2007.07.31 Tuesday
「命の設計図」を報じる(2)
「命の設計図」を報じる(1)
1953年、科学雑誌『ネイチャー』4月25日付に、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックの論文「デオキシリボ核酸の分子構造」、つまりいわゆる「DNA二重らせん構造の発見」の論文が掲載されました。
近ごろの日本の新聞報道では、大きな科学の研究成果が『ネイチャー』や米国の『サイエンス』などの雑誌に載るとわかると、その号の日付当日あたりに記事として紹介する場合が多いです。「発見の内容は、科学雑誌『ネイチャー』の何月何日号に掲載される」といった紹介を目にしたこともあるでしょう。
これは雑誌社が、報道機関などにあらかじめ「何々という論文が載ります」と情報を流しておくため。しかし、雑誌より何日も前に新聞が研究成果を紹介してしまっては、雑誌の価値が落ちてしまいます。そこで「何月何日何時になったら報道しはじめてもいいです」というお達しを雑誌社が出します。港で外国の船舶の出港を阻止するため抑留を「エンバーゴー」といいますが、おなじく雑誌社が報道機関に対して提供する情報の解禁日を決める行いを「エンバーゴー」といいます。
50年前以上の、雑誌と新聞社には、エンバーゴーのような取り決めは、まだなかったものと考えられます。では、当時の日本の報道機関は、「DNA二重らせん構造の発見」という、生命科学の歴史の礎となるできごとをどのように報じたのでしょうか。
ここに、朝日新聞の昭和28(1953年)4月と5月の「縮刷版」があります。目次の「科学」という項を見ると「パノラマ式魚群探知機登場」や「『原子力』の平和的利用」やといった、記事の名前が並んでいます。しかし、目次を見ても、また、どのページを当たってみても、ワトソンとクリックの業績は報じられていません。
“報道なし”は、朝日新聞でけではなく、毎日新聞や日本経済新聞などを見てもおなじ。偉大とされる発見が、国が違うからとはいえ、当時の新聞に載っていないのは、すこし意外な気もするでしょうか。しかし、次のような背景を考えれば、“報道なし”は当たり前なのかもしれません。
まず、1点目。当時の新聞の科学技術報道の扱いは、いまのぐらいに充実してはいませんでした。たとえば、朝日新聞の1953年4月分の科学に関する記事を目次で数えると、11本の単発記事と日本学術会議関連の9記事、それに短信の3記事だけでした。
2点目。「DNA二重らせん構造の発見」は『ネイチャー』に載った直後は、まだ科学的価値がゆれていた点です。たしかに、ワトソンが後にみずからの研究を振り返った『二重らせん』という本の中で、DNAの構造を解き明かすための研究は、当時の生命科学における最大の論点であったように書かれています。
しかしながら、熱い争点となっている論題に関しては、熱いがために追試などを通して、後年に「あの理論はどうやら素晴らしい」と価値が与えられるもの。当時の生物学界には、「ワトソンとクリックから論文が発表されたようだけれど、さて、この論文は、これからどう評価されるか」といった、のんびりとした雰囲気もあったともいいます。
さらに3点目。日本国内ではDNAについての研究などはまだ進んでいず、「発見」の価値を鑑定できる目利きは、少なくともマスメディアの周辺には存在していなかったのでしょう。
こうした点から、「DNA二重らせん構造の発見」が、日本の新聞報道にお目見えするまでには、しばらくの歳月をまたなければなりませんでした。では、「発見」に対する報道がなされたのは、いつでしょうか。時は、『ネイチャー』に論文が載ってから9年半後へと移ります。つづく。
1953年、科学雑誌『ネイチャー』4月25日付に、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックの論文「デオキシリボ核酸の分子構造」、つまりいわゆる「DNA二重らせん構造の発見」の論文が掲載されました。
近ごろの日本の新聞報道では、大きな科学の研究成果が『ネイチャー』や米国の『サイエンス』などの雑誌に載るとわかると、その号の日付当日あたりに記事として紹介する場合が多いです。「発見の内容は、科学雑誌『ネイチャー』の何月何日号に掲載される」といった紹介を目にしたこともあるでしょう。
これは雑誌社が、報道機関などにあらかじめ「何々という論文が載ります」と情報を流しておくため。しかし、雑誌より何日も前に新聞が研究成果を紹介してしまっては、雑誌の価値が落ちてしまいます。そこで「何月何日何時になったら報道しはじめてもいいです」というお達しを雑誌社が出します。港で外国の船舶の出港を阻止するため抑留を「エンバーゴー」といいますが、おなじく雑誌社が報道機関に対して提供する情報の解禁日を決める行いを「エンバーゴー」といいます。
50年前以上の、雑誌と新聞社には、エンバーゴーのような取り決めは、まだなかったものと考えられます。では、当時の日本の報道機関は、「DNA二重らせん構造の発見」という、生命科学の歴史の礎となるできごとをどのように報じたのでしょうか。
ここに、朝日新聞の昭和28(1953年)4月と5月の「縮刷版」があります。目次の「科学」という項を見ると「パノラマ式魚群探知機登場」や「『原子力』の平和的利用」やといった、記事の名前が並んでいます。しかし、目次を見ても、また、どのページを当たってみても、ワトソンとクリックの業績は報じられていません。
“報道なし”は、朝日新聞でけではなく、毎日新聞や日本経済新聞などを見てもおなじ。偉大とされる発見が、国が違うからとはいえ、当時の新聞に載っていないのは、すこし意外な気もするでしょうか。しかし、次のような背景を考えれば、“報道なし”は当たり前なのかもしれません。
まず、1点目。当時の新聞の科学技術報道の扱いは、いまのぐらいに充実してはいませんでした。たとえば、朝日新聞の1953年4月分の科学に関する記事を目次で数えると、11本の単発記事と日本学術会議関連の9記事、それに短信の3記事だけでした。
2点目。「DNA二重らせん構造の発見」は『ネイチャー』に載った直後は、まだ科学的価値がゆれていた点です。たしかに、ワトソンが後にみずからの研究を振り返った『二重らせん』という本の中で、DNAの構造を解き明かすための研究は、当時の生命科学における最大の論点であったように書かれています。
しかしながら、熱い争点となっている論題に関しては、熱いがために追試などを通して、後年に「あの理論はどうやら素晴らしい」と価値が与えられるもの。当時の生物学界には、「ワトソンとクリックから論文が発表されたようだけれど、さて、この論文は、これからどう評価されるか」といった、のんびりとした雰囲気もあったともいいます。
さらに3点目。日本国内ではDNAについての研究などはまだ進んでいず、「発見」の価値を鑑定できる目利きは、少なくともマスメディアの周辺には存在していなかったのでしょう。
こうした点から、「DNA二重らせん構造の発見」が、日本の新聞報道にお目見えするまでには、しばらくの歳月をまたなければなりませんでした。では、「発見」に対する報道がなされたのは、いつでしょうか。時は、『ネイチャー』に論文が載ってから9年半後へと移ります。つづく。
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