科学技術のアネクドート

直立する電信柱――長崎とアトム(3)

被爆直後の長崎市浦上駅付近、山端庸介撮影

原子爆弾投下が投下されたのは長崎市松山町171番地(当時)の上空500メートル。この場所が爆心地であることは、どのように突き止められたのでしょう。

長崎市が編纂した『長崎原爆戦災史 第二巻 地域編』によると、被爆直後から、爆心地は松山町であるという未確認の情報が出まわっていたといいます。その根拠として、松山町の電信柱や木々などの姿が上げられます。

まわりの町では電信柱や木々はなぎ倒されているのに、松山町の電信柱や木々は焼けても直立して立ち残っていたものがありました。こうしたことから、松山町が爆心地であるという噂が流れていたのでしょう。

原爆投下の翌日、山端庸介という写真家が長崎の街の姿を撮影しています。1940年以降、従軍写真班の一員として、中国、台湾、シンガポールなどに赴きました。そして、1945年8月6日、陸軍西部軍報道部に従事させられていた山端は、長崎に赴任をしました。原爆投下の3日前です。

山端の撮った被爆直後の長崎の写真の数々は、平和博物館のホームページ「山端庸介撮影の足取り」で見ることができます。がれきの荒野と化した浦上の街でぽつねんと垂直に立ったままの電柱が山端に撮影されています。

後日、公式な爆心地の推計と決定が行われました。文部科学省学術研究会議・原子爆弾災害調査研究特別委員会から、理科学研究所の木村一治、田島英一、また地震研究所の金井清などの科学者が長崎に派遣され、現地を調査しました。

木村らは、浦上天主堂の忠霊碑(爆心地からおよそ450メートル)、浦上天主堂前の記念碑(450メートル)、長崎医科大学附属病院の窓枠(650メートル)、井樋の口の交番所(1470メートル)などに残されている焼け跡の向きなどを手がかりにしました。これらの焼け跡の向きの焦点が合った場所が、爆心地であると考えたわけです。

長崎市松山町171番地が爆心地であることが決定されました。つづく。
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