科学技術のアネクドート

“モチベーションコンサルタント”が語る、やる気の出し方。


仕事のやる気が起きないとき、あなたはどのようにしてやる気をふたたび高めていますか? 私は解決法がなかなか見いだせないので、ただじっと時が過ぎるのを待つぐらいです。

今日(2006年10月31日)、早稲田大学で「モチベーション自己改革」と題したトークイベントが開かれました。講師は企業経営者の小笹芳央氏。小笹氏は、珍しい「モチベーション」をテーマにした企業リンクアンドモチベーションを立ち上げています。

モチベーションについては、質疑応答で小笹氏がこんなことを言っていました。

まず、やる気が出ないときの状態には二つの種類があるとのこと。

一つは、実際に起こりもしていないことような遠い将来のことについて、やる気が上がらないといった状態です。

「30歳までには結婚をしないとまずいんだけれど、その気が起きない」
とか、
「50歳までに老後の貯蓄を○○円まで貯めたいんだけれど、働く気が起きなくて」
とか。

先のことを考える前に、「まず、結婚相手の候補を探しなさい」「働き口を見つけなさい」という話です。

一方、こちらのほうが、より起こりうる状態でしょうか。比較的、短い期間でのやる気の無さです。

「原稿の締切が2日後だというのに、いっこうに原稿を書くモチベーションがあがらない」
「1週間後に提出の宿題、やる気ぜんぜんなーし!!」

小笹氏は、「私にもよくあること」としつつ、「タイムスイッチ法」と「ズームスイッチ法」という二つの方法を述べます。

タイムスイッチ法というのは、時間のものさしを切りかえるということ。短い期間の中でやる気のなさに苛まれているのであれば、頭の中で期間の幅を自由にかえちゃいましょうということ。

たとえば、「いい原稿を書いて、それを突破口にして、ゆくゆくは印税生活を送ろう!」とか、「将来は教養高い人になろう」とかいうことです。

たしかにこの方法は、私にも思い当たるフシがあります。一種の気分転換ということだと思います。

タイムスイッチ法が時間のものさしの切りかえだとしたら、ズームスイッチ法は視野のものさしの切りかえ。小笹氏は、しばしば地球儀を眺めるそうです。

「65億人も住んでいる星のなかで、なんてちっぽけなことに対してやる気がないなんて思っているんだろう」

そのように考え、見る空間を大きくすることで、やる気を起こすのだそう。

私はこの方法は、何かにチャレンジしようとして、いま一歩、勇気が出ないないときなどに考えることでした。

科学的なアプローチではないけれど、有効な解決法を小笹氏はいろいろと持っているようです。就職活動を控えた学生たちが、真剣に聞き入っていました。

世界初(だそう)。モチベーションをコンサルタントする企業集団、リンクアンドモチベーショングループのサイトはこちら。
http://www.lmi.ne.jp/main2.php
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書評『ウェブ進化論』
「流行の言葉」ではたぶん済まされそうもない、“Web2.0”の本質に迫ることのできるベストセラーです。

『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』梅田望夫著 ちくま新書 2006年 256p


「web2.0って、けっきょくなんなのよ!」とやきもきしている方、この本に答が用意されている。著者はwebの本質を短い表現で「ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなく能動的な表現者と認めて積極的に巻き込んでいくための技術やサービス開発姿勢」と断言している。

最近のIT(情報技術)とくにインターネットの有様を表す言葉「web2.0」「グーグル」「ロングテール」「オープンソース」「Wisdom of Crowds」などが余すことなく出てくる。それも取って付けたようなものではなく、これらの言葉がじっくりと語られている。じっくりとした話が積み重なって、「ウェブのなにが進化しているのか」が本全体でわかるようになっている。

著者の話がものすごく独創的だという気はしない。そこで勝負をしなくても圧勝してしまう(ベストセラーになる)ほどに、いまウェブの進化には話の種が尽きないということなんだろう。

だからといって、この本は誰にでも書けるのかといったそんなことは決してない。時々刻々と進化するウェブの世界をこれだけ受けとめて、これだけ文として表現できる人はめったにいない。

著者は1994年から米国サンフランシスコの半導体・IT企業密集地帯、シリコンバレーに住み続けている。なので、「ITのメッカを出張取材してきました」といった話ではなく、「ITのメッカの雰囲気や勢いとは、こういうものなんです」といった話を伝えることに成功している。

とりわけ、著者が強調しているのが「こちらの世界」と「あちらの世界」だ。

「こちらの世界」とは、インターネットの利用者側のフィジカルな世界。たとえば、あなたが書いたデータファイルを保存しているパソコンのハードディスクや、あなたが使っているマウス、あなたが打ち込んでいるキーボードなどだ。

いっぽう「あちらの世界」とは、インターネット空間というバーチャルな世界。著者は巨大な情報発電所と表現している。

「あちらの世界」の代表的な受け皿がgoogleである。著者は「プロフェッショナルをプロフェッショナルであると認定する権威が既存メディアからグーグルをはじめとするテクノロジーに移行する」と宣言する。Googleの検索技術をはじめとするIT(情報技術)が、玉石混淆の情報の中から、「玉」を拾い出し「石」を放っておく時代にさしかかっていることが伝わってくる。

自分たちの物語や夢を「あちらの世界」に預ける行為を述べることが、ウェブ進化論なのかもしれない。

『ウェブ進化論』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480062858/ref=pd_rvi_gw_1/503-7257412-2611120
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ネットワーク外部性


Macのパソコンを使っていると、たまに不便な場面に出くわします。たとえば、インターネットで動画のコンテンツを見たいときに、windowsのパソコンならば見られる内容でもMacでは見られないという場合が往々にしてあります。

OS(基本ソフト)のシェアは、いまもwindowsが一人勝ち状態。MacのOSシェアは、わずか2パーセント台と見られています。動画の配信元も、2パーセントのMac使用者は無視して、シェアの高いwindows使用者だけを相手にしていても、大勢に影響はないのです。

このように、利用者の数などがその製品の効用に影響をあたえる性質を、「ネットワーク外部性」というそうです。「外部性」とは、AとBの市場取引の結果が、第三者であるCに影響を与えることを言います。

例えばCさんは、ソニーのベータという規格のビデオデッキを買いました。ところが、VHS規格のメーカー(A社など)のビデオデッキをBさんたち多くの人びとが買いました。すると、レンタルビデオ店は、VHS規格のほうがシェアが増えたものだから、ベータ規格のビデオをレンタルしなくなります。こうして、Cさんのベータ規格のビデオデッキは価値が下がることに。いわばシェア争いによるトバッチリを受けたのです。

このように、ハードやOSの普及度に応じて、ソフトの提供される量や質が決定され、そうしたソフトの存在が消費者にとってのハードの価値を左右するといった効果を「ネットワーク外部性の間接効果」といいます。

「間接効果」があるのだから「直接効果」もあります。直接効果は、利用者数の増加が、そのままその商品の効用を高める効果のことをいいます。

たとえば、ソフトバンクが先日、ソフトバンクの携帯電話どうしの通話は無料にするというサービスを打ち上げましたね。ソフトバンク携帯電話の加入者が増えれば増えるほど、直接的にソフトバンク携帯電話の効用が高まっていくのです。

普通は、市場に多くの同じ商品が出回れば、その商品の価値は下がるもの。ところが、ネットワーク外部性が働く商品については、逆に市場に商品が出回れば出回るほど、価値が上がっていくのです。

こうしたネットワーク外部性を利用したビジネスモデルは、まだまだ眠っているのかもしれません。

この記事は、早稲田大学大学院科学技術ジャーナリスト養成プログラム「情報技術と情報産業」(西村吉雄教授)の講義を参考にしています。
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科学館の美的・ユーザビリティ効果


東京・江東区の日本科学未来館で、今日(2006年10月28日)から、企画展「65億人のサバイバル 先端科学と、生きていく。」が始まりました。

私は、前日の内覧会に参加。展示コーナーをぐるっと見てまわりました。

常日頃から、日本科学未来館の展示デザインについては、ちょっと注目しています。「展示品の横っちょに記念メタル販売機が置いてある」といった雰囲気とは真逆といったらいいでしょうか。北の丸の科学館技術館などのように、古くからある科学館の“趣き”とはちがった、小ぎれいな雰囲気となっています。

今回の企画展も、「展示モバイルキット」という、他館に持ち運び可能のコンテナが白のため、全体が白い基調になりながら、それぞれのコンテナに付随する展示パネルにもう一色を加えて、パステルな色彩を出すなど、こぎれいさが目立ちます。一方、照明の差し込み角度により、展示パネルの文字の一部が影に入ってしまっているところは改善の余地ありです。

企画展では、展示物を見せるためのデザイナーが参加しています。展示デザイン監修は、電子情報装置などのデザインを手掛けるクワクボリョウタ氏。空間デザイン監修は、デザイナー同士のコラボレーションなども企画しているco-labクリエイティブ。

さらに、アートディレクションという役割もあります。全体の見せ方の方向性やコンセプトを決める、統括的な役割です。今回の企画展では、ロゴ、パッケージ、装幀、webなどをデザインするパワーグラフィックスが担当しています。

商品開発の世界には、「美的・ユーザビリティ効果」という言葉があると聞きます。「美しいデザインは美しくないデザインよりも使いやすいと感じる」という心理的効果。展示企画にも、入場させる力としての美的・ユーザビリティ効果があります。

企画の趣旨や科学技術に興味がない方でも、「きれいなものを観にいく」という観点から眺めてみるのもいいかもしれません。

日本科学未来館の企画展「65億人のサバイバル 先端科学と、生きていく。」は、2007年2月5日まで。詳しい案内のある特設サイトはこちら。
http://www.miraikan.jst.go.jp/j/sp/survival/
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著作権の「53年問題」


早稲田大学で知的財産本部事務局主催の「知的財産セミナー」が行われました。

「知的財産」というと「特許」を思い浮かべてしまいがち。でも、忘れてはならない大切な知的財産に「著作権」があります。

著作権は、書いたり、描いたり、撮ったりした作品が他の人から無断で使われたりしないように守る権利。ある人が、ある作品を書いた(描いた、撮った)瞬間から、著作権は発生します。申請の必要はありません。ブログを書いたり、絵を描いたり、写真を撮ったりしたことがあれば、あなたも著作権の持ち主となるわけです。

セミナーでは、講師の朝日新聞文化部・赤田康和記者が「著作権問題のいま 保護期間の延長論を中心に」と題して講義しました。

著作権の「保護期間延長論」とは、著作権により作品が守られる期間をさらに伸ばそうという議論のことです。たとえば日本では、2003年12月31日まで、映画作品の著作権有効期間は、公表されてから50年となっていました。ところが、2004年1月1日に改正された著作権法で、有効期間が70年までに引き延ばされました。

そこで赤田記者は、映画DVDの「53年問題」を紹介しました。1953年とは、映画界で『ローマの休日』や『シェーン』などの名作が生まれた年。これらの作品にとって「発表後50年」に当たる年が2003年でした。ふつうに考えれば、著作権の有効期間が70年になる一歩手前の、旧来の有効期間である50年が経ったのだから、著作権は切れたわけです。

でも、それまで『ローマの休日』などのDVDを売っていた映画会社は、認めたくありません。著作権が切れるとなると、誰でもフリー(自由そしてタダ)に作品を売ってもいいことになるからです。実際、2004年からは、500円の廉価版『ローマの休日』が売られることに。

映画供給元の米国などからの外圧もあり、文化庁は、頭の体操になるような主張をして、廉価版DVDの販売を阻止しようとしました。こんな主張です。

「2003年12月31日の24時って、2004年1月1日の0時と同じでしょ。つまり、2003年と2004年は接着してるんです。つまり、(2003年で著作権が切れるはずの)1953年作品は、2004年1月1日も著作権があることになります。2004年1月1日から著作権は70年になるから、1953年作品の著作権も50年ではなく、70年なのです!!!」

「2003年=2004年」という理論。「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」みたいですね。2006年、東京地裁は『ローマの休日』や『シェーン』などの廉価版を売ってもよいと判決を下しました。

著作権をもっている人たちにとっては、権利をより長く保てれば、儲けもより多くなります。けれども、「著作権の延長は悪影響もある」と赤田記者は言います。

例えば、著作権を守り続けた結果、誰がその作品を作ったのかさえも分からなくなってしまい、「孤児」著作物が増えるといいます。また、「500円DVDはさらに20年お預け」などとなると、市民にとっては、アクセスの自由が相対的に制限されてしまうことになります。

赤田記者は、著作権によって利益を得る業者や著作者の主張を紹介しながらも、どちらかというと、誰もが著作物を利用することができる「パブリックドメイン」の立場にあるようでした。

「知的財産セミナー」は今日(2006年10月27日)が第1回。今後も入場無料で開かれる予定です。興味ある方は、早稲田大学サイト「講演会・行事」をチェックしてみてください。
http://www.waseda.jp/jp/event/index.html
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書評『専門知と公共性』
大学院の課外授業では、読書会も開かれています。今日の会で読んだ本がこちら。

『専門知と公共性 科学技術社会論の構築へ向けて』藤垣裕子著 東京大学出版会 2005年 240p


市民にとって、科学者の話すことは、多くの場面で「正しいこと」と思われてきた。社会問題が起きるまでのプロセスが比較的単純だった時代、政策決定の場で科学者が下した結論は、そのまま社会の進むべき方向性となることが多かった。

けれども、環境問題を考えればわかるとおり、問題を起こす要因がいろいろあり、科学者が予測がしづらい問題が増えている。世の中がさらに複雑になるにつれ、判断できないケースは今後も増えていくだろう。

また、市民にとっては、諮問委員会などの政策決定の場で科学者が示したデータとは、すでに理論が確立された「硬い」科学であるとも思われがちである。

けれども、政策決定の場でもちだされる科学は、いまなお追試験をしていたり、新データを解析中だったりといった状態の「現在進行形の」ものである場合が多い、と著者は述べる。

いま決めておかなければ、後々になって手遅れになるかもしれない問題は多くなっている。可及的すみやかに決断を求められるような科学的問題では、科学者が判断をしかねたり、「硬い」科学になるのを待っているだけでは済まされないのだ。

著者は、社会がどうあるべきかを決めるために、市民参加型の政策決定が大切であると述べている。いままでも、“科学者と市民の縁遠い関係”はあちこちで論じられいた。時代は「縁遠いままではよくない」論から「対話が必要」論へ、移ってきているということだろう。

ひとつの提案として著者は、科学者が即断できない問題には、「暫定的」な結論を出しておいて、その後、微調整を繰り返すといった方法を挙げている。

「現代では、次々と更新される最新の科学的知見だけに限らず、加えてこのような民主的経過観察による微調整の方法をもっと採用してもいいのではないだろうか」

最初に政策者が“目指す方向”を決めてしまっているいまの科学技術政策においては、著者のいうようなシステム作りは、けっこう難しいのかもしれない。けれども、それぞれのステークホルダー(利害関係者)の幅広い意見を取り入れるために、考える価値のある方法である。実行するときは、“暫定的”と言いつつ、いつの間にか“暫定”が“決定”になっていた、などという摺り替えが起きないようにしなければならない。

遺伝子組み換え食品や地球温暖化といった、この本にでてくる種々の問題は、とりもなおさず、市民、政策担当者、そして科学者が当事者となる。それぞれの立場がこの本を読んで共通の土台を築けば、そこから新たな対話は生まれてくるのだろう。

『専門知と公共性』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4130603027/ref=sr_11_1/503-7257412-2611120
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ITフラット化時代、プロ記者がカネを稼ぐためには。


今日(2006年10月25日)、早稲田大学大学院科学技術ジャーナリスト養成プログラムで、「オンライン・ジャーナリズム・ワークショップ」の第2回目が開催されました。

ゲストはジャーナリストの佐々木俊尚氏。毎日新聞での記者経験後、アスキーに入社。その後フリーランス活動を始め、『Google』(文春新書)などの著書を上梓。市民記者によるニュースサイトを目指す「オーマイニュース」の編集スタッフでもあります。IT系ニュースサイト“CNET Japan”では「ジャーナリストの視点」を連載中。

まず佐々木氏は、2004年の日本人イラク人質事件や2005年の衆議院選挙(郵政選挙)などから、大手新聞社の論調と、市民のブログ・掲示板レベルのコメントとに乖離が見られるようになったと指摘。

「『新聞は取材力はすごいようだけれど、その材料を加工する技術はひどいのでは』と思うようになってきた」

“一流紙”の新聞記者のレベルを超えた、優秀な専門家ブロガーや、“アルファブロガー”とよばれる、多くの読者に読まれる影響力のあるブロガーがつぎつぎと現れており、プロの書き手はいったい何をもってギャラを稼げる原稿を書けばいいのか、レベルが問われていると言います。市民が記者としてレベルの高い記事を書くような状況を、佐々木氏は「フラット化」と表現。

では、プロの書き手が、専門家ブロガーと一線を画した、お金を取れる原稿を書くにはどうしたらよいか。佐々木氏は、専門家は知識は詳しいものの、自分の研究を社会的な文脈の中で語ってはいないと言います。「その研究が社会的にどう位置づけられ、歴史的にどんな意味があるのかといった部分を解説・評価することで、自分はやっていくつもりでいる」

また、佐々木氏は「35歳ぐらいを境目に、“もう一つのデジタルデバイド”が起きている」と言います。デジタルデバイドとは、IT(情報機器)を使いこなせるかどうかにより生じる格差のことと一般的には指します。いっぽうもう一つのデジタルデバイドとは、例えばコメントへの対処のしかたなど、つまり、フラット化された社会での流儀を受け入れる人とそうでない人がいるという状況のこと。

「購読者の意見を適当にやり過ごしてきた新聞記者がブログを主催しても、コメントに“脊髄反射”して、すぐに腹を立てる。するとコメントが多くなりすぎ対処しきれない“炎上”の状況を起こしてしまう。激しい批判に対しても、ブログなどのネット・ジャーナリズムでは、ロジックの伴った適切な批判をしなければだめ」

ネット上の記事と紙媒体の記事で、書き分けはしているのかという参加者からの質問に対しては…。

「紙媒体よりもネット媒体の方が、反論をあらかじめ防ぐために神経を使いますね。その点、紙媒体のほうが、反論の場が少ないので、神経はあまり使いません(笑)」

IT業界を見続けてきた人として、また、プロの書き手として、終止ロジックのある話し方だったのが印象的でした。

IT系ニュースサイト“CNET Japan”の佐々木氏のブログ「ジャーナリストの視点」はこちら。
http://blog.japan.cnet.com/sasaki/
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催し物参加の効用
催し物の記事を書く日があります。

催し物に行くのには、それなりの理由があります。記事を書くために催し物に行くのです、といったら言い過ぎかもしれませんが、やはり人に伝えたくなるような話をいろいろと聞くことができます。

もう一つは、仕事に役立てるためでしょうか。催し物の後日、まったくその催し物とは関係のないところで、関係するテーマの取材をあたえられるといったことがあります。あるいは、自分のなかでむりやり関係づけているのかもしれませんが。

思いがけないものを発見する能力を「セレンディピティ」といいますが、催し物は、セレンディピティを意図的に起こすための機能であるともいえるかもしれません。

大学院に通っていることもあり、大学内で行われる催し物に参加することがもっぱらです。けれども少なくとも大都市圏であれば、何かしらの講演会が行われていない日はほぼありません。とくにこれから11月にかけては、文化の日を中心に、各地で催し物が目白押しです。

以前にも紹介したとおり、イベント情報のサイトはかなり充実しています。この秋、興味のある催し物に出かけてみては?

よく利用する、裳華房サイト「2006年 学会主催等 一般講演会・公開シンポジウムなど」はこちら。
http://www.shokabo.co.jp/keyword/openlecture.html

国立環境研究所の環境情報案内・交流サイト「EICネット」の[イベント情報]はこちら。
http://www.eic.or.jp/event/?gmenu=1" target="_blank
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もうひとつの産学連携


「産学連携」は、安倍政権の掲げるイノベーション政策とも相まって、最近でもホットな言葉のひとつになっているようです。

朝日新聞の記事データベースで検索すると「産学連携」という言葉が使われていた記事は、2003年179個、2004年204個、2005年224個と、年々増えている模様。2006年も今日(10月23日)までに134個の記事でこの言葉が使われています。

産業の「産」と、大学の「学」が連携するから「産学連携」。

最近では新語辞書にも載っていて、「産業界と大学の連携により,学術研究に基礎づけられた産業の活性化を図り,競争力の向上,新産業の創出・育成をめざすこと」と定義されています。私のなかでは「大学側がもっている知的財産を産業側が活用して、社会に役立てていく」といったイメージがあります。

雑誌の執筆で産学連携の記事を担当したり、大学院の授業で産学連携についての講義を受けるまで、産学連携は興味はあるけれど、やや自分の生活とは縁遠い話だと思っていました。産学連携で生まれた工業製品をよく使っているわけでもないし…。

ところがある日のこと。私の仕事の経験を振り返ってみると、「これって、産学連携では」と思えることがあったのです。

それは何かというと、「本づくり」。

出版社で編集をしていたころ、大学の先生に原稿を書いてもらうことが何度もありました。産業側である出版社が、大学側の教員がもっている知識を活用することで、書籍という製品をつくり、社会に流通させるわけです。「発明」や「特許」は登場しないものの、教員の知識やアイディアが使われるわけであって、また執筆で生まれる著作権もりっぱな知的財産権の一つです。

ここで、ひとつ疑問に思ったことがありました。いま日本の産学連携では、教員が個人的に産学連携活動を進めることはまれで、TLO(技術移転機構)や産学連携本部など大学の機構が大学側の窓口となって、産業側とやりとりするのが基本です。

ところが編集者時代、大学の機構が窓口になって本づくりを進めただとか、印税のいくらかを大学に支払ったといった経験は一度もありませんでした。

別の日、産学連携業務に携わっている大学の担当教授に話を聞いてみると、やはり、本づくりも産学連携の一種類といえるそうです。

印税については、出版社と著者との間のこれまでの慣習が続いているようです。本づくりや印税については、大学の機構を通す必要がないということが、知的財産に関する学内統一見解で定められているそうです。

ただ、これはあくまでその先生の所属する大学での話。今後、財政が切迫した大学では、ひょっとすると「出版社との間をもつから、そのかわり印税の3%は産学連携本部がいただきます」などと言う大学が出てくるのかもしれません。
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インテルのロゴがパソコンCMでしばしば流れるワケ


木村拓哉の富士通FM-V。上野樹里NEC Lavie。

パソコンのテレビCMを見るたびに、“ジャン♪ジャンジャンジャンジャーン”という電子音とともに「Intel」のロゴが映し出されるのは流れるのはご存じのとおりです。

このCM内のジングルとロゴは、各社のパソコンにインテル社のCPU(Central Processing Unit、中央処理装置というパソコンの頭脳)が入っているという合図。「インテル入ってる」というキャッチフレーズも聞いたことがあると思います。

では、各社のパソコンのCMで、なぜ揃ったようにこのジングルが流れるのでしょうか?

今年(2006年)の4月に、TBS日曜朝のテレビ番組「がっちりマンデー!!」で、そのカラクリに迫る放送がありました。同番組のサイトでは、ジングルを流すNECに取材したときの内容が掲載されています。
Q:ロゴはいれなくてはいけない決まりなのですか。
A:共同プロモーションというなかで、入れさせていただいています。
Q:なぜ断らないのですか。
A:それはインテルというブランドがあり、売りやすいからです。
行間を読むと、ロゴはインテル社とパソコンメーカーの契約で取り交わされていて、パソコンメーカーはCM内のロゴによって、それなりの利益をあげているということのようです。

もうすこし突っ込んだ話をしてみると、これらのCMでのジングルとロゴは、どうやらインテル社から各パソコンメーカーにおカネを払ってお願いをしているようです。

私はついてっきり、「パソコンにCPUを提供するのだから、その見返りにCMでロゴとジングルをオンエアするように」と、インテル社が各パソコンメーカーに要求しているものだとばかり思っていました。

実際は逆。インテルは、「エンドユーザー・マーケティング」という戦略をはかっています。

インテルのCPUは、パソコンの隠された部分で働いていています。つまり通常ならば、パソコンユーザである市民は、あまりインテル社のCPUの素晴らしさを実感することはないはずです。

けれども、これだけCMでロゴやジングル流れる状況。市民は、いやがおうでも「インテルの入ってるパソコンは、性能がいいのだろうな」と思うことに。

市民の、インテル社に対するこの信頼こそが、パソコンメーカーに「CPUはインテル社のものを搭載しなければ」という意識を生み出すことにつながっているのだそうです。

直接的な利害には関係しない市民に自社製品の魅力を伝えることで、直接的な利害に関係するメーカーに自社製品の魅力を訴えることを、「エンドユーザー・マーケティング」とも呼びます。

インテルの“ジャン♪ジャンジャンジャンジャーン”は、こうしたビジネス戦略のもと、今日もテレビCMのなかで流されています。

参考文献:TBS「がっちりマンデー!!」サイト
http://www.tbs.co.jp/gacchiri/oa20060423-mo2.html
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オンライン・ジャーナリズム・ワークショップ始まる。


通っている早稲田大学大学院科学技術ジャーナリストプログラムでは、正規の授業のほか、数々の「ワークショップ(勉強会)」が開かれています。(2006年10月)18日には、連続7回の「オンライン・ジャーナリズム・ワークショップ」が始まりました。

第1回目は、発起人の早稲田大学大学院・小林宏一教授がアジェンダセッティングとして、ワークショップ全体に通じる問題を提起。大学院生、助手、教授を含め10名がテーブルを囲み、ディスカッションをしました。

「20世紀型の編集機構では、情報の出発点はマスメディアで、ゴールは市民などの受け手という、比較的単純な構造だった」と小林教授は旧来のマスコミ構造を分析。受け手である市民の意見をフィードバックする方法は、ごく限られていたわけです。

ところが、オンラインネットワークにより、情報の送り手と受け手の境目が見えづらくなったとよく言われます。小林教授はこれを「発信側編集と受信側編集の融合」と言います。

一例がブログの「コメント」でしょう。発信者の情報を受けると、受け手は自由に意見を言うことができます。むしろ、そのようなしくみが特徴の前提となっているといえるかもしれません。

こうした中、20世紀型編集機構の中心的役割を担ってきた編集は、「編集を編集する」といった「メタ編集」的な役割を担っていくと小林教授は分析・予想します。つまり、編集されてウェブに上がったニュースを、さらに編集して提供するということ。図書館のレファレンスにある「辞典の辞典」と似ていますね。

科学技術という視点で見てみると、とくに顕著なのが、主流メディアから発信される記事に対するブログから発信される記事の数の割合が比較的高いということ(米国トピックス・ドット・ネットによる)。小林教授は、科学技術の分野には、「個としての編集をし得る者たち」が多いのではないかと仮説を立てました。また、「日本社会に照らし合わせたとき、科学技術のネットジャーナリズムはどのようなスタイルをとっていくだろうか」と問題提起しました。

最近のインターネット界周辺では、しきりに「Web2.0」という言葉が聞かれます。IT用語関連のサイトによると、「ユーザーの手で自由に分類する思想(はてなブックマークなど)」「ページ上での直感的操作(google mapなど)」「ユーザー体験の蓄積をサービスに転化(Amazonレビューなど)」「ロングテイル(google adsenseなど)」「ユーザ参加型(ブログなど)」「進歩的性善説(wikipediaなど)」「進歩的分散志向(winnyなど)」といった特徴を含んだ新しいウェブのスタイルを指すということです。

全7回のワークショップでは、佐々木俊尚さん(フリージャーナリスト、ブログ「ジャーナリストの視点」)、毎日新聞記者の元村有希子さん(理系白書ブログ)、歌田明弘さん(フリージャーナリスト、ブログ「歌田明弘の『地球村の事件簿』」)、松浦晋也さん(フリージャーナリスト、ブログ「松浦晋也のL/D」)などを招いて開かれる予定です。

私は正直、web2.0と、それまでのウェブとの違いというものを実感として感じられないでいます。今後のワークショップでどこまで実感が伴うか、迫っていこうと思います。
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大田区ものづくりの復活戦略


観光ガイドブックならまだしも、普通の書籍として、昨2005年5月に「大田区」がテーマの本が出版されたのをご存じでしょうか。その名も『メイド・イン・大田区』(奥山睦著、サイビズ)。大田区の中小企業などの製造業などを紹介する、一風変わった本です。そう、大田区は世界に名だたるものづくりの町なのです。

今日、大田区産業振興協会の山田伸顯専務理事が早稲田大学で、「大田ブランドのグローバル発信」と題して講演をしました。山田氏は、大田区役所勤務から一転、「退路を断って」現職についた、大田区の産業界のスポークスマン的存在です。

1983年の最盛時には、工場数9000軒、出荷高1兆5000億円を擁していた大田区の産業も、昨2005年は同4700軒、8000億円弱にまで減ってしまったそうです。

こうした減退の対策に、大田区は“ONLY OTA QUALITY(OOQ)”というブランドを2006年2月に立ち上げました。産業界の「地域ブランド」としては、東大阪市なども有名ですが、山田氏は「出来上がった製品をブランドとするのではなく、加工業が中心の大田区の、技術力向上を推進するのが目標」と、違いを強調しました。

金属板加工技術であるヘラシボリを専業とする北嶋絞製作所など、現在82社が同ブランドの登録を受けています。登録には5社の推薦が必要。

また山田氏は演題のとおり、大田区の中小企業が国外へ進出しはじめていることを紹介しました。

たとえば、画面が縦にも横にもなる携帯電話のコネクタなどを作る明王化成は、中国の5社に技術がもれぬよう分割発注。各デバイスを国内に戻して、部品をつくるといったシステムを構築しているそうです。「中国に支社をもつことで、ノキアやモトローラなど、国外の携帯電話企業との接点をもてるメリットがある」(山田氏)

また、タイの首都バンコク近郊には、(2006年)6月に、「オオタ・テクノパーク」という工業団地を、現地企業の出資でつくり、大田区の中小企業を誘致しました。クーデターはあったものの、山田氏は「タイは安定した国で、従業員の定着率もよい」と、大田区がタイに進出した理由を披露します。

地域ブランドや海外進出などにより、凋落気味の大田区の産業は変わっていくでしょうか。中小企業の町のモデルケースとして、注目が集まります。

大田区産業振興協会のサイトはこちら。
http://www.pio.or.jp/
『メイド・イン・大田区』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4916089448/ref=sr_11_1/503-7257412-2611120?ie=UTF8
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書評『グーグル Google』
毎日のように使っていながら分からなかったGoogleの「なぜ?」が、よくわかる新書です。ナマモノですのでお早めにどうぞ。

『グーグル Google 既存のビジネスを破壊する』佐々木俊尚著 文春新書 2006年 256p


私たちの生活、気づかないうちにGoogle無しでは送りづらい状況になってきている。もし明日、Googleが使えなくなったとしたらどうだろう。

もちろんYahoo!だとかgooだとかがあれば欲しい情報はそれなりに揃うと思う。けれども、ニュースソース(Google News)、スケジュール管理(Google Calendar)、衛星画像(Google Earth)、これらGoogleの検索機能以外のサービスがあまりにも充実しているため、やっぱりgoogle無しの生活は、控えめに言ってもつまらないものになるだろう。

なぜ、Googleは、こうもつぎつぎと私たちにサービスを提供するのか。しかも驚くことに無料で。そのカラクリがとてもよく分かるのが本書である。

元新聞記者であり、IT(情報技術)関連の取材を続ける佐々木氏は、サービスコンテンツの充実に見られるGoogleの猛烈な勢いを受けとめて、噛み砕いて、「Googleはなぜタダなのか」「Googleはなにを目指しているのか」「Googleのどこがすごいのか」といったことを読者に教えてくれる。並みの著者であれば、吹き飛ばされていただろう。

さらに、途中に出てくる二つの取材ルポが、この本に説得力を増している。

一つは、羽田空港の近くの民間駐車場経営者が、「Googleアドワーズ(キーワード広告)」を使って、ごく限られた客層に宣伝を狙い撃ちすることができ、経営が劇的に改善されたという「プロジェクトX」の駐車場版。

もう一つは、福井市のメッキ工場が、ごく限られた、しかも全国に散らばる顧客にみごとに会社の存在を知らしめて、経営を改善させたという話。インターネット上では、広範に散らばる“ごく少数”を相手に商売することが可能であるという、いわゆる「ロングテール」の理論の典型例である。

それにしても速い、Googleのサービス展開。本書に“Google Earth”の話が出ていないことがそれを物語っている。本の賞味期限自体も、別のことを扱った本に比べたら相当早いものだろう。つまり、ナマモノの要素が多分にある新書だ。Googleを使っている人(つまり、インターネット利用者のほぼすべて)は、興味をもって読むことができるだろうから、いますぐに本を手に入れて読みはじめたほうがよい。

『グーグル Google』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4166605011/sr=1-2/qid=1161272768/ref=sr_1_2/503-7257412-2611120?ie=UTF8&s=books
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グリッド・システム


デザインの手法の一つに、「グリッドシステム」というものがあります。

例えば、パンフレットを作るとき、A4サイズの紙の上に、トップが像のような格子(グリッド)を下地として配置します。いわば、「田んぼ」と「あぜ道」のようなものですね。

このグリッドの下地に沿って、文字情報や画像や境界線などを配置していくと、秩序だったレイアウトになるというのがグリッドシステム。スイスのヨゼフ・ミューラー=ブロックマンが考案したデザインの手法です。1981年の著書“Grid Systems in Graphic Design(デザインにおけるグリッドシステム)”では、本の中のすべてのレイアウトの事例をグリッドシステムで例示したことでも知られています。

グリッドシステムは、デザインと数学(というか算数?)のまさに融合の場。

例えばA5サイズ(縦210mm×横146mm)のフライヤーを作るとき、天地に引くグリッド線を考えてみると、「あぜ道」の幅を3mmととった場合、

2y+{(x−3)−3}=210

という式が成立します。

“2y”とは、天と地の余白の幅の合計こと。xとは、「たんぼ」一つ分の天地幅のことを指します。

このyとxの組み合わせをを考えて、フライヤーのグリッドの個数を計算して考えていくといったプロセスです。

編集者時代、担当した新刊書が校了を迎えるたびに、次の作業は新刊案内のチラシ作りでした。レイアウトの際、こうした四則演算をするたびに、「デザインに数学(算数)は活かされているんだなあ」と実感したものです。

ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンの“Grid Systems in Graphic Design”はこちら(洋書です)。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/3721201450/sr=1-1/qid=1161186993/ref=sr_1_1/503-7257412-2611120?ie=UTF8&s=english-books
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短評、芸術と数理学の融合書(1)
芸術の秋。ということで今日は3冊、「芸術と科学・数学の融合」を味わうことのできる書籍の短評を。

『任意の点P』慶応義塾大学佐藤雅彦研究室+中村至男著 美術出版社 2003年


ページにはふたつの絵。それを表紙の折り返しに付いているレンズをとおして見てみる。するとどうしたことか! ふたつの絵がひとつになって浮かび上がってくる。キリンが檻のなかにたたずんでいる様子だとか、森林のなかに雷が落ちて一本の木が砕け散る瞬間だとか、カタツムリが家の壁を這った軌跡だとかが、つぎつぎと3次元的にそこに現れる。

紙の上では絵はふたつ。レンズを通過しても絵はふたつ。目に入ってもまだ絵はふたつ。最後の最後、脳の中でやっとふたつの絵がひとつにまとまる。デジタル技術の3Dやホログラムとのちがいはここだ。脳が、作業の最終段階のデバイスとして、いまこの瞬間に使われているんだということを実感することができる。

『美の構成学 バウハウスからフラクタルまで』三井秀樹著 中公新書 1996年 186p


前半は、その構成学発祥の地バウハウスと、ナチスによって閉鎖されたあとアメリカに移ったニューバウハウスの時代までを概観する。モホリ・ナギが写真、光、タイポグラフィなどの広い分野で与えた影響について、またバウハウスの特徴である機能主義的デザインについてなどをざっと知ることができる。

後半は、バウハウスから離れて、造形や色彩など構成学の内容を解説している。造形の数学的分析(黄金比や対称など)や色彩的の技術を紹介することで、著者はデザインセンスは「つくられるもの」であると主張する。

本書には、「美しさ」というものは数理的に分析できるものであり、センスをあげる上ではおおいに役立つものであるという明快な主張がある。

『脳は美をいかに感じるか』セミール・ゼキ著 河内十郎訳 日本経済新聞社 2002年 444p


美術と脳はじつは同じようなものだという論を証明する。つまり、脳は「印象」を情報としてストックし、本質(プロトタイプ)をつくりあげていく。同じように、画家は脳の中のある風景の「印象」を、カンバスに反映させていくものだということだ。

人間は斜めの線よりも、水平や垂直の線のほうがよく見えるらしい。となると、モンドリアンがなぜ斜線ではなく垂直線や水平線のみで描いていったのかも、故なしとはならないだろう。

脳科学と美術というふたつの分野にまたがっているけれど偏りはなし。著者は脳科学のほうを専門としているが、そうとう美術への造詣も深い(謙遜はしている)。こんな著者だったから、こうした本も書けるということか。

『任意の点P』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/456850256X/ref=sr_11_1/503-7257412-2611120?ie=UTF8
『美の構成学』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4121012968/sr=1-1/qid=1161110164/ref=sr_1_1/503-7257412-2611120?ie=UTF8&s=books
『脳は美をいかに感じるか』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4532149606/ref=pd_rvi_gw_1/503-7257412-2611120?ie=UTF8
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現実とネットのアナロジー


昨日の書評では、現実社会とネット社会との違いについて書きました。

けれども、現実社会とネット社会には、似た部分やアナロジー(類比推理)があることもたしかなこと。

例えば、現実の社会でのこと。会社の同じ課のボスAさんと部下Bくんは、日頃あまり馬が合うほうではなく、意見の対立が目立ちます。

先日の課の会議でも、他の課のメンバーがいる中で、「Aくんのそのプランでは、利益につながらない」「いや、課長、そんなことありません。市場調査の資料をご覧になったのですか?」とやり合います。同席者は今日も「やれやれ…」。

会議の席でのこういった意見の対立には、「みんなが見ている手前、負ける姿を見せたくない」あるいは「同席者を味方に付けたい」という心理が働いているような気がするんです。もし、A課長とBくんが“サシ”で、つまり二人きりで話をしたときに、それほどエキサイトしたでしょうか。経験上、会議の席よりさらにやり合うことは少ない気がします。極端な話、世界に二人だけが取り残されたとき、取っ組み合いや罵り合いをするだろうか(いや、するまい)ということです。

さて、同じ構図が、インターネットでもあるような気がしています。

「メーリングリスト」では、特定のグループに属する人たちに向って、電子メールを同時に送信します。メーリングリストでの意見の対立は、さっきの会議の席上でのA課長とBくんのやり合いととても似ている気がします。

「みんなにメールが伝わる手前、相手に反論された自分の意見は、反論しかえさないと負けてしまう」あるいは「みんなから賛同のフォローを得て、自分の意見が上回るようにしたい」という心理が働き、メーリングリストでの意見対立はエスカレートしていくのでは。

もし、現実社会の場合と同じように、意見の対立する二人が、メーリングリストではなく、“サシ”のメールで、意見を交わし合ったら、メーリングリストなみににエスカレートするでしょうか。少なくとも、対立した意見のやりとりが延々と続いて、収束がつかなくなる状況は、回避できるのではないかと思うのです。

「あいつと意見が対立しそうだ。けれども、エスカレートはさせたくない」と思ったとき、会議室で“サシ”で話すの同じように、個人宛のメールでやりとりをしてみるというのは、一つの手なのかもしれません。

人が見ている。人に見られている。こうした状況では、自分を守ろうとする心理ってけっこう働く気がしません?
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書評『インターネットの法と慣習』
インターネット利用者、とくに、掲示板サイト、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)、メーリングリスト、ブログなどを積極的に利用している人にとっては、読んでおくとじわじわと効いてくる本だと思います。

『インターネットの法と慣習 かなり奇妙な法学入門』白田秀彰著 ソフトバンク新書 2006年 212p


現実世界の法や慣習と、インターネット世界の法や慣習の間には、かなりの乖離があることを再認識することができる。著者は、これまでのリアル社会と最近(といってもここ10年)のネット社会には違いがあることを、法律や慣習の面、さらにその背景にある社会システムなどを対比させて説明していく。

たとえば現代の法律では、自分が犯罪の被害を被っても、自力でその救済をすることは許されていないことになっている。代わりに国家つまり警察が犯罪の検挙に当たる。

ところが、インターネットの世界ではいくぶん事情が異なるようだ。たとえば米国で成立した「P2P海賊行為防止法案」という法では、レコード会社が音楽の著作物を“不法ばらまき”されないように、会社みずからでインターネット技術を駆使して、ばらまきを止めることが許されているという。つまり、自分で自信の権利を守る「自力救済」が法的に認められているのだ。

また、慣習の点では所有権の秩序に現実とネットの差が見られる。いままで私たちが固持してきた土地や知的財産の権利も、インターネット上では場合によっては通用しない。

その「場合」とは、「市場機構を用いて知的財産を貨幣に変換し、そしてその貨幣をやはり市場機構を用いて他の財と交換しながら生活する必要がない」状態のこと。

つまり、お金もうけのためではないネット上の知的財産は、みんなにどんどんと使われていく。Linuxだとかwikipediaだとか実名は出てこないけれど、市民がボランタリーに知識を集積していくこうしたネットの秩序は容易に想像することができる。

とりわけ考えさせられたのが、「名」の問題。著者は、「ネットワークにおいて法を発生させ、発展させるためには、主要な(全体における多数である必要はない)参加者が『名』を所有する必要がある」と断言する。

現実世界では、自分の名前がないとほとんど何もできないけれど、ネットの世界ではちがう。掲示板サイトに匿名や使い捨て可能なハンドルネームで書き込みすることができる。「名」を背負っていなければ、発言に責任を伴うこともない。「名」を背負うよりははるかに楽だろうが、発言の誠実さははるかに劣る。「固定ハンドルに蓄積された名誉、信用、評判が財産であるとすれば」、紛争解決の道は開けるという。

本書はオンライン雑誌『Hot Wired Japan』の連載を新書化したもの。リラックスした、まさにネット向きの文体。けれども、情報や知的財産権法を専門とした著者だけあって、書かれてあることは、法律の歴史的背景や哲学にまでさかのぼっており、しっかりとした知識を与えてくれる。

『インターネットの法と慣習』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4797334673/ref=sr_11_1/250-5421569-8289808?ie=UTF8
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「地学」の氷河期


早稲田大学で、公開講演会「日本における地球の科学リテラシーの向上にむけて」が開かれました。文部科学省の大学・大学院における教員養成推進プログラムの一貫です。

講演者の広島大学・磯崎哲夫助教授は、「科学的リテラシーを育成する科学教育のあり方」と題して、日・米・英・フィンランドの科学や地球科学(地学)教育の方法を比べました。

OECDが実施している国際的な学習到達度調査(PISA)などから、磯崎助教授は「日本をはじめとするアジア地域では、子どもたちの理科の学力は高いが、興味は低い」と、日本がいびつな状況にあることを分析。教養として、また、民主政治における意思決定の道具として、「科学的リテラシー(国民共通的な科学の教養)」が必要であるとしました。

磯崎助教授は、中学校理科教科書づくりあたり、日本に独特な四季の移り変わりを執筆しました。ところが、指導要領にそわない理由から、この記述は完全に削除されてしまったそうです。磯崎助教授は地球科学のリテラシーを育てるために、「なぜ、学ぶ必要があるのかを、日本という国ならではの視点から考えていくべきである」と訴えました。

高校地学の教科書採択数を見ると、1963年からの教育制度下では高校生全体の60%が地学を選択していました。ところが、73年からの制度下では40%に下がり、以降は10%をわずかに上回る程度と低迷。2005年にはついに10%を切っています。

また、大学入試センター試験で「地学」は「物理」と同時だったり、東京・千葉・神奈川などで地学教員の採用がここ10年以上“ゼロ”が続くなど、地学は冬の時代に直面しています。

私は、センター試験の理科は「地学」を選択しました。センター試験では比較的点が取りやすいという理由からでしたが、岩石の構成から、宇宙のしくみ、さらには気象まで、幅広く学ぶことができた覚えがあります。地学は、物理や化学、さらには生物に比べても、けっこう身近な分野を扱っている印象があります。

天文や気象など、大人になると、興味や関心が増える科目なのでしょうか。高校の教科書も、大人向けに発売すれば、けっこう売れるのでは?
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手塚治虫作品の“新発掘”


今年(2006年)5月の朝日新聞に、「幻の手塚作品、米で発掘 GHQ収集の雑誌に短編」というスクープ記事が出ました。早稲田大学の谷川建司助教授が、米国占領期のうち1949年までの日本国内出版物の大半が保管されている「プランゲ文庫」(米国メリーランド大学)から、手塚治虫の“未発掘”だった漫画作品を“新発掘”したというものです。

ファンやマニアの多い手塚治虫の作品にも、まだ、発見されていないものがあったというのは驚き。

谷川助教授は、私が通っている大学院のプログラムマネージャー。先日、“新発掘”の中身を詳しくまとめた論文「占領期の手塚治虫」を見せてもらいました。『占領期文化をひらく』(山本武利編、早稲田大学出版部)という単行本の一編になっています。

“新発掘”や、いままでの定説が覆らせる発見が計8件。東京で発行されていた雑誌での初掲載と思われる「にえた金魚」(『少年・少女漫画と読みもの』1948年新年号)や、デビュー当時からディズニーキャラクターへの傾倒が伺える「きつねのさいばん」(『かぜの子』1949年、“新発掘”は6・7月号)などの詳細が当の漫画ととに載っています。

漫画の内容自体は、子どもが風呂を金魚の水槽代わりにしていたところ、大人が知らずにお湯を沸かして入ってしまった(「にえた金魚」)といった、たわいないものが多し。

けれども、「やりきれません」という作品では、5000円の婦人服を着たマネキンの女が、男たちに下から覗かれるのにやりきれなくなり、隣に飾られていた500円のズロースを履いて、5500円で出直すといった、ユーモアかつ“ちょいエロ”の漫画も見られます。

また、「カキノユクエ」が“新発掘”された『漫画家』(創刊2号)では、関西の漫画家のたまり場的な喫茶店だったと思われる「茶館アトム(atom)」が広告を出稿しています。手塚の『鉄腕アトム』などの「ルーツが『茶館アトム(atom)』にあるのかもしれない、と仮定することは突飛に過ぎるであろうか」といった、好奇心くすぐられる新説も。

谷川助教授に別の日、これら“新発掘”の瞬間の心境を聞く機会がありました。「見つけたときは、“ビンゴ!”と思いましたね」。本稿では「手塚治虫に、“未発掘”と言えるような著作物が存在するのか、本調査を開始した時点では筆者もまた懐疑的な立場にあった」と、調査開始当初の胸の内も綴っています。

雑誌記事の検索に欠かせないのが、データベース。プランゲ文庫のうち雑誌記事は、上記書籍の編者である早稲田大学・山本武利教授や、谷川助教授など運営の20世紀メディア研究所・占領期雑誌記事情報データベース化プロジェクト委員会が作成した「占領期雑誌記事情報データベース」で、調べることができます(登録制)。

「今後、5年かけて、プランゲ文庫収蔵新聞記事のデータベースも作っていく予定」(谷川助教授)とのこと。今回の手塚治虫“新発掘”級の新たな発見が、つぎつぎと起きるかもしれません。

朝日新聞2006年5月10日「幻の手塚作品、米で発掘 GHQ収集の雑誌に短編」はこちら。
http://book.asahi.com/news/TKY200605090498.html

「占領期の手塚治虫」が収録されている『占領期文化をひらく』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4657068156/ref=sr_11_1/503-7257412-2611120?ie=UTF8

「占領期雑誌記事情報データベース」はこちら。
http://prangedb.kicx.jp/
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あたかも真実
新聞やテレビなどのマスコミの報道に対しては、そのすべてが真実であるような印象を受ける方も多くいるでしょう。

広島大学大学院教育学研究科の小池源吾教授が2003年に調査したところでは、「メディアが映し出すものを視聴者はあたかも真実であるかのように錯覚しがちだ」という項目に、「そうだ」と答えた人は、89.2%にものぼったといいます。

けれども、報道されたことが誤りでることは往々にして起きます。また、人が物事を伝えるときにはかならずそこにバイアス(先入観)が掛かるものであり、報道された内容は、報道した人の主観が含まれます。

一時は大々的に報道された事件でも、その後の経過を伝える報道は尻すぼみになりがち。報道された内容が、単なる誤報や科学的解明の進展など、何らかの理由で訂正や新情報の再掲が必要になった場合も、比較的目立たないところで扱われ、第一報を目にした市民の目には触れられない場合が多いでしょう。

報道も商業ベースであるため、市民の目を引くセンセーショナルな見出しで勝負しなければなりません。民放との視聴率争いを繰り広げるNHKも同じでしょう。事件の話題が下火になるにつれて、取り扱いも目立たないところに追いやられてしまいます。

こうした点からも、「メディアリテラシー」つまりメディアを使いこなす能力、を伸ばす教育が求められています。
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川崎市民の南海ホークスファン


小学生のころ、土曜日放課後の楽しみといえば、川崎球場にプロ野球を観にいくことでした。狭くて金網が視界を遮るライトスタンドは避け、レフトスタンドのビジターの外野席にいつも座っていました。

20年くらい前のパ・リーグの試合は、本当に客が少ないもの。試しに観客数を数えてみると、200人もいないことも。

ある土曜日は、ロッテオリオンズ対南海ホークス戦。いつものように閑散とした川崎球場で、たんたんと試合が進みます。友だちと観にきた私たちも、どうということもなく、レフト側で試合を観ていました。

試合の中盤、ホークスの3番、トニー・バナザードが、左投手(たぶん園川か誰か)から、場外ホームランを打ちました。

外野席のレフト側の観客は、私たちを含めほんの十数名。だれもホームランボールを追おうとしません。

そこで、仲間の一人が言いました。「なあ、ホームランボール、見つけにいこうゼ」

となると、試合そっちのけ。バナザードのホームランボール探しが始まりました。場外ホームランだったため、仲間たちは、外野席出口の階段を降りて行きます。

川崎球場のレフトスタンドの後ろには、市営の競輪場があります。子どもたちにとって、川崎球場は馴染みある場ですが、競輪場は未知なる大人の世界。

そんな競輪場の隅っこに、白いボールが転がっているのが見えました。

私たちは、近くにいた競輪場の常連と思わしきおっちゃんに目配せをし、ボールをねだりました。

すると、おっちゃんは「あいよ」と言って金網のフェンス越しに、バナザードのホームランボールを放ってくれました。

「ホームランボールを、一週間毎に交換しよう」仲間でそう約束をして以来、バナザードのホームランボールはちょっとした仲間の宝物になりました。

川崎に住んでいながら、川崎球場の狭いライトスタンドが嫌いでロッテ・オリオンズのファンになれなかった私にとって、バナザードのホームランボールは、南海ホークスファンになるきっかけでした。

『日経ビジネスオンライン』というサイトに、「超・ビジネス書レビュー」という書評サイトがあります。

「普通は『ビジネス書』とされない一冊を、オン・ビジネスの視点から読み解き、仕事に役立つ知恵や技術や考え方をご紹介する週刊連載です」(サイトの説明より)

ここに、『南海ホークスがあったころ』という本の書評を書かせてもらいました。

子供のころの、ホームランボールを宝物にする気持ちはどこへやら。けれども、いまもホークスのファンであることに変わりはありません。

『日経ビジネスオンライン』の「超ビジネス書レビュー」はこちらです。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20060330/100893/
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エアバス・ジャパン社長「A380予想以上に時間かかっている」


航空機メーカー、エアバス・ジャパンのグラン・S・フクシマ社長が、早稲田大学で開かれた「エアバスセミナー2006」で講演をしました。

ヨーロッパのエアバス本社は、今日(2006年10月10日)、クリスチャン・ストレイフ最高経営責任者(CEO)が、超大型旅客機「A380」の納入の遅れの責任をとる形で辞任したばかり。このようなタイミングでの講演に、主催者から「講師の方への質問は、原則一切受け付けません」「ご質問等ございましたら、(中略)事務所まで」という「お願い」が配られるなど、かなり張りつめたムードのものでした。写真撮影も禁止。

A380の納入の遅れについて、フクシマ社長は「2000時間以上の飛行実験をしている。客室内のワイヤリング(配線)の点で、顧客の希望する内装にするのに予想以上に時間がかかっている。初めての納入は、来2007年10月のシンガポールエアラインとなるだろう」と見通しを述べました。

本来の納期は今年2006年の夏でした。約1年2か月の納期の後れになります。

またフクシマ社長は、どのような製品でも使用開始期には問題が起きる可能性が高いため、慎重になるべきと説明。「無理をして、急いで飛行機を完成させるよりも、十分に完成した形で納品をしたい。エアバスにとっても(納期の遅れは)よいことではないが、時間をかけることで、かえって問題は最小限になるだろう」と、方針を述べました。

世界の航空機メーカーは目下、ボーイング社とエアバス社の2社のみ。世界でのシェアは両社は拮抗していますが、日本ではわずか4%。フクシマ社長は、日本とイスラエルにおいて、ボーイング社のシェアが飛び抜けて高いのは、「米国との安全保障が密接であることが関係しているのでは」と、仮説を展開。「日本でもエアバスのシェアが伸びれば、産業界も中長期的によいことがあるのでは」

フクシマ社長の話を聞くのは今回が初めてですが、やや、気が気でない様子。セミナーのキャッチコピー“Now on board!(さあ乗ろう)”とはやや裏腹な印象でした。

エアバス・ジャパンの2006年10月3日のプレスリリース「エアバス、A380の引き渡し遅延による対策案を発表」はこちら。
http://www.airbusjapan.com/dynamic/media/press_releases.asp#240
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『東洋経済』の大学特集号、10月10日(火)発売。


今日は完全なる宣伝です。

(2006年)10月10日(火)発売の『週刊東洋経済』に、記事を書かせてもらいました。

秋の特大号の第3弾は、「本当に『強い大学』最新決定版」という特集名です。「総力100ページ」と気合い入れまくり!

今回、私が担当させてもらったのは、「大学院改革の狙いは教育重視」と「産学連携の『死の谷』を克服せよ」という見出しの二記事でした。

大学院の記事では、文部科学省が3月に打ち上げた「大学教育振興施策要綱」という、今後5年間の大学院制度のあり方を示した要綱をもとに、大学院改革の要点を整理してあります。また、雑誌のおもな読者層である社会人を対象にした、専門職課程の大学院などを紹介しました。課題や問題点も。

産学連携の記事では、産業側と大学側との間にある「溝」について触れました。産学連携に対する意識や文化的背景の違い、研究が実用に結びつかない「死の谷問題」への対処法、さらに、産業側からの高い評価を受ける大学の理由などを取材し、まとめています。

また、各記事の別枠では、ノーベル賞受賞者の白川英樹さんならびに小柴昌俊さんから、それぞれ「大学院」と「基礎科学」についての意見をいただき、インタビュー記事にしてあります。

今回の取材では、ひと昔前からすっかり様変わりした大学を実感するものでした。大学の「顔」は、いまや学部ではなく大学院。また、産学連携はいまの大学運営には欠かせないキーワードとなっています。

取材に応じていただいた皆様、資料を提供していただいた皆様に、この場ですが、お礼申しあげます。

『週刊東洋経済』2006年10月14日特大号(2006年10月10日発売)の内容はこちら。
http://www.toyokeizai.co.jp/mag/toyo/2006/1014/index.html
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ノーベル賞受賞物理学者の疑問、解決される。


物理学者で、1965年に日本の朝永振一郎らとノーベル賞を受賞した故リチャード・ファインマンは、食卓でこんなことを疑問に思ったそうです。

「なぜ、スパゲティの乾麺が折れるとき、かけらは2つにならないのだろうか?」

トップ画像のように、テーブルの隅にスパゲティの乾麺の端を抑えて、もう片方の端をしならせていきます。するとファインマンの言うとおり、スパゲティの乾麺は折れても2つのかけらにはならず、ほとんどの場合3つ以上のかけらになります。

このファインマンの疑問を2005年に解いたのが、フランスのピエール・マリー・キューリー大学の物理学者バジル・オードリー博士とセバスチャン・ヌーキルシュ博士です。

ふたりは、投石機の棒の部分をスパゲティの乾麺にした、“カタパルト実験”を行い、そのメカニズムを解明しました。

スパゲティの乾麺が折れたとき、“折れ”の衝撃が麺を走ります。衝撃は、折れた部分から端の部分へと伝わっていきます。すると、その衝撃波が麺の曲がり具合をさらに高めるらしいのです。それにより、2番目の“折れ”が生じるとのこと。

実験からは、次のような公式も導き出されました。

「スパゲッティが二つの部分で折れるとき、最初の“折れ”の瞬間を「時間0」とし、次の“折れ”の瞬間を「時間1」とすると、折れの長さは「(時間1)−(時間0)」の時間差の平方根に比例して大きくなる」

このオードリー博士とセバスチャン博士の研究成果には、「乾燥スパゲティを曲げると、よく、2つ以上の部分に折れてしまうのはなぜか」を解明した理由で、先日10月5日に発表されたノーベル賞のパロディ版「イグ・ノーベル賞」2006年度物理学賞が贈られることとなりました。

「イグ・ノーベル賞」(Ig Nobel Prize)は、「つまらない」(ignoble)をもじったもの。ふたりの博士の研究は、イグ・ノーベル賞級とはいえ、ファインマンはじめ、様々な科学者たちが疑問に思っていた難題。いま生きていれば、ファインマンも膝を打っていたことでしょう。

wikipediaによる「イグノーベル賞」の説明はこちら。
http://ja.wikipedia.org/wiki/イグノーベル賞

CNNによる今年の受賞リストはこちら(日本語です)。
http://www.cnn.co.jp/science/CNN200610060022.html
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十六夜にジャワ舞踊


不忍池のほとりにある上野公園水上音楽堂で、「十六夜コンサート 其の五 小島夕季ジャワ舞踊の夕べ」が開かれました。

ジャワ舞踊とは、インドネシア・ジャワ島の宮廷で踊られていた伝統舞踊で、現在はインドネシアの結婚式などで踊られています。

小島夕季さんは、今年でジャワ舞踊を始めて20年となるエキスパートの踊り手。「スフェール・グノシェンヌ」というダンススタジオで講師もしています。

ダンススタジオの教え子、藤野真知子さんも「ガンビヨン・チャンプルサリ」という、中部ジャワ、ソロの町にあるマンクヌガラン王宮の舞踊で共演。長年小島さんを師事しているだけあって、二人の息のあった踊りはさすが。つい見とれてしまいました。

踊り手の背後には、中部ジャワの伝統的音楽「ガムラン」を演奏するグループ「ランバサリ」が控え、管楽器を中心とした南国のムード漂う音楽を奏でます。

ジャワ舞踊の動きの特徴は、滑らかな手の動きにあります。サンプールという脚とほぼ同じ長さのひらひらを腰につけ、それを時には手に持ったり、時にはフワッと浮かせたりします。また、下半身は中腰が基本姿勢で、かなり細かい脚の動きを見せます。

ジャワ舞踊は、屋外で行われることが多く、観ている人々が会話をしたり、食事をしたりしながら、リラックスして楽しむもの。台風のような嵐が去り、今日は十六夜。音楽堂を吹き抜ける風がとてもさわやかでした。

小島夕季さんがジャワ舞踊や料理、現地の人々の暮らしぶりなどを紹介するサイト「Warung Melati」はこちら。
http://www.h5.dion.ne.jp/~melati/

ジャワガムラン演奏グループ「ランバサリ」のサイトはこちら。
http://www.lambangsari.com/
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福岡伸一教授が話す「狂牛病の真相」


科学ジャーナリスト塾の2回目が、内幸町のプレスセンタービルで行われました。

今日は「聴講」の回で、講師は青山学院大学の福岡伸一教授です。福岡教授は、昨年の第1回科学ジャーナリスト賞を受賞しています。受賞理由は「分子生物学者として斬新な視点からBSE(牛海綿状脳症)を分析し、一般向け科学書にまとめたことに対して」。BSEとは、いわゆる狂牛病のこと。福岡教授は狂牛病の関連の書籍として、『プリオン説はほんとうか?』(講談社ブルーバックス、2005年11月)と、『もう牛を食べても安心か』(文春新書、2004年12月)を上梓しています。

今日の講演でも、この2冊のタイトルの疑問に沿った話がありました。

BSEの原因については現在、タンパク質の一種プリオンの構造が異常になったことによるという「異常プリオン説」が主流です。これは、米国の生化学者スタンリー・プルシナー博士が唱えた説で、博士はこの業績で1997年、ノーベル生理学・医学賞を単独受賞しています。

ふつう、感染症であることを証明するためには、「病巣から病原体が検出できる」「その病原体を単離・生成できる」「単離・生成した病原体を別の健康な生体に入れると病気になる」といった、いわゆる「コッホの3原則」が必要とされていました。ところがBSEは、2番目と3番目の原則を満たさない、まったく新しいタイプの病因であるとされたわけです。

ところが、このプリオン説を福岡教授は疑います。

例えば、長崎大学の片峰茂教授の実験では、サンプルのマウスから異常型プリオンと病原性の関係を調べたところ、唾液腺などの部位によってはきちんとした相関関係は見られないという結果が出ているそうです。

また、プルシナー博士が示すグラフも、よく見てみると横軸の時間経過が対数関数となっており(つまり1目盛り進むと10倍の時が経つ)、これをごく普通の時間経過のグラフに直すと、やはり異常型プリオンと病原性の関係は並行関係ではなくなるというのです。

こうしたことから福岡教授は、異常プリオンは病気の原因ではなく、あくまで病気の症状にすぎないと話しました。

では、BSEの原因は何なのでしょう? 福岡教授はBSEも、やはりウイルスを介する「感染症である」と言いますが、ではそのウイルスが何であるかは「まだ解明されていない」とのこと。

「牛を食べても安全かどうか」について、福岡教授の結論は「安全ではない」ということになるそうです。いま、日本人が狂牛病で死ぬリスクは1年間で10人未満であり、これは、交通事故で死ぬ人の数の100分の1程度のものです。けれども福岡教授は「狂牛病は予見・回避不能なものではない。たとえば、狂牛病で死ぬリスクが、隕石が落ちて人が死ぬリスクと同じだとしても、狂牛病は予見・回避ができる以上、より安全な状態を目指すべきだ」と意見を述べました。リスクの「質」を問うたものです。

狂牛病の原因が何であるかという話も興味深いですが、より市民生活に直接関係してくるのは、やはり「牛を食べても安全かどうか」のほうでしょう。福岡教授は、「月齢20か月以下の牛にいままで症状が見られないからといって、20か月以下の牛は安全と結論づけるのは論理のすりかえ」と言います。

塾生の質問に対して、理路整然と答えようとする福岡教授の口調が印象的でした。

福岡教授の著書『プリオン説はほんとうか?』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062575043/sr=1-2/qid=1160151955/ref=sr_1_2/503-7257412-2611120?ie=UTF8&s=books
同じく『もう牛を食べても安心か』はこちらです。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4166604163/ref=pd_bxgy_b_text_b/503-7257412-2611120?ie=UTF8
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(2)
ネーミングの前後(3)
ネーミングの前後(1)
ネーミングの前後(2)



プラスチックの分解物などが、動物の生殖機能などによからぬ影響を与えるという、いわゆる「環境ホルモン」の問題が1990年代後半、大きく報道されました。私が初めて出版社で編集した書籍(著者はいつもコメントをいただくecochem先生)のテーマでもあり、ちょっとした思いがあります。

「環境ホルモン」というこの言葉。ホルモンの一種であるような印象を与えますね。

けれども「環境ホルモン」は、ホルモンにあらず。なぜなら「ホルモン」とは「体の中で作られるもの」だから。「環境ホルモン」は、生物の体の外で作られた物質のため、「ホルモン」の定義からは外れます。

では「環境ホルモン」の正体とは? 正式名である「内分泌攪乱物質」を分析することがその手がかりになるでしょう。「ホルモンの分泌に混乱を与える物質」といった意味合いです。

この「環境ホルモン」というネーミングをめぐっては、著名な科学者からも、「科学の表現の正確さを欠くもので、市民に混乱を招いた」といった懸念の声が出ています。

私は常日頃、すべての言葉は「プラス」と「マイナス」と「プラスマイナスゼロ」のイメージを持っていると思っています。「晴れ」はプラス、「雨」はマイナス、「曇り」もややマイナス、「気象」はプラスマイナスゼロ、といった具合に。

これを、「環境ホルモン」と「内分泌攪乱物質」という二つの言葉に当てはめると、それぞれの言葉のもつプラス・マイナスイメージはかなり異なるものになります。

「環境ホルモン」は、「環境」も「ホルモン」も、プラスともマイナスとも言えません。よって「環境ホルモン」という言葉は、従来なら「プラスマイナスゼロ」のイメージといえます。

一方の「内分泌攪乱物質」はどうでしょう? 「内分泌」と「物質」は、それほどプラスイメージともマイナスイメージとも言えませんが、「攪乱」は明らかにマイナスイメージ。「内分泌攪乱物質」という言葉の全体のイメージは「マイナス」といえます。

つまり、生物にとってよからぬ影響を与える物質に、マイナスイメージを持たない「環境ホルモン」という言葉を使ってしまったことに、違和感を感じるのです。

でも一方で、このように誤解を招きやすい「環境ホルモン」という言葉であっても、「それはそれでよかったのでは」と考える人もいるでしょう。つまり、「言葉の正確性はさておいても、『環境ホルモン』というネーミングだったから、社会的な影響を強くもたらすことができた」という考えの持ち主です。

たしかに、言葉の訴求力だけを取れば、「環境ホルモン」というネーミングは「内分泌攪乱物質」よりもはるかに上回ります。「環境」と「ホルモン」という、聞いたことのある言葉の組み合わせなのですから。

ためしに、Googleで検索しても「環境ホルモン」は1,140,000件だったのに対して、「内分泌攪乱物質」+「内分泌かく乱物質」は183,700件にとどまりました。

そもそも「環境ホルモン」というネーミングは、1997年5月にNHKで放送された『サイエンスアイ』の中で、横浜国立大学の井口泰泉教授が名付けたもの。井口教授は後のインタビューでこのネーミングを振り返り、「この言葉の果たした役割は大きかった」と話しています。

正確性が重要か? インパクトが重要か? 「環境ホルモン」という言葉は、ネーミングのあり方を問うたものと言えるでしょう。とくに、科学に関する言葉のネーミングである点が、その複雑さを増しています。
(了)

参考サイト:日立ハイテク「第10回サイエンス広告」
http://www.hitachi-hitec.com/about/library/science/ad10.html
| - | 23:05 | comments(0) | trackbacks(5)
ネーミングの前後(2)
ネーミングの前後(1)



先日、雑誌の取材で、文部科学省の政策担当者に大学院改革についての話を聞くことがありました。いま、大学院への補助金として「21世紀COEプログラム」という名の競争的資金分配事業が行われています。このプログラムは、来年から「グローバルCOEプログラム」という名で継承される予定。

政策担当者に、「余談ですけれど、このようなプログラムのネーミングは誰がどのように決めているんですか?」と聞いてみました。すると、

「私が決めたり、上司が決めたり、また、プログラムの評価委員の方が決めたり、いろいろですね」とのこと。

でも中には、一旦「内定」したネーミングが覆されることもあるそう。例えば、「21世紀COEプログラム」は当初、すぐれた大学院のプログラムを意味する「国公私立トップ30構想」などと言われていましたが、「それでは、大学院の格差を助長する」などの意見が上がり、現行のネーミングに変わったそうです。

誰もが納得するネーミングとは難しいもの。

けれども言えるのは、常日頃から、「ああだ、こうだ」と考えていないと、そう納得されるネーミングは浮かんでこないということ。

ベストセラー『「超」発想法』などの著者でもある野口悠紀雄氏は、「アイディアが生み出されるまでの過程は、没頭期、潜伏期、啓示期に分けられる」と言います。つまり、まず、いろいろとアイディアを考えた(没頭期)うえで、それをしばらく寝かせている(潜伏期)と、ある日「これだ!」と思えるネーミングが浮かんでくる(啓示期)ということ。野口氏の話は、アイディア全般についての話ですが、ネーミングにも当てはめることができそうです。

このようにして、誰もが納得するネーミングができれば御の字。けれども、誰もが受け入れるようなネーミングとなったあまり、賛否両論を引き起こした事例もあります。(つづく)
| - | 23:43 | comments(0) | trackbacks(2)
ネーミングの前後(1)


出版社で編集をしていたころ、本のタイトルのネーミングは、楽しいものでもあり、大変なものでもありました。

売れる本は「タイトル」「デザイン」「コンテンツ」の三拍子が揃っていなければならないとは、よく言われます。

本屋で買われる本の8割が、「決め買い」ではなくて「出会い買い」という話もあります。客が本を買うためには、まずタイトルとデザインで、「おっ! なんだこの本は?」と立ち止まらせることをしなければなりません。タイトルとデザインは、いわば購買までの第一関門。その関門をくぐり抜け、客にぱらぱらと本の中をめくらせることになると、コンテンツの出番となります。ただ、コンテンツにも、見出しなどの目を引くタイトル要素はあるから、やはりネーミングは大切。

編集をしていた出版社では、タイトルの名付け親には、おもに著者、編集のボス、そして編集者の3種類がありました。だいたいはまず、自分でブレインストーミングをして外せないキーワードを挙げ、それを肉付けする周辺のワードを考えて組み合わせていきました。

ところが、当事者のだれもがみな、「この本は、これで決まり!」と納得するようなタイトルはほとんど出てきません。

例えば、以前編集した宇宙飛行士がテーマの本では、 その宇宙飛行士の奇抜な考え方から、『宇宙人』というタイトルが第一候補として上がり、編集部内やライター氏との間では「これで決まりですね」という段階まで進みました。

でも、デザイナー氏から「『宇宙人』では、デザインのイメージできない」といただき、結局ほかの案となりました。いま思えば、果たして『宇宙人』がよかったのかどうかは疑問です。マーケティング段階ならともかく、二つのタイトルを実際の市場に出して効果を比べることはできないため、どっちのタイトルのほうがより売れたか比べることは不可能です。

さて、ここまでは、本づくりに特化した話でしたが、同じようなネーミングプロセスは、別の場面でも行われているようです。
(つづく)
| - | 22:51 | comments(0) | trackbacks(1)
水俣病のリアリティを映画で。


御茶の水のアテネフランセで映画祭「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー山形in東京2006」が開催中です。

今日は、観たいと思っていた『医学としての水俣病』の上映回でした。

このドキュメンタリー映画は、1974〜75年に「三部作」として発表された「水俣病もの」の集大成的作品。第一部は「資料・証言篇」、第二部は「病理・病像篇」、第三部は「臨床・疫学篇」です。

特長は、ナレーションや状況説明を極力排し、そのかわり、水俣病の正体を研究する学者、水俣病の患者自身、そして患者を診察する医師にフィルムに出てもらい、語ってもらうという手法。

第一部の上映後には、監督の土本典昭さんがトークショウに臨みました。「さりげなく作ったように見せているが、フィルムを回すのは大変だった」と当時を振り返ります。患者に対しては「彼らの感情を無視しているのでは」という後ろめたさがあり、研究者に対しては、作品の影響力を懸念しフィルムの前に立とうとしないことへのいらだちがあった模様。

それでも、水俣病を映画作品にしようとしたのは、「この病気は犯罪がもたらしたものであり、チッソの工場排水の前で苦しんでいる人を目の当たりにして激怒したから」と土本監督は言います。「撮ること自体が権力との闘いだった」。

この作品で驚いたことが一つあります。それは、長時間の作品に登場した患者数十人の誰もが、涙を見せなかったこと。患者とその家族、だれもが淡々と病気の症状を語るのです。その表情は、悲しみや怒りとは明らかにちがいます。弱り果てて涙も出ないのか、それとも、病気を受け入れて悟ったのか、患者や家族はみな、とにかく穏やかな表情でした。

ありのままを伝えるような手法でありながらも、第三部では、水俣病の認定を巡る問題点が浮き彫りにされます。端的に言えば、軽症患者で、症状を詳しく言うことができる患者であるほど、水俣病の認定をされやすいということ。逆に、自分の病状を説明できないほどにひどい症状の患者は、水俣病であることの特定が難しく、認定が保留となってしまうのです。同じくトークショウに臨んだ撮影者の大津幸四郎さんは、「水俣病が起きる状況を環境から見ていく、疫学的なアプローチの第三部にいちばん力を入れた」と話します。

水俣病は、私が生まれるよりはるか前に問題となった公害です。けれども、その公害にかなり近づくことができた気がする映画作品でした。

「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー山形in東京2006」の公式サイトはこちら。
http://cinematrix.jp/xoops//modules/news/
土本典昭監督の公式サイト「映画同人『シネ・アソシエ』」はこちら。
http://www2.ocn.ne.jp/~tutimoto/
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
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