埋め労力は少なくて済む」というものです。

自由がないとき、人は「選べることはいいことだ」と考えます。しかし、多チャンネル化、少量多生産化が進み、選択肢があまりにも多い時代になりました。選択する場面が増えるほど、後悔する機会も増えます。

多角化経営に乗り出して倒産する企業を多く見てきました。有名音楽家は事業展開先にアジアを選び、巨額な負債を抱えて詐欺罪で逮捕されました。選んだ末の失敗です。

受動的に生きること、選ぶよりも選ばれる人生を送ること。こうした人の態度を「ネガティブな生き方だ」と低く評化する傾向はこれからも続くのでしょうか。社会が回っていくためには、能動的な人とともに、受動的な人も必要です。何も選ばない人生も、意外と素敵なものかもしれません。了。
| - | 23:59 | comments(0) | -
ある受動的生活者の弁明(3)


人間の生き方として、積極的に働きかけをする人生と、消極的に働きかけを受け入れていく人生と、どちらのほうがよいのでしょう。

大きく関わるのは性格です。企画を立てたり、人を誘ったりするのが好きな人が、誰かの誘いを待つだけでは鬱憤が溜まります。逆に、補佐役が向いているという人が、指導者になれば心の負担は大きなものに。

では、「自分は積極性と消極性がおなじぐらい」という人は、能動的な生き方と受動的な生き方と、どちらのほうがよいのでしょうか。

大きく関係するのが「選択」という行為です。能動的な生き方の人のほうが、受動的な生き方の人より、選択する機会は多くなります。編集者は物書きを選ぶけれど、物書きはあまり編集者を選べません。コンビニエンスストアの客は「美人の店員さんの列を」とレジを選ぶけれど、店員は並ぶ客を選べません。

認知心理学や行動経済学の分野では、「選択」という行為と「価値」という性質には関係性があるとします。「Aという選択をする前と後では、後のほうがAへの期待は高まる」というもの。

身近な例は、競馬です。馬券を買う人は、どの馬が勝つかを選択をするわけです。数ある組みあわせから「3枠・5枠」などと選んで馬券を買います。

選ばなかった組み合わせよりも、選んだ組み合わせのほうが「当たるんじゃないか」といった期待は高くなるもの。逆を考えれば実感できるでしょう。馬券を握りしめながら「ああ、この組み合わせは外れる」と考える人はあまりいません。

自分が選んだものには「よい結果になる」という期待の度合いが高くなるわけです。

この期待の高まりは幻想にすぎません。「3枠・5枠」に賭けたAさんは、その組み合わせが当たる期待が高まります。「2枠・4枠」に賭けたBさんは、その組み合わせが当たる期待が高まります。組み合わせの数だけ、賭けた人の心の盛り上がりがあるわけです。そのうち本当に予想が当たるのは一つの組み合わせでしかありません。

選ぶ前と後では、その結果がどうなるかは何も変わらないにもかかわらず、選ぶことによって期待だけが高まるわけです。つづく。
| - | 23:59 | comments(0) | -
ある受動的生活者の弁明(2)


人は、働きかける側を「積極的」「能動的」「アグレッシブ」、受ける側を「消極的」「受動的」「パッシブ」と表現します。「積極的」という言葉には「物事をすすんでしようとする」という意味が含まれ、「消極的」には「ひっこみがち」という意味が含まれます。

人の価値基準からすると、前者のほうが価値は高く後者のほうが低いととらわれがち。就職セミナーで企業は「待ち受け人間は要りません。積極的に意見を出してくれる人を求めています」と謳います。「指示待ち人間募集中、イエスマンなら尚よし」とは言いません。

現実問題を考えると、能動的な人と受動的な人の役割の重要性はどれくらい差があるものなのでしょうか。

ある編集者は、原稿依頼先の物書きについて、次のように語ります。

「自分の企画や提案に、いろいろ意見を付けそうな人より、こっちの指示どおり動いてくれる人のほうが仕事を頼みやすいもんだよねぇ」

編集者としては、自分が実現したい理想の本や紙面があるわけで、ほかの人の意見や提案によってその路線から逸れてしまうといやなわけです。だから「意見を言ってくる人よりイエスマンを」となる。

組織や上役は「仕事に積極的な人を求めます」といいます。その実は「依頼する仕事に対して積極的に賛成して取り組んでくれる人を求めます」といったところかもしれません。

ここまでは、働きかける側の立場からの視点での話でした。では、人間の“素の生き方”として、積極的に働きかけをする人生と、消極的に受けいれる人生とでは、どちらのほうが“よい生き方”なのでしょうか。つづく。
| - | 23:59 | comments(0) | -
ある受動的生活者の弁明(1)


人を含む生物の現象では、「働きかける役割」と「引きうける役割」が対になったものが数多くあります。

脳の神経細胞が情報を伝達するしくみでは、軸索という柔い“棹”のようなものが、樹状突起という“枝葉末節”状のものと連絡して、電気信号をやりとりしています。つまり軸索は情報の伝え手で、樹状突起は受け手。

ホルモンと受容体の関係もおなじです。血流に乗ったホルモンが、体のある場所の細胞にある受容体にはまることによって、体になにかしらの変化が起きるわけです。精子と卵子による受精もおなじような関係といえるでしょう。

生物界は、効果器と受容器、つまり働きかける側と受ける側の関係でなりたっていると言っても言いすぎではないのかもしれません。

目を転じて、社会現象、具体的には人間関係でも、同じように働きかける側と受ける側の両者がいて成り立っているといえるのではないでしょうか。

電話を掛ける人、受ける人。メールを送る人、受ける人。客と店員。乗客と運転手。投手と捕手。発注者と受注者。雇用者と労働者。たすきを渡す走者と渡される走者。写真家とモデル。あげれば切りがありません。

もちろん、おなじ人が電話を掛ける側に立つときもあれば、電話を受ける側に立つときもあります。コンビニエンスストアの客が、アルバイトの時間には店員になることもあります。場面ごとに、役割が切りかわりながらも、働きかける・受けるの関係は続いていくわけです。

となれば、人それぞれに「自分は働きかけるほうが向いている」「自分は受けるほうが向いている」といったちがいが起きるのも当然となりますね。研究者に「なぜこの分野に進んだのですか」と問うと「まだ未解明のことが多かったので、その穴を埋めようって考えたんです」と答える人もいれば、「指導教官が『お前にはこのテーマを用意したから』と言われたので、なんの疑問もなく従ったんです」と答える人もいます。

働きかける側と受ける側のこうした対等的立場に、人間の主観が入ると、その関係性はすこし崩れたものとなっていきます。つづく。
| - | 23:59 | comments(0) | -
払いもどし規定と駅員の現実的対応

画像の改札口と駅員は本文と関係ありません。

ある駅の改札で目にした、乗客と駅員のこんなやりとり。

乗客「すいません、ちょっとよろしいですか」

駅員「はい、どうぞ」

乗客「行き先変更で途中のこの駅で降りたいので、差額を戻していただけますか」

駅員「A駅からのご乗車で……1620円ですか。お客さん、この運賃の区間ですと、払い戻しはできないことになっているんですよ」

乗客「でもね、乗ってきたB線は途中でトラックが踏切で横転して、電車が遅れましたよね」

駅員「ええ、たしかに」

乗客「もし、電車が遅れなければ、この先の東京駅ちかくで人と会う予定だったんです」

駅員「はぁ、そうですか……」

乗客「でも電車が遅れちゃったから、その約束がおじゃんになったんですよ」

JRには、切符の変更・払いもどしについて、次のような規定があります。

<列車が運転できない場合>
・すでにきっぷをお持ちの場合
旅行を取り止める場合は、運賃・料金の全額をお返しします。 また、旅行の途中で取り止める場合は、お乗りにならない区間の運賃はお返しします。 その場合、運転を取り止めた列車の特急・急行料金などは全額お返しします。

<列車が遅れた場合>
・列車などが遅れたことによって、乗り換え列車などに接続しなかったため、お約束の到着時刻より2時間以上遅れる場合で、途中で旅行を取り止めるときや出発した駅までお戻りになるときのお取り扱いは列車が運転できない場合と同様です。

この二つの規定からすると、乗客が東京駅に予定よりも2時間以上遅れて到着するかどうかで、差額が支払われるかが決まりそうです。

会話のつづきを聞いてみますと……。

駅員「はぁ」

乗客「だから東京駅まで乗る必要がなくなったんです。この駅で降りますから」

駅員「うーん、そうなんですか。電車の遅れということでしたら、たしかにお客さんのご都合ではない部分もありますねぇ。わかりました。差額をお支払いしますね」

駅員は電車が何時間遅れたかは問いませんでした。

“超規定的処置”といえるかもしれませんが、ある意味では、駅員は杓子定規にとらわれない現実的対応だったといえそうです。しかし、こうした乗客の話が通用するのは、ダイヤグラムにきわめて正確な列車の運行をする日本だけかもしれません。

参考ホームページ「JRサイバーステーション きっぷの変更・払いもどしについて」
http://www.jr.cyberstation.ne.jp/howchange.html
| - | 23:59 | comments(0) | -
字イロハ


千葉県の香取市は、空港のある成田市の北東にある人口8万4千人の市です。2006年3月、この地域にあった1市3町が合併して誕生しました。

1市だったのは佐原市。「千葉の小江戸」とされ、運河や蔵などが見られる風光明媚な観光地です。

さて、佐原の中心街には、ちょっとかわった地名があります。「佐原イ」「佐原ロ」「佐原ハ」「佐原ニ」「佐原ホ」。全国で見られるのは「一丁目」「二丁目」の「丁目」。しかし、佐原では「イ」「ロ」「ハ」がついています。

厳密には、「一丁目」と「イ」は、地名の位置づけとしてはおなじ階層ではなさそうです。「佐原イ」の「イ」は、“大字”だからです。明治に行われた市制町村制による合併で、旧町村名は「大字何々」と名前が残されたものの、佐原の付近では大字を「イ」「ロ」「ハ」などに簡略化してしまいました。

この簡略化された大字「イ」「ロ」「ハ」は千葉県北東部のほかの地域でも見られます。たとえば香取市の東どなり旭市には「イ」「ロ」「ハ」「ニ」という大字があります。旭市役所の住所は「旭市ニ1920番地」。JR旭駅の住所は「旭市ロ667番地」。日本でいちばん短い住所のひとつ「旭市ロ1」には県立旭農業高校があります。残念ながら「イの1番」は存在しません。

古くからあった地域の名前が変更によって呼ばれなくなることに対しては「寂しい」「風情がない」といった声がしばしばあがります。東京・新宿にはかつて「角筈」や「淀橋」「十二社」といった町名が行政的に使われていましたが、いまでは「西新宿」になっています。

佐原や旭の「イ」「ロ」「ハ」も、いわばかつての町名が無機質な片仮名にかわってしまった結果です。しかし、大字がこのようになってから100年以上も経てば、街の風情として板に付くといえるかもしれません。

余談ですが「佐原イ」のある香取市には「木内虫幡上小堀入会地大平」という12字の行政区画があります。「入会地」とはもともと、権利をもつ特定の人たちだけが立ち入ることのできる山野などのこと。当地には予約制焼肉屋「かづさ」などがあります。
| - | 23:59 | comments(0) | -
書評『杜氏という仕事』
読んでいると、旅に出たくなったり、いい文章を書きたくなったり、何かしたくなる本というのがありますね。この本は、読むと、やはり酒が飲みたくなります。

『杜氏という仕事』藤田千恵子著 新潮社 2004年 176ページ


「杜氏」と聞いて、どんな姿を想像するだろう。夜明け前から酒蔵で仕事。蔵人たちを指揮する親方。基本的には無口……。

春から秋口は、杜氏にとって農家として田圃で米造りをする季節だ。いっぽう秋から早春は、雑菌が生まれにくいため酒造りに適した季節となる。杜氏は夏に稲刈りをしたあと酒蔵入りする、出稼ぎ仕事だ。

だがその仕事は、農作業のできない冬場に金稼ぎをするだけの生半可なものではない。酒造りでは米という生き物が相手となる。米から一日たりとも離れるわけにはいかない。杜氏は酒蔵で部下の蔵人たちと寝泊まりをして過ごす。

本書は、酒蔵探訪を畢生の仕事とする女性記者が、一年以上にわたり滋賀県・喜多酒蔵の杜氏・天保正一さんの生活を追ったルポルタージュである。天保さんは昭和5年生まれ、55年間以上酒造りをしてきた。取材当時すでに70歳を超えている。それでも、杜氏の世界では50歳代が若手というから、天保さんは脂の乗った齢といえる。

天保さんの話し振りや周囲の証言からは、「厳しさ」「怖さ」といった、杜氏に付いてまわる印象は少し崩されるかもしれない。酒造りには調和が大切という意味の「和醸良酒」という言葉があるが、どうやらよい酒を造るためには、人の“和やか”さも条件のようだ。

季節の移り変わりとともに、杜氏の職業の一年を紹介しながら、酒蔵での人間模様を描き出していく。夫に先立たれてから女手で酒蔵を営んできた先代社長。天保杜氏の後継者として、期待されていたものの突然の病死で酒蔵を去った“頭”。そして一度は引退したものの再び酒蔵に足を踏み入れることになった天保杜氏の仲間。酒を造る米には、その年その日の表情があるというが、重なるように酒蔵の人々の表情も時に明るく時に暗くなる。酒蔵には米と人が生きているのだ。

著者は長年酒蔵めぐりをしてきているだけあり、酒造りに関する知識が豊富だ。「米の糖化、そして、その糖を酵母菌が食べることによって進んでいくアルコール醗酵、この二つが同時に進んでいく」となどと科学的な視点も交えながら「種きり」や「仕込み」といった酒造りの工程を詳述する。矢継ぎ早に得た知識を切り貼りするのでなく、すべての工程を咀嚼した上で、杜氏や蔵人の目線から作業を紹介しているのはさすがだ。

杜氏という伝統的職業は徐々に人口を減らしている。70歳代が現役とはいえ、杜氏の世界も高齢化が進んでいるようだ。

住み込み、寝泊まりでやらなければならないこの職業は、“私”の時間を大切にしたがる現代人の生活習慣とは対極的だ。天保杜氏は「時間を短縮するとか、そんな習慣は、作らんほうがいい。私らは、やはり技術者なんですから、その仕事にふさわしい自分の責任というものがついてまわるんですよ」と、自らの仕事を話す。時代の流れのなかで職業形態がそのままでいるということは、時代に逆行していることになってしまう。

希望の光を見出すかのように、新らたに酒造りの世界に自ら入っていった若い杜氏を紹介して、本書は締めくくられる。

杜氏という職業の話だけに限定し、日本の伝統技能の継承問題全体まで敷衍していない割り切り感がかえって清々しい。みずからのことを多くは語らない杜氏。その仕事ぶりがつぶさに伝えてくれる好著だ。

『杜氏という仕事』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/杜氏という仕事-新潮選書-藤田-千恵子/dp/4106035332/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1226950546&sr=1-1
| - | 23:59 | comments(0) | -
大空に2匹貫く


虹を最後に見たのはいつになりますか。太陽の光と雨粒がもたらす、この現象は、私たちに美しさと幸運なきもちを与えてくれますね。

さらに不思議かつ幸運なのは、たまに“二重虹”にお目にかかることができることでしょう。二重虹をよく見ると、輪がくっきりしている内側のほうは、上から赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の順になっている一方、輪のぼやけた外側は色の順が逆になっています。

これは、人が見る雨粒の角度の違いがもたらすもの。内側の輪のほうは、太陽の光を反射している雨粒は低い位置にあります。つまり、仰角があまりありません。



すると、雨粒のなかで太陽の光は1回だけ反射されます。雨粒にとっては、高い角度のものは赤色を、低い角度のものは紫色を反射します。それが反射するので、外側は紫、下側は赤に見えるわけです。

いっぽう、二重虹の外側のぼやけたほうは、より高い位置の雨粒が反射します。人からすると、太陽と雨粒の間の角度がより水平に近くなるわけ。



この場合の太陽の光が人の目に届くまでには2回の反射が必要になります。すると、外側は赤、内側は紫に見えるようになります。

「虹」の字は、「虫」と「工」に分解できます。「虫」はもともと「へび」から来ていますし、右側の「工」は「貫く」という意味をもっています。つまり、へびが大空を貫く様子を示した字だといいます。

さながら、二重虹では、二匹のへびが空を架けたのですから、昔の人々にはさぞ畏れおおい出来事に映っていたことでしょう。
| - | 23:59 | comments(0) | -
11月22日(土)は「ロボットが活躍する未来へ」
お知らせです。

(2008年)11月22日(土)から24日(月祝)にかけて、東京お台場で[
サイエンスアゴラ2008」が開かれます。

早稲田大学科学技術ジャーナリスト養成プログラムからの出展は2つ。一つは前に記事で紹介した「出版不況下の科学雑誌を語る」。11月23日に行われます。もう一つは「ロボットが活躍する未来へ 早稲田大学WABOT開発史と実用化の可能性」という映像作品の上映会。

この作品は、同プログラム「映像実習」の一環で作られたもの。早稲田大学理工学部で「WABOT」というロボットを研究開発している研究者に取材しています。

WABOTは、日本のロボット研究者の草分け加藤一郎教授と研究を受け継いだ高西淳夫教授が生み出したもの。作品は、この二人に焦点を当て、人型ロボット開発の歴史などを紹介します。

「ロボットが活躍する未来へ 早稲田大学WABOT開発史と実用化の可能性」シンポジウムは11月22日(土)に開かれます。ご興味ある方はぜひいらしてください。
| - | 23:59 | comments(0) | -
宇宙の果てにせまる「すばる望遠鏡」


物理学者・仁科芳雄の功績を記念して、物理学の研究成果をあげた人を讃える「仁科記念賞」の2008年度受賞者がこのたび発表されました。

受賞者は、国立天文台の家正則教授、東京大学理学系研究科の上田正仁教授、東京大学理学系研究科の早野龍五教授の3人です。

このうち、家教授の受賞業績は「すばる望遠鏡による初期宇宙の探査」。すばる望遠鏡は、国立天文台がハワイのマウナケア山頂に建てた望遠鏡です(画像左)。私たちの銀河の中心部を観測したり、冥王星の月カロンを撮影したりと、さまざまな成果をあげてきました。

家教授が手がけた初期宇宙の観測も大きな業績のひとつです。128.8億光年の宇宙にある銀河を捉えました。

光にも移動速度があるため、どこかから放たれた光が私たちの目に届くまでに時間がかかります。遠くの雷を見る程度であれば光は「一瞬で届く」といえるものの、たとえば太陽の光は8分後に地球にやってきます。

つまり、望遠鏡が捉えた銀河の光は128.8億年前に放たれたものなのです。宇宙は137億年前に“大爆発”ではじまったとされますから、それからおよそ8億年しか経っていない光です。

宝石箱をひっくり返したように星が散らばる中で、どのようにして初期宇宙の銀河を見つけたのでしょう。

すばる望遠鏡には、800万画素の電荷結合素子(CCD)を10個並べた高性能カメラ「シュープライム・カム」が備わっています。このカメラが5万個ある銀河から“赤い銀河”をふるいにかけます。

なぜ、赤い銀河を選ぶのか。宇宙は膨張しつづけているため、地球にいる私たちからすれば、まわりの銀河は基本的に遠ざかっていることになります。遠ざかるものから放たれる光は、すこしだけ赤みを帯びるのです。つまり、遠いところの光であればあるほど、赤みの度合いは強くなります。この法則を利用して、シュープライム・カムはとりわけ赤みを帯びた銀河を選び出しました。

ここからが家教授らの開発した観測装置「フォーカス」の出番。フォーカスは、遠い銀河の弱い光を捉える性能と、たくさんの光を波長ごとに細かく分けることのできる多天体分光機能を合わせもちます。波長が長い光は、伸びがあるということ。伸びがある光とは、遠ざかる速度の高い天体から放たれた光です。つまり遠い遠い宇宙の縁あたりから来ている光となります。波長を見分けることで、その光がどのくらい遠くから届いているかがわかるわけです。

まとめると、シュープライム・カムが遠くの銀河をまずふるい分けし、その中からフォーカスがさらに光の波長をわけて、遠くの銀河の光を特定します。こうしてすばる望遠鏡は、宇宙ができて間もないころの銀河の光をつかむことに成功しました。

天文学者が遠くのものを見たがるのはなぜなのでしょうか。国立天文台の元台長だった海部宣男さんは著書『すばる望遠鏡の宇宙』で、次のように述べています。
記録を競うためではない(それも少しあるけれど)。膨張宇宙の歴史をできるかぎりさかのぼっていって、私たちが暮らすこの宇宙の起源と歴史を、見きわめたいのである。
遠くのものをみたいと思う気持ちに、これ以上の理由はなさそうです。

仁科記念財団による2008年度仁科記念賞受賞者の紹介はこちら。
http://www.nishina-mf.or.jp/prize/prize08.htm
国立天文台すばる望遠鏡ホームページの記事「最も遠い銀河の世界記録を更新」はこちら。
http://subarutelescope.org/Pressrelease/2006/09/13/j_index.html

参考文献
海部宣男『すばる望遠鏡の宇宙』
| - | 23:59 | comments(0) | -
米国に受け入れられた「ポカよけ」


ものつくりの現場である工場ラインでは、人が誤りをおかしたとき大きな害にしないための安全策が何重にもはりめぐらされているといいます。

この安全策を追い求めた人物が、日本の技術者・新郷重夫(1909-1990)でした。新郷は日本能率協会の職員として、また1959年の独立後は自由業の身として、企業の品質改善を指導しつづけました。

トヨタ自動車や松下電器の工場ラインでの生産性向上を支援するなかで、新郷は「ポカよけ」の大切さを考えるに至ったといいます。

「あいつ、ポカしやがって」という状況を「よける」のが「ポカよけ」。人による誤りは起きるものとして、その影響を最小限にとどめることを目指す考えかたです。畑村洋太郎さんが提唱する「失敗学」での失敗の捉えかたと似ていますね。

坂本九の「SUKIYAKI」が米国で有名になったのと同じく、「ポカよけ」も「Poka-yoke」として米国で広く知れわたる概念となりました。インターネット事典「ウィキペディア」の英語版にも「Poka-yoke」が載っています。

この英語版ウィキペディアには、ポカよけの事例がいくつか載っています。たとえば、いまや懐かしい3.5インチフロッピーディスクは、右上が斜めに削られているとの記述あり。これは左右非対称にすることで、上下さかさまに挿入してしまうポカをよけるための構造なのだそう。

「ポカよけ」以上に、新郷の名前は日本よりも海外で有名になっているようです。米国ユタ州立大学は、1990年に新郷がなくなった後、業績をたたえて「新郷賞」を創設したほど。この賞には、生産管理研究者の東京大学系税額研究科教授の藤本隆宏などの日本人も受賞しています。

なぜ、新郷の名やポカよけという考えかたは米国で広く浸透したのでしょうか。キリスト教の影響も考えられるかもしれません。「人はあやまちを犯すもの」という前提があるため、ポカよけを「もっともな行為だし、考案者の新郷は偉大だ」と受け入れられやすかったということも考えられます。

トヨタやパナソニックのみならず、いまでは世界の様々な工場ラインで、ポカよけはあって当たり前の処置となっています。

英語版ウィキペディアの「Poka-yoke」の項目はこちら。
http://en.wikipedia.org/wiki/Poka-yoke
| - | 23:59 | comments(0) | -
病院は「49分15秒」が限界


人は「待つ」という行為をすることのできる動物です。待つとは「来るはずの人や物事を迎えようとして時をすごす」こと(『広辞苑』より)。

待ち時間があまりに長すぎると“いらいら感”が募ります。巌流島の決闘で敗れた佐々木小次郎は、相手の宮本武蔵に2時間待たされ、心の動揺が戦いにも響いたといわれます。

人がいらいらする限界の平均を待つ目的ごとに測った調査があります。「喫茶店で注文した品を待つ時間」は9分46秒、「遅れた電車を待つ時間」は13分34秒、「美容院」は30分35秒だったそうです。

さらに人が忍耐強くいられる場が病院です。同じ調べでは49分15秒が病院の待ち時間でいらいらする限界の平均でした。病院で待つことを人は「しかたがない」と諦めているといえるかもしれません。

世の中では、待ち時間のいらいらを少しでも無くすための方法はいろいろと考えられています。

遊園地では、行列をまとめるため紐が張られていますね。ある程度まで混んでくると、使われていなかった通路に人を通しすよう紐を外します。これで行列に“動き”が。乗り物に乗るまでの時間が縮まるわけではないものの「前に進んだ」と思わせるため、いらいらを減らすことにつながるとか。

しかし、この方法を病院で取り入れるのは難しそう。病院では座って待つことになるからです。

待ち合い場に音楽を流すこともいらいら軽減の効果はあるといいます。大阪大学の学生が行った調査結果によれば、“体感待ち時間”を短縮するために背景音楽が有効とのこと。演奏速度がはやく、歌詞がついている曲だと効果が高くなるといいます。

待合室に背景音楽を流している医療機関もあるかもしれません。が、「誰々さん」と呼ぶ声がかき消されないためか、あまり多くはありませんね。

待たせる側が印象よくふるまうことも大切になります。東京大学付属病院では、ここで働く看護師などの医療従事者に「接遇講座」を開き、「お待たせしてすみません」と言えているかといったことを教育しているそうです。

病院での待ち時間はストレスのもと。血圧測定などでは、心の微妙な変化も結果に大きく表れることがあるといいます。

なによりも効果があるのは、待ち時間そのものを減らすことなのかもしれません。患者のことを考えた待ち時間の無駄べらしが医療機関では大きな課題となっています。

参考文献
友安直子編著『プロに学ぶ患者接遇』
堀田賢一ら「体感待ち時間を短縮する背景音楽調査」
朝日新聞2008年10月20日「『おもてなし』でもトップ級に 東大病院、猛勉強中」
| - | 23:59 | comments(0) | -
“白物”も“電子”も“携帯”もつなげ


コンピュータにオペレーションシステム(OS)とアプリケーションソフトの関係があるように、情報を扱う製品には基盤面と機能面の連携により成り立つ側面があります。

いっぽう、これまでの家庭用電気機械器具は、冷房機なら冷房機、蛍光灯なら蛍光灯と、それ1個で完結しているものがほとんどでした。

しかし、家電製品もデジタル化や情報技術化が進み、いまや個として使われていた製品が情報をやりとりする時代になってきました。

そうした家電製品の情報網でも、重要になるのが基盤面です。つまりそれぞれの家電製品を基盤面から一元管理することで、個では発揮できない新機能をもたせようというわけです。

そこで、情報をやりとりするための規格が決まっていないと、家電どうしはつながっていきません。そのため、たとえば、家電製品には「エコーネット(ECHONET)」という国際標準規格があります。

これは、“Energy Conservation and HOmecare NETwork”の頭文字などをとったもの。省エネルギーや介護には、家電どうしの組織的なつながりによる効率化が大切という視点から、日本の電気製造業が中心になりエコーネットを設立しました。

エコーネットにあった規格の家電製品を「ゲートウェイ」といわれる一元管理のための機械につなぎます。すると、家の外から家電を操作することもできるようになります。

このエコーネットで使われている家電製品と、さらにエコーネットとは異なる規格とをつなげてしまう製品も開発されています。

東芝ホームアプライアンスはマンションや一戸建て住宅での家電ネットワーク技術を「フェミニティ」という商品にして売っています。

上記のエコーネットのほか、音響機器やコンピュータどうしをつなぐIEEE1934という規格を、ユニバーサル・プラグ・アンド・プレイ(UPnP)というネットワークの共通規則に当てはめました。これにより家電製品や情報機器のあいだのやりとりも可能に。

また、パナソニック電工は独自の家庭内ローカル・エリア・ネットワーク(LAN)を使った「ライフィニティ」という製品を売っています。家の外からの遠隔操作を売りにしているのは、フェミニティと同様です。

情報機器には標準化が不可欠。しかし、世界市場の実質的な標準規格となるような基盤づくりを、企業どうし手を組んで作ろうとしたかというとそうともいえません。

家電のネットワークにも企業間ネットワークにも、求められているものは“柔軟さ”ということでしょうか。

エコーネットコンソーシアムのホームページはこちら。
http://www.echonet.gr.jp/
東芝ホームアプライアンス「フェミニティ」の紹介はこちら。
http://www3.toshiba.co.jp/feminity/
パナソニック電工「ライフィニティ」の紹介はこちら。
http://denko.panasonic.biz/Ebox/kahs/
| - | 21:56 | comments(0) | -
大数の法則 大きいことはぶれぬこと――法則 古今東西(5)


「大数の法則」は、確率・統計分野での基本的な法則です。

「あることを何度も繰り返すと、一定事象が起きる割合は、回数が増えるに従って一定の値に近づく」というもの。

大数の法則の具体例としてもっともよく引き合いに出されるのが、さいころの目の話でしょう。

さいころを6回ふったとき、「1」の目は何回出るでしょうか。

目の数は6個だから、確率的には6回ふれば「1」は1回出てくることになります。しかし現実はそれほど道理どうりではありません。

現実の世界では、場合によっては6回中1回も「1」が出ないこともあるでしょうし、場合によっては、6回中すべて「1」が出ることもありえます。

しかし、6回中すべて「1」がすべて出たからといって、「このさいころは100%の確率で『1』が出る」とはなりません。おそらく60回、600回、6000回、60000回と、さいころをふっていけば、じょじょに「1」が出る回数は、他の目が出る回数とおなじようにならされてくるでしょう。

関西学院高等部の丹羽時彦教諭はホームページ「放課後の数学入門」で、このさいころを何度もふると目の出る確率が6分の1に近づいていくということ体感できるシミュレーションを提供しています。

コンピュータにさいころを高速でふらせ、出た目を数え上げていき、それをグラフ化しています。最初の1000回ほど(10秒足らず!)では「1」から「6」まですべての目、6分の1を示す目盛からかけなはれていますが、10000回もすると、どんどん目盛に吸い寄せられていきます。

さいころの他にも、大数の法則を社会生活で考えることができます。たとえば次のような問題があります。
ある町に、大、小2つの病院がある。平均して大病院では1日に45人、小病院では15人の子供が生まれる。当然だいたい50%が男児である。しかし正確な割合は日によって異なり、男児が50%より多い日もあれば少ない日もある。60%以上も男児が生まれたという日は、1年間に大病院と小病院のどちらが多いだろうか。
実感としては、「大病院も小病院も同じ」と答えてしまいそうです。実際、経済学者ダニエル・カーネマンの調べでは「ほぼ同じ」と答えた人は53%に上ったそうです。

確率的には、生まれた子供の60%以上が男児だった日は、大病院がおよそ27日、小病院はおよそ55日になるといいます。つまり正解は「小病院」。おなじ調べで正解者は21%だったそうです。

「男児が生まれる確率は50%」という確率的な数字が、小数の母数の場合でも当てはまるような錯覚をおこしてしまうところに、大数の法則のふだんから心に留めておく意義がありそうです。カーネマンらによって「標本数が少ないのに、標本数が多いときの確率で判断してしまう」ことは「小数の法則」と名付けられました。

参考文献
友野典男『行動経済学 経済は「感情」で動いている』
参考ホームページ
放課後の数学入門「大数の法則」
| - | 23:59 | comments(0) | -
京都鴨川渡ル


京都の紅葉前線は、鞍馬や大原の山から下りてきて、そろそろ市街地も見頃をむかえているころでしょうか。八坂神社や、知恩院、平安神宮など、東大路に沿った神社やお寺めぐりも観光の定番です。

中心地から東大路へ向かうとき目にするのが鴨川の流れ。渡るのが鴨川にかかる橋です。四条河原町の賑やかな界隈から祇園・八坂神社へと向かうときは四条大橋を、また新京極の商店街から京阪三条駅へと向かうときは三条大橋を渡ります。

さらに北へ上ると、三条大橋、御池大橋、二条大橋の順に橋がかかっています。

このあたりまで、橋は短い間隔でかかっているものの、先の丸太町橋、荒神橋になると橋と橋の間は500メートルほどになり、さらに荒神橋と賀茂大橋のあいだは1キロメートルも空いてしまいます。

もっともこのあたりは京都御所が近いため、四条や三条に比べると人口密度はそれほど高くなく、需要からすれば橋の数もこの程度でいいのかもしれません。しかし川沿いに住む人や観光客にとって目先の対岸に遠くの橋まで回ってたどりつくのは気持ち的にもたいへんなこと。

じつはこの近辺、橋のほかにも鴨川を渡る方法があるといいます。それは“飛び石”を渡っていくというもの。

たとえば、二条大橋と丸太町橋の間には30個ほどの長方形の石が置かれていて、そこを地元の人々はぴょんぴょんと飛び越えていきます。丸太町通側から東へと飛び石を渡れば、川端通。少し歩けば美術館や平安神宮、岡崎公園へとたどりつきます。

また、荒神橋の少し北川にも同様の飛び石があります。毎日、通勤者や幼稚園児がぴょんぴょんと渡っているといいます。

鴨川は、北区の桟敷ヶ岳と魚谷山を源流とし伏見区の桂川へと合流する川。流れは急といわれますが、市街地では水位が浅いのも特徴。雨が降れば別ですが飛び石のまわりの水の深さは30センチほど。

万一、通勤者が飛び石から脚を滑らせたとしても、スラックスと靴を濡らすぐらいで被害は食い止められそうです。

参考ホームページ
京の沙都「鴨川の飛び石」
| - | 23:46 | comments(0) | -
学ぶならインドネシア語


「日本語、英語のほかに、もう1か国語、何語でもいいから身に付けたい。多くの人に使われている言語ならなおよし」

こんな望みをもつ人にとって、インドネシア語は有力な選択肢のひとつかもしれません。インドネシア語は、世界屈指の“身に付けやすい”言語とされています。

まず「過去形」や「未来形」といった時勢がありません。いうなれば、すべての動詞は「現在形」ということ。

では、例えば「行く」という動詞が使われたとき、時勢が過去なのか現在なのか未来なのかを判断するにはどうしたらよいのでしょうか。

それまでの文脈から判断してもらうといった方法があります。そのほか、話す人が「きのう行きました」とか「あす行きます」といったように、時を表す副詞を付ければいいわけです。

またインドネシア語には、三人称単数現在形の“s”に当たるものがありません。英語で“I go.”が“He goes.”に変わるのとちがって、誰が主語であっても動詞に変化はないわけです。

時勢も三人称単数現在の“s”もない。つまりインドネシア語は動詞に語形変化がありません。

言葉の並び順は、英語とおなじく「主語+述語+目的語」の語順が基本です。しかし、英語ほど厳密に順序が決まっているわけでもありません。

「俺、行ったんだよね、駅にさ」とか「駅に、俺はね、行ったんだよね」といった語順が日本語で通じるように、インドネシア語では極端な話、伝えたい言葉から並べていけばそれで意味は通じてしまいます。

さらに、使われる文字は、日本人にとってのアラビア語のような右から読むのか左から読むのかも難しい文字ではありません。a、b、cといった英語と同じアルファベットが使われます。母音の読み方も日本語の「ア、イ、ウ、エ、オ」に加えて、曖昧母音の「ウ」しかありません。“Kecil(小さい)”を「クッチル」と読むように、“c”を「チ」で読むといった違いはあるものの、わずかな英語との発音の差は慣れてしまえば大したことありません。

言語の使用範囲が広いのも魅力的です。

インドネシア語は、日本よりも人口の多いインドネシアでの標準語です。島によりその土地の言語も使われていますが、上海で北京語が通じないほどではありません。

さらに、インドネシア語とマレーシアで使われる馬来語は兄弟関係。若干発音や語彙の差はありますが、大阪弁と東京弁で会話が成立するのとおなじくらいの違いと考えてよさそうです。ちなみに馬来語はシンガポールでの公用語にもなっています。

言語の進化は「複雑から簡素へ」という文化的圧力がかかっているそうです。これほどしくみが簡単なインドネシア語は、もっとも進化した言語ということがいえます。

単純さ、親しみやすさ、幅広さ。これらを考えたら、インドネシア語は“身につけられる外国語”の最右翼ということができるでしょう。
| - | 23:53 | comments(0) | -
書評『科学史年表』
早稲田大学で科学史研究をする名物教授の本。参考図書としても読み物としても使えます。

『科学史年表』小山慶太著 中公新書 2003年 342ページ


科学史のターニングポイントとなるような出来事を年代順に紹介した本。

書名には『年表』と付くが、章立てもあり「17世紀」「18世紀」「19世紀前半」「後半」「20世紀前半」「後半」と分かれている。その後、各年の出来事を1ページ弱で紹介していく。

新書は判型が小さいので、扱う出来事は厳選されている。だが、各章冒頭それぞれの時代の概説が、その制約を十分に補っている。概説で時代の特徴を捉えたうえで、各出来事を見ていくことになるので、その時代全体の雰囲気がどうだったのかがよくわかる。

各出来事の話の中には「アインシュタインは光量子仮説を唱え(←1905 2)」というように、関連した出来事が“リンク”されている。一読しただけでは忘れてしまったことを手軽に読み返せるので、読んだ内容を記憶する効用がある。

こうしたつくりの本は多くない。主題は科学史だが、たとえば「ロボット史」や「金融史」など、いろいろなジャンルにも当てはめることができそうな企画。

『科学史年表』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/科学史年表-中公新書-小山-慶太/dp/4121016904/ref=cm_cr-mr-title
| - | 23:59 | comments(0) | -
「外は真空、中は人、宇宙飛行士に安らぎを」


日経ビジネスオンラインの企画『多角的に「ストレス」を科学する』に、きょう(2008年11月6日)「外は真空、中は人、宇宙飛行士に安らぎを」という記事が掲載されています。連結社と編集をしました。執筆は尹雄大さん、撮影は風間仁一郎さん。

宇宙航空研究開発機構で宇宙飛行士の健康管理をする井上夏彦さんに宇宙滞在でのストレス管理術を聞いたものです。

国際宇宙基地やスペースシャトルでは壁の向こうが死の世界。狭い“密室”で乗員たちが長時間すごします。愛する人のいる地球から離れる孤独感も大きいでしょう。「宇宙飛行士はストレス知らず」といった感覚がくつがえされる話がいろいろと出てきます。

宇宙環境ではありませんが、こんな逸話も。

1999年から2000年にかけ、宇宙基地を模した閉鎖的環境に長期滞在し、人の状態を観察するという実験が行われました。ロシア人、ドイツ人、カナダ人、オーストラリア人、日本人の被験者が組ごとに110日から240日間、必要最低限の設備しかない部屋で暮らしたのです。日本からは大学生が参加しました。

ことは問題なく運んでいるように見えましたが、世界がミレニアムで盛り上がっていた1999年末、“事件”が起きました。閉鎖空間でロシア人男性がカナダ人女性にキスを迫ったのです。このロシア人は同邦人と殴り合いも起こしていました。

ふつう、こうした問題が起きると、ほとぼりを冷ますため「ちょっと場所をかえて話をしよう」となりそうですが、あいにく現場は閉鎖空間。そうもいきません。

実験を外で見守っていた人々も混乱状態になり、被験者たちに外の状況をなかなか伝えられなかったそうです。被験者たちのストレスは上がりました。

そうこうしているうちに、日本からの唯一の被験者だった大学生が、実験にこれ以上参加したくないと言い出して途中で部屋から出ていってしまいました。閉鎖空間のストレスは相当のものだったのでしょう。

実験はある意味失敗でしたが、実験段階でこうした事件が起きたことは、ある意味で収穫があったといえるかもしれません。被験者は初顔合わせ後すぐに実験部屋に入り滞在生活を始めたそうです。おたがいがどんな性格かわからぬまま閉鎖的生活に突入したのでした。

組織の中でも考え方が違う人どうしが一つ部屋の中でずっと過ごすのはなかなか大変なこと。ましてや性格もつかめなければ、文化や常識までまったくちがう外国人と、いきなり長期間暮らすとなると……。

井上さんは「宇宙に行くまでに参加する宇宙飛行士が互いの文化を理解しておくことの重要性がわかりました」と話しています。

国際宇宙基地でロシアと米国の宇宙飛行士がともに生活するのが当たり前の時代になりました。もうじき日本からも若田光一さんが宇宙基地で長期滞在する予定です。

よくできた人間という印象の強いが宇宙飛行士(実際そうなのでしょう)。でも飛行士たちも生身の人間。閉ざされた空間でいかにストレスを散らすかは、私たちの生活にも応用できる点が多くあります。

日経ビジネスオンライン『多角的に『ストレス』を科学する』「外は真空、中は人、宇宙飛行士に安らぎを 閉鎖空間のストレス・マネジメント術−−井上夏彦氏(前編)」はこちらです。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20081104/176219/?P=3&ST=leaf
| - | 15:43 | comments(0) | -
嫌われぬ程度になるべく露出する。


写真には、こんな効果があるそうです。

「好きでも嫌いでもない人物が、たくさんの写真に写っていると好意を抱く」

これは、人間の本質の一側面を表した効果かもしれません。接する機会が多いほど、その人が好きになるということです。

この効果を普遍化したものが「露出効果」です。「好きでも嫌いでもない対象の刺激を繰り返し受けると、その対象の好ましさは増す」というもの。

放送広告の世界には、この効果を生かした宣伝があります。民放のテレビやラジオを見聞きしていると頻繁に流れる広告がありますね。経営破綻してしまった英会話NOVAの広告などはその典型です。何度も何度もその商品の広告に触れているうちに、いつしかその商品に興味や好意をもつようになります。

破綻前のNOVA社員から聞いた話によると、こんな経験則があったそうです。「広告の露出には、これ以上やると大衆に飽きられるという線がある。その線のぎりぎりまで露出すると、大衆から最大の興味を引くことができる」。

ここまでの話は「露出効果」の利点でした。いっぽう、露出効果が裏目に出てしまう場合もあります。

露出効果が発揮されるのは対象が「好きでも嫌いでもない」人や物でした。でも、対象が嫌いな人や物になると、人はその対象を受け入れるよりも遠ざける方向に走ります。ある人に「またあいつがテレビに出ているよ」という気持ちが起きれば、すかさずチャンネルを変えてしまうことでしょう。

鍵は「人が、その対象に慣れ親しむこと」。パリのエッフェル塔は、建設当初パリ市民から「街に似合わぬものを建てて」と酷評されましたが、時とともに「なくてはならぬパリの象徴」と評価されるようになりました。パブロ・ピカソのキュビズムに対しても、同じく拒絶から賞讃への移行があったといいます。

人がその対象に慣れ親しむためには、なるべく人がその対象に接していること。そう考えると「露出効果」はきわめて妥当な現象なのかもしれません。

参考文献
ウィリアム・リドウェル、クリティナ・ホールデン、ジル・バトラー共著『Design Rule Index―デザイン.新・100の法則』
| - | 23:59 | comments(0) | -
黒丸派対白丸派


本や雑誌などの紙媒体の編集作業では、校了に近くなると「校正刷り」を出力します。校正用のためし刷りのことで、これを校正係にわたして誤字脱字を確認してもらったり、執筆者に送って内容を確認してもらったりします。

この段階では、よく「文字入力保留」という状態が起きます。

たとえば、仕上がった本では「35ページ図4参照」といった表記になるものの、校正刷り段階ではまだ頁と図の番号が流動的なため「35」と「4」という具体的な数を入れられないような状態です。

校正刷りの段階で「35ページ図4参照」と数字を入れてしまう編集者もいるでしょうが、その場合、校了間際に最初から最後まで確認する“素読み”の作業が必要になります。

たいていの編集者は、確定していない頁と図番号は「入力保留」とします。そのとき、保留であることをどう表現するでしょうか。

ある編集者は「●ページ図●参照」のように、黒丸をとりあえず入れます。

いっぽうで、「○ページ図○参照」のように、白丸を入れる編集者もいます。

黒丸も白丸もたいした違いはなさそうですが、これには編集者の性格がすこしだけ現れていそうです。

「入力保留」を黒丸で表現する場合、白丸に比べて、校正刷りをぱっと見たところ、すぐに目に飛び込んできます。なので「入力保留」のところに字を入れずに校了・印刷・製本してしまったといったおそれは、白丸に比べたら少ないでしょう(黒丸でも白丸でも、そうした事故はめったに起きませんが)。

そうであれば「入力保留」は黒丸にすべき、となりますね。しかし、白丸にもほんのすこしだけ利点はありそうです。万が一、白丸を残したまま校了・印刷・製本してしまったとしても、事故があまり目立たないといからです。黒丸でやってしまうと一目でばれます。読者にも、怖い編集長にも……。

編集の世界には両派いますが、どちらかというと黒丸派は「(入力保留箇所の処理忘れという)事故は起こしてはならないもの」という理想的な考え、いっぽう白丸派は「事故が起きたときの痛手を最小限におさえよう」という現実的な考えの持ち主が多いのかもしれません。
| - | 23:59 | comments(0) | -
ロケットを気泡から守れ

NASA

開発中の機械がうまく動くかどうかを調べるには、主に三つの方法があります。一つ目は、ほんものと実寸大の試作機をつくってみて動かす方法。二つ目は、縮小版を作って動かす方法。

一つ目よりも二つ目のほうが、小さいため掛かる費用は少なく済みます。とはいえ実際ものを作るのだからそれなりの出費が必要。そこで有効になるのが三つ目のコンピュータ模擬です。

あたかも実際の自然環境の中で機械が動いているような状況をコンピュータ上に再現するわけです。こうすれば試作機や縮小版をこしらえる費用はかかりません。

ものが小さかったり簡単なつくりだったりすれば、コンピュータで模擬をするほうがかえってプログラミングのための費用がかかるかもしれません。でも、ものがロケットとなれば費用は莫大なものに。コンピュータ模擬の出番となります。

コンピュータ模擬を使ってしくみを明らかにし、制御しようとしているロケット関連の現象に「空洞現象」があります。これは、ある条件の液体で泡が生まれては消えることが繰り返される現象。

ロケットで「液体」といえば液体酸素や液体水素などの燃料。この液体で満たされるポンプは空洞現象が起きやすいとされます。1999年に打ち上げ失敗したH-2ロケット8号では、液体水素を燃焼室に送り込むポンプで空洞現象が起き、その振動で羽根車が破壊されたことが明らかになっています(画像は同機種)。

H-2やH-2Aなど、日本のロケットを管理している宇宙航空研究開発機構では、情報・計算工学センターが模擬を担当しています。

模擬で重要なのは実物の再現性。現状の精度は誤差5パーセントほど。これはロケットを構成するどの機械の模擬でもおよそ5パーセントの誤差が起きているということ。精度を1パーセント程度まで上げなければ模擬の信頼性はえられません。

2007年10月には、東京大学との「社会連携講座」で、コンピュータ模擬のモデル構築などを開始。社会連携講座は大学と企業・研究所などが対等の立場でおこなう共同研究。東京大学にとってもコンピュータ模擬の研究に加わることで、空洞現象の基礎的な知見を得られる利点があります。

JAXAと東京大学の社会連携講座は、計画では2013年3月まで。宇宙航空研究開発機構の昨2007年10月5日の発表はこちらです。
http://www.jaxa.jp/press/2007/10/20071005_toukyouniv_j.html
社会連携講座により設置された「ロケットエンジンモデリングラボラトリー」のホームページはこちら。
http://www.rocketlab.t.u-tokyo.ac.jp/

参考文献
「ロケットエンジンのシミュレーションから未踏科学と極限の世界を理解する」『東京大学テクノロジー&サイエンス』2008年号
参考ホームページ
失敗知識データベース「H-2ロケット8号機打上げ失敗」
| - | 23:59 | comments(0) | -
「法則は真理」のみならず――法則 古今東西(4)


当ブログでは、このたび「法則 古今東西」という不定期連載を始めました。古今東西で言われている法則を一つずつとりあげ、その内容や成り立ちなどを紹介していきます。

巷にはどのような法則があるのかと、オンライン書店などで検索してみると、「人生が明るくなる法則」や「未来を切り拓く法則」や「成功の法則」といった趣旨の書名が並びます。

本や雑誌記事では「『なんとかの法則』という書名や見出しを付けると読者の興味を引く」という法則があるようです。「法則」の氾濫というべき状況かもしれません。

あらためて法則とは何かをただしてみると『広辞苑』には、「いつでも、またどこででも、一定の条件のもとに成立するところの普遍的・必然的関係。また、それを言い表したもの」と載っています。

辞書のこの意味に従えば、「いつでも、またどこででも」成立するのが法則。だとすると、法則は真理に限りなく近いものといえます。

しかし、いろいろと調べていくと、真理ばかりをいいあらわしていないのが法則の世界のようです。例えば、有名な法則を検証してみたところ、その法則とは少し違った結果が出されたという話もあります。また興味深い部分のみが一人歩きをして、発明者の意図とは掛け離れてしまった法則もあります。これらは、連載でおいおい紹介します。

つまり、けっこうな数の“真理でない法則”も出まわっているのが世の中の現状といえそうです。かりに、真理である法則のみをふるいわけできる機械があれば、いま氾濫している法則もかなり絞られてくることでしょう。

しかし、万人は、そうした“法則の少ない世界”を望んでいるわけではなさそうです。この先どうなるかが分からない不安な状態をなるべく避けようとするのが人の常。たとえ嘘であっても法則は、不安を解消する便利な存在になりうるわけです。

法則の大多数は、人が不安に対するよりどころを求めた結果として生まれてきたといえるかもしれません。法則には、人が発見をした側面とともに、人が作りだした側面もあります。
| - | 23:59 | comments(0) | -
書評『泡宇宙論』
宇宙物理学者・池上了さんの隠れた名著といってよい本。読みごたえがあります。

『泡宇宙論』池内了著 早川書房 1995年 246ページ


この本に出てくる「泡」とは、シャボンのようなものだけでなく、水が沸騰するときの気泡や、風船のようなものも含む。「内側から圧力が生じている球形のもの」という広い意味での泡だ。

人間社会から宇宙全体まで、どんな寸法のものも泡でできている、または泡が存在するという泡宇宙論が展開される。

暮らしの中でふつうに目にする泡の話から、宇宙の泡へと展開されていく。

まず、太陽が発する紅炎を泡と捉えた「太陽ヤカン説」を紹介する。「太陽とヤカンは同じつくり」という大胆な喩えだが、そのしくみはぴたり一致している。

その後、銀河の中で見てとれるいろいろな泡を紹介していく。円盤型の銀河の中で縦方向に広がっていく「超新星残骸」という泡だったり、楕円銀河の中心から放たれる「宇宙ジェット」という蛇フーセン型の泡だったり。

泡の規模が大きくなっていき、しまいには「宇宙に広がる銀河の散らばりさえも泡」という話までたどり着く。大爆発ではじまったとされるこの宇宙に、なぜ銀河が密集しているところと疎になっているところがあるのかが説明される。

ふつうの暮らしで見られる泡は分子がびっしりと集まってできている。一方、もっとも大きなスケールの泡(銀河の疎密)では、分子ひとつひとつに相当するものは銀河ひとつひとつ。宇宙の広大さを感じるとともに、大小で似た構造が当てはまるという自然の神秘性も感じられるだろう。

ひょっとしてこの宇宙自体もひとつの気泡にすぎなかったりしてと、想像がふくらむ。

『泡宇宙論』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/泡宇宙論-ハヤカワ文庫―ハヤカワ・ノンフィクション文庫-池内-了/dp/4150501955/ref=cm_cr-mr-title
| - | 23:59 | comments(1) | -
CALENDAR
S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< November 2008 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで (JUGEMレビュー »)
サイモン シン, Simon Singh, 青木 薫
数学の大難問「フェルマーの最終定理」が世に出されてから解決にいたるまでの350年。数々の数学者の激闘を追ったノンフィクション。
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
amazon.co.jp
Billboard by Google
モバイル
qrcode
PROFILE