科学技術のアネクドート

9月22日(土)から「地下展」


展覧会のお知らせです。

東京・お台場の日本科学未来館で、(2007年)9月22日(土)から2008年1月28日(月)まで「地下展」が開かれます。

「坂道」とおなじくらいに熱狂的な愛好者がいるのが「地下」ではないでしょうか。人工的で無機的な世界は、自然に囲まれてきた人間にとってやはりめずらしくそしておもしろい空間に思えるのでしょう。

案内を見ると、地下に関して14のお題を設けるようです。「氷の記憶をほりおこす[氷床コア]」「生命が始まる場所[生命起源「地下説」]」といった具合に。

お題の中でも、とりわけ人気を集めそうなものを予測すると「足下からはじまる地下[都市の地下利用]」でしょうか。

[都市の地下利用]の展示では地下鉄や変電所などの都市の基盤となる地下の姿を紹介します。市民の生活とも直結しており、熱狂的な愛好者がとりわけ多い地下の分野でしょう。案内の写真には東京の「日比谷共同溝」。共同溝とは、電話、水道、電気、ガスなどのライフラインを共同で走らせる地下設備のこと。この日比谷共同溝は、虎ノ門から日比谷公園までの国道1号線の下をつなぐ予定です。

ほかにも、[Time Capsule EXPO'70プロジェクト]は、1970年に大阪で開かれた万国博覧会で地下に埋めた「タイムカプセル」を、西暦6970年の開封を前にして展示するそうです。

日本科学未来館・館長の毛利衛さんは、「宇宙にも匹敵するほど広大なフロンティアが広がっています。“闇の冒険”を通して、光あふれる地上の生活を新たに進む道筋を見つけていただく機会なれば」と挨拶しています。

「地下展」は、日本科学未来館で2007年9月22日(土)から2008年1月28日(月)まで。11月3日文化の日には無料開放もするそうです。公式案内はこちらです。
http://www.miraikan.jst.go.jp/j/sp/underground//
また、開催前の「プレイベント」も開かれています。お知らせはこちら。
http://www.miraikan.jst.go.jp/j/event/2007/0818_plan_01.html
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小・中学校に「ガサガサ」が浸透


都会で暮らしている小学生たちは、いま、学びの一貫として、地元を流れる川に入って魚とりなどをしています。夏休み前に都内の区立小学校の取り組みを取材した記事を、『サイエンスウィンドウ』2007年9月号に寄せました。この雑誌は、科学技術振興機構という独立行政法人が、学校の先生たちにむけて発信している理科の教育情報誌です。

さて、多摩川で取材中に先生やこどもたちから、なんども「ガサガサ」ということばを聞いたのです。「ガサガサ」ってなんだ。

取材先のみなさんにことばの意味を聞いてみると、「川岸の草の近くの水中に網を入れて“ガサガサ”と揺らし、小魚や貝などの水棲生物をすくいとること」であることがわかってきました。

川での体験学習の取材を続けていると、どの学校の先生もこどもたちからも、「ガサガサ」がふつうのことばとして使われていました。あっちへいってもガサガサ、こっちへいってもガサガサ。どうやら、全国の小学校・中学校でひろく共通語となっていることばのようです。

どのようにこのことばが広く浸透していったのか、気になったので調べてみました。

すると、どうやらラジオ日本という関東の放送局が平日の午前に放送している「ヨコハマガサガサ探検隊」という番組の司会進行役である俳優・中本賢さんが1999年に出版した『多摩川自然遊び ガサガサ』という本が、このことばのみなもとになっているようだとわかってきました。中本さんは水遊びが趣味のようで、2002年にも『ガサガサ探検隊』という魚とりの本を出しています。いずれも網で魚をかんたんに捕まえる方法が書かれた本のよう。

ラジオ番組は2003年から始まりました。番組を探検隊に見立てて、すぐれたお便りを送ってきたリスナーにはガサガサ探検隊の隊員に認定し、のちほど隊員証まで送るといった手の込みようです。

どうやら、中本さんの魚とりについての著書に影響を受けた小学校か中学校の先生が、“ガサガサ”を学校教育に取り入れ、「うちの学校では、川でガサガサという魚とりの体験をやっています」といった報告を、教育関係の大会で発表したか、もしくは教育関係者のネットワーク媒体で情報提供したかで、全国の小学校・中学校にこのことばや魚とりの方法が浸透していったのではないかと察しています。

よりお詳しい方、より正しい経緯を知っていらっしゃる方、情報をお待ちしています。

子どものころを思い返してみれば、たしかにこの“ガサガサ”のような、社会ではあまり知られていないけれど、学校では当たり前に使われているようなことばがあった気がします。母校の小学校では、一日じゅう多摩川にピクニックに行って遊ぶ日を「ノーカバンデー」といったり、林間学校のことを「グリーンスクール」といったりしていましたっけ。

本がどれくらい売れたのかは分かりませんが、ガサガサの浸透力はすごいものがありますね、隊長。

『サイエンスウィンドウ』は、科学技術振興機構のホームページからも読むことができます。こちらです。
http://www.jst.go.jp/rikai/sciencewindow/
ラジオ日本の番組「ヨコハマガサガサ探検隊」のホームページはこちら。
http://www.jorf.co.jp/GASAGASA/
『多摩川自然遊び ガサガサ』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/多摩川自然遊びガサガサ-中本-賢/dp/4573210482/ref=sr_1_1/250-3461571-9880240?ie=UTF8&s=books&qid=1188493869&sr=1-1
『ガサガサ探検隊』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/ガサガサ探検隊-中本-賢/dp/4885364981/ref=sr_1_1/250-3461571-9880240?ie=UTF8&s=books&qid=1188492028&sr=1-1
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“ぎざぎざ”で工夫


科学館や博物館で鑑賞するのはもっぱら展示作品ですが、台や照明などの道具にも目を向けてみると、またべつの楽しみがあります。

展示台の真上の天井のほうを見てみると、たまに画像のような照明器具を見かけることがあります。

蛍光灯のすぐ横にならぶ黒いのこぎり状のぎざぎざ。これは、台に置かれた展示品を、光の量をまんべんなくおなじにして照らすために工夫された器具なのです。

ふつう、照明に近いほど、つまり天井のそばであるほど、照明から出てくる光の量は多くなります。むき出しの蛍光灯が置かれてある学校の教室などで、白いノートを部屋のいろいろなところでかざしてみたとしましょう。ふつうは、床のちかくよりも蛍光灯のすぐそばのほうが、ノートが明るく反射するはずです。

科学館や博物館で展示をするときは、お客さんの見た目の印象がとても大切。天井のほうが明るくて、作品が置かれてある床の台のほうが暗いような台だと、やはり作品が暗く見えてしまうようです。

そこで、“ぎざぎざ”の出番となります。この黒いぎざぎざは、光を遮る役割をしています。色が黒いのは、明るい色よりも暗い色のほうが光を吸収しやすいから。

ぎざぎざの上のほうが黒い部分が大きく、下のほうが黒い部分が小さくなっているつくりですね。ということは、ふつうは天井側を照らす光が、このぎざぎざの上のほうの黒い部分でさえぎられるわけです。いつもは光がたくさん行きわたってしまう天井側もほどほどの光の量に抑えられるため、全体として均衡のとれた光の照らし具合にすることができるのだとか。

ご近所の科学館や博物館には、この黒いぎざぎざ、ありますでしょうか。
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「カレーまみれのアネクドート」の予告


外国から入ってきたものをうまく加工する技術は、日本人の得意技とされてきました。この話、なにも工業技術にかぎったものではないようです。

日本の食文化を見てみても、“輸入もの”の“加工技術”は優れたものがあります。たとえば、中国から伝わった「拉麺」は、いまや「ラーメン」という日本独自の食べ物になっています。

ラーメンと肩を並べるように日本人が加工してきた食といえば、カレーが思いあたります。発祥の地インドから、インドを植民地にしていた英国へ。そして英国から文明開化の産物としてカレーは日本に入ってきました。いまや押しも押されもせぬ日本食となりました。

ところがスーパーマーケットやコンビニエンスストアに行くたびに、カレーのことで驚くことがあります。意外なほどに、「カレー味」や「カレー風味」をほどこしたお菓子やおつまみの類が少ないのです。真っ先に思いつくお菓子といえば、カールかベビスターぐらい…。

市場調査をしたわけではありませんが、「ふだん食べている食品をわざわざカレー味で食べなくてもよいのではないか」という日本人の消費者心理が働いているようでなりません。

そう考えると、もともとあった食材とカレーを出会わせたカレーパンやカレーうどんの考案者は、よほどの才能の持ち主に思えてきます。「定番」になるまでには、人気も歳月も必要ということでしょうか。

年はじめに、このブログで「カレーまみれのアネクドート」を始める計画を立てていました。科学技術とはまったく関係ありませんが、とある理由から、カレーの食べ続けにチャレンジすることになった経験などをもとに、これまで味わってきたカレー(食べ物屋のカレーや、カレー製品、カレー本などなど)の数々をお伝えしていければと思っています。
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世界人口、60億を超える「サラエボ大学病院」―sci-tech世界地図(4)


1999年10月12日午前0時3分、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ市内のサラエボ大学病院で、ひとりの男の赤ちゃんが産声を上げました。世界人口にして“60億人目”となる男の子の誕生です。国連人口基金という、世界の人口問題の啓発や援助をする国連の機関が認定ししました。

博物館の催しものや万国博覧会などでは、「入館者10万人目」などといった切りのいい数字は数えれば出せるもの。けれども世界人口となるとそうもいかなそうです。いま一分の間に世界中で増えている人口は140人。どのようにしてサラエボで生まれた男の子を“60億人目”とつきとめることができたのでしょうか。

じつは、生まれた子どもが厳密に世界人口の何人目であるかを決めることは、技術的に不可能なのです。

とはいえ1999年10月12日という日に世界人口は60億人を超えるだろうということはわかっていました。そこで、“60億人目”の誕生を、ひとつの象徴的なできごとにしたいという国連人口基金の思惑が働きました。

ちょうどこの日、そのときの国連事務総長だったコフィ・アナンが公務でサラエボを訪れる予定になっていました。サラエボは、ボスニア内戦で千人以上の子どもの犠牲者を出していた激戦地。戦禍の街の病院でその日いちばん早く生まれた子どもを“象徴的”に“60億人目”と決めて、世界の人々に人口問題を考えさせるきっかけをつくろうとした、というのがことの真相です。

メビック・ヤスミンコさんとファティマさんの間に生まれた、“60億人目”の赤ちゃんは、アドナン・メビックくん。2006年、7歳になったメビックくんは、日本の毎日新聞の取材に対して、「60億人目は意識してないよ。でもみんなが健康でいるのが一番さ」と応えたそうです。

19世紀のうちから“ヨーロッパの火薬庫”といわれ、20世紀の終わりにも内戦が起きたサラエボ。いまは街に明かりが取り戻され、ようやく五輪が開かれた1984年ごろの状態を取り戻しつつあるようです。

サラエボで60億人を突破してからさらに8年のあいだに、世界の人口は増えつづけ、いまや66億2000万人に達しています。20世紀のなかごろにいったんは解決したと思われた食糧危機が、ふたたび頭をもたげてきているといいます。

70億人目、80億人目の赤ちゃんは、どんな街の病院で生まれたことになっているのでしょう。

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ周辺の地図はこちら。中央の建てものがサラエボ大学病院。


サラエボ大学病院のホームページはこちら。
http://www.kcus.net/

1999年10月12日の国連事務総長コフィ・アナン(当時)の人口60億人を迎えての声明はこちら(英文)。
http://www.unfpa.org/6billion/pages/sg.htm
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レプリカ


商品名などがそのまま日本で一般名詞として使われている例がいくつかありますね。「その書類、ゼロックスしてホチキスでとめといてね」といった具合に。

「ゼロックスする」については、ゼロックス社の複写機がもとで動詞になったことば。「コピーをとる」や「写しをとる」というほうがよく使われているので、「ゼロックスして」といわれると、耳慣れない人にはすこし気ざわりに聞こえるかもしれません。

「ホチキス」も、一般名称は「ステープラー」。「ホチキス」ということばは、米国のベンジャミン・ホチキスという人が発明した綴じ道具を、彼の弟が経営するホチキス社で売り出したことから世のなかで通じることになったそうです。「ホチキス」のほうが「ステープラー」よりもはるかにことばとしての認知度は高いですね。「ステープラーでとめといてね」というと、ホチキスが登録商標であること知っていることを鼻にかけているようで、逆に気ざわりに聞こえるかもしれません。

ほかにも、「テトラポット」とか、「ジープ」とか、「キャタピラー」とか…。こだわりのある人は、それぞれ「波消しブロック」、「四輪駆動車」、「無限軌道」などとよぶのでしょうか。

先日、「レプリカ」ということばも、「ゼロックス」や「ホチキス」と似たように、企業の名前が一般名詞として浸透した例であるという話を小耳にはさみました。

ものの複製にくわしいその人物いわく、はじめは米国にある「レプリカ社」という企業の技術によって模倣されたもののみを「レプリカ」とよんでいたのだが、レプリカ社が手掛けたものでなくとも、レプリカとよばれるようになった、とのことです。コクヨ製でも無印良品製でも、「ホッチキス」とよぶようなものでしょうか…。

へえ、と思って、調べてみたのですが、なかなかこの話の“裏”をとれるような核心にはいたりませんでした。

ひとつだけめぼしいところで、鹿児島県の「上野原縄文の森」という文化施設が「レプリカ」をこのように説明しています。

「レプリカとは,もともとアメリカのテキサス州のレプリカ社が開発した『現物から型取りして製作した合成樹脂製の模型』のことでしたが,現在では『型取りして作られた複製品』のことをいいます」

テキサスにあるとされる「レプリカ社」という企業も探してみました。ところがインターネットの検索では、映画『スターウォーズ』のフィギュアを作っている「マスター・レプリカ社」のみが出てくるばかり。同社の公式案内を見ましたが、どうやら筋違いのようです。英語で探してもおなじような結果に…。

そもそも、「レプリカ」を英語で書いた“replica”は、イタリア語で「答える」を意味する“replicare”から来ている説明する辞書や、また、ラテン語で「くりかえし」を意味する“replicare”から来ていると説明する辞書などもありました。

「レプリカ社」の存在については、残念ながらまだ確認にはいたっていません。が、存在するとしたところで、この企業が立ち上がるよりも前から“replica”ということばそのものはあったようです。

元のものをできるかぎり忠実な形に複製するのが、レプリカ。人から人に伝わることばついてはレプリカほどの忠実な情報の複製はならないということでしょうか。
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徹底的に消さねばならぬ。


このまえ(2007年8月20日)那覇空港でおきた飛行機の炎上事故では、火が出た直後から消ししずめられるまでの一部始終をテレビで見ることができました。消化剤をかけても勢いを増す炎と煙。燃料が残っているなかでの消火作業はたいへんなものですね。

飛行機ほど規模は大きくないものの、家の火事などのときに消防隊にとってとくに扱いが大変な品物があると聞きました。

ふとんです。

火が起きたときに役にたつ消火の道具としても知られているふとん。もし、部屋で石油などがこぼれて燃え広がったら、上からふとんをかぶせれば、燃えるための酸素がなくなるために火を消し止めることができます。

けれども、このふとんの中に入っている羽毛や綿などに火が入ってしまうと、とてもやっかいなことになるのだそう。

たとえば、こんな場合が考えられます。

ある家で、主人の寝たばこによってふとんから火が出たとします。あわてた主人は、「うわ、たいへんだ、火を消せ」と家族みんなに大声をかけ、家族みんなで消火活動。ほどなくして火は見えなくなりました。消防隊に通報するまでにはいたりませんでした。

「はあ、とんだ大火事になるかと思った。疲れたから今日はもう寝よう。焼けたふとんの後始末は、また朝にやろう」

家族はほっとしてとりあえず寝ることに。

ところが家族みんなが寝静まったころ、火を消したはずのふとんから、なんとまた火が。家族はふたたび大慌て。こんどは気づくのが遅く、ほんとうに消防隊をよぶ大火事を起こしてしまいました…。

ふとんのなかの火は、見た目では完全に消えたようでも、ほんの小さな火種がまだ残っていて、それがまた綿や羽毛をこがしはじめ、再び燃えだすおそれがあるのだそうです。

上の家族の場合、火が消えたように見えたふとんをそのままにせず、水をはった風呂おけなどに浸けておけば、火種は完全になくなり、再び火が出るなどということにはならなかったはずです。

消防隊は、ふとん屋の火事のときは、焼けたふとんを一枚一枚、外に出して、とくに念入りに水を被せるなどするそうです。ふとんを燃やすと手を焼く作業に。でも、ほんとうの手を焼きませんようにように。
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“ものつつみ”の技


博物館の展覧会で展示されている美しい作品のかずかず。その博物館のもちものではない作品は、博物館が国内や海外のべつの博物館から借りたり、所有している個人から借りたりしています。

貸し借りをする貴重な品々は、だれが荷づくりをしているのでしょう。

博物館でつとめる学芸員は、もちろん博物品の梱包や輸送を管理する担当役になります。けれども、実際に荷づくりをしている人は学芸員ではなく、輸送業者の専門職なのだそうです。

なかでも、日本における博物品の梱包・輸送のいちばんの担い手は「ペリカン便」で知られる日本通運。

「なんだ。博物館の専門職員ではなく、ペリカンの人たちがやっているのか」という声も聞かれそうです。けれども、ある博物館の館長から聞いたはなし、日本通運の博物品の荷づくりはまさに職人技といえるほどの高い技術であり、裏側にはこんな逸話があるのだそうです。

奈良市の奈良公園には、かつて「日吉館」という、一見さんお断りの宿屋がありました。會津八一、亀井勝一郎、和辻哲郎などの文化人が奈良での定宿にしていたそうです。夜の料理はきまって七輪であぶったすき焼き。切り盛りする名物おかみさんは、1972年のNHK連続ドラマ『あおによし』の主人公のモデルにもなりました。

この女将さんは名物おばちゃんとして知られていましたが、いっぽうの旦那さんも知る人ぞ知る伝説の人だったそうです。旦那さんは、旅館の前に建っている奈良国立博物館から嘱託された、作品の梱包・輸送の請け負い人だったのです。

この旦那さんのなにが伝説だったのでしょう。それは、旦那さんが荷づくりした博物品は、どんなことがあってもぜったいに壊れてしまうことがなかったということです。梱包の技にかけては、この旦那さんの右に出る人はいませんでした。

そんな女将さんと旦那さんの間に生まれた長男は、奈良で生まれ育ったあとに東京へ進学。慶應大学を卒業し、その後、一般企業に就職を果たします。

就職先は日本通運でした。

日本通運は、かの荷づくり請け負い人の子息が入社したことを機に、博物品の梱包に力を入れはじめます。社員を奈良の日吉館まで派遣し、旦那さんにお願いして博物品の包み方の勉強会を開いたそうです。梱包・輸送の専門家となるべく、社員たちは何度も日吉館に出向き、旦那さんから技の手ほどきを受けたのだそう。回数を重ねていくうちに、包み方の技術は向上していきました。昭和20年代のことです。

努力の甲斐あって、いまでは日本通運の梱包技術は世界一と言われるまでになりました。海外の博物館員は、日本から送られてくる博物品の包まれ方を見て驚き、それが学芸員でなく輸送業者の手によるものだと知って、二度驚くそうです。

展覧会という表舞台では見ることのできない裏方の作業。“ものつくり”だけでなく、つくったものを運ぶための“ものつつみ”も、人の手から人の手へと受け継がれてく職人技なのですね。
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世界最高記録の追いかけっこ


「兎と亀の追いかけっこ」という逆説がありますね。ギリシャで紀元前5世紀ごろに生きていたゼノンという哲学者がこんな話をしました。

「亀を追いかける兎は、いつまでたっても亀に追いつくことはできない。なぜなら、兎が亀に半分近づいたとしても、亀は兎からすこしは遠ざかる。ならばと兎が亀にさらに半分近づいたとしても、亀はまた兎からすこし遠ざかる。つまりいつまでたっても兎は亀に追いつけないのだ」

ふつうに考えれば、兎が亀を追いぬかすことくらいかんたんそう。でもゼノンの逆説を前にすると、「たしかに、兎はいつ亀を追いぬかせるのだろうか」と考え込んでしまいそうです。

この逆説は、「かぎられた時間の中で起きること」を前提にしているのであり、その前提をとりはらえば逆説は解決され、やがて兎は亀を追いぬかします。

「いつになったら兎は亀を追いぬかせるか。いつになっても追いぬかせないのか」といった話から、マラソンの世界最高記録の男子と女子の移りかわりを思い浮かべてしまいます。

男子は過去の40年間に、2時間9分台から2時間4分台に世界最高記録をあらためていきました。40年間で5分ちぢまったということは、1年間に7.5秒ちぢまっている計算になります。

男子にくらべて、女子のほうが世界最高記録の進みぐあいはすさまじく、過去の40年間に、3時間10分ぐらいから2時間15分台へとちぢまりました。高橋尚子選手もこの短縮に貢献しています。40年間で55分ちぢまったことになるので、1年間ではだいたい1分23秒ちぢまっている計算になります。

男子が1年間で7.5秒ちぢまるのに対して、女子は1年間で1分23秒もちぢまる。となると、女子マラソンの世界最高記録が男子マラソンの世界記録を追いぬくのは時間の問題でしょうか。

女子の記録が男子の記録を上回るという予測を後押しする説として、持久力女性優位説があります。

「持久力は女性のほうがじつは高いので、女子のマラソンランナーは男子のマラソンランナーよりも速い。いま女子が遅いのは、女子マラソンが始まってからまだ年月が浅いから」というものです。

けれども、「亀と兎の追いかけっこ」で見る逆説の解決法とはちがった理由ながらも、いつまでたってもやはり男子の世界記録は女子の世界記録に追いぬかされることはないだろう、という説もあります。

それは、持久力女性優位説に対して筋力重要化説とでもいうべきもの。マラソンがこれからさらに高速化していくと、こんどは持久力よりも筋力のほうが記録を出す大切な要素になってくる。筋力では男子のほうが女子よりもはるかに上まわっている。よって、男子の世界最高記録が女子の世界最高記録に追いぬかされる日はこないだろう、という論です。

1980年からだけで切りとった世界最高記録の移り変わりを見てみると、男子も女子も鈍りがちです。とにかく、おいそれと女子の記録が男子の記録を上回ることはなさそうです。

あさって(2007年)8月25日から大阪で、陸上競技の世界選手権が開かれます。この暑さのなかなので、男女とも世界最高記録の更新はさておき、選手どおしの抜きつ抜かれつの競り合いの展開を楽しみにしています。
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「命の設計図」を報じる(9)
「命の設計図」を報じる(1)
「命の設計図」を報じる(2)
「命の設計図」を報じる(3)
「命の設計図」を報じる(4)
「命の設計図」を報じる(5)
「命の設計図」を報じる(6)
「命の設計図」を報じる(7)
「命の設計図」を報じる(8)



1953年のワトソンとクリックによる「DNA二重らせん構造の発見」が、はじまりとなった生物学の発展の時代が「二重らせんに導かれた時代」だとすれば、その時代の区切りとなるできごとが50年後の「ヒトゲノムの解読完了」でした。2003年からの時代は「ゲノム解読活かす時代」ということができるでしょう。

いまのこの時代は、「ポストゲノム」ともよばれています。ゲノムの塩基配列を読み解く時代は過ぎたからです。

「ポストゲノム」という言葉そのものは新聞などから成りをひそめている感があります。しかし、ゲノム解読を活かす時代の研究は、いまや花盛りといってもいいくらいです。

ヒトゲノムの解読完了は、いわば巨大建築物の設計図を入手したような状況。これからは、設計図に示されるそれぞれの空間が、いったい何のために使われている部屋なのか、ここは寝室なのか、そこは台所なのか、といったそれぞれの部屋の意味や目的を探していくことになります。

たとえば医学の分野では、人の設計図はどのように役立てられるのでしょう。

ヒトゲノムのなかの、ある場所の遺伝子が異常だったり欠けていたりすると病気を発してしまう。こうした病を遺伝病といいます。遺伝病に関係する遺伝子が、ゲノムのどの位置にあり、その部分がどのような塩基配列の状態になっていると病になるのか、といったことをつきとめることができるようになります。

また、ヒトゲノムの解読は、ヒトの進化の歴史を探るためにも大きな役割を果たしています。ヒトのゲノムを、おなじく解読されたチンパンジーとのゲノムとで、塩基の並び方の差を調べてみたところ、わずか1.23%の差しかなかったという研究の成果がさっそくでています。

高いレベルの言語をもつヒトと、もたないチンパンジーの差が、わずか1.23%の差に詰まっているという事実に、多くの科学者は驚きました。どうやら、いきものの進化は、私たちが思うよりもはるかに複雑なしくみでできているのだろう、ということが見えてきています。

生命をめぐるさまざまな分野で、“設計図”に意味をあたえていく作業は着実に進んでいるのです。

ヒトゲノムの解読完了からさらに50年後。つまりそれは、ワトソンとクリックのDNA二重らせん構造の発見から100年後。2053年4月、人間は生命の探究の歴史になに刻んでいるのでしょうか。

生物学者たちは、また2053年までに果たすべき別の目標を立てているのでしょう。

しかし、生物学における2003年から2053年の半世紀はもはや、ひとつの研究成果に「導かれる時代」にはならない気がします。2003年のヒトゲノム解読はむしろ、生物学の歴史の大きな枝分かれの時点となり、より分野が細かく分かれていく時代に入ったという感があるからです。

2053年4月、あるいは新聞には「ヒトゲノム解読から50年の歩み」という見出しのもと、「医学分野ではこのような薬が発明された」「進化学の分野ではヒトの進化がここまで解明された」といった、それぞれお分野の発展をくらべた記事が出ているのかもしれません。

人の設計図から、未来の人は、なにを読みとっているのでしょうか。(了)
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書評『続・科学の終焉』
きのう紹介した『科学の終焉』の続編です。ただ、続編といってもかなり内容が異なる印象を受けました。

『続・科学の終焉 未知なる心』ジョン・ホーガン著 筒井康隆監修 竹内薫訳 徳間書店 2000年 500ページ


本書が『続』とついているからには「前作」といえる『科学の終わり』では、科学や哲学などの幅広い分野を見わたして、「物事のしくみをすべて説明することのできる理論を得てしまい、もうこれ以上、探究することはないという『科学の終焉(おわり)の日』は来るのか」を主題にしていた。

「前作」の中で、ある章だけ、かなり毛色がちがった印象がある。科学の分野のなかでも、「心の科学(神経科学)」をあつかった部分だ。心の科学については、物事のしくみをすべて説明できることはおろか、まだ何もわかっていないも同然の状態である。そうした“歩調のずれ”が、毛色がちがうと感じさせたのだろう。

『続』のついたこの本は、その「心の科学(神経科学)」の部分を、まるまる掘り下げて一冊に仕立てたという構成だ。

読むにつけ、心理学、神経科学、精神医学などの、心をあつかう諸科学は、まだ何も始まっていないのだということがよくわかる。「心理学者というよりも文学者」と、著者にこき下ろされているフロイドが、世紀の変わり目にいたっても、まだもてはやされていたのは、フロイドに代わる心理学の権威が登場しない現状を表していると著者はいう。

興味深い発見の話や仮説がつぎつぎと披露される。だがほとんどすべては「心をあつかう科学はまだ何もわかっていない」という論の根拠として紹介されているだけのため、「これは将来を決めるようなすごい発見だ」といった爽快感はあまりなかった。

「行動遺伝学(行動における遺伝の影響を見る学問)」と「進化心理学(進化が行動を決めるということを見る学問)」という、似たような学問がパラレルに出てくるところがあるので、よく区別して読まれるとよいだろう。

『続・科学の終焉』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/続・科学の終焉-おわり-?未知なる心-ジョン-ホーガン/dp/419861170X/ref=sr_1_1/250-3461571-9880240?ie=UTF8&s=books&qid=1187716399&sr=1-1
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書評『科学の終焉』
この本を読むまでは、「科学に終焉があるのか」といった問いがあることさえも、考えていなかったかもしれません。米国でこの本が出た1997年ごろまで著者が原稿を寄せていた『サイエンティフィック・アメリカン』は、日本の『日経サイエンス』のオリジナル版として知られています。

『科学の終焉』ジョン・ホーガン著 筒井康隆監修 竹内薫訳 徳間文庫 1997年 490ページ


米国や英国などで活躍している有名な科学者や科学哲学者たちに取材をしてまとめた。本をつらぬく主題は「科学の終焉(おわり)はあるのか」である。

「科学の終焉」とは、科学が物事のしくみをすべて説明することのできる理論を得てしまい、もうこれ以上、探究することはないといった状態のことである。

科学や哲学に関心がある方にとっては、おなじみの有名どころがつぎつぎと「科学の終焉」の有無について、みずからの考えを披露する。たとえば、このような人物たちだ。ロジャー・ペンローズ、カール・ポパー、トマス・クーン、ハンス・ベーテ、リチャード・ドーキンス、スティーブン・J・グールド、スチュアート・カウフマン、エドワード・O・ウィルソン、ノーム・チョムスキー、ダニエル・デネット、イリヤ・プリコジン……。

純粋な科学者も出てくれば、哲学者や文化人類学者として知られる人物も出てくる。科学哲学からカオスまで、扱われる分野はとても広い。彼らの代表作のひとつ(その一覧が巻末に載っている)でも読んだうえでこの本を読めば、各々の哲学的思想により興味をもつことができるだろう。

「科学に終焉はあるのか」の問いかけに対しては、「答えは存在すると思う」(ペンローズ)という人物もいれば、「科学はすべての問題にけっして答えることはできないだろう」(グールド)という人物もいる。けっきょく答えは、それぞれの研究者の直観に追うところが多いようで、各々の研究の内容とは独立している場合が多い。

著者ジョン・ホーガンは、米国の科学雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』のライター。研究者たちを手玉にとるような取材のしかたは見事だ。科学者たちをチェスの持ち駒にして、一人でそのチェスを動かして楽しんでいるかのようでもある。うやうやしく振る舞って研究者たちを油断させておきながら、核心をずばっと攻める。理論はけっして証明できないと言うポパーに対して「あなたのその理論も証明できないと言うことですか」と質したときのポパーの顔が目に浮かぶ。

ポパーも含めて、取材直後に逝ってしまった人が多いのはなにかの因果だろうか。

『科学の終焉』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/科学の終焉-おわり-ジョン-ホーガン/dp/4198607699/ref=cm_cr-mr-title/250-3461571-9880240
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「命の設計図」を報じる(8)
「命の設計図」を報じる(1)
「命の設計図」を報じる(2)
「命の設計図」を報じる(3)
「命の設計図」を報じる(4)
「命の設計図」を報じる(5)
「命の設計図」を報じる(6)
「命の設計図」を報じる(7)



20世紀なかば「二重らせんが見えてきたとき」の新聞と、21世紀はじめ「人の命の設計図を読みおえたとき」の新聞をくらべてきました。

あらためて驚かされるのは、科学で生み出される「知」に対する情報量のちがいです。

日本の新聞の科学報道には、もちろんいまも「十分ではない」という声があがっています。「ニューヨークタイムズの科学版にくらべて日本の科学欄は情報が薄い」「政治や経済の記事の脇に追いやられている」などなど。

しかし、「50年前といま」という時間の差でくらべれば、いまのほうが、ひとつの科学の知をより多く、より詳しく伝えているのは事実でしょう。

記事が充実してきたのは、情報化社会の結果であるといえばそうなのかもしれません。ただ、科学のほうに目を向ければ、科学の進歩もまた、記事を充実させる牽引役になったのではないでしょうか。

ワトソンとクリックのDNA二重らせん構造の発見にまず反応したのは研究者たちでした。それからの生物学の世界での発展ぶりに、報道側や社会が驚き、影響を受けたという点もあるにちがいありません。

1953年4月からの半世紀が「二重らせんに導かれた時代」であるとすれば、その時代の終着点はゲノム読解でした。そして、2003年4月からは「ゲノム読解を活かす時代」を迎えることになりました。

生物学の新しい時代、どのような研究が繰り広げられているのでしょう。そして「ゲノム読解を活かす時代」がまた50年たったときに、新聞にはどんな記事が載っているのでしょう。

最後の回は、「ゲノム読解を活かす時代」の現在から、未来を見わたしてみたいと思います。つづく。
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日本の医学に貢献したオランダ人の機嫌


江戸時代から幕末から明治維新にかけての日本では、来日している医学者が日本人に西洋の医学を教えていました。

その重要人物のひとりが、オランダ軍医のアントニウス・ボードイン(1820-1885)でした。たとえば、いまも日本人が飲んでいるあの「太田胃散」は、ボードインが海外の香辛料を混ぜ合わせてつくると胃に効くとして、処方を伝えたことからつくられたのだそうです。

長崎に建てられた医学校で医学を教えるために、ボードインは1862年に初来日しました。江戸から明治に時代がかわる、5年前のことです。

さて、5年後に維新が起きるなどと思ってもいなかった江戸幕府は、そのころ海軍を置くことを決め、あわせて海軍病院も開くことにしました。そこで、幕府はボードインに「薬や医療器具、医学の本などをオランダから持ってきてもらえないだろうか」と協力を頼みました。

幕府の依頼によろこんで引き受けたボードインは、その準備をするためにいったんオランダに帰ります。

そして、船便で海軍病院に置く医療器具などをオランダから日本に向けて送ってから、ボードイン本人も再来日。

ところがです。ボードインがふたたび降り立ったときの日本は、前の日本とはちがっていました。明治維新が起こり、江戸幕府はなんと崩壊してしまっていたのでした。

船便であらかじめ送っておいた医療器具はどうなったのでしょう。新政府がすべて没収してしまいました。幕府を倒して起こった新政府。幕府と仲がよかったボードインを冷遇するのも無理からぬことだったのかもしれません。

新政府の冷遇ぶりにボードインは腹を立て、機嫌を悪くしてしまいます。

ただ、ボードインを冷遇をした新政府も、ボードインによって日本の医学が進歩したことはまぎれもない事実であると認識はしていました。ボードインに教えを受けた日本人の医者は数多くいます。新政府がこれからの医療の計画を進めるにあたって、ボードインと親しい日本人の医者からの協力はなくてはならぬもの。となれば、ボードインがご機嫌を損ねてしまっているいまの状況は、いささか不都合…。

そこで新政府は、ボードインのご機嫌をなおし、なんらかの重要な役職に迎えるのが得策、と思いなおすようになりました。相良知安と岩佐純というボードインの教えを受けた二人の医者を御用掛という調査役にして、この二人にボードインのご機嫌とりを命じます。

ボードインは大阪の門下生・緒方惟準から紹介された法性寺という寺に身を寄せ、そしてすねていました。「わざわざオランダに帰って準備てきたのに。新政府は冷たいものよ」と。

対して相良と岩佐は「ボードイン先生、そうおっしゃらず。こんど、大坂の鈴木町に仮病院と医学校ができますので、そこで教壇にお立ちになって、またわれわれ日本人に医学を教えてくれませんでしょうか」とボードインをなだめます。

「もう日本なんてこりごりだ。オランダに帰りますよ」

「ボードイン先生、そうおっしゃらず。新しい日本には先生の存在が必要なのです」

相良と岩佐の再三にわたる必死の説得にボードインも折れて、新政府にも協力することになったといいます。ボードインは、大阪の仮病院(現在の大阪大学医学部の前進)で1年間、教頭として教鞭をふるいました。

こうして新政府は、ボードインの機嫌を取り戻すことに成功し、ほっと息をついたのでした。その後、新政府は旧幕府が建てた昌平黌を、昌平学校さらには大学校(いまの東京大学)に改めるなどして、医療政策を着実に進めていくことになりました。

激動期の日本。青い目の人たちには、どのように映っていたのでしょうか。

さて、ここからは余談です。

1870年、東京・上野の山に新政府の医学校と病院が建てられようとしていました。しかし、オランダへ帰る直前に東京に来ていたボードインが「ここは、自然のままにしておきなさいよ」と新政府に言ったため、政府はこの提案をのんで、ここを公園に指定しました。

そんな経緯から、ボードインは「上野公園の父」ともよばれています。そして、開園から100周年の1973年、上野公園内にボードインの銅像が置かれることになりました。

除幕されたボードインの銅像。しかしなんと、すえおかれていたのは、じつはボードイン本人の顔ではありませんでした。まちがって、ボードインの弟が銅像になってしまっていたのです。

「この期におよんで私を冷遇するのですか」と、ふたたび機嫌をそこねたボードインの声が、あの世から聞こえてきそうな…。

その後、2006年10月になってボードイン像は、ボードインが大阪で身を寄せていた法性寺からの寄贈により、弟から本人にすげかえられたそうです。めでたし、めでたし。

参考文献:
吉村昭著『白い航跡(上)』
参考ホームページ:
http://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_09.html
http://www.geocities.jp/bane2161/bo-doin.htm
http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/ml/exhibit/kyoshi/orandakyoshi.html
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気象の珍事


ブログの記事のネタ選びは、大変なものであるとともに楽しいものでもあります。日が暮れる前にその日のネタが決まっていると、なんとなく心が落ち着きます。

きょうも、たそがれ時の電車のなかで、うろ覚えの知識があったので、「“あの話”を家に帰ってインターネットで詳しく調べて、話にまとめよう」と、たくらんでいました。

ところが、家に帰って、インターネットで“あの話”の詳しい情報を探したのですが、どうしても見つかりませんでした。調べかたが悪かったのか、インターネットに流れていない情報はまだまだあるということか。それとも記憶ちがいか……いや、そうではないはず。

きょうは、見つからなかった“その話”の話をさせてもらいます。暑い日が続いているので、気象の話をしようとしていました。

日本の各地に張られている気象観測網では、毎時間ごとに雨量や温度などの、気象についての数値が記録されています。

温度の数値からは、こんな記録も導きだすことができます。

「何月何日の何時における、最高気温を記録した場所と温度、そして最低気温を記録した場所と温度」。

例として、きのう(2007年8月16日)の14時台で考えてみましょう。

最高気温を記録した場所は埼玉県の熊谷ならびに岐阜県の多治見で、気温は40.9度でした。いっぽう、おなじ時間帯に最低気温を記録した場所は、気象庁の統計を見るとどうやら北海道の紋別(富士山や南極の昭和基地はのぞく)。紋別の14時の気温は17.8度でした。

熊谷や多治見で「暑くてたまらない」という悲鳴があがっていたころ、紋別では「セーターをたんすから出さないと」という声があがっていたのかもしれません。

インターネットで見つからなかった“その話”も、おなじ日おなじ時間の最高気温を記録した場所と、最低気温を記録した場所にまつわる話です。

「埼玉県の熊谷と北海道の紋別」はたまた「岐阜県の多治見と北海道の紋別」といったように、ふつうであれば、おなじ時間における最低気温を記録する場所と、最低気温を記録する場所は、別の都道府県のかなり離れた地点になるはずです。

ところが、めずらしいことに、 “昭和何年何月何日の何時台”に、北海道のとある観測地点と、その観測地点のすぐおとなりの観測地点で、最高気温と最低気温を記録したという話があります。その話が載っていた本の記憶をたどれば、北海道内陸の10キロほどしか離れていない二つの地点で、その時間の全国における最高気温と最低気温が記録されたということでした。

たとえるなら、東京都の大手町で40.9度だったのに、おなじ時間に大手町と遠くない東京都の練馬で17.8度だった、というようなものでしょうか。あるいは、大阪府の八尾で40.9度だったのに、おなじ時間に八尾と遠くない堺で17.8度だった、というようなもの…。

宿題とさせていただきます。

「北海道のあるとなりあった二つの気象観測地点で、ある日のある時間に、日本国内の最高気温と最低気温を記録したことがある。それは、何年何月何日の出来事で、観測地点はどことどこだったか。また、そのときの最高気温と最低気温はそれぞれ何度だったか」
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「命の設計図」を報じる(7)
「命の設計図」を報じる(1)
「命の設計図」を報じる(2)
「命の設計図」を報じる(3)
「命の設計図」を報じる(4)
「命の設計図」を報じる(5)
「命の設計図」を報じる(6)



2003年4月に日本をふくむ6か国首脳が宣言した「ヒトゲノム解読完了」。日本の新聞はことこまかに、その意味や意義、そしてこれからの生物学の見とおしなどをつぎつぎと記事にしました。

その50年前、1953年4月に明らかにされた、ワトソンとクリックの「DNA二重らせん構造発見」を取りあげた日本の新聞はどこもありませんでした。1962年に、二人がノーベル賞を受賞したときも、新聞は「(ワトソン・クリックの模型は)生物学にとっては重要な意義をもっているといわれる」と、やや自信なさげの文体で締めくくるにすぎませんでした。

21世紀、世の中にも生物学の知識が知れわったなか、ヒトゲノム解読完了にまつわる記事のなかから、「らしい」や「ようだ」ということば多くが用いられた記事を見つけました。

朝日新聞4月16日朝刊のコラム「天声人語」です。
▼あるヒトをそのヒトにするための設計図、つまり遺伝情報がすべてわかった。といっても、本にたとえると、いわば文字の配列がわかっただけで、文字が伝える意味が解明されたわけではないらしい

▼この研究をしていると、ヒトが他の生物とそれほど違いはないのではないか、との思いにしばしばとらわれるようだ。(略)ヒトにもっとも近いとされるチンパンジーの遺伝情報の違いは1・23%にすぎないそうだ

▼言葉を使うかどうかの違いはあるが、瞬間的な頭の働きや短期の記憶力などヒトとチンパンジーとでそれほど違いはないということらしい
天声人語は、決まった編集員が「天声人語子」という呼び名で本名は使わずに、連日にわたり書いています。この時期の執筆者は学芸部出身の故・小池民男でした。

「らしい」「ようだ」「そうだ」を使うことに、強い違和感があるわけではありません。ただ、科学のはなしを伝聞で伝えるか断定で伝えるかは、その情報が世の中に浸透しているかどうかとともに、その分野に長く携わり、見守りつづけてきたかどうかにも左右されるという気がしました。

しかるに、朝日新聞の4月18日朝刊「窓」では、科学部や『科学朝日』編集部などを経て、当時、科学技術・医療担当の論説委員をつとめていた高橋真理子が、「ゲノムの無駄」という記事を書いています。
つくづく不思議に思うのは、遺伝子部分がDNAのほんの一部に過ぎないことだ。

今回の発表で明らかにされた遺伝子は3万個余り。それ以外の部分はどんな働きがあるのかわからない。この「ゴミDNA」が30億文字のうち、実に9割以上を占める。

今のご時世、ゴミといってもまだまだ使えるものがあったりする。ゴミDNAからも、使えるものが見つかる可能性はある。それにしても詳細に解読された我がDNAの大半が、現時点でゴミとしか見なせないとは。
引いた文とは異なる文には、伝聞のことばも見うけられます。しかし、DNAの遺伝子以外の部分を「ゴミDNA」と言い切り、「ゴミ」「ゴミ」と続けられるのは、科学畑を歩んできた記者だからこそと思ってしまいます。つづく。
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日射病と熱中症


きょう(2007年8月15日)も、東日本や北日本などで猛暑日となりました。群馬県館林市では40.2度までのぼり、地元のお寺では、文福茶釜のたぬきが「あっちっち」と叫んだとか。

暑さによる健康への被害も気になるところです。「熱中症にご注意を」。

さて、ひとむかし前までは、もっぱら暑さが引き起こす病といったら「日射病」が知られていました。けれども、このごろは、報道番組や新聞などを見ても、もっぱら「熱中症」を話題にしています。

ためしに新聞社が提供している言葉の検索で、過去10年分と、さらにその過去10年分で、ふたつの言葉が使われた記事の数を比べてみました。

1986年から1995年の10年間では、「日射病」が143件だったのに対して、「熱中症」は41件でした。

ところが、その後の10年間では、使われぐあいが逆転します。1996年から2005年にかけては、「日射病」が134件だったに対して、「熱中症」は946件にも跳ねあがりました。

日射病はどんな病気でしょう。熱中症はどんな症状でしょう。これも、言葉の成り立ちから、意味をつかむことができます。

「日射病」は、強い直射日光に長いあいだ照らされることによって、体温が上がったり、体のなかに熱がこもったり、また、水分や塩分が失われたり、血のめぐりが悪くなったりといった障害を起こす病です。

いっぽう、「熱中症」は、暑い環境の中で過ごすことによって体の変調をきたす症状のことを言います。たとえば、塩分が失われ筋肉がけいれんを起こしたり、水分が失われて脱水症状を起こしたり。

注目すべきは、「熱中症」の言葉の範囲の中には「日射病」も含まれるということです。

厚生労働省が示す「熱中症」の説明にも、「高温・高湿の環境下で体温が著しく上昇したり、あるいは脳への血流、体内の水分や塩分が著しく不足するなどして作業ができなくなるような状態を総称した病気で、『熱虚脱・熱疲はい』、『熱けいれん』、『熱射病(日射病)』に分けることができます」とあります。

これらの話をまとめると、「日射病」も危険ではあるけれど、熱そのものによる体への害に重きを置くことによって「熱中症」という言葉がよりひんぱんに使われるようになったようです。

それにしても気になるのは、過去の新聞で「日射病」または「熱中症」が扱われた記事の数の移り変わりです。

1986年から1995年の10年間では、「日射病」と「熱中症」を合わせた記事の数は184件。いっぽう、その後の1996年から2005年の10年間では、記事の数は1080件とおよそ10倍にもなっています。

でも、「地球温暖化の影響でしょう」としてしまうのにはすこし抵抗があります。むしろ「地球温暖化に報道機関が敏感に反応したための影響でしょう」といったほうが当てはまる気がします。
| - | 22:12 | comments(0) | -
六虫


おなじ24時間なのに、子どものころの夏休みの一日といえば、いつまでたっても日が暮れず、たっぷりとした昼間の時間を近くの公園で過ごしていたような気がします。

公園での遊びといえば、もっぱら“草野球”か“六虫”でした。

“六虫”は、子どものころを過ごした場所と時代によっては、まったく知らないという人もいるかもしれません。子どもから子どもへと受け継がれた、民間伝承的な球技です。

野球とおなじように、攻め側と守り側にわかれます。少ないときは2人対2人。多いときは10人対10人でも対戦できました。

マンホール大の“塁”を二つ、靴のつま先で地面に描きます。

攻め側の人員は、最初にみな、塁に片足だけを入れて立ちます。攻め側のだれか一人が球(カラーボール)を手打ちして、試合開始です。

攻め側の人員は塁の間を往復したら「一虫」の称号を得ます。3往復半であれば「三・五虫」。こうして塁と塁のあいだの往来をくり返し、だれかが「六虫」までたどり着けば、攻め側の勝ちとなります。

いっぽう、守り側が守り切るには、攻め側に「六虫」までたどり着かせないように、攻め側の人員を一人ずつ「死人」にして戦列から離れさせていかなければなりません。攻め側の人員がみんな死人となり、「全滅」になれば、守り側の守り切りとなります。

攻め側の人員を「死人」にするには、塁間を移動中の攻め側の人員に球で触れてその球を地面につけるか、球を投げてその球が地面に付くことが求められます。

ただ守り側が攻め側の一人ひとり死人にしていくのは大変なので、さらに、守り側には攻め側を一挙に「全滅」させる方法もいろいろあたえられています。

たとえば。攻め側の塁間移動がない局面(野球でいう投球と打撃の場面)には、守り側の投手ふたりが、攻め側の人員がいるどちらかの塁で、塁をまたいだ球の送球・捕球をします。投手から投手へ、塁をまたいで球がわたれば「一」。また、球が戻れば「二」。そうして「一二」に達したときまでに、攻め側のだれかが塁から出て走らなければなりません。だれも走らずに、投手が攻め側のだれかを球で触れてその球を地面に付けば、それで一挙に「全滅」となります。

他にも、攻め側の死人が、塁間の範囲内にぼおっと立っている場合、守り側がその死人に球を触れてその球を地面に付ければ「全滅」となったりもます。

いっぽう攻め側も、守り側の守備をいろいろと妨害することができます。「一虫」を過ぎれば塁の中で飛び跳ねたり、塁からけんけんで離れたりできます。これによって、投手の投げ合いを妨害するのです。

さらに、球が転々と転がっている場合、攻め側はその球を拾って遠くに投げることもできます。ただし、下投げ。味方の人員の「虫」の数を稼ぐため、球を遠くへ下投げして放るのです。

が、一歩上の手段として、下投げした球を死人に当てることによって、死人を「復活」させることもできます。復活者は「ゼロ虫」から再び始めます。統制のとれた攻め側であれば、復活者はおとり役として、守り側の守備をかき乱すことにより、「四虫」や「五虫」まで進んでいる味方を、次の塁に進ませることに身を捧げます。

記憶では、攻め側が「六虫」までたどり着いて勝ちをおさめた確率は、半分ぐらいだったでしょうか。また、2人対2人よりも、10人対10人のほうが、攻め側が「六虫」までたどり着く率が上がるかといったらそんなことはありませんでした。「全滅」という罠があるため、人数が多ければ、その罠にも引っかかりやすくなるということだったのでしょう。

紹介した六虫の規則は、神奈川県東部の多摩川下流域のごく一部で浸透していた規則に過ぎません。調べてみると全国各地に、六虫の地方規則が存在しているようです。中国地方などでも六虫はさかんだったようです。

おそらくは、野球の決まりに示唆を得た子どもが始めた遊びなのでしょう。全国各地で“六虫体験”があることを聞くと、相当な伝播力だったようです。たしかに物心がついたときには、六虫の規則をことこまかに覚えていました。
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「命の設計図」を報じる(6)
「命の設計図」を報じる(1)
「命の設計図」を報じる(2)
「命の設計図」を報じる(3)
「命の設計図」を報じる(4)
「命の設計図」を報じる(5)



日本、米国、英国などの6か国首脳は2003年4月14日、「ヒトゲノムの読解完了」を宣言しました。この「宣言」は、前年に日本の研究チームが国際的な会合の中で「ヒトゲノムの完成配列の解読を宣言する国際的なセレモニーを行い、各国首脳による共同宣言を出してはどうか」と提案したことにより行われたものです。

日本の研究チームを指揮していた理化学研究所ゲノム科学総合研究センターの榊佳之は、著書『ゲノムサイエンス』の中で、「ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を発表したのは一九五三年の四月二五日号の『ネイチャー』の誌面上だったので、ちょうど五〇年後にあたる二〇〇三年四月二五日に、ヒトゲノムのデータを完成することを目標に掲げていたのです」と、少々政治的な意図があったことを述べています。

その50年前のワトソンとクリックの二重らせん構造の発見を報じた日本の新聞記事は「ゼロ」でした。その50年後、各紙は各面でトップ記事や解説記事をつぎつぎと載せています。

たとえば朝日新聞は、4月15日朝刊1面で「ヒトゲノム解読完了」の見出しを掲げるとともに、3面の総合面「完了後の課題はたんぱく質解析」、16日の科学欄「案内図から設計図に」、18日の「窓」「ゲノムの無駄」、20日のオピニオン「国際機構会長 榊佳之さんに聞く」、さらには30日からは科学欄で「DNA50年 研究から暮らしへ」という連載も始めています。

「完了後の課題はたんぱく質解析」と書かれてあるのは、遺伝子という「設計図」が作り上げた、たんぱく質という「建てもの」こそが生命の活動を担うためです。

また、「案内図から設計図に」の意味は、3年前の2000年にいち早く発表されていた「概要版」は案内図ほどの精度でしたが、今回の「完全版」は設計図ほどの精度がある、といった比喩表現です。

ほかの新聞の見出しを拾ってみても、「『ヒトゲノム』がもたらす恩恵 医療、バイオ産業など幅広く」(読売新聞4月15日)、「医薬品開発が加速」(毎日新聞4月15日)、「関連研究も本格化」(日本経済新聞4月15日)などのように、ヒトゲノムがすべて解読されて科学技術の新しい局面が展開しはじめたことを印象づけています。

1953年にはDNA二重らせん構造の記事は皆無でした。1962年にワトソンとクリックのノーベル賞を受けたときでさえ、第4回で見たとおりのかなり小さな扱い。21世紀初頭の新聞と比べると、その情報量の差は歴然としています。

また、1962年の解説記事は、当時の新聞記者の関心・知識の度合をしめすように、「(ワトソン・クリックの模型は)生物学にとっては重要な意義をもっているといわれる」と、伝聞調の記事の締めくくり方がされていました。

ところが、2003年のヒトゲノム完全解読についても、「らしい」といった人づての言葉づかいが見られます。どんな記事でしょう…。つづく。
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悪魔に部屋を冷やしてもらう。


各地で「猛暑日」がつづいています。冷房のきいていない部屋のなかにいると、じっとしていても汗がにじみでてきますね。

暑い空気と冷たい空気が、家の中でわかれるような仕掛けがあればいいのに! そこでこんな夢の話を。

あなたはいまからお出かけをします。戸締まりをすべてしたあとで、留守番をしてくれる「悪魔」に、「手前の部屋を冷えた空気だけが満たすようにして、奥の部屋を暑い空気だけが満たすようにしておいてちょうだいね」と、お願いしました。

あなたが外でお昼ご飯でも食べているころ、悪魔は家の中の手前の部屋と奥の部屋をしきる壁の扉のところに立って、せっせと扉の開け閉めをしています。

悪魔は「熱が高い分子は動きが速く、熱が低い分子は動きが遅い」ということを知っていました。

そこで悪魔は、手前の部屋のなかで速く動いている空気の分子が扉に近づいてくるとさっと扉を開けて、その分子を奥の部屋へと通しました。おなじように、奥の部屋でゆっくりと動いている分子が扉にのろのろと近づいてくると、また悪魔は扉を開けて、その分子を手前の部屋へと通しました。

こうして悪魔は、分子にいっさいさわることなく、ただ扉を開け閉めしただけで、熱の高い分子と熱の低い分子をわけていきました。

夕方になって、あなたはお出かけから家に帰ってきました。すると、手前の部屋は冷蔵庫のなかのようにぎんぎんに冷やされ、いっぽう奥の部屋は灼熱のサウナになっていました…。

悪魔は空気をみずからの手で動かしたわけではありません。空気に対して働きかけをしていないにもかかわらず、奥の部屋を熱のこもったサウナにしてしまいました。

いっぽう、物理には「仕事を加えることなしに、冷たいものを熱いものにすることはできない」という「熱力学第二法則」という法則があります。この法則は、「エントロピー増大則」ともいわれています。エントロピーとは「乱雑さ」を表した量のこと。おおざっぱにいいかえれば、この法則は「自然の世界は、ほおっておくと乱雑さがどんどんと増えていく」という物のことわりを示しています。

留守番をまかされた悪魔は、熱力学第二法則にもめげずに、あなたの命令をきっちりと守ったことになります。

この悪魔は「マクスウェルの悪魔」とよばれています。19世紀後半、英国の物理学者ジェームズ・マクスウェルが思考実験のなかで、この悪魔のような存在を登場させれば、熱力学第二法則は崩れてしまうのではないかと思いついたのです。

熱力学第二法則を守るためには悪魔をやっつけなければなりません。そこで、レオ・シラードという物理学者がこのようなことを考えます。

「悪魔は観測によって、分子の動きについての情報を手に入れなければならない。悪魔が情報を手に入れることによって家のなかのエントロピーは増える。その増え方は、悪魔がいないときよりも大きいのだ」

悪魔がやっつけられたことは、暑がりの人にとってはいささか残念ですが、科学の理論は保たれました。
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17金と19金のあいだ


千葉県・南房総の温泉宿泊施設から、重さ80キロの「黄金風呂」が盗まれた事件がいっとき話題になりました。

“お宝”が戻ってこないため、“二代目”をお披露目したそうです。黄金風呂を作っている貴金属業は、2005年にはじめて宿泊施設に黄金風呂を納めたときは「時価1億2千万円のK18製の浴槽『黄金風呂』を設置」と、華々しく報道発表をしていました。しかし、今回はとくにお知らせをする気配はありません。

宿泊施設のホームページを見ると「黄金風呂」の仕様が書かれてあります。ここにも、「18金」と書かれてあります。

「K18」や「18金」は、広告などでもよく耳にしますが、どういった単位なのでしょう。貴金属にくわしいお方には、いわずもがなかもしれませんが…。

「K」は“Karaat”というオランダ語の頭文字で、「K18」は「18カラット」とよびます。「18カラット」と「18金」はおなじ意味。

「18」と付くからには、上にも下にも数字が続きます。この「K」「金」の単位は金の純度を表すもので、もっとも高い値は「24金」。これは「24分中に24分の金が含まれている」という意味で、いわゆる「純金」を指しています。純度が99.99%あれば「純金」を名乗ってよいのだそう。

宿泊施設の「黄金風呂」や貴金属でよく目にする「18金」は、つまり「24分中に18分の金が含まれている」ということを意味します。純度は75%。

「18金」ということばはよく目や耳にするものの、ひとつ下の「17金」や、ひとつ上の「19金」というのをあまり聞いたことがありません。

金に詳しい人物の話によると、「18金」よりも金の純度が下がってしまうと錆びてしまうのだそう。純金でない金はたいていが銅と合わせたものであり、銅が錆びると色が黒ずんでしまいます。錆びないぎりぎりの線が「18金」ということのようです。

では、ひとつ上の「19金」をなかなか聞かないのはなぜか。「18金」でも「19金」でも、ともに錆びないのであれば、わざわざ純度をすこし上げるようなことはしないということでしょう。

やはり「二代目の黄金風呂は、せっかくですから『19金』に上げてみました」とも「ちょっとけちって『17金』に下げてみました」ともならないのでしょう。「0金」の風呂に入りながら、そんなことを瞑想。
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「命の設計図」を報じる(5)
「命の設計図」を報じる(1)
「命の設計図」を報じる(2)
「命の設計図」を報じる(3)
「命の設計図」を報じる(4)



ワトソンとクリックが書いた論文「デオキシリボ核酸の分子構造」が『ネイチャー』に載ったのが1953年4月。それからちょうど50年たった2003年4月、「国際ヒトゲノム計画」という科学プロジェクトが「ヒトゲノムの読解完了」を宣言しました。

1953年に二人が構造を解き明かしたDNA(デオキシリボ核酸)という分子のなかには「遺伝子」が含まれています。遺伝子は、ある一個の生物がもっている情報を次の世代に伝える役割をもったDNAの一部分。「命の設計図」といえるでしょう。

そして、ある一個の生物がもっている、遺伝子を含めたDNAの一セットが「ゲノム」です。ゲノムは、遺伝情報がところどころに挿みこまれた、文字の羅列された一冊の「本」に喩えることができます。

DNAの構造が発見され、ノーベル賞で科学史におけるその業績の位置づけが確固たるものになってからというもの、DNAや遺伝子をめぐる研究は生物学の花道のような存在になりました。

たとえば、「設計図」を含めたDNAの情報を読みとる機械を発明した研究者もいました。また、調べたい遺伝子を顕微鏡で観察しやすくするために、ねらったDNAの一部分を自動的に倍々化されていくという、画期的な増殖法を考え出した研究者もいました。

こうした一連の研究の中の大きな区切りともいえる計画が「国際ヒトゲノム計画」だったのです。

世界各国の研究機関が参加して、23対ある人の染色体という「章」を各国に振り分けし、その研究機関がそれぞれの「章」のすべての文字を読みとっていく…。国際ヒトゲノム計画は、そんな壮大な計画でした。

ヒトゲノムという一冊の「本」にかかれてある文字を丸ごと読み解くことができれば、DNAのどの部分が人間のある病気と関係していて、DNAのどの部分が人間のある能力と関係しているか、といったことがつぶさにわかるようになります。

2003年4月14日、国際ヒトゲノム計画は「すべてのヒトゲノムの読解を完了した」と宣言しました。ワトソンとクリックのDNA二重らせん構造の発見の瞬間を報じるべくもなかった日本の新聞は、それから50年後、何をどのように伝えたのでしょうか。つづく。
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能と線


日本語の熟語をばらしてみると、ことばの本来の意味が分かる場合が多くあります。

先月(2007年7月)17日の日本経済新聞の社説には、「柏崎刈羽原子力発電所では火災が発生し、微量の放射能を含む水漏れも起きた。原発火災は原子炉とは別の建物横にある変圧器から出火したもので、放射線の測定値に異常はなかったという」と書かれてありました。

原子力発電や原子力爆弾の話では、「放射能」と「放射線」ということばをよく聞きますが、二つのことばのちがいはどこにあるのでしょう。

3文字目はそれぞれ「能」と「線」。「能」は「能力」の「能」。「線」は「エックス線」の「線」。ことばが属する範疇そのものがちがうことがわかります。

あなたの机の近くに電灯はありますか。電灯には「光線」を出すという「発光能力」があります。これをそっくり原子力の話に移すと、「光線」にあたるのが「放射線」で、「発光能力」にあたるのが「放射能」となります。つまり放射能とは、放射線を出す能力のことを指します。

では、「電灯」にあたるものは何なのでしょう。この、放射線を出す源のことを「放射性物質」といいます。

ことばと意味の対応関係をややこしくさせているのは「放射能漏れ」でしょうか。ここまでの話の流れでいくと、「放射能漏れ」とは「放射線を出す能力が漏れること」をいうはず。

けれども、「放射能漏れ」はしばしば「放射性物質漏れ」という意味で使われています。国も「放射能」と「放射線」を区別して理解してもらうことを願った文書で「放射能漏れとは、放射性物質が周辺環境に漏れ出すこと」と説明しています。いっそ「放射能漏れなんて使うのやめましょうよ」とでも書いたほうが、親切かもしれません。

浴びると健康に害が生じる光を出す能力をもった電灯が、箱の中で密閉されているとしましょう。この電灯そのものが、箱の外から出てしまっている状態が(誤用に近いけれど)「放射能漏れ」あるいは(ほんとは)「放射性物質漏れ」。いっぽう、電灯そのものは箱の中にとどまっているけれど、箱から光が出てしまっている状態が「放射線漏れ」となります。

「放射能漏れ」(ほんとうは「放射性物質漏れ」)と「放射線漏れ」。どちらがより深刻であるかがわかります。

冒頭で引用した新聞の社説は、「放射能漏れ」を使っていません。ことばを意識しているようです。

参考:文部科学省原子力安全課原子力防災ネットワーク「原子力防災基礎講座テキスト」
http://www.bousai.ne.jp/visual/bousai_kensyu/shouboudan/pdf/P15.pdf
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野球の「なぜ」
20070808233142.jpg

高校野球がはじまり「球春のおとずれ」ならぬ「球夏のさかり」の季節になりました。

野球にはまだまだわからないことがあります。

左打者は左投手が苦手のよう。たしかに高橋由伸は、背後からくるようなジェフ・ウィリアムスの球をいつも空振りしています。でも、やや両足と体ごと開き気味にして球を迎えうてば、角度が補正されるのでは。

試合時間を短くするファンサービスが、とくにプロ野球で話し合われています。ファンからもさほど反対はなさそう。でも同じ料金で似た中味の試合を観るのであれば、2時間半で終わってしまう試合よりも5時間過ぎてもまだ続いている試合のほうがありがたいのでは。好きな歌手のコンサートなら、5時間続けてくれる公演のほうが満足感がありそうな気がします。

そのほか。2点差を追う9回裏の外野手前適時打で2塁走者をいつものように本塁まで走らせようとするのはなぜ。先発野手を交代しきるような総力戦が戦術としてあるのはなぜ。初芝がいまもなお一部で人気あるのはなぜ……これはわかる気がする。
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「命の設計図」を報じる(4)
「命の設計図」を報じる(1)
「命の設計図」を報じる(2)
「命の設計図」を報じる(3)



1962年10月19日付の日本の各新聞は、ワトソン、クリック、ウィルキンズの3人のノーベル生理学・医学賞受賞が報じています。なかでも朝日新聞と毎日新聞は、事実そのものを伝える記事のほかに、有識者の言葉や業績のあらましが載っています。

まず、毎日新聞は、このころ東京大学の教授だった生物学者・江上不二夫の談話を載せています。生命のしくみを化学の視点から研究する学問を生化学といいますが、江上は戦後の日本に生化学を導入した貢献者と評されています。
核酸は以前から遺伝の“にない手”と考えられていたが、ワトソン教授らはX線解析を利用して、それが二重にからみ合ったラセン構造を持っていることをつきとめいわゆる“核酸の二重構造モデル”を一九五三年に発表した。この核酸モデルは、その後多くの化学分析や生物実験で裏付けられ「ワトソン・クリックのDNAモデル」として一般に認められている。(中略)三人のうちワトソン博士は昨年来日し面識がある。いっぷう変わったところのある天才はだの学者だ。(以下略)
弟子がワトソンの研究室に留学しているということもあり、江上はワトソンのことを中心に語っています。

気になるのは「ワトソン教授らはX線解析を利用して」という何気ない一言。のちに、ワトソンはロザリンド・フランクリンという女性科学者が撮影したDNAのX線写真を本人に無断で見て、DNAが二重らせん構造であることを確信するにいたったことがわかります。ワトソンが「利用し」た「X線解析」が別の科学者のものであったことは、このとき江上の知るよしではなかったでしょう。

いっぽう、朝日新聞(上の画像)にも日本の科学者の談話が載っています。このとき、名古屋大学分子生物学研究施設の助手だった大沢省三から話を聞いています。新聞社は、大沢がワトソンの研究室で研究をしていたという情報を得て名古屋の大沢に取材をしたのでしょう。
三人のうちで、立役者といえば暗号解きの名人といわれる理論物理出身のクリックと思うが、今年の夏、ワトソンの所で私が研究していたころから、受賞が期待されていた。わが国では分子生物学といってもまだまだ理解がうすく、研究費や設備もまことにお粗末な現状だ。(以下略)
また朝日新聞は「業績のあらまし」という、1000字を超えるかなり詳しい解説記事も載せています。
(前略)この三人の学者は、長い間ナゾだった生物の遺伝とは不離の関係にある「デオキシリボ核酸」(DNA)という物質の分子が、いったい、どのような構造をしているか、ということをみごとに解き明かした。
 ウィルキンスがDNAの構造をエックス線を使って測定し、ワトソンとクリックがその測定結果をもとにしてDNAの構造模型を考案した。DNAというのは、ハシゴをひねったような構造をしており、ハシゴの横棒に当たるところに、四つの“暗号文字”が、それぞれの生物に特有の配列で並んでいる。この並び方の違いによって、遺伝のしかたが変ってくるのだという。(中略)
 このハシゴは「ワトソン・クリックの模型」と呼ばれているが、物理学における原子模型(中央に原子核があり、そのまわりを電子がまわっているという模型)と同じほど、生物学にとっては重要な意義をもっているといわれる。
江上不二夫が毎日新聞でDNAのつくりを「ラセン構造」ということばを使っているのに対して、朝日新聞は「ハシゴをひねったような構造」という喩えを使っています。1953年にワトソンとクリックが『ネイチャー』で発表した短い論文の中に載っている「ワトソン・クリックの模型」は、まさにハシゴをひねった形をしています。

また、この解説記事では、「塩基」や、塩基の種類である「アデニン、チミン、グアニン、シトシン」といったことばを使わずに、「四つの“暗号文字”」として喩えています。いまの新聞には「個々の微生物ではなく、その集団から得られたDNAをバラバラにして、塩基配列を決めて遺伝子を探す」(朝日新聞2007年7月23日科学面)などと載っています。当時は、まだ塩基という物質の理解が進んでいなかったのでしょう。

朝日新聞は「ワトソン・クリックの模型」が「生物学にとっては重要な意義をもっているといわれる」として記事を締めくくっています。伝聞系の文で終わっているところを見ると、日本の報道機関にはDNA構造解明の意義はまだあまり理解されていなかった状況がうかがえます。

ノーベル賞の対象にもなったワトソンとクリックのDNAの二重らせん構造の発見は、その後、生物学の世界に飛躍的な進歩をもたらしました。話は21世紀に飛びます。つづく。
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これはだれだ
先日(2007年8月1日)の紹介した會津八一の記念博物館で、「吉村作治の早大エジプト発掘40周年展」が開かれています。9月9日まで。

テレビタレントとしての活躍ぶりが目立つ吉村教授。この展覧会ではエジプトで40年にわたり続けてきた学術調査の成果を一挙に公開しています。

印象に残った展示品をいくつか紹介しましょう。


3200年前にエジプトを統治していた第19王朝のラムセス二世の第四王子カエムワセトの横顔のレリーフです。カエムワセトは王になる実力があったとされていますが、父親のラムセス2世がことのほか長生きだったため、けっきょく王にはなれませんでした。カエムワセトはエジプトに散らばる多くのピラミッドを修復したことから、「人類最初の考古学者」とも言われています。


紀元前664年から紀元前525年にかけて栄えた、エジプト第26王朝の王だったアマシスの名が刻まれたシストルムという打楽器です。シストルムは鈴に似た楽器で、女性がチリンチリンと音を奏でていたと言われます。


数ある展示品の中でもひときわ心に残る作品は、このライオン女神像ではないでしょうか。上の二つの王朝時代よりもはるかに古い、およそ4500年前の第4王朝のころの彫像です。女性的な体形にライオンの顔。顔をまじまじと見ると、とても穏やかな目をしています。

このライオン女神像を見ていると、なんとなしに気になることがあります。

女神像の横に立っている素っ裸の男性の姿。女神の膝元で指をくわえています。この人物はいったい何者なのでしょう。

展示解説に目をやると、そこには意外な人物の名前。この人物こそ、世界最大のピラミッドの下で眠っているクフ王なのだそうです。解説によると、彫像の背板に刻まれた王の名前からクフ王であることが判明しました。

それにしても、ちっちゃい。あの巨大ピラミッドに眠る、偉大なるクフ王がこんなこわっぱの姿だとは……。

それとも、ライオン女神像がとてつもなく大きな存在だったということでしょうか。しばしあっけにとられてしまいました。

数多くの展示物を観ながら、幾千年も前のエジプトに想いを馳せてみてはいかがでしょう。「吉村作治の早大エジプト発掘40年展」は、早稲田大学の會津八一博物館で2007年9月9日までです。ホームページはこちら。
http://www.egypt.co.jp/egypt40/tokyo.htm
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危険を知らせる水位の名前


今年(2007年)は8月4日までに、2個の台風が日本列島に上陸しています。九州地方を中心に土砂崩れや洪水などが起きています。

放送で台風情報などを聞いていて、昨年までとすこし変わった点があることに気づきましたでしょうか。川の水かさがどれくらい上がったかを知らせる、水位の名前が変わったのです。

川のはん濫が起きてしまうまでに、4つの段階を設けました。だんだん危険となっていく順に、それぞれを見ていきましょう。

「水防団待機水位」。この水かさを超えると、町の水防団がいつでも活動を始められるように待機しはじめます。水防団の存在を知らない人も多いかもしれません。ふだんはほかの職業をもっており、洪水のようなときに活動をする特別な地方公務員です。水防団待機水位のむかしの名前は「指定水位」でした。

「はん濫注意水位」。水防団が出動して土のうを積むなどの警戒に当たります。川の近くに棲んでいる人が避難の準備を始めるべき水位でもあります。むかしの名前は「警戒水位」でした。

「避難判断水位」。地元の市区町村長が住民を避難させるかどうかを判断します。よく報道で耳にする「避難勧告」は、このときの長の判断によって出されるもの。むかしの名前は「特別警戒水位」でした。

「はん濫危険水位」。洪水により、家への浸水などの大きな被害が発生する恐れのある水位です。むかしの名前は「危険水位」でした。

水位の名前が変わったのは、情報の伝え手と受け手の間での、その情報に対する認識のずれが大きかったから。たとえばむかしの「特別警戒水位」と「危険水位」とでは、どっちがより緊急の事態なのかがいまいちわかりませんでした。

しかし変更後も「避難判断水位」で判断をするのは誰なのかとか、「はん濫注意」と「避難判断」と「はん濫危険」では、どれがもっとも緊急の事態なのかとか、まだわかりづらさも残っている気がします。

水位の発表を受けて伝える放送局などが「2番目に危険な状態を表す避難判断水位」とか「最も危険な段階のはん濫危険水位」とか、名前の前に説明を加えるのも手かもしれません。

市民が「待機、注意、判断、危険」などと覚える方法もありますが、市民にわかりやすくするための改正なのだから、これではすこし本末転倒ですね。ただ身を守るため、少なくとも「はん濫注意水位」と「避難判断水位」は覚えておいたほうがよさそうです。「はん濫注意水位」は避難勧告が出る一歩手前、「避難判断水位」はいよいよ避難という段階であり、あなたの行動に直接的に関わるからです。

国土交通省「洪水等に関する防災情報体系の見直し実施要領」はこちらです。リンクを貼っておいてなんですが、水位の順番がちぐはぐなので、あまり見ないほうが混乱は招かないかもしれません。
http://www.mlit.go.jp/river/saigai/tisiki/disaster_info-system/index.html
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「命の設計図」を報じる(3)
「命の設計図」を報じる(1)
「命の設計図」を報じる(2)



「DNA二重らせん構造の発見」から9年後の1962年。

この年のノーベル生理学・医学賞は、ジェームズ・ワトソン、フランシス・クリック、そして英国ロンドンのキングズカレッジに所属していた生物学者モーリス・ウィルキンスに贈られました。ノーベル賞の送り手であるノーベル財団によると、賞を授けた研究の対象は「核酸の分子構造および生体における情報伝達に対するその意義の発見」。ひらたくいえば、「核酸の分子構造」とは、DNA(デオキシリボ核酸)のつくりのこと。「生体における情報伝達」とは遺伝子のことです。

9年前にワトソンとクリックの論文が『ネイチャー』に載ったときはまったく記事として扱わなかった日本の新聞も、このノーベル賞については報道しています。

朝日、毎日、読売、日本経済の各紙とも、生理学・医学賞の発表があった翌日の10月19日、社会面のすみのほうに中くらいの大きさの記事で受賞を載せています。

ちなみに、この日の新聞の社会面で目につく記事は、毎日新聞では、大リーグのデトロイト・タイガースが日米野球のために来日したという話題。「ようこそタイガース 菊の花束歓迎攻め」という大見出しです。また、読売新聞は、帝銀事件で死刑囚となった平沢貞通が声で出演する日本放送のドラマ「平沢は訴える」が放送日に放送中止となったという記事を大きな記事にしています。

さて、“受賞”を伝える3紙の記事とも、事実そのものを伝える部分は、海外の通信社からの記事を載せる「外電記事」です。朝日新聞と読売新聞、それに日本経済新聞は米国のAP(アソシエイテッド・プレス)という通信社、毎日新聞はおなじく米国のUPI(ユナイテッド・プレス・インターナショナル)という通信社の発信を記事にしています。
【ストックホルム発=AP】一九六二年度ノーベル賞(医学・生理学)はF・H・C・クリック(英)J・D・ワトソン(米)M・H・F・ウィルキンス(英)の三博士に決ったと十八日発表された。
「核酸の分子構造と生物における情報伝達に対するその意義」に関する業績に対し授賞されたものである。
外電記事はその後、3人の略歴や、およそ26万クローナ(当時の比で1800万円)という賞金額などを報じています。

事実そのものを伝える記事のほか、朝日新聞と毎日新聞では、有識者の言葉や業績のあらましを載せた解説記事も載っています。この、解説記事の部分に、当時の日本のDNAへの知識の度合や、遺伝という概念に対する認識が強く出ています。詳しく見ていきましょう。つづく。
| - | 23:59 | comments(0) | -
「100年後はどうなっていると思う?」


ちょっと先の話ですが、来年2008年3月15日(木)から17日(土)にかけて、長崎で日本外科学会の定期学術集会が開かれます。

外科とは、体の外傷を手術などによって治療する医学の区分けのひとつ。日本外科学会は、外科学の研究の情報をやりとりする目的のために1899(明治32)年に創設されました。

集会が開かれる週は「長崎医学週間」。この週間での催しものとして、いま「21世紀の予言 夢のある未来に向けて 〜100年後はどうなっていると思う?〜」というコンクールでのアイデアを募集しています。

あなたが21世紀中に実現させたい医療・病院に関する予言はどんなものでしょう。またおなじく21世紀中に実現させたい社会・科学技術に関する予言はどんなものでしょう。

これらのアイディアを集めて競演会をします。特別審査委員はノンフィクション作家の最相葉月さんと、作家の瀬名秀明さん。

とかく、地球環境問題が心配されているため、100年後の世界を悲観する人も多いかもしれません。けれども、夢のある未来に向けて、ここは明るい予言をしてみてはいかがでしょう。

「21世紀の予言」アイデアコンクールは、(2007年)11月30日(金)までアイディアを募集中。興味のある方はコンクールのホームページをご覧ください。
http://www.c-linkage.co.jp/jss2008/jpn/idea.html
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書評『パラドックス大全』
真理と思われているけれど、じつは真理に反している説。あるいは、真理に反しているようだけれども、じつは真理である説。こういった説のことを「パラドックス」と言います。

『パラドックス大全』ウィリアム・パウンドストーン著 松浦俊輔訳 青土社 2004年 400ページ


嘘を嘘でぬりかためたような嘘つきは「私は嘘つきです」と言うことができるだろうか。その人物が嘘つきであれば「私は嘘つきです」も嘘になる。つまりその嘘つきは正直者となってしまう。

ここに、パラドックス(逆説)の種が生まれている。

本書は、正しそうに思えるけどじつは正しくなかったり、辻褄が合ってそうだけどじつは矛盾をはらんでいたりといった論理(逆説=パラドックス)の数々が紹介する。ちなみに上記でしめした矛盾に逆説はパラドックスは「嘘つきのパラドックス」という。もちろん本書の中でも登場する。

書名からは、パラドックスがずらーっと羅列されている本だと想像するかもしれない。けれども、ページを超えて章を超えて、ある逆説が何度も登場したりもするし、各章でテーマに沿った話の展開もある。「パラドックス論」と言ったらよいか。

パラドックスの説明以外にも、哲学や論理学に通じる話が多い。実在論とはなにか(ブラックホールの内側のように観測不可能であっても、そこにはそれが存在すると認める論)。「AはBである」ことを知るには、1「AがBである」と思うこと、2「AがBである」と信じる根拠があること、3実際に「AがBであること」などが必要、といった話などが紹介される。

理論的な話が本の大部分を占める。読むほどに読者は現実社会の諸問題から遠ざかり、もうひとつ世界をゆらゆらさまようことになるだろう。現実逃避に最適の本だ。想像の世界を行ったり来たりするのが好きな人は、読むこと自体が目的達成となる。この感覚は数学にのめり込んでいるときと似ているかもしれない。

『パラドックス大全』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/パラドックス大全-ウィリアム・パウンドストーン/dp/479176143X/ref=sr_1_1/249-7485572-0365152?ie=UTF8&s=books&qid=1186078835&sr=1-1
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