科学技術のアネクドート

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殺人光線の開発(1)
第二次世界大戦中、米国では科学者たちが集まって原子力爆弾の開発を進めていました。「マンハッタン計画」という名がついていますがこれは戦争時の暗号名。研究開発の現場はニューメキシコ州ロスアラモスにありました。

戦争のために科学者たちが動員された国は米国だけではありません。日本でも原子爆弾開発の筋道は議論されていました。理化学研究所の仁科芳雄が中心となり、研究開発が行なわれていたのです。こちらの暗号名はニシナの「ニ」をとって「ニ号研究」とよばれていました。

戦時中の日本では、もう一つ、科学者たちを動員して開発されようとしていた戦争兵器があります。

その兵器は「殺人光線」とよばれていました。

現在の静岡県の島田市は戦争当時、人口3万人足らずの小さな町だったといいます。この町に1943年「海軍技術廠島田分室」という研究施設が開かれました。現在の東海パルプの施設の中に置かれたもの。ここが、殺人光線の開発現場となります。

島田分室には、日本の代表的な科学者たちが駆り出されました。たとえば2001年に亡くなった宇宙物理学者の小田稔もその一人。東京帝国大学でウランの分離装置の計算をしていると、所属する研究室の親分だった菊池正士から「この計算は、ちょうどいま海軍が一生懸命やりかけている強力な磁電管、マグネトロンの計算にも使えるから海軍の研究所に行かないか」と勧められました。小田は自身が島田分室に出向いた理由をそう証言しています。



また、戦後ノーベル物理学賞をとることになる朝永振一郎(絵)も、この島田分室におもむき研究開発に参加した科学者でした。当時、朝永は東京帝国大学(いまの東京大学)の講師でもありました。

島田市に泊まり込んで研究をしていた朝永。島田分室では電極から電磁波が出てくる現象のしくみを理論的に解明しようとしていたといいます。疲れた体を癒すため風呂に入っていると、おなじく島田分室に出向いていた仁科芳雄から、湯けむりの中、こんな噂話を聞き受けます。

「海軍の本音は、米軍のパイロットをねらった殺人光線を開発することにあるらしいぞ」。つづく。
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