科学技術のアネクドート

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柴田鉄治さん、実感とともに「日本人の原子力観」伝える


科学ジャーナリストの柴田鉄治さんが(2020年)8月23日(日)、腎不全のためお亡くなりになりました。85歳でした。

柴田さんは1935(昭和10)年生まれ。東京大学理学部卒業後、1959(昭和34)年に朝日新聞社に入り、水戸支局で新聞記者の歩みを始めました。その後、東京本社社会部長、科学部長、論説委員などをつとめました。

朝日新聞に科学部ができたのは、柴田さんが入社したわずか2年前の1957(昭和32)年。柴田さんは「科学専門記者の“生みの親”は原子力、“育ての親”は宇宙開発」ということばをしばしば口にしていました。原子力開発や宇宙開発という世界の科学技術の動きが、新聞の科学報道の必要性を高め、科学を専門とする新聞記者を輩出させたということです。柴田さん本人にも、科学報道の黎明期を担ってきた自負心がきっとあったのでしょう。

柴田さんが長らく携わった日本科学技術ジャーナリスト会議では、「科学ジャーナリスト塾」という学びの場や、「科学ジャーナリスト賞」という表彰の制度を創り、広く科学技術報道の発展に尽力されました。人びとに貢献したいという気持ちはもちろんあったでしょうが、それもふくめて、そうしたことをご自身が心からやりたいと思ってやっていたにちがいありません。

科学ジャーナリスト塾では講師として、柴田さんが体験し、感じてきたかずかずのことを披露しました。とくに、戦争直後の日本人が抱いていた「原子力観」を熱心に語っていました。このブログでも、過去に柴田さんのことばをいくつか紹介しています。下記のように……。

(原子爆弾を被ったあとの日本国民の心情について)「不思議なことに、唯一の被害者だった日本国民が(原子力の利用は不幸だとは)考えなかったのです。科学技術を軍事に使ったら大変な悪だが、人類のために使えばプラスだったと多くの人は考えました」。

(1959年の水戸支局配属で、原子力研究所の発足から間もない東海村を取材して)「最寄り駅から研究所までの道は紅白幕で飾られ、小学生が旗行列。地元名物は『原子力饅頭』でした」。

「科学技術に“恨み骨髄”とはならなかった」。このことが、その後の日本の復興に大きな影響をあたえたとも言います。

戦中から戦後にかけての、柴田さん本人の実感をともなったお話の数々でした。こうしたお話を柴田さんから直接、聞く機会はなくなってしまいました。

ご冥福をお祈りします。

参考資料
朝日新聞 2020年8月25日付「柴田鉄治さん死去」
https://www.asahi.com/articles/DA3S14597522.html
科学宅配塾「講師プロフィール 柴田鉄治」
http://science-communication.or.jp/profile/profile07.html
科学技術のアネクドート 2008年5月24日付「原子力が日本を揺り動かした(1)」
http://sci-tech.jugem.jp/?day=20080524
科学技術のアネクドート 2008年5月25日付「原子力が日本を揺り動かした(2)」
http://sci-tech.jugem.jp/?day=20080525
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