科学技術のアネクドート

<< 伝える文とともに、伝わる絵 | main | さくらももこさん死去、1年のラジオで音楽の魅力も届ける >>
「通訳」は人も指し、「翻訳」は人を指さず

ドイツの医者フィリップ・シーボルト(1796-1866)が『日本』に描いた長崎の出島

職業には、じつにいろいろな種類があるものです。厚生労働省が発行する「職業分類表」には「細分類」でおよそ900ほどの職業が載っています。

似て非なる職業の例として「通訳」と「翻訳家」をあげることができます。通訳は、おもに対話する人たちのあいだに入って、言語が異なるために通じない話の仲だちをする職業。翻訳家は、おもに文に対して、ほかの言語になおして表現する職業。どちらも「ほかの言語にする」という点は共通しているものの、意思疎通の種類や、即時性の有無といった点で異なります。

細かい点でもうひとつ、「通訳」は「者」や「家」といった接尾辞をつけなくても職業名として通るのに、「翻訳」のほうは「者」や「家」などの接尾辞をつけないと職業名としては通らないというちがいもあります。職業名のほか人のことをさすときも「通訳」は「通訳」でもよいのに、「翻訳」は「翻訳者」や「翻訳家」などと接尾辞をつけなければなりません。たとえば「通訳になりたい」「関根通訳」「通訳さん」とは言えば通じても、「翻訳になりたい」「熊谷翻訳」「翻訳さん」では、ちょっとなにを言っているのかわかりません。

どうして「通訳」は「者」や「家」をつけなくても職業や人を指すのに、「翻訳」は「者」や「家」をつけないと職業や人を指すことにならないのか。なかなか答はみつかりませんが、探ることはできます。

通訳をする人も、翻訳をする人も、かつて江戸幕府における公的な職業者として認められていました。

幕府のために翻訳をする人は、「翻訳方(ほんやくがた)」とよばれ、江戸時代末期の安政年間(1854-1860)、海軍所や外国関係の事務を司る外国奉行の下で、外国語の翻訳をしていたといいます。

いっぽう、幕府のために通訳をする人は「通詞(つうじ)」あるいは「通事(つうじ)」などとよばれていました。たとえば1604(慶長9)年には中国語の通訳である「唐通事」が長崎に置かれましたし、おなじ17世紀には、オランダ語の通訳として「蘭通詞」が平戸、ついで長崎に置かれました。役職の歴史としては、翻訳方より通詞や通事のほうが200年以上も古いことになります。

江戸幕府の職名には「勘定方」や「鉄砲方」のように「ところ」などを意味する「方」のつくものが多くあり、「翻訳方」も「翻訳」に「方」がついたものと考えられます。つまり、「翻訳方」の「翻訳」は「翻訳する」という動詞の要素であることになります。

では、通訳者をあらわす「通詞」には「通詞方」のように「方」をつけるよびかたが
なかったかというとそうでなく、普通に使われていたようです。書物では1749(寛延2)年ごろ『阿蘭陀通詞方分限帳』が発行されていますし、ほかの多くの書物でも「通詞方」とよく記されています。つまり、「通詞」でも「通詞方」でも、職業や人のことを指していたわけです。

国語辞典の「通詞」の項目には「『通訳人』の旧称」とあります。いまの「通訳」ということばは「通詞」ということばが使われなくなるかわりに広まったのでしょう。つまり、「通詞」を職業や人として指していたのだから、「通訳」もまた職業や人を指して使う言葉として使われるようになったことが推しはかれます。

では、「通訳人」ないし「通訳」の旧称である「通詞」は、どうして職業や人も指すことばだったのでしょう。

ここからは想像の域ですが、通詞には、さまざまな階級があったことが関係しているのではないでしょうか。

通詞という職業は、見習いの通訳である「稽古通詞」から始まって、補佐役の「小通詞(こつうじ)」、そして最上位の「大通詞(おおつうじ)」へと昇進していったといいます。つまり「通詞」の前に「稽古」「小」「大」がつくわけです。

はじめ、人びとは、通訳をする職や人を「通詞方」とよんでいたかもしれません。しかし、「稽古通詞」に「方」までつけて「稽古通詞方」とよぶのは、なんとも冗長です。「通詞方」は「通詞方」とよぶけれど、「稽古」や「小」「大」がつくときには「方」を省いて、職や人のことを指すときも「稽古通詞」「小通詞」「大通詞」で通したのではないでしょうか。

そして、「通詞」だけで職や人を指すという使いかたは定着し、この使いかたが「通訳」にも引きつがれたという説です。

「通訳」のように、作業を示す体言の言葉が、「者」「家」「人」などをつけずに職業や人も指すという例はそう多そうではありません。ほかには「監督」「窓口」「代理」ぐらいでしょうか。

なお、「翻訳さん」というよびかたは、ごく一部で使われているようではあります。

参考資料
厚生労働省「職業分類表 平成24年3月改訂」
https://jsite.mhlw.go.jp/kanagawa-roudoukyoku/var/rev0/0112/9664/06bunruihyou.pdf
デジタル大辞泉「翻訳方」
https://kotobank.jp/word/翻訳方-632615
ビバ! 江戸「江戸幕府役職一覧」
http://www.viva-edo.com/yakusyokuitiran.html
ブリタニカ国際大百科事典「オランダ通詞」
https://kotobank.jp/word/オランダ通詞-41387
石原千里「ラナルド・マクドナルドの生徒たち」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/1991/23/1991_23_57/_pdf
imidas時代劇用語指南「通詞(つうじ)/通事(つうじ)」
https://imidas.jp/jidaigeki/detail/L-57-108-08-04-G252.html
稲生衣代「放送通訳の変遷と通訳・翻訳手法に関する考察」
http://someya-net.com/10-JAIS/Kaishi2003/pdf/04-Inou_final_.pdf
| - | 18:35 | comments(0) | trackbacks(0)
コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://sci-tech.jugem.jp/trackback/4703
トラックバック
CALENDAR
S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< September 2018 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで
フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで (JUGEMレビュー »)
サイモン シン, Simon Singh, 青木 薫
数学の大難問「フェルマーの最終定理」が世に出されてから解決にいたるまでの350年。数々の数学者の激闘を追ったノンフィクション。
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
  • アナウンサーも日常的に「やつ」
    ★ (08/03)
  • “遅れて来た”日産自動車、“満を持して”リーフ
    うぼで (06/13)
RECENT TRACKBACK
amazon.co.jp
Billboard by Google
モバイル
qrcode
PROFILE