科学技術のアネクドート

書評『スクラップエコノミー』
当ブログで何度も紹介する石渡正佳さんの著書の一つです。石渡さんは千葉県の職員。不法投棄を取り締まる「産廃Gメン」としての視点から、産業廃棄物処理業界の裏側を告発した『産廃コネクション』(200 年、WAVE出版)で話題をさらいました。

『スクラップエコノミー なぜ、いつまでも経済規模に見合った豊かさを手に入れられないのだ!』石渡正佳著 日経BP社 2005年 248p


2005年、石渡正佳氏は異動を受けて、千葉県印旛地域センターの用地課長という職に就いたそうだ。土木関連の仕事だ。

そんなこともあってか、同じ2005年に上梓した、この『スクラップエコノミー』は、土木行政などの視点で日本経済の実態を暴くといった内容。

第1部(スクラップエコノミー)では、日本の社会の特徴は、壊しては作りを繰り返す「スクラップ&ビルド」にあると指摘する。

例えば、日本人は住宅を27年経つと壊して、また新しい住宅を建てる計算になる。一方、イギリス人は100年間、住宅を壊さずに住み続けるという。

こうしたスクラップ&ビルドの社会では、おカネをじゃんじゃん投資しているにもかかわらず、いっこうに社会資本は貧しいままにとどまるという。GDP(国内総生産、Gross Domestic Product)ではなく、建設的なGDPから破壊的なGDPなどを差し引いて計算したGNW(国民総福祉、General National Welfare)こそが、真の豊かさを表す指標であるとしている。

第2部(スクラップシティ)では、地方分権の必要性にぐっと迫る。

「財源と権限を握っているが、業務を自ら執行する能力がなく、現場からの情報もない」状態の「国」と、「財源を国に依存し、法律や通達やさまざまな基準によって手足を縛られており、情報を生かして自律的な計画を立てる自由がない」状態の「地方」。この二重構造が、税金のムダ遣いを生んでいる指摘。

では、二重構造を無くすにはどうしたらよいか? ずばり「国」を捨てて、「地方」を中心とした日本にしなければならないと、石渡氏は述べる。

「地方が自前の財源を持つことによって予算執行に責任を持ち、現場のニーズに即して迅速に事業計画を立て効率的に実施できるようになり、税金のムダ遣いをなくすことができるようになるなら、地方分権は国民にとって大きな利益になるはずだ」

精神的な部分を満たすという意味で、「真の豊かさ」という言葉がよく使われる。この本では、「真の豊かさ」を精神論に落とし込まず、具体的に数値などにして示している。さらに「真の豊かさ」が、環境に負荷をかけない「持続可能な社会」づくりにも結びついていく。

地方公務員のジャーナリストとは、特異な存在に思われるかもしれない。だが、「公務員が持っている情報」を「社会に還元していくことは社会を変革するひとつのパワーになるはずだ」と考え、地方公務員個人からの情報発信をしている。著者のような存在が、型破りな存在ではなく、情報発信の時代に見合う存在となれば、それは成熟社会に一歩近づくことを意味するのだろう。

『スクラップエコノミー』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/482224458X/249-9697270-2293966?v=glance&n=465392
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ソニーの熱帯魚で夕涼み


東京の数寄屋橋の銀座ソニービルの1階ソニースクエアで、「Sony Aquarium 2006」が開催されています。

1966年にソニービルが建ってから今年で37回目を迎えるという、歴史のある展示イベントです。約40種類1200匹の熱帯魚がライトアップされた水槽の中を泳ぎます。

赤道あたりの南の島のほうで獲れた熱帯魚かと思いきや、じつは、沖縄の海から輸送されてきたもの。那覇市から海を出て西に30キロのところにある慶良間諸島は、こうした熱帯魚の宝庫なのだそうです。

沖縄では、「チョウチョウオ」や「クマノミ」など、さまざまな熱帯魚が棲息しています。色鮮やかな熱帯魚たちですが、じつは食用にもなっていて、那覇市の公設市場などでは、食用鮮魚として熱帯魚が並んでいるそうです。

子供連れの家族が脚をとめて眺めていたり、若い女性の二人組が携帯電話のカメラで熱帯魚を撮っていたり。夕涼みや待ち合わせにもってこいのスポットとなっていました。

「Sony Aquarium 2006」は、数寄屋橋交差点の銀座ソニービル1階で、11時から23時まで。8月31日まで開催です(最終日は16時まで)。また、ソニービルでは、関連イベントとして、ソニーの環境活動を紹介する展示「私たちの海をきれに」も同時に行っています。

ソニービルのサイト内「Sony Aquarium 2006」のページはこちら。
http://www.sonybuilding.jp/campaign/aquarium2006/
関連イベント「私たちの海をきれいに」のページはこちら。
http://www.sonybuilding.jp/campaign/aquarium2006/02.html
| - | 19:21 | comments(0) | trackbacks(5)
舎人公園の不思議な境界線(4)
舎人公園の不思議な境界線(1)
舎人公園の不思議な境界線(2)
舎人公園の不思議な境界線(3)

尾久橋通り沿いに見つけた、住居表示付きの電柱広告。近づいてみると…。


2006年7月16日撮影

「ここは尾久橋通り 古千谷1-13」と表示されていました。でも地図を調べてみると、ここはたしかに舎人町の地域内のはず。古千谷1-13は、ここから50メートルぐらい南に下った一角にあります。

あまりにも、舎人町には住宅がなく存在感がないから、いっそのこと「古千谷1-13」としてしまったほうが便利ということだったのでしょうか…。

なぜ、この狭い一角に、舎人町と入谷町という二つの地域が、錯綜しているのか。舎人公園の不思議な境界線の謎は、なかなか解決の糸口が見つかりません。

そこで、たまたま尾久橋通りを犬を連れて散歩していたご婦人に、何か知らないか、話を聞いてみることに…。

「このあたり土地を調べている者ですが、なぜ、この一角だけ、舎人町と入谷町なんでしょうね?」

「ああ、このあたりはね、一面、舎人町と入谷町の飛び地がいくつも広がっていたのよ」

ご婦人の話によれば、かつては、この舎人公園の敷地内の一角だけでなく、もっと広い面積で、舎人町と入谷町が飛び地として広がっていたらしいのです。

「あたしが住んでいたところも入谷町だったんだけれど、舎人町と入り組んでいたから、郵便屋さんが道に迷ってたいへんだったの。その後、区画整理をして、町が新しくなって、郵便屋さんも迷わなくなったわけ」

ご婦人はさらに、かつてこのあたりは一面、沼と田圃が広がっていたということを教えてくれました。

こうして、舎人町と入谷町の境界線にまつわる、重要なヒントを得ることができました。つづく。
| - | 18:57 | comments(0) | trackbacks(0)
ブログの実名性と匿名性


内幸町の日本記者クラブで行われた、日本科学技術ジャーナリスト会議の月例会に出席。

ゲストは毎日新聞科学環境部の元村有希子記者。毎日新聞の看板企画「理系白書」における大黒柱的存在の記者です。第1回科学ジャーナリスト賞では大賞を受賞しました。

単行本にもなった科学環境欄「理系白書」もさることながら、元村さんが一人で記事を書き続けている「理系白書ブログ」も話題の的。「業務命令ではじめた」ところ、開始当初は1日20人ぐらいのアクセス数だったそうですが、いまや1日5000人。大人気ブログとなりました。こんなに人気になるとは社の誰もが予想していなかったようで、いまも理系白書ブログは、元村さんの個人ブログのようでありながら、毎日新聞の名物にもなっているという、不思議な位置づけのブログのようです。

毎日新聞は、記者の名前を記事に出す「署名記事」の掲載を国内の他紙に先駆けてはじめました。当然、理系白書ブログも、元村さんは本名で記事を書いています。

ただ、ブログにおける「実名性と匿名性」といった問題には考えるところがかなりあるよう。読者からのコメントはほぼすべて匿名のため、自由闊達なコメントがある反面、アンフェアと感じられるようなコメントもあり、「実名vs.匿名」の構図には限界も感じるとのこと。

欧米のブログに比べて、日本のブログは、コメントを寄せる読者もブログの運営者も、本名を明かさない率が高いというデータもあるそうです。

存在感ほぼ皆無ながら、私も雑誌やブログでは実名を出している存在。責任をもって書くとかいったことは、正直あまり深く考えたことはありません。自分の名前を売り込むだけの目的です。有名になったらなったで、いろいろと考えることは出てくるのでしょう。

元村さんの“フツーさ”がかえって印象的でした。大学でも文系より(臨床心理学)の出身とのこと。そのフツーさが、社会一般に対する人気の理由なのかも、と思いました。

元村さんが日々更新。毎日新聞「理系白書ブログ」はこちら。
http://rikei.spaces.msn.com/
| - | 23:49 | comments(0) | trackbacks(1)
今後注目の「プロテオーム」


「ゲノム」という言葉を理解している人は15%にとどまるというニュースを、3月にブログで紹介しました。ゲノムとは、ある生物がもつ遺伝情報の全体を表す言葉です。

で、最近、「ゲノム」と並んで「プロテオーム」という言葉が、生命科学でよく使われるようになってきているそうです。

“gene”(遺伝子)から“genome”(ゲノム)という言葉が派生しているのと同じように、“protein”(タンパク質)から派生した言葉が“proteome”。「全遺伝子に対応する全タンパク質」といった意味です。

そもそも、遺伝子とタンパク質の関係というのはどういったものなのでしょうか。

遺伝子を含むDNAは、その生物固有の情報(設計図)を暗号のような形でもっています。その暗号がDNAからRNA(リボ核酸)という遺伝情報を伝えたり実行したりする働きをもつ物質に転写されます。その転写された情報が、リボソームという翻訳広場でアミノ酸の配列に翻訳され、タンパク質が合成されるのです。

つまり、生物固有の情報は、

「DNA(遺伝子)→RNA→アミノ酸→タンパク質」

というプロセスを経て、機能をもった生体へとなります。この一連の情報の流れは「セントラル・ドグマ」と呼ばれます。

つまり、「ゲノム」はセントラル・ドグマの源流にある情報の総体だったのに対して、プロテオームはセントラル・ドグマの下流にある情報の総体ということができるでしょう。

では、全タンパク質であるプロテオームが解明されることにより、どんなよいことが起きるのでしょうか。

ひとつは、純粋に基礎科学の対象として、タンパク質の性質が時とともにどのように変化するかなどを知るといったことがあります。

もうひとつは、プロテオームの構造がわかることによって、セントラル・ドグマの上流にあるゲノムやRNA、またタンパク質自体の多様性を把握し、システムとしての生命を理解するといったことへの道があります。生体のシステムがわかれば、これまでになかった新薬や、健康であり続けるための条件なども見出されるようになるかもしれません。

googleのヒット件数を調べてみると、「ゲノム」が3,040,000件だったのに対して、「プロテオーム」は246,000件。まだ10倍以上の差はありますが、今後、着実に聞かれるようになるキーワードになることでしょう。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
工場見学(とくにビール工場)


工場見学にたまに出かけます。

印刷工場、パン工場、かつら工場…。工場数あれど、とくに好きなの(大好きなの)は、ビールやウイスキーなど酒類の工場。北海道を旅すればニッカウヰスキーの余市工場と、サッポロビールの札幌工場へ。東北を旅すれば同じくニッカの仙台工場へ…。

現地に行くと、その工場がなぜその地域に建っているのかがわかってきます。ウイスキー工場の場合は、近隣の川の水質などを大切にするため、かなり山深いところにあります。また、ビール工場は発酵のときの臭いが出るためか、海沿いのコンビナートや工業地帯の中にある場合が多いようです。

たいていのウイスキー工場やビール工場での見学は、40分ぐらい蒸留所や生産ラインを眺めたあと、20分間ぐらいで無料試飲をすることができます。

昔、「できたて生出荷」という、工場からのできたてを売りにしたビールがとても美味しかった記憶がありますが、工場で試飲するビールはこれまた格別。「ビールは鮮度が命」などといわれますが、ほんとにそのとおり。とくに日本のビールの主流「生ビール」は、熱処理をしていないビールのため、酵母が生きています。消費期限が書かれていても、やはり作り立てのほうが美味いのでしょう。

ビール工場の試飲では、まだ市場に出ていない新製品のビールをテイストすることなどもできます。先日、つい行ってしまったサッポロビール千葉工場では、秋に創業130周年を記念して発売される予定の「畑から百三十年」を試飲させてもらいました。麦芽が多くてほろ苦い、美味しいビールでした。

長い梅雨も、そろそろ終了。暑気払いに、ビール工場見学はいかがでしょうか(まわし者ではありません)。

「サッポロビール工場案内」はこちら。
http://www.sapporobeer.jp/brewery/
「キリングループの工場へようこそ」はこちら。
http://www.kirin.co.jp/about/brewery/factory/index.html
「アサヒビール工場へようこそ」はこちら。
http://www.asahibeer.co.jp/factory/brewery/
ニッカウヰスキーのサイト「ニッカを知る」はこちら。
http://www.nikka.com/know/
| - | 23:46 | comments(0) | trackbacks(20)
エコドライブ、警察の関心は?


仕事の合間を縫って、運転免許更新のため、千葉市の免許センターへ。

講習自体は30分で終了。どうせ受けに行ったついでにと思い、環境に負担をかけない運転「エコドライブ」についてのパンフレットを持って帰ろうと思い、指導官に聞きました。

「エコドライブのパンフレットや資料を持って帰りたいんですが…」

「うん、エコドライブ? ああ、あるかな。となりの部屋のカウンターを見てみて」

カウンターに行きましたが、エコドライブ関連のパンフはない模様。他の係員の方にも何人か聞いてみると、「エコドライブ」自体はご存じのようだったものの、資料やパンフレットは存在しない模様。

配布された「人にやさしい安全運転」という冊子を見てみると、1ページだけエコドライブの説明が次のようにありました(見出しの下は筆者の註)。

1)無用なアイドリングをしない
以前は、アイドリング・ストップをすると、逆に燃料を使うという説もありましたが、いまは、アイドリング・ストップは環境負荷軽減のために常識のようです。

2)経済速度で走る
一般道路では時速40km、高速道路では時速80kmを保って走ると最も燃費よく走るといわれているそうです。

3)定期的にタイヤの空気圧をチェック
空気圧が不足すると、燃費が悪くなるそう。エコドライブに限らず、効率の良いドライブにも重要ですね。

4)不要な荷物は降ろす
とくに排気量の少ない車や車両の軽い車は、荷物を降ろすと降ろさないとで相当の差が出るようです。

5)急発進、急加速をしない
車に負荷をかけると、燃料が余分に消費されるようです。

6)夏場のエアコンは控えめに
エアコンを使用すると、エンジンの回転数が高くなるそう。風に吹かれながらのドライビングもまた風情…。

「エコドライブ」は「京都議定書目標達成計画」の中でも国民が心掛けることとして謳われている内容のひとつです。けれども、警察や交通安全協会は、交通安全の向上に集中しているのか、エコドライブについてはいま一つ関心が薄い模様。

運輸部門や民生(市民生活)部門のエネルギー削減は、産業部門に比べると、あまり改善が見られないと言われています。自動車教習所や、免許更新の際にでもエコドライブを心掛けるための講習を取り入れるなど、ドライバーの意識を促す策があってもいいのでは。免許更新で、そんなことを思いました。

「チーム−6%に参加しよう」の「エコドライブとは?」のページはこちら。
http://www.team-6.net/ecodrive/renraku/index.html
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「『猫を電子レンジに』はガセ」はガセ?


飼い猫をシャンプーで洗ったあと、電子レンジで乾かそうとしたら焼けこげて死んでしまった。怒った飼い主は、電子レンジの製造メーカーに訴訟を起こした…。

たまに耳にするこの話。本当のことでしょうか?

ちょっと古いですが、1991年10月26日の朝日新聞には、「『レンジの猫』は実態不明」という見出しで、この訴訟は存在しないのではないかという論調の記事が出ました。
この話はよく引き合いに出される。
が、たいがいは「提訴された」とあるだけで、「訴えが認められた」などとはない。原告、被告をはじめ、提訴期日、裁判所名、賠償請求額などにも触れられていない。
岩波新書「日本人の英語」の中で3年前、似たエピソードを用例として載せた米国人の著者マーク・ピーターセン明治大助教授が、こんな解説をしてくれた。
「以前からこの話を聞いたことはありましたが、10年ほど前に米国で出版されたアーバンレジェンド(現代の伝説)を集めた本にも紹介されています。この本は、ファストフードのハンバーガーに猫の肉が使われている、といったたぐいの非常識なうわさ話を集めたものです」
ところが、この訴訟はれっきとした事実と主張する著名人がいます。かの村上陽一郎先生です。

村上先生は、実際に訴訟を起こされた米国の企業の責任者と会って、訴訟についての雑談を交わしたそうです。「私は話をしましたよ。『訴訟を起こされてたいへんな思いをしましたよ』と、たしかに彼は言っていました」とのことです。

この話は、製造物責任法(PL法、Product Liability法)の文脈の中でよく出される話です。製造物責任法とは、「製品の欠陥によって生命、身体又は財産に損害を被ったことを証明した場合に、被害者は製造会社などに対して損害賠償を求めることができる」法律のこと(内閣府サイトより)。

ただし「猫を電子レンジ」の場合、日本のPL法では、通常の使い方をしていないことや、メーカーが常識的な安全を欠いていないことなどから、電子レンジに欠陥があったとは認められないようです。訴訟大国のアメリカと係争を面倒くさがる日本。また、雄弁を金とするアメリカと沈黙を金とする日本。二国の文化的な違いもあるのでしょう。

さて、冒頭の記事から約9年後、2000年1月22日の朝日新聞。「米企業、訴訟にピリピリ」という記事では「猫を電子レンジ」は実際あったことのニュアンスで書かれています。
十代の少年は、バスケット競技でゴール網に引っかかって歯を二本失い、ゴールメーカーを訴える。電子レンジで猫の毛を乾かそうとしたら死んでしまったと、飼い主が製造元を提訴。買ったばかりのコーヒーをこぼしてやけどした女性はマクドナルドを訴え、二億九千万円の賠償を認められた(後に減額)。
冒頭の記事も最後の記事も、それぞれ「訴訟はなかった」「訴訟はあった」と、記者の完全なる断定を避けているのがニクいところ…。
| - | 22:43 | comments(0) | trackbacks(0)
未来の夢かなう? 空間移動ロボット


産業技術総合研究所(産総研)の一般公開では、研究開発現場の見学もすることができました。

普通の体育館くらいの大きさの研究所の真ん中に、白い大きな翼と、その下に金属を備え付けた飛行マシンが横たわります。

「空間移動ロボット」とよばれるこのマシン。30メートルぐらいの滑走路があれば、そこから飛び立って、ゆっくりゆっくりと空を自動で飛行することができます。重さは約100キロ。力学的にいうと、向かい風を捉えて、翼の下に空気を貯め込むことにより、空を飛ぶ浮力を得ることができるのだそうです。

よく、SFやアニメの映画で、未来の都会の風景として、クルマが地面だけでなく空も飛ぶといったシーンがよく描き出されますね。この空間移動ロボットの開発は、そんな夢の社会に近づくための第一歩としての位置づけがあるそうです。

開発者の岩田拡也・知能システム部門研究員の話では、「風が強い日は、多少バランスは崩すものの、機械の向きを自動制御できるので、常に向かい風になるようにもできる」とのこと。また、翼を折りたたむことも可能なので、保管スペースも自動車以下に抑えられるそうです。

現在は、2号機で飛行試験を繰り返しており、今後も試作と試験を繰り返していくそうです。

2号機の初飛行試験のときのビデオを見せてもらいました。ほんのわずか空に浮かんだだけでしたが、それでも喜びのあまり、岩田さん自身もいっしょに「やったぜ」とジャンプする後ろ姿が印象的でした。

産業技術総合研究所のサイトはこちら。
http://www.aist.go.jp/
知能システム研究部門のページはこちら。
http://unit.aist.go.jp/is/index_j.html
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少数派の道を選んだ中村修二


つくば市にある産業技術総合研究所で21日(土)に行われた一般公開に参加。

メインは、中村修二カリフォルニア大学教授の特別講演会。200人の会場に立ち見客が出るほどの人気ぶりでした。

中村さんの経歴を簡単に紹介すると、徳島大学の大学院を卒業後、徳島県の日亜化学に就職。そこで、青色発光ダイオードなどを発明し、会社に巨額の富をもたらします。その後、日亜化学を退職して、いまはオファーのあったカリフォルニア大学ロサンゼルス校の教授職に就いています。

最近、街中で、青色の光の粒がやや大きく、よく輝いている信号機を見掛けます。これが青色発光ダイオード。以前、発光ダイオードは、光の三原色である赤緑青のうち、赤色しか発明されていませんでした。


ところが、緑色の発光ダイオードと高輝度の青色発光ダイオードが発明され、信号はもちろん、そのほかのディスプレイなどありとあらゆるフルカラーの大型ディスプレイなどに応用することが可能になりました。この発光ダイオード開発の功労者として、中村さんの名前は欠くことができないものです。

また、中村さんは、歯に衣着せぬものの言いようでも有名。緑色そして高輝度青色発光ダイオードを開発したころ在籍していた日亜化学に対して、発明の対価を支払うように訴訟していた「404特許裁判」でも、要求額200億円に注目が集まりました。その後、日亜化学が8億4400万円を中村さんに支払うことで和解が成立しています。請求額と和解額の開きに、記者会見でも日本の司法に対して怒りをぶつけるなど、歯に衣着せぬものの言いようも注目されています。

さて公演で中村さんは、高輝度青色発光ダイオード開発までの経緯を話していました。

日亜で、しがない中堅開発者だったころ「つぶれかかったこんな会社、もう辞めてやる!」とやけっぱちになって、「社長、前人未到の青色発光ダイオード開発をやらせてください」と奏上したところ、なぜか「ああ、やってみなさい」と言われ、それから高輝度青色発光ダイオード開発の道が始まりました。

サラリーマン留学生としてアメリカに1年留学するものの、徳島大学でマスターの照合しかなかった中村さんは、現地のドクターから下に見られました。「あいつらを見返してやる」と、悔しがったそうです。

帰国後、怒りのブレークスルーに火がついた中村さんは「青色発光ダイオードについての論文を出して博士号をとってやろう」と思いました。そこで、目をつけたのが窒化ガリウムという物質。当時、多くの開発者が発明を夢見ていた青色発光ダイオードは、セレン化亜鉛という別の物質で作ることが主流でした。

けれども中村さんは、「セレン化亜鉛は多くの人や大企業が研究を進めている。私が論文を書いて博士号をとるためには、少数派の窒化ガリウムでの研究をしなければならない」と考えたそうです。

その後も、出社後、午前は機械の調整そして午後は実験に明け暮れるという日々を繰り返し、高輝度青色発光ダイオードを開発したのだそうです。

他の本で、中村さんは、青色発光ダイオードの材料としてあまり注目されていなかった窒化ガリウムをあえて選んだ理由として、「大企業と同じ選択をしていたら、負けるに決まっていると、経験的に知っていたから」と紹介されています。

真の理由はともかくとして、あえて少数派の道を選ぶということは、独自の発明を目指すときのひとつの鍵となるような気がしました。

参考文献:西村吉雄著『産学連携』
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舎人公園の不思議な境界線(3)
舎人公園の不思議な境界線(1)
舎人公園の不思議な境界線(2)



日暮里から尾久橋通りを北上します。この通りは、2007年に開通予定の「日暮里―舎人新線」の高架工事が行われています。環七通りを横切り、さらに北上すると、舎人公園が見えてきます。

まず尾久橋通りと、補助294号線の交差点の南東側に立ってみました。ここは地図上でいうといちばん北の舎人町の町内のはず。でも、住宅もなにもありませんでした。町内は鉄さくに覆われており、公園の造成が進行中のようです(A)。


交差点から補助294号線を東へ進み、舎人町の最東端を見にいきます(といっても、移動距離わずか80メートル)。番地でいうと舎人町3645番地3号。かつては、地区の境目に小道があった模様。この小道も、造成工事の鉄柵に遮られています(B)。


さっきの交差点に戻って、今度は尾久橋通りを南下。舎人町と入谷町の境界線を探してみることにしました。

まずは、いちばん北の舎人町と入谷町の境界。ところがここも鉄柵で地区の内側は遮られています。鉄柵の隙間から鉄柵の中を覗いてみたものの、地区の境界らしき道などはなにもありません(C)。


入谷町とまん中の舎人町の北端の境界線も同様に、ただ鉄柵あるのみ。

では、入谷町とまん中の舎人町の南端の境界線はどうでしょう。地図を見ながら確認すると、どうやら、造成中の地域とすでに公園になっている地域の境目のフェンスが境界線のようです(D)。


そして最後に、入谷町といちばん南の舎人町の境界線。ここには境界線の形跡はなにもありませんでした。公園内の植え込みや東京都名物「カラストラップ」などは置いてありますが、それらが境界線をくっきりと示しているわけでもなさそう(E)。


では、このあたりに、「ここは舎人町です」とか、「ここは入谷町です」とおいった、目に見えるような「町の証拠」はないのでしょうか?

探しているうちに、尾久橋通り沿いに、住居表示付き広告がある電柱が見えてきました。ここは舎人町の地域内。とすると、住居表示にも「舎人町」の文字があるのでは…。つづく。
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書評『四日市・死の海と闘う』
かつてオートバイに乗っていたころ、東京―大阪を行き来するとき通っていたのが、愛知県名古屋市と三重県四日市市を伊勢湾沿いに結ぶ名四国道でした。道すがらに見える四日市のコンビナート群の夜景は、人工物でありながら人間らしさが全くなく、殺風景かといったらコンビナートの灯りがとても綺麗で、日本の街並みとはまったくかけ離れた風景でした。

今日は、40年前の四日市港を舞台に、企業が起こす公害と闘った、ある公務員によるノンフィクションを紹介します。

『四日市・死の海と闘う』田尻宗昭著 岩波書店 1972年 218p


著者の田尻宗昭(1928-1990)は、海上保安庁の職員だった。本書は、その田尻が“公害Gメン”の草分けとしての地位を確立した1968(昭和43)年7月から1971(昭和46)年7月までの3年間の活動を自らでつづったものである。

当時の田尻の肩書きは四日市海上保安部警備救難課長。肩書きだけ聞くと、海でおぼれている人を助けるような仕事を想像してしまうが、本に書かれている内容は、化学物質や汚物を海に垂れ流す大企業を取り締まった、その歴史である。

昭和40年代は、多少の公害は目をつぶっても、経済成長を成し遂げようという社会的な雰囲気が漂っていた。環境に配慮する姿を見せるのが当然となりつつある現在の日本企業の姿から考えると、当時の企業の環境への意識はとても軽視されていたことがわかる。

また、海洋汚染を禁止する法律はあったけれど、基準値がとても甘かったり、過去に企業を取り締まった前例がなかったりして、法律が機能していなかった。

つまり、化学物質の排出については、いわば企業の「やりたい放題」がまかり通っていたわけだ。こうして四日市の漁師たちは次々と魚を奪われ、自分の働き場所を奪われていった。

こうした惨状を取り締まったのが田尻だった。

「この企業が出すこの化学物質により海が汚されている」ということを突き止めるには相当の苦労が伴う。化学物質は海中で拡散しやすいからだ。まず、田尻は大学の先生に相談をして、化学物質によって海が汚染され、魚が死滅していることを科学的に確かめようとした。

また、企業から化学物質が垂れ流されている決定的瞬間をつかまないと、「現行犯」での取り締りにならず、企業に言い逃れをされてしまう恐れがある。そこで、いわゆる「がさ入れ」を行い、化学物質垂れ流しの決定的瞬間を捕らえようとした。

本の全体構図だけを見れば、困っている漁師を助け、悪の企業をやっつけるといった、「勧善懲悪もの」の構図で捉えることはできる。けれども、田尻は決して漁師側の味方について肩入れするといった感じはしなかった。

それは田尻の職業的意識の高さから来るものなのだろう。

地域住民と企業との間で争いごとが起きたら、その解決策を考える。悪行をしている企業や人がいれば、やはりそれは当然のこととして取り締まる。公務員として自分に課せられた仕事と、持っておくべき正義感を行動の規範にして、胸を張って堂々と自分の仕事に取り組んだ結果が、この本に書かれてあることだ。自らが成し遂げたすごいことを自らで書いているというのに、自慢話を読んでいる気がまったくしなかった。

利益を優先させる企業がおこす公害や犯罪をやめさせるには、やはり、誰かが動かなければならない。公務員一人でも、やればここまでできるということを示してくれる一冊。

『四日市・死の海と闘う』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4004111161/503-1861222-7056726?v=glance&n=465392
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石油が高いとどうなる?


(2006年)7月17日に閉幕したサンクトペテルブルクサミットでは、原油の価格が上がり続けていることに対しても強い危機感が示され、「高値かつ不安定な石油」や「増大するエネルギー需要」といった課題に取り組むことが宣言されました。

日本は、一次エネルギー(自然から直接とれるエネルギー)の99.7%を海外からの輸入に頼っており、また現在でも一次エネルギーのすべての供給量のうちの、50.1%を石油に依存しています。石油は、自動車のガソリンの他、火力発電所のエネルギー源としても多く使われています。

原油が高くなると、何となく生活にも悪影響が出そうですが、具体的にはどのような悪影響がでると考えられているのでしょう。

一次エネルギーを石油に頼っている率が高いと、石油の高騰に従って、石油を得づらくなります。すると、いつも安定してエネルギーを供給するといった状態が危うくなってきます。

すると、まず考えられるのが、身近な生活に支障をきたすということ。断水時に水の供給が一時的にストップするのと同じように、冷暖房を使ったりクルマを運転するときに、規制が掛かるかもしれません。工場の作業なども一部がストップしてしまったらモノが作れなくなり、景気が後退したり失業者が増えたりといった状況にもつながります。

また、経済への影響も大きいと考えられています。高価なエネルギーを海外から輸入するとなると、日本経済全体では、国民の所得が海外に流れていくことになるからです。石油におカネをつぎ込んだ分、国内でモノが買われるおカネが減り、その結果、日本国内は不景気になるというシナリオです。

こうしたことから、エネルギーの源を石油ばかりに頼りすぎてはいけないといった考えが出てきます。

例えば東京電力では、その時その時の経済状況などに合わせて、水力、原子力、そして新エネルギーなど、火力以外の発電方法の組み合わせを追求する「ベストミックス」という考え方に基づいて、運営されています。株の投資でリスクを回避するための「ポートフォリオ」づくりのようなものですね。

外務省「G7/G8サンクトペテルブルク会議 世界のエネルギー安全(全文仮訳)」はこちら。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/saintpetersburg06/01.html
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燃料電池車 vs. 電気自動車


石油で走るいまの自動車に代わる「将来の自動車」を、各自動車企業などが開発しています。

なかでも「燃料電池車」と「電気自動車」という二種類の自動車が、プリウスなど次世代のハイブリッドカーに次ぐ、ポスト次世代の自動車になるのではと言われています。燃料電池車と電気自動車、それぞれの特徴や課題などを比べてみましょう。

「燃料電池車」は水素と空気を燃料にして走る車。水素と空気の二つの気体を反応させることにより、H2O、つまり水を作ります。この水を作る過程で出てくるエネルギーを電気に変えて走るのが燃料電池車です。原理的には、排出物は水蒸気(つまり水)だけという、きわめてクリーンな自動車です。

けれども燃料電池車には、実用化までにはいくつもの高い壁があると言われています。

例えばコスト。これまでの開発費を生産台数で割ると、1台あたり数億円のコストになるそうです。もちろん大量生産すれば、1台あたりのコストは安くなるでしょうが、いま市場はわずか官公庁が納入するくらい。

また、水素を貯めるタンクは相当なスペースを必要とします。車内の多くのスペースが、水素タンクに占領されてしまいます。ただし、バスなどの屋根がある自動車にはこの問題はあまり当てはまりません。

さらに、現在の燃料電池車には、水素を燃料化する際に触媒としてプラチナがよく使われています。プラチナは地球の資源として限りがあり、価値の高いもの。プラチナを使わないようにするにはどうしたらいいかという課題があります。

課題ばかりが目につきますが、燃料電池車ならではの車としてのメリットはないのでしょうか。例えば、クリーンに走れるといった、イメージ的なプラス材料はあります。けれども、燃料補給せずに走れる距離は短い、また、普及するまでは水素ステーション(ガソリンスタンドの水素バージョン)を探すのに大変そう、などのデメリットも多く考えられます。

一方「電気自動車」は、エンジンではなくモーターを車輪や車輪付近につけて走る車。燃料は電気です。大きなしくみとしては、携帯電話を充電して使うのと同じです。電気自動車は、燃料電池車に比べると、まだ将来性が有望視されている部分が多いようです。

まず、電気自動車のコストは、燃料電池車よりは現実的。現在開発を進めている三菱自動車や富士重工などのメーカーでは、近い将来で1台200万円から300万円を目指しているそうです。

スペース的な問題では、電池を床下に敷くなどして、比較的小さなモーターを車輪付近に取り付ければオーケー。燃料電池車の水素タンクのような大きなスペースは必要ありません。

さらに燃料が電気なので、例えば家庭のコンセントから電気を補給することで充電が完了します。割引している深夜電力などを使えば、高騰中のガソリンよりも10分の1ぐらいの燃料コストで済むそうです。

そのほか、リチウムイオン電池という充電式電池の性能も、技術開発により優れたものができてきています。

こんなふうな話をすると、電気自動車のほうが燃料電池よりもはるかに分がいいという感じがしますね。けれども燃料電池車開発にはホンダやトヨタや日産など、大手のメーカーが力を入れているため、技術革新を期待してしまいます。

燃料電池車の作り手と電気自動車の作り手の間で、技術の競争が進めば、ポスト次世代自動車の普及も加速されることでしょう。


この記事は、早稲田大学院の科学技術ジャーナリスト養成プログラム「エネルギーと環境」(鶴原吉郎客員教授・西村吉雄教授の授業)を参考にしています。
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書評『実践論・矛盾論』
大学院のゼミの先生から紹介された本です。

『実践論・矛盾論』毛沢東著 村松一人・竹内実訳 岩波書店 1957年 112p


「実践論」と「矛盾論」という二つの論からなる書物。

「実践論」「矛盾論」はそれぞれ、1937年7月と8月、毛沢東が33歳のときに書かれたもの。1937年7月というと、盧溝橋事件を発端に日本と中国が本格的な戦争状態に突入したころ。毛はすでに中国共産党の長となり、自給自足の抗日ゲリラ戦を展開していた。

「実践論」で、毛は、ものごとは抽象化をすることができるけれども、生活の中での実践活動こそがなにより重要だ、ということを説いている。つまり、「生産活動の基本は実践活動にあり」といったことだ。

この実践論は、科学との共通点も見出される。ある学説を検証する方法として、個々の事例を実践的に検証する方法が使われているという点だ。

さらに科学では、個々の事例を実践的に検証するということから、「どうも辻褄が合わない」といった事例が増え、それまで常識とされていたパラダイムが崩壊していく。トマス・クーンが『科学革命の構造』で語っていることだ。この「実践的活動が矛盾を生み出していく」というつながりで、前半の「実践論」と、後半の「矛盾論」との関係性を見出すこともできる。

では、後半の「矛盾論」はどんな内容だろうか。「矛盾論」では、弁証法という哲学の論理が色濃く反映されている。弁証法とは、ドイツの哲学者ヘーゲルなどに代表される哲学の論理で、「自分自身の中にAという考えがある一方で、そのアンチテーゼとなるBという考え方がある。矛盾するAとBとを発展的に統一させることで、Cというよりハイレベルな考え方を導き出そう」というものである。

日本国内でも例えば政治の世界で、こんな場面を目にする。

与党内の意見がまとまらないと、野党やマスコミから「内部対立だ」などと論戦がしかけられる。これに対して与党の幹部は「いろいろな意見を出し合っているなかで、よりよい政策を目指しているのだ」と応戦する…。この与党の幹部の発言は、毛の言うところの「弁証法的な組織の発展」を主張しているということになる。

さらに矛盾を単純化すれば、ある社会や組織の中に起きる、対立的構図と考えてよい。例えば、現代の日本の社会でいえば、労働者と雇用者、地方と中央、革新派と保守派といった関係である。

こうした対立構図について、毛は、いつ社会の中で下克上が起きるかは分からないとして、こう述べている。

「みたまえ。被支配者であったプロレタリア階級は、革命を通じて支配者に転化し、もと支配者であったブルジョア階級は、被支配者に転化し、たがいに相手がもとしめていた位置に転化していく。ソヴェトではそうなった。全世界でもそうなろうとしている」(矛盾論より)

この主張から28年後の1965年、毛は「文化大革命」において、教師と教え子の上下関係を逆転させて、教師を迫害するといった政策をとることになる。後に文化大革命は「世紀の失政」という歴史的評価を生み出すことになる。皮肉なことに、人為的に矛盾を発生させても、ハイレベルな社会にはつながらないということを、毛は自らで実証してしまったのだ。

こうした毛自身の人間性や、共産主義に対する先入観は、この書物を読もうかどうか考えたときの妨げになるかもしれない。

けれども、書かれてあること自体は普遍的な内容であるから、「それはそれ、これはこれ」と割り切って読むこともできる。

例えば、「何ごとも試してみることが重要」だとか「意見をぶつかり合わせるなかからよりよいプランは浮かんでくる」といった、基本に立ち返るために本書を読んでみるのも手。ちょっと仕事のしかたにちょっと迷ったとき、基本を再確認する道具にすることもできる。

『実践論・矛盾論』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003323114/503-1861222-7056726?v=glance&n=465392
| - | 12:34 | comments(0) | trackbacks(0)
舎人公園の不思議な境界線(2)
舎人公園の不思議な境界線(1)

面積的にとても小さく、かつ、複雑に入り組んだ舎人町と入谷町。舎人公園とその付近の敷地のわずかな一角のみが、舎人町と入谷町になっているのはなぜなのでしょう。

しかもこの二つの地区の番地を調べてみると、面積が小さいながらやたらと番地が多いことに気づきました。

舎人町は728から始まり、729、730。3003へ飛び、その後3432から1番ずつ増えて3435まで。さらに飛んで3619から3623、1番飛んで3625から3627。さらに3637から3639、最後に3645となります。



一方の入谷町は、2996から1番ずつ増えて3002まで。その後、3004から3011まで。さらに、3018と3019、3023から3026までとなり、最後に飛んで3107となります。


入谷町の2996から3002と舎人町の3003のように、二つの地区で連番になっている番地もあります。

また、この舎人町と入谷町には共通して地区名に「町」が付きます。一方、足立区には舎人町や入谷町とは別に「舎人」や「入谷」といったもっと大きな面積の地区が存在します。舎人は東京23区の最北端にある地区で1丁目から6丁目まであります。また、入谷は舎人公園の北西にある地区で、こちらは1丁目から9丁目まであります。舎人と舎人町、また、入谷と入谷町は接していません。
※「東京都の最北端」としていましたが、Kystさんよりご指摘いただき訂正します(2008年5月)。

予備知識を得たところで、次回は、現地に行ってみたいと思います。つづく。
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今村昌平監督の追悼上映会『楢山節考』


早稲田大学で、映画の故・今村昌平監督の追悼イベント「よみがえれ! 今村昌平」が7月15日(土)から開催されており、映画上映会に行ってきました。

今村監督は、1926年東京生まれ。1958年の日活映画『盗まれた欲情』を皮切りに、2002年の『セプテンバー11』(「日本編」担当)まで、20の映画作品を遺しています。1997年『うなぎ』という作品がカンヌ国際映画祭で監督自身2度目となるパルム・ドールを受賞したことは記憶に新しいところです。

今日は、今村監督の1983年の作品で、最初のカンヌ国際映画祭パルム・ドール作となった『楢山節考』の上映会がありました。

『楢山節考』は、日本の山村での「姥捨て」という習わしをリアリスティックに描いたもの。ここの村の年寄りは70歳になると、村を出て山の中へと連れて行かれます。村の食料が限られていることなどによる社会の掟であり、若い世代に社会を譲っていくという“新陳代謝”の象徴でもあるわけです。

貧しい村ゆえに、限られた数の人しか生きられないという村の厳しい状況の中で、水子(堕胎した胎児)を田圃に捨てたり、氏の悪い若者を生き埋めにしたりといった過酷な生活が描かれていきます。

今村監督は19歳で終戦を迎えます。今村青年の目に映った終戦の光景は、身ぐるみを剥がされたという意味での「裸になった日本人」といった光景でした。その後の映画作品にも、このときもった感覚が色濃く反映されていると言われます。

村に生きる蛇や馬や梟など、人間と同等な村の生活者としての動物の描写も見事でした。

明日16日(日)は、俳優の田口トモロヲ、北村和夫らを迎えて、追悼記年シンポジウム『今村昌平を語る』が行われ、1961年の『豚と軍艦』、1998年の『カンゾー先生』も上演される予定。他に、早稲田大学内の演劇博物館で追悼展覧会「今村昌平を探る」は8月2日まで開催中です。

早稲田大学での今村監督の追悼イベントのお知らせはこちら。
http://www.waseda.jp/enpaku/calendar/20060716.htm
| - | 22:54 | comments(0) | trackbacks(0)
役に立つ基礎科学(2)
役に立つ基礎科学(1)



「基礎科学は役に立たない科学」でしょうか。けっしてそんなことはないと思います。

『トリビアの泉』という、知っていても役に立たない無駄な知識を紹介する番組がありますね。あの番組を観察すると、生物学や物理学などの基礎科学を扱ったトリビアがなんと多いことかということに気づきます。たとえば、コカ・コーラは斜めに立たせることができる、など。

「役に立たない」と思われがちな基礎科学がたくさん紹介されるこの番組は、ご存知のように毎回高視聴率。週1回のあの番組を楽しみにしている人は多いでしょう(私もそのうちの一人)。

また、基礎科学の代表的存在である天文学に目を向けてみると、アマチュアの天文ファンはたくさんいます。新しい星の発見があるたびにわくわくしたり、性能のよい望遠鏡が送ってくるカラー写真にドキドキしたりして、天文雑誌を買いに走る人もいると思います。

これらのように、人々に楽しみや笑い、潤いを提供してくれる科学が「役に立たない科学」かと言えば、けっしてそうではない気がします。これらの科学は、広い意味での「福祉」に大いに役立てられているのですから。

少なくとも、『トリビアの泉』の視聴率が高ければ、それだけテレビ局やスポンサーは利益を得ることができるでしょう。また、新しい星の発見のニュースにより、天文雑誌の販売部数が伸びれば、不況の続く出版業界にとってはうれしい話です。基礎科学が経済を潤す例です。

人には何かを知りたいと思う欲(知識欲)が常にあって、基礎科学がその欲を満たしてくれるのであれば、それもまた「役に立つ科学」の一つということはできないものでしょうか。(了)
| - | 08:49 | comments(0) | trackbacks(0)
役に立つ基礎科学(1)


写真は、東京大学の産学連携プラザの入口に置いてある「スーパーカミオカンデ」の光電子倍増管です。直径50センチ。そばで見るとかなりの大きさです。

「スーパーカミオカンデ」は、岐阜県高山市(旧神岡町)にある巨大地下施設。この施設で、宇宙から飛んでくるニュートリノという素粒子(物質を構成する基本的な粒子)を観測します。巨大な水瓶の中にたまった水にニュートリノがぶつかると、チェレンコフ光という光が出てきます。けれどもこの光はとても小さく弱いため、なかなか確認することができません。そこで、トップ写真の光電子倍増管がセンサーの役割をして、電気信号に換え、ニュートリノの存在を確認します。スーパーカミオカンデには、この光電子倍増管が11200個付いています。

2001年、スーパーカミオカンデの中で火災が起き、光電子倍増管の一部が壊れてしまいました。

そのため5年間、スーパーカミオカンデで素粒子の観察をすることができませんでしたが、このたび、光電子倍増管6000個をつけかえる工事が終了。ニュートリノなどの素粒子の観測が再開されることになりました。

ニュートリノの存在を突き止める研究は、「基礎科学」とよばれる科学の代表例です。基礎科学とは、いうなれば、知りたいという知的好奇心を探求するための科学のこと。天文学や、理論物理学などは通常、基礎科学として捉えられます(人文科学や社会科学まで含めて基礎科学ということも)。

これに対して「応用科学」という科学の分け方もあります。こちらは、実用重視の科学と考えられることが多いです。例えば工学や農学、医学などが応用化学の代表的な分野です。

基礎科学に関連して、先日、毎日新聞の知人Nさんから「こんな記事があるよ」と、ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊先生のインタビュー記事を送ってもらいました。小柴先生は、スーパーカミオカンデの一代前の設備「カミオカンデ」でニュートリノを検出。その功績によりノーベル賞を受賞しています。小柴先生は御年79歳、基礎科学分野のご意見番的存在。

小柴先生は記事で、基礎科学の必要性について、こう言います。

「基礎科学は2〜3年先に予測がつくようなことではない。誰が考えても分かんないということをやって、どうなったかというのが基礎科学なんだ。基礎科学を考えるときは、『国家百年の大計』という言葉を頭に置く必要がありますよ」

危惧ともとれるこの言葉。その背景には、国が最近「応用科学」に力を入れるあまり、基礎科学が軽んじられている向きがあります。

「応用科学は役に立つ科学」「基礎科学は役に立たない科学」とひとくくりでくくられることはよくありますが、果たしてこれは正しいことでしょうか。私はこの考えとは少し違った考えをもっています。つづく。

神岡宇宙素粒子研究施設「スーパーカミオカンデ」のサイトはこちら。
http://www-sk.icrr.u-tokyo.ac.jp/sk/
| - | 15:57 | comments(0) | trackbacks(3)
科学ジャーナリスト塾、第5期塾生募集開始。
下記の「科学ジャーナリスト塾」第5期の募集は、応募が定員に達しました。定員を超えたお申込につきましては、ウエィテングリストの制度がありますので、詳しくは、科学ジャーナリスト塾のHP(http://www.jastj.jp/Zyuku/index.htm)をご覧くださいませ。(2006年8月26日)



日本科学技術ジャーナリスト会議が開く「科学ジャーナリスト塾」の第5期の募集が始まりました。

9月22日(金)から2007年3月23日(金)までの12回、東京のプレスセンタービル(内幸町駅と霞ヶ関駅が最寄り駅)で行われます。

これまでの火曜日開催から、原則金曜日開催となりました。

また、第5期もこれまでと同様、科学技術ジャーナリストなどの講演を聴く「座学」と、取材などをしてグループで成果物を作る「演習」の二本柱になる予定です。テーマは現在の予定として「食と安全」「知的財産と産業技術」「脳と心とロボット」「情報革命とメディア」「エネルギーと原子力」といったものが用意されています(あくまで予定)。

第3期を塾生として、第4期をサポーター(手伝い)として参加した身として申しますと、積極的に活用すれば、精神や技術を身につける場として、それとともに交流や人脈を広める場として、大いに役に立つと思います(私はそうでした)。何よりも、かなりベテランの新聞記者やテレビマンと直接、対話などができることが大きなポイントだと思います。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
石炭・石油などから税金


1989年に消費税3%(当時)が導入されるとき、社会は大騒ぎになりました。今日まで1,000円だった商品が、明日から1,030円になるといったことに対して、テレビやなどマスコミは、反対の大合唱だった気がします。

けれども、5%への税率アップも経験し、いまではすっかり消費税は生活の中で定着しています。次の内閣での税率アップも予想されます。

消費税ならぬ「炭素税」という税金をご存じでしょうか。石炭や石油などの燃料には、炭素が含まれています。この石炭や石油を使ったとき、含まれていた炭素の量に応じて課される税金です。石炭や石油を使うだけで税金がかかるのであれば、社会は石炭や炭素を使うことを控えるようになるではないか。よって、炭素(二酸化炭素)の排出も抑えることができるのではないか、といった期待があります。

「炭素税を日本でも始めよう」という声は上がっていますが、産業界の多くが反対を表明しています。産業界は、炭素税に反対する大きな理由として「産業の国際競争力が下がってしまうから」ということをあげています。

例えば、鉄鋼系企業などでは、鉄や金属をつくるために火を燃やしたりして、大量の二酸化炭素を工場から出しています。こうしたエネルギー消費の激しい企業にも炭素税が課せられた場合、その企業は炭素税支払いのためにどうするでしょう。当然、製品である鉄を値上げするなどします。すると、中国など、日本のまわりのアジアの国々のライバル会社に比べて、鉄をつくるコストが高くなってしまい、日本企業がつくる鉄はより売れなくなってしまうという話の流れです。

たしかに、近所の国で炭素税を導入しないのに、日本だけ導入すれば、日本企業は損するということになるかもしれません。

では、炭素税を導入すると、日本の経済にどれだけの悪影響が出るのでしょうか。

NGO「環境・持続社会」研究センター伊藤康先生(千葉商科大学)らが2003年に「計量モデルによる炭素税のCO2削減効果」という中間報告書を発表しています。炭素1トンの排出あたり6,000円の炭素税を2004年から導入したとすると、炭素税をこのまま導入しない「基準ケース」よりも、2010年で二酸化炭素排出量はマイナス6%となり、経済への悪影響はマイナス0.5%にとどまるとのことです。

「マイナス6%」というのは、京都議定書で約束された1990年の基準年に比べて「マイナス6%」というのとちがうということに注意が必要です。でも、このシミュレーションのように経済への影響が小さくて済むのであれば、炭素税に反対する産業界の態度は、根拠が薄くなってきます。

環境問題を考えることは大切である、という思いが人々にある一方で、経済など先立つものがあると、どうしても二の次になってしまいがちです。

環境問題を重視した場合、人々の自主的な取り組みもたいせつですが、法律の導入もいたしかたない効果的な方法かもしれません。

「計量モデルによる炭素税のCO2削減効果」はこちら。
http://www.jacses.org/paco/carbon/ctax_estimation_interim_report.pdf

NGO「環境・持続社会」研究センターのサイトはこちら。
http://www.jacses.org/paco/carbon/
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PCMとPCMな日々


5月下旬、早稲田大学院の科学技術ジャーナリスト養成プログラムで、PCM Tokyoグループの大迫正弘さんを招いて、「PCM」という、プロジェクト立案の方法のワークショップを行いました。

PCMとは、「プロジェクト・サイクル・マネジメント(Project Cycle Management)」の略。日本語に直せば「計画を回していくための運営・管理」といったことになります。何かの計画を立てるとき、誰がどのように問題に関わっているか(関係者の分析)、何が問題か(問題分析)、問題が解決された将来の望ましい状態は何か(目的分析)、どのようなアプローチを採るか(プロジェクト選択)、そしてプロジェクトの枠組みを決めていく(Project Design Matrixという表の作成)といったそれぞれの順番で、プロジェクトを組み立てていきます。

このPCMというプロジェクト立案方法でとくに特徴的なのは「参加型」であること。たとえば「勤めているバス会社の何が問題であるか」といったことについて、参加者一人一人(この場合はバス会社の社員など)が、自分の考えたことを自分でカードに書いて、ペタペタと壁紙に貼っていきます。これにより、その参加者がどんな考えを持っているかを視覚化することができたり、何度も同じ主張を繰り返して話が進まないといった状況を避けることができたりするわけです。

こうして、「経営が苦しい」「乗客が減少している」「バスが事故を起こしやすい」などの問題点のカードを挙げた上で、問題点の中心を決めます。その問題点の中心を軸に、それぞれの問題点の原因結果関係を考えて、結果は上に貼る、原因は下に貼る、というように、カードの並べ替えをしていきます。

その後、問題点の解決策として、例えば「経営が苦しい」であれば「経営が改善する」、「乗客が減少している」であれば「バスの利用者が増加する」、「バスが事故を起こしやすい」であれば「バス事故が減少する」といった具合に、問題の裏返しとなるようなカードを作って、それぞれの問題点のカードのすぐ近くに貼っていきます。

こうすることで、どのような計画(プロジェクト)を選択すべきなのかを、参加者のみんなで共有できるようになるわけです。

実際、5月下旬の早稲田大学院でのワークショップでは、「科学技術が適切に社会に伝わっていない」を中心問題にして行ったところ、自分が考えていなかった問題点がいろいろと出され、頭の整理ができました。

ワークショップの講師・PCM Tokyoの大迫さんが、このたびブログ「PCMな日々」を6月下旬から始めました。URLは、http://pcmdays.cocolog-nifty.com/blog/。大迫さん曰く「有志グループ PCM Tokyoの広告塔だと思ってやっています」とのこと。

PCMの手法は一貫したものがあったとしても、PCMのワークショップに参加する集団は、昨日は国際看護学を勉強する学生、今日はゴミ問題解決を目指す市民と、テーマがいろいろなため、やはり臨機応変さが求められる仕事なんでしょうね。

PCMは、JICA(国際協力機構)などの国際協力プロジェクトの計画立案では、共通言語として当たり前のように使われているそうです。PCM Tokyoのサイトに、PCMについての紹介が載っています。ご興味のある方は、こちらへどうぞ。
http://pcmtokyo.tripod.com/

PCM Tokyoの講師・大迫正弘さんのブログ「PCMな日々」はこちら。
http://pcmdays.cocolog-nifty.com/blog/
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京都議定書目標達成のため何をする?


「京都議定書(気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書)」によると、日本は2008年から2012年の間に、1990年のレベルに比べて、温室効果ガスを6.0%削減しなければなりません。

昨2005年7月、政府は「地球温暖化対策に関する世論調査」を行いました。それによると、上記の目標を達成するための「京都議定書目標達成計画」を「知っている」と答えた人は、全体の60.1%にも及びました。

5人に3人が知っているとは、かなりよい数字ではありませんか。

でも問題は「知っている」の内訳です。

「名前だけは知っている」と答えた人が42.3%。一方「計画の内容も含めて知っている」と答えた人はわずか17.8%でした。あるいは、17.8%もの人が計画の内容も含めて知っているということに喜ぶべきなのでしょうか…。

「京都議定書目標達成計画」の中でも、私たち市民(国民)の生活に関係してくる点をかいつまんで、いくつか上げてみましょう。

「国民によるグリーン購入の取組を促進する」。これは、観葉植物を買うということではありません。環境のことを考えた製品やサービスを優先して購入することです。

「夏期におけるオフィス等での服装について、暑さをしのぎやすい軽装の励行を促進する」。これは、いわゆる「クールビズ」などのことですね。

「不要不急の自家用乗用車の利用の自粛、エコドライブの普及を促進する」。「エコドライブ」とは耳慣れない言葉ですが、アイドリングストップや一定速度での走行を心がけることなど、ドライバーが環境へ心配りをしながら運転をすることをいいます。

他にも、「市民の努力」というわけではありませんが、市民生活に直結しそうなこととして、「サマータイムの導入」が、計画には明記されています。サマータイムとは、日の長い夏の間、時計の針を1時間ばかり早めて(いまの朝8時が9時になる)、朝を涼しく迎えましょう、夕方は夕方で、1時間延びた日暮れまでの時間を有効に(照明とかをあまり使わずに)利用しましょうという制度です。

温室効果ガス6%削減の実施開始年は、1年半後の2008年。私の感覚としては、冒頭の世論調査の結果とは裏腹に、まだまだ市民が何を期待されているのか、認知具合が低いように思えます。

2005年4月28日に環境省が発表「京都議定書目標達成計画」はこちら。
http://www.env.go.jp/houdou/gazou/5937/6699/2278.pdf
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心配な生分解性プラスチック
「プラスチック」“Plastic”の語源は、ラテン語の“placticus”で、このラテン語は「形をつくることができるもの」という意味をもっています。

けれども、この語源に反して、最近では「形が崩れていく」プラスチックが世の中に出てきています。「生分解性プラスチック」というプラスチックです。

生分解性プラスチックは、トウモロコシやジャガイモの澱粉が原料として使われるプラスチックです。澱粉は自然の物質で作られているため、使い終えたら土の中に埋めておけば、微生物などにより分解され、土に帰されるのです。包装容器など、けっこう短い時間で使い終えてしまうようなプラスチック製品に生分解性プラスチックは有効とされています(もちろん、包装容器にはリユースやリサイクルという再利用法もあります)。

けれども、生分解性プラスチックにも、厳密にいうと次の2種類があります。そして種類により、環境への影響も変わってくるようです。

1 最終的に水と二酸化炭素に完全に分解するもの
2 部分的にしか分解しないもの

環境への影響が懸念されているのが、「2」の「部分的にしか分解されない」生分解性プラスチックです。これは、ポリエチレンという人工化学物質の間に、澱粉を挟み込んで作ったプラスチックのこと。つまり「2」は、「澱粉+ポリエチレン」でできた生分解性プラスチックです。

この「2」の生分解性プラスチックの場合、澱粉の部分は微生物によって分解されるけれど、人工化学物質ポリエチレンは、分解されず、土の中でただ細かくなるだけなんだそうです。

ポリエチレンも細かくなるため、見た目では、完全に分解されたように感じられますが、実際は分解されずに土壌などに蓄積されていくといった心配があります。

そこで、「1」と「2」の生分解性プラスチックを区別するため、現在「1」の比較的安全な生分解性プラスチックを「グリーンプラ」と呼ぶようになりました。この「1」のほうのプラスチック製品には、画像のような「グリーンプラマーク」の表示がされています。



けれどもこのマーク、街のお店などであまり見たことがないのでは。「グリーンプラ」は、製造コストがまだ高く、表示登録がされている製品は、2000年10月以来、839製品にとどまっているからです。

「2」のプラスチックの呼び方についても、考えなければならないでしょう。「1」のプラスチックには「グリーンプラ」という呼び名がついたものの、「2」のプラスチックは今後も「生分解性プラスチック」と呼ばれていくだろうからです。土の中にむやみに埋めてしまうと、人工化学物質ポリエチレンが目に見えないまま、土壌に広がる心配があります。この心配を減らすには、「2」のプラスチックを「生分解性プラスチック」と呼ばないなどの定義付けが重要となってきます。

グリーンプラの詳しい説明がある「生分解性プラスチック研究会」のサイトはこちら。
http://www.bpsweb.net/

参考文献:村上陽一郎著『安全学』
参考サイト:GTR Web 生分解性プラスチック(グリーンプラ)サイト
http://www.gtr.co.jp/green/green-1.htm
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舎人公園の不思議な境界線(1)
東京都足立区の北西に「舎人公園」という大きな公園があります。

舎人(とねり)という地名の由来には諸説があり、「天武天皇の息子・舎人親王にちなんで」とか「アイヌ語で湖を表す『トネ』と高地を表す『リ』が組み合わさって」とか「舎人という馬の管理をする役職者が住んでいたから」などと言われています。ただし「これが答だ」といえる決定的な説はない模様。

舎人公園の敷地は、「舎人公園」「古千谷」「西伊興」「皿沼」「西伊興町」「舎人町」「入谷町」という7つの地区からなります。広さは、68.8ヘクタール。東京ドームが14個も入ってしまいます。

この公園の敷地の北側に、なんとも不思議な一帯があります。舎人町と入谷町という2つの地区が複雑に入り組んでいるのです。

地図を見ながら北のほうから順にたどっていきましょう。


尾久橋通り(クリーム色の南北の道路)と補助294号線(地図上部の東西の道路)がクロスする交差点付近は舎人町となっています(1)。その舎人町からわずか50メートルなんかすると、入谷町に。入谷町は、ひとつの地区の面積としてもかなり狭いほうです。

この入谷町の中に、さっきの舎人町が「凸」のような形で埋まっています(2)。交差点付近の(1)の舎人町と、(2)の舎人町は、完全に分断されています。舎人町は飛び地の地区ということになります。

さらに、入谷町を南へ行くと、舎人町と入谷町からなる直角三角形の先端部分はまた舎人町となります(3)。これで3度目の舎人町。

複雑に入り組んだ舎人町と入谷町。しかも舎人公園の敷地のわずかな一角のみが、舎人町と入谷町です。地図を見ると、その理由を知りたくなってきます。つづく。
| - | 22:54 | comments(0) | trackbacks(1)
村上陽一郎の「世代間倫理」(2)
村上陽一郎の「世代間倫理」(1)

われわれは、何十年か後には死んでしまいます。

けれども、「次の世代が持続可能な環境の中でに過ごせる世界を残すのが、われわれの責任だ」という考え方があります。一方、「そうはいってもどうせわれわれは死んでしまうんでしょ(だったら、環境のことなんて気にしないでもいいじゃん)」という考え方もあります。

では、「そうはいってもどうせわれわれは…」と思っている人に対して、効果的に説得するにはどうしたらよいのでしょうか、村上先生?

「難しい問題ですね」

「われわれと同世代の仲間には、たとえば、今日一日、食べていけるかどうかも分からないような人たちがいます。『われわれの後の世代のことは知らないよ』という考え方も、全面的に否定はできません」

「けれどもわれわれがいま生きている隣人(となりびと)に、『よきサマリア人(苦しんでいる人に手をさしのべる人、聖書に出てくる)』として倫理的に振る舞うということを、正しいとするとしましょう。もし、そうならば、いま生きている人に礼儀的に振る舞うのと、これから生きるであろう人に、よきサマリア人として振る舞うことの間に、どこに差があるのかということになります。そういう論はたてることは可能だと思うのですよ」

「同世代のすべての人が、倫理的に振る舞うということをみな了解して行動しているわけではありません。なので、難しいは難しいです。けれども、われわれが倫理的に振る舞うことを正しいと思うのであれば、「いま生きている人に対して倫理的に振る舞う」ということと、「これから生きる人に対して倫理的に振る舞う」ということは同じことであって、そこに差はないはずだ、という論はたてることができると思うんです」

“よきサマリア人”の話は、例えば、飛行機の機内で急病人が発生したときに、たまたま居合わせた医師が、「専門ではないし、下手に手を出さないほうがよい」などと素知らぬ振りをするのではなく、やはり困っている人がいたら手を差し伸べる、といったことと似た話です。ちなみに、アメリカには「よきサマリア人法」という法律があって、善意で人の命を助けようとした場合、それで過失(ミス)を犯したとしても、責任は問われないことになっているそうです。

村上先生自身も「難しい問題」と言うとおり、「いま生きている人に対して倫理的に振る舞うのと、これから生きる人に対して倫理的に振る舞うことは同じこと」という考えを広めることで、世代間倫理の問題が劇的に改善されるかといえば、やはり「そうはいってもね…」の部分が残されると思います。

けれども、こうした考えを知っていることと知っていないことでは、また差があるのもたしかなのでしょう。

村上先生の貴重な意見を聞くことのできた夜でした。(了)
| - | 01:34 | comments(0) | trackbacks(0)
村上陽一郎の「世代間倫理」(1)


早稲田大学で、科学技術ジャーナリスト養成プログラム主催の「MAJESTyセミナー」が行われました。講師は国際基督教大学教授の村上陽一郎先生。題目は「安心・安全と科学・技術」。2時間にわたる、厚い講演でした。

興味あったのは、「世代間倫理」というテーマです。例として最適なのは地球温暖化の問題でしょうか。地球の気温は100年後には、3度ぐらい上がるという予想があります。私たちがくらしの中で排出する二酸化炭素などの「温室効果ガス」の影響によるもので、気候変動、砂漠化、海面上昇などの悪影響が懸念されています。

けれども、言ってしまえばそれは100年後の話。長寿の薬などが普及しないかぎり、私たちの多くがすでに他界しています。つまり、私たちが作った地球温暖化の問題が深刻化したとき、その深刻化した問題に悩まされるのは、私たちよりもずっと後に生まれてくる生き物であって、私たちではないのです。

こうした、世代を超えて考えなければならない問題のことを「世代間倫理の問題」と呼んでいます。村上先生は、「世代間倫理の問題」は「心理的距離の問題」と同じように考えることができるといいます。どういうことでしょうか。

「心理的距離の問題」というのは、ある事件が自分から遠ければ遠いものであるほど、その事件に対する関心や心配は薄くなるというものです。今日、北朝鮮によるミサイルの発射で、日本は号外が出るほどの関心事となりました。けれども地球の裏側の南米では、おそらく、それほど大きなニュースの扱いにはなっていないことでしょう。

この「心理的距離の問題」において、関心が高いか低いかの差は、距離の違いによるものです。同じようなことが「世代間倫理」にも当てはまるのではないかと村上先生は言います。つまり、「いま」という時から遠くなればなる問題ほど、人々の関心は薄いのではないかということ。この場合、関心が高いか低いかの差は、時間の違いによるものです。

いま私たちがきっかけを作っている問題は、私たちが生きている間は、まだそれほど深刻にはならない…。となれば、経済的な理由などから、未来の世代のことを考えないで行動する人がいてもおかしくないとなってしまいます。

では「世代間倫理」の問題を解決するためには、どうしたらよいのでしょう、村上先生? つづく。
| - | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0)
科学技術振興調整費の凍結


早稲田大学の理工学部の松本和子教授が、文部科学省からの研究費1,472万円を不正に処理して私費にしていたというニュースが先月ありました。学内からの内部告発だったと聞いています。

文科省は、国の税金「科学技術振興調整費」106億円について、早稲田大学に支給することを、当面のあいだ凍結することにしています。

私が所属している、早稲田大学院の「科学技術ジャーナリスト養成プログラム」も、この文科省の科学技術振興調整費により運営されているプログラムです。つまり現在このプログラムへの支払いも凍結されています。

今回の「凍結」に対するプログラム内の反応は、見たところではとても冷静です。科学技術振興調整費がまったく支払われないことになったわけではなく、実際、事務次官からは「文部科学省としては、今後とも公的研究費全般において適切な運用がなされるよう最大限の努力をしてまいります」といったコメントも発せられています。そのため、教授陣も学生も比較的落ち着いた反応です。

ただ、多くの教授陣からは「授業は引き続き、普段どおりやっていくので、心配しないで勉強に専念するように」と、平静を呼びかける主旨のメールやコメントが学生に対して送られました。

また、「ジャーナリストを目指すプログラムである以上、今回の不正受給の件も、世の中に伝えていくべき」といった意見もプログラムからは出ています。

このプログラムで学ぶにあたっては、学生は、科学技術振興調整費をまるまる頼りにしているわけではなく、普通の大学院生が支払う程度の入学金や授業料も支払っています。けれども、年額1億円以上の科学技術振興調整費の支払いがあるからこそ、外部からの著名人を招いたり、研究のための設備を使えたりするのもまた事実。

今回の科学技術振興調整費の「凍結」は、プログラム自体が国税(皆々様の税金)で成り立っていることを考えるよい機会だと思います。

文部科学省6月23日発表「公的研究費の不正な使用に関する早稲田大学の報告書について(文部科学事務次官談話)」はこちら。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/18/06/06062307/001.htm

早稲田大学6月29日発表「公的研究費の不正請求問題等に対する本学の対応状況について」はこちら。
http://www.waseda.jp/jp/news06/060629.html
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
読書会、執り行われる。


早稲田大学大学院・科学技術ジャーナリスト養成プログラムのメンバーと、「リスク管理」という授業をご担当している若杉なおみ客員教授で、読書会を行いました。

あらかじめ指定の本を読んできて、それについて、テーマをもちよりディスカッションをするというものです。

指定の本は、きのうの記事で書評した村上陽一郎先生の著書『安全と安心の科学』。7月5日に、早稲田大学で村上先生を招いてのセミナーが行われるので、その予習も兼ねての読書会です。

読書会には、若杉先生と、院生の方、二人の医師も参加しました。『安全と安心の科学』で語られていた「インシデント・リポート」(病因の医療スタッフがミスや事故が無かったかどうかを報告する、毎週1回程度ミーティング)が機能しているのかどうかなど、現場の模様を話してもらいました。「インシデント・リポート」は行われているけれども、いまだ責任追及の場という風潮がある」という話も出ました。

けれども、「インシデント・リポート」が行われるようになったこと自体が医療界での進歩という側面もあり、そして、それは『安全学』の出版を始めとする村上先生の情報普及活動によるところが大きいとのことでした。

最初に出されたテーマが横にずれがちになる点もありましたが、参加者の価値観や新たなアイディアを得ることができました。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(1)
書評『安全と安心の科学』
昨日に引き続き、村上陽一郎先生の「安全学」に関する本を紹介します。

『安全と安心の科学』村上陽一郎著 集英社現代新書 2005年 p208


1998年に『安全学』という本を上梓したとき、村上には、「安全学という学問が成り立つのかどうか」という不安があったという。その不安はいまも抱えたままのようだ。

けれども、2004年、文科省に安全・安心に関する懇談会が発足した。世間では、「安全学」と表裏一体といえる「リスク管理論」が大学などさまざまな場で活発に論じらてきている。『安全学』が世の中にあたえた影響は着実に出ているようだ。

そんな中、同じテーマの新書が出た。

2005年の1月に出版されたこの『安全と安心の科学』は、1998年の『安全学』に比べると、広く一般の人に書かれてあり、内容は平易だ。

医療の現場で起こったミスを毎週のミーティングで医師などから報告させる「インシデント・リポート」など、最近の組織による具体的事例を紹介しつつ、村上の安全に対する論を重ねていく。

村上の代表的主張の一つが、「フール・プルーフ」の考えを、安全対策の中に取り入れるべきというもの。

例えば、乗り物の設計において、運転者の能力を最初から高いものと設定して設計するか、それとも、能力を低いものとして設計するか。こうしたことに対して「人は誰もがミスをする」という「フール・プルーフ」の前提に立って、安全対策を重層に施せば、人為的なミスの場合でさえ、システムがそのミスを救うことが可能になるといった主張だ。

この「フール・プルーフ」を取り入れるべきという主張には、ただ単に事故が起きた責任を誰か人物に帰するだけで、ことを片付けるという現代社会が陥りがちな欠点を指摘している。構造的に何が起きたのかを検証してこそ、つぎに同じようなことが起きたときに、安全を保つことのできる対策が立てられるということだ。

本全体では、組織が取り組むべき安全対策の話が多かった。これらは、日常生活での個人ベースでの事例にも当てはめて考えることができるものが多く含まれて入るが、もう少し、読者自身の生活の中で、一人一人が考えられる安全対策についても、村上の論を聞いてみたかった。

『安全と安心の科学』はこちら。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/408720278X/qid=1151855060/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/503-1861222-7056726
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
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