科学技術のアネクドート

6月2日(土)は「ジャーナリズムの自由と独立のために」


お知らせです。

はしかによる休講が解かれた早稲田大学で(2007年)6月2日(土)、ジャーナリズムに関する催しものが開かれます。

「ジャーナリズムの自由と独立のために」というシンポジウム。4月から新しく設けられた「ジャーナリズム教育研究所」の立ち上げを記念して開かれます。

客人として招かれているのがドイツ人のゲルト・コッパー氏。欧州ジャーナリズム・センターの理事長です。きょうの朝日新聞「ひと」欄でも紹介されていました。

欧州連合が抱えている課題のひとつが「世論の統合」。これまでの言論活動や報道は、国という単位のなかでおさまる傾向が強くありました。母国語を使うという制限もあれば、国民の大きな関心ごとはやはりみずからの国のできごとという必然もあるもの。

そうした自国主義から抜け出して、欧州連合としての言論をつくりだしていくのが、コッパー氏やセンターの役目。今回の催し物の基調講演と対談(ジャーナリズム教育研究所長・花田達郎氏と)では、欧州における言論活動の葛藤や、コッパー氏の奮闘ぶりなどを聞けることでしょう。

「ジャーナリズムの自由と独立のために」は6月2日(土)13時から早稲田大学で。入場無料。詳しいお知らせはこちらをどうぞ。
http://www.j-freedom.org/2007/05/post_5.html

「早慶戦は3日(日)もやっていますから」とは、主催関係者の談。
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酸素強化水を飲む。


探してもなかなか見つからなかった“水”を、ついにコンビニエンスストアで手に入れました。アサヒ飲料が(2007年)5月8日に新発売した「アサヒ酸素水」です。

三ツ矢サイダーにも使う「磨かれた水」に酸素を加えたとのこと(同社の資料より)。缶の印刷には「飲む深呼吸で心とカラダをリフレッシュ。」では、飲んでみましょう。ごくごく…。

私の舌では、味は市販されているミネラルウォーターとさほど差がありません。口あたりはけっこうまろやかなほうでしょうか…。

同社ホームページの新製品情報によると「一般的な水は、常温(25℃)で約8ppmの酸素を含む(当社調査)のに対し、新しくなった『アサヒ酸素水』は、60ppmの酸素を含有しています。従来品は40ppm」とのこと。ppmとは、“parts per million”のことで、濃さの比率を「100万分のいくつ」で示すことばです。

いま、ちまたでは海外製・国内製あわせ、「酸素強化水」なる水が、いろいろな種類で出まわっています。読んで字のごとく、含まれる酸素の量を“強化”した水。アサヒ飲料のほかにも、たとえば日本食研が「酸素プラス」という酸素強化水を発売しています。

同社もホームページで、「酸素プラス」についての案内をしています。
ビルの多い都市部や機密性の高い住宅での生活が酸素不足を招きやすい事が専門家の調査でわかってきました。特に、運動不足と高カロリー高脂肪の食生活は、体内での酸素欠乏の大きな原因となりえます。飲酒や喫煙、なども酸欠を引きおこすと言われています。そんな、現代人の為の飲料水が酸素プラスです。
いっぽうで、「お客様相談室」のページに書かれてある飲んだときの効果はというと…。
本品は、水に酸素を溶かしこんだだけの一般食品ですので、効果・効能については申し上げられません。
まあ、たしかに「酸素プラスは体内の酸欠をなおします」などとは書いていません。ちなみに、本商品は日本食糧新聞が制定し、農林水産省が後援する「第25回食品ヒット大賞の優秀ヒット賞(一般加工食品部門)」を受賞したそうです。

さて。酸素強化水を上まわる量の酸素を体にとりこむ方法があるという耳寄りな話を聞きました。

それは「深呼吸する」という方法。

一回、大きく息を吐いて空気を吸えば、「アサヒ酸素水」500ミリリットル(希望小売価格150円+税)に入っているよりも多い量の酸素を得ることができます。

さて、試飲は終わり。これからは、なんらかの理由で「おいしい水を飲む」ことと「深呼吸をする」こととを一度にできない(でもそうする必要がある)ときには、しぶしぶ酸素強化水を飲むことにしようと思います!

アサヒ飲料「酸素濃度50%UP『アサヒ酸素水』リニューアル」の案内はこちら。テレビ広告も見ることができます。
http://www.asahiinryo.co.jp/newsrelease/topics/pick_0642.html
http://www.asahiinryo.co.jp/sanso/cm.html
日本食研「酸素プラス」の案内と「お客様相談室」のお問い合わせはこちら。
http://www.balancedate.com/products/index.html
http://www.nihonshokken.co.jp/qa/index.html#q8
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素にかえる。


子どものころ。学校の先生から「漢字練習帳」の書き取りを課せられました。その夜、家で、青緑の罫がひかれたジャポニカ学習帳に、ことばを綴ったものです。

代理 代理 代理 代理 代理 代理 代理 代理 代理 代理。(10個書いたゼ!)

10回も連続で同じことばを書いていると、部首がそれぞればらばらの記号に感じられて、「あれ、“代”って字、こんなかたちをしていたっけ」という感覚におちいることがありました。「代」が、ただ「人+弋」つまり「にんべん+しきがまえ」に見えてしまうのです。

こうした心理的状況を「ゲシュタルト崩壊」とよぶのだそう。“人が素にかえった瞬間”といえるかもしれません。

ゲシュタルト崩壊ではないけれど、「これって、一歩引いてみて見ると、ちがって見えるな」と思うときがたまにあります。

素にかえって人間をヒトという動物として捉えてみると、どのように見えてくるでしょうか。

たとえば東京・丸の内の朝、スクランブル交差点を行き来する背広を着たサラリーマンたち。“素にかえる前”の目で見れば、こんなところでしょうか…。

「今日も9時からの始業のため、背広を着た企業戦士たちが、東京駅から職場のビルへと向かっているなぁ」

いっぽう、おなじ人々のふるまいを、“素になった”目で見てみるとどうでしょう。

「太陽が30°ほど昇った時間帯、綿を縦横に交差させた非自然由来からなる毛皮の代替物を身にまとった霊長目ヒト科ホモサピエンスが、石油の蒸留残渣として得られる黒色の半固体(アスファルト)の上を、この種に特徴的な二足歩行で群をなして移動しております」

こんなことを感じている私はいったい何者なんでしょう。orz。

と、自問してしまうときもありますが、こうして“素”にかえってものごとを観察すると、とても新鮮に感じられることがあります。
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エピジェネティクス


ゲノム(DNAの前塩基配列)がつぎつぎと読み解かれていくにつれて、「いきもののいとなみは、すべて遺伝子に支配されている」といった幻想におちいりがちになってしまいます。

けれども、そんなに単純でないのがいきもの。たとえば、ヒトとハエとでは遺伝子の数はだいたいおなじでおよそ2万個。どちらもこれだけの数しかないのに、ヒトとハエの体のつくりとはかくもちがうもの…。

このごろでは、いきもののつくりのなにもかもを遺伝子で読みとけるという“遺伝子決定論”とはちがう、別の考え方が生まれてきてきます。

たとえば「エピジェネティクス」とよばれる研究がここのところさかんになってきています。

新しいことば(とくに片仮名語)を理解するときに、ことばの成り立ちを考えてみると助けになることがあります。「エピ」は「後」などを示す接頭辞で、いっぽうの「ジェネティクス」は「遺伝学」や「発生学」といった名詞。「エピジェネティクス」は日本語にすれば「後天的遺伝学」とでもなるでしょうか。

細胞が分裂するとき、元の細胞と新しい細胞とでDNAの塩基配列が変わることがあります。この変化が突然変異などをもたらします。

けれども、エピジェネティクスであつかう対象はこの塩基配列の変化とはべつもの。「元の細胞と新しい細胞とでDNAの塩基配列は変わらないというのに、それでもなぜ新しい細胞は元の細胞とはちがった形や働きをするのだろう」という疑問にこたえようとするのがエピジェネティクスです。

疑問を解く鍵となる物質のひとつが「メチル基」とよばれるもの。メチル基とは、化学変化のときに分解しないでふるまう「原子たちのひとまとまり」の一種です。

エピジェネティクスの文脈では、このメチル基はどちらかというと悪者でしょうか。DNAとヒストンという細胞のなかの要素の複合体にこのメチル基がくっついて、生じるはずのタンパク質を生じなくさせたりするからです。たとえば大腸では「がんを抑える遺伝子の突然変異(がんを抑えられなくなる)」に加えて「突然変異を修復する遺伝子のメチル化」が重なると、がんが生じるといったことが明らかになってきています。

ほかにも、自閉症やてんかんなどの症状を発する症候群や、統合失調症などにも、この「遺伝子のメチル化」が関わっているといわれています。

「遺伝学」とはべつの「後天的遺伝学」をさぐることで、「あの患者は遺伝的な原因よりも後天的な原因が強いから、治療のしかたを変えよう」というように、病の治療法などにも選択の幅が生まれてくるといいます。
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体の情報伝達を喩えると…


こむつかしい科学を伝えるための手だてとして、“喩え”は、効き目があるもの。

この前、動物の行動を研究している先生が、体の中で情報を伝える2つの手段について、こんな喩えを使って説いていました。

「神経」と「ホルモン」。この2つはともに、体の中のはなれたところからはなれたところに、生きていく上で大切な情報を伝えるという役目をになっています。

たとえば、バラの茎をぎゅっと握ってしまったとき。手のひらから刺激が脳に伝わると、私たちは「いたたたた」と感じます。この、手のひらから脳までの道すじを「神経」といいます。

いっぽう、たとえば、食べ物をたべたとき。インスリンというとても少ない量の物質がすい臓から放たれて、体の別のところに届きます。体の離れたところの間での物質のやりとりのおかげで、血の中の糖の濃さを制御して、糖尿病などの病を防ぐことができるのです。この、体の別のところに働きかける少ない量の物質を「ホルモン」といいます。

さて、動物の行動を研究している先生は、情報を伝える「神経」と「ホルモン」を、「電話」と「手紙」のようなものだと喩えました。

「神経」がなぜ「電話」なのかというと、体のあるところから脳へ情報を伝える「線」があるから。手のひらで受けたバラのとげの刺激は、背骨の中にある脊髄という太い神経の束を通って脳へと伝えられます。あるところからあるところへ「線」によって情報を伝える神経の役割は、電話に喩えることができるわけです。

いっぽう「ホルモン」がなぜ「手紙」なのかというと、体のあるところ(ホルモン出どころ)から、体のあるところ(ホルモンの受けどころ)に情報を伝える「輸送便」を使うから。すい臓から放たれたインスリンというホルモンは、血液を通ってからだの別の細胞に届きます。あるところからあるところへ血の流れという「輸送便」を使って情報を伝えるホルモンの役割は、手紙に喩えることができるわけです。

「神経」も「ホルモン」もともに、高等な動物にとっては情報を伝えるためには欠かせないもの。「電話」も「手紙」もともに、世の中にとっては情報を伝えるためには欠かせないもの。「神経と電話」、「ホルモンと手紙」。みごとな喩えだと思います。
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開通4か月で崩壊「タコマ・ナローズ橋」―sci-tech世界地図(2)


歴史には「世界三大事故」とよばれる事故があります。英国製の飛行機「デハビランド・コメット」の金属疲労によるあいついだ墜落事故。米国製「リバティ船」のこれまたあいついだ沈没事故。

そして、もう一つ。三大事故の中でも飛びぬけて有名なのが、米国ワシントン州タコマ市で1940年11月7日に起きた、「タコマ・ナローズ橋」の崩壊事故です。

主役となる橋は、「H」のかたちをした二つの橋桁に掛かった吊り橋です。全長1600メートル、橋桁の間853メートル、道幅11.9メートル。完成は、同1940年の7月。橋りょう建築家のレオン・モイセーエフが設計しました。彼は、ニューヨークのマンハッタン橋の設計を手掛けた建築家の一人としても知られています。

事故が有名になった大きな理由は、橋が崩壊する瞬間を映像におさめていたからです。だれが、どのように、撮影することに成功したのでしょう。

完成直後から、風が吹く日に橋が上下に揺れることが指摘されていました。これを受け、原因を調べ補強の工事をする手はずが整えられていたのです。そうした中で「その日」はやってきます。

当日、タコマ市には風速19メートル毎秒の強風が吹いていました。現場から、ワシントン大学の博士で、風洞実験担当者だったフォーカーソンに「橋が激しく揺れている」との一報が入ったのです。

駆けつけたフォーカーソンは、16ミリフィルムを使って、揺れに揺れる橋を撮影しました。はじめ上下に波うっていた橋はその後、使い込んでくたくたになったベルトのように、横方向の歪みを経験します。

もはやたえきれなくなった橋の道路は、一方の橋桁の近くからもろくも崩れていきました。

現在の吊り橋は結構(トラス)という、対角線状に組まれた骨組みにより、揺れが起きにくいつくりになっています。たとえば、東京・お台場のレインボーブリッジでは、首都高速道路の下、ゆりかもめが走る下段に結構が見られます。

タコマ・ナローズ橋には、この結構がありませんでした。けれども、設計したモイセーエフを過誤で責められるかといったら、そうもいえません。なぜなら当時としては、「設計的にも施工的にも十分な配慮が払われていた」橋だったからです。技術の発展における“通過儀礼”といったら言い過ぎでしょうか。さいわい、この事故による犠牲者は一人もいませんでした。ただ、逃げ遅れた犬一匹のとうとい命が失われたことは記しておくべきでしょう。

タコマ・ナローズ橋の事故があってから、吊り橋の技術は格段に進歩したといいます。事故から10年後の1950年、タコマの海峡には結構の構造が採用された二代目タコマ・ナローズ橋が掛かりました。

米国タコマ・ナロウ橋周辺の地図はこちら。


動画サイトの「ユー・チューブ」には、橋の崩落の瞬間を映した画像がいくつかあります。たとえばこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=P0Fi1VcbpAI
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元銭湯のギャラリーで「昔々あるところに、魚駐車というプロジェクトがありました」


東京・谷中の連結社でうちあわせをしたあと、寄り道して近くにあるギャラリー「スカイ・ザ・バスハウス」へ。

名前から、また建てものの外観からわかるとおり、「スカイ・ザ・バスハウス」は、銭湯を改装して開かれた展示空間です。200年間つづいた「柏湯」が1993年に「スカイ・ザ・バスハウス」になりました。

この館では、現代美術の作品を展示しています。前回4月の個展はブライアン・アルフレッドによる「グローバル・ウォーニング」という環境問題にちなんだ絵画の個展。

そしていま開かれているのが、土屋信子の個展「昔々あるところに、魚駐車というプロジェクトがありました」。(2007年)6月30日までです。

男湯も女湯もない空っぽの空間に、15点ほどの“想像させられる”作品が置かれてあります。かつての名プロレスラー、リック・フレアーの髪の毛を想わせるような、銀に輝く“かつら”が床にぽんと置かれていたり。映画『ハンニバル』でレクター博士がおいしそうに食べていた脳みそを想わせるような、艶やかな“お椀”が電話台の上に置かれていたり。

現代美術は、前衛的で解釈しづらいものが多々。この個展の作品についても、「作品の意図が不明である」ということ自体に、作者の意図があるのだという思いをもちました。作者と鑑賞者の間の、心の“駆け引き”を楽しむものなのかもしれません。

土屋信子「昔々あるところに、魚駐車というプロジェクトがありました」は2007年6月30日(土)まで。入場無料です。スカイ・ザ・バスハウスは、展覧会が開かれている期間中は、12時から19時まで会館。日曜と月曜が休み。ホームページはこちら。
http://www.scaithebathhouse.com
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似て非なる印税


きょうは下世話を。

本や音楽作品などを書いた人の報酬の種類に、「印税」というものがあります。

「著作権者が著作権使用料として出版者などから受ける金銭。定価・発行部数に基づく一定歩合による。また、作曲家や歌手などがレコードの発売数に基づいて受ける収入などにもいう」とは、『広辞苑』による「印税」の説明。

本の話にしぼってかんたんにいうと、印税とは、本が印刷されるごとに、または、売れるごとに著者のふところに入ってくる、定価に決まった割合を掛けた額のお金のこと。その「割合」は定価の7%から11%が相場といわれています。印税というしくみを日本に取り入れたとされる文豪・夏目漱石は、12%の印税をもらっていたとか…。

さて、「印刷されるごとに」支払われる印税と、「売れるごとに」支払われる印税は、似て非なるもの。極端な例ですが、次の2つの場合をくらべてみましょう。

著者のAさんがある出版社から依頼を受けて、『京都タワー』という小説を書きました。売れに売れた小説『東京タワー』の“柳の下のどじょう”をねらった出版社は1000円の定価で、意気込んでいきなり5万部を刷ったとします(出版不況のご時世、初めの刷りはせいぜい5000部がいいところ)。

はたして『京都タワー』は鳴かず飛ばずの売れ行き。実際に売れた本の数は、わずか500部でした。

印税10%として、「印刷されるごとに」Aさんに収入が入れば、出版社には恨めしいことに、5万部を刷ってしまっているので、「50000部×1000円×10%」つまり500万円が、Aさんのふところに入ってくるわけです。

いっぽう、同じく印税10%として、「売れるごとに」Aさんに収入が入るとなると、「500部×1000円×10%」つまり5万円しか、Aさんのふところに入ってこないわけです。出版社は、印刷・製本代は損したものの、「ちっとも売れないのに印税だけはAさんに入る」という惨状を回避しました。

「印刷されるごとに」印税が入るか、「売れるごとに」印税が入るかは、出版社の方針や、出版社と著者の上下関係などによってまちまち。ただ、「実際に売れたのは500部だけだったので、お支払いは5万円です」といった、極端な(とはいえ、あり得る)場合の温情策として、「最低、5000部は印税を保証します」といった約束を結ぶこともあります。Aさんの場合、売り上げが5000部に満たなくても、最低50万円は得られることになります。

「印刷されるごとに」にせよ「売れるごとに」にせよ、印税というしくみは、書く側にしてみれば、「ヒットするだけ収入が増える」という大きな動機となるもの。書籍という出版形態を支える土台といえるでしょう。
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書評『環境問題のウソ』
一般向けの科学書をたくさん出している生物学者の著者。もともとは高校の教諭だったそうです。

『環境問題のウソ』池田清彦著 筑摩書房 2006年 167p


地球温暖化、ダイオキシン、外来種、自然保護という4つの環境問題について、著者が“ウソ”と考えるところを説いていく。

たとえば、地球温暖化。著者は「要するに異常気象がどんどんひどくなるなんていう話は、いかなる科学的根拠もないインチキ話なのである」と断じる。

「地球温暖化の原因は、二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスのせい」という論を、あたりまえのように受け入れてきた私たち。著者の異論を聞くと、つい耳を疑いたくなるだろう。1970年代までは、氷河期の再来が懸念されていたという科学の歴史を紹介し、太陽が宇宙線を放つ量の周期と地球の気温変化には関わりがあるといった地球温暖化の別の原因を出してくる。

4つのテーマの中で地球温暖化問題はもっとも深刻な問題と考えられているだけあって衝撃は大きい。でも生物学者の著者ならではの“池田節”が放たれるのは、むしろ外来種や自然保護といった後半の章だ。

その土地ならではの生態系を、外からの種から守らなければならない、とはよくいわれること。たとえば外来魚のブラックバスはむかしから湖にすんでいた魚を食べて減らしてしまう害魚といわれている。

ところが著者は、「外来種悪玉論の最大の害悪は、生物を善玉(在来種)と悪玉(外来種)の二つに分け、悪玉は殺さなければならないという差別思想をまきちらすことだ」として、外来種を追い払おうとする考えを問題視する。

また、このごろ生物多様性を守るためとして唱えられるようになった“人間以外の生物の生存権”に対しても、「端的に間違っている」と話す。

「我々は回復可能な範囲内で自由に自然物を利用してよいのである。生存のためか遊びのためかにかかわらず、野生動植物の命をもらってかまわないのだ」

前半の地球温暖化やダイオキシンの章では科学的証拠を示す主張が中心だったのに対し、後半の外来種や自然保護の章では、このように思想・信条の話が中心。著者の原理的な考え方に耳をかたむけてみる価値はあるだろう。

『環境問題のウソ』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/環境問題のウソ-池田-清彦/dp/4480687300/ref=sr_1_2/503-7257412-2611120?ie=UTF8&s=books&qid=1179924274&sr=1-2

放送や新聞といった媒体は、とかく地球温暖化などの環境問題について、「温暖化を防ごう」といった紋切り型の立場をとりがち。この本で示されているような説や主張は、タブーとされている感さえあります。調べてみたところ、朝日新聞や日経新聞では、著者・池田清彦さんの寄稿や別の本の書評は載せても、この本については触れていないようです。
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脳死からの生還


北米に滞在していた日本人Aさんの身におきた話。

脳の血管の病気にかかり、Aさんは現地で意識不明の重体となりました。症状を診た米国人の医師たちはAさんの家族に「Aさんは脳死です」と告げたそうです。

ところが、にわかには信じがたかったのでしょう。Aさんの家族は「脳死」のAさんをチャーター機で日本に戻し、国内の病院で引き続き治療を受けさせたのでした。

すると、「脳死」だったはずのAさんは1か月後に意識を取り戻し、「脳死」から生き返ったのだそうです。

じつは、Aさんのような海外で「脳死」と診断されたあと、日本で回復した日本人は、2001年から2005年までの間にすくなくともAさんをふくめ3人はいるのだそう。いっぽう、現地で医師から「脳死」と言われ、家族が日本に戻さずそのまま息を引き取った日本人は、すくなくとも6人。この話は昨2006年7月、新聞で報じられました。

「脳死」の人が回復する背景には、国によって脳死の判定基準が異なるといった事情があります。米国では、その人が脳死であるかどうかを決める基準は、各州の法律で定められています。

たとえばフロリダ州では、2人の医師が患者の状態を診て「脳死だ」と決めると、その患者は脳死状態であるのだそう。ただ、無呼吸テストという呼吸があるかどうかを診るテストなどを施すかどうかは、2人の医師の経験や見方に委ねられているのだそうです。

日本では、人が「脳死」であるかどうかを、「1深い昏睡」「2瞳孔の散大と固定」「3脳幹反射の消失」「4平坦な脳波」「5自発呼吸の停止」「6以上1〜5が6時間以上つづく」という条件のすべてが揃っていることで判断します。

臓器移植大国ともいわれる米国などでは、回復が難しいというときに医師が「脳死」と決めてしまう場合も。このあたりの文化的または制度的なちがいの中で、Aさんのような「生還」が起きたともいえそうです。

この記事は、早稲田大学大学院科学技術ジャーナリスト養成プログラム「生命倫理」(瀬川至朗客員教授)の講義を参考にしています。
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はしかで休講


通っている早稲田大学が、はしか流行のため全学休講・構内立ち入り禁止になりました。きょう(2007年5月21日)の4限(14時40分から)から、5月29日(火)までの、とりあえずの措置です。

昼すぎ、「実習室」という大学院生の“たまり場”で作業をしていると、事務の人がやってきて「授業は3限まで終わりになります」とお知らせ。

部屋にいあわせた大学院生たちは、ほかの大学でも休講になっていたことを知っていたとはいえ、やはりこの先1週間以上も学校が休みになるという事態にあっけにとられていました。5階の窓から見下ろすと、さっそく学生たちがぞろぞろと集団で門から出て行きます。



ところで、はしかなどの「子どもが掛かりやすい」とされる感染症に大人がかかると重症になるとよく言われますね。でも、大人が重症になる“わけ”や“しくみ”は、インターネットなどで調べてもなかなか見つかりません。

友人の大学院生は「子どもは代謝が活発だけれど、大人は代謝の速さが衰えるためでは」という説をいいます。

いっぽう新聞が説くには、「『大人の方が重い』とよく言われるが、大人が重症になるという研究データはないとされる」とも(毎日新聞2007年5月21日付)。

「大人が重症になる」は、真偽もふくめ、その実はまだ解き明かされていないということでしょうか。

かのアイザック・ニュートンが科学史にかがやく功績をたてつづけに出したのは、1665年から1666年にかけて。英国で黒死病が大流行し、大学が閉鎖されたため帰省を余儀なくされたニュートンは、実家にこもりきり研究に没頭。その甲斐あって、万有引力、光の原理、微分積分法などについてのすばらしい発見をつぎつぎとしていきます。

この期間を「ニュートン驚異の一年半」とも。時と所かわって、いまの日本。休講を受けた学生たちの中に「驚異の一週間半」を経験する人は出てくるでしょうか。
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書評『バックミンスター・フラーの世界』
堀江貴文・元ライブドア社長がしきりに発していたのがバックミンスター・フラーの造った“あの言葉”。なんだかとても昔のことのように思えてきます。

『バックミンスター・フラーの世界 21世紀エコロジー・デザインへの先駆』ジェイ・ボールドウィン著 梶川泰司訳 美術出版社 2001年 359p


6本の棒を、3本+3本で組み合わせれば、平面の三角形がふたつできる。ところが6本すべてをいっしょに使えば、三次元の正四面体を創ることができる。平面から三次元へ。1+1は2どころか、3にも4にも他のかたちにもなる。これがシナジー効果の基本だ。

フラーはこうした基礎的幾何学を発展させ、ジオデシック・ドーム(三角形を組み合わせたドーム)などの独創的な建物をつぎつぎと設計・試作していった。

たとえばフラーの設計は、モントリオール万国博の米国パビリオンで採用されたし、キャンプ用品メーカー・ノースフェイスのテントとして商品化もされている。けれど、理想の高いフラーはこんなもので満足していたはずがない。彼はいまよりもはるかにシナジェティックに稼働できるシステムを社会全般にわたって考えていた。この本にはそれが書かれている。

なぜ、フラーの建築は浸透しないのか。街じゅうの住宅が箱形なのに、自分の家だけドーム形にするのはさすがに勇気がいるだろう。三角形を基本とする建築は、公共物には役立っているものの(トラス橋など)、まだ収穫逓減の域を出ていない。

けれども「そうはいっていられない」状況のもとでは、フラーの設計は積極的に採用されてきた。第二次世界大戦中、低コストかつ短時間で建てられるフラーのドームは重宝したという。また将来、人が月や火星などに移り住むとき、フラー設計の建築物が建てられていくのを想像するのは簡単だ。

戦争や宇宙開発といった非日常的状況でなくても、いまの地球環境を考えるとフラーの建築物はより使われていくようになるのかも。フラーがこの世を去ってから20年。後継者たちによって思想は受け継がれ、フラーの都市計画はいまも進行中だという。

『バックミンスター・フラーの世界』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/gp/product//4568600316/ref=cm_aya_asin.title/503-7257412-2611120
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6月2日(土)から「サイエンスニュース! アジア展」


展覧会のお知らせが届きました。

東京お台場にある日本科学未来館が、(2007年)6月2日(土)から9月2日(日)まで、「サイエンスニュース! アジア展 アジアの力、科学の力、を伝えます」を催します。

例により、開催期間中には関連する催しものもいろいろ。たとえば、スペシャルイベントとして、6月16日(土)「平和なアジア 地雷0を目指して」、6月30日(土)「健やかなアジア 感染症を防ぐ」、7月29日(日)「アジアという環境 自然とお金と人間と」という3回の研究者と活動家の語り合いが行われるそうです。

お知らせには「さまざまな生物種、そして文化、環境が存在するアジアは、大きな可能性を秘めています。同時に、近年の経済、産業におけるめまぐるしい発展は、深刻な環境問題をもたらしています」ということば。

展覧会ではアジアの発展の「功」と「罪」の両方を取りあげるということでしょう。地球環境問題が深刻化しているといわれる中、展覧会でアジアの発展の功罪を、どのくらいバランスよく取りあげるのかなど、見どころは多そうです。

日本科学未来館企画展 「サイエンスニュース!アジア展 〜アジアの力、科学の力、を伝えます」のホームページはこちら。
http://www.miraikan.jst.go.jp/j/event/2007/0602_plan_01.html
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ベテランズ


北海道日本ハムの田中幸雄選手がきのう(2007年5月17日)、東京ドームの東北楽天戦でプロ通算2000本安打を達成しました(さらに2本、安打を重ねて2002安打)。史上35人目のことです。

2打席目、打球が糸を引くように一二塁の間を抜けてライト前へ。球場中のすべての人が席を立ち、祝いの拍手を田中選手に送りました。その後も、田中選手が出てくるたびに、観客席からは大きな歓声が。

39歳。日本ハムがまだ後楽園球場を本拠地としていたころに入団し、以来22年間、こつこつと安打を生みつづけました。東京ドームを本拠地としていたころの4番打者でした。

この記念試合、田中選手にとってやや惜しむらくは、試合に負けたこと。試合後の取材に「チームが勝てば、いちばん嬉しかったのだが」とすこし残念そう。

楽天を勝ちに導いたのが、4番打者の山崎武司選手。田中選手の話題で持ち切りの試合の中、1試合で3本塁打を打ちました。球場で2000本安打に酔いしれた観客には「田中が2000本目を打った日に、山崎がホームランを3本も打った」と記憶に刻まれることでしょう。

38歳。かつて中日で4番打者として活躍し、11年前の1996年には本塁打王に。けれども、年齢の高くなった選手はじょじょに先発出場から外れていくもの。中日からオリックスへ移籍するも振るわず、戦力外の通告。そこで、新球団・東北楽天が山崎選手を拾いました。戦力外通告を一度受けた選手が、4番打者として活躍するのはめったにないこと。

ふたりの歩みは対照的。一球団一筋ながらも出場の機会がだんだんと減っていき、やっとのことで2000本安打にたどりついた田中選手。いっぽう、戦力外通告を受けたりしながら球団を渡り歩き、安打数は1200本に満たないものの、いまも新球団の主軸打者として活躍している山崎選手。

ふたりの野球人生に、一つの組織を長く愛しつづけた人の生き方と、所属先をかえつつついに自分の居場所を見つけた人の生き方を重ね合わせてしまいます。

田中選手が2000本安打に、楽天の選手代表として花束を渡したのは山崎選手でした。

試合終了後、楽天の応援席からも「おめでとう田中」の声援、それに応えるように、日本ハムの応援席からは「かっとばせ山崎」の声援。球場中が、息の長いふたりの選手に魅了された試合でした。
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科学ジャーナリスト賞(3)大賞・村松秀さん
おととい、きのうと科学ジャーナリスト賞の受賞者あいさつを紹介してきました。きょうは大賞受賞者の紹介です。

2007年の科学ジャーナリスト賞は、NHK科学・環境番組部専任ディレクターの村松秀さんに大賞が贈られました。『論文捏造』(中公新書ラクレ)の執筆とそれに関連したNHK特別番組の制作に対しての受賞です。



「大賞の受賞にとても驚いています。事前に知らせを受けて以来、いろいろな方から祝いの連絡をもらいました。遠いところでは、北極に滞在していた写真家がクマといっしょにメッセージを送ってくれました。科学ジャーナリスト賞もワールドワイドになったと捉えています(笑い)」

「科学論文のねつ造事件を追いかけてきました。(受賞理由となった)ベル研究所への取材のほか、ソウル大学や東京大学の事件などの取材もさせてもらいました。科学論文のねつ造とは、科学界にとっては耳の痛い話。にもかかわらず科学関係の賞をいただいたことに、科学界をよりよくしていこうという集団の決意を感じています。多少なりともお役に立ててうれしいです」

「研究者たちは、ことのほか取材に協力的でした。とはいえ、あまり気持ちのよい取材ではなかったでしょう。協力してくれた方々は、この問題を科学界全体の問題として考えないといけないと思ったのではないでしょうか。私も、論文ねつ造の犯人探しを目的とはせず、みんなで問題を考えることにより科学界が発展することを目的にしていました。取材に応じてくれた先生たちに感謝します」

「取材を通じて、21世紀を迎えた科学界はいま、文節点のような位置づけにあると感じています。成果主義や競争主義の中、研究は先鋭化しています。先鋭化していますが、同時に分野の集団も小さくなってきています。アインシュタインが活躍していたころの科学とは異なる科学になってきているのではないでしょうか」

「ねつ造問題のほかにも、ニセ科学などがこのところ取沙汰されています。“科学的”なものの言い方を科学者がしていても、本当は科学的ではない場合や、非公式な場を使って“科学的”に見せかけている場面があります。私はこうした状況を『なめられている科学』とよんでいます」

「大学時代、豊橋技術科学大学の西永頌現・学長にお世話になりました。『NHKに就職します』とおそるおそる報告すると、『これからは科学と社会の架け橋になる人が必要。そういうことをやっていきなさい』と言われました。十数年それを続けてきたことが、今回の受賞につながったのかもしれません」

「番組をともにつくってきたスタッフに感謝しています。テレビ屋泣かせの題材でしたが、カメラマン、照明、編集、音楽、ナレーションなど担当が飽きさせることない番組にしてくれました。中央公論新社ラクレの編集者にもお世話になりました」

「ねつ造の話は、鬱々とした気分にさせるものです。一年ほど、私は一人で悩み苦しみました。なぜシェーンはあんなことをしたのだろうと、それこそ唸るような日々を暮らしてきました。妻と子供たちに支えてもらいました」

村松秀さんの大賞受賞作『論文捏造』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/論文捏造-村松-秀/dp/4121502264/ref=sr_1_1/503-7257412-2611120?ie=UTF8&s=books&qid=1179417162&sr=1-1
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科学ジャーナリスト賞(2)藤田恒夫さん、山口裕之さん
格差も東国原人気もふくめ、“地方”に目が行く時代。それを反映してか、今年の科学ジャーナリスト賞でも地方から発信しているふたりの方が受賞をしました。

新潟大学名誉教授の藤田恒夫さんには、ユニークな雑誌『ミクロスコピア』を新潟から発信を続けている功績に対して、賞が贈られました。どのような雑誌なのかというと…。



「“風変わりな雑誌”の編集代表をしています。解剖学者は日々、顕微鏡で不思議や美しさを賛嘆しています。この世界を一般の人たちにも見てもらいたいと思い、雑誌をつくっています」

「創刊のきっかけは、論文とは何とつまらないものかと感じたことです。論文はなかなか理解しづらい、無味乾燥な文章です。そこから理解や興味をよびおこすことは難しい」

「研究者が細胞を見つけて喜び踊ったり、細胞を見つけられなくて落胆したり、といった気持ちを、母国語でみんながわかり合えたらどんなに楽しいだろう、と思ったのです。国際的な英文雑誌を創刊するよりも意味があることではと思い日本語の『ミクロスコピア』を作りました」

「学問の世界とは不思議なもので、トイレでとなりに立った研究者の業績がわからないくらいです。でも『ミクロスコピア』に書くとそれがすっかりわかるようになります(笑い)」

「創刊10周年のとき、朝日新聞の記者が『この雑誌に執筆すると、研究者として出世する』ということを記事にしてくれました。それは本当(笑い)。寄稿をしてから教授になった人は数多くいます。先生たちこの雑誌に執筆することにはじめは抵抗もあるようですが、結局は喜んでくれます」

「顕微鏡写真の色合いなどを希望どおりに印刷してくれる地元の印刷屋、一生懸命に雑誌を売ってくれる地元の本屋など、新潟のみなさんに支えられてきました。“地方の時代”を感じています」

信濃毎日新聞文化部記者の山口裕之さんには、地域の医療支援団体の活動を通じてチェルノブイリ原発事故を追跡した報道の取材班の代表として、賞が贈られました。



「このようなあいさつは結婚式以来。出番がまわってくるまでどんな気持ちだったかわかっていただけると思います(笑い)」

「信濃毎日新聞は、“信州発”のチェルノブイリ報道を1991年から展開しています。遠くの地で起きた原発事故について地方紙が取り組んできたことを評価していただいたと思っています」

「私がチェルノブイリ原発に関わったきっかけは、初任地の松本市にあるチェルノブイリ連帯基金を取材したことでした。この団体は被災地ベラルーシへ共和国の医療支援を続けています」

「ベラルーシはウクライナの北にあり、国土が日本の半分ほど。人口は約1000万人。広範囲が汚染され、事故後に管理や移住が必要となった面積は国土の4分の1にもなりました」

「97年に医療支援の取材で現地へわたり、その後、私は休職をして1年間ベラルーシに滞在。仕事に行き詰まっていたこと、大学のときにロシア語を勉強していたことなどがあり、勉強しながら現地の姿を見るのという道を選んだのです」

「ロシアには、こんな小咄があります。椅子に座ろうとすると釘が。ロシア人は拳で叩きつぶす。ウクライナ人は“やっとこ”で釘を抜き、ポケットにしまう。ベラルーシ人はおしりに釘が刺さっているのに気づいても、もじもじしながら座ってしまう…。ベラルーシ人は穏やかな人たちでした」

「滞在した汚染地域は、さびれた街でした。独裁政権下で産業も振るいません。親しくなった友に聞くと、放射能への不安を抱えているようです。国外からの医療支援に信頼をしていて、放射能汚染の問題を解決してほしいと言ってしました」

「国際原子力機関が発表した事故の報告書は楽観的なものでした。私が目にしてきた住民たちは“放射能恐怖症”という名のもので見捨てられてしまうでしょう。定線量の放射線が体にあたえる影響や、世代を超えた放射線の影響はまだわかりません。住民にとっての割り切れない思いは続いていくことでしょう。科学の名の下に、事実に蓋をしてしまうのは傲慢だろうという思いです」

「取材をしてきて、心に残った言葉を紹介します。京都大学原子力研究所の今中さんは、『チェルノブイリの災厄を科学で説明できる面は限られている』と言います。健康被害以外にも、職や生活手段を失った数百万の人たちを忘れては、全体像は見えてきません」

「名古屋から医療支援をしている松浦さんは『一人ひとりができることは限られている。湖面に波紋を広げるように、自分の行動がほかの人の刺激となり、多くの人が動いて医療協力につながればいい』と」

「地方紙の連載で訴えることができる力は小さいもの。でも、連載をしてきたせいで、活動がまとまり、みなさんに取材をする時間ももらうことができました。私たちの連載が読者の心に何かを残し、それが行動に結びついていけば記者冥利につきます」

『ミクロスコピア』のホームページはこちら。
http://www6.ocn.ne.jp/~micros/
信濃毎日新聞のホームページはこちら。
http://info.shinmai.co.jp/
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科学ジャーナリスト賞(1)横山広美さん、米本昌平さん
科学ジャーナリスト賞の授賞式が、東京・内幸町のプレスセンタービルで開かれました。

今年は、大賞がNHK科学・環境番組専任ディレクターの村松秀さん。賞が信濃毎日新聞文化部記者の山口裕之さん、新潟大学名誉教授の藤田恒夫さん、前・科学技術文明研究所所長の米本昌平さん、東京大学大学院准教授の横山広美さんに贈られました。

受賞者の受賞理由とともに、式でのスピーチの内容をお伝えします。

横山広美さんには、ニコンのホームページ内『光と人の物語〜見るということ〜』というウェブ作品に対して贈られました。

「カトリックの学校に通いながら、ほのぼのと成長してきました。毎日、何度も学校でお祈りをするなかで、“私”という存在がどこから来たのか疑問に思うようになっていました。これが科学との出会いです」

「そのころ、友だちのお母さんが『横山さんでも読めるよ』といって、雑誌『ニュートン』をくれました。記事の中の初期宇宙論を読んだ私は、それまででいちばん大きな衝撃を受けました。私たちがいまここにいる理由がわかる。科学とはこんなにもすごいものなのかと…」

「数学は苦手だったのですが、大学は物理学に進みました。大学院時代は有名なスーパーカミオカンデに関わるニュートリノの実験をしていました。『将来は“書く人”になりたい』と思い、新聞記者などへの道も考えつつも、結局、博士課程に進学することに。学術に近い側から発信していけないか、と思うようになりました」

「基礎科学の研究をしてきたため、社会と科学の関連をあまり考えないまま生きてきたきがします。関心をもったのは、スーパーカミオカンデで2001年に破損事故が起きたときのこと。20億円の損失を出しながらの再建にあたり、戸塚洋二教授(当時の実験代表者)がリーダーシップを発揮し、またジャーナリストたちが必要な助言を発し、それにより最先端の科学を進めることができるようになったことが大きな教訓になりました。社会と科学の関係を深く考えるようになり、総合大学院大学で社会と科学の研究をするようになりました」

「今後は、所属している東京大学大学院で、研究者がどのように社会を捉えて発信していけばよいかといったテーマで、広報関係や科学コミュニケーションの研究活動をしていきます」

「『光と人の物語』は、2004年からの企画。ひとめぼれの話や、目の遺伝子の話をするにも、万葉集の歌や絵画などの挿話を使っています。私たちの文化と科学が深いところでつながっていることを、科学に興味がない人にも知ってほしいと思い、書いています。これからもよろしくお願いします」

米本昌平さんには、『バイオポリティクス』(中公新書)の執筆など、生命科学の諸問題を考察した長年の活動に対して賞が贈られました。



「もうじき61歳になります。学生がそのままおっさんになって、後はどうやって命をまっとうしようかと考えるころです。ジャーナリズムについての賞をもらい、感慨深いものがあります」

「子どものころは、“登校拒否”や“いじめ”という言葉があれば楽だったのかもなといまでは思うような生活を送っていました。学校に行けなくて、消去法で山登りなどをしていました」

「京都大学理学部は反権力、反体制的なところなのだと思って入ってみると、そうではないことがわかりました。以来、理学部の権力を落とすために大学に通っていたようなもの。卒業論文は書きませんでしたし、指導教官もいません。職業研究者になれないように自分の退路を断ち、お国に帰ることになったのです」

「証券会社に就職をしてから、情報理論の先駆けとなるような、科学史の論文を書きました。これが三菱化成生命科学研究所の中村圭子室長(当時)の目にとまり、書類審査80倍の職に雇ってもらうことになったのです。29歳のときでした。研究費をあたえてくれて『研究成果さえ出してくれれば、365日なにをやってもよい』と言われました」

「比較政策論つまり実証主義に徹することで、バイオテクノロジーと社会の間にある問題に取り組んでいきました。個々人が決断する問題とは別に、社会が考えなければならない、技術使用や研究規制の問題について比較政策研究をしてきました」

「(私の著書は)一見客観的ですが、相手に対して批判的な視点で訴えています。ジャーナリスティックな視点が受け入れられたのだと思います。光栄に思います。ありがとうございました」

つづく。

横山広美さんの受賞理由になった、ニコンのホームページ『光と人の物語〜見るということ〜』はこちら。
http://www.nikon.co.jp/main/jpn/feelnikon/discovery/light/index.htm
「横山広美のページへようこそ」はこちら。
http://www.hiromiyokoyama.com/index.html

米本昌平さんの受賞理由となった、著書『バイオポリティクス』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/バイオポリティクス?人体を管理するとはどういうことか-米本-昌平/dp/4121018524/ref=sr_1_1/503-7257412-2611120?ie=UTF8&s=books&qid=1178721521&sr=1-1
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都会の車窓から


この春から、定期券の路線をかえました。住んでいる千葉県から東京方面へ、黄色い総武線に揺られています。

この電車の楽しみは車窓からの風景。地下鉄の車窓も望外に楽しいものですが、やはり地上を走る電車の窓から移ろう街の風景を眺めるのはおもむきあるもの。

とりわけ風光明媚なのが、秋葉原駅から御茶ノ水駅にかけての一駅間の眺めです。時間にしておよそ90秒。距離にして600メートル。わずかの間に、車窓は大きく様がわりしていきます。

首都高速よりもさらに高いところにある秋葉原駅のホームを発つと、電車はすぐに中央通りを跨ぐ鉄橋へ。橋には低い欄干があるのみ。眼下には、上野の界隈へとつづく秋葉原電気街の目抜きどおり。歩道には溢れんばかりの人ごみ。車道にはタクシーやトラックの渋滞。

しばし電気街のビルと肩を並べるようにガード上を電車は走ります。石丸電気やオノデンなどの老舗の4階5階のフロアはすぐ目の前。

つぎにさしかかったのは緑色のアーチ橋。下の道路の昌平橋交差点を斜にまたいでいきます。アーチの柱ごしに見えるのは、国道17号の神田明神下交差点。わずかに御茶ノ水寄りの道が坂を上りはじめています。



黄色い電車は、神田川をひとまたぎ。川の向こう岸、外堀通り沿いにはビリヤード場や囲碁クラブなどの娯楽場の背中が並んでいます。

線路はすこしだけ下りのこう配。左手に目をやると、神田、万世橋を通ってきた橙色の中央線がいつの間に並走しています。

御茶ノ水駅まではあとすこし。ふたたび右手の車窓に眼をやると、一段下に走るのは地下鉄の丸ノ内線。一瞬の陽射しを浴びて神田川を渡っていきます。昔の地下鉄は、掘り割り式でつくったため地下浅く、地上部に出ることがしばしば。



御茶ノ水駅のホームが見えてきました。ホームのいちばん秋葉原よりは、黄色い電車の下りこう配と、橙色の電車の上りこう配をむりやり合わせるような段差。

4番線まである駅は、神田川と駅前の小路の間にへばりつくように置かれています。きょうもせまいホームには、橙色から黄色の電車へ、黄色から橙色の電車へ、乗り換えるための客で混んでいました。

電脳の街から、谷間のような川沿いの街へ。眼下にあった街の通りは、いつの間にか見上げるくらいの高さへ。わずかな間に、これほどの車窓の変わりかたを楽しむことができます。携帯電話や読書にすこしあきたら、窓の外をただ眺めてみては。
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「科学をちょいびき!」のホームページ


前月(2006年)4月4日に、週刊メールマガジン「科学をちょいびき!」の刷新について、紹介がてらお話しました。

「科学をちょいびき!」は、科学と英語の両方を、学びながら楽しむといったねらいのメールマガジンです。文章は日本語で、その文章のなかに、関連するような英語の科学情報サイトや科学報道サイトのリンクをはさんでいきます。

この「科学をちょいびき!」の内容を読むことができるホームページがこのたび立ち上がりました。

「英語が苦手な方々のために、写真がきれいだったり、遊びの要素が入っていたりするような、楽しめるサイトをリンクしたいと思っています」(発行・編集の責任者、藤田貢崇さん)

メールマガジンとホームページ。どちらも電子の媒体。たとえばラジオとメールマガジンとか、電話とホームページといった関係にくらべたら、けっこう媒体どうしの位置づけは近いものがあります。

でも、メールマガジンがいったん登録すればあとは自動的に配信されるのに対して、ホームページはみずからでたどり着くといったちがいがあります。

また双方向性が強いのはホームページのほうでしょう。「科学をちょいびき!」のホームページでも、読者が思う科学の疑問をスタッフがこたえる「掲示板“科学をちょいびき!”(質問受付中)」のページを設けたりしています。

私はメールマガジンはこの「科学をちょいびき!」に参加しているくらいで、発行人になったことはありません。伝え手としても、こちらから送るよりも、ページまで見にきてもらうほうがなんとなく気が楽だからかもしれません。ただ、なんとなく。

さて、「科学をちょいびき!」の最新号は、清水忠さんの書いた「良薬は口に辛し!? トウガラシのルーツ&抗がん作用」というお題。カレーを食べたくなる引き金になるような記事です。

「科学をちょいびき!」のメールマガジン登録ページはこちら。
http://blog.mag2.com/m/log/0000169799/
「科学をちょいびき!」のホームページはこちら。
http://web.mac.com/sciencejournalist/
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書評『偶然からモノを見つけ出す能力』
ノーベル賞受賞者が、科学の発見のいきさつを伝えるときなどにしばしば引き合いに出されるのが「セレンディピティ」です。この本の著者は、なじみのうすいこのかたかな言葉に、みごとに漢字の言葉を当てはめます。

『偶然からモノを見つけだす能力 「セレンディピティ」の活かし方』沢泉重一著 角川新書 2002年 193p


“セレンディピティ”について、そのことばの起こりや、その力の高めかたといったことが論じられている。

セレンディピティは、せまい意味では「探していたものを、ほかのものを探しているときに偶然に見つける力」ということ。

この本ではより広く「偶然を見逃さずに成功につなげる力」という意味で使っている。著者が編み出した「偶察力(偶然を察知する能力)」という言葉は、とてもしっくりくる。日本語として広まるべきだ。

本の最初の3分の1は、ことばの起こりについて。「セレンディップ(Serendip)の3人の王子」という物語に出てくる偶然についてを、イギリスの書簡王ホレス・ウォルポールが手紙のなかで名詞にしたのがはじまりなのだそうだ。つまり、「セレンディップ」から「セレンディピティ」へ。

ほかにも、このことばが生まれた18世紀の社会状況や、ウォルポールの生い立ちについてなどが細やかに書かれている。これはこれでよく調べられているとは思うが、話が若干右往左往する感があり、「言葉のおこりを知って何になる」という感はあった。

けれども、そうした感を払いさってしてあまりあるくらいによく書かれてあるのが、そこから先のセレンディピティの力を高めるための方法論だ。

世界的な革命をもたらした発見の共通点をあげたり、トマス・クーンの唱えるパラダイムシフトとの関係やシンクロニシティという言葉とのちがいなどを述べている。さすがにセレンディピティ研究の先駆者が書いたものだけあり、これは発想に役立つと思うところが多かった。とくに「7 セレンディピティの向上」の章では、意図的にセレンディピティを高めるための一連のシステムを紹介している。

偶然という現象自体について述べた本はアーサー・ケストラーの『偶然の本質』などがあるが、この『偶然からものを見つけだす能力』はその偶然を人間の力によってうまく引き出して利用しようというもの。「自分にできるかも」という期待感をもたせてくれる。また、偶然がともなうブレークスルーは、ともなわないものよりも大きな成果をもたらしうるそうだから、セレンディピティを高めたい気持ちは高まってくる。なんとも魅力ある話だった。

『偶然からモノを見つけだす能力』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/gp/product//4047040959/ref=cm_aya_asin.title/503-7257412-2611120
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しのびよる、あの“影”


大型連休あけの週が終わろうとしています。

カレンダーに目をやると、このさき祝日はしばらくなし。そんなことを考えているうちに、ひたひたとしのびよる“黒い影”が…。そう、大型連休明けは「五月病」になりやすい時期です。

五月病にかかるのはもっぱら“新人さん”。新しい職場に入って間もないこの時期は、仕事も“あたえられる一方”のため、自分の意志で仕事を調整することができません。また、新しい環境に入るまえの想像と、入ってからの現実との差を感じだすのもこの頃。これらがストレスのもととなるようです。

日本ならではの病なのでしょうか。新学期が9月からの欧米で、直訳の“May Sick”といってもぴんとこないでしょう。また、“Freshman's Syndrome”などの訳語もあるそうですが、あまり使われていないもよう…。

ただ、五月病に近い「適応障害」は、世界で見られる心の病です。あらたな環境に慣れる、つまり“適応”することに、体がついていかない、つまり“障害”をきたすため、こうよばれています。

とかく「責任感が強い人」「完璧主義な人」「他人の評価が気になる人」は、五月病になりやすいといわれます。とはいえ、人の性格はかんたんに変えられるものではないし…。

あまりにつらいときは、お医者さん(精神科医)に診てもらうのがよさそうですが、そこまでではない人への克服法にはどのようなものがあるのでしょう。

対処療法として、土日以外に、何かの理由をつけてもう1日休日をつくってしまう、というのも手だと聞きます。しっかりと休んで気力を回復しましょうということ。

それに「病」の字はついているけれど、あってはならない病としてとらえる必要はないというお医者さんもいます。「これも自分が成長をするためのひとつのよい経験だ」と、考えられればしめたものです。

頭をしゃきっと切りかえられる人はそうするもよし。つらいなあと思う人は休みをとるもよし。無理せず、あなた自身のペースで行けるといいですね。
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『植物の生存戦略』


新刊の紹介を。朝日新聞社から『植物の生存戦略 じっとしているという知恵に学ぶ』という本が発売されました。

葉や花や根などの植物のからだの部分に注目し、「なぜそれぞれの植物にはそれぞれの葉のかたちがあるのか」とか「なぜ植物は毎年おなじ季節に花を咲かせるのか」とかの、根本的な謎にせまった内容です。10人の植物研究者がそれぞれの章を受けもちました。

この本づくりに、私は“取材・構成”という役で携わることができました。10章のうちの1章ぶん、最後の第10章の担当です。

たまに“構成”という本づくりの役割のことばを目にすることがありますね。どのような役かというと、研究者などに話を聞いて内容をととのえ、その人になりかわって書くような役のこと。おそらく、取材で得た材料を組みたてて、ひとつのものに仕立てていくので、構成とよぶのだと思います。

取材・構成をした第10章は、名古屋大学生物機能開発利用研究センター芦苅基行准教授の章。「『第2の緑の革命』にむけて」という章の名前です。

「緑の革命」とは、1960年代にアジアなどで広がった食料危機を救ったとされる技術革新のこと。品種改良で背丈の低いイネを作り倒れにくくすることで収穫を増やしました。

この「緑の革命」での品種改良は、「そのイネはなぜ倒れにくいのか」ではなく「そのイネは倒れにくいかどうか」という結果を優先していました。

そこで、「そのイネはなぜ倒れにくいのか」についても遺伝的に解き明かそうとしたのが芦苅准教授。農家の「台風に強いイネを作りたい」とか「害虫に強いイネを作りたい」とかいった、地域ごとの声をかなえるイネを作れるようにするため、イネの特徴に関わるいろいろな遺伝子を、まさに“デカ”が“ホシ”を絞り込んでいくように見つけ出していったのです。

なじみのあるコシヒカリに、背たけの低さに関わる遺伝子だけを入れた、「ほとんどコシヒカリ」が作られるまで、といった話も出てきます。

ほかの章も「受精のメカニズムをとらえた!」や「4億年の歴史をもつ維管束」などの各章で、植物の生存戦略をじっくりと説いていきます。全体として、植物の一生と植物科学の意味がわかるといった本のつくりです。

物書きとして本づくりに関わったのはこれが初。どうやったらうまく伝わるかと、試行錯誤のくり返し。年末年始、知り合いの助手さんから“はっぱ”をかけられたりしながら構成をしました。

芦苅准教授にはとてもていねいにわかりやすく説明をしてもらいました。編集者の赤岩なほみさんにも、取材に同行してもらったり適切な図版を付けてもらったりと、お世話になりました。

『植物の生存戦略』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/植物の生存戦略?「じっとしているという知恵」に学ぶ-「植物の軸と情報」特定領域研究班/dp/4022599219/ref=sr_1_3/503-7257412-2611120?ie=UTF8&s=books&qid=1178810939&sr=1-3
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科学ジャーナリスト大賞2007にNHK村松秀さん


今日(2007年5月9日)、すぐれた科学ジャーナリストの仕事に贈られる「科学ジャーナリスト賞」の今年の発表がありました。主催は日本科学技術ジャーナリスト会議。

2年目となる今年の大賞は、NHK科学・環境番組部ディレクターの村松秀さん。「『論文捏造』(中公新書ラクレ)の執筆とそれに関連したNHK特別番組の制作に対して」大賞が贈られます。

2004年にNHK衛星放送で『史上空前の論文捏造』という番組が放送されました。米国のベル研究所という研究所を“舞台”に2000年に起きた、超伝導をめぐる論文のねつ造事件にせまったもの。“主人公”はヘンドリック・シェーンという当時29歳の研究者。

とても低い温度でしかおこらない超伝導という現象を、「高い温度でおこすことができた」として輝かしい論文をつぎつぎと作りあげ、「ノーベル賞確実」と言われたのち、論文ねつ造があからさまになり、シェーンは科学の世界から追われます。番組はそのいきさつを取材したものでした。

じつは超伝導の実験技術には素人も同然だったシェーンに対して、論文を読んだまわりの科学者たちはほめたたえるばかり。科学の世界、かくも偽りがとおりやすいものか…。番組を見て、そんな思いをもったものです。

大賞のほか、「科学ジャーナリスト賞」は、信濃毎日新聞記者の山口裕之さん、新潟大学名誉教授の藤田恒夫さん、前・科学技術文明研究所長の米本昌平さん、東京大学理学系研究科准教授の横山広美さんの4名に決まりました。

山口裕之さんはチェルノブイリ原発事故の“その後”を追いかける記者。このブログでも前に、「信州発。チェルノブイリ『20年目の対話』」という記事で、山口さんが籍をおく信濃毎日新聞の独自路線をとりあげました。

また、横山広美さんは、ノーベル賞受賞者でもある小柴昌俊さんのもとで、素粒子ニュートリノの研究をしたあと、科学コミュニケーションの世界の研究をしている科学の伝え手。早稲田大学大学院科学技術ジャーナリスト養成プログラムでも今年から教えています。

大賞と賞の受賞者、受賞理由と関連ホームページはつぎのとおり。

科学ジャーナリスト大賞
NHK科学・環境番組部専任ディレクター 村松秀さん
『論文捏造』(中公新書ラクレ)の執筆とそれに関連したNHK特別番組の制作に対して

科学ジャーナリスト賞
信濃毎日新聞文化部記者 山口裕之さん
地域の医療支援団体の活動を通じてチェルノブイリ原発事故を追跡した報道の取材班の代表として
信濃毎日新聞のホームページ
http://www.shinmai.co.jp/shinmai/

新潟大学名誉教授 藤田恒夫さん
ユニークな科学誌『ミクロスコピア』を新潟から発信をつづけている功績に対して
「藤田恒夫のホームページへ ようこそ」
http://www.fuchu.or.jp/~fujita3/ 
         
前・科学技術文明研究所長 米本昌平さん
『バイオポリティクス』(中公新書)の執筆など、生命科学の諸問題を考察した長年の活動に対して
著書『バイオポリティクス』
http://www.amazon.co.jp/バイオポリティクス?人体を管理するとはどういうことか-米本-昌平/dp/4121018524/ref=sr_1_1/503-7257412-2611120?ie=UTF8&s=books&qid=1178721521&sr=1-1

東京大学理学系研究科准教授 横山広美さん
Web作品 Nikon『光と人の物語〜見るということ〜』(下記ホームページ)に対して
http://www.nikon.co.jp/main/jpn/feelnikon/discovery/light/index.htm
「横山広美のページへようこそ」
http://www.hiromiyokoyama.com/index.html

授賞式は(2007年)5月15日(火)東京・内幸町のプレスセンタービルで行われます。

「第2回科学ジャーナリスト賞の受賞」のお知らせがある、日本科学技術ジャーナリスト会議ホームページはこちら。
http://www.jastj.jp/index.html
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時事ネタから一つ。

小学2年生の30%が、「ひとつ」を漢字にすることができなかったということが、学校の先生たちによる学会の調べで明らかになったそうですね。

私は幸いにも「ひとつ」が「一つ」であることを忘れてしまったことはまだありません。ただ、このことばを使うときに、「ひとつ」にするか「一つ」にするかで迷うことはあります。

グーグルで検索してみると、“ひとつ”が約74,600,000件であるのに対して、“一つ" は約1,730,000件でした。少なくともインターネットの世界では、43倍ほど多く、“ひとつ”のほうが使われているようです。ちなみに“1つ”はさらに少なく約1,540,000件。

ウィキペディアには、「1」という見出しの項目があり、「『無』を意味する0に対して、1は有・存在を示す最原初的な記号なので、物事を測る基準単位、つまり数を数える際の初めである」また、「零の概念が発見されるまで、一は最小の数字であった」と書いてあります。

けれども中世の時代には、「1」が数字であるかどうかは議論になったこともあるそう。「『1』は数ではない」と言い張る数学者は、「『1』はほかのすべての数に対する母体である」として、「1」をふだんは意識しない存在ととらえていたようです。たしかに素数の定義にも、「1をのぞく」とあります。

中世の数学者のいうとおり、ごく身近であることからあまり意識しませんが、「1」にもかずかずの特徴があります。

たとえば、なにもない空間の中にものを「一つ」だけ置くことは、「無」つまりまっさらであるのとおなじくらいに目立つこと。

また、ものごとの始まりを示すのも、やはり「一」がもっともしっくりくるもの。「千里の道も一歩から」「一番はじめは一宮」…。

「数字もことば」ととらえれば、それぞれの数に意味や特徴を見いだせるものです。
| - | 23:59 | comments(0) | -
科学革命はここから「パドヴァ大学」―sci-tech世界地図(1)


きのう(2007年5月6日)評した本のなかで、著者バーターフィールドがこう書いています。

「もしも科学革命の発祥地を一箇所に限るとしたら、他のどこに比べてもパドヴァ大学が卓越していると言えるだけのすぐれた発展がそこに見られるのである」

パドヴァ大学は、イタリアの北西、パドゥバの街にあります(トップ画像は1654年につくられた木版画)。国の形を長靴にたとえると、ちょうどファスナーを上げきったところ。水の都ヴェニスからは国際高速鉄道ユーロスターで西へおよそ40分。街のなかに、大学の建てものが散らばっています。

いまも続くパトヴァ大学。大学の案内を見ると「創設は1222年とされている」。しかし「この年は、『この地に建立されて、人々に知られるようになった』年であり、実際の創設はさらにさかのぼることもありうる」。

なぜ、パドヴァ大学が「科学革命の発祥の地」といえるのか。それは、近代科学のなりたちに欠かせない多くの人びとがこの大学に籍をおき、活躍してきたからです。また、“革新的な教室”を備え、科学がつぎつぎと明らかにしていったからでもあります。

地球がまわっていることにすると、理論につじつまが合うことを見つけたことから、地動説のきっかけをつくったとされるニコラウス・コペルニクス(1473〜1543)。彼は、司教になるための教育を受けていましたが、教会の許しをこい、パトヴァ大学で医学を学んでいたといいます。

また、地球がまわっていることを証すことになったガリレオ・ガリレイ(1564〜1642)も、ピサを離れたあと、1592年にパトヴァ大学に移り、ここで教授として幾何学や天文学などを教えました。当時パトヴァはベネチア共和国という独立国の中の都市。聖書と矛盾する地動説を広めるには、ローマ法王の影響を受けていないこの地がふさわしかったのです。

最古の解剖学教室があるのもパトヴァ大学。17世紀はじめ前後から、解剖の授業があったとされます。ただそのころ、人の体を解剖することは禁止されていたため、授業はひそかにおこなう必要がありました。そこで、教室に立ち入られてもばれぬよう、解剖台が開いて死体が運河に流れていくしかけがされてありました。

科学史を語るうえでなくてはならない数々の人が籍をおき、近代科学の初期にあたるさまざまな功績も残していったパトヴァ大学。

大学は、「ローマ法王により許しをえた末に創られたのではなく、大学を必要とする社会的また文化的な気運にこたえて創られた」ことを誇りにしているようです。

イタリア・パトヴァのパドヴァ大学周辺の地図はこちら。


パトヴァ大学のホームページには、構内を疑似見学することができるページがあります(英語)。
http://www.unipd.it/en/university/tours.htm

科学を語るうえでは「科学史」という、時間を軸にしたたしかな方法があります。いっぽうで、地理的な広がりを軸にした「科学地理」とか「科学地図」といった方法は、あまり見られません。“sci-tech世界地図”では、科学にまつわる“場所”をこれからも紹介していきます。
| - | 23:59 | comments(0) | -
書評『近代科学の誕生』
科学の歴史を語ったら右に出る人はそういない、小山慶太・早稲田大学教授が推薦。近代科学が成り立つまでを生き生きと描いた本です。

『近代科学の誕生(上・下)』ハーバード・バターフィールド著 渡辺正雄訳 講談社学術文庫 1978年 上巻138p・下巻190p


「科学革命」というと、もっぱら科学哲学者のトマス・クーンが「パラダイム」を説明するなかで使った言葉として通っている。

この『近代科学の誕生』の著者のハーバート・バターフィールドも、本の中で「科学革命」という言葉をよく使っている。

ことばの意味を、クーンのほうがより限って使っているところもあれば、その逆もある。クーンは、科学革命が起きるまでのいきさつをこまごましいほどに説いているのに対し、バターフィールドは中世から近代にかけてのヨーロッパという時代の設定をしているからだ。

ではその、中世から近代にかけてのヨーロッパという時代はどんな時代だったのかというと、ニコラウス・コペルニクスが地球が回っていることを唱え、ウィリアム・ハーヴェイが体の中を血がまわっていることを証し、アイザック・ニュートンが重力を頭に描いた時代だった。

私たちが、当時の「科学革命」について最初に知るのは、もっぱら学校の教科書のなかかもしれない。世界史の教科書では、章のおわりのほうに、評論なしのベタ記事のように書かれてあるくらいだし、理科の教科書では、本題への入口として書かれてあるくらいだ。

物事のいきさつや背後にあるものを十分に味わわないと、しばしば私たちは、そのできごとはとつぜんにふってわいて、それまでとそれからの世界ががらっと変わってしまったかのような印象を受けてしまう。

実際はそうでいということを著者は説いてくれる。

たとえば、「われわれが認めるコペルニクスの体系の美しさは、もっと後になって――コペルニクスの体系がもっているこみいった夾雑物のようなものが取り除かれた後に――達成されたものである」と著者はいう。

また、「地球が宇宙に浮かんでいるのは、宇宙空間にはエーテルという目に見えぬもので満たされているからだ」というデカルトの渦動論や、「火が燃えるのは、目に見えない物質が空気の中に逃げ出していくからだ」というシュタールのフロギストン説が信じられていた。

著者はこれらの説が、(いま思い起こせば)科学の発展をいかに妨げたかということを、歴史のできごとを道具に明らかにしていく。

「もしもわれわれが伝記的な扱い方をすることのみに終始し、とりわけ、著名な人物から人物へと結んでいくことで科学の歴史を構成しようとするならば、それは本当の歴史にはならない」とは著者の巻頭言。

「科学革命」を説くうえで手本となるようなできごとをひとつひとつ捉え、浮かんでは消えていく説のなりゆきを説いていく。著者は、科学の歩みとは、川を流れる水のように、あるいは青空をただよう雲のように、“ゆったりと流れては形をかえていくもの”であることを示してくれる。

『近代科学の誕生(上)』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4061582887/ref=s9_asin_image_1/503-7257412-2611120?pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_s=center-1&pf_rd_r=19G4GSE5WTKTYDNPNN4F&pf_rd_t=101&pf_rd_p=61605406&pf_rd_i=489986
『近代科学の誕生(下)』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/近代科学の誕生-下-講談社学術文庫-289-ハーバート・バターフィールド/dp/4061582895/ref=pd_bxgy_b_text_b/503-7257412-2611120?%5Fencoding=UTF8&qid=1178467361&sr=1-2
| - | 23:59 | comments(0) | -
6月24日まで「MOTTAINAIへ〜キャンペーン報道の力」


大型連休のこり1日。おつとめのみなさんは、休みあけのために心の準備に勤しんでいるころでしょうか…。

体の動かしすぎは月曜にひびきます。かといって何もしないのもどうもちょっと…。連休最後の日に博物館をおとずれみるのも、妥協的着地点のひとつかもしれません。

横浜市中区の日本新聞博物館で「MOTTAINAIへ〜キャンペーン報道の力」という展覧会が開かれています。2007年6月24日まで。

“MOTTAINAI”は、日本語「もったいない」が語源となった標語。ケニアの環境保護活動家ワンガリ・マータイさんが国連の委員会で連呼し、世界語の一歩手前となった言葉です。マータイさんは2004年にノーベル平和賞を受賞しています。

この“MOTTAINAI”を広めようと啓蒙活動をしているのが毎日新聞。展覧会の名にもなっている「キャンペーン報道」とは、報道機関が「このこと世の中にうったえよう」と意図して、ことあるごとに関係するできごとなどを知らせていくやり方です。

展覧会では、「地球温暖化の危機、世界・日本からのリポート」や「ワンガリ・マータイさんのグリーンベルト運動」などの展示があるほか、「『風呂敷』の結び方教室」や「自分の目で確かめる、地球温暖化CO2を測ろう実験室」などの「みんなでやろう もったいない運動」も体験できるようです。

ほかにも期間中には、「アメリカ大統領選挙と地球環境」(2007年6月9日土曜日)といった硬派な記者講演会や、「旧石器発掘ねつ造からMOTTAINAIへ」(6月23日土曜日)といった2つのできごとのつながりに想像をかきたてられる記者講演会なども開かれる予定。

「もったいない」の語源を調べたところ、「勿体(もったい)」が「無い」から来ているとのこと。「勿体」とは、重々しいさまやお偉いさま。つまり、「もったいない」は「重々しくない」というのがもともとで、転じて「自分には不相応である」という意味になり、いまの「もったいない」になったのだそうです。

連休の最後、家でごろごろしているだけでは、あなたには不相応かも…。

2007年6月24日まで「MOTTAINAIへ〜キャンペーン報道の力」が開催中。日本新聞博物館のホームページはこちら。
http://www.pressnet.or.jp/newspark/
| - | 23:59 | comments(0) | -
科学者は家事がお好き?


研究にわれを忘れるほどの夫を、妻がそっと支える…。科学者と妻の描きやすい夫婦像かもしれません。では、この人の場合どうだったのでしょう。

ロバート・ミリカンという20世紀前半に活躍した米国の科学者がいます。「ミリカンの油滴実験」という、いまも語りつがれる実験をした、名高い物理学者です。

「油滴」は、油のしずくのこと。電子には、電気の現象の正体である電荷がどれだけふくまれているのだろう。そう思ったミリカンは1909年、電気を帯びさせた油の一滴一滴を装置のなかでうまく浮かばせて、電荷の量を測るという妙技をこなしました。この実験で、ミリカンは1923年にノーベル物理学賞をもらっています。

古典文学から物理学に転向した苦労人。ミリカンは、いくども実験をくりかえした“地道な人”としても知られています。38回、実験をくりかえし、その一回一回がどのくらい信頼性ある実験だったかを自己評価し、すべて等級づけしたともいいます。

こうしたミリカンの地道な実験の数々を横で支えつづけてきたのが、妻のグレータ。ふたりは、1902年に結婚しています。

ある日、ミリカンの家に、ひとりの客が訪れました。ミリカンはその日も実験に没頭中。妻グレータは、いま夫は実験に多忙で手が離せませんのと、客に申しわけなそうに言いました。

グレータからそう告げられたミリカンの客人は、感心したそうです。「なんと。ミリカンはそれほど妻思いな人だったとは…」と。

え…。実験で多忙なのに、なぜに妻思い…。

じつはこれ、科学史にきざまれた聞きまちがい。妻グレータは、“He watched an ion half an hour.”つまり「夫は、イオンを1時間半も観察していまして」と言ったらしいのですが、客人はこの言葉を、“He washed and ironed half an hour.”つまり、「1時間半も洗濯とアイロンがけをしていまして」と聞きまちがえたのだそうな。

ミリカンも、「研究に夢中な科学者の夫。夫をささえる妻」という、だれもが想像しがちな夫婦の関係を打ちやぶるにはいたりませんでした。
| - | 22:07 | comments(0) | -
滑り坂論(3)
滑り坂論(1)
滑り坂論(2)



「いったん、歯止めがはずれると、ものごとがどんどん悪いほうへむかっていく」という科学や医学の「滑り坂論」に対して、「いや、歯止めを考える必要なんてない」という立場の人は、さらなる後押しのカードを出します。

それは、「すべての人が公正に幸福になる場合は、(賛否いわれている)技術を使ってよい。これが、歯止めを掛ける掛けないの線引きとなる」というもの。つまり、「みんなが技術の力で幸せになるなら、それでよいではないか」ということです。

けれども、これに対しても反論が用意されているのです。それは、「技術の進歩とは人の価値観も変えてしまうもの。だから、けっきょく、人は“滑り坂”にはまってしまう」というもの。時代は移りかわっていきます。並行して技術力も進んでいきます。すると、ある時代には倫理のおかげで受け入れられていなかった技術が、次の時代にはみんなの便利のために受け入れられるようなことも起きるでしょう。これは、技術が“滑り坂”を滑っていく構造を見ているようなものです。

それに、おとといの1回目の記事で脳死の例をあげたとおり、だれもが幸せなるような場合は、ごくかぎられたものなのかもしれません。

さて、「滑り坂論」に対して「歯止めは必要」という立場と「歯止めは不要」という立場。論戦になってしまいました。

歯止めが必要・不要、おたがいの論を交わしつづけていくことそのものが、緊張の糸がぴんと張った、健全な世の中を保つことにつながるのかもしれません。おたがいの立場がおそらくは望んでいるような、急激な展開はのぞめせんが…。

もうひとつ。科学技術や医療にたずさわる人は、技術を使ってなにをどこまですることができるのか、できないのか、その「限界」を知っています。いっぽう、たとえば法学や社会学にたずさわる人は「現実の社会に当てはめてみると」といった、実社会に即した立場からのものの見方をすることができるでしょう。倫理的な問題には、「限界を見る目」と「現実を見る目」が重なりあってこそ、より多くの人が腑に落ちるような答えに近づくことができるのでしょう。集合知ですね。(了)

参考サイト
「『遺伝子治療滑り坂論』は誤った批判か?」
http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/genome/genome95/32kurosaki.html
| - | 22:32 | comments(0) | -
滑り坂論(2)
滑り坂論(1)



きのう(2007年5月1日)は、「いったん、歯止めがはずれると、ものごとがどんどん悪いほうへむかっていく」という科学や医学の「滑り坂論」について例をあげてみました。

いっぽうで「いや、歯止めを考える必要なんてない」という考え方もあるようです。そのおもな理由としては、「“負をゼロにする処置”と“ゼロを正にする改善”を区別すればすむことだから」というものがあります。

“負をゼロにする処置”とは、ごくかんたんにいえば病気に手を打つこと。たとえば、貧血をひきおこす遺伝病などを、遺伝子操作技術を使った遺伝子治療により治すといったものです。

もうひとつの“ゼロを正にする改善”は、健常な人の状態をよりよくすること。たとえば、なんの問題もなく生活している人がさらなる背の高さや姿の美しさなどを求めて遺伝子操作の技術をとりいれるといったものです。

つまり「“負をゼロに”のときは(賛否いわれている)技術を使ってよい。“ゼロを正”のときは技術を使ってはだめ」とすれば、歯止めなんて要らないということです。

けれども、これに対してはすぐに反論をあげられそうです。“負をゼロに”とも“ゼロを正に”ともいえる“灰色”の領域があるからです。

たとえば、「左利きを右利きにする」といった場合、人によっては「左利きの人は生活にとても不便している。だから“負をゼロに”すべし」と考えるでしょうし、人によっては「左利きでもふつうに生活できてるじゃん。それを遺伝子技術で治すのは“ゼロを正に”することさ」と考えるでしょう。同じような“灰色”の領域は、肌の色を変える、近視を治すなども当てはまるでしょう。

けれども、さらにこの論に対しては、「いや、歯止めを考える必要なんてない」という意見を後押しする、さらなる別の反論もあります。つづく。
| - | 23:59 | comments(0) | -
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