科学技術のアネクドート

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爆心地の横に飛行場「アトミック・フィールド」――長崎とアトム(12)


長崎市浦上の爆心地に1948年ごろから1949年にかけてよばれた「アトム公園」は、どのような経緯で名づけられたのでしょうか。

当時の新聞などが収蔵されているプランゲ文庫のほかにも、終戦直後の長崎の状況を物語る資料や証言がいろいろあります。

それらをまとめてみると、戦後まもなく長崎に進駐してきた米軍の影響がやはり大きかったということが見えてきます。

日本の敗戦から1か月半後の1945(昭和20)年9月30日から10月11日、米国の占領軍1298大隊は、長崎市内に簡易飛行場を建設しました。爆心地から西へ進むと、長崎本線の線路にぶつかりますが、これを越えた現在の陸上競技場や市民総合プールなどがある松山町2丁目あたりは、かつて駒場町とよばれ、戦前・戦中には長崎酸素という企業があった地域でした。“原子野”となったこの地に、米軍の飛行機が離着陸するようになったのです。

この簡易飛行場は、記録写真家のジョー・オダネル(1922-2007)によって撮影されています。を見ると、瓦礫のなかに立つ1本の柱。掲げられた横長の白い板には、角ばった書体でこう書かれています。

「ATOMIC FIELD」

そして、写真が収蔵されている写真集『Japan 1945』には、つぎのような解説文が書かれてあります。


ジョー・オダネル『Japan 1945』

「アトミック・フィールドは、長崎の米海軍滑走路に名づけられた、皮肉が込められた名前である」

日本国内の資料にも、この簡易飛行場が建設されたときの様子を描いた記録があります。地元の老舗百貨店「濱屋」が1960(昭和35)年に出版した社史『濱屋百貨店二十年史』には、次のように書かれています。

「原子爆弾の中心被害地である浦上には飛行場がたちまちのあいだにできあがって『原子飛行場』と命名され、小型機が発着した」

また、毎日新聞西部本社がまとめた『激動二十年 長崎県の戦後史』という本には、次のような説明が見られます。

「浦上の爆心地に乗り込んだ別働隊は、松山の焼け跡(現三菱グラウンド付近)に、わずか三日間で長さ千五百メートル、幅百五十メートルの簡易飛行場を建設した。名づけてアトミック・フィールド(原子爆弾飛行場)。完成と同時にLH連絡機があわただしく離着陸を始めた」

1945年の終戦直後、「アトミック・フィールド」という、「アトム」に関連するよび名の簡易飛行場が建設されていたのです。

爆心地のすぐ脇にあるという位置関係からしても、「アトム公園」というよび方には、このアトミック・フィールドの存在が関わっていたということが想像できます。踏みこんで推測すれば、飛行場がアトミック・フィールドとよばれていたことに触発され、その近くの爆心地公園にはアトム公園というよび名が付けられたということが考えられます。

しかし、「アトミック・フィールド」を米軍が名づけたことは想像できても、「アトム公園」を誰が名づけたかを探るには資料が足りません。これも米軍によるものなのか、長崎民友の新聞記者によるものなのか、長崎市民の自発的なものなのか。

あるいは、“当時の気運”が「アトム公園」のよび名をつけたのかもしれません。爆心地が「アトム公園」とよばれるようになった経緯を探るためには、より広い視野で当時の状況を見る必要があります。つづく。
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