科学技術のアネクドート

生物が“性”をもちはじめる決定的瞬間


生物には、DNAなどの入った核をもつ「真核生物」と、核をもたない「原核生物」とにわけることができます。分類的に原核生物は細菌や藍藻だけで、他のすべての生物は真核生物です。もちろんわれわれ人間も。

私たちよりももっと原始的な真核生物に「クラミドモナス」という植物がいます。緑藻に属する単細胞の鞭毛虫です。生物学の世界では、よく実験に使われる“モデル生物”のコナミドリムシとして有名です。

クラミドモナスに対して、米国の生物学者レイモンド・ジョーンズは実験でこんな“仕打ち”をしてみました。

クラミドモナスは単細胞なので、みずからの体を倍に倍にと分裂させて増やしていきます。栄養が入った液体の中でクラミドモナスを分裂させていくと、クラミドモナスはどんどん増えていきます。

ここでジョーンズはある程度まで増えたクラミドモナスを見ると、光も温度も変えずに、液体から窒素だけを取りさってしまいました。

窒素は、クラミドモナスにとっては生きていく上で必要不可欠な物質です。なぜなら窒素はクラミドモナスがタンパク質をつくりだすための素材だからです。

では、窒素を奪われたクラミドモナスは、どうなったのでしょう。

彼らは、単細胞として単体で活動するのをやめて、隣のクラミドモナスとくっつきあうようになったそうです。そして、くっつきあったクラミドモナスは、かたい殻をつくってその中に閉じこもってしまいました。

この接合したクラミドモナスは、ふたたび環境がよくなると、殻の中で2匹が4匹に分裂して、その後、殻を破って出てくるそうです。

このクラミドモナスの行動は、性のない生物が、有性生殖をしはじめる瞬間を描いているものとされています。

真核生物には、生きるために必要なDNAを1セットもつ「ハプロイド」と、2セットもつ「ディプロイド」にわけることができます。ジョーンズの行ったクラミドモナスの実験からは、生物の進化の歴史ではハプロイドからディプロイドが生まれたということがいえます。

参考ホームページ
en Special Interview「生物、この複雑きわまるもの[中]」団まりな
http://www.shiojigyo.com/en/column/0508/main3.cfm
生物史から、自然の摂理を読み解く「飢餓外圧への適応、同類合体(接合)及び生殖の登場」
http://www.biological-j.net/blog/2007/07/000241.html
| - | 23:59 | comments(1) | -
道険し? “海の緑”の有効活用


プランクトンが異常発生する現象を、海の色から「赤潮」といいます。いっぽう1970年代、「緑潮」と呼ばれる現象が日本の海岸線でひんぱんに起きていました。

名のとおり、海が緑色に変わってしまう現象です。その原因はアオサでした。

水の中で葉緑素を使って光合成などでみずから栄養をつくる植物を藻類といいます。アオサも藻類の植物。このアオサが富栄養化で大量発生し、海岸線が緑色に染まってしまう現象が緑潮です。

長崎県の五島列島や神奈川県の金沢八景、また静岡県の浜名湖、千葉県の三番瀬など、日本各地で緑潮は見られました。つい最近のできごととしては、中国・青島の北京五輪セーリング会場が試合前に緑潮になり、話題となりました。

1970年代、アオサは波打ち際を緑色に変えてしまいました。ただ焼いて処分するだけではもったいないので、有効に利用する方法はないかと人々は考えました。

一つは、食用にしたということがあります。アオサはアオノリの仲間。そこでアオノリの代用品としてふりかけやみそ汁の具として食べられるようになりました。

より手の込んだ利用法としては、バイオ燃料にするといったことがあります。アオサを発酵させるとメタンガスやエタノールが発生します。これを資源として活用しようというもの。いまトウモロコシやサトウキビでさかんに行われているバイオ燃料化の海洋生物版です。

しかし、バイオ燃料として使うには、アオサは非効率であることもわかっています。まず、体がふにゃふにゃのため、岩場や海底で寝てしまうため、採るのに手間がかかります。

また、生産収量もそれほど高くはありません。最近、水産総合研究センターと東京海洋大学などが、アオサのバイオエタノールの生産収量を調べました。その結果、アオサは乾燥した状態で全重量の10%をバイオエタノールにすることができるとわかりました。同じくバイオ燃料化できるホテイアオイという藻類は16%、炭化水素をつくることのできるボトリオコッカスは25%から75%です。

バイオ資源を生み出すにしても、効率が肝心です。人工的に養殖して燃料をとる場合、DNAの突然変異などを利用して、いかに収量の高いアオサを人工的に作りだすかが問題となってきます。

とはいえアオサはいまの海藻バイオ燃料化技術の立役者であるともいえます。研究者たちに海藻を燃料にするという発想を与えたのはアオサの緑潮だったのですから。

日本は、陸地面積の10倍の海域をもっています。海の生き物をバイオ燃料して利用するといった研究が行われています。
| - | 23:59 | comments(0) | -
日本の旅客輸送―なるか飛行機の天下


日本の旅客輸送手段、つまり“乗り物”を大きくわけると、自動車、鉄道、飛行機、バス、船となります。

戦後63年、これら乗りものの利用割合はどのように変化してきたのでしょう。

戦後まもなくは、鉄道全盛の時代でした。1950(昭和25)年には、上にあげた乗り物の旅客量割合のじつに9割近くが鉄道によるものでした。

しかし、鉄道は常に右肩下がりで推移していきます。

代わりに台頭してきたのが自動車です。1965(昭和40)年から1975(昭和45)年にかけての伸びは急で、1970年には交通事故死者数も頂点に達しました。

その後も増えつづける自動車旅客量の割合。1980(昭和55)年には、ついに首位を守りつづけていた鉄道に代わり、自動車が首位に立ちます。その後も自動車の割合は緩やかな右肩上がり。

バスは、1964(昭和39)年に割合にして2割ほどの頂点を向かえましたが、その後は緩やかに減っていき、いまでは10%以下。

船はいつの時代も3%以下となっています。

飛行機はどうでしょう。新幹線などのライバルとして、かなり使われているように思われるものの、いまも割合は10%以下。バスの割合と同じぐらいにとどまっています。

しかし、これからは飛行機の時代になるのではという予測もあります。自動車も鉄道も、これといって割合を伸ばす決定的要素がないいっぽう、飛行機は小型機がこれから増えていき、需要が伸びていくという期待的予測もあるようです。

飛行機の割合が伸びていくかどうかは、日本の航空機製造業の動向にかかってくる部分が多いかもしれません。

三菱重工業は、三菱リージョナルジェットという国産飛行機を宇宙航空研究開発機構と共同開発中。全日本空輸が発注し、2013年に引き渡しの予定です。

また、富士重工業もスバルジェットという、小型ビジネス機の開発を継続中。本田技研工業もホンダジェットという小型機を開発しました。

日本の国産飛行機業界。まずは小型機が成功するかどうかに、その将来が委ねられています。

参考資料
総務省統計局・政策統括官・統計研修所「日本の長期統計系列 第12章運輸 輸送機関別国内輸送−旅客(昭和25年度〜平成16年度)」
http://www.stat.go.jp/data/chouki/zuhyou/12-02-a.xls
| - | 23:59 | comments(0) | -
「その元気、その病気、じつは天気が決めていた!」


編集をしている日経ビジネスオンラインのコラム「多角的に『ストレス』を科学する」で、「その元気、その病気、じつは天気が決めていた! 気候と体の深い関係」という記事が更新されています。

立正大学地球環境科学部の福岡義隆教授に、ライターの尹雄大さんが取材しています。

福岡教授の専門は「生気象学」。耳なれませんが、「生」は「バイオ」のことで、これに「気象学」がついたもの。気象と人のからだとの関係を探る学問です。

「人間ひとりにかかる空気の重さは16トン」とか「子どもが騒ぐと雨が降る」とか、いろいろな話が福岡教授から飛び出します。なかでも新鮮な話は「ビオベッター」について。

ドイツ語で「ビオ」は「バイオ」のこと。「ベッター」は「天気」のこと。つまり「ビオベッター」は、「生気象」と同じような意味です。これがドイツのインターネットのホームページ名。福岡教授は「30年以上前から健康・病気のための天気予報を実施している」とビオベッターの歴史を紹介します。

ビオベッターのホームページを覗いてみると、頭をまっ赤にしてずきずき痛めていそうなマークが、ドイツの地図のいたるところに見られます。



これは“Migräne in Deutschland”。つまり「ドイツでの偏頭痛」。マークは3段階に色分けされていて、赤は「よくない」、橙は「ふつう」、緑は「よい」。きょうのドイツはまっ赤なので、多くの偏頭痛もちさんが、頭を痛めることでしょう。

日本の天気予報でも春先には「杉花粉情報」などが出て、マスク顔で涙を流すイラストが表示されたりしますね。しかし、あくまで杉花粉が多く飛ぶかどうかを予報したもの。

対してビオベッターは、人間の体内環境がどうなるかを扱っています。日本の天気予報で最も近いのは「不快指数」あたりでしょうか。

他にもビオベッターは、「不安感」「度忘れ」「いらいら」「注意散漫」「よくうつ感」などの心理的項目を中心に予報をしていると福岡教授は話します。

日々の生活に身近なもののなかで、食・酒・たばこなどは健康との関係性がよくいわれているもの。しかし、天気と元気・病気との関係性については、多くの人々にとって盲点となっているのでは。

記事は、天気の奥深さを感じさせるものです。

日経ビジネスオンライン「多角的に『ストレス』を科学する」の記事「その元気、その病気、じつは天気が決めていた! 気候と体の深い関係「生気象学」という身近なストレス科学--福岡義隆氏(前編)」は、こちら。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080820/168379/
ドイツの生気象予報「ビオベッター」はこちら(ドイツ語)。
http://www.biowetter.net/
| - | 04:59 | comments(0) | -
日本の宇宙開発「平和の目的に限り」から「安全保障に資する」へ


きょう(2008年8月27日)、宇宙基本法が施行されました。宇宙開発に関わる施策を国がより統率力をもって進めていくことが目的とされています。

制度の大きな変更は、宇宙開発戦略本部が内閣にもうけられたこと。「宇宙基本計画」をまとめていくことになります。野田聖子科学技術担当相は、毎日新聞の取材に、戦略本部に対して「『ロケットが上がった』と喜んだり、宇宙飛行士の活躍に『ああ、すごい』で終わるのではなく、宇宙空間で行われたことが国民生活のプラスになるようなアイデアを出してほしい」と答えています。

いっぽう、政策的に大きな転換と伝えられているのが、今回の新しい法律で日本の宇宙開発の目的に安全保障が加わったという点です。

日本の宇宙開発はこれまで「平和の目的に限り」と明記された1965年の国会決議が有効とされてきました。しかし、国会決議は法律的な拘束力はとくにあるものではありません。今回の法律や宇宙基本計画が優先されます。

宇宙基本法の中で、安全保障のことが書かれているのは、第三条と第十四条です。

(国民生活の向上等)
第三条 宇宙開発は、国民生活の向上、安全で安心して暮らせる社会の形成、災害、貧困その他の人間の生存及び生活に対する様々な脅威の除去、国際社会の平和及び安全の確保並びに我が国の安全保障に資するよう行われなければならない。

(国際社会の平和及び安全の確保並びに我が国の安全保障)
第十四条 国は、国際社会の平和及び安全の確保並びに我が国の安全保障に資する宇宙開発を推進するため、必要な施策を講ずるものとする。

日常では「資する」という言葉はあまり使われませんが「役立てる」ということ。第三条を短く簡単にすれば「宇宙開発は、日本の安全保障に役立つように行わなければならない」となります。また第十四条には、そのための国の役割が書かれてあります。

つまり「平和の目的に限り」行われていた宇宙開発は、今回の基本法で「日本の安全保障に役立つように」行われるようになるわけです。

この政策転換に対して、社会党や共産党が反対に回りました。また、武者小路公秀さん、土山秀夫さん、大石芳野さん、井上ひさしさん、池田香代子さん、小沼通二さん、池内了さんからなる「世界平和アピール7人委員会」は、きょう「宇宙空間を平和利用に限る原則を改めて国民に訴えたい」と発表しました。

いっぽうで、宇宙に関わる本を多く出してきたノンフィクションライターの松浦晋也さんは、署名記事で、第三条や第十四条での安全保障の明記は「実際問題として、あまり大きな意味を持たない」と書いています。

「現在、軍に役立つ技術は、そのほとんどが民生用にも役立つし、逆に民生用の技術も軍事用に役立つからだ」というのが理由。いろいろな技術で、軍事利用と民生利用の境目がぼやけてしまっているということのようです。だからこそ法律では軍事と民生を分けるべきという声もありそうですが、松浦さんはそれほど問題視はしていないようです。

基本法を問題視する側は「この転換をきっかけに、今後ずるずると軍事利用が拡大するおそれがある」などと言っています。これは、法律や制度改正のとき、しばしばいわれる“滑り坂論”の一つ。

その“滑り坂”の歯止めとしての役割として、いまのところ注目されているのが第二乗です。

(宇宙の平和的利用)
第二条 宇宙開発は、月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用における国家活動を律する原則に関する条約等の宇宙開発に関する条約その他の国際約束の定めるところに従い、日本国憲法の平和主義の理念にのっとり、行われるものとする。

平和憲法にのっとった宇宙基本法であることを謳っているわけです。

第二条と第三条・第十四条は、矛盾しているとまではいわないまでも、宇宙開発の目的をめぐって、どうとでもとれる印象もあります。たしかに言えることは、日本の宇宙開発に安全保障目的という選択肢が一つ加わったという事実です。

宇宙基本法はこちら。
http://law.e-gov.go.jp/announce/H20HO043.html
世界平和アピール7人委員会「『宇宙基本法の監視を』―国民に訴える」はこちら。
http://worldpeace7.jp/modules/pico/index.php?content_id=26
松浦晋也さんの記事「成立した宇宙基本法(2)」はこちら。
http://event.media.yahoo.co.jp/nikkeibp/20080703-00000000-nkbp-bus_all.html?p=1
| - | 23:59 | comments(1) | -
もっと水を!


水を貯えることのできない地域での水の確保はたいへんです。日本でも、沖縄県や香川県などでは雨がふらないと取水制限が行われますね。

東南アジアの小国シンガポールも、水の確保には苦労してきた国です。淡路島ぐらいの大きさの国土に200万人が住み、人口密度は世界第2位(第1位はモナコ)。まわりは海に囲まれ、高い山もありません。

これまで、シンガポールは使う水の半分ほどをとなりのマレーシアから“輸入”してきました。

水の自給率が低いシンガポールでは、自前の水を確保することが悲願。そこで壮大なプロジェクトが始まっています。

島内にはいくつかの川がありますが、そのうちシンガポール川とカラン川という二つの川をせきとめて、巨大な水瓶をつくる計画です(写真はカラン川)。

川をせきとめて水を確保するというと、日本でも行われているダム工事を想像しがち。しかし、その中味はだいぶ異なります。

「シンガポール川」「カラン川」といっても実質的には海の湾。つまり、この川の水は淡水でなく海水です。この二つの”川”をせきとめて、飲み水などに使おうとしているのです。日本でいえば大阪・中之島を囲む堂島川と土佐堀川のどちらかをせき止めるようなものでしょう。

他にもシンガポールは、下水処理した水に3段階の浄化処理を加えて「ニューウォーター」と名づけて飲み水の水準まで再生したり、プラントで海水を淡水にしたりといった試みがなされています。これら、使える水の製造には、日本のお家芸である濾過膜の技術が活躍しています。

資源というものはたいていの場合、代替することができます。自動車では石油の代わりにバイオエタノールが使えます。私たちはお米の代わりにパンでエネルギーを摂ることができます。しかし、水の代わりになるものは水だけ。世界の人口が増えたり、都市に人が集中するなかで、水の確保は資源問題として注目されはじめています。
| - | 23:59 | comments(0) | -
「『正しい情報』はない」


このブログで先月「情報とはなにか」ということをあれこれと綴りました。「情報とは知識である」「情報とは資源である」などなど…。

先日の科学ジャーナリスト塾で、すこし関係する「情報の話」を、科学ジャーナリストの小出五郎さんがしていました。

小出さんは「情報」というものを、つぎのように表現します。

「『情報』とは『出来事』と『送り手の脳』を掛けたものだ」

さらにこれを、つぎの式にしていました。

 info=a・f(x,y,z)
 x:知識、認識、経験、意図、志
 y:立場、組織事情、○○益、世論迎合、社会状況
 z:好き嫌い、喜怒哀楽、生理的・心理的状況…

つまり、その出来事“a”について、送り手の脳“f”の、どれだけの経験や知識をもっているか(x)、どんな立場や社会状況のなかに置かれているか(y)、好き嫌いや喜怒哀楽の度合いはどうか(z)、といた変数が関わり、それが情報“info”の内容を決めるということです。

たしかに同じケーキバイキングの情報を伝えるにも「バイキングに百戦錬磨か」「和菓子屋の息子か」「甘党か」といった変数により、その人が流す情報は「クリームケーキを中心に30種類も揃えていますよ」にもなれば「あのバイキングは行く価値がありません」にもなります。

小出さんの話にはさらに続きがあります。

「『受け手の理解』とは『情報』と『受け手の脳』を掛けたものだ」

 understand=info・g(x,y,z)
 x:知識、認識、経験、意図、志
 y:立場、組織事情、○○益、世論迎合、社会状況
 z:好き嫌い、喜怒哀楽、生理的・心理的状況…

こちらも、受けた情報“info”について、受け手の脳のさまざまな状態が変数(x,y,z)になることで、理解“understand”は変化するということです。

「美味しいケーキを30種類も揃えていますよ」という情報に対して「30種類か(甘いな、50種類はないと)」という理解もあれば「クリームか(俺の好きなのはモンブランなんだが)」という理解もあるというもの。

送り手の脳にも、受け手の脳にも(x,y,z)の変数が存在するのだから、「正しい情報」とか「偏りのない情報」といったもなど、ありえないと小出さんは言います。「志向性のない情報はない」とも。

情報や理解にこれだけの変数が含まれると、情報というものの受けとめ方は人によってばらばらであることがわかりますね。

それでも「多くの人がおそらく共有していると思われる情報の理解」というものもありそうです。それは情報を作る要素のひとつである、事実のインパクトの度合いとも関係してるのかもしれません。
| - | 23:59 | comments(0) | -
バタバタバタ音を減らせ


空のほうからバタバタバタと音が聞こえると、ヘリコプターが飛んでいるということがわかります。

垂直に飛び上がることができ、上空でほぼ静止することもできるヘリコプター。空港のような広い土地も要らず、飛行機よりも便利な点もいろいろあります。

そのいっぽうで、あのバタバタバタ音は、乗っている人にとっても近くにいる地上の人にとってもかなりの騒音です。米軍基地がある沖縄・普天間の民家のでは、航空機の77.3デシベルを上回る95デシベルが記録されたそうです。

あのバタバタバタ音が起きるしくみは解明されています。

ヘリコプターの回転翼はたいてい3つから5つ。この翼が回転すると、それぞれの翼が空気の渦を作るのだそうです。その渦が消えないうちに、次の回転翼がその渦にぶつかります。

このぶつかり音があのバタバタバタ音になるそうです。空気の衝撃とはこうも大きいものなのですね。

ヘリコプターの開発者は、この大音響を前に手ぐすねを引いているわけではありません。

例えば、ヘリコプターの尾翼部分に、フェネストロンという不規則な間隔の垂直回転翼を付けます。それが発する音で、バタバタバタ音をかき消すというしくみ。

もう一つの騒音対策は、前の翼が作った渦巻きにどうにかして後ろの翼があまりぶつからないようにすることです。

宇宙航空研究開発機構は、回転翼にアクティブ・フラップを付けることを考案しています。航空機の主翼に着いて上り下がりし、機体を浮き沈みさせている“下げ翼”に似たものです。

アクティブ・フラップを回転翼の先のほうに付けることで、空気の渦を不規則的に散らせて、次にやってくる回転翼がぶつかるのをかわすのです。10デシベルほどの騒音軽減が可能といいいます。

まだ、アクティブ・フラップをどのように取り付けるとどのように音が変わるかを調べる実験段階。今年2008年度は、実際の大きさの回転翼の設計を行うそうです。

震災現場を飛び交うヘリコプターの騒音で、地上の人の緊急の会話が掻き消されたことなどもあり、ヘリコプターの騒音は深刻な問題です。バタバタバタ音が減ることは、ヘリコプターのこれからの使われ方も左右することでしょう。

宇宙航空研究開発機構の研究グループの論文「ヘリコプタ騒音を低減するアクティブ・フラップの数値解析」はこちら。
http://www.apg.jaxa.jp/info/event/pdf/2005exh08.pdf

そういえばタケコプターはバタバタバタ音でなく、カタカタカタ音で抑えられていました。翼に消音設計が備わっていたのでしたっけ…。
| - | 23:59 | comments(0) | -
見なれた駅に見なれぬ列車


新宿方面と千葉方面を結ぶJR総武線の秋葉原駅ホームに、クリーム色に赤ラインの“国鉄特急”が入ってきました。

案内する駅員は「快速列車の千葉行きです。1号車と2号車は自由席、3号車から6号車は指定席となっています」。

入ってきた列車は「臨時快速」でした。8月下旬の土曜・日曜限定で、千葉駅と東京都の奥多摩駅を朝夕往復する「みたけ・おくたま探訪号」です。とちゅう立川、新宿、秋葉原、錦糸町、津田沼などを通り千葉まで行きます。

車体は特急、かつ指定席あり、さらに臨時。とはいえ快速は快速なので指定席に座らなければ特別料金は要りません。

秋葉原駅ホームでは、千葉方面の電車を待つ客がいつものようにいました。しかし、多くの人は「この電車は特別」と思っていたようで、乗った人は自由席の車両前にいた十数人ほど。ほかのホーム客は、きょとんとしているか完全に無視の様子。

車内のボックス席では、鳥打ち帽に登山靴の年配ハイカーがおいしい水を片手にきょうの旅路を振り返りながら話に花を咲かせています。そのとなりの席にはアキバ系青年がiPhoneを片手にもくもくと操作中。

異文化の混在する異様な車内風景のなか臨時快速は千葉方面へ。

乗る列車の“座席”に旅情を感じる人もいることでしょう。いつもの通勤・通学経路をただで旅情にひたれる臨時快速はごくたまに走っています。お近くの路線を走る号を探してみては。
| - | 23:49 | comments(0) | -
80年前、陸上で花咲かせた人見絹代


北京五輪の陸上男子400メートルリレーで、日本がトラック競技では80年ぶりとなるメダルを獲得しました。

80年前の五輪はオランダのアムステルダムで開かれました。金融恐慌や第一次大戦が始まる直前の比較的平和な時代だったといいます。日本ではその年、大相撲の実況中継やラジオ体操が始まりました。

競技内容ものどかなものだったようで、豪州のボート選手ヘンリー・ピアスが競技中、カモの家族がボートの前を泳ぐのを通してあげたという逸話もあります。ピアスは優勝しました。

またアムステルダム大会は、女性が初めて参加した五輪でもありました。そのころまで、女子は万国女子オリンピックという別の大会に出場していたのです。

陸上のトラック競技で80年前にメダルを獲得した日本人選手は人見絹枝です。日本の女性初の五輪メダリストでもありました。

いまも100メートルなどのトラック種目と走り幅跳びなどのフィールド種目をかけもちしている選手はいますが、人見は短距離、中距離、走り幅跳び、走り高跳び、三段跳び、円盤投げなど、多くの種目をこなしていました。

得意だったのは、陸上を始めるきっかけとなった走り幅跳び。同1928年には5メートル98センチの世界記録をうちたて、10年間破られませんでした。また、100メートルも世界記録をもっていました。

しかし、アムステルダム五輪では走り幅跳びは種目になく、また100メートルでも人見は準決勝で破れてしまいました。「このままでは日本の地を踏むことはできない」という相当な重圧がのしかかったといいます。

人見に残された競技は800メートルと走り高跳びでした。走り高跳びは予選敗退となりましたが、800メートルで予選を8位で通過して、決勝は2位。北京五輪で日本が銅メダルを獲る前の最後のメダルとなったのでした。

才女だった人見は、毎日新聞社の記者でもありました。また、日本の陸上競技発展のためにも尽力。競技に出場を続けるかたわら、大会出場のための費用を講演会や募金で募るなど、忙殺される日々でした。

多忙による疲労がたたったのか、アムステルダム五輪の3年後、1931年3月に人見は喀血。肺炎にもなり、8月2日、24歳で短い一生を終えました。

今回、銅メダルを獲った一人、末続伸吾選手は「ぼくらの先輩が培ってきた、その結果です」と談話しています。この先輩の中には、人見絹代も含まれていることでしょう。
| - | 23:59 | comments(0) | -
欧米人が驚く手締めの世界


これからの秋の季節、各地でお祭りが催されます。神輿を担ぎおわった人たちのほうから聞こえてくるのは、威勢のよい手締めの音。

「よぉっ」しゃしゃしゃんっ、しゃしゃしゃんっ、しゃしゃしゃんっしゃん。

さらに豪華版は、これが3回続きますね。手を叩く人の息はますますぴったりです。

手締めにはさらに短い「一丁締め」があります。一丁締めは「関東一本締め」とも。祭ではこの略式はあまり行われないものの、会社の忘年会や、学生の部活動の打ち上げなどではよく聞かれます。

「えぇ、みなさん。今年も一年間ありがとうございました。では最後に、一丁締めで会をお開きにしたいと思います。お手を拝借」

「よぉっ」しゃん。

「ありがとうございましたー」。ぱちぱちぱち。

欧米の人々は、この「『よぉ』しゃん」を目撃すると、かなり驚くのだそうです。「日本人は大勢の人数でよくタイミングを合わせることができるものだ」と。

日本人独特の間合いによる手締め。説によると、もとをたどれば神話の世界にまでたどりつくのだとか。

古事記に「国譲り」という神話があります。天照大神が子息を遣わせて、出雲の国の主神・大国主命に「出雲の国を、うちらの家系に譲りなさい」と迫りました。

大国主命は「どうしたものか」と、信頼できる息子の事代主神に相談しました。

すると息子は次のようにして返事したといいます。

「しゃん」

手を叩いたのです。この「柏手」によって、出雲側は「では国を譲ることにしよう」となったといいます。その後、事代主神の消息は知れず、親の大国主命も隠退しました。

事代主神が打った柏手が、物事が落着するときの象徴となり、それいらい日本では習わしとして「『よぉっ』しゃん」のような手締めが広まっていったとか。

それだけの、長い歴史があるのだとすれば、たしかに日本人の息がぴたりと合うのも無理からぬことかもしれません。
| - | 23:59 | comments(0) | -
科学ジャーナリストのサイモン・シンさん訴えられる


英国の科学ジャーナリスト、サイモン・シンさんが、英国脊髄調整治療協会から名誉毀損で訴えられました。本人のメールマガジンのほか、英国の新聞テレグラフ紙なども伝えています。

シンさんは2008年春『Trick or Treatment? Alternative Medicine on Trial』(錯覚か治療か? 試されている代替医療)』という著書を、医師のエドザード・エルンスト教授とともに上梓。

直前の4月19日、シンさんは英国のガーディアン紙に「Beware the spinal trap Some practitioners claim it is a cure-all but research suggests chiropractic therapy can be lethal(背骨の罠に注意 開業医は万能治療と言うが、調査は脊髄調整療法は死ももたしうることを示唆)」という題の記事を寄せています。この記事をめぐって名誉毀損で訴えられた模様。

記事でシンさんは、さしこみやぜんそくなどの症状のある子どもが、脊髄調整治療で治ったという協会会員の喧伝を取り上げ、根拠がなく「おめでたいことに出鱈目治療を推進している(happily promotes bogus treatments)」と批判。

さらに20歳のカナダ人女性の身に起きたできごとを紹介。脊髄調整治療の通院後、首の硬直が起き、再度治療を受けたところ昏睡状態に。3日後に死亡したといいます。検死でも脊髄調整治療との関連が認められたとのこと。カナダだけでかなりの人数が脊髄調整治療の後に死亡した事件があるとも。

テレグラフ紙は、記事を載せたガーディアン紙でなくシンさん本人が訴えられたことを「異例の手続き」と報道。訴えた側の協会ジャクボースキ医師は取材に対して「シン氏のこれら発言は恥ずべきもの。撤回する機会も与えられたのにしなかった」と述べています。

いっぽうシンさん本人はメールマガジンで、いまは多くのことを語れないが順を追ってこの問題に復帰するつもりだと述べています。メールやブログで自分の地位復帰の声援を送ってくれた人に感謝しているとも。

どちらかというと、これまで「フェルマーの最終定理」や「ビッグバン」などの純粋な科学テーマを紹介してきたシンさん。新刊の内容と関連した今回の記事に、かなり過激な印象を受けた人も多いかもしれません。ただしシンさんの取材力は世界屈指とされています。本の共著者エドザード・エルンスト教授への綿密な聞き込みなどから、自信をもっての今回の記事だったことが考えられます。

脊髄調整療法はカイロプラクティックともよばれ、日本でもこの治療法は民間療法として巷で行われています。訴訟の結果の影響は、英国だけにとどまらないかもしれません。

シンさんへの訴訟を伝えたテレグラフ紙の記事はこちら(英文)。
http://www.telegraph.co.uk/news/newstopics/mandrake/2570744/Doctors-take-Simon-Singh-to-court.html
| - | 21:10 | comments(0) | -
グロは地面の下から


ロマネスクというと、半円アーチを駆使した中世西ヨーロッパの建築様式です。

アラベスクというと、幾何学模様に花や草や蔓などをあしらった、アラビア人のつくった模様です。

では「グロい」でおなじみの「グロテスク」はどうでしょう。

ロマネスク、アラベスク、グロテスク。すべて「-スク(-esque)」という語尾がついています。これは「何々風の」という意味の接尾辞。「ロマネスク」であれば「ローマ風の」、「アラベスク」であれば「アラブ風の」となるわけです。

この語法からいうと「グロテスク」は「グロット風の」となります。

ローマやアラブに比べてグロットは、あまり聞きなれない言葉。「グロット」とはフランス語などで「洞窟」や「古代遺跡」を表わすことば。グロテスクのもとのグロットには“地方のグロット”と“都会のグロット”の二つの由来の説がある模様。

地方のグロットのほうは、イタリア北部にあるベッラ島の洞窟のこと。

ベッラ島は、マッジョレー湖という湖に浮かぶ長さ320メートル、幅180メートルほどの島です(写真)。

この地方にいたボロッメオ家という名家が、島を丸ごと宮殿にしました。そして、自然にできたのか、人の手によってできたのかわからない洞窟を、大理石や貝殻などで飾りつけたのです。

インターネット上で紹介されている、ベッラ島の宮殿や洞窟の装飾を見ると、たしかにおどろおどろしく、まさに「グロい」という言葉がにあいます。

いっぽう、都会のグロットとは、ローマの地下遺構で発見された遺跡に由来するというもの。

15世紀の“暴君”ネロの黄金宮が15世紀に発見されました。装飾品の中に、人間の模様が、植物、魚、動物などに変化していく奇妙な模様がありました。

この模様を、16世紀ルネサンスの巨匠ラファエロがバチカン宮殿の模様に取り入れたそうです。暴君の宮を飾った奇妙な模様はグロテスク様式として美化されたということです。

日本では「ロマい」や「アラベい」といった言葉は起きなかったものの「グロい」は立派な形容詞となりました。美術様式も奇怪なほど人々の心に刻まれるということでしょうか。
| - | 23:59 | comments(0) | -
子どもの夏、長いようで、短いようで、長かった。


「子どものときのほうが夏の時間を長く感じる」とは、よくいわれること。この感覚は「ジャネの法則」とともに説明されることが多いです。

フランスの心理学者ピエール・ジャネは、叔父の哲学者ポール・ジャネの発案から「年月の長さは、年齢が低いほど長く、年齢が高いほど短く記憶される」と唱えました。これがジャネの法則です。

たとえば、10歳の小学生が8月を過ごすとします。彼にとって、その年8月の31日間は、約3650日分の人生における31日。いっぽう100歳のおとしよりも同じく8月を過ごしますが、その方にとっての31日間は、約36500日分の人生における31日間。

これまでの人生に比べると、同じ31日間でも10歳の子どものほうが相対的に長くなります。これが、子どもが時間を長く感じることの理由とされています。

日本でポール・ジャネは、このジャネの法則の親として知られることが多いですが、世界的にはトラウマとよばれる精神的外傷の研究や、「精神分裂」「潜在意識」などの造語の親として知られています。

また、別の精神的作用として、なにかを覚えるような体験が多いほど、そのときの時間が長かったと感じることもあるそうです。法則名はついていませんが、仮に「初体験の法則」とよんでおきます。

たとえば、子どもにとっての8月は、虫とりをしたり、バーベキューをしたり、登校日にはプールで泳いだりと、ふだん学校でやらないことが目白押し。脳に入力するようなできごとが多いほど「あのときの時間は長かったな」と思えるのだそう。

しかし「初体験の法則」は、一見つぎの話と矛盾めいています。たとえば、工場ラインで流れてくるパンにクリームを塗るアルバイトをくる日もくる日もするとします。単調な作業の日々。よほどの甘党でもなければ「ああ、終了時刻まで長いな」と感じることでしょう。

覚えることが多いと時間を長く感じる「初体験の法則」があるいっぽうで、覚えることもない単調な作業をくりかえすと長く感じるわけです。

しかし、この二つにはちがいがあります。それは、過去をふりかえって「あのときは長かった」と感じるか、いまを起点に中心に「時間が長い」と感じるかのちがいです。つまり「覚えることが多くてあっという間に時が経っていった」という状況は、時間がたつと「あのときは長く感じた」と変化するようです。

「ジャネの法則」により、もともと子どものころの時間は長く感じられるということに加えて、「初体験の法則」から、とくに昼の時間も多く日にちも多い夏休みは、初体験のできごとがたくさんある。この二つから「子どものときのほうが夏の時間を長く感じる」を説明することができそうです。

おとなが夏を長く感じるには、日々、新しいことに取りくむしかなさそうです。ただし、新しいことに取りくんでいる瞬間は、やはりあっというまに感じてしまいそう…。
| - | 23:59 | comments(0) | -
法廷の科学は真実を語るか(7)
法廷の科学は真実を語るか(1)
法廷の科学は真実を語るか(2)
法廷の科学は真実を語るか(3)
法廷の科学は真実を語るか(4)
法廷の科学は真実を語るか(5)
法廷の科学は真実を語るか(6)

検察側の敗北が決定的になったできごとが、“手袋の矛盾”でした。

殺害現場で捜査官は血がべとべとに付いた手袋を見つけ、保管していました。犯人が被害者を殺すときに使った可能性が極めて高いわけです。

検察官のダーテンは、法廷でシンプソンにその手袋をはめさせようとしました。

バスケットボールの選手だった大男のシンプソンが、その手袋をはめようとします。ところが手袋は彼にとって小さすぎて、はまりませんでした。

検察側が犯人が使ったものにちがいないと確信していた手袋を、容疑者のシンプソンがはめることはできませんでした。この様子は全米のテレビでも放送されました。

陪審員が参加したOJシンプソン裁判は、1995年10月3日の13時すぎに評決が出ました。

「被告は無罪」

世紀の茶番劇は幕を下ろしたのです。

市民から選ばれた陪審員たちを前に、弁護士たちはうまくやってのけました。DNA鑑定という法科学のむずかしい(そして弁護側にとって決定的に不利な展開となる)話を一切避け、陪審員の頭の中でイメージできるような論理や、耳に残りやすい言葉をもちだして、シンプソンに、かぎりなくクロに近いシロをもたらしたのでした。

法廷の結果は「科学の敗北」といってもよいかもしれません。もちろん、弁護士側がうまくやった点、検察側がうまくやらなかった点は加味されます。しかし、科学技術の粋を集めたDNA鑑定やポリメラーゼ連鎖反応などの法科学がまったくといってよいほど無視され、そのかわりに誰が聞いてもわかりやすいことば使いや、だれもが想像できるような論理展開が、少なくともOJシンプソン裁判の法廷では選り好みされたわけです。

法廷の科学は真実を伝えることなく、軽視されたのでした。

しかし、この状況は考えてみれば当然のものかもしれません。たいてい世の中は、難しそうな理論よりも、単純明快な物語が好まれます。法廷の場でその形成が覆えるこれといった理由は見当たりません。

比較的科学への興味関心が強いとされる米国の一例がOJシンプソン裁判でした。科学リテラシーではまだ途上国とされる日本では、果たして法廷で科学の出番はあるのでしょうか。これからは、2009年5月から始まってしまう日本の裁判員制度における科学の扱われ方について考えていきます。
| - | 23:59 | comments(0) | -
偉大なる“実験番組”が1000回超え


朝日放送の番組『探偵!ナイトスクープ』が、関西では(2008年)8月1日、東京ではきのう8月15日の放送で1000回を迎えました。

探偵局長・西田敏行の「複雑に入り組んだ現代社会に鋭いメスを入れ、様々な謎や疑問を徹底的に究明する探偵!ナイトスクープ」の掛け声で始まり、毎回、視聴者から探偵への依頼3本を受け、“優秀な探偵”たちが問題解決に挑みます。

探偵は、長原成樹や桂小枝など関西で活躍する芸人と、松村邦洋や竹山隆範など、東京でもよく見る芸人が入り交じっています。“顧問"にはルー大柴なども。

関西でも東京でも毎週金曜日の夜遅くに放送しています。しかし、注目度は雲泥の差あり。

関西では6月に平均視聴率23.5パーセントを記録した、知らない人はいないほどの番組。いっぽう東京では知る人ぞ知る番組です。東京では、東京メトロポリタンテレビというUHF局が放送中。かつては朝日放送系列のテレビ朝日でも放送していましたが、視聴率がとれなかったらしく2005年に撤退しています。

番組全体の色合いは、探偵と依頼者のコンビネーションで笑いを誘うもの。しかし単に受けを狙うだけではなく「とにかくなんでも試してみよう」という精神にあふれている点が面白みを深めています。

たとえば15日(東京)の放送では「椅子に座って輪になって膝枕したら椅子を外しても崩れないのを確かめてほしい」という小ネタ的依頼がありました。

(A)(B)

(C)(D)

上の配置のように4人が椅子に座り、座ったままAさんはBさんに、BさんはCさんに、CさんはDさんに、DさんはAさんに膝枕をしてもらいます。

そして探偵の桂小枝が4人の椅子をそれぞれ引き抜くと……。4人はみな空気椅子状態に。ところがみな「L」字を倒したような姿勢になりながら互いに均衡を保ち、崩れませんでした。

この実験をさらに40人に拡張。ぐるっと輪になり、みながとなりの人に膝枕をしてもらいます。

またも探偵の桂小枝が40人の椅子をそれぞれ引き抜くと……。40人でやっても人々がばたばた崩れ落ちることはありませんでした。

なぜ、これがうまくいくかといった解説はしないものの「やってみた! こうなった!」という内容は、科学的実験の本質に通じるものがあります。

実験に挑む精神は、かつて放送していた『トリビアの泉』の「トリビアの種」というコーナーと相つうじるものがあります。「銃弾を日本刀の歯に向けて打ったら割れるのはどちらか実験してみる」や「桜はワンシーズンで何枚の花びらを付けるのか数えてみる」といった実験ものを多くしていました。

しかし『トリビアの泉』はいまや特別番組でたまにやるだけに。いっぽう“実験番組”の元祖的存在は、これからも続いていくことでしょう。

関西と東京でこれほど人気の差があるのはなぜなのでしょう。東京の人が気ぎらいするような内容ではありません。大阪芸人のお笑いを見るような感覚で笑える番組です。

“様々な謎や疑問を徹底的に究明する”、探偵ナイトスクープ。人気の落差の謎だけは、なかなか究明できないのかもしれません。

「探偵!ナイトスクープ」のホームページはこちら。
http://asahi.co.jp/knight-scoop/
| - | 04:02 | comments(0) | -
メダル格差


「ナンバーワンにならなくてもいい」と歌っていたスマップの中居正広さんは、いま北京五輪の司会者として「頼む、金メダルを獲ってくれ!!」と叫んでいます。

応援する人も選手も含め多くの人が、金メダルの獲得には大よろこびをするいっぽう、銀メダルや銅メダルの獲得には、かなり残念な思いをしているように見えます。

五輪中継の司会者たちは「銀メダル獲得おめでとう」とは言いながらも顔の表情はやや引きつり、「でも、よくがんばりましたよー」と、「でも」付きで選手を讃えます。

選手のほうも「自分にとって、金メダル以外の順位は価値が同じですから」と言っている人はいます。

金メダルと銀メダルや銅メダルの価値の差はどのくらいあるのでしょう。

100人の選手が参加する種目があるとします。仮に、金メダル獲得の価値を100、最下位の価値を1とします。すると、銀メダルの価値は99、銅メダルは98となります。

つまりこの場合、金メダルは銀メダルよりもおよそ1.01倍の価値が、また銅メダルよりもおよそ1.02倍の価値があるということになります。これは、かなり状況を限定的に設定した上での計算の話。

ところが、人々の実感は大きく異なるもの。金メダルと銀メダルや銅メダルとの間にはかなりの価値の隔たりがありそうです。金メダル獲得の価値が仮に100だとしたら、銀メダルも銅メダルも、どちらもほぼ同じく50くらいという感覚ではないでしょうか。

そもそもこれはどういうことでしょう。

まず、銀メダルと銅メダルにあまり価値の差がないように感じられる理由を考えてみます。

一つは、五輪競技の特徴が関係しています。柔道などの対戦種目では、銀メダルは最後の試合に敗れた結果として、銅メダルは最後の試合に勝った結果として、それぞれ贈られます。銀メダル獲得は後味が悪く、銅メダル獲得は後味がよくなります。このため、銀メダルと銅メダルの感情的価値の差が埋まります。

それよりも大きな理由は「金メダルを獲れなかった」ということでしょう。「金メダル以外の順位は価値が同じですから」という選手の発言は、やはり多くの人の気持ちを代弁したもの。

ただし、そもそも上の計算からは、銀メダル獲得と銅メダル獲得の価値は1.01倍の差しかなく「どちらもほぼ同じ」は大きく外れたものにはなりません。

金メダル獲得と、銀メダル・銅メダル獲得の感覚的な差がこれほど激しいのは、頂点に立つことへの人間の本能的な欲求から来るものではないでしょうか。まわりの敵をうち負かしたいという動物的本能でもあり、頂点という名声を得たいという人間的本能でもあり…。

1位と2位以下の価値が違う最たる例は、科学的発見でしょう。発見がほかの研究者より1時間でも遅れると、その人の発見には何の価値もなくなってしまいます。金メダル獲得の価値は無限大で、銀メダル・銅メダル獲得の価値はゼロというわけです。

実際は五輪の出場選手100人のなかに選ばれるだけでも、ものすごい価値あること。そうした見方があるいっぽうで、多くの人は金メダルを獲ってこそという見方をしています。五輪という舞台は、人々の建前と本音が、あからさまなまでに見わけられる場でもあります。
| - | 20:41 | comments(0) | -
著作物という著作物に番地をつける。


地面あるところには「番地」があるため、人は便りを送ることができたり、行ったことのない家を訪れることができたりすることができます。しかも「何町何丁目何番地何号」とか「何番街何番地」とかいった表現のしかたは世界共通となっています。

こうした「番地」の便利さを、著作物にも当てはめる取り組みが進んでいます。

たとえば、英国の放送局が作った科学ドキュメンタリー番組を、ある日本の放送局が放送しようとします。日本側は番組名などは知っているものの、だれに許諾をとればよいのかといったことまではわかりません。

そんなとき、権利許諾についての情報を手軽に引き出すことができたら便利になります。しかもその情報が、どの国の誰もがわかる共通の“所番地”の形になっているとなお便利。

こうした考えのもと、広告代理店の電通を中心とする日本のグループが「許諾コード方式」という世界共通の番号方式を提案し、2008年2月に国際技術標準規格となりました。

許諾コードには4種類あります。

そのうちのひとつは「コンテンツID」というもの。本のISBN番号のように、著作物に固有にわりあてられる番号です。16桁のローマ字と数字からなり、最初の2文字はコンテンツ識別ヘッダー。たとえば「SP」はSound Programで音の番組、「VD」はVisual Dramaで映像のドラマといった具合です。次の2文字は「JP(日本)」などの国コード、続けて番号の発行者を識別する2桁のセンターコードが来て、そのあとにそれぞれの著作物に与えられる10桁の番号がきます。

日本経団連のコンテンツ・ポータルサイト運営協議会は「ジャパン・コンテンツ・ショーケース」というホームページを開いていて、ここで著作物の許諾コードを検索することができます。

例えば『フェルマーの最終定理』という一般書には「TPJP101999028897」という番号が、『ハウルの動く城』という映画には「VFJP100010000266」という番号が付いていることがわかります。

また「From ID」「To ID」といった番号もの種類もあります。これは著作物の持ち主(誰から許諾を得るか)と、著作物の使用者(誰に許諾を与えるか)といった情報を番号にするもの。同じく16桁で、関係者の所属する団体、企業などを特定できる番号が与えられます。

許諾コードには、著作物ID、From ID、To IDのほかに「NコンテンツID」という、著作物の内容にさらに踏み込んだ番号も用意されています。例えば、その著作物があるドラマに関する「脚本」なのか「主題歌」なのか「宣伝映像」なのかといった詳細を知ることのできる番号です。ただしこれはまだ使われていません。

人があるものを著したとき、それは著作物となり、その人に著作権が自動的に生じることになります。情報が氾濫するいま、その著作物の権利を誰がもっているのかといったことを識別することはより大切になります。

許諾コードを世界標準に押しすすめた関係者は、「デジタルの大海に迷ったとしても、識別することができるでしょう」と話しています。

経済産業省のホームページ内にある「国際技術標準 許諾コード方式について」はこちら。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/gijiroku/010/08030406/003.pdf
「ジャパン・コンテンツ・ショーケース」のホームページはこちら。
http://www.japancontent.jp/CPS/CPW20000.do?&lang=01
| - | 23:59 | comments(0) | -
混乱しても頭は真っ黒にならず。


人は混乱状態におちいると“頭が白く”なります。なぜ、頭の色は黒くも茶色くもならず、白くなるのでしょう。

混乱するということは、いろいろな情報が一気に自分に入ってきて整理がつかなくなること。つまり、情報が何重にもなると、頭は白くなってしまうのです。

「頭が白くなる」に対して、先行きが見えない絶望的状態は「お先真っ暗」といいますね。頭の中の状態は白色になるいっぽう、眼でみる展望は黒色になるわけです。

頭が白くなるのは、もしかしたら「光の三原色」が関わっているのかもしれません。

あるロボット開発者から聞いた話です。その開発者はロボットに、自分の“体調”を色で発光させる“表示画面”を組み込みました。外からの刺激を受けて調子がよくなったとき表示画面は赤に、また調子が悪くなったときは青に、といった具合です。

さて、ものはためし。開発者はそのロボットに対して、たくさんの刺激をいっぺんに与えました。光、熱、湿気、音、風、臭い、いろいろな刺激が考えられます。

ロボットはこれらの刺激を一気に受けました。すると、体調を示す表示画面は真っ白になったそうです。

表示画面に色を付けている光は、赤、青、緑の三原色の組み合わせでいろいろな色を発光します。白色は、この三原色が十分に発光したときの組み合わせ。

いっぽう、インキや塗料の世界では、赤、青、黄が混ざると、黒くなります。黒インキが切れた場合、赤、青、黄をかきまわせばどうにか黒っぽい色を再現することができます。

さて、頭の中がごちゃごちゃになったときは、黒くならずに白くなります。つまり、たくさんの刺激を受けて分けがわからなくなった状態は、塗料が混じりあう状態ではなく、光が混じりあった状態と同じであるということができます。ロボットの表示画面が白くなったとのと同じように。

脳では、電気信号のやりとりが繰り広げられています。脳が受けるこの刺激はインパルスといい、発光現象としても説明されます。

ひょっとすると、「頭が白くなる」を使いはじめた人々は、脳の中で繰り広げられていることを直感的に捉えていたのかもしれません。
| - | 23:59 | comments(0) | -
“にっちもさっちも”で出てくる発言


テレビ番組の視聴率が低迷していることを示す“しるし”に、「ラーメン特集」を組んだどうかが、あるといわれます。ラーメン特集は人気があるため、とりあえず視聴率を上げたい低迷番組が手を付けたがるそうです。

研究者や政策者たちが参加して、今後の科学技術のあり方などを問うシンポジウムなどの場でも、あることを示す“しるし”がよく聞かれます。

はじめのうちは、どんな先生のどんな研究が優れていて、日本を支えていくことになりそうかといった議論が展開されます。パネラーたちは科学的情報をもちだして「この結果は期待できる」とか「この方法で何年に世界最高記録が出されている」とか、研究成果を競い合うわけです。

しかし、議論の材料が出しつくされたり、または議論が発散して収拾のつかない状況になったりすると、だれからともなく“別の角度”の話題が上ってきます。

「日本に将来に活かしていけるかどうか。なによりも人材の育成を考えていかなければならないと思います」

科学的議論から教育的議論へ。「議論がこれ以上は発展しないことを示す“しるし”」です。

“人材育成”は、パネラーのだれもが「充実すべき」と思うこと。その点で一致していて、反論がさほど出ません。

よって、議論が収束に向かうためには、“人材の育成”の問題を切り出すことが一つの手段となるわけです。

「研究機関どうしが連携をとりあって、若手の育成に力を入れていかなければならないと思うんです」(異論なし)

5分後ぐらいに、議論は次のテーマへと移っていきます。
| - | 23:30 | comments(0) | -
書評『ワボットのほん5』
わずか32ページ。しかも半分は英訳のページ。こんな薄い本に、ロボット設計の深い思想が詰まっています。

『ワボットのほん5 役に立つロボットの作り方』尾島俊雄監修 菅野重樹文 薮野健絵 中央公論新社 2004年 32ページ


早稲田大学WABOT-HOUSE研究所の所長・菅野重樹教授は「ウェンディ」や「ワメーバ」などのロボットを設計・開発してきた。その開発の思想が、短い文の中に凝縮されている。

まず将来、世の中に普及するであろう身近な人型ロボットに求められる条件が書かれてある。

「ロボットにも器用な指が必要だ」
「人間の傍にいるロボットは安全でなければならないんだ」

器用かつ安全であること。この二つが役に立つロボットであるために必要な機能であるという。身近なロボット設計の「二原則」が示されている。

その上で、ロボットづくりの大きな方向性が示される。それは、人間の動きを全てプログラムしてロボットをつくることと、成功したり失敗したりしながら経験し学習して覚えてゆくロボットをつくることの二つだ。

前者のほうは「こんな場合にはこう動く」といったロボットの行動の一対一対応マニュアルをロボットに注入するようなもの。実際にウェンディそれに最近発表されたウェンディ・ワンなどは、このタイプであり人との共生までの時間はそう遠くないとされる。

より“思想”が入ってくるのが、後者だ。人間がさまざまな経験をしながら成長していくように、ロボットもまっさらに近い状態から学習して成長していく。

ここで鍵となる言葉が「創発」だという。
自分と周りの環境に対して自分にとっての「意味付け」ができるようになること。自分にとっての価値を理解できるといってもいいかな。これが創発だ。
そして創発が起きるためにロボットに(人間や動物にも)必要なものは「評価基準」だという。この場合「自分が生き延びるために、この環境は良いものか悪いものか」といった、自己保存のための尺度が評価基準となる。

研究室では創発を重視したロボットとしてワメーバを開発している。動物が動物であるため、人間が人間であるために本質的に必要としているものは何なのかを探る道具となる。

「どのような身体をロボットに与えるかで、実はロボットの知能や感情は決まってしまうんだ」という。ロボットの“身体性”を重視する開発者の思想が現されている。ロボットは体なしにはロボットとして成立しえないということだ。

薄くて挿絵も多くて、見た目は子ども向けの本だが、そこに書かれてあるロボット開発の本質はとても深いものがある。

『ワボットのほん5』はこちらで。
| - | 23:59 | comments(0) | -
略称論争、決着つかず。


ファストフード店の略称をどうよぶかは、地域性があらわれますね。

その典型は「マクドナルド」でしょう。東京を中心に東日本の人たちは「マック行こうよ」と言い、大阪を中心に西日本の人たちは「マクド行こか」と言います。

「マック」と「マクド」の地域分布は複数の機関によってかなり綿密に調べられています。

市場調査会社のアイシェアは(2008年)7月、全国の427人を対象に店の略称を調査しました。結果、東日本ではマックが84.4%、マクドが11.8%と、マックの圧勝だったの対し、西日本ではマクド52.3%、マック41.6%で、マクドが優勢となりました。

いっぽう、メールマガジンを運営している「ウィふり」は、同様の調査から勢力地図を作っています。地図によると「マクド」は関西を中心に広がっており、境界線は岐阜あたりと広島あたりに走っているとのこと。

「マック」か「マクド」かは、正統な略称がどちらなのかという論争にも発展している様子。

公式的立場といえる日本マクドナルドは、献立やサービスに「メガマック」や「朝マック」などの名前を付けており「マック」で統一しています。しかし、新聞や株式面などを見ると「日本マクド 原料高対応で近く値上げへ」などのように「マクド」が使われています。

中には言語学的な見地からこの論争に決着を付けようとする人もいます。マクドナルドは、英語で“McDonald's”。“Mc”は、スコットランド・アイルランド系の性につく接頭辞で「…の息子」という意味となります。よって「マクドナルド」は「ドナルドの息子」。

「マック」推進派は、“McDonald's”を、どこで区切るのが言語学的に不自然でないかを引き合いに出して、「マクド(McDo)」よりは「マック(Mc)」のほうだというわけです。

しかし、この主張の欠陥は日本語に反例となる使い方があることでしょう。

「テレビ」を英語で表わせば“Television”。“tele”も“Mc”と似て、言葉の前に付き「遠い」といった意味をもたせます。「映像(vision)」が「遠い(tele)」ところまで届くから「テレビジョン」。よってテレビジョンの場合も、言葉としての区切りがよいのは「テレ」と「ビジョン」の間。

けれども日本人はテレビジョンを「テレ」とはよばずに「テレビ」とよんでいます。

この反例に対して「マック」推進派は「『テレ』だけだったら『テレホン』とか『テレスコープ』とかとの区別がつかないじゃないか」と言うかもしれません。

けれども、これは「マック」にも当てはまること。「『マック』だけだったら『マッキントッシュ』とか『マッキンゼー』とかとの区別がつかないじゃないか」と言い返されてしまいます。

情報伝達を考えたときにどちらが便利かといえば、まちがえの少ない「マクド」のほうといえそうです。でも、全国的な状況としては冒頭で見たように「マック」のほうが優勢。

つまり、マクドナルドをマクドと呼ぼうがマックと呼ぼうが、困った問題は起きていないということのようです。

アイシェア「ファーストフード店の略称に関する意識調査」はこちら。
http://blogch.jp/up/2008/07/11103548.html
ウィふり「『あなたはマック? それともマクド?』調査」はこちら。
http://weekly.freeml.com/chousa/hamburger.html
| - | 23:59 | comments(0) | -
「63年目の真実」は、どこまで真実か。


長崎に原爆が落とされてから今日(8月9日)で63年を迎えました。

この夏の報道特別番組では、広島よりも長崎に関わるものが多いようです。それだけ最近の発見も多かったのでしょう。

テレビ朝日では8月2日(土)に『原爆』を放送。63年前、原爆投下直後の長崎で米国戦略爆撃調査団ダニエル・マクガバンが撮った映像に映っていた少女を、女優の石原さとみさんが探し求めるというものでした。

女優が聞きこみを手がかりに、写真の少女に会う方向へと近づいていくという謎解き仕立ての構成は、視聴者を惹きつけるものだったのでしょう。

ただし、議論の残る点もあります。写真の少女を捜すことになったきっかけの部分です。

放送では、終戦直後の悲惨な状況の長崎で、なぜ少女が微笑むことができたのか、といったことを女優が“少女”を捜す動機となっていました。

「長崎に原爆→悲惨な状況→人々の悲しみ」という概念の構図があるなかで「少女の笑顔」を見せられると、たしかに謎めいたものがありそうに見えます。

しかし、当時の状況はそれほど単純明快なものではなかったのではないでしょうか。マクガバンが少女を撮影したのは1945年11月5日。原爆投下からすでに2か月半が経っていました。このころには、米国軍の進駐も進み、長崎市民のコミュニケーションもかなり進んでいたと考えられます。

また、原爆投下からまもない長崎は、原爆に対する憎悪感や絶望感とともに、原爆に対する畏怖や、畏怖から転化された尊崇の感さえ漂っていたという考え方もあります。これは当時の新聞などから読みとれます。

よって「惨状の中での少女の笑顔」を番組の動機としたことに対しては、明快な謎解きの物語にした、“テレビ的”な手法があったのではないでしょうか。

人の幼少の記憶がないことを考えると、原爆投下直後の街の様子を語れる人の多くの方は70歳以上の高齢者となってしまいました。時間の猶予はもう残されていません。
| - | 23:14 | comments(0) | -
書評『リスク』
日本では単行本がちょうど10年前に刊行されました。2001年に出た文庫本は、アマゾンのランキングで上下刊とも1000位台。いまだに売れているようです。

『リスク 神々への反逆』ビーター・バーンスタイン著 青山護訳 日本経済新聞社 1998年 498ページ


リスクという概念自体がなかった古代ギリシャ、ローマ時代からいまに至るまでを時系列にして、業績を上げた人物を登場させ、リスク論を紹介していく。

現在に近づくにつれてリスク論は百花繚乱となり、複雑さも増す。1900年以降(近代・現代の各章)を読み進めるには、次のような対立軸を念頭におかれるとよいのでは。

それは、未来のことは計算可能だと主張する側と、計算なんて不可能だ主張する側の対立軸だ。数学を駆使することによって未来のことは予測できるとする人物の代表格は、ケトレー、フォン・ノイマン、モルゲンシュテルンなど。対して、未来のことなんて不確実性や人間の直感というノイズに阻まれて計算することができないと言うのは、ケインズやカーネマン、トヴァスキー、タラーなどである。

ノンフィクションとしての娯楽性に終始している感じはない。過去形の話があたえられるのではなく、いまに直結している緊張感があるからかもしれない。

金融や株に興味のない人でも、将来を予測することと数学との関係性については興味をもって読めそうだ。

『リスク 神々への反逆』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/リスク―神々への反逆-ピーター・L-バーンスタイン/dp/4532146704/ref=sr_1_4?ie=UTF8&s=books&qid=1218224261&sr=1-4
文庫版の上巻はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/リスク〈上〉―神々への反逆-日経ビジネス人文庫-ピーター-バーンスタイン/dp/4532190797/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1218224261&sr=1-1
文庫版の下巻はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/リスク〈下〉―神々への反逆-日経ビジネス人文庫-ピーター-バーンスタイン/dp/4532190800/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1218224261&sr=1-2
| - | 23:59 | comments(0) | -
英国人、多くは科学に関心なし


毎日新聞科学環境部記者の元村有希子さんは、英国インペリアルカレッジに留学中です。「理系白書ブログ」も、元村さんの回は7月2日(水)どまり。

そんな元村さんが『化学と工業』2008年8月号に「科学を文化としてとらえ直す」という記事を寄せています。

英国と日本の市民の科学に対する興味のちがいを、現地で肌で感じたことを交えながら書いたもの。

記事によると、6月に元村さんはチェルトナム科学フェスティバルという祭典に参加しました。動物行動学者で『利己的な遺伝子』の著者リチャード・ドーキンス氏の講演兼サイン会が開かれたそうです。

この講演兼サイン会は入場料が有料で10ポンド(約2000円)。500枚の入場券が数週間で売り切れたのだそう。「この値段で500人を呼べる科学者は、日本に何人いるだろう?」とつづっています。

中村修二さん、養老孟司さん、毛利衛さんなどの講演会では、500人を超す聴衆がつめかけているのを見たことはありますが、すべて無料。英国の科学者講演会は有料のことが多いのかはわかりませんが、日本の一般市民向け講演会はほぼ無料です。

こういう話を聞くと「おかねを払ってまで科学者の話を聴くとは、さすがは英国だ」と思ってしまいそうです。

けれども元村さんの記事で興味深かったのはその先です。
英国でも、科学を文化として楽しむ人は特定の社会階級(ミドルクラス以上)と知識階級に偏っている。だれにでも開かれているはずのフェスティバルでも、見かけるのは現役を引退した年金生活者で、金も暇もある知識階級の人たちである。その他大勢は日本同様「科学は大事、でも私には関係ない」という態度である。
日本人は「英国人はみな『ネイチャー』を読んで、BBCの科学番組を見て、バスや地下鉄で科学の話をしている」といった印象をもちがち。これは、外国人が「日本人はみな髷を結っている」と考えているのと似ているかもしれません。

でも、そうではないのですね。科学を楽しもうという人たちに機会の多さが与えられているという点では英国のほうが上だということのようです。

その土地に行かないとわからない雰囲気はあるもの。その土地に行ったとしても、行く前の先入観から雰囲気を決めつけてしまう人もいるものです。元村さんはちがいました。記者です。

元村さんの書いた「科学を文化としてとらえ直す」は、日本化学会のホームページで読むことができます。こちら。
http://www.chemistry.or.jp/kaimu/ronsetsu/ronsetsu0808.pdf
| - | 23:59 | comments(0) | -
注目されなくても「見出し論」

「数学オリンピック財団」ホームページから

5月にお話しした「キャプション論」につづき、きょうは「見出し論」をぶってみます。

人が雑誌記事などの文を読もうとするとき頼りになるのが見出しです。頼りになるというのは、読むかどうかの判断をしたり、どんなことが書いてあるのかを大まかに把握したりするための助けになるということです。

見出しづくりに格闘している編集者の方や新聞の整理部の方などは、意識していることでしょうが、見出しには「文意的」なものと「項目的」なものに分けることができます。

たとえば、7月21日に、日本人高校生も参加した「数学五輪」の結果が出ました。灘高校の生徒と筑波大学付属駒場高校の生徒が金メダルを獲得したといいます。

この結果を、新聞社はどのような見出しで伝えているでしょう。

国際数学五輪:関さん、副島さんが金メダル(毎日jp)
日本代表全員が数学五輪で金銀銅、「化学」は全員が銅(読売新聞)
日本勢全員がメダル!! 数学、化学五輪ですが…(産経ニュース)
国際数学五輪で97カ国中11位 (時事通信)

いずれも、数学五輪で日本人が健闘したという記事の内容を、集約したかたちの見出しにしているわけです。

これは、本文で意図していることをまとめているので「文意的」であるということができます。

いっぽう、数学五輪で日本人の2人が金メダルを獲ったという第一報が入った文部科学省も報道発表をしています。その見出しを見てみると……。

国際数学オリンピック参加生徒の成績について

これは「国際数学オリンピックに日本人が参加した」という事実までを語っていますが「その結果、日本人が健闘した」といったことまでは語っていません。報道発表の中身を見ると、ちゃんと「金メダル 関典史さん、金メダル 副島真さん」といったように、だれがどの成績を収めたかという結果の内容は記されています。

伝えたいことのテーマのみを記している文科省の報道発表の見出しは「項目的」といえます。

文意的な見出しと、項目的な見出しのどちらが優れているでしょうか。

まず、メッセージ性という意味では、軍配は明らかに文意的な見出しに上がります。本文を読まなくても、本文が伝えたいことが書かれてあるからです。

いっぽう、本文を読ませるという尺度からすると、軍配はちょっと微妙になるかもしれません。

「国際数学オリンピック参加生徒の成績について」とだけ示されていれば、この見出しを見た人は、「で、日本代表のみんなの成績はどうたったんだい」と知りたくなります。その結果を知るためには、本文を読まなければなりません。ある意味、項目的な見出しは読者を本文へと導く性質(というか迷惑さ)があるといえます。

情報時代、おしなべて考えれば、文意的な見出しのほうが、やはり読む人にとっては親切であるといえそうです。

見出しを考える人は、文意的でありながら、さらに文章の中身を読ませたくなるような見出しを捻りだすわけです。人はこれを「キャッチーな見出し」とか「思わせぶりな見出し」とかいいます。
| - | 23:59 | comments(0) | -
落ちない! 雷!!


このところ関東地方では、雷がよく落ちています。きょうも都心を歩いている人たちは、何度も雷鳴と稲光に驚かされていました。

雷に関する情報提供は、インターネットでかなり発達しています。

関東地方では東京電力が「雨量・雷観測情報」というページを掲げています。雷が起きた場所を、12分前まで、24分前まで、36分前まで…と、色わけして表示します。これにより、雷雲が自分のいるほうに近づいているか遠ざかっているか大まかに把握できます。

またウェザーニュース社は「雷Ch」というページを設けています。こちらは全国を網羅。落雷の場所を10分単位にして動画にしています。

「雷が落ちた」といいますが、落ちない雷もあります。

雲が空高くまで上昇気流で上がっていくと、水蒸気が氷結し、あられや氷のつぶなどになります。これらがぶつかりあうときに摩擦が起き、正の静電気と負の静電気に分かれていきます。

正の電気と負の電気がたまると、そこには電流が流れやすくなります。ふつうの大気は電気をとおさない状態になっていますが、電気の正と負の差が限度を超えると…。

ピシャーン!!!!

大気に電気が流れて雷になります。

この、正と負の電気は地面にもあれば、雲の中にもあります。つまり、雲の中で正から負に電気が流れたり、負から正に電気が流れたりすると「落ちない雷」となるわけです。

青空のなか、遠くに立ち上る入道雲を見てみると、雲の中が一瞬シュークリームのように黄色く光るときがあります。これは、入道雲の中で雷が発生しているわけです。

落ちない話でごめんなさい。
| - | 23:59 | comments(0) | -
「15校に1校が破綻」は、なくとも…。


ことし春の私立4年制大学の「定員割れ」が、47.1%にのぼったことを、日本私立学校振興・共催事業団がこのたび発表しました。

この定員割れ率の高さは大学経営にとって過去最悪の状況。入学者が定員の半分にも満たなかった大学も2007年度の17校から12校増えて29校となったそうです。

少子化が進んでいるにもかかわらず、私立4年生大学の学校数はじつは増えつづけています。同事業団によると、2008年の新設私立4年制大学は6校。いっぽう、私立短期大学は5校減少しました。

確実に子どもの数が減っているに関わらず、大学が定員数を減らさないのだから、大学全体としての定員充足率(定員に対する、入学者の比率)が下がっていくのは自明です。

いっぽう、こんな調査結果もあります。

2005年に日本経済新聞社が私立大学トップに「約700校ある4年制大学が今後5年間でいくつ経営破綻するか」といった予測調査を実施しました。

結果は「平均48校」。4年制大学の数からすると、15校に1校が破綻するといった計算になります。

しかしながら、このアンケートを実施してから4年制大学が破綻したのは、0校。

アンケートでは、「冷静に予測する」よりも「窮状を訴える」といった感情面が表に出たのでしょうか。アンケートで大学トップたちが悲観的に泣きを入れたことと、そのご彼らがわが校を潰すまいと涙ぐましい努力をしたこと。この二つでどうにか持ちこたえているというのが実情なのでしょう。どちらも涙、涙です。

あと2年のうちにどたばたと4年制大学が閉鎖に追い込まれていくのでしょうか。

“実例1校目”になることが確実なのが、福岡市の東和大学。定員割れが原因で、2010年3月に廃校になる予定です。今年度の学生が、この大学の最後の学生。教員の多くが解雇されるなかで、まともな教育を受けられなくなった学生たちは1万人の街頭署名を集めて文部科学省に窮状を訴えました。

大学入試を受ける18歳人口は、2010年代後半までは120万人ほどで安定しますが、その後は急激の一途をたどることになります。

日本私立学校振興・共催事業団発表の『平成20(2008)年度 私立大学・短期大学等入学志願動向』はこちら。
http://www.shigaku.go.jp/shigandoukou20.pdf

参考
朝日新聞2007年5月7日「母校が消える 学校法人、相次ぐ破綻」
http://www.asahi.com/edu/university/zennyu/TKY200705070251.html
| - | 23:53 | comments(0) | -
蟹に学ぶはさみの使いよう


きょう「8月3日」は、語呂あわせからいろいろな記念日が考えられます。実際「破産の日」であり、「はちみつの日」であり、「はもの日」なのだそうです。

もうひとつ、語呂あわせから「ハサミの日」もきょう8月3日。美容家の山野愛子さんが仕事道具を大切にしてほしいという願いから、1977年8月3日に東京・芝の増上寺ではさみ供養を行ったのがきっかけといいます。

紀元前1000年ごろには、古代ギリシャのものとされるはさみが見つかっているそうです。古くから使われていたのでしょう。

もののかたちはしばしば自然を参考にして作られるもの。飛行機が鳥を参考に作られたのと同じように、おそらくはさみも蟹などのはさみをもつ動物を参考に発明されたのでしょう。

人が使う道具としてのはさみは、おもに紙などを切るという刃物としての役目があります。蟹のはさみはどうなのでしょう。

蟹のはさみのおもな使い方は、えさとなる生物をつまんだり、つかまえたりすることに使われるもので、切るといった役割はあまりないようです。たしかに、人の使うはさみとちがい、鋭利に研がれた代物ではありません。

けれども、蟹の中には、はさみをより人の使うはさみらしく使う巧者もいるようです。

丸いからだのカラッパという蟹の種類は、右手のはさみだけに突起物がついています。この突起物を、貝の殻にひっかけて「ざくり」と殻を破るのだそう。

缶詰を開けるための缶切りにも、同じくふたのふちをひっかけるための突起物がありますが、それを真似たようなもの。いえ、缶切りよりカラッパのほうが古くから存在していたのでしょうが。

なぜ、右手のみに突起物があるのかについても推測がされています。それは、巻貝がすべて右巻きだったため、右手を“缶切り”として使うほうが便利だからとか…。

「切れないはさみにも使い方はある」という意味の「ばかとはさみは使いよう」は昔からいわれてきました。でも、蟹の生存戦略は、人が思うよりもはるかに優れているのかもしれません。
| - | 23:59 | comments(0) | -
自分のごく近くで起きていると感じにくい。


科学の話では、「それが、自分のごく近くで起きている」と実感しづらいものがあります。たとえばDNAの話などは、つい自分のからだとは切りはなして考えてしまいがちです。

もっと人々が接する機会が多い話だけれど、自分のすぐ近くで起きているとは感じられないものがあります。

天気図の「気圧」です。

新聞や放送などでは毎日、天気図が載っていますね。「太平洋高気圧が張り出しているな」とか「西高東低だから寒いな」とか判断するのに便利です。

ただ、図に記される高気圧の「高」マークや、「1024」などの気圧、また等圧線などを見ても、どうも「空の高いところで繰り広げられていること」と思ってしまいがち。

でも実際はちがいます。気象における「気圧」とは「大気の圧力」のこと。いわば、人の頭上に乗っかる“空気の柱”を考えて、どれだけその人に圧力を与えているかを値にしたものです。気圧は、私たちのからだが受けている圧力なのです。

新聞などで目にするもののほかに、空の高いところで繰り広げられていることを示す天気図もたしかにあります。「高層天気図」です。


高層天気図

「850ヘクトパスカル」や「750ヘクトパスカル」などの決められた気圧が、場所ごとに標高何メートル付近にあるかを示したもの。この高層天気図に記される「3000」などの数字は、高さ(メートル)を示すもの。よって「空の高いところで繰り広げられていること」を示した図といえます。

でも、高層天気図は、ふだんの暮らしではあまりお目にかかりません。

一般的な天気図の気圧が、自分が直面しているものだといまいち思えないのにも、理由がありそうです。

一つは、気圧をなかなか肌で感じることができないという点。台風などの低気圧が近づくと「低気圧頭痛」になる人もいますが、こうした症状はよほど極端な気圧配置でなければ起きません。

また「気圧の谷」や「気圧の尾根」などの用語も、空高くで起きているできごとの印象をあたえます。他の場所よりも大気圧が低いところが「気圧の谷」なので、あながち誤った表現ではありませんが。

なによりの理由は、天気そのものが高いところで起きている現象であるということでしょう。「空模様」ともいいますし。地上が高気圧であれば空は晴れるし、地上が低気圧であれば雨が降ります。重要なのは地上の気圧ではなく、その結果として空から雨が降ってくるかどうかなのでしょう。

天気図の、風向や風力、それに低気圧や高気圧や台風などの進路も、私たちのごく近くで起きていることを示したもの。「そんなこと承知しているわい」という方には筋違いな話だったかもしれませんが、そうでない方は、あすの天気図をそうした目で見てみると、ちょっとふしぎな感じを覚えることでしょう。
| - | 23:59 | comments(0) | -
CALENDAR
S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< August 2008 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで (JUGEMレビュー »)
サイモン シン, Simon Singh, 青木 薫
数学の大難問「フェルマーの最終定理」が世に出されてから解決にいたるまでの350年。数々の数学者の激闘を追ったノンフィクション。
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
amazon.co.jp
Billboard by Google
モバイル
qrcode
PROFILE