私たちは自分の意志によってものごとを選んでいるのでしょうか。それとも、社会にしくまれている“なにか”によってものごとをあたえられているのでしょうか。
フランスの映画作家ギー・ドゥボール(1931-1994)が1967年に『スペクタクルの社会』という本を刊行しました。
英語版の『スペクタクルの世界』表紙
「スペクタクル」とは一般的に、「壮観」といった意味や、そこから「大じかけな見せもの」といった意味をさします。
いっぽう、ドゥボールが述べる「スペクタクル」とは、「イメージと化すまでに蓄積の度を増した資本」のこと。そうした意味での「スペクタクル」に支配されたような社会は「スペクタクル化社会」や「スペクタクルの社会」と表現されています。
芝居では、つぎつぎと大じかけな見せものが観客の前でくりひろげられられます。観客は、舞台を見ているだけで、さまざまなできごとを見て感じることになります。
「スペクタクル化社会」においては、観客は保守的な中間階層であり、この層が中心を占めるとされます。いわゆるサラリーマン層のことといってもよいでしょう。
そして、ドゥボールは、彼の述べる「スペクタクル」のなかにおいては、「商品の物進化」そして「感覚しうるけれども感覚を超えたさまざまなモノによる支配」が完遂されるといいます。
かつては社会における中間階層とは、労働によって搾取され、それに対する抵抗活動をする主体と捉えられてきました。しかし、スペクタクル化された社会では、中間階層はもはや日常生活において搾取され、余暇や消費をめぐる闘争をする主体と化しているといいます。
そしてドゥボールは、スペクタクルを「財を商品と同一視し、満足をそれ自体の法則にしたがって増大する余分な生と同一視することを受け入れさせるための、永遠の阿片戦争」とも表現します。
ドゥボールは、情報媒体のスペクタクル性にも目を向けます。つぎつぎと「観客」たちに情報をあたえつづけることによって、媒体のもつ権力性は社会において無意識になっていくとドゥボールは考えました。
大量にある言説が流されていくと、たとえそれが嘘であっても、いつのまにか人びとがその言説に対して無意識になってしまうということもあります。近年いわれているフェイク・ニュースがもつ性質もそれに近いかもしれません。
ドゥボールは、こうした「スペタクル化社会」に対して批判をし、運動を展開しました。つづく。
参考資料
世界大百科事典「スペクタクル」
https://kotobank.jp/word/スペクタクル-84782
アートスケープ「アートワード 『スペクタクルの社会』ギー・ドゥボール」
http://artscape.jp/artword/index.php/『スペクタクルの社会』ギー・ドゥボール
ブリコラージュ@川内川前叢茅辺「ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』木下誠訳、ちくま学芸文庫、2003年」
http://st.cat-v.ne.jp/kawamae_cho/book/suppl_45.html
2017.11.12 Sunday
社会はスペクタクル化していった(1)
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