科学技術のアネクドート

2006年のブレークスルー1位は数学から


一年の締めくくり、科学らしくまいります。

米国の科学雑誌『サイエンス』は12月22日、「今年のブレークスルー(Breakthrough of the Year)として、以下の10の科学的・数学的イベントを発表しました。栄えある1位は、数学の「『ポアンカレ予想』の解決」だそうです。

イギリスの数学者ワイルズにより1994年に証明(1995年に証明が論文発表)された「フェルマーの最終定理」では、「証明を書くには余白が小さすぎる」と書き残して世を去った17世紀フランスの数学者フェルマーのエピソードが有名ですが、ポアンカレ予想の解決にも、どうやら“曰く”が付くようです。

ロシアの数学者グレゴリー・ペレルマンは2002年、ポアンカレ予想を証明したとして、インターネット上でそれを概説の形で発表しました。ところが、“世捨て人のごとき(Science誌)”ペレルマンは、2003年以降、この証明について沈黙を続けてしまいます。その後、3つの研究チームがペレルマンの証明をそれぞれ補いあい、今年2006年にペレルマンの証明が正しかったことが明らかになったのです。

ペレルマンには、数学のノーベル賞ともいうべきフィールズ賞が今年あたえられる予定でしたが、受賞を辞退。ペレルマンは一言「自分の証明が正しければ賞は必要ない」と言ったそうな…。

さて、その他の「今年のブレークスルー」は、Science誌の日本語版サイトにリンクを貼りましたので、こちらをご覧ください。

このなかで、当ブログで取り上げたトピックは、「縮小し続ける氷床」ぐらいでしょうか。9月26日に「地球温暖化を示すデータ発表」という記事を書きました。 初耳のブレークスルーも多く、最新情報を収集する力が足りないようです。orz。

Science誌はまた、番外編として、「2005年の残念な出来事」というタイトルのもと、韓国の黄禹錫(ファン・ウソク)教授らによる不正行為の範囲が明らかになるとともに、複数の事件が発覚したことを上げています。黄教授が捏造した2つの論文が掲載されたのはScience誌でした。

さて、来年は、どんな1年になるでしょう。もう一つの番外編は、「今後注目すべき分野」。Sience誌が来2007年に話題になると予測する分野とテーマは「全ゲノム関連研究」「光格子」「宇宙の原子水素探索」「霊長類ゲノムの比較」などだそうです。

2006年は、今日でおしまいです。みなさん、お疲れさまでした。また、当ブログにお付き合いくださり、ありがとうございました。知っている人、まだお目にかかっていない人、いろんな方からコメントをいただくたびに、いろいろと勉強させていただいています。

2007年に向けて、企画ものなども計画中です。また来年も、お暇なら遊びにきてくださいね。

どうか、よいお年をお迎えください。

Scienceの日本語サイト「Scienceが選ぶ2006年の科学的進歩ベストテン」はこちら。
http://www.sciencemag.jp/highlights/20061222.html#1
ロシア通信社ノボースチの日本語サイト「グレゴリー・ペレルマンは紛れもない数学界の天才」(2006年8月28日付)はこちら。
http://www.rian-japan.com/news/details.php?p=347&more=1
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書籍は将来なくなるか?(3)
書籍は将来なくなるか?(1)
書籍は将来なくなるか?(2)



紙の書籍と電子の書籍。比較する点はさまざまあると思いますが、環境への負荷という点ではどうなのでしょう。電子ペーパーの普及を目指している富士通によれば、山手線の電車内の中吊り広告を電子ペーパーに切り替えた場合、環境負荷を計算すると、5年の使用期間で、紙に比べて約42%で抑えられるそうです。

たしかに、日本人はA4サイズの紙200枚程度を1日で消費していると聞いたことがあります。もちろん、その中には書籍の購入も含まれているわけです。けれども、電子書籍でも読み取り機はプラスチックを使っていますし、読み取りにはいまのところ電池が必要となります。

さて、紙の書籍は将来、電子書籍に代わられて、なくなってしまうのでしょうか?

残念ながら、私はまだ、ソニーが販売したような電子書籍リーダーや電子書籍を利用したことがありません。電子書籍を使った経験のない者が、このテーマを語るのも、おこがましいことですが、感じていることをいいます。

紙の書籍の存続を意外と大きく影響するのではと思っているのが、書籍の厚みやページのボリュームです。挑戦している大部のしおりの位置をふと見ると、いつの間にか半分を超えていたとか、読破した後に、よくもこんなに厚い本を読み通したもんだと、達成感に浸ったり、この辺りの感情を、電子書籍から得ることは簡単そうではありません。

一方で、ネット上での検索機能などが非常に便利であることも、実感としてありますよね。読み終えた書籍で、ふと気になった言葉が浮かんだとき、検索機能があればきっと便利なことでしょう。

さて、再度。紙の書籍は将来、電子書籍に代わられて、なくなってしまうのか? 

耳で聞く音楽ほど、手でも触る書籍では、電子媒体への移り変わりは劇的ではないのではないか。つまり、紙の書籍もけっこう生き残るのではないか、という気がしています。(了)
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書籍は将来なくなるか?(2)
書籍は将来なくなるか?(1)



インターネットで1144冊の書評を書き続けた松岡正剛氏が今年2006年10月、その書評を再編集し、『松岡正剛千夜千冊』という名の本にして刊行しました。

ウェブ上の横方向の文字を、書籍という縦方向の文字に組み直してみると、「段落間の空きの取り方や句読点の位置が気になり始めた」そうです。再編集を含めて、結局5割の文章を書き直すことになったとのこと(日本経済新聞2006年10月8日より)。

それほど、ウェブと書籍とでは、編集のしかたや文章の見せ方に、違いがあるということなのでしょう。

では、紙上の表現を電子で再現しようとしたらどうなるか。最近の技術革新により、紙で文字を示す感覚とそう遠くない「電子ペーパー」が実用化され始めています。

電子ペーパーの技術は、米国のイー・インク社が開発したもの。インクに相当する材料を、2枚の薄くて曲がる板の間に挟み、電子制御によって、文字や図を表現するというものです。電子技術なので内容の書き換えが可能で、電源を切ってもその表示は残されます。

ソニーは2004年に、電子ペーパー技術をつかった「リブリエ」という電子ペーパーディスプレイを販売しました。同年3月に発表されたプレスリリースでは、「白黒印刷された紙と同様の表現力」があり、「通常の読書なら単4アルカリ電池・4本でおよそ10,000ページの表示が可能」と、売り込んでいます。

ところが、各種サイトなどを見てみると、リブリエの売れ行きは芳しくない模様。それでもソニーは強気にも今年2006年4月、米国で「ソニーリーダー」という、ほぼ同じ機能の電子書籍リーダーを発表。秋にはオンラインストアやボーダーズという書店大手で発売を開始しました。

たとえば、あなたが、リブリエなどの電子書籍リーダーを差し出されて、「これは本だと思いますか?」と聞かれたとき、どう返事をするでしょう。

情報を読みとるという意味では、本の機能を十分に果たしているのでしょう。

けれども、アナログ特有の“本らしさ”を考えると、活字の再現性などはあっても、やはり「はい、これは本です」と答えるより、「これはいままで本で得てきた情報を電子的に読みとるためのマシンです」と答えてしまいそうな気がします。“機能を果たしているか”と、“これがそれであると思うか”はちがう、ということです。(つづく)
| - | 18:51 | comments(0) | trackbacks(24)
書籍は将来なくなるか?(1)


朝日新聞が(2006年)9月25日に、ちょっと変わった記事を出しています。1年間で「本(漫画、雑誌を含む)が1人当たり、どれだけ買われているのか」を都道府県別に調べたというものです。結果、1位は東京都で38,315円。2位大阪府21,995円、3位京都府21,595円、4位石川県20,857円、5位愛知県20,118円などの下位に、断トツの大差をつけています。

もっとも東京都の“圧勝”したからといって、そのまま、「東京都民は読書好き」ということを示すものではありません。小売業の書籍・雑誌販売額(2001年)を都道府県別の人口で割って算出したものだからです。書店の数やコンビニエンスストアの数も東京都は多いですし、いわゆる「千葉都民」や「埼玉都民」などが、東京の大書店で本を買って帰るといった場合も多いでしょう。

今年一年、何冊の本を読みましたか?

私の場合ですと、1冊まるまる読みとおした本の数で、だいたい30冊から40冊ぐらいだったようです。「けっこう少なかったな」と、ややがっかり。10日に1冊のペースは多読というよりも積ん読だったようです。「書籍ばなれ」が個人ベースで進んでしまっているようで…。

いっぽう、社会に目を向けてみると、今年2006年は「書籍ばなれ」にやや歯止めがかかった年だったようです。

『出版月報』や『出版指標 年報』などを出している研究機関・出版科学研究所によると、今年(2006年)1月から10月の書籍売り上げは7,993億円で、昨年よりも1.4%増えました。出版不況といわれる中で、健闘した都市だったといえるのかもしれません。ちなみに雑誌のほうは、昨年より4.7%減で深刻のようです。

雑誌の売り上げ減は、いま街中で盛んに配られているフリーペーパーの影響もあるのかもしれません。でも、さらに大きな影響としては、インターネットやiモードのなどの電子媒体の存在があるのでしょう。雑誌には、「漫然と情報を拾う」「暇をつぶす」といった役割がある気がしていますが、この両方を、電子媒体はこなしてしまいます。漫然と情報を披露には、巨大掲示板サイトはもってこいですし、電車の中などで暇をつぶすために、カバンから雑誌を取り出すのではなく、携帯電話を取り出してケータイサイトにつなげばいいのですから。さまざまな情報を寄せ集めるという雑誌の領分は、すこしずつ、でも、確実に、電子媒体に浸食されていっている感があります。

さて、書籍についてはどうなのでしょう? 未来についての話でよく取り上げられるは、「紙媒体としての書籍の文化は、将来なくなるのか?」といった類いのものです。レコードの地位がCDに代わったほどの劇的な変化が、書籍でも起きるのでしょうか?

こういうことを考えているうちに、「技術革新」やら「環境」やら「達成感」といったキーワードが浮かんできます。(つづく)
| - | 12:04 | comments(0) | trackbacks(13)
書評『コスト構造改革のヒント』
ブログを読んでもらっている寺田和己さんに送ってもらった著書です。お送りくださりありがとうございました。

『コスト構造改革のヒント 橋の設計・デザインを楽しく』寺田和己著 西川和廣・水口和之編集アドバイス 鹿島出版会 2006年 232p


茨城県の新神宮橋や徳島県の吉野川渡河橋などの“橋”の作品をもつ、技術アドバイザーが書いた、橋梁コスト削減術。

各テーマの最初に、「あなたは専門誌の記事を参考にしたことがありますか?」というような問いかけが3つほどあり、それらの問いかけに関連した橋づくりにおけるコスト削減法の具体的な方法が語られている。各テーマの締めの部分には、国土交通省技術政策研究所所属の編集アドバイザーの解説が加わる。

本のオリジナリティの一つは、過去の歴史的事実などから、現代の橋梁建築に当てはめることのできるセオリーを、著者が論じている部分だろう。戦争や芸術などの“史実”と橋梁の“建築”の間に「温故知新」という言葉を架けたよう感じ。

たとえば、過去の為政者たちと、現在の橋梁建設プロジェクトの推進体制とを、こんなアナロジーを用いて論じている。
中国皇帝のように何事も一人で決めるのは失敗の元である。一方、長年発注者が固く信じて疑わない“三人寄れば文殊の知恵”方式では、最大公約数的な成果しか得られないと思う。要するに、コスト改革構造では、皇帝(主任技術者)+元老院(委員会)方式など、プロジェクト推進の仕組みも個人に重きを置く方式に考え直すべきだろう。
また、過去のコスト削減の実例としては、著者自身の建築歴(それはある意味、発注者などとの闘いの歴史でもある)がふんだんに用いられている。

このように、著者の知識や実際の体験談からの話が多いので、やや“自分語り”が強すぎる感はある。それを好む好まざるは人それぞれ。ただ、つねに新しさを求めようとしている著者の姿勢と、その結果としての実例には、見習うべき点が多いだろう。

もう一つだけ、著者独特の観点を感じた部分を紹介しよう。新技術の解釈ひとつをとっても、筆者のフィルターを通せばこうなるのだ。
“新技術”という言葉から、例えばプラスティックの橋などをイメージする人が多いと考えているが、在来の技術の組合わせでも、新技術になることに留意していただきたい。「架設中の本橋を仮桟橋として使う」ことなどは、そのよい事例ではないか。
道路橋のエンジニアや発注者に向けて書かれているので、橋梁建築の専門用語が出てくる。けれども、その他の建築物の関係者、さらには“コスト削減”に興味のある一般の人でも、専門用語の部分に目をつぶれば、コスト削減の勘所をさまざま得ることができるのではないだろうか。

『コスト構造改革のヒント』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/コスト構造改革のヒント-橋の設計・デザインを楽しく-寺田-和己/dp/4306023850/sr=11-1/qid=1167185453/ref=sr_11_1/250-8600379-3683450
| - | 11:26 | comments(0) | trackbacks(26)
文字がつくる映像


情報を文字で示すという方法は、ほかの手段による方法に比べると弱い立場にあるものと思われがちです。

「言葉よりも画像のほうがよく記憶に残る」とは、だれもが直感的に納得のいく事実かもしれません。心理学の世界でも「画像優位性効果」という言葉で確立されている効果のようです。

たしかに「あ、これって、いつか見た景色だ」とか、「このシーン、どこかで目にしたぞ」とか、視覚的な記憶は、なにかの瞬間にふと過ぎったり甦ったりします。米国ウェスタン・オンタリオ大学の心理学者アラン・ペイヴォは、人間は、莫大で無尽蔵に視覚的記憶をためることができると言っています。

また、文字と画像とが両方ある情報をぱっと見たときに、まず目に飛び込んでくるのは、文字よりも画像ですね。このブログでも、記事のトップに画像を載せる日が多いですが、みなさんにアクセスしてもらった瞬間のアイキャッチ効果を狙ってのものです。

新聞の一面の下段には、出版広告(三八つ広告)が並んでいますが、あれら広告の構成要素は基本的に文字。新聞の顔である一面は品位を保ちたい、という新聞社の意向があるため、ルールが課せられているのです。けれども、広告デザインを考える出稿者たちは、罫線や「■」や「◎」などの図記号を組み合わせて、どうにか視覚的に目立たせようと工夫します。

三八つ広告とは違い、画像と文字の両方で表現ができる場合、最大限に情報をアピールしたいのであれば、言葉の画像の情報どうしが矛盾したり、干渉しあったりしないような関係性を考えると効果的だといいます。

さてさて。こうして画像の力と文字の力を比べていくと、文字の力の弱さばかりが目立ってしまいますね。

けれども、文字にも、画像に劣らない情報の力がやはり潜在的に備わっていると私は考えています。

なぜならば、文字それ自体も、画像を生み出すことができるから。

平面的に言えば、書体をきらびやかなものにして目立たせるとか、“orz”などの絵文字を使って視覚化するといった方法もある程度は効果的でしょう。

けれども文字が生み出す画像は、それだけにはとどまりません。文字どうしをうまく組み合わせて駆使すれば、読む人の頭の中に「画像」や「映像」をイメージさせることができるのです。

文字を読んだだけで、その場の雰囲気や臨場感が伝わってくるような文章に出会うことがあります。明らかに、視覚化を意識して文章を書いている物書きさんもいますね。

たとえば、いまから10年ほど前に翻訳書が出版されたスティーブン・キングの『グリーンマイル』などは、その典型でしょうか。刑務所の薄暗い通路に敷かれてある緑のリノリウムが、鮮烈な印象として残ります。読者の頭の中に、読者の数と同じ数の景色が、「画像」や「映像」として刻まれているのです。

文字には、読む人それぞれの頭に入り込み、そこでイメージを膨らませることができる力を持っています。その力を自在に操ることができる人こそ、よい文章を書く人だと思うのです。
| - | 12:24 | comments(0) | trackbacks(18)
地味ながら好調な産業用ロボット


ロボットの開発者のなかには、「子どものころテレビで見た鉄腕アトムに憧れて」とか、「ドラえもんが私の近くにもいればいいと思って」とかいった、漫画からの影響を受けたという動機を赤裸々に話している人もいます。

人の敵と位置づけられてきた欧米とちがって、日本ではロボットをフレンドリーに受け入れる国民気質があるとよく聞きます。タコを食べる日本の食文化をアメリカ人が「信じられなーい」と驚くように、国民によって好き嫌いはさまざま。ただ、日本が世界に冠たるロボット大国となった背景では、鉄腕アトムやドラえもんなどの存在が大きな“牽引力”となったのも事実のようです。

鉄腕アトムもドラえもんも、いまの現実のロボット部類の中ではヒト型(ヒューマノイド)に属するでしょう(ドラえもんは“ネコ型”という話もあるけれど)。

先日、毎度さまざまな情報を提供してもらっている知人のNさんから、ロボットに関する二つの新聞記事を送ってもらいました(多謝多謝)。

(2006年)12月18日の毎日新聞では、「『介助』超え『ヒト』に迫る」という大見だしの下、ヒト型(ヒューマノイド)ロボットを中心に、開発最前線や課題を捉えています。

ロボット市場拡大のためには、家庭用ロボットの発展が鍵としているものの、150万円でメーカーが売り出したヒト型ロボットが苦戦して販売中止になるなった話も紹介され、なかなか一筋縄ではいかない印象。

一方、同じ記事では、工場などで使わている産業用ロボットの日本での隆盛ぶりもデータで紹介しています。主要国中、日本での産業用ロボット稼働台数は、35万6483台。2位の米国12万5235台に大きく水をあけて断トツの1位。シェアも42.0%と、半分に迫る率です!

日本の産業用ロボットの好調ぶりを書いているのが、Nさんから送ってもらったもう一つの12月20日付株式市場新聞。1面記事トップで、「産業用ロボット」の成長ぶりが描かれています。

記事では、産業用ロボット成長の背景には、団塊世代の大量リタイアがあると分析。「熟練した技術を持つ団塊世代が大量に退職するいわゆる『07年問題』を目前に控えて、ロボット産業が潜在的に減少する労働力をカバーする動きは一段と活発化しよう」と予測しています。

親しみもあるため、とかくロボットの花形はヒト型という感があります。一方、産業用ロボットは「ああ、あれね」といった象徴的イメージとなるロボットがなかなかないため、国民の関心はいまひとつの模様。翻訳でいったら、人気はあるけれど競争力の高い文芸翻訳の世界と、地味ながら比較的堅実な収入のある産業翻訳の関係のようなものでしょうか。

けれども、記事からもわかるように、産業用ロボットもがんばっています。

ロボット全体を考える上では、“牽引力”としていまだに君臨しているアトムやドラえもんとはまた別の視点で見ることも必要なんでしょう。
| - | 15:59 | comments(0) | trackbacks(130)
なにかとべんりな“草”


生物学の実験ではマウス(またはラット)がよく使われますね。“ハツカネズミ”といった名前のネズミがあることからもわかるように、すぐに子どもを産むため、遺伝の実験などの結果をみるためには、なにかと便利。もし、同じ哺乳類ということで、ゾウを使った場合、妊娠期間は1年と10か月掛かるといわれているし、それにとても体が大きいから扱いづらいでしょう…。

便利さを考えて、実験に用いられる生物を、“モデル生物”などとよぶようです。

で、本題は動物ではなく、植物。

科学者たちからとても重宝がられている植物のモデル生物に“シロイヌナズナ”があります。

アブラナ科に属し、日本では北海道から九州まで生息しているそうです。

トップ画像のように、地味目な姿ゆえか、一般的にはけっこうマイナーな存在のようです。たとえばGoogle検索で“セイタカアワダチソウ”が、271,000件のヒット、“キョウチクトウ”が155,000件のヒットダッタのに対して、“シロイヌナズナ”は、111,000件のヒットにとどまりました。

ところが、新聞の記事検索をしてみると、ほんとうにシロイヌナズナ関連の記事は多く見られます。

たとえば、最近では、(2006年12月)21日に、ワシントン大学の日本人准教授たちが、植物の気孔を作る遺伝子をシロイヌナズナを使って発見したそうです。また、東大の研究グループは、(2006年)2月に、シロイヌナズナから“AREB”という遺伝子を操作して、水なしで2週間枯れないシロイヌナズナを作ったそうです。はたまた、2005年には、シロイヌナズナから、花を咲かせる“FD”という遺伝子が発見されています。

シロイヌナズナが、科学者たちに重宝されているのには、やはりマウスと同様にそれなりの理由があります。

まず、種をまいてから次の代の種ができるまでが6週間と短いので、早く遺伝の実験の結果などがみられるわけです。マウスと同じですね。

また、ゲノム(生物が生きていくために必要な遺伝情報の1セット)のサイズが非常に小さいのも便利。ゲノムのサイズは、塩基対とよばれる、遺伝情報の暗号文字1ペアを単位としますが、シロイヌナズナは約億万3000万塩基対。シロイヌナズナと同じくゲノムが解読されているイネのゲノムサイズは約4億もあるとされています。イネゲノムも穀物の中ではゲノムサイズはとても小さいといわれていますが、シロイヌナズナの比ではありませんね。

さらに、実験によって簡単に突然変異を人工的に起こすことも、シロイヌナズナならば比較的かんたんです。

こうしたことから、シロイヌナズナでは、DNAのどの部分がどの遺伝子であるかを求めやすいわけです。

実験での重要性やゲノムサイズの小ささなどから、2000年の12月にはシロイヌナズナゲノムが、イネや他の高等植物に先駆けて解読されています。

なんでもないような雑草が、こんなに重宝な存在だとは…。シロイヌナズナ、近所の草むらで探してみては?
| - | 16:08 | comments(0) | trackbacks(13)
理科ばなれ食い止める究極の切り札?


『サイエンスウィンドウ』という、理科の雑誌(冊子)が誕生します。32ページもので、おもに学校の先生によんでもらうためにと、科学技術振興機構(JST)が編集したもの。

編集長で科学ジャーナリストの佐藤年緒さんから先日、創刊準備号をもらったのでさっそく読んでみました。

前回の「見本号」では、(2006年)10月1日が発行日で、「月といのち」という、月の特集でした。今回の創刊準備号の特集は「春よ来い!」で、これまた季節感が漂うもの。

誌面全体をとおして、かなり大胆なまでにレベルを落として、理科が苦手な先生たちに手を差し伸べようとしています。誌面に載っている編集長からのメッセージでも、「理科を専門としない先生や、科学の教科になじみの少なかった先生にも読んでいただけるように、従来の科学誌のイメージを変え、あたたかみがあり、身近な生活から科学について考えていけるような誌面を目指します」とのこと。

たとえば特集では、なぜ四季が生じるのかを、「教科書にも書いてあることかもしれないが、ちゃんと理解するのはけっこう難しい」として、懇切ていねいに説いています。太陽からの光の角度が小さいと地面が受ける熱量が少なくなるという話や、12月の冬至をすぎてもしばらくは太陽から受けとる熱よりも地表が出す熱のほうが大きいので、1か月遅れて寒さのピークがやってくる、といった話などなど。

また、「イチから伝授 実験法」というページでは、教科書にも載っていない、他人にも聞けない、マッチの正しい使い方などをイラスト付きで紹介しています。もちろん、マッチを使う機会の少なくなった子供たちに使い方を正しく教えるためが第一の目的でしょうが、マッチに不慣れな“先生たち”のために書かれている印象もあります。

これだけていねいに書かれてある背景には、学校の先生たちの間にも「理科離れ」や「理科嫌い」が進んでしまっている現状があるということなのでしょう。たしかに、小学校の先生は、一人で複数の教科を教えます。苦手と思いながら理科を教えている方も少なからずいるのかも。

学校の先生に理科を好きになってもらう…。理科ばなれを食い止める究極の切り札なのかもしれません。

説明のていねいさに加えて、子供たちや若手の先生たちの顔が見られることもあり、どのページからも、“あたたかみ”もじわじわと出ています。

4月号の次号は、いよいよ創刊号とのこと。『サイエンスウィンドウ』はJSTのサイトからPDFでも見ることができます。

JSTのサイト『サイエンスウィンドウ』のお知らせのページはこちら。
http://www.jst.go.jp/rikai/sciencewindow/index.html
2007年1月創刊準備号はこちら。
http://www.jst.go.jp/rikai/sciencewindow/swindow2.pdf
おなじく、2006年9月の見本号はこちら。
http://www.jst.go.jp/rikai/sciencewindow/swindow.pdf
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黒川清さん「時間をとって首相と会いたい」


きのう(2006年12月21日)、内幸町のプレスセンタービルで、黒川清・内閣特別顧問の講演会が開かれました。主催は日本科学技術ジャーナリスト会議。

黒川氏が就いている内閣特別顧問のまたの呼び方は「サイエンスアドバイザー」。安倍首相などに科学政策などの点で助言をする役割です。また、同時に黒川氏は、安倍政権が政策の柱の一つに掲げる“イノベーション”を推進するための「イノベーション25戦略会議」の座長にも就任しました。

黒川氏は以前、「日本学術会議」という、大きな機関の会長をしていました。この機関は、行政や産業や国民生活に科学を反映、浸透させることを目的としたもので、政府からは独立していました。一方、今回の役職は、政府の中枢に置かれたもの。政府から独立した立場から声を出すのと、政府の内側から声を出すのでは、立場的に内容を考える必要があると言います。

たとえば、さまざまな人がさまざまな解釈をしている“イノベーション”。イノベーションが成功するかどうかについて、黒川氏自身は「つまるところは教育」と考えているようですが、「“イノベーションのために教育を”と国民にうったえたとしても、なかなか来年(2007年)の参議院選の戦略としてはどうか」とも話します。得票につながるための戦略をまず考えないとならないということでしょう。

首相や政府首脳に科学政策などを助言する「サイエンスアドバイザー」は、世界の先進国でも置かれている役職です。たとえば、米国ブッシュ大統領の主席科学アドバイザーはジョン・マーバーガー氏。イギリスは、ケンブリッジ大学で化学の教授をしているデビッド・キング卿。

実際のところ、日本のサイエンスアドバイザーは首相にどのように進言をしているのでしょう。首相との接触について、黒川氏からは意外なコメントが返ってきました。

「安倍首相に直接お会いできるのは、月に5分間あるかないか。一か月に一度はちゃんとした時間を取らないとだめだと思っているのだが…」

月に5分間の時間も取れないとなると、黒川氏の提言もなかなか伝わらないのでは。そもそもこの役職、黒川氏から買って出たのではなく、9月末に安倍首相から突然、要請があって就いたとのこと。こういう状況を考えると、まだ「海外の政府には科学アドバイザーという役職があるから、日本でも同じ役職を作ってみた」という段階である印象が強いです。

「官房長官にお会いするのでは、新聞の『首相の一日』などにも載らない。アピールの工夫が今後も必要になる」

マスコミへのアピールも含め、黒川氏のアドバイザーの手腕は今後本格的に試されることになりそうです。
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100年後世代との対立


「環境問題解決の難しさ」をわかりやすく示す論を、大学の教授から聞きました。

経済学者で東京大学教授の岩井克人氏が2001年8月3日の朝日新聞夕刊に寄稿したエッセイ「未来世代への責任」がその内容です。ポイントをまとめると次のようなものになります。
(1)地球環境問題が深刻であるのは、各国間の利害関係が対立しているからではない。未来と現在の二つの時代の間の利害が対立しているからなのだ。

(2)経済学にしたがえば、未来世代に未来の環境に関する所有権を与えればいいということになる。

(3)だが、未来世代とは、まだこの世に存在していない人間である。タイムマシーンにでも乗らない限り、未来世代が現在世代と取引することは不可能だ。

(4)唯一可能な方策は、現代世代が未来世代の代行をすることだ。だが、現代世代が自己利益を追求している限り、未来世代の利益を考慮して、自分自身と取引することなどありえない。
いかがでしょうか。

いま生きている世代と、まだ生まれていない世代とを、同じ市場という土俵に立たせることは決してできないということです。世代間の対立を勝負事に喩えるならば、いまを生きる私たちの世代は、未来の世代に対して、たぶん10勝0敗とか、わざと負けるとしてもせいぜい8勝2敗ぐらいのペースで勝ち続けてしまっているのでしょう。相手が土俵に立つどころか、まだ生まれてもいないのだから…。

100年後の未来世代は、この“対立”または“勝負”について、「100年前世代は自分勝手なままに反則技を繰り返したじゃないか」と言い、われわれの世代を恨むかもしれません。でも、“恨む”ことはできるとしても、“仕返しする”ことはできそうもありません。もうそこにわれわれはいないのですから(たぶん)。

経済学者である岩井氏はエッセイ最後のほうで、「経済学者の論理を極限まで推し進めた結果、その論理が追放してしまったはずの『倫理』なるものを再び呼び戻す羽目に陥ってしまった」として、環境問題には倫理の議論が必要であるということを書いています。これは、いってしまえば、「経済学で環境問題を解決することはできない」と宣言しているのと同じこと。

「どうせ、私たちの無駄遣いのツケを払うのは未来の世代」という世代間倫理の問題。それに加えて「自分だけがちょっとやそっと、環境の負荷をかけたって、体勢に影響はないだろう(自分がちょっとやそっと、環境によいことをしたって、体勢に影響はないだろう)」という“塵は積もれど山とはならない”問題。この二つの問題解決策を見いだすことはとても難しいことです。
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藤原章夫さん「アフリカだから、いやそうではない」


早稲田大学大学院科学技術ジャーナリストプログラムの講義「生命倫理」(瀬川至朗客員教授)で、ゲストの毎日新聞記者・藤原章夫さんが講義をしました。

藤原さんは、1995年から2001年までアフリカ特派員、'02年から'06までをラテンアメリカ特派員として過ごした海外畑の記者です。2005年に出した著書『絵はがきにされた少年』が、第3回開高健ノンフィクション賞を受賞しました。

今回の講義テーマは「アフリカの生と死」。

第二次世界大戦以前から今日まで、ずっと内戦や地域紛争が続いている大陸がアフリカです。

藤原さんは、'90年から内戦が繰り広げられているルワンダの軍キャンプなどを取材してきました。新聞社の意向というよりも自らの意思で。

藤原さんが目にしたものは、「戦争でも弱者が“ためおけ”として使われている」という状況。政府軍もゲリラ軍も、両方が少年兵を最前線に立たせて、戦わせます。なぜなら、力のある大人たちは死にたくないと思っているから。

「町であった少年兵たちと別れ、後日再びその町を訪れると、もうその少年たちの姿はそこにありません」

また、'98年にケニアの首都ナイロビで爆弾テロが起きた際、藤原さんは、ひん死の状態になった犠牲者にインタビューを試みました。犠牲者は笑って藤原さんにこう囁いたと言います。「こんなふうになっちまって、俺は、よかったと思ってるんだ。だって、いまは誰に対してでもやさりい気持ちになれたんだからさな」と。

アフリカの現状をジャーナリストとして伝えようとしたとき、藤原さんは大きな困難を抱えます。「どうしたらこのアフリカの現状を人々に伝えられのだろうか」と悩みます。

「アフリカのことを書いても書いても伝わらないんです。なぜなら、多くの人が『アフリカだからこういうことも起きるよね』と思っているから」

アフリカを見続け、日本人に伝え続けてきた藤原さんの、核心のつく言葉でした。たしかに、自分たちの国である日本はともかくとして、米国やヨーロッパでテロが起きて多くの人が死ぬときと、アフリカの内戦で大量殺戮が起きたときとで、私たちの心へのインパクトは同じであると言えるでしょうか。

それでも藤原さんは、「『アフリカだから』という人々の思いを『いや、そうではないのだ』と思わせるには、やはり報道や映画などメディアが力を発揮するしかない」と言います。

著作活動もそうしたものの一つ。原稿を持ち込んだ出版社に「アフリカものは売れない」と言われつづけた末の、『絵はがきにされた少年』の開高健賞受賞と出版。本は予想以上に売れているそうです。

人に伝えるための方法をもう一つ、藤原さんは写真家の星野道夫氏が生前に残した言葉を引用して伝えます。

「いつか、ある人にきかれたことがある。美しい風景を一人で見ていたとするだろう。もし愛する人がいたら、その美しさやそのときの気持ちをどんな風に伝えるかって。その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって。美しいものを見て、感動して、自分が変わってゆくことだって」

一過性で終わってしまう伝え方ではなく、心の中にいつまでもなにかが残るような伝え方があると、藤原さんは言います。今回の講義そのものも、聴いた人の心に長いあいだ残り続けそうな内容でした。

2007年1月には、ラテンアメリカ特派員時代の取材をもとにした『ガルシア=マルケスに葬られた女』も上梓の予定の藤原さん。既著の第3回開高健ノンフィクション賞『絵はがきにされた少年』はこちらです。
http://www.amazon.co.jp/絵はがきにされた少年-藤原-章生/dp/408781338X/ref=pd_bxgy_b_img_a/249-9042878-5985926
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「きく8号」のメッシュアンテナ


JAXAのH2Aロケットがきのう(2006年12月18日)、打ち上げられました。通信用の静止衛星「きく8号」を搭載し、切り離しにも成功したとのことです。

私は取材で、東京駅丸の内のオアゾ特設広場の「ライブ中継」で、カウントダウンと打ち上げの様子を見ていました。

JAXAの打ち上げ番組の途中で、解説者が「このアンテナは金沢の“のとはち”が開発したものですからね」と話しているのを耳に。きく8号のアンテナがメッシュでできているのは知っていましたが、どこのメーカーとの共同開発化までは知らなかったので、興味津々。メモをしておきました。打ち上げと記者会見の後、“のとはち”を調べてみることに。

ところがネットで、「のとはち」と検索しても、「想像する“のとはち”がって」とか「還って来る“のとはち”合った」とかしか出てきません。漢字を推し量って「能登八」で検索すると、「能登八郎」という作家さんや福岡の焼き鳥屋の名前しか出ていません。

その後いろいろ調べてわかったこと。「のとはち」ではなく「のとしち」でした。orz。JAXAの解説者さんも、打ち上げ前後は緊張状態だったのでしょう…。「のとしち」は「能任七」と書きます。

能任七が開発したメッシュアンテナは、モリブデンという金属に金メッキをほどこしたもの(トップ画像)。特長はいろいろです。

まず、スペースデブリという宇宙の“ゴミ”が万一メッシュアンテナに引っかかったとしても、トリコット編みという特殊な編み方をしているので、ストッキングのように“伝線”はしないのだそう。

また、軽さも誇れるところで、1平方メートルあたり20グラム。1円玉20枚の重さです。その結果、きく8号の総重量は5.8トンにおさえることができました。といっても、日本の人工衛星搭載ロケット打ち上げでは、過去最重量とのこと。ロケットを推進するブースターをH2Aロケットでは初めて4本付けることにしました。ブースター4本で6トンの重さまで持ち上げられるとのことなので、軽量なメッシュアンテナでなければ、できなかったことになります。

国産のロケットと人工衛星だから、日本の伝統的な織物技術をあえて使ったのかというと、どうもそうでもなさそう。今回の打ち上げに携わった人の話では、海外の織物なども検討してみたものの、能任七の技術がベストだったので、開発を依頼したとか。

このまま順調に進めば、きく8号の能任七開発メッシュアンテナは、12月25日(月)の夜遅くに開くそうです。

JAXAの「きく8号/H-IIA11号機特設サイト」はこちら。
http://www.jaxa.jp/countdown/f11/index_j.html
メッシュアンテナの記事が載っているJAXA広報誌『JAXA's』11号はこちら。3ページから5ページです。
http://www.jaxa.jp/jda/jaxas/pdf/jaxas011.pdf
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二つの「ち」論


ドイツには、地球環境を守るための基本的な原則の土台として、「余地」論と「無知」論という二つの論があるそうです。この土台があった上で、「いまの市民だけを心配するのではなく、未来に生まれる市民のことも心配しましょうね」という「事前配慮の原則」が国内で謳われているのだそう。

まず、「余地」論とは、「将来生きる人のために環境や資源の余裕を持たせながら生きていきましょう」といった論のこと。

一方の「無知」論とは、「いまの科学ですべてがわかるといった気持ちにならず、後から危険は発覚するかもしれないと思いながら生きていきましょう」といった論のこと。

どちらも、「環境に許されるぎりぎりの線よりも、少し余裕を持たせた、行動や考え方をとりましょう」といったところでしょうか。

よく、環境問題は人間一人ひとりレベルの問題にも当てはまると思うことがあります。環境問題で語られる「持続可能性」といった概念も、「持続可能性」を保ちつつお酒を飲む、といった人の健康問題で語ることができるでしょう。

「余地」論と「無知」論も、同じように、個々人に当てはまるような気がしますね。

「後で泣きごとを言わないように、いまからちょっとでも(経済的・作業的)貯金をしておきましょう」(「余地」論)

「いまの自分は何もかもを知っているという気にならずに、いつかは無知による失敗が身に降りかかるかも、という前提で日々を送りましょう」(「無知」論)

ギリギリの生活はよくないと思いつつも、今日もこうして仕事と取材の合間が少しでもあれば、ブログの原稿を書いてしまっている自分がいます…。orz
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没頭はいつ起きる?


なにかにハマることを「没頭」といいますね。辞書では、「他の事をかえりみず、一つの事だけに熱中すること」。なるほど、言い得た表現だと膝を打ちました。

できるならば、人を没頭させるような記事や本を書きたいもの。けれども言うは易し、行うは難しです。

ものの本では、没頭は、次のような要素から起きると書いてあります。

(1)克服しうる難題があること。
(2)明確に定められたゴールがあること。
(3)大きく気が散ることなく人が集中できる状況であること。
(4)日常生活の心配事や欲求不満を忘却していること。
(5)行為・活動・環境をコントールしているという感覚があること。

などが、没頭をする要素、いわば没頭への条件だとのこと。

1番目と2番目は似ていますね。ひとつの目標が設定されていれば、それに向かって突き進むというもの。

(1)は、推理小説などが取り入れている要素です。読者は探偵役に自分を重ねて、克服しうる難題に立ち向かうわけです。大きな謎や問題をまず示しておいて、一歩ずつ解決していくという書き方の手法は、推理小説以外でも使えるでしょう。

(2)は、原稿書きや宿題で、提出までの時間がほんとうにないときに集中力が高まる経験から明らか。

3番目、4番目は、没頭する人の内側のコンディションを示しています。

(3)は、電車の中ぐらいの雑音が、没頭する読書にちょうど適していると聞いたことがあります。人にもよるでしょうが…。

(4)は、心配事があるとやはり気が散るということでしょう。アイロンのコンセントを抜いてきたかどうか不安なときには、なかなか会話に集中することはできません。

5番目は、没頭する人の内側にも外側にも関わってくるでしょう。やっぱり、命令されてむりやり行うような仕事では、なかなか没頭はしづらいといったところでしょうか。

もちろん没頭の要素は、「組み合わせ」次第で効果が増すでしょうし、一つだけあるからといってかならず没頭するというわけでもないでしょう。

人を没頭させるという意味では、コンピュータゲームは(1)や(2)を満たす“優れた”装置なのでしょう。

子ども(そしておとな)がゲームに没頭することについては、とかくデメリットが話されがち。たしかに実感として、ディスプレイの前で何時間も没頭していると、運動や原稿書きとはちがった“疲れ”感が残りますね。生身の人間とのコミュニケーションも、ゲームに没頭すればするほど減るでしょう。

一方で、お茶の水大学の坂元章助教授などは、高校生以下を対象とした研究では、「人間関係が苦手だからゲームに没頭する」という順序はあるものの、「ゲームに没頭するから人間関係技能が育たない」という話は支持されないとしているそうです。

参考文献:
三省堂『大辞林 第二版』
ウィリアム・リドウェルら著『Design Rule Index』
参考サイト:
Slash Games「テレビゲームと子供たち ―社会心理学の立場から―」取材ノート 1of3 【ビデオゲームの影響研究の動向】http://www.rbbtoday.com/news/20031213/14465.html
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知ってる人は知ってるサイエンスチャンネル


映像は、情報を“視覚的”かつ“動的”に受け手に伝える能力をもつメディアです。たとえば、目に見えないうちにじわじわと進む地球環境問題でも、映像で1年が1秒で経過するような予測シミュレーションを示せば、受け手は深刻な未来を直感的に捉えることができます。

科学の分野は複雑化、細分化のために、文章や静止画では説明しづらい部分もあります。サイエンスチャンネルの映像コンテンツは、科学を伝える大切な道具といえるでしょう。

サイエンスチャンネルという科学番組専門チャンネルがあります。「スカイパーフェクTV!」とともに、ほぼ同じ内容をインターネットでも視ることができます。

いくつか番組を視てみると、おカネ(税金)も掛けてあり、地味ながらも良質なコンテンツが多いことに驚かされます。たとえば、「ザ・メイキング」という、モノづくりの工程をたんたんと映し出すシリーズなどは、あの「2ちゃんねる」でも、「『ザ・メイキングスペシャル』もっとやってくんねぇかな。フェラーリのヤツおもろかった」と、評判。

けれども、ウェブの番組表を観ただけでは、なかなかどのような内容かがわからないと感じたのもたしか。視聴者どうしで盛り上がる「場」がない点もあり、サイエンスチャンネルは、まだ「知る人ぞ知る」といったところではないでしょうか。

せっかく、ウェブでも映像を流しているのだから、ウェブの特性を利用するのはどうでしょう。サイエンスチャンネルの番組を見た視聴者が、気軽に番組の評価をできるような視聴者レビューの欄を設けるのです。視聴者はより自分にとって見る価値のある番組を選びやすくなるでしょう。Amazonのカスタマーレビューのように。

堀江元社長や三木谷社長たちが放送業界に参入しようとする前から、テレビとネットのふたつの器をすでに兼ね備えていたサイエンスチャンネル。メディアの融合を先駆ける環境は整っているといえるでしょう。

サイエンスチャンネルのサイトはこちら。
http://sc-smn.jst.go.jp/
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玉川大学が環境エデュケーターを養成


玉川大学が出している『全人』という機関誌の12月号に、「玉川独自の資格! 環境エデュケーター養成プログラム開講!」という記事があります。

「環境エデュケーター」は玉川大学独自の資格。資格をとるためには玉川大学の学生が「環境エデュケーター養成講座」(2単位)と「環境エデュケーター・トレーニング講座」(2単位)で単位を取りさえすれば資格が付与されるとのこと。

記事によると、「環境エデュケーター養成講座」の授業では、環境の基本知識、法律知識、実践指導力、多角的視野の4点を身につけることが目標。「環境エデュケーター・トレーニング講座」は指導法、ワークショップ、模擬授業などで構成されています。

「玉川独自の資格!」というキャッチフレーズは、国家的資格でないということを示しつつも、見栄えはする、なかなかのテクニックなことよ、と思ってしまいました。

環境エデュケーター養成プログラムのことをもう少し知りたいと思い、調べてみると、文部科学省の「現代的教育ニーズ取組支援プログラム」(現代GP)という計画に申請をしていることがわかりました。この文科省プログラムは、「知的財産教育」とか、「地域活性化への貢献」とか、社会が必要と思っている課題テーマについて、大学側が「こんなプログラムをやります」といった
申請に対して、採択されれば支援金を払いますよ、といったしくみです。

かなりの数の大学や専門学校が現代GPに申請をしているものです。玉川大学の「環境エデュケーター養成プログラム」野他にも、山形大学の「流域インタープリター養成プログラム」や、函館工業高等専門学校の「循環型社会構築アドバイザー養成プログラム」など、どこかで聞いたことのあるような「○○○○○○ター養成プログラム」といった名称のプログラム名もたくさんありますね。

2006(平成18)年の選定結果を見てみると、玉川大学は選定されなかった模様。

民間や学校単位の資格というのは、国家資格にくらべると、見劣りして考えられがち。でも、資格も何もなければ、受講する気も大して起きないでしょうし、実際受講してみれば「資格のために」となるのかもしれません。実際、どんな内容の授業か、知りたいものです。

文部科学省「平成18年度現代的教育ニーズ取組支援プログラム選定結果について(報告)」はこちら。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/18/07/06072402.htm
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「奥さんも中津江村的ね」


師走初旬・上旬のマスコミは、「1年間を振り返って」といった特集や企画が目白押しです。

前々から「新語・流行語大賞」について、気になっていた点がありました。

「たしかに耳にはした言葉だけど、会話の中には出てこない」という語が、けっこう多く賞として選ばれていると言うことです。

過去の受賞語を見てみると、2005年の「ボビーマジック」や2002年の「W杯(中津江村)」などは、会話の中ではあまり登場した記憶がありません。「○○課長、このプロジェクトを通すなんて、すごい! ボビーマジックでしたね」とか、「夫の帰りを深夜まで起きて待つだなんて、奥さんも中津江村的ね」とか、言わなかったし…。

「新語・流行語大賞」のイベントに関わっている方に、この疑問をぶつける機会がありました。

そのお方曰く、かならずしも、会話の中で使われて流行したことが前提ではないのだそうです。広く、マスメディアに載った語彙を、人々が見たり、聞いたり、といったことでもOKとのこと。

たしかに、新語・流行語大賞のサイトを見てみると、賞の説明のところに、「1年の間に発生したさまざまな「ことば」のなかで、軽妙に世相を衝いた表現とニュアンスをもって、広く大衆の目・口・耳をにぎわせた新語・流行語を選ぶ」と書いてあります。目や耳をにぎわせたという語も、流行語の一つと言うことですね。

今年2006年の「新語・流行語大賞」が、12月1日に発表されました。科学関係の言葉では、東北大学・川島隆太教授による「脳トレ」や、日本内科学会による「メタボリックシンドローム」などが、トップテン入りしています。「健康的に生きる」といった点で共通しているが、世相を反映しているかはわかりません。

「新語・流行語大賞」のサイトはこちらです。
http://www.jiyu.co.jp/singo/
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ブロゴスフィア
所属の早稲田大学大学院科学技術ジャーナリストプログラムで、オンライン・ジャーナリズム・ワークショップの最終回が開かれました。今回はワークショップ発起人の小林宏一教授が、参加者に感想を聞き、全体として見えてきたことを総括しました。

ワークショップでは、“Blogosphere”(ブロゴスフィア)なる言葉があるということを知りました。接尾辞“-sphere”は「球(体)」を表すそうなので、ブロゴスフィアはいわば「ブログの球体」。小林教授は、「ブログが形成する、バーチャルな空間」と説明します。

今日の最終回で論点となったのは、果たしてブロゴスフィアが、社会全体を俯瞰する力をもっているかどうかといったところ。つまり、極端な話をすれば、「ブログをしこしこしたためるヤツらなんて、どうせ、電脳系か、2ちゃんねらーか、アキバ系か、トンデモ系か、かたよった傾向にあるブロガーたちだから、社会全体の縮図にはならないよね」といったことです。

たしかに、傾向としては、その向きはあるのだと思います。ただし、ブログは、コンピュータの使い方にあまり詳しくない人にも開かれたツールなのはたしかなこと。ブログは、何かを知りたい、そして何かを伝えたいという誰もがもって生まれた欲を受けとめてくれる器の一つでしょう。これを使わない手はありません。

いろんなゲストを迎えてのワークショップ。これで最後かと思うと、ほんの一瞬、しんみりとしてしまいます。来年度からは同様の内容が正規の授業となる予定とのことです。
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10倍の時間、10分の1の時間


『パワーズ オブ テン』という、きれいな本があります。

この本、いわば「スケールの図録」。10の0乗メートル(つまり1メートル)の日常世界から、ページを進めていくと、どんどんと景色が拡大していき、細胞が見え、分子が見え、最後には10のマイナス16乗の量子世界へとたどりつきます。逆に、日常世界からページをさかのぼっていくと、どんどんそこから遠ざかっていき、最後には10の25乗メートル離れた宇宙空間の光景となります。10分の1縮小(または拡大)されるわけです。

『パワーズ オブ テン』は「大きさ」という尺度での話ですが、「時間」という尺度で、同じことをやったらどうなるでしょう?

10の0乗秒間は、1秒間のこと。1秒を10倍すると10の1乗秒間という間隔、つまり10秒間。さらに10倍すると10の2乗秒間で100秒間という間隔。こうして、時間の間隔をどんどん長くしていくのです。

逆に、10の0乗秒間から、10分の1ずつ、時間を短くしていきます。10の−1乗秒間は0.1秒間。10の−2乗秒間は0.01秒間というふうに。

それぞれの時間で繰り広げられる現象の例には、こんなものがあります。

10の18乗 (1000000000000000000秒)ビッグバンから現在までの時間の長さ
10の17乗 (100000000000000000秒)太陽のような星の一生
10の16乗 (10000000000000000秒)質量の大きな星の一生

10の8乗(100000000)秒(=約3年間)多くの哺乳類の寿命
10の7乗(10000000)秒(=約100日間)季節の一区分
10の6乗(1000000)秒(=約10日間)台風の発生から消滅まで
10の5乗(100000)秒(=約27時間)地球の自転、ウスバカゲロウの一生
10の4乗(10000)秒(=約2時間半)皆既日食の継続時間
10の3乗(1000)秒 大腸菌の細胞分裂、太陽の光が地球に届くまで
10の2乗(100)秒 仔馬が立ち上がるための時間
10の1乗(10)秒 地震が起きてからおさまるまで
10の0乗(1)秒 人間の脈拍、人間のまたたき
10の−1乗(0.1)秒 人間による機械制御の限界
10の−2乗(0.01)秒 カメラのシャッター
10の−3乗(0.001)秒 卓球のボールがラバーにあたっている時間
10の−4乗(0.0001)秒 ボトルが割れる瞬間、脳細胞内の物質の出入り
10の−5乗(0.00001)秒 113番元素の寿命
10の−6乗(0.0000001)秒 パソコンの命令実行時間
10の−7乗(0.00000001)秒 多くの化学反応
10の−8乗(0.000000001)秒 日本標準時として許される誤差

10の−44乗(0.00000000000000000000000000000000000000000001)秒 宇宙創生時のインフレーション

想像つきますか? なかなかつきませんよね。スケールの感覚も想像は難しいけれど、それにも増して、10倍、100倍…、10分の1、100分の1…を、時間の感覚で捉えることは、なかなか難しいものかもしれません。
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人のつながり数(2)
人のつながり数(1)



さてさて、きのう(2006年12月10日)の記事のつづきです。

「6次のケヴィン・ベーコン」も「ポール・エルデシュ数」も、媒介こそ映画と論文とちがえ、とどのつまり、主役となる人物(ベーコンまたはエルデシュ)と、いくつの次数でつながるか、といったことを示すものです。

であるならば、ケヴィン・ベーコンとポール・エルデシュの両者との隔たりは何次であるかを数値にすることも可能です。こうして生み出されたのが、「ベーコン・エルデシュ数」です。たとえば、あなたがエルデシュの論文の共同執筆者であり、かつ、トム・ハンクスと(ケヴィン・ベーコンの出演作以外で)共演を果たしたとします。

すると、まずエルデシュ数は共同執筆者なので「1」。つぎに、ケヴィン・ベーコンの次数のほうは、『アポロ13』でケヴィン・ベーコンとトム・ハンクスが共演しているので、「ケヴィン→トム→あなた」というつながりで「2」となります。

この「1」と「2」を足した「3」が、あなたの「ベーコン・エルデシュ数」となるわけです。

ベーコン・エルデシュ数を魅力的に紹介した科学ジャーナリスト、サイモン・シンによると、物理学者ブライアン・グリーンのベーコン・エルデシュ数は「5」。なぜなら、グリーンは、『スリーパーズ』でケヴィン・ベーコンと共演したジョン・ディ・ベネデットと『フリークエンシー』で共演し(これでベーコン数は「2」)、かつ、彼はエルドスと共同執筆したロナルド・グラハムと共同執筆したシントゥン・ヨウと共同で論文を書いた(これでエルデシュ数は「3」)たためです。

2+3=5。

ほかにもベーコン・エルデシュ数「5」を記録した人物として、デイブ・ベイヤーという数学者がいます。ベーコン・エルデシュ数の存在を知っていたベイヤー教授は、自分が「5」を記録したことが嬉しくて嬉しくてたまらなかったとか…。

ベーコン・エルデシュ数は、両者とも外国人のため、あまりピンとこないかもしれません。いっそのこと、日本人で、顔の広い多分野の人通しを結びつけてみましょうか。

「山村紅葉・アントニオ猪木数」(ドラマ共演と格闘技対戦)なら、藤波辰巳やレイザーラモンHGあたりがいい線いってそう。あるいは「上戸彩・清原和博数」(CM共演とチームメート)であれば、新庄剛志あたりが最有力記録保持者となることでしょう。
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人のつながり数(1)


先日、とある用事で、私の、友だちの、友だちの、知り合いの、知り合いに電話を掛けました。私自身を「0次」とすると、電話をかけた相手は「4次」のつながりとでも言えるでしょうか。

「世界のどんなふたりも、平均6回の知り合いでつながる」という仮説「6次の隔たり」をちょっと意識した瞬間でした。この仮説はイェール大学の心理学者スタンレー・ミルグラム博士によるものです。

「世界は意外と狭いもの」を示すこの仮説からは、さまざまな応用例が作られているそうです。

たとえば、「6次のケビン・ベーコン」というゲームがあります。米国の映画俳優ケヴィン・ベーコンは、『13日の金曜日』『JFK』『アポロ13』などなど、いろんな映画にちょこちょこと出演していることから、ケヴィン・ベーコンを「0次」とすると、ほとんどのハリウッド俳優が「3次」のつながりまでに入ってしまうそうです。

この「6次のケビン・ベーコン」は、ペンシルベニア大学アルブライト校の学生たちが発明したもの。ゲームは“The Oracle of Bacon”というサイトになっていて、“Arnold Schwarzenegger”とか、“Uma Thurman”とか俳優の名を入れると、コンピュータの俳優データベースから、ケヴィン・ベーコンとの「次数」を数えてくれます(さっきやってみたときは“Timed out”だったけど)。

いっぽう数学界には「ポール・エルデシュ数」なる数があります。ハンガリーの数学者ポール・エルデシュ(1913-1996)は、論文を多産したことで知られています。生涯1500以上もの論文を発表したエルデシュには、とうぜん論文の共同執筆者もあまた。

すでにお分かりのとおり、「ポール・エルデシュ数」は、エルデシュを中心とした共同執筆のつながりで求める数です。たとえば、エルデシュ本人と論文を共同執筆したことのある人の「エルデシュ数」は「1」、エルデシュ数が1の人と共同執筆をしたことのある人の「エルデシュ数」は「2」となるわけです。ちなみに、エルデシュ数「1」の持ち主は502人いるそうな…。

この、ポール・エルデシュ数は、エルデシュの友人だった米国の数学者ロナルド・グラハム(1935-)が、多産の論文執筆者に敬意を表して考案したとされています。グラハムは、「エルデシュ数、“1”中の“1”」といえるかも…。

さてさて、このブログでしばしば紹介しているイギリスの科学ジャーナリスト、サイモン・シンは、「6次のケヴィン・ベーコン」と「ポール・エルデシュ数」をさらに発展させた、ある「数」を雑誌記事で紹介しています。つづく。
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The Art of the Soluble


きのう今日と、ある仕事で、政府系機関が開いたワークショップに参加してきました。その分野のかなり有名どころの科学者たちが、今後その分野をどのように進めていくかを話しあうものです。

目指すべき方向性について、意見の対立は細かいところではみられたものの、全体としての大きなベクトルは皆同じだったという印象。いわば、上へ上へとのびていく太い幹の方向性はいっしょで、そこから派生する枝葉が右に行くか左に行くかを話し合うといった感じです。

科学以外のこうした会合にあまり顔を出したことがないので、何ともいえませんが、科学者たちの話を聞いていると、ともに他分野の研究をしていながらも、どこか底通した共通認識があるように思えるときがあります。

一つの背景には、科学ではとりわけ、科学の世界での共通言語的なプラットフォームが他分野よりもしっかりしているということがあるのかもしれません。共通言語がどんなものかを説明するのはなかなかむずかしいのですが、たとえば、実験のルールが世界共通であったり、数学や数式を基本としていたり、論文が雑誌に載ることが研究成果を示す手段であるというコンセンサスがあったり、そういったものです。

もう一つは、問題解決のために、各分野が何をすべきかといった、研究者自身の役割を研究者たちが認識しているといった点も感じられます。「おとなりの領域はこれだけ進んだのだから、うちの領域は…」というように、大きなマップの中で自分の研究の位置づけをとらえているようです。

ノーベル賞受賞者のイギリス人医学者ピーター・メダワーは、科学を“The Art of the Soluble”、つまり「解決をすることのできる学問」であるといいました。この言葉は、科学の疑問を解き明かすといった意味にも当てはまるでしょうし、環境問題など社会的に起きている問題を解決するといった意味にも当てはまるでしょう。

このけっこうキッパリとした科学の性格を好きになるかどうかは、やっぱり性格とかも左右するのでしょう。「朝まで生テレビ」のように、あーでもないこーでもないととりとめなく話すことが好きな人もいますし、いっぽうで「で、結論は何なんですか」と答えを求めることが好きな人もいますし…。
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“幸せ”のレジームシフト
大学院のゼミ形式の授業の中で、「レジームシフト」という言葉が出ました。

グラフの曲線を想像してください。その曲線は「x軸の値が高くなるにつれて、y軸の値も高くなる」といった形をたどるとします。こんな具合。



よくあるグラフの曲線は上の図のように一本線ですが、レジームシフトのグラフは違います。x軸で示される度合がある値を超えると、y軸で示される度合が、ピョンと一気にワープしてしまうのです。こんな具合です。



たとえば、「プランクトンの濃度」と「海水の不透明度」の関係などはレジームシフトの曲線に当てはまるといいます。ある一定の体積内でのプランクトンの量が増えるにつれて、海水の水は濁っていきます。つまり、「プランクトンの濃度(x軸)」が増加すると「海水の不透明度(y軸)」も増加するといった関係。

ところが、プランクトンの濃度がある値を超えてしまうと、海水の不透明度は一気に高くなるのです。なぜならば赤潮が発生するから。こうして、y軸の値はピョンとワープしてしまいます。そして、いったんレジームシフト後の曲線に映ってしまうと、不透明度を最初の曲線に戻すことはきわめて不可能になってしまいます。

ゼミの教授は、「レジームシフトと同じことが、“便利さ”とか“幸せ”とかの度合にも当てはまるのでは」と言います。

たとえば、携帯電話を想像してみましょう。むかし携帯電話がなかった時代、私たちは外出している人とコミュニケーションをとろうとすれば、面倒なポケットベルを打つか、場内呼び出しなどを利用するしかありませんでした。

ところが、みんなが携帯電話を持つことによって、いつでもどこでもコミュニケーションが保てるようになったわけです。

「携帯電話ってスゲー便利! ハッピーハッピー!」

携帯電話を手に入れた直後の人はそう思い、幸せの度合いが一気に増えるかもしれません。しばらくの間は携帯電話を使うたびに、「スゲー!」「スゲー!」と、その人の中での“幸せ”の度合は上がっていきます。

ところがすぐに、その人にとって携帯電話をもつことは当たり前になります。するともはや、使うたびに「スゲー!」とは感じなくなってしまう。この期になると、その人の“幸せ”の度合は、また携帯電話を手に入れる前の度合に戻ってしまいます。

“幸せ”のレジームシフトがあるとしたら、「新しい機械がつぎつぎと増えていっても、人間の幸せの度合いは比例的には高くはなっていかない」となります。グラフに表すと、こんな具合。



この話、私はなんだか妙に納得してしまいました。みなさんはいかがですか?
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ロボットは犯罪をおかすか?


サイエンス・フィクションの世界では、“感情”をもつようになった未来の人工機械やロボットなどが、人間に対して危害を与えるといった話はよくあること。

いっぽう、現実の世界に目を向けると、人間並みの知性をもった機械が登場するのは、まだまだずっと先の話のことのよう。

ただし、専門家の間では、ロボットが人間に害を及ぼさないようにするにはどうしたらよいのか、といった議論がまったくされていないわけではありません。

人工知能研究の第一人者である、函館みらい大学学長の松原仁博士は、著書の中で「ロボットの中には、ある種の人間よりも自分の生存のほうが大事だと思うものが出てくる可能性もあります。この人間は悪いことをしているから殺してしまったほうがいいとそのロボットは思うかもしれません」と、けっこう衝撃的な書き方をしています。

「今後、ますますロボット技術が進歩して行くことはまちがいありませんから、そうした議論は今から始めておいても遅くはないでしょう」

ロボットの世界では、SF作家アイザック・アシモフ(トップ画像)が打ち立てた「ロボット工学3原則」が有名です。

1 ロボットは人間に危害を加えてはならない。
2 ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。ただし1に反する命令はこの限りではない。
3 ロボットは自らの存在を護らなくてはならない。ただし、それは1、2に違反しない場合に限る。

小説のために作ったものとはいえ、この原則は、ロボット工学の憲法のように議論されてきました。

この3原則も、いつか誰か(ロボットか)によって、破られてしまう日がやってくるのかどうか…。

以前から思っていることがあります。ロボットが人間に危害をあたえるようになるかどうかは、ロボットが「模倣」という技術を身につけるかどうかが重要なカギなのではないかということです。

人が何かの動きを学習するときは、やはり手本となる人の模倣から入るもの。人間とロボットを単純に比較することはできないのでしょうが、ロボットにも人の動きなどを真似する学習能力を身につけたら、どんどん人間の行動がロボットに身についていくのではないでしょうか。

いや、まったくの想像の世界ですけれど。

このあたり、いつかちゃんとした形で、工学の先生に取材してみたいものです。
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継続という装置


毎週水曜日にこのブログでお伝えしてきたオンライン・ジャーナリズム・ワークショップも今日(2006年12月6日)であと2回。今日は、なんと私がご指名を受け「ブログ編集方法論」と題して話をさせていただきました。

聞いてもらった教授陣、助手、学生の方々からは、このブログについてのさまざまなコメントをいただきました。

「議論を巻き起こすブログではないから、コメントは少ないよね」
「私はあなたのことを見ているから、あなたという人物が書いている姿を想像できる。けれども、あなたを見たことがない人は、あなたがどんな人物かはわからないだろう」
「今日はどんなネタを絞り出してくるかということ自体を楽しむ読者もいることだろう」
「23時59分ヘのこだわりは見上げたもの」

客観視して視ることはなかなか難しいこと。こうしたコメントはとても貴重なもの。

トップの画像は、おとといまでに取り上げたトピックの分野を集計してみたもの。どこまでが「科学」でどこまでが「技術」かとかいった基準は曖昧ですが、いちおう科学ネタが最多となっていたようでした。

「議論を巻き起こすネタが少ない」というご指摘は、ごもっともだと思います。科学に興味をもちはじめたきっかけが、科学書の編集職に就いたため新書を読んでいたところ、科学の面白さに気づいたというものでした。第一印象が「面白い」だったため、なかなか科学に関する事柄を批判的に見ることが難しいのかもしれません。

数えてみると、今日のこの記事で記事継続328日目となります。続けることは一つの性癖(強迫観念症)なので、少なくとも年内はまだデイリーベースが続くのではと踏んでいます。

今後も、どうかよろしくお付き合いください。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
分野Aと分野Bを掛け合わせる。


あるAという分野と、あるBという分野を掛け合わせたような書籍の企画は、いろいろな点でやりがいがあります。つまり、なかなか一筋縄では行かないということ。

一つは、本の置き場所の問題。書店の中にAの分野の棚とBの分野の棚の両方がある場合、店員はどちらの棚に置くでしょう。過去に書店営業をしたかぎりでは、「両方の棚に一定期間おいてみて、どちらが売れるかを比べてから、ずっとおく棚を決める」という親切なお店もある一方、「中途半端な企画」ということで受け入れてくれない書店もあります。

また、Aの分野とBの分野の両方に精通している著者を見つけるのもまた大変。「Aの分野の知識があり、Bの分野への関心がある」といった人物の場合でも、どうしても偏りが出てしまうもの。

巷では、掛け合わせ作品を「意欲作」とか「実験的作品」などという言葉で表現することもありますね。ヒットすれば「ヒット作」とか「ベストセラー」とかいう言葉を使うのだから、「意欲作」や「実験的作品」の行間を読めば、売れ行きということではパッとしなかったということがいえるのかもしれません。

けれども、Aという分野とBという分野を結びつけること自体、どちらの分野にとっても刺激をあたえる行為でしょうから、文化的にはやはり、分野の融合は行われる価値があるものなんでしょうね。

(2006年)12月15日(金)と16日(土)、セミール・ゼキというロンドン大学の神経生物学教授が来日し、ワークショップを開きます。テーマは15日が「脳は美をいかに感じるか」。16日が「脳はどのように色を知覚するか」。

以前、このブログの「短評、芸術と数理学の融合書(1)」という記事で紹介したとおり、セミール・ゼキ教授の翻訳書も出されています。脳科学と芸術を見事に絡めた本でした。これぞ融合書。

教養の衰退という文化的背景もあり、日本発の“融合企画”を出すのは難しいところ。けれども、融合企画そのものはつねに斬新なものなので、表現する場と表現する人の存在によっては、思わぬヒットに通じるかもしれません。

セミール・ゼキ教授のワークショップもある、「ロレアル賞連続ワークショップ2006『色』 科学と芸術の出会い」のお知らせはこちらです。
http://www.nihon-loreal.co.jp/_ja/_jp/news/full_article.aspx?NewsID=2363ccda-056d-412a-817b-ba3af520182f&r=1&sr=3
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ピクトグラムとユニバーサルデザイン


「ピクトグラム」をご存じでしょうか。ことば自体は知らなくても、トップ画像の絵を見れば、「ああ、こういうのね」となるかもしれません。「人間が行動をするにあたって、その案内を単純な絵で表したもの」ということができます。

このピクトグラムは、「ユニバーサルデザイン」という考えを具体化したもののひとつに含むことができます。ユニバーサルデザインとは、「できるだけ多くの人が利用可能であることをねらいとしたデザイン」のこと。

「ユニバーサルデザイン」は、よく「バリアフリー」と似たことばとして比べられます。「バリアフリー」が、なんらかのハンデをもった人のためを意識した設計であるのに対して、「ユニバーサルデザイン」は、ハンデをもった人ももたない人にも通用する設計です。

たとえば、空港で、日本語や英語などの文字がわからない人であっても、到着ロビーはあっちで、出発ロビーはこっちということが絵でわかる、というのがピクトグラムのねらい。この場合、日本語や英語がわかる人でも、日本や英語がわからない人でも、とにかく絵を見れば情報が得られる、ということから、ピクトグラムはバリアフリー設計ではなく、ユニバーサルデザインというわけです。

2004年から、日本の規格協会、中国の標準化協会、韓国の標準協会などが合同で、ユニバーサルデザインの統一化をはかっているそうです。その中では、ピクトグラムの統一化についても検討されているとのこと。見慣れたピクトグラムが変更されてしまうと、やはり最初は違和感を感じるのでしょう。けれども、ピクトグラムも各国共通デザインになるほど、真のユニバーサルデザインに近づくということができます。

絵をとことん単純化すると、逆に可愛らしさが出てくるから、ピクトグラムは不思議なもんです。
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書評『教育を経済学で考える』
おもしろいと思える本には、ふだん考えていなかったような考え方を、説得力をもたせつつ提示してくれる内容がともなっていると思います。本書も「こういう考え方もあるのか」と、膝を叩くような考えが、端々に見られました。

『教育を経済学で考える』小塩隆士著 日本評論社 2003年 236p


教育とは、だれもが評論家になることのできる分野であるとよく言われる。たしかに、子どもの親は、分野の対象者(つまり子ども)にもっとも近い立場にいる者となる。その親が、息子・娘をどう育てるべきか一家言もてば、立派な教育評論になるということだ。

けれども、本書のような「教育を経済学で考える」といった視点は、全員教育評論家の時代のなかでも新鮮な考え方を提供してくれる。では、教育を経済学で考えるとは、いったいどういうことだろうか。

「経済学とは、効率化を目指す学問、つまりムダを省くことを追究していく学問である」という説明のしかたがある。本書で試みているのは、この「経済学」に近いと思えた。つまり、とことん合理性を突き詰めて考えていくと、教育の究極の姿とは、どのようなものになるのか、といった試みである。

その著者の試みや考えに対しては、目からウロコが落ちる読者も多いだろう。いくつか例を紹介しよう。

「教育を投資と受けとめると、教育の収益率と利子率との大小関係に応じて、教育需要の大きさは無限大かゼロかという極端な形になる」

つまり、教育のすべてを自分(または子ども)の将来の投資のみであると考えると、教育で将来が保証されるのならばおカネを無限大円、注ぎ込めばよいといった極論になるというわけだ。そこで筆者は「教育を受けることそれ自体から満足が得られるとすれば、それは教育を(投資ではなく)消費として受けとめることができる」として、“消費”としての教育の側面を示す。

「豊かな家庭や社会階層に生まれた子どもは、教育という仕組みを通じて、自分たちの地位を維持・強化する。そうでない子どもたちは、教育という仕組みをできるだけ避ける人生を送り、よほどのことがない限り、親と同じ社会階層にとどまる」

上流層が教育に力を入れ、下流層が力を入れない結果、格差はやっぱり大きくなるということだ。このような状況を作り上げる教育を、筆者は「不平等を再生産し、格差を拡大する装置」ではないか、とさえ述べている。

理想や理念をおもに掲げる教育評論家にとっては、冷や水を掛けられる思いがするかもしれない。だが、著者の理論はしっかりしているので(理論一辺倒でないところがまたいいのだけれど)、反論するのもなかなか大変だろう。

読んでみようかしらんと思った方。この本は「おわりに」が全体のダイジェストのような内容になっているので、「だいたいどんな本かを知りたい」というかたは、最後からどうぞ。

『教育を経済学で考える』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4535553335/sr=1-2/qid=1165156896/ref=sr_1_2/503-7257412-2611120?ie=UTF8&s=books
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盛りの歳


偉業を残す人には、早咲きの人もいれば遅咲きの人もいます。でも、数学や科学の多くの場合、若い20歳台や、せめて30歳台のころに、その人の代表的研究が生まれるようです。

厳密にいえば、科学の分野によって、「盛りの年齢層」というのは若干異なるみたい。大学の科学方法論の教授から聞いたところでは、数学が18歳から24歳、物理学が21歳から26歳、生物学が32歳から40歳ぐらいのときに、業績数が最多になるという向きがあるそうな。

たしかに、数学では「群」の概念を導入したフランスのガロア(トップ画像)が大量の論文を提出したのが若干19歳のころ。その後、ガロアは20歳で、決闘に破れ死んでしまいます。また、数学のノーベル賞ともいわれる「フィールズ賞」では、受賞者の年齢は40歳以下までと制限されていますね。

物理学の歴史を見ても、かのニュートンが一生涯のほとんどの研究成果を出したのは、24歳ごろの1年半だったといいますし、アインシュタインが「特殊相対性理論」などの輝かしい成果をつぎつぎと打ち立てた“奇跡の年”は、彼が26歳のころでした。

数学や物理学に比べて、生物学で業績を上げる人が“遅咲き”であるというのも、なんとなくわかる気がします。知識の確実な蓄積がもととなって、研究を発表するといった向きが多いからです。50歳にして『種の起原』を発表したダーウィンの人生などは、その典型かもしれません。

もちろん、この傾向に当てはまらない人びとも多くいるのもまた確か。たとえば数学者ワイルズが「フェルマーの最終定理」を解いたのは、42歳のとき。フィールズ賞の年齢制限に引っかかったため、ワイルズには「特別賞」が贈られました。

ごく短い年齢期のなかで、一気に業績を開花させる科学者たち。いっぽう物書きはというと、どの年齢でもそこそこの数の業績が上がっているそうで、年齢と業績数の関係を示した曲線でいうと、フラットな山になるそうです。「私の歳がすでに盛りを過ぎていた」ということがないようなので、ホッとしたところ。
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