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松山町171番地は別荘だった――長崎とアトム(2)

1945年8月9日に原子爆弾が投下された長崎市の「爆心地」には、「松山町171番地」という地番がついていました。いま「平和公園」の一角となっているこの地は、被爆の日を迎えるまで当地の富豪の高見和平氏が所有する別荘のテニスコートでした。
 
この敷地は、面積およそ38900平方メートル。夾竹桃や杉、それに桐などの木々に囲まれていたといいます。
 
原爆投下当時の松山町の街並みを復元した「長崎市原爆被災市街地復元図」という地図があります。これを見ると、敷地(中央の色付き囲み)の東側には浦上川の支流が流れ、西側にはいまの国道206号線にあたる大通りが走っています。
 
調来助編著『長崎 爆心地復元の記録』付録地図より(色付き囲みは当ブログで付けたものです)
 
また、大通りには「クリーニング店」「時計店」「牛乳配給所」などの商店が連なっていたことも見受けられます。
さらに、このとおりの道沿いの高見氏の別荘から北に100メートル進んだところには、「黒川」という名前の方が住む一軒家があります(地図の左がわの色付き囲み)。
 
この黒川家は、原爆投下の瞬間に松山町にいた人々の中で、ただひとりだけ被爆しながら生存を果たした黒川幸子さん(当時9歳)の住んでいた家です。
 
原爆投下時、高見氏の別荘は三菱長崎造船所が宿舎として使用するために買収したばかり。女子挺身隊の宿舎にする計画だったようです。まだ空き家となっていました。
 
この高見氏の別荘の真上、およそ500メートルの位置で、原子爆弾は炸裂しました。原子爆弾投下により、長崎では死者約74000人、負傷者約75000人という甚大な被害となりました。
どのように、この松山町171番地が爆心地であると突き止められたのでしょうか。つづく。
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