2007.11.30 Friday
書評『論文捏造』
社会の中には見えていそうで見えない欠陥があるということを鮮明に描いた本です。2007年科学ジャーナリスト大賞受賞作。
『論文捏造』松村秀著 中公新書ラクレ 2006年 336ページ
科学界の論文捏造問題を扱ったNHKのドキュメンタリー番組を書籍化したもの。著者はNHKのディレクターである。
「事件」のあらましは次のようなものだ。
2000年を過ぎたころの科学界では、超伝導の分野が興奮でわきたっていた。米国ベル研究所の若きドイツ人研究者ヤン・ヘンドリック・シェーンが、革命的な業績をつぎつぎと上げていたからだ。
金属化合物の電気の抵抗がなくなった状態が超伝導。超伝導の電線が実現すれば、電気抵抗による電力消費がなくなるためエネルギー問題に劇的な改善がなされる。だが目下、超伝導状態が起きる最高温度はマイナス138度。夢の実現には、超伝導が起きる温度をさらに高くしなければならず、金属の化合のしかたなどに工夫が要る。
シェーンは、フラーレンという最近になって発見された物質を使い有機物の高温超伝導の高温記録を次々と塗り替えた、とされた。2000年4月にはマイナス262度。2001年9月にはマイナス156度。わずか1年半の間で一気に106度も温度を引き上げたというのだ。
論文で発表されたシェーンの実験を再現できる研究者は誰もいなかった。みな「シェーンの腕と機械はわれわれの及ばない段階にあるにちがいない」と思い込んでいたのだ。
矢継ぎ早に研究成果の発表を続けるシェーンの背中に、懐疑の目が向けられはじめる。高温超伝導を達成したときの物質を「無くしてしまった」と言うシェーン。また、研究者たちの前ではじめて披露した実験の「腕」は素人並み、「機器」もカメラでたとえれば、インスタントカメラ同然のものだった。さらに別の成果を報告したはずの論文のグラフの曲線が、細かな点までぴたりと一致することを見抜かれてしまう。
こうして論文捏造を告発されたシェーンは、科学の世界の「帰らぬ人」となった…。
番組制作に1年をかけたという著者の丹念な取材と分析力のある記述で、科学界のさまざまな問題が明らかにされていく。
たとえば、再現可能性が必要とされてきた科学の姿は、本書のどこを探しても見当たらない。「シェーンにしかできない実験」という再現不可能性が、逆にシェーンの評判を高め、伝説化されていったという。
また、シェーンの業績を知らしめていたベル研究所の上司バートラム・バトログは、シェーンの実験に立ち会うともせず、事実上、監督役を放棄していた。著者の取材に対しては「シェーンはメンバーの1人なのであり、学生ではありません」などと居直るような態度を見せる。結局、疑惑の目が注がれるまで誰もシェーンの実験には立ち会っていなかったのだ。
さらに『ネイチャー』や『サイエンス』などの論文雑誌の編集側が捏造を検査することは無理であるという構造的問題も、著者が編集者たちを取材で質すことにより明らかにしている。性善説で成立している科学界の限界を直視させられる気分になる。
著者は本書を「わからなさの時代に」というエピローグで締めくくっている。
現実に発生していたのは、科学界にとってある種の想定外の事態だったわけで、そのときの対応の仕方がまったく「わからない」からこそ、問題を3年ものあいだ解決することができなかったのではないかと思うのである。
この一文だけを見れば、科学界に向けられた一文にもとれる。だが、著者がより広範な組織や集団の構造に眼を向けてこの点を述べていることを見逃すことはできない。「シェーン」や「論文」という単語を科学界以外の集団内で別の言葉に置きかえれば当てはまるような、本質的な構造的問題が孕んでいる。
その問題を一言で表すなら、「わからなさに目を向けようとしない」という問題なのかもしれない。
「わからなさの時代」を正面から見据えようとする著者だからこそ、「わからなさ」で満ちる科学のブラックボックス、ひいては社会の欠陥に、正面きって向き合えたのかもしれない。
『論文捏造』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/論文捏造-中公新書ラクレ-村松-秀/dp/4121502264/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1196443435&sr=1-1
『論文捏造』松村秀著 中公新書ラクレ 2006年 336ページ
科学界の論文捏造問題を扱ったNHKのドキュメンタリー番組を書籍化したもの。著者はNHKのディレクターである。
「事件」のあらましは次のようなものだ。
2000年を過ぎたころの科学界では、超伝導の分野が興奮でわきたっていた。米国ベル研究所の若きドイツ人研究者ヤン・ヘンドリック・シェーンが、革命的な業績をつぎつぎと上げていたからだ。
金属化合物の電気の抵抗がなくなった状態が超伝導。超伝導の電線が実現すれば、電気抵抗による電力消費がなくなるためエネルギー問題に劇的な改善がなされる。だが目下、超伝導状態が起きる最高温度はマイナス138度。夢の実現には、超伝導が起きる温度をさらに高くしなければならず、金属の化合のしかたなどに工夫が要る。
シェーンは、フラーレンという最近になって発見された物質を使い有機物の高温超伝導の高温記録を次々と塗り替えた、とされた。2000年4月にはマイナス262度。2001年9月にはマイナス156度。わずか1年半の間で一気に106度も温度を引き上げたというのだ。
論文で発表されたシェーンの実験を再現できる研究者は誰もいなかった。みな「シェーンの腕と機械はわれわれの及ばない段階にあるにちがいない」と思い込んでいたのだ。
矢継ぎ早に研究成果の発表を続けるシェーンの背中に、懐疑の目が向けられはじめる。高温超伝導を達成したときの物質を「無くしてしまった」と言うシェーン。また、研究者たちの前ではじめて披露した実験の「腕」は素人並み、「機器」もカメラでたとえれば、インスタントカメラ同然のものだった。さらに別の成果を報告したはずの論文のグラフの曲線が、細かな点までぴたりと一致することを見抜かれてしまう。
こうして論文捏造を告発されたシェーンは、科学の世界の「帰らぬ人」となった…。
番組制作に1年をかけたという著者の丹念な取材と分析力のある記述で、科学界のさまざまな問題が明らかにされていく。
たとえば、再現可能性が必要とされてきた科学の姿は、本書のどこを探しても見当たらない。「シェーンにしかできない実験」という再現不可能性が、逆にシェーンの評判を高め、伝説化されていったという。
また、シェーンの業績を知らしめていたベル研究所の上司バートラム・バトログは、シェーンの実験に立ち会うともせず、事実上、監督役を放棄していた。著者の取材に対しては「シェーンはメンバーの1人なのであり、学生ではありません」などと居直るような態度を見せる。結局、疑惑の目が注がれるまで誰もシェーンの実験には立ち会っていなかったのだ。
さらに『ネイチャー』や『サイエンス』などの論文雑誌の編集側が捏造を検査することは無理であるという構造的問題も、著者が編集者たちを取材で質すことにより明らかにしている。性善説で成立している科学界の限界を直視させられる気分になる。
著者は本書を「わからなさの時代に」というエピローグで締めくくっている。
現実に発生していたのは、科学界にとってある種の想定外の事態だったわけで、そのときの対応の仕方がまったく「わからない」からこそ、問題を3年ものあいだ解決することができなかったのではないかと思うのである。
この一文だけを見れば、科学界に向けられた一文にもとれる。だが、著者がより広範な組織や集団の構造に眼を向けてこの点を述べていることを見逃すことはできない。「シェーン」や「論文」という単語を科学界以外の集団内で別の言葉に置きかえれば当てはまるような、本質的な構造的問題が孕んでいる。
その問題を一言で表すなら、「わからなさに目を向けようとしない」という問題なのかもしれない。
「わからなさの時代」を正面から見据えようとする著者だからこそ、「わからなさ」で満ちる科学のブラックボックス、ひいては社会の欠陥に、正面きって向き合えたのかもしれない。
『論文捏造』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/論文捏造-中公新書ラクレ-村松-秀/dp/4121502264/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1196443435&sr=1-1
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