科学技術のアネクドート

津々浦々、数珠つなぎ。


大型連休も前半がおわろうとしています。マイカーで移動のみなさん、渋滞のなかの運転おつかれさまでした。

かつての連休中、なかまで河口湖のちかくまでテニスをしに行きました。朝9時に東京を出たのですが、中央自動車道でビール工場と競馬場が見えるあたりから渋滞に巻きこまれ、現地に着いたのが夕方の17時ごろ。薄くらがりのテニスはまた格別でした。orz。

なぜ、渋滞は起きるのでしょう。

“渋滞学”をはじめた東京大学大学院の西成活裕助教授の説明によると、「慣性の法則」などの物理学的な動きにとらわれずに、みずからの意志で動く「自己駆動型の粒子」が集まると渋滞になるのだそうです。

テレビ番組でも渋滞のしくみを取りあげていました。道路のちょっとした“下がり上がり”が、渋滞の巣となるのだそう。

ゆるやかな坂を走っていることに気づかない運転手は、“下がり上がり”の間も、おなじ感覚でアクセルを踏みつづけます。とうぜん“上がり”で車の速度はすこし落ちます。すると、順番に車がつっかえていき、渋滞が発生するのだとか。テレビ番組では、東京・葛飾区の柴又帝釈天への参道にあるちょっとした道のくぼみで、行進する子供たちが“渋滞”を起こす姿を描いてました。

また、「制限時速80キロのところを時速50キロ」のような、ある一定の車の流れを乱す車も、渋滞をつくる原因になるのだとか。

いま、技術の高まりにより、前の車との車間距離を自動的に保つことのできる検知器が開発されているそうです。この検知器がそれぞれの車に備えつけられれば、どんな速度であっても、つねに一定の車の間隔を保つことができるために、渋滞の緩和にも役立つと言われています。

とはいえ、まだそうした感知器のついていない車ばかり。大型連休後半、観光地へ車で向かうのであれば、「小仏トンネル、ついにキター」とか、「西宮名塩、よしハマルぞー」とか、渋滞を楽しむくらいの覚悟で臨むほうが心にはよいのかもしれません。
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肩書き
いつもいつもネタをいただく毎日新聞社のNさんから、お便りをもらいました。気に掛けていたご指摘がありましたので、この場でご返事させてもらいます。

ご指摘は、「寄稿する雑誌や記事により、肩書きが異なっていますね」というものでした。書いた記事には「ライター」「サイエンスライター」「ジャーナリスト」と載っている場合が多いみたいです。

「多いみたいです」と申したのは、「この記事は、“サイエンスライター”で」などと希望を出すことがないからです。すべて、編集者さんの裁量で肩書きは決まります。記事が載っている雑誌を送ってもらい、そこではじめて、自分がその記事を“ライター”として、“サイエンスライター”として、はたまた“ジャーナリスト”として書いたのかを知ります。

ライターとジャーナリストのちがいとは、なんでしょう。ジャーナリストのほうが、ライターよりもより限定的な意味合いがあるようです。

「ジャーナリスト」には“ist”つまり「主義者」という語尾がついています。ジャーナリストとは、定期刊行物(ジャーナル)を使って言論を広めることを信条とする職のこと。「ジャーナリスト」という職業には、歴史的ないきさつとして、「公権力を批判する」といった前提があります。18世紀のヨーロッパで、市民革命の流れの中で、ジャーナリストは誕生しました。

いっぽうの「ライター」は、直訳すれば「書く人」。ジャーナリストもこの中に含まれます。

おととい、きのうと「みどりの学術賞」の受賞者の紹介をさせてもらいました。この賞は、内閣府という政府の部署が主催したもの。政府主催の賞の受賞者を紹介するという文脈では、やはり私はジャーナリストではなさそうです。

科学の分野において「ジャーナリスト」はどれだけいるのでしょう。

しばらく“科学の物書き”として過ごした実感としては、「ジャーナリストとして政府の批判もしつつ、しかるにライターとして政府系の仕事ももらいつつ、書いていく」といった線が、私を含め科学に携わる多数の、経済的着地点になっている気がします。
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みどりの学術賞(2)


今年の第1回みどりの学術賞は、きのう(2007年4月27日)の記事で紹介した杉浦昌弘さんとともに、東北大学教授の中静透さんが受賞をしました。

中静さんは、これまでブナの森林などを研究の場として、森林の生態の研究を続けてきました。その中で、「ギャップダイナミクス」という森林の営みを知るに至ったといいます。

遠くから眺める森は、何年も何年も青々としげっているように見えます。けれども、森の現場に行くと、そこでは本当に少しずつではあるものの、“新陳代謝”とでもいうべき、木々の生まれかわりが起きているのだそうです。

嵐で烈風を受ける。雪の重さに耐えられなくなる。洪水で流される。山火事で焼かれる。これらの外からの影響により、山の木々はところどころで、倒れたり焼かれたりして死んでしまいます。

木が死んだところには、ぽっかりと緑に穴があきます。すると、日の光が差し込み地面が温められて、そこに、新しい木の芽が生えてきます。緑にあいた穴の大きさなどの条件により、育つ木の芽も変わってきます。

こうして、森のところどころが傷つけられると、その傷つけられ具合によって、異なる新しい命が芽生えてくるわけです。こうして、森林の生物多様性は保たれていくといいます。

20年前までは、大きく成長した木の下にその木の次世代が芽生える、といった単純な理論が通用していました。でも実際は、森の樹木は常に種類が入れかわっていたのです。中静さんは、こうした森の変化に光を照らしました。

やはり森にいる時間は多いという中静さん。3月、東京出張のときに都会で取材に応じてくれました。「森のなかでずっと過ごすと、都会の景色も新鮮でいいものですよ」と中静さんはいいます。

生物多様性の大切さについてたずねました。印象的だったのは、中静さんが、生物多様性を文化との関係で話した点です。

地域にはそれぞれ特有の樹木や動物が生きています。そうした生き物を人々は地域の象徴にして親しみ、また結ばれてきました。たとえば、サッカーの浦和レッズの紋章は荒川の河川敷に生えているサクラソウ。また、ラグビーの日本代表の紋章は日本の国花サクラです。

また、色を表現する言葉には、「桃」「橙(だいだい)」「萌葱(もえぎ)」「露草(つゆくさ)」「桔梗(ききょう)」「漆黒(しっこく)」など、じつにさまざまな植物の名前がついています。

こうした成熟した文化の中に生き物が生きることを中静さんは大切にしています。

「受賞の理由に、先生のリーダーシップが、森林の生態研究を発展させた、と書かれていますよ」と打ち明けると、恥ずかしそうに「いえ、私は雑用係ですよ」と謙遜していました。

森林は人間よりも長く生きます。新しい木が芽生えるように、森林研究の分野でも長く研究が続くような仕組みをつくっていくのが中静さんの目標のようです。

内閣府「第1回みどりの学術賞」受賞者の紹介ページはこちら。
http://www.cao.go.jp/midorisho/jushousha/jushousha.html
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みどりの学術賞(1)


「みどりの日」が5月に移ったのをご存じですか。今年から4月29日は「昭和の日」。「みどりの日」は、祝日と祝日の間の休日だった5月4日になりました。

きょう(2007年4月27日)、その「みどりの日」に関連し、新しく創設された「みどりの学術賞」の授与式が都内で行われました。

この賞は、植物の研究や自然の保護など、「みどり」について学問の研究に功績があった人におくられる賞です。杉浦昌弘椙山女学園大学客員研究員ならびに中静透東北大学教授が受賞しました。

杉浦さんは、植物の緑の成分である「葉緑体」を、遺伝子のレベルで解明してきました。葉緑体は、光を取りこんで炭水化物や酸素をつくりだす「光合成」の現場です。

いまや、植物のゲノム(全塩基配列)はつぎつぎと読み解かれていますが、その先鞭をつけた一人が杉浦さんだったのです。1986年に杉浦さんは、タバコ植物(上の画像)の葉緑体のゲノムをすべて読み解きました。3年後の1989年にはイネの葉緑体のゲノムをすべて読み解きました。

杉浦さんは、電気泳動装置という遺伝子読解に欠かせない装置を手づくりで用意し、手作業でひとつひとつのDNAの並び方を地道に確かめていきました。先駆者ならではの苦労です。

植物の葉緑体ゲノムの研究を本格的に始めようと決めたのは不惑のころ。研究者としては、かなり遅めの転向でしょう。大きなきっかけがあったそうです。

それまで、杉浦さんは大腸菌という微生物を相手に研究を続けてきました。杉浦さんが身につけていた大腸菌の遺伝子操作技術を必要としていた人物がいます。利根川進さんです。

杉浦さんと利根川さんは大学院時代に米国で知り合って以来の「悪友」どうしだそう。1976(昭和51)年、スイスのバーゼル研究所にいた利根川さんに招かれ、杉浦さんはそこで3か月ほど利根川さんの研究の手助けをしました。

このバーゼルで杉浦さんは、DNAの並びを切ることのできる制限酵素の発見者で、のちにノーベル賞受賞者となるヴェルナー・アーバーの講演を連夜にわたり聞いたり、また、DNAの分子量を調べるサザンブロッティング法の生みの親エドウィン・サザン本人から方法を教えてもらったりしました。

当時はDNA研究全盛の時代。海外で研究者たちがしのぎを削っている“修羅場”を目にした杉浦さんは、「自分も多くの人がすでに研究してきた大腸菌ではなく、誰も研究していないものの研究を始めよう」と心を新たにして日本に戻り、まださほど注目されていなかった葉緑体の研究を始めたのです。

この3月、私は「みどりの賞」の資料づくりの仕事で、杉浦さんに取材をさせてもらいました。「名古屋までよくいらっしゃった」と部屋に招き入れてもらい、取材を始めて数分のこと。お付きの方がお茶を差し出しに部屋に入ると、杉浦さんはとつぜん、研究とは別の話をはじめました。「発表前なので受賞のことは内密に」という、政府からの依頼をとても忠実に守っていたのです。

とても細かいところまで心配りをしていた杉浦さん。「一流の研究者が一流とよばれるのは、ただ一流の研究をしたからではない」とは言われるもの。この言葉を肌で感じました。
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雑誌の世界のユニバース

NASA

私たちが空を眺めている宇宙以外にも、宇宙はものすごく多重にある、といった話があります。「多重宇宙論」とか「多宇宙論」とかいわれています。

「ユニバース」という言葉は、「一つのもの(ユニ)に転じる(バース)」というラテン語からきているのだそう。でも、宇宙がいっぱいあったら、「ユニバース」ともいっていられませんね。実際、「多宇宙」は英語では、「マルチ・ユニバース」とよんでいます。

先日、大手の雑誌社で編集長や経営役を歴任した方から聞いた話。雑誌の世界にも、「ユニバース」があるそうです。

雑誌の世界のユニバースは、「実際、その雑誌を読んでいるかどうかはおいておいて、読者対象として考えられるすべての数の総和」。たとえば、『ベースボールマガジン』だったらユニバースは、日本語がわかる野球ファンのすべての数となるでしょう(日本語に限定するのは、雑誌が日本語で書かれているから)。また、雑誌ではないけれど、読売新聞や朝日新聞だったら、日本の総世帯数になるでしょうか。

多宇宙論ほどの数ではないけれど、雑誌にも種類の数だけユニバースが存在することになります。しかも、元編集長から聞いたのは、このユニバースは次々と派生していく場合があるということ。

たとえば、出版社がAという総合パソコン雑誌を創刊したとします。ユニバースは500万人ぐらいでしょうか。雑誌が当たって、発行部数はうなぎのぼり。すると、Aという雑誌のユニバースに少しなりとも近づいてくるわけです(ユニバース500万に対して購読者10万とか)。

「そろそろ、この雑誌のユニバースからは、雑誌を新たに買い始める、さらなる購読者は見込めないかな…」

雑誌社の経営者は、そう判断すると“別のユニバース”を創造します。つまり、Aという総合パソコン誌の中の、たとえばインターネット関連の情報だけを切り取った新たなBという雑誌を創刊させるわけです。このBという雑誌のユニバースもおそらく500万人ぐらいいるのでしょう。

こうして、そのユニバースで購読者を“飽和状態”にさせて、“別のユニバース”を創造することを目指すわけです。

おなじ出版社が、コンピュータとか、経済とかの大きな分野で、似た系列の雑誌を出していることはよくあること。こうして、新しいユニバースは誕生するのですね。

宇宙を次々と創りだせる雑誌社の経営者って、やっぱり神?
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ニュートンとケインズ


ニュートンとケインズ。このふたりの間には、時代を隔てた“つながり”があると聞きました。

アイザック・ニュートンはいわずとしれた、科学史に名をきざむ超有名人。いっぽうのジョン・メイナード・ケインズも経済史を語るうえで、なくてはならない人物です。

でも、ふたりが生きた年代を見ると、ニュートンが1642年から1727年であるのに対して、 ケインズは1883年から1946年。ふたりの生きた時代はまったく重なりません。

どんな“つながり”なのでしょう。じつは、ケインズはニュートンの遺稿収集家だったそうです。

ケインズは、ニュートンが手書きで記した原稿の多くを、せりで買い取りました。その中には、ニュートンがこよなく愛していた“錬金術”についての手稿も、多くふくまれていたとか…。

錬金術とは、金属ではない物質を、金や銀などの貴金属に変えたり、不老不死の万能薬を製出したりする方法です。いまでは、化学の進歩で、こうした変化は不可能であることがわかっていますが、17世紀の世界で錬金術はまだまだ模索されていたのです。

買い落としたニュートンの手稿を読んだケインズはびっくり。「ニュートンは、こんなにも錬金術に傾倒していたのか!」

驚いたケインズは、ニュートンのことをこう評したそうです。

「ニュートンは、理性の時代の最初の人ではない。彼は、最後の魔術師だ」
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ほこりにまみれず。


このブログでまえに、「ホワイトボードマーカの構造的問題」というお話を書きました。黒板にくらべて見づらいやら、ペンのインクがかすれている場合が多いやらで、ホワイトボードはなにかと不便と、ぐちをこぼしました。

で、先日、雑誌の取材で、半導体などの小さな機械をつくるためにほこりを出さない工夫がしてある部屋に入れさせてもらったときのこと。

ステッパーという装置の撮影が取材の目的だったのですが、部屋を管理する担当の方がうれしそうに「この部屋に、こんなものがあるんですよ」と、あるものを指さしました。

指の先を見ると、そこにあったのは“黒板”。

チョークの小さな粉は、精密な機械を扱うこの部屋では大いなる天敵。なのに、なぜ黒板…。

近づいて“黒板”を見てみると、表面がつぶつぶしていています。それに、字があまり“粉っぽく”ありません。

この黒板は、「チョークレスボード」とよばれている製品で、名のごとくチョークを使いません。板の表面のすぐ裏がわに、N極が緑でS極が白のオセロのような小さなつぶつぶが入っているのだそうです。専用のペンで板の表面を滑らせると、つぶつぶの表面が緑から白へと反転します。これで、字が書けるというしくみ。

字を消すときは、S極が白なので、おなじS極を帯びた“黒板消し”を使えば、きれいさっぱり字が消えます。

ためしに文字を書かせてもらいました。チョークを板に“かっかっ”とぶつけるあの感触はないものの、普通にペンで板の上を滑らせて字を書くことができました。ホワイトボードよりも文字はあざやか。

ほこりを防ぐ部屋だけに使うのはもったいない。でも、お察しのとおり、値は張ります。価格を調べたところ、チョークで書く黒板の10倍から20倍。ホワイトボードの5倍から10倍。ふつうの部屋での本格的な普及までは…。

ほこりが出るのを防ぐ部屋では、黒板のほかにもこうした高価な「クリーンルーム用品」が使われています。「おカネをだすと、ほこりはでない」ということでしょう。

チョークいらずの黒板については、事務用品をつくるパイロットが原理をくわしく紹介しています。こちらです。
http://www.pilot.co.jp/products/stationary/chalkless/chalkless/genri.html
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世界の科学ジャーナリスト教育の現状とは


(2007年)4月16日(月)から20日(金)、オーストラリアのメルボルンで第5回世界科学ジャーナリスト会議が開かれました。科学ジャーナリストたちが話し合う国際会議です。

通っている早稲田大学大学院科学技術ジャーナリスト養成プログラムからは、プロジェクトマネージャーと助手、それに学生代表が参加。

また、所属している日本科学技術ジャーナリスト会議からも、下部組織「科学ジャーナリスト塾」のサポーター長・藤田貢崇さんが参加。ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)主催の会合に出席し、日本の科学技術ジャーナリズム教育の現状を報告しました。

藤田さんから聞いた話で驚きだったのは、科学技術ジャーナリズム教育の経済的独立性という問題です。

科学技術ジャーナリスト会議や科学ジャーナリスト塾は“有志の任意団体”であり、会員や塾生からの会費をおもな収入源として動いています。いわば手弁当の集まり。

じつは世界的に見て、このような“経済的自立”を果たしながら、科学技術ジャーナリズムを教えるような集まりはめずらしいのだそう。藤田さんは発表のあと、座長から「経済的自立を果たしているとは」と驚かれたそうです。

では、経済的自立を果たしていない、その他大勢の集団の経済的支援の実態とはどのようなものなのでしょう。

多くの科学技術ジャーナリスト育成集団は、各国政府の支援のもとで動いているのが実情なのだそうです。

日本でも2005年から政府の助けにより、早稲田大学、北海道大学、東京大学の3大学で、科学技術の“伝え手”を育てる講座がはじまりました。とりわけ早稲田大学大学院の科学技術ジャーナリスト養成プログラムは、「政府を批判するのがジャーナリスト」といわれるなかで政府からの助成を受けるという、逆説を抱えています。

けれども、多くの国では同じように政府のうしろ盾がありつつ、科学ジャーナリストを育ててきたのだそう。むしろ日本はやや遅れていたといえるのかもしれません。

お上からの助けなしでは科学技術ジャーナリストは成り立ちにくいという状況が世界共通だと考えるのは、ちょっと飛躍しすぎでしょうか。

第5回世界科学ジャーナリスト会議の公式ホームページはこちら。
http://www.scienceinmelbourne2007.org/
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エコツーリズム大国


旅にも環境問題への関心をとりいれたものがあります。

「エコツーリズム」とか「生態観光(主義)」とかよばれるものは、自然の資源などを損なわせることなく観光に活かすという考えかた。資源を守ることと、観光で稼ぐことと、地元を盛りあげること。このみっつを成りたたせるというねらいがあります。

日本のエコツーリズムとしては、鹿児島県の屋久島がよく知られていますが、世界を見てみるとどうでしょう。

“先進国”として名高いのが、中米の国、コスタリカです(トップ画像は国章)。

「コスタリカ」と聞いて思い浮かべるのは、選挙でふたりの党内候補が小選挙区と比例代表で交互に出馬する「コスタリカ方式」くらいでしょうか。でもコスタリカには、議員が任期4年の時期に立候補できない制度があるだけで、コスタリカ方式はありません。

日本人はどちらかというとコスタリカのことにまだ詳しくないかも…。

コスタリカは地峡で有名なパナマの西どなりの国で、広さは九州と四国を合わせたくらい。人口は約420万人。首都はサンホセです。「豊かな(リカ)海岸(コスタ)」が国の名の起こりなのだそう。

自然が豊かなのが国の特長。広さでいえば地球の0.03%でしかないところに、すべての生き物の5%以上がすんでいるといいます。

みずからのお国が自然の宝庫であることに気づいたコスタリカ政府は、国をあげてエコツーリズムを推しています。国土の25%が保護区で、これは国民ひとりあたりで計算すると、世界一の面積になるのだそう。

コスタリカのブラウリオ・カリーリョという国立公園でエコツアーを体験した、国立民族博物館の石森秀三教授は、「美しい小鳥以外にほとんど動物と出あわない。ガイドは途中で珍しい植物を見つけると詳しく解説してくれる。とくにラン科の植物が豊富で、色とりどりに美しい」と日本の新聞に感想を寄せています。

豊かな自然や生物の多様性は、エネルギーや食糧を生み出してくれる天然資源であるとともに、観光の資源にもなります。

自然の豊かさでいえば日本もなかなかのもの。エコツーリズム大国コスタリカに学ぶべきことは多くありそうです。

コスタリカ共和国政府観光局日本事務所のホームページ「Discover COSTA RICA」はこちら。
http://www.costarica.co.jp/
非公式コスタリカ個人旅行支援サイト「自然王国コスタリカへようこそ」はこちら。
http://www.enyejapan.com/
| - | 21:45 | comments(0) | -
海外で活躍、日本の名の科学者。


このまえ、米国人と英国人の科学ジャーナリストと食事をする機会がありました。席上でふたりは「米国や英国などでは、ミチオ・カクという日本の名前の科学者が、市民に科学を知ってもらうための活動をほんとうにいろいろとこなしている」と話していました。

私をふくめ、同席していた日本人は、「ミチオ・カク…、賀来道夫さん? 角三千男さん?」と、みなきょとん。食事のあと「国内ではあまり知られていないけれど、海外で活躍している日本人もいるものですね」という結論になりました。

後日、調べてみたところ、いやしくも科学技術の伝え手をかかげる者であれば、名前ぐらいは知っておくべき科学者であることがわかりました。恥ずかしいかぎり…。

ミチオ・カク博士は、日系の米国人の理論物理学者。理論物理学は、実験で研究するのではなく、数学や計算で法則をときあかす物理学のこと。カク博士は、「超ひも理論」という、物理学ではいま熱い分野の一つを舞台に研究をしています。

20世紀前半の物理学では、相対性理論と量子力学というふたつのとても重要な理論が生まれ、とても盛り上がりました。このふたつの理論どうしは、水と油のように、あまりなじまないのです。でも、「超ひも理論」を使えば、相対性理論と量子力学を統一することができるのではないかといわれています。「万物はものすごく引っ張る力の強い“ひも”でできている」とか「この世は11次元でできている」とかいった、摩訶不思議な話も多く飛び出します。

カク博士がすごいのは、この「超ひも理論」に貢献してきたとともに、いま日本でなにかと流行の「科学コミュニケーター」としても優れているという点。物理学とサイエンス・フィクションをつないでしまうような本を書いたり、時間旅行についての随筆を寄稿したり…。

でも、カク博士の伝え手としての分野は専門の理論物理学にとどまりません。それがまたすごいところ。たとえば、ラジオ番組の司会者として、ゲノムなどの生物学の話も流暢にこなしてしまいます。

日本での「科学者」に対する印象というと、とかく専門としている分野にとことん詳しいけれど、ちょっと別の領域になると……というところ。自分の専門分野のみになるべく時間を費やしてこそ、優秀な科学者という向きもあるなか、好奇心に導かれて広い分野を開拓しようとするミチオ・カク博士の姿勢はつよい反証に思えてきます。

ミチオ・カク博士が、“賀来道夫”として、日本で生まれ育っていたら、果たしておなじような専門研究も科学コミュニケーションもできる人物になっていたかどうか…。

dr.MICHIO KAKUのホームページはこちら(英文)。
http://www.mkaku.org/
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「技術」の手厚いもてなし



あさって(2007年4月)22日まで「科学技術週間」の催しものが各地で開かれています。

「科学技術週間」は、政府が日本の科学技術を盛んにしようという目的で1960(昭和35)年に始めたもの。この年のおもな科学技術のできごととしては、テレビジョンに関係するものが目立ちます。カラーテレビの本放送が国内で始まりました。また、ソニーが世界で初めてトランジスタ・テレビを売り出したのもこの1960年です。

ソニーのトランジスタ・テレビの宣伝文句は「世界初、ニッポンの誇りがまた一つ」。当時の技術力の成長いちじるしい日本の姿が反映されているようです。

日本では、「科学」に対する興味関心は世界にくらべてそれほど高くないものの、「技術」に対しては高い価値をおく文化があるといわれています。背景には、江戸時代の支配階級だった(つまり偉かった)おさむらいたちが、土木や建築の現場などで技術者としてよく働いていたということなどが指摘されています。

「よいことは技術のおかげにして、わるいことは科学のせいにする」とはよく言われること。たとえば「技術力の進歩によるめざましい発展」とか「科学がもたらした罪」とかいわれますが、これらの文句の「科学」と「技術」をおきかえた使用例はあまり耳にしたことがありません。

ただし、信頼をあまりに寄せすぎていると、思わぬうらぎりををもらってしまうのは、ものごとの理を解き明かす「科学」ではなく、解き明かしたことを人間のために使おうとする「技術」のほうでしょう。技術が使われるところで安全を保つために、さらに別の技術を使って抑え込む「制御安全」は、さらなる失敗や事故をもたらす原因になるとも。

今年の「科学技術週間」の標語は「科学こそ 世界をつなぐ 共通語」。「科学技術、かがくぎじゅつ」と、いつも2番目に来て目立たないけれど、たまには「技術」に目を向けてみるのもいいかもしれません。

「科学技術週間」のホームページはこちら。
http://stw.mext.go.jp/

あさって22日(日)までの、おもな「技術」関連の一般公開施施設のお知らせはこちら。
茨城県つくば市の産業技術総合研究所
http://stw.mext.go.jp/tci/kagiweek/2007/go.php?facil=270
茨城県つくば市の高エネルギー加速器研究機構
http://stw.mext.go.jp/tci/kagiweek/2007/go.php?facil=020
茨城県つくば市の防災科学技術研究所(22日)
http://www.bosai.go.jp/news/H19ippannkokai.pdf
茨城県つくば市の宇宙航空研究開発機構 筑波宇宙センター(21日)
http://www.jaxa.jp/visit/tsukuba/
埼玉県和光市や茨城県つくば市などの理化学研究所(21日)
http://www.riken.go.jp/r-world/event/2007/open/index.html
東京都調布市と三鷹市の宇宙航空研究開発機構 航空宇宙技術研究センター(22日)
http://www.iat.jaxa.jp/info/event/07104.html
神奈川県平塚市の神奈川県農業技術センター(21日)
http://www.agri.pref.kanagawa.jp/nosoken/KIKAKU/2007topics/19_kagaku.htm
福井県福井市の福井県工業技術センター(21日)
http://www.fklab.fukui.fukui.jp/kougi/new/kagi/h19.pdf
兵庫県佐用町の放射光施設Spring-8(22日)
http://www.spring8.or.jp/ja/news/facility_event/open_sp807/announcements_view
福岡県福岡市の九州電力総合研究所(22日)
http://www1.kyuden.co.jp/event_ultra
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ビュリダンのロバ


家に帰るまえに、駅前の通りで晩ご飯を食べようとしたとき、こんな心理状況におちいったことが。

「きょうは松屋で豚生姜焼定食が食べたい。けれども、おなじくらい大戸屋で鶏の炭火焼き定食が食べたい」

松屋と大戸屋は通りの向かい。ほんとうに迷い、10分ぐらいふたつのお店のあいだを行ったり来たり。そして、ついに結論が。

「家でご飯炊いて、納豆で食べよっと」

西洋には、古くから「ビュリダンのロバ」という、こんな話があるそうです。

ロバが歩いていると、幸運なことに二つの干し草の山を見つけました。ところが、二つともまったく同じ距離、まったく同じ量。においもまったく同じのために、どっちの干し草のほうに向かうかで考え込んでしまいます。ついに結論が出ず、ロバは餓死してしまいましたとさ…。

餓死までは行かずとも、駅前でとった行動はロバそっくりでした。orz。

ふつう、選択肢があるような場合、人は心の中でどちらかを選ぶための決定打をいくつかもっているそうです。

たとえば、心のなかで想像がふくらむような選択肢のほうをつい過大に評価してしまうとか。初めて入るお店よりも、前に入ったことのあるチェーン店のほうが、どんな味かを想像できるため、安心感はあります。

その選択が最適であるかどうかは別として、自分にとって満足できるものかどうかに努めているのだそうです。

また、なにかを選ぶときには、つねに選んだときの「利益」とともに、選んだときの「不利益」もひと組にして考えろ、とはよくいわれること。

たとえば「カロリーが高いのはどちらか」とか、たとえば「豚肉と鶏肉とではどっちがヘルシーか」とかいったことまで、頭がまわっていれば駅前でビュリダンのロバになっていなかったのかもしれません。ま、最後にとった「納豆」という苦肉の策が、いちばんよかったのかも。
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「公」と「私」と。


著者と読者のメールのやりとりを随筆にした本で、著者が家のなかで全裸で生活をしている人をよびかけたところ、意外なほど多くの人から「私もそうしてます」という反響があったそうです。

家の中では、服を着ようが全裸でいようが、まあ自由。ところが玄関から一歩飛び出すとそうも言っていられなくなります。家の外は世間だからです。「公」と「私」とは、かくもちがうもの。

通信媒体に目を向けてみると、やはり公的なものと私的なものにわけることができます。

たとえばテレビやラジオなどは公的な通信媒体の代表でしょう。番組は多くの視聴者や聴取者にむけてつくられてますし、出演者も多くの人が知っている人が多いです(テレビに出るから有名ともいえるけれど)。

いっぽう、電話はごく私的な通信をすることもできる媒体の代表でしょう。首相と大統領が会談をするといった公的な色合いの強い通信をすることもできますが、サトウさんとスズキさんがたわいもない話をすることができます。

よく考えてみると、たとえば公的な通信媒体のテレビは、家の中という私的な空間のなかで見られています。「『私』の中の『公』」といった構図ですね。なんの違和感もなく、きのうもきょうも番組を見ます。

いっぽう、多くの人がとても違和感をもつのが、「『私』の中の『公』」とは逆の構図、つまり「『公』の中の『私』」の構図でしょう。

その最たる例は電車の中の携帯電話。箱型の公共的な空間で、だれかが「いま帰るからね。はんぺんも買っといて」などの私的な会話をしたとします。まわりの乗客たちは、人さまの生活の一断片を、共有したくなくても共有することになり、ここに大きな違和感を感じるのでしょう。

テレビがはじめて家の中に入ってきたときも、ひょっとしたら相当の違和感があったのかもしれません。となると電車内の携帯電話も、慣れの話となるのでしょうか。それとも「公」と「私」が逆である構造には、絶対的なちがいがあって、いつまで経っても違和感を感じてしまうのでしょうか。
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見学エリア拡大の三鷹天文台
東京都三鷹市の国立天文台へ。

「アルマ」という国際的な天体観測計画についての取材を終えたあと、常時公開をしている施設の見学をしました。12月28日から1月4日をのぞき、毎日10時から17時まで無料で施設を見てまわることができます。

(2007年)4月からは、敷地内の「常時公開エリア」が拡大されました。

従来から見学することのできる施設は、1939(昭和14)年から60年間にわたり太陽の黒点観測のために使われた第一赤道儀室(下の写真)や、プロジェクトを紹介する展示室など。



そして新しく、月などの精密な位置観測に使っていたゴーチェ子午環(下の写真)、また12等級まで観測できる望遠鏡を備えた自動光電子午環などを見学することができます。



三鷹の天文台の施設は、1914(大正3)年から1924(大正13)年にかけていまの東京都港区から移ってきたものが多々。大正時代に建てられた施設が多く、武蔵野の木々と相まって、ひじょうに趣があります。古風なたてものの写真撮影目的だけでも、じゅうぶん満足できるでしょう。

宇宙観測研究は、基礎科学の代表的存在に位置づけられる向きが強く、とりわけ(税金を払う)市民の関心に支えられるとされる分野です。電話による質問受付などをしていて評判の高い広報室も含め、市民に開かれた天文台の姿勢がうかがえます。

国立天文台三鷹キャンパス常時公開エリア拡大のお知らせはこちら。
http://www.nao.ac.jp/about/mtk/visit/jouji_kakudai.html
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書評『不都合な真実』
私邸の消費エネルギー量が高くついていると、「不都合な真実」を皮肉られたゴアさん。でも、書いていることは立派です。

『不都合な真実』アル・ゴア著 枝廣淳子訳 ランダムハウス講談社 2007年 325p


2000年の大統領選挙で、この著者があとすこしだけがんばっていたら、いまの世界がどれほどちがってものになっていただろうか、と思うことがある。

わずかな差で大統領になれなかったのが、クリントン政権のときの副大統領アル・ゴアだ。選挙で敗れたあと、ゴアは世界各地でスライドを使った地球温暖化についての講演を続けていた。『不都合な真実』は、その内容を1冊にしたもの。理論的かつ情熱的な文章からはゴアの話し声が聞こえてきそうだし、直観的な多く写真からはスライドを映す講演会場の雰囲気が伝わってくる。

米国の政治家は日本の政治家にくらべて科学に関心のある人が多いとよくいわれる。ゴアも科学的な目をもっている(と自分が思っている)政治家の一人だ。本書でも、地球温暖化を科学的に説明しようとする姿勢をつらぬいている。

たとえば、南極に比べて薄い北極の白い氷がとけると、日光が海面に当たり水温を上げるので、さらに氷はとけやすくなるといった、「自己強化型フィードバック」などを絵で解いている。温度、海面、二酸化炭素など、「極端な右肩上がりグラフ」も、これでもかというほど示される。

けれども、この本は「不都合な真実」の数々を示す科学的な証拠が多く載っているだけの本ではないということを知った。なぜならこの本は「科学的」であるとともに、「政治的」でもあり、また「家庭的」でもあるからだ。

「政治的」というのは、選挙で戦った相手であるブッシュ大統領への名指しの批判に見られる、ゴアのいいぶんだ。地球温暖化ほど、科学者たちの見解が一致した分野はまれだという。それに対して、現ブッシュ―チェイニー政権は、いまも地球温暖化の真実性については、科学者たちの意見が分かれているという印象を与えるために、情報のかく乱を指図したという。これにより、米国の地球温暖化防止策は滞ってしまったと、ゴアは嘆く。

また、読んでいない方は、この本が「家族的」だと聞いて驚くかもしれない。ゴアが地球温暖化問題に関心をもちはじめたのは、ごく私的な家族でのできごとがあったからだ。親、息子、姉、妻。家族を誇る文を著者は惜しげもなく綴る。アメリカ的といえばそれまでだろうが、自分の行動を支えるのは家族という、もうひとつのテーマを強くからませている。

「ゴアさん、打って出たのだな」と訳者が書いているが、まさにそのとおり。これほどメッセージ性の強い本は、これまでの地球環境問題の書物で出会ったことがない、というのが正直な感想。

『不都合な真実』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/不都合な真実-アル・ゴア/dp/427000181X/ref=sr_1_1/503-7257412-2611120?ie=UTF8&s=books&qid=1176730459&sr=1-1
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「完璧」を感じる瞬間


けさ(2007年4月15日)、春のうららの隅田川へ。

早稲田大学と慶應大学のボートレースの対抗戦「早慶レガッタ」を観てきました。オクスフォード対ケンブリッジ、ハーバード対イェールと肩を並べる「世界三大レガッタ」のひとつなのだそう。

ボートレースの種類は、こぎ手が1本のオールを両手でもつ「スイープ」(トップ画像)と、2本のオールをもつ「スカル」にわかれます。こぎ手が何人かにより、さらに種類がこまかくなります。たとえば、花形「エイト」とよばれる競技では、ボートの上にこぎ手8人とさらに舵手が乗りスイープを繰りひろげます。ボートレースはチームワークの運動競技ですね。

ひとつのボートに乗りあう選手たちが「俺たちのチームワークは完璧だった」と思える瞬間とは、どんなものなのでしょうか。

「戦いに勝った瞬間」と答える選手もいるでしょうが、より多くの選手は「ほかの人と漕ぐ感覚がぴたりと合った瞬間」を挙げるのだそうです。米国の『アマチュアズ』という本によると、この瞬間をこぎ手たちは“スウィング”とよんでいます。

おなじボートに乗っているほかの選手の漕ぎ方とぶれがないのは気もちよいものでしょう。ふだんの私たちの生活の中でも、自分と相手の思っていたことがピタリと合っていたときには、気もちよくなるもの。きょう応援をしていた吹奏楽団なども、それぞれの役割がピタリと合った瞬間は気分が高まるでしょう。

けれども想像するに、ボートレースでは、同調という気もちよさとともに、もうひとつ、漕ぎ手に「完璧だった」と思わせる感覚が加わるような気がします。

それは、1人で漕いでいるような感覚でありながら、8人分力でボートが進むという感覚。同じ水のなかに8本のオールを入れて、漕ぎ手がおなじ動きをするのです。たとえばシンクロナイズドスイミングなどとはちがって、漕ぎ手自身の体にじかに伝わってくる、独特の感覚があるのだと思います。

ちなみに、メイン競技の対抗エイトは激戦の末、早稲田大学が勝ちました。両校とも“スウィング”していたのでしょう。

早慶レガッタのホームページはこちら。
http://www.the-regatta.com/index.html
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”料理的”塩基配列解読(2)
”料理的”塩基配列解読(1)



いくつもの“新パン”が増えていくのを「ddATP」「ddCTP」「ddGTP」「ddTTP」という「阻害剤」が入った液体に浸して止めてしまいました。

いくつもの長さの新パンが浸されたこの液体を、こんどは「電気泳動装置」という器具にセットします。

電気泳動装置は、液体を電気と寒天(ゲル)を使って“ふるい”に掛け、液体の中身や性質ごとに分けるためのもの。今回の場合、電気泳動により「新パンの長さ」ごとに分けていきます。

TAG
TAGC
TAGCT
TAGCTA
TAGCTAG
………………

ふるいに掛けられたそれぞれの新パンは、短いものから順に装置の溝を流れていきます。それはまるで「新パンのパレード」。

このパレードをある場所からじっと監視しつづけるのが「レーザー」です。先ほどの「阻害剤入り液」には蛍光を発する薬が付いていたため、それぞれのパン最後の生地がAなら緑、Tなら青、Cなら黄、Gなら赤、というように、レーザーを当てることで光るのです。

たとえば、“TAG”という3文字だけの短い新パンの最後は“G”。「Gなら赤」だから、“TAG”がレーザーの前を通ると最後に赤く光ります。同じように、“TAGCTA”であれば、「Aなら緑」だから、“TAGCTA”がレーザーの前を通ると最後に緑に光ります。

TAG
TAGC
TAGCT
TAGCTA
TAGCTAG
………………

こうして、いちばん短い新パンからいちばん長い新パンまでをすべて色で測っていけば、「新パン」全体の生地の並び方がわかるわけです。これが塩基配列の解読。

料理の話がいつの間に(というか、きのうのラスト3行あたりから(もっといえば、最初から))遺伝子解読の話になってしまいました。(了)

参考サイト
滋賀医科大学実験実習支援センター「DNAシーケンサー」
http://wwwcrl.shiga-med.ac.jp/home/kiki_bumon/g_book/dseq/intro/home.html
製品評価技術基盤機構「各クローンの塩基配列(シーケンス)決定」
http://www.bio.nite.go.jp/ngac/analysis2.html
| - | 23:59 | comments(0) | -
”料理的”塩基配列解読(1)


「○○遺伝子の塩基配列を解読する」などといった新聞記事をこれまで何度も目にしてきました。遺伝子は、「A(アデニン)」、「T(チミン)」、「G(グアニン)」、「C(シトシン)」という4つの「塩基」のつながりでできています。

とはいっても、遺伝子に「A」や「T」といった文字が「m&m'sチョコ」のように刻まれているわけではありません。それぞれの塩基のつくりの違いによって、ATGCを区別しているのです。

「塩基配列の解読」はどのように行うのでしょう。

チョコレートではないけれど、ここではDNAをパンに見立てて“料理的実験”をしてみましょう。

AとTとGとCという4種類の生地でできた「DNA」という細長いパンを用意します。このパンの端っこに、「プライマー」という別のDNAの小さなかけらを置き、さらに「DNA合成酵素」という別の材料をパンにまぶせます。

するとどうしたことか。

なんとパンの端っこから新たな似たパンがもとのパンの上につくられていくではありませんか。こうして、具の無いサンドイッチのようなものがじょじょにできていきます。ここでは説明の便利さのために、もとからあった下のパンを「旧パン」、新しくできた上のパンを「新パン」とよびましょう。

旧パンと新パンには、ある決まった規則性があります。それは、旧パンが生地「A」でできている部分では、その上の新パンの生地は決まって「T」になるということ(旧パンの生地が「T」のときは新パンの生地は「A」に)。また同じように、旧パンの生地が「G」でできている部分では、新パンの生地は「C」になります(旧パンの生地が「C」のときは新パンの生地は「G」に)。つまり旧パンと新パンでは、生地「A」と生地「T」は相性がよく、生地「G」と生地「C」も相性がよいということです。

こうしていくつも新パンが端っこからつくられている途中で、「阻害剤入り液」という液体を使ってパンを浸してしまいます。せっかくではありますが。

液には4つの種類があって、それぞれには「ddATP」「ddCTP」「ddGTP」「ddTTP」という「阻害剤」が入っています。たとえば、「ddATP」入りの液でパンを浸すと、新パンはたまに生地「A」のところでつくられるのが止まってしまいます(その確率2分の1)。同じように、「ddCTP」入り液でパンを浸した場合は、新パンはたまに生地「C」のところでつくられるのが止まってしまいます。こうして、新パンは、中途半端な状態でつくられるのが止まってしまうわけです。

こうして、いくつもの新パンは、次のような生地と長さになります。

TAG
TAGC
TAGCT
TAGCTA
TAGCTAG
………………

液体に浸され、しかも自動でつくられていたところにストップがかかってしまった新パン。でも、食べるための作業ではないので、ここはよしとしましょう。ここで、べつの装置のお出ましとなります。つづく。
| - | 22:04 | comments(0) | -
書評『任意の点P』
たまに見返して、新鮮な気持ちになる本です。

『任意の点P』慶応義塾大学佐藤雅彦研究室・佐藤雅彦・中村至男共著、美術出版社、2003年


ページにはふたつの絵。それを表紙の折り返しに付いているレンズをとおして見てみる。するとどうしたことか! ふたつの絵がひとつになって浮かび上がってくる。キリンが檻のなかにたたずんでいる様子だとか、森林のなかに雷が落ちて一本の木が砕け散る瞬間だとか、カタツムリが家の壁を這った軌跡だとかが、つぎつぎと3次元的にそこに現れる。

新聞の日曜版などでよく見かける3Dイラストをどうしても浮かび上がらすことができなかった方も、心配ご無用だ。専用レンズが驚くべき効果を発揮する。これを使えば、ふつうに見るだけで浮かんでくる。

紙の上では絵はふたつ。レンズを通過しても絵はふたつ。目に入ってもまだ絵はふたつ。最後の最後、脳の中でやっとふたつの絵がひとつにまとまる。デジタル技術の3Dやホログラムとのちがいはここだ。脳が、作業の最終段階のデバイスとして、いまこの瞬間に使われているんだということを実感することができる。

もし喫茶店とかで一人この本を味わっていたら、周囲から奇異に見られるだろう。でも、奇異に見た人にこの本を試しに見てもらおう。きっとその人にも「すごい。」と納得してもらえるはずだ。

『任意の点P』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/任意の点P-慶応義塾大学佐藤雅彦研究室/dp/456850256X/ref=sr_1_1/503-7257412-2611120?ie=UTF8&s=books&qid=1176391183&sr=1-1
| - | 23:59 | comments(1) | -
宙に浮かぶランゲンドルフ心臓


まずは脳の話を。脳の中には、「脳幹(のうかん)」とよばれるところがあります。

脳のいちばん下側にあって、太いところで直径3センチほど、高さは10センチほどのけっこう大きな円柱の形をしています。

脳はどの部分も大切ですが、なかでも脳幹は、生き物の呼吸や脈拍など、生きていくのに欠かせない最低限の働きをつかさどっているところです。

つまりは、脳幹の機能がダメになってしまうと、人は死んでしまう…。

以前はたしかにそうでした。けれども、医療の進歩により、最近では、脳幹がダメになっても心臓は動きつづける、といった状態をつくることも可能になりました。

「ランゲンドルフ灌流(かんりゅう)心臓」という、「心臓」があります。この心臓、じつは生き物の体の中にはありません。体から取り出した心臓を、空間の中で管につけるのです。

管は、酸素と栄養の入った、血と似た成分の液の通り道。管からランゲンドルフ灌流心臓にこの液を流しつづけます。たえず心臓に酸素と栄養があたえられることになります。

さらに、この心臓に、ペースメーカーという装置を使って、一定の間隔で電気の刺激をあたえてやります。

すると、心臓は生き物の体から完全に離れた状態であるにもかかわらず、どくどくと動きつづけるのです。

動きつづけるランゲンドルフ灌流心臓が示しているのは、脳幹が存在しなくても、心臓は動きつづけることができるということ。これは、「脳死」の症状になった人の心臓が動きつづけることの理由にもなります。

インターネット上では、マウスの体から取り出したランゲンドルフ灌流心臓が動く映像を見ることもできます(東邦大学の「心筋-バーチャルラボラトリー」)。たしかに空中で(といっても管がついていますが)心臓は動き、酸素と栄養の入った液がしたたり落ちています。「この実験の様子を撮影した動画には衝撃的な映像が含まれています」との注意書きつき。

心臓の強い方はどうぞ。
http://www.mnc.toho-u.ac.jp/v-lab/shinkin/shinzou/rat.rm

この記事は、早稲田大学大学院科学技術ジャーナリスト養成プログラム「生命倫理」(瀬川至朗客員教授)の講義を参考にしています。
| - | 21:04 | comments(0) | -
米国ロボット技術の衰退


いま日本は、産業用ロボット大国といわれています。たとえば、全世界のロボットの4割以上は、日本で働いているそう。

ただ、日本がロボットの技術開発の先陣を切ったわけではありません。ロボット開発発祥の地は米国です。

1954年に米国の発明家ジョージ・デボルが、「プレイバック方式」というロボットの特許を得たことが、ロボット技術開発史の夜明け。プレイバック方式とは、ロボットがプログラムに従って動く再生型方式のこと。

日本で、このプレイバック方式のロボットが日本で国産化されたのは、14年後の1968年のことでした。

1970年代後半にロボット開発の主流が米国から日本に移り変わる大きな転換点があったのです。米国は、ある基本的な技術にこだわりすぎて、新しい技術に飛びつくことができなかったといわれています。

米国がこだわりすぎたのは、「油圧式」という、油を媒体に使って力を伝える技術。その昔、ロボットの多くは油で動いていたのです。

油圧式は、高い馬力を出せるという長所がありました。いっぽうで、大掛かりな圧力源が必要だったり、油もれなどが起きるため保守点検が面倒だったりと、不便な部分が多かったのです。

そんななか現れはじめたのが、電動式のロボット。1977年には、油圧ではなく電気で動く自動制御ロボットが開発されました。以降、ロボット技術の後発国である日本は、便利で新しい技術を取り入れ、ロボット産業を強力なものにしていきます。

いま、米国のロボット産業は、組み立て用ロボットメーカーなどの一部の企業をのぞいて、ほとんどが無くなってしまっているそうです。もともと米国のロボット製造業は新興企業が多かったために、変動の波は激しかったようですが、それにしてもあるひとつの技術から離れられないあまり、世界の中で淘汰してしまうとは。

国技が国際スポーツとなって規則が改まったのに、国内で昔の規則を使いつづけたあまり、世界で勝てなくなってしまう、という流れにどこか似た話ですね。
| - | 11:10 | comments(0) | -
「今さら聞けないサイエンス6つの常識」


またも宣伝です。

発売中の『週刊東洋経済』に「今さら聞けないサイエンス6つの常識」という記事を書きました。

「6つ」というのは、医療、ロボット、地球温暖化、食糧問題、代替エネルギー、脳科学の6分野。特集全体のねらいは、新年度を迎え「新たに勉強しよう」と思っている読者に学習法を提案するもの。そこで、身につけておくとよい(かもしれない)旬な科学技術の話題を編集者さんと選んだのです。

「医療」の記事で、紙幅の都合により書けなかった内容があるので、この場を借りて紹介を。

「メタボリック・シンドローム」という言葉が、昨2006年の流行語対象に選ばれました。「メタボリック」は「代謝の」という意味。「シンドローム」は「症候群」、つまり身体の諸症状から判断される病態のこと。

メタボリック・シンドロームになっているかどうかを、次のような定義から判断することができます。「以下の(1)に加えて、(2)から(4)のうち2つを満たす場合」というのがそれ。

(1)男性でへそまわりのウエストが85cm以上、女性で90cm以上、(2)血中の中性脂肪値が150mg/デシリットル以上か、「善玉」のHDLコレステロールが40mg/デシリットル未満、(3)「高血圧」は最高血圧が130mmHg以上か最低血圧が85mmHg以上、(4)「高血糖」は空腹時の血糖値が110mg/デシリットル以上。

「メタボリック・シンドローム」ということばが世の中に出回ったのは、2005年4月のこと。医療系などの8つの学会が協力して、上の基準を発表しました。

ここで素朴な疑問。「メタボリック・シンドローム」の定義にあてはまる人は、これまでにもいたわけで、ここのところ劇的に増えているわけでもありません。いまなぜ「メタボリック・シンドローム」なのでしょう。

背景には「健康促進(ヘルス・プロモーション)」の高まりがあります。「病気にならないためには、みなさんが健康に気配りをすることが大切」ということを謳ったもの。1986年にカナダのオタワで開かれた「ヘルスプロモーション国際会議」で、憲章が採択されました。

上の「メタボリック・シンドローム」に明確な基準を示しているのも、市民が巻尺や血圧計を使って自己診断をすることができるから。「医者に診てもらう前に、自分の身体のことは自分で調べましょう」という口上が含まれているのです。

メタボリック・シンドロームになってから払う治療費よりも、メタボリック・シンドロームにならないための心掛けのほうが安上がり。病院に行くよりは、散歩やジョギングを、という医療側の心づかいというわけです。

2006年の流行語に「メタボリック・シンドローム」が選ばれたのも、医療系学会にとってはしてやったりの成功だったのでしょう。

記事づくりでは、若杉なおみ早稲田大学客員教授にお世話になりました。

『週刊東洋経済』のホームページはこちら。
http://www.toyokeizai.co.jp/mag/toyo/index.html
| - | 23:59 | comments(0) | -
ディレッタントが発展させた科学


都知事選の政権放送を見ていて気づいたこと。アナウンサーが候補者の名前を言ったあと、ただたんに経歴を「ディレッタント」と読んで終わらせた紹介がありました。

「ディレッタント」とは、趣味などの好きなことをやって生活している人のこと。日本では似た意味で「好事家(こうずか)」などとよばれます。おカネがあるからこその“生業”でしょう。

18世紀ごろの科学の発展は、彼らディレッタントの趣味的な実験・観察によるところが大きいといいます。たとえば、英国人のヘンリー・キャベンディッシュ。

名門貴族の家に生まれたため、おカネに困るといった心配はまったく無し。しかも、家政婦と顔を合わせるのも嫌がるほどの内気さが手伝って、基本はお屋敷での引きこもり生活。ひたすら興味のおもむくままに科学の実験をして過ごしたそうです。

他にやるべきことがなかったことが功を奏して、キャベンディッシュはたくさんの科学的業績をあげます。たとえば水素を発見したのも彼ですし、数少ない友人から譲りうけた装置を改良して(上の画像)、地球の重さを正確に測ったのも彼でした。

キャベンディッシュが真のディレッタントだと思うのは、彼に名誉欲がほとんどなかったということ。

このころにはすでに科学的な発見を雑誌に論文として発表する制度がありました。けれども、キャベンディッシュが発表した論文は生涯わずか20本に見たなかったといいます。ほとんどが未発表の成果で、たとえば、ドイツのゲオルグ・オームの名がついている「オームの法則」も、オームより先にキャベンディッシュが発見していそうな。

私たちのしていることは、おカネや名声となんらかの形で絡んでいることも多々。おカネや名声とは関係ないことで、ずっと続けられることこそ、ほんとうにその人のやりたいことなんでしょう。

キャベンディッシュの名は、英国ケンブリッジ大学に1871年に創設された「キャベンディッシュ研究所」にも残されています。研究所のサイトはこちら(英文)。
http://www.phy.cam.ac.uk/
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書評『「みんなの意見」は案外正しい』
たくさんの人が参加して生み出すような知見は、「集合知」とよばれます。インターネットの使い方が新しい局面に入ったことを表す「ウェブ2.0」の具体例としても、「ウィキペディア」を引き合いにしてよく出されますね。この本は、雑誌や新聞など、いまいろいろなところで語られている「集合知」の火付け役。

『「みんなの意見」は案外正しい』ジェームズ・スロウィッキー著 小高尚子訳 角川書店 2006年 286p


著者は米国の雑誌『ニューヨーカー』「金融ページ」の寄稿者。著者が伝えたかったことは、本の中の、次の2文に集約されている。

「たいていの場合、平均的とは凡庸であることを意味する。だが、意思決定の際には優秀であることにつながる」

このことを読者に気づかせるために、著者はいろいろな社会学的研究の例や、事件、逸話などを紹介していく。

たとえば、56人の学生に850粒の甘菓子が入った瓶を見せ、瓶に何粒入っているかを考えさせたところ、被験者全体での推測値は871粒となった。この推測値よりも正確な値を言った個人は1人しかいなかったという。

また、沈没して行方不明となった潜水艦の場所を突き止めるために、数学者、潜水艦の専門家、海難救助隊などのいろいろな分野の知識人を集めて、それぞれに潜水艦のありかを予測させたことがあるそう。後日見つかった潜水艦の位置は、集団として推測した沈没地点と200メートルしか離れていなかったという。へえ。

「平均的」という言葉には、知識水準の多様性も含んでいる。何かを決めようとするときに、専門家だけの意見だけを取り入れてかたよらせるのではなく、一般人などの意見も聞きいれたほうが、よい結果が出る場合が多いという。つまり、いろんな人がいろんなことを言うから、世の中はよくまわっていく、ということ。

これで、思い出すのが、遺伝子組み換えの技術をめぐる、科学者と市民の考え方のちがいだ。

遺伝子組み換え技術に詳しい科学者の多くは、「市民は遺伝子組み換え技術に必要以上の不安を抱きすぎ」と感じている。いっぽう市民の多くは、「不気味だ」「将来なにが起きるかわからないではないか」と、慎重な態度を崩さない。この対立構図は日本だけではなく、世界で見られる。

この本の主張を考えると、遺伝子組み換えのことをあまり知らない市民が抱く「不安」というのも、価値のあることなのかもしれないと思えてくる。対立で平衡が保たれている現状こそが、もっとも理想にかなった「集合知」なのかも、と。

ただし、通りいっぺんに平均的な予測や意見が正しい、というわけでもないのが、社会が一筋縄ではいかないところ。たとえば、株式市場で投資家どうしがお互いを模倣し合うようになると、全体の賢さは減り、バブルが膨らむようになるという。

「みんなの意見」は、“案外”、正しいのだ。ここが、本のキレを少しばかり鈍くさせているところ。でも紹介される「こんな話がある」的話はおもしろい。

『「みんなの意見」は案外正しい』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp/「みんなの意見」は案外正しい-ジェームズ・スロウィッキー/dp/4047915068/ref=sr_1_1/503-7257412-2611120?ie=UTF8&s=books&qid=1175968427&sr=1-1
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大学院2年目。


早稲田大学大学院科学技術ジャーナリスト養成プログラムの2年目が始まりました。

今日(2007年4月6日)は、修士論文の合同説明会。プログラムは大学院の修士課程なので、学生は来年の修了までに論文を作ります。それぞれの論文の題目がどんなものであるかを学生11名が発表し、それに対して教員たちが質問や意見を言いました。

論文の題目はいろいろ。「建築報道の理論構築」とか、「産学連携に対する公的支援のありかた」とか。科学技術ジャーナリズムと直接関連していない題目もありましたが、論文を書いて世の中に発表することは、ジャーナリスト養成の実践的な活動になるという理由から、認められることになりました。ちなみに私の題目は「サイモン・シンの科学書に対する国内評価の分析」。

説明会のあとは、第2期生との顔合わせ。第1期生の平均年齢が30歳台前半だったのに対して、第2期生は平均20台の半ばくらい。今年は、学部を卒業した人がそのままプログラムに入ってくるという場合が多いようです。

週明けの9日からは授業も開始。また、1年間が始まります。

早稲田大学大学院科学技術ジャーナリスト養成プログラムのホームページはこちら。
http://www.waseda-majesty.jp/
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他教科で理科を学ぶ。


小学生や中学生のときに国語の教科書に載っていた作品には、いまでも印象に残るものがあります。

たとえば、私どもの世代(1975年前後生まれ)の“代表作”といえば、「大陸は動く」ではないでしょうか。光村図書の小学5年生『国語』に載っていました。教科書の内容は、数年に一度、文部科学省の指導要領がかわるたびに改訂されるので、「そんな作品、あったね」という思い出は同時代的なもの。

「大陸は動く」は、地球物理学者アルフレッド・ウェゲナーの「大陸移動説」を紹介した作品です。ウェゲナーは、南米大陸とアフリカ大陸の海岸線の形がよく似ていると気づいたことから、「ふたつの大陸はもとはひとつで、じょじょに裂けていったのではないか」と思い至ります。話の中では「パンゲア」という名の巨大大陸が、いまの7大陸に分かれていくまでの様子を、図版を使いながら示してくれます。ああ、懐かしい。

光村図書の教科書は多くの学校で使われていたので、「大陸は動く」を題材に勉強していた私たちの世代は、「プレートテクトニクス」への食いつきがよい、という話もあるとか。実感として、あながち嘘でもないような…。

ほかにも、ミツバチが餌のありかを仲間に知らせる「8の字ダンス」の話など、国語の教科書から科学のことを学ぶという経験はけっこう多いもの。

国語だけではありません。英語の教材にも、たとえばカモの「刷り込み」の話はよく出てきます(ただし、科学的には古びた話だけれど)。

こうした、教科を超えた理科の話に、「科学離れ」を懸念する教育関係者のみなさんは、もっと注目してもいいのかもしれません。

通っている大学院のゼミで友人の学生が、学校の職員室に「教科間トピック掲示板」のような、教科の域を超えた情報共有の場を作ったらいいのでは、という提案をしていました。

理科以外の教科で、理科に関する題材が、いつどんな形で登場するかということを理科の先生が把握していれば、教える分野の知識が他の教科ですでに題材として扱ったものかどうかを知ることができるわけです。どのくらい生徒に予備知識があるか知っておくことは多少の利点になるでしょう。

また、たとえば国語の先生が、理科の先生に向けて「○○の話をこれから教科書で扱います。詳しく教えてくれませんか」などと尋ねて聞く機会があれば、国語の授業もより円滑に進むのでは。

背景にあるのは、教科間の横のつながりの希薄さ。他教科間で情報共有の連携をとっている学校もあるかもしれませんが、実際に教壇に立つ先生たちの話を聞いていると、教科ごとの“縦割り”が強く、他教科間での連携がされていない学校も多いようです。
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「科学をちょいびき!」の刷新


「科学をちょいびき!」という(だいたい)週刊のメールマガジンの記事づくりに参加させてもらっています。「科学をちょいびき!」は、いわば、科学と英語の両方を、学びながら楽しむといったもの。

毎号ひとつ、科学の興味惹かれる話題を紹介します。文章は日本語。その文章のなかに、関連するような英語の科学情報サイトや科学報道サイトのリンクを挟みます。つまり、科学の話を日本語で知ったうえに、さらに英語の本格的な関連記事も読んでしまおうといったコンセプト。

科学ジャーナリストの藤田貢崇さんが連載していたところに、私も参加させていただくことになりました。藤田さんの独走時代から、かれこれ70号を超えています。

最近、すこしだけ「ちょいびき!」の体制が刷新されたので宣伝を。

刷新というのは、執筆陣の人数が大幅に増えたというものです。“新人さん”たちは、このブログでしばしば紹介している「科学ジャーナリスト塾」の塾生さんたち。藤田さんが記者を募集したところ、かなりの方が名乗りでてくれたというわけです。

たとえば最近配信された第72号は、医療系出版社に勤める香西加奈さんの“書き初め”となる「かだらの中では“戦い”が・・・」という記事。ブタからサルへ拒絶反応なくすい臓移植をする実験に成功したという、医療分野の最新の話題を伝えています。すい臓は、血糖値の上がり下がりを制御している臓器。「メタボリック・シンドローム」の言葉の流行で、最近また注目を浴びている糖尿病の手術の道を開くものかもしれません。

これからはだいたい8人体制くらいで記事を書いていく予定です。新しい記者のみなさんは、職業や経歴がさまざま。内容も幅広くなるでしょう。

「科学をちょいびき!」は、メールマガジンですが、バックナンバーを見ることもできます。こちらのサイトで、見ることも配信を登録することもできます。
http://blog.mag2.com/m/log/0000169799/
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ごようだごようだ。


ことばの誤用に、純粋な興味がわきます。

たとえば。「おしもおされぬ大投手となった松坂の快投ぶりに、ボストン街中が上へ下への大騒ぎ」

「おしもおされぬ」は本来、「おしもおされもせぬ」。また、「上へ下への大騒ぎ」は本来「上を下への大騒ぎ」なのだそう。

べたな例文しか浮かばなかったので、名誉返上を!

「怒り心頭に達する」も耳慣れた表現ですね。これも誤用の典型例。「怒り心頭に発する」が本来の表現です。

『広辞苑』では「心頭」は、「心の中。念頭。」

ということは、「怒り心頭に発する」は、「怒りが心の中で生じる」ということ。でも、これって、よく考えてみれば当たり前のことじゃん。

なぜ誤用が起きたのか、その文化的背景を探ると、より誤用の世界に深みが増してきます。

NHK放送文化研究所の柴田実さんは、誤用「怒り心頭に達する」がなぜ広まったかについての、大胆かつ説得力のある仮説を話します。

それは、「1960年代のサントリー・ウィスキーの「トリス」の広告が、視覚的に大きな影響をあたえたのではないか」というもの。

広告では、柳原良平氏の描いた「トリスおやじ」が、ウイスキーをぐびぐびっと飲むと、だんだん頭のほうへと顔の赤みが上昇していきます。「心頭」は、ほんとうは「心の中。念頭。」なのだけれど、「頭」という言葉の印象と、怒りを連想させる「赤」の色があいまって、「怒り心頭に達する」という誤用が成立したのではないか、という話でした。

国語辞典は、言葉によっては、本来なら誤用とされる言葉にも、「○○の誤用」と、前置きがあったうえで意味をあたえています。ここには、従来の使い方のみを守り通すべきだという理想主義よりも、誤用ではあっても多くの人が使うようになったのだから載せたほうがいいという現実主義の優先が見てとれます。

そういえば、「言葉のみだれ」を指摘する声は、ここ最近、下火になったような気もします。略語や創作語が氾濫する時代。誤用から大衆化された言葉も一人前の言葉になると、社会が肯定的に受け入れるようになったということでしょうか。

「誤用も広まれば立派なことば」を受け入れるべきかどうかは、私にとっても大きな課題。みなさん、どう思われますでしょう。
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『JST News』の刷新


新年度のはじまり。

科学技術振興機構の機関誌『JST News』がこの4月号から大幅に刷新されました。白と橙色を基調色とした配色です。これまでの見開きの文章中心の記事から、図版を多く使った視覚重視の記事に変わっています。

特集は、『南極サイエンス、最前線。』

日本科学未来館館長の毛利衛さんが今年(2007年)1月に、南極を訪れたときの報告記事です。好奇心のまま近づいてくるアデリーペンギンの話など、ほのぼのとした話をはさみつつも、本題は地球環境問題。南極は地球各地の大気が集まる場所。3000メートルもの氷床(氷の柱)を掘り出すことで、温室効果ガスの二酸化炭素の濃さの変わりようを調べる研究などが進んでいるそうです。

科学技術振興機構も、独立行政法人化から3年半。この4月から、第二期中期計画がはじまりまったそうです。理事長の沖村憲樹はあいさつで、新しい活動目標を示しています。
1 我が国の科学技術システム改革を先導し、科学技術政策の新たな流れを作り出します。
2 JSTにかかわるすべての人々・組織とのコミュニケーションを大切な資源として尊重し、事業を進めます。
3 インターネット事業体の業容を拡充します。
4 JSTの業務全体の国際化・国際展開を目指します。
5 女性研究者を始め、多様な研究開発人材が能力を発揮できる社会の実現に努めます。
『JST News』。今回の質をこれからも保ちつづけることができるかどうか。応援しつつ、注目しつつ。

『JST News』のホームページはこちら。
http://www.jst.go.jp/pr/jst-news/
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「『くっつく』生物がつくる材料に学べ」


きょう(2007年4月1日)発行の専門誌『化学と工業』4月号に、「“ネバネバ”や“ピタッ”を新素材に 『くっつく』生物がつくる材料に学べ」という記事を書きました。

“ネバネバ”は、おもに納豆の糸の成分でも納豆菌がつくる「ポリグルタミン酸」のことを指しています。土の中に入れておくと微生物が分解する「生分解性」や、大量の水分を吸う「吸水性」などのある、万能な物質です。

ポリグルタミン酸を体の中に入れても毒にならないのは、ふだん私たちが納豆を食べていることで実証済み。紙幅の都合で記事には書けなかったのですが、次のような、ポリグルタミン酸を医療の分野に役立てるための研究開発も行われています。

ポリグルタミン酸には、“分子の手”が3本あり、うち2本はおとなりどうしで手をつなぐために使われているのですが、残りの1本は手持ち無沙汰です。その第3の手に、ナノサイズの粒子を作り、このナノ粒子の内側や表面にタンパク質などをもたせることによって、薬(ワクチン)の運搬者としての役割を持たせられるのではと期待されているのです。

さて、“ピタッ”のほうは、おもに海の生き物フジツボが生み出すセメントのことを指しています。フジツボにできて、人間にできないこと。それは、水中でものとものとをくっつけること。人間にはフジツボに学ぶべき点が多そうです。

専門誌ということで、今回の記事は「科学の色合い」が非常に高い内容。編集作業はサイテック・コミュニケーションズの青山さんにしてもらいました。

また、表紙の写真を集めることができず、申しわけない思いをしていましたが、届いた表紙を見てみると、少ない写真をみどり系統の色に加工して、工夫がされています。マツダオフィスの日向さんがデザインしています。

『化学と工業』を出している、日本化学会のホームページはこちら。
http://www.chemistry.or.jp/
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