科学技術のアネクドート

距離とともに揺れは小さくなる


写真作者:Thad Zajdowicz

地震は、「震源」とよばれる地震波の発生した地点で起き、そこで発生した揺れが波として岩石を同心円状に伝わっていきます。ですので、地上の各地では、震源の真上にあたる「震央」を中心に、だいたい同心円状に揺れが起きます。たとえば、1995年1月の兵庫県南部地震では、淡路島を震央とし東は茨城県の水戸あたりまで、西は鹿児島県の鹿児島あたりまで揺れました。

そして、地震の揺れの大きさも、だいたいは震央から離れていくにつれて小さくなっていきます。兵庫県南部地震では震央のあたりは震度7でしたが、奈良や岡山で震度4、名古屋や松山で震度3、水戸や鹿児島で震度1といった具合に、震央からだいたいおなじ距離の場所の震度はおなじになっています。

震源から離れるにしたがって揺れが小さくなることは、「距離減衰」とよばれています。では、距離減衰はどうして起きるのでしょうか。距離減衰は、ふたつの種類の「減衰」が合わさったものと説明されます。

ひとつめの「減衰」は、「内部減衰」とよばれるもの。これは、波が媒質中、ここでは岩石のなかを通っていくとき、波のエネルギーがべつのエネルギーに変換されていき、波のエネルギーが減っていく現象です。

もうひとつの「減衰」は、「幾何減衰」とよばれるもの。これは、波が伝わる距離とともに波の面が広がっていくため、その分、振幅が減少していくという現象です。

これらの減衰の要素をとりいれた、「距離減衰式」あるいは「地震動予測式」とよばれる数式もあります。また、波が発生源から遠くまで伝わっていくというしくみは、地震波だけでなく、音波などの波の性質をもつものでも当てはまるもの。よって、騒音をめぐる研究などでも距離減衰の考えかたが使われています。

参考資料
NHK for school「地震のゆれの広がりかたは?」
http://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005301431_00000
日本建築学会「阪神・淡路大震災の被害について」
https://www.aij.or.jp/jpn/seismj/lecture/lec2.htm
地震調査研究推進本部「距離減衰式」
https://www.jishin.go.jp/resource/terms/tm_attenuation_relation/
岐阜市「振動の基礎知識」
http://www.city.gifu.lg.jp/secure/6589/sindkiso.pdf
防災科学技術研究所「強振動の基礎 断層近傍をどう扱うか」
http://www.kyoshin.bosai.go.jp/kyoshin/gk/publication/2/II-3.5.html

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(2019年)7月13日(土)は「予測する脳・発達する脳」


催しもののお知らせです。

(2019年)7月13日(土)13時30分より15時30分まで、東京・青海の日本科学未来館で、IRCN一般講演会「予測する脳・発達する脳」が開かれます。主催は、東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(IRCN:International Research Center for Neurointelligence)

ニューロインテリジェンス国際研究機構は、生命科学、医学、社会、数理、情報科学を融合した新分野「ニューロインテリジェンス」を創り、神経の動作のしくみにもとづく人工知能の開発をめざして2017年10月に設立した研究機関。文部科学省が「世界から目に見える研究拠点」の形成をめざしておこなっている「世界トップレベル研究拠点プログラム」(WPI:World Premier international research center Initiative)という事業の対象に選ばれています。

当日の講演では、まず同機構主任研究員の辻晶さんが「赤ちゃんの言語発達の不思議:予測する脳と影響し合う脳の役割」という演題で登壇します。「生まれる前から母国語を学んでいる」とされる赤ちゃんの能力を題材に、社会環境のちがいがどう言語習得に影響をあたえるかの実証実験などを紹介するとのこと。

つぎに、おなじく同機構主任研究員の長江志江さんが「予測脳の発達:ロボットを創ることでヒトを理解する」という演題で登壇します。ヒトの脳を理解するための方法のひとつが、人工的な脳をロボットに入れて学習や発達のしかたを調べるというもの。脳が環境との相互作用をとおしてどのように自己を認知し他者と共感するようになるのかを、ロボットを使った実験により示します。

その後、座談会では、明治学院大学文学部教授で作曲家の望月京さんを交えて「ヒトの脳の可能性」という主題で座談会を開くとのこと。

同機構は、この講演会について「ヒトの言語習得や自己認知・他者共感に関する最先端の研究をわかりやすくお話するとともに、ヒトの脳の可能性について作曲家も交えてディスカッションを行うことにしております。皆様のご参加をお待ちしております」とよびかけています。

IRCN一般講演会「予測する脳・発達する脳」は、7月13日(土)13時30分から日本科学未来館の未来館ホールにて。対象は「高校生以上」。この講演会の参加費は無料。7月5日(金)まで参加の申しこみを受けつけていますが、定員は300名とのこと。同研究所による案内はこちらです。
https://ircn.jp/outreach/20190713_publicevent1
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東京ドーム内、中波放送の音声もはっきりと


プロ野球などの運動競技を現地で観戦するとき「ラジオの実況放送とともに聴く」という人もなかにはいるのではないでしょうか。観ているだけでは状況がつかみづらかったり、解説を聴きながら試合を観たかったりと、理由はさまざまでしょう。

たいていプロ野球のラジオ実況放送は、「AMラジオ」局が制作し、放送するもの。波長100〜1000メートルの中波とよばれる電波による放送です。2015年ごろから、民間のAMラジオ局は「FM補完放送」を開始し、同一の放送を長波を使っても放送するようになりましたが。

しかし、日本放送協会(NHK)のラジオはFM補完放送をしておらず、中波放送のみ。また、ラジオによっては、FM補完放送を受信できないものもあります。

一般的に、中波放送より長波放送のほうが、建てもののなかまで電波が届きにくく、放送を聴こうとしても聴けなかったり、雑音が入って聴きづらかったりします。

屋外の競技場であれば、中波放送でラジオ実況を聴くことはできます。問題は、ドーム球場などの「建てもの」のなかで中波放送が届くかどうか。

すくなくとも、東京・後楽にある東京ドームでは、中波放送はドーム内まできちんと届きます。ですので、民間放送がプロ野球中継を放送してないときや、FM補完放送を聴けないときなどでも、NHKラジオの実況放送を聴くことができます。

ラジオといえば、ちかごろはインターネット経由で聴ける「ラジコ」などが普及しており、スマートフォンにアプリケーションを入れていれば放送を聴くことはできます。しかし、インターネット経由のラジオでは、いまのところ実際よりも15秒ないし2分ほど遅れて音声が届くため、運動競技の観戦とともに聴くのには向いていません。電波による昔ながらのラジオの聴きかたが、いまも活きる場面があります。
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「なにをしたいのか」でなく「なにをすべきか」

写真作者:Hartwig HKD

きのう(2019年)6月20日(金)付のこのブログの記事「夢をかなえた先にあるのは夢」では、米国の心理学者アブラハム・マズロー(1908-1970)の唱える「自己実現欲求」とよばれる人間の欲求について伝えました。自己実現欲求とは、自己の内面に生じる、社会生活で実現したいと思う欲求のことです。

マズローの唱えた自己実現欲求の説を批判したのが、オーストリアの心理学者ヴィクトール・フランクル(1905-1997)です。第二次世界大戦中にナチス強制収容所での日々を過ごす体験をし、「どんな状況でも人間には精神の自由が最後に残されている」ことを主張した『夜と霧』という著書でも知られています。

フランクルは、自己実現は、人間がそれを得ようと目的化したとき、逃げていってしまうものだと考えました。そして、自己実現は本来は自然に生じるものなのだと考えました。人間が生活を送っていくなかで、結果的に自己実現できたとよべる状態になりうるのだというわけです。

しかし、自己実現欲求を強くもっている人は、こう思うかもしれません。「自分のこうなりたいという自己実現欲求が自然に生じるものでないとしたら、どう考えたらよいのか。自分はなんのために生きればよいのか」と。

これに対し、フランクルは独特の考えかたを示します。それは、「人間はむしろ、人生から問い求められている者なのであって、人生に答えなくてはならない」というものです。

つまり、人間が自分の人生を歩んでいくのでなく、人生のほうが人間にどう生きるべきかと問うてくるのであり、人間はその問いに答えていかなければならない、というわけです。

人生からの問いというのは「自分がなにをすべきか」という自問といえます。「この人生で、自分はいまなにをすることを求められているのか」と考えることにより、生きる意味が見つかり、それにとりくむことで人は心を癒すことができるとフランクルは考えました。

この考えは、自分がどう生きていくかという課題に対して、大きな問いを投げかけるものといえます。

「自分はなにをしたいのか」と「自分はなにをすべきか」は、いわば能動的な心理と受動的な心理のちがいといえます。どちらを心のなかの中心に据えて生きるのが、人間として、より向いているでしょうか。

それはその人間の気質や性格にもよるのかもしれません。能動的に生きる人もいれば、受動的に生きる人もいます。

ただし、「自分はなにをしたいのか」を考えてそれが見つからないときは苦しさを覚えるでしょう。人間はなにかをなすことによって、生きる意味や生きがいを得るのだとすれば、「自分はなにをしたいのか」が見つからずにいるのは辛いことです。より心が楽なのは「自分はなにをすべきか」を考えるほうではないでしょうか。

参考資料
鶴田一郎「V.E.フランクルにおける『生きがい論』の射程」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokoro/2/1/2_1_25/_pdf
KAZU・和・POCKET「教育に生かすフランクル心理学」
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/soyama/gakusyuukai/siryou/01-7frankl.htm
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夢をかなえた先にあるのは夢

写真作者:István Berta

自分の心にある欲求を社会生活のなかで満たすことを、「夢をかなえる」などといいます。「宇宙飛行士になれて夢がかなった」「世紀の発明をして人びとを幸福にするという夢がかなった」といった具合に。

こうした夢をかりたてるのは、よく「自己実現欲」によるものだと説明されます。自己の内面にある「これを実現したい」という欲求、とくに社会の一員として満たしたい欲求が、自己実現欲です。

人間にはいろいろな欲があるけれども、なかでも自己実現欲は、いろいろな欲を満たしたあとにあるものであるとする考えかたがあります。これを唱えたのは、米国の心理学者アブラハム・マズロー(1908-1970)です。

マズローの考えによると、人間の欲求には下位のものから上位のものまで5段階があります。それは順に、生理的欲求、安全への欲求、社会的欲求、自尊欲求、自己実現欲求の5段階。

生理的欲求は「食べたい」といったもの。安全への欲求は「危険を避けたい」といったもの。社会的欲求は「愛されたい」といったもの。自尊欲求は「人から認められたい」といったものです。

そして、これらの欲求の段階をのぼった先に、ついに自己実現欲求が生まれるのだとマズローは考えました。

この考えにしたがうと、生きものとして生きることができて、安全を得られて、愛されて、認められた末に、夢が生じるというのですから、自己実現欲求は贅沢なものと捉えられます。マズローも、自己実現欲求は、豊かな社会で人間が行動をするときの重要な動機になると考えていたようです。

しかし、「愛されたいが満たされていない」という第3段階の道なかばにいる人や、「認められたいのに認められない」という第4段階の道なかばにいる人に、「自分はこれを実現したい」という第5段階の自己実現欲求が起きないかというと、かならずしもそうとはいえないのではないでしょうか。愛されて満たされたり、認められて満たされたりしなくても、社会生活のなかでかなえたい夢をもっている人はいます。

それに、もっとも上位にある自己実現欲が満たされた人の心もちは、どうなってしまうのでしょうか。宇宙飛行士になるという夢がかなった宇宙飛行士は、それで人生もはや満足となるのでしょうか。世紀の発明をして人びとを幸福にするという夢がかなった発明家は、もう思いのこすことはないという心もちになるのでしょうか。

そうなる人もなかにはいるのでしょうが、自己実現欲求が満たされると、さらに「ならばつぎにこうしたい」「もっとこうしたい」と、自己実現欲求が生じるという人も多いのではないでしょうか。

マズローは晩年、自身で、もっとも上位にあるものと位置づけた自己実現欲求よりもさらに上位に、「自己超越欲求」という段階があると唱えだしました。これまでの自己を超えるようななにかになろうとする欲求などともいわれます。このマズローの加わった説は、すくなくとも、人間の欲求は自己実現欲求を満たした先にも生じる、ということを示しています。

参考資料
ブリタニカ国際大百科事典「自己実現」
https://kotobank.jp/word/自己実現-73074
廣鸚郷諭菱沼典子、印東桂子「マズローの基本的欲求の階層図への原典からの新解釈」
http://arch.luke.ac.jp/dspace/bitstream/10285/2806/1/kiyo35-2008028.pdf
モチラボ「マズローの欲求5段階説」
https://www.motivation-up.com/motivation/maslow.html
小田利勝「行動発達概論」
http://www2.kobe-u.ac.jp/~oda/HumanBehavior/hbhtml.html
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手づくり教材が子どもたちを惹きつける

写真作者:Hiroki ONO

人が人びとを前に、なにかしらの発表をするとき、配布資料や投影資料のほかに、その発表にまつわる「実物」や「見本」があると、人びとの興味を引くようになります。

これは、子どもたちになにかを教えるときにもいえることではないでしょうか。つまり教科書を読ませたり、板書をさせたりするだけでなく、「もの」としての「教材」を子どもたちに示すことが、子どもたちの興味をわきたてるということです。

たとえば、学校の先生が加速度運動について子どもたちに教えるとき、最低限、教科書があれば単元の内容を伝えることはできます。しかし、斜面に置くと加速度運動をする「台車」という教材を持ってきて、実際にどう動くかを示したり、または子どもたちに動きを調べさせたりすれば、「見た」「触った」といった実体験をもって、子どもは加速度運動を学べるようになります。

もっとも理想的な教材は、授業に効果的に役立つものを、先生がみずからつくって子どもたちに示すといったことでしょう。みずからつくれば、「授業をこう展開したい」といった先生自身の望みをかなえることができるし、子どもたちも「先生の手づくり」教材にはより大きな興味をもつでしょうから。「教材とは、活動そのものです」と言いきる先生もいます。

しかし、現状では、学校の先生たちが授業で活かすための教材をつくることがむずかしくなってきているようです。文部科学省の2006(平成18)年度の「教員勤務実態調査」によると、教諭の1日あたりの勤務で「授業準備」をふくむ児童生徒の指導に間接的にかかわる業務に当てられていた時間は2時間2分。この指導に間接的にかかわる業務は、残業時間にまわされる傾向があり、「教員が多忙に感じていることや負担に感じている業務」の上位にもなっているといいます。

だれかほかの人、あるいは企業がつくった教材を使う場合は、その先生の望みどおりに使えないこともあり、「使いかたを考えて使う」必要性がより出てきそうです。企業がつくった量産品に対しては、子どもたちも「手づくりではない」という感覚を無意識的にはもつかもしれません。しかし、それでも、授業に活かせるのであれば、教材はないよりあったほうがよさそうではあります。

ものとしての教材を用意して、それで授業をする先生の姿勢は、多くの子どもたちにも「用意してくれたんだ」と心に響くのではないでしょうか。

参考資料
文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課「学校や教職員の現状について」
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/052/siryo/__icsFiles/afieldfile/2015/02/18/1355024_4.pdf
印西市立大森小学校「概要 体育科 教材づくり」
http://www.inzai.ed.jp/omori-es/tokusyoku/gaiyo/kyouzai.html
「天までとどけ」の屋根裏部屋「教材づくりの考え方・進め方」
http://murasue.style.coocan.jp/kyozai.htm
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人力車や犬ぞりは「軽車両」、スケートボードはあらず

「自転車以外の軽車両通行止め」の道路標識

道路交通をめぐる法律では、「自動車」でも「歩行者」でもない位置づけとして「軽車両」があります。自動車と歩行者のはざまに位置するような存在ですが、軽車両であるかどうかの分類をめぐっては、奥深いものがあります。

道路交通法では、軽車両は「車両」のひとつであり、つぎのように定義されています。

「自転車、荷車その他人若しくは動物の力により、又は他の車両に牽けん引され、かつ、レールによらないで運転する車(そり及び牛馬を含む。)であつて、身体障害者用の車いす、歩行補助車等及び小児用の車以外のものをいう」(第二条十一)

この条文は、軽車両に当てはまるものとして、まず「自転車」、また「荷車」、さらに「その他人若しくは動物の力により、又は他の車両に牽けん引され、かつ、レールによらないで運転する車」という読みかたをするもよう。つまり、自転車や荷車も、原則的に軽車両にふくまれることになります。

また、道路運送車両法という法律では、軽車両は「道路運送車両」のひとつであり、つぎのように定義されています。

「この法律で『軽車両』とは、人力若しくは畜力により陸上を移動させることを目的として製作した用具で軌条若しくは架線を用いないもの又はこれにより牽引して陸上を移動させることを目的として製作した用具であつて、政令で定めるものをいう」(第二条4)

この条文は、軽車両に当てはまるものとして「人力若しくは畜力により陸上を移動させる」ための用具、また「これ(人力若しくは畜力)により牽引して陸上を移動させる」ための用具、という読みかたになりそうです。

これらからすると、自転車や荷車のほか、「人力車」も軽車両にふくまれることになります。実際、東京・浅草を拠点に客を乗せて走る人力車のなかには、直線距離でおよそ4キロメートル離れた皇居周辺や、10キロメートル離れた東京ディズニーランド周辺まで、公道を走らせてたどりついたこともあるといいます。


人力車
写真作者:思弦張

また、「犬ぞり」も軽車両にふくまれることになります。道路交通法にはきちんと「そり及び牛馬を含む」と書かれています。


犬ぞり(奥)
写真作者:iyoupapa

では、「スケートボード」は軽車両にふくまれるでしょうか。道路運送車両法の条文「人力若しくは畜力により陸上を移動させることを目的として製作した用具」からするとふくまれそうなものですが、これらは当てはまらないようです。


スケートボード
写真作者:MIKI Yoshihito

スケートボードをめぐっては、2006年8月、神奈川県警が、交通量の多い市道でスケートボードを走らせていた男性を、道路交通法違反容疑で摘発した事例があるといいます。具体的には道路交通法の第五章「道路の使用等」の第一節「道路における禁止行為等」に触れる容疑があったようです。もし、スケートボードが軽車両にふくまれていれば、市道で軽車両を走らせても問題ないでしょうから、この男性は道路交通法で摘発されることはなかったかもしれません。

なお、軽車両というと、歩道もしくは車道と歩道のあいだあたりを窮屈に走るという印象をもつ人も多いでしょうか。けれども軽車両は「車両」のひとつですので、「車道を通行しなければならない」(道路交通法第十七条一)に当てはまります。ただし、軽車両は「著しく歩行者の通行を妨げることとなる場合を除き、道路の左側部分に設けられた路側帯(略)を通行することができる」(同第十七条の二)とされています。つまり、原則的には車道を通行するが、路側帯を通行することもできるのが、軽車両ということになります。

参考資料
e-Gov「道路交通法」
http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/viewContents?lawId=335AC0000000105_20170312#C
e-Gov「道路運送車両法」
https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=326AC0000000185
Response. 2006年8月15日付「車道でスケートボード 道交法違反で摘発」
https://response.jp/article/2006/08/15/84968.html
ウィキペディア「軽車両」
https://ja.wikipedia.org/wiki/軽車両
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あまり使われない「ソサエティ5.0」が謎めいている

写真作者:jean francoeur

これからどのような時代になるのでしょうか。ひとことでその時代を表すと、どうなるのでしょうか。

科学や技術の分野の記者が取材をすると、とくに政府系機関の研究者ではない立場の人に取材をすると、「ソサエティ5.0」ということばを耳にすることがよくあるようです。

「これからソサエティ5.0の時代を迎えるといいますから、その時代に見合うような新たなイノベーションを起こしていかなければなりません」

このような話をたまに耳にする記者もいるようです。

「ソサエティ5.0」は、日本政府が示す科学技術政策の方針「科学技術基本計画」の第5期のなかに使われている表現です。この計画は、1996年から5年ごとに立てられるもの。第5期の計画は、2016年1月に閣議決定、つまり政府により決定されました。

科学技術基本計画で「ソサエティ5.0」が出てくるのは、全7章あるうちの第2章「未来の産業創造と社会変革に向けた新たな価値創出の取組」のなかの、2番目の項目においてです。「世界に先駆けた『超スマート社会』の実現(Society5.0)」という見出しのほか、つぎのような本文のなかで出てきます。

「ICTを最大限に活用し、サイバー空間とフィジカル空間(現実世界)とを融合させた取組により、人々に豊かさをもたらす『超スマート社会』を未来社会の姿として共有し、その実現に向けた一連の取組を更に深化させつつ『Society 5.0』として強力に推進し、世界に先駆けて超スマート社会を実現していく」

この文章のみから解釈すると、「ソサエティ5.0」は、「情報通信技術を最大限に活用して、サイバー空間とフィジカル空間を融合させたとりくみにより人々に豊かさをもたらす『超スマート社会』の実現に向けた一連のとりくみをさらに深化させつつ、強力に推進するもの」ということになりそうです。

なんのことかまるでわかりません。

しかし、この本文の「Society 5.0」のところには脚注があります。つぎのようなものです。

「狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会に続くような新たな社会を生み出す変革を科学技術イノベーションが先導していく、という意味を込めている」

つまり、狩猟社会が人類にとっての1番目の社会、農耕社会が2番目、工業社会が3番目、情報社会が4番目とすると、それにつづく5番目の社会が「ソサエティ5.0」であり、それは科学技術イノベーションによって先導されることにより生みだされる、ということのようです。

これでもなんのことかわからない人は、多いのではないでしょうか。

だいいち、情報社会と「ソサエティ5.0」をつくりだすものに大きなちがいはありません。情報社会は、情報通信技術によりつくりだされました。「ソサエティ5.0」あるいは似た意味の「超スマート社会」もまた「ICT(情報通信社会)を最大限に活用」することでつくられると、この計画そのものに謳われています。どちらも情報通信技術でつくられるのだから、「ソサエティ5.0」も情報社会であると考えるのが通常ではないでしょうか。「ソサエティ5.0」が「葉緑素によってつくられる」とか「ミュージックによってつくられる」というのであればべつですが……。

結局、53ページにわたる科学技術基本計画のなかに「Society5.0」が出てくるのは、上にあげた、章の見出し、本文の1か所、脚注の、あわせて3か所のみです。

科学技術基本計画のような数か年ごとに新しくする計画では、新たな目標となる社会のあり方をなにかしら示さなければ、変わりばえがありません。そうした新機軸を打ちださなければならないがために、政策計画者は「ソサエティ5.0」という表現をつくりだし、計画に入れこんだのでしょう。

参考資料
内閣府 2016年1月22日閣議決定「科学技術基本計画」
https://www8.cao.go.jp/cstp/kihonkeikaku/5honbun.pdf
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夏のパリ、三つの理由で暮れなずむ



写真作者:Alex LOUIS

夏至は、太陽が黄軽90度に達した時点のこと。2019年の夏至は6月22日(土)です。

夏至ごろの日では、昼の時間が長くなり、なかなか日が暮れません。たとえば、東京の夏至の日の日の入り時刻は、19時ちょうどとなります。また、日の出の時刻は4時24分。昼の時間は、15時間36分あります。

さて、海外で夏至ごろの日を過ごした経験のある人は「日の入りは19時どころではない。もっとずっと遅い時間まで明るい」と言います。

たとえば、フランスのパリでの夏至の日はどうでしょう。日の入りは何時何分かというと、21時59分。じつに、東京より2時間59分も日の入りの時刻が遅いことになります。なお、夏至の日のパリの日の出の時刻は5時45分となります。

パリではなぜ暮れなずむのか。ひとつ前提にあるのが、フランスには夏時間制度が使われ、日本では使われていないというちがいです。フランスでは、3月31日(日)から10月27日(日)まで夏時間制度が使われており、この期間だけ時計の針を1時間、早いほうにずらします。

もし、フランスで夏時間制度が使われていなければ、パリの日の入り時刻は20時59分となるわけです。また、日の出の時刻は4時45分に。

しかし、仮にそうだとしても、パリと東京との日の入り時刻の差はまだ1時間59分もあります。この差はどういうことでしょうか。

ここでもうひとつ、考えに入れるべきは、緯度の差です。パリの北緯は48.86度。これは樺太のユジノサハリンスクよりも北です。いっぽう、東京の北緯は35.69度。パリのほうが東京よりも13.17度、北にあります。この緯度の差により、太陽により日差しが照っている時間が、東京などの低緯度にある場所より長くなります。

パリの緯度とほぼおなじ、北緯49度の帯域における夏至の昼の時間はおよそ16時間14分。実際、日の入り時刻から日の出時刻を引き算するとそうなります。

加えてもうひとつ、パリの日の出と日の入りの時刻そのものが、夏時間制度を考慮に入れないとしても、けっこう遅いほうにずれているという点も、パリの日の入りが遅い要因にありそうです。

時間変更線の描かれた世界地図を見ると、パリは、ロンドン標準時からプラス1時間、つまり日本との時差ではマイナス8時間の帯域にあります。しかし、その帯域のなかでもパリはずいぶんと西のほうに位置しています。経度としてはロンドン標準時とおなじ帯域にあってもおかしくないところにパリがあります。

日本でも、東にある北海道より西にある沖縄県で日の出と日の入りの時刻がともに遅いのとおなじように、その時間の帯域の西にあるパリでも日の出と日の入りの時刻がともに遅いわけです。

これらをまとめると、夏至の日に東京よりパリのほうが日の入りの時刻が2時間59分も遅いのは「夏時間制度が使われている」「北緯で13.17度北にある」「日の出や日の入りがともに遅い時間にある経度にある」という三つの理由によるものとなります。

参考資料
国立天文台「平成31年/令和元年(2019) 暦要項」
https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/yoko/2019/rekiyou192.html
Ke!san「日の出日の入り(世界地名選択)」
https://keisan.casio.jp/exec/system/1253955558
ウィキペディア「北緯49度線」
https://ja.wikipedia.org/wiki/北緯49度線
ウィキペディア「協定世界時」
https://ja.wikipedia.org/wiki/協定世界時

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検索力が「借り」を防ぐ

写真作者:Jeffrey Beall

人になにかを聞くことで、得られていなかった知識を得ることがあります。ちょっとしたことを「ねぇ、知ってたら聞かせて」と親しい人に電話でたずねたり、所属しているメーリングリストに「だれか知っている方、教えてください」とうかがったりする人もいることでしょう。

もちろん、人に頼ってなにか知識を得るということは、相手にとっては頼られ役に立ったこと。どちらにとっても「よいこと」と捉えることはできます。

しかし、相手に「またこの人、聞いてきたか」と思われてしまうぐらいひんぱんに知識をたずねると、さすがにたがいの「知識を得られた」「頼られ役に立った」の均衡も崩れてしまいます。

また、みずからでどれだけ認識しているかは人によりけりですが、だれかに知識をたずねるということは、それだけ相手に「借り」をつくっていることにもなります。もちろん、人間関係は純粋な経済合理性だけでなりたつものではないものの、相手に知識をたずねて得ていくことがつづくと、相手にとっての「貸し」を返してもらう、といったことを求められてもしかたない状況になります。

では、「またこの人、聞いてきたか」と思われてしまうぐらいに「借り」をつくる状況を避けるにはどうすればよいか。一世代前にくらべて、いまははるかに「検索すれば知識を得られる」時代となりました。この変化の最たる要因は、インターネットの普及にあります。

たとえば、「ホームページをつくっていると『プラグイン』っていうことばがよく出てくるけれど、なんなの。どうすればいいの」といった疑問が生じた人は、人にたずねることもできるし、「"プラグインとは"」などとインターネットで検索することもできます。

そして、人から教えてもらって解決すれば「借り」が生じうるし、インターネット検索で自己解決すれば「借り」はまずもって生じません。

知りたい情報を正確に見つけるための力を「検索力」とよぶこともあります。検索力は、「知的作業の効率性や質を高めるうえで大切な力」と考えられています。しかし、それだけでなく、「相手に借りをつくらないために大切な力」とも考えられるのではないでしょうか。
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ゾウの時間、ネズミの時間。本編集者の時間、ニュース制作者の時間。


一般の人びと向けの生物学の本に『ゾウの時間・ネズミの時間』(中公新書)というものがあります。東京工業大学で教授をしていた「歌う生物学者」本川達雄さんが1992年に出した名著です。

この本での伝わってくるのは、動物では、体重が重くなるにつれてその動物にとっての「時間」が長くなるということ。たとえば、心臓の拍動の周期については、ゾウは3秒であるのに対し、ネズミは0.2秒。ゾウにとっての時間は、ネズミの18倍ゆっくりしたものだといいます。

ここからの話は、生物学的な根拠があるわけではありませんが、人間たちのあいだにも「時間」の長さ・短さがあるかもしれません。とくに、おなじような「伝える」ことを生業としたマス媒体ではたらいている人のあいだにも、相当な「時間」の長さ・短さのちがいがあるようです。

ゾウのように、わりと長い「時間」をもっている向きがあるのは、本づくりに携わる人たちでしょうか。たいていの書籍編集者は、2か月に一度、あるいは早くとも1か月に一度ぐらいの頻度で本をつくっては出す、といったことをくりかえします。もちろん、2冊や3冊の本づくりを並行することもあるでしょうから、極端に忙しくなる時期もあるでしょうが。

こうした「時間」をもっている人たちの頼みごとも、わりと時間に余裕のあるものとなります。「1週間後までに校正刷を見ておいてください」とか「10日後までに改稿してください」といった具合です。また、それを伝える手段も、即時性の低いメールによるものが多いでしょうか。

いっぽう、ネズミのように、とても短い「時間」をもっている向きがあるのは、放送のニュースに携わる人たちにちがいありません。たいていのニュース制作者は、伝える内容にもよるでしょうが、早ければ1日ないし数時間ぐらいのあいだにニュースの原稿や映像をつくっては出す、といったことで動いています。

こうした「時間」をもっている人たちの頼みごとも、とても短い期間を前提としたものとなります。たとえば、正午ごろに事件が起き、それを夕方の情報番組に伝えるため、「いまコメントをいただけませんか」とか「どうにかお時間いただけませんか」といった具合で迫ってきます。また、それを伝える手段も、番号を知っていれば電話でといったことになります。

ここでの問題は、そうした頼みごとを受ける側の人にも、その人なりに「時間」の短い・長いがあるということです。そして、たいていの人は、「いま頼まれごとをして、いまそれに応じる」といった短い「時間」をもってはいません。「10日後までに」という頼みごとと、「いますぐに」という頼みごとでは、どちらのほうが「わかりました」と応じやすいでしょうか。

ゾウやネズミとおなじように、ヒトも動物の一種として括られますから、ヒトとしての「時間」をもっています。しかし、「10日後までに」と依頼する人よりも「いまコメントをいただけませんか」と依頼せざるをえない人のほうが、心臓の拍動は速いのではないでしょうか。

参考資料
中公新書 知の現場から 2017年2月28日付「本川達雄の仕事場」
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/101947.html
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効きめ認められれば「アプリ」も保険の対象に

写真作者:Andri Koolme

効きめがおなじであるなら、ふだんと異なる手だてであっても、それを「効きめあるもの」と認め、おなじように扱ってもよいはずです。

「病気を治す」ための手だてはいくつもあります。すぐに頭に浮かぶのは薬でしょうか。また、医療で使われる機器も病気を治す手だてとなります。これら医薬品や医療器具は、効きめがあること、それに安全であることが認められれば、医療保険の対象となります。つまり、保険の対象になっていないときよりも軽い費用負担で人びとが使えるようになります。

医薬品や医療機器に加えて、米国では早くも2010年から「アプリ」つまり、端末機器のソフトウェアが医療保険の対象として認められています。

米国の食品医薬品局は、ウェルドック社の「ブルースター」というアプリを治療効果がある医療の手だてだとして認めました。これでブルースターは医療保険の対象に。アプリが医療保険に当てはまることになったのは、世界初のことでした。

「ブルースター」は、糖尿病をもつ患者の治療を支えるアプリ。糖尿病は、患者が日ごろ血糖値を測ったり、適度な食事や運動などをつづけることにより、合併症が生じるなどの悪化を防ぐことができうるとされます。しかし、そうした自己管理は、言うはやすし行うはかたし、でもあります。

ウェルドック社は「ブルースター」の治療効果のほどを、つぎのように示しています。

「ヘモグロビンA1Cの値では1.7から2.0ポイント(パーセント)の改善をもたらす」。ヘモグロビンA1Cは、糖尿病の診断に使われる値のひとつ。「ブルースター」を使った患者のヘモグロビンA1Cの値は、使わない対照群の患者たちのものよりも、1.7パーセントから2.0パーセントほど低くなったということです。

では、どうして「ブルースター」を使うとこうした効きめがもたらされるのか。ウェルドック社は「治験においては、患者の自己管理と生活様式の変化が、健康管理者とのかかわりあいを保ちつづけることと相まって、改善効果に結びついている」と説明します。

人のおこないが変わることを「行動変容」といいますが、このアプリが患者の行動変容をもたらしたといえます。

その後、おなじような「治療アプリ」として、米国では2017年9月にアルコール依存症や薬物依存症に治療効果のあるソフトウェアについて、効きめがあると認めました。

日本でも、新興企業のキュア・アップがニコチン依存症の治療を支えるアプリを開発し、効きめがあることを確認したと発表しています。2020年にも、日本国内で初となる医療保険対象のアプリになるものと見こまれています。

参考資料
ビジネス+IT 2019年1月23日付「2019年『治療アプリ』に保険適用へ、モバイルヘルス(mHealth)市場が動き出す」
https://www.sbbit.jp/article/cont1/35881
welldoc “Clinically-Validated Results”
https://www.welldoc.com/outcomes/clinical-outcomes/
Healthtech+ 2017年9月6日付「米国で増加する『治療アプリ』」
https://healthtechplus.medpeer.co.jp/trend/1269
日経電子版 2018年12月16日付「医師が処方するスマホ治療アプリ 薬・機器に次ぐ柱?」
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO38097780S8A121C1000000/
CNET Japan2019年5月30日付「2020年、薬のようにアプリ処方目指す キュア・アップ、ニコチン依存の治験で成果」
https://japan.cnet.com/article/35137707/
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「大臣も夢中、VR『月面やり投げ』はどこが凄いのか」


ウェブニュースJBpressで、2019年6月12日(水)「大臣も夢中、VR『月面やり投げ』はどこが凄いのか 日本発ベンチャーによる宇宙体感技術の可能性と課題」という記事が配信されました。

8日(土)9日(日)に茨城県つくば市で開かれた「G20茨城つくば貿易・デジタル経済大臣会合」の企業・団体出展ブースに日本企業「Yspace」が展示した「月面スポーツ体験」技術を伝えるものです。「大臣」とは、この会合に日本政府として出席した河野太郎外相のこと。

Yspaceは、2017年創業の合同会社。日本HP主催の「HPマーズ・ホーム・プラネット」という火星での100万人の暮らしの設計アイデアを募集する企画に応募し、最優秀賞を獲得した早稲田大学、慶應義塾大学、東京理科大学、広尾学園高校の学生たちのうち、有志が起業したものです。最終発表のようすを動画で見ることもできます。

同社は「宇宙をターゲットとして、ロボット技術やAI、3D表現技術などの最先端のテクノロジーを利用することで、世界中の人々に驚きを与え、未来の創造の加速に貢献していきます」(同社サイト)と、めざすところを表しています。

JBpressの記事で伝えている「月面スポーツ体験」ができる技術は「月面でのやり投げ」を題材にしたもの。頭部装着ディスプレイを頭にかぶった人の視界にあるのは、月面上の空間。これに、手に持ったスティックをかざして、指をはなすことで「やり」を放つことができます。前方に見える標的のバルーンに矢を指して破裂させていき、得点で競うというもの。

2018年と2019年に東京・六本木の六本木ヒルズで開かれた「月面VR展」という展示会でも、この「やり投げ」競技のほか、「月面マラソン」という競技の体験会を開き、好評を博しています。

地上にいながら月面上を体験する技術は「人工現実感」(VR:Virtual Reality)とよばれる技術のひとつ。これまでも人工現実感技術は医療での手術や、企業の安全訓練などに使われています。「月面」という地球ではない宇宙空間を舞台に人工現実感を人びとにもたらそうとしている点に、Yspaceの技術の独自性の高さがあるといえます。

実際の展示では、月面上で放った「やり」が、地上よりも遠くまで飛んでしまうことで、月面の重力が地上の6分の1と小さいことなどを体感させようとするなど、工夫しています。

「地上で宇宙の体感を得る」ことの質がこれからより高まっていけば、宇宙開発を想定した地上での模擬試験の効率性が高まることになります。また、宇宙を身近に感じられることから、子どもたちへの教育の面でも成果が期待されます。今後も注目すべき技術。

今後もYspaceの手がける宇宙体感技術を、さまざまな機会に体験することできるのではないでしょうか。同社のサイトはこちらです。
http://yspace-llc.com

記事の取材と寄稿をしました。
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「必要は発明の母」であるだけでなく「発明は必要の母」でもある――法則古今東西(29)

これまでの「法則古今東西」の記事はこちら。


写真作者:Carsten Frenzl

「必要は発明の母」といいます。発明は必要から生まれるという意味です。ちなみにこれを長嶋茂雄さんは、これを「必要は発明のマザー」と言ったとか言わなかったとかいいます。

さて、これとはべつに「発明は必要の母」ということばを遺した人物もいます。「必要は……」の誤用とされることもありますが、技術史の大家とされる人物が唱えた法則のひとつです。

米国の技術史家で、1952年から1971年までケース・ウェスタン・リバース大学で教授職をつとめたメルヴィン・クランツバーグ(1917-1995)は、科学技術について「こういうことがいえる」という法則を第一法則から第六法則まで掲げました。ここでいう「科学技術」は、英語では“Technology”のことばがあてられます。


メルヴィン・クランツバーグ
写真作者:K

「科学技術は善でも悪でもない。中立でもない」というのが第一法則。そのつぎの第二法則にさっそく「発明は必要の母である」が出てきます。

ことばどおりに捉えると「必要は発明から生まれる」といったことになりそうです。では、ここでいう「必要」とはどのような意味でしょうか。

クランツバーグは、だれかが「発明」あるいは「技術革新」とよべるようなことを起こすと、そのまわりの状況も、その発明ないし技術革新に見あうように均衡をとる「必要」が生じてくる、と考えました。ひとつの機械を発明したり改良すると、その機械があることで生じる均衡を保つために努力する「必要」が生じるというわけです。

こうした意味で、クランツバーグは「発明は必要の母である」と唱えたのでした。

人は、なにも発明しなければ、それによって新たに起きる「均衡を保つための努力」をする必要はなくなります。しかし、「人が役に立つものを自分が生みだしたい」「名声を得たい」「お金を得たい」などの理由から発明をせずにはいられないのでしょう。こうして、社会におけるさまざまな技術は進んできました。

クランツバーグの法則は、その後、第三法則「科学技術は、大きなものも小さなものもひとまとまりでくる」、第四法則「科学技術は多くの公共的な課題において最上位の要素であるかもしれないが、科学技術政策の決定では非技術の要素が先行する」、第五法則「すべての歴史がかかわりあうが、科学技術の歴史がもっともかかわりあう」、第六法則「科学技術はまさに人間の営みである。科学技術の歴史もそうである」とつづきます。

参考資料
竹山重光のWeb Site「技術の善し悪し」
http://www.wakayama-med.ac.jp/med/lasphieth/zettel/yosiasi.html
wikipedia “Melvin Kranzberg”
https://en.wikipedia.org/wiki/Melvin_Kranzberg

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テクノロジーは生物とおなじように進化する

写真作者:Caroline Davis2010

ものごとの系全体が、あたかもなにか意志のようなものをもって時を進んでいる、と感じられることはあるものです。たとえば、地球は「ガイア」とよばれる巨大な生態系と見られてきて、その系がこれからもおなじように続くのかと危ぶまれています。また、ホタルの明滅も一匹ずつの足並みが揃っていき、全体で大きく明滅するようになります。

人類が培ってきた「技術」にかかわる系もまた、全体としてはそれ自体が意志をもったように進んでいる、という見かたがあります。

米国の編集者で雑誌『ワイアード』創刊編集者でもあるケヴィン・ケリー(1952-)は、「生物学とテクノロジーはまったくおなじものである」ということに気づきました。つまり、生物たちが進化していくのとおなじようなかたちで、テクノロジーも進化するというのです。

生物とテクノロジーに通じあう進化のかたちとはどのようなものでしょうか。この二つにおける進化は、特定の順番にしたがって、進化していくため、ともに再現しやすい傾向にあるということです。

特定の順番や再現性があるということは、その規則をつくるなんらかの共通する原因がきっとあるはず。これについては、二つの力が生物とテクノロジーにはたらいているとします。

ひとつは、幾何学や物理学の法則に定められている制約です。これにより、生物やテクノロジーの進化のしかたは限定的になります。

もうひとつは、自己組織化です。内部にある慣性によって、自律的に組織化していくということです。

これらからすると、テクノロジーがどう進んでいくかは、発明した人間とは独立したところで、考えられるものとなります。その様式は「進歩」ではなく「進化」といえましょう。

しかしながら、生物の進化とテクノロジーの進化にはちがいも見いだせそうです。それは、生物の進化が無意識的な自然選択によってなされていく運命的なものであるのに対し、テクノロジーの進化は無意識的でなく人間の自由意志や選択で決まる余地があるというちがいです。

とはいえ、ケリー本人は、テクノロジーの進みかたを決して楽観視しているわけではないようす。取材記事では、人間がテクノロジーとどういう関係をもつべかについて、つぎのような考えを述べています。

「我々はテクノロジーの創造者です。しかし、一方でテクノロジーも我々を造るのです。我々は親でもあり、子でもあります。我々は雇い主でもあり、同時に彼らの奴隷でもあります。我々とテクノロジーとの関係ではそのような不一致が常に存在し続けるのです。そのため、とても心地の悪い関係性となりますが、それは永遠に続くのです」

参考資料
NEC Business Leaders Square wisdom 2014年11月21日付「『テクニウム〜テクノロジーはどこへ向かうのか?』 ケヴィン・ケリー氏インタビュー『WIRED』創刊編集長が語るテクノロジーの進化と日本の未来」
https://wisdom.nec.com/ja/technology/2014112101/02.html
HONZ 2014年7月11日「『テクニウム』利己的なテクノロジー」
https://honz.jp/articles/-/40594
朝日新聞 好書好日2018年6月8日付「慣性で組織化するテクノロジーの系」
https://book.asahi.com/reviews/11610849
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「本」も「法律」も主語に使われる

写真作者:Miles Bader

高校までの英語の授業では、「無生物主語」とよばれる文法あるいは構文を学んだことを覚えている人もいるのではないでしょうか。生きものではないものが英語でいう主語になるというもので、とくに日本語にすると違和感をともなうようなものを指していました。

たとえば、“The rain forced us to change the schedule.”という英文は、直訳すると「雨が私たちにスケジュールを変更させるのを強いた」といったことになります。よりこなれた日本語では「雨により私たちはスケジュールを変更せざるをえなかった」となるでしょうか。

英語でなく日本語でも、無生物主語の文はあります。そして、違和感を覚えるかどうかでいうと、その境目あたりにある微妙なものもあります。書物や規則などを主語にするといったものはその例といえます。

「本書は、現代社会の矛盾を、豊富な実例を使って示していく」

この文では「実例を使って描いていく」のはなにかというと「本書」つまり本ということになっています。ただし、実際のところ、豊富な実例を使って示す主体は、本ではなく、この本を書いた著者でしょう。

よって「本書で著者は、現代社会の矛盾を、豊富な実例を使って示していく」とすれば、生物である著者が主語になり、さほど違和感はありません。

また、つぎのような文もよくあります。

「この法律は、国民の健康の増進の総合的な推進に関し基本的な事項を定める」

「定める」のはなにかというと「この法律」つまり規則ということになっています。ただし、実際のところ、定める主体は法律ではなく、この法律を立てたり施行する政府の人たちでしょう。

よって「この法律で、法律制定者は国民の健康の増進の総合的な推進に関し基本的な事項を定める」とすれば、生物である法律制定者が主語になります。けれども、こちらのほうは、わざわざ「法律制定者」を主語にするところに違和感を覚える人が多そうです。

「無生物主語」という考えかたがあるのは、裏を返せば「生物を主語にする」ことのほうがあたりまえという感覚があるからでしょう。しかし、文法としては正解だとしても、生物を主語にするほうがしっくりとくる文もあれば、無生物を主語にするほうがしっくりとくる文もあるわけです。日本語であっても。
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水と重りで月面の重力環境を
月面とおなじような重力環境を、地球にいる人が体験するにはどうすればよいでしょうか。

まったくおなじというわけにはいかないものの、プールのなかなどの水中の環境を利用するということは手段のひとつとして考えられます。

プールのなかにも重力はあります。人がプールのなかで体を動かさずに立っていれば、足がプールの底に着きます。地球の重力によるものです。

しかし、プールという流体には、人の体の表面にはたらく流体の圧力と合わさって、重力と反対方向に力を受けます。つまり浮力がはたらきます。

もし、プールのなかでの重力と浮力が等しくなれば、重力のほぼない宇宙空間とおなじ重力環境を再現することができます。

たとえば、米国の航空宇宙局がテキサス州のジョンソン宇宙センターに構える巨大な水槽では、国際宇宙ステーションの船外活動の訓練を宇宙飛行士たちに課すため、体が浮きも沈みもしない「中性浮力」を保つことができます。


米国航空宇宙局ジョンソン宇宙センターの無重力環境訓練施設
写真作者:NASA

いっぽう、月面には、おもに月のもつ重力がはたらきます。その重力は、地球の6分の1ほど。まったく、体が浮きも沈みもしない重力環境とはちがいます。

ではどうするか。中性浮力のような環境をつくった水中のなかで、人が重りをつけて活動すれば、月面の重力環境に近い状況をつくりだすことができそうです。

実際、欧州宇宙機関には、月面での活動を模した「ムーンダイブ」とよばれる、訓練施設があります。ムーンダイブでの訓練を受ける宇宙飛行士たちは、重りをつけた特殊な宇宙服を着ます。調整をすれば、月面だけでなく、火星表面での重力環境も再現できるとのこと。

一般の人が市民プールなどで、重りをつけた宇宙服を着ることはまずもってむり。けれども、水着姿で浮いているだけでも、ほんのすこしは宇宙空間や月面にいる感覚に近づくことはできます。

参考資料
ケネディ宇宙センターツアープロジェクト・オフィス 2016年12月17日付「なぜ、宇宙飛行士のトレーニングにスキューバ・ダイビングが必要なのか?」
https://www.kennedy-tours.com/single-post/2016/12/05/scuba-diving-trainings
Discovery 2018年4月19日付「地上で月の重力を再現するには…ESAの水中施設へムーンダイブ」
https://www.discoverychannel.jp/0000014065/
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書評『私とは何か』

このブログの過去記事「その自分も、その自分も、ほんとうの自分」で、「分人」の考えを伝えたことがあります。この考えがまとまっている本について、あらためて。

『私とは何か 「個人」から「分人」へ』平野啓一郎著 講談社現代新書 2012年 192ページ


「私」が接している家族がいる。「私」が接している友人もいる。その家族とその友人のあいだに、ふだん接点はないものとする。けれどもなにかの理由で、そんな家族と友人そして「私」が一同に会したとしよう。そのとき「私」はどんなことを感じるだろうか。おそらく多くの場合「いったい自分はどういう態度をとったらよいのやら」と、居心地の悪さを感じるのではないか。

それは、ふだん家族と接しているときの「私」と、友人と接しているときの「私」がちがっているからだ。家族と接しているときの「私」を友人には見せたくない、そして、友人と接しているときの「私」を家族には見せたくない。そんな感情が生じるのだろう。

つまり「私」は、個体としてはひとつでありながら、人格としては複数あるわけだ。

このことを気づかせ、きちんとことばで表し、そしてそこから生きかたの示唆をあたえるのが、本書『私とは何か』である。

著者の平野啓一郎は、本書で「個人 = individual」に対して「分人 = dividual」という考えを示す。本人が定義しているわけではないが、分人の定義は「その人を構成する、複数からなる人格。その人が関わる社会、グループ、相手の数だけ生じる」といったことになろう。

ある個人ないしグループと接しているときは、笑顔も冗談も出てくる。だが、べつの個人ないしグループと接しているときは、ぶっきらぼうで不機嫌でいる。そのような「私」を「個人」単位で考えてしまうと、「相手によってこんなにも態度を変えてしまうとは、自分はなんて多重人格なんだ」と悩んでしまうかもしれない。だが、「私」を複数の「分人」からなるものと考えれば、「相手によって、冗談を言える『私』も分人だし、ぶっきらぼうな『私』も分人」と割りきることができる。

書名にもある「『個人』から『分人』へ」を「発想の転換」と見る人もいよう。だが、物理的あるいは視覚的な「個人」とともに、精神的あるいは内面的な「分人」は、人間にもともとあったものと考えることもできる。では、どうしてもっぱら「個人」に重きが置かれ、「分人」にさほど重きが置かれてこなかったのだろう。その背景も著者は考察している。それは、つぎのようなものだ。

西洋において、一神教の神であるキリストに対し、人は「本当の自分」でなければならなかった。神と人の関係は「一対一」であり、人を「個人」よりも、細分化して「分人」と捉えることはできなかった。また、社会においても、国家に対立する考えとして「個人」が先鋭化されていた。こうして「分人」の考えに至ることはなかったというわけだ。

そんな西洋で生じた「個人」という考えが、明治初期の日本にも入ってきた。江戸時代の身分制度が崩壊した当時の日本において、「個人」の確立は、社会的にも求められていたことでもあった。こうした背景から、当時の日本人は「個人」の考えを受けいれたのだろう。こうして「個人」と「分人」では「個人」が考えの主流となった。それは同時に「私とは何か」をめぐって悩むことの始まりでもあったわけだが。

「個人」よりも細分化された「分人」の考えを得ることで、自分自身が抱いている悩みについても「この悩みは自分すべてのものでなく、自分の一部のものなのだ」と考えることができるようになる。

それだけではない。「私」が接している人の成功についても、「相手の分人を通して、自分がその成功に貢献できたのだ」と、より素直によろこべるようになるかもしれない。さらに、対立するコミュニティがあるときも、どちらにも分人として参加しているような個人の存在を見つけることで、そこから融合をはかれるかもしれない。

「分人」の考えを一度、知れば、「なんで、これまで自分はこんなあたりまえのことに気づかなかったのだろう」となる。だが、「その考えに気づかなかった」あるいは「その考えを明確化できなかった」と多くの人はふりかえるのもきっとたしかだろう。

中高年になってから「分人」に気づくのでは、残りの人生からして遅すぎる(知らないままよりはよほどよいが)。青少年が「分人」の考えを知ってしまうのは、その後の人生の糧となる葛藤の経験などを得づらくなるから、早すぎるかもしれない。社会に出てさまざまな「分人」が「私」のなかで生じる20歳代あたりが、本書との出あいの適齢期といえるのではないだろうか。

『私とは何か』はこちらでどうぞ。
https://www.amazon.co.jp/dp/4062881721/

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メールは「低文脈」の意識で


ことばに出さないでも相手に伝わるといった場合もあれば、いくらことばで説いてもなかなか相手に伝わらないといった場合もあるものです。伝わりやすいかどうかは「相手次第」という見かたもできますが、「文化次第」ともいえそうです。

米国の文化人類学者エドワード・T・ホール(1914-2009)は、1976年に『文化を超えて(Beyond Culture)』という本を出し、そこで世界のさまざまな文化を「高文脈」「低文脈」の尺度で捉える見方を唱えました。

「高文脈な文化」とは、ことばとして示された内容よりも、ことばにされていないのに相手に伝わる内容のほうが豊かな伝達のしかたとされている文化のこと。ほぼ単一民族国家とされる日本人の文化は、高文脈の典型例とされます。

いっぽう、「低文脈な文化」とは、ことばとして示された内容のみが、相手に伝わるものだとする考えかたに基づいた文化のこと。ドイツ系スイス人の文化などは、低文脈な典型例とされています。

文化のちがいということなので、高文脈と低文脈のどちが優れているという話ではありません。しかし、相手になにかを伝えるときの心がまえとして、高文脈と低文脈のどちらを意識しているほうがよいのでしょうか。

たとえば、メールで、先方から「あすの会合のご参加よろしくお願いします」と備忘の連絡がきたとします。これに対して、どうメールで返事するでしょうか。

日本人のなかにも「了解です」とだけ伝えるような高文脈な人生の人もいます。

いっぽうで、「あす7日(金)19時からの商工会議所4階での会合の件、ご連絡いただきありがとうございます。了解しました。私は15分前の18時45分には会場に到着している予定ですので、どうかよろしくお願いします」と、文字数を費やして伝えるような低文脈な人生の人もいるはずです。はじめにメールを送ってきた人は、あすが7日(金)であることも、会合が19時から商工会議所4階で開くことも知っているにちがいありません。15分前に会場に到着することなど知ったことではないかもしれません。

しかし、「自分が会合についてきちんと理解している」ということを伝えることは、相手にとって安心になるでしょうし、また予定到着時刻を伝えておくことは、相手にとって当日の行動の参考になるかもしれません。

要は、相手がどれだけの情報を得ることで満たされるかわからない以上は、低文脈を意識して相手に伝えるに超したことはないということです。まして、相手にとっては初耳となるような情報を伝えるときには、伝えすぎることはないのではないでしょうか。

もちろん、高文脈に「了解です」とだけ返事するよりも、低文脈に返事するほうが何倍もの文字数を費やし、手間暇はかかります。

その点は「相手に信頼残高を貯めてもらう」「意思疎通の齟齬のリスクをできるだけ減らす」「相手に伝わる文をつくるうえでの練習になる」などのように「投資をしている」という考えに至れば、時間を損したという気分もすこしは減るのではないでしょうか。

参考資料
日立システムズ 人を生かす心理学「第6回 あなたの職場はハイコン? ローコン?」
https://www.hitachi-systems.com/report/specialist/psychology/06.html
シマウマ用語集「ハイコンテクスト」
https://makitani.net/shimauma/high-context
ウィキペディア「高・低文脈文化」
https://ja.wikipedia.org/wiki/高・低文脈文化
| - | 19:30 | comments(0) | trackbacks(0)
「誤りの直後の誤り」に、教訓が刻まれる効果


人は、なんらかの誤りを、起こそうと思わずとも、起こしてしまうもの。人がおかす誤りや失敗は「ヒューマン・エラー」とよばれ、この分野だけでも学問あるいは理論的研究がうちたてられているほどです。

誤りをおかした人の多くは、「もう二度とおなじことを繰りかえすまい」と心します。誤りの経験が糧となって、おなじ誤りが起きないようになるならば、その誤りは、その人のこれからの人生のためには価値のあるものともいえます。

ただし、誤りを起こした直後は、まだその誤りを冷静に捉えることがむずかしく、おなじような内容あるいは影響の誤りをついしてしまう、危険な時間帯でもあります。

ある企業につとめる社員は、部署の社員たちで慰労のためビアホールに行ったとき、親しい先輩社員がくりひろげた「誤りの直後の誤り」の光景を、つぎのようにうちあけます。

「つぎつぎと注文したものが運ばれ、狭いテーブルに、ビールのジョッキやピッチャーなどが置かれていました。そうしたなかで、先輩が手を滑らせてしまい、ビールの入ったジョッキが床に落ちてしまったんです」

この緊急事態を受け、宴会に参加した社員たちはみなで、落ちたジョッキをテーブルに戻したり、タオルで床を拭いたりと、復旧をはかりました。ふだんから和気あいあいとした職場なのでしょう、先輩、後輩、上司の立場を超えたチームワークによって、ほんの1分ほどで、元の状況に戻ったということです。

「これで、また宴会は再開だと、私もふくめ、だれもが思っていた瞬間でした。ジョッキを床に落とした当の先輩が、『みなさん……どうもすいませんっ!』と言いながら、その場で深々と頭を下げたのです」

「すると、今度はその先輩の頭部がピッチャーにぶつかり、ピッチャーが床に落ちてしまいました。まだ半分ぐらいビールが残っていたので、ジョッキのときよりも大ごとになりました」

ふたたびの緊急事態を受け、社員たちはみなで、落ちたピッチャーをテーブルに戻したり、新たなタオルで床を拭いたりと、復旧をはかりました。非常に和気あいあいとした職場なのでしょう、二度目の事態にも、怒りだすような社員はおらず、むしろみなが笑いながら作業し、ほんの2分ほどで、元の状態に戻ったということです。

「この誤りの直後の誤りは、参加した社員たちにとても強い印象をあたえるものでした。すでに10数年が経過していますが、いまもこのできごとは風化することなく、『どうもすいませんっ!』案件として、当事者たちのあいだで共有され、新たに職場に加わった社員たちに語りつがれています。財産のようなものになっています」

この社員が語る「どうもすいませんっ!」案件から学べることは、ひとつは「誤りの直後にはおなじような誤りが生じやすいので、より注意する必要がある」ということ。そして、もうひとつは「度重なる誤りは影響が大きい分、教訓としての大きな糧にもなりうる」ということです。二度目にピッチャーが床に落ちてこそ、このできごとは語り草となり、教訓を分かちあうほどの効果が生じたのではないでしょうか。
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(2019年)7月27日(土)28日(日)は「全国高等学校鉄道模型コンテスト」


催しものの案内です。

第11回「全国高等学校鉄道模型コンテスト」が(2019年)7月27日(土)28日(日)の2日間、東京・有明の東京ビッグサイト青海展示棟Aホールで開かれます。主催は鉄道模型コンテスト、および全国高等学校鉄道模型コンテスト実行委員会。また、鉄道模型をつくる企業として知られる関水金属・KATOが特別協賛となっています。

このコンテストは、全国の高校あるいは中高一貫校、また工業高等専門学校などの鉄道模型部などに所属する高校生たちが、決められた寸法・規格のボードに、鉄道模型が走る線路をふくむジオラマを展示し、評価を受けるというもの。来場者も投票で評価に参加することができます。参加予定校は5月20日の時点で、およそ140校にのぼっているとのこと。

作品の規格はおもにみっつ。もっとも多いのが「モジュール部門」とよばれる、縦300ミリメートル、横900ミリメートル、あるいは600ミリメートル四方のボードを用いるもの。ボード内に敷かれる線路の位置が決まっているため、ほかの学校のボードとつないで、鉄道模型を走らせることができます。ほかに、最大で縦1820ミリ、横910ミリメートルのボードを使う「1畳レイアウト部門」、また日本で普及されているレール幅が9ミリメートルのNゲージよりも、ひとまわり大きな模型車両の規格による「HOゲージ部門」もあります。

高校生たちのつくるジオラマ作品のなかには、ひとつのボードのなかに「物語」が展開されているもの、地上だけでなく地下にもレールを敷いたもの、ファンタジーの世界を表現したものなど、じつにさまざまです。多くの参加校は、複数の生徒たちが作品づくりに携わっており、共同作業の結晶としても作品を味わうことができます。

賞の種類も多彩で、最優秀賞にあたる「文部科学大臣賞」のほか、「加藤祐治賞」「優秀賞」「理事長特別賞」「審査員特別賞(ベストリアル風景)」「同賞(ベストファンタジー)」などがあります。

作品に投票をした来場者には、オリジナルデザインの「Nコンテナ」という鉄道模型が1日2500個、配られるとのこと。また、おなじ会場では、より寸法の小さく、おもに大人が個人でつくったジオラマ作品を展示する「T-TRAKジオラマコンテスト」も合わせて開かれます。

第11回全国高等学校鉄道模型コンテストは、7月28日(土)29日(日)東京ビッグサイト青海展示棟ホールAにて。中高生は1日券500円、大人はおなじく1,000円で入場できます。小学生以下は入場無料です。主催者による案内ページはこちらです。
https://www.moraco.jp
| - | 18:56 | comments(0) | trackbacks(0)
吟味を重ねると「気に入り」感が増す……


なにかモノを買ったとします。トイレットペーパーのようにすぐに使って捨てるモノでなく、靴や服のように何度も使いつづけるようなものです。

買ったモノについて、「気に入った」と満足し、何度も使いつづけるときと、「買わなくてよかった」と後悔し、すぐに使うのをやめてしまうときとがあるのではないでしょうか。そのちがいは、どのようにして生まれるのでしょう。

家に帰ってからあらためて身につけてみると寸法が合わなかった、といったようなことは「気に入った」感を削ぐものです。つんつるてんの、あるいはだぶだぶの服を、しばらく無理に使いつづけたとしても、つねに違和感がつきまとい、その服からは遠ざかってしまいがちです。

こうした「体型的、あるいは物理的に合うかどうか」といった要因とはべつに、「よく吟味して選んだかどうか」といった要因もあるのではないでしょうか。

たとえば、服屋でスーツを買いにいったとします。スーツを買うことが、その人にとってのいちばんの目的でした。しかし、店員に「シャツはどうですか。ネクタイもありますよ」などと言われて、「スーツを買ったついでに、シャツも買うか。ネクタイも買うか」と、目的ではなかったモノを買ったとしましょう。その後のそれぞれの買ったモノへの「気に入った」感はどうなるでしょう。

いちばんの目的で買ったスーツについては、もともとの目的を果たせたために、それなりに「気に入った」感は高いままかもしれません。しかし、その場で衝動的に買ったほかのシャツやネクタイについては、もともとの買う目的にはなく、吟味もせずに買ったモノです。「買いたい」という枯渇感なしに買ったため、さほど「気に入った」感は起きづらいのではないでしょうか。もちろん、使っているうちに気に入るようになる、といったことはなくはないでしょうが。

おなじ、シャツやネクタイだとしても、もし、その人が「今日はシャツを買おう」「ネクタイを買おう」ということで店に入り、「こっちがいいかな」「いや、こっちにしようか」と吟味に吟味を重ねて、買ったとしたらどうでしょう。こうして買った場合のほうが、そのシャツやネクタイに対しての「気に入った」感は増すのではないでしょうか。

こうした心理を逆に利用することもできそうです。つまり、買おうと目星のついているモノはあってもすぐには買わず、「ほかにも、対抗するモノがあるか探してみよう」などとすこし粘って、枯渇感を強めてから、目星のついていたモノを買うのです。
| - | 20:40 | comments(0) | trackbacks(0)
一気にはむりだが、すこしずつなら


ものごとを一足飛びに理想や目標の状態にもっていくことはむずかしい。けれども、すこしずつ段階を経てそれに近づけていけば、実現できることもあります。

インターネットでは、“Small domino wings”(小さなドミノの羽々)という動画がよく見られているようです。

これは「ドミノは、それ自体の1.5倍の大きさを倒すことができる」という物理を使って、ピンセットの先で扱うぐらいの小さなドミノを起点に、9段階をかけて、人の下半身ぐらいの大きさがあるドミノを倒すというもの。さらに、その動画の後半では、18段階をかけて、小さなドミノを起点に人間の数倍の大きさのある巨大なドミノを倒すことにも成功しています。

はじめの小さなドミノでおしまいの大きなドミノを倒すことはまずもってできません。すこしずつ大きくすることでなせる業です。

逆に、すこしずつ小さくしていくという考えかたについても、高い建てものをつくるために使ったクレーンを、建てもの完成後に取りのぞく方法として使われています。

建てものの屋上にある、使ってきた大きなクレーンの近くに、ひと回り小さい中型のクレーンを組みたてます。そのひと回り小さい中型クレーンで、元の大きなクレーンを解体して、ばらばらになった部品を地上に下ろします。

大きなクレーンのなき跡に、今度はもうひと回り小さい小さなクレーンを組みたてます。その小さなクレーンで、中型クレーンを解体して、ばらばらになった部品を地上に下ろします。

最後の小さなクレーンは、人が扱えるぐらいの寸法なので、分解して、ばらばらになった部品をエレベーターで地上に下ろす、というわけです。

このように、起点からすれば、達成するのがむずかしい目標であるように思えても、段階的にすこしずつ規模を変えていけば、目標に達したり超えたりできるということは、人びとのなにかに向けての“挑みごと”にもいえるものかもしれません。

参考資料
Amazing Galaxy “Small domino wings”
https://www.youtube.com/watch?v=7iGxCDS82-g
大林組「解決!! タワークレーンの謎」
https://www.obayashi.co.jp/towercrane/study/dismantling.html#tab1
| - | 13:03 | comments(0) | trackbacks(0)
「キーのリピート」最速「リピート入力認識までの時間」最短で「意図せぬ文の乱れ」も
メールの文などには誤字が見られます。

「渡部さま」と書くところを「渡辺さま」と書いてしまい送信してしまうといったような「字の選びちがい」はよくあります。送信してから字がちがうことに気づいた人は「ひぇっ」と感じるでしょうが。

ほかに多いのは、日本語としてそのまま読むと意味の通じないような「意図せぬ文の乱れ」ではないでしょうか。たとえば、「日本のなかでは」と書くべきところを「にほんんのなかでは」と打って変換し「日本んのなかでは」としてしまったり、「配布してください」と書くべきところを「はいっふしてください」と打って変換し「入っふしてください」としてしまったりといったものです。書いているときに気づけばもちろん直しますが、気づかないと乱れたままで相手に送信してしまうことに。


「意図せぬ文の乱れ」の例

メールを打つのは人ですから、だれもがメールをつくっているときは、文の乱れを生じさせるもの。そのたびに文をなおすといったことをくりかえすわけです。

けれども、一般的にここ数年は、メールにおける「意図せぬ文の乱れ」が増えているのではないでしょうか。統計をとっているわけではありませんが。

これが事実として、原因を挙げるとすれば、ひとつはメールをつくる人が忙しくなったということがあるかもしれません。つくらなければならないメールの数が増え、1通あたりにかけられる手間が減ったため、「意図せぬ文の乱れ」に気づかない率が高まったというものです。つぎからつぎへと返信している人は、文を見直すことさえできていないかもしれません。

もうひとつ原因としてありそうなのは、コンピュータ上のタッチタイピングが「滑らか」になりすぎて、メールをつくる人の意図しないチャンク、つまり意味をもったことばのまとまりをつくってしまいやすくなっているというものです。

コンピュータによっては、コンピュータの使いかたを自分で選ぶ「環境設定」とうい項目のなかで、「キーのリピート」の速さ・短さや、「リピート入力認識までの時間」の長さ・短さを選ぶことができます。「キーのリピート」とは、おなじキーを一定の時間、押しつづけることで、そのキーの文字が連続して入力されること。また「リピート入力認識までの時間」とは、コンピュータがキーのリピートを認識するまでにかかる時間のこと。


アップルMacの「環境設定」にある「キーボード」の設定

これもまたコンピュータによってはでしょうが、買ったときのもともとの設定として、「キーのリピート」はもっとも速く、「リピート入力認識までの時間」はもっとも短くなっているようです。これだと、指ですこしでもキーボードを押していると、キーのリピートが作動してしまい、その結果、意図せぬ文字が入力されてしまい、「意図せぬ文の乱れ」が生じてしまうというわけです。

たとえ「意図せぬ文の乱れ」が生じてしまっても、それをなかば機械的に修正する方法もあります。マイクロソフトの文書作成アプリケーション「ワード」には、「スペルチェックと文章校正」という機能があり、これにより「入力ミス」のおそれがある部分の指摘を受けることができます。もっとも、メールの文をいちいち「ワード」で校正することをする人が、どれだけいるかという話でもありますが。

いっぽう、グーグルの「Gmail」にも「スペルチェック」という機能はありますが、こちらはまだ、日本語の文章には対応していないもよう。日本語への対応が待たれます。
| - | 17:49 | comments(0) | trackbacks(0)
(2019年)6月19日(水)は「3.11から学ぶ放射能をめぐるリスクコミュニケーション」



「コンシューマーズカフェ」のお知らせです。

「くらしとバイオプラザ21」が、コンシューマーズカフェ「3.11から学ぶ放射能をめぐるリスクコミュニケーション 試行錯誤の歩み」を(2019年)6月19日(水)13時30分より、東京・日本橋小網町のくすりの適正使用協議会会議室で開きます。

くらしとバイオプラザ21は、バイオテクノロジーやその製品・サービスについて、一般の人々に情報発信し、またコミュニケーションをおこなうことで、社会全体の理解を深め、バイ オテクノロジーの健全な発展を促進することを目的とした非営利団体。

また、「コンシューマーズカフェ」は、コンシューマーつまり消費者にとって関心の高いような話題をとりあげ、その分野の専門家と参加者が問題点などを考え話しあう、同団体の企画による場。これまで27回を重ねてきました。

第28回の今回は、量子科学技術研究開発機構高崎量子応用研究所の元放射線生物応用研究部長である小林泰彦さんを迎えるとのこと。同団体の案内によると、小林さんは食品への放射線照射に関する市民との対話を続け、2011年3月の東日 本大震災以降は、福島原子力発電所の事故をめぐる放射能と食品についてのリスクコミュニケーションに積極的に関わってきました。

同団体は「3.11から8年たった今も風評被害などで苦労している事業者がおり、もやもやと不安を抱きつつ食品を選んでいる消費者もおります。実際に関わってこられたリスクコミュニケーションをご紹介いただき、そこにある問題点について、参加者全員で考え、話し合いましょう」とよびかけています。

「3.11 から学ぶ放射能をめぐるリスクコミュニケーション 試行錯誤の歩み」は6月19日(水)。参加費は、同団体非会員は1,000円。申しこみは先着15名とのことです。くらしとバイオプラザ21による同カフェの案内はこちらです。
http://www.life-bio.or.jp/biocafe/pdf/20190619.pdf

参考資料
くらしとバイオプラザ21「定款」
http://www.life-bio.or.jp/about/pdf/teikan.pdf

| - | 20:16 | comments(0) | trackbacks(0)
「雨の慕情」の振りつけと根号のかたちの一致は偶然
歌手の八代亜紀の代表的な歌のひとつに「雨の慕情」があります。作詞は阿久悠。作曲は浜圭介。1980年にレコードが発売されました。

別れた相手のことを想って「憎い 恋しい」と葛藤し、さらに「雨々ふれふれ もっとふれ 私のいいひとつれて来い」と慕情が発露する心を歌ったものです。

「雨の慕情」に対しては、歌詞や旋律や歌唱力などとともに、八代亜紀の振りつけに魅了される人もいるのではないでしょうか。上記の「雨ごい」の歌詞のところでは、左の手のひらを天に向けてから、左腕を奥に手前にと7回にわたり平行移動させます。「雨々ふれふれもっとふれ」という心が、体にも現れたのでしょう。

八代亜紀のこの振りつけをユーチューブの動画で見ていたある人は、こんなことを直感したといいます。

「八代亜紀さんの左の腕から手にかけてのかたちが、根号そっくりではないか」


根号

腕と肘のあいだの関節が、根号の底の折れまがり部分。また、肘と手のひらのあいだの関節が、根号の頂の折れまがり部分。そして、手のひらが、根号の横に伸びる屋根の部分にあたるというわけです。

たしかに、八代亜紀が撮影カメラに正対し、「雨々ふれふれもっとふれ」と歌っている瞬間は、腕から手のひらにかけてのかたちが根号とおなじかたちになります。手のひらを奥に手前にと平行移動させるので、根号が横長になったり戻ったりをくりかえすことになります。



そもそも根号は、どうして八代亜紀の「雨々ふれふれもっとふれ」の振りつけのときのようなかたちになったのでしょうか。残念ながら、八代亜紀が雨の慕情を歌いだすよりも前から根号は存在していたため、八代亜紀の振りつけが起源となっているわけではないようです。

いろいろな説があるようですが、「平方根」を意味するラテン語の“radix”、英語では“root”の頭文字である“r”が、“√ ”になったという説が有力のようです。

しかし、根号が見られる世界初の書物とされる、ドイツの数学者クリストフ・ルドルフ(1499-1545)の1525年の著書『代数』には、まだ、八代亜紀の手のひらに該当する根号の屋根がありませんでした。

この屋根をつけたのは、フランスの有名な数学者ルネ・デカルト(1596-1650)だといいます。屋根があれば、根号の範囲がどこまで及ぶかは明確になります。

八代亜紀の振りつけと、ルネ・デカルトが完成させた根号のかたちが一致するのは偶然なのでしょうか。「偶然でない」可能性として残されているのは、「雨の慕情」の振りつけを考案した人が、根号のかたちから発想を得て振りつけを決めたというものです。

しかし、その可能性もどうやらなさそうです。振りつけを考えたのは八代亜紀本人で、彼女はインタビュー記事で「雨の慕情」の振りつけについて、つぎのように答えています。

「あの振り付けは、自然に出てきましたね」

参考資料
taka laru「雨の慕情/八代亜紀(1980年)」
https://www.youtube.com/watch?v=HTeJHMWeKL4
ウィキペディア「根号」
https://ja.wikipedia.org/wiki/根号
岡部恒治、川村康文、 長谷川愛美、 本丸諒、 松本悠著『身近な数学の記号たち』
https://books.google.co.jp/books?id=tV02AgAAQBAJ&pg
BSフジ 歌人伝説「八代亜紀 ロングインタビュー」
http://www.bsfuji.tv/utaibito/interview/inter01_3.html
| - | 13:01 | comments(0) | trackbacks(0)
(2019年)5月31日(金)6月1日(土)は「国立情報学研究所オープンハウス2019」


催しもののお知らせです。

国立情報学研究所の「オープンハウス2019」が、(2019年)5月31日(金)と6月1日(土)の2日間、東京・一ツ橋の学術総合センターで開かれます。

オープンハウスとは、一般の人たちに向けて研究成果を発表したり、施設を公開したりする催しもののこと。ふだんなかなか立ちいることのできない研究の現場を体感したり、研究者から直に話を聞いたりする機会となります。

同研究所は、情報学という学問分野において、長期的な視点に立つ基礎研究と、社会課題の解決をめざした実践的な研究を推進する研究機関。「『未来価値創成』を使命とする国内唯一の学術総合研究所」と自負しています。

初日の31日(金)は、経済同友会代表幹事で、SOMPOホールディングスグループ最高経営責任者の櫻田謙悟さんが、SOMPOグループのデジタル戦略と経済同友会の今後をテーマに基調講演する予定。

また、同研究所の情報学プリンシプル研究系教授である佐藤健さんも、「AIの法律分野への応用:現状と将来の課題」という主題で基調講演をする予定。

2日目の6月1日(土)には、「コンピュータサイエンスパーク」という“あそび場”を設けて、コンピュータを使わずにプログラミング的思考について学ぶ企画が組まれる予定。「かずあそび・ことばあそび」「人間キュベット」「DIGI-COMPIIで学ぶ計算の仕組み」といった、もののうごかしかたを知るアンプラグドエリアと、「キュベット」「ロボホン」「KOOV」「亀ロボットの迷路抜けプログラミング」「コードモンキー、マインクラフト」といった、ものをうごかすチャレンジエリアがつくられるとのこと。

また2日目には、10名の研究者による「NII研究100連発」という発表もあるとのこと。

情報とはなにか。情報学とはどんな学問か。そうしたことを五感を使って考える2日間になるのではないでしょうか。

国立情報学研究所の「オープンハウス2019」は、5月31日・6月1日、学術総合センターにて。入場は無料ですが、一部プログラムは先着順で受けつけのため申込みが必要とのことです。同研究所によるお知らせはこちらです。
https://www.nii.ac.jp/openhouse/
| - | 18:49 | comments(0) | trackbacks(0)
仲間どうしながら、はたらきは逆


写真作者:Leon Riskin

「仲間どうし」とされながらも、じつは「逆」といえる性質やはたらきをもっている、といったことがたまにあるようです。たとえば、自律神経系とよばれる神経の仲間どうしであっても、交感神経はからだを活発な状態にし、副交感神経はからだを機能回復に適した状態にする、といったことがあります。

細胞どうしを接着させるタンパク質の「仲間どうし」でも、対立するようなはたらきをもつことがあります。

「カドヘリン」というタンパク質の分子は、動物のからだのなかの細胞と細胞を接着させることに携わっています。細胞膜にあって、カドヘリン分子どうしの相互作用によって、細胞と細胞をくっつけます。

1980年代後半、日本の細胞生物学者の竹市雅俊(1943-)が、カドヘリンが細胞どうしを接着する分子であることを発見しました。それ以来、何種類ものカドヘリンが研究者により見いだされ、これまですでに、ヒトだけでも120種類以上のカドヘリン遺伝子が見つかっています。

そうしたなか、カドヘリンとして分類される仲間のなかで、「プロトカドヘリン」とよばれる分子群の存在が顕著になってきます。プロトカドヘリンは、とりわけ神経細胞どうしを接着させることに関与するといった役割をもっています。なお「プロト-(proto-)」という接頭辞には「主要な」といった意味があります。

プロトカドヘリンも、カドヘリンですから、細胞どうしを接着させることにちがいはありません。しかし、はじめに発見された、いわば古典的なカドヘリンとは大きく異なるはたらきもあります。古典的なカドヘリンは、細胞と細胞を接着し、それらの構造を維持し、安定させようとします。これに対して、プロトカドヘリンは、細胞と細胞を接着しつつも、それらが運動することを強めようともするのです。

たとえば、「プロトカドヘリン17」とよばれるプロトカドヘリンは、神経細胞の突起の部分である軸索をいくつも束ねながら、それらが伸びていくようにするはたらきを担っています。このはたらきは、細胞どうしを接着してそこで安定化させようとする古典的なカドヘリンのはたらきとは、いわば対極的なもの。

こうしたことから、古典的なカドヘリンとプロトカドヘリンは、おたがいのはたらきをすりあわせながら、神経細胞の作用の均衡を保っているのではないかとも考えられているようです。

参考資料
理化学研究所 竹市研究室「カドヘリン発見物語」
http://www.cdb.riken.jp/ctp/cadherin.html
テルモ生命科学振興財団「集団性とランダム性を兼ね備えた神経細胞のネットワークが心を生み出す」
https://www.terumozaidan.or.jp/labo/class/s2_04/interview01.html
福岡大学 機能生物化学研究室「生化学の基礎 細胞接着分子」
http://www.sc.fukuoka-u.ac.jp/~bc1/Biochem/adhmol.htm
理化学研究所 2014年9月29日発表「神経軸索の集団的な伸長を支える分子メカニズムを解明」
http://www.riken.jp/pr/press/2014/20140929_1/
理化学研究所 多細胞システム形成研究センター 2017年8月31日付「PCDH19の変異がてんかんや知的障害をもたらす仕組み」
http://www.cdb.riken.jp/news/2017/researches/0831_14196.html
千里ライフサイエンス振興財団「神経回路形成における細胞接着分子 の関わり:カドヘリン対プロトカドヘリン」
http://www.senri-life.or.jp/shinteki/abstract/20190320_nou.pdf

| - | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0)
「ふちどり問題」解決策のひとつに「ほぼ白い画像」
インターネット画面の地の色は、基本的には「白」。つまり、レッド(Red)、グリーン(Green)、ブルー(Blue)からなる「光の3原色」すべての値が「0」となっています。また、紙における地の色も、基本的には「白」。シアン(Cyann)、マゼンタ(Magenta)、イエロー(Yellow)、ブラック(blacK)のインキ4色すべての値が「0%」となっています。

こうした「白」の地の画面や紙面をめぐっては、白い画像を載せたときに「ふちどり問題」が生じます。つまり、白い地のところに、白い画像を載せると、どちらも白で表現されるため、どこまでが地で、どこからが画像であるかが見た目でわからない、ということになってしまうのです。


白の地に、白い画像

この問題を避けるため、画像のふちに黒などの細線をつけ「境界線」を示すこともあります。これはこれで、長らく使われてきた方法であり、見なれたものとはいえます。しかし、あからさまな境界線が引かれていると、なんとなしに野暮な感じを抱く人もいるかもしれません。


白の地に、境界線つきの白い画像

画像の右側と下側に「ぼけあし」あるいは「ドロップシャドウ」とよばれる影をつける人もいます。このブログでも2008年10月12日付の「“ふちどり問題”を“ぼけあし”が解決」という記事で、この効果を伝えています。画像が地の画面や紙面から浮いて見えるため、とても効果的な問題解決法といえましょう。見た目も洗練されます。


白の地面に、ぼけあしつきの白い画像

しかし、「ぼけあし」をつけるとなると、その影の部分もレイアウトの考慮に入れなければならず、ややデザインがむずかしくなります。

もうひとつの方法としてあるのが、「透明度のごく高い塗りつぶしを画像全体にほどこす」というものがあります。

たとえば、画像処理ソフトのフォトショップで白い画像を開いて、「編集」「塗りつぶし」「ブラック」「不透明度4%」などとします。すると、見た目にはほぼちがいがわからないものの、画像全体にごくごく薄い黒が乗せられました。


白い地面に、「ブラック不透明度4%」の画像

この画像を、インターネット画面や紙面に載せると、画面や紙面の純粋な「白」に対して、画像は「基本的には白だが、ごくごく薄い黒」となっているため、画像のふちに黒い線をつけなくても、境界がわかるようになります。

画像を塗りつぶすときの不透明度は、せいぜい4パーセントないし5パーセントでしょうか。それ以上、不透明度を高くすると、画像が白く見えなくなってしまいます。
| - | 21:24 | comments(0) | trackbacks(0)
音程が外れている歌に、自分の歌をかぶせる

写真作者:mexican 2000

人は、自分が希望していてもしていなくても、歌を歌う場面を経験します。自分が歌うときもあれば、ほかの人が歌っているのを聴くときも。そして、自分とほかの人がともに歌うときもあります。

ほかの人が歌っている歌の音程が外れてしまっているとします。こうしたとき、それを聴いている人のなかには、自分自身も歌に参加して、もともと歌っていた人の歌声にかぶせる、という人もいます。

歌をかぶせた人の心理は、どういったものなのでしょうか。

「歌っている人のほかに、私もふくめて音程の外れた歌を聴いている人たちがいる。音程の外れた歌によって場がしらけてしまわないように、自分が歌をかぶせて支援してさしあげよう」

このように、場がしらけてしまうよりは、場の盛りあがりを保ちたいという公共福祉への思いから、歌をかぶせるという人は多いのではないでしょうか。こうした思いの人がその場にほかにもいれば、歌声は2人、3人と増えていって合唱のようになり、むしろ盛りあがることもあるかもしれません。

「どうにかあの人の歌の音程を通常どおりに戻してあげたい。自分が歌をかぶせて支援してさしあげよう」

こちらは、思いが公共に向けられるというよりも、歌っている本人に向けられているようです。音程を外してしまっているのは、一時的に音程をつかめていないからかもしれません。そこで、音程をつかんでもらうために自分が正しい音程で歌ってさしあげるわけです。

しかし、その度が過ぎて、こう思いながら歌をかぶせる人もいるかもしれません。

「おい、おまえ、ぜんぜん音程が外れているぞ。いいか、この歌はこうやって歌うんだ。聴いておきなさい」

ここまでくると、公共福祉のためでも、歌っている本人のためでもなく、もはや自分がせいせいするためといったことになりそうです。音程を外しながらも一生懸命に歌っている人に、「こう歌うんだよ」と聞こえよがしにほかの人から歌が聞こえてくれば、「救われた」と思うとともに「自分だってうまく歌いたいんだ」と傷つくかもしれません。

音程が外れてしまっている歌に、自分の歌をかぶせる人の心理は、これら三つのものではないでしょうか。そして、人によって三つのうちのどれかがわかれるというものでなく、一人のなかに三つのいずれもが入りまじっているようなものなのではないでしょうか。三つ比率は人によって異なるでしょうが。
| - | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0)
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