科学技術のアネクドート

法廷の科学は真実を語るか(5)


法廷の科学は真実を語るか(1)
法廷の科学は真実を語るか(2)
法廷の科学は真実を語るか(3)
法廷の科学は真実を語るか(4)

前妻と知人の殺人容疑があるOJシンプソン被告側と、彼を逮捕した検察側との間の法廷での闘いが始まりました。この闘いに判定を下すのは、12人の陪審員です。

法廷展開の構図を一言で表わせば、「肩すかしを食らわせた弁護士側と、食らった検察側と、それを見ていた陪審員」というものでした。検察側がもちこもうとした勝負を弁護士側はあえて避け、別の部分で勝負に出たのです。

まず、検察側は、DNA鑑定3機関に犯行現場の血痕などからDNA鑑定を依頼して、その血がシンプソンのものであるという有力な証拠を握っていました。これを陪審員に示そうとしたのです。

ところが弁護士側は、この話に触れようとしません。その代わりに彼らは「証拠管理の連鎖」という、まったく別の問題で、陪審員たちからの信頼を得ようとしたのです。

証拠管理の連鎖とは、法廷における証拠が正当な管理手順を踏んで示されたものか、その一連の過程を示す言葉です。たとえば、砂漠のラリーで、ある人物が他の人たちを大差で引き離してゴールしました。誰の眼からもその人物が一番であることは明らかです。しかし、その人物がまったく同じ模様の車とヘリコプターを用意し、“近道”をしてゴールしたとしたら…。

過程が正当でなければ、結果はまったく意味のないものになってしまいます。

OJシンプソンの弁護士たちは、検察側の証拠については管理手順の点で疑いがあるとして、次々とその問題点を陪審員たちに示しました。例えば…。

「ロス市警は、あまりにも早いタイミングでシンプソン氏から血液を採取している。彼の血液を、現場の血痕として使うするためだったのではないか」

「シンプソン邸の寝室のベッドの下から市警が押収した血染めの靴下について、押収当時は誰も血が付いていることに気づかなかった。それが、なぜ鑑定の証拠になっているのか」

検察側は肩すかしを食らいながらも「靴下が濃い色だったため、血痕を見落としていた」などと反論します。しかし陪審員には、この発言はいいわけに映ったかもしれません。

弁護士側はさらに証拠管理の連鎖での警察・検察側の不手際を指摘します。その中で「ごみからはごみしか出ない」という言葉が飛び出しました。つづく。
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科学散歩 いにしえの心「春はあけぼの」


学校の先生たちに理科の話題を提供する雑誌『サイエンスウィンドウ』で(2008年)5月号から新連載「科学散歩 いにしえの心」が始まりました。この記事に原稿を寄せています。

日本の古典作品を科学の視点で捉え、古の日本人の心に迫るという、温故知新的な内容です。同誌は、理科の先生もさることながら、理科が苦手な先生が理科に興味をもつきっかけを提供しています。この新企画も、国語や歴史そして理科の教科を横断するものです。

1回目のテーマは『枕草子』の「春はあけぼの」。清少納言が綴った「やうやうしろくなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」について、気象学や天文学の眼から、どんな状況だったと推測できるか、科学的解釈を紹介しました。

そもそも古典作品は解釈のしかたも多種多様。読点「、」を入れる箇所のちがいで、解釈ががらっと変わる場合もあります。さらに科学的な解釈を加えるのは挑戦的かもしれません。

しかし、短文や五七五に対して、それを発した表現者たちの気持ちに思いを馳せるのは、想像以上に楽しいことでもあります。その道の専門家に取材をして、その方が披露する解釈を紹介しています。

今回の取材では気象専門家の平沼洋司さんに、また写真協力では『空の名前』著者・高橋洋司さんにお世話になりました。企画は編集長・佐藤年緒さんの肝入りです。

次回は季節がら、「雨」が主題の古典作品に迫る予定です。

雑誌『サイエンスウィンドウ』は、ダウンロードして読むこともできます。5月号はこちらです。
http://www.jst.go.jp/rikai/sciencewindow/pdf/sw0805a.pdf
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書評『大学はなぜ必要か』
大学の存在意義を論じる本。受験、産学連携、情報受信…。いろんな意味で大学を利用したい人におすすめです。こうした本が出版されるのも、社会が大学に関心を寄せている現れでしょう。

『大学はなぜ必要か』学術研究フォーラム編、NTT出版、2008年、p192


ここ数年で大学は大きく様変わりした。孤高な「象牙の塔」は瓦解し、いまや社会に迎合する「サービスセンター」へと化している。

この変化には、社会からの期待や要求、それに監視の目が増したという時代背景がある。研究に税金を投入してきた社会は「金を出す以上、口も出す」として、大学を放っておかなくなったのである。

だが、改めて大学とはどんな場かと聞かれると、大学の中にいる人はまだしも、外側の人は答えづらいだろう。本書は一通り、その答を示している。共著のため「これが大学だ」という総じた結論はないものの、論の積み重ねから大学の役割を浮きぼりにすることはできる。

1章・2章では、学術とは何かを確認した上で、日本の大学の現状をデータなどから客観的に概観する。日本企業は日本の大学に投資せず、学生も海外に比べかなりの私費負担を強いらているようなデータも示される。大学に注目しはじめたはずの世間は、意外と大学に手厳しいようだ。

中心は3章と4章。

3章では「研究と大学」を論じる。本章の筆者はいわゆる「死の谷」問題を「基礎研究と社会還元のあいだにある『足踏み状態』」と表現し、その原因を構造的に分析する。死の谷のできる場所として「探索研究」段階に求めている。

探索研究とは、基礎研究の成果を社会の利益につなげる方法を探す研究段階。“基礎”と“応用”の分かれ目だ。ここには、よく指摘される社会による投資の少なさの他に、基礎研究者と応用研究者のディスコミュニケーションという現実的問題もあるという。基礎研究者は応用研究者を「カネのことばかり考えて」と批判し、応用研究者は基礎研究者を「役に立たないことばかりやって」と見下す。大学に籍をおく筆者の実感のこもった分析だ。組織も人からなることを感じさせる。

いっぽう4章の主題は「教育機関としての大学」。生涯教育の場と化した大学に、“自己投資”のための大学から、“消費”のための大学への変化を感じてしまう。さらに興味深いのは、社会が求めている大学教育とは何かを論じた部分だ。

博士課程まで進むとしても、そこまでの高等教育期間は10年たらず。「企業が求める知識をすべて大学で身につけるのは無理」と切りすてる企業側の声もある。たしかに20歳台後半で企業に就職すれば、その後30年以上の労働年数が待っている。

本章の筆者が書くように、こうした声に対して大学側が強調すべきは、大学は思考を学ぶ場であるという点だろう。大学での専門と就職先でのタスクはかならずしも一致しない。しかし、その人の行動の土台となる発想力や判断力などは、多くの状況で役立つもの。目に見えるものではないが、大学は考え方を身につけることできる場であることを見逃してはなるまい。

最後の5章は「社会の中の大学」の捉え方が示されている。インターネットの発達が、大学と企業の付き合い方、大学と社会の付き合い方に構造的変化をもたらしている点を強調している。研究者が論文をウェブに公開し不特定多数の評価を得ることで、批判の多い同業者評価(ピアレビュー)制度をやめてみては、という大胆な提案も紹介している。

これら議論から、書名の「大学はなぜ必要なのか」という問いに対して導きだせる答は何だろう。評者には「大学でしかできないことができるから」という言葉が浮かんだ。社会をじつは支えている基礎研究しかり(第4章)、目先の利益にとらわれない普遍的な知識・思考の教育しかり(第5章)、知識資本主義の利益の源泉である“新知識”の創造しかり(第6章)。

こうした大学の大学たる部分に対して、研究予算や運営費交付金を配分する国は「社会的利益への直結性が見えない」と冷ややかだ。いまの大学が抱える悩みである。

何に役立つとは言いづらいけれど、いつかは役立つ(かもしれない)。そうした引き出しを大学は多数、社会に与えてきた。大学が大学らしさを維持したいのであれば、大学は「自分たちはなぜ必要か」を社会に示していくしか道はないのだろう。物理学者ファラデーは「生まれたばかりの赤ん坊が何の役に立つのですか」と言ったそうだ。

『大学はなぜ必要か』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/大学はなぜ必要か-学術研究フォーラム/dp/4757141815/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1209310253&sr=1-1
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文章家 星野道夫


故・星野道夫さんについての小さな展覧会「文章家 星野道夫」が、千葉県の市川市文学プラザで開かれています。(2008年)5月25日(日)まで。

シロクマの家族やカリブーの群れなど、動物を中心にアラスカの大自然を撮りつづけた写真家です。同時に星野さんは、数々の旅の記や随筆を遺した文章化でもありました。

展では、星野さんの著書の数々とともに、そこに書かれてある文章をパネルで展示。

「これら星野の文章は、自らアラスカの自然に身を置きながら、アラスカ先住民に流れる神話的世界の時間や歴史をとらえたものであり、星野が感じ取った深い思想を、優しい語り口で語りかけてくれるものとなっています」(同プラザ案内より)

展示のなかで印象深い言葉は、遺稿集『長い旅の途上』にある、つぎの一文。

「きっと、人はいつも、それぞれの光を捜し求める長い旅の途上なのだ。」

人々がそれぞれに歩む人生を「長い旅」と捉え、人それぞれの未来に対して抱いている理想を「光」と表現します。

明日に対して、いまよりも高い理想を、最悪よりは最悪より一歩高い場所を、捜し求める人間の本質を一文に凝縮させています。未来に向かっての希望ある言葉であると同時に、その希望の光に達していない今がいつもあるという浮世観も感じられます。

写真の鮮明な印象に比べて、文章とは地味なもの。しかし文章は、心にじわじわと来る浸透感をもたらします。表現者としての星野さんは、写真と言葉、そのどちらも伝える手段だったのでしょう。

「文章家 星野道夫」は、市川市文学プラザ(市川市中央図書館3階)にて、(2008年)5月25日(日)まで。あす4月28日(月)は休刊です。展覧会の案内を含めた、市川市の星野道夫さん関連情報はこちら。
http://www.ichikawa-hoshino.com/index.html
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よく見かける「効能」


毎月26日はごろあわせから「風呂の日」。なかでも今日4月26日は「よい風呂の日」なのだそうです。風呂の日がさらに強力になった感があります。

ちなみに、2か月後の6月26日は「露天風呂の日」とのこと。

大型連休に「ゆっくりと温泉にでも浸かって」と考えている方も多いでしょう。温泉に行ったとき「効能」の表示に注目することはありますか。

「神経痛、冷え性、疲労回復……」

温泉の成分が、神経痛や冷え性をよくしてくれそうです。

けれども、これら効能は、お湯につかって体が温まったから血行がよくなるということが主な理由。つまり、とりわけ温泉特有の効能を保証しているというわけではないそうです。

温泉の表示は「温泉法」という法律で定められています。決められているのは「温泉の成分」「禁忌症」「入浴又は飲用上の注意」そして「前3号に掲げるもののほか、入浴又は飲用上必要な情報として環境省令で定めるもの」の表示。

ここで、1982年に環境庁(いまの環境省)が温泉成分などの掲示について、掲げることは決まっていても統一性がなかったため、通知を出しています。ここで「療養泉の一般的適応症」という、温泉での一般的な効能の目安が示されたのです。

神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 運動麻痺 関節のこわばり うちみ くじき 慢性消化器病 痔疾 冷え性 病後回復期 疲労回復 健康増進

つまり、これらはどの温泉でも、効能として表示をすることができるわけです。また、アトピーやリウマチなどのほかの症状については、泉質の種類によって目安はあるそうですが、例えば、皮膚疾患などはほとんどの種類で掲示が認められているそうで、基準はおおざっぱ。

実際、環境省は適応症状の決定基準としてこんな文言を述べています。
温泉の医治効用は、その温度その他の物理的因子、化学的成分、温泉地の地勢、気候、利用者の生活状態の変化その他諸般の総合作用に対する生体反応によるもので、温泉の成分のみによって温泉の効用を確定することは困難である。
薬の世界では、単なるでんぷんを渡されても「はい、この病気に効く薬ですよ」と言われると、ほんとうにその病気がよくなるという効果が実証されています。

もちろん温泉には、水を温めただけの家庭のお風呂とはちがった効能もあるのでしょうが「温泉だ。冷え性に効くなー」という気持ちも大切なのかもしれません。温泉の成分と効能の関係の解明は、いまも温泉学でのホットな研究課題のようですから。
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「四国県庁所在地検定」対策


いろいろな検定がはやっていますね。

ポータルサイトのヤフーは、登録者がインターネット上で手作りの検定を課せられる「みんなの検定」という検定提供サービスをしています。

「みんなの検定」から「四国県庁所在地検定」を見つけました。「四国の県庁所在地を当ててくださいね」とあります。

この検定の受験者からは、次のような感想が。

「全○でよかったぁ〜!」

「こんばんは いざ聞かれると考えてしまいますね〜」

感想を見るかぎり、四国の県庁所在地をぜんぶ言うのは、少しだけ難しいのかも。

ではなぜ少しだけ難しいのか。その理由を考えてみました。

まず、県と県庁所在地の対応関係を見てみましょう。

徳島県――徳島市
香川県――高松市
愛媛県――松山市
高知県――高知市

四つの県庁所在地をよく見てみると、こんなことに気がつきます。

「ふたつの県庁所在地に、同じ漢字が使われている事例がふたつある」

つまり、高松市の「高」は、高知市の「高」とおなじ。高松市の「松」は、松山市の「松」とおなじです。

県名と県庁所在地名がいっしょという見方から「徳島県は徳島市」「高知県は高知市」と覚えれば、あとは2県の県庁所在地を覚えればいいだけ。

でも「高知市」と「松山市」に使われている漢字「高」と「松」が、「高松市」でも使われています。これが覚えるときの複雑さになっているのではないでしょうか。

「高松」の由来は、昔この地に背の高い松があったから。東京には、国分寺市と立川市の間にあるから名のついた「国立市」や、大森地区と蒲田地区にまたがるから名のついた「大田区」などの地名があります。

その点「高松」は、「高知」や「松山」とは、地理的にも由来的にも因果関係はありません。偶然の産物が、県聴取在地目の把握を少しむずしくしているようです。
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重たい水


私たちが飲んだり手を洗ったりしている水には種類があります。その種類は、重さによって分けることができます。

ペットボトル商品にもあるように、水は「H2O」という記号で表わされますね。これとは別に、水には「D2O」で表現される種類もあります。

この「D」は、デューテリウムという物質のこと。もうひとつの水「D2O」は「H2O」の「H」が「D」におきかわっただけ。

この「D」を理科教科書の周期表を探してもいっこうに見つかりません。

デューテリウムは、水素「H」の同位体です。同位体とは、原子番号が同じながら重さが異なる元素のこと。つまり、水素の同位体デューテリウムにも「水素」を名乗る資格はあるのですが、独自の名前がついているのです。なぜでしょう。

水素は、陽子1個、中性子0個をもっています。陽子の数と中性子の数を足したものは質量数といわれます。つまり、水素の質量数は、

1+0=1

で、1です。

いっぽう、デューテリウムは、陽子1個に加え、中性子も1個もっています。つまり、デューテリウムの質量数は、

1+1=2

で、2となります。

水素はとても軽い物質。デューテリウムはその軽い物質に比べておよそ2倍もの重さがあります。きょう誕生日の67歳の方と、あす誕生日を迎える66歳のお方の間では年齢の差はわずか1.02倍ですが、きょう誕生日の2歳児とあす誕生日の1歳児では年齢に2倍もの差があります。同様に、水素なのに重さが約2倍もちがうとなれば、別名がついても不思議ではありません。

このようなことで、D2OはH2Oの水よりも重いために「重水」とよばれています。重水には、とりわけエネルギー分野に使い道があります。

原子力発電所には「軽水炉」という原子炉があります。これは、軽水つまり自然界でもっとも比率の高い水を使った炉のこと。

対して「重水炉」という原子炉もあります。この炉に使われるのが、デューテリウムでできた水。

軽水炉の軽水も、重水炉の重水も、どちらも炉心を冷やしたり、原子核で反応している中性子の速度を抑えるために使います。ただし重水はこの中性子を吸収しにくいという性質があります。これは、原子力発電の燃料にするためわざわざ人工的に濃縮させないウラン、つまり天然ウランを処理するのに適しているのです。

私たちがふだん飲んでいる自然界の水にも、デューテリウムでできた重水は入っています。しかしその比率は、水全体に対してわずか0.032%。舌に自身のある方は、重水を味わってみてはいかがでしょう。
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伸び悩みも。日本の太陽光発電


国際太陽電池展も(2008年)2月にはじめて開催され、太陽光発電業界は盛りあがりを見せています。

しかし世界の趨勢の中で見ると、日本の太陽電池製造業や市場の勢いに、かげりも見られます。

ちかごろ雑誌などに大きく報じられた話題は、これまで太陽電池生産量シェア世界一位を走ってきたシャープが2007年度の生産量で、ドイツのQセルズという製造業に首位の座を抜かれたということ。

市場に多く出ている種類の太陽電池には、シリコンという材料が使われています。太陽光発電のしくみは半導体の電気伝導のしくみと基本的に同じ。よってシリコンは半導体にも使われます。

ここ3、4年、そのシリコンは供給不足状態。材料確保で後手に回ったシャープは生産能力の高さを生かせず、生産量が伸び悩んだといいます。いまシャープは大阪府堺市に巨大工場を建設中。巻き返しをはかります。

いっぽう、日本の家々の屋根では、なかなか太陽電池パネルが増えません。2003年から2006年の日本の太陽光発電全体量は、毎年およそ300メガワットで横ばい。

普及が進まない背景には、1994年から続いていた国の設置補助制度が2005年に打ち切られたことがあげられています。

かたやドイツやスペインでは、太陽光発電を始める家庭が急激に増加中。家庭で発電してあまった分の電気を、電力会社が高値で買いとる「フィード・イン・タリフ」という制度が導入されたため。普及のために“太陽電池を設置しないと損をする”しくみを政府が作ったわけです。

日本の太陽光発電は、開発面でも普及面でもこれまで国が引っぱってきました。国におんぶにだっこ状態から自立したほうがしっかりとした市場ができあがるという論がある反面、ドイツの政策を見ならうべきという論も。

いまの状況は、行政や電力会社が費用の負担でむりしないと、市民は太陽光発電を取り入れるうまみがありません。太陽エネルギーを発電エネルギーに変換する効率を技術革新で高め、2030年ごろには、いまの火力や原子力発電なみの費用で発電できるよう、国が目標を掲げています。
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結論を後回し


時は流れゆくもの。話の展開にも順序があります。

きょう(2008年4月22日)山口県光市母子殺害事件の高裁差し戻し判決がありました。10時ごろ、報道記者たちが裁判所から飛び出してきて、息切らせながら第一報を伝えます。

「主文後回しです。きわめて厳しい判決が出ると予想されます」

主文は裁判の結論部。裁判官が主文を後回しにして判決理由から述べると、まず極刑つまり死刑判決になるといいます。きょうの判決もそうでした。

極刑のとき主文を後回しにする理由は何でしょう。最初に極刑を言いわたすと、動揺した被告が理由を聞けなくなるからともいわれます。2審まで抗告の機会がある被告側にとって、判決理由は抗告するかどうかの判断材料にもなります。

極めて重い刑以外の判決では主文が先。裁判の世界では基本的には“結論が先”の文化のようです。

一般社会ではどうでしょう。仕事で“結論後回し”は慎むべきといいます。「あの件はああで、この件はこうで」と話していると、上司から「結論を言えよ」と咎められることもあるでしょう。

でも、実際のところはどうなのでしょう。

「結論を先に言えよ」と言った上司に「部長、商談に失敗しました。提示額が低かったからだと思います」とか「部長、私はむしろB案に賛成です。色味がきれいだからです」と言ってみたら、上司は結論を先に言ったことに満足するでしょうか。

相手にとって事がよいほうに進む返事なら、“結論が先”は相手を安心させるからよいでしょう。お店の店員に「これ、買おうと思ってるんです」とまず言ってからいろいろ注文をつけると、何でも聞いてくれるといいますし。

でも、相手が望まない結果になる返事する場合、“結論が先”は、やはり「頭ごなしに否定しやがって」と感情をさかなでしてしまいかねません。日本語文化圏だけでなく、英語圏でも“ノー”を言うための方法として“イエス、バット…”があるといいます。

もはや裁判では「主文後回し、すなわち極刑」(例外もあるようですが)。それでも“結論が先”としないのは、受け入れる人に心の準備をさせるといった効用もあるからではないでしょうか。そして一般社会でも似たことがいえるのではないでしょうか。
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台風を逸らす。地震を散らす。


ある研究者たちの会合で、一人の研究者がこんな疑問を口にしました。

「防災の技術は発達してきたけれど、そもそも地震や台風自体を散らしたり逸らしたりする技術は研究されていないのか」

「自然現象を人為的に操作するとは」との声もあるかもしれません。でも、災害をおこす原因の核心をどうにかしようという考えは、あってもおかしくない盲点かもしれません。

台風の操作とまではいかずとも、北京五輪を控えた中国はいま、開会式で雨を降らせない技術に真剣に取り組んでいるとか。北京は夏が雨の季節。年間降水量の75%が夏に集中するそうです。そのため、すでに使われている人工降雨技術を応用して、今度は雨を降らせないようにしようとしています。

この技術が発展して台風のゆくえを操作するところまでは至らないでしょう。もし、技術革新で可能になった場合も、国どうしの気象紛争が起こるおそれがあります。例えば日本でも、広い太平洋側に台風を移動させるのはまだしも、朝鮮半島のほうに移動させるとなると、国際問題に発展しそうです。

いっぽう、地震のほうはどうでしょう。地震は、少しずつ動いているプレートとプレートのひずみが大きくなり絶えきれなくなると、エネルギーが一気に解放されて大地震が起きます。

この大地震を散らすためには、どんな方法が考えられるでしょう。例えば、プレートどうしのひずみが大きくなっている現場まで行き、そこで少しの刺激を与えるなどして、段階的にひずみのエネルギーを解放してやる、といった技術になるでしょうか。

しかし、東海地震をとっても、地震の震源地になると考えられているフィリピン海プレートは、海底あるいは本州の地下深く。そこまでたどり着いて、かつ何かの操作をするとなると、やはり大変そうです。

扱う相手が、多くの被害をもたらす台風や地震だけあって「夢の技術」とはいいがたい面も。実現すれば、よろこぶ人がほとんどでしょう。でも「生命倫理」と同じく、「地球倫理」などの言葉も生まれてくるかもしれません。
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神宮球場のカレーライス――カレーまみれのアネクドート(6)


野球にはドーム化の波。そんななか東京の神宮球場は、いまも空の下で野球観戦ができる球場です。

会社員の中には、ビアガーデン代わりに神宮球場を使っている人々もけっこう多いとか。ビールに肴を買って、観客席で同僚たちとわいわいやれば、球場がビアガーデンに。野球観戦というおつりまでついてきます。

3時間強の野球観戦はかなりの長丁場。ビールを飲むだけではさすがに手持ち無沙汰。そこで登場するのが食べ物たち。もちろん野球場の定番「カレーライス」があります。

ただし、さすがに売り子さんもカレーライスの用意はなし。客席裏側の売店まで足を運ばなければなりません。

攻撃と守備の合間にさっと買ってぱっと戻ってこれれば最善ですが、他のお客も考えることは同じ。この時間だと行列ができています。次善の策は、応援球団が守備についているとき。これならばファン選手のホームランを見のがすこともありません。

さてカレーは、小麦粉をたくさん使ったもの。“さらさら”とは逆、“とろり”としたルウです。これも、右手にビール、左手にカレーを持った客がルウをこぼさないような配慮なのでしょうか。

ルウの味は、とりわけ辛くもなく、かといって甘ったるくもなく。サラリーマンから家族づれまで、すべての客のことを考えての辛さなのでしょう。ごはんは少しもちもちとしています。

野球場のカレーは、腹を満たせばそれだけでよいか。そうではありません。人は同時にふたつ以上の感情をもつことはできないといいます。応援チームが負けていても、カレーがおいしければそのときは幸せな気持ちになれるというもの。

神宮球場のカレーライスは600円。大盛りは680円です。
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石鹸がすり減って小さくなったら…


石鹸は消耗品の代表格。使っていると、どんどん小さくなっていきます。

小さくなった石鹸は、なかなか泡立ちませんね。どうしてでしょう。

石鹸は、動植物の“油分”に、水酸化ナトリウムなどの“アルカリ”を混ぜて煮てつくるもの。この“油分”には、やわらかくてよく泡だつオレイン酸や、かたくて泡だちにくいステアリン酸といった成分が含まれています。これらを均衡よく配合することで、石鹸は作られています。

ところが石鹸を使いつづけていると、場合によってはこれら成分の均衡が崩れていってしまいます。オレイン酸などの泡だつ成分が先に流れ出てしまい、残されたのはステアリン酸などの泡だたない成分だけに。なので、薄っぺらくなった石鹸をごしごししても、あまり泡が出てこないのだそう。

では、どんな場合、泡だちにくい石鹸になってしまうのでしょう。それは、石鹸を水に濡らしたまま放置しておくことだといいます。たしかに石鹸は水に溶けやすいですから、やわらかいオレイン酸から溶け出てしまいそうです。

ところで、小さくなった石鹸をどうしていますか。嘉門達夫は「新しい石鹸の上に貼付ける」と歌っていますね。でも、こんな“再生法”があるといいます。

小さくなった石鹸を捨てたりせず、いくつかためておきます。そして、小皿にそれらを少しの水とともに入れて、電子レンジで2分ほど“チン”します。すると、小さくなった石鹸どうしが溶けていきます。

電子レンジから取りだして熱くなくなったら、手で形を整えることもできます。こうして、小さな石鹸たちは、ふたたび独自の形をした石鹸に生まれかわるのでした。

参考ホームページ
http://www.live-science.com/honkan/qanda/basic06.html
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長さはメートルだけでなし。


長さの単位といえば、日本では「センチメートル」や「メートル」、「キロメートル」など。メートルは「1秒の299792458分の1の間に光が真空中を伝わる距離」と決められているとか。

いっぽう、英国は2000年に公的には使用禁止となったとはいえ、米国などの英語圏では「フィート」や「ヤード」がいまも使われています。

でも、科学の世界の長さの単位はそれらだけにとどまりません。それぞれの分野にあったそれぞれの長さの単位があるものです。

科学においてよく知られている長さの単位といえば「光年」でしょう。光が一年に進む距離のことで、9兆4605億2840万キロメートル。国立天文台のすばる望遠鏡は、地球から128億光年はなれた銀河の光を捉えています。つまりこの光は128億年前の宇宙で放たれたもの。

生命科学、とりわけ遺伝子の分野でも独自の長さの単位が使われています。たとえば「センチモルガン」。1センチモルガンは、染色体上の離れた位置にある2遺伝子が組み換えを起こす確率が1%である遺伝子間の距離のこと。ヒトでは1センチモルガンは0.022センチメートルになるという計算もあるようです。

写真を撮るとき「はしっこの君、あと1000センチモルガン真ん中に寄ってくれないかなぁ」と言ったらどうなるでしょう。受けのよい生命科学の研究チーム以外からは「は…」と、聞き返されそうです。

また、遺伝子の分野では“kb”と書く長さの単位もあります。情報工学では「キロバイト」でしょうが、遺伝子の分野では「キロベース」。ベースとは「塩基」のことで、キロがつくから1000塩基の距離のこと。さらに100メガベースは100万塩基のことを指します。

単位とは、ある量を表すとき、比較の基準とする量の名前のこと。長さ一つとって見ても、量を表わすときに場合によって、いろいろあるものですね。光年とキロベースの単位換算表が使われる日は来るでしょうか。
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後期高齢者医療の盲点


「後期高齢者医療制度」が始まって半月ほど。(2008年4月)15日には、年金からの保険料天引きも始まりました。

「高齢者に“後期”とはけしからん」という声もあり、「長寿高齢者医療制度」という名も併用状態。制度代わり期の混乱を示しています。

2006年の国民医療費は34兆円ほど。うち高齢者の医療費は11兆円といわれ、なかでも後期高齢者一人あたりの医療費は、現役世代の5倍といわれます。

後期高齢者の医療費がふくらむ背景には、体の具合があちこちで悪くなるといった、避けがたい生物の現象がありましょう。

でも、あまり知られていない遠因もあるようです。取材をした医者から聞いた話によると、後期高齢者医療には治療の根拠となるデータがあまり揃っていないのだそうです。

医学上の後期高齢者は80歳以上(75歳以上を後期高齢者とし、80歳以上を超高齢者とする場合も)。その80歳以上の方を対象にした医学試験は、母数が揃いにくいなどの理由からあまり取り組まれてこなかったといいます。

となると治療の方針を決めづらくなります。

たとえば、若い世代から70歳台まで「こうするとよい」という一貫した治療方針が確立されている病があるとします。

しかし、80歳を超えると、生物学的な体の機構も変わってくるでしょう。その一貫した治療方針を、後期高齢者にも当てはめてもよいのかどうかは難しいところ。80歳のお年寄りに対して、動脈硬化で固くなった血管を治療したほうがよいのかどうかといった問題です。

治療の判断には、やはり大勢の後期高齢者を対象にした疫学的調査が頼りになります。海外で「80歳以上の方にも高血圧治療を積極的に行うべき」という医学的根拠が示されたのは、つい最近のことと言います。

とうぜん「後期高齢者にはこうすればよい」という治療方針の決め手があるほうが、治療の手間も費用も少なくて済むでしょう。

このところ、医療は「医者個人の経験にもとづく医療」から「医学的根拠にもとづく医療」に移ってきているといいます。後期高齢者に対する医学的根拠の不足は、意外な盲点かもしれません。
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少年よ、大志を抱け。


「ボーイズ・ビー・アンビシャス」は、いまも多くの日本人の琴線に触れる檄文。今どきの高校生たちは「ソフトバンクごっこ」で「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と言っているとか。

米国の農学博士ウィリアム・クラークは、マサチューセッツ州立大学の学長任期中、同志社大学の創始者・新島襄の仲介で日本政府から北海道開拓のため技術指導に来てくれるよう要請を受け、1976年7月、北の大地を踏みます。

役職は札幌農学校教頭。わずか8か月の滞在でしたが、クラークは「すべての人々が各自の運命を向上させるため」と、農業を志す開拓民に農学を教えました。

「少年よ、大志を抱け」は、クラークが札幌農学校を去るとき、学生への挨拶で発されたもの。いくつかの逸話も残されています。

クラークは、もちろん「少年よ、大志を抱け」とだけ言ったわけではありません。全文は「少年よ、この老人のように、大志を抱け」だったといいます。クラークの別れの挨拶を聞いていた農学校1期生の大島正健が、のちの学校創立記念式典の講演で「クラーク師はそうおっしゃった」と披露したとされます。

「少年よ、この老人のように、大志を抱け」には続きがあります。

「金銭のためでなく、個人の出世のためでなく、人が名声と呼ぶはかなき目的のためでなく。人としてあるべきすべてを求める大志を抱け」。まさにクラークが日ごろから心に抱いていた思いなのでしょう。

さらに、あまり知られていませんが、クラークは札幌農学校での別れの挨拶より前にも「少年よ、大志を抱け」と言っていたようです。

それは北海道を訪れる直前。マサチューセッツ州立大学を離れるとき、学生に「少年よ、大志を抱け」と話していたといいます。

クラークは米国の南北戦争に大佐として参加。頭上を銃弾がかすめ、軍服がぼろぼろになる経験をしていました。「でも、なんとか戦禍を逃れ、無傷で帰還できた」。

「少年よ、大志を抱け」には、戦争の勝負よりも大きな目標をもて、というクラークの思いがあったのかもしれません。

きょう(4月16日)は、ウィリアム・クラークが、札幌農学校の教え子に対して「少年よ、大志を抱け」と挨拶した日です。131年たっても古びません。

参考ホームページ
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,892198,00.html
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日本の花


「フォアローゼズ」というバーボンがあります。四輪の薔薇(フォア・ローゼズ)をあしらった目印。

ポール・ジョーンズという人物が舞踏会で一目惚れした女性に求婚すると、相手は「お受けするなら次の舞踏会に薔薇の花飾りをつけてまいります」と返事。果たして、その女性は次の舞踏会で薔薇の花飾りを付けてきました。酒造りをしていたジョーンズはこのできごとから、新しい酒に「フォアローゼズ」の名をつけたといいます。

こういう逸話を聞くと、薔薇とは西洋のもので、文明開化のころ日本に輸入されてきた花とつい思ってしまいます。高島屋の紙袋に印刷されている薔薇とかも、どこかハイカラな感がありますし。

けれども、花の歴史にくわしい方から聞いた話、薔薇は日本原産の花でもあるのです。

人生の苦難をたとえた「茨の道」などと表現されている「茨」は、野生の薔薇のこと。日本でも古から見られた種がいろいろとあります。

たとえば、アズマイバラという種は日本原産。花径3センチほどの白い花を咲かせます。アサガオのように他の植物に寄りかかります。

日本の海岸でよく見られるハマナスも日本原産の薔薇。「浜梨(はまなし)」がなまってハマナスとよばれるようになりました。

江戸時代にも、薔薇は園芸用として栽培されていたようですが、本格的に愛でられるようになったのは明治以降から。千葉県習志野市にあった谷津遊園は、かつて薔薇園として「東洋一」とよばれるほど。街の人々は毎年、薔薇園や百貨店などで催される薔薇の展覧会が開かれることを楽しみにしていたと言います。

ちかごろの薔薇の話題といえば「青い薔薇」の開発でしょうか。サントリーが豪州カルジーンパシフィック社(現フロリジン社)と共同でおよそ15年をかけて青い薔薇を完成させました。

ペチュニアという青い花を咲かせるナス科の植物や、スミレ科のパンジーのを組み入れるなど試行錯誤を重ね、青色色素デルフィジニンを薔薇の花の色に加えていく研究が進められていきました。

そして2004年に青い薔薇の発表。今年2008年には遺伝子組み換え作物である青い薔薇が生物多様性に影響しないことを示し、農林水産省と環境省から販売許可を得ました。サントリーは2009年の青い薔薇の販売を予定しています。

もともと青色色素が存在しなかったために「青い薔薇」は「不可能、あり得ない」という比喩に使われていました。しかしそれが可能なものとなり、「奇跡」という花言葉になったそうです。

とはいえ。フォアローゼズの琥珀色にはやはり深紅の薔薇がお似合い。青い薔薇は、どのような状況で差し出されるようになるのでしょうか。

日本原産も載っている、日本ばら会のホームページ「ばらの品種図鑑」はこちら。
http://www.barakai.com/variety/07.html
サントリーのホームページ「『青いバラ』の開発に成功!」はこちら。
http://www.suntory.co.jp/company/research/hightech/blue-rose/index.html
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顔がにやけたケロンパ


「さびの部分が日本語に聞こえる洋楽の歌詞」で思いあたるふしがふたつほどあります。

ジプシー・キングスというフランスのバンドが1980年代なかば「ジョビ・ジョバ」という曲を出し、日本でもよく聴かれました。

ラテン音楽の乗りで、弦楽器をもったメンバーが、さびの部分をこう歌います。

Djobi Djoba Cada dia te quiero ma'
ジョビ ジョバ カーダ ディア テ ケローマ

けれども、多くの日本人には次のように聞こえたようです。

ジョビ ジョバ 顔がにやけたケロンパ。

実際に日本のバンド「ジ・アルフィー」がラジオ番組で、わざと「顔がにやけたケロンパ」と歌っていた覚えがあります。

この歌詞はスペイン語に訳せるそうです。Djobi Djobaは枕詞のようなもので大した意味はなし。「Cada dia te quiero ma'」は「日増しに君を好きになる」という意味になるそうです。情熱に満ちた歌詞も、日本人には「ケロンパ」と聞こえていたのでした。

ちなみに「ケロンパ」は女優うつみ宮土理さんの愛称。「ロンパールーム」というこどもむけ番組の「おねえさん」役がケロッとした感じだったため、俳優の前田武彦さんが「ケロンパ」と名付けたそうです。

ロンパールームでケロンパことうつみ宮土理さんの顔がにやけた可能性はけっして皆無ではなし。この歌は、ユーチューブで聴くことができますから、そう聞こえるか試してみては。

また、スノウというレゲエ歌手が1990年代前半「インフォーマー」という歌を出しました。この曲も日本のエフエム放送などでよく流れていました。

この歌で何度もくりかえされる歌詞は…。

A licky Boom Boom Down.
ア リッキー ブン ブン ダウン

でも、かなりの日本人には次のように聞こえたようです。

兄貴ぼんぼんだーよん。

この「インフォーマー」の歌詞は英語。ただし「A licky Boom Boom Down.」には、なんの意味もなく、ただ何度もくりかえされるだけの歌詞です。この歌もユーチューブで聴くことができます

ちなみに「ぼんぼん」とは、家柄のよい若旦那のことを指す京ことば。「ぼんち」などと同じ意味です。

「兄貴がぼんぼん」という状況は考えられるでしょうか。血のつながった弟が兄のことをぼんぼんというのは変。兄弟で家柄のよさが異なることはめったにありません。

でも「兄貴」が、兄弟ではなく仲間うちの兄分肌の人物であれば、家柄がよく面倒見のよい兄ちゃんのことをしたって、弟分が「兄貴ぼんぼんだーよん」と言う可能性はありえます。

「さびの歌詞が日本語に聞こえる曲」は、洋楽の歌が日本で流行るかどうかの重要な要因のひとつだとか。上の2曲は偶然の産物でしょうか。それとも…。

「顔がにやけたケロンパ」と聞こえるかもしれない、ジプシー・キングスの「ジョビジョバ」はこちら。
http://jp.youtube.com/watch?v=3aZZRjrs-rs

「兄貴ぼんぼんだーよん」と聞こえるかもしれない、スノウの「インフォーマー」はこちら。
http://jp.youtube.com/watch?v=NtILxBszyf8
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ホネケーキ工業


大阪府の茨木市の国道171号線を高槻方面に向かい走っていると、気になってしかたがない看板が見えます。

「資生堂ホネケーキ」

「ギャートルズの骨つき肉のような“骨つきケーキ”をつくるとは、資生堂もやるものだ」と感心していたら、そうではありませんでした。

いまは工事中なのですが、ホネケーキをつくっている資生堂ホネケーキ工業のホームページを覗くと、英語で「Honey Cake」と書いてあります。



「ハニーケイク」が「ホネケーキ」に。同社のお品には、はちみつが配合されることがあるそう。たとえば「パラディッソ」という石鹸には、最高級ピュアバージンハチミツの「ジュゼッペ・コリーニオ」が含まれているそうです。

1954年に創業したときの会社の名は「三生社」で、「資生堂ホネケーキ工業」になったのは1983年。「アメリカン」を「メリケン」、「ブックキープ」を「簿記」と言いはじめた時代に比べればそう古くはありません。

社の名前を付けた方のローマ字読み主義でしょうか。もしくは「ホネケーキ」の商標がかなり昔から使われていた名残という線も考えられます。

もうひとつ。神奈川県川崎市を走るJR南武線の向河原駅近くにあります。

「新島ヘラシボリ」

「ヘラシボリ」。これは、ものつくりに携わる方にはかなり知られた技術。金属の板をろくろのように回して型をおしあて形をつくることです。

これも「ヘッダーショベル」などの英語が付いているではとおもっていましたが、英語では「スピニング」だそう。「ヘラシボリ」は「へら絞り」とも。

以前の記事で、東京のものつくり街・大田区にもヘラシボリを専業とする会社があると書きました。

全国のヘラシボリ業を調べてみると、「新島ヘラシボリ」のほかに、「高桑ヘラシボリ製作所」(東京都大田区)、「磯崎ヘラシボリ製作所」(東京都墨田区)、「協和ヘラシボリ」(東京都葛飾区)など、いろいろ見つかります。電灯の傘や灰皿にもヘラシボリの技術が使われるといいます。ヘラシボリ。私たちの暮らしとけっこう密接しています。

ちなみに資生堂ホネケーキ工業製の石鹸を米国アマゾンで買うことができます。
http://www.amazon.com/dp/B000JJHCB2?smid=AHKB0XJ08EHNW&tag=dealtime-hpc-20&linkCode=asn
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(2008年)4月19日(土)は筑波宇宙センター特別公開


(2008年)4月19日(土)は筑波宇宙センター特別公開

49回目の科学技術週間が(2008年4月)14日(月)からはじまります。20日(日)まで。

つくば市の宇宙航空研究開発機構では、「筑波宇宙センター特別公開」が19日(土)に開かれます。土井隆雄宇宙飛行士が国際宇宙ステーションに取りつけた日本実験棟「きぼう」の実験室の公開などが主な催しもの。

中学3年生までを対象にした「水ロケット教室」も開かれます。宇宙やロケットに関心のある親子などにはよく知られたロケットでしょう。

空のペット容器を三つほど用意して、はさみで切り込みを入れ、テープでつなぎ合わせます。さらに別のペットボトルなどで翼を側面に取りつけます。さらに、自転車チューブについた金属弁を噴出装置として取りつけ。

河川敷や校庭など広い屋外で飛ばします。水と圧縮した空気を容器のなかにいれて、一気に弁を解放させると、勢いよく空に向かって飛んでいきます。

火薬を使わないことから、比較的安全とされ、子どもたちがロケットに興味をもつきっかけにもなるでしょう。同センターは、工作と打ち上げともに行う回と、打ち上げのみの回をそれぞれ、午前と午後に開く予定とのこと。

2008年の宇宙航空研究開発機構筑波宇宙センター特別公開は4月19日(土)。おしらせはこちら。
http://www.jaxa.jp/visit/tsukuba/img/topics_20080227.pdf
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書評『不思議宇宙のトムキンス』
読み返したくなる本があります。肩を凝らさずに読めて、かつ大まかな話の流れは覚えているぐらいの本が、読み返したくなる本にふさわしいのでしょう。紹介する本は、おあつらえむけ。

『不思議宇宙のトムキンス』ジョージ・ガモフ、ラッセル・スタナード著、青木薫訳、白揚社、2001年、253ページ


1940年に発行された『不思議の国のトムキンス』の改訂版。改訂前の設定や登場人物はそのままにして、最低限の改変をしている。改訂版では主人公トムキンスの老け顔が改善されるとよかったけれど…。

すやすやと居眠りしたり、頭をぶつけたり。そんなことがきっかけで、トムキンスはしばしば夢を見る。夢の中では、原子核物理学の父アーネスト・ラザフォードに似た老人、量子力学の貢献者ポール・ディッラックに似た男、はたまたホームズという名の探偵まででてきて、トムキンスと空想の世界を繰り広げる。

この夢の中の話は、電子が原子核のまわりで踊ったり、水の中で陽電子の泡がぶくぶく発声したりと比喩表現の宝庫。科学のしくみを説明させられる感がなく、むしろ読者自身もトムキンスの空想世界に浸かってしまうだろう。

いっぽう、トムキンスの義理の父「博士」による講義のほうは理路整然。よく練られている。難しい科学の話をどう伝えるかの手本となる名講義の数々だ。

物理を好きになった人物が、子ども時代をふりかえって、「内容はあまり理解できなかったけれど、何々の本が好きだった」と話すことがある。『不思議の国のトムキンス』はその代表格だった。そして、改訂された『不思議宇宙のトムキンス』も、将来の物理学者が手にとるにふさわしい本だ。

『不思議宇宙のトムキンス』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/不思議宇宙のトムキンス-ジョージ-ガモフ/dp/4826901038/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1207928790&sr=1-1
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“本番”への想像訓練


運動選手は試合まえ、本番でみずからが活躍しているすがたを想像して本番にのぞむといいます。

なにか催しものを開く人たちは、詳しい進行表をつくり「何時に何々さんはお弁当をとりに行って。何時に何々くんはお客の応対をはじめて」というふうに当日の進行にそった事前うちあわせをします。

いずれも本番に備えた、想像力を働かせた心の準備ということができます。

“本番”の状況を想像することは、地震などが起きたときの防災にも役立てられるのではないか。こうした考えから「図上シミュレーション訓練」という、災害への備えかたが提案され、実践されているといいます。

日本赤十字社の『災害救助図上シミュレーション訓練実施マニュアル』によると、図上シミュレーション訓練とは「参加者が、地図を使用しながら、災害発生後の応急対策について時間経過を追ってシミュレーションする、極めて実践的な訓練」。また、救助などの実際的な訓練との対比から「頭の訓練」とも。

実践方法のひとつが「DIG(Disaster Imagination Game、災害想像力ゲーム)」とよばれるもの。市民などの参加者が、大きな地図を取りかこみ、街の自然条件や都市構造を改めて知ります。すると、街の災害に対する強さや弱さが見えてくるので、それをふまえて災害につよい地域づくりの方法を議論・発表します。

こうした図上シミュレーション訓練を行うことの利点は何でしょう。大きな点としては、模擬体験を頭ですることで災害の像を頭のなかで描くことでしょう。ほかにも訓練をすることで災害時のネットワークが強化されたり、訓練結果を防災計画に反映させることができたりといったことも考えられます。

(2008年4月)2日、政府の中央防災会議は、震度6強の首都直下地震が起きたときの「寄託行動シミュレーション」を発表しました。「あちこちの道路が満員電車状態」となり、「そのような状態に3時間以上巻き込まれる人が、全域で約200万人」という概要を示しています。

会社づとめの人などは、家のまわりだけでなく、帰り道についても図上訓練をするとよいのでしょう。大震災にむけてもイメージトレーニングが大切。しかも“本番”はいつ起きるかわかりません。

日本赤十字社の「災害救助図上シミュレーション訓練実施マニュア」のホームページはこちら。
http://www.jrc.or.jp/active/saigai/manual/saigai.html
内閣府の「首都直下地震時の帰宅行動シミュレーション結果の公表について」はこちら。
http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/shutohinan/080402/080402kisya.pdf
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サイモン・シンさん近著の主題はホメオパシー


『フェルマーの最終定理』『ビッグバン宇宙論』などを書いてきた科学ジャーナリストのサイモン・シンさんが(2008年4月)9日、ニュースレターで近著の紹介をしています。

書名は『Trick or Treatment? Alternative Medicine on Trial』。直訳すると『錯覚か治療か? 試されている代替医療』。

「同毒療法」ともいわれる「ホメオパシー」を扱ったもの。患者がかかっている病気とおなじ症状を引き起こすような物質を、ごくわずか体に入れることで、逆に病気をなおそういう考え方です。

マラリア患者に、アカネ科の高木キナの皮を煎じて飲ませると高熱が下がるという話があります。このキナの皮の成分を健康な人が飲むと、マラリアとにた悪寒、発熱、脱水などの症状が起きてしまいます。ホメオパシーは「毒をもって毒を制す」療法といえます。

ホメオパシーなどの、通常の医療とちがう医術は「代替医療」とよばれます。漢方や鍼灸、指圧、アロマセラピーなどもその部類に入ります。

『錯覚か治療か?』という書名にもあるように、ホメオパシーにはこれまで疑いの目も向けられてきました。大きな理由は、科学的根拠がないこと。最近よく聞く「根拠に基づいた医療」の考え方に逆行します。

サイモン・シンさんは本のねらいを「各種代替療法にまつわる科学的根拠を調べ、何が効きて何が効かないのか、また何が安全で何が危険なのかを明らかにすること」としています。

今回は内科医エドザード・エルンスト教授が共著者。雑誌『灌流(Perfusion)』と『代替・補完療法(Alternative and Complementary Therapies)』という2誌の主幹編集者です。

サイモン・シンさんの心中には、前作『ビッグバン宇宙論』を最後の著作にする思いもありました。しかし「代替医療というものに取りつかれ、ふたたびペンを取ることにあらがえなかった。この問題は重要であり、挑戦を拒むことはできなかった」と、4作目を書いた理由を示しています。

ニュースレターによると、英国で4月21日に発売。米国では8月。その後、各国で翻訳がなされるとのこと。邦訳版が出ることもまちがいないでしょう。

サイモン・シンさんのホームページはこちら。
http://www.simonsingh.net/

2008年4月21日発売『Trick or Treatment? Alternative Medicine on Trial』(英国版)は、こちらで。
http://www.amazon.co.jp/Trick-Treatment-Simon-Singh/dp/0593061292/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=english-books&qid=1207762069&sr=1-2
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アルキメデスの公理


古代ギリシャの数学者アルキメデスといえば「アルキメデスの原理」が有名。

「固体の全部または一部を流体中に浸すと、それが排除した流体の重さに等しいだけの浮力をうける、という原理」(『広辞苑 第5版』より)

シラクサの政治指導者ヒエロンが金細工師に作らせた“純金”の王冠が、純金ではないのではという疑惑が浮かんでいました。ヒエロンはアルキメデスに「王冠が純金かどうか壊さずに調べるように」と命じました。

風呂に入っていると、不意にアルキメデスは解決策の示唆を得て、「わかったぞ」と叫びながら裸で街を走りまわったといいます。

落ちつきをとりもどしたアルキメデス。疑惑の王冠とおなじ重さの金塊を、水をひたひたにはった二つの容器にそれぞれ入れたのでした。すると王冠のほうが金塊よりも水が多くあふれるでは。これで、王冠は金より軽いものが多く混じっているということが明らかになったのです。王冠の金を削り別の材料を混ぜた金細工師は、すぐに処刑されたとか…。

「原理」とはものごとの根本的な法則のこと。いまも通じる原理を思いついたアルキメデスはすごい人といえます。

でも、アルキメデスの実績はそれだけではありません。逸話がなく地味ながら、彼の名のつく業績が数学にもあります。

それは「アルキメデスの公理」。

数学とは、証明で導きだされた「定理」を積みかさねて、新発見をする学問。でも、証明の根源をつきつめると「あたりまえすぎて証明するまでもない」という段階に達します。このときの「あたりまえ」が「公理」とよばれるもの。たとえば「a=bなら、a+c=b+cである」は公理のひとつ。「2=2なら、2+1=2+1」はあたりまえですね。

アルキメデスの公理は、「a、bを正の数とすれば、aがどんなに小さく、bがどんなに大きくても、b<naとなる自然数nが存在する」というもの。

例えば、aが1で、bが100,000,000,000,000(100兆)だとしても、nが100,000,000,000,001なら、

b=100,000,000,000,000
na=100,000,000,000,001×1=100,000,000,000,001

となり、

b<na 100,000,000,000,000<100,000,000,000,001

が、なりたちます。アルキメデスの公理は諺「塵も積もれば山となる」でよく喩えられます。「aという塵をいくつも掛ければ、いつかはbという巨大な山をしのぐ」ということです。

アルキメデスの公理を最初に記録した人物は、古代ギリシャ時代の数学者クニドスのユードクソス(紀元前400-紀元前347年)。また、「アルキメデスの公理」ということば自体は1883年、オーストリアの数学者オットー・シュトルツ(1842-1906)により使われたとのこと。

グーグルの検索で調べると、「アルキメデスの原理」は17,600件の該当数に対して「アルキメデスの公理」は1,210件。

逸話のつきの科学話は、逸話なしよりも後世まで語りつがれるということかもしれません。
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芸能人が科学を紹介。


きょう(2008年4月7日)テレビ朝日系列で「芸能界かがく部」が放送されました。関西では8日未明の放送です。

『テレビ3面記事 ウィークエンダー』に似たつくり。芸人が報告者となり、他のゲストが知らないニュースを紹介します。映像よりフリップ・チャートによる絵解が中心。春の番組いれかえ時の“つなぎ”的番組のようです。

紹介された科学ニュースは、土井隆雄宇宙飛行士による実験棟「きぼう」の国際宇宙ステーション取りつけ、クジラの進化系統をさかのぼるとアライグマのような動物「インドハイアス」にたどり着くという新説、そして山中伸哉教授による新型万能細胞遺伝子の発見。

説明にかなりの省略があったものの、科学ニュースをごく簡単におさらいするには適っていたでしょう。

出演した芸能人たちのおっかなびっくりな進行ぶりが印象的。「科学番組だからといって不安にならないでください」と言った司会ロンドンブーツ田村淳さんは不安顔そのもの。山本モナさんも「クジラっておっぱい出るんですか」と珍質問。

芸能人が科学を紹介することには、正確さが確保されないなどの否定論もあります。評論家の立花隆さんは「科学自体がおもしろいものなのだから、有名人を使ってショウ化する必要はどこにもない」と言います。

でも、新しい科学の伝え方の試みとして評価したいところ。科学に興味ない人が興味をもつ入口として「芸能人から入る」手法は有効だからです。科学コミュニケーターを名乗る人がおなじ番組に出演しても、視聴率はさほどとれないでしょうし…。

単発番組とはいえ、民間放送で科学ニュースを全編にわたり扱う番組はまれ。市民の科学への関心ぶりを反映してのことでしょうか。
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サイエンス映像学会、設立される。


きょう(2008年4月6日)、「サイエンス映像学会」の設立総会と公開シンポジウムが東京大学弥生講堂で開かれました。

サイエンス映像学会は「科学リテラシーの向上・発展のために、教育現場などにおける映像・イメージ等の利用を促進し、生命・地球・宇宙の持続可能な発展と創造的で豊かな個人と社会づくりに貢献することを目指す」学会。

午前中の総会で、会長に解剖学者・養老孟司さん、副会長に元NHKプロデューサーで科学ジャーナリスト塾塾長の林勝彦さんらが正式に選ばれました。

公開シンポジウムでは、ノーベル化学賞受賞者・白川英樹さんらが講演。白川さんは、老若男女に開かれた学会であってほしい、虚像に頼らない実像を目指した映像づくりを目指してほしい、視覚障害者と映像の関係も研究対象にしてほしいという三つの提案をしました。

ほかに「学会」ということで、映像媒体に関する研究発表も。国立天文台の永井智哉さんが、宇宙の全天体を4次元で自在に見ることのできる「ミタカ」という映像サービスを紹介するなどしました。

きょう時点で会員数はおよそ250人。学会という組織は「会員が200人を超えることが“一人前の学会”と思われる条件のひとつ」(同学会事務局長)。科学映像に対する期待の高さのあらわれでしょう。

参加者からは課題も聞かれました。大きなものは「科学映像」なのか「映像の科学」なのか、学会の対象がはっきりしないというもの。学会名「サインエス映像学会」からは「科学映像」の学会と考えられます。いっぽうシンポジウムの題は「『映像を科学する』発展への夢」。

実際、テレビの科学番組に見られるような「科学の映像」を語る講演者と、科学をテーマとしない映像を科学的に見ようとする「映像の科学」を語る講演者がいました。

背景として、運営者にも両方の見方があるということがあげられます。「両方あってもよいとは思う」という会員の声も。しかし議論があまりなされないままの「両方あり」は、あいまいに過ぎる感も。これから議論が求められるでしょう。

また、子どもから大人まで幅広い学会員を対象とするため「どの学問レベルで話すべきかが難しかった。きょう来た子どもたちは退屈だったのでは」との講演者の声も。内容だけでなくレベル別の分科会を設置することも考えたほうがよいのかもしれません。

ともあれサイエンス映像学会は第一歩を進みました。今後は科学映像にちなんだ月例会を東京と大阪で開いていく予定です。

「サイエンス映像学会」のホームページはこちら。
http://svsnet.jp/
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坂東さん、筑紫さん、四国さん。


これから暑い季節に向かうにつれ、霞の空も、濃い青色へと変わっていきます。すると見られるようになるのは、もくもくと盛りあがる入道雲。

「入道」とは坊主頭のことを指します。もこもこした雲の頂が坊主頭のように見えるからだとか。むしろシュークリームのように見えてしまいます。

入道雲には、地方でいろいろな別の呼びかたがあります。関東では「坂東太郎」。九州では「筑紫二郎」。四国では「四国三郎」…。

これらは、いずれもその地域を流れる川につけられた異名から来ているのだそう。たとえば「坂東太郎」は利根川のこと。「坂東」とは、神奈川県の足柄山や、群馬県の碓氷峠よりも東のことを指し、つまり「関東」のこと。また「太郎」といえば長男のこと。つまり関東を流れる長男格の川という意味から「坂東太郎」と付けられたのだそう。

ではなぜ川の名前が入道雲の名前になったのか。それは群馬の利根川源流で育った雲が、関東平野へと降りて行き発達したためといわれています。さながら「利根川雲がもくもく大きくなった」といったところでしょうか。

同じく「筑紫二郎」も「四国三郎」も同じように、それぞれ筑後川、吉野川のこと。 

ここで気になってしまうのは坂東太郎さんや、筑紫二郎さんなどが実際にいるかどうか。

まず、ゲームの任天堂に所属する作曲家に坂東太郎さんがいます。スーパーファミコンの黎明期に一世風靡した「エフ・ゼロ」というゲームのシリーズで音楽を手がけた方です。

筑紫二郎さんは、九州大学の生物環境調節センター長を勤める研究者。「溶解空気の放出によって生ずる不飽和浸透流の解析」という論文の筆頭著者でもあるようです。筑後川の流域を実地調査の場にしているかは定かではありません。

では、四国三郎さんはいまいと思いきや、川や入道雲以外の人物名としてインターネットで検索されます。西安交通大学に遊学をした方がホームページで日記を公開しており、その方にパンフレットを差し上げた方が「四国三郎」さん。

坂東太郎、筑紫二郎、四国三郎の他にも、地方により入道雲の異名はいろいろあるようです。近畿では、京阪地方の「丹波太郎」、奈良地方の「奈良二郎」、和泉地方の「和泉小太郎」。山陰では「石見太郎」なども。

関東地方の入道雲を「奈良二郎が出た」とか、関西の入道雲を「石見太郎だ」というのは、いささか場ちがいといえましょう。

参考文献
高橋健司著『空の名前』
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日本最大規模の金鉱


金(きん)は、むかしもいまも貴金属の主役的存在。

鉱物資源が少ないとされる日本で、いまも金を採掘している金山があります。鹿児島県菱刈町にある菱刈金山は1985年に開山した採掘所。埋蔵量は約260万トンで、岩1トンから40グラムの金が採れるそう。国内最大かつ最高率の金山です。

けれども、この金山よりもはるかに効率よく金が採れる“もう一つの金鉱”があります。

それは携帯電話。

薄く伸ばせる性質から、金が端子や基板に使われています。1台につき約0.2グラムといいますから、1トン分を集めると200グラムの金を集めることができます。携帯電話には、国内最高率の菱刈金山より7倍も密に金が埋まっていることに。

携帯電話会社が、機種交換のとき元の機種を引き取ろうとするのは、金などの貴金属を回収して、新製品の材料に使いたいため。

人々の生活のなかですでに廃棄物として埋もれてしまったリサイクル可能な鉱物資源のことを「都市鉱山」といいます。

(2008年)1月、物質・材料研究機構は、日本に蓄積されている都市鉱山の規模を計算した結果を発表しました。

金はおよそ6800トンあり、世界の現有埋蔵量42,000トンの16%にもなります。銀は60,000トンで22%、インジウムにいたっては66%にもなるとか。

同機構は「天然の鉱山の場合に粗鉱から品位の高い精鉱として輸出・利用しているように、都市鉱山資源を都市鉱石としてより積極的に有効活用していくことが必要」としています。

携帯電話を使っていた捨ててしまうと、知らぬまに都市鉱山に金銀を渡していることになります。

住友金属鉱山「菱刈鉱山」の案内はこちら。
http://www.smm.co.jp/business/metal/hishikari.html

物質・材料資源機構のプレスリリース「わが国の都市鉱山は世界有数の資源国に匹敵」はこちら。
http://www.nims.go.jp/jpn/news/press/press215.html
| - | 23:57 | comments(0) | -
『週刊かがくるアドベンチャー』創刊


きょう(2008年4月3日)、朝日新聞出版が子どもむけ科学誌『週刊かがくるアドベンチャー』を創刊しました。全四色、総ふりがな42ページの雑誌。

各話題により、ちがう絵描きが絵を書いています。いずれも“子ども向け”を強くしたもの。男の子と女の子が科学の冒険に出たり、駄菓子屋のおばあちゃんが子どもたちといっしょに科学を勉強したり。

いっぽうの内容は、かなり本格的なもの。「恐竜時代の空の王者 翼竜とは!?」という特集では、白亜紀大絶滅の理由として隕石衝突説や、大型生物の環境への脆弱性を示します。

また、「男の子と女の子、脳みそがちがう?」という特集では、サルでもオスは乗り物のおもちゃであそび、メスは人形で遊ぶことが多いとか、一日にしゃべることばの数は男女ほぼ同じとか、おとなも「へぇ」と思うような話が載っています。



上のような問題もあり、読者の子どもたちに考える機会をあたえます。もちろん答えも載っていますが、このブログではあかしますまい。

総監修は養老孟司さん。創刊のことばで、「それまで正しいと思われていたことをひっくり返すのも、また科学だ」と、学校で習う科学とはちがう科学の姿を子どもたちに紹介します。

とくに読者対象は限定していませんが、小学校低学年から中学年が中心という印象。この年ごろは理科への興味が低いわけではありません。さらに中学に進んでからも理科が好きでいるかどうかの分かれ目ともいわれます。

『かがくるアドベンチャー』は、きょう創刊。ホームページはこちら。
http://publications.asahi.com/ecs/40.shtml

「かがくる」を変換したら「蚊が来る」。いやだいやだ
| - | 23:59 | comments(0) | -
10年ぶり。宇宙飛行士募る。


(2008年)3月31日、宇宙航空研究開発機構は、宇宙飛行士候補者の募集を発表しました。国際宇宙ステーションの日本棟「きぼう」での活動を考えてのもの。広報から聞いた話では「問い合わせがけっこう来ています」とのこと。

改めて宇宙飛行士とはどのような資質が問われているのでしょう。募集要項の「応募条件」から主だったところを見てみますと…。

「大学(自然科学系)卒業以上であること。理学部、工学部、医学部、歯学部、薬学部、農学部」

文系は対象とされません。この条件でかなりの人が「今回は断念」となりそうです。さらに「自然科学分野(略)に3年以上の実務経験があること」も(修士は1年、博士は3年実務経験をしたことと見なす)。

「訓練時に必要な泳力(水着及び着衣で 75m: 25m x 3回 を泳げること。また、10分間立ち泳ぎが可能であること。)を有すること」

宇宙遊泳の疑似訓練は、深いプールの中で行われます。そのために必要な泳力ということでしょうか。10分間犬かきでは大変そうです。

「協調性、適応性、情緒安定性、意志力等国際的なチームの一員として長期間の宇宙飛行士業務に従事できる心理学的特性を有すること」

国際宇宙ステーションは、いわば宇宙のなかの密閉空間。その中で同じ人たちが長期にわたり顔を合わせることになります。他の宇宙飛行士とけんかになったり、気のもちように上り下がりがあっては大変です。

「日本人の宇宙飛行士としてふさわしい教養等(美しい日本語、日本文化や国際社会・異文化等への造詣、自己の経験を活き活きと伝える豊かな表現力、人文科学分野の教養等)を有すること」

この条件がもっとも抽象的。若田光一さんや土井隆雄さんなどの宇宙飛行士の言動を見れば、だいたい「あんな感じ」と像はつかめます。

書類審査、学力試験や面接、米航空宇宙局での医学検査などの関門をくぐり、来年2月ごろには、最高3人程度の宇宙飛行士候補が決まる予定。1997年に星出彰彦、古川聡、山崎直子の3人が採用されてから10年ぶりとなります。

しかし3人はまだ宇宙へは行っていません。2003年のスペースシャトル事故や、米国の月・火星を視野に入れた有人宇宙探査への方針転換などがあり、日本は翻弄されたかたち。

以前は「芸術家が宇宙飛行士として宇宙に行ったらどうか」などの、夢のある話がされていました。募集をしたからとて宇宙に行きづらい時代。芸術家宇宙飛行士や経済学者宇宙飛行士といった話はまだ先のようです。

宇宙航空研究開発機構の「国際宇宙ステーション搭乗宇宙飛行士募集」はこちらで。
http://iss.jaxa.jp/astro/select2008/index.html
| - | 23:59 | comments(0) | -
誰も知らない人が選ばれる。


プロ野球の新人選手選択会議でごくまれに、無名の高校球児が指命を受けることがあります。指名された人も「なんで俺が」と喜びと戸惑いの表情。球団スカウトの目利きのなせるわざでしょう。

注目されていた選手が指名を受ける。あまり注目されていなかった選手が指名を受ける。だれも注目していない人が指名を受ける…。注目度はじょじょに下がり、指名を受ける確率も下がっていきますが、「ただの一般市民が指名を受ける」という可能性は絶対にないとはいいきれますまい。

「第8回選択希望選手。楽天。磯野波平。外野手。海山商事」

おなじように「無名人」が選ばれることは、いたるところであるようです。

マダガスカルで、とある切手が発行されました。人の顔が印刷されています。切手に乗るような人物はたいがいは偉人や有名人。ところがその切手には、まったく無名の人物が載っていたといいます。

「あ、あなた…。なぜか切手に顔が載ってるわよ」

「えっ…。あれ、俺だ」

科学技術の世界で、無名人の選出が大きな話題になるできごとといえば、やはりノーベル賞。基本的には選定作業は非公開なので、新聞記者などは毎年、発表の時期は気が気でないといいます。

とりわけ、2000年に「生体高分子の質量分析法のための脱離イオン化法の開発」でノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんの場合はその典型。まさに無名中の無名だった人物にとつぜんノーベル賞があたえられることになりました。

受賞理由となった研究内容はあまり触れられず、もっぱら田中さんの人となりや、学士のサラリーマンがノーベル賞をとった“周辺の枠ぐみ”に注目が行きすぎたという批判もあります。

でも、多くの人々の興味は、ごくふつうの企業研究者がノーベル賞をとった、という感覚と事実の差にあったでしょう。

受賞の一報を聞いて慌てふためく田中さんや家族、そして所属する島津製作所の人々。その描写は、やはり生き生きとした逸話には欠かせないもの。

「思わぬ人の選出」は、本人にしてみればしばらくのあいだ生活がしっちゃかめっちゃかになるでしょう。でも社会のなかでの驚きは、人々にある種の愉しみをあたえるものだといえそうです。
| - | 23:59 | comments(0) | -
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