2016.06.07 Tuesday
地図に残されたかたちをたどる(3)神奈川県川崎市上平間
地図に残されたかたちをたどる(1)福岡県八女市龍ケ原
地図に残されたかたちをたどる(2)千葉県船橋市行田
地図や航空写真を目を凝らしてみると、円形の輪郭をなしているように見えなくもない場所をたどっています。今回がいちおうの最終回。
神奈川県川崎市の上平間には、かなり崩れているものの、円形に縁どることのできる地域があります。「梅干形」とでもいったらよいでしょうか。
グーグル・マップ航空写真より
画面の下のほうにあたる南側には、平間配水所という川崎市の水道施設があります。そのあたりから右まわりでたどっていくと、緑道を通ってJR南武線のすぐ東側の小道に抜け、右手に県立川崎工業高校を見ながら進むことになります。このあたりまでは、南武線に沿って道がほぼまっすぐ進んでいるといえなくもありません。
しかし、その後、道路は東へ東へと弧を描くように住宅地のなかを分けいるように進んでいきます。そして、南武沿線道路という大きな道路を超えてからも、道路は右まわりで弧を描くようにして曲がっていきます。
そして、平間中学校のところで、この弧はいったん途ぎれてしまいますが、一回り外側から、ふたたびなんとなく弧を描くような道路がつづいきます。途中にまっすぐな道路もあるものの、またもとの平間配水所に戻ってきます。
かなりひしゃげた形ですが、全体として円形に見えなくもありません。
おとといの回の八女市龍ケ原の「正八角形」と、きのうの回の船橋市行田の「円形」は、いずれも軍関係の施設がつくりだした輪郭の名残でした。
しかし、この上平間の場合、どうやら軍事関係の施設とは関係ないようです。この地に軍事施設があったというような歴史は見あたりません。太平洋戦争より前、1936(昭和11年)に日本の陸軍が撮影した航空写真でも、上部やや左側に梅干形の輪郭が大きく写っています。
より古い時代の地図での描かれかたを求めて「今昔マップ」を見てみると、1909(明治42)年製版の地形図「溝口」でも、すでに梅干形の輪郭になっていることがわかります。
さらに、明治前期の「第一軍管区地方2万分1迅速測図原図」という地図を基本としている「歴史的農業環境閲覧システム」を見ても、梅干形の輪郭になっています。そして梅干形の内側は「水田」と書かれています。
農業環境技術研究所「歴史的農業環境閲覧システム」より
このあたりは、東に多摩川が流れ、すぐ西に「二ヶ領用水」とよばれる江戸時代からある人工用水路が流れています。水の豊富な地域であったことはまちがいなさそうです。
多摩川は江戸時代「暴れ川」だったそうです。すると、大蛇行する多摩川が弧を描き「半ば完全な円形」といえる地形を生み出した、ということは考えられそうです。
しかし、この上平間に大きく蛇行していた川がかつて流れていたというような歴史は、なかなか聞かれません。
「第一軍管区地方2万分1迅速測図原図」を見ると、梅干型の内側に位置する平間公園という公園には、かつて田んぼのなかにぽつねんと神社があったようです。しかし、いまはその神社もなく……。
上平間の「梅干形」の謎は残されたままとなりました。了。
地図に残されたかたちをたどる(2)千葉県船橋市行田
地図や航空写真を目を凝らしてみると、円形の輪郭をなしているように見えなくもない場所をたどっています。今回がいちおうの最終回。
神奈川県川崎市の上平間には、かなり崩れているものの、円形に縁どることのできる地域があります。「梅干形」とでもいったらよいでしょうか。
グーグル・マップ航空写真より
画面の下のほうにあたる南側には、平間配水所という川崎市の水道施設があります。そのあたりから右まわりでたどっていくと、緑道を通ってJR南武線のすぐ東側の小道に抜け、右手に県立川崎工業高校を見ながら進むことになります。このあたりまでは、南武線に沿って道がほぼまっすぐ進んでいるといえなくもありません。
しかし、その後、道路は東へ東へと弧を描くように住宅地のなかを分けいるように進んでいきます。そして、南武沿線道路という大きな道路を超えてからも、道路は右まわりで弧を描くようにして曲がっていきます。
そして、平間中学校のところで、この弧はいったん途ぎれてしまいますが、一回り外側から、ふたたびなんとなく弧を描くような道路がつづいきます。途中にまっすぐな道路もあるものの、またもとの平間配水所に戻ってきます。
かなりひしゃげた形ですが、全体として円形に見えなくもありません。
おとといの回の八女市龍ケ原の「正八角形」と、きのうの回の船橋市行田の「円形」は、いずれも軍関係の施設がつくりだした輪郭の名残でした。
しかし、この上平間の場合、どうやら軍事関係の施設とは関係ないようです。この地に軍事施設があったというような歴史は見あたりません。太平洋戦争より前、1936(昭和11年)に日本の陸軍が撮影した航空写真でも、上部やや左側に梅干形の輪郭が大きく写っています。
より古い時代の地図での描かれかたを求めて「今昔マップ」を見てみると、1909(明治42)年製版の地形図「溝口」でも、すでに梅干形の輪郭になっていることがわかります。
さらに、明治前期の「第一軍管区地方2万分1迅速測図原図」という地図を基本としている「歴史的農業環境閲覧システム」を見ても、梅干形の輪郭になっています。そして梅干形の内側は「水田」と書かれています。
農業環境技術研究所「歴史的農業環境閲覧システム」より
このあたりは、東に多摩川が流れ、すぐ西に「二ヶ領用水」とよばれる江戸時代からある人工用水路が流れています。水の豊富な地域であったことはまちがいなさそうです。
多摩川は江戸時代「暴れ川」だったそうです。すると、大蛇行する多摩川が弧を描き「半ば完全な円形」といえる地形を生み出した、ということは考えられそうです。
しかし、この上平間に大きく蛇行していた川がかつて流れていたというような歴史は、なかなか聞かれません。
「第一軍管区地方2万分1迅速測図原図」を見ると、梅干型の内側に位置する平間公園という公園には、かつて田んぼのなかにぽつねんと神社があったようです。しかし、いまはその神社もなく……。
上平間の「梅干形」の謎は残されたままとなりました。了。