科学技術のアネクドート

動機があろうがなかろうが、してもらう仕事は仕事


仕事をするうえでは、その仕事をするため動機や意欲になるものがあることが大切になるといいます。その人が仕事をすることを駆りたてる動機づけを、英語ではモチベーションともいいます。

企業などの組織において、社員が動機づけをして仕事にとりくむことがいかに大切であるかは、動機づけを主題とするさまざまなビジネス書や企業向けセミナーがあることからうかがえます。

たとえば、ビジネス書では、つぎのような書名のものが売られています。

『人を活かし成果を上げる 実践モチベーション・マネジメント』(モチベーション・マネジメント協会著、PHP研究所刊)
『職場活性化の「すごい!」手法 モチベーションを一気に高める48の処方箋』(大塚寿著、PHPビジネス新書)
『マジマネ5 部下の「やる気」を育てる!』(小林英二著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)

また、企業向けセミナーでも、つぎのような研修名のものがあるようです。

「社員のモチベーションアップを実現する!人事制度の見直し方」
「社員のモチベーションを高める――人事教育担当者の役割」
「従業員のモチベーションを向上させる人事評価再構築セミナー」

これらのビジネス書や企業向けセミナーに共通する主題は、上役や人事部社員などの“会社側”の人たちが、いかに社員たちに仕事の動機をもたせるかといったものといえます。社員たちの仕事への動機づけがなされれば、社員たちが仕事をがんばるので、会社としてもよい結果をせることにつながる、といった考えかたがもとになっているものが多いようです。

しかしながら、「会社側が社員たちの仕事への動機をつける」ということについては、批判的な見かたもあるようです。つまり、「どうして企業側が社員の仕事への動機のことまで考えなければならないのか」といった考えです。

そもそも、その社員に仕事への動機があってもなくても、社員のすべき仕事はあたえられています。その時期に、その社員に仕事をする意欲があろうとなかろうと、会社がその社員に成果を出すことを求めるのは当然です。会社は、その社員が仕事をして成果を出すことを期待して、その対価として給与を払っているわけですから。いっぽうで、社員はその前提で、所属する企業に対して、その会社で仕事をする約束をしているはずですから。

原理的にいえば、その社員が「仕事への動機づけができない」と感じて、会社が求める成果を出せない場合、その社員には辞めてもらってもよいわけです。さらにいえば、その社員が「仕事への意欲を高くもっている」と感じていても、会社が求める成果を出せない場合、その社員には辞めてもらってもよいわけです。

とはいえ、企業からしてみれば、せっかく雇った社員です。会社側の手によってでも、社員たちに仕事への動機をもってくれれば、結果はよいほうに転ぶはず。

企業が社員に動機づけをさせる必要があるがあるのかどうか。この課題では、企業側が社員の存在をどのように考えるかが問われます。

参考資料
ウィキペディア「動機づけ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/動機づけ
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ハザードは「危険のもと」

写真作者:jam343

「リスク」や「ベネフィット」といったことばは、「リスクを冒してまでベネフィットを得にいく」などのように日本でもよく使われています。

しかし、「ハザード」ということばは、自然災害などの種類や危険度を記した「ハザードマップ」や、自動車の非常用点滅灯である「ハザードランプ」といったことばでは使われているものの、「ハザード」単独で使われることはさほどありません。

ハザードは、よくリスクという概念とのかかわりのなかで示される概念です。

国際標準化機構が策定している、機械類の安全性を確保するための規格「ISO12100」では、「ハザード」は、「危害を引き起こす潜在的根源」と定義されています。しかし、これではハザードの意味はさほどよくわかりません。

行政などの説明では、ハザードは「危険性または有害性」とされています。たとえば、厚生労働省の「職場のあんぜんサイト」では、「危険性」の例を、「爆発性の物、発火性の物、引火性の物、腐食性の物等による危険性」や「作業方法から生ずる危険性」などとし、「有害性」の分類例を、「原材料、ガス、蒸気、粉じん等による有害性」などとしています。

さらに、このサイトでは、「ハザード」と「リスク」の関係を、ライオンを例にして説明します。ライオンは危険性をもっているのでハザードであるものの、ライオンのそばに人がいなければ、ライオンに襲われる危険性はないため、負傷の生じるリスクのない状態といえる、といいます。

いっぽう、ライオンの近くに人がいるとすると、ライオンに襲われるリスクが高まっている状態といいます。

これらをまとめると、危険のもととなるものが「ハザード」であり、ハザードを原因とする危険によって損害を受ける可能性が「リスク」といえそうです。

社会が危険であることについて関心をもつとき、「何々は危険」といったことをよく議論します。これはハザードのほうを指しているものと考えられます。いっぽう、「どのくらいの可能性で危険」といったことはさほど議論しません。こちらはリスクのほうを指しています。

つまり、「リスク」ということばはよく使われているものの、実際はあまりリスクについて話されておらず、むしろ、ことばとしてはあまり使われていない「ハザード」のほうが話されている傾向があるということになります。

参考資料
厚生労働省「職場のあんぜんサイト リスクとハザード」
http://anzeninfo.mhlw.go.jp/risk/syokuhin07.html
ウィキペディア「ISO 12100」
https://ja.wikipedia.org/wiki/ISO_12100
経済産業省「商業施設内の遊戯施設の安全に関するガイドライン」
http://www.cao.go.jp/consumer/iinkai/2016/229/doc/20160726_shiryou3_0.pdf
安全・安心科学技術及び社会連携委員会 2014年3月27日「リスクコミュニケーションの推進方策」
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu2/064/houkoku/__icsFiles/afieldfile/2014/04/25/1347292_1.pdf
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2回接種で免疫のはたらきをより確かなものに


感染症を防ぐためにはワクチンを摂取することが大切とされています。ワクチンは、感染症の原因となる菌やウイルスからつくった抗原のこと。ワクチンを摂取することで、たとえその感染症にかからなくても、からだに免疫のしくみが備わります。その結果、ワクチンの接種を受けた人は、その感染症にかかりにくくなります。

とはいえ、ワクチン接種も感染症を防ぐのに万能とはなりません。近ごろは、おなじワクチンを2回接種することの大切さが、医師や保健期間などによっていわれています。

なにかの問題を防ぐための処置を1回でなく2回にわたり受けるほうが、効果は1回のとき以上、得られそうだと多くの人は直感するかもしれません。では、ワクチンの2回接種については、どんな効果を得られるのでしょうか。

国立感染症研究所は、ワクチンのひとつである「麻疹・風疹ワクチン」について、小学校入学前の子どもが2回接種することには、つぎのみっつの意義があると説明しています。

ひとつめの意義は、1回目の接種で免疫がつかなかった子に免疫をあたえられること。麻疹・風疹ワクチンを摂取しても、数パーセントの子どもは免疫のしくみを得られないとされています。そこでもう1回ワクチンを摂取することで、今度こそ免疫をしくみを得るというわけです。

ふたつめの意義は、1回目の摂取で免疫がついたものの、その後、時が経って免疫の機能が衰えた子に刺激をあたえること。こうした子の免疫は、2回目の摂取によって強固なものになります。

みっつめの意義は、1回目に摂取しそびれた子どもにもう一度、ワクチン接種の機会をあたえるということ。1回目の接種する機会があったのに、なんらかの理由で摂取できなかったと言う子もいるようです。そうした子に、あらためてワクチン接種の機会があたえられれば、ほんとうにワクチンを摂取することができるということのようです。

ひとつめの意義とみっつめの意義は、初めてのワクチン接種の機会に、免疫を得られなかったという点でおなじといえます。そして、免疫を得られたとしても、その機能が衰えるおそれがあるために2回目を受ける利点があるというのがふたつめの意義です。

厚生労働省は「近年はワクチンの2回接種が行われ、麻しんに感染する方の人数は減っています」と説明しています。

参考資料
スーパー大辞林「ワクチン」
国立感染症研究所「麻疹・風疹ワクチンなぜ2回接種なの?」
http://www.nih.go.jp/niid/ja/diseases/ma/655-measles/idsc/567-cpn01.html
厚生労働省「麻しん(はしか)に関するQ&A(平成19年5月30日作成、平成24年4月21日改訂)」
http://www.mhlw.go.jp/qa/kenkou/hashika/
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ネコのハンターとしての素顔に迫る……「研究でわかってきた! ネコのネコらしさ」『Rikejo』マガジンで



理系進学をめざす女の子たちを応援する講談社の会員誌『Rikejo』マガジンの第41号が、(2016年)9月下旬に発行されました。

『Rikejo』マガジンは紙媒体の会員誌ですが、講談社のデジタル版サービス「codigi」でかんたんな手つづきをすれば、おなじ内容を会員登録なしで見ることができます。「codigi」の手つづきをするのも面倒という人も、「codigi」サイトで、内容の一部を試し読みすることができます。

科学特集「リケジョサイエンス」は、「研究でわかってきた! ネコのネコらしさ」というテーマとなっています。「気ままでツンデレ。でもニャーニャーとかわいい。そんな印象のネコですが、ほんとうはどんな生きものなのでしょう? 体、心、行動などの研究でわかってきた“ネコのネコらしさ”を見てみます」とリードにあります。

最初の記事の題目は「いまもくすぶる狩猟本能 ネコの正体は『ハンター』だった!」。後ろ脚を使って高く飛びはねたり、180度回転する耳で獲物の動きを感じとったり、また顔でなく前脚に生えている“ひげ”で獲物が息しているかを確かめたりと、ハンターとしての能力がネコにはいまもなお備わっていることがわかります。

いまではネコといえば、家で家族の一員として飼われたり、「猫カフェ」で癒やしてもらったり、人間にとっての愛玩動物と化しています。しかし、ネコが人間に飼われるようになった数千年前からほんの100数十年ほど前までは、おもにネズミを駆除してくれる動物と見られてきたわけです。ハンターとしての側面は、まだまだ失われていません。

この特集では、ほかにも外で飼っているネコに、データロガーという装置をつけて普通に過ごさせて、全地球無線測位システム(GPS:Global Positioning System)で、ネコが街のどのあたりを歩きまわっているかを調べた研究成果なども紹介しています。

「研究でわかってきた! ネコのネコらしさ」は、『Rikejo』マガジン第41号で読むことができます。紙媒体とおなじ内容のデジタル版は「codigi」の会員登録をして、コード番号を入力することで見ることができます。デジタル版を読むための方法について、詳しくは「リケジョ」のウェブサイトの記事をご覧ください。

「codigi」のサイトはこちらです。
https://codigi.jp/

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「『ミツバチ問題』は農薬規制だけでは解決しない」


ウェブニュース「JBpress」できょう(2016年)9月23日(金)「『ミツバチ問題』は農薬規制だけでは解決しない 養蜂とはちみつの過去・現在・未来(後篇)」という記事が配信されました。記事のための取材と寄稿をしました。

「ミツバチ問題」とは、2000年代なかばから、日本をふくむ世界で騒がれている「ミツバチが大量に消滅してしまう問題」をはじめとするミツバチの個体数減少や生存危機をめぐる問題のことです。

ミツバチの大量消滅の問題の経緯はおおまかに、つぎのようなものです。

欧米で2000年代から、ミツバチの働きバチが大量失踪し、群れを維持できなくなる「蜂群崩壊症候群」が問題化しました。日本では、蜂群崩壊症候群とは認められないものの、2008年から2009年にかけてミツバチの群数が減少し、花粉交配用ミツバチが不足するなどしました。

ミツバチ大量消滅と同時期に使用が増えた農薬が、「ネオニコチノイド系」とよばれるものでした。これは、クロロニコチニル系殺虫剤の総称で、イミダクロプリド、クロチアニジン、チアメトキサムなどのことです。ミツバチの大量消滅とネオニコチノイド系の使用量増加には因果関係があるのではと疑われました。そして2012年に、米国の科学誌『サイエンス』にネオニコチノイド系殺虫剤への暴露がミツバチの高い致死率を引き起こすとする研究結果などが報じられました。

この動きにいちはやく反応したのが欧州でした。欧州連合は2013年12月、ミツバチが好んで訪れる作物へのネオニコチノイド系農薬3種を使用禁止にしました。これは、ある物質が環境に回復不可能な損害をもたらす“可能性”があるとき、因果関係がきちんと確かめられていなくても、安全を優先して行動すべきとする「予防原則」という考えかたに基づいたものとされます。

日本では、2016年7月、農林水産省が「蜜蜂被害事例調査(平成25年度〜27年度)の結果及び今後の取組について」という発表をし、「分析を行った死虫の発生は、水稲のカメムシ防除に使用された殺虫剤に、蜜蜂が直接暴露したことが原因である可能性が高いと考えられます」などと結果の要点を示しました。いっぽうで、ネオニコチノイド系農薬を規制することについては、「これらの農薬は水稲のカメムシ防除に重要です」などと説明し、規制をしていません。

取材に応じてくれた玉川大学ミツバチ科学研究センター教授の中村純さんは、ネオニコチノイド系農薬が、死虫の発生の原因であることは「わかっていること」としながらも、ミツバチと農薬をめぐる現状については、関係者が「全体を見たつもりになっている」状況といいます。

そして、記事では、農薬を使わなくなった場合に影響を受ける農業全体への視点や、ミツバチが利用できる植物の減少が「農薬以上に重要な課題」などとする考え、さらに、ミツバチの蜜源を確保するため産学官連携でとりくみはじめたプロジェクトの内容などを示します。

ミツバチ大量消滅の原因がネオニコチノイド系農薬であるとする報告は世界的に複数あがっており、関係性がないとはもはやいえない状況です。

しかし、新聞で「大量死ミツバチから農薬」や「水稲でのカメムシ防除がミツバチに被害」などと見出しになるたびに、社会では「悪いのは農薬だから、農薬を規制すればミツバチを救える」といった単純な見かたが強くなっていきます。この「農薬イコール悪者」という構図が単純明快だからこそ、新聞記者などは記事にしやすいのかもしれませんが。

JBpressの記事「『ミツバチ問題』は農薬規制だけでは解決しない 養蜂とはちみつの過去・現在・未来(後篇)」はこちらです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47939
前篇では、日本におけるはちみつ食や養蜂の歴史を追っています。前篇の「最古の記録は“失敗”だった日本の養蜂」はこちら。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47892

参考資料
Mickaël Henry et al. “A Common Pesticide Decreases Foraging Success and Survival in Honey Bees”
http://science.sciencemag.org/content/336/6079/348
農林水産省 2015年9月9日更新「農薬による蜜蜂の危害を防止するための我が国の取組」
http://www.maff.go.jp/j/nouyaku/n_mitubati/qanda.html
中村純「ネオニコチノイド系農薬の使用規制でミツバチを救えるか」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpestics/40/2/40_W15-20/_pdf
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19世紀はじめ、ロンドンでインド人企業家がカレー店を開業――カレーまみれのアネクドート(86)
きのう(2016年)9月21日(水)付のこのブログの記事は「『ヘイスティングズが香辛料と米を持ちかえった』英国では言われず」というものでした。日本でいわれている、インドから英国へのカレー伝来の説には疑問点がいくつかあるといったものです。

S&Bのサイト「カレーの世界史」には、「このカレーと米を組み合わせたライスカレーはイギリス王室で大変な評判となり上流階級の人々へ広まり、次いで産業革命で頭角をあらわしてきた資本家階級など、生活に余裕のある人々へと広がっていきました」とあります。

これについても英国で発信されている情報をたどってみても、カレーと米の組みあわせの料理が王室で評判となったことや、その後、上流階級や資本階級に広がっていったことを示す記述にはなかなか出合えません。

その後、英国の企業クロス・アンド・ブラックウェルが世界で初めてカレー粉を商品化したというのが、日本でいわれている、英国でのカレー産業の歩みです。クロス・アンド・ブラックウェルは、1706年創業のウェスト・アンド・ワイアットを前身とする企業。1830年に従業員だったエドモンド・クロスとトーマス・ブラックウェルが経営権を買いとってクロス・アンド・ブラックウェルの社名にしました。

1950年から2002年まで、クロス・アンド・ブラックウェルを買収して、ブランド化していたネスレのサイトには、「かつて植民地であったインドからインド料理の秘密をカレー粉に凝縮して初めてヨーロッパに広げたのがクロス&ブラックウェル社でした」という記述が残っています。ちなみに、いまクロス・アンド・ブラックウェルは米国企業のJ・M・スマッカー傘下にあります。

しかし、きのうの記事で紹介した、ロンドンで出稿されたとする商用カレー粉の広告は1780年代のものとされています。ですので、「初めてヨーロッパに広げたのがクロス&ブラックウェル社」というのであれば、それはクロス・アンド・ブラックウェルの前身のウェスト・アンド・ワイアット時代でなければなりません。

いっぽう、英国放送協会のニュースサイトでは、ジャーナリストのローレン・ポッツさんが「18世紀後半に英国がベンガルを支配してから初めてインド料理が流行となり、1809年までにロンドン初のカレー屋も開店した」と述べています。

この「ロンドン初のカレー屋」とは、べつの英国放送協会ニュース記事によると、インドからの移民企業家ディーン・マホメッド(1759-1851)が開店したものとされます。英国では、すでにコーヒーハウスでもカレーが出されていました。しかし、マホメッドが出したカレーは、辛さが効いていたようで、1809年の新聞には「これまで英国でつくられてきたカレーとは一線を画す」と宣伝されたそうです。


ディーン・マホメッドの肖像

カレーという料理がどのように英国に入ってきたのかを追ってきました。日本と英国での情報内容のちがいがあり、一筋縄ではありません。

ちなみに、日本の「カレーライス」については、ウィキペディアには「インド料理を元にイギリスで生まれ、日本で発展した料理である」と説明されています。

英国カレー小史の記事は、これでいったん終了です。

参考資料
S&B「カレーの世界史」
http://www.sbcurry.com/dictionary/world/
ネスレプロフェッショナル「Crosse & Blackwell®」
https://www.nestleprofessional.com/japan/jp/BrandsAndProducts/Brands/Crosse_and_Blackwell/Pages/default.aspx
BBC NEWS 2015年1月17日付 “Dripping, apples and milk: Making curry the Victorian way”
http://www.bbc.com/news/uk-england-humber-30718727
BBC NEWS 2009年11月26日付 “How Britain got the hots for curry”
http://news.bbc.co.uk/2/hi/8370054.stm
ウィキペディア「カレーライス」
https://ja.wikipedia.org/wiki/カレーライス
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「ヘイスティングズが香辛料と米を持ちかえった」英国では言われず――カレーまみれのアネクドート(85)

きのう(2016年)9月20日(火)付のこのブログの記事は「18世紀半ば『インド流』カレーのレシピが英国に」というものでした。

英国のカレー史については、その後、1772年ごろ「ウォーレン・ヘイスティングズが、インドから英国へ、カレーの原料となる香辛料と米を持ちかえった」という説明がよくされています。たとえば、S&Bの「カレーの世界史」や、ハウス食品の「カレーの世界史18世紀」などのサイトでは、そのような記述が見られます。

ウォーレン・ヘースティングズ(1732-1818)は、英国チャーチル出身の英国人です。1773年に英国がインドを植民地化してから初のインド初代総督となりました。総督になるまえは、東インド会社に入社したあとは、ムルシダーバード地区理事官、カルカッタ管区参事会参事、マドラス管区参事会参事、そしてベンガル知事をつとめるなどしてきました。


ウォーレン・ヘイスティングズ

ところが不思議なことに、ヘイスティングズがカレーの原料となる香辛料を1772年に英国に持ちかえったという英語圏での記述は、まったくといってよいほどありません。

インターネットで、["Warren Hastings" "curry"]と検索しても、目ぼしいサイトは、日本のS&Bのサイトの英語版や、日本人向けの英語の学習教材ぐらい。それらには「ヘイスティングズが英国にカレーを持ちかえった」という内容の記述が見られます。しかし、英国発の情報としてヘイスティングズとカレーをめぐる記述は見あたりません。

もうひとつ、ヘイスティングズが香辛料と米を英国に持ちかえったという説で疑問点となるのが、彼の英国への帰国時期です。

英国のカレーの歴史をめぐる日本での俗説では、ヘイスティングズは1772年に香辛料や米を英国に持ちかえったとされています。しかし、この年、ヘイスティングズは英国に帰っているのでしょうか。彼のさまざまな略歴には、1764年に英国からインドへ行き、そして、1786年にインドから英国に戻るという記録はあるものの、その途中の1772年に英国に一時帰国したという記述は見られません。

当時、インドから英国までの船旅はたいそうなものでしたでしょうから、1772年にベンガル知事をつとめたあと一時帰国をせず、そのままインド総督に就くのが、自然な流れではないでしょうか。

英国の料理著述家のローラ・ケリーさんは、彼女のサイトの「カレー粉の原点」(The Origins of Curry Powder)という記事で、1780年代にロンドンで出稿されたとする商用カレー粉の広告を示しています。そして、広告のなかでは、つぎのような記述があります。

「カレー粉とよばれる非常に貴重なこの食材は、かの有名なソランダーによって東インドから持ちこまれたものであり……」

ソランダーとは、スウェーデン出身の植物学者ダニエル・ソランダー(1733-1782)のことと考えられます。彼は1760年から英国に住みはじめ、1768年から1771年にかけて、英国の探検家ジェームズ・クック(1728-1779)率いる太平洋航海に参加するなどしています。

しかし、ソランダーが参加した航海では、船はインドに寄港していないため、広告の「かの有名なソランダーによって東インドから持ちこまれた」という記述には捏造の可能性があります。

どうして、日本では、ヘイスティングズが香辛料と米を英国に持ちかえったという記述がなされるのか。どうして、英国にはそうした記述が見られないのか。英国にカレーの材料を持ちかえったのはだれなのか。

謎は深まるばかりですが、「小史」をさきに進めます。

参考資料
S&B「カレーの世界史」
http://www.sbcurry.com/dictionary/world/
ハウス食品「カレーの歴史18世紀」
https://housefoods.jp/data/curryhouse/know/world/w_history02.html
New World Encyclopedia “Warren Hastings”
http://www.newworldencyclopedia.org/entry/Warren_Hastings#cite_ref-lyall29_4-0
Sir Charles Lawson “The Private Life of WARREN HASTINGS”
https://archive.org/details/privatelifeofwar00laws
The Silk Road Gourmet 2013年9月30日付 “The Origins of Curry Powder”
http://www.silkroadgourmet.com/curry-powder/

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18世紀半ば「インド流」カレーのレシピが英国に――カレーまみれのアネクドート(84)

このブログの連載「カレーまみれのアネクドート」では、おもに日本国内の店などで食べられるカレーの味を伝えています。このたびは趣をかえて、カレーの歴史を見てみます。

日本のカレーが、インドからでなく、インドとの深いかかわりがあった英国から伝わってきたというのはよく知られる話です。日本人とカレーのかかわりからすれば、インドから英国にその料理が伝わったことが大切になるわけです。では、どのように、インドから英国に伝わったのでしょうか。

18世紀、インドはイスラム帝国のムガル帝国の時代にありました。とはいえ、1600年には英国の特権会社だった東インド会社がすでに成立しており、18世紀には東インド会社が、フランスの勢力とも争いつつ、インドの植民地化を進めていました。

そうしたなかで、1747年、英国の料理著述家ハナ・グラッセ(1708-1770)が、『料理法の技術、平易で簡単に』(The Art of Cookery, Made Plain and Easy)という本を出し、そのなかで「インド流、カレーのつくりかた」というレシピを紹介しています。これが、英国で出版された料理書として初めて、インドのカレーが紹介された事例とされています。

1758年版の、カレーのつくりかたがインターネット上にあるので見てみます。


“The Art of Cookery, Made Plain and Easy”1758年版の“To make a Currey the Indian Way.”

「2つの小さな鶏肉を用意し、皮をはぎ、切って、フリカッセのため、きれいに洗い、約1クォート(1.136リットル)の水で、煮ること約5分間。煮汁をこし、鶏肉をきれいな皿に置いておく」

「大たまねぎ3個を切って小さくし、バター2オンス(約57グラム)で炒める。そして、鶏肉とともに茶色くなるまで炒め、ターメリック4分の1オンス(約7グラム)、大さじ1杯のしょうがとつぶしたこしょう、お好みで塩を少々、加える」

「これらすべてを、鶏肉に火を入れつつ煮る。煮汁をかけながら、30分ほど煮込み、クリーム4分の1パイント(約0.14リットル)、そしてレモン2個の絞り汁を加え、加熱する」

「しょうが、こしょう、ターメリックは砕けたものにすべし、とてもよい」

フリカッセとは、鶏肉などを煮込んだフランス料理のことを指します。ここでは「煮込むため」といった意味でしょう。

鶏肉やたまねぎといった食材、それにターメリックやこしょうといった調味料を使い、煮ていくといった調理法は、いまにも通じる一般的なカレーのつくりかたといえそうです。

このようにして「インド流」のカレーが英国で紹介されることになりました。

おなじ18世紀には、その後、香辛料と米がインドから英国へともちこまれ、「カレーライス」がつくられるようになります。つづく。

参考資料
S&Bカレー「カレーの世界史」
http://www.sbcurry.com/dictionary/world/
wikipedia“The Art of Cookery made Plain and Easy”
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Art_of_Cookery_made_Plain_and_Easy
wikipedia“Hannah Glasse”
https://en.wikipedia.org/wiki/Hannah_Glasse

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無花果と石榴、にてまったく非なるくだもの

ものに親しんでいないと、ふたつの異なるものを「これはどっちだっけ」とわからなくなったり、「おなじものなんでしょ」といって扱ったりしてしまうものです。

くだものの「無花果(いちじく)」と「石榴(ざくろ)」も、ふだん接していない人にとっては、混同してしまうものかもしれません。

無花果は、クワ科の植物で、高さ2メートルから4メートルほどの木になります。熟した果実がなるので、それを割ってなかの果肉を食べます。

無花果の原産地は小アジア。「無い花の果」と書くのは、白い小花をつけるものの外からは見られないためといわれています。日本には江戸時代、ペルシャから中国を経て長崎へと伝わり、その後、挿し木などにより各地に広がりました。日本でははじめ薬用でしたが、のちに食用になったようです。


無花果
写真作者:giffconstable

いっぽう、石榴は、ザクロ科の植物で、木の高さは3メートルや4メートルほどにもなります。ころころとした果実をつけて、それが熟すと裂けて、なかから種を見せます。種のまわりの皮を食べます。また、種を食べる人もいます。

石榴は、西アジア原産とされます。「石榴」と書くのは、古代西アジアの王国だったパルティア朝のアルサケスを、中国で「安石榴」または「石榴」と音訳したものとされます。日本には923(延長元)年に中国から伝わったとされています。


石榴
写真作者:Fir0002

実のかたちが、見た目どちらも玉ねぎのようであり、実を割いてなかのつぶつぶとしたものを食べるという点で、無花果と石榴はにています。

しかし、無花果の実の尖っている部分は枝のほうに接しているのに対して、石榴の実の尖っている部分は逆に地面を向いています。

食感についても、無花果のほうがよりじゅくじゅくした糊状のものであり、石榴のほうはつぶのひとつずつが個々にしっかりしている、といったちがいがあります。

植物学的にはまったく異なるといってよいほど。無花果のほうは、分類を小さいところから大きなところにさかのぼっていくと、「イチジク」「イチジク属」「クワ科」「バラ目」「バラ類」「真正双子葉類」となります。いっぽう、石榴のほうは「ザクロ」「ザクロ属」「ミソハギ科」「フトモモ目」「真正双子葉類」となります。真正双子葉類とは、被子植物の系統群のひとつです。

実が見た目にている。漢字で書くことができて、どこか和風っぽい。そして秋の季語である。こうしたことから無花果と石榴は「おなじような果物」と捉えられがちなのでしょう。インターネットの質問サイトには「ザクロといちじくの違いを教えてください」「ざくろといちじくはどうちがいますか?」といった質問が見られます。

参考資料
スーパー大辞林
ウィキペディア「イチジク」
https://ja.wikipedia.org/wiki/イチジク
ウィキペディア「ザクロ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/ザクロ
ウィキペディア「真正双子葉類」
https://ja.wikipedia.org/wiki/真正双子葉類

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「元号がない年」は天皇の名で表記(2)
「元号がない年」は天皇の名で表記(1)

きのう(2016年)9月17日(土)の、このブログでは、元号がなかった時代のできごとがいつ起きたかを表すとき、西暦のほかに、天皇の名前を便宜的に使って、「604(推古天皇12)年」「645(皇極天皇)4年」「677(天武天皇6)年」などと表すことがある、という話をしました。

さて、歴史に詳しい人であれば、あたりまえのことかもしれませんが、この天皇の名前を使った年代の表しかたで興味深いのは、「在位初年にあたる年が、からなずしも元年ではない」場合があるということです。

たとえば、天智天皇の場合。645(皇極天皇)4年に、中臣鎌足(614-669)とともに豪族の蘇我入鹿(610-645)を暗殺した中大兄皇子(626-672)が、のちの天智天皇です。在位したのは668年からおよそ3年です。


『古今偉傑全身肖像』(1899年、東京造画館刊)における天智天皇像

天智天皇の在位した西暦668年には元号がありませんでした。そこで、西暦でない年の表しかたをするときは、天皇の名前で表すことになりますが、天智天皇の在位した年は、それでいうと「天智天皇7年」となります。つまり、天智天皇は天智天皇7年に天皇に在位したことになります。

おなじようなことは天武天皇でもいえます。天武天皇の在位は673年からのおよそ13年間。在位が始まった673年は、元号がなく、天皇の名前で表すと「天武天皇2年」です。

どうして、天智天皇の在位のはじめの年が「天智天皇元年」ではないのでしょう。どうして、天武天皇の在位のはじめの年が「天武天皇元年」でないのでしょう。

この謎には「天皇不在」がかかわっています。

天智天皇の一代前の天皇は、斉明天皇(594-661)年でした。在位は665(斉明天皇元)年から661(斉明天皇7)年。

いまの常識からすれば、斉明天皇が死んだ直後に、つぎの天皇が即位するはずです。順当に行けば、中大兄皇子が即位するはずですが、中大兄皇子は皇太子のままいつづけ、7年にわたり天皇不在となったのです。

皇太子などのつぎに天皇につくはずの人物が、天皇に即位せずに政務をつかさどることを「称制」といいます。中大兄皇子はおよそ7年にわたり称制をしました。そして、668年に天智天皇に即位したのです。

元号がないため、そのかわりに天皇の名前で年代を表さなければならない。しかし、天皇は不在となっている。そうした場合、この不在の期間を、つぎに即位した天皇の名前に「元年」をつけて「天智天皇元年」などとよぶわけです。

おなじように、天武天皇も天皇に即位したのは西暦673年2月27日でしたが、前年672年の7月23日に前代の弘文天皇が死んでから、半年ほどは天皇が不在でした。そのため、弘文天皇が死後から672年の終わりまでは「天武天皇元年」とよばれています。よって、天武天皇の即位した673年は、「天武天皇2年」となるわけです。


大和国矢田山金剛寺所蔵の天武天皇像

日本最初の勅撰歴史書である『日本書紀』では、神武天皇から持統天皇までの代の歴史を追っています。ここでは、天皇不在の期間は、次代の天皇の記述に収められており、そのはじめを「元年」としています。天智天皇や天武天皇などにおいて、即位年と「元年」が一致しないというのは、この『日本書紀』での表しかたに即したものであると推測されます。

「元年」とはならなかった即位の例としては、ほかに、持統天皇(645-702)の690(持統天皇4)年があります。了。

参考資料
ウィキペディア「天皇の一覧」
https://ja.wikipedia.org/wiki/天皇の一覧
日本書紀について「天智天皇」
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_27.html
日本書紀について「天武天皇」
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_28.html
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